30/09/2023

2023.9.30(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言15章16節
主を畏れる者のささやかな持ち物は
心配しながら持つ多くの宝にまさる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙13章5節
金に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日に続いて、今日も東京で朝を迎えています。昨日はさまざまな出会いがあり、多くの刺激を受けました。そして、今日もさまざまな出会いが待ち受けています。与えられたこの出会いに感謝しつつ、一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
今日与えられたふたつの聖書の言葉を通して、これらの言葉は私たちに清貧をあえて勧めるものではなく、だからといって経済的に裕福であることを禁じているわけでもなく、何を大切にすることが良いのかという気づきを与える言葉なのだと受け止めました。
 
どんなに財産を手にしたとしても、心が安らぐことはないという話をよく聞いたりします。むしろその財産をめぐって、さまざまな争いが起きるなどということもあるようです。だから、経済はある程度人を豊かにすることがあったとしても、究極的・絶対的な幸福の条件ではないということなのだと、私は感じるのです。
 
だから、たとえ今もっているものが本当にささやかなものであったとしても、それでもなお安心して暮らすことができるのは、まさにそのような宝の根源が神にあるのだという、聖書を通して語られるメッセージに、希望と安心感を得たいのです。私たちにいのちを与え、そのいのちを保たせてくださる神ならば、私たちが飢え死にしないようにしてくださるだろう。そのように願いたいし、それを希望として生きたいとあらためて思わされました。
 
どうか今日の一日が、神の与えてくださるすべてのものに感謝できるような時でありますように。お祈りいたします。

29/09/2023

2023.9.29(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書8章23節
あなたがたと一緒に行かせてほしい。神はあなたがたと共におられる、と我々は聞いたから。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙10章14節
宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日は東京で朝を迎えました。ある神学校で単発の授業を担当するためです。カルト宗教についての講義です。毎年1回の講義ですが、この神学校でも担当が3回目となりました。少しでも学生の方々に伝わるように、心を込めて講義したいと思います。
 
さて、今日の聖書の言葉を通して、神が与えてくださったイエス・キリストという福音を、自分が与えられている限りの環境でも、それを伝え分かち合うことの大切さというものを、あらためて知らされました。もちろん、伝え方、表現方法、場所や時間など、それは人ひとりひとりによって違うことは確かにあるでしょう。しかし、どんな形であれ方法であれ、福音を伝えることのおいては、一点の曇りもなく誰かに伝える、福音によって生かされている私の姿というものを(たとえボロボロであったとしても)示すことは大切なのだと思わされました。「ボロは着てても心は錦」と言われているように。
 
今日の第三のテキスト(原文)は、ドイツの神学者である、フルベルト・シュテフェンスキーによる言葉ですが、「宣教とは?」に続いて、こう告げています。
 
宣教とは、何を愛し、何を信じているかを見せることを意味します。
 
宣教とは、言葉をもって何かを伝えていくことに重きを置いているような印象が私にはあります。もちろん、言葉で何かを伝えるということは、私たちの生活にとって欠かせないものです。しかし、言葉がなくても「見せる(示す・証明する)」ということは、言葉に劣らず勝るものさえある。それが私たちひとりひとりの神に向き合い人に向き合う愛の生き方なのだと、私はそのように受け止めました。
 
たとえ愛せない状況があったとしても、それでも神の愛が私に向き、愛せない対象にも向いているという事実を信じること。この信じていることが、宣教の意味するところであれば、真摯に信じて祈り続けていくこともまた、宣教なのだと思えてならないのです。
 
そのような生き方へと、今日も神が導いてくださいますように。皆さんの平安のためにもお祈りいたします。

28/09/2023

2023.9.28(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編94編14節
主はその民を見放さず
ご自分の民を見捨てられない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙3章20節
私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日私たちに与えられた、ローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉もまた、私たちの神は私たちをどのように扱ってくださるのかを明らかにしています。
 
今日のふたつの聖句に呼応して示された「第三のテキスト」は、ドイツの詩人であるパウル・ゲルハルトによる賛美歌の歌詞です。このような冒頭から始まります。
 
ああ主よ、終わりにしてください
私たちの苦しみを終わりにしてください
 
人間の持つ苦悩というものを、ゲルハルトはこのような嘆願をもって神に向けています。苦しみの渦中にあるときに、いつになったらこの苦しみから解放されるのだろうか。まさに暗闇を五里霧中のようにさまよう中にあって、私たちの神こそ、それを終わらせてくださる方であるという希望と確信が、このような詩をつくりあげている。そのように思えてなりませんし、私もこの詩を歌う者でありたい。そう思わされるのです。
 
この希望と確信というものを、はるか昔、詩人は歌ったのでした。主なる神は見放すことなく、私たちをお見捨てにはならないのだと。もちろん、これは神の御心というものを自分の生き方とし、神とともに歩もうという真摯さが前提にあってのことだし、もし、そうでなかったとしても、神は私たちを見捨てずに、私たちが神とともに生きることの幸いを味わえるように、私たちの至らなさというものをも、いろいろな形を通して、私たちに気づかせてくださる方なのだということを、歴史を通して私たちに伝え続けてくださっています。
 
だからこそ、旧約の民がどんなに神とともに歩めなかった歴史があったとしても、イエスを救い主として私たちに与えてくださった。ひとりも滅びることなく、永遠の命を得ることができるようにしてくださったのは、他ならぬ私たちを見捨てなかった神御自身なのです。
 
それで、私たちは自分たちの国籍のある天から来られるイエスを、心から待ち望む者であり続けたいのです。切に待ち望んでいる。私たちはそのような思いを保ち続けることができるだろうか。そんなことを問いつつも、待ち続けたい、希望を忘れず歩む者でありたい。そんな願いが、今日私の思いのなかにあふれてきました。本当に感謝なことでした。
 
苦境にある私たちの心をすべてご存知である神が、私たちをそんななかでも平安な思いで満たしてくださいますように。祈りつつ、みなさんの主にある平安を、心からお祈りいたします。

27/09/2023

2023.9.27(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編95編4節
地の深みもその手の内にあり
山々の頂も主のもの。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録14章7節
天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
ここのところ、黙想をお届けできる日と、お届けできない日があり、黙想を楽しみにしてくださっている皆さまには、本当に申し訳ない限りです。私の事情によって、なかなかお届けできない時もありますが、お届けできる時は、心を込めてお届けしたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 
さて、今日ローズンゲンとして選ばれた聖書の言葉を通して、私がイメージできたのは「神はすべてのものをくまなくご存知である」ということでした。地の深みから山の頂にいたるまでというこの表現こそ、私たちが決して登ることのできないような山々の頂上から、私たちが知りえない海溝の奥底に至るまで、神はそのすべてを塵ひとつまで知っていてくださっている。私たちが見えるとても限られた世界なんかよりもです。
 
この言葉は私たちにとって大きな励みとなります。私たちは限りある環境のなかで、限界を感じながら生きていますから、すべてが分かり合えるわけではありません。私たち人間のつくりだす関係に、そのことは大きな影響をもたらします。世界のトラブルの99%は人間関係によるものであると、ある心理学者は言いました。そうなのです。私たちの人間関係における限界こそ、大きな要素であると言えるでしょう。
 
だからこそ、すべての人間関係を超越する、神と私たちとの関係を大切にしたいと思わされます。私たちが神を理解することにも限界があります。しかし、すべてをご存知である神は私たちのすべてを理解してくださいます。だからこそ、私たちはそういう神を礼拝することができるのではないでしょうか。そういう礼拝をも私たちに与えてくださったのは、他ならぬ神なのですから。
 
今日も神が私たちのすべてをご存知なうえで、私たちに必要な糧をお与えくださる。そんな思いをもって一日を過ごしていきたいと思わされました。皆さんの一日にも、神が与えてくださる平安と祝福をお祈りいたします。

25/09/2023

2023.9.25(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編33編4節
主の言葉はまっすぐ
主の業はすべて真実。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書24章35節
イエスの言葉:
天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日の聖書の言葉は、実にストレートであり、私たちの依るべきところを明らかにしていると、皆さんも思われたのではないかと思います。天地が滅びても、私の言葉は決して滅びないと、イエスご自身が言われています。2000年にもわたって、この言葉が人々のあいだでバトンタッチされて、今日を生きる私たちにも届けられているのは、本当に驚きであり、素敵なことなのだと、私は素直に受け止めることができました。
 
私の仕事部屋に、今日の聖句(ルカ福音書の並行記述箇所ではありますが)を墨書したものがあります。私の前任地で、何年か前に年の聖句としたことがあって、その時に私が書いたものですが、その後も座右の銘にしたいと思い、働きの場が変わっても、そのまま飾り続けています。時や場所、環境や状況が変わっても、神の言葉が神の言葉であり続けることに間違いない。
 
私は「天地が滅びても」という言葉について黙想しました。その天地には私たち人間の命や、思考感情、行動も含まれていると私は受け止めました。「人のうわさも75日」という言葉がありますが、口から出る言葉なども、ほとぼりが冷めれば忘れ去られてしまう。どんなに偉業を成し遂げたとしても、時代が過ぎれば人々のあいだからいつかは風化されてしまう。これが人間の偽らざる現実なのでしょう。
 
しかし、神が人を通して語られた言葉は、こうやっていつまでも残り続ける。イエスが語られた言葉は、こうして滅びず残っていることを想うと、それは人間の言葉とは明らかに違うものがあることを、ただただ認めたくなります。まっすぐで、真実で、常に私たちの命を活かす言葉に、私も全幅の信頼を置いて、今日の一日を、そして今週の日々を生きていきたい。そう願わされました。
 
皆さんの一日にも、神の言葉が与える豊かさがともにありますように。お祈りいたします。

24/09/2023

2023.9.24(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
レビ記19章18節
隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書10章33~34節
旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。猛暑がおさまり、秋らしいさわやかな朝を迎えました。今日も、世界中の教会や集会で行われる主の祝祭を、私たちもまた祝うことができますように。すべての礼拝のためにお祈りいたします。
 
さて、今日のローズンゲンの言葉である旧約聖書・レビ記19章18節ですが、ローズンゲンに示されていたのは、その後半部分でした。自分自身を愛するように、隣人を愛しなさいという、神の命令です。いわゆる「隣人愛」のご命令です。
 
このことを考えるうえで、決して見逃すことができないのが、18節の前半部分です。こう書いてあります。
 
復讐してはならない。民の子らに恨みを抱いてはならない。
 
私はここ数日、あることからさまざまな「恨みの感情」というものに支配されています。どうしても人を恨んでしまうのです。恨みの感情というのは知らないうちに助長し、ものすごく大きなパワーというものを生み出すとおいうことを、改めて実感させられました。復讐したくなるような思いが、私を支配してまう。こんなことを目の前にして、おい齋藤!こんなんで良いのか?という声が聞こえてくるようです。しかし、そういう自分自身の姿を見ては冷静になっても、また噴き起ってくる。その繰り返しなのです。
 
おそらく私だけではないかもしれません。こういう感情を抱くのは。そういつ時こそ、苦しく辛いことはありません。今日のレビ記を見ては、まさに鉄槌を食らわせられたような気持ちになりました。復讐してはならない。恨んではならない。分かっている。分かっているけれど。。。
 
そこで、隣人を自分自身のように愛しなさいというご命令が続くわけですが、私は、最後の「私は主(ヤハウェ)である」というひと言に、改めて感謝したのでした。ここで言う主とは「私はあなたと共にいることで、あなたの神となる」という神の宣言があってこそ、私に愛の力を与えてくれるのだと。そのことを感じずにはいられませんでした。何もないところからは愛は生まれない。募るのは恨みつらみのみばかり。だからこそ、「私は主である」という言葉に、自分自身を託しながら、愛をいただきたい。そんなことを想わされたのでした。

一切に、神の平安と祝福をお祈りいたします。」

22/09/2023

2023.9.22(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書55章5節
見よ、あなたが、知らない国民に声をかけると
あなたを知らない国民があなたのもとに走って来る。
これは、あなたの神、主のため
あなたに栄光を現した
イスラエルの聖なる方のためである。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙3章14~15節
私は、天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父の前に、膝をかがめて祈ります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今週もまた、なかなかローズンゲン黙想を掲載することができない日が続きましたが、長旅から仙台へ戻ってまいりましたので、改めてローズンゲンによって与えられた御言葉に聴き、黙想することを再開したいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 
神はすべての民をご自分の民としてくださるという事実を、あらためて今日の聖書の言葉から受け取ることができました。神が私たちに表してくださる栄光とは何か。そんなことを考えていました。基本的に神は、私たちにご自分の光を注ぎ続けてくださっている。光を注がない対象など、誰もいないということを想わされます。そのうえで、私たちがいかに、そのことを与えられた信仰として受け入れて、神の栄光によって生きることができるかということを、考えさせられました。
 
たとえ神を知ることがなかったとしても、神が栄光ある御方であることを受け入れられれば、世の中はもっと平安な思いで満たされるのではないか。そういうことを心から信じる者でありたいと願わされたのです。あくまで冷静に、この世界に対して起きるいかなる怒りや悲しみがあったとしても、それを打ち勝たせてくださるキリストの愛があるということを、今日を生きるための礎としたいと。
 
すべての家族の源である神に、今日も世界が平和でありますようにと祈りつつ、皆さんの一日が主なる神にあって平和なものでありますように。お祈りいたします。

20/09/2023

2023.9.20(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言14章26節
主を畏れるところには強い信頼が生まれる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章35節
誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日のローズンゲン黙想ですが、誤って18日(月)の聖句を掲載してしまいました。ご指摘により分かったものですが、訂正できないまま昨日の一日を過ごしました。どうぞ主にあってお許しください。
 
さて、昨日より「日本伝道会議」の場に出席しています。会場に約1,100名の方々、オンラインでは約1,000名の方々が参加し、日本伝道について考える機会が与えられています。とてもよく準備された会議で、いわゆる「福音派」と呼ばれている諸教会との方々との交流も、充実したものとなっています。私は全日程に参加できず、今日までの参加となりますが、最後まで楽しみたいと思います。
 
さて、今日の聖書の言葉です。
信頼とは一体何か。そんなことを黙想させられました。神に対する畏敬の念のあるところには信頼が生まれると、今日の箴言の言葉には記されています。信頼とは何もないところから生まれることは絶対にありませんし、信頼する根拠があるからこそ、私たちは信頼関係のなかで生きることができる。誰もが知っていることだと思います。また、信頼関係は簡単に壊れるものであることも、私たちはよく知っていますし、そう簡単には壊れない信頼関係というものがあることをも、私たちは知っています。
 
そんなことをいろいろ考えさせられるなかで、では、神との信頼関係はどうなのかということを考えさせられます。神との関係において、信頼を築き上げる主体はどこにあるのでしょうか。それがもし私たちの側にあるならば、私たちの築き上げる信頼関係はとても脆弱なものであると言えるでしょう。クリスタルのように、簡単に割れて壊れてしまうのです。
 
神は、人間との関係史において、人間の側がどんなに神を裏切ったとしても、そのたびごとに私たちに関係性の振り返りのようなことを気づかせてくださり、その気づきをもって神との関係を再構築するという歴史の繰り返しが行われてきたことは、聖書に書かれている通りです。そう。信頼の主体は私たち人間の側にあるのではなく、確固とした信頼の持ち主は神にあることに間違いありません。神が私たちに深い信頼を向けてくださるからこそ、私たちは信頼をもって神に応答することができるというのです。
 
それを、使徒パウロは自分の苦難の歴史を振り返りながら、信頼の基というものを「キリストの愛」と表現しています。愛は信頼の基である。そんなことを想いつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと願わされました。どうか皆さんの一日にも、そのような神の信頼がともに豊かにありますように。お祈りいたします。

19/09/2023

2023.9.19(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書18章4節
すべての命は私のものである。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一2章1節
パウロの手紙:
願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人のために献げなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
先週末に引き続き、昨日も黙想をお届けすることができませんでした。申し訳ありません。昨日は、日本基督教団大阪教区が主催する「信徒大会」のお招きを受け、カルトに関する講演をする機会をいただきました。対面・オンライン含め約60名の方々とともに、カルトについて理解を深めるひと時となり、私自身もいろいろ学ばされました。会場で、このローズンゲン黙想を読んでくださっている方にもお目にかかり、感謝の気持ちが与えられました。御言葉を通して人と人とがつながれる。そういうつながりを与えてくださる神への感謝と、読んでくださっている方への感謝の両方です。
 
さて、今日の聖書の言葉ですが、私たちは皆、神のものとされている。旧約聖書・エゼキエル書18章の言葉は、私たちの所在というものを明らかにしています。神のものとされているというのは、何も独占欲によってがんじがらめにされている状態のことを指すわけではないと私は思っています。神のものとされることで、私たちの命が守られ、大切にされ、そして私たちの命が保たれるために、ご自身の言葉と聖霊なる神の助けをもって、私たちを日々導いてくださると受け止めたいのです。
 
ある者の独占欲によって所有物とされていくような状態は、カルトの所業とも言えるでしょう。そうではなく、神が私たちとつながってくださることによって、かえって健全な自由というものを享受することできるというのです。私たちの命は神のものとされているということが、束縛ではなく解放を意味していることを味わえるような聖書の聴き方をしてきたいと思わされた次第です。
 
そして、今日の新約聖書の言葉は、願い・執り成し・感謝を、祈りを通して神にささげることができる。そんな勧めが与えられています。私たちは、御言葉に聴き、そして祈るという営みの循環を通して、神との対話というものを味わうことができるわけですが、それは同時に、神がどのような御方であるかを理解する大きな助けになるということでもあります。そういう意味では、ローズンゲンのようなたったひと言の御言葉にも、神の命があふれ、私たちの命が祝されるための要素が十分に詰まっているのだと。こういう言葉が与えられたことに感謝しつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思いました。
 
今日は大阪から岐阜へ移動し、第7回日本伝道会議へ出席します。皆さんの一日が、神様によって大いに祝されたものでありますように。お祈りいたします。

17/09/2023

2023.9.17(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書33章24節
住民は、「私は病んでいる」とは言わず
そこに住む民は罪を赦される。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録1章17~18節
キリストの言葉:
恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
一昨日、昨日と、黙想をお届けすることができず、申し訳ありませんでした。そして、私たちは新しい一週間を再び迎えることができました。その初日となる主の日が、神によって十分に祝福された時でありますように。祈りつつ、今日の御言葉に聴きたいと思います。
 
今日の旧約・新約両方の言葉を通して、私たちに与えられているテーマは、私たちは神、そして主イエスによって命の道が与えられているということだと受け止めました。神に背を向けていた自分自身が、神のまなざしに促されて再び神と向き合う時が与えられるということ、今日の旧約聖書であるイザヤ書に、私は病を負っているという人はいないと書かれているのは、神のまなざしに私たちが応える時に、私たちはその視線からそれたような生き方を、あえて歩まなくても済むような喜びがあるということなのだと、私は受け止めました。もちろん、私たちは神と見つめ合うことから、無意識のうちに、そして意識的に離れてしまうこともあります。しかし、私を見つめてくださる神がおられるからこそ、そこに帰る、戻ることができるのだと言うのです。
 
そのことが、新約聖書・ヨハネ黙示録では、王であり救い主イエスが「死と陰府(よみ)の鍵を持つ」権威者として描かれています。罪の結果は死であり、罪の象徴が闇であることに連動して、死の象徴が陰府であると言えます。イエスも陰府にくだられ、三日三晩の後に復活の命をもってよみがえられました。よみがえりとは「陰府帰り」であり、死と陰府の鍵をお持ちであるイエスは、私たちに復活の命の道を与えることで、神と向き合うことの幸いへと私たちを導いてくださる。今日の聖書の言葉から私たちはそんなことを読み解くことができるのではないかと、受け止めることができました。
 
今日は日曜日。一週間の始まりがまたよみがえってきました。主イエスのご復活を喜ぶこの日曜日のひと時が、神との出会い、神のまなざしを受けつつ、神と見つめ合う喜びの時でありますように。お祈りいたします。

14/09/2023

2023.9.14(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編103編13節
父が子らに憐れみをもたらすように
主を畏れる者らに憐れみをもたらす。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章11節
あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日は、毎日「アシュラムセンター」で行われている早天祈祷会に出席してまいりました。毎日聖書を1章ずつ読んでいますが、今日は出エジプト記29章より、主幹牧師の榎本恵先生から御言葉の説き明かしがありました。神の語りかけによって、単なる物、そして肉体は献げられ、そして神によって聖別されていく姿というものに、あらためて気づかされるひと時をもつことができました。感謝です。
 
そんな祈祷会を経て、今日選ばれた御言葉に触れました。私たち人間という存在、そして肉体を持つ私たちの姿とはどういうものなのだろうか。そこには神がわが子を憐れむように、私たちひとりひとりを深く憐れんでくださるという、詩編の言葉につながっていくことを感じます。聖別されるとは、私たちが清くなるための努力の結果なのではなく、罪に汚れた私たちに、神が深い憐れみを掛けてくださる結果として、清くされていくことなのだと。そんなことを想わされます。つまり清くあることとの大前提として、神の憐れみがあるということなのだと。
 
そのことが、イエスの言葉に直結します。悪い者であることを分かっていながらも、父は子に良いものをお与えになるように、神もまた、私たちが「清くありたい」と思うところにこそ、私たちに良いものを与え、聖さをも与えてくださるのだと、イエスは弟子たちに、そして私たちに語りかけてくださるのだと。まさに、本日のアシュラム早天祈祷会で触れられた聖書の言葉に相通じると感じさせられました。
 
イエスは「清くなりたいか」という言葉を、病で苦しむ人々に語りかけられました。そうありたいとの願いと求めに、イエスは答えられました。この語り掛けに「はい!」と応える者でありたい。そんなことを想わされた次第です。
 
どうぞ今日の一日も、聖書の言葉と聖霊の助けによって語りかけられる神の声に、心から応える者でありますように。皆さんの主にある守りと祝福をお祈りいたします。

13/09/2023

2023.9.13(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編22編23節
私は集会の中であなたを賛美しよう。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章22節
弟子たちのためのイエスの祈り:
あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日は黙想の配信が夕方近くになってしまいました。私が協力牧師を務めている、宗教法人アシュラムセンターの運営委員会へ出席するため、今日と明日は近江八幡へ滞在しています。静かな環境のなかで、与えられた時を過ごすことができるのは、本当にありがたいです。午前中に移動でしたので、午後は「シメオン黙想の家」で、静かな時を過ごしていました。この場所で、今日与えられた聖書の言葉をあれこれ黙想していました。
 
今日選ばれたローズンゲンは、旧約聖書・詩編22編の言葉でした。集会のなかで私は神を賛美しようと、詩人は歌っています。ここで詩人が用いている「集会」とは、原語であるヘブライ語で「カーハール」という単語が用いられています。まさに集会と訳すことのできる言葉なのですが、これが新約聖書においては「エクレーシア」というギリシア語がカーハールと同じ意味として用いられています。つまり「教会」と訳している日本語です。
 
しかし、エクレーシアの語をより的確に訳すならば、教会よりも「集会」のほうが、やはりふさわしいと私は思います。神に集められた人たちによる信仰共同体こそ、カーハールでありエクレーシアであるというのです。もちろん、そこで神の教えをいただくという意味では教会という語の意味を現わしているのかもしれませんが、教会がそれよりも大切にしたいのは、神によって集められた共同体であるということなのだと、今日のローズンゲンに示された「集会」という言葉は表しているのだと思わされました。
 
そして、その共同体とはいったい何なのか。イエスが十字架につけられる前の晩、弟子たちとの晩餐を終え、イエスが父なる神に祈るその言葉から、イエスの望みというものを知らされます。イエスと神が一つであるように、私たちイエスの弟子たちもまた、神によって一つにさせられた「キリストの体」なのだと。これがイエスによる祈りの言葉であり、神に願っている期待なのだと。
 
ここで言う一つとは、ロボットのように一様にということではなく、いろいろな個性や賜物が与えられつつ、その個性や賜物のそれぞれが大切にされていくなかで、互いに生かし合うような形で、ひとりの神によって集められている事実を神の御業と信じる群れのことを指します。個性や賜物という小異はあれど、キリストを神とする点では大同である。そこにエクレーシアの魅力というものがあるような気がしてならないのです。
 
そのような教会の持つ魅力を、いかに信じ、神の助けをいただき続けていくか。エクレーシアに属する者として、そんなことを具体的にイメージしながら、教会に仕える者でありたいと願わされました。教会の肢とされているひとりひとりが、そのような思いをもって教会に集められていくならば、この世界にあって、神が集められた信仰共同体は、本当に魅力あるものとなるのだろうなと思います。
 
皆さんの集められた信仰共同体、集会のなかで、神によって良いものが与えられて、キリストにあって個性や賜物が十分に活かされますように。お祈りいたします。

12/09/2023

2023.9.12(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記19章4節
主の言葉:
私があなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙10章35節
自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日私たちのために選ばれた聖書の言葉を通して、特に新約聖書の言葉であるヘブライ人への手紙10章に示されている「自分の確信」とは何かということについて、少し考えてみたいと思いました。
 
私たちにとって「自分の確信」とは何でしょうか。世の中一般にとって言われている確信とは、自分自身が得た経験や知識に基づいていることがほとんどです。ですから、これが自分自身にとって「良い」と思ったことが確信となっていくのを、私たちは自分自身の出来事として知っているはずなのです。
 
しかし、よく考えてみると、それはあくまで「私がそう思っているに過ぎない」という場合がほとんどなのかもしれません。同意してくれる人が複数集まったら、その確信はさらなる確信へとつながっていくでしょう。また、発言力や影響力のある人、押しの強い、つまり強引に物事を勧めようとする人たちにとっての確信は、もっともらしく聞こえるかもしれませんが、やはり「それって、あなたの感想ですよね?」と、いつしか「論破王」と言われるようになったある人の言葉をそのまま使いたくなるようなこともあるわけです。
 
ですから、私たちは、自分が得た確信の「根拠」が何であるかを、明確にしておく必要があると私は思うのです。宗教の言葉を使うと最強になります。しかし、その宗教の言葉は、本当に神の思いや願い、つまり「御心」に基づいたものなのかを、真摯に、そして謙遜に検証して、根拠を明確にしなければならないと、自戒を込めて思わされます。でないと、私たちは簡単に、神を利用してしまう。「十戒」の第3戒には「神の名をみだりに唱えてはならない」というものがありますが、その真意は「神の名を利用して、己の願望を果たそうとすること」への警告なのだと、私は受け止めたいのです。
 
では、私たちにとっての確信の根拠とは何か。それが、今日の旧約聖書にある出エジプト記の言葉に尽きるのではないかと思うのです。「私があなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た」と。つまり、神がいついかなる時も、私たちを鷲の翼に乗せて、私たちを守ってくださったということへの確信なのです。つまり、神が私たちの中心に立って、私たちを守ってくださるというこの言葉は、私が中心に立つための確信ではなく、神が私たちの中心に立たれることへの確信なのです。だから、私たちはつねに、神が中心に立たれたうえで、では、神は何を私たちのために果たそうとしているのだろうかということを、根拠を尋ね求めながら、誠意をもって信仰者としての生活を営むことなのだと、私は受け止めました。
 
今日の一日もまた、神の豊かな御手に守られながら、神を真ん中に立てたうえで、確信を高めていくことができますように。お祈りいたします。

11/09/2023

2023.9.11(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編118編8節
主のもとに逃れるほうが
人間に頼るよりもよい。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二4章16~17節
パウロの手紙:
私の最初の弁明の際には、誰も助けてくれず、皆私を見捨てました。どうか、そのことで彼らが責められることがありませんように。しかし、主はそばにいて、私を強めてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
22年前の今日、アメリカで同時多発テロが起きました。当時、私は神学生でしたが、台風のために休校となった神学校の寮で、テレビにかじりつきながら、にわかに信じがたいこのニュースを観ていたことを思い出します。人が人に対して刃(やいば)を向けることの恐ろしさというものを、感じずにはいられません。そして、このテロが「神の名のもとになされた」ことにも、衝撃を隠すことができませんでした。神の言葉をいただき、それを扱う者としての責任というものを、決して他人事にはせず、自分自身が取り組んでいかなければならないことなのだ。そう思わされたのです。
 
そのような思いのなかで、今日与えられた聖書の言葉は、まさに人間の力に頼るのではなく、あくまで神に頼ることの大切さというものを想わされます。しかし、人間の力はたびたび、神の権威を利用して悪さすることがあります。アメリカ同時多発テロにともなう「神の名のもとに」行われたその後の報復は、本当に神の名のもとに行われるべきものなのだろうかと、ただ首をかしげてしまうばかりなのです。
 
人間は権力を持つとろくなことをしない。言い過ぎかもしれませんが、それが歴史を通して示された現実です。権力者は自分の願望を果たすために、持たされた権力を利用してさも正義をともなった、正当に物事を進めているような顔をして、神の御心を問わなくなってしまう。私も自己批判をともないながら、常に考え続けたいことです。簡単に神を利用しないように、しかし、神こそ私たちが心から頼るべき御方なのだということを希望にして、日々の生活を営みたいのです。
 
パウロは、たとえ人間が私のことを味方してくれなくても、主なる神がすべてご存知なうえで、その御心によって私を支えてくれていると述べました。私はここにこそ真理があると思います。権力におしつぶされてしまうような時にこそ、真理というものがどこにあるかが見えてきます。もちろんそれは、神を利用して悪さを働いていない場合に限ることではありますが、孤立無援のときにこそ、神が知恵と力を働かせる時がやって来る。これを希望としたいのです。神の放たれる真理をきちんと私のなかにスペースとして保っておきたい。そう思わされるのです。
 
パウロは、自分のことを味方してくれない人のことをうらみませんでした。そのことで彼らが責められることがありませんようにと、神に祈っています。まるで、イエスが十字架に架けられたときに、自分をののしる相手に対して神に赦しを乞うたあのシーンに重なります。私はついついうらんでしまいたくなります。だからこそ、このパウロの態度には驚きつつも、人に視線を集中するのではなく、あくまで神に目を注ぐことを大切にしたい。そう思わされたのでした。
 
どうか、今日の一日が、そのような神のなさる御心を尋ね求めつつ、神を利用しない思いで過ごすことができますようにと祈ります。皆さんの一日に、神からの平安と祝福が、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。

10/09/2023

2023.9.10(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記41章52節
神は、苦難の地で私に子孫を増やしてくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章3~4節
私たちは苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
新しい一週間を迎えました。この一週間で、猛暑のような残暑も少しずつ和らいで、秋の装いをところどころに感じられるようになった気がします。こうして秋が少しずつ近づいてくるのが嬉しくなってくる朝を迎えました。
先の台風では、多少なりとも被害が発生し、お亡くなりになられた方もおられます。被害に遭われた方々に神の慰めと励ましをお祈りいたします。
 
さて、数々の苦しみのなかにあって、私たちは決して神に見離されることなく、将来のために何かを伝え、教え、与えてくださることを、今日のふたつの聖句は示しているのだと私は受け止めました。
 
旧約聖書は、兄たちによってエジプトの地に売り飛ばされたヨセフが、その頃から味わった多くの人生の苦難があったのにもかかわらず、神がヨセフを見捨てず、幸いと祝福を与えてくださった。彼にエフライムと名付けられた子どもが与えられたときに、神は苦難の地で、私に子孫を増やしてくださったと、神に感謝を向けています。子孫を増やすというのは、別な聖書では「成長させてくださった」と訳しているのもあります。苦しみのなかにあっても、必ず神は、成長ともなるような何かを与えてくださるのだと。これはもちろん、後になって振り返ったときに分かることであり、いわゆる「後付けの摂理」に他ならないわけですが、そのことに気づくことのできる幸いというものがあることを、私はこの聖書の言葉からあらためて受け取ることができました。
 
新約聖書では、パウロによって語られた「苦難から忍耐、忍耐から品格、品格が希望を生む」という、有名なローマ書の聖句が選ばれています。私は、聖書協会共同訳になってから、これまで「練達」と訳していた語が「品格」となって、とても明快になったと思えてなりません。苦しみや忍耐を経て、神がその人に成長ともなるような品格を与えてくださるのだと。品格は自分自身でつくり上げるのではなく、あくまで神から与えられるものであるというのです。練達というと、自分の鍛錬によってというイメージも起きるかもしれませんが、そうではないということを想い起こさせます。
 
たとえ苦しみが私の日々を襲っても、それに苦しみや痛みを感じることがあったとしても、神は必ずそれすら無駄になさらないで、今日、そして明日への一歩を与えてくださる。そのことに希望を託して歩みたいと願わされました。
 
どうか新しい一週間のさきがけとなるこの一日もまた、多くの祝福と幸いが素晴らしい品格へと変えられる時でありますように。お祈りいたします。

09/09/2023

2023.9.9(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編105編8節
主は心に留められる
主の契約をとこしえに
命じた言葉を幾千代に

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙11章29節
神の賜物と招きは取り消されることがありません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この7日間の旅路を、皆さんはどのように過ごされたでしょうか。私はあっという間に過ぎてしまったという印象を特に抱かされた1週間でした。そのようななかで、今日は一日教会のなかで、明日の礼拝の備えの時を持ちたいと思っています。どうぞ皆さんにとっても、良い一日となりましょうに。
 
さて、神の約束は取り消されることはないというテーマを、今日の旧約・新約聖書で、私たちに伝えていると私は受け止めました。神は滅びのためではなく、あくまで生かすために私たちに向き合ってくださるというのです。契約を永遠なるものとしてくださる、その契約を破棄されることはない。私たち人間同士の世界ではありえないことだと思います。契約違反があったら、その契約が破棄されることがこの世のルールだからです。
 
しかし、神は私たち人間に対してはそうではない。私たちがたとえ神に不義理を働いても、いや、どんなに不義理を働いても、神はそのたびごとに私たちのあり様というものを気づかさせてくださり、悔い改めの道を与えてくださるのだと。悔い改めとは「思い直し」と言っても良いかもしれません。こうして繰り返し私たちは方向転換して、軌道修正することで、神との永遠の関係性を自覚することができるのかもしれません。
 
だからこそ、私たちにそのような神が与えられていることを感謝したい。あらためてそのように思わされました。滅びや呪いを強調するのではなく、あくまで神が私たちを忍耐と喜びをもって取り扱ってくださることを、私は明日の礼拝の備えの真ん中において、一日を過ごしたいと思わされました。
 
皆さんの主にある幸いと守りを、お祈りいたします。

08/09/2023

2023.9.8(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書26章19節
あなたの死者は生き返る。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙12章1節
私たちもまた、このように多くの証人に雲のように囲まれているのですから、すべての重荷や絡みつく罪を捨てようではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに選ばれた聖書の言葉を通して、昨日あったことを思い巡らせていました。牧師代務をしている教会に連なる信徒さんが天に召されたという報せをいただき、葬儀のための準備を始めていたところでした。人間がいつかは必ず迎えることになる「死」というものを、あらためてどのようにとらえ、受け止めることができるだろうか。葬儀の機会のたびに、そんなことを思わされるのです。
 
私は、お亡くなりになられたその方とは一度もお目にかかったこともありませんでしたし、その方がどのような人生を歩んでこられ、どのような人との交流があったかも、昨日少し伺った以外は、ほとんど知ることはありませでした。しかし、ひとつだけ確かに言えることは、この方の人生は神によって祝福され、しっかりと守られ、神を介して教会での素敵な交流が与えられていた、ということでした。まさに、その生きざまというものが人を通して、私のような者にも伝えられているのだということを思わされたのです。
 
今日の新約聖書・ヘブライ人への手紙12章の言葉は、その前の11章から始まる「信仰とは」というテーマに続いて、これまで歩んできた数々の信仰の先達たちについて述べられている箇所です。今日の聖書の言葉で「多くの証人」とつづられているのがそうです。これらひとりひとりの信仰者の生きざまがバトンのように渡されていって、今日生きる私たちに継承されているのだというのです。そのバトンリレーが、私たちの今日生きるこの世の中で、いろいろなしがらみを受けながらも、人生のレースを走り抜こうではないかと、この手紙のなかに勧められています。
 
思い起こされるたびに、死んだ者をも神は記憶のなかに、また信仰者の列伝のなかで生かしてくださる。これも広く言えば、復活に希望を寄せる者が味わうことのできる醍醐味なのかもしれません。その延長線上に、今日の私がいることを思わされます。
 
どうか、今日一日もまた、神によって命がつながれていることの喜びを味わうときでありますように。お祈りいたします。

07/09/2023

2023.9.7(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌下18章4節
どうかまず主の言葉を伺ってみてください。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二3章14節
あなたは、自分が学んで確信した事柄にとどまっていなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日の仙台は、豪雨に見舞われた一日でしたが、夜が明けて青空が広がる朝となりました。今日も一日、神の守りと祝福に希望を持ちつつ、過ごしてまいりたいと思います。
 
さて、今日の旧新約聖書を貫くテーマは「御言葉に聴く」であると、私は受け止めました。
 
昨日、私が務めています代務教会の聖書研究会は、申命記6章でした。有名な申命記6章4節の言葉がすぐに思い浮かびます。
 
申命記6章4節
聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。
 
聞け(シェマー!)と、最晩年のモーセはイスラエルの民に呼びかけました。何に聞くのかと言えば、主の発せられる言葉に聞く。つまり「みことばに聴く」のであって、それは、今日の旧約聖書の言葉である、歴代誌下18章4節に相通じるのだと私は思います。
 
私たちの神、主(ヤハウェ)は唯一の主(ヤハウェ)であると。とても面白い表現だと思いました。私たちの神であるヤハウェは、ただ一人のヤハウェであると。つまり、ヤハウェ以外にヤハウェなるものは誰もいないのだと。私たちとともにいてくださり、私たちの神となってくださるのは、ヤハウェその御方だけなのだと。この方の言葉に、私たちは聴くことができるのです。
 
だから、私たちは常に神であるヤハウェに伺い、その言葉に耳と心を傾けることができるのです。それも一時ではなく、繰り返し繰り返し、神の御言葉に聴き続けることができるのだというのです。今日の新約聖書である、第二テモテ3章のなかに「とどまっていなさい」という言葉を見つけることができます。この言葉は言語のギリシア語でも「とどまる」という意味の言葉が用いられていますが、「宿す」とも訳すことのできる言葉です。
 
かつて、イエスが徴税人ザアカイの名を呼び、あなたの家に泊まりたいと言われました。泊まるという言葉は宿すことであり、とどまることである。皆同じ言葉が用いられているのです。つまり、神の言葉に聞き、学び、理解したことにとどまるというのは、神を心のうちに宿すことであり、イエスを私たちの心に宿っていただき、とどまっていただくことなのだと。
 
神の言葉に聴き、心に宿らせとどまらせつつ、主に従う生活。これこそ「聴従の生活」なのだと受け止めました。そんな生活を今日の一日もまた営めることの喜びを味わいたいと願わされました。皆さんの一日にも、言葉をもってとどまってくださる神の祝福が、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。

06/09/2023

2023.9.6(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書8章16節
互いに真実を語り
あなたがたの門で真実と平和の裁きを行え。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙14章19節
平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、こんばんは。
今日のローズンゲン黙想は、夕方の配信となってしまいました。朝は前日の疲れが少し残っていましたので、長めに休んで一日を開始しました。しなければならないことがいくつかありましたので、この時間での配信となりました。申し訳ありません。
 
そして、私事ではありますが、今日誕生日を迎えました。47歳を迎えました。朝からSNSや教会、そして家族からもお祝いの言葉をいただいて、新しい一年を迎える者として、気持ち新たに、しかし気を引き締めながら与えられる日々を過ごしてまいりたいと思いました。
 
そんな気持ちをもって、今日の聖書の言葉に聴きたいと思いました。今日の旧新約を貫く聖書の言葉におけるテーマは「平和」であると私は受け止めました。神が与えられる平和によって、私はその平和を用いつつ、平和をつくり出す者としてこの世界で生きるのだと、決意を求められているのだと感じます。
 
そこで、今日の聖書の言葉から、平和をつくり出す者として、是非肝に銘じたいことをいくつか取り上げたいと思いました。
 
まず一点目。平和とは相手が平和を味わってこそ、初めて成り立つ言葉であるということです。自分だけが平和だと思っていても、相手が平和でなければ、それは偽善的な平和になってしまうのだと。今日の新約聖書であるローマの信徒への手紙に書かれていることは「互いに築き上げるのに」という言葉があるのは、とても興味深いことだと思います。
 
平和とは、平和を願う相手がいて、その相手と建設的に働くものなのだということを思わされます。互いに平和を感じられるような言葉や行いのやり取りができれば、そこにはおのずと良き協力が神によって生み出されていくことを、是非期待したいのです。だからこそ、私たちの間に立たれる神が、私たちの心を導かれることをただ祈り、その御心に聴きながら、行動する者でありたいと願わされます。
 
二点目に、平和とは神の真実の上に成り立つものであって、神の真実無しに平和はあり得ないということです。神の真実とはなんだろうか。そんなことを考えるときに、やはり神がご自身の大いなる犠牲をもって、御子イエスを救い主として差し出してくださったアガペーによる愛に他ならないのだと私は思うのです。平和とは、愛に基づいた犠牲のうえに初めて成り立つことであって、その犠牲に、どれだけ自分自身が立つことができるのだろうか。そんなことを日々考えながら、アガペーに基づいた平和を願う者でありたいと思わされます。
 
相手に対する深い関心、そして神の愛が注がれていくことへの具体的なイメージに基づいて、それを共有できることへの実感というものを大切にしたい。そんな一年間を過ごしてまいりたいと思いました。
 
今日も日暮れて、夜がやってきます。どうぞ皆さんの夜のひと時に、神の愛に基づいた平和がともに、そして豊かにありますように。お祈りいたします。

05/09/2023

2023.9.5(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書44章22節
私はあなたの背きの罪を雲のように
罪を霧のようにかき消した。
私に立ち帰れ。私があなたを贖ったからだ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙2章14節
数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日の旧約・新約ふたつの聖書の言葉から共通するテーマは「帳消し」であると、私は受け止めました。借金という重荷が帳消しにされる。そして生活が楽になる。これは人間ならば、誰でも経験することなのではないでしょうか。
 
昨日、場をともにした私の友人がこのようなことを言っていました。「その人は生活が苦しいことで将来が不安だったが、臨時的に収入が入ったおかげで「、その後の生活が安定して、表情まで明るくなった」と。これは借金が帳消しになった話ではありませんが、経済的な重荷から解放されるというのは、人間に喜びを与えるものなのだということを、如実に知らせるものなのだと思わされたのです。
 
私たちも負いきれない重荷というものを抱えて生きています。経済的なことだけではありません。健康の問題、人間関係の問題、社会の問題、幸福や平和の問題など、問題を数え上げれば枚挙にいとまがありません。いくらでも出てくるのです。それはまるで、今日の聖書の言葉にもあるように、自分にとって不利な規則によってがんじがらめにされて、また借用書が一枚、そしてまた一枚とかさんでくるような心境なのでしょう。
 
しかし、それを破棄し、帳消しにして、いつでも元にあったところへ戻って来なさいと、私たちを招いてくださる方がおられる。それが私たちの神なのだと。雲や霧はいつかは晴れるです。神はその晴れ間を準備してくださるのだと、こう私たちに訴えておられるのです。そして、それは具体的に、イエス・キリストによる十字架上での命の犠牲が、私たちを生かすための引き換え金となったと、それで帳消しになって私たちは負債から解放されたのだと、手紙に書き綴られています。
 
私たちには重荷があるし、それを背負い続けねばならないような状況がある。しかし、それを取り除いてくださる神が、今日も私たちを招いてくださる。この招きに応じて、今日も生きることのできる幸いを味わってまいりたいと願います。皆さんの一日にも、罪という縄目を解き放ってくださる神がともにおられ、皆さんに平和を与えてくださいますように。お祈りいたします。

04/09/2023

2023.9.4(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編42編7節
わが神よ。
私の内で魂は打ち沈み、あなたを思い起こす。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章18節
私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
主の日の1日をそれぞれが過ごされて、ウィークデイの日々をお迎えになられたと思います。今週はどのような一週間が、私たちの前に準備されているのでしょうか。その旅路を歩む者として、今日与えられた聖書の言葉をいしずえにしてまいりたいと願いつつ、黙想してみたいと思います。
 
今日の旧約聖書である詩編42編7節。詩編42編といえば、谷川を流れる鹿のように私の魂はあえぎ求める、、、の言い出しから始まる、人間の苦悩から神を求める私たち人間の心を歌ったものであることを想い起こされるかもしれません。今日の聖句である7節でも、詩人はそう歌っているのです。私の魂は打ち沈むと(ほかの聖書では「うなだれる」と訳されています)。
 
しかし、詩人はこう続けます。「私はあなたを思い起こす」と。打ち沈み、うなだれる時にあって神を思い起こすのは、そこに希望を感じるからです。のどの渇きを癒すように、神を猛烈に慕い求める詩人。希望を託して今日の一日を歩みたいと、心から願うのです。そのような詩人の願いに、神は応えられます。
 
今日の新約聖書の言葉であるヨハネ福音書14章は、いわゆるイエスによる「告別説教」として知られる冒頭部分の一節です。イエスがどこかに行ってしまうのではないかと不安に陥れられる弟子たちを前に、イエスはひと言、そしてひと言丁寧に弟子たちに語られました。そして、こう宣言されます。私はあなたをみなしごにはしておかないと。
 
神は、私たちの慕い求めには必ず絶妙のタイミングをもって応えてくださるのだと宣言され、約束されるのです。この約束の言葉に、私たちは希望を感じ、それを受け入れる者とさせられるのだと言うのです。
 
本日の「第3のテキスト(ローズンゲン原版)」にあったのは、ドイツのジャーナリストであり、シンガソングライターであるクリストフ・ツェーンドナーによる言葉です。彼はこのようにうたいます。「私たちの旅は荒れ果てたものではありません。私たちは孤独ではないのです。神はずっと前から、私たちのそばにいたいと決めておられたのです」。
 
皆さんの一日に、神様からの豊かな守りと祝福がありますように。お祈りいたします。

03/09/2023

2023.9.3(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書63章15節
天から見下ろし
聖なる美しいお住まいから御覧ください。
あなたの熱情と力強い御業はどこにあるのですか。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙5章5節
私たちは、霊により、信仰に基づいて義とされる希望を、心から待ち望んでいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。その先駆けとしての主の日を、そして、主の日に行われる礼拝のすべてが、祝福のうちにありますように。心からお祈りいたします。
 
さて、今日選ばれた聖書の言葉ですが、旧約聖書イザヤ書の終盤部分にある問いかけのひと言に、私たちは注目することができます。「あなたの熱情と力強い御業はどこにあるのですか」と、神に問いかける預言者の姿があります。
 
あなたの熱情とはなんでしょうか。神が人に向けられる熱情とは、40年間における荒野の旅路を、あきらめることなく見捨てることなく、人々を祝福へと導いてくださった神の思いに由来します。ねたむまでに人を愛してくださるその神の愛が、私たちすべてに及ぶというのです。
 
しかし、その熱情が見えない、神の力強いその御業を実感することができないとき、私たちは嘆くのです。不安になり、苦しむのです。そして、訴えます。神様、あなたの愛と御業はどこにあるのですかと。いつまで苦しまなければならないのですかと。
 
夢も希望もないような世界のなかで、しかし、神は希望を必ずや与えてくださると。今日の新約聖書の言葉は、明らかに私たちに神がイエス・キリストという実態をともなって、生きる希望と喜びを与えてくださることを想い起こさせてくださるのです。
 
今日の新約聖書・ガラテヤ書の「霊により、信仰に基づいて義とされる希望」とはなんでしょうか。聖霊がくださる働きによって、私たちはイエス・キリストという「信仰の実体」をいただいた者として、イエスの姿から見ることのできる正しさという「信仰の根拠」があるからこそ、希望を抱くことができるのだというのです。
 
自分自身のなかで努力して信仰や希望というものを勝ち取るのではないのです。しかし、私たちはどうしても自己努力でそれを勝ち取ろうとします。だから、疲れ果ててしまうのですし、神にその思いを訴えようとします。それが私たち人間の現実ですから、神に訴える事自体、それが悪いことではないし、そういう自分自身がいることを受け止めるのも大切です。
 
しかし、そこを超越して働く信仰の実体であるイエス・キリストが、その根拠となる愛を私たちに見せてくださり、その愛を与えてくださる。そこにこそ希望があることを受け入れて、今日の一日を歩みたいと願わされました。皆さんの一日にも、イエス・キリストによる希望があふれんばかりにありますように。お祈りいたします。

02/09/2023

2023.9.2(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記23章1節
あなたは根も葉もない噂を流してはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章25節
ですから、偽りを捨て、一人一人が隣人に真実を語りなさい。私たちは互いに体の部分だからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
夏休みも終わり、今日から再始動です。引き続き「ローズンゲン」を通して、御言葉を中心とした皆さんとの交わりができることを楽しみにしたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
 
さて、今日の聖句ですが、旧約聖書と新約聖書を貫くテーマは「偽ること」についてであると、私は受け止めました。そして、旧約聖書では、いわゆるモーセ律法と呼ばれているものの一節として、「根も葉もない噂を流してはならない」という言葉が選ばれています。
 
シャーデンフロイデ(Schadenfreude)というドイツ語があります。人が不幸な目に遭うのを見聞きすると、なぜか喜んでしまうような状態のことを指します。「人の不幸は蜜の味」なんていう日本語が、それにあたると思います。ドイツでも日本でも、こういう人間の習性というものは同じなのだなと思わされます。
 
そして、そのようなシャーデンフロイデを助長するものとして、人の口から発する「噂」があるのだと、改めて思わされました。芸能ニュースなどが典型的な例と言えるのかもしれません。人の不幸に関心を寄せ、なぜか喜んでしまう。だから、そのようななかで繰り広げられる噂はとどまることを知らないし、なぜかありもしないようなことなどが世の中に「フェイクニュース」として広まっていく。そこにあるのは、そこに喜んで飛びついてしまう人間の関心なのだと。
 
悪い噂は、一時は人の興味関心を惹き、喜ばせるかもしれません。しかし、そこに起きるのは、平和ではありません。むしろ分裂、断絶によって起こる人の傷つけ合いなのだと思えてなりません。根も葉もないという言葉が真実となっていく姿を見るのは堪えないし、そんなことがあってはならないのです。まさに「神の愛」に欠けた行為なのだと、私は今日の聖句を通して想わされました。
 
では、私たちの語るべき真実とはいったい何か。それは、神の愛が自分自身のゆがんだ心でねじ曲げられることなく、神の愛として隣人へ伝えられ、分かち合われていくことなのだと。少なくとも相手を貶めるための材料として、自分のなかに起きている嫉妬心や鬱憤を晴らしたいという気持ちから、噂のようなもの、ひいてはフェイクニュースを流すようであるならば、世の中は決して平和にはならないのです。
 
そのような真実を、今日も語りたい。これが今日の黙想から得た結論です。明日迎える主の日に向けての備えが、神の愛に支えられ、それに基づいた言葉をつむぐ者でありたいと願います。皆さんの一日にも、神の愛がともに、豊かにあることを心からお祈りいたします。