26/10/2023

2023.10.26(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書50章4節
主は朝ごとに私を呼び覚まし
私の耳を呼び覚まし
弟子として聞くようにしてくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録16章14節
ティアティラ市出身の紫布を扱う商人で、神を崇めるリディアと言う女も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
これから遠出をするため、今朝は少し早く目覚めました。随分朝が明けるのが遅くなりました。確実に季節は秋から冬に向かっていることを実感させられています。しかし、どんな時にも目覚めて一日の務めにあたることができるのは、本当に嬉しいことだなと思わされています。
 
さて、今日私たちに与えられた聖書の言葉ですが、旧約聖書・イザヤ書で歌われている「目覚め」と、私たちの心が神によって開かれる経験を重ね合わせながら語られているのは、とても興味深いと思わされました。私たちが目覚めて新しい一日を迎えること、与えられた命をもって今日も生かされていることへの感謝の思いは、神の言葉を耳で聞いて、心で聴いて受け入れることで、その言葉が自分の一日を生きる原動力となることへと相通じるのだというのです。
 
私が今日目にしたこの御言葉が、私自身の「あこがれ」になっているだろうか。そのあこがれに、神は間違いなく応えてくださっているという希望を抱いているだろうか。だとすれば、この言葉によって一日を生きる幸いを味わえるのだという確信が確かにあるのだという思いに至らされているだろうか。もしそうでなければ、神にそうさせてくださいと願い出ることができるという思いを、私自身が持っているだろうか。そんなことを思わされるのです。
 
そして、その時に、これは決して自分の鍛錬や努力で成しえることなのではなく、神が私たちの願いに必ず応えて、具体的な出来事をもって私たちが感じとることができるようにしてくださるということを、今日の御言葉から聴きたいと思うのです。新約聖書は、後に宣教者パウロの支援者となった信仰者であるリディアという女性が登場します。リディアも「神によって心開かされた」ひとりでした。まさに、目覚めの経験を神によって得たと言えるでしょう。パウロを通して語られる神の言葉に注意深く聴くように促されたのでした。
 
私も、リディアのような経験を今日もしたいと心から願います。いや、すでにそうさせられていることを謙遜に受け止める者でありたい。そう思わされました。そのことに感謝しつつ、今日の一日を歩みたいと願わされました。
 
どうぞ皆さんの一日にも、神が開心してくださる幸いが味わえる時となりますように。心からお祈りいたします。
 
※今日から土曜日(28日)まで私に与えられた務めを果たのため遠出をいたします。土曜日まで黙想をお届けできない環境にありますので、次の黙想は日曜日にお届けしたいと思います。ここのところ、毎日黙想をお届けできず申し訳ありません。どうぞよろしくお願いいたします。

24/10/2023

2023.10.24(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編40編6節
わが神、主よ、あなたは多くのことを
奇しき業と計らいを
私たちのために成し遂げられた。
あなたに並ぶ者はありません。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙2章3節
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
随分朝が冷え込むようになった仙台の街ですが、それでも澄み切った秋空を眺めることのできる一日を迎えることができました。こういう秋晴れの時にこそ、行楽を楽しみたい思いもありますが、そういうわけにもなかなかいきませんので、与えられた務めにいそしみたいと思います。皆さんの一日の務めにも、神様が豊かに祝してくださいますようにお祈りいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示された旧約聖書の言葉ですが、神のなさることについて「奇しき業と計らいを」というひと言に、心惹かれました。奇しきという言葉は、私たちの常識や考えることの想像をはるかに超えたところにある、私たちの思いもつかないようなご計画を、神はお持ちであるということを、私たちに思い起こさせるものであると受け止めました。
 
私たちは、自分自身の考えで、神のなさることをあまりにも矮小化していないだろうか。そんなことを思わされます。それは、私たちが苦境に立った時、ピンチの時にこそ、私たちの限られた常識や経験で、行く道を考えすぎてしまうのだと。もちろん、現実に目を留めることはとても重要だと思います。しかし、そのことに執着するゆえに、神の与えるダイナミックさを、私たちが差し止めていないだろうかと、あらためて考えさせられるのです。
 
神は、それが私たちにために本当に良いことであるならば、必ず果たすべく働いてくださるのだ。私たちに求められるのは、神のなさることにただ希望を抱いて、そのために神の言葉を通して神の思いを尋ねて祈り、神の言葉を前に静まり、黙想して、そして神のなさることに信頼して歩むことなのだと思わされます。
 
神の言葉を前に、ただ謙遜になるというのは、今日の新約聖書の言葉に示されているのだと思います。「知恵と知識の宝」とあります。つまり、この世の中で神の知恵と知識をもって、その価値観によって生きるところには、必ず神がご自分のダイナミックさを明らかにしてくださる。その知恵と知識は、イエス・キリストの内に隠されているのだと言うのです。キリストの内に隠されたものを私たちが知るためには、キリストとの関係をいかに自分自身の中心に立てることができるか、ということなのかもしれません。
 
キリストは、すでに私たちに関係を求めておられる。私たちがキリストとの関係をつくるのではなく、キリストが差し出しておられる関係に、私たちが引っ込めている手を差し出すのだと。この手を希望をもって、キリストの前に差し出したいのです。
 
さわやかな秋空の下で、私たちが手足をしっかりと伸ばす者となることができますように。神に祈りつつ、一日を過ごしてまいりたいと思います。

22/10/2023

2023.10.22(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
レビ記19章17節
心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を繰り返し戒めなさい。そうすれば彼のことで罪を負うことはない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙6章1節
きょうだいたち、もし誰かが過ちに陥ったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
ここのところ、一日おきの黙想となってしまいましたが、あえてそうしているわけではなく、時間が確保できたときに黙想する結果、このようなことが起きてしまっています。毎日黙想を綴ることができるように、もう少し自分自身の予定を整えることができたらと思います。
 
さて、今日与えられた聖書の言葉は、正直私の胸にグサリとくるものでした。憎しむくらいであれば、愛と和らぎをもって直言することの大切さを、この聖書の言葉は伝えているからです。しかし、相手の過ちを感情的にならずに伝えることの難しいことと言ったら、私自身いつも痛感させられますので、今日の聖句のようなメッセージは、自分自身へのチャレンジであると、逆に思わされたりもします。
 
正直言えば、今の私はいくつかのことで、怒りや憎しみの感情を抱え続けています。正直、こんな感情からさっさと解放されたいというのが偽らざる気持ちです。しかし、なかなか手放せない自分自身がいるからクセが悪いと。手放したい、いや手放せないと逡巡する私に明らかなのは、それだけの執着というものを抱えている結果なのだと思わされます。
 
憎しみを生んでしまう発信源が、身近にいる人々にあるならば、たとえその人たちを愛することが難しくても、神がその人を愛していることを念頭に置いて、今の自分になしうる言葉を紡ぐことができるかもしれないし、それが出来なかったら、神にいったん怒りの感情をお預けしてもらうこというもできるのだと、今日の聖書の言葉から、学ばされた気がします。
 
本日、仙台宮城野教会は、日本聖書神学校教授である荒瀬牧彦先生をお迎えします。礼拝のタイトルは「迷惑の新解釈」。聖書は本日のローズンゲンである新約ガラテヤ書の6章1節からです。神が御言葉を通して、荒瀬先生を通して語られる御声に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
皆さまも素敵な主の日をお迎えください。お祈りします。

20/10/2023

2023.10.20(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記33章11節
主は、人がその友と語るように、
顔と顔を合わせてモーセに語られた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書6章20節
私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日もまた黙想をお届けすることができず、楽しみにしてくださっている皆さんへは申し訳ない思いでいっぱいです。しかし、今朝は黙想し、ブログにアップロードする時間が確保できましたので、心をこめてお届けしたいと思います。
 
さて、私は一昨日、昨日と、所属する日本基督教団が主催する「全国伝道委員長会議」というものに出席しておりました。私は伝道委員長でもなんでもないのですが、出席することができない方の代理として、オンラインにて参加しました。
 
そのなかで、発題をしてくださったある牧師が、こんなことをおっしゃっておられたのがとても印象的だったのです。「信頼関係のないところには、伝道は成り立たない」。この言葉に、私は思わずうなりました。実に正鵠を射る(せいこくをいる)、ど真ん中を突いた名言だと私は思ったのでした。
 
伝道というものをどのように考えるのか。もちろん、神がイエス・キリストを通して私たちに与えられた愛がこの世の中じゅうに行き渡ることを願って、私たちは神の愛と平和から起きる人間の救いというものを伝えることが伝道であると思っていますが、この伝道をめぐって、それが喜びとなれば、逆に、人間のあいだにおけるトラブルを生むことも確かにあったりするのです。
 
もし、そのようなトラブルが起きるとすれば、それは神の愛がもたらす私たちのあいだに起きる信頼関係が築けないような、私たちのこだわりであるとか、行き過ぎた言動というものがそうさせるのかもしれない。私はそんなことを強く思わされたのでした。
 
そんなことを思いながら、今日の聖句に目を留めますと、信頼関係のモデルというものが、ここに描かれている!そう思ったのです。そのモデルとは、まさに神が、主イエスが私たちに向けてくださっている「信頼」なのだと。私たちが神を信頼する以前に、神が私たちのことを信頼してくださっているというのです。
 
かつて、モーセが経験したように、神と顔と顔とを合わせて神の声を聴くことができた。その友と語るようにと、聖書には記されています。神がモーセを友としてくださった。ここにこそ、神が人間に対して信頼の念を抱いておられるということの、まぎれもない出来事が起きていることを想い起こされるのです。
 
そのことをさらに明らかにしたのは、イエスが私たちのことを「友」と呼んでくださっているというところにあります。単なる慣れ合いの関係ではなく、深い信頼の念が、私たち人間に向けられているというのです。信頼に足る存在とは決して言い難い私たちに対してです。
 
この信頼に応えてこそ、私たち人間のあいだにも神が与えてくださった信頼によって結ばれる。神の愛が少しでも遠くに、ひとりでも多くの方々に行き渡りますようにと祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日のために、お祈りいたします。

18/10/2023

2023.10.18(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編140編13節
私は知っている
主が苦しむ人の訴えを取り上げ
貧しい人のために裁きを行うことを。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書6章20節
貧しい人々は、幸いである
神の国はあなたがたのものである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日もまた、黙想を掲載することができませんでした。月曜日から、カルト宗教問題の研修会のために、一泊で出かけておりました。研修会では、多くの気づきを得る機会となり、また、カルト問題対策の最前線で活動しておられる方々との良き交流の機会ともなりました。私も、常に学び続けることによって、ひと所にとどまり固着することなく、謙虚な心をもってこの問題に向き合いたいと心から願わされました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの言葉から、私は「貧しさ」という共通する言葉に注目したいと思いました。どちらの聖句とも、あらゆる貧しさに対して、神が解決の道を与えてくださること、そして貧しくされているという現実に、神は幸いを与えてくださるというメッセージが語られています。
 
この場合の貧しさというのは、何も経済的なことだけを指しているのではないと私は思います。もちろん、経済的・物質的な貧しさはとても分かりやすいものであると思いますが、それだけではない、私たち人間が、人間として健やかに生きることができるために必要な人権であるとか尊厳、健康、そういうものが損なわれ、時には奪われてしまうような状況のすべてを、私たちは「貧しさ」という言葉をもって明らかにすることができるのだと感じます。
 
旧統一協会に対する解散請求命令申し立てを、先日政府が行いました。解散命令が出るか否かは、司法の判断にお任せすることとなったわけですが、それに対する旧統一協会側の記者会見が先日行われて、協会側の反論が縷々述べられたのを、多くの方々が報道を通してご覧になられたのではないかと思います。
 
私は記者会見を観て思ったことは、自分たちの正当性を訴えることに終始する会見だったという印象でしたが、これまで、献金をはじめとする多くの人権と尊厳を奪い取られてきた人々の証言というものを、どのように協会側は考えているのだろうかということへの、強い疑念というものを持たずにはいられませんでした。まさに「貧しくさせられている現実」というものが、旧統一協会という団体とその教えによって経験した、実に多くの方々がおられることを、私たちは看過することができない。そう思ったのです。
 
今日の聖書の言葉は、そのような現実に対して、貧しくさせ続けられている方々が、そのままで良いのか、いや、私たちの神は、貧しいものを貧しくさせ続ける御方では決してないのだという強いメッセージが私たちに伝えられているような気がしてならないのです。貧しくされることによって、本当に貧しくされている人にこそ、人間の勝手な解釈によってゆがめられている神の実像が取り払われて、その人がその人らしく幸福に生きておられるために、神が働いてくださる。これを希望として生き、この希望に忠実でありたいとの私たちの決意というものを新たにするように促されているのだと、私は受け止めたのです。
 
あらゆる人間の利己的な働きによって貧しくさせられている人たちは、神によってすでに幸いにさせられているのだというイエスの言葉に、私たちの生き方というものを沿わせつつ生きていきたいという願いをあらためて思わされました。
 
そういう幸いというものが、今日も私たちのあいだで神から与えられるものをもって芽生えさせ、その芽生えを喜ぶ者でありますように。お祈りいたします。

16/10/2023

2023.10.16(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編103編10節
神は、私たちを罪に応じてあしらうことなく
過ちに従って報いることもない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙一4章32節
神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
しばらくぶりで黙想をお届けします。先週は出張が続いて、ゆっくりと黙想する時間が、物理的にも気持ちのうえでもなかなか取ることができませんでした。しかし、昨日の主の日を迎え、また新たな気持ちにさせられましたので、今朝、黙想を綴ろうと思った次第です。今週もどうぞよろしくお願いいたします。
 
神は、私たちの罪や過ちに対して報復なさるというよりは、その罪や過ちというものに自分自身が気づけるように、忍耐強く私たちのことを見守り、そして導いてくださる方なのだと、今日掲げられた旧約聖書は私たちに伝えています。
 
しかし、どうでしょう。そのような神の忍耐強さが私たち人間の現実というものを明らかにしようとしているときに、またもや私たち人間はその神の忍耐強さを忘れたかのように、人に対してやいばを向けているのではないでしょうか。パレスチナ・ガザ地区へのイスラエル軍の侵攻が、ますます激化しています。「売られた喧嘩は買わなければならない」と言わんばかりに、武装組織ハマスがかけてきた先攻に、イスラエル軍が徹底的に報復する。イスラム教とユダヤ教という、もともとは同じ神を持つ者同士が、どうしてこのような戦いを繰り広げなければならないのだろうか。もちろん、長年にわたる政治的な経緯がありますので、部外者の私が簡単に口をはさむことができないのは重々承知しているのですが、それでも、やはり同じ神をあがめる者として、このニュースを痛まずにはいられないのです。
 
私たちは今こそ、神の忍耐強さのおかげで、どんなことがあったとしても、私たちが平安に暮らすことができることを、心にとどめ続けなければならないと、強く思わされます。神はキリストを通して、たったひとりの命の犠牲を通して、私たちひとりひとりの罪や過ちを赦してくださったのだ。だからこそ、赦された私たちに求められるのは、出会う者同士が、自分の欠けや至らなさというものに真摯に気づきながら、生きていくということしかないのだと思わされるのです。私たちが自分自身のありように気付かなければ、どんなに平和と叫んでも、究極的な平和にはいたらないのでしょう。私たちの無様なありように、忍耐強い神が本当の平和を携えて待っていてくださる。そんな神に感謝しつつ、かの地の神にある平和を祈り求めつつ、今日の一日も過ごしてまいりたいと思いました。
 
皆さんの一日にも、神の平和と私たち一人ひとりの気づきが明らかにされて、神と共に歩む幸いが豊かにありますように。お祈りいたします。

10/10/2023

2023.10.10(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼファニヤ書3章12節
私はあなたの中に
貧しい者、弱い者を残す。
彼らは主の名を逃れ場とする。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一1章28~29節
神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
連休も終わり、通常の生活に戻ったという方も多くおられるのではないかと思います。こういう時、牧師という職についていますと、世の中の動きにあまり連動していないことに気づかされます。日曜日は礼拝、休日もさまざまな行事が入ることがあります。ですので、休日はあるのですかと聞かれることも多々あるのですが、それなりに休めるときにゆっくりと休むことができるのも、牧師ならではであるかもしれません。昨日は東京に行き大学で講義をしたあと、友人の同業者に会って楽しいひと時を過ごしました。宿で一泊し、これから新潟へ向かいます。ある教団の教職者会でカルトについての学びをともにします。そしてゆっくりと時を過ごしたいと思います。
 
さて、今日の旧約聖書・ゼファニヤ書にある「貧しい者、弱い者」とは、いったい誰のことを指すのだろうか。そんなことに思いを寄せながら、聖書の言葉に向き合いたいと思いました。昨日の大学の講義(倫理学を講じています)で、学生たちに「弱者とは誰か?」ということを一緒に考える機会を持ちました。人によって弱者の視点が違うことに気づかされます。誰もが見て分かる弱者でも、本人は弱者と思っていない。そういう認識のズレというものが意外に多いことに気づかされるのです。
 
キリスト教の世界においても、弱者とは誰かということに私たちが注目する時に、あらゆる弱者を取り上げることができるかもしれません。しかし、私たちは聖書を通して、忘れてはいけない弱者の存在に、なかなか気付けないことがあるのだと思うのです。その弱者とは、私そのものであると。。。
 
そのことを、後になって使徒となったパウロは、自分自身のことを想定しながら、弱さについて語ります。パウロはある種の強さ、世の中が評価する強さを持ちながらも、自らの内面については、いかに弱い人間であるかという強い自覚を持ち備えていたと言われています。自分は本当に取るに足らない弱い者なのだと。しかし、そんなパウロも、神がいてくださるからこそ、自分は弱くされ、打ちのめされても、神の強さによって生きていくことができるのだと。自分が強いと思い込んでいる驕りも打ちのめされる代わりに、神の強さが自分のいのちに響き渡るのだと。こうパウロは手紙に書きしたためました。
 
弱く、小さくされた自分自身。しかし、その弱さに働いてくださる神の恵み。そんなことを想いながら、一日を過ごしてまいりたいと願います。皆さんの一日に、神の守りと祝福がゆたかにありますように。お祈りいたします。

09/10/2023

2023.10.9(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言10章2節
不正に得た宝は役に立たず
正義は人を死から救い出す。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章8節
ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
世の中は三連休の最終日ですが、私にとってはいつもと変わらない日常を過ごしています。外はあいにくの雨模様ですが、どうぞ皆さんにとっての連休最終日の一日が、少しでも喜びが見いだせるような時となりますように。神様からの守りと平安をお祈りいたします。
 
さて、本日のローズンゲンの言葉は「財産」がテーマとなっていると私は受け止めました。私たちが生きていくのに無くてはならない財産について、しかし、その財産をどのように私たちが得、また用いることができるのかについて、ふたつの聖書の言葉は、私たちにメッセージを伝えています。
 
今日の旧約聖書の言葉にある「不正に得た富」とは何でしょうか。別に、私たちのほとんどは、自分自身が得る財産を不正行為によって得たとは考えていないでしょうし、大体そんなことからはそもそも縁遠いかもしれません。ただ、箴言の言葉によって語られているのは、不正という言葉の対極にあるものとして、「正義」という言葉が用いられていることに、私たちは注目することができるのだと思います。
 
聖書で語られる正義とは、ずばり神の正しさそのものであると、私たちは受け取ることができます。正しいのは神だけであって、その神との関係性によって、私たちは神の正しさをいただいて、自らもまた正しさを背中に背負って生きていくことができるのだと言うのです。そういうことを考えますと、財産を通して神の正しさを知るというのは、私たちの財産が、神からの頂き物であって、その用い方もまた、神の正しさが反映されるような用い方をすることができるのだと言うことを示唆しています。
 
もちろん、私たちは自由に自分の意思で財産を用いることができます。ただ、その意思が何によってつくり上げられ、構成されて、司られているのかということを、私たちは日々の営みのなかで、神との深い関わりのなかで、是非得ていきたいと思うのです。
 
のちに、イエスの心が私の心にとどまったことで、財産をどのように使うことが神の望みに応えることなのだろうかということについての逸話が、今日の新約聖書の部分です。徴税人ザアカイは、イエスと出会い、イエスの心に示された正しさが彼の心にとどまることによって、これまで不正に得ていた財産を、本当に大切なことのために用いる決断ができました。これは強いられてしたものではありませんでした。あくまで、イエスの心がザアカイの心に浸みわたったときに、ザアカイ自身の生き方が変えられたということの証左でした。
 
私たちは、与えられた財産をどのように、神との関わりにおいて、強いられることなく、しかし、進んで用いることができるのだろうか。そんなことを考えながら、祈りつつ、今週の日々を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一切に、神様の祝福がともに、豊かにありますように。

07/10/2023

2023.10.7(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記上18章37
お答えください、主よ、お答えください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に戻したのがあなたであることを知るでしょう。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章32節
私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今朝起きたら、気温が13度であることを知り、ついこの前まで朝でも25度を超えるような日々だったのにと、とても驚かされています。やっと仙台らしい秋がやって来たと。しかし、あっという間に冬がやって来るのだろうなとも思わされています。皆さんも、気候の変動ゆえ、お身体にお気をつけてくださいね。
 
さて、今日の聖句のなかで私が一番心惹かれたのは「イエスが私たちのために祈ってくださっているのだ」ということです。ルカ福音書の22章は、イエスが捕らえられる直前の話です。彼の一番弟子であるシモン・ペトロに向かって、イエスはこう言われたのでした。ペトロは意気軒高でした。鼻息荒く、イエスを絶対に裏切ることは無いと断言したのです。しかし、そういうペトロに、イエスはあなたの信仰が無くらならないために祈ったと告げられます。ペトロの心のうちからイエスご自身が消えてなくなることのないように、私はあなたのために祈ったとあるのです。
 
結果として、ペトロはイエスを知らないと否定してしまいます。ついつい自分かわいさのゆえにペトロはそう言ってしまった。しかし、はたとそのことに気付いたときに、ペトロはいたたまれなくなってしまいました。しかし、そんなペトロはイエスは祈ってくださるのだと。祈り続けてくださるイエスが、ここにおられるのだと。私はイエスのこの言葉を通して、明らかに神は私たちのぐずぐずなあり様を知っておられるうえで、私たちのために祈り、そして私たちに何らかの答えを出しておられるのだと。
 
私は、このイエスの姿に、涙むせばずにはいられません。ごめんなさい。本当にごめんなさい。そして、ありがとうございます、イエスさまと。
 
皆さんの一日に、神からの平安と祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。

06/10/2023

2023.10.6(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書7章23節
私の声に聞き従え。そうすれば、私はあなたがたの神となり、あなたがたは私の民となる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書8章31節
イエスは言われた。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
昨日も黙想をお届けすることができず、申し訳ありませんでした。昨日は予期せぬアクシデントが生じ、当初の予定を大幅に変更して一日を過ごしていました。幸い迅速に対応できたため、大事にいたらず済みました。このアクシデントで、いろいろなことを考えさせた、そんな一日でした。昨日は夜9時前には床に就き、ゆっくりと休みました。朝6時に起きましたので9時間は休んだことになります。さわやかな秋空とともに朝を迎えることができて、改めて命が与えられていることに感謝しました。
 
さて、今日の聖書の旧約聖書の言葉である、エレミヤ書7章の言葉から感じさせられることがありました。「私の声に従え」という神の御声があります。私たちは神の御声を、聖書の言葉と聖霊の助けから聴き取ろうとします。そして聴いたことを黙想してそれを自分自身の生き方とすることによって、神の声に従うという聖書の言葉を受け入れようとします。
 
ここまでは分かるのです。「そうすれば」神御自身が私たちの神となってくださり、私たちは神の民となることを約束しています。問題はここからです。神が私たちの神となり、私たちが神の民となるというのは、「神の御声に従う」ということが条件にあって、その条件をクリアすれば、私はこうするよと神が述べているということを意味する言葉なのでしょうか。つまり、神はここで私たちにあなたがたの神となり、あなたがたを民とするための条件・入会資格のようなものを提示しているのでしょうか。
 
私はそうでないと思います。なぜならば、神はご自分の契約というものを、どんなに民の側が契約破棄されてもおかしくないようなことを繰り返しても、神の側はその契約を破棄されなかった。それどころか、究極の救い主を御子イエスを遣わすほどに、私たちを愛される方だからです。ひとりも滅びずに永遠のいのちを得ることに、神は多大な関心をお持ちだからです。それくらい、神は人間をこよなく愛しておられる。
 
だからこそ、神は条件や資格をもって私たち人間につながりを迫っているのではないと私は理解したいのです。そんなことをしなくても、すでに神は私たちとつながっていてくださっているのです。では、この聖書の言葉をどのように読み、受け取れば良いのでしょうか。私はこう受け取りたいと思いました。
 
神の御声に従って生きるならば、すでに、神が私たちの神であり、神が私たちをご自分の民としてくださっていることを知り、理解できるようになるのです。
 
神の御声に従うことは、決して条件や資格ではなく、私たちが神の本質を知り、理解するためのプロセスなのだと。神の愛に満ちあふれたその姿を、私たちは聴従というかたちをとおして、すでにつながれていることの幸いを味わう。これこそ、キリストの弟子として生きるという、今日のヨハネ福音書に相通じるテーマなのだと、私は受け取りました。
 
神はすでに私たちとつながっていてくださる。その一点に希望を置いて、今日も神の御声に聴き、そしてそれを自分自身の生き方とすることができますように。皆さんの主にある平安と祝福をお祈りいたします。

04/10/2023

2023.10.4(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記8章7節
あなたの神、主は、あなたを良い地に導き入れようとしている。そこは、平地でも山でも川の流れがあり、泉や地下水が溢れている地である。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録14章17節
神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、あなたがたの心を食物と喜びとで満たしてくださっているのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
今日は黙想を書き留める時間が十分に取れませんので、聖書の言葉だけを掲載いたします。ひと言。恵みの雨を注ぎ、実りをもたらしてくださる神に、心から感謝しつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。どうぞ、皆さんの一日に、神の豊かな守りと祝福がありますように。お祈りいたします。

03/10/2023

2023.10.3(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編16編1節
神よ、私を守ってください
私はあなたのもとに逃れました。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章13節
私たちを試みに遭わせず
悪からお救いください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンとして選ばれたふたつの聖書の言葉を通して、いくつかのことを想わされました。そのことを綴りたいと思います。
 
まず、私たちにとって「逃げる」というのはどういうことか。私たちが最低限負わなければならない責任というものから、極力逃げることのないように、私たちは自分自身のバランスを保ちながら歩んでいると思います。しかし、逃げないがゆえに、命の危険が差し迫るような時は、やはり私たちは逃げるという選択を取るはずなのです。そんなときに「逃げるのは負けだ」という周囲からの評価や、逃げることに対しての自己評価のようなものが、逃げることを指し留めてしまうのではないか。そんなことを想わされました。本来は逃げた方が良い、逃げなければならないような状況においてもです。
 
しかし、聖書には明確に「逃れ場である神の存在」について描かれています。特に本日の旧約聖書である詩編では、ダビデ王が自分自身の逃れ場として神を指している、そんな歌が実に多く見られます。逃れるところには信頼がある。今日の部分について、ドイツ語聖書では逃れ場を「信頼」と訳すことのできる言葉が用いられているのは、とても興味深いところです。心からの信頼をもって逃れ場に逃げるとは、逃れても門前払いされることはないという安心感から生じるものなのだろうと思わされるのです。
 
イエスはそれを「祈り」をもって願い出ることの大切さを、「主の祈り」の言葉をもって私たちに教えてくださいました。さまざまな試みが私たちを襲うときに、安心して語る場、逃れる場が神にあるのだと。そうイエスは私たちに教えてくださったのです。
 
是非、私たちに襲い来る脅威に対して、ためらうことなく逃れることのできる神が、今日も私たちのすべてを守ってくださいますように。お祈りいたします。

02/10/2023

2023.10.2(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書30章26節
主がその民の傷を包み
その打ち傷を癒やされる日
月の光は太陽の光のようになり
太陽の光は七倍となり
七日分の光のようになる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章24節
キリストの打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
随分秋らしい朝を迎えました。エアコンを付けなくても、涼しい朝を迎えることができるなんてと、長かった夏を思い起こしながら嬉しさを感じています。考えてみればもう10月です。今年の秋は短いと言われていますが、寒さに突入する前に、快適なひと時を存分に楽しみたい。そんな気持ちをもって、鳥のさえずりを聴きながら、今日の聖書の言葉に向き合いたいと思います。
 
今日の聖書の言葉を通して、私は「毒をもって毒を制す」ということわざが思い浮かびました。毒が中和されるために他の毒を用いるということから、本来ならば、悪事には悪事を、悪人には悪人を利用することによって、それらの悪事や悪人全体を滅ぼすといった、あまり良い意味ではない用いられ方がされたりします。
 
しかし、私は今日の聖書の言葉、特に新約聖書であるペトロの手紙の言葉を通して、私たちの傷が癒されるためには、究極的な「傷」が必要だった。それが、イエス・キリストが十字架の上で負われた「刺し傷」であったということを、私たちはこの聖書の言葉から改めて気づかされます。まさに「傷をもって傷を制す」と言えるのではないかと思ったのです。
 
私たちは自分の傷が癒されるために、イエスを十字架にはりつけにしたのだとも言えるでしょう。しかし、イエスが十字架につけられた時に、その場にいた民衆たちは、もちろんそんな意図は少しもありませんでした。憎しみに扇動されながら、イエスを十字架につけたのでした。ただ、イエスを十字架につけたときに、その場に渦巻いていた憎しみこそ、私たちが負い続けた「傷の産物」とも言えるのだと私は思います。
 
私たちは無意識のうちに人を傷つけることがあります。そして、その傷に無意識なことも多くあります。逆に傷つけられたという感情は、いつまでも傷として残り続けることがある、その傷が私の心の中でうずくときに、それがあらゆる負の感情を新たに生み出したりすることが往々にしてあるのを、私たちはよく知っています。いずれにせよ、私たちのうちに存在する傷は、自分自身のなかで解消することが本当に難しいのだと思います。
 
昔、ある人がこんなことを言っていたのを思い出しました。傷口は残る。しかし、その傷口を見て笑える日が来ればこんなに良いことはない。私たちのうちに笑いを起こさせてくださる御方、それがイエスなんだと。
 
私は、ああなるほどと、その時に思ったことを思い出しました。今から20数年前のことでした。その時、私はどうしようもない憎悪の念を、ある人に向けていたことがありました。憎くて憎くてしょうがない。しかし、そんな憎しみからも解放されたい自分もある。まさに、アンビバレンスな感情が私を襲い続けていたのです。
 
しかし、あれから20数年が経過し、その時の記憶は忘れることはなくても、憎悪の念はどこかに消えてしまった自分自身を見い出します。この憎しみは教会の中で起こったことでしたが、教会において、御言葉に聴き続け、神と祈りを通して対話するなかで、神が備えてくださった多くの出会いのなかで、私は徐々に癒されていったのだと思います。水に流すわけでもない、傷口が残りながらも、それを余裕をもって眺めることのできる時が本当にやってきたのでした。
 
そんな言葉が、今日与えられた御言葉なのだと、改めて気づかされたのでした。今日の旧約聖書の言葉にもありますように、それが7倍にも輝きわたる月光・日光となって、今日の一日を歩むための源として喜びつつ、生きてまいりたいと願います。皆さんの一日にも、そのような神の輝きがさんさんと照りわたりますように。お祈りいたします。

01/10/2023

2023.10.1(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書9章23節
私こそ主、この地に慈しみと公正と正義を行う者。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙3章18節
義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間、そして新しい月10月が始まりました。年度初めが4月ならば、1年の半分が過ぎたことになります。私にとってもこの下半期の半年間、一日一日心を込めて、日々を過ごしたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉から私が思ったのは、神の正義を携えて生きるということです。そして、神の正義を携えて生きることは、平和をもたらすための種まきでもあるということです。
 
神が与える正義の反対側にあるのは「自己正義」です。自己正義だけで生きるならば、必ず人間関係にゆがみが生じます。人と人とのあいだを上下関係で見ようとしますし、多い少ない、強い弱いで物事を判断しようとします。そして、自分自身が強く、大きく、多くなろうとする。この人間関係のゆがみこそ、平和と反対の構造を生み出すのだとあらためて感じさせられます。もちろん自戒を込めてです。
 
だからこそ、神の正義とはいったいなんなのかを、じっくりと考えて自分の生き方としたいのです。誰もが享受すべき神がもたらされる平和があふれてこないのであれば、それは私たち人間の側が、どういう正義を携えているのかを自省するべきなのだと私は改めて思わされました。そして、神のもたらす正義によって、誰もが傷つかない平和な世の中を神がお望みなのだと信じつつ、歩んでいきたいのです。
 
どうか私たちのあいだに、神の正義に基づいた平和が宿りますように。皆さんの主にある平安と祝福を心よりお祈りいたします。