31/10/2022

2022.10.31(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書22章3節
公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章9節
愛には偽りがあってはなりません。悪を退け、善に親しみなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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今日選ばれたふたつの聖書の言葉を通して、あらためて考えさせられたこと。それは、いわゆる「カルト宗教対策」の目的に相通じるところがあると、強く感じさせらたのです。
 
私自身がカルト宗教出身者ということもあって、20数年前に教会の門を叩いて以来、クリスチャンに、そして牧師になっていく過程でつねに意識していたのは、カルトで経験したことを繰り返さないために、何が私にできるのだろうか、という問いでした。その問いは、今も問いとして続いている、私の一生涯の課題のようにも思えます。
 
特に、7月に起きた安倍元首相銃撃事件以降、世間を騒がせ続けているカルト宗教問題と、その犠牲となり続けている方々に直接・間接的に接する機会が与えられているわけですが、そういう方々に向き合い、またカルトという社会悪に立ち向かっていく根拠というものを、あらためて考えさせられている次第です。
 
私は、今日の聖書の言葉を通して思わされるのは「神が望んでいないことを、さも神が望んでいるかのように振る舞い、神が人に与えてくださった大切なものを奪い取り、虐げてはいないだろうか」ということです。それが、今日の旧約聖書に示されたメッセージなのだろうと受け止めました。
 
公義と正義、とあります。私たちはついつい自分の正義で社会悪と戦おうとしてしまうことがあるかもしれません。しかし、私自身を根拠とする正義は、非常に不安定で、脆弱で、気まぐれで、その場限りであったりします。これは私の経験からですが、私の良心によってつくりあげられた正義心というものが、神の放たれる正義や公義というものに、どれだけ沿ったものなのかを、十分熟慮しなければ、私自身もいつしか搾取し、虐待する側の人間になってしまうかもしれない。そう思ったのです。
 
愛には偽りがあってはならない。今日の新約聖書のことばです。ここで言う愛とは神の愛、アガペーの愛を指すわけですが、自分の利益を優先的に求めないアガペーの愛に偽りなく私自身が受け入れていくことの大切さと幸いというものを、今日胸に刻みながら、手の内に握りしめながら歩んでいきたいと願わされました。
 
主の日が終わり、今週もいろいろなことが動き始めます。神の正義と公義が十分にあふれた愛が、この世界を動かす原動力となり、私たちを支える源となりますように。お祈りいたします。

30/10/2022

2022.10.30主日礼拝説教|史上最高額の身代金|齋藤篤牧師

聖書 マタイによる福音書20章20~28節
 
世の中のあらゆるしがらみに誘拐され、がんじがらめにされた私たち。そんな私たちのために自ら身代金となられるイエスがおられる。「贖い」という言葉に意味について、御言葉から聴きました。
 


2022.10.30(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編84編12節
神である主は太陽、盾。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書4章40節
イエスは(弟子たちに)言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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今日の新約聖書の言葉として選ばれたのは、イエスが「向こう岸に渡ろう」との言葉によって、弟子たちとともに舟に乗り込んだときに、嵐が容赦なく彼らを襲い、その嵐におびえる弟子たちをよそに、イエスがその嵐を鎮められたという出来事のあとで、イエスが弟子たちに語られたひと言です。
 
弟子たちは、自然をも制することのできる自分の師匠とは何者かと、大きな恐れの気持ちを抱きました。それは恐怖でしょうか、それとも畏敬の念でしょうか。間違いなく、弟子たちの心にあったのは恐怖でした。だからこそ、イエスは弟子たちに問われたのでした。なぜ怖がるのかと。
 
イエスは続けます。まだ信仰がないのかと。実は、弟子たちはすでにイエスという信仰の実体が与えられていて、それだけでなく、その信仰の実体と寝食をともにしていたのですから、彼らには信仰がないはずがありません。しかし、彼らはイエスから、まだ信仰がないのかと問われたのでした。超自然的な力を「信仰の実体であることの証明」として見せられた後でです。
 
ここで私は、あらためて考えさせられました。私自身、イエスから信仰をいただいたけれど、その信仰を私自身の「盾」と本当にしているだろうか。ここで、今日の旧約聖書の言葉に思いが募ります。神なる私たちの主は、私たちの盾となってくださる方だと。
 
あらゆる攻撃から身を守るために、盾はあります。その盾は、何か支給品のように与えられるのではなく、また、私たちがより良い盾を求めて武具店に行くのでもなく、神御自身が私たちの盾となって働いてくださる。たんなる物ではなく、私たちの必要をすべて御存知である方が、ご自分の人格をもって私たちを守り抜いてくださるのだと言うのです。
 
イエスが言われた「まだ信仰がないのか」というひと言は、どんな恐れるときにも、この私がいるではないか。この私があなたを守るではないか。そんな気付きを私たちに与えてくれる、イエス御自身の確かな約束として受け止めたいのです。その約束を、イエスは私に、日々の営みのなかで証明してくださるのだと。
 
今日から始まる新しい一週間、そんな盾なる私たちの神が生きて働いてくださり、信仰の実体であるイエスが私たちとともにいてくださることを、生きる望みとすることができたら、どれだけ幸せなことだろうかと期待しながら、歩んでまいりたいと思います。皆さんの新しい一週間のすべてに、神の豊かな助けと守りがともにありますように。お祈りいたします。

29/10/2022

2022.10.29(土) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書49章13節
天よ、喜び歌え。地よ、喜べ。
山々よ、歓声を上げよ。
主がご自分の民を慰め
その苦しむ者を憐れまれるからだ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章3~4節
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日選ばれた旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「慰め」です。私たちを慰めてくださる神がおられるからこそ、私たち人間は喜びに満ちあふれることができるのだ。これが、神から信仰をいただいた者の告白の言葉として、聖書に収められています。
 
慰めは、悲しみに満ちあふれたときにこそ、私たち一人ひとりが必要とするものです。そして、悲しみは多くの場合孤独のなかにこそ訪れるものです。愛する誰かを失った時に、ともに歩んできた仲間が自分のもとから離れていった時など、私たちは悲しみや寂しさというものが募るため、孤独の苦しみを感じる。だからこそ、私たちは誰かから慰められたいのです。
 
聖書は一貫して、その慰め主は神であることを私たちに伝え続けています。私がたとえ孤独になったとしても、神は私のかたわらにいてくださり、私をしっかりと支えながら守ってくださる方なのだ。これが神のつとめを知る者が抱く希望です。イエスは自分が死に向かっていくときに、寂しさと悲しさに襲われた弟子たちに対して、私はあなたがたのために「弁護者」を遣わすと約束されました。この弁護者こそ、のちに弟子たちに与えられる聖霊なる神であり、聖霊がしばしば「慰め主なる聖霊なる神」と呼ばれるようになりました。聖霊の助けが私を孤独から解放してくださる働きを持つからです。
 
慰めは、見える形で人間の心や思いを通して働きます。聖霊の助けに満たされるというのは、まさに聖霊に込められた慰めをいただくということです。それは慰めを必要としている人ももちろんですが、慰めの担い手になる人も同様に、その場しのぎの慰めではなく、人を活かし続ける神の慰めを理解し、共有することができる。こういう連鎖が、世界を平和へと導くのだと私は改めて思わされた次第です。
 
一週間も最終日を迎えました。明日への備えの一日として、一週間を振り返ることのできる一日として、すべての面で私たちを慰めてくださる神が、私たちに親しく、ともにいてくださいますように。お祈りいたします。

28/10/2022

2022.10.28(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記31章13節
まだ(律法を)知らない子どもたちがこれを聞いて学ばせるように。
あなたがたの神、主を畏れるようになるためである。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙2章10~11節
すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和があります。神は人を分け隔てなさいません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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神は人を分け隔てなさいません。
 
今日は、この言葉に心惹かれました。あらためて私たちの神がどのような御方なのかについて、思いを寄せてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、律法のことばを聞かせる対象として「こども」が登場します。ここで登場するこどもとは、いわゆる「おとな」に対する存在としてのこどもなのではないか。私はそのように受け止めました。私たち「おとな」は、こどもたちに対して、どのような意識を抱いているでしょうか。
 
律法の言葉を学ばせるべき対象として、こどもの存在がある。今日の旧約聖書の言葉である申命記には、特にそのことが記載されています。つまり、おとなにとっての責任として、こどもたちに、届く言葉で、神の言葉をしっかりと伝え、こどもたちがそのことを理解するように育てることでした。神の言葉を理解するという点においては、実はおとなとこどものあいだに差というものは存在しない。私はそう思います。
 
まだこどもだから、まだ若いから。人生経験を積んだおとなたちは、そのようにこどもたちのことを一段低く見てはいないだろうか。そんな問いが、自戒のように突き刺さってくるのを私自身感じます。たしかに、おとなは人生経験を蓄積しているからこそ、幼年・青年層にはない熟練した知識を提供できるかもしれません。しかし、だからと言って、こどもたちの考えることを低く見る必要はどこにもないし、その理由もないということだと私は思います。若い人には若い人なりの良い感性があり、こどもたちの発想からは、大人が考えもつかないような、柔軟なものが発見されることなど、いくらでもあると私は思うのです。
 
大切なのは、おとなであろうがこどもであろうが、神が私たちに良いものを与えてくださるという点では、なんも変わりないということです。そこに差をつけるのは、私たち人間の悲しい性なのかもしれません。
 
神の良いものに生きる人ならば、本来神の民として選ばれたユダヤ人も、いわゆる異邦人として新たに神の救いの範疇に招かれたギリシア人にも、同様に、分け隔てなく、神は祝福をお与えくださる方なのだと。この意識を私たちが抱くときに、では、私たちのなかにある「差別しようとする意識」を、どのように捉えることができるのだろうか。そんなことを想いつつ、今日も神のなしてくださることを、心からの信頼をもって受け入れたいと願わされました。
 
すべてを善へと向かわせてくださる神の栄光が、皆さんの行く道を照らしてくださいますように。心よりお祈りいたします。

27/10/2022

2022.10.27(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記7章9節
あなたは、あなたの神、主こそ神であり、真実の神であることを知らなければならない。この方は、ご自分を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって契約と慈しみを守る。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙10章23節
約束してくださったのは真実な方なのですから、告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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告白した希望。本日の聖書の言葉に出会ったときに、真っ先に目に留まったのがこのひと言でした。私たちの抱く希望とは、いったいどのようなものなのかについて、あらためて思わされる機会となったような気がしています。
 
希望とは、私自身の力ではどうにもならないような出来事に遭遇したときにこそ、抱かされるものであると思っています。現実を見て、その壁の厚さと高さに圧倒され、打ちのめされそうになるのです。そして、こうつぶやきます。どうせ何をしたとて、変わることはないのだから。
 
そんなあきらめにも似た思いは、私自身の心にこう訴えるのです。波風立てず、現状維持のままでいれば、誰も傷つかないのだと。ただおだやかに過ごせば、それでいいじゃないか。見た目には平安な状態に見えるかもしれません。しかし、こういう生き方は希望に満ちあふれたものとは程遠いものなのだと思わされるのです。
 
神が与えてくださるものを見つめることで、私のうちに起きてくる希望とは、私の範囲内で何かが実現するような規模の小さいものではなく、私が想像だにしなかったことが、神の介入によって起きてくることを意味するのだと。それがどんなかたちで起きるかは、皆目見当もつかないでしょう。しかし、神の御心というものを知り、理解し、神がご自分の言葉と聖霊による助けを握りしめて生きるならば、神は必ずミラクルを起こしてくださるのだ。それに対する希望です。
 
私はその希望を告白します。しかし、その告白の脆弱さを痛感させられることも多々あるのです。ちょっとしたことでくじけ、つまづき、へこたれてしまう自分自身。希望のふた文字もどこかに消えてなくなってしまいそうな場面など、いくらでも存在するのです。告白した希望を携え、保ち続けていくことの難しさというものを感じさせられるのです。
 
しかし、そんな難しさのなかでも、今日という一日の時間軸のなかで希望のかけらを持ち続けていくことが、のちに必ず喜べる状態へと神が導いてくださるのだと。その神の導きを味わいたい。味わうために、今日一日もまた生きるのだと。
 
そのことを味わいたくて、今日も神が語ってくださる言葉に耳と心を傾けながら、立ち止まり、また進みつつ歩むことができますように。心よりお祈りいたします。

26/10/2022

2022.10.26(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編82編8節
神よ、立ち上がり、地を裁いてください。
あなたはすべての国民をご自分のものとされます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章17節
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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私たちにとって「神による裁き」とはいったい何なのか。今日のふたつの聖句を通して黙想させられたことです。
 
キリスト教の長い歴史のなかで、神の裁きをことさら強調することによって、正しい道へと帰って神とともに歩むことの大切さを説く伝道のスタイルというものは、確かに存在しました。時に、政情が不安定になったり、不況で人々の生活が苦境へと陥ったり、世界的な疫病や戦争が起きれば、必ずと言って良いほど、そのようなアプローチがあったことは歴史が証明しています。「今こそ、神の裁きを避けるために、神を信じれば救われる」のだと。
 
このことは、聖書にしたためられている預言者を通して、またイエスによって語られた「終末のしるし」と呼ばれる言葉の数々を通しても、そのようなアプロ―チがあったことを、私たちも認めることができます。しかし、だからこそ、私たちは考えたいのです。神の言葉を受け取り、それを運用する私たちの「心がまえ」というものをです。
 
裁きに限らず、恐怖をちらつかせることで、人は恐怖の被害者にならないために、裁きの執行者の意向に従うことが多々あります。滅ぼされないために、怒りを買わないために、私たちは何ができるだろうか、という発想です。これは一定の効果があることも確かです。しかし、それで本当に良いのだろうか。それが、神を信じる私たちの土台であって良いのだろうか。そう感じさせられるのです。
 
今日の新約聖書の言葉には、はっきりと神の目的というものについて記されています。私たちを、そして世界を裁くためにではなく、私たちすべてを救いの道にあずかって欲しいとの一心で、神は救い主イエスを与えられたのだと。つまり、裁きありきの話なのか、救いありきの話なのかという、優先順位の話に他なりません。神は私たちを裁くことをはるかに勝って、私たちをご自分の愛でこよなく愛された結果として、救いを何のためらいもなく差し出してくださる方である、というのです。
 
そう考えますと、裁きという言葉に対する私たちの定義も変わります。裁きという言葉は、私たちにとっては、何か断罪されえることを目的に執行されるようなものと思ってしまうのではないか。しかし、裁きとは神の深い「判断」のことを指します。神が私たちに対してどんな判断をなされるかを、神はご自分の深い計画を、ご自分の愛に基づいて、その結果として私たちの命を支え、守るために、私たちの状態云々にかかわらずイエスという救い主を与えられたのです。
 
ですから、私たちは神の裁きというものを、人を脅し、人を言うなりにさせるための道具に使うことは決して許されないのです。それを「裁き」であると定義づけることがあってもいけないのだと。神の裁きは、私たち人間への救いの行為である。まず、そこから始まる神の裁きというものを、私たちはどれだけ理解し、そのことを私たちの生きる希望とすることができるかに、この言葉の意味というものがあふれているのではないだろうか。私はそのように受け止めました。
 
地を裁かれる神は、ご自分が創造されたこの地全体を「とても良かった」と絶賛し、そこにご自分の姿に似せた人間をお造りになられました。それをすべてつなげるのは、神がどれだけ人間のことを大切に思っておられるかという、愛の表れを私たちが読み取っていくならば、裁きについても、恐怖を動機としない、健全な見識というものを持つことができるのだと思います。
 
神は人を愛された。その愛にどのように応えることができるだろうか。一日が、そのようなところから起きる私たちの生活へと導かれますように。ただ、神の助けによって。心よりお祈りいたします。

24/10/2022

2022.10.23(日)仙台宮城野教会主日礼拝説教|神は冷たい?温かい?|齋藤朗子牧師

聖 書 ルカによる福音書19章11~27節
説教者 牧師 齋藤 朗子

あなたはなんと冷たい御方だ!そうつぶやいた家来に主人は、家来の思ったように振る舞いました。しかし、神は愛にあふれる御方だと賛美した家来には、ご自分の愛を豊かに与えました。どういうことでしょうか?聖書の言葉から聴きました。

↓こちらからご視聴ください。



2022.10.25(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ネヘミヤ記9章33節
私たちの上に起こったことすべてにおいて
正しいのはあなたです。
あなたは真実を尽くされたのに
私たちは悪を行ったのです。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一1章9節
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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痛い目に遭って、はじめて物事の大切さを理解することができた。私たちは日々の生活のなかで、そんなことを経験することがしばしばあるのではないかと思うのです。そんな痛い目に遭うほど冒険はしていない。もちろんそういう方もおられるでしょう。しかし、私の場合はある意味痛い目ばかりに遭うほど、冒険的な生き方をしているのかもしれません。だからこそ、痛い目にもたくさん遭っているなあとつくづく思わされています。
 
神とともに歩んでいることに疑っていなかった神の民イスラエル。しかし、彼らがそう思っているだけでした。実際に神の期待というものに、目や心を向けることはありませんでした。どんなに神が預言者を彼らのもとに遣わして、言葉を通して神の思いを伝えても、彼らはその忠告に耳を貸しませんでした。自分は一生懸命神とともに歩んでいるんだから、そんなアドヴァイスなど必要ないのだと。
 
しかし、そんな彼らを襲ったのは、強国バビロニアからの侵略でした。油断していた彼らはその侵略に立ち向かうことができませんでした。このときに神への深い信頼を自分の土台としているのであれば、そのような危機にこそ、神にすべてを委ねるという選択ができただろうし、神はそれに応えてくれたかもしれません。しかし、彼らは神がおられるということを、究極的に自分自身の土台にはしていませんでした。ですから、パニックに陥ったまま、バビロニアに強制連行され、数十年にわたる捕虜生活を味わうことになりました。いわゆる「バビロン捕囚」と言われる出来事です。
 
どうして彼らは捕囚を経験しなければならなかったのでしょうか。神に信頼しなかったことに対する神がくだした罰でしょうか。私は違うと思います。神を信頼して生きることをないがしろにし、軽んじたゆえの、自業自得の結果だったのではないでしょうか。私はそう思うのです。
 
東日本大震災が起きたときに、被災地に多くの宣教者と呼ばれる人々がやって来て、この震災は神を信じなかった結果としてくだった「神罰」であると、住民に触れ告げたということがありました。ときの東京都知事も、原発事故は「神罰」であると言いました。神罰という考えは、人間にある意味での恐怖の念を起こさせます。しかし、本当に神は恐怖を提示させて人々を言うなりにさせるのだろうか。もしそうであるならば、それはカルトではないか。私にはどうしてもそう思えてならないのです。
 
バビロン捕囚からイスラエルに帰還した民たちは、これは私たちの責任なのだ。神様、あなたは何度も何度も、私たちを愛し、私たちに近づいてくれていたではないか。でも、私たちは見向きもしなかった。そして、今イスラエルの地に戻してくださったのは、神様、あなたではありませんか。これはあなたのせいではありません。私たちの自業自得なのです。私たちの責任なのです。今日の旧約聖書の言葉は、まさにそんなイスラエルの民の思いがあふれているような気がしてならないのです。痛い目に遭ってこそ、はじめて神の真実というものを、彼らは理解することができました。
 
神は、私たちが痛い目に遭ったことを理解したときに、必ず手当をしてくださる御方です。私たちが回復できるように導いてくださる方。それが赦しをもって働かれる私たちの神なのです。大切なのは、私たちが痛い目に遭った時に、そのことをいかに自分自身の問題として理解できるかということなのでしょう。たやすく他者に責任を押し付けるのではなく、自分自身を棚上げせずに自分自身に問い続ける生き方こそ大切なのだ。今日の聖書の言葉を通して、そんなことを黙想させられました。
 
主の日の休息が終わり、今日からそれぞれの場に向かっていく私たちに、そのような神の真実さがともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

23/10/2022

2022.10.23(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編50編16~17節
悪しき者に神は言われる。
「何のために、あなたは私の掟を数え上げ
 私の契約を口にするのか。
 あなたは私の諭しを憎み
 私の言葉をないがしろにする。」
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙1章25節
しかし、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人になります。このような人は、その行いによって幸いな者となるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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言動一致。今日選ばれたふたつの聖書の言葉から、そんなことをあらためて思わされました。神から与えられた御言葉が、私の心に染み入るときに、それは私たちの日々の営みへと具体的に展開されていくときに、私たちに得られるものは幸いであることを望んで、今日の一日を生きることができるのだ。そんなことを思わされました。
 
敬虔という言葉がひとり歩きしているような思いを時々感じることがあります。よく聞く「敬虔なクリスチャン」という言葉に、どのような印象を抱くだろうか。そんなことを思う時、どうしても「清く、正しく、美しく」みたいな、品行方正に生きるといったイメージを持たれることが多いのではないだろうか。そう思うのです。しかし、大切なことは、そのような目に見える行いというものが、どこから来るものだろうかということに、私たちは注目することが大切なのだと私は感じるのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、とても厳しい指摘を私たちに与えています。聖書の言葉を口にし、掟や律法というものを声高に読み上げるのに、どうしてその言葉をないがしろにするような生き方をするのか、と。まさに「言動不一致」の状態がここにあります。神が私たちにお与えになられた律法の真髄は、神御自身が示された「愛」に他なりません。それは、のちにイエスが私たちに対して、律法の本質こそ神の愛にあると告げられたとおりです。
 
つまり、そこに愛はあるのだろうか。聖書の言葉が語られるときに、神の愛があふれるような世界が生み出されていくことを、私たちは生活のあらゆる場面で経験し、その経験を喜んで私たちが味わい、それを自分自身の生き方としていくこと。これこそ、私たちが「敬虔さに生きる」ということなのではないか。そう思えてならないのです。
 
敬虔なクリスチャンと聞くと、どうしても品行方正といった規律正しい生活ばかりに目が行ってしまうのは私だけでしょうか。神の愛は、時には激しさを生み、熱意があふれ、闘いがあることを考えれば、決して上品なさまとは言い難い現実を生み出すかもしれないのです。しかし、見た目にはお上品とは思えなかったとしても、そこに神の愛という土台があふれているのであれば、それこそ敬虔そのものなのではないだろうか。私は神が与えてくださる愛にもとづく敬虔によって生きたい。そう思わされるのです。
 
私たちの幸いは、神の愛という武具をもった闘いが、自分自身に対して、そして社会に対して向けられ、その闘いによって味わうことができるものなのだと。そんなことを胸にしつつ、この新しい一週間の日々を歩んでいきたい。そのさきがけとなる今日の礼拝を喜びたいと心から願わされました。皆さんの一日もまた、そのような幸いのスタートを切るときでありますように。心よりお祈りいたします。

22/10/2022

2022.10.22(土) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌下20章12節
私たちには何を行うべきか分からず、ただあなたに目を向けるのみです。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙12章2節
信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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見つめ続けること。今日私たちのために選ばれた旧約聖書と新約聖書の言葉を結ぶのは、このひと言に尽きると私は受け止めました。実は、私はここのところ「見つめる」ということに、とても消極的な感情を抱いていました。ですから、今日の聖書の言葉は、あらためて見つめることについて考えさせられる機会となりました。
 
なぜ「見つめる」ことに消極的な思いを持っていたかというと、見つめるということと「執着する」ということをつなぎ合わせながら考えていたからです。ひとつのことを見つめ続けるのは、ときによっては自分自身の執着というものから離れられない状態ーそれが怒りであるとか、ある種のこだわりであるとか、きわめて支配的で独善的な欲であるとかーをつくり上げているのではないか。そう思うところがあったのです。
 
だから、そういうことを見つめ続けている自分自身があるならば、そこから離れることによって、平安を得ようと思っていたのです。しかし、今日の聖書の言葉を通してハッと気づかされたのは、では、これまで凝視していたその視線を、今度はどこに向けることができるのか、ということでした。その視線の先にあるもの。それこそ、主なる神であると。
 
私たちには見つめ続ける先がなければ、満足に歩くこともできない。周りを見ることも大切ですが、キョロキョロ見渡し過ぎて、それがよそ見になってしまえば事故を招いてしまう。今日の旧約聖書の言葉は語ります。私たちは何をして良いのか分からない、と。そう。行く咲も定まらず迷いながら歩き続ける。それが私たちの現実なのかもしれません。
 
しかし、何をして良いか分からないからこそ、人々は決断します。ただ、主なる神であるあなたを見つめるだけなんだと。今は何が起きるか分からない。しかし、神は必ず私が人生の道、今日一日の道を歩めるように、この私を平安へと導いてくださることを信じたい。
 
信仰の導き手(創始者という言葉が多くの聖書で用いられています)であり、完成者であるイエス。これが今日の新約聖書の言葉が伝える「信仰の実体であるイエス」の姿です。私たちが神を見つめ続けることによって得たいと願う平安を、信仰の実体であるイエスご自身が、私たちの手を引いて導き、イエスが示された完全に安心できる道を歩ませてくださる。だからこそ、自分の手の先にあるイエスを見つめ続けて歩もうじゃないか。そんな勧めの言葉が聞こえてきそうな、今日の聖書の言葉であると私は受け止めました。
 
私はどうでもいいことに囚われて何かを見つめ続けている。その執着から離れたら、どうして良いかわからずさまよい続ける自分自身。しかし、私には見つめる先がある。必ずあって備えられているのだ。そんな思いで、今週最後の一日を過ごしてまいりたいと願わされました。どうぞ、皆さんの一日も、そのような神の守りがもたらす平安がともにありますように。お祈りいたします。

21/10/2022

2022.10.21(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書61章1~3節
主が私を遣わされた。
シオンの嘆く人に
灰の代わりに頭飾りを
嘆きの代わりに喜びの油を
沈む心の代わりに賛美の衣を授けるために。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書15章21~22節
息子は言った。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」しかし、父親は僕たちに言った。「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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沈む心の代わりに賛美の衣を授けるために。
いちばん良い衣を持って来て、この子に着せなさい。
 
今日私たちに与えられた、旧約聖書と新約聖書それぞれの言葉をつなげるのは「賛美に満ちあふれた最高の衣」です。この衣を私たちが身にまとうべく、主なる神、そして父は与えてくださった。これが、今日私たちに与えられたメッセージです。
 
しかし、そのような衣を私たちに与えられる「前提」について、今日の聖書の言葉は語ります。それは、私たちの嘆き悲しみや悔いる心、沈み切ってしまった思いです。私たちがそのような心や思いに取り囲まれて、生きる意欲すら失ってしまうときに、そのことを見過ごされない神がおられる。喜び躍ってしまいたくなる、最高の衣をまとわせてくださるというのです。
 
自分勝手にさんざん振る舞ったあげく、自分自身ではどうすることもできないくらい生きる術を失って、家に戻ってきた放蕩息子。まさに「ごくつぶし」である彼にとって、実家に戻る資格はない。父に顔向けなどできないという悲嘆があったのでしょう。彼は父親に告白します。自分はあなたに顔向けできるような人物ではないと。
 
それは、自分自身がしてきたことの後悔の念から来るものだったのでしょう。父親の期待に逆らって生きてきたひとりの人物が、自分の家に方向転換したときに、父との再会があった。この再会に、父は大いに喜びました。よくぞ帰ってきてくれたと。そして、おそらくボロボロだった衣を脱がせ、真新しい最高の衣を着せてあげた。
 
さんざん自分勝手に振舞ったくせに、今さら戻って来て助けを乞おうなど、そんな虫の良い話があるか。自業自得だ。野垂れ死んでしまえばいい。そう思ってしまうこともあるでしょう。しかし、戻ってきたというだけでいい。そんな父親の、そして主なる神の寛大さを思わせる今日の聖書の言葉に、私自身の心が揺さぶられます。
 
今日の旧約聖書であるイザヤ書に描かれている「灰」とは、イスラエル人が神に対して悔い改めるときに、頭からかぶるものでした。灰とは懺悔の象徴です。しかし、灰まみれになった頭に、神は飾りをつけてくださる。嘆きゆえにガサガザになった心に潤滑油をたっぷりと染み込ませることで、血液を十分に送り出すことのできるしなやかな心が回復されるのです。悲嘆を悲嘆のままに放っておかれない神が、今日も私たちとともにいてくださる。そして、私たちはそんな神のもとに今日も帰ることができるのだと、私は受け止めました。
 
最高の衣を着せてくださる神が、今日もみなさんを祝福してくださいますように。お祈りいたします。

20/10/2022

2022.10.20(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書12章1節
主よ、私はあなたに感謝します。
あなたは私に怒りを向けられましたが
その怒りを去らせ、慰めてくださいました。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書9章13節
イエスの言葉:
私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
怒りはなんのためにあるのか。そんなことを、今日与えられた聖書の言葉から黙想してみたいと思いました。
 
私は正直に言えば「怒りの沸点」というものがそんなに高くありません。何かあるごとに怒り、その怒りをあらわすことがあります。人間なのだから当たり前じゃないか。そうおっしゃってくださる方もおられるのですが、大体は怒ることで、その後良い展開を生んだということはほとんどありません。周囲に傷を与え、自分自身が後悔する。そんなことの繰り返しです。しかし、そんな苦い学習のおかげで、最近では怒りの感情というものを整理して、それを客観化する作業というものに心がけるようになりました。それが決してパワーハラスメントにならないように。。。
 
怒りたくなる時。それは体調の悪いときや、自分の中で苦悩を抱えているとき、思い通りに事が運ばないときなのかなと思っていますし、誰でもそうなのかなと思っています。つまり、自分自身の心に余裕がないときに起こるのが怒り。そう考えています。自分自身に余裕がないと、つまり自分のことだけで精いっぱい。他に目を向けることなどどこかに忘れてしまう自分自身があることに気づかされます。そういう時こそ、心のどこかに余白が欲しい。そんなことを思わされます。
 
さて、本日の旧約聖書は「神の怒り」について触れられています。しかし、ここで描かれている怒りは、先に述べた私自身が抱えている怒りというものとは違う種類のものとして受け止めたいという私の思いがあります。神が私たちに対して抱かれ、そして向けられる怒りとは、ご自分の正しさに基づいた「義憤」だと私は考えています。この世の中で起こる人間関係がもたらす様々な歪みに対する怒りであり、自分自身のことだけでいっぱいいっぱいになり、神が私たちを平和のうちに治められるというその存在すら、忘れられ脇に追いやられるときに、神はご自分の正しさに基づいた怒りを、私たち人間に示されるのだと考えています。それは、単なるヒステリーの表出ではありません。
 
だからこそ、神はご自分の正しさをもって怒られたあとに、必ずと慰めを人間に対して与えられると、今日の聖書の言葉は語ります。神御自身の正しさは、怒ることよりも慰めることに比重が置かれているような気がしてならないのです。怒りで人を従わせようとする意図は、神にはないと私は受け止めたいのです。私たちの余裕のない心に慰めを与え、励まし、神が住まうスペースを与えてくださるために働きかけてくださる御方、それが私たちの神であると受け止めたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、神の正しさが私たちを生かすようにとの願いを抱いている、イエスの慰めに満ちた言葉であると私は思いました。私たちの正しさは、不健全な怒りを生むこともたくさんあります。それは神の正しさというよりは自己正義から起こるときに、不健全な怒りを生み出す。そしてそれが露わにされるときに、平安が打ち壊される。そんな感じです。しかし、自分自身の怒りというものが整理され、客観化されるときに、はじめて神の慰めが私の心に慰めを与え、神と共に生き幸いを与えてくださるのだ。そう信じたいのです。
 
自分の閉ざされた環境のなかで育まれた正義に生きるのではなく、失敗し、後悔ばかりしてしまう私を、イエスは招いてくださり、ご自分の正しさを慰めをもって与えてくださる。そんなことを励みにして、今日という一日を歩みたいと願わされました。どうか、皆さんにとっても今日の一日が、そのようなときでありますように。お祈りいたします。

19/10/2022

2022.10.19(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編38編23節
急いで私を助けに来てください。
わが主、わが救いよ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書10章48~49節
盲人バルティマイは「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。
イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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盲人であったバルティマイは、周りが制止したにもかかわらず、この私を憐れんでくださいと、イエスに対して叫び続けました。
 
ここで「盲人」、つまり視覚障碍者であったバルティマイが叫び続けたことに大きなポイントがあると私は受け止めました。先行き見えない不安というものを抱える人間を象徴するかのように、視力が失われたバルティマイが、藁にもすがる思いでイエスに対して叫び続けた姿が、とても象徴的に思えたからです。
 
イエスはかつて、山に集まった人々に対して、祈りとは言葉数が多ければいいものではないということをお教えになられました。くどくどと祈るのは異邦人のすることだと。
 
私はイエスがそのように人々に伝えられたことと、今日の新約聖書に描かれた盲人バルティマイの叫びとも言える祈りは、決して矛盾しないと考えています。言葉数が多くくどくどと祈るというのは、心がなく人に立派な祈りと思われるような美辞麗句を立て並べただけの祈りのことであって、決して諦めることなく叫び続けたバルティマイのそれは、心がただイエスという救い主一点に向けられていたのだと。
 
なぜ、バルティマイの叫びを周りは制止したのでしょうか。うるさい、しつこい、あのイエス先生を困らせるな、惑わせるな。そんな周りのイエスに対する「配慮」だからだったのかもしれません。もしかしたら、バルティマイの叫びを言葉数の多い、くどくどとした懇願にも思えたのかもしれません。そんな願いを、イエス先生はお嫌いになられるのだと。そう思っていた人もいるのではないでしょうか。
 
しかし、イエスは知っていました。バルティマイの心がまさに自分自身に向けられていたということを。だから、バルティマイを招きました。ここにこそ、祈りに応えられるイエスの姿を、私たちは見ることができるのです。私を憐れんでくださいという願いに、イエスは視力を回復されることによって、行くべき道を示され、その憐れみを示されました。
 
こういう祈りを私は神に向けて祈っているだろうか。私はそう思いました。昨日、懸案事項を行うために、遠出をして忙しく動き回っていました。ほぼ済ませることができたものの、ひとつだけ解決しないことがありました。交渉してみましたが現時点ではどうにもならないことを知り、少し落胆したのです。
 
そんなときに私は思ったのです。これまでも神は私の不安をよそに、すべて事を運ばせてくれたではないか。必ず何とかなる。そのように神はご自分の方法で導いてくださるよ。だから、そのことを信じて祈り続けよう。
 
とても心が平安になりました。大切なことは、日々祈り続けること。たとえ周りが、祈りなんてなんて馬鹿げたことをと言うことがもしあったとしても、イエスに心が向けられ、そして祈り続けることの大切さと幸いを想うこと、そして祈り続けること。そんなことを黙想させられました。
 
祈り続けることにもし疲れてしまったとしたら、その祈りを必ず聴いてくださり、ご自分の時が来るのを見計らっておられる神が、私たちとともにおられることを胸にして、今日も一日を歩むことができますように。お祈りいたします。

18/10/2022

2022.10.18(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章6節
主は命を奪い、また命を与え
陰府に下し、また引き上げます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録1章8節
全能者である神、主がこう言われる。「私はアルファであり、オメガである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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アルファからオメガまで。
 
別な言い方をすればA to Zであり、ピンからキリまでとも言えるでしょう。はじめから終わりまですべてをご支配される方。それが、全能者である神である主が、私たちに告げられたご自身の姿です。
 
私たちにもはじめと終わりが与えられます。この世に生を受けて、その生もやがて、生涯を閉じるともに終わりを迎えます。もちろん、神が与えられた永遠の命を信じていたとしても、私たちはこの世に生きている以上、その世界は限りあるものであることに間違いありません。そして、人生のあらゆる場面において、私たちは誰もが、はじめと終わりというものを経験します。だからこそ、はじめと終わりという言葉は、とてもイメージしやすいのだと思います。
 
私たちはときに、限りあることに物足りなさを感じて、もっと長く続いてくれたらと願うこともあれば、いつまでも続くことに耐えられなくて、早く終わりが来てほしいと願うこともあるでしょう。しかし、そういう時に限って、自分の思うようにはじめや終わりというものを自分自身の手でコントロールすることはできません。自分の思うようにことが進んでいかない。これが現実です。
 
そのようななかで、はじめと終わりをつかさどる、私たちの神がおられるというのは、私たちにとって大きな慰めとなるのではないか。そのように改めて感じさせられました。究極的には自分自身の手で思うように操作することができない「時」というものを、物事のはじめも終わりもすべてご存知である神が、私たちのために見守り、最高のタイミングを定めてくださるというのです。
 
神は必ず、私たちにとってベストと思えるスタートの時を設けてくださり、ゴールをも与えてくださる。それが突如降りかかったような始まりの時であっても、いきなりストップをかけられたような出来事に遭遇したとしても、すべての時をつかさどられる神が、そのタイミングに何らかの意味を与えてくださる。そこに信頼を置いて歩みたい。そう願わされます。
 
命を奪い、しかし命を与え、陰府(よみ)へと下されるが「よみがえり(陰府がえり)」をも与えてくださる神。今日の旧約聖書の言葉にある通りです。そんな神に今日も一日守られていることを想いつつ、主にあって祝された時でありますように。お祈りいたします。

17/10/2022

2022.10.17(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記5章21節
隣人の妻を欲してはならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙6節
愛とは、御父の戒めに従って歩むことです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日の旧約聖書の言葉は、十戒のひとつである「隣人の妻を欲してはならない」が選ばれています。このような掟は、私たちの普段の生活からすれば、もしかしたら遠く離れていることかもしれません。だからと言って、私たちにまったく関係のないことなのかと言ったら、そんなことはありません。
 
この聖書の言葉はもとより、神がモーセを通して与えられた十戒の言葉が意味するところ。その大切なことのひとつは、隣人が持っている大切な関係性を、自分の願望で奪い取ってしまうようなことがあっては絶対にならない。これが「隣人愛の実践」である、ということを私は受け止めました。
 
私たちは、隣人が持っている大切な関係性、つまりその人が大切にしているものを、まさか奪い取ることがないだろうと思うかもしれません。しかし、今日の聖書の言葉にある「欲してはならない」という言葉の奥には、私の願望というものが主体に立ったときに起こることなのだと思います。つまり、私の願望や考えというものが何物にもまさるときに、私たちはおのずと「欲してならない」という掟に抗うような方向性に進んでいるのかもしれません。
 
自分の考えを明確に持ち、それを表現し主張すること。この世の中で生きていくためには無くてはならないものです。しかし、自己表現・自己主張というものが、自分が欲しがるためだけの手段として用いられるのであれば、そこには極めて不健全な支配・被支配の関係が生まれるのではないかと思えてなりません。カルトというのは、こういうところから起きるのではないでしょうか。
 
私自身のこととして正直に申し上げれば、私のなかにも「従わせたい」という感情があります。しかし、それがどこから来るものなのかということをじっくりと考えるときに、自分自身の生理的な、また感情的な欲求からそうしたいのだと望むのであれば、こんな危険なことはないとドキッとさせられます。
 
大体はそういうことを、私は無意識にうちに行っているのかもしれません。もしくは、神のお名前や権威、聖書の言葉を借用して、神の示される愛なんかそっちのけにして、自己愛というものを振りまき、他者の大切にしているものを奪い取ってしまうのだと。
 
今日の新約聖書の言葉には、神の与えられた愛と掟が抜き差しならぬ関係にあることが記されています。その愛とは、人の命を守り、祝福してくださる神の愛であって、神が私たちの真ん中に立って私たちと神の関係性がしっかりとしていてこそ成り立つ愛です。
 
そのときに私は黙想したいと思います。私の神はどこにいるのかと。私が神になっていないだろうかと。そんなことを想いつつ、神の愛を妨げないような掟の守り方を大切にしたいと願わされました。
 
どうか、今日の一日が皆さんにとって、妨げず妨げられない神の愛が関係を結び、少しでも神の平和が私たちのうちに宿りますように。お祈りいたします。

16/10/2022

2022.10.16(日)仙台宮城野教会主日礼拝説教|人となられた神

聖 書 フィリピの信徒への手紙2章1~11節
説教者 牧師 齋藤 篤

神が人に化けて現れたのではありません。人が抱える苦悩、痛みを、同じ人間となって抱え、ともに担い、その極みである十字架に引っさげてくださった方、それが「まことの人でありまことの神」なるイエスでした。そのイエスの愛を私たちは信仰で受け取れるのです。

↓こちらからご視聴ください。


2022.10.16(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記16章19節
あなたは裁きを曲げてはならない。人を偏り見てはならない。賄賂を受け取ってはならない。賄賂は知恵ある者の目をくらまし、正しき者の言い分をゆがめるからである。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書5章44節
互いに相手からの栄光は受けるのに、唯一の神からの栄光は求めようとしないあなたがたには、どうして信じることができようか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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新しい一週間が始まりました。世界中の教会や集会でおこなわれる、主の日の礼拝を通して、神からの大きな祝福が私たちひとりひとりとともにありますようにと祈りつつ、今日の御言葉に出会い、黙想したいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉には「裁きを曲げてはならない」とあります。ここで言う裁きを、私は「神のご判断・神の御心」と受け止めました。つまり、神がこの世界に対して期待していることや願っていることを、私たちが歪めたりねじ曲げたりするようなことがあってはならないのだという、自戒の言葉としていただくことができるものなのではないか。そのように思ったのです。
 
その際に、今日の聖書の言葉に登場するのは「賄賂」という言葉です。賄賂。つまり、自分が有利な立場に立つことができるように、それができる人に対して金品などを渡すことによってその人を喜ばせ、自分がいい思いをしようとするために行われるのが賄賂です。
 
つまり、人のことばかりを気にして、人の眼ばかりを気にして、神の御心に込められた期待を、私自身が歪めたりねじ曲げたりすることがあってはならないのだと、私は今日の旧約聖書の言葉を通して、あらためて感じさせられました。もちろん、他者の幸せを考え、配慮することはとても大切なことだと思います。しかし、今日の聖書の言葉で述べられているのは、配慮ではなくいわゆる忖度(そんたく)のことだと受け止めました。神のまな差しよりも人の視線のほうが気になってしょうがない。そして、その人のご機嫌を取ったり怒らせないために、その場しのぎの行動をして自分自身を守る。
 
よくあることなのではないかと私は思います。私も正直に申し上げるならば、そうしたくなる欲求が事あるごとにあり、そうしてしまう自分自身があることをいくらでも発見することができます。しかし、神の喜び以上に人を喜ばすことは、一時は良かったとしても、簡単に不健全な支配・被支配関係をつくってしまうのではないか。そう思えてならないのです。これが賄賂のもたらす効果であり、ある意味カルトの芽と言っても過言ではないでしょう。
 
今日の新約聖書にあるイエスの言葉は、実に鮮烈です。互いの栄光、つまりお互いの目先の喜びだけに忖度し合うことを期待し、求めることが、どうして神の栄光、つまり神の喜びを求めることに勝るのだろうか。そんな問題提起というものをイエスは私たちに突き付けておられるような気がしてなりません。
 
私が今していることは、他者に対して向けられてようとしていることは、本当に神が望んでおられることなのだろうか。そんなことを問いながら、配慮できるところは配慮し、忖度してしまうようなところは、それよりも神の思いに身を委ね、身を寄せることのできるような一日でありたいと願わされました。それが「神を信じて生きる営み」なのだと。
 
今日も一日、素敵なひと時でありますように。お祈りいたします。

15/10/2022

2022.10.15(土) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ミカ書7章7節
私は主を仰ぎ見
わが救いの神を待つ。
わが神は私に耳を傾けてくださる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙3章2節
上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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決して「世捨て人」にならなくてもいいし、なってはいけないのだ。だからと言って、この世に失望してしまうときに、私はどうすればよいのだ。そうだ。神のなさることに期待しよう。そして神が動いてくださるのを、今あることがつらかったとしても、期待と希望をもって今日も待ち続けることにしようではないか!そうすれば、今日という一日を乗り越えることができると思うし、もしかしたら神が今日歩むにふさわしい光を与えてくださるかもしれないから。
 
今日与えられたふたつの聖書の言葉を通して、私の心に思い浮かんだフレーズです。
 
今週も最終日を迎えました。この一週間の私自身を振り返ると、決して大げさではない、人生の大きな局面を迎え、そのことが開始された一週間でした。いつかは受け入れなければならない課題が私にはありました。それがとうとうやって来たという現実が突き付けられました。この一週間にあった様々な出来事を思い起こしながら、今朝の言葉に出会い、ハッとさせられました。
 
期待していた物事が期待通りに運ばないとき、そこには失望が生まれる。誰もが多少なりとも経験することです。そして、究極的にはそれは誰の責任でもないし、みんなの責任でもある。失望というのは究極的に言えば、人間の持たされてきた歪みというものの究極的な見えるかたちなのではないか。そう思えてならないのです。それを、聖書の世界では「罪」と表現し、今日に至っています。
 
先に申し上げた、私の受け入れた決断というものが100%正しいとは到底思えません。しかし、今置かれている状況のなかで、自分自身ができることを熟慮を重ねて導かれた決断は、正しいかどうかわからなくても、進みゆくという選択を私はしました。そんな決断と選択をしたときに、私が大切にしたいと思ったのは、私には神がいるというひと言に尽きます。
 
神は私の決断と選択を完全に正当なものだと認めておられるとは思いませんが、神が行く道行く道に光を与え、私にそれを指し示し、たとえ私が望んでいる期待や願望と違っていたとしても、神が最高のアドヴァイスを与えながら、ともに歩ませてくださる。だから、今は私の決断と選択というものが、神の助けによって一歩、一歩、前に進むことをしたい。そのように願わされています。
 
今日の新約聖書の言葉にある「地上のものに思いを寄せてはなりません」という言葉に心打たれます。自分の身の周りを見渡せば、不安を呼び起こし、それに煽り立てられるような要素はいくらでもあります。それに打ちのめされて、臆病になり、前へ進むことすら躊躇したくなることを、いくらでも見つけることができます。
 
だからと言って、この世に未練を残さず逃避するとか、この世を見下す必要はまったくないのだと私は思います。この世界の現実を直視しつつ、しかし、それよりもはるかに行くべき道を指し示してくださる方がおられる。そのことを知るだけで、バランスをとりながらこの世で生きることができるのだと。上にあるものと表現された神のことを思いつつ。
 
どうか、今日の一日が期待と希望に満ちあふれたときとなりますように。皆さんの一日も明日へと向かう備えの一日として、祝福が神とともにありますように。お祈りいたします。

14/10/2022

2022.10.14(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書37章16節
万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたが天と地をお造りになったのです。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙3章14~16節
パウロの手紙:
このようなわけで、私は、天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父の前に、膝をかがめて祈ります。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
いのちの源である神によって今日も生かされる私。
 
今日与えられたふたつの聖書の言葉を通して、私が感じたことです。神によって私の命が与えられている、つまり「生かされている」という考えは、あまりこの世の中では受け入れられることは無いかもしれません。自分のいのちは自分自身のものであって、たった一度きりの人生、自分の思うようにその人生を用い、そして謳歌する。どのように用いようが、それは誰にも妨げられない私の自由なのだと。ましてや、神や宗教というものによって私の人生が侵害されることがあってはならないと。
 
昨今の旧・統一協会問題をはじめとするカルト宗教問題が世間を騒がせていますから、なおのこと、神とか宗教という名前が出れば人々をわなにおとしいれ、自由や人権を奪うものという印象が強くなっていると私は思います。それ実際に起きていることですから、そういう意見があるのは当然であると、私も思います。
 
そういうことを踏まえますと、宗教や神などに頼らなくても、私の人生は私自身で決断し、そして歩むことができる、いや、歩んだほうが幸せになれると。これが特に日本という国にあるひとつの風潮なのではないかと思うのです。
 
では、宗教に対する悪評とアレルギーが広がるなかで、私はどのようにそれを受け止めて、神に生かされているということを心から実感することができるのだろうか。そんなことを改めて黙想しました。世の中の評価というものに対して堂々と批判を、自分の正当性を訴え続ける。このことも大切であるかもしれません。しかし、もっと大切なことがあるとすれば、まず、自分自身が「神に生かされているがゆえの喜びや自由」というものを日々吟味し、確かめながら、そのことにひとりのクリスチャンとして誠実に生きていくなのだろうと。
 
それが「生かされている」という言葉に示された謙遜であり、敬虔であると言えるのだと、私は今日の聖書の言葉を通して受け止めたいと思いました。歯を食いしばって自己主張を繰り返さなくても、本当のことをご存知である神が、たとえそれができなくても誠実に生きたいと願う一人一人に、必ずご自分の力というものを与え、生かされている喜びと活力を与えてくださるに違いない。そんなことを心から望みつつ、一日を生きてまいりたいと思いました。
 
どうか、今日という一日が、皆さんにとっても生かされている喜びを実感できるひとときでありますように。お祈りいたします。

13/10/2022

2022.10.13(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
哀歌5章21節
主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。
私たちの日々を新たにし
昔のようにしてください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テトスへの手紙3章4~5節
私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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人の救いは金で売り買いできるものではない。宗教団体がそのことを提示したとき、それは人の救いのためにではなく、その団体の維持のためである。
 
そのような内容の言葉を、先日耳にしました。私は大いに納得しました。宗教とカネの問題が世間を騒がせている今だからこそ、心に響く言葉であると私は感じました。
 
この世の中は、お金ですべてが解決するといった考えを私たちに提供しています。それはある意味では事実であると私は思っています。なぜならば、この世の中はいわゆる貨幣によって価値観が定められている部分が多くを占めているからです。別な言い方をすれば、お金に支配されている私たちがある。そう言っても言い過ぎではない気がするのです。
 
金銭は人間の産物である。しかし、神はそのような人間の産物をも祝福の手立てとして用いられることもあるのも事実です。逆に金銭が魔物となり、人々を支配する材料ともなる。まさに諸刃の剣と言って良いのではないか。そんなことを思いながら、本日与えられた聖書の言葉に耳を傾けたいと思いました。
 
大切なのは、私たちの「心」である。哀しみを込めて神に歌った信仰者は、私たちをあなたのもとに立ち帰らせてくださることをこいねがいます。本日の旧約聖書の言葉は、その思いを私たちに伝えます。私たちの日々の思いを新たにつくりかえてくださいと。どんなに辛かった一日があっても、眠りから覚め、新しい一日が朝とともに訪れれば、神はなんの掛け値もなく、私たちの心と思いを再生させてくださる。私たちはそうなりたいという「心」があれば、神は哀しみをも喜びへと変えてくださる。そんなことへの心からの期待が、この歌の一節に込められているというのです。
 
そのことを、さらに具体的に語っているのは、テトスに宛てられた手紙の一文です。私たちの眼に見える行いや、金銭を積み上げたところにではなく、ただ神の愛と憐れみによってのみ、私たちは新しい一日へといざなわれ、新しい命に再び生きることができるのだと。たとえ取り返しのつかないことがと思えたとしても、十分にやり直せる機会と道を、神ははっきりと示してくださるのだと。これこそ救いなんだと。
 
私たちのなした義の行いとはなんでしょうか。私たちの正しさ、つまり私たちのなした義というものは、とても弱く、もろいものです。金銭は使い果たせば無くなってしまうものであり、金銭は人々を苦しみ悩ませる根となります。人間の産物だからこそ脆弱なものであり、そこに正しさを私たちが求めれば、それは救いどころか崩壊を生み出しかねない。私たちの産物としての義ではなく、愛と憐れみをためらうことなく私たちに差し出された神の正しさに、私たちは招かれ、生きる者となることができるのだと、今日の聖書の言葉は、私たちに伝えているような気がしてならないのです。
 
神が差し出された正しさとは何か、それと自分自身のうちにある正しさを並べてみて、自分自身を吟味し、そのありようを確かめることのできる一日を歩みたい。そう願わされました。掛け値のない神の救いを味わう幸いが、私たちのあいだに豊かに宿りますように。心からお祈りいたします。

12/10/2022

2022.10.12(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書59章19節
西では主の名を畏れ
東では主の栄光を畏れる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書13章29~30節
イエスの言葉:
人々は、東から西から、また北から南から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
先日、こんな相談を受けました。「神を信じない者は、やはり地獄へ落されるのでしょうか」という内容の相談でした。私は答えました。「聖書にはそのように解釈することができる記述があるのも確かですが、地獄に誰を落とすかというのは、最終的に神がお決めになることですから、そう簡単に人間が口にするものではないと私は思っています」と。
 
そして、私はこう続けました。「私は神が誰かを地獄に落とすことを考える前に、神はすべての人の命を守り、すべての人の命が危機から救われるために働いておられることを、まず第一に考えたいのです」。
 
これも、ある意味で言えば「私なりの聖書解釈」です。世の中には、神を信じなければ裁きを受け、地獄に落とされることをことさら強調する人たちがいることをよく知っています。地獄に落とされたくなければ、神を信じて命を得なさいというのも、ひとつのアプローチであることにまちがいありません。
 
しかし、誤解を恐れず申し上げれば、今申し上げた方法によって、神による救いを伝えるのであれば、そこには、それを聴こうとする人たちの恐怖心をあおり、その恐れを利用してはいないだろうかとどうしても思ってしまうのです。私自身、終末の滅びを強調するキリスト教系の、いわゆるカルト教団に身を置いていましたので、そういうアプローチを積極的にすることへの、強烈な違和感というものを覚えているのだと思います。
 
私のなかにあるそのような基本的な思いに基づいて、本日の聖書の言葉に心を傾けますと、私たちひとりひとりに、恐怖ではなく畏敬の念を抱かせるような神がおられるのだというイメージを想像します。主なる神の名前を畏れ、主の栄光を畏れる。主なる神の名「私はいる」という意味は、私たちとともにおられ、私たちの命を守るために日夜働いておられる神であることを思い起こさせます。そして、私たちの闇にご自分の光を投じさせ、私たちが暗闇のままでいることのないように、行く道を指し示してくださる神の栄光がまばゆいばかりにあるというイメージも、私たちのうちに起こさせる。畏れるとは、そのような神の働きへの深い感謝から起きる敬意の念そのものです。決して恐怖のことではない、そういうふうに私は受け止めたいのです。
 
そのように、神はご自分の民に名前と栄光を示され、ご自身のもとに遠慮なく招いておられる。これが、今日の新約聖書でイエスによって語られたところの「神の国の宴会」であると。これぞ救いの究極的なかたちと言えるわけですが、その宴会には恐怖というものは一切含まれていません。招きを断ったらあとでひどい目に遭うとか、何か同調圧力があって、それに従わなければならないから、しぶしぶ行くような類の宴会ではないと、私は受け止めたいのです。
 
神は私たちに恐怖心をあおったりして、救いの道というものを提示することはないと断言したいのです。神はイスラエルの時代から、ずっとそのようにして、人間の側の資質にかかわらず、ご自分の愛といつくしみによって人々を招き続けてきました。その宴会に、私たちは招待状を手にして、いつでも集まることができるのです。それが昔から招待状をいただいていたか、たった今招待されていることに気づいたか、そんなことに関係なく、いつでも、私たちは招かれた宴会の席に喜んでつくことができるのです。そこには上座も下座も存在しないのだと、私は今日の聖書の言葉を解釈し、受け止めたいのです。
 
聖書の言葉も解釈次第で、恐れにも畏れにもなる。しかし、私は畏れのほうを採りたい。それが一日の生活を豊かにするから。そんなことを心に抱き、神のなされることに期待しつつ、新しい一日を過ごしてまいりたいと願い、神に祈ることができました。どうか、皆さんの一日をも豊かに守り導いてくださる神が、皆さんを祝福してくださいますように。お祈りいたします。

10/10/2022

2022.10.11(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記26章15節
あなたの聖なる住まいである天から見下ろして、あなたの民イスラエルを祝福してください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章30~32節
シメオンの言葉:
私はこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民の前に備えられた救いで
異邦人を照らす啓示の光
あなたの民イスラエルの栄光です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
神が私たちに対して祝福を約束してくださっていても、私たちがその祝福をなかなか感じることができないとき、私には神からの祝福が注がれていないのだろうか。
 
どんなに聖書を読んで祈っても、祈っても祈っても、神様の祝福を感じられないんですと、相談を受けることがあります。私は、相談される方の気持ちというものが、痛いほど伝わってきます。なぜなら、私も似たような経験を、これまで数えきれないほどしてきたからです。
 
私たちはやっぱり祝福されたいんだと思います。呪われたり、憎まれたりうらまれたりすることが気持ちいいなんていう人は、どこにも存在しないと私は思っています。そんな経験をしている今だからこそ、今すぐにでも祝福されたい。神がこの私に祝福してくださるのであれば、今すぐにでも私を祝福してほしいことを願い、神を信じる生活へと私たちは導かれているのです。
 
神が指し示された約束の地に向かって、何十年もさまよい歩いていたイスラエルの民たち。いいかげん、神の祝福はどこにあるのだろうかと疲れ果てていく民たちの姿というものを、私たちは思い起こすことができます。そんな民たちの心のうちを代弁するかのように、リーダーであるモーセは神に祈ります。祝福をくださいと。実は、モーセ自身も、約束の地に足を踏み入れるという神の祝福を、最終的に味わうことができない一人でした。祝福をくださいというモーセのとりなしの祈りは、モーセ自身の切なる祈りでもあったのです。
 
自分自身の眼では、イスラエルに対する祝福を見ることができませんでした。それをすぐ目前にしながら、モーセは死んでいきます。しかし、その後、モーセの後継者ヨシュアとともに、神は確かにイスラエルの民たちに祝福をお与えになられたのです。
 
私は、モーセと似たような経験を繰り返していると自分自身を振り返って思うことがあります。そして、とても悔しいというか、空しいというか、自分自身の無力感というか、そんな感情に支配される自分を発見してしまいます。神の祝福が注がれたのだから、それでいいじゃないか。そう思って私も喜びたい。しかし、喜べない。それどころか強い嫉妬心を抱いてしまう自分自身を見つけてしまうのです。何とも人間らしく、またいやらしい自分自身とおうものを発見してしまうのです。
 
だからと言って、神はモーセを、また私ですら、見捨てているわけではない。神は、その状況に応じて祝福を、その人にしか注がれない祝福というものを必ず注がれているということを、モーセは最終的に気付いてそのことに感謝の思いを寄せているし、私も私で、まったく祝福されていなかったかと言えば、そんなことはない。自分の願望とは違うかもしれないけれど、想い起こせば実に多くの祝福があったことを振り返ることができるのです。自分自身をつかんで離さないちっぽけなプライドが、それを思わせないように頑なに拒んでいるのだと、思わされたわけです。
 
今日の新約聖書の言葉に描かれているのは、生涯の最晩年に赤子イエスの姿に接し、その救いを喜び、神を賛美した信仰者シメオンの言葉です。シメオンは、具体的にイエスがどのような救いを展開されるのかについては何も知ることもないし、経験することなく生涯を閉じてしまいます。実現そのものを見ることはありませんでした。しかし、シメオンは生涯の最後に、赤子だったとしても、イエスに会えたというそのことが、自分にとって神からの祝福の何物でもないと、大いに喜びました。ほんの小さいことにも思えることに、神の大きな祝福を思う。私が改めて感じさせられたことでした。
 
今日も神からの祝福が注がれる。私がそのことに気づく思いが与えられることを祈りつつ、一日を過ごしてまいりたいと思いました。皆さんの一日の生活にも、どんなにささいなことであったとしても、すべてをご存知である方が、皆さんの今のために祝福されている。そのことを期待して過ごすことができますように。お祈りいたします。

2022.10.10(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
レビ記22章31節
私の戒めを守り行いなさい。私は主である。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章15~16節
あなたがたはこの世で星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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あなたがたはこの世で星のように輝くでしょう。
 
それは、スターのように人々の脚光や注目を集めるといったものとはちょっと違う。しかし、神が私たち一人ひとりに星のような光輝を与えてくださることによって、私たちの見るものがはっきりと見えてくる。そうなれば、生きることの幸いや喜びというものを、しっかりと握りしめることができるのではないか。そのように今日の聖書の言葉から感じることができたのです。
 
命の言葉をしっかり保つ。私たちはいただいた聖書の言葉を握りしめながら歩むということが、どれだけ私たちの命の支えになるか。そんなことを期待しながら、今日も聖書のページをめくり、御言葉との出会いがあったかと思います。ローズンゲンのようなたったひと言の聖書でも、その日を生きるための「合言葉(ローズンゲンのもともとの意味。くじという意味もあります)」となるのですから、本当に不思議なものです。
 
神は、ご自分の民としたイスラエルの人々に言いました。私の「戒め」を守り行いなさい。私は「主」であると。戒めというと、なにや戒律のようなイメージを抱いてしまうかもしれません。しかし、神が与えられた戒め、つまり律法の本質とは、神が私たち一人ひとりに、私たち人間同士のあいだに芽生える「神の愛」が花開くというところにあります。イエスは、律法の本質こそ神の愛であり、隣人愛であると説いたとおりです。「私は神であり、あなたと共にいて、あなたの神となる」という、「主」というお名前の意味(私はいる)が、ご自分の示される愛としっかりと結びついて、私たちに言葉を与えられるというのです。
 
聖書の言葉を、戒めの言葉としても読むことができるでしょう。もちろん、自戒をうながすために、必要なこともあるでしょう。しかし、その大前提にあるのは、神の深い愛であり、その愛を越える戒めはどこにもありません。愛を言い訳にして、人を支配したり束縛することもなく、あくまで私たちの心に今日も光の輝きを与えるために、生きて働かれる神が私たちとともにおられるということだと、私は受け止めました。
 
今朝は、少しのんびりと休ませてもらいました。配信も少し遅くなりましたが、神の御言葉をこうしてともにいただけることを感謝します。どうか、皆さんお一人お一人の心にも、神の言葉が与える光が、一日を輝かせてくださいますように。お祈りいたします。

09/10/2022

2020.10.9(日)#仙台宮城野教会主日礼拝説教|「三位一体の神?」

2022年10月9日 聖霊降臨節第19主日
仙台宮城野教会主日礼拝
 
聖 書 コリントの信徒への手紙二13章11~13節
説 教 三位一体の神?
説教者 牧師 齋藤 篤
 
キリスト教の教えのなかで、最も難関であるひとつが「三位一体の神」であると、よく聞くことがあります。それをどのように、自分たちの信仰とすることができたのか。そんなことを改めて考えてみたいと思います。
 
↓の動画からご視聴ください。



2022.10.9(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記18章18節
モーセへの主の言葉:
私は彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立て、その口に私の言葉を授ける。彼は私が命じるすべてのことを彼らに告げる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一2章4節
私たちは神に認められて福音を委ねられたので、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、私たちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
人を喜ばすために言葉を用いるのではなく、神が私たちを喜びに導くために与えてくださった言葉を、自分自身のために用い、それが神の喜びにつながっていく。
 
今日与えられた聖書のことばを通して、新たにされた思いです。よく耳にするのは「神に喜んでいただくために」私たちは何ができるだろうか、ということです。そのために、聖書の言葉に聴いて、それを自分自身のなかで吟味を重ねて、それを自分自身の言動としていく。よく言われることです。
 
しかし、私は思うのです。私たちが神を喜ばすためにということが先に来るのではないと。その前に、私たちを喜びへと導いてくださる神がおられるという大前提があるということです。その前提に基づいて、私たちはいかに神の喜びというものを聴き取ることができるかがないと、私たちは究極的に神を喜ばすことはできないのだと思うのです。神の喜びというものを知らずして、どうして私たちは神を喜ばすことができるだろうか。その主客というものが逆転してはならないのだ。そう思ったのです。
 
私たちは自分の善意であるとか良心、そこから来る親切心に基づいて人を喜ばせようとします。その思いは私たちの素直な思いから来るものです。しかし、それが独り善がりなものになってしまうことがあります。「良かれと思って」という言葉は、そういうところから来るのかもしれません。善意とは裏腹の結果が起こるときに、私たちはそのことに困惑することがあります。そこに何らかの負の感情が起こり、人間関係が円滑なものにならないときに。
 
ですから、人間の良心やそこから来る善意というものは、100%正しいなんてことはあり得ないことだと、私は実感します。それだけ、人を喜ばそうということは、その場限り、一時のことであればそれができたとしても、完全な保証を得るわけではないのだと思うのです。
 
であれば、人を満足に喜ばすことすらなかなか難しい私たちが、どうして神を喜ばすことができるのだろうか。私はそう考えるのです。だからこそ、私たちは「神の喜び」というものを与えられた者として、その喜びに満たされながら、その喜びを用いる者として新しい一日を生きるということでしか、神も人も喜ばすことができないのではないか。そう思えてならないのです。
 
神は、ご自分の言葉を人々に知らせるために、預言者というメッセンジャーを人々のあいだに遣わされました。そのためにモーセという人物がイスラエル民族に遣わされました。そして、神がイエスを通して与えてくださった福音という良きたよりを人々に知らせるために、パウロという宣教者が街々に遣わされました。あくまで、人間の良心をはるかに超える、神の喜びを伝えるために。
 
今日も、世界中の教会や集会で、主の日の礼拝や集いが行われ、神の喜びが告げられようとしています。その喜びこそ、私たちの生きるための源となることができるように、私も心を込めて、神の言葉を礼拝に集まる方々とともにいただきたいと願わされました。また、その喜びは、礼拝に集う者だけではなく、全世界のすべての人々に向けられているものなのだということを心に置きながら、一日を過ごしてまいりたいと願わされます。
 
どうか、神の与えてくださる喜びが、私たちの喜びとなり、その喜びを用いることができますように。今日一日のためにお祈りいたします。

08/10/2022

2022.10.8(土) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書42章9節
見よ、先にあったことは実現した。
そこで、私は新しいことを告げよう。
それが起こる前に
私はあなたがたに聞かせよう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書13章17節
多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったのである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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先人が見てこなかったものを、見たいと願っていたことを、あなたがたは今見ているのだ。
 
イエスは人々に伝えました。今日の新約聖書に込められたこの言葉は、イエス御自身のことを言っているのだと、私たちは教会で聴いてきたのではないでしょうか。
 
旧約の時代には、多くの預言者や神の正しさによって生きた数々の信仰者が、神が約束された未来の希望について語り続けてきました。しかし、それをこの目で見ることなく地上の生涯を終えた。だから見ることができなかったのだと。イエスという全世界の救い主の姿を。こういう感じで、この言葉を受け止めてきたのだと思うのです。
 
私がかつて住んでいたドイツのケルンには、ケルン大聖堂がそびえたっています。ゴシック様式の代表作とも言えるこの建造物。実は完成にいたるまでには600年もの年月を要しました。資金難や政治的な混乱のために、建築は何度も中断され、中途半端な姿をさらし続けました。13世紀に始まった教会建築が完了したのは、19世紀後半のことでした。
 
完成を見ることなく次世代に未来を託した人々がいました。ここに「律法の完成者」と自ら名乗ったイエスの姿にシンクロするような気がしてなりません。律法を神からのメッセージと受け止めて、それをただ守ることだけに人生を費やした旧約聖書の時代に生きた民がいました。しかし、律法がなぜ神の民に与えられたのかという本当の理由を知ることは、生涯ありませんでした。律法の完成者を見ることなく、次世代に未来を託しつつ。
 
イエスの時代に生きた人々は、今この目で、肌で、イエスを感じることができました。あなたがたがこの目で見ていると、イエスは人々に語られました。それ以来、神とともに生きる道が与えられた私たちは、救い主イエスとともに歩むという新たな理解が与えられて、今日にいたっているというのです。ここに「福音」のメッセージがあり、そのことを疑う理由はどこにもありません。
 
しかし、私はそれですべてが完成したとは思っていません。私たちは、やがて来る「神の国」を目指して歩んでいる、現在進行形の神の民であるということを、どのように私自身の生き方に影響していくのだろうか、ということに心を寄せたいのです。
 
先ほどのケルン大聖堂の話ですが、600年かけて完成した大聖堂も、建築当初に建てた部分は補修が必要となりました。こうして、大聖堂は補修し続け、今日にいたります。つまり、大聖堂の完成形を具体的にイメージできるのだけれど、何も手を加えなくてもよい完璧な姿というものを、私たちはまだだまこの目で見ることはないのだと。
 
ですから、私が今日生きるこの命も、イエス・キリストという救い主をイメージすることができたとしても、神の国という究極的な理想を見るにはまだ至らないなかで、与えられているものなのだと思えてならないのです。
 
イエスによって確実に私の命は支えられ、守られ、救いを得ている。しかし、現実の世界に生きるときに、決して避けることのできないさまざまなしょうがいや起伏に遭遇があります。そんなときに、私たちは旧約時代の民が、たとえこの目で見えなかったとしても、やがて来る究極の姿を思い描きつつ、その途上を希望をもって歩んでいた姿を、自分自身にシンクロさせることができるのかもしれません。未来を生きる一人ひとりの命のためにです。
 
私の目の黒いうちに、ではなく、すべてを善へと導かれる神がともにおられることへの信頼が、未来へとつなぐ今日の私たちの命を支えることができますように。今日一日の幸いを心からお祈りいたします。

07/10/2022

2022.10.7(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編30編6節
主の怒りは一時。
しかし、生涯は御旨の内にある。
夕べは涙のうちに過ごしても
朝には喜びの歌がある。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章11節より
私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
夕べは涙のうちに過ごしても
朝には喜びの歌がある。
 
私は、今日この詩編の言葉に大きな慰めと励ましを得ました。ここにこそ、私が神が私とともに歩んでくださることを信じて、生きることができる土台なのだと。そのように強く感じさせられたのでした。
 
私の目から涙がこぼれそうなくらい辛い出来事に遭遇したとき、自分自身のことだけで頭も心もいっぱいになってしまい、そこから抜け出すこともできずもがき苦しんでしまう。そんなことがしばしばあります。そういう時にこそ、私は悲劇のヒーローのように自分自身を位置付けてしまう。そんなことがあるのです。
 
そして、そういうときにこそ、自分自身の真実の姿に目を留めようともせずして、他者や環境のせいにしようとしてしまう。もちろん、多少はそれが真実であったとしても、自分自身を不幸のどん底に落としてしまうこと、そこに自分自身がとどまり続けてしまうのを、さも好んでいるかのように、振舞ってしまったりするのです。
 
この世の中は、一度「失敗」すれば、それをいつまでも責め立て、その人が回復するチャンスすら与えない。勝ち組・負け組と簡単にレッテル貼りされて、いつまでも怒りと憎しみのなかで生きなければならない環境があります。だから、私たちが上記のように感じてしまうのも、無理がないことなのだと思います。
 
主なる神の怒りは一時である。今日の詩編の言葉にはそのように記されています。涙を引き起こすような怒りがたとえあったとしても、それはいつまでも尾を引くようなものではない。夜が明ければ、私たちに今日生きる新しい命をお与えになり、喜びの歌が歌えるような一日の生活を与えてくださる方。それが神なのだというのです。
 
悲しみや嘆きの原因がどこにあるのか。私たちは神の怒りに恐れおののくのではなく、私たちが明日に希望をもって歩むことができるようになるために、自分自身の心に入り込んでくださる神が、真剣に私の真実の姿を気づかせてくださり、そして手当てしてくださる。主の怒りは一時とは、そんなイメージなのではないかと私は思ったのです。
 
この世の中にあるすべての怒りや憎しみというものに対して、ご自分も怒りつつ、しかし、それをすべて受け入れて私たちの身代わりとなって死に向かわれたイエス。死に向かうということは、ある意味夜の暗闇に向かっていくようなものです。しかし、それは明くる朝に私たちが喜び歌うことができるためでした。まさに、復活の朝を私たちが迎えることができるために。
 
今日も復活の朝が私たちに与えられました。どうか今日過ごす一日が、喜びの朝にはじまり、希望を抱き続けられるようなときとなりますように。お祈りいたします。

06/10/2022

2022.10.6(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ホセア書14章10節より
主の道はまっすぐで、正しき者はそこを歩む。
だが、背く者はそこにつまずく。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章11節より
あなたがたは、今そうしているように互いに励まし合い、互いを造り上げるようにしなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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人と人との関わりを通して、自分自身と神との関係性に気づかされる。そんなことを思いつつ、今日与えられたふたつの聖書の言葉に心を寄せることができました。
 
私が「主の道」をまっすぐに歩いているのだろうか。自分自身ではそう思ったとしても、実はそれが主の道というよりは我が道を歩いていた。そんなことに後になって気づかされることがあります。結局のところ、主の道を自分ひとりだけで歩むことなどできないのだと思います。
 
ある心理学者はこんなことを言いました。人間関係の複雑さから逃れたいのであれば、無人島でひとりで暮らすしかないのだと。とても深い言葉です。たったひとりになれば我が道を歩くことができるというものです。しかし、この世の中でただ独り生きることなど、ほぼ不可能であると言ってよいでしょう。人間は誰かとのかかわりの中で生きざるを得ない。そういう存在なのだと。
 
ですから、人と人との関係性のなかで、私たちは自分の立ち位置というものがどこにあるのかが見えてきます。そして、その立ち位置がどのような人間関係をつくりあげ、ときには葛藤し、苦しみ悩みながら生きていかなければならない。これは人間に与えられた宿命であると言っても間違いないと思うのです。
 
今日の新約聖書の言葉に「互いに励まし合い、互いに造り上げるようにしなさい」との勧めの言葉があります。私たちが互いに励まし合うことができるのは「造り上げる」ことを目的としているからです。何によって自分自身が造り上げられるのでしょうか。今日の聖書の言葉からすれば、主の道を歩むためにその道を備えてくださった主なる神によって、私という人間が造り上げられます。そのためには、どうしても他者との関わりが無くてはならないものとなる。そんな風に感じるのです。
 
他者との関係性を通して自分自身が造り上げられるというのは、単なる仲間意識、同族意識だけで固まるということではないと私は考えています。確かに結束は強くなることでしょう。しかし、自分自身を守るための殻が強固にされる一方で、他からの刺激を一切受け付けなくなる頑固な自分自身を造り上げてしまうことになってしまう。まさに、我が道を行くことを好んで選び取るために、同類相哀れみ、傷をなめ合うような関係性をつくろうとしてしまう、私たちの傾向というものがあるのかもしれません。
 
ですから思うのです。私たちはやはり他からの刺激を必要とするのだと。それは、神がご自分の言葉と聖霊の導きによって、自分自身に変革をもたらすような刺激です。それは、私たちの社会で普通に行われている同調圧力のようなものとは一線を画します。あくまで神は、私たちの個というものを愛し、重んじつつ、しかし、それも神からの賜物であることに気づかせてくださり、私の命を与えてくださった神が私に、他者との関わりを通して、その真ん中に神がおられることを知らせ、刺激を与えてくださることで、自分自身が造り上げられるような生き方、まさに主の道を歩むことが許されるのだと。
 
私たちはいとも簡単につまずきます。そのつまずきの渦に巻き込まれてもがき苦しみます。しかし、そのつまずき決して抜け出せないものではないのだ。このことを胸にして、今日という一日を歩みたいと心から願わされました。皆さんの一日にも、神様の豊かな守りと刺激がありますように。お祈りいたします。

05/10/2022

2022.10.5(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章31節
その日が来る――主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙9章4~5節より
彼らはイスラエル人です。子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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新しい契約に生きる者として、未来志向を歩むために歴史を振り返ることを大切にしたい。今日のふたつの聖書の言葉を通して、私が思ったことです。
 
現在、私がお仕えしている仙台宮城野教会は、2020年の春に、それまであった旧・仙台愛泉教会と、旧・仙台宮城野教会が合併して誕生した教会です。今3年目の歩みを踏んでいます。と同時に、仙台愛泉教会は1941年に誕生し、宮城野愛泉教会は仙台愛泉教会の開拓教会として、1980年に伝道開始、1989年に教会が誕生しました。さらにさかのぼれば、1906年に誕生した救世軍仙台小隊が、私たちの教会のはじまりです。まさに116年の歴史を経て、現在の教会のかたちがあります。それまでに、これらの教会を通して福音が語られ続け、実に多くの方々が命の救いというものにあずかってきたということになります。
 
そのような歴史と伝統のうえに立って、一昨年新しい教会としての歩みを始めたということに、神はどういう意味というものを与えているのだろうか。牧師として赴任した者として、そんなことを毎日考えながら、祈り、神の御心に聴くことの大切さを実感しているところです。そんなことを踏まえて、今日与えられた聖書の言葉は、まさに「未来志向に生きる」ことに尽きる。そのように思ったのです。
 
神は、イスラエルという集団を歴史のなかで形成されておられました。神がアブラハムをご自分の民として選び、イサク、ヤコブの神となり、民族をつくりあげ、出エジプトの苦難をとおして、民を守り続ける神となられました。それはやがて、イスラエルの地に王国をつくりあげ、国民と国を守り続ける。与えられた国家というものは、まさに神の守りがなければ形成されることはなかった。イスラエルの民は、こうして神に守られながら、自覚しようとせざるとも、歴史を歩んできたと言えるでしょう。
 
しかし、神は新たな道をさらに人々に対して与えられました。イスラエルのみならず、すべての人々が、キリスト(救い主)の恩恵をいただくことができるために、私たちに与えられた方、それがイエスでした。限定された世界に神は風穴をあけられ、ご自分の御心というものを常に未来志向の思いをもって進み行かれる。それを具体的に私たちに示されたのが、救い主イエスだったのです。
 
私たちは、歴史と伝統を大切にすることができます。しかし、そこには必ず意味というものが伴います。ただ機械的に、形式的に歴史と伝統を頑固に守り続けていればすべてが済むという話ではないのです。創業者の思い、開拓者の思い、先人・先輩の遺志を継承する。それも大切かもしれません。しかし、もっと大切なこととは、救いの道というものを常に開き続ける神が私たちとともにおられ、私たちに未来を歩むということの意味というものを、聖書の言葉と聖霊の導きをもって、私たちに日々気づかせてくださるということなのです。
 
私の心はどこを向いているのだろうか。自分のなかにある「変わりたくない心」というものが、神によって指し示されている道を歩むことを拒んではいないだろうか。大義名分を突き付けて正当化しようとはしていないだろうか。そんなことを黙想させられつつ、そういうところから解放されて今日という一日を歩みたい。そのように願わされました。
 
それは教会の歩みのみならず、私たちの生活のひとつひとつにも言えることなのだろう。今日も神の指し示しによって、主にあって未来志向を喜ぶことのできる者となりますように。祈りつつ、皆さんの一日にも主の平安がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

04/10/2022

2022.10.4(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記10章18~19節より
主は孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方である。だから寄留者を愛しなさい。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章35節より
あなたがたは、よそ者であったときに宿を貸してくれた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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自分にとって「よそ者」とは誰のことか。そんなことを考えました。
 
昨日、ある自治体の議員である方が、ご自分のSNSで「同性結婚なんて気持ち悪いことは大反対!」という投稿をされました。あとでこの議員さんは、この投稿が軽率であったことを認めて謝罪されましたが、私は、これが人間の持つ感情であると同時に、感情というものがいかに人間を支配するかということを、つくづく思わされたのです。
 
気持ち悪い。ここに「よそ者」の定義と基準があるような気がしてならないのです。つまり、感情が私たちの心を支配するときに、その感情を正当化するために、世の中でうたわれているルールなどで理論武装して、さも万人共通の真理のようにドヤ顔をしながら豪語してしまうのです。一見立派に見えても、その中心にあるのは「気持ち悪い」という、私自身の感情なのだと。
 
もちろん、私も人間ですから、自分自身に感情がなければ生きていけませんし、その感情に振り回されることもほぼ毎日のようにあります。ですから、感情があること自体否定しているわけでは全くありません。ただ、私のなかで自戒をこめつつ思わされるのは、神がこの世界に対して示してくださっている御心というものに、私自身の感情が勝っているのであれば、それに気づいたのであれば、それを撤回する決意と方向転換が求められているのだと、強く思わされるのです。
 
では、神の御心はどこにあるのでしょうか。
 
今日私たちに与えられたふたつの聖書の言葉。孤児と寡婦の権利を守られ、定住地のない人々の生活を支え、私たちが自分とは異質であり、また仲間としてどうしても受け入れられないという感情的な理由だけで「よそ者」と断定してしまうような人々に、雨風しのげる場をためらいなく提供される方。それが今日の聖書の言葉でうたわれている神の御心だというのです。
 
だから寄留者を愛しなさい。イスラエルの指導者モーセは、神のそのような御心にふれ、では、あなたはどのように生きるのかと、民たちに問われました。私も今日一日の生き方が問われている。神から与えられた感情というものを、神の御心に答えるために用いることができますようにと、神に祈りつつ過ごしてまいりたいと願わされました。
 
神の目からすれば、よそ者などいないのだ。そんなことを胸にして生きるところに、神の平和がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。