31/03/2024

2024.3.31(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書42章16節
私は彼らの前で暗闇を光に変え
起伏のある地を平らにする。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書24章30~31節
イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
主イエスが死者のなかからご復活されたことを祝う、イースターを迎えました。私たちが、イエスのよみがえりによって、神との永遠にわたるつながりが回復されたことを、心から喜びつつ、この一日、世界中のあらゆるところで、春の目覚めも相まって喜び祝う一日となりますように。
 
私も、一年間代務の任にあった、仙台北三番丁教会での最後のお務めとなりました。7時30分からの早朝礼拝に始まり、親子礼拝、入門講座、そしてメインとなる10時礼拝、その後には墓前礼拝と納骨式が待っています。それが終わりましたら、今度は本務の仙台宮城野教会の墓前礼拝と納骨式を執り行います。私も一日、張り切って神様の助けをいただきながら、過ごしてまいりたいと思います。
 
さて、今日のふたつの聖句から私がイメージしたのは「目覚め」でした。イースターの象徴として卵がよく使われるのは、殻を破って、暗闇から新しい命が目覚め行く姿をイメージしていると言われています。イースターにおける復活とは、まさに目覚めそのものなのだということを思わされます。
 
考えてみれば、私たちも眠っているあいだは、別世界のなかにいることは皆さんもご経験の通りだと思います。そして、朝を迎えると、私たちは目覚めとともに新しい命の一日が始まるのだと。まさに目覚めとは復活体験なのだと私は思えてならないのです。
 
今日の旧約聖書のイザヤ書42章の御言葉は、そもそも盲人に対して語られた言葉です。目の見えないまま、知らない道を歩かされても、暗闇に光を射してくださる方が、その道の起伏をも平らに、つまり平和・平安な状態へと導いてくださるということへの約束の言葉です。つまり、私たちは目覚めて、新しい道を歩むことが出来るというのです。
 
復活のイエスに出会った弟子たちも、パンを裂いているイエスをみて、目から鱗が落ち、目覚めの経験をしました。イエスの復活は、弟子たちにとっても、かつてのイエスの姿を取り戻すという意味で、復活の出来事であったということです。
 
私たちもまた、それぞれが復活体験を通して、新しい命へと生かされていく。このことを心に思い描きながら、イースターから始まる日々を歩みたいと願います。皆さん、イースターおめでとうございます!

30/03/2024

2024.3.30(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書30章18節
主は
あなたがたを憐れもうと立ち上がる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章17節
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
受難週の最終日を迎えました。何も存在しない空虚な一日。この時を教会は「黒の土曜日」などという表現もしてきましたが、むしろ、空虚だからこそその後に訪れる復活の喜びへと私たちを導く、無くてはならない備えの一日なのだということを想い起こさせます。
 
今、40日間にわたるレントの時に終わりを告げようとしています。十字架への道をたどり抜いたイエスは、今復活のための備えのときを、墓のなかでもたれています。そのようななかで、今日与えられるふたつの聖句を通して、空虚とは決して「むなしいもの」ではないということを、私たちが抱き、そして思わされるのだということを、私は受け止めたいと思いました。
 
神が与えられる憐れみは、空しくあるからこそ、私たちがありがたみをもって受け入れられるのではないだろうかと思うのです。私たちが充実したなかにあれば、憐れみを与えられても、その意味すらわからない。私なんか絶対そうであるに違いないと、我が心に振り返れば思わされるのです。そういう意味で言えば、空しさというもの自体、決して悪いものではないということを、逆説的に考えることができると私は思うのです。
 
そこに、裁くためではなく救うために世に来られたというイエスの言葉が響きます。救いに対する裁きという言葉の使い方は、どこかネガティヴでマイナスなイメージというものを呼び起こしているように私は思います。空虚という言葉すらも、何もない、もはや無いといったようなかたちで、無いこと自体が非常に消極的な印象をもって語り、とらえてしまうのです。
 
しかし、救いは、空虚なところから起きる再生であり、創出であり、そして復活なのだと。失われたところから、第二章が始まるのだと。そんな思いを抱きたい。イースター直前の一日が、そのような希望に胸を膨らませる時でありますように。皆さんの一日のために、お祈りいたします。

29/03/2024

2024.3.29(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記35章15節
ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテルと名付けた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書27章54節
百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
受難週六日目の朝を迎えました。そして、今日は受難日(聖金曜日)です。朝九時にイエスは十字架につけられ、六時間のあいだ、十字架の痛み苦しみに耐えられて、ついに命を落とされました。死という人間の罪の代償を、イエスもまた味わわれた。この時、不思議なことが次々と起こりました。空は闇に覆われ、地震が起き、そして神殿の幕が真っ二つに裂けました。まさにエルサレムの都は、ひとりの死のために、天変地異が起きたことが、今日の聖書の言葉を含むこの日の出来事に記されています。
 
その様子を監視していたローマ兵たちの言葉が、ローズンゲンに示された今日の聖書の言葉です。「まことに、この人は神の子だった」。この言葉に、それまでは国家転覆をもくろむ単なる政治犯、テロリストとしてしか扱わなかった兵士たちが、あらゆる出来事のゆえに恐怖、いや畏敬の念すら抱かせた。それだけ、この現場は人々の心を揺さぶるだけのすごさがあったのでしょう。
 
人々の心をゆさぶる神の御臨在。それは、はるか昔に孤独だと思っていたひとりの青年に語りかけられた神との出会いによって、決して孤独でないことに気付かされた。あの「天架けるはしご」の物語で、ヤコブがこの場所を「神の家(ベテル)」と名付け、その畏敬の念によって神をほめたたえたあの出来事に相通じます。
 
神との出会いのゆえに、人の心が180度転換するような経験を、私たちもまた味わうことができるのです。それは一時的な気の迷いなどでは決してないのです。神が明らかに、私たち一人ひとりにご自分の御臨在というものを示してくださった、かけがえのない体験に他ならないのです。ヤコブにしてもローマ兵にしてもです。
 
私たちもまた、イエスの十字架を通して私たちに示された愛が、私たちの心をゆさぶり続けます。アフリカン・スピリチュアルを代表する賛美歌に「あなたもそこにいたのか」という歌があります。
 
1 
あなたもそこにいたのか、      
主が十字架についたとき。       
ああ、いま思いだすと          
深い深い罪に               
わたしはふるえてくる。         

2 
あなたもそこにいたのか、      
主がくぎでうたれたとき。         
ああ、いま思いだすと           
深い深い罪に                
わたしはふるえてくる。         

3 
あなたもそこにいたのか、
主が槍でさされたとき。
ああ、いま思いだすと
深い深い罪に              
わたしはふるえてくる。

4 
あなたもそこにいたのか、
主を墓におさめたとき。
ああ、いま思いだすと
深い深い罪に
わたしはふるえてくる。

5 
あなたもそこにいたのか
主がよみがえられたとき
ああ、いま思いだすと
深い深い愛に
わたしはふるえてくる
 
イエスの姿を見ていると、私のうちから噴き出てくる罪のゆえに心が震え、
イエスがよみがえられた姿を見れば、神の深い愛ゆえに、私の心は震えてくる。
 
受難日の一日が、そのような心震える体験を催せるような、そのような時でありますように。お祈りいたします。

28/03/2024

2024.3.28(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言14章34節
正義は国を高める。
罪は民の恥となる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章39~40節
イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
受難週五日目の朝を迎えました。そして、私たちは「洗足木曜日」の一日を過ごします。イエスが弟子の足を洗い、互いに愛しなさいと弟子たちに告げられました。それは友愛とか博愛という意味ではなく、神の愛が私たちのあいだに満たされますようにというイエスの願いに基づくご命令でした。
 
私は、友愛や博愛が悪いものであるとは、決して思っていません。しかし、そのような種類の愛が、うまく運用されている間ならば良いのですが、いったん歯車がずれると、あの愛はどこに行ってしまったのだろうかというくらい、その場から消え失せてしまうということを、私はこれまで数えきれないくらい経験してきました。それをしてしまう側としても、それを受ける側としてもです。だからこそ、友愛や博愛という言葉を軽々しく用いたくないし、そのような愛を自分自身の態度や行動の一部とするならば、そこには確固とした何かが必要なのだと感じているのです。
 
私は、神の愛(アガペー)が何かを知り、そして理解していなければ、友愛や博愛などが見せかけのもので終わってしまうと実感しています。もちろん、アガペーが何かを、完璧に知ることはできません。それが私たち人間の限界だからです。しかし、それを理解しようとする思い、それを自分の生き方とするためには、神の助けと力を、私たちは必要とします。そして、そういう私たちの思いを、神は存分に支えてくださるのだと、私は確信しています。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉では、国を高めるための「正義」について触れられていますが、私は、正義も愛も、同じことが言えるのだと思うのです。つまり、その正義が、その愛が「どこから」来ているのか、由来しているのかということです。聖書で言われている正義や愛は、私たちの産物ではありません。あくまで神の産物であるということを、私たちは忘れてはならないと思います。どんなに正義を振りかざしても、認知のゆがみを多少なれど持っている私たちの正義は、どこかしかにゆがみというものを抱えて表出されるのだと思います。
 
だからこそ、私たちは正義についても愛についても、神が、そしてキリストがご自分の言葉と行いを通して示されたものをもって、それを丹念に聴き取り、自分の生き方としたいと祈りつつ心から願うときに、神は必ず私たちをそのようにしてくださるのだと。イエスが弟子たちに誘惑に陥らないように祈りなさいと勧められたのは、常に神に自分自身をさらけ出して生きなさいということにも相通じるのだと、私は今日の聖句を受け止めました。
 
イエスが弟子の足を洗い、ともに晩餐を囲んだ一日を想いつつ、その愛と正義を受け取る時でありますように。お祈りいたします。

27/03/2024

2024.3.27(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編109編31節
主は貧しい人の右に立ち
その命を死に定める者たちから救ってくださいます

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章5節
私の愛するきょうだいたち、よく聞きなさい。神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
受難週四日目の朝を迎えました。今日は、ローズンゲンに示されたふたつの聖句から「貧しさ」について、黙想したいと思いました。
 
貧しさとは何か。私たちが真っ先に思うのは、何かが失われ、空っぽな状態なのではないかと思います。そして、貧しいという言葉が、決してポジティヴな意味で用いられることはないでしょう。貧しいということが豊かな生活を阻害し、そこに至らせないさまざまな要素とセットとして語られることが多いからです。経済的な困窮における貧困というふうにです。
 
しかし、貧困であればあるほど、何のためらいもなく、目の前に出されたものをいただきたいという気持ちにもあふれるのではないかとも、思ったりします。貧しさという言葉が、神とともにあるための、重要なアイテムであるかのように、とらえることができるのかもしれません。イエスが「貧しいものは幸いである」と言われたのは、まさに良いものを何のためらいも無く受け取ろうという気持ちにさせられたときに、そこには神が幸いを余すところなく与えてくださるのだよと、そんなイエスの声が聞こえてくるのです。
 
貧しさを貧しさのままで評価して、役に立たないと簡単に捨て去ってしまうような世の中があるとすれば、神はご自分の民を大切にされ、空っぽの心にご自分の愛を注いでくださるのだと。この愛が、私たちを決して卑屈にせず、ゆがまず、何のためらいもなく受けようとする心を、豊かなものへと満たしてくださる。今日のふたつの聖句は、そんな保証というものを、私たちに与えているのだと私は受け止めました。
 
貧しさの究極とは死。イエスが十字架に架かられたときに、そこには究極の貧しさがありました。しかし、貧しさを貧しさのままでは終わらせない神が、イエスを復活の主として立たせてくださった。まさに受難週にいただくべき聖書の言葉であるとも思いました。この週の半ばにあって、皆さんの一日がますます祝福を感じられるようなひと時でありますように。お祈りいたします。

26/03/2024

2024.3.26(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書43章16節
主は海の中に道を
荒れ狂う水の中に通り道を作られる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章3~4節
行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
受難週の三日目を迎えました。昨日は、一日仕事をしないと決めて、ゆっくりと過ごすことができました。それは本当に良かったのですが、今朝になって、いろいろな出来事を思い出していたら、心が騒ぎ、負の感情というものが沸き起こってきたのです。こういう時こそ、神の言葉に触れて、心を落ち着かせたい。そんな風に思い、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉を開きました。
 
主イエスの通られた道を、弟子である者たちは知っている。イエスは、使徒たちに向けてそのようなことを言われました。イエスの通られる道は、時には苦悩に満ちあふれたものであることは、逮捕される前に父なる神に向けられた祈りなどから、私たちは知ることができます。イエスも私たち人間が苦しむように苦しまれた。しかし、道の行きつく先には、父なる神が常におられた。だから、苦しみのなかでもイエスはただ十字架の苦しみをご自分の身に負われた。そんなことを御言葉から考えていたら、涙がほろりとこぼれ落ちるのを感じたのでした。
 
神は私たちが荒れ狂う海を思わせるような苦しみのなかでも、安心して歩めるよう道を設けてくださる方なのだ。そして、私たちを岸の向こうで招いてくださるのだと。私たちのために場所を準備してくださる御方を見つめつつ、今日の一日を歩みたいと願わされました。皆さんの一日にも、主がともにいてくださいますように。お祈りいたします。

25/03/2024

2024.3.25(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌下18章13節
主は生きておられる。私は、神が告げられることを語る。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二4章2節
御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
受難週の二日目を迎えました。たとえ反対者に囲まれたとしても、それに屈することなく、ただただ十字架への道を歩んだイエス。今日の聖書の言葉に触れると、そのようなイエスの姿勢というものは、神の私たちに対する姿勢にもつながり、いにしえの信仰者たちが抱いた姿勢にも相通じる。そんなことを思わせられました。
 
今日の旧約聖書の言葉は、北イスラエル王国時代、神の預言者として活動したミカヤの言葉です。私は周りがどんな状況であれ、いかなる反応を示そうとも、ただ、神から与えられた言葉を、神の言葉として語るのだという姿勢を、ミカヤは貫きました。その結果、イスラエルの史上で繁栄しつつも、神に反抗して政治を行ったとされるアハブ王の怒りを買います。しかし、ミカヤの預言通りに、アハブ王は命を落とすことになり、彼の人生ははかなく終わりを迎えました。
 
神の言葉を、自分や他者の真実を覆い隠し、まるで張り子の虎のように利用し、悪用する生き方ではなく、神を神として真ん中に立てた結果、辛酸を舐め尽くすようなことがあろうとも、必ず最後は神による祝福が待っているのだ。そんなことを希望として感じさせるミカヤの態度に、感銘を想いました。
 
のちに、愛するテモテに手紙を書き送った使徒パウロは、「時が良くても悪くても」御言葉を宣べ伝えなさいと、彼に伝えます。時代や状況が変われば、福音を受け止める態度というものも変わって来るし、それが必ずしも良いことだけとは限らない。しかし、それでも、私たちが宣べ伝えているのは、神が与えてくださる良いものなのだから、その良さがいつしか光り輝くことを、希望のうちに語り続けることの大切さを、改めて受け止めることができました。
 
十字架への道を進まれたイエスが、反対者のあざけりにも、ただただ耐え続けてくださった。受難週の二日目に、そんなことも想わされて一日を始めることのできる幸いを、心から感謝したいと思います。皆さんの一日にも、必ずや良いものを与えてくださる神がともにいてくださることが、何よりもの希望となりますように。お祈りいたします。

24/03/2024

2024.3.24(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌上17章27節
主よ、あなたが祝福されたものは、とこしえに祝福されるのですから。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章34節
そうして、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日は「棕梠(しゅろ)の主日」であり、受難週の初日です。いよいよ主の復活祭(イースター)も近づいてきましたが、その前に、イエスが十字架への道にたどり着き、私たちのために十字架に架かられたことを、特に心に想う一週間を過ごします。主イエスのご受難を通して、本当の愛を知る。そんな一週間でありたいと思います。
 
さて、主イエスのご受難を通して明らかにされる神の祝福は、永遠にわたるものである。今日の新旧約聖書に示された御言葉に共通するのは「主である神による永遠の祝福」です。これこそ、神が人間に与えようとされた、当初の目的であり願いであることを「天地創造の時から」という、マタイによる福音書の一節から彷彿とさせます。
 
つまり、イエスが宣教した「神の国」とは、父なる神が人間のために与えられたエデンの園、つまりパラダイスの回復であるということが分かります。苦しみも痛みも拭い去られた世界というものを、私たちはまことに、心から願わされます。
 
そのようなパラダイスを望んでも、私たちの現実の世界では、なかなかそれが見えてこないことがあります。人と人とが顔を合わせれば、そこに齟齬が生じて互いに憎しみあうような世界。どうしてそうなるのかと、我が身を振り返ってもいろいろ思わされるところがあります。だからこそ、神が果たしてくださるパラダイスの実現のために、イエスが御自ら苦しんでくださったことを、私たちは自分の至らなさを顧みながら、感謝して、そのイエスが良いものを携えて、今日も私と一緒にいてくださることに、希望を抱きたいのです。
 
今日の礼拝や集会のすべてが、そのような祝福に満たされたものでありますように。お祈りいたします。

23/03/2024

2024.3.23(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書16章20節
人間が神を造れようか。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙3章5節
だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今週も今日で最終日となりました。私にとってはあっという間の一週間でしたが、皆さんはどうだったでしょうか。年度末でもありますから、特にしなければならないことがあったりもしますし、今年度はイースターを最終日に迎えるということもあって、何となく慌ただしさというものを感じています。そんな時だからこそ、御言葉に聴く時間だけは、しっかりと確保したい。そんな思いにさせられる朝でした。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「偶像礼拝」であると私は受け止めました。そして、究極の偶像礼拝の対象とは、何を隠そう「私自身」であるということだと、今日の聖句は私に語りかけている。そんな風に思ったのでした。
 
今日の新約聖書であるコロサイ書に描かれている偶像礼拝は、みだらな行いや情欲と言った、いわゆる性欲に起因したものがそうなのだという印象を抱かせているように私は思います。確かに、性欲というものはとどまるところを知らない。人間ならば多少なりともそのようなことは自分自身のこととして受け止められるかもしれません。
 
しかし、何も性的なことだけが偶像礼拝の対象になるわけではない。私は「エロス」の愛に込められた動機こそ、自己崇拝の根源なのだと思わされました。エロスの愛とは、結局自分自身の欲求に任せる愛として、しばしば語られるものです。自分の思い通りに事をなそうとするときに、それがたとえ性的なものでなかったとしても、それがエロスの愛となり、自分中心の愛、つまり「自分自身を神としてしまう」偶像礼拝なのだと思うのです。
 
そのエロスの愛ですが、しばしばその対極の愛として語られるのが「アガペー」の愛、つまり、自分のことは差し置いて、相手の幸福のために働く神の愛です。この神の愛を、私たちは救い主イエス・キリストを通していただいています。この愛がたてられるところには、神が私たちの真ん中に立ってくださり、その神を礼拝する喜びへと、私たちは導かれているのだと、今日の聖書の言葉は伝えているのだと思うのです。
 
自分自身の欲求に忠実である場合、その欲求は神の思いに沿っているものなのだろうか。そんなことを考えながら、この一週間に起きたひとつひとつの出来事を思い起こしながら、歩んでまいりたいと思いました。そして、明日が素敵な主の日を迎えることができますように。皆さんの主にある平安もお祈りいたします。

22/03/2024

2024.3.22(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編102編26節
かつてあなたは地の基を据えられました。
天もあなたの手の業です。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙一1章16節
天にあるものも地にあるものも
見えるものも見えないものも
万物は御子において造られたからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が思ったことは「見えないものは見えるものを通して知ることができる」ということでした。私たちにとって物を見るように神を直接見ることはできくても、見えるもののその姿を通して、神を「知る」ことはできるのだと。そのあたりを黙想したいと思いました。
 
私たちは「見る」ということと「知る」ということは、連動した営みであることをよく知っています。百聞は一見にしかずというとおり、私たちは見ることで物事に理解を深め、その内容を知ることができる。これは誰もが分かっていることだと思います。
 
しかし、この「見る」というのは、何も視覚というものだけを通して働いているわけでないことも、私たちは経験から理解していると思います。ある視覚障がい者の牧師がおられました。視力が失われても、ものすごい記憶力を持たれ、微細な部分に気を配られる、そのような方でした。まさに「心の視力」の豊かな持ち主でした。
 
実は私も、この一年のあいだに随分視力が悪くなってしまいました。いわゆる老眼が進んだという話なのですが、不便を感じるようになった分、これまであまり苦労してこなかった「見る」という作業に、より一層注意を傾けるようになった気がします。見るから「見つめる」という作業、「目を凝らす」という作業。どれもがとても大切なことなのだと、つくづく思わされています。
 
話は戻って、神はご自分に理解を深めるために、私たちにあらゆる物事を通して「見る」ということをお授けくださったのだと私は思います。自然界、人と人との関係、人の心。あらゆるものを見る、見つめる、目をこらすことによって、神の御業というものが見えてくるというのです。それが結果として、神の私たちに対する深い御愛というものを感じとるための力が与えられていくのだと、私は今日の聖句を通して受け止めたいと思いました。
 
今週も週日が終わろうとしています。一切に私たちに良いものを授けてくださる神の祝福と守りが豊かにありますように。お祈りいたします。

21/03/2024

2024.3.21(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ダニエル書2章21節
神は
賢者には知恵を、分別を知る者には知識を与えます。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一1章30~31節
キリスト・イエスは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉に共通するテーマは「神の知恵」であると、私は受け止めました。神が私たちに明かしておられるご自身の知恵に、私たちはどのように向き合い、その知恵によって生きることが可能とさせられるのか。そんなことを思わされます。
 
昨晩、歯痛のためにひと晩中眠ることができませんでした。うとうとしていても痛みのためにぐっすりと眠ることができないために、24時間営業のドラッグストアに行って塗り薬を購入したり、鎮痛剤を服用しては、少しでも痛みが治まるのを期待しました。しかし、思うような結果にはいたらず、朝を迎えました。
 
昨晩妻が、今日の午前中に行われる教会の祈祷会の聖書研究を私が担当するから、歯科医院に行ってらっしゃいと言ってくれたものの、それを手放しで喜ぶことができない私があります。痛みでうまく返答できないこともあるのでしょうが、心のどこかで、自分なりの対処をすればなんとかなると思っているのだと思います。
 
こういうのを「素人判断」と言います。病院で専門家の治療と見立てが必要なのに、歯科医院も徒歩2分のところにあるのに、妻が仕事を代わってくれると言ってくれているのに、自分自身のちっぽけな何かに頼ろうとしている自分自身があるときに、今日の聖書の言葉に触れました。神の知恵は自分自身に頼り、自分自身を誇らないためにあるのだと。
 
たとえとしては、極めて陳腐なものではあるのですが、素人判断せず、知ったかぶりをするのでもなく、専門家の知識に頼るということが、絶対的な神の知恵に依り頼むことと、私のなかでリンクしたのです。結果として、歯科医院の予約を朝一番で取りました。「誇る者は主を誇れ」の言葉に励ましを受けた朝でした。
 
今日も一日主にあって良い時でありますように。お祈りいたします。

20/03/2024

2024.3.20(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編116編12節
主に何をお返ししようか
報いてくださったことすべてに応えて。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章12,15~16節
規定の病を患っている十人の中の一人は、自分が癒やされたのを知って、大声で神を崇めながら戻って来た。そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
暖かい春日がやって来たかと思えば、冬に戻ってしまったかのような寒い朝を迎えました。三寒四温とはよく言ったものです。こういう変動の激しい季節に体調が守られますように。お祈りいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「感謝」であると、私は受け止めました。そして、私はこう思いました。私は感謝を忘れてはいないだろうかと。
 
今日の新約聖書であるルカによる福音書が語る物語は、イエスによって規定の病(聖書協会共同訳で初めて登場した表現です。かつてはらい病・重い皮膚病・ツァラアトなどと訳されてきた、ある種の皮膚疾患のことを指しています)がいやされた10人のひとたちが、病から解放されたわけですが、そのうち、神をあがめてイエスへ感謝するために戻ってきたのは、当時ユダヤ人から忌避されていたサマリア人であった、というお話です。
 
ユダヤ人にとっては、自分は神から守られているという自意識がありますから、もしかしたら、病がいやされたことに感謝しつつも、いわゆる「当たり前感」というものがあって、サマリア人ほどの感動や感謝が薄かったのかもしれません。当たり前という感覚は、安定はしますが、少し鈍感になる傾向があるのかもしれません。
 
だからこそ、サマリア人のようなピュアな感覚というものが、聖書の言葉を通して、私たちにとっての素敵なエピソードになるのだと私は思います。当たり前であるがゆえに、感覚が鈍くなってしまうようなことから、少しでも解放されたいと心から思わされたわけです。
 
私たちが感謝を常に思いつつ、神に向き合えるような一日でありたいと願います。どうか皆さんの一日にも、主である神の祝福がありますように。

19/03/2024

2024.3.19(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記33章27節
いにしえの神は隠れ家。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章1~2節
心を騒がせてはならない。
神を信じ、また私を信じなさい。
私の父の家には住まいがたくさんある。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「住まい」であると、私は受け止めました。神が私たちのために設けてくださる住まいとは、どのようなものなのか。黙想したいと思います。
 
私たちにとって生活の三大必要は、衣・食・住であることは、私たちも良く知っています。しかし、そのどれが私たちにとって大切か、その比率というのは、人それぞれかと思います。
 
私事ではありますが、私たち夫婦の住む牧師館には、リビングルームとして使用している部屋があります。このリビングは、キッチンと一体化されていて、特に壁の区切りがありません。2年前に引っ越してきた際に、前の住居で使用していたキッチンカウンターを置いて、台所とリビングに一応の区切りを設けました。しかし、それでキッチンが隠れるわけではありません。ですから、キッチンがいかに整っているか、いつもきれいに掃除されているかが、美しいリビングルームを保つ秘訣ともなります。
 
そういうことで、いつお客様を招いてもいいように、リビングとキッチンをきれいに保つようにしたら、食事を作ることも、片づけることも何となく楽しくなり、また、いつもきれいに保っている住環境をつくることが、結果として安心感を生むことにもつながっていることを実感しました。あらためて、住まいを整えることの大切さを思わされています。
 
それはそうと、今日の聖書の言葉には、神が設けてくださる住まいは、時に私たちをさまざまな悪影響から心身を守る隠れ家的な存在となり、あるときには、心を鎮め、神が設けてくださる住まいゆえに、安心しつつ、イエスの信頼に応える空間であることが、今日の聖書の言葉から分かります。私たちにとって、そういう住まいが与えられるので、その住まいを自分自身が大切に保ち続けていきたい。そんなことを思わされたのです。
 
私の心は、誰が尋ねて来ても良いように整っているだろうか。そんなことを思います。なかなかきれいに保たせることは難しいかもしれませんが、しかし、御言葉と祈りの生活は、神の住まいを神の住まいとして受け取り、それゆえに喜べるための、欠かせない根拠になるのだろうなということを黙想しました。
 
今日も、神が与えてくださる住まいゆえに、安心して時を過ごす者でありますように。お祈りいたします。

18/03/2024

2024.3.18(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書10章1~2節
災いあれ、
苛酷な判決を書き記す者に。
彼らは弱い者の訴えを退け
私の民の苦しむ者から権利を奪う。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章12節
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今週も週日の日々が始まりました。世の中ではお彼岸、そして年度末が近づいており、何かとあわただしい毎日を過ごされるかもしれません。どうぞ一切に、神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖句ですが、私が特に目に留まったのは、新約聖書・マタイによる福音書7章の言葉です。一般的に「黄金律」と呼ばれる、大変有名な聖書の言葉です。自分にして欲しいことを人にもせよとのイエスによる言葉です。
 
私は、かねてからこの言葉の取り扱いというものには、注意をしなければいけないと思っている人間です。この聖書の言葉について考える際に、まず検証しなければならないのは、そもそも「自分にしてほしいこと」とは何なのか、ということであると思っているからです。
 
もし、自分にして欲しいと思っていることが、神の御心に依らない、単なるわがままで、自分自身の願望欲求であるならばどうでしょうか。そのようなことを他者に要求したら、その人を自分の欲求で振り回してしまうことすらあるのだと、私は思うのです。
 
よく、「良かれと思ってしたことが、かえって裏目に出た」ということがあります。自分自身が良いと思っていることが、単なるひとりよがりである場合だってあるわけで、自分にして欲しいことというものが、何を指してイエスはそのようなことを言ったのかを、私たちはこの聖書の言葉を読む際に、心を傾けて考えていきたいと私なんかは思ってしまうのです。
 
今日のマタイの聖句の続きには「これこそ律法と預言者である」と記されています。律法にしても預言者にしても、神の御心がいっぱいに詰まっているのであって、私たちがこの聖句を自分自身の生き方にする場合は、自分にして欲しいことが、本当に神の御心によって整われていて、神の御心を自分の生き方にしようとしたときに、初めてこの聖書の言葉が実現するのだと、私は受け止めたいのです。
 
私のなかにあるひとりよがりな思いが、結果として、本日の旧約聖書・イザヤ書の言葉にあるように、他者の大切なものまで奪い取ってしまうことのないように、襟を正しながら、週日の日々を歩みたいと願わされました。私たちのあいだに、主の平和がともに、豊かにありますように。

17/03/2024

2024.3.17(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書44章3節
私は乾いた所に水を
乾燥した土地に流れを注ぐ。
私はあなたの子孫に私の霊を
あなたの末裔に私の祝福を注ぐ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書7章37節
イエスは大声で言われた。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
レント(四旬節)5回目の日曜日を迎えました。再来週には、私たちはイースター(復活祭)を迎えます。春も着実に近づいているのを知るたびに、何となく心躍る思いにさせられます。今日、世界中でおこわわれる主の日の祝祭、そして礼拝に、神様の祝福が豊かにありますように、お祈りいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは、私たちの「渇き」をうるおされる神がおられるというものです。イエスは大声で、渇いている者は誰でも、私のもとに来て飲みなさいと言われました。私たちの渇ききった喉を、そして干からびた心を、みずみずしいものへ戻してくださるというのです。
 
日本は水資源が豊富な国ですから、水を確保するということがそんなに難しくない環境のなかで、私たちは暮らしています。しかし、イエスの生きた時代、その舞台となったイスラエルは、その昔から喉の渇きをいやすための水を確保するというのは、非常に困難な業であったことは、皆さんもご存知であると思います。ときに酷暑の中にあって、一滴の水が人の命を保たせるために、切実さと切迫さをもって人々が欲したものであったと想像します。
 
私たちは、その水を、神の言葉になぞらえつつ、私の命、そして私の生きる道を支えるのに、無くてはならないものとして受け取りたい。そのような切実さを、今私は感じているだろうか。そんなことをただただ想いつつ、神の御言葉に向き合ってみたい。それが今日の黙想です。向き合うために、神が注いでくださる聖霊の助けを充分にいただきたいのです。
 
どうぞ今週の日々も、御言葉と聖霊の助けによって、神を感じることができますように。お祈りいたします。

16/03/2024

2024.3.16(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編105編1節
主に感謝し、その名を呼べ。
もろもろの民に主の業を知らせよ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙10章17節
それゆえ、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。昨日は寝不足のなかで一日を過ごしましたが、夜は早く休んでたっぷりと眠りに就くことができました。目覚めが良く、頭もすっきりとした朝を迎えることができました。感謝です。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖句で、旧約聖書・詩編105編のことばに、まず注目したいと思いました。「その名を呼べ」という言葉です。その名とは、神である主のお名前「YHWH(ヤハウェ)」です。名を呼ぶとは、便宜上の記号という意味ではなく、その名に込められた意味も含めて、その名を呼ぶことなのだと私は受け止めました。
 
ヤハウェの意味とは「私はいる」。つまり、存在すべてを表す動詞に由来しています。この名前を通して、私たちは神が三つのことを示しているとの理解に導かれます。「私は神である」「私はあなたとともにいる」「私はあなたの神となる」という三つの意味は、神が私たちを深い慈愛をもって取り扱ってくださるということを私は思うのです。
 
この神の名を呼ぶことが、いわゆる「信仰」であると私は理解します。神が私たちを愛してくださることを、私たちは「呼ぶ」という行為をもって、その応答としての信仰を表すことなのだと。そして、その信仰から神の愛が世界に届けられていくことに私たちは同意し、宣教の御業がなされるのだと。
 
ですから、後にイエスが「信仰はキリストの言葉を聞くことから起こる」と言われたのも納得できます、キリストの言葉には、ヤハウェの意味と同じく、神が私たちとともにいてくださるという、深いご自身の愛が込められているのだと。私たちはそれを耳と心を澄まして聴くことから、この世界に神の愛が届けられ、満たされる。そんなことを心から願いつつ、与えられた日々を過ごしていきたいと願います。
 
どうぞ明日への備えの一日が、神の慈愛に支えられ、それが告白できるようなときでありますように。お祈りいたします。

15/03/2024

2024.3.15(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記14章1節
あなたがたは、あなたがたの神、主の子らである。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙3章26節
あなたがたは皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日、日付が変わった頃に、福島県沖を震源とするやや強い地震がありました。仙台の我が家も、少し強い揺れを感じました。物が落ちたとか、どこかにひびが入ったとか、そのような被害はまったく無かったのですが、その後も変に目がさえてしまって、寝不足の朝を迎えました。黙想もままならず、こんな時間を迎えてしまいました(今は朝の10時をまわったところです)。黙想をお届けするのが少々遅くなってしまいましたことを、どうぞお許しください。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「主である神のこどもである私たち」と受け止めました。神のこどもとされているというのは、どのようなことなのだろうか。そんなことを思い巡らしていました。
 
私にとって親の存在というものは、少し特異なものであるかもしれません。父親は私が9歳の時に、家族を捨てて行方不明になりました。それから20年あまり経った時に、父親を見つけて再会し、その後の交流はあったものの、父親と認識しながらも、心のどこかでは親であるという意識を持てないまま、時が過ぎていったように感じます。父は一昨年亡くなりましたが、最後父を引き取って臨終を見守った際も、父親に対する愛情ゆえというよりは、引き取り手の無い父を、ある意味仕方なく引き取ったというところが、正直言うとあったりします。父を引き取った際、父は認知症が進んでおり、満足にコミュニケーションを取ることが難しかったので、もやもや感を抱えながらも臨終の時を迎えました。しかし、死の直前に、遠方に出かけていた私の代わりに、妻が洗礼を父に授けてくれたのは、一信仰者として大きな慰めになったことは、言うまでもありません。

家族にさんざん迷惑をかけまくり、父親としての務めもろくに果たさなかった父でしたが、それでも神から愛されたひとりの子どもであった。それは私自身の意識にかかわらず働いている父なる神の御心なのだと、私は受け止めたいのです。私は父親になった経験がありませんので、実際の父親となっておられる方々のように感じとることは難しいのだと思いますが、それでも、父なる神が私たち一人ひとりをご自分の子としてくださるというのは、こういうことを指すのかなと、決してほめられた訳ではない父の姿というものを見つつ、イメージしていきたいと思うのです。
 
私たちは、現実の世界では、本当に親の愛情を受けるということをイメージしにくい状況がいくらでもあるのだと私は思います。しかし、だからこそ、神がご自分の子どもとし、私たちを扱ってくださるということを、イエス・キリストという「真実」を通して、今日も感じ取っていきたいと願います。同様に神の子とされている皆さんの一日にも、神からの豊かな祝福がありますように。お祈りいたします。

14/03/2024

2024.3.14(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書30章19節
主はあなたの叫び声に応えて
必ずあなたに恵みを与えてくださる。
主がそれを聞かれると
直ちにあなたに答えられる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書15章28節
イエスは(カナンの女に)お答えになった。「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された、特に新約聖書であるマタイによる福音書15章のエピソードは、ご存知の方も多くおられるのではないかと思います。「食卓から落ちるパンくずさえも、小犬はそれにあずかることができるのだ」とイエスに告白した、カナンの女の話です。
 
この物語に登場する、カナンの女はとにかく必死でした。自分の娘が自分ではどうすることができないくらい、ひどく苦しんでいました。そんななか、ただ娘を助けたい一心で、イエスにすがりついたのでした。
 
しかし、イエスは最初、その女の懇願を受け入れようとはしません。それどころか、子どもたちにやるべきパンを、小犬にやることはできないとまで言い放ちました。犬は忌み嫌われるべき動物という扱いでしたから、それは一見すると、随分ひどい言葉だという印象すらあります。イエスはそんなにひどいことを言うのか。そんな風にです。
 
ただ、女もあきらめませんでした。いわゆる「おこぼれでもいい」という、女のイエスに対する言葉に、一転してイエスはその女の信仰をほめられました。あなたの信仰は立派だとイエスは言い、今日の聖書の言葉に続きます。かくして女の娘が抱えていた苦しみは消え去りました。
 
私は思いました。イエスは女の何に対して、その願いをかなえられたのだろうかということをです。必死にイエスに願ったからなのか、小犬さえパンくずにあずかるのだという、その言葉に対してなのか、自分自身のことをあえて小犬にたとえようとする思いに対してなのか。また、イエスの女に対する態度も、今ひとつ首をかしげてしまいます。この聖書箇所は、わかりやすいようで、実に悩ましい聖書箇所であると、私はいつも思ってしまうのです。
 
そんななかで、私はこう受け入れたいと思いました。自分の思い通りにならないことがあったとしても、どんなに祈っても私の望むような返答がなかったとしても、祈るのをあきらめてしまったり、信じること自体馬鹿馬鹿しく思えてしまったりとか、そういう風に思いたくなる自分自身があることを認めたうえで、それでもなお、神は何らかの答えを与えてくださるのだと。それがたとえおこぼれのようなちっぽけに見えてしまうようなことが、私の側にあったとしても、神にとってベストな返答というものを、私に与えてくださることに希望を置こう。そんなことをあらためて思わされました。
 
それがいつかは分からない。どのように神が返答してくださるかも分からない。しかし、神は必ず私に何らかの答えを与えてくださる。そんなことを希望にして、今日の一日を歩みたいと思います。皆さんの一日のためにも、お祈りいたします。

13/03/2024

2024.3.13(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記18章19節
私がアブラハムを選んだのは、彼がその子らとその後に続く家族の者たちに命じて、彼らが正義と公正を行い、主の道を守るようにするためである。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの信徒への手紙一1章8節
私たちは、律法はふさわしく用いるならば良いものであると知っています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日の新約聖書である、テモテへの手紙の一節。ここには、神がかつてご自分の民たちに与えられた「律法」について触れられています。律法はふさわしく用いるならば良いものであるものなのだと、この手紙の筆者は書きつづっています。
 
ここで言及されている「ふさわしく用いるならば」という言葉に注目しました。なにをもって、手紙の筆者はこのようなことを手紙にしたためたのか。この頃、キリストの宣教者として活動していたのは、使徒パウロでした。パウロは、いわゆるモーセ律法に対しては、キリストが現れて救いの業がなされたことで、すでに律法の役割は終えたことを、他の手紙のなかで強調しています。
 
そのような考え方が、おそらくクリスチャンのあいだで広がっていたなかで、あえて、律法自体は良いものなのだということに触れているのは、とても興味深いことであると私は思います。そこには、神が人々に与えられたものはすべて、基本的に良いものなのだという基本的なことを、筆者は読者に伝えたかったのではないかと、私は思うのです。
 
しかし、神が与えた良いものを、人間である私たちの側が神の願いどおりに運用できなかったために、律法の本質がゆがめられて、おかしなことになってしまった。神が言わんとされている本質がないがしろにされて、外面ばかり強調されることで、律法を通して私たち人間の正義だけが語られるようになってしまった。律法が神の掟というよりは、人間の正義を誇示するためのものになってしまったのです。
 
ですから、私は思うのです。私たちが聖書の言葉に聴くにしても、クリスチャンとしての生活を営むにしても、何事も、神はこの言葉この状況を通して、私たちに何を思われ、願われ、語られようとしているのだろうか。そのことに思いを寄せながら、神が私たちのために与えられた良いものに視点を注ぐ者でありたいと。今日の黙想を通して考えさせられたことです。
 
律法が与えられるはるか昔、神がアブラハムとその子々孫々に対して願われ、そして交わされた契約の目的というものが、本日の旧約聖書の言葉に示されています。神が与えられる正義と公正によって、主の道を主とともに歩くことができるためであると。そのような道を、今日も歩むことができますように。お祈りいたします。

12/03/2024

2024.3.12(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言3章29節
友に対して悪意を耕すな
彼はあなたのそばで安らかに住んでいるのだから。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一2章8節
あなたがたをいとおしむ思いから、私たちは、神の福音だけでなく、自分の命さえも喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたは私たちの愛する者となったからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今朝は少しゆっくりと休んで、遅い朝を迎えました。おかげさまで、身体も幾分か楽になりました。
 
今日の聖書の言葉で注目したいと思ったのは、旧約聖書・箴言の言葉です。「悪意を耕す」。そうか。悪意は耕すものなのかということに、あらためて気づかされました。耕すという言葉は、どちらかというと良い意味で用いられることが多いので、とても意外な気がしたのです。
 
あらためて「耕す」という言葉を考えてみたいと思います。辞書を見てますと「田畑を掘り返して、農作に都合がよいように土を柔らかくする」と書かれています。私はこの説明から、ふたつのことを考えました。
 
まず「掘り返す」という意味です。土を掘り返すことで、土に適度な空気が含まれて、土が柔らかくなることを私たちは知っています。とても良いことなのは言うまでもないのですが、こうも考えることができると思いました。土地を耕すのは、その地に種を植え、作物が成長して実ることを期待してのことです。そのために土地を掘り返します。
 
だからと言って、むやみやたらに土地を掘り返して良いわけではありません。せっかく地固めした場所を、あえて掘り返す必要はどこにもありません。私は「雨降って地固まる」という言葉を思い出しました。トラブルなどが起きた時(雨降った時)に、それを建徳的に解決することによって、その場に神様の平和が訪れた(地固まる)場合、それをあえて蒸し返すことによって、再びトラブルが起きることあるならば、それは決して良いことではありません。耕さなくても良いこと、いや、もはや耕してはいけないところを、あえて耕す必要はどこにもないのだと私は思います。
 
それは、耕さなければならないことを見て見ぬふりをするとか、無きもののように放っておこうということではありません。あくまで「悪意」をもって、平和のうちに地固めしたものを掘り返して悪意が芽生えるようなことがあってはならないということなのだと、私は思ったのです。
 
悪意とはなにか。あらためて思います。悪意の根というものがどこにあるのか。それは私自身の心にあるのだと。私自身が「都合よく」耕すために悪意というものが働くならば、そこには決して良いものは生まれることがない。私が今していることが、神の御心に立ったものなのか、それとも私の都合よさを助長するためのものなのか。そんなことを御言葉に向き合いながら、じっくりと黙想することの大切さを想わされます。
 
そんな思いから生まれるものこそ、今日の新約聖書の言葉にもある通り、隣人をいとおしむ思いへとつながっていくのだと。まさに良い作物が成長することなのだと、私は受け止めてまいりたいと願わされました。
 
そんな一日を過ごすことができますように。神に祈りつつ、今日もすてきな一日となりますように。皆さんの主にある平安をお祈りいたします。

11/03/2024

2024.3.11(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記28章16~17節
ヤコブは眠りから覚め、そして怖くなって言った。
「この場所はなんと恐ろしい所だろう。ここはまさに神の家ではないか。ここは天の門だ。」

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章14節
明らかにされるものはみな、光だからです。それゆえ、こう言われています。
「眠っている者よ、起きよ。
 死者の中から立ち上がれ。
 そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
13年前の今日3月11日、東日本大震災が発生しました。数日前から震災を思い起こす報道があり、今日は東北の各地でもさまざまな企画がなされようとしています。私が属する日本基督教団東北教区でも、記念礼拝が執り行われます。この一日、今年被災された能登の方々のことも想いつつ過ごしてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から、私に与えられたのは「気づき」というものでした。人は大切なことに気づいたとき、そこから新しくされた日々が始まるということを、これらの御言葉は私たちに伝えているのだ。あらためてそのように思わされました。
 
故郷を追われ、行く先はすでに分かってはいるものの、気持ちのうえで不安にさらされ、恐れ、指針が定まらなかったヤコブ。孤独と思われていたヤコブに、決してあなたは孤独ではない。私がともにいて、あなたを導く。あなたを決して見捨てないと言われたのは、父なる神でした。
 
ヤコブは思いました。こんなに近くに神が一緒におられるのに、それに気づかなかった。いや、気づけなかった。そして、神が一緒にいてくださることに恐れおののきます。しかし、それは恐怖の念では麦畏怖の念でした。これからもさまざまな不安が私を襲うだろう。しかし、神がおられる。神が必ず人生の道筋を整えてくださる。こうして、ヤコブは歩みなおすことができたのだと、今日の御言葉から振り返ることができました。
 
神がともにおられるというのは、歩もうとしている道が決して暗闇のなかにないということです。神である主によって光が照らされていく。暗澹とした、死をも意識させるような環境のなかで、私たちに先立って起き、復活され、私たちの前に立たれた救い主イエスがおられるではないか。今日の新約聖書・エフェソの信徒への手紙の一節が伝えているメッセージです。
 
震災13年を迎え、14年目への新しいひと巡りがやって来る。この一年もまた、神がともにおられることの幸いというものを味わえることを、心から神に期待しつつ、その一日目を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一切に、主の守りと祝福をお祈りいたします。

10/03/2024

2024.3.10(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書65章19節
私は
私の民を楽しみとする。
そこに再び、泣き声や叫び声が聞かれることはない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録7章17節
玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり
命の水の泉へと導き
神が彼らの目から涙をことごとく
拭ってくださるからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
新しい一週間が今日もやって来ました。世界中で行われる主の日の祝祭に、祝福が豊かにありますようにお祈りします。
 
今日のふたつの聖句に共通するテーマは「神は私たちの涙をぬぐい去ってくださる」というものです。私たちの悲しみのうえに立たれ、私たちの傍らにあってその悲しみをともに担ってくださる神がおられる。ここにこそ、神が慰めの主であることを私たちに告げ、また証ししています。
 
今日の旧約聖書の言葉である、イザヤ書の最後の部分の一節は、神がご自分の民を「楽しみとする」と記されています。私たちは、神を喜ばせよう、神を喜ばせるために何ができるかということを、あれこれ考えるかもしれません。そういう祈りを聴くこともよくあることです。
 
しかし、私たちは神を喜ばせようとする前に、神が私たちの存在を喜び、そして楽しみとされておられるということを、私たちは認識しているということが大切なのであって、そういう認識なしに、神を喜ばせようとあれこれ考えたり行ったりするというのは、本末転倒なのだということだと、私は受け止めたいと思いました。
 
私たちの悲しみも、自分の力で解決しようとするのではなく、すべてをご存知である神が、私の悲しみを理解してくださり、神がベストと思われる方法を通して、必ず解決へと向かわせてくださることを信じつつ、今日の一日もまた歩んでいきたいと思います。
 
皆さんの一日にも、神からの慰めと励ましが、ともに豊かにありますように。

09/03/2024

2024.3.9(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書15章18節
なぜ、私の痛みはいつまでも続き
私の傷は治らず、癒えることを拒むのでしょうか。
実にあなたは、私にとって欺く者のように
頼りにならない流れのようになられました。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙3章12~13節
キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。だから、私があなたがたのために受けている苦難を見て、落胆しないでください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
実にあなたは、私にとって欺く者のように
頼りにならない流れのようになられました。
 
預言者エレミヤの、神に対する正直な告白が、今日選ばれたローズンゲンです。エレミヤが孤独孤立を感じるなかで、神に訴えた正直な告白です。私は、エレミヤの発したこの告白に、ギョッとさせられました。決して他人事として読めない言葉のように感じたからです。私にとっても、エレミヤのような感覚を覚えたことが今まで何度もありましたし、これから、そういうことがまったく無いという保証はどこにもない。
 
だからこそ、神が本当に頼りない存在として映ってしまうとしたら、それは一体どういう時なのだろうかと、今日の聖書の言葉から深めたいと思いました。
 
エレミヤは、こう言いました。
 
なぜ、私の痛みはいつまでも続き
私の傷は治らず、癒えることを拒むのでしょうか。
 
エレミヤが痛み続けるなかで「癒えることを拒むのでしょうか」という言葉に注目しました。癒えることを、癒されることを心から願っているはずなのに、それを拒もうとする自分自身があるのだと言うのです。
 
私たちは悲しみの渦中にあると、かえってその悲しみを手放せなくなるような感覚はないだろうか。手放したいのに手放せない。その悲しみに依存してしまう自分自身に気付けないでいる。そして、自虐的な自分自身を産み出し、そこに共存する自分自身に、いつしか満足してしまう。つまり、負のスパイラル(らせん階段)に巻き込まれてしまうのです。
 
私もそういった経験をしていますが、その時は自分の殻に閉じこもってしまうあまり、どんな声も聞こえなくなってしまいました。そうなると、神の助けなども絵空事のようにしか思えなくなってしまう。エレミヤの心境とは、まさにそういうところにあったのではないかと思えたのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、使徒パウロがエフェソにある信徒たちに宛てた手紙の一節です。たとえ私が苦難に遭っているからといって、決して落胆しないで欲しい。なぜならば、キリストの真実がそこにあるからと、パウロは信徒たちを励まします。
 
聖句にある「キリストの真実(聖書協会共同訳)」という言葉は、かつては「キリストに対する(わたしたちの)信仰(新共同訳)」という言葉が用いられていました。信仰とは、神を信じようとする私たちの主体が関係するものと受け止められがちですが、そうではありません。だとしたら、信仰は時にエレミヤのように、そして私のように、グラグラと揺れ動いてしまう、実に頼りないものになってしまいます。
 
しかし、信仰とは「キリストの真実」なのです。つまり、キリストが全生涯をかけて、私たちを愛し、私たちの命を救うために働かれた、その真実そのものなのだと。この真実は、私たちの感情いかんにかかわらず働きますから、この真実=信仰が、私たち一人ひとりに与えられたときに、私たちはたとえ落胆したとしても、心に大きな揺らぎがあったとしても、必ず神が、私たちの内に外に働いてくださり、私たちを何とかしてくださる。そう受け止めたいのです。
 
今日の一日も、信仰が豊かに、私たち一人ひとりに与えられますように。お祈りいたします。

08/03/2024

2024.3.8(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記下13章23節
主はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、イスラエルを恵み、憐れみ、顧みられた。主は彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨て去ることはされなかった。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙11章29節
神の賜物と招きは取り消されることがないからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示された、ふたつの聖書の言葉を通して私が感じたことは、神は極めて「自由な御方」である、ということでした。
 
神はご自分が選ばれたイスラエルの民と契約を結ばれました。神はまずご自分の民を祝福し守り抜く、そして、民は自分たちを守り抜いてくださる神の声に聴き、従い、ともに歩む幸いを味わう。それが、相互に交わされた契約の内容でした。
 
しかし、この契約は、人間の側からいとも簡単に破られました。契約違反です。そもそも契約というものには、履行するという責任がともないます。しかし、神の民は履行すら果たすことができない。ですから、契約が破棄されても何も文句は言えません。
 
しかし、神は決して契約を破棄されることはなさいませんでした。契約を破棄するのではなく、その契約が、いかに人間にとって大切であり、幸福を保証するものであるかを、民たちが自分たちで気づけるように、じっくりと見守り、時には教え諭し、そして私たちがそのことに気付けるように、ご自分の独り子まで惜しみなくささげてしまう。何と融通の利いた方なのでしょうか。
 
それに比べて、私はどうなのだろうかと考えさせられます。ちょっとしたことで怒り、頑固になり、意固地になってしまう。人との関係を簡単に切り捨て、あたかも無かったかのように振舞ってはいないだろうか。そんなことを思わされるのです。悲しいかな、それが私たちの現実であり、限界なのだろうと思います。
 
だからこそ、私たちを祝福してくださるために、極めて自由にご自分のあり方を変えつつも、基本線においてはまったくブレない姿勢を示してくださる神に、心から感謝したい。そう思わされました。少しでも神の融通の利いた姿に、私たちもかくあれかしと心から願わされました。
 
このようなフレキシブルな態度が、神から与えられることを心から祈りつつ、今日の一日が健やかなものでありますように。お祈りいたします。

07/03/2024

2024.3.7(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記下13章23節
主はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、イスラエルを恵み、憐れみ、顧みられた。主は彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨て去ることはされなかった。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙11章29節
神の賜物と招きは取り消されることがないからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示された、ふたつの聖書の言葉を通して私が感じたことは、神は極めて「自由な御方」である、ということでした。
 
神はご自分が選ばれたイスラエルの民と契約を結ばれました。神はまずご自分の民を祝福し守り抜く、そして、民は自分たちを守り抜いてくださる神の声に聴き、従い、ともに歩む幸いを味わう。それが、相互に交わされた契約の内容でした。
 
しかし、この契約は、人間の側からいとも簡単に破られました。契約違反です。そもそも契約というものには、履行するという責任がともないます。しかし、神の民は履行すら果たすことができない。ですから、契約が破棄されても何も文句は言えません。
 
しかし、神は決して契約を破棄されることはなさいませんでした。契約を破棄するのではなく、その契約が、いかに人間にとって大切であり、幸福を保証するものであるかを、民たちが自分たちで気づけるように、じっくりと見守り、時には教え諭し、そして私たちがそのことに気付けるように、ご自分の独り子まで惜しみなくささげてしまう。何と融通の利いた方なのでしょうか。
 
それに比べて、私はどうなのだろうかと考えさせられます。ちょっとしたことで怒り、頑固になり、意固地になってしまう。人との関係を簡単に切り捨て、あたかも無かったかのように振舞ってはいないだろうか。そんなことを思わされるのです。悲しいかな、それが私たちの現実であり、限界なのだろうと思います。
 
だからこそ、私たちを祝福してくださるために、極めて自由にご自分のあり方を変えつつも、基本線においてはまったくブレない姿勢を示してくださる神に、心から感謝したい。そう思わされました。少しでも神の融通の利いた姿に、私たちもかくあれかしと心から願わされました。
 
このようなフレキシブルな態度が、神から与えられることを心から祈りつつ、今日の一日が健やかなものでありますように。お祈りいたします。

06/03/2024

2024.3.6(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編121編7節
主はあらゆる災いからあなたを守り
あなたの魂を守ってくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章15節
私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のなかで、新約聖書・ヨハネによる福音書の一節に注目したいと思います。
 
この聖句は、イエスが十字架に架けられる前夜に、弟子たちに向けてご自分の思いを語られた後、神に祈られたときの言葉です。イエスの願いは、彼ら、つまりご自分の弟子たちが、悪い者、つまり悪魔サタンの影響から守られますようにという祈りです。
 
この祈りと合致するのが、主の祈りの「我らを試みに遭わせず 悪より救い出したまえ」であると、あらためて思わされたわけです。イエスが私たちにこう祈りなさいと勧められたその祈りは、イエスが父なる神に願われたそのものだったのだと。イエスはこれから弟子たちの前から消えていなくなる。しかし、そのイエスは、神の御心によって復活の身体を得、天に昇られた後も、聖霊という慰め主を私たちにお与えになられた。これは、イエスの祈りに、神は間違いなくお応えになられたということへの、紛れもないしるしなのだと私は受け止めました。
 
この祈りを、私たちも主の祈りとして祈ることができます。こうして、具体的に神が、イエスを通して言葉を与え、聖霊の助けをもって理解を与えてくださる。そんなことを胸にしながら、今日の一日もまた、主とともに歩むことができますように。お祈りいたします。

05/03/2024

2024.3.5(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨナ書3章9節
そうすれば、神は思い直され、その燃える怒りを収めて、我々は滅びを免れるかもしれない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書11章24節
祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示された、ヨナ書3章9節の言葉ですが、私が編集に関わっている『日々の聖句 LOSUNGEN』(ベテスダ奉仕女母の家)には、この聖句を次のように訳しています。原典となる聖書は、ルター訳聖書2017年版です。
 
人が破滅してしまうことのないようにするためなら、神には思い直したり、後悔したり、ご自分の激しい怒りを止めたりすることがないなどと、誰が言えようか。
 
同じことを言っているわけですが、訳が違うだけで、その表現はなんと豊かになるのだろうと思わされました。私は「人が破滅してしまうことのないようにするなら」という、この一文に惹かれました。神は私たちを取り扱われるその根底にあるものが、この一文に尽きるのだと、私は受け取ることができました。
 
神は、ご自分がお造りになられた人間に対して、どのような思いを抱かれているだろうか。それは、私たちが神の御前に自分自身を向き合わせ、神が私たちに向けてくださる御顔を見つめながら、神とともに歩調を合わせることなのだと。そのなかで、私たちがいつでも思い直し(これが「悔い改め」の意味であると私はとらえています)、神の御心を真摯に尋ね求めようとしたときに、神は私たちのために、常に思い直しつつ、私たちの命を守ってくださる方であることに気付かされるのだと、私は受け止めたいのです。
 
祈り求めるものは何でも得られるとイエスは言いました。これは私たちの要求をすべて神が聴いてくださるということではなく、神のまなざしに私たちが気づいて、そのまなざしに自分自身の眼を向けようと願ってはじめて、かなえられる願いというものを、私たちは発そうとするのではないか。そのように思わされました。その私たちの叫びに、神は調整や変更を加えながら、ベストのタイミングをもって応えてくださるのだと。
 
主は私たちのために思い直されることに気付きが与えられる一日でありますように。お祈りいたします。

04/03/2024

2024.3.4(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨエル書4章16節
主はその民の逃れ場
イスラエルの子らの砦。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書10章48~49節
盲人はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
神である主は、私たちをご自分の民としてくださり、私たちの逃れ場としてくださる。今日のローズンゲンに示された、旧約聖書ヨエル書の一節です。
 
私たちにとっての「逃れ場」とは何でしょうか。そんなことを今朝は黙想しました。私たちには逃げる場というものが、どれだけあるのでしょうか。聖書には「逃げる」ということに関する記述が、意外にも多いことにあらためて気づかされます。そして、逃げるということが、私たちにとって何を意味するのかを考えるのは、とても大切なことと言えるのだと、私は思います。
 
逃げることは卑怯者がすることだ。だから、その場にとどまり、しがみ付くことが大切なのだということを、よく耳にします。「石の上にも三年」ということわざは、そういう教訓から生まれたものなのだと思います。しかしどうでしょう。その人がつぶれてしまうような環境にとどまり続けるのが、本当に美徳なのだろうか。そう思ってしまうことも多々あります。逃げることは決して悪いことではないのです。
 
ただ、私たちは「どこに逃げるのか」ということを大切にしたいのです。今日の聖書の言葉は、私たちの逃れ場とは、主である神であると語られています。「神のもとに逃げよ!」と、私たちに神御自身が語りかけてくださいます。物理的な場所において、私たちが逃げるかとどまるかを決める前に、私たちは自分自身の心において神のもとに逃げるのです。そして「神様、助けてください」と、叫びの声をあげて神にすがりつくのだということを、今日の聖書の言葉は私たちに語りかけています。
 
私たちが神のもとに逃げたときに、では、実際に私たちはどのような選択をもって、現実の世の中で次の一手を打つことができるかを、じっくりと考えていったときにこそ、神は必ず進路というものを与えてくださるのだと思いたいのです。神という逃れ場のなかで、神が何をお考えになられ、何を期待し、望んでおられるかを、聖書の言葉に聴き、聖霊の助けをもって祈るという循環の営みが、逃れ場のなかでなされていくのだと、私は思いたいのです。
 
盲人がイエスにしがみついたのは、イエスに触れ、その言葉が聞きたかったからだと私は思います。神の言葉にしがみ付こうとする態度を、今日の一日も大切にしたい。そう願わされました。
 
皆さんにとっての一日も、まず神の言葉を通して、最高の逃れ場が与えられますように。一日の平安をお祈りします。

03/03/2024

2024.3.3(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言28章13節
背きを隠す者が栄えることはなく
告白して罪から離れる者は憐れみを受ける。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章8~9節
ザアカイは主に言った。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します。」イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
レント3回目の日曜日を迎えました。
 
今日のローズンゲンに示された、旧約聖書・箴言。箴とは竹ハリのことを指す言葉であり、私たちのツボにハリが刺されるときに、いっ時は痛いかもしれませんが、ツボが刺激されて効果を発揮するときに、私たちが健康な状態にさせられていく。そんな思いをもって、今日の御言葉に聴きたいと思います。
 
背きを隠す者という言葉が登場します。ここで言う背きとは、神に背を向けること。神が私たちに願われる生き方から離れようとする私たちの態度を意味します。それを隠して生きるというのは、神に背を向けている自分自身を偽ったり、着飾ったりして見えないようにすることであって、それは神に対してということもさることながら、むしろ人に対して行われることなのではないか。私は「背きを隠す者」という言葉からイメージを得ました。
 
神はすべてをご存知なわけだから、どんなに隠そうとも隠しようがないのです。しかし、人に対してだったら、ある程度ごまかしたり、欺いたりすることができるのかもしれません。神に(自然に)見せている自分自身と、人に見せている自分自身に乖離のあるところにこそ、今日の聖書の言葉が語ろうとしているエッセンスがあるのではないだろうか。そう思ったのです。
 
神に対する自分自身と、人に対する自分自身に裏表のない生き方。それこそ、神の御前にあって素直な自分自身を、人にもさらけ出せる正直さへとつながるのかもしれません。徴税人ザアカイがそうでした。彼は、今まで自分が神の願いに背を向けて生きてきた。しかし、これから後は、神の願いを受け入れる生き方をしたい。そのときに、ザアカイは素直な生き方をもって自分自身の再出発をすることができたのでした。
 
私もまた、こういう素直さをもって、神の願いというものを理解し、受け入れる者でありたいと願わされました。本日の黙想です。どうか、今日の一日もまた、主にあって健やかな時となりますように。お祈りいたします。

02/03/2024

2024.3.2(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編13編2節
いつまでですか、主よ。
私をとこしえにお忘れになるのですか。
いつまで御顔を隠されるのですか。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書27章46節
イエスは大声で叫ばれた。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。明日は主の日。どうぞ今日の一日が良き備えのときでありますように。自分自身を整えつつ、歩むことができるように、今日も御言葉に聴きたいと思います。
 
今日の旧約聖書はダビデによる神への訴え、そして新約聖書はイエスによる神への叫びの言葉です。あたかも神が私を見捨てられたかのように、ダビデもイエスも、必死な思いをもって神に訴えかけていることが読み取れます。
 
私はこんな叫びをしたことが最近あっただろうか。そんなことを想わされました。神が私を見捨てられるはずなどない。それが私のなかで繰り返し繰り返し、反芻するように言い聞かせている結果なのかもしれない。そう思ったりもします。
 
しかし、一方で、それで本当に良いのだろうかとも思ったりする自分自身があります。ときに真剣に、そして必死に、神にすがりつこうとする熱い思いというものを、私自身が抱えているだろうか。何かきれいに信仰というものをまとめ上げようとしている自分自身はないだろうかと思ったのです。
 
神を神とするからこそ、時には疑いにも似た思いというものを、神に正直にぶつける熱さをもって大切にしたい。大切なのは、その疑いを社会や周囲の人たちにぶつけ、訴えるのもさることながら、まずは私自身が、本当に神の御顔、その放たれる光というものに、真剣に対峙しているだろうか。そこから、神が私を守り給う御方であることを、自分の生き方として得ているだろうかということが、本日の黙想を通して得たことでした。
 
神を信頼するからこそ、神に自分自身をしっかりと向き合わせる一日でありたいと思います。皆さんの一日に、御顔を向けてくださる神の守りと平安がありますように。お祈りいたします。

01/03/2024

2024.3.1(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編63編8節
あなたは必ずわが助けとなってくださる。
あなたの翼の陰で、私は喜び歌います。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章31節
神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
しばらくの間、ローズンゲン黙想をお届け出来ず、楽しみにしてくださった皆様へ、大変申し訳なく思っております。月初めということもあり、キリ良く再開したいと思います。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
 
神が味方となってくださる。今日の聖書の言葉が指し示すメッセージに対して、私は、この励みの言葉に対して、決しておごることなく向き合いたいという思いに導かれました。神が味方となってくださることを、自分自身の「張り子」とはしていないだろうか。そのように思ったのです。
 
確かに、私には神がともにいてくださるのだということが、私が日々を生きるための励みとなるに他なりません。しかし、だからこそ、私は神が何をお語りになり、何をお望みなのかということを、神が与えてくださる御言葉から、謙虚に、真摯に、聴き続ける営みというものを大切にしたいということを、再確認したいと思いました。
 
神が味方だからと言って、傍若無人に振舞えば良い理由などどこにもない。むしろ、神と歩調を合わせて歩もうとする思いに、自分自身の進路を整えていきたいと願わされました。そんな願いをもって、3月という四旬節の道のりを最後まで歩んでいきたい、私事ながら、結婚記念日である今日、結婚22年目の一歩を踏み出したいというのが、本日の黙想から得たことでした。
 
今日生きることに苦しみや痛みを覚えるすべての方々に、希望をもって一日を始められる皆さんの一切に、誠実な生き方を応援してくださる神の守りと平安が、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。