28/02/2022

2022.2.28 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記15章11節
主よ、神々のうちで
誰かあなたのような方がいるでしょうか。
誰が、あなたのように聖であって栄光に輝き
賛美されつつ畏れられ
奇しき業を行うでしょうか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一1章2節より
御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、告げ知らせるのです。ー
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
主よ、神々のうちで、誰かあなたのような方がいるでしょうか。
 
こう歌ったのは、エジプトの軍勢に追われて、命ねらわれていたところを、紅海を真っ二つに割る奇跡によって、イスラエルの民は向こう岸に渡ることができ、一方でエジプト軍は海に飲まれて全滅した後での、イスラエルのリーダーであるモーセでした。
 
命の危機に瀕しても、神はご自分が約束された人々に対しては、必ず命を守ってくださる。これが聖書がそのはじめから一貫して語り続けてきたメッセージです。そして、神が人間に対して果たされる約束、つまり契約は、ご自分の御子であるイエスによって、全世界へと、その門戸が広げられました。
 
今日の新約聖書は、私たちのもとに人の姿をもって現れたイエスこそ、神の約束のまぎれもない証しの言葉です。そのイエスを弟子たちがこの目で見、ともに生活をし、イエスから神とともに生きることの真髄を、ご自分の言葉と行いを通して教えられ、受け継ぎ、今日に至っています。私たちも聖書の言葉を通して、イエス御自身をこの目で見、確かめることができるというのです。
 
私たちもまた、イエスの言葉と行いを通して、かつてモーセが味わったように、神との約束が果たされていく様を、味わうことを可能とさせられます。それが、イエスの弟子として生きるということであり、最終的に行きつくところには、永遠の命があると、聖書に記されています。
 
つまり、命の危機に遭ったにもかかわらず、神によって命救われたモーセとイスラエルの民の出来事が、今やイエス・キリストによって永遠の命、つまり神による永遠の保証が、私たちに与えられている。これが本日の聖書の言葉を通して、神が私たちに伝えようとしているメッセージです。
 
これら言葉を黙想し、私にとって命の危機とはなんだろうか。そんなことを考えました。神は私たちの命をつくられた。その命の危機は、神の私たちとの間の隔絶であり、拒絶であり、人間が自分のエゴによって進みゆく姿、またそのような姿に襲われる様なのだろうと。
 
だから、私も隣人も、この世界も、自分の言動がエゴに基づくものなのかをどうかを、立ち止まってじっくりと考えるところにこそ、命を与える神の存在に、少しでも心を寄せ、自分の生き方の基となれたらと、心から願わされました。
 
今起きていること。世界ではやはり、ロシアのウクライナ侵攻のことを思わずにはいられないし、身近に起きていることとしては、自分をとりまく人間関係のことで、神の命に生かされるとはどういうことなのかを、エゴとの闘いという点から、黙想することができました。
 
平和の源は、命を与え救われる神にこそある。そんな思いで過ごしてまいりたいと思います。全世界が、不健全なエゴから解放されますように。もちろん私のエゴも解放されますように。心からお祈りいたします。

27/02/2022

2022.2.27礼拝説教:神は愛なり


2022年2月27日
深沢教会主日公同礼拝

聖書 ヨハネの手紙一4章1~7節
説教 神は愛なり

2022.2.27 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編27編14節
主を待ち望め。
勇ましくあれ、心を強くせよ。
主を待ち望め。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章7節
パウロは書きます:私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
苦しい時にこそ、真価は発揮される。
 
こんな言葉を聞いたことがあります。今日の聖書の言葉に触れたとき、私たちの信仰について考えさせられる、そんな言葉であると、つくづく思わされました。今日は、そのあたりの黙想を深めてみたいと思いました。
 
今日の新約聖書の言葉は、使徒パウロによるものです。パウロはギリシャの大都市コリントにいるクリスチャンに向けて、この手紙を書いたときに、自分自身の宣教が、決して順調でなかったことに触れています。ところどころで、迫害があり、命の危険があり、そのような困難のなかで、パウロは宣教活動を進めていました。
 
パウロは、そのような苦しみのなかで、あえて希望を語ります。消極的な空気がどんよりと人々の環境を襲い、それによって気落ちしてしまうような人々の思いが支配しようとしても、そこには希望がある。希望があると、パウロは語り続けます。
 
そこに、パウロが真価を発揮するスペースがありました。発揮すると言っても、それはパウロの力によるものではありません。神が慰め、そして自分の苦しみをともに担ってくださるいます。そのことを共に分かち合う、目に見える大切な仲間がいました。
 
私は黙想します。教会というところは、神を信じることの難しさを経験し、感じるときに、神が慰め、励まし、希望のラインに立たせてくださるために、集められた一人ひとりと、そのことを分かち合い、確認するために与えられた共同体なのだと。
 
では、私たちはどれだけ、教会というところにそのような希望を託しているだろうかと。教会の姿を見ては、失望し、つまづき、希望を感じられないような思いにさせられることは、決して少なくないと私は実感しています。しかし、それで良いのでしょうか。
 
良いはずがありません。そういうときにこそ、私たちは何によって生きるのかという問いが問われているのだと。パウロがそうであったように、どこに希望を見出して生きるかで、私たちはその本質によって、豊かに生かされるはずなのだと。
 
新しい一週間の始まりに、そういう思いをもってスタートを切ることができれば、神様はなんとかしてくださるのだと、そのような希望に生きる者でありたいと願わされました。私たちの心を強く、勇気を持たせてくださる神を待ち望むところにこそ、希望があふれることを信じつつ、皆さんもそのようでありますように。お祈りいたします。
 

26/02/2022

2022.2.26 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編27編1節
主はわが光、わが救い。
私は誰を恐れよう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書8章12節より
イエスは言われた。「私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
ロシアによるウクライナ侵攻について、昨日に続いて、今日の御言葉から黙想を得てまいりたいと思います。
 
今日の旧約・新約両聖書に共通するテーマは「命の光」、つまり、私たちは誰によって、命を喜び、保たせ、未来に向かって希望をもって歩めるような光をいただくことができるのか、という問いを与える聖書の言葉です。
 
旧約聖書では、主なる神こそ命の救いをもたらす光であり、その神の御心を完璧に継承したイエスこそ、今日のヨハネ福音書にもあるように、命の光に私たちが生かされるべく、昔も今も働かれています。これが、今日私たちに与えられたメッセージです。
 
ところで、今回のロシアによるウクライナ侵攻に先立って、この地域での主要なキリスト教教派である正教会でも、政治的状況と連動するような動きがあったことを、ご存知の方も多いかもしれません。

2018年、ウクライナ正教会がロシア正教からの独立が、2018年の正教会主教会議で決定されました。その際に、ロシア正教は反対の意思を示しています。ロシアとウクライナの関係は、政治的な部分と宗教的な部分が密接に関わり合いながら、今日の侵攻まで続いているというのが実態です。
 
ロシアは、自国の平和のために武力をもって制圧するという選択肢を選びました。しかし、私は強く感じます。命の光を持たれる御方は、その光をつくられた神が、私たちのために与えてくださったイエス・キリスト。その御方のみなのだと。
 
だから、私たちはロシアの為政者・宗教者たちが、自分の力に生きるのではなく、キリストによってただ生き、命を犠牲にするのではなく、命を祝福するために、今こそ働いて欲しいと、心から執り成し祈ることこそが、今の私にとって一番大切なことだと思わされます。
 
もちろん、ロシアによって多くの犠牲を今受けているウクライナにある方々が、命の光を感じることができるように。これ以上犠牲の受けないようにと、今日も祈り続けてまいりたいと思います。

そして、イエスによる救いを知り、それをいただくことのできる私たちが、今日も自分の身の回りにある環境において、人と人との関係、神と人との関係において、心を込めて命を祝福を喜べるような一日でありたい。そのように願いつつ、神に祈りをささげました。
 
世界を通して自分自身を見つめること。世界でも自分自身のことでも、共通するのは、命の主イエスが、私たちとともにおられることです。今日も、主イエスがともにおられることを、肌身に感じ、心で受け止めて、感謝できる一日でありますように。お祈りいたします。

25/02/2022

2022.2.25 リビングライフ


日本CGNTV リビングライフ
2022年2月25日
聖書:ルカの福音書16章1〜18節
テーマ:神の国のために備える賢い管理人

2022.2.25 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編135編14節
主はご自分の民を裁き
僕らを憐れむ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章6節
義に飢え渇く人々は、幸いである
その人たちは満たされる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
昨日、ロシアがウクライナへの軍事侵攻を開始しました。プーチン大統領は、自国(ロシア)の安全を確保するためには、今回の軍事侵攻は選択の余地がなかった、と語っています。
 
世界中を走った、この衝撃的なニュースに、危機感を覚えられた方も多くいらっしゃるのではないかと思います。私も危機感を抱いたひとりであることに間違いありません。
 
そのようななかで、私は、大なり小なり「自分を守るための戦い」とは、一体なんなのだろうかと。自分を守るために、他の尊厳を傷つけてまで、自分の正義を貫こうとする態度は、本当に正義なのだろうかと、私は改めて思わされます。
 
そんなところに、今日の聖書の言葉は、非常に端的に、私たちに大切なことを教えている。そのように感じたのでした。「正義は誰のものか?」という問いに、聖書は明快に答えます。「正義とは神のものだ」ということをです。
 
神は、ご自分の正義を「裁き」、つまり、ご自分の御心をもって判断されることによって明らかにされます。裁きとは必ずしも断罪することではなく、神の正しい判断が私たちをご自分の憐れみに導くというのが、本日の旧約聖書が伝えようとしていることです。
 
その正義が私たちに及ぶとき、私たちは神の憐れみのなかに生かされるからこそ、のちにイエスは「幸いな者よ、神の正義が及ぶことを望み、そこに飢え渇きを覚えることは」と、民衆にお語りになられました。それが、本日の新約聖書の示すところです。
 
自分自身を守ること。それは誰でもします。しかし、自分自身を守るがゆえに、生み出されるもの・それゆえに残るものは一体何かを、立ち止まってじっくり考えたいと促されます。それが憐れみなのか、神の正しさゆえの充足感なのか。それとも私のプライドか、プライドを固守するがための、他者への攻撃なのか、無用な犠牲なのか。。。
 
世界の平和が脅かされるなかにあって、神から養われ、育てられる私の平和を大切にするところにこそ、神のこの世界に対する深い憐れみと正義があふれることを心から願います。そして、私自身がその担い手として、今日も立つことができるようにと、祈りを合わせました。
 
皆さんの一日も、そのような神の正義と平和がゆたかにありますことを、心よりお祈りいたします。

24/02/2022

2022.2.24 リビングライフ



日本CGNTV  リビングライフ
2022年2月24日
聖書:ルカの福音書15章11〜32節
テーマ:放蕩息子に対する父の愛、罪人に対する神の愛

2022.2.24 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書25章8節より
主はその民の恥をすべての地から消し去ってくださる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章73~74節
これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。
こうして我らは
敵の手から救われ
恐れなく主に仕える
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
私たちの主である神は、ご自分の民が受ける恥を、全世界から消し去ってくださいます。
 
今日の旧約聖書の言葉は、その約束を私たちに対してしてくださり、今日の新約聖書の言葉によると、それは、神が最初にご自分の民として選ばれた、イスラエルの父祖アブラハムのときから変わることなく続いていることが、祭司ザカリヤの賛歌をもって、明らかにされました。
 
今日の旧約聖書の言葉にもある「恥」とはなんでしょうか。もちろん、私自身が恥ずかしめを受けたときに感じる、心の状態のことを指すのですが、「なにゆえに恥を感じるか」ということは、もう少し丁寧に考えなければと思わされます。
 
日本人は恥の文化。アメリカの文化人類学者であるルース・ベネディクトの書いた『菊と刀』という著作があります。古典ですが、日本文化論としてよく知られた一冊です。ここでベネディクト氏は、日本人を「恥の文化」を持つ民族であると指摘します。
 
ただし、彼女の言う恥とは、今日の聖書の言葉で挙げられる恥とは意味が異なります。日本人がイメージする恥とは、自分自身の体面やプライドが他人から傷つけられるがために、心の中で生じる状態のことを指します。あくまで私自身が主体です。
 
一方で、聖書でいう恥とは、神の権威が悪しざまにされるがために、神の民として、自分の神が汚され、傷つけられることへの、自分自身のうちで起きる状態のことを指しています。日本人的恥の主体が私ならば、聖書でいう恥の主体は神であり、その神を想うがゆえに生じる、私たちが経験する恥であるという点で、一線を画します。

今日の聖書の言葉は、神を想うがゆえに、神を信じて生きるがゆえに生じるあらゆるしょうがいや困難を克服できるのは、私たちの底力が基となるのではなく、それをすべてぬぐい去ってくださる神がおられるから、という私たちに対する深い慰めに満ちた言葉なのだと。

自分が神の御心に立とうとするときに、さまざまな葛藤が私を襲うとき、理解してもらえないつらさを想うとき、必ずそれを解決し、私を先の一歩へ歩ませてくださる神がおられる。そんなことを心の希望にしながら、一日を過ごしていきたいと願わされ、神に祈ることができました。
 
どうぞ、皆さんの一日も、神とともに歩む幸いなときでありますように。心よりお祈りいたします。

23/02/2022

2022.2.23 リビングライフ


日本CGNTV  リビングライフ
2022年2月23日
聖書:ルカの福音書15章1〜10節
テーマ:一人のたましいをあきらめない愛

2022.2.23 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編119編6節より
私があなたのどの戒めに目を留めても
恥じ入ることはありません。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章31~34節
イエスは言われた。「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
食べ物。それは私たちの生きる命を支える、無くてはならないものです。食べ物を美味しく、つかえることなく食べることができるのは、本当に幸せなことなのだと感じさせられます。
 
私事ですが、昨夕から激しい嘔吐に見舞われました。胃が何も受け付けず、ただひたすら吐くばかりの数時間を過ごしました。あらかた嘔吐したのち、ベッドで1時間ほど休んだら、とても楽になりました。
 
その後、買ってきてもらったスポーツドリンクを少しずつ含みますと、それで気分が悪くなることがありませんでしたので、続いて、温かいお吸い物をいただいたら、身体が温まり、体調がほぼ回復しました。朝の目覚めを問題なく経験することができました。
 
今朝起きて、ローズンゲンに示された御言葉をいただいた際、イエスの食べ物、つまり、イエスにとって生きるに欠かせないものとは、「私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げること」と、イエスは言われました。
 
神の御心を自分の生き方とすること。そのために、神の言葉をイエスは何にも勝るパンと位置付けられました。そして、パンを実際に食し、生きるための源としました。その源から発するイエスの宣教によって、それは私たちをも生かす源になったのだと。
 
こういう「私の食べ物」を、イエスは私たちに与えてくださっていることを想いますと、私たちがどのような食事を、生きるためにしているのだろうかと、改めて振りかえさせられます。健全な心身を養うための食事。この食事を自覚できるような生き方とは何かを。。。
 
今日の旧約聖書の言葉は、私たちに伝えます。「神が与えてくださるどの戒めに目をとめるならば、私は自分自身を恥じ入る生き方から離れることができる」と。戒めは人を苦しめるためにあるのではなく、私たちがより良い生き方をするためにあるものなのだと。
 
今日も神の言葉が、私の命を良い意味で戒め、私の命に喜びの源として与えられる。そのことに、私自身心を寄せながら、イエスが与えてくださる「私の食事」のご相伴に与りたいと願い、祈りをささげることができました。
 
皆さんの一日もまた、そのような喜びあふれるときとなりますように。心よりお祈りいたします。

22/02/2022

2022.2.22 リビングライフ

 

日本CGNTV  リビングライフ
2022年2月22日
聖書:ルカの福音書14章25〜35節
テーマ:主の弟子の心構えと思慮深い決断

2022.2.22 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
士師記5章3節
聞け、王たちよ。
耳を傾けよ、君主たちよ。
私は主に向かって歌う。
私はイスラエルの神、主をほめ歌う。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章5節
あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
今日の旧約聖書の言葉は、「デボラの歌」と呼ばれる一連の詩歌の一節です。イスラエルの諸部族が政治的に不安定だった時代、他民族・諸国からの攻撃に立ち向かったリーダー(士師)が立てられました。デボラは、その士師のひとりでした。
 
デボラは諸国の王、君主に向かって歌いました。私は自分の主である神をほめ歌うと。紛争解決・平和への道をつくり上げてくださるのは、私たちとともにいてくださる神なのだと、高らかに歌い上げました。実際にこの後、約40年間にわたる、イスラエルの平和な時代がやってきたのでした。
 
神は好戦的な方では決してない。むしろ平和のために何が必要なのかを、寛容な態度で私たちに示され、私たちもまた、この態度をもって世の中で生きることこそ、本当の意味での平和があるのだと。本日の新約聖書でうたわれている「寛容」というものは、まさに、神をほめ歌う、つまり、神の思いを心から聴き取ったところにこそ、あらわれる実なのだと、私は感じさせられました。
 
寛容は、聖霊なる神がもたらす実(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)であるという聖書の言葉は、まさに寛容という態度は、神の導きと直結していることを明らかにしています。
 
私は、今日の聖書の言葉を黙想しているなかで、自分は本当にこの寛容の態度を、神の助けによって自分のものとしているだろうかと、じっくり黙想させられました。人生、いろいろな葛藤や闘いがあることは事実ですが、しかし、寛容を忘れてまで闘おうとする態度は、結局のところ、神が私に期待しておられることから、ずれてしまっているのだと。
 
そんなことを黙想しながら、神の御心に基づいた寛容に生きる一日でありたい。そう願いつつ、神に祈ることができ、とても感謝な思いにあふれました。それこそ平和の源なのだと。
 
皆さんの一日に、神が与えてくださる寛容があふれますように。お祈りいたします。

21/02/2022

2022.2.20礼拝説教:良い方を選んだ



2022年2月20日
深沢教会主日公同礼拝

聖書 ルカによる福音書10章38~42節、使徒言行録6章1~7節
説教 良い方を選んだ

2022.2.21 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ53章11節
彼は自分の魂の苦しみの後、光を見
それを知って満足する。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙2章10節
あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威の頭です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
私がいるじゃないか!
 
今日の聖書の言葉をいただいて、そんなひと言が心に突き刺さりました。まさに、キリストの愛に打ちのめされた、そんな気分にさせられました。
 
今日の旧約聖書の言葉は、「主のしもべの苦しみと死」としてよく知られている、イザヤ書53章の一節が選ばれています。この言葉は、のちにイエスが十字架の苦しみによって死にゆく姿を示した、預言の言葉とみなされました。
 
そのしもべについて、預言者は告げました。彼は自分の魂の苦しみの後、光を見、それを知って満足する、と。
 
そうなんだ!苦しみがあっても、必ず光を見ることができるし、その光が表していることを知って、しもべは満足したのだと。
 
イエスは、十字架上でさまざまな嘲りを浴びて、身体的な痛み、精神的な苦しみを経験されました。しかし、その苦痛は私たちを慰め、励まし、あらゆる束縛から解放させるため。そう。イエスを嘲笑し、罵った民衆ひとりひとりのため。。。
 
そういう私たちが、あらゆることから解放されて、生きる希望の光を見るときに、しもべはそれを見て満足する、すなわち、イエスの喜びはここにあるのだと。そんなキリストによって、私たちの心はたとえ苦痛のなかにあっても、満たされるのだと。これが今日の新約聖書の言葉です。
 
逃げ出したくなるような苦痛を経験することがあります。その渦中にいるときに、その苦痛に耐えられない自分自身がいます。しかし、私がいるじゃないか。私がいるじゃないかと、私に語りかけてくださるキリストがおられる。
 
この言葉は、私にとって実にタイムリーなものでした。神様、このような御言葉を、今日私に与えてくださったことに、心から感謝します!と、祈ることができました。私がいるじゃないかという言葉に応答できるよう、呼びかけてくださっている方の声に、耳と心を傾けて、今日も生きてまいりたいと心から願わされました。
 
皆さんにとっても、イエスの呼びかけによって希望あふれる一日となりますように。お祈りいたします。

20/02/2022

2022.2.20 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記26章4節より
主はイサクに言われた:地上のすべての国民はあなたの子孫によって祝福を受けるであろう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙4章28節
きょうだいたち、あなたがたはイサクと同じように約束の子どもです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
あなたがたはイサクと同じように約束の子どもです。
 
今日は、約束という言葉について、黙想してみたいと思います。約束とは、その約束が果たされることを前提にして、私たちの関係性をより豊かなものとするために、交わされるものです。
 
私たちもあらゆる約束の世界で生きています。大なり小なり、私たちはその約束を互いに守るように、自分の生活が向けられ、そこに関心を集中する。約束を守ることは、信頼関係の基本であることは誰も知っています。
 
神と人間の関係性。これも約束に基づいています。いわゆる契約と呼ばれるものです。神と人間との契約関係が、聖書の歴史そのものであると言って間違いありません。今日の旧約聖書・創世記にある言葉も、神がイサクという人物に向けられた約束の言葉でした。
 
もともと、この約束は、イサクの父であるアブラハムに向けて、神が交わされた約束でした。その約束を、イサクは父から受け継ぎました。契約者が変更になったとしても、神の側はその約束を変えることはありませんでした。
 
そして、その約束は、はるか後の時代である、1世紀のガラテヤという外国の地に受け継がれ、語られたのが、本日の新約聖書の言葉です。イサクと同様、約束された者のこどもであると。
 
イスラエルという小さな単位の国民から、地中海地方に住む人々にその約束は継承され、今や全世界へ、神の約束は広がり、私たち一人ひとりにも神は約束を果たし続けてくださいます。ここに、人間の存在をこよなく愛しておられる、神の誠実さと忠実さを見ることができるのです。
 
このような神に、私たちの命が守られている。私たちは生きることができるのだと、今日の聖書の言葉は、私たちに思い起こさせます。私は簡単に約束を破り、反故にしてしまう。しかし、そんな私を神はご自分の約束を忠実に果たし、私を生かしてくださる。その神に、私はなにをもって応答することができるのだろうか。
 
そんなことを黙想しました。今日は礼拝の日。世界中のあらゆる場で、神の約束が語られます。その約束が語られるときに、私たちが生かされていることへの感謝の思いを、高めることができますように。お祈りいたします。

19/02/2022

2022.2.19 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌下30章8節
あなたがたは、かたくなであってはならない。主に服従しなさい。主の聖所に来なさい。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書14章15節
同席していた客の一人が、イエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
今日の新約聖書の言葉にある「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」という発言は、どこから来ているものなのでしょうか。そのあたりのことを考慮に入れつつ、黙想してみたいと思います。
 
この発言をしたのは、ある宴会に招かれていた一人でした。その人は、イエスのたとえを聞いていました。そのたとえは、最初から上席に座るものではない。末席に座ることの謙遜さを教えるものでした。
 
また、見返りを期待するような招き方をするな。そういうことを期待しないところにこそ、神の与える幸いがあるのだということを、人々にお知らせになりました。それを聞いた宴会客のひとりが、神の国の食卓、つまり交わりがなんと幸いなことかと絶賛したのでした。
(詳しくは、ルカ14章7~14節をご覧ください)
 
つまり、神の国の幸いとは、誰もおごり高ぶることなく、見返りを求めない世界の幸いです。この点において、私は自分自身の姿というものを思い起こします。おごることのない謙遜な態度、損得勘定や見返りを期待しない思い。いずれも、私にとってはとても耳の痛い、厳しい言葉です。
 
これが、今日の旧約聖書の言葉が伝える「かたくなさ」なのだろうと。結局のところ、自分のプライドとの闘いなのだと。自分の中で手離せないものがある。怒りの感情、やるせなさ、許せない思い、傷、トラウマなどなど。それは、自分を大切にしてほしいという承認欲求の気持ちから起こるものです。この度が過ぎると、手離せなくて、自分の心を包む殻が頑丈に固くなってしまう。つまり、頑固な自分自身をつくり上げてしまう。
 
そういう自分自身を発見すればするほど、とてもつらい思いにさせられます。しかし、イエスは神の国で食卓をともにする幸いというものを、私たち一人ひとりに約束しておられるし、そこに生きる幸いを味わわせようと働いてくださっている。宴客のひとりが「なんと幸いなのでしょう」と絶賛できるような場を、イエスは設けてくださっているのだと。
 
頑固な私にできることは、そんな私でも、イエスの前に進み出ることの一択しかないのだと。主の聖所に進み出ること。宴への招きに、招かれる資格などないと思っても、まず、その招きに応じてみること。そこから一歩が始まるのだと。
 
特に、私たちは何かに失敗をし、とても辛い思いにさせられたとしても、やり直しが利く、明日の一歩に私たちのおぼつかない足を進ませてくださる神がおられるのだという、今日の聖書の言葉に、慰めと励ましを得たい。そう思ったのです。
 
一週間の振り返る最終日の今日、それでもなお、ここまで歩んでこれたことに感謝して、神の言葉に聴従できるような一日でありたいと願いました。そこにこそ、神の国の幸いがあることを信じて、その幸いが私たち一人ひとりを包み、祝福あふれた時となりますように。お祈りいたします。

18/02/2022

頑張っているわねえ



今日は
司祭シャツをつくってもらうため
コモレ四谷にある
典礼センター・ピエタへ
行ってきました
カトリックのシスターたちによって
開かれています


採寸してもらって
驚いたこと
それは


採寸するたびに
サイズダウン!


シスターに
頑張っているわねえと
言われて
気を良くしたワタクシ
笑笑


コモレの裏は
こんな素敵な広場に
なっていました


青空の下
とても気持ちの良い
お散歩となりました


日々観想

2022.2.18 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記33章20節より
主はモーセに言われた。「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。」
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一4章9節
神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
私たちは何を見て生きることができるのだろうか。
 
そんな問いが、今日の聖書の言葉を通して私に与えられました。今日はそのあたりを黙想してみたいと思います。
 
今日の旧約聖書・出エジプト記33章にある一節ですが、なぜ神は、イスラエルの指導者モーセに向かって「私の顔を見ることはできない」と言われたのでしょうか。神の顔を見るということの意味とは、いったいなんなのかを考えさせられます。
 
なぜなら、聖書には、私たちが「神の顔を仰ぎ見る」といった言葉を、いくらでも見つけることができるからです。にもかかわらず、なぜか今日の聖書箇所については「神の顔を見ることができない」、さらに「なお生きていることはできない」とあるのです。ここに、大きなヒントが隠されているのだと思わされます。
 
この神の言葉に先立って、イスラエルの民は指導者モーセの不在中に、見えない神の姿を金の子牛という鋳像という見えるかたちにして、それをあがめた結果、神の怒りを買うことになりました。神を「見えるかたち」にしたことによる、神の災いだったのです。
 
つまり、この出来事は、私たち人間が「可視化する」、つまり物事を見える化することによって、自分好みの神を勝手につくり上げてしまうことへの危険性というものを、私たちに伝えるものであると言えます。
 
自分好みの神をつくる。私がいつも見ていたい神を求め、見たくないものからは目を背けることで、自分に都合の良い神を、自分の神としてあがめてしまうというのです。それこそ自分自身の願望を投影した偶像というものをつくり、それを神として崇拝してしまう。
 
今日の旧約聖書で私たちに伝えようとしているのは、まさにこのことなのではないかと、私は受け止めました。さて、私は自分の利益にふさわしい神を仕立て上げてはいないだろうか。神に対してそんな見方をしてしまっているかもしれない私自身を振りかえさせられます。
 
今日の新約聖書の言葉は、神の独り子であるイエス・キリストが、私たちの内に現されることによって、神の愛が示され、私たちが生きる者となったと、私たちに伝えています。
 
神は私たちの側から見て気づく前に、まず、神から私たち一人ひとりの心に与えられるものである。その与えられた神の姿、イエス・キリストという救い主を、はじめて私たちが見るところにこそ、神を見るということの本当の意味があるのだと。
 
私たちは、神の姿というものを、神御自身の言葉である聖書と、聖書を神の言葉とする聖霊の助けによってでしか、知り、見ることはできません。しかし、与えられた聖書の言葉と聖霊の働きによって、私たちは自分自身の心で神をゆがめることなく、自分好みの偶像をつくりあげてしまうこともなく、神を神として見ることができるのだと。
 
今日も、私の心にご自分の言葉と聖霊の励まし・慰めによって入ってくださるイエス・キリストの御心と願いが、私自身の一日を平安なものにしてくださる。そんなことを期待しつつ、歩むことができますようにと祈ることができました。
 
神とともにある幸いが、皆さんとともに、豊かにありますように、お祈りいたします。

17/02/2022

2022.2.17 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編25編5節より
あなたの真実によって導き
教えてください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書8章31~32節より
私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
私の言葉にとどまるならば。
 
イエスは、弟子たちに対してこのような言葉を投げかけられました。とどまる。それは、宿泊する・滞在するといった意味でも用いられるメノーというギリシア語です。
 
イエスが語りかけられた言葉を、私の心にとどまらせる。目の前を通り過ぎるのではなく、旅人が荷を降ろして、宿に心も身体も休ませるようにとどまらせる。宿屋でゆっくりと心身を休めれば、それが明日を旅する活力となるように、イエスの言葉が私にとっての生きる力になる。
 
メノーという言葉には、そんな意味が込められているのではないか。私はそんな黙想をしました。私の言葉にとどまるならば、「あなたがたは本当に私の弟子である」と、イエスは言われました。
 
弟子は、師の思い通りに操ることのできる存在ではありません。師の模範にならうことで、師の示す良いものを自分のものとすることができる。それが弟子です。イエスが弟子づくり・弟子訓練をしたのは、イエス自身の利益のためではありませんでした。一貫して、弟子が幸いな者となるためでした。
 
それが、真理を知ることによって味わう「自由」です。イエスが、どうして弟子のことに触れた後で、自由について語られたのか。そこに弟子づくりの真髄というものが表されているのではないでしょうか。
 
人間は勘違いします。まるで隣人を縛り、奴隷のように支配するために、誤った弟子づくりをしようとするならば、そこに自由は絶対に芽生えません。そのような環境には、本当の意味で、イエスの言葉がとどまっていないからです。聞こえても、聞いたつもり、ただ言葉が通り過ぎていく姿を眺めて、それで満足しているだけなのかもしれません。
 
私自身の心にイエスの言葉がとどまっているだろうか。イエスの弟子になりたいと、心から願っているだろうか。そんなことを問わされます。イエスは、私たちのために言葉を与え、自由への門戸を広げてくださっています。そのことを今日の聖書の言葉を通しても、私たちに宣言されました。
 
イエスは、自分の命をすべて投げ打ってまで、私たちをご自分の弟子にするために生きられた。そして、今もなお生きて働いておられるイエスが、私とともにいてくださる。これが今日を生きる希望の糧なのだと、私は今日の聖書の言葉を受け止めたいと願います。
 
イエスの言葉にとどまることで得る心身の休息、そして自由。イエスの弟子となることで芽生える安心感と喜び。そこにはいかなるゆがみや縛りがないことを心から期待できる、今日の一日でありますように。お祈りいたします。

16/02/2022

こんな伝統ならば・・・

 

あなたがたは
受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている
新約聖書 マルコによる福音書7章13節
(聖書協会共同訳)


伝統は大切


しかし
伝統の本質を失った伝統は
ただ人間を縛るだけ


伝統の本質は
人を本当の意味で自由にさせるのだと
生きる喜びを得るための伝統なのだと


そんな伝統を大切にしたい


日々観想

2022.2.16 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編84編6節
幸いな者、あなたを力とし
心の中に大路を敷く人は。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本せつ新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一16章13節
目を覚ましていなさい。信仰にしっかりと立ちなさい。雄々しく強くありなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
心の中に大路を敷く人。
 
今日の旧約聖書から響くメッセージに、とても気持ちの良さを感じることができました。大路と聞いて、私たちはなにを連想するでしょうか。心の広さ、豊かさ、深さなどなど。小さいことにくよくよせず、ちょっとしたことでケチったり、うらやんだりねたんだりしない、そんな心です。
 
今日の詩編の言葉には、「あなたを力とし」とあります。なぜ、心に大路を敷けるのかという問いに、ひと言で答えています。それは、神が私たちの力になってくださるから。神がこの世界に、そして私たち一人ひとりに対して期待しておられることを、私たちの生き方としたいと願うならば、神はご自分の力を存分に注ぎ、与えてくれるというのです。
 
心に大路を敷く人は幸いな者である。そんな心をもってひとりの人間として、牧師として生きることができたら、どんなに幸せだろうかと思わされます。そうでありたいと願うのですが、現実は違います。心に大路どころか、小道にもならないような心の狭さというものを、常にさらけ出してしまう自分自身があるのです。
 
しかし、心の大路は自分でピンからキリまで築き上げるものではないことを、今日の聖書の言葉は明らかにします。神が与えてくださる心の大路を、自分の生き方・歩み方としたいという願うところに、必ず神はご自分の言葉と、イエスの生涯、そして聖霊の助けをもって、私たちにそれを示してくださいます。そして、助けを与えてくださるのだと。
 
今日の新約聖書の言葉にもありますように、「信仰にしっかりと立ち」というのは、そのような神がおられ、イエス・キリストが、おぼつかない私の歩みを一緒に伴走してくださるからこそ、なんとか立って、一歩一歩、失敗を繰り返しながらも、眠い目をこすりながら、しかし、イエスがいてくださるから、勇気と希望をもって、心の大路を歩むことができるのだと。
 
そう思ったら、改めて心がすっきりしてきました。過去の過ちや傷、トラウマに囚われ、縛られることなく、神にすべてを明け渡す心を、今日も持って一日を過ごしたい。そんな思いにさせられました。
 
神の助けによって、心に大路を敷く者は、幸いである。今日も私たち一人ひとりがそんな幸いを味わうことができますように。お祈りいたします。

15/02/2022

2022.2.15 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編14編1節より
愚か者は心の中で言う
「神などいない」と。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本せつ新約聖書のことば
ヨハネの手紙一5章20節より
しかし、神の子が来て、真実な方を知る力を私たちに与えてくださったことを知っています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
神などいない。
 
イスラエルの王ダビデによって歌われた詩は、大変衝撃的なものであると同時に、この世界の現実を私たちに知らせています。
 
ダビデは、神などいないと主張する人々のことを「愚か者」と呼びます。愚か者とはなんでしょうか。別な聖書では「神を知らぬ者」と訳しているものもありますが、この言葉から、愚か者という言葉は、私たちが知る、つまり、知識のない状態のことを指していると言えるでしょう。
 
知識は理解を生むことで、初めて知るという言葉が私自身のものになる。これは、聖書の言葉を文字面で覚え、暗唱できたとしても、その意味をかみしめ、味わい、自分自身の生きる源、栄養とならなければ、そこには意味はありません。
 
ですから、教えられること、育てられること、つまり、教育されることは、私たちが神を知るためには無くてはならないことである。今日の旧約聖書の言葉は、私にその自覚を訴えるものでした。
 
ダビデの言う愚か者は、「心の中で」神などいないと言う者のことを指しています。つまり、表面的には神を知っている、神への信仰を表している、そのように見えていても、誰も見えない心の内実では、神の御心を理解できないでいる。自分自身がつくり上げた神をあがめている。自分がつくる神とは、まさに偶像であり、それをあがめれば、結果的に偶像礼拝となってしまう。
 
だからこそ、聖書と聖霊の助けによって私たちが神から教育される目的とは、本質を知ることだと。本質に生きるならば、自分好みの神をつくり、結果として自分自身をあがめようとする愚かさから離れることができるのだと。
 
本質は、救い主イエス・キリストが私たちのもとに来られ、私たちと共に生き、私たちに大切なことを具体的に教育されることによって、明らかにされました。イエスが弟子たちをつくり、育てることを、次の弟子を育てるために委ねられた。この連続が、今日に至っている。今日の新約聖書が示している「真実な方を知る力を知る」とは、まさにこのことを物語っていると言えるでしょう。
 
私は、果たしてこの本質に生きるために、何をしているだろうか。イエスという方の生き方を本当に理解し、自分の生き方としているだろうか。そして、イエスの弟子として生きることを、心から望んでいるだろうか。知らず知らずに愚か者への道に進んでいないだろうか。などなど・・・。
 
今日の聖書の言葉は、私にそんな黙想を次々と与えました。自分自身のふがいなさを自覚しつつも、しかし、そこに決して自分自身を責め落とすのではなく、そのためにイエスが今日も私のために働きかけてくださっているのだと、心から期待し、感謝の思いをもって一日を生きていきたいと、神に祈ることができました。
 
神の本質に生きる幸いが、今日も世界が平和になる原動力となりますように。お祈りいたします。

14/02/2022

2022.2.14 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編108編2節
神よ、私の心は確かです。
私は歌い、ほめたたえよう。
私の栄光よ
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙1章11~12節より
光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかる資格を、あなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝するように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
私の心は確かです。
 
今日の旧約聖書・詩編108編2節の言葉に、黙想を深めてまいりたいと思いました。私の心が確かとは、いったいどういう状態のことを指すのでしょうか。
 
日々の聖句の原著であるローズンゲン(Die Losungen)では、「私の心は準備ができている」という意味の言葉が用いられています。また、『新改訳2017』では、「私の心は揺るぎません」と訳されています。「私の心は確か」という意味のイメージが広がります。
 
私の心が揺るがないとは、なんとうらやましいことかと私は思いました。私はちょっとしたことで自分の心が揺るぎ、翻弄されている自分自身を常に見い出しては、なんと不信仰な者なのだろうと、いつも思わされています。
 
そんな優柔不断で意志薄弱な私にとって、「神様、私の心は確かです」と告白できることは、ある種、私の憧れです。そんなふうに告白して、神を賛美できるような一日でありたい。そう願わされるのです。
 
私の心を確かにするのは、私自身の意志によってでしょうか。そんなことを考えるときに、今日の新約聖書の言葉は、それは私自身ではなく、私自身に確かな救いの希望を与えてくださった神であることを、私たちに伝えています。
 
光のなかにある聖なる者たちが受け取ってきた神の恵みを、私たち人間に相続させてくださったのは、何を隠そう御父なる神なのだと。私の心を準備万端に、確かなものとしてくださるのは、私の心をすべて御存知である神なのだと。
 
ある牧師がこんなことを話してくれました。牧師になる前の若い頃、どうしても聖餐のパンと杯を受け取ることができなかった。こんなに悪い心にまみれている私が、イエスさまのからだと血潮をいただくわけにはいかない。そう思ったのだそうです。
 
その方は、自分の牧師にその悩みを打ち明けました。牧師は答えました「だからこそ、あなたはパンと杯を受け取る資格があるんだよ」と。私のために、神がすべて準備してくださっている。だから、私は心を確かにして歩む安心感が芽生えるのだと。
 
私の心は確かであるという言葉の背後には、神が私たちのためにご自分の心を準備万端にして、私たちを命の日々へ立たせてくださっているのだ。だから、私は心を確かにして、神を賛美し、今日も聖書の言葉に裏打ちされた神のなさることに、両手両足をいっぱいに伸ばして、歩むことができるんだ受け止めました。
 
私の心を整えてくださる神様がおられるがゆえに、今日も生きることを喜び、神に感謝して歩みたい。そんな連鎖と連帯がともにあることを、心からお祈りいたします。

13/02/2022

2022.2.13 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
マラキ書3章2節より
だが、彼が来る日に誰が耐えられようか。
彼の現れるとき、誰が立っていられようか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録3章20節
見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
救い主イエスは、私たちの心の扉をノックしてくださいます。かたく閉ざした私たちの心の扉を開けるならば、イエスは私たちのうちに入られて、私たちとともに食卓を囲んでくださいます。
 
今日の新約聖書・ヨハネの黙示録3章20節の語るメッセージです。この聖書の言葉をモチーフにした、戸をたたくイエスというキリスト教絵画がよく出回っているほどです。それだけ、私たちの心に訴えかける聖書の言葉なのでしょう。
 
今日、この聖書の言葉に、私は心を傾けたいと思いました。私の心の頑なさがどこにあるかを、真摯に見つめたいからです。私がもし、自分には心の頑なさがないと断言しているとしたら、イエスが自分自身の心をノックしてくださるということも、無意識のうちにはねのけてしまうのではないか、そのように感じたのです。
 
自分自身を見つめる作業というのは、できているようでなかなかできていない。しかし、聖書の言葉はそうすることの大切さを、常に私たちへ訴え続けているのだと、私は感じます。そうすることで、神が私たちを愛し、喜び、ときには戒め、勧め、幸いな道へと導いてくださるからです。
 
しかし、神が与えてくださる幸いとか喜びというものを、私たちはどうしてもえり好みしてしまいます。もうわかっている・経験したからと拒み、完結した自分自身をアピールするかもしれません。
 
しかし、本当にわかっているのか、経験したのか、完結しているのか。そう自分自身に問い、吟味し、識別しながら、自分自身をイエスに整えていただくことは、私たちの一生涯の課題なのだと。
 
ときには、イエスのノック音に耐えられなくなるほど、この世で生きることの難しさを感じることをもあるかもしれません。放っておいてくれという叫びです。しかし、なおも私たちの心のドアをたたき続けてくださるイエスが、私のそばにおられる。こんな慰めはないと、私は今日の聖書の言葉を前にして、強く思わされました。
 
私の心のドアをたたき続けてくださるイエスよ、あなたの変わらない愛に心から感謝します。どうぞ、今日も私のかたく閉ざした心の扉を開放することで、イエスが私の縛られた心から解放させてくださいますようにお願いしますと祈りました。
 
今日、世界中祈られるすべての礼拝が、皆さんの心の解放の機会となりますように。心からお祈りいたします。

12/02/2022

2022.2.12 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編71編8節
私の口はあなたへの賛美に満ち
日夜あなたの誉れをたたえます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書12章34節より
心から溢れることを、口は語るのである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
心から溢れることを、口は語る。
 
イエスは、この言葉を語られるにあたって、人の心に何があるのかということを、私たち一人ひとりに問うておられます。詳しくは、マタイ福音書12章33~37節の言葉に、それを見ることができます。例えば、
 
「毒蛇の子らよ、あなたがたは悪い人であるのに、どうして良いことが言えようか。およそ心から溢れることを、口は語るのである。」(34節)
 
「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」(36節)
 
「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(37節)
 
といった具合に、人の良い心から生じる言葉には神の正しさがあふれ、悪い心から生じる言葉には、裁きの責任が問われ、罪が明らかにされるということを、イエスは弟子たちに告げられました。
 
自分の発する言葉を支える心の動機がどこにあるのか。私は、今日の聖書の言葉をいただいたときに、どんなに美辞麗句を立て並べたところで、人の目はだませたとしても、神の目にはすべてが見通されているのだということを、改めて痛感させられる機会となりました。
 
もちろん、意図的に人をだまそうなどということが無かったとしても、私の心は、神の思いや願いといった御心というものに、つねに自分自身を整えて、合わせて生きようと願うことで、結果的にそのような欺きから解放されるのだと思わされました。

常に聖書の言葉で自分自身のあり方を吟味し、確かめ、神に祈るなかで自分の姿を謙遜に見つめ、聖霊の助けによって、自分自身が神の義、つまり正しさによって生きるように整えられ、変えられていくことを、心から願いたい。
 
そういう心から生じる言葉というものが、神の喜びがあふれるような賛美に通じる言葉になるのか、人を惑わし、神の平安を失わせ、利己的で偽善の言葉となるのか。まずは、心のうちを真摯に見つめることのできる一日でありたいと願い、神に祈りました。
 
明日は主の日。世界中の教会で神の言葉が語られ、分かち合いがあることでしょう。その一切が、神の祝福に満ちあふれたものでありますように。お祈りいたします。

11/02/2022

予知夢?

 

夢の中で神の使いが、
『ヤコブ』と呼ばれたので、
私は『はい』と答えた。
旧約聖書 創世記31章11節
(聖書協会共同訳)


とても印象的だったので、書き留めておくことにします。
今朝起きる前に観た夢のことを。


大好きな友人が十字架刑に遭うことになりました。
友人はそれを甘受して、十字架に向かいます。
友人は公衆の面前で祈りをささげた後、小部屋に入り刑は執行されました。

 
友人は、最後に私たちに別れの言葉を告げ、私たちは笑顔で別れました。
その別れには、なぜか寂しさを感じませんでした。
私は別の友人に言いました。
私はその友人のことが大好きだったと。そこで目覚めました。

 
夢診断によれば、その友人とは投影された私のことなんだそうです。
まるで、これからすべきことは何かを、神から示されているような。
そんな夢のような気がしてならないのです。


日々観想

2022.2.11 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨシュア記23章11節
ひたすら魂を尽くして、あなたがたの神、主を愛しなさい。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章23節
イエスは答えて言われた。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
神を愛して生きるとは何か。今日の聖書の言葉から、そんなことを黙想してみたいと思いました。
 
神を愛するということは、そもそも日本文化にはないものであるかもしれません。神は崇め奉る(あがめたてまつる)対象であり、人間生活の幸福を願う対象、神の怒りを鎮めることによって、災いから遠ざけてもらうように願う対象などなど、崇高なイメージを神に抱く。これは、聖書に描かれる神も同じです。
 
しかし、今日の聖書にもあるように、「神を愛する」という視点は、聖書を用いる人々が知る独特の観念であると言えるでしょう。愛するとは大切にすることと、昔日本に神の愛を伝えた宣教師は言いました。神がおられるということを、私たちの生活のなかで大切にし続けることが、神を愛することに相通じるのだと。
 
神を愛するからこそ、神をあがめることができる。神に願う内容も、私主体ではなく、神主体とした願い、つまり、私自身の願望に終始執着するのではなく、最終的には神が人間に対して願っておられることが、そのままなりますようにという祈りへと発展させられるのだと。イエスが「神の御心が天でおこなわれるように、地上でもおこなわれますように」と祈った、あの主の祈りの言葉に相通じるのだと。そんなことを思わされます。
 
魂を尽くしてと、今日の聖書の言葉にはあります。魂を尽くすことは、私たちの全人生を尽くしてという意味に通じます。私自身に与えられた人生、その生活、心も思いも身体もすべて、神の御心がなりますようにという祈りにもとづいて、私もまた生きていくことが期待されているのだと。
 
イエスは言いました。私を愛する者は私の言葉を守るのだと。つまり、神を愛する者は神の言葉・聖書の言葉を大切にすることなのだと。守るというのは文字面の規則をただ守るということではなく、言葉に示された神の真実と本質を大切に守ることなのだと。
 
神が私に期待していることとは何かと、黙想する一日でありたいと願わされました。そのときに、聖書の言葉から神が発する御声を真摯に、謙遜に聴き取ることこそ、今の私にますます求められていることなのだと確信して、神に祈りをおささげしました。
 
このような朝を迎えられたことに感謝しつつ、皆さんの一日に神の愛が十分に満ちあふれたものとなりますように。心からお祈りいたします。

10/02/2022

2022.2.10 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編115編16節
天は主のもの。
地は人の子らに与えられた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書12章48節より
多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
神から託された者としての務めとはなにか。今日の聖書の言葉を通して、人間のもつ責任について黙想したいと思いました。
 
神は、ご自分の創造された世界を治めさせるために、ご自分の似姿として人間を創造されました。神の似姿というところに大きな意味があります。治めることを任され、委ねられた人間は、神の御心を理解し、それを体現することが期待されていると言えます。
 
神のつくられたこの自然、動植物に対して、また人間に対して、私たちはどのように向き合うことが、神の御心を理解し、体現することなのか。神の願いは、世界の環境が壊されることなく、人間同士がこの地に満ちあふれて、平安に生きることに他なりません。
 
その場合、神にこの世界を任された、託されたからと言って、神の願いを踏みにじって、自分の思い通りに振る舞うことは、神に期待されていません。あくまで、神と人間との良き関係性のなかで、神の創造の意図というものを経験することができる。聖書が語るこの世界観に、私たちはいかに大切にできるだろうか。そんなことが問わされました。
 
世界の自然環境は人間のエゴのために破壊され続け、その自然・資源をめぐって搾取や奪い合いが起こり、人間関係も支配・被支配のゆがみからくる格差と苦しみ、無意味な犠牲などは、私たちが神から何を託されて生きているかということへの、深く、真摯な黙想と、そこから導き出される実践から外れたところに起きているのだと、私はとらえました。
 
私たちは、神から実に多くのことを託されているなかで、それが自分だけではなく世界全体の豊かさにつながる、自己責任の用い方というものを大切にしたい。これが、今日私に与えられた黙想でした。神から委ねられていることの自覚を、より確かなものとしてくださいと、神に祈ることができました。
 
今日も、皆さんの一日が、そのような神から守られ、託された務めを喜びのうちに果たすことができますように。お祈りいたします。

09/02/2022

開始!

 


草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。
旧約聖書 イザヤ書40章8節
(聖書協会共同訳)


毎日黙想をアップしている
『日々の聖句・ローズンゲン』


2023年版の翻訳・編集が
はじまりました


毎年
この作業が始まると
聖書の言葉の奥深さに
どっぷりと浸かることができます


最初の作業は
ドイツ語から日本語への
翻訳・編集作業
3人の編集員で分担して
取り組んでいます


日本語聖書を吟味しながら
ドイツ語原文とあわせていきます


ひとりでも多くの方々に
愛用いただけるように
祈りをこめて
つとめを果たしていきたいと思います


日々観想

2022.2.9 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書9章10節より
この方の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで至る。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章9~10節より
神はキリストに
あらゆる名にまさる名を
お与えになりました。
それは、イエスの御名によって
天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが
膝をかがめるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
全世界のあらゆる名にまさる名である、イエス・キリストのお名前とは、いったいどんなお名前なのだろうか。今日はそのあたりを黙想してみたいと思いました。
 
本日の新約聖書の言葉に先立って、この手紙を書いたパウロは、フィリピの教会の信徒たちに、イエスのお名前があらゆる名にまさることを、このようにつづりました。
 
キリストは
神の形でありながら
神と等しくあることに固執しようとは思わず
かえって自分を無にして
僕の形をとり
人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ
へりくだって、死に至るまで
それも十字架の死に至るまで
従順でした。
フィリピの信徒への手紙2章6~8節
(聖書協会共同訳)
 
この態度と行動こそが、イエスの名を何よりもまさる名とした。パウロは「謙遜」こそが人と人とのあいだにあることを願いつつ、謙遜であることの最大の模範として、イエス・キリストのお名前に言及しました。
 
謙遜とはなんだろうか。パウロはこのように具体的な勧めをします。
 
何事も利己心や虚栄心からするのではなく
へりくだって
互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい
めいめい
自分のことだけではなく
他人のことにも注意を払いなさい。
フィリピの信徒への手紙2章3~4節
(聖書協会共同訳)
 
ポイントは「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」であると、私はとらえました。
 
利己心とは「他人より自分の利益を優先して顧慮する心。 自分の利害関係を物事を図ろうとするあり方。 利己的な心がけ」であり、虚栄心とは「うわべだけを飾ろうとする心。 自分を実質以上によく見せようとする心」のことです。
 
つまり、利己心も虚栄心も、自分の心の動機を問う言葉なのだと。見た目だけの言動だけでは、謙遜であるかどうかを計ることはできないのだと。私はそのように感じさせられました。
 
大切なのは、イエスがこの世界に対して示された謙遜の真意と本質を、私がいかに自分の生き方とすることができるかということなのだと。私はそのような生き方をしているだろうかと黙想するときに、イエスという模範に聴従したい。聖書の言葉からそのことを探りつつ、今日も生きていきたい。それが今日の黙想でした。
 
イエスの謙遜にならう私たちが生きる世界には、神の喜びに満ちたご支配がある。今日もそのような一日でありますように。お祈りいたします。

08/02/2022

2022.2.8 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書51章7節より
人のそしりを恐れるな。
彼らの罵りにおののくな。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一6章12節
信仰の闘いを立派に闘い抜いて、永遠の命を獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で立派な告白をしたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
人のそしり、彼らの罵(ののし)り。
 
これに恐れ、おののく私があります。しかし、神はそのようなそしりや罵りに、恐れるな、おののくなと、言葉を投げかけられている。今日の旧約聖書の言葉は、臆病な私の心にグサリと突き刺さるものでした。
 
人間誰でも、そしられたり、ののしられたりすることを嫌います。だから、自分の考えを覆い隠して、その場を空気を読むがゆえに、結果として自分の思いを殺して、意見の強い者におもねてしまうということがあるのではと、自分の言動を振り返って思わされます。
 
しかし、そうであってはいけないのだと、今日の御言葉は、まるで私の心のなかを見抜いたうえで、こう訴えている。大切なのは人に対する自分の恐怖心を守ることか、それとも、どんなそしりののしりからも遠ざけてくださる神の御心に、私の思いも心も傾けていくことなのか。と。
 
今日の新約聖書の言葉にある「信仰の闘い」というものは、とどのつまるところ、自分自身のうちにある恐怖心との闘いなのだと受け止めました。私の心は何を守ろうとしているのか。そんなことを黙想させられる聖書の言葉が今日与えられたのだと、素直に感謝することができました。
 
私たちの抱える恐怖心とはなんでしょうか。そのことをじっくりと自分の心のなかから取り出して見つめるときに、それを癒し、打ち消してくださる神がともにおられることを、実感できるような一日でありますように。お祈りいたします。