25/11/2022

2022.11.25(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章35節
主は太陽を置いて昼の光とし
月と星を夜の光と定め
海をかき立て、波を騒がせる方。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一8章6節
私たちには、唯一の父なる神がおられ
万物はこの神から出
私たちもこの神へと向かっています。
また、唯一の主、イエス・キリストがおられ
万物はこの主によって存在し
私たちもこの主によって存在しています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
ドイツに滞在して、はや5日目の朝を迎えました。この時期には本当に珍しく、青空が広がる天気の下で過ごしています。普段ならば、この時期は厚い雲が青空をさえぎっていますから、一日中どんよりとした状況なのですが、今回の滞在はそんなこともなく、雨も時折降ってはいますが、気持ちよく毎日を過ごしております。
 
私がケルンの街に住んでいたころ、この季節になると気分が何となく良くありませんでした。そして、太陽が顔をのぞかせると、そんな暗い気分にパーッと光が射したような気持ちになって、元気が出てくるなんていうことも、しばしばあったのです。そんなことを思い出しながら、今日の聖書の言葉をいただくことができました。
 
太陽を創造されて、光を与えてくださった私たちの神について、預言者エレミヤは語りました。光と闇を分けられる方。その闇をもつかさどる方が、私たちの神であるというのです。闇をもコントロールできるからと言って、神は闇を用いて乱用するようなことはありません。あくまで光と闇を分けられるということにおいて、闇をコントロールすることのできる方であると言って良いのではないかと私は思うのです。
 
ですから、私たちの心のなかに、闇と光が混在しているような状況にあるときに、神はそれを整理すべく、私たちにご自分の言葉をもって臨んでくださるのだと私は受け止めたいのです。昼があれば夜もあるように、私たちの世界に闇がまったく存在しないということはありえません。神がそのことをよくご存じです。だからこそ、光と闇が入り乱れる中で、私たちがあくまでそのなかから輝く光によって、闇のなかでも希望をもって生きることができるように支えてくださるのではないかと、今日の聖書の言葉を通してそんなことを感じた次第です。
 
そして、その光とはイエス・キリスト。闇の中に輝く光となられた方が、私たちの心にもともし火をもって照らしてくださる。今日の新約聖書が語るメッセージも、そんなところから来ているのだろうなと受け止めたいのです。
 
どうか、今日の皆さんの一日に、そのような光が輝き続けますように。お祈りいたします。

24/11/2022

2022.11.24(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書49章8節
主はこう言われる。
私は恵みの時にあなたに応え
救いの日にあなたを助けた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章21節
神の国はあなたがたの中にある。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
昨日は、ローズンゲン黙想をアップする時間がありませんでした。そのような時間をきちんと取り分けられたらと思うのですが、久しぶりに時差のある環境に身を置きますと、いつもならば作業できる時間帯に眠気に襲われて作業できなかったり、いろいろ難しさを感じたりしています。日本時間は14時前ですが、こちらは現在朝の6時前です。私にとっては、やはり朝のこのひと時が、黙想をするのにぴったりな時間なのかもしれません。皆さんには、私のペースにつき合わせてしまっておりますが、どうぞお許しください。
 
神の国はあなたがたの中にある。イエスによって語られたひと言です。この言葉をどのように捉え、本日の御言葉として受け止めれば良いだろうか。そんなことを考えました。神の国は、私たちが決して創生できるものではありません。私たちの国であれば、それは私たちが創生するべきものであることは確かなのですが、主語が「神」である以上、神の国をつくり上げるのは、やはり神以外に他ならない。私はそう思うのです。
 
神の国を聖書から聴き、それを具体的に神の国を表現するところ。それは教会の務めであると言えます。しかし、その教会ですら、神がつくられるその国を表現することができているだろうか。そんなことを思わされます。
 
ケルンの街を歩いていましたら、かうて建物があったところが更地になっておりました。この場所に、ユダヤ人の博物館が建築されるとのことでした。ケルンに限らず、第二次世界大戦中に、ときの政権であったナチスは、ユダヤ人大虐殺をはじめとする悪政をおこなったわけですが、そのナチスに協力をしたのが、神の国を掲げる諸教会でした。それが本当に神の国の先取りであると信じたかどうかは別としても、しかし、神がご自分の国というものをどのように私たち人間に与えようとしているのか。そのあたりのイメージを、ときの教会は十分に理解することができず、とんでもない思い違いと選択をしてしまったと言わざるをえないのではないかと思うのです。
 
私たちは、自分自身がときに経験する、そのような思い違いや勘違いによって、神が望まれることから知らず知らずのうちに離れゆくなんていうことに気づかされるかもしれません。だからこそ、私たちのただ中に神がおられる、神の国が存在するということがどういうことかを謙虚に受け取る者でありたいと心から願わされます。私たちが神をつくり上げて真ん中に立てて崇拝するのではなく、私たちの心の真ん中に神がおられるなかで、私たちはその神の声にいかに聴くことができるのだろうか。平和というものは、そういうところから生まれるのではないかと思えてならないのです。
 
恵みをもって私たちに応答され、私たちを救い助ける。今日の旧約聖書の言葉です。自分の要求をそのまま神が聴いてくれるわけではなく、救いの手を差し伸べるわけでもない。しかし神は、そんな私たち一人ひとりをご自分の言葉で今日も励まし、慰め、必要なことを教え諭してくださるのだと。そのために、私たちが神を真ん中に立てなくても、神は私たちの真ん中にいてくださる。私たちが知るべきなのは、そういう神が私たちの中心におられるということだけなのかと思うのです。
 
午後を迎えた日本におられる皆様へ、これから一日を迎えようとしている欧州にある皆様へ、そしてどんな時でも神が真ん中におられることを励みに生きようとされるすべての方々に、神の守りと平和がともにありますように。お祈りいたします。

22/11/2022

2022.11.22(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編97編10節
主は忠実な者の魂を守り
悪しき者の手から救い出す。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二6章4,5,8~9節
私たちは、あらゆる場合に自分を神に仕える者として推薦しているのです。鞭打ち、投獄、騒乱、労苦、不眠、空腹にあっても、栄誉を受けるときも、侮辱を受けるときも、不評を買うときも、好評を博するときにも、そうしているのです。私たちは人を欺いているようでいて、真実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかけているようでいて、こうして生きているのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
昨日、無事にドイツ・フランクフルト空港に到着し、今回最初の目的地であるケルンへ到着しました。日本とは8時間の時差がありますので、いつものように朝6時前に目覚めて、いつものように御言葉の黙想をしていますが、これを読んでくださる日本の方々は、すでに午後を迎えていることと思います。なるべく日本の朝にお届けしたいという思いもございますが、もしそれができなければ申し訳ありません。どうぞよろしくお願いいたします。
 
今回、5年ぶりにケルンの街を訪ねました。久しぶりに耳にするドイツ語の波にもまれながら、懐かしい風景の数々に触れています。ケルンという街の名は、「植民市(コロニー)」がもととなっているように、ローマ帝国の支配下で生まれたいわゆる「古都」です。そんなケルンに最初の教会が建築されたのは4世紀。まさにローマ帝国の国教としてキリスト教が認められたのに合わせて聖堂が建てられたことがわかります。街のいたるところにその当時の遺跡が残されていますので、ローマ帝国時代の雰囲気というものも味わうことができます。
 
私は、今日選ばれた新約聖書の言葉を通して、そのローマ帝国の社会に生きた使徒パウロのことを思いました。本日の御言葉には、直接ローマ帝国とのかかわりのなかでパウロが語った言葉ではありませんが、しかし、福音というものが伝えられ、分かち合われるその過程・プロセスというものは、そう簡単なものではなかったのだなということを、つくづく感じさせられるのです。実際に、パウロは手紙の送り先であるコリント教会での伝道は、決して順風なものだけではなかったことは、彼がその手紙で書いている通りです。
 
そのような環境のなかで、パウロは本日の聖書の言葉に当たる部分を執筆します。パウロはたとえ順風であろうとも、逆風であろうとも、そのような風に翻弄されることなく、ただ忠実に神の民として生きようとするパウロの姿勢から生まれた言葉だったのではないかと、私は思わされました。ただ淡々と、どんなときにも神が私をその御心で守ってくださる。そのことが、自分の身に起こる変化で何かが変わることはないのだ。そんなパウロの姿勢というものに、私も生かされたい。そんな思いにさせられました。
 
ドイツ滞在中、なるべくコンスタントに黙想をお届けできるように時間を取ってまいりたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。皆さんの一日に、神様の守りと平安をお祈りいたします。

20/11/2022

2022.11.20(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書3章14節
立ち帰れ、背信の子らよ。
私はあなたがたをシオンに連れて行く
――主の仰せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書15章20節
そこで、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
神はじっと待つだけではない。
 
本日のふたつの聖句をいただきながら、思ったことでした。本日の聖書の言葉は、旧約・新約聖書のどちらも、一旦は父の期待を裏切り、そのもとから離れてしまった子が、再び父のもとに帰るということがどういうことかを、私たち一人ひとりに思い起こさせる文章として描かれています。
 
いわゆる「放蕩息子」と呼ばれた息子が、自分勝手に人生を生きた結果、何もかも失ってしまい、もう帰るところが一つしかなくなってしまった。今さら父のもとに帰ることができない。顔向けできないという息子の思いを、私たちは想像することができます。しかし、息子は父親のもとに帰りました。息子は父が「帰っておいで」と招いてくれるのではないかというひとかけらの望みを抱いたのでしょう。自分が生き延びるための唯一の手段だったのです。
 
預言者エレミヤは、神から預かった言葉を人々に告げました。立ち帰れと。立ち帰るとは方向転換して元通りのところに戻るという意味です。しかし、今まで進んだ道を今さら引き返すことはできない。これが人間の正直な思いかもしれません。放蕩息子が今さら父親に顔向けできないと思ったように。
 
しかし、立ち帰ることを決意して、元あるところに戻ろうとした途端に、父はじっとその帰りを待つにとどまりません。父のほうから息子に駆け寄り、近づき、その家に連れていく方。それが父のイメージであり、私たちの神の真実なのだと、今日の聖書の言葉は私たちに語りかけているのです。神はじっと待つだけではない。私たちに戻ろうという気持ちさえあれば、なんの条件もなしに帰ることができるよう、私たちの心に迫ってくださるのが、私たちの神であるというのです。
 
私はあなたがたをシオンへ連れていく。そう神は人々に告げられました。私たちのうちにある躊躇する思い、今さら引き返せないというプライド、そんなものは神にとってはどうでもいいことであって、私たちに帰りたいという気持ちをすべて汲んでくださる方が、私たちの手をとって、一緒に祝福の道を歩んでくださるのだと。
 
そんな神に私たちの人生が支えられていると思ったら、私たちの歩みというものが少しでも軽くなるのだと、私は思わされました。そして、今日も礼拝から始まるこの一日が、神とともに歩むことのできる幸いに包まれると思ったら、それだけで生きる希望というものがわいてくると思ったのです。
 
いよいよ来週からアドヴェント(待降節)を迎えますが、今日はそれを迎える一年の最後の日曜日をいただきます。まさに救い主が来られるのを、私たちは希望と待望をもって迎えることができるような、備えの一週間として歩んでまいりたいと思います。
 
どうぞ、皆さんにとっての一週間が、そのような幸いに包まれますように。立ち帰ることの喜びを、かみしめることのできる一週間でありますように。心からお祈りいたします。

19/11/2022

2022.11.19(土) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書62章11節
主は地の果てまで布告された。
娘シオンに言え。
見よ、あなたの救いがやって来る。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一1章3節
私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
どんなに挫折を味わおうとも、それはやがて来る復活への一里塚。
 
そんな言葉が、私の思いにあふれてきました。本日、私たちに与えられたふたつの聖書の言葉を目の前にして、この言葉を胸にして生きていきたい。それが希望なのだと。
 
私が大好きな曲があります。ご存知のかたもおられると思いますが、サルーキ=というロックバンドによって歌われた「復活進行」という曲です。↓のYouTube動画からご覧ください。本当に素敵な曲です!
 
 
私は思います。この世の中に本当に復活があるのだろうかと。それは、死んだ人が生物学的に生き返るということを言うのではなく、死んだような思いを経験したとしても、再びやり直せるようなチャンスを、この世の中から見つけ出すことができるのだろうか、そんな疑問をいろいろな場面から見えてしょうがないのです。
 
完膚なきまで叩きのめされる世界、そこにはゆるしも何もなく、怒りと憎しみで満ちあふれるような世界。再びはい上がってこれなくするまで、もはや愉快犯的につぶしまくる世界。これじゃ復活もへったくりもあったもんじゃない。そう思うのです。
 
イエス・キリストが死者のなかから復活されたという事実は、そういうゆるしのない私たちのただ中で起きているということを、私は自分のこととしてどれだけ受け止めているのだろうか。そんなことを考えずにはいられませんでした。復活信仰に生きつつ、復活への進行をする者として歩んでいく。自分自身の「業の深さ」が見えてこそ、復活を与えてくださったイエス・キリストの存在が、どれだけありがたく、また尊いものであるかを思い知らされるのです。
 
復活に生きるとは、神にゆるされて歩む私たちもまた、同様に神にゆるされて生きることのできる一人ひとりのために祈り、一緒に復活の主であるイエスを見上げて共に歩むことができるかであると、今日の御言葉から聴かされた思いがしています。
 
今週もあっという間に最終日を迎えました。この7日間を振り返りつつ、主の復活日である日曜日への良き備えとしての一日を迎えることができますように。祈りつつ、皆さんの主にある平安と祝福を、心よりお祈りいたします。

18/11/2022

2022.11.18(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記12章1節
主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ
 私が示す地に行きなさい。」
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙6章12節
信仰と忍耐とによって、約束を受け継ぐ人たちに倣う者となりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
アブラムがカルデアのウルの地を離れて、神の示されるかの地へ旅立ったのは75歳のときでした。アブラム(のちのアブラハム)は、その後100年間神とともに歩んで、その生涯を閉じます。
 
決して比較できることではありませんが、興味があったので調べてみたところ、日本における男性の平均寿命(2021年)は、81.47歳だったのだそうです。これを単純計算でアブラハムの175歳に当てはめると、アブラハムの75歳は平均的日本人男性の何歳にあたるのか。34.91歳と出ました。ほぼ35歳と言えば、いわゆる青年期を終えてひとりの大人としての責任が増していく頃かもしれません。
 
これはあくまでわたしの私見ですが、175歳も生きた人物が、現在の私たちと同じように老化するとは思えないのです。もちろん、175歳という年齢が本当だったのかどうかという疑問も一方であるわけですが、もしそうだったとしたら、今の私たちよりも老化が遅かったのではないか。そんなことを想像するのも、聖書を読む楽しさのひとつだったりします(ちなみに妻のサラは127歳で生涯を閉じています。日本人女性の平均寿命が87.32歳ですから、サラがイサクを身ごもった時の年齢(90歳)は、日本人のそれに相当すると61.88歳。確かに、赤ちゃんを身ごもるには難しい年齢かもしれませんね)。
 
それはさておいて、本日の聖書の言葉に戻ります。
 
人は青年期に得た人生設計というものを、いよいよ中年期で実現化しようというときに、予定の変更を迫られたらどうなるだろうか。私はそんなことを考えました。アブラムも、カルデアのウルという、メソポタミア地域の比較的肥沃な場所で、家畜を育てながら生活をしていたわけで、ある程度自分の人生の道というものが定まりつつあるなかで生活していただろうと想像できるのです。
 
しかし、ここで神の声がアブラムに届けられます。あなたが受け継ぎ、築き上げてきたものを置いて、私が示すところに行きなさいと。もし私たちがアブラムだったら、どのように神の声を受け止めるか。そんなことを思うのです。
 
最近は「財産をすべて捨てて、私に従いなさい」なる宗教が世間を賑わせていますから、そんな神の声にも、私たちは一瞬ドキッとしてしまうかもしれません。しかし、そのような宗教と決定的に違うのは、神は決してまやかしのない守りと祝福を、これまでの人生を置いて、新たな人生の旅路に発ったアブラムの人生に与えられた、というところにあります。
 
神はときに、人間の人生設計を大いに変える方です。しかし、人間がそれを信仰と忍耐をもって受け入れたときに、神はその人間を決して我欲のために利用したり、利用価値が無くなったら捨ててしまうような方ではありません。信仰をもって答え応じた人間に、最後の最後まで人間を守り抜き、祝してくださる方、それが私たちの神であるというのです。
 
私たちは、それを忍耐をもって受け入れなければならないときもあるでしょう。答えがでないとき、自分の希望と裏腹の状況に動いているときに、私たちは神が差し出してくださる守りを待ち続けなければならないときもある。しかし、こういう時にこそ、アブラムが歩んだ人生から、私たちは多くのことを学ぶことができるのかもしれません。
 
約束を受け継ぐ者たちに倣う者となりなさい。この聖書の言葉を、今日を生きる合言葉として握りしめたいと思いました。どうか、皆さんの新しい一日にも、そのような神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。

17/11/2022

2022.11.17(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編116編7節
私の魂よ、休息の場に帰れ。
主はお前に報いてくださった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二3章16節
平和の主ご自身が、いついかなるときにも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
本日の旧約・新約聖書の両方を貫く言葉は「平和」であると受け止めました。平和(旧約の原語であるヘブライ語でシャローム、新約の原語であるエイレーネー)という言葉は、とても幅のある意味を持つ単語ですが、その数ある意味のひとつに「休息」があります。
 
つまり、平和とは私たちに休息を与えるものであるという理解は、とても分かりやすい平和の意味を私たちに提供しています。休息は私たちに心安らかな思い、すなわち平安を与えるということからも明らかです。
 
では、その平和を私自身どれだけ大切にしているだろうか。そんなことを、今朝のひと時に思わされた次第です。平和とは、人と人とのあいだに争いごとをつくらないという意味を持っていることは、誰でも知っています。戦争のない世界こそ平和である。長年叫ばれていることです。
 
しかし、究極的には人と人とが究極的に平和な状態になることは、どれだけ大変なのかを思わされます。どれだけ平和が叫ばれたとしても、世界大戦と呼べるような戦争からごくささいないさかいに至るまで、人々のあいだに争いごとが無かった時代など無いからです。
 
争いは、自己主張のぶつかり合いから起きます。自己主張することは全然悪いことではありません。しかし、自己主張を「絶対化」するところにこそ、平和を阻害する根というものがあるのだと私は考えています。だからと言って、自己主張を納得のいかないままに心のうちに抑え、我慢するようでは、あまり良い解決方法であるとも思えないのです。
 
だからこそ、私たちは自分たち以外の誰かによって、自分自身を整えていく必要があります。それが、私たちの神であるというのです。私が朗子さんと結婚したときに、司式をしてくださった今橋朗牧師が、準備会でこんなことを仰ってくださったのを思い出しました。
 
夫婦は、お互いの顔だけを見つめ合っていたのでは幸せにはなれません。お互いのあらばかりが見えてくるからです。本当に幸せになりたいのであれば、ふたりが神を仰ぎ見て、そして手をつないで歩くこと。これこそ、家族が平和であるために、無くてはならないことなんです。
 
平和の主と言われる私たちの神が、私たちにひとときの休息を与えてくださるとは、自分自身というこだわりの荷を一旦降ろして、神のもとで安らげるような時を持つことなのだと私は受け止めました。御言葉に触れて、祈るひとときが、そんな時となることを心から期待しつつ、神が与えてくださる休息こそ平和への第一歩と信じて、今日も歩んでまいりたいと思いました。
 
皆さんの一日にも、神様の平和が豊かにありますように。お祈りいたします。

16/11/2022

2022.11.16(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨブ記28章28節
主を畏れること、これが知恵である。
悪を離れること、これが分別である。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書11章35節
自分の中にある光が暗くならないように気をつけなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
本日の新約聖書の言葉に「自分の中にある光が暗くならないように」というイエスの言葉があります。暗くなるとは、闇の状態を指します。あなたの中にある光、それは神が私たちの心に投じてくださる御自身の放つ光のことを指すわけですが、その光が見えなくなってしまうほどに、私たちの心が真っ暗闇になってしまうのであれば、それはあまりにも勿体ないことだ。だから、そうならないように心を配りなさいという、イエスの人々に対する勧めの言葉です。
 
そのことを、本日の旧約聖書の言葉は具体的に「悪から離れることは分別である」という言葉につなぎ合わせようとしています。ここで、悪が何であるかということを論ずる前に、それが「分別」であるという言葉に、私たちは注目したいと思います。分別とは、日々起こる出来事に対して、慎重に考えたり判断をすることという意味があります。悪から離れるためには、今起きている出来事に対する慎重かつ十分な考慮というものが必要なのだということを、この聖句は私たちに伝えています。
 
では、私たちが慎重に考えたり思ったりするためには何が必要なのでしょうか。私たちにはそのことを考えるための基盤というものを必要とします。それこそ、神が私たちのために放ち、投じてくださる光なのだと私は受け止めました。私たちはこの世を生きるためには知恵を必要とします。その知恵とは何なのか。今日の言葉には「神を畏れること」と書かれています。神が私たちの幸いのために、生きて働いてくださることへの畏敬の念が、私たちに知恵を与え、光を光として受け入れる分別というものを示してくださるのだと。
 
こうして、はじめて「悪」とは何であるかを、私たちは神の視点ということから出発して、考えることができるのではないかと思ったのです。私たちは「悪」というものについては、そもそも持っている良心というものが悪を規定させる力をもっているわけですが、しかし、私たちによる悪への判断基準のほとんどは、親や社会からの教育や習慣によってつくりあげられるものであると言って良いでしょう。
 
だからこそ、私たちは神の視点というものを大切にしたいと思わされました。神は私のこの出来事に、また今起きようとしていることを、どのように考えているのだろうか。そのために、御言葉に聴き祈るという私たちの連続的な営みこそ、私たちのうちに闇をつくらないために、無くてはならないものなのでしょう。今日も、そのような思いをもって、御言葉に聴いて祈る生活を大切にしたいと思わされました。
 
皆さんの一日に、光を投じてくださる神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。

15/11/2022

2022.11.15(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上9章27節
サムエルはサウルに言った。「あなたはしばらくここにいてください。神の言葉をあなたに聞かせます。」
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書13章16節
あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
神の言葉をあなたに聞かせる。その聞く耳があなたにあるならば、それはあなたにとって幸いなことなのだと。
 
本日与えられたふたつの聖書の言葉をつなげると、こんなことが言えるのではないかと私は思いました。神の言葉に耳を傾けるとは、いったいどういうことなのだろうか。もちろん、神の言葉に聴くということを、私たちは普段の営みとしておこなっているわけですけれど、その当たり前とも言える営みのなかで、私たちは「どのように」聴くことができるのだろうか。そんなことを少し黙想したいと思いました。
 
私は、今日の旧約聖書に記されている、イスラエルの指導者であるサムエルが、自分の後継者であるサウルに対して語った言葉に注目しました。あなたはしばらくここにいてくださいという言葉です。この聖書の言葉ですが、原文であるドイツ語聖書では、今、あなたは静かに立っていなさいと日本語に訳せるようなものとなっています。何のために、サウルは静かに立つ必要があったのでしょうか。神がこれから語られる言葉に、耳と心を傾けるためでした。
 
ただ静まって、立ち止まって、神の語られる声に耳と心を傾けること。そういう時が、サウルの今後の人生を支えるということをサウル自身が知るために、サムエルの後継者としてイスラエルを治める最初の心構えとして、サムエルはサウルに対して、このようなことを伝えたのでしょう。王としての道を進みゆくためにも、時として立ち止まること、ただ静まることの大切さを、今日の聖書の言葉は私たちに伝えているような気がしてならないのです。
 
こうして、皆さんにお届けしているローズンゲン黙想ですが、これは当時病身にあったある方のリクエストによって始めたものです。最初はツイッターからでした。ほんの数十文字の黙想でした。しかし、黙想しているうちに、自分自身が立ち止まって、御言葉に聴くことが私にこのことをリクエストされた方のためというよりは、自分自身の養いには欠かせないものであると気付くようになりました。そして、文章に書き留めておくことを習慣化したくて、現在のかたちに落ち着きました。この一日の習慣が始まって、もう7年ほどになります。
 
ときに、毎日文章に書いて、大変ではありませんかと聞かれることがあります。確かに、先日のように時間がうまく取れないこともありますが、これは義務感に駆られてしているというよりは、まず最初に自分自身が少しでも立ち止まって静まる時が欲しくて、私の場合は文章を綴るという方法を通して、このことを行っていますので、そのことは負担に感じたりすることはありません。むしろ、私の黙想を皆さんに付き合わせてしまっているように思えることもありますが、黙想を分かち合うというのも、またこれは、神の恵みを感じるひと時であることに間違いありません。
 
TwitterやFacebookなどのSNSや、最近ではLINEの公式アカウントを通して、その黙想の分かち合いをさせてもらっていますが、黙想に対する感想や反応、祈りの言葉や、ときには違和感のようなものをリアクションしてくださるとき、そのどれもが私にとっては大きな養いのとき、立ち止まってまた黙想したいと思わされるひと時なのだと。ですので、これを読んでくださる皆さんには、心から感謝の気持ちでいっぱいですし、神が皆さんを通して、また多くの気づきと幸いを与えてくださるのだと。そんなことを、今日の聖書の言葉から思わされました。
 
どうか、今日も主にあって素敵な一日でありますように。お祈りいたします。

14/11/2022

2022.11.14(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書14章6節
主なる神はこう言われる。立ち帰れ。あなたがたの偶像を離れて立ち帰れ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章2節
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
あなたがたの偶像。
 
今日の旧約聖書に記されていたこの言葉に、注目したいと思いました。あらためて偶像とは一体なんだろうか。私にとっての偶像とは一体なんだろうか。そう思ったのです。
 
神が私たちに対して、偶像から離れなさいということを、律法以来、何度も伝えていることを、私たちは知っていると思います。そのときに、偶像とはなんだろうかということを私たちは考えるわけですが、偶像とは、単に神仏のかたちをした「像」のことだけを言っているのだろうか。実は偶像というものは、目に見える像だけでなく、人間の手や、思い、心によって編み出されたものならば、すべてにおいて「偶像」と呼ぶことができるのでないか。宗教のかたちを取らなくても、人間がこの世界で生きている以上、あらゆる偶像があらゆるかたちで私たちの生活を取り囲んでいるのではないか。そのようにあらためて思わされました。
 
偶像。それは人間の不安から生じるものであると私は考えています。私たちは、自分自身のうちにある不安を解消するために、なにかに依存することを覚えます。依存することで安心感を得ます。しかし、それはいっときの安心かもしれない。そうすると私たちはまた不安になり、より依存しやすいものへと目移りしていき、そこに自分自身を寄りかからせようとする。その繰り返しを私たち人間の歴史は繰り返しているのではないだろうか。そのように思ったのです。
 
神が偶像から離れなさいと言っておられるのを、私たちはなぜ守ろうとするのでしょうか。神から罰を受けるからでしょうか。それが恐いからでしょうか。そんなことよりも大切なのは、それが私たちの実際の生活にとって本当に無意味で、空しいものだからではないでしょうか。つかの間の安心を得るために、いろいろなものに飛びついてはそれに飽き足りずポイポイ捨てていくような私たちの「態度」こそ、偶像をしがみつく根のような気がしてならないのです。
 
私たちの不安を根本から解消させるものとは一体なにか。そんなことを考えるときに、私たちにいつでも戻る場所があることを示してくださる神がおられるということではないかと、私は今日の聖書の言葉を通して受け止めたいのです。立ち帰れと私たちに呼びかける方が、私たちに帰る場所を教え、その場にある安心を提示してくださるというのです。私たちは、安心とは一体なにかを、私たち自身が祈りつつ、御言葉に聴きつつ、神と対話を重ねながら、自分のこととにしてその生活を歩ませていくことができるのだと。これは理由なき義務ではなく、私たちの主体に委ねられた選択の結果なのだと。それが、今日の新約聖書の言葉にある「わきまえ知る」という言葉に示された意味なのだと思うのです。
 
今日の一日にもまた、神が差し出してくださった道を歩むことによって得る安心が、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。

13/11/2022

2022.11.13(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
士師記6章17節
ギデオンは言った。「もし御目に適いますなら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしをお見せください。」
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一5章14節
何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
神の御心に適うことならば。
 
今日のふたつの聖書の言葉を通して、心に響いたひと言です。私たちは、神の御心をというものを、どのように知ることができるのでしょうか。私たちが知りうるただひとつの方法は、神が私たちに与えた言葉によってのみ、それを知ることができます。それだけではありません。私たちに神のことを理解するために助けとした与えてくださる聖霊の知恵と力によって、私たちは神の言葉を神の言葉として受け取ることができるのだと私は信じています。
 
ですから、聖書と聖霊という言わば車の両輪のような働きが健全になされるためには、バランスというものが必要です。聖書というものが単に紙切れに書かれた文字の羅列のように、また、聖書そのものがあたかも神通力のかたまりのように力を発するようにとらえてしまうのであれば、それは聖書を通して神の御心に聴くということにはならないと私は考えています。聖書そのものを神として扱うことになってしまわないだろうか。そう思うのです。大切なのは、聖書の言葉を通して、その向こうにある神の思いというものに、耳と心を傾け続ける営みをしていくということなのだと私は感じます。
 
そして聖霊です。聖霊は聖書の言葉と神をしっかりとつなぎ合わせるために無くてはならない助けです。しかし、聖霊をあたかも人間の万能をうたう力のようにとらえてしまうならば、それは神の言葉を通して神の御心を身に受けるのではなく、私自身が神となってしまう助けとなってしまうでしょう。聖霊を受けるというのは、しばしば自分自身の感性と合一することがあります。私の考えが神の御心にすり替わってしまうのです。聖霊を受けた人間の思いは神とつながっているのだと。しかし、聖霊とはそういうものではありません。あくまで、人間の思いが神の御心によって変革させられるための助けに他ならないのです。
 
ですから、私が聖書の言葉を受け取るときに、それを自分自身に照らし合わせるときに、それが本当に神の御心に適ったことなのかどうかを、じっくりと黙想する営みは本当に大切なのだと思います。聖書と聖霊というものがバランスよく自分のなかで受け入れたときにこそ、神の御心が自分自身にとって生きる力になるのだと、今日の聖書の言葉を受け止めることができました。
 
どうか、今日から始まる新しい一週間が、神の御心によって自分自身が道を進みゆく幸いに出会うことができますように。心よりお祈りいたします。

12/11/2022

2022.11.12(土) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書51章11節
主に贖い出された者たちが帰って来る。
喜びと楽しみが彼らに追いつき
悲しみと呻きは逃げ去る。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録21章4節
(神は彼らの)目から涙をことごとく拭い去ってくださる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
今日は朝に黙想をお届けすることができませんでしたが、こうして夜のひと時に黙想する時間が与えられたことに、心から感謝しつつ、明日への備えの神の言葉として受け取りたいと思いました。
 
すべての悲しみをご存知である神が、私たちの目にあふれる涙を、ことごとくぬぐい去ってくださる。聖書の最後に語られる、新しい天と新しい地が私たちのもとに訪れたときに、神が私たちに対して最終的になしてくださる御業について、黙示者は私たちに伝えます。
 
この一週間を振り返ります。そこには必ずしも良いことばかりが私たちにあったわけではないでしょう。つらいことや悲しいことも、私たちに容赦なく襲ったことを思い出せるかもしれません。そんなときに、私たちはどのようにこの一週間をしめくくることができるのでしょうか。神の助けはどこにあるのか。神は本当に私のことを守ってくださるのだろうかと。。。
 
今日、ある方からこんなことを尋ねられました。牧師はしばしば孤独と聞いていますが、先生は孤独を感じることはありませんか?と。私は答えました。もちろんあります。あるけれど、「ロンリネス」な孤独ではなく「ソリチュード」としての孤独を楽しめるように、自分を整えるように心がけていますと。
 
ロンリネスとソリチュード。どちらも「孤独」と訳すことのできる言葉です。しかし、ロンリネスとはただ寂しさだけが募る孤独なのに対して、ソリチュードは、いわゆる「おひとり様」を楽しむことができるような孤独のことを指します。いろいろなものに振り回される孤独は、とてもしんどいことですが、他に振り回されることなく、自分自身を見つめ直す作業としての孤独は、自分の立ち位置というものを確認することができる、とても大切な作業であると言えます。
 
ましてや、私の場合は悲しみゆえに流れ出る涙をぬぐい去ってくださる神が、私とともにおられるという大前提があるなかで、自分自身にとって、そのような神がどこにおられるのだろうかということを、じっくりと確認するための孤独になるときがやっぱり必要なのだと思うようにしています。これだけで随分楽になるというものです。
 
そのためには、ソリチュードとしての孤独になるための環境が必要です。私にとって土曜日は、もしかしたらそういう時なのかもしれません。今日は午後に、かねがね会いたいと思っていた方にお目にかかることができて、楽しい交流のひとときをいただきました。ある意味では「自分のためだけの時間を取り分けること」もまた、大切なソリチュードの作業なのかもしれません。
 
自分のためだけの時間や機会を取り分けて、その営みを通して自分自身を見つめていく。そして、神との距離感や神の助けをどれだけリアルなものとして自分自身のなかで受け入れていくかを確認する作業。この作業があってこそ、ロンリネスとしての孤独をも、客観的に見つめながら、明日の礼拝に臨むことができるのではないかと思わされています。
 
明日の礼拝への備えのとき。このときに私の立ち位置を確認しながら、明日へ希望を託し、涙をぬぐい、喜びを与える神の御業に期待するとき。そんな時が、今の時を過ごしている皆さんの一切にも豊かにありますことを、心よりお祈りいたします。どうぞ、素敵な夜のひとときをお過ごしくださいますように!

11/11/2022

2022.11.11(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨブ記1章21節
主は与え、主は奪う。
主の名はほめたたえられますように。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章3~4節
苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
本日の聖書として選ばれた新約聖書の言葉は、長く「苦難・練達(錬達)・希望」として親しまれたものですが、4年前に出版された新しい聖書によれば、「練達」ではなく「品格」とあります。私はこの品格という表現がとても好きです。私たちが苦難を味わなければならないときに、どのような人生の道が与えられるのかということについて、深く考えさせられるひと言だからです。
 
練達とは、熟練・熟達していることを指します。その道に経験を重ねることで得られるものと言うこともできるかもしれません。一方で「練」ではなく「錬」という文字を用いる場合もあります。金偏(かねへん)ですから、金属を精製するにあたって、熱を加えて叩き、ねっていくといったイメージがあります。
 
そのようななかで考えたいのは、私たちがもし苦難を味わったときに、乗り越えることのできる練達・錬達というものは、誰が主体となって行うものなのでしょうか。それは苦難を味わう本人のようにも思えます。しかし、練達・錬達の主体は、私たちの神に他なりません。
 
そうです。「ねる」のではなく「ねられる」のです。経験を通して得られる熟達さというものは、あたかも私の所有物のように感じるかもしれませんが、その源はどこにあるのかということに、私たちは目を向けていきたいし、今日の聖書の言葉を綴った使徒パウロもまた、そのことを意識していたと、私たちは捉えることができるのだと私は感じています。
 
神によって、不純物の多い金属が熱され、柔らかくされ、溶かされることで精製され、何度も何度も叩かれ、打ちのめされることによって、不純物は取り除かれるだけでなく、頑丈な金属が生まれていく。まさに金属とは私たちのことであると換言することができるのだと思います。こうして生まれるものが「神によって造られていく品格」なのだと。
 
新改訳聖書では「神によって練られた品性」と、この部分を翻訳しています。ここでわかるのは、私たちの抱く品格とか品性というものは、自分で見つけ出して、熟練したからこそ得られるものではなく、あくまで神の言葉と聖霊の働きによって、神によっていただくことのできるものなのだ、ということを明らかにしています。
 
本日の旧約聖書の言葉は、ヨブの言葉です。悪魔のいたずらによって何もかも失ってしまったヨブの苦しみがありました。その苦しさを味わうなかで、ヨブは自分の努力によって子の苦しさを克服するのではなく、あくまで、自分の命をつかさどっておられる神をほめたたえます。神によってつくりあげられる品格によって、彼は神が与えてくださる希望を握りしめて、その苦しさを生きることができた。まさに、本日の新約聖書の言葉に相通じます。
 
いまだ味わう苦労があるならば、そのことをもすべてご存知である神が、今日も私の心を、思いを練り上げてくださいますように。こうして生まれる品格こそ、私を生かすことを希望とすることができますように。祈りつつ歩んでまいりたいと思います。

10/11/2022

2022.11.10(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上14章6節
主が救いをもたらすのに、人数の大小は問題ではない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙10章35節
ですから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
主が救いをもたらすのに、人数の大小は問題ではない。
 
今日、この聖書の言葉に出会ったとき、私はあらためて大きな衝撃を受けました。「量より質」という言葉を、私は牧師としてどのように受け止め、日々の牧師としての働きに当たっているだろうか。そんなことを痛感させられたからです。
 
牧師として遣わされた教会に着任した以上は、神から託された伝道という務めに誠実に当たりたい。しかし、いつしかその主たる目的が、礼拝出席者数が増えること、受洗者が与えられること、教会の財政的基盤が安定することを通して、自分自身が満足をし、生活が安定することになってしまってはいないだろうか。そんなことを思わされたのです。
 
数の大小というのはとても分かりやすい論理で、大きければ豊かさを生み、小さければ乏しさを示しているように見えてしまうのです。しかし、どうでしょうか。いくら見た目には大きく見えても、内容がスカスカの状態だとしたら、いとも簡単に崩れ去ってしまうかもしれません。逆に見た目にはどんなに小さくても、しっかりとした材料で精巧につくられているならば、それはどんな外圧にも耐えるだけの力を持つことができるわけです。
 
もちろん、教会が数的に祝福されることは何の問題もないことです。しかし、数的なものを、自己満足や安定に対する願望のゆえに求めることを第一にしてしまうならば、それは、今日の旧約聖書に示された神の御心というものとは、全く相容れないものなのだと思わされるのです。
 
教会の営みというものは、キリストのからだの営みなわけですから、それを主導されるのはキリストという神に他なりません。人を救いに導かれるのも神の御業であり、お働きである。その貴い働きを、神は人間に託されました。この地上における教会という集団に。
 
神の御業が私たち人間に託されるときに、では、私たちは神の働きを、神の働きとしてどれだけ理解して、その働きに当たっているだろうか。ちゃんと理解しているだろうか。簡単に量の大小、人数の大小だけで見えてしまうような価値観にすり替えてはいないだろうか。そんな問いが、今朝の私に向けられたような気がしています。
 
私にとって大切なこととはなんだろうか。教会の営みに示された神の御業が、信頼に満ちあふれたものなのだという、深い理解と自覚なのだと。今日の新約聖書の言葉にある「確信」というのは、神の人間に対する深い信頼に対する、神への信頼をもってなされる応答であると受け止めました。この神と人間とのあいだに働く確信こそ、結果として豊かさを生み、祝福があふれることを、私は胸に刻んで今日という一日の小さいように見える出来事にも、誠実に歩みたいと願わされました。
 
たとえ小さくても、主の祝福は主の祝福なのだ。そこに大きな喜びを見出せるような一日でありますように。そのことを心から願いつつ、お祈りいたします。

09/11/2022

2022.11.9(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書11章9節
水が海を覆うように
主を知ることが地を満たすからである。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章13節
その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
海水が海面を満たすように、私たちの神がどういう御方であるかという理解が私たちの世界を満たすならば、この世の中はどれだけ平和になるだろうか。
 
そんなことを想いながら、今日選ばれた旧約聖書の言葉を味わうことができたような気がしています。
 
今朝は7時から、仙台朝祷会が仙台宮城野教会を会場にして行われました。コロナ禍のために、しばらく開催できなかった朝祷会ですが、しばらくは月1回の開催ということで、通常会場としている仙台青葉荘教会で再開できるまでは、宮城野教会の会堂をお貸しすることになりました。参加者は4名。奨励は青葉荘教会の潮義男牧師が御言葉の取り次ぎをしてくださいました。
 
60年以上の歴史を持つ仙台朝祷会ですが、その最初は仙台宮城野教会の前身である仙台愛泉教会(さらに古くは救世軍仙台小隊)からの信徒である、佐藤利吉さん(地元の方は佐利[さり]さんと呼んでいます)によって始められたと聞いています。ちょうど先日の召天者記念礼拝で飾られた佐利さんの写真がそのままになっていましたので、参加者以上にたくさんの方々とともに祈ったような気持ちになりました。
 
海面に満ち満ちあふれた海水がもたらす恵みーー時には津波などによる脅威となることもありますがーーは、私たちへ実に多くの豊かさを与えます。海の水にたとえられた神についての理解もまた、私たちに多くの豊かさを与えてくださるのだと、私は信じたいのです。
 
神と言うと、私たちを狭めるもの、縛るもの、恐れへと陥れる存在というイメージが、どうしてもこの世の中につきまとう気がしてなりません。それだけ、神を利用して自分の好き勝手にことを振舞ってきた人間の姿があり、その結果なのだろうと私は思います。だからこそ、私たちは神がどういう御方なのかということを、丹念に聴き続けることが大切なのだと思わされるのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちが神についての理解を深めるために、無くてはならない助けについて、それを「真理の霊」、すなわち聖霊なる神の助けが、私たちを理解へと導くことについて語られています。イエスが、このような言葉を弟子たちに与えたわけですが、イエスの願いは、私たちが自欲のために神を利用するのではなく、神が私たちを豊かにするために、すでに生きて働いておられるということへの深い理解を得ることである。そのために、イエスは聖霊を助け主として私たちに与えてくださったのです。
 
私たちの心を満たす聖霊なる神の働きが、私たちをさらなる理解へと導いてくださいますように。神を知ることが、この世界を平和へと導いてくださる方への深い信頼へと導いてくださいますように。お祈りいたします。

08/11/2022

2022.11.8(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書1章7節
「まだ若い」と言ってはならない。
むしろ、私があなたを遣わす相手が誰であろうと
赴いて、命じることをすべて語れ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録18章9~10節
恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私はあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
私はまだ若いのです。
 
神によってメッセンジャーとして立てられたのは、のちに預言者としてイスラエルはおろか、後代の人々にも知られることになった、歳若いエレミヤでした。神は、あなたが母親の胎内にいたときから知っていた。やがて私の言葉を人々に伝えるために、私はあなたを選んだとエレミヤに告げます。
 
エレミヤは、そのような務めを与えられるには、あまりにも人生経験に乏しく、おそれ多いことだと思ったのでしょう。そのときに、エレミヤは言いました。「ああ、わが主なる神よ。私はまだ若く、どう語ればよいのか分かりません。」(6節)
 
エレミヤのそのような思いに、神は語りかけました。「彼らを恐れてはならない。この私があなたと共にいて、救い出すからだ。」(7節後半)神からすれば、エレミヤの若さであるとか経験の乏しさなどというものは、どうでも良かったのです。私の言葉を伝える相手がどんなに恐ろしい者であろうとも、ただ語り続ければ良いのだ。なぜならば、私があなたと共にいるのだから。今日の旧約聖書に示された言葉です。
 
自信がない。それで良いのです。自信とは「自分を信じる」という意味です。信じるだけの自分自身がないのは、結果として神が共にいてくださることへの希望を生むことにつながります。自分を信じて歩もうという言葉が、この世界で当たり前のように用いられるなかにあって、自信がなくてどこが悪いのだと、私は今日の聖書の言葉を通して、あらためて気づかされます。
 
エレミヤは自信がなかった。だから「私はまだ若いから」と、自分の正直な気持ちを告白したのでしょう。しかし、そんなエレミヤだからこそ、神は預言者として選ばれ、そして立てられたのだと。自信のない姿にこそ、神が共にいてくださることの意味が明らかにされ、大きな助けがあるのだと。
 
それは、今日の新約聖書の言葉にある、宣教者パウロに夢のなかで語りかけた、神の言葉からも明らかです。ギリシアの都アテネで、パウロは自分に与えられた能力をフルに活用して宣教に励んだものの、その結果はのれんに腕押し。空しさだけがパウロを襲いました。もう福音を伝えることをやめてしまおう。そんな恐れがパウロを取り囲みました。
 
そして、次の宣教地であるコリントにおいても、安息日ごとに会堂でユダヤ人やギリシア人への説得にあたったと記録されています。しかし、その結果は決してかんばしいものではなく、むしろユダヤ人からの激しい抵抗に遭います。まさに追い打ちをかけるように、パウロに容赦なく降りかかる出来事の数々に、能力に長けたパウロは、自信を失っていたに違いありません。
 
しかし、そんなパウロにだからこそ、神は語りかけられました。私はあなたと共にいると。自信を持つことよりも、はるかに大切なこと。それは神がともにおられ、信仰の実体であるイエスが与えられていることへの、深い信頼関係によって生まれる希望なのだと。自信がなくて上等なのです。いや、むしろ自信がないことで、はじめて神が見えてくるのだと。
 
自分自身に今日も問いたいと思います。こんな自分で良いのかと。神がご自分の言葉を通して良しとされておられることならば、そのことにただ誠実な者でありたいと願わされました。そのような思いで歩む一日に、神が必ず祝福を与えてくださると信じつつ、私たちすべての歩みに、そのような神の導きが豊かにあることを、心よりお祈りいたします。

07/11/2022

2022.11.7(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書11章1節
エッサイの株から一つの芽が萌え出で
その根から若枝が育つ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録22章16節
キリストの言葉:
私は、ダビデのひこばえ、その子孫、輝く明けの明星である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
ひこばえ。
樹木の切株や根元から生える若芽のことをひこばえ(孫生え)と呼ぶわけですが、切株から生えてくるひこばえを見ると、幹は切り落とされたとしても、根はまだ生きていて、それでもなお生きようとする生命力のようなものを、強く感じさせられたりします。
 
私たちの見た目には、死んだように見えたとしても、神の目から見れば、まだ死んでいない。死んでいないどころか、再生のために若い芽を吹きだそうとしている。それはすでに芽吹き、成長し、やがて大樹へと成長する歩みを、明らかに踏んでいるのだ。これが、神が私たち一人ひとりに見せておられる「御業」に他なりません。
 
今日私たちに与えられたふたつの聖書の言葉は、旧約イザヤ書は救い主であり世界の王、イエス・キリストに関する有名な預言のひとつであり、それが実現したとうたっているのが、新約ヨハネ黙示録の一節です。
 
すでに生命力を失ったかのように見えたイスラエルから、かつての栄華を誇ったダビデのような王が現れる。エッサイの切株から生えるひこばえは、神がお選びになられた愛する人々の系譜というものが、決して絶えていないことを表現するものでした。ひこばえが大樹となるまでのあいだ、神は私たち一人ひとりをご自分の御業を通して、ゆっくり、じっくり育てていくのです。やがて来る王を心から迎えることができるように。
 
その王は、明けの明星として光輝き、私たちのもとに現れてくださった。ダビデのひこばえなるイエス・キリストとして。これは、ローマ帝国の圧政と迫害のなかで、神を信じ、イエスをキリストとして信じ続けてきた信仰者にとっての希望でした。どんな迫害に遭ったとしても、死んではいない。まだ生かされているのだ。それどころか、神の御業が私を育て続けてくださる。だから迫害のなかでも生きていくことができるのだ。そんな情熱のようなものが聞こえてくる、今日の聖書の言葉です。
 
昨日、永眠者記念礼拝を終えることができました。この地上で信仰者として生涯を終えたかたがたを通して、神の御業というものを見せていただきました。人の記憶や経年劣化し、いつかは散逸してしまうかもしれない記録は、いつかは失われてしまう。しかし、人の目には思いには、消えてなくなるかもしれないけれど、神の目からすれば、ご自分の御業によって明らかに継承し、神の国に向かって着実に歩み続けている。その中心に救い主イエスがおられるということなのだと。
 
この希望に生かされつつ、今日という一日も歩んでいきたいと願わされました。ダビデのひこばえによって生かされる幸いが、今日も皆さんとともにありますように。お祈りいたします。

06/11/2022

2022.11.6(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書6章3節
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
万軍の主。
その栄光は全地に満ちる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一1章15節
あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
今日は、私が属する日本基督教団では「聖徒の日」とされています。多くの教会で、永眠者記念礼拝がおこなわれることと思います。私が働く仙台宮城野教会でも、そのような礼拝が持たれます。
 
年に一度、かつて教会で信仰生活を送り、神の御許に召された信仰者を思い起こす機会としても、この礼拝を持たれるわけです。そのような方々のことを「聖徒」と私たちは読んでいるわけですが、それは決して、それらの方々が「聖なる人」となったわけではないというのが、プロテスタント教会が守り続けてきた考え方です。つまり、生涯を閉じた方が神格化するわけでなければ、仏様のような存在になるわけでもありません。
 
では、なぜ聖徒と呼ばれるのでしょうか。それは「神の聖によって、永遠に生かされる者となる」からです。数日前も、神の聖とは何かということについて黙想したことを思い出します。神の聖というものは、人間を愛し、探し求め、見つけ出し、守り抜くという神の名に示されたその務めそのもののことを指します。私たちは、そのような神から守られているからこそ、神の聖をいただく者として、聖に生きることができるというのです。それも永遠にというのが、イエス・キリストを通してなされた神の約束なのです。
 
かつての先達たちが、神に守られてその一生を過ごしたことを私たちが思い起こすときに、その方々を通して、聖なる神の姿を見ることができる。神が神とされることを私たちは確かめることができます。その神の姿を、今ここに生きる私たちも継承しています。そして、いずれかはそのバトンを、私たちは次世代に受け継ぐときがやってくるのでしょう。
 
新しい一週間がやってきました。どうか、この7日の営みも、そのような神の聖が私たちに浸みわたることによって、私たちが平安に生きる者とされる日々となりますように。心からお祈りいたします。

05/11/2022

2022.11.5(土) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌下20章6節
主よ。あなたの御手には勢いと力があり、あなたに立ちはだかる者は誰もいません。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章38~39節
私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
これしか勝たん。
 
数年前に、若い人たちのあいだで流行った言葉です。これ以上のものはないということを言いたいときに使う言葉なのですが、私自身、この言葉を最近使ったら「もう古いですよ~」と、若い人から言われました。はい。もう正真正銘のおじさんなのです。言葉の流行りすたれは本当に速いなあと思わされます。
 
それはさておき、実は私はこの言葉が結構好きだったりします。今日の聖書の言葉を通してぱっと思い浮かんだのは「やっぱり愛しか勝たん!」でした。神の愛に勝るものは何もないんだ。そう思ったのです。そのことを考えれば、今日の旧約聖書の言葉にある、神の力に立ちはだかる者は誰もいないのだという言葉は、言い換えれば、神の愛に立ちはだかれる者は、誰もいないんだと言うことができるのではないか。そう思ったわけです。
 
どんな力や勢力をもってしても、という言葉に注目したいのです。世の中を支配するのは、一部の人々だけが得をするような風潮です。どんな政治形態であれ、人間がもともと願望ととして持っている支配欲求がそうさせるのだと。この支配に世の中はがんじがらめにされて、息苦しくなることすらあると私は感じています。
 
しかし、どんなに強くても、どんなに立ちはだかることが難しく感じたとしても、やはり愛しか勝たん。神の愛に勝るものはないのだ。これが聖書全体を通して私たち一人ひとりに与えられる希望に他ならないと。この希望に今日与えられた一日を用いたいと願わされました。
 
今週も最終日を迎えました。あっという間の一週間でした。今日は東京のある神学校でカルト宗教に関する講義をおこないます。伝道者としての現場に立とうとしている方々のために、お伝えできることをお伝えしたいと願いつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日が、愛しか勝たん神の守りと祝福が、ともに豊かにあるひとときでありますように。お祈りいたします。

04/11/2022

2022.11.4(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書15章16節
あなたの言葉は私にとって喜びとなり
私の心の楽しみとなりました。
万軍の神、主よ
私はあなたの名で呼ばれているからです。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15書10節
イエスの言葉:
あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
あなたの御言葉は、私にとって喜びとなり楽しみとなるのです。なぜならば、私は「あなたのお名前」で呼ばれているからです。
 
預言者エレミヤの言葉です。エレミヤは、神の言葉を民たちに取次ぎ、伝えるメッセンジャーとしての役割を担っていました。それが預言者として神から託された務めだったからです。神の言葉を胸に抱き、それを握りしめながら生きる。それがエレミヤにとっては大きな喜びであり楽しみであるというのです。
 
しかし、エレミヤの預言者人生は決して順風満帆なものではなかったはずです。むしろ、困難の多い人生。それがエレミヤの預言者としての歩みでした。神の言葉を伝えても、それに耳を傾ける人はおろか、かえって民からの迫害を味わうことになります。神の名を利用して、分かったような口をきくんじゃない。神を冒とくするな。そんな声もあれば、全く無関心の反応がエレミヤを突き刺すことがあったのではないかとも思うのです。
 
にもかかわらず、エレミヤは神の言葉を通して、神である主のお名前が呼ばれることが、大きな喜びであり楽しみであると告白しているのです。主のお名前、それは私たちの神となってくださる御方が、私たちとともにいてくださる。私たちが神に背を向けて生きようとも、無関心であろうとも、神は私たちにその御顔を向けられ、私たちを守られる方なのだということを表しています。「私はいる」という意味のお名前に。
 
エレミヤは、神なる主のお名前に示されたご自分の愛を受け取っているからこそ、その愛をもって一人ひとりに神からのメッセージを取り次ぐことができました。それがなかったら、預言の言葉も、単なる断罪と呪いに満ちた通告に過ぎなかったでしょう。たとえ人には厳しい言葉が取り次がれたとしても、そこには愛がある。神の愛がある。この愛に、私たち一人ひとりが生かされるのだと。
 
イエスは弟子たちに言われました。あなたがたも私の掟を守るならば、私の愛にとどまっているのだと。そもそも神の掟とはなんなのか。道徳的に品行方正に生きることか、~してはいけないという言葉を禁忌事項として避けて生きることか、聖書を人間の価値を品定めするためのルールブックとすることか。大切なのは、その土台というか根底に神のお名前に示された「愛」が脈々と、水脈のように草木をうるおす水源のごとく流れているかということなのだと、私は今日の聖書の言葉を受け止めました。
 
私は、今日のエレミヤの言葉を通して、私もまた神の言葉を礼拝で取り次ぐという務めが与えられている者として、エレミヤが「それが喜びであり楽しみである」と告白した姿に、大きな共感と励ましをいただきました。次の日曜日は、多くの教会がそうであるように、仙台宮城野教会も「永眠者記念礼拝」がおこなわれます。昨日、その礼拝を楽しみにしておられる宮城野教会のメンバーの方とお話する機会があり、そこにも、神の愛が脈々と流れることへの期待を思い、心を込めて準備をしたくなりました。
 
今日の一日もまた、愛に満ちあふれた神の御言葉を受け取る私たち一人一人が、そのことのゆえに喜び、楽しむことのできる時となりますように。心からお祈りいたします。

03/11/2022

2022.11.3(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書28章25節
私が散らされた先のもろもろの民のもとからイスラエルの家を集めるとき、彼らによって私が聖なる者であることを諸国民の前で示す。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙11章29節
神の賜物と招きは取り消されることがありません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
私たちの神が「聖なる者」であることが、どのようなかたちで示されるのか。今日示されたふたつの聖書の言葉を通して思わされたのは、いかにご自分の民というものを大切にしておられるかということで、ご自分が聖なる者であることを明らかにしているのだ、ということでした。
 
ここで「聖」という言葉に、私は注目したくなりました。聖とは清さをイメージさせるものであるということは、誰でも知っていることだと思いますが、聖書において「聖なる」という言葉が示す意味とは「分離する」であると言われています。つまり、世の中のあらゆる混在したところから分離させて、そして抽出するようなイメージでしょうか。
 
このことを「神の聖」に当てはめて考えるならば、神が世のあらゆる国民のなかから、ご自分が大切にされる民を探し出し、拾い出し、集められるといった神の行動が、まさに神の「聖」に基づいたものであると言える。そのように感じたのです。
 
本日の旧約聖書の言葉は、そんな神の思いがあふれたものである。方々に散らされたご自分の民を、再びご自分の民として集められてひとつの国民とする。そして、その国民を大切に守ることで、神の聖性というものが明らかにされるのだ。そう考えると、聖とは何かというものが分かってくるような気がします。
 
どうしても「聖」と言うと、私たちの側の聖さ(きよさ)とか、クリスチャンとしての聖潔のような側面が強調されてしまうかもしれません。かつて、そのことに熱心に取り組んだのは、いわゆる律法学者やファリサイ人と呼ばれる人たちでした。しかし、その熱心さは、神の聖性というものの本質を基本としていないものでした。あくまで人間の側に聖い/聖くないの基準を重視して、そうして窮屈な社会をつくりあげてしまったのです。
 
そんな社会に神の聖の本質というものを明らかにしたのはイエスであり、イエスが世界の救い主になることによって、神御自身の聖によって集められる民は、全世界へ広がったというわけです。イエスが人々と結ばれた新しい契約は、決して破棄されたりすることなく私たちすべてに、2000年ものあいだアプローチし続けられています。キリストによる救いという賜物が、私たちへの招きとともに、決して取り消されることなくです。これが、本日の新約聖書の言葉の示すところであると、私は受け止めました。
 
日本では、今日は文化の日。ひとときの休息を楽しまれている方も多くいらっしゃると思います。そんな休息が、神の聖を思う時となりますことを、心からお祈りいたします。

02/11/2022

2022.11.2(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨブ記3章20~21節
なぜ、労苦する者に光を与え
魂の苦しむ者に命を与えるのか。
死を待ち望んでも、それは来ない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙2章8節
しかし、私たちはいまだに、万物がこの方に従っている状態を見ていません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
今日、私たちのために選ばれた旧約聖書の言葉は、まさに現実に生きる人間の姿というものを、ありありと描き出しているような気がしてならない。そんなことを私は真っ先に思わされました。
 
なおも生きよと言われる神。しかし、現実の苦痛を見たら、とうてい神に守られているという感覚すら起きてこない。こうなったらもはや、死んでしまったほうが楽なのではないか。しかし、神は私が死ぬことよりも、なおも生き続けることを指し示すのだ。どうしてなのですか、神様。
 
悪魔のいたずらによってすべてを失ったヨブ。神のなさることを心から信頼していたのにもかかわらず、このざまはなんだと、やり場のない思いを打ち明けているシーンが今日の旧約聖書の言葉です。クリスチャンになったから、万事ことがうまくいくなどということはない。私たちが経験することです。神を信じて生きるということを知ったからこそ、私たちは神に期待します。神に依存したくなります。そして、自分の願望を神にぶつけます。
 
しかし、神は聞いてくれないのです。なかなか思った通りのことが起きない。そのときの失望たるや、ヨブほどのものではなかったとしても、計り知れないと思うのが私たち人間なのだと。私の現実なのだと。そう思うのです。
 
そんな私たちに、なおも生きよと告げられる神がおられる。どうしてなのでしょうか。私たちには到底知ることのできない、神のベストな計画というものが私たちに与えられているから。私たちが最高の選択と思ったはるか先にある、神の守りと祝福が待ち構えているから、神はなおも生きよ。あきらめるなと、私たちに訴えておられるのだと。
 
そうです。私たちはまだ「知らない」のです。まだ「見ていない」のです。イエスを通して万物の救いを受け取っていても、私の救いを受け取ったとしても、それを具体的に見ていない、まだ知らない。イエスが私たちとともにおられることによって、私たちの待ち受ける先に、どんな幸いがあるかを、まだ知らないのです。
 
それまでの間、私たちに訪れるのは大きな不安です。見えないからです。まだ知るに至っていないからです。先行きの見えない暗闇を、もがきながらさまよい続ける私たち。遠く向こうに光が射していたとしても、うつむくばかりでその淡い光すら見えなくさせられている。自分自身のまわりに固い壁をつくって、そのなかに閉じこもってしまうのです。
 
待つのはつらい。待てない。しかし、神が必ずその先におられる。今がそのときではない。だからこそ、今はじっと待とう。その作業は本当につらいものかもしれない。しかし、生きてりゃ何とかなる。神が必ず、私たちが光明を光明と感じられるように導いてくださるのだから。すでに確固たる信仰の実体であるイエスが、私たちには与えられているのだから。
 
ヨブは、最終的にはこれまで以上の祝福をいただき、晩年を豊かに生きることができました。神がなおも生きよという呼びかけに、ヨブが最終的に従った結果でした。私たちもまた、イエスがともにおられる。このイエスのなさることに望みを託して、今日という一日の戦場に繰り出すことができるのだと。そんなことを思わされました。
 
もし今日という一日を戦い続けているかたがおられるならば、神がその一日を乗り越えさせてくださいますように。私自身の心に、あなたがおられるというたったひと言が、慰めの源となることができますように。お祈りいたします。

01/11/2022

2022.11.1(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書2章14節
娘シオンよ、喜び歌え
今、私は来て
あなたのただ中に住むからだ――主の仰せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1勝68節
イスラエルの神である主は
ほめたたえられますように。
主はその民を訪れて、これを贖われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
今日の新約聖書の言葉は「ザカリアの賛歌」と呼ばれる、老いてから洗礼者ヨハネとなる子を授かったエリサベトの夫である祭司ザカリアが、その出来事を喜び、神をたたえて歌った賛美の一節です。
 
私たちとともにいてくださるという意味をもつ、私たちの神である主(ヤハウェ)は、私たちのもとを尋ね、私たちを贖われたとザカリアは歌いました。贖うとは、代価をもって買い取るという意味であり、身代金という言葉でも表現できるものです。
 
私たち一人ひとりが、神から遠く引き離されている状態のなかで、どこに進んでいいのかわからずに、ただもがいている現実を前提にしています。誘拐犯がこどもを誘拐して、親元から遠く離れたところで監禁する。そんなイメージを抱くことができます。そもそも、こどもはいきなり、突然に誘拐犯にさらわれたわけではありませんでした。自由気ままに、行きたいところへ行こうとして、その結果迷子になったところで、誘拐されたような状態になってしまったというのです。ここがどこかわからない。どうして良いかわからない。どこへ行ったらよいのかもわからない、と。
 
しかし、神はそんなこどもを、好きなところへ自分で行ったのだから、自力で帰ってきなさい。迷ったりさらわれたりしたのは自業自得だとは決して言いませんし、そんな扱いは決してされませんでした。神御自身が、あなたがたとともにいると約束されたその名前の通りに、遠く引き離されたところにまでおもむいて、自分のこどもを助け出してくださる。ここに神の払った多大な犠牲という「身代金=贖い」があるというのです。
 
自分自身の力で何かを切り拓こうとしても、それがすべてうまくいくわけではありません。そんななかをさまよい歩くときの孤独感といったら、なんとも言えないつらさを思うものです。しかし、そんなときでも、私たちを訪れ、私たちとともにいてくださる方がおられる。私たちの心に住まう神がおられるのだ。これを私の生きる慰めとしたい。
 
11月が始まりました。仙台の朝も随分冷え込んできて、冬の足音が近づいているような気がします。美しい紅葉も次第に散り、枯れ木の寂しさがやって来る。しかし、その木にも神がその命を守ってくださる。下旬にはクリスマスを待ち望むアドヴェントもやって来ます。このひと月が、ザカリアの賛歌へと私たちが導かれる備えのときとなりますように。心からお祈りいたします。