31/03/2023

2023.3.31(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
士師記3章9節
イスラエルの人々が主を叫び求めると、主は一人の救助者を起こし、イスラエルの人々を救われた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章68節
ザカリアは言った。
「イスラエルの神である主は
 ほめたたえられますように。
 主はその民を訪れて、これを贖われた。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)33日目を迎えました。
4月始まりの暦では、今日が2022年度(令和4年度)の最後の日になります。私事ですが、昨日は4月に行われる教会総会の資料を作成していました。1年間の振り返りの作業を、週報をはじめとするさまざまな資料を読み返しながらするのですが、あっという間の1年間、しかしその1年間がいかに充実していたものかということを、改めて思うことができました。
 
ある牧師からこんな話を聞いたことがあります。教会総会というのは、事務的なことや財務的なことの決定の場であることは間違いないけれど、過ぐる一年間を導き、守ってくださった神の御業をみんなで思い起こすことのできる場なのだと。そして、来る一年間にも神が私たちを守り、導いてくださるという希望をみんなで確認し合う場なのだと。だからある意味総会は「祝い」なんだよ。
 
私はその話を聞いて驚くとともに、総会は人間同士の話し合いの場以前に、神が中心に立たれて、私たちを平安と救いのむしろへと導かれる場なのだという意識が大切なのだということを思わされたのです。そんな思いを抱きながら、2022年度を振り返る作業が与えられたのは、本当に感謝なことでした。
 
人間同士のあいだに立たれる神がおられることを、神は人々に知らせます。イスラエルの民は、ことあるごとに神の存在を忘れては自分の好きなように振舞い、さも自分自身が平和と幸福を作り上げているような顔をしてしまう、そんな歴史が聖書には記されています。つまり、自分自身が「神」となってしまう。そして自己中心的な振る舞いが他者にゆがんだ支配を与えてしまうというのです。
 
そうなると、必ずそのようなゆがんだ支配の犠牲になる人たちが登場します。本日の旧約聖書に記されている「人々の叫び」とは、そのような犠牲となった人々の叫びであったに違いありません。神はその人々の叫びに、ひとりの「裁き人(士師)」を遣わされました。オトニエルという士師がイスラエルの政治家として立てられ、彼は神を真ん中に立てて、神による平和を訴え続け、人間同士のゆがんだ支配構造からイスラエルを解放させたのです。
 
こうして、神は人々の叫びに応えられる。その集大成と言えるのが、救い主イエスであるというのです。本日の新約聖書の言葉は、洗礼者ヨハネの父である祭司ザカリアの賛歌の一節です。主なる神は私たちを訪れ、私たちの債務をすべて負ってくださった。つまり、私たちが神をそっちのけにして傍若無人に歩んできたことによるそのツケを、すべて清算してくださったというのです。これこそ「贖い」であり、私たちの「罪の贖い主」であるイエスを、神は与えてくださったということへの賛歌なのです。
 
一年間を振り返り、すべて良しとは言えないこともあったかもしれない。しかし、にもかかわらず神は、私たちに平和を与えるために、救い主を遣わしてくださるのだと。今日の一日も、そして来る新しい一年にもです。そんなことを心に抱いて、希望をもって生きたいと思わされました。救いの主は、贖いを経て、救いを携えて私たちのもとを訪れてくださるのだと。受難週を前にして、そんなことを黙想させられました。
 
どうぞ皆さんの一日が、主なる神様の祝福にあふれたものでありますように。お祈りいたします。

30/03/2023

2023.3.30(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
コヘレトの言葉3章1節
天の下では、すべてに時機があり
すべての出来事に時がある。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章31節
イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、私たちはエルサレムへ上って行く。そして、人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)32日目を迎えました。
今日も、レントの日々を歩む私たちが、その歩みの日々をじっくりと踏みしめながら、その意味を探ることができますようにと祈りつつ、御言葉をいただきたいと思います。
 
本日の旧約・新約聖書の組み合わせを見たときに、とても「絶妙」なものを感じました。ローズンゲンは、旧約聖書はあらかじめ準備されたくじによってその日の聖句が選ばれ、新約聖書はドイツのローズンゲン編集部によって、旧約聖書のテーマに沿った聖句が選ばれます。ですので、新約の部分については、祈りつつ選んでいるとは思いますが、ローズンゲン編集部の「意図」というものがあることも事実です。その意図を読み取ることも、黙想する助けになったりすると私は考えています。
 
すべてのことに時がある。
大変有名なコヘレト(知恵者)の言葉です。すべてのことにベストタイミングという神の御心がある。このことは、自分の思い通りにならないときに、ある意味で自分自身を戒める言葉として、私なんかは受け入れることが多くあります。そして、神が必ずベストタイミングというものを与えてくださるのだから、そのことに視点を置いて今日という一日を生きようと思うのです。
 
しかし、なかなかそうは思っても、自分の思い通りにならないというのは、実にストレスを引き起こすものだと、ストレス耐性が決して強いとは思えない私なんか思ってしまうのです。今の状態に耐えられない、そう思ってしまうのです。しかし、耐えるというのは決して、自分自身の我慢力というのが強固になることではなく、自分自身で歯を食いしばって頑張るということでもないのだと。ただ、神の与えてくださる約束に希望を持って、弱い私がそのすべてを明け渡して、ただ委ねていくことなのだと。
 
そういう意味で言えば、本日の新約聖書の言葉は、実に明快だと私は思ったのです。イエスが弟子たちに言われたのは、人の子について預言者が書いたことはすべて実現するということでした。人の子、つまりイエスが神の言葉を実現するために、私たちのもとに来られたことを知らせる言葉だったのです。救いは自分たちの自己努力によってなされるものではなく、あくまで神がベストタイミングをもって与えてくださるものなのだということを、私はコヘレトの言葉とつなげて、本日の新約聖書の言葉を受け入れることができました。
 
レントの日々を歩むというのは、来るべきイースターがあることを希望のうちに生きること。救いは私たちが追い求めるものではなく、はるか向こう側からやって来るもの。私たちは歩みながらも、その実はやって来る救いがあることを実感する歩みなのだと。本日もそのような明らかにゴールのある歩みを、希望のうちに続けることができますように。お祈りいたします。

29/03/2023

2023.3.29(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編117編1節
主を賛美せよ、すべての国よ。
主をほめたたえよ、すべての民よ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録2章11節
(ペンテコステの日に人々は言った)
私たちは、自分たちの言葉で神の偉大な業が語られるのを聞いているのだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)31日目を迎えました。
昨日は一日お休みをいただいて、盛岡へ出かけました。会いたい人に会って、話したいことを話し、食べたいものを食べて、自分の好きなように時間を使うことが、自分自身にとってとても大切なことであるのを、あらためて知らされました。レントは節制の期節と言われていますが、昨日はそこからも離れて、本当にゆっくりとすることができました。心から感謝です。
 
さて、本日の聖書の言葉は、どちらも主なる神を「賛美」する私たちがあることを思わせるものです。賛美とは何も音楽だけに限りません。私たちは言葉をもって神をほめたたえるものはすべて賛美であると言って、間違いないのだと思います。
 
本日の新約聖書の言葉は、ペンテコステの日に聖霊の導かれるがままに、あらゆる言葉をもって神をほめたたえ、その救いの言葉が宣べ伝えられたことによる人々の反応の言葉でした。自分たちが普段使いしている言葉で、神の言葉を聞き、その救いを聴くことで、人々はそれぞれの心に、神を感じることができたに違いありません。ただし、その出来事はすべて「聖霊の導き」ゆえのことだったと、聖書は記しています。
 
聖霊の導きによって、私たちは神の言葉を神の言葉として受け入れることができるのだと。そして、受容によって生み出される実は「賛美」であるというのです。聖霊の働きを重んじる教会が、賛美を重視するのも納得できることです。心からあふれる賛美というものを、是非大切にしたいものだとあらためて思わされました。
 
ただ、それも「~でなくてはならない」「~であるべきだ」と私たちの側で賛美を規定し、規制し、制限するようなことがあるならば、それが聖霊の導きに沿っていることなのかどうかということは、立ち止まって考えてみることは大切なのかもしれません。とかく、音楽をめぐっては教会内の論争の種になり、また聖霊理解というものも争いのもとになってしまうことを私たちは知っています。極めて「主観的」な面が強くなってしまう傾向があるものだと、私は考えています。
 
だからこそ、賛美について本日の聖句を通して、じっくりと考えたいと思わされました。賛美が私の生活に無くてはならないほど、豊かさを与え喜びを提供するものであることを、日々認識するためにです。
 
どうか皆さんの口からあふれる賛美に働く聖霊なる神が、皆さんを祝福してくださいますように。お祈りいたします。
 

28/03/2023

2023.3.28(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編103編14節
主は私たちが造られた様を知り
私たちが塵にすぎないことを覚えておられる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章10節
私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)30日目を迎えました。レントも4分の3を過ぎたこととなります。四旬節のクライマックスとも言える受難週に向けて、今日も聖書の言葉を通して自分自身を整えられることに感謝しつつ、黙想をしたいと思います。
 
本日選ばれたふたつの聖書の言葉は、まさに四旬節にいただくべきものであると受け止めました。「私たちは塵にすぎない」というひと言に、あらためて深い思いが与えられました。塵にすぎないという言葉をどのように聴くことができるだろうか。たかがと思えるような塵からご自分のかたちに造られて、そこに命の息吹を吹き込まれて人間が誕生したという、神の創造の御業を思います。このことから、私たちは神との深い関係性のなかで、自分が「人間」であることを認識できるのであって、神との関係なしには、私たちはそれこそ単なる塵にすぎない。私はそのように受け止めました。
 
そして、こう思ったのです。神は私たちを「人間」として命を与え、人間として生きることを心から望んでおられる。だからこそ、私たちの様をご覧になり、私たちひとりひとりに生きるためのパンを与え、独り子イエスを救い主として、その命を私たちのためにささげられた。そこに神の私たちに対する深い愛を感じずにはいられないのです。
 
私たちは死にゆくイエスをいつもこの身に負っている。使徒パウロは自分自身に与えられたこの実感を、手紙にしたためました。命を活かすために死にゆく命、十字架における犠牲の命を与えられたほどに、私たちとのつながりを願っておられる神が、簡単に捨てられるような塵のままでいることを望んでいないからこそ、私たちの代わりに死んでくださるイエスの命が私たちのうちに現れるように、今日も生きて働いてくださるということなのだと。
 
今日も神に生かされ、イエスの命に生かされることにレントを歩むその意味を問いつつ、一日を過ごしてまいりたいと願わされました。どうか皆さんの一日が豊かに祝されますように。心よりお祈りいたします。

27/03/2023

2023.3.27(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編48編11節
神よ、御名のように、あなたへの賛美は地の果てまで及びます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書10章7節
行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)29日目を迎えました。
今週も主の日が終わり、私たちはそれぞれの場に遣わされて、ウィークデイの日々を過ごそうとしています。そう、私たちは「遣わされている」という感覚を、神との関係のなかで持つことができているのだ。この文章を書きながらあらためて思わされました。神が遣わされる場とはどのような所なのだろうか。そして、私たちは遣わされた場でどのように生きるのだろうか。そんなことを思ったのでした。
 
本日の新約聖書の言葉は、イエスが選ばれた12人の使徒たちを、宣教の現場へ派遣した際にイエスによって語られたものです。「天の国は近づいた」ことを宣べ伝えなさいというメッセージです。天の国というと、どうしても「天国=死後の世界」ようなイメージがつきまとうかもしれないし、天の国の到来と聞けば、この世界の終末からイエスの再臨に向かう歴史を思い浮かべるかもしれません。
 
実はこのような感覚のとらえ方というのは、イエスが使徒たちに向けて語られた約2000年前からずっと、その時代を生きてきた人たちのなかで現実味をもって受け入れられてきたと思うのです。人間ならば誰でも迎えることになる「死」を通して天国を思い、また終末が近い、再臨が近づいていると切迫感を抱きながら、天の国を思うというものです。
 
私は、そのどちらも間違っていないと思います。しかし、まだ見ぬ死や終末などの将来ばかりを見つめてしまうばかり、私たちが「今」を生きるこの世界に「天の国の価値観」というものが損なわれたりそがれたりするのであれば、私たちは「天の国のリアリティ」というものを持てなくなってしまうのではないか。そんな風にも思えてならないのです。
 
少しややこしいことを書いてしまっているかもしれません。別な言い方をもって、少々簡潔な言い方をするならば、天の国というのは、私たちがこの世の現実にしっかりと地に足をつけながら、神の価値観が豊かにされていく世界なのではないか。そう信じて、天の国の味わい深さを堪能して生きたいのです。
 
そのためにイエスは使徒たちを遣わされました。その中心は死や終末の恐れというものをちらつかせるものではなく、あくまで神がイエスを通してしめされた御大切、つまり私たちひとりひとりの命と尊厳を大切に守ってくださり、私たちが生きることの幸いを味わわせてくださるために与えられる「愛」がある。この愛を伝えることが、天の国が近づき、神の価値観が世界に広がりゆく宣教なのだと。そして、私たちもまた神の愛をいただいて、この世界に遣わされていくのだと。それが賛美となり歌となっていくのだと、私は本日の聖書の言葉を通して、あらためて気づかされました。
 
人のいのちと尊厳を大切にする天の国の価値観が、私たちのもとに近づいていることを望みつつ、期待しつつ、今日も希望をもって歩むことができますように。それぞれに遣わされた場で、生かされている命をもって、今日の一日に幸いを神がもたらしてくださいますように。お祈りいたします。

26/03/2023

2023.3.26(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記上8章27節
(神殿奉献の際のソロモンの言葉)
神は果たして地上に住まわれるのでしょうか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章18節
いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)5回目の日曜日を迎えました。
多くの教会では2023年度最後の日曜日を迎えておられるのではないかと思います(年度初めが1月の教会があることも知っています)。過ぎようとしている年度を振り返りつつ、教会という場を神がどのように祝してくださっているのかのについて、本日与えられた聖書の言葉から、深い黙想が与えられたような気がします。
 
本日の旧約聖書の言葉は、イスラエルの王ダビデの思いを受け継いだ息子ソロモン王が、神の導きと支えによって神殿が完成し、その神殿を奉献するに際してソロモンによって神に向けられた言葉でした。神は地上に住まわれるのか。そのような言葉をソロモンは神に向けて発しました。そして、ソロモンは以下のように言葉を続けます。
 
天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。(27節後半)

このソロモンの言葉に、彼の極めて謙虚な面を見ることができます。ソロモンは神殿建設という一大事業を成し遂げました。その会堂は荘厳であり、すばらしい材料をもって建造されたことは一目瞭然です。この事業に先頭を切って取り組んできたソロモン王の力を見ることもできるでしょう。しかし、そのようなソロモン王が神殿を前にして、私の神殿にあなたをお収めできないほどに、あなたは素晴らしい方なのです。私の思いや私の力で、あなたを押し込め、小さい存在にしてはいけないのだ。そういう意味でソロモンは「神はこの地上に住まわれるのか、いや、決して私の世界、私の手中に引き寄せて、利用してはならないのだ」との思いで、本日の旧約聖書にあるような言葉を発したのだと、私は受け止めました。
 
教会は建物ではない。私はあらためて感じさせられます。神が私たちとともにおられることが明らかにされる場なのだと。神を自分の側に引き寄せて、私好みの神を崇め奉るちっぽけな場では決してなく、私たちの手中では絶対に収めることのできない神の偉大さというものが私たちに知らされ、私たちに命を与え、その命を喜ぶ場として、教会が与えられているのだと。
 
教会が「キリストのからだ」と言われるのは、教会という場に救い主イエスの言葉が、思いが、願いがすべて込められているからです。人々は、たとえ神を見ることができなかったとしても、人間のかたちをとられたイエスが私たちとともに生きてくださり、その言葉と行いのすべてを私たちに示してくださいました。そのイエスのすべてに、私たちは教会という場を見ることができるのだと。
 
確かに建物を通して、私たちは教会を見ることができるでしょう。しかし、それ以上に大切なのは、たとえ建物が稚拙だったとしても、その場にキリストの言葉が、行いが、御心が、そして愛が注がれるということへの素朴な実感です。その素朴な実感というものを、ソロモンの祈ったその思いをもって、今日も礼拝の喜びを味わってまいりたいと願わされました。
 
どうか、世界中で行われる主の日の礼拝・集会の一切に、神の恵みが豊かにありますように。心よりお祈りいたします。

25/03/2023

2023.3.25(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言16章32節
怒りを遅くする人は勇士にまさり
自分の心を治める人は町を占領する者にまさる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章9節
平和を造る人々は、幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)28日目を迎えました。そして、明日はレント5回目の日曜日を迎えようとしていますが、私が仕える仙台宮城野教会では、明日の礼拝を「創立3周年記念礼拝」としてもち、朝の礼拝後には墓前礼拝をもちます。仙台宮城野教会は、その前史として1906(明治39)年に「救世軍仙台小隊」として伝道が開始され、1941年の日本基督教団の成立にともない「日本基督教団仙台愛泉教会」と改称され、その後の歩みに継承されました。1970年代から80年代にかけて、開拓伝道によってふたつの教会(いずみ愛泉・宮城野愛泉の各教会)が誕生しました。そのなかで今後の教会像を見据えて、仙台愛泉・宮城野愛泉の各教会が合併して、仙台宮城野教会としての新しい歩みが始まりました。
 
そのような希望に燃えていたところで襲ったのが、コロナパンデミックでした。以後3年間、世界中のあらゆる教会が「集まることの困難さ」を体験することとなります。仙台宮城野教会の歩みはまさに、コロナ禍とともにある歴史であったと言っても過言ではありません。まさに出鼻をくじかれたようなスタートを、教会に集われる皆さんは経験しなければなりませんでした。私たちは前任牧師の後任者として昨年春に仙台宮城野教会に赴任しましたが、この1年間、教会の皆さんとともに過ごす1年間で、実に多くのことを学ばせていただきました。どんな困難をもいとわず、ただ神の御心によって希望を抱きつつ忍耐をもって歩まれた皆さんの姿にです。そのようななかで、私たちの働きをも大切にしてくださる、その姿勢に私は「主の平和」というものを感じずにはいられないのです。
 
本日のローズンゲンに示された旧約聖書と新約聖書の言葉は、まさに私たちが経験した1年間を物語る聖句であると受け止めることができたのです。
 
本日の旧約聖書の言葉は箴言の一節です。「怒りを遅くする人」とあります。この言葉は「忍耐」とも訳せる言葉です。実は、私は昨日いろいろな理由から怒りというものを感じながら、1日を過ごしていました。自分自身の心が騒ぎ、その騒いでいる自分に耐えられないのです。怒りを表出することのないように自分自身のなかで整理しようとします。しかし、怒りを抱えながら心を鎮める作業というのは、簡単なようでなかなか難しいものを感じます。それが人間の真実の姿であり、こういうもやもやがあることをあえて隠さずに、しっかりと向き合うときが、レントの日々を歩むということなのだ。そう思ったのです。
 
そのようななかで、今日の御言葉をいただきました。怒りを遅くすること、つまり忍耐は勇士に勝ると。それは単なる我慢大会ではありません。神は長い時間をかけて、時に怒れる思いに気づかせ、しかしそのような時の流れのなかで、物事をひとつひとつ平和のうちに進ませてくださるのだと、私は今仕える教会の姿を想い起こしながら、その真ん中に立たれる神の助けというものこそ、怒りに遅くあることの幸いなのだと受け止めたのです。神に自分自身の心というものを、神の言葉と聖霊の助けをもって整えてもらうことで、自分の心を治める、つまり「管理」させてもらうことができるのだと。
 
話はそれますが、治めるという言葉の類語として用いられる「支配」という言葉には「管理」という意味もともなっています。支配を自らの意のままに行使し、向こうにある人々の大切なものを奪い取っていくならば、それはゆがんだ支配であり、カルトの根となっていく。そうではなくて、ゆだねられた仕事というものを、委ねてくださった方の思いに従って管理をしていくことで、健全に自分自身を治めることこそ、神がこの世界に願われる「平和」を造る務めへの担いになるのだと。まさにイエスが本日の新約聖書の言葉で語られた「幸い」がここにあるのだと。私はあらためて感じとることができました。そんなことを考えていたら、昨日感じていた怒りというものが整理できた気がしてきたのです。
 
イエスが語られた「平和を造る人々は、幸いである」という言葉の意味をかみしめながら、明日へと、そして新しい年度へと、仙台宮城野教会の4年目の歩みへと進んでいきたいと思わされました。こうして営まれる世界中の教会の歩みが、その歩みに関わる皆さんの一切に、神の幸いが豊かにありますように。心よりお祈りいたします。

24/03/2023

2023.3.24(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書35章14節
(主の言葉)私が繰り返し語り続けてきたのに、あなたがたは聞き従わなかった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書11章28節
(イエスの言葉)幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)27日目を迎えました。
昨日は、東京近辺にあるキリスト教主義大学の先生方の研究会に呼ばれて、カルト宗教の現状について講演をする機会をいただきました。あいにくながら雨の東京でしたが、桜の花が咲き誇る、すっかり春の装いを見せた東京の春を楽しむことができました。研究会でも、その後の夕食の場でも、久しぶりにお目にかかる同業者の先生方もあり、旧交を深めることができました。
 
さて、本日の旧約・新約の両聖書に描かれているそのテーマは「聴き従う」、つまり聴従することの幸いと言えるでしょう。選ばれたのは、旧約聖書エレミヤ書の一節です。預言者エレミヤを通して、神はご自分の民に何度も、何度も神御自身の言葉に聴き従うことの大切をを伝え続けました。しかし、それは民たちの心に響くことがありませんでした。その結果、彼らはバビロン捕囚という、苦しみを経験することになります。
 
なぜ、神の民たちはそのような神のメッセージに聴き従わなかったのでしょうか。彼らは聴き従っていないという自覚が無かったのです。自分たちは神の民。私たちがどんな状態にあっても、神は私たちのことを救ってくれるのだから大丈夫。そんな油断こそ、彼らが神の言葉に聴き従わなかった最大の理由なのだと私は思うのです。
 
自分は大丈夫だと思うばかり、大切なことをおろそかにしてしまうというのは、どの世界にもあると思います。例えば、一流のミュージシャンがその高い音楽スキルを保ち続けることができるのは、日々の鍛錬というものを忘れず、おろそかにせず、地道に取り組んでいるからと言えるでしょう。そういう積み重ねこそ人を育てる。おそろかにすれば、いつかは自分の身にそれだけのことが降りかかってくるというのです。
 
エレミヤを通して語られた神の言葉を聞かなかった民たちに足りなかったのは、そのような日々の営みだったのでしょう。神の言葉に聴き、祈る、自分を整えて、その言葉に従い、神に従う。そのことを通して確かめるのは、自分自身の無敵さでも完璧さでもなく、まだまだ道半ばあれど、神の語る言葉に聴き従うことによって、神が私たちの人生をご自分の言葉をもって支えてくださるということへの幸いです。そして、神が設けてくださった人生の道を歩むという「神の言葉に導かれた行い」を楽しむことができるのだと。それが、本日の新約聖書の言葉にある、イエスの言われる幸いに相通じるのだと受け止めました。
 
レントの日々を歩むというのは、それすなわち、神の言葉に聴き、そして従うという道なのだと。レントもちょうど3分の2を過ぎた今日の歩みが、神によって守られ、祝されますように。お祈りいたします。

23/03/2023

2023.3.23(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編65編8節
(我らの救いの神よ。あなたは)
大海のどよめき、波のどよめき
そして諸国の民の騒ぎを鎮める方。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章73~75節
(ザカリアの言葉)
これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。
こうして我らは
敵の手から救われ
恐れなく主に仕える
生涯、主の御前に清く正しく。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)26日目を迎えました。
ここ数日、仙台の街も春日和の天気が続くようになりました。振り返ってみれば3月も下旬。本格的な春はもうそこまで来ているのだと、あらためて感じさせられました。私もこの街に来て、はや1年が経とうとしています。あっという間の、しかし本当に充実した日々を過ごすことができていることができています。感謝なことです。
 
さて、本日の旧約聖書の言葉は、神が人間のあいだに起こるあらゆる喧噪というものを鎮められる方であるという、ダビデ王による賛美の言葉です。大波のどよめきを鎮められるという言葉を聞くと、私なんかはすぐ津波と結び付けてしまうところがあります。その恐ろしさというものを知っている方にとっては、それを鎮められる神とは一体どのような存在なのだと思ってしまいます。ですから、私はこの言葉を通して、神が自然界をも制御し、それを用いられる方であるということを、あまり語りたくないという思いが正直あります。
 
ですから、本日の黙想はその後半部分である「諸国の民の騒ぎを鎮める方」という部分に注目したいと思いました。人々のあいだで起こる喧噪とは一体なんだろうか。そんなことを黙想しつつ、新約聖書の言葉に導かれたいと思います。
 
本日の新約聖書の言葉は、洗礼者ヨハネが生まれたときに、ヨハネの父となった祭司ザカリアの舌がほどけて、これまで黙らされていた言葉が彼の口からあふれた。その賛美の一節です。よく言われる「ザカリアの賛歌」と呼ばれるものです。ここでザカリアは、敵とされる者の手から神の民を救うために、わが子ヨハネが用いられるという神のメッセージを預かり、それを賛美したのです。実際にヨハネは、洗礼者としての役割を果たし、救い主イエスを迎えるための備えをするという務めにあずかりました。
 
人々の喧噪というものは、道を歩むうえでも妨げとなり、混乱の元となる。混雑した道を歩くことは、なかなか安心できるものではありません。道を歩むなかで、さまざまなトラブルを生んでしまうのではないかと考えてしまいます。それは、レントという40日間の道のりを私たちが歩むなかで、日々のさまざまな出来事に翻弄されながら、悩み、葛藤し、その道をたどたどしく歩む私たちの姿というものに、重ね合わせることができるのかもしれません。
 
しかし、神はそのような道を混乱のままにはしておかれない方であるということを、今日の聖書の言葉からも受け止めたいと思ったのです。人々の喧噪を鎮めるために、その道におけるさまざまな障がいというものを取り除くために、その道を整える務めが与えられているのだと。それが洗礼者ヨハネの務めであったのだと。私たちはこうして、四旬節における道のりすらも、さまざまな困難がつきまとうとも神が整え、備えてくださるからこそ、目標を明確にして歩むことができるのだと。そのように受け止めたいと思ったのです。
 
私たちにはイースターという希望に満ちあふれた目標が設定されています。そのゴールは、春の訪れとともに近づきつつある。そんな気持ちを抱きながら、今日の一日も過ごしてまいりたいと願わされました。どうか、皆さんの一日の歩みのうえにも、その道をご自分の言葉で整えてくださる神の守りと助けがともにありますように。お祈りいたします。

22/03/2023

2023.3.22(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書34章16節
私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書15章6節
(羊飼いは)家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言うであろう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)25日目を迎えました。
本日私たちのために選ばれた聖書の言葉を通して、まず思わされたのは、十字架への道を歩まれるイエスが、どういう思いをもって私たちのことを見つめ、また取り扱っておられるかについて、深い黙想を得るものだと受け止めました。
 
イエスが十字架への道を進まれたのはなぜか。それは私たちを「みなしご」にされないためでした。私たちは道からそれて歩もうとします。独立独歩を声高に叫びながらも、最終的に迷子になってしまう存在なのだと。ある意味で言えば自業自得であり、自己責任によって処理しなければならないのかもしれません。
 
しかし、イエスはそういう私たちをあえて探されます。見つけて、抱えてくださる。そんな羊飼いのイメージをイエスに合わせるように、私たちひとりひとりを促します。自業自得・自己責任とは言えども、私たちは自分自身ではどうしようもなくなり、痛み、傷ついていく。それを癒してくださるのが、私たちの神であるというのは、預言者エゼキエルも語っている通りです。
 
そういう取り扱いを神が、イエスが明らかにされながら、私たちの先頭をきってレントの道を歩んでくださるのだ。これが私たちにとっての慰めであり、励みであり、喜びであると。私だからこそ、私自身の誤った歩みというものが、しみじみと沸きあがってくる、そんなことを思わされます。
 
失敗を犯したときに、頭ごなしにとがめられても、ただとがめられていることだけが記憶に残り、物事の本質というものがなかなか理解できない時があります。助けられるだけの資格をもっていない。しかし、それでも助けてくださる方の愛に、私たちの心が揺り動かされ、本当に大切なものを受け取ることができるのだと、あらためて実感させられます。そういう方が、私たちの救い主としていてくださることに、心から感謝して、今日の一日を歩みたいと願わされました。
 
本日もそのような主に支えられて過ごす一日が、喜びに満ちあふれたものでありますように。皆さんの幸いのために、心よりお祈りいたします

21/03/2023

2023.3.21(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記8章3節
人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章68節
主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)24日目を迎えました。
私は昨日から、日本基督教団北海教区・奥羽教区・東北教区の代表者が一堂に会して行われる「北日本宣教会議」に出席しています。さまざまな宣教の課題というものが分かち合われ、共有することによって、イエスが私たちとともにおられることの実感というものを味わいたい。そんな思いで会議に臨んでいます。懐かしい友人との旧交を深めることができるのも、とても感謝なことです。
 
そんな環境のなかで、宣教の課題とは一体何だろうか。その本質とはなんだろうか。そんなことを思わされます。そして、私は改めて思わされます。イエスが行われたように、イエスが愛されたように、私たちもそれに倣うものであり、愛し合うものであり、イエスの命令に応えていきたいと。この命令に基づいて行われることが、その現場や環境によって多種多様なかたちとなって表れていくのだと思うのです。
 
しかし、基本は変わることのないものであると私は受け止めたいのです。それこそ、本日のローズンゲンの御言葉に示された通り、主の口から出る言葉によって、つまり、神の御言葉である聖書に丹念に、謙遜に、そして前向きに聴き取っていく姿勢なのだと。それこそ永遠なる命の言葉とイエスが言われたように、私たちの命を活かすために無くてはならない基礎なのだと。その点においては不動なのだと受け止めたいのです。
 
世が滅びようとも、私の言葉は決して滅びない。イエスが弟子たちに語られた言葉です。時代が変わって、世の中の必要や要請が変わったとしても、神の言葉が与える本質がゆがめられたりすることは決してあってはならないし、それを我田引水のように利用してはならないことを思わされます。御言葉を真ん中にして分かち合われることの幸い、祈り祈られることの喜びというものを是非味わいたい。これが私の本日の黙想です。
 
神の御言葉がしっかりと私の心の礎となり、その礎の上に建てられる豊かさが、私たちの命を活かしてくださいますように。神に祈りつつ一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神の言葉が与える喜びがともにありますように。お祈りいたします。

20/03/2023

2023.3.20(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書2章5節
さあ、私たちも主の光の中を歩もう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書8章15節
イエスは言われた。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)23日目を迎えました。
今週も平日の日々が始まりました。私たちは四旬節の折り返しを通過して、いよいよゴールを目指して歩み始めました。主の復活という具体的なゴールが、徐々に見えてきています。そんななかで、本日与えられた御言葉は、まさにゴールに向かって歩もうとしている私たちにとって、本当にふさわしい御言葉であると受け止めました。
 
本日の旧約聖書の言葉は、主の山、ヤコブの神の家に向かう民たちが、主の指し示される光のうちを歩もうではないかという、目標をめがけて歩もうとする姿が描かれています。イザヤ書2章の冒頭に描かれているのは、まさに希望に満ちあふれた光景です。剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする神の御業を見ることができるというのです。まさに、神が私たちに平和という希望を与えてくださる。この希望の光を歩もうではないかという、民たちの思いを見ることができるのです。
 
この道こそ、レント後半歩もうとする私たちの道に相通じると思えてならないのです。復活という目標を目指して、私たちは主が与え、注ぐ光のなかを歩むことができるのだと。光とは復活の希望の光であって、ゴールから私たちの道を照らしてくださるからこそ、私たちはレントの日々を歩むことができるのだと。そんなイメージが浮かび上がってきました。
 
レントの道、十字架への道を先頭をきって歩まれるのは救い主イエス。そのイエスご本人が復活の光に包まれながら、同時に私たちひとりひとりを照らしてくださるのです。イエスは言われました。私は世を照らす光であると。そのイエスの足跡について歩むことが私たちにはできるのだと。それが命の道を照らす光なのだと私は受け止めました。
 
そんな思いをもって、レント5週目の歩みを踏んでまいりたいと願いました。皆さんにとっても、イースターに近づく日々が、復活の光によって照らされ、主とともに、主のあとに続いて歩むことができますように。お祈りいたします。

19/03/2023

2023.3.19(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章2節
主のように聖なる方はなく、あなたに並ぶ者はいません。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一1章15節
召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)4回目の日曜日を迎えました。
四旬節の日々も後半に入り、最初の日曜日を私たちは迎えました。世界中の教会や集会で行われる礼拝に、主なる神様の祝福が豊かにありますように、お祈りいたします。
 
さて、本日くじによって選ばれた旧約聖書の言葉は、イスラエルの指導者として立てられたサムエルの母ハンナが、神へ感謝の祈りをささげた、その祈りの一節です。子が与えられなかったハンナに、神はサムエルという子を与え、ハンナの悲しみを取り除いてくださった。その感謝の思いから、ハンナの口からほとばしり出た祈りの言葉です。
 
ハンナは、そのような神が他にはない。あなたこそ私の神であることを告白しました。ハンナの嬉しさというものを、私たちは聖書の言葉から聴きとることができます。神が聖なる者である。これは私たちが生きるうえでも、その場面場面で感じることができるのです。
 
後に、イエスの弟子であるペトロは、「神が聖なる方」であることに、私たちひとりひとりも生活の中心に据えることができますようにと、手紙に書きしたためました。「あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」と勧めています。
 
ただどうでしょう。私たちは本当に聖なる者となることができるのでしょうか。それは可能なのですが、それは自分の力によってなし得るものではありません。どんなに聖なる者となろうと、生活を整え、品行方正に生きようと努力しても、私たちは完璧にそれをなすことは実に難しいことをよく知っています。
 
イエスが生きておられた頃、このことに心血を注いだファリサイ人や律法学者と呼ばれる人たちがいました。彼らはそのことをある意味で自分たちの誇りとしていました。しかし、その誇りはやがて、自分の立ち位置というものを高めて、他者と比較し、ついには自分以外の者たちを見下すようになりました。自分たちだけが聖なる者であり、正しいのだと。
 
そのような心構えを、イエスは厳しくとがめました。そもそも「聖」というものは、神だけが聖なる方であって、私たちは神との深い交わりと関係性をもって、神こそ聖なる御方であるというところから、聖性というものをいただけるということなのです。私自身が聖なる存在なのではなく、あくまで神が聖なる方であることを、いかに私自身の生活で大切にできるかというところに、ペトロの手紙に込められた意味があるのです。
 
ですから、私自身が聖なる者に「なる」のではなく、神が聖なる者として、ご自分の知恵と力、私たちをそのように助け、慰め、励ましてくださるということを、私は改めて受け取る者でありたいと願わされました。そのことが礼拝において明らかにされて、神の御言葉と聖霊の助けによって、私たちがいただけるとするならば、私たちはハンナの祈りに自分の心をなぞらえ、励まされるのではないか。そう思えてならないのです。
 
十字架への道を進まれたイエスは、この点において神との深い親子関係を明らかにされました。そして、その関係性が私たちひとりひとりを生かすために、無くてはならないものであることを明らかにされました。私たちの心にイエスがともにいてくださるとき、私たちはイエスの生き方というものを、たとえたどたどしく、失敗を繰り返したとしても、自分の生き方とすることが少しでもできるならば、まさに「聖なる者」として神によって生かされていることの実感というものを、是非味わってまいりたい。そのように思わされました。
 
どうか、今日から始まる新しい一週間の日々に、聖なる神が私たちとともにいてくださいますように。皆さんの新しい日々に神の守りと祝福をお祈りいたします。

18/03/2023

2023.3.18(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編14編3節
すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。
善を行う者はいない。一人もいない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章14節
命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)22日目を迎えました。
今週の歩みも本日で終わり、明日はレント4回目の日曜日を迎えます。この一週間にあったさまざまな出来事を心のなかで想起しながら、明日へ向かう備えの時として過ごしてまいりたいと思います。
 
そのようななかで、本日選ばれた聖書の言葉は、自分自身の立ち位置というものを、あらためて考えさせられる言葉であると受け止めました。それは、いわゆる私たちの「罪認識」がどういうものか、についてです。
 
私がエホバの証人であった頃の話です。エホバの証人の組織は、しばしば本日の新約聖書の言葉である、マタイ福音書7章14節を引き合いに出します。命の道に通じる狭き門をくぐりなさいと。そしてくぐることができるのは、私たちエホバの証人だけなのだと。そのように徹底的に教えられました。自分たちだけが正しい道を歩むことができるのだと。そして自分たち以外の者、攻撃をしてくる者はすべて間違っている。滅びの道をたどるのだと彼らは言うのです。
 
カルト宗教の特徴は、完璧な二元思考に立つように人々をマインド・コントロールをして、そのような思考回路をつくりあげることにあります。私たちは正しい、私たち以外は間違っている。だからこそ、正しい道を歩まない者に対しては内外を問わず攻撃的になります。自分たちは迫害されていることを強調し、また組織をクリーンな状態に保つことを目的として、自分たちから見たら異分子と思える存在を排除し、忌避するのです。
 
だから、私は思うのです。このイエスの言葉を、自分自身を正当化するための言葉としては使いたくない、ということをです。この言葉はややもすると、クリスチャンは命の道、クリスチャンでない人は滅びの道と、規定したくなる言葉であるかもしれませんし、キリスト教は長い歴史のなかで、特に異教世界と言われる日本への宣教においては、そのことを教えてきたのだと思います。
 
しかし、誤解を恐れず申し上げるならば、そのようなアプローチで本当に良いのだろうかと思うのです。私はこの言葉は、自分自身の立ち位置を常に確かめることの大切さというものを、イエスは教えているのだと受け止めたいのです。自分自身が正しいことを確信する言葉ではなくて、私は本当に命の道を歩んでいるのだろうか。神に背を向けて、自分自身の心を神がくださる愛に沿わせていないだろうか。そんなことを日々確かめながら、命の道に向かって歩むことの大切さを思わせるためのイエスの言葉なのだと。そのように受けとめたいのです。
 
他を見下して自分を高めるのではなく、自分自身を低めてこそ見えてくる神の助けとか慰めというものを大切にしたいと思うのです。それがレントの道ゆきなのだと。一週間を振り返るための一日として、そんな私たちひとりひとりにも命の道を指し示してくださる主を想うことができますように。お祈りいたします。

17/03/2023

2023.3.17(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書5章3節
主よ、あなたのまなざしは
真実に向けられてはいないのですか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書16章10節
ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)21日目を迎えました。
本日から四旬節の後半の歩みが始まります。レント前半の自分自身を振り返りつつ、主イエスの復活という希望を前に見据えながら、日々を過ごしてまいりたいと、気分も新たにさせられました。
 
そのようななかで、本日与えられた旧約聖書の言葉に、思わずギョッとさせられました。預言者エレミヤの叫びというものをダイレクトに受け取ったからです。このエレミヤの叫びに先立って、神はエレミヤに告げました。
 
エルサレムの通りを行き巡り
見渡して知るがよい。
町の広場で探せ。
一人でも見つかるだろうか
公正を行う者、真実を探求する者が。
もしいるなら、私はエルサレムを赦そう。
ところが、「主は生きておられる」と
言っても
実は、彼らは偽って誓っているのだ。(エレミヤ書5章1~2節)
 
ここに、自分自身を偽り、正当化して生きようとするエルサレムの民たちに対して、赦しなど与えられないのだという神の思いを聴き取ることができます。
 
それに対してエレミヤは、本日の旧約聖書の言葉として選ばれたひと言を語りました。そして、こう続けます。
 
あなたが打っても、彼らは痛みを覚えず
打ちのめしても、彼らは懲らしめを受け入れず
顔を岩よりも固くし
立ち帰ることを拒みました。(5章3節後半)
 
神の怒りが民たちを襲っても、彼らは気付くどころか、ますますかたくなになるだけです。こうエレミヤは神に返答したのでした。怒りというものは「言うことを利かす」いっときの効果はあるかもしれません。しかし、それはあくまで一時であって、残るのは萎縮と恐れの思いだけです。神の警告を取り次がなければならないそのなかで、打てど響かずの反応を見る空しさみたいなものを、エレミヤのこの言葉から感じずにはいられないのです。
 
このエレミヤと神とのやり取りのなかで、エレミヤは葛藤しながらも、神の言葉をただただ忠実に伝え続けるし、神はエルサレムの民に対して、ご自分と共に歩まない民たちの末路というものを見せることになりました。このことを通して、小事においても大事においても、神とともに歩む民たちが、何を大切にすることが期待されているのかを、後に民は実感することになりました。エレミヤを通して語られた神の言葉を大切にしなければならなかった、その思いです。
 
神は裁きの道とともに、必ず赦しの道を与えておられる方であることは、エレミヤ書の言葉にある通りです。私は思いました。怒りだけをぶつけても物事の解決に至らないときに、神は常に赦しの道をも与えて、怒りを受けることへの恐れから立ち帰ることができるように私たちを取り扱い、導いておられるのだということをです。まさに、レントの途上を歩む私たちひとりひとりが抱くことができる思いなのではないかと、そう思わされたのです。
 
そのために、どんなことにも失敗を繰り返しながらも前を向いて、神とともに歩む者でありたいと願わされました。四旬節後半の初日、そのような思いをもって良いスタートを切りたいと思います。皆さんの一日にも、赦しの主のまなざしが私たちひとりひとりの心を照らしてくださいますように。お祈りいたします。

16/03/2023

2023.3.16(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記32章10節
主はご自分の瞳のように民たちを守られた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一4章16節
神は愛です。愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)20日目を迎えました。
本日でレントも折り返し地点です。レントの後半部分、私たちはいよいよ具体的な「受難」を聖書から聴くことができます。イエスが十字架上で負われた苦しみが、何のためであったか。本日の聖書の言葉はそのことを改めて気づかせてくださるものであると、私は受け止めることができました。
 
本日の旧約聖書の言葉にも「瞳(ひとみ)」が登場します。つい最近、3月6日のローズンゲンに示された旧約聖書の言葉は、ゼカリヤ書2章12節の言葉でした。
 
万軍の主はこう言われる。
あなたがたに触れる者は私の目の瞳に触れる者だ。
 
瞳は眼球の中心にあるものであり、光を取り入れ、ものを見るために無くてはならない部分であることは、そのときに申し上げた通りです。神は私たちひとりひとりをそのような存在として大切に守ってくださる。そんな神の思いというものを、私たちは受け取ることができたのではないでしょうか。
 
まさに本日の旧約聖書である申命記32章10節の言葉にある通りです。この言葉は、神が指し示された約束の土地に向かって、40年にわたる苦難の旅路を終えようとしていた時に、イスラエルの民たちのリーダーであったモーセが、40年間を振り返って告げた言葉です。いろいろな苦しみがあったけれど、しかし、神は私たちを本当に大切にしてくださったのだと。そう述懐したのでした。まさに主なる神は、目の瞳のように私たちを思い、そして守ってくださった。これがモーセの人生の締めくくりの言葉として語られました。
 
その言葉に応答するように、本日の新約聖書の言葉は「神は愛です」という聖書の言葉です。この愛とは、数あるギリシア語における「愛」の言葉のなかで「アガペー」という単語が用いられています。まさに、キリスト教の中心思想となったアガペーの愛です。この愛は、自分の利益を差し置いて、向こうにある者の幸いのために示される、いわゆる自己犠牲的な愛のことを指します。
 
この愛を、どのように伝えるか。今から500年ほど前に日本へやってきたカトリック教会の宣教師たちは、大変頭を悩ませました。当時、日本語で愛と言えば、美しいものを眺めては独占したくなるようなことの表現として「愛」という文字が用いられていたからです。ある意味で言えば、アガペーとは対極にある意味の愛でした。
 
そのような中で、神の愛という言葉を「御親さまの御大切」というふうに言い換えて表現したと言われています。つまり神の愛とは、私たちの存在を大切に守り抜いてくださるそのような愛なのだと。それは、私たちにも同様なことをして伝えられました。神を大切にすること、そして神を大切にするからこそ、自分自身を大切にするように、隣人をも大切にすることができるのだと。こうして、相手の尊厳であるとか人権、そして何よりも、神に大切にされている存在として、相手をみることができるのです。
 
そのような神の示された「御大切」は、十字架へ向かう道を進まれたイエスが、私たちを大切に思うがゆえに、自分のいのちを与えられたことに直結します。十字架への道、苦難の道とは、まさに私たちを大切に思われるがゆえの「愛の道」に他ならないと、私は本日の聖書の言葉から改めて思わされ、このことを胸にして一日を過ごしたいと思わされました。
 
どうか、私たちの間で本当に大切にしなければならないことを大切なものとすることができますように。そのあいだに芽生える神の愛によって、私たちが健やかに平安に過ごすことができますように。皆さんの主にある守りと祝福を心よりお祈りいたします。

15/03/2023

2023.3.15(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編117編2節
その慈しみは私たちに力強く
主のまことはとこしえに絶えることがない。
ハレルヤ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章3節
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)19日目を迎えました。
いよいよレントの期節も折り返し地点を迎えようとしています。昨日は東北教区センターエマオで開講していた「カルトって知ってますか」の最終回でした。1年間講座を担当して、まさか始まったときにはこれほどカルトが世間を賑わすことになるとは思いませんでしたので、本当に驚きつつも、カルトで苦しんでいる多くの方々に視点を置くきっかけともなったのかなと思わされているところです。
  
昨日の講座でも申し上げましたが、教会だって、そして私たちだって「カルトの根」というものを有しているのであって、いつカルト的な言動をしてしまうか分からないと私は思うようにしています。人間とは根本的に「支配をしたくなる存在」であり、それがいわゆる「原罪」というものだと理解しています。そういう理解を踏まえて、聖書を読み、その聖書から聴くとはどういうことなのかについて、黙想を深めたいと思わされます。
 
そういう意味で言いますと、本日の聖書の言葉を通して与えられたテーマは「とこしえなる神の『本質』がほめたたえられますように」ということではないかと私はとらえました。神が神としてあがめられること。その神こそ、私たちひとりひとりに慈しみと慰め、そして真実を与える御方なのだと。その神の本質というものが、私たちのあいだで明らかにされますようにと願い、祈り、私たちは生きていくのだ。そのようにとらえたのです。
 
人間は、神がいなくても自分が神のようになれるのだという悪魔の誘惑に乗せられて、ついには神に背を向けてしまったというのが、アダムとエバのふたりがしてしまったことでした。自分が神のようになれるという幻想は、慈しみや良いものを与える「支配」ではなく、あくまでおのれの願望を追求し、そのために他者を束縛するための支配でした。まさにゆがんだ支配というカルトの本質を人間がゆがんだ瞬間でした。このことを原罪と呼び続けたのだと私はとらえたいのです。
 
神が神とされることの幸いは、その神が私たちひとりひとりのために救い主イエスを与えたことにあります。そのイエスを想うレントの時を私たちが今過ごしているということなのだと改めて思わされつつ、今日の一日を神の真実がほめたたえられますようにと願いつつ、過ごしてまいりたいと願います。どうか、皆さんの一日もまた、神が与えてくださるとこしえの幸いがともにありますように。お祈りいたします。

14/03/2023

2023.3.14(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書66章18節
私はべての国と諸言語の民とを集めるために来る。彼らは来て、私の栄光を見る。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章6節
「闇から光が照り出でよ」と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)18日目を迎えました。
仙台の街は、昨日雨が降りました。前回は雪、それが雨となったのだと思ったら、春が着実に訪れているなと。少し寒くなりましたが、それでも恵みの雨のうるおいを感じる一日でした。
 
さて、本日私たちに与えられた聖書の言葉を通して与えられたテーマは「神の栄光」であると私はとらえました。光まばゆい神の栄えを、私たちは見ることができるし、私たちの心を照らしてくださるというのです。
 
では、私たちはどのように神の栄光というものを見るのでしょうか。私たちは人を見るように神を見ることができなければ、人と会話するように、肉声というものも聴くことができません。もちろん、私たちの心に神の姿を見、その声を聴けるということはあるでしょう。しかし、私は思うのです。今から2000年前に人々がイエスの姿に実際に触れたように、私もその姿に触れることができたら、どれだけ素敵なことだろうかと。
 
しかし、今となってはやがて来るキリストの再臨のときまで、それが叶うことがないでしょう。しかし、それでも私たちは神の栄光を見ることができるのだと。そのために、私たちに与えられたのが、聖霊なる神が与える具体的な恵みであると、私はとらえたいのです。
 
聖書の言葉は、聖霊の力と助けによって、神の言葉となる。イエスが私たちの生活のただ中に立たれて、私たちにその声を語りかけてくださるのを私たちが感じるのは、聖霊の助けと慰めがあってこそのものです。ですから、私たちはそのイエスの声を聴き取るように、聖書の言葉に触れ、それに親しみ、自分自身の生き方とすることができるのだと思います。まさに、本日の聖書の言葉にもあるように、私たちの心が神の栄光によって照らされると言えるのです。
 
神の言葉は、人を恐れに陥れ、苦しめるためにあるのではなく、神の栄光が人の心を照らし、それによって生きるべき道を見い出すことができ、その道を闊歩することができるように与えられるものである。聖霊の助けをともなった聖書のことばのあるところに、救い主イエスのリアリティというものを感じ取りたい。そういう一日を本日も過ごしてまいりたいと願わされました。
 
私たちの心の闇に光を与え、今抱えている困難や人と人とのあいだにある闇を神が照らしてくださいますように。神の栄光があるからこそ、この世界に平和が訪れることを願いつつ、今日の一日を過ごすことができますように。皆さんの平和のために、お祈りいたします。

13/03/2023

2023.3.13(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編115編2~3節
なぜ国々は言うのか
「彼らの神はどこにいるのか」と。
私たちの神は天にいまし
御旨のままにすべてを行われる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録17章30節
神はこのような無知な時代を大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)17日目を迎えました。
私たちは昨日の礼拝で神の言葉に聴き、新たな一週間の旅路へと押し出されました。レントの旅路はまだ続きますが、今週の歩みも主なる神がともなってくださることを信じつつ、歩んでまいりたいと思います。
 
そのようななかで、本日私たちに与えられました聖書の言葉ですが、旧約・新約聖書のふたつの聖句から得たテーマは「神を知る」であると、私は受け止めました。そのことを黙想しながら綴ってみたいと思います。
 
神を知るとは何だろうかと、あらためて思わされます。知るとは、知識で知っているとか、なんとなく知っているということ以上の意味が含まれていると私は思っています。それは「理解する」ということではないだろうか。そう思うのです。
 
日常生活のなかで、その人を「理解する」ためには、多くの時間をともに過ごすることによって明らかにされていくことを、私たちは自分の経験からよく知っています。同じ釜の飯を食べて、言葉をたがいに交わし、ときには自分とは違う存在であるということを、葛藤や努力、時には衝突と和解を繰り返しながら、関係を築いていくことができるのだと思います。その時に必要なことは「自分を絶対化しない」姿勢であると、私は考えています。
 
自分を絶対化するとは、自分が「神」になることです。それは自己を表現し、主張してはならないということではありません。むしろ自分の意見を表現することは大切ですし、主張することも大切です。そのうえで大切なことは、自分自身の思いや言葉を不動のものとしない、ということです。時には自分自身を「変える」ことが相互理解の肝であると、私自身、日々の生活のなかで試行錯誤しながら、得ていきたいと願わされます。
 
その際に、やはり私たちには絶対的ななにかを必要としなければ、自分自身を見つめることもできない。だからこそ、私たちにとって神とは「絶対的な『他者』」として、私たちひとりひとりに向き合ってくださるということです。
 
神が絶対的な他者として、私たちすべてに触れてくださる。そのことを私たちが知る、つまり、理解しようとする時に、私たちは日常で交わる他者に対しても同じような思いをもって理解し、交わることができるのだと。なぜならば、神がすべての人を愛してくださっているという事実を、聖書を通して私たちが理解できるからです。たとえ、私とあの人が違っていたとしても、神があの人をも愛してくださっているのです。れを認めることで自分を絶対化して、その絶対化された何かをあの人に強要したり押し付けることなく、接することができるのではないか。そう思えてならないのです。
 
無知な時代、神などいない人々で満ちあふれている世界があると、本日の聖書から読み取ることができるでしょう。しかし、それは私たちがそのような人に対して不寛容かつ好戦的になれという意味では決してありません。神が、全ての人を愛しておられるという御旨に、私たちが気づかされるときに、私たちは絶対的な他者である神を知るからこそ、その愛を真ん中に置いて、人と人との相互理解に努めることができるのだろうし、それが神が与えてくださる平和の礎になるに他ならないと。私はそのように願いたいのです。
 
神の放つ愛に向き合うことが「悔い改め(方向転換)」の意味するところです。それはイースターの朝に、あけぼのの光とともに復活された救い主がおられることに相通ずるのではないか。レントの時だからこそ、そういう思いに導かれることに感謝しつつ、今日の一日を歩みたいと思いました。
 
どうかこの一日も、神を理解することにおいて、私たちひとりひとりの心の目を覚ましてくださいますように。そのことを祈りつつ、皆さんの主にある平安を心からお祈りいたします。

12/03/2023

2023.3.12(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記30章9節
あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与えてくださる。
(新共同訳聖書)
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章13節
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)3回目の日曜日を迎えました。
6回ある四旬節中の日曜日も、すでに半分を迎えたことになります。本日は礼拝後に、イースター礼拝のご案内はがきの発送作業をおこなます。着実に春が近づいていることを日々思わされます。
 
さて、本日選ばれた聖書の言葉は、神が私たちの命を用いて、どのようにご自分の御心というものをなそうとされておられるのかについて、改めて考えさせられるものだと私は思いました。
 
私たちは日々、努力というものが求められることがいろいろな場面であると思います。努力することで、ある物事が達成できるときに、えも言われぬ充実感のようなものを私たちは感じ、それが喜びへとつながる。だから努力することは決して無駄ではないということを、私たちはいろいろな場面を通して知らされます。これは紛れもない事実だと私も思います。
 
一方で、どんなに頑張っても、努力しても、思うように事が運ばないということが、私たちの生活にあるのもまた事実です。歯を食いしばって、辛抱と忍耐を重ねながら努力しても、徒労に終わってしまう。そんなときの空しさというものを、私たちはよく知っていると思います。まるで努力が無駄に感じてしまうのです。
 
私は、今挙げたふたつの結果と反応のどちらにも、神の御心というものが十分に働いているのだ。そう思えてならないのです。神は私たちの行動すべてに繁栄をもたらされるとは限らないと思います。では、そういう時に神は私たちの努力を無駄にされるのか。そうではないのです。そういう私たちの徒労を通して、神は大切なことを私たちに教え諭そうとしておられるのではないか。私はそう受け取りたいのです。
 
逆もしかりだと思います。私たちの言動が本当に祝福されたと感じるときに、その祝福を神が与えてくださった。これは紛れもない事実です。だからこそ、そのことをさも自分自身の「手柄」のように受け取って、神に感謝することもなく歩んでしまいそうなときに、神は私たちが思い上がらないように、聖書の言葉と聖霊の助けを通して、私自身に大切なことを教えてくださるのだと、これも真理として私は受け取りたいのです。
 
順境にあっても逆境にあっても、神は私たちの手の業をこうして祝福してくださるのだと信じれば、私たちは過剰に浮かれることもなければ、落ち込むことない生活を営むことができるのではないか。私はそういう生活を是非、神の助けによって歩みたいと心から願わされました。私たちが波風のなかにあっても、私たちを助けるべく、波風のなかを歩んでくださる救い主イエスがおられることを、本日も味わってまいりたいと思います。
 
世界中で行われる主の日の礼拝・集会の一切に、そして皆さんのお働きの一切に、そのような主による祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。

11/03/2023

2023.3.11(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記11章26~28節
(モーセは言った。)見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福と呪いを置く。もし、今日私が命じる、あなたがたの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたがたの神、主の戒めに聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道を外れ、あなたがたが知らなかった他の神々に従うならば、呪いを置く。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章10節
(イエスの言葉)私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)16日目を迎えました。
そして、今日は「東日本大震災」から12年を迎えた記念日でもあります。記念日と言えども、それはいわゆる祝い事の時ではありません。記念とは想い起こすことであり、あの日の出来事から起きた様々な経験を想い起こすことによって、私たちはその意味というものを再確認し、明日へと向かう大切な機会として、この「3.11」を大切にしたいという意味での記念なのだと私は思います。今日、仙台の街でも、また他の被災地でも様々な行事が行われます。私は最も被災を受けた場のひとつであった、宮城県石巻市で礼拝のつとめがあります。心をこめて礼拝に向かいたいと思います。
 
そんななかで、本日与えられた聖書の言葉はまさに「震災とはなんだったのか」ということを想い起こさせるものであることを思わされました。くじが震災のために用いられたのではないかと思うくらいの聖句に、ただただ驚かされています。
 
神はモーセを通して言われました。私はあなたがたの前に「祝福」と「呪い」を置くと。そして、私の掟にし従うならば祝福を、従わなければ呪いを置くと言われたのです。
 
この言葉は、取り扱いに細心の注意を払わなければならないと私は考えています。なぜならば、震災のような禍(わざわい)が起きるとき、人はいとも簡単にこういう言葉を用いて「神の掟に従わなかったから神罰がくだったのだ」と言ってしまうことがあるからです。いわゆる「ばちが当たった」というものです。古来から人はこういう言葉に向かって神妙になって、自分たちの生き方を改めたものです。
 
東日本大震災の際、ときの東京都知事が「あの震災は神罰だ」という言葉を発したことが話題になりました。被災地にあって苦痛を覚えている人々に対して、なんと無神経な発言かと批判が殺到したことを思い出します。私も心からそう思いました。
 
私は、神がいたずらに罰を降りかからせたという考えには、心から反対したいのです。神を信じなかったから神は震災という罰を与えたのだとは絶対に思いたくありません。神は自然をも制御することのできる方でしょう。しかし、それで地震を引き起こし、津波を引き起こして、何の関係もない方々の命を一瞬にして奪うことを神がしたのかと言えば、そんなことは絶対にありえないと私は信じます。だから、古来より言われているような呪いやたたりというものを、震災につなぎ合わせることはあまりにもナンセンスであると私は考えています。
 
あの震災のときに、被災地に勇ましく乗り込んで、なぎ倒された墓石の上に立って、神罰と呪いを声高に発した「キリスト教の人たち」のことを思い出します。あなたがたが神を信じなかったからこういうことになったのだと叫んだのです。当時、被災地に入った私たちの教団のボランティアチームが、キリスト教と聞いただけで忌避し、出て行ってくれと現地の方々に言われたというのも無理のないことです。そういう「無神経な出来事」があったのですから。
 
では、どういう意味で「神罰」という言葉を受け止めることができるのか。神罰とは神がいたずらに引き起こすものではなくて、私たち人間の行動の結果、呪いに満ちあふれた惨禍をつくりあげた。つまり、祝福と呪いというふたつの箱を「置かれた」神がおられて、私たち人間が「呪い」という箱を「選択」したのです。これは自己責任の結果であって、それを神罰という言葉を用いて、神に責任を押し付けるようなことがあってはならないのだと、私は思えてならないのです。

それをあえて、神罰という言葉をきわめて消極的な意味で用いるならば、震災という出来事を通して、私たちがひとつ大きなことに気づかされたことを思いたいのです。それは、私たちがいかに「自己の利益を追求していたか」ということへの気づきです。震災をきっかけに、原子力発電という利益追求の発電方法を推進していた人間のあり方が間違いであったことを、私は断言したいのです。あれは間違いなく「祝福」の箱ではなく「呪い」の箱を、私たちの自己責任において選び取り、その箱を開けてしまったのだと私は思っています。
 
神は言われました。私の掟を守るならば祝福を置くと。では、その掟とはいったい何か。それは神の与えた「愛」をいかに大切にするかという、私たちの選択と行動に他ならないと私は思います。イエスは言われました。父の掟を守ることは愛にとどまることであると。私たちは震災を通して、何を想起することができるか。神の愛こそ、痛み苦しみのなかで光り輝く、私たちになくてならないものなのだということをです。
 
私たち教団のボランティアチームは、まずなぎたおされた墓石を掃除し、整えることから始めたと聞いています。キリスト教の側からすれば、仏教の偶像崇拝の象徴と言いかねない、しかし、現地の人たちが大切にしているものへの思いに敬意を表して、現地の人たちにイエスの愛で寄り添った結果、被災地の方々との関係性が生まれ、信頼を得るまでになったことを伺いました。神の示された愛こそ、人と人との絆を結び合わせる祝福への道となったことを、私は改めて想起したいと思わされたのです。
 
どうかこの一日が、神の愛が与える祝福というものを心から感じ取り、それを自分の生き方とすることを再確認する良い機会となりますように。呪いを提示する前に、神は祝福を置かれた方なのだということを、心からアーメンと同意することができますように。そして、そのことが、私たち人間の生活をより豊かなものとすることができますように。そのことを祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日に、主の平安と祝福を心よりお祈りいたします。

10/03/2023

2023.3.10(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編121編4節
見よ、イスラエルを守る方は
まどろみもせず、眠ることもない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一5章7節
一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)15日目を迎えました。
昨日、イースター礼拝案内のはがきが印刷会社から届くとの連絡がありました。こんどの日曜日に、発送のために宛名ラベルを貼ったり、一筆書きができたらと思います。イエスによる十字架への道を想いつつも、こうして具体的にイースターのための備えができるのは、本当に嬉しいところです。
 
さて、本日の旧約聖書の言葉です。あらためて「眠らず、まどろむことのない神」について、黙想したいと思いました。私は「まどろむ」という言葉を使うことはまずありません。言うならば「うとうとする」でしょうか。だからこそ新鮮味のある本日の言葉に惹かれたというわけです。
 
昨日も申し上げましたが、ここのところすっかり春めいてまいりましたので、その暖かさに誘われて、それこそまどろんでしまいそうな自分があります。それはそれで良いことなのですが、私は、ご自分の民を守るという目的のために、不眠不休で私たちのことを見ていてくださる神がおられるという詩人の詩に、とても「厳しい」ものを感じると思ったのです。
 
神は、天地創造の際に自ら率先して七日目の休息を取られましたし、私たちひとりひとりに対しても、休息することの大切さを教えています。しかし、そのことを明らかにされた神御自身が、ここでは「眠らず休まず」私たちを見守ってくれるというのです。神の犠牲によって私たちが生かされている。まるで、神が御独り子を私たちのために犠牲として差し出されたことで救いが成り立っているのと同じようにです。
 
幸せになって欲しい人のために、ただただ黙して自分が犠牲になる生き方というものを、神は私たちに示してくださるのだ。そう思うと、とても厳しいものを感じずにはいられないのです。しかし、その厳しさのおかげで私たちが生かされている。厳しさを感じるとともに、えも言われぬ感謝の思いでいっぱいにさせられます。
 
私の好きな聖書の言葉のひとつに、派遣の言葉としても知られている詩編121編5~6節の言葉があります。本日の旧約聖書の後に続く言葉です。
 
主はあらゆる災いからあなたを守り
あなたの魂を守ってくださる。
主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。
今より、とこしえに。
 
聖書協会共同訳になって、少し雰囲気が変わってしまいましたが、この言葉にこそ、私たちを守ってくださる神の真実というものが見えてくる。そう思ったのです。たとえ「災い」が私たちを襲っても、それでも魂を守ってくださる方がともにおられる。私たちはコロナ禍という災いを経験し、また、明日はあの東日本大震災から12年を迎えようとしています。災いについて考えさせられるときに、改めてこの御言葉が与えられたことに感謝したいと思いました。
 
どうか皆さんの一日をも見守ってくださる神が、皆さんとともにありますように。お祈りいたします。

09/03/2023

2023.3.9(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記2章7節
あなたの神、主は、あなたの手の業すべてを祝福し、この広大な荒れ野の旅路を見守ってくださった。この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられ、あなたは何一つ不自由しなかった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章35節
イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか」。彼らは「何もありませんでした」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)14日目を迎えました。
昨晩は結構早い時間にベッドに就いて、たっぷりと休むことができました。通常は5時台に目覚めるのですが、今朝はなんと8時に目覚めました。それだけ黙想をお届けする時間も遅くなってしまいましたが、私は十分な休息が取れたので、とても喜んでおります。まさに「春眠暁を覚えず」だなと。春は着実に近づいています。
 
さて、本日私たちに与えられた聖書の言葉ですが、特に旧約聖書の言葉は、私の好きな言葉のひとつです。モーセがイスラエルの民と40年間荒野をさまよい歩いた末に、それでも神が示された約束の地を目前にしてたどり着けない。そんな時にモーセの口から民たちに向けられた言葉が、本日のローズンゲンに示された聖書の言葉です。
 
モーセとともに歩んだイスラエルの民は、すでに世代交代していました。40年間の苦難を最初から知っている者は、もはや少数でした。人生の最晩年期にかかったモーセは、その40年間を振り返るように、民たちに語りました。「何一つ不自由しなかった」と。
 
私は、このモーセの言葉を聞くたびに、ただただ驚かされます。そんなはずはないだろうと思うのです。民たちが旅に疲れ、ことあるごとに不平不満をぶちまけ、そんな民たちをリーダーとしてともに歩まなければならなかったモーセの苦労たるや、半端ないものだったろうと容易に想像できるからです。まさに荒れ野の40年は苦労の連続だったのです。
 
しかしモーセは、にもかかわらず、神が私たちにこの40年間、何ひとつ不自由なく助け、与え、ともに歩んでくださったのだと振り返ります。モーセは、いろいろなことがあったけれど、神が自分たちを見離すことはなかったのだ。歴史を振り返りながら本当に大切なことに眼を向け、その事実を認めて証言できた。このモーセの姿勢に心打たれるのです。
 
私は思いました。その時の自分の機嫌次第で見るべきものが見えなくなってしまい、本当に大切なことを見失ってはいないだろうか。のどもと過ぎれば熱さを忘れてしまうようなことはないだろうか。一部だけを見るのではなく、総合的全体的に見渡して、その結果あぶり出ることに関心を向けるように、自分自身がなっているだろうかなど。。。
 
モーセは荒野の40年を歩み、その歩んだ歴史をもって、非常に広い視野をもって神を見ることができました。そして、私たちの神こそ、私たちの必要を神の方法で必ず満たしてくださることを確信しました。モーセは約束の地にたどり着くことができませんでした。しかし、後の世代が向こう岸に渡ることができるのだから、全体的に神を見なさいと告げることができたのでしょうし、それをすることが、年長者モーセの務めと責任だったのでしょう。
 
そんなモーセの言葉に支えられながら、今日もまた神を見つめる視野を、是非神に広げてもらいながら一日を過ごしたいと願わされた次第です。決して自分の感情や願望だけで神を矮小化しないように、神に祈りつつ、御言葉に聴きたいと思わされました。
 
どうか皆さんの一日も、神がともにおられることの実感が豊かにありますように。お祈りいたします。

08/03/2023

2023.3.8(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書22章29節
地よ、地よ、地よ、主の言葉を聞け。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書10章27節
耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)13日目を迎えました。
昨晩は、とても美しい満月を観ることができました。啓蟄(けいちつ)にちなんで、ワーム・ムーン(虫の月)と言うのだそうです。虫も土から顔をのぞかせるような暖かさが徐々にやって来ている。そう考えると何となくわくわくするのは私だけでしょうか。
 
また、昨晩の満月を観て思ったことがあります。キリストの復活を祝うイースターは、春分後に訪れる満月の夜の直後に来る日曜日としています。つまり、太陽暦で普段生活している私たちにとって、月の満ち欠けによって教会の暦が定められるのは、なんとも新鮮なことで、満月をながめながら、次の満月のすぐ後にイースターがやってくるのだ。そんな待ち遠しい思いもまた、私の思いのなかに浮かんだのでした。
 
さて、本日私たちに与えられたふたつの聖句は、対照的なものでありながらも、神の言葉をめぐって私たちに求められていることとして、連続性のある言葉なのだと、改めて受け取ることができました。「聴く」ことと「語る」ことの両方を通して、神の言葉が私たちのあいだに広がりゆく。私たちの心の礎となることを思わされます。
 
神の言葉を預かったエレミヤは、世界に対して今こそ神の言葉に耳と心を傾けて欲しいと願いました。「地よ」と3回続けて訴える。聖書が伝える世界において、言葉を3回繰り返すというのは、本当に大切なことを表現する際に用いられる方法でした。神が造られた地に対して、そこに住む人々に、神の言葉が行き渡りますように。その言葉から幸いを得ますようにと願うからこそ、聴いて欲しいと願うエレミヤの姿が想像できるのです。
 
しかし、聴いて欲しいと思うときにこそ、耳を傾けてくれない、心を寄せてくれないと思うことがあります。正直なことを申し上げますと、礼拝で神の言葉を取り次ぐ、つまり説教(メッセージ)をした後で、そんなことを感じることがこれまで何度もありました。空を打つようなむなしさが私を襲うのです。このことはひとえに、私の狭量さと未熟さゆえのことなのだと、そんな自分に嫌気がさすことがあったりもしました。逆に、聴き手に対して勝手に断罪して、聴いていないと思い込んで攻撃的な自分自身をつくりあげることもありました。
 
しかし、聴くことと語ることをめぐって、自分や相手を過剰に責める必要はどこにもないのだと改めて思わされました。責めるという行動についつい走ってしまうのは、ついつい人に「成果」を期待するからではないだろうか。そう思ったのです。思い描いた成果にならないと、自分を責め、相手を責めてしまうのです。しかし、神の言葉が神の言葉として聴かれるときに、神の言葉が神の言葉として語られるときに、神は私たちに何らかの幸いを与えてくださるのだ。そのことを心から期待できるのは、私の向くべきところが人ではなく神にあるからなのだと。
 
神の言葉が語られ、聴かれるところには、私たちの神がともにおられる。そして、私たちを助けてくださるのだ。そんなことを心に刻みながら、聴くことと語ることの幸いを本日も味わっていきたいと願います。皆さんの一日にも、そのような幸いが豊かにありますように。お祈りいたします。

07/03/2023

2023.3.7(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記上8章57節
私たちの神、私たちを見捨てないでください。私たちを見放さないでください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二3章5節
どうか、主があなたがたの心を、神の愛とキリストの忍耐へとまっすぐに向けてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)12日目を迎えました。本日もまた、主イエスが与えられた言葉と行いに、私たちが耳と心を傾けることができますように。そのことを祈りつつ、与えられた聖書の言葉から黙想を深めたいと思います。
 
本日の新約聖書の言葉である、テサロニケの信徒への手紙二3章5節には「神の愛とキリストの忍耐」というひと言がありました。「愛」という言葉と「忍耐」という言葉が同列に置かれています。私は、この手紙を書いた使徒パウロが、コリント教会に宛てて書いた手紙の、あの一節を思い出しました。「愛は忍耐強い」(コリントの信徒への手紙一13章4節)。
 
どんなに愛を注いでも、その愛に呼応してもらえないとき、ときに忍耐強さというものが要求されるときがあります。応答がないからと言って、自分が注いだ愛に応えるようにと相手に要求することがあるならば、その時点で相手を支配してしまうことになるのです。その要求は自分の不安を満たすだけにしか用いられることがないのです。愛が独善的な支配にすり替わってしまう。残念ながらこれが歴史の物語る、人間のついつい抱いてしまう傾向なのだと、私は自分自身を振り返ってみても思わされてしまいます。
 
では、そのような人間の傾向をさらけ出してしまう根源はどこにあるのか。その鍵となるのが「忍耐強さ」なのではないかと思うのです。忍耐強くあることは、こちらの期待を強要することなく、愛を注いだ相手がキリストの愛によって自立できることを、ただただ見守ることへつながっていくのだと。そう考えると、イエスの使徒たちをはじめとする弟子たちへの対応は、まさに忍耐強さの塊そのものであると私は思います。こういう忍耐のなかで、イエスは十字架への道が進まれたのだと。レントのときだからこそ、そういうイエスの忍耐強さに思いを向けることができるのだと感じるのです。
 
私たちを見捨てず、見放されない神が、長い歴史のなかで私たちの側から気づくことを待っておられる。ご自分の言葉を与え、その言葉が具現化されるために救い主イエスをお与えくださることによって、私たちに常にヒントを出し続けておられる。この忍耐強い愛に本日も動かされたいと願わされました。そして、願わくば私もその忍耐強さをもって、愛するひとりひとりに接することができたらと思います。そう簡単にできることではありませんが、せめて心に1mmでもいい。何かの進歩があればと神に願いつつ、本日の旧約聖書に示された祈りをつむぐ者でありたいと思います。
 
どうぞ皆さんの一日が、神の忍耐強い愛に支えられるがゆえの幸いを味わう時でありますように。お祈りいたします。

06/03/2023

2023.3.6(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書2章12節
万軍の主はこう言われる。
あなたがたに触れる者は私の目の瞳に触れる者だ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章40節
この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)11日目を迎えました。今週もまた、レントの日々を歩むなかで、命の道を進み行くイエスの声に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
神は私たちひとりひとりがご自分の瞳のようであると、預言者ゼカリヤに伝えました。瞳とは眼球の中央部分にあたる、つまり「黒目」と呼ばれる部分です。眼球に入る光を調節し、ものを見るために無くてはならない存在です。つまり、私にとって無くてはならない存在として、神は私たちのことを見ていてくださっているのだと、本日の旧約聖書の言葉は私たちに伝えています。
 
それだけ神の目から見れば、私たちの存在は決して小さなものではないのだと。まさに、ご自身が愛情をこめて私たちに命の息吹を与えてくださったことの意味というものを、瞳というひと言が表現しています。それは同時に、私たちがあらゆる人間関係のなかで、他者に対してどのような態度を取ることが、神の御心にかなったものとなるのかということについて、私たちに示唆というものを与えているような気がしてなりません。
 
イエスは言われました。これらの者のうち最も小さい一人にしたのは、私に対してしたのであると。私たちはついつい自分の価値基準で他者を見下し、小さな者として扱ってはいないだろうか。そんなことを黙想させられます。なぜならば、神は私たちのどんなに小さい一人に対しても、ご自分の瞳のように思ってくださるからです。
 
私にはどうしても愛せない人がいます。どんなに頑張っても愛することができないのです。だからと言って、私がその人の存在を過小評価するわけにはいかないのです。だからこそ、私から見ればそのように映る人をも、ご自分の瞳のように愛してくださる神の御業というものに、全幅の信頼を置いて、今日という一日を歩みたいと思いました。私たちの誰をも、命の極みに至るまで愛し抜かれた主イエスを前に、自分自身を振り返りつつ。
 
今日の一日が、皆さんにとって素敵なときでありますように。神の愛が皆さんの一日を活かしてくださいますように。お祈りいたします。

05/03/2023

2023.3.5(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編33編9節
主が語ると、そのように成り
主が命じると、そのように立った。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書8章8節
(百人隊長はイエスに言った。)
主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)2回目の日曜日を迎えました。世界中の教会や集会でおこなわれる礼拝に、神の祝福をお祈りいたします。
 
さて、本日の聖書の言葉、特に新約聖書は、ローマ帝国軍の百人隊長による懇願の言葉です。彼の子どもがひどい病で苦しんでいるのを見て、是非イエスに癒して欲しいと願いました。(聖書協会共同訳では、「しもべ」ではなく「子」と訳されているのは、従来訳にはないもので、とても興味深いです)。子(もしくはしもべ)を大切に思う百人隊長の人柄がうかがえます。
 
しかし、ここでさらに興味深いのは、百人隊長がイエスに臨んだことです。イエスによる癒しは通常、直接手で触れるなどの行為によって行われます。実際に、百人隊長がイエスに懇願する直前には、病で苦しんでいた人に、イエスが直接手を触れることで病を癒したことが記されています。百人隊長は言いました。「ただ、お言葉をください」と。
 
ここに、百人隊長のイエスに対する深い信頼の念が表れていると私は思いました。百人隊長は組織の長として、自分の言葉で部下に指示を出して、その通りにすることができる権限を持っていました。ローマ軍の百人隊長(ケントゥリオ)は、人々に良く知られた、身近な軍隊の上官でした。彼は権威ある者としての「言葉の重み」というものを心得ていました。だからこそ、イエスの言葉を通して明らかにされる彼の権威を心から感じ、信頼することができたのだろうと思うのです。
 
イエスは百人隊長の信頼を全面的に受け入れました。そして、彼の言葉が子の病を癒させたのでした。言葉の与える力というものを、つくづく感じさせられます。
 
私は思いました。本日の礼拝で神の御言葉を取り次ぐわけですが、御言葉の取り次ぎとは何かということを改めて考えさせられました。それは言葉を通して働く神の力というものです。神の力を神の力として取り次ぐこと。その力が人を癒す原動力となること。それは説教者の能力でも何でもないのだと。そのことを胸に刻んで、本日の礼拝に臨みたい。そんな気持ちにさせられました。決して語る者の願望や大したことのない力を、さも神がかりのように押し付けることのないようにしたいと思いました。
 
神の言葉が与える力に、語る者も聴く者も信頼できるような礼拝となりますように。そのことを祈りつつ、皆さんの主の日が祝されたものでありますように。お祈りいたします。

04/03/2023

2023.3.4(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編12編7節
主の仰せこそ清い仰せ。
土の炉で精錬され、七度純化された銀。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章63節
私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)10日目を迎えました。はやいもので、もう四旬節の4分の1を迎えたことになります。明日はレント2回目の日曜日。その備えの一日として、本日の聖書の言葉に心を傾けていきたいと思いました。
 
本日の聖書の言葉に「土の炉で精錬され、七度純化された銀」というものがあります。銀の精錬方法など今まで知ることがありませんでしたので、少し調べてみるととても面白い方法で純化するということが分かりました。すでにご存知の方もおられるかと思いますが、最初に銀の入った鉱石を鉛とともに溶解して、のちに鉛の部分を灰などに吸着させることによって、純粋な銀を取り出すという方法なのだそうです。それを7回も繰り返すならば純度はさらに増すということを、神の言葉の純粋性のたとえとして述べています。
 
私は、土の炉を私たちの日常生活というふうに受け止めました。金属を溶かすためのるつぼはまさに「土の器」と呼べるものです。私たちは神によって土から形づくられることによって、神の命の息が吹き込まれることで、生きる人間となったというのが聖書の伝えるメッセージです。その器のなかで、神の仰せ、つまり神の言葉がさまざまな不純物ともに溶かされて、繰り返し精錬されることによって、純粋な銀、純粋な神の言葉のエッセンスを取り出すことができるというのです。
 
神の言葉はそれだけで力があるというのは、私たちの信仰かもしれません。しかし、言葉そのものに超能力や神通力というものがあるわけではありません。この世のさまざまな雑踏のなかでもまれて生きる私たちが、さまざまな不純物を抱えながら歩もうとするときに、神の言葉が私たちの心に投入されて、火によって溶かされ、さまざまなものが一緒に溶かされていくなかで、本当に大切なものが何かを識別して、神の言葉が与える恵みとか幸いというものに気づかされるときに、初めて神の言葉が私にとっての命の言葉になるのだと。そのように感じさせられたのです。
 
それを繰り返し、繰り返し自分のなかに採り入れ、溶解を繰り返して、神の言葉がいかに純粋な美しさを私にもたらすものなのかということを確かめることが可能とさせられる。だからこそ、ほんのひと言の聖書の言葉でいいから、こうして日々神の言葉に親しむということが大切なのだと思わされたのです。
 
ローズンゲンの言葉は、膨大な情報量の聖書一冊に比べたら、本当に微々たる豆粒にも満たないものです。不純物に満ちあふれたほんの少しの銀成分のようなものでしょう。しかし、私という土の器の中で溶解し、繰り返し精錬することで、神の与える美しいメッセージを見い出すことができるのであれば、ほんのひと言でも、それは珠玉の言葉なのだと思うと、とても嬉しくなってきます。
 
そのような言葉を、本日も与えられたことに感謝しつつ、一日を歩んでまいりたいと心から願います。どうか皆さんの一日も、神の言葉が与えるうるわしさがあふれるときとなりますように。お祈りいたします。

03/03/2023

2023.3.3(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編31編9節
あなたは私の両足を広々とした場所に立たせてくださる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章18節
あなたがたの心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものかを悟ることができますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)9日目を迎えました。
 
本日の聖書の言葉をいただいたときに、「私の両足を広々とした場所に立たせてくださる」とは、いったいどういうことなのだろうかということを、じっくりと黙想させられました。私たちが生きている人生の道を、しっかりと踏みしめて歩めるように、神が支えてくださるという意味なのだろうなということは、何となく理解できるのです。しかし、もう少し具体的に自分の心に染ませたい。そう思ったのです。
 
私は「立場」という言葉が脳裏をよぎりました。早速立場という言葉を辞書で調べてみますと、①その人が置かれている地位・境遇・条件など。②物の見方・考え方のより所。観点。とありました。私が置かれている状況を考えるときに、私が物事を考え、それを実行に移すときに根拠となるものとは何かということを、改めて思わされたわけです。私は、神が与えてくださる御言葉に示された神の思い、つまり神の御心によって自分自身が立ちたいと思わされます。
 
一方で「立場が無い」という言葉があるのを、私たちは知っています。失敗や醜聞などによって、地位や名声に応じた面目を失うこと。苦しい立場に追い込まれることを指す言葉なわけですが、私は、神が私たちをしっかりと立たせてくださる、つまり立場を与えてくださるという聖書の言葉と、今挙げた「立場が無い・立場を失う」という言葉を比較してみたくなったのです。
 
立場が無くなるとは、私たちがなんらかの失敗をすることによって、この世界に対して、また人々に対して面目がまるつぶれになる、つまり自分のプライドがズタズタにされるといった意味であって、つまり私自身のことについて指すものであることが理解できます。ひと様に顔向けできないという感覚とも言えるでしょう。穴があったら入りたい、そんな思いにさせられるのです。そういうときに、次の一歩を歩む思いすら失われてしまうのです。
 
もう私なんかダメなんだと思うときにこそ、私をしっかりと立場を与えてくださるのが神なのだ。私は本日の旧約聖書の言葉をそのように受け止めました。広々とした場所に、しっかりと地面に足を踏みしめて、明日の一歩を希望をもって歩めるように、神がそのような場所を用意してくださるのだと。こういう言葉に触れると、失敗をも生きるための糧としてくださる神のいつくしみというものを感じずにはいられないのです。
 
失敗が許されない時代、私たちは失敗することに恐怖を抱いてしまいます。失敗したら立ち上がれないほど私たちは叩かれます。打ちのめされます。制裁を受けます。しかしそれでも、神は今日を生きる立場を与え、私を歩かせてくださる。ある方がこんなことを言っていたのを思い出しました。失敗をおかすことが失敗なのではない。失敗とは、失敗を恐れて何もしないことなのだ。まさに神の姿勢そのものと言えるでしょう。
 
失敗の向こう側にある希望を、神は私たちの心の目で気づけるように導いてくださる。そんなことを私の希望として、今日という一日を歩んでまいりたいと思わされました。本日の新約聖書の言葉が、まさに指し示す通りです。どうか皆さんの一日が、そのような希望に包まれたときとなりますように。お祈りいたします。