エレミヤ書15章18節
なぜ、私の痛みはいつまでも続き
私の傷は治らず、癒えることを拒むのでしょうか。
実にあなたは、私にとって欺く者のように
頼りにならない流れのようになられました。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙3章12~13節
キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。だから、私があなたがたのために受けている苦難を見て、落胆しないでください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さん、おはようございます。
実にあなたは、私にとって欺く者のように
頼りにならない流れのようになられました。
預言者エレミヤの、神に対する正直な告白が、今日選ばれたローズンゲンです。エレミヤが孤独孤立を感じるなかで、神に訴えた正直な告白です。私は、エレミヤの発したこの告白に、ギョッとさせられました。決して他人事として読めない言葉のように感じたからです。私にとっても、エレミヤのような感覚を覚えたことが今まで何度もありましたし、これから、そういうことがまったく無いという保証はどこにもない。
だからこそ、神が本当に頼りない存在として映ってしまうとしたら、それは一体どういう時なのだろうかと、今日の聖書の言葉から深めたいと思いました。
エレミヤは、こう言いました。
なぜ、私の痛みはいつまでも続き
私の傷は治らず、癒えることを拒むのでしょうか。
エレミヤが痛み続けるなかで「癒えることを拒むのでしょうか」という言葉に注目しました。癒えることを、癒されることを心から願っているはずなのに、それを拒もうとする自分自身があるのだと言うのです。
私たちは悲しみの渦中にあると、かえってその悲しみを手放せなくなるような感覚はないだろうか。手放したいのに手放せない。その悲しみに依存してしまう自分自身に気付けないでいる。そして、自虐的な自分自身を産み出し、そこに共存する自分自身に、いつしか満足してしまう。つまり、負のスパイラル(らせん階段)に巻き込まれてしまうのです。
私もそういった経験をしていますが、その時は自分の殻に閉じこもってしまうあまり、どんな声も聞こえなくなってしまいました。そうなると、神の助けなども絵空事のようにしか思えなくなってしまう。エレミヤの心境とは、まさにそういうところにあったのではないかと思えたのです。
今日の新約聖書の言葉は、使徒パウロがエフェソにある信徒たちに宛てた手紙の一節です。たとえ私が苦難に遭っているからといって、決して落胆しないで欲しい。なぜならば、キリストの真実がそこにあるからと、パウロは信徒たちを励まします。
聖句にある「キリストの真実(聖書協会共同訳)」という言葉は、かつては「キリストに対する(わたしたちの)信仰(新共同訳)」という言葉が用いられていました。信仰とは、神を信じようとする私たちの主体が関係するものと受け止められがちですが、そうではありません。だとしたら、信仰は時にエレミヤのように、そして私のように、グラグラと揺れ動いてしまう、実に頼りないものになってしまいます。
しかし、信仰とは「キリストの真実」なのです。つまり、キリストが全生涯をかけて、私たちを愛し、私たちの命を救うために働かれた、その真実そのものなのだと。この真実は、私たちの感情いかんにかかわらず働きますから、この真実=信仰が、私たち一人ひとりに与えられたときに、私たちはたとえ落胆したとしても、心に大きな揺らぎがあったとしても、必ず神が、私たちの内に外に働いてくださり、私たちを何とかしてくださる。そう受け止めたいのです。
今日の一日も、信仰が豊かに、私たち一人ひとりに与えられますように。お祈りいたします。
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