18/03/2024

2024.3.18(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書10章1~2節
災いあれ、
苛酷な判決を書き記す者に。
彼らは弱い者の訴えを退け
私の民の苦しむ者から権利を奪う。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章12節
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今週も週日の日々が始まりました。世の中ではお彼岸、そして年度末が近づいており、何かとあわただしい毎日を過ごされるかもしれません。どうぞ一切に、神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖句ですが、私が特に目に留まったのは、新約聖書・マタイによる福音書7章の言葉です。一般的に「黄金律」と呼ばれる、大変有名な聖書の言葉です。自分にして欲しいことを人にもせよとのイエスによる言葉です。
 
私は、かねてからこの言葉の取り扱いというものには、注意をしなければいけないと思っている人間です。この聖書の言葉について考える際に、まず検証しなければならないのは、そもそも「自分にしてほしいこと」とは何なのか、ということであると思っているからです。
 
もし、自分にして欲しいと思っていることが、神の御心に依らない、単なるわがままで、自分自身の願望欲求であるならばどうでしょうか。そのようなことを他者に要求したら、その人を自分の欲求で振り回してしまうことすらあるのだと、私は思うのです。
 
よく、「良かれと思ってしたことが、かえって裏目に出た」ということがあります。自分自身が良いと思っていることが、単なるひとりよがりである場合だってあるわけで、自分にして欲しいことというものが、何を指してイエスはそのようなことを言ったのかを、私たちはこの聖書の言葉を読む際に、心を傾けて考えていきたいと私なんかは思ってしまうのです。
 
今日のマタイの聖句の続きには「これこそ律法と預言者である」と記されています。律法にしても預言者にしても、神の御心がいっぱいに詰まっているのであって、私たちがこの聖句を自分自身の生き方にする場合は、自分にして欲しいことが、本当に神の御心によって整われていて、神の御心を自分の生き方にしようとしたときに、初めてこの聖書の言葉が実現するのだと、私は受け止めたいのです。
 
私のなかにあるひとりよがりな思いが、結果として、本日の旧約聖書・イザヤ書の言葉にあるように、他者の大切なものまで奪い取ってしまうことのないように、襟を正しながら、週日の日々を歩みたいと願わされました。私たちのあいだに、主の平和がともに、豊かにありますように。

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