28/03/2024

2024.3.28(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言14章34節
正義は国を高める。
罪は民の恥となる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章39~40節
イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
受難週五日目の朝を迎えました。そして、私たちは「洗足木曜日」の一日を過ごします。イエスが弟子の足を洗い、互いに愛しなさいと弟子たちに告げられました。それは友愛とか博愛という意味ではなく、神の愛が私たちのあいだに満たされますようにというイエスの願いに基づくご命令でした。
 
私は、友愛や博愛が悪いものであるとは、決して思っていません。しかし、そのような種類の愛が、うまく運用されている間ならば良いのですが、いったん歯車がずれると、あの愛はどこに行ってしまったのだろうかというくらい、その場から消え失せてしまうということを、私はこれまで数えきれないくらい経験してきました。それをしてしまう側としても、それを受ける側としてもです。だからこそ、友愛や博愛という言葉を軽々しく用いたくないし、そのような愛を自分自身の態度や行動の一部とするならば、そこには確固とした何かが必要なのだと感じているのです。
 
私は、神の愛(アガペー)が何かを知り、そして理解していなければ、友愛や博愛などが見せかけのもので終わってしまうと実感しています。もちろん、アガペーが何かを、完璧に知ることはできません。それが私たち人間の限界だからです。しかし、それを理解しようとする思い、それを自分の生き方とするためには、神の助けと力を、私たちは必要とします。そして、そういう私たちの思いを、神は存分に支えてくださるのだと、私は確信しています。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉では、国を高めるための「正義」について触れられていますが、私は、正義も愛も、同じことが言えるのだと思うのです。つまり、その正義が、その愛が「どこから」来ているのか、由来しているのかということです。聖書で言われている正義や愛は、私たちの産物ではありません。あくまで神の産物であるということを、私たちは忘れてはならないと思います。どんなに正義を振りかざしても、認知のゆがみを多少なれど持っている私たちの正義は、どこかしかにゆがみというものを抱えて表出されるのだと思います。
 
だからこそ、私たちは正義についても愛についても、神が、そしてキリストがご自分の言葉と行いを通して示されたものをもって、それを丹念に聴き取り、自分の生き方としたいと祈りつつ心から願うときに、神は必ず私たちをそのようにしてくださるのだと。イエスが弟子たちに誘惑に陥らないように祈りなさいと勧められたのは、常に神に自分自身をさらけ出して生きなさいということにも相通じるのだと、私は今日の聖句を受け止めました。
 
イエスが弟子の足を洗い、ともに晩餐を囲んだ一日を想いつつ、その愛と正義を受け取る時でありますように。お祈りいたします。

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