25/01/2024

2024.1.25(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編89編16節
幸いな者、喜びの叫びを知る民は。
主よ、彼らは御顔の光の中を歩みます。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書8章12節
私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今冬最大の寒波が、日本列島を襲っています。仙台の街も昨晩から雪が降り始めました。朝起きて外を見ると、一面の雪化粧。少しではありますが、雪も積もっています。今日からアシュラム(祈りと黙想の集会)で滋賀に行きますが、今かの地は大雪のなかにあると聞いています。北陸の被災地も、雪のことが心配です。これ以上、雪による弊害がありませんようにと、まず祈る一日が始まりました。
 
さて、今日の旧約聖書と新約聖書を結ぶテーマは「神による光」であると、私は受け止めました。神が放たれる光に、私たちひとりひとりは、暗闇のなかをさまよい歩くことなく、安心してその光に導かれながら歩むことができる。そんな希望に満ちあふれたメッセージが、今日選ばれた聖書の言葉です。
 
不安は怒りを引き起こすと、先日読んでいた本の中に記されていました。私自身、怒りの感情というものと闘いながら、毎日を過ごしています。元来、私のことを正直に申し上げれば、怒りという感情に負かされている自分自身があることに気付かされています。しかし、この怒りの感情というものに、どのように付き合いながら過ごすことができるだろうか。その感情を無駄に、短絡的に表出することのないようにするためには、そもそも今抱えている怒りは、どのようなところから来るのかということを、その都度、丁寧に分析することにしています。
 
今日の聖書の言葉に触れて思うことは、大体は自分自身の「不安」から来ていることを思わされます。不安は、先行き見えない状況にこそ起きてくるものであると私は思っています。先行き見えないほど、周りは物事がはっきりと見えない。かすんで見える、もしくは、暗闇であるがゆえに、どこを歩いて良いか分からない。そんななかに立たされるときに、不安を抱き、不安からどうしようもない怒りを発するのだと、私は自分自身のことを思いながら感じるのです。
 
だからこそ、今日の聖書の言葉にも記されているように、光の源である神、そして私は世の光であると公言された救い主イエスの言葉に慰められたい。励まされたい。怒りがあるときには、そんな自分自身に「安心して!」と神が語りかけてくださっていることを、いっぱいにイメージしたい。そんなことを願わされます。そうすることで、その場で冷静になれる。自分自身を発見することができるのです。本当に感謝なことだと思います。
 
神の放たれる光は、こうして自分自身を整え、神と共に歩む幸いというものを真ん中に置きながら、今日という一日を主とともに歩むことができるために、無くてはならないものとなっていく。そんなことを胸にして、今日の一日を歩んでいきたいと思わされました。
 
皆さんの新しい一日に、少しでも不安から解き放たれる神の光によって、幸いな時が与えられますように。お祈りいたします。

24/01/2024

2024.1.24(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編102編27節
天地は滅びるが、あなたは立っておられます。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書28章20節
私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日の聖書の言葉、特に新約聖書の言葉は、天に昇られる直前に、イエスによって告げられた「約束の言葉」です。神は私たちともにいてくださる。イエスがお生まれになられるにあたって、その名は「インマヌエル(神はあながたとともにおられる)」という言葉が、イエスによって確かな言葉として語られた。私たちはそのイエスを救い主としていただいていることを思わせる、そのようなイエスの言葉を、私たちは今日の聖書の言葉として聴くことができます。
 
私は、そのインマヌエルというお名前に込められた意味こそ、ヤハウェという、父なる神のお名前に込められた意味に連動し、一貫して神が私たちをどのように取り扱われておられるのかを物語るものであると感じています。「私はいる」という、神ヤハウェのお名前の意味を通して「私は神であり、あなたがたとともにいることによって、あなたがたの神となる」という、存在を表す動詞を包含する言葉の意味が、インマヌエルに継承されていると言うことができるのだと私は思っています。
 
それが、たとえ天地が滅びたとしても、つまり、今日の旧約聖書の言葉が指し示しているメッセージに直結します。どんなに人間社会に裏切りが起き、互いに反目し合い、憎しみあうような環境があったとしても、その双方に、私たちの神がおられるという神の保証がある。大切なのは、私たちはそのことに本当に気づくことができているのだろうかという問いを、私たちは日々の最も大切なテーマとして、問い続けて、そして受け入れられたとしたら、そこに大きな平安と慰めというものを得られるのではないか。そう心から願わされるのです。
 
そんな思いをもって歩む今日の一日に、神様からの祝福がともに、豊かにあることを、心からお祈りいたします。

22/01/2024

2024.1.22(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書45章8節
天よ、上から水を滴らせよ。
雲よ、義を降らせよ。
地よ、開いて、救いを実らせよ。
正義を共に芽生えさせよ。
私は主、私がこれを創造した。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二3章13節
しかし、私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
主の日も終わり、また私たちは新しい平日の日々へと遣わされようとしています。一週間の働きが、神の御心によって十分に導かれた時となりますように。そのようななかで、本日選ばれたローズンゲンのふたつの聖句は「義(正義)」という言葉が、共通するキーワードとなっています。神の正しさ。私たちはそんな言葉を思い巡らせながら、今日の聖書の言葉を黙想したいと思います。
 
旧約聖書・イザヤ書の言葉は、自然界における天地の恵みが降り注がれるように、神の正しさもまた降り注がれるのだという、神による宣言の言葉です。神の正しさはどこにあるのだろうか。私たちはそんなことを思わされます。私たちもまた正しさを看板に掲げながら日々の生活を営んでいるわけですが、その正しさはどこから来るのだろうかと考えさせられます。そしてその正しさが行使されたときに、そこに「ゆがみ」というものが存在していないだろうか、そのゆがみのゆえに、隣人が痛みや苦しみを被っていないだろうかと。
 
もし、そういうことが少しでもあるとするならば、そこに神の正しさが現れてはいないのではないだろうかと、私たちは真剣に考える必要があるのだと私は思うのです。神の正しさは私たちを窮屈にさせるのではなく、あくまで水の滴りやうるおいというものを私たちの命に与え、活き活きとした生活を営むように導かれるからです。
 
ただし、私たちのうちにゆがみがある以上、神の正しさを100%あますところなく自分自身の生活に反映できるということはあり得ません。だからこそ、少しでも神の正しさが何であるか。その正しさによって歩むことの幸いであるとか、窮屈なようで実は自由をもたらすものであることへの深いイメージというものを抱きながら、与えられた日々を歩んでいきたいと、私は今日の聖書の言葉を通して感じさせられました。
 
今日も、神の正しさが皆さんの生活を豊かにしてくださいますように。お祈りいたします。

20/01/2024

2024.1.20(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書10章12節
力によって地を造り
この方が英知によって天を広げられた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙1章17節
御子は万物よりも先におられ
万物は御子にあって成り立っています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。一週間を振り返りつつ、明日の主の日に向かって、備えできる一日であることを祈りつつ、今日ローズンゲンに示された御言葉に耳と心を傾けたいと思います。
 
今日選ばれたふたつの聖句を通して与えられた共通するテーマは「すべてを創造された神」であると、私は受け止めました。自然を司り、私たちの命をただ守られる方としての神を想うときに、私はそのような神を「受け入れ難い」と思うことがあるのではないか、そう感じたのです。
 
特に、私は元日に発生した能登地震のことを思わずにはいられません。自然の力が人々の平和な姿に災いを与え、命が奪われ、多くの方々の生活を奪っていく、そのような姿を報道を通して触れるたびに、自然を司られる神とは何者か、命を守る神の存在とは一体どういうことなのかと、考えずにはいられないのです。
 
神には自然を御する力があることは、イエスが超自然的な奇跡を起こしたという聖書の記述を通しても想像することができます。では、そのような災害を神の力で止めることができなかったのか。そういう声というものは、災害が起こるたびに耳にします。ただ、私はこう思うのです。地球もまた「生き物」である以上、その動きには逆らえないのだと。詭弁かもしれませんが、私たちの動きを神がいちいちとどめないのと同じようにです。
 
だからこそ、私たちは今日のような聖句に出会うときに、私たちの切なる期待というものを、なんでもかんでも神に押し付ければ良いというわけではないということを、心から感じとる者でありたい。私はそう思ったのです。たとえ災いのなかにあっても、命の危機が私たちを脅かしたとしても、平和なときもどんな時でも、私たちのことを決して忘れない神がおられるのだということを。神が万物を造られたというのは、私たちのことを決して忘れないということの、紛れもない証しなのだと、私は受け止めたいと思いました。
 
どうぞ、今日の一日もそのような神がおられることの幸いを、味わえるような時でありますように。災いのなかにある方々のことを心から祈りつつ。

19/01/2024

2024.1.19(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言30章8節
貧しくもせず、富ませもせず
私にふさわしい食物で私を養ってください。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一6章7~8節
私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができません。
食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
私事ですが、日曜日の夜から「急性胃腸炎」になり、悪寒、発熱、嘔吐、胃痛腹痛、下痢といった具合で、数日間休養の時を過ごしておりました。ローズンゲン黙想もしばらく休んでおりましたが、今日からまた再開いたします。体調は良くなりましたが、どうやら妻にうつしてしまい、彼女も体調不良になってしまいました。彼女も回復してきているので、ホッとしております。また今後とも、よろしくお願いいたします。
 
今日の聖書の言葉の「私にふさわしい食物」という言葉に眼がとまりました。貧しくさせることもなく、かと言って富むこともない。ちょうどいい塩梅のふさわしさがあるのだと、知恵者は語ります。そこに「人が人として生きることができる幸い」というものを、私たちは自分自身の思いや姿に照らし合わせて、じっくりと考えていく必要があるのだと思います。
 
清貧という言葉があります。日本でもいっ時流行った言葉であると感じています。ただ、私はこの言葉が誤解されているようにも思えるのです。貧しければそれで良いという意味で用いられてはいないだろうか。特に宗教者に求められている精神のひとつに「私欲を捨てる」というものがあって、キリスト教でも過度な欲望を捨てることがしばしば言われているわけです。
 
しかし、それは「貧しければそれで良い」のではなく、貧しさを推奨しているわけでも無いわけです。どんな状況にあっても、いかに心が豊かにされていくかということを考えるうえで、清貧という言葉が用いられているのではないか。私はそう思うのです。実際に「心が豊か」であることに、貧しさは存在しないわけです。
 
私たちの心を豊かにしてくださる方。それは神その御方であることを、聖書は述べています。神が私たちの心を豊かにしてくださるということを考えるときに、それは私たちの生き方というものにも大きく影響すると私は信じたいのです。経済的に貧困の状態にある、多くの方々がおられることを思います。貧しさが貧しさのままでいいはずなどないのです。だから、私たちはその対極にある「富む」ということにも、神経を注ぐ必要があるのだと思います。過剰な私欲を捨てるというのは、そういうところから来ているのかもしれません。決して貧乏を推奨する言葉ではないということをも含めてです。
 
今日の一日もまた、私たちの心を豊かにしてくださる神がおられることを信じて、歩む者でありますように。お祈りいたします。

14/01/2024

2024.1.14(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書56章1節
主はこう言われる。
公正を守り、正義を行え。
私の救いが到来し、私の正義が現れる時は近い。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書3章14~15節
ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところに来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間を迎えました。そして、今日は主の日です。世界中の教会や集会で行われる主の日の祝祭に、神様からの祝福が豊かにありますことを、心からお祈りいたします。
 
私たちは、日曜日のことを「主の日」と呼びます。主とは、救い主イエスのことを指すわけですが、この日は「安息日」であると同時に、イエスが私たちの救い主となられたことを記念して、喜び祝う一日だからこそ「主の日」と呼ばれるようになりました。
 
この主の日に因んで、日曜日を「主日」と呼ぶのは、教会独特の用語であるかもしれません。同時に、教会では「聖日」という言葉もしばしば用いられます。一週間のなかでも、特に取り分けるべき、旧約聖書時代以来続いた安息日に示された精神が、聖日という言葉をつくり上げたのだと私は思っています。
 
主日でも聖日でも、そこには人々の信仰というものが込められていますので、どちらが良くてどちらが悪いというわけではないと私は思いますが(それでも、私は「主日」という言い方にこだわっていますが…)、そこには、主イエスが私たちの救い主となられたことを祝うという点においては、実に共通することであると私は思いますし、そこを大切にしたいと思うのです。
 
そういう意味で言えば、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉、特に旧約聖書・イザヤ書には「公正」と「正義」という言葉が登場します。どちらも正しいという言葉が含まれるわけですが、旧約聖書的な意味では、「正義があるからこそ公正さを行使できる」と読むことができます。つまり、正義は公正の源にあるものであるというのです。
 
公正を行えと、主なる神はご自分の民に告げられました。私たちが公正を行うためには、正義を必要とするというのです。そして、正義とは、神の正しさのことを指します。神の正しさをもって私たちを取り扱ってくださっているということを受け入れることが、そして、神の言葉に示された御声に聴従することが、神の正義に生きるということであり、ここから公正を行う者として、神が私たちを祝福し、助けてくださるということです。
 
しかし、私たちは公正を完璧に行うことなどできません。だからこそ、神がご自分の正義を携えながら、救いという出来事をもって私たちのもとに訪れてくださることに、希望を抱けるのだと。神が私たちのもとに遣わしてくださった正義こそ、イエスその御方であるということです。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けるシーンの一節です。そもそも、ヨハネが授けていた洗礼とは、神と向き合えなかった人たちが、神と向き合う人生を送るべく、方向転換の儀式として行われていたものでした。ですから、イエスが洗礼を受けたいとヨハネに申し出た時に、ヨハネが恐縮するのは無理もありません。イエスは完全に神と向き合っていた人物であることを、ヨハネは知っていたからです。
 
しかし、イエスは「正しさ」が明らかにされるために、あえて受けなくても良い洗礼をお受けになりました。ここで言う正しさとは、イエスご自身の正しさというよりも、神御自身の正しさであり正義でした。この神の正義が明らかにされるために、徹頭徹尾神とともに歩んでいるイエスが、神とともに歩むことの決意を公に示すものでした。まさに、公正の告白に他ならなかったのです。
 
私たちは、公正の主イエスが救い主となられたことを喜び祝う、主の日の礼拝に参加することができる。この喜びが、一週間を生きる源となるのだと、私は受け取りました。その思いをもって、今日の礼拝に臨みたいと思います。皆さんの主の日の一切に、神からの祝福がありますように。心からお祈りいたします。

2024.1.13(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編39編6節
そうです
あなたが私に与えたのは手の幅ほどの日々。
私の寿命など、あなたの前では無に等しい。
確かに立っているようでも
人間は皆空しい。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章16節
だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
これは、昨日のローズンゲンの言葉です。昨日は黙想をお届けすることができませんでしたので、ローズンゲンとして選ばれた聖書の言葉だけを掲載したいと思います。申し訳ありませんでした。

12/01/2024

2024.1.12(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編119編19節
私はこの地では寄留者です。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章1節
私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日はきびきびと動くことができず、ローズンゲンを開いて黙想するのが、今頃(15時半)になってしまいました。毎日続けようと今年は決めているのですが、決して無理をせず、朝にお届けできなくても、その日のうちに綴れればそれで良しと思うようにしています。楽しみにしてくださっている皆さまには申し訳ありません。どうぞお許しください。
 
今日の聖書の言葉で、私が注目したのは「寄留者」という言葉でした。別な言い方をすれば、今の居場所に定住することなく、こういう言い方が適切であるかどうかは分かりませんが、いわゆる「根無し草」のような状態にある状態のことを「寄留者」という言葉を使って表現できるのだと思います。
 
そういう意味で言えば、今日の詩編の一片を歌った詩人が、自分自身のことを寄留者と呼んでいることについて、どのような思いでそのような告白をしているのだろうかと思わされました。「この世界では安住できない」ということを意味しているのだろうか。だとすれば、人生のなかでいろいろな波風にさらされながら、究極の安住は得られない。それが人生なのだろうなと思わされます。
 
しかし、そのようなはかないと思える人生のなかでも、神が寄留者の命を守り、人権や尊厳を与えたという、旧約聖書の記録に私は心を寄せたいと思わされました。それが、今日の新約聖書の言葉にあらわれた「神から与えられた建物」の意味するところであると受け取りました。それは、どんなに素晴らしい人生設計をしたとしても、私たちの手によって造られたものには、完全完璧なものなどないことを、またプラン通りにはいかないとしても、それは私たちが寄留者だから。しかし、その寄留者をも神は大切にされ、住まいを与えてくださるのだと。
 
今日もこれから日が暮れ、夕べが訪れ、夜を迎えます。そのひと時に、神の与えてくださる住まいの平安がありますように。お祈りいたします。

11/01/2024

2024.1.11(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書48章10節
私はあなたを苦難の炉の中で試みた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙4章2節
たゆまず祈りなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日から、私が協力牧師を務めている「アシュラムセンター」に来ています。アシュラムセンターの朝は、早天祈祷会から始まります。6時半からの約1時間、御言葉と祈りの時をもっています。対面・オンラインのハイブリッドで、毎回20名ほどの方々で祈ります。とても良い朝を迎えることができました。感謝なことです。
 
また、早天祈祷会では、毎回冒頭に、その日のローズンゲンを読んでいます。ですから、今日私は、そのいただいた御言葉をもって、一日を始めることができました。今、祈祷会から「黙想の家」に戻ってきて、あらためて、今日の聖書の言葉を思い巡らしていました。
 
今日の旧約聖書の言葉は、私たちが抱く苦しみについて触れられているものです。私たちの苦難は、まるで燃え盛る炉のようであり、あまりにも熱すぎるために、もだえ苦しむさまを、私たちは経験しなければならない。これが苦しみのなかにある、私たちの心境であるというのです。苦しみから脱したい。しかし、脱しきれない。
 
そのようななかで主なる神は、私たちの様子をずっと見守ってくださっている。神がおられるのであれば、すぐに手を差し伸べることもおできになられるでしょう。しかし、神は私たちの苦しみを通して、私たちが御自身に向き合おうとしているかどうかを、見守りつつじっと見ていてくださっているというのです。「試す」とは、そういう意味があるのだと、私は受け止めたいのです。
 
ただいたずらに、私たちの苦しみを眺めては、愉快犯的に楽しんでいるわけではありません。神だって苦しいのだと私は思います。ただ、ご自分に向き合わないところで私たちに助けの手を差し伸べても、そこにはやはり意味が無いのだと思います。単なる偶然な、ラッキーな、強運の持ち主であったと、私たちは自分の手柄のようにはしゃいでしまう私たちの姿があるからです。
 
私たちは、たゆまなく祈る者として、神と向き合うことの幸いというものを、今日の新約聖書の言葉を通して、感じ取る者でありたいと願います。苦しい時にこそ、祈りを通して神と向き合い、自分自身の姿というものを見つめる大切な機会としたいのです。ただ、調子が良ければ神を持ち上げ、苦しければいとも簡単に神を引き下げ、突き落としてしまうことのないように、私たちを見守ってくださる神の思いに、自分の思いをチューニングできるような一日であることを願います。
 
どうぞ、皆さんの一日に、神の見守りと平安がともにありますように。お祈りいたします。

10/01/2024

2024.1.10(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編34編15節
悪から離れ、善を行え。
平和を求め、これを追え。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙14章19節
だから、平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、こんにちは。
今日は、早朝から出張のために移動しておりましたので、黙想を綴る時間がありませんでした。ようやく時間が取れましたので、遅くなりましたが、黙想をお届けしたいと思います。
 
今日の聖書の言葉を通して、私はあらためて「善悪」「平和」はどこから来るものなのかということに、思いを寄せてみたいと思いました。というのも、私たちにとって善悪や平和というものに対する基準というものは、実に開きのあるものであり、また温度差のあるものであるということを痛感されられているからです。自分が善と信じてやまないことが、実は他の人もそう思っているとは限らない。この「ズレ」というものに敏感に感じ取りたいと思わされています。
 
私たちにとっての善悪や平和は、私たちが決める事ではなく、あくまで神が私たちに与えてくださるものであるということは、神の信仰に生きる者ならば、誰でも知っている事と思います。しかし、神の善悪とは何かということを考えるときに、どうしても私たちは自分自身のフィルター(めがねという言い方もできるかもしれません)を通さなければならないために、神が求めておられる善悪とか平和というものを、ゆがみなくキャッチできているだろうかと考えるのが「ズレに敏感でありたい」理由だったりします。

そうしないと、結局のところ我田引水のごとく、自分の願望を神の御心という錦の御旗に押し付けて、善悪や平和というものの基準を自分自身で決めてしまい、神のそれとかけ離れてしまうことになってしまうきらいが、いくらでもあるからです。俗にいう「カルト化」というものは、そういうズレから生じ始めるのだと、私は思うのです。
 
私たちは、こういうことを、今日の御言葉にもあるように、追い求めて、求めすぎることはないのだと思います。追い求めるために、私たちは時に立ち止まって、御言葉の前に黙し、祈り、それを互いに分かち合えるような時と場が必要なのだと思います。神の思いを知るために、神の御言葉に丹念に聴きつつ祈る。祈りつつ、愛する者同士のあいだに、平和が構築されるような関係性を求める者でありたい。そんなことを、今日の言葉から想いをいただくことができました。
 
夕方を迎えました。寒く、暗い夜に不安を覚えられるすべての方々のために祈りつつ、神の善がこの世にあらわれることを、心から願いたいと思います。皆さんの一切にも、神様の祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。

09/01/2024

2024.1.9(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章10節
主は地の果てまで裁き
王に力を与えられます。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章29節
見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
一段と寒い朝を迎えた仙台です。ようやく冬らしい冬がやってきた感じもします。しかし、こういう時こそ体調を崩しやすい要素がいっぱいあるので、皆さんの健康が守られますように。お祈りいたします。
 
今日の旧約聖書は、のちにイスラエルの指導者として神によって立てられたサムエルの母ハンナの祈りです。長く夫エルカナとのあいだに子が授けられないなかで、ハンナはその願いが聞き入れられました。こうしてサムエルは誕生しました。そして、サムエルは祭司であるエリのもとに預けられ、こうしてサムエルは神に献げられた者となりました。
 
その時にハンナが祈った言葉が、今日の旧約聖書の聖句です。人間に生きる力を与えられるのは、主なる神その御方であることを、ハンナは告白します。ハンナは、今日示された祈りの言葉に先立って「人は力によって勝つのではありません」と、祈りの言葉を紡いでいます(9節)。
 
人間は何によって勝ちを得るのか。ハンナは神への深い祈りのなかで、子を授かるという経験をしました。自分でどんなに頑張っても与えられなかったことが、神によって実現した。そのときに、人間の限界というものを、彼女は実感したことでしょう。
 
私たちは自力ではどうすることもできないことが、いくらでもあります。武力や暴力を前にして、それを抑えきることのできない無力さ、自然災害に遭遇して、それを自力で防いだり抑制することはできない自分自身に、辛さや苦しみというものを抱えてしまいます。
 
そのようななかで、神が力を人間に与えてくださるというのはどういうことなのだろうか。神が人間の力ではどうしようもないことを、ご自身の力ですべて「無きものとする」というわけではありません。そうではなくて、神が私たち人間に、そのような辛苦のなかにあっても、生きる力を与えてくださる。それが時には慰めであったり、時には励ましという形で、あくまで神とともに歩もうと願う人たちに、ご自分がおられることを、私たちに明らかにしてくださる。これこそ「神の力」なのだと、私は受け止めたいのです。
 
世の罪を取り除く神の小羊。洗礼者ヨハネを前に、その小羊であるイエスが現れました。世の罪。それは、私たち人間の限界という言葉に置き換えることができるのかもしれません。この世界の惨禍というものを通して、私たちに限界を突き付けるのです。しかし、ハンナがそうであったように、そのような限界に対峙しつつも、力の源である神がともにいてくださることによる幸いを味わうために、神の小羊たるイエスが、洗礼者ヨハネのもとに、そして私たちのもとにやって来られたのだと。
 
今すぐ、すべての苦しみが無くなるわけではない。しかし、私たちとともにいてくださる神が、必ずや私たちに生きる力を与えてくださる。そんなことを望みつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思いました。皆さんの一日にも、神が生きる力を充分に備えてくださいますように。お祈りいたします。

08/01/2024

2024.1.8(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書9章2節
彼らはあなたの前に喜んだ。
収穫を喜ぶように

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙6章7節
土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物をもたらすなら、神の祝福にあずかります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日は「成人の日」。数年前に成人が18歳になったことで、何でも18歳になったら「大人」のことができるのかなと思いきや、やはり20歳にならないと出来ないこともいろいろあるのだということを、最近改めて知らされました。私が授業を担当している大学の学生たちが、優しく教えてくれるのですが、そういうことを通じて思わされるのは、私も決して若くないなあということです。若くなくなっても、若い人の気持ちや感覚というものには、敏感な者でありたいなと思います。
 
今日選ばれた聖書の言葉に共通するのは「収穫」という言葉です。今の季節は収穫からは一番遠い時かもしれません。寒い冬の季節、枯れ木からは収穫を感じることはなかなか難しいかもしれません。しかし、収穫に向かって草木は日々見えないところで成長しているのも事実です。見えないところをすべてご存知である神が、私たちの日々のなかで成長を促してくださる。そんなイメージを抱きながら、今日の聖書の言葉をいただきました。
 
収穫を喜ぶように、私は神の喜びというものを感じとることができる一日でありますように。これは、不毛のなかにあって空しさを想う方々にも、神は必ず私たちが生きていること自体を喜んでくださっているのだということを信じて、今日という日を歩みたいと思います。皆さんの一日に、神様の祝福がありますように。お祈りいたします。

07/01/2024

2024.1.7(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記14章13節
恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録26章29節
言葉が少なかろうと多かろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
2024年最初の日曜日を迎えました。世界中の教会や集会で、主の日を喜ぶ礼拝のひとときが持たれることと思います。しかし、所には住む所を失い、命の危険にさらされ、不安ななかで夜を過ごされた方々がおられることを、忘れるわけにはいきません。私たちはまず、この方々のために、祈らなければならないこと。もし可能ならば、目に見える何かをしたいと心から願うばかりです。
 
さて、今日私たちに与えられたふたつの聖書の言葉にあるのは「不安のなかにあって」というテーマが付けられるものであったと、私は受け止めました。ひとつは、エジプト軍に追われて、命が奪われようとしているイスラエルの民たち。もうひとつは、ローマの法廷の前で証言をしている、囚われ人である使徒パウロです。そのいずれも、命の危険にさらされていたことに間違いありません。
 
そこで語られるモーセの言葉、また、パウロの言葉に、私たちは何を見ることができるのでしょうか。それぞれに経験した「主の御業をみる」ということにおいて、これからも主なる神は、必ず私たちのために生きて働いてくださるに違いないという、確信と希望が彼らの言葉ににじみ出ています。
 
私たちが不安のただなかにあって、なかなかそのような希望に立つことの難しさがあるということを、私たちはよく知っています。体力や気力に限界がありますから、いっときは忍耐することができても、それを持続することは、もはや精神力とか忍耐力の問題ではないと私は思います。こんなにへこたれたとしても、神はそんな私たちを励ましてくださるのだと。それが、神を知るということの強みなのかもしれません。勇ましく強くなることが素晴らしいのではなく、たとえ弱くても、いや、弱いからこそ、神に自分の思いを正直にさらけ出すことができるところにこそ、強みがあるのだと私は思います。なぜならば、私を前面に出せるからではなく、神を前面に出せるからです。
 
私たちは、神が必要あるところに適切な助けを、人を通して差し伸べてくださること。何よりも神御自身が、その人自身に親しく臨んでくださることを、執り成し祈る者であり続けたいと願います。今日の礼拝で、また、今日から始まる一週間の日々のなかで、そのことを心から祈ることができますように。自分自身のためにも、必要を与えてくださる神に望みを置いて、今日の一日が過ごせますように。お祈りいたします。

06/01/2024

2024.1.6(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編25編12節
主を畏れる人とは誰か。
主はその人に選ぶべき道を示す。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書2章12節
それから、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分の国へ帰って行った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日1月6日は、顕現祭(公現日・栄光祭・エピファニー)として祝われ続けてきた日です。東方からやってきた博士集団が(三人とは聖書に書いておらず、黄金・没薬・乳香のささげ物から、いつの間にか三博士とか三賢人・三聖人と呼ばれるようになったわけです)、誕生したイエスを訪問し祝ったことに因んで、このような日が設けられるようになりました。
 
もちろん、博士たちが1月6日にイエスを訪ねたという記述は、聖書のどこにもありませんし、もっとも、本当に博士たちはイエスの誕生「直後」に訪問したのだろうかということも、はっきりしたことは分かりません。ヘロデ大王が、ベツレヘム周辺にいた2歳以下の子どもたちを皆殺ししたという聖書の記録から、実は博士たちの訪問は、イエスの誕生から2年後のことだったのではないだろうかと言われているくらいです。
 
このように、私たち博士たちの訪問をもって、クリスマスというイエスの誕生物語に締めくくるよう、信仰の先達たちによってつくりあげられてきた「クリスマスストーリー」に終わりを告げます。これらの編集が非聖書的であるという向きも耳にします。しかし、それでもそのような物語のなかで、私たちがイエスの誕生という出来事を通して、神がどのように私たち人間の救いに道を備えられたかということを知るためには、大変意義あることなのだと思わされるのです。
 
そういう意味では、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する「道」という言葉は、まさに、私たちの人生に「救いの道」というものを敷設された神に、思いを寄せることの幸いというものを、感じずにはいられないのです。
 
クリスマス物語の最後を飾るのは、博士たちがイエスを訪ねた帰路の出来事です。彼らはヘロデ大王との約束を反故にします。イエスが生まれたことの報告をしませんでした。これによって、ヘロデ大王の不安は怒りへと変化し、とうとう子どもたちを大量殺戮するに至りました。クリスマスの喜びとは裏腹の、人間がもたらす無残さをもって、クリスマス物語は終了するのです。
 
そこで考えたいのです。博士たちは「お告げ通りに」ヘロデに謁見することを避けたわけですが、もし、彼らが王にまみえ、一部始終を報告していたらどうなっていただろうか。いずれにせよ、王の不安は怒りへと至ったことでしょう。報告してもしなくても、人の心をそう簡単に抑えることはできなかった。それがヘロデ大王の選んだ「道」だったのです。
 
そのような道は、多くの犠牲をもたらしました。しかし、神によって備えられた道を進もうとした博士たち、そして後にエジプトへ逃げることになるマリア・ヨセフに抱かれたイエスの親子は、クリスマスから始まる救済のストーリーをつくり上げていくのでした。
 
そして、それは本日の旧約聖書の言葉にもあるように、その救済のストーリーを提示されたのは、ご自分を畏れ敬う者たちに、生きるべき方向を示された神に他なりません。それは自分の不安を解消するために、大量虐殺に至るような残虐な行動をしてしまう人間の選ぶ道とは真逆の方向であったことが分かります。
 
そのような道に、私はクリスマスを祝い終わる者として、神に導かれつつ歩みたいと願わされます。今日の一日が、皆さんにとっても良き道を歩む時でありますように。お祈りいたします。

05/01/2024

2024.1.5(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書8章21節
さあ、共に行って、主に願い求め
万軍の主を尋ね求めよう。私も行く。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録16章15節
彼女も家族の者も洗礼を受けたが、その時、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言って、無理やり招き入れた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日、ふたつの聖書の言葉を通して、いつもより黙想の時間がかかりました。これらの聖書の言葉を通して、神は私に何を語ろうとしているのだろうか。そんなことを思い巡らしているなかで、今日の新約聖書の言葉に注目したいと思いました。紫色の布売りである、リディアという女性のエピソードです。
 
彼女は、もともと神をあがめている人物でしたが、パウロによる伝道を通して、イエスを救い主と受け入れました。そして、家族とともに洗礼を受けるに至ったのえす。その時に、リディアはパウロを家へ招こうとします。聖書協会共同訳では「無理やり」と書かれています。このひと言だけでも、リディアは強引な人物なのだろうか、商売人ならではの推しの強さなのだろうかt、いろいろ考えてしまいます。
 
これがリディアの信仰の表れなのだと私は思います。主なる神が、彼女の心を開かれたので、イエスを自分のうちに受け入れることができました。あくまでイエスの心をもって、パウロを迎えたい。だからこそ、彼女は「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」という言葉を発したのだろうと想像します。
 
リディアが発した「主を信じる者」という言葉には重みがあります。単に、クリスチャンだからとか、そういう身分のことを言っているのではないと私は思います。そうではなくて、主を信じる者とは、イエスの心を自らが受け入れた時に、あくまでイエスの心に沿った生き方をしたいという憧れであるとか願いというものが、生活の態度に表れていくことなのだと思います。身分ではなくて生き方という実質です。
 
その点において、リディアは、是非パウロにくつろいでもらいたいと思ったのだと。それも、イエスのもたらした精神をもって彼らを迎えたいのだと。もてなしが自己顕示欲の表明ではなく、あくまでその人そのものを大切にするという、イエスの愛に基づいたもてなし。それがリディアの「信仰の表明」だったのだと、私は受け止めたいと思いました。
 
人にはさまざまな信仰の表現があると思います。必ずしもみんながリディアのようなことはできないと私は思います。しかし、これだけは共通しています。イエスの心をいただいた者が、その心をもって生きること、人の尊厳を大切にすること、しあうこと。そのために、イエスが私たちに何を思い、何を語られ、また行われたかを、私たちが聖書の言葉から探り、黙想し、祈りつつイメージしていくこと。そんなことを想うのです。
 
そうすれば、今日の旧約聖書の言葉につながっていくと私は思います。イエスの心を自分の生き方とするために、私たちは「主に願い求め」「万軍の主を尋ね求める」のだと。その探求の旅路に、今日の一日が与えられていることを感謝して生きたいと思います。
皆さんの一日に、神からの祝福をお祈りいたします。

04/01/2024

2024.1.4(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書60章3節
国々はあなたの光に向かって歩み
王たちはあなたの曙の輝きに向かって歩む。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録21章23~24節
この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩く。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
正月の三が日を終え、今日から世の中の多くが、通常の動きに戻るかと思います。私自身も、ゆっくりと休むことができました。昨日午後は、代務教会(仙台北三番丁教会)で「初週祈祷会」が行われました。ローズンゲンに示された2024年の聖句「何事も愛をもって行いなさい」(コリントの信徒への手紙一16章14節)の御言葉を、参加者の方々とともに、じっくりと味わう時となりました。今日は本務の仙台宮城野教会で聖書研究・祈祷会が行われます。いずれも2024年の仕事初めです。幸先良い仕事が始められることに、心から感謝するばかりです。
 
今日選ばれたローズンゲンの言葉ですが、ふたつの聖句に共通するのは「神の栄光」、つまり、神が放たれ、注がれる光についてです。その光によって私たち一人ひとりが照らされ、そして、私たちはその光に向かって歩むことができる。そんな将来の希望について、旧約聖書のイザヤ書も、新約聖書のヨハネ黙示録も、その幻を告げています。
 
私たちは、本能的に明るいところを好み、また必要とします。明るさがないと、大切なものを探すことすらできません。余談ですが、私は今朝起きたときに、耳に装着していたイヤフォンの片方が、どこかに行ってしまったことに気付きました(夜、自律神経を整えるための音楽というものを聴いて休んでいます。どれだけ効果があるかは分かりませんが。笑)。寝室の暗闇のなかでは、イヤフォンを探すことができません。隣で寝ている妻に「ごめん。ちょっと電気をつけてもいい?」と、布団をかぶってもらって、私は寝室の電気をつけました。イヤフォンはほどなくして見つかりました。小さなことですが、あらためて光の尊さというものを実感しました。
 
今日の新約聖書の言葉には、神が治められる新しい国の都について「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない」と語られています。すなわち、私たちにとって本当に必要なものは何だろうかという、ひとつの問いを与えている。私はそのように受け止めました。私たちの生活には、太陽の光も月の光も、無くてはならないものです。しかし、それ以上に、私たちにとって必要不可欠な「光」があるのだと。黙示録の言葉は続いて「神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである」と述べています。
 
小羊が都の明かり。つまり、救い主イエスそのものが、私たちを照らしてくださるというのです。イエスの言葉と行いに示された愛が、私たちの心を温め、私たちを平安へと導かれる。私たちがこの世界で生きていくに、無くてはならないもの。それがキリストの愛であり、この愛を、私たち一人ひとりが生きるための道しるべとして、必要とする世界がつくられていく。これこそ、私たちの生きる希望なのだと言うのです。
 
私たちが、新しい年2024年を生きるために、聖書の言葉に聴き、自分自身のなかで思いを巡らせながら黙想し祈るときに、それは必ずや、一年を歩むための道を照らす光として、イエスが私たちと一緒にいてくださる。そんなことを思いながら、今日の聖書の言葉に聴きました。
 
未だ被災のもとにある方々のために、特に祈ります。光を感じることのできない辛さのただなかにあるお一人ひとりのために、神が働いてくださいますように。戦火のもとに、病床のもとにある方々のために、神が今日を生きるための慰めと励ましを与えてくださいますように。皆さんのために、今日の一日に神の祝福がありますように。お祈りいたします。

03/01/2024

2024.1.3(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
民数記22章18節
たとえバラクが、彼の家を満たすほどの銀と金を私にくれようとも、わが神、主の言葉に逆らうことはできません。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録5章29節
人に従うより、神に従うべきです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
1日の地震による災害により、生活の不安や悲しみを抱えている方々に、少しでも現実的な助けがあることを、心からお祈りいたします。そして、昨晩起きた航空機事故によって、心身の痛み、そして移動の支障のなかにいる方々のためにも、お祈りいたします。
 
さて、今日選ばれたふたつの聖書の言葉に共通するテーマは「神の御心に聴く」であると、私は受け止めました。私たちは、どんな状況にあったとしても、その場の雰囲気に合わせて判断や決断をくだすのではなく、あくまで「御言葉に聴き、祈りをもって神と向き合う」ことによって、神の御心を探り、何よりも大切にしたうえで、判断をしたり、決断をすることが私たちの個々に求められているのだと、
 
今日の旧約聖書に登場するバラムは占い師でした。イスラエル人ではありませんでしたが、ヤーウェの神を畏れ、常に神との対話を大切にしました。そのようななかで、モアブの王であるバラクは、バラムに対してイスラエルを呪うよう依頼します。モアブの地にある者たちもまた、イスラエル人が自分たちを攻撃するかもしれないという、不安と恐れのなかにありました。
 
しかし、どんなに不安や恐怖を感じている人々を前にしても、バラムは神が忌み嫌われるようなことを行おうとしませんでした。あくまで神に自分のすべきことを問い続け、神の御心に沿わないと判断し、決断し、受け入れたことを、自分の言動の指針としました。ここから彼は動くことが決してなかったのです。どんなに報酬の金銭を積まれてもです。
 
同じことが、今日の新約聖書の言葉にも言えます。時の宗教指導者たちに目をつけられ、捕えられた使徒ペトロが、自分自身にいかなる脅しをかけようとも、自分は神に従うこと以外の選択肢はないのだという決断が、今日の言葉に表れています。自分にどんな害が加えられるか分からないような状況のなかで、その不安もあったでしょうが、ペトロはあくまで、自分自身を守る神の御心を第一にしました。神の御心に沿わないことを要求する人々に従うことは、私の本意ではないと。
 
私たちは、この一点において、神との対話を大切にしたいと思うし、対話をするときにも、あくまで神の語られる言葉に真摯に聴こうとする態度、そして、祈るなかで得られる冷静さと導き。そういうものを私は大切にしたいと、今日の聖書の言葉を通して願わされました。
 
今日の一日のすべてに、神の御心が私たちの真ん中に立ちますように。生活における平安を、心からお祈りいたします。

02/01/2024

2024.1.2(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編54編8節
私は喜んであなたにいけにえを献げます。
主よ、恵み深い御名に感謝します。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書12章42節
そこへ一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚を入れた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
まずは、昨日発生した「令和6年能登半島地震」によって被災されておられる皆さんへ、神による慰めと励ましが、そして実際的な助けがあまねくありますことを、心よりお祈りいたします。なぜ正月早々から、こんな苦痛に遭わなければいけないのだろうかと、痛みを感じずにはいられません。引き続き祈りつつ、自分にも与えられた分というものを、誠実に果たしていきたいと思わされております。
 
さて、本日の聖書の言葉から黙想したいと思います。
今日の新約聖書は「やもめの献金」として、よく知られている聖書箇所です。レプトン銅貨2枚。最小価値のコインですから、日本で言えば1円玉のようなものと言っても良いかもしれません(実際の価値は平均的な日収の64分の1です。つまり、レプトン銅貨2枚は、1日分の生活費でした)。そのレプトン銅貨2枚を、あるやもめ(寡婦)は神殿への献金としてささげたという話です。
 
このやもめの行動を、イエスは弟子たちに対して、次のように語られました。
 
よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。(43~44節)
 
このイエスの言葉は、私たちが神に何かを献げようとする際に、大切にされるのは「量」ではなく「質」であることを明らかにしています。つまり、量の大小がその人の価値を決めるのではなく、その人の神に向かう誠実さが、その人の価値を決めるというのです。この誠実さに基づいた判断と決断こそ、献げものが神の喜びの応答として献げられてゆくことを、私たちに思い起こさせるのではないかと、私は考えています。
 
誰からも強要されることなく、また虚栄心や自己顕示欲のためにするのでもなく、まだ誰からも妨げられることなく、神の喜びを受けた者として、ただそれに応答するために、自分に与えられているものを、自発的な思いで神に献げることの幸い。これが、今日の旧約聖書の言葉が指し示そうとしている精神なのだと、私は受け止めました。
 
今日の一日のすべてを祝福してくださる神が、あるところには慰めと励ましを、そして、あるところには守りを、そしてあるところには、喜びと平安を与えてくださいますように。私たちのためにご自分の愛を献げてくださる神とともに歩むことができますように。お祈りいたします。

01/01/2024

2024.1.1(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書7章4節
気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない。心を弱くしてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書4章18,19,21節
主の霊が私に臨んだ。
主の恵みの年を告げるため
主が私に油を注がれ
主が私を遣わされた。
イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
そして、新しい年2024年を、私たちは迎えました。新年あけましておめでとうございます。この一年もまた、神が与えてくださる日々の御言葉を真ん中にして、黙想を読んでくださる皆さんと交流できますことを、楽しみにしております。どうぞ本年もよろしくお願いいたします。
 
さて、今年最初のローズンゲンは、旧約聖書イザヤ書7章の冒頭にある言葉です。その言葉にあるもの。それは、人々の「恐れと不安」に対する神の言葉です。それは「静かにしていなさい」というものです。
 
イザヤが預言者として仕えていた南イスラエル(ユダ王国)の王アハズに語られた、神の言葉でした。彼はこの時、近隣諸国が強国アッシリアと同盟を結んだことで、ひどく動揺しました。自分たちの領土が攻められたら、どうしたら良いのだろうか。そんなアハズ王に、神はイザヤを通して、アハズ王に語られました。静かにしていなさいと。
 
つまり、人は誰かから抑圧を受ければ、その抑圧に対抗するための策を講じます。ただやられっ放しで済めば良いというものではありません。ただし、その時、私たちにとって必要なものがあります。それが、本日の御言葉で語られている「冷静さ」であると、私は受け止めました。冷静に物事をとらえて判断を行い、そして私たちの決断へと導かれること。その場限りの拙速な言動は、後々多くの犠牲を生むことは、歴史が証明していると私は考えています。
 
私たちには、冷静になれない時がいくらでもあります。心が騒ぎ、大いにうろたえます。じたばたしながら、知らぬ間に、周囲に対して無用に攻撃的になった結果、自他に対して犠牲を生むことになる。それは、自分自身に冷静さが欠けた結果、ただ感情に任せて振舞ってしまうことに起因しているのです。
 
私たちの内に起こる冷静さは、静かにしていなさいと告げられる神によって、私たちに与えられるものです。つまり、私たちが神と向き合い、神が与えてくださる言葉に耳と心を傾けながら歩むところに必ず、冷静さがあふれてくる。この冷静さこそ、私たちの心に平安をもたらして、私たちがより良い判断と決断ができるように、自分自身を整えることができるのだと、私は受けとめたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、安息日の会堂礼拝でイエスが、イザヤ書61章を朗読したのち、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と告げられました。イザヤ書61章に描かれている光景。それは、神がもたらした平和な世界です。この平和を私たちが感じる時とは、その約束の言葉を「耳にしたとき」であると、イエスは私たちに語られました。つまり、私たちは神の御言葉にただ真摯に、心を鎮めて向き合おうとしたときに、そこには、すでに平和が存在しているのだと。たとえ周囲が騒がしかったとしてもです。
 
2024年の幕開けを、戦争で迎えた方々がおられます。人と人とのあいだに生じた心騒ぐ出来事に翻弄されたまま、新しい年を迎えた方々もおられることでしょう。私も、年内に解決したかったことが年をまたいでしまったことで、何となくすっきりしない思いにさせられてもいます。しかし、そういう時こそ「冷静な心と思い」をもって、神に向き合いつつ、聖書の言葉に聴き、そして祈る生活というものを、2024年も大切にしていきたいと願わされました。
 
どうか、皆さんにとっての新しい一年にも、冷静さによって与えられる平和が、神とともにありますように。お祈りいたします。