31/05/2022

2022.5.31 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編106編4節
主よ、あなたの民に与える恵みによって
私を心に留めてください。
救いによって私を顧みてください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章7節より
私たち一人一人に、キリストの賜物の秤に従って、恵みが与えられています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧新約聖書に共通する言葉は「恵み」であると私は受け止めました。神が私たちの一人ひとりに、それぞれに見合った恵みを与えてくださる。そして、私たちを顧み、その心にとどめ守ってくださる。いにしえの信仰者たちは、こう私たちに伝えています。
 
新約聖書の言葉に「キリストの賜物」という言葉が登場します。新約聖書が書かれた原語によると、賜物という言葉は、恵みという言葉を語源としていることが分かります。賜物とはプレゼントのこと。それも、その人だからこそ特別に与えられるギフトのことを表しています。
 
この賜物のことを、原語であるギリシア語で「カリスマ」と言えば、私たちも納得します。しかし、同時に私たちはカリスマという言葉を特別視するあまり、なんの取り柄もない私にはカリスマなはずがない。そんな賜物が与えられていないと、自分自身を振り返っては嘆いてしまうようなことはないでしょうか。
 
今日の新約聖書の言葉には、キリストの賜物の「秤にしたがって」とあります。ここが今日の聖書の言葉を考えるうえで重要なポイントであると考えています。つまり、キリストは私たち一人ひとりを髪の毛一本までご存知である神の存在を私たちに知らせ、その神の思いを完璧に私たちに示されるお方です。だから、そのキリストが、私たちにオーダーメイドの賜物をお与えくださっているのです。
 
ですから、もし私にはなんの取り柄もないと思うのであれば、キリストが与えられる賜物が何かに、十分に気づいていないだけなのかもしれません。その気づきを与えてくださるのが、キリストその御方であるということを、私たちは心からの期待をもって、今日も祈り求めていきたいと願わされました。
 
今日の詩編の祈りのように、神からの恵みに気づく心を、そして私たち一人ひとりが救われる喜びを、今日も味わうことができますように。お祈りいたします。

30/05/2022

2022.5.30 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編40編18節より
私は苦しむ者、貧しい者。
わが主が顧みてくださるように。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章5節より
この希望が失望に終わることはありません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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本日の新約聖書の言葉であるローマの信徒への手紙5章5節は、『聖書 新共同訳』では「希望はわたしたちを欺くことはありません」と訳されていた言葉です。
 
わたしたちは誰かに欺かれることによって失望を味わいます。希望が失望に変わってしまうような経験というものを、私たちは誰もがしたくありません。希望や期待は願わくばそのようになって欲しいと願うのは、当たり前のことと言えます。
 
しかし、私たちの生活する人間社会には、実に多くの失望があります。期待外れだった、裏切られた。そんな思いが人と人とのあいだを飛び交うときに、相手に失望し、どうしてくれるんだと、その相手に失望する。そんなことを私たちはいやというほど経験するのです。
 
ただ、どうでしょうか。よくよく考えてみれば、私たちの希望や期待というものが、一体どういうことを根拠として起きているものなのか。そのことをじっくりと考えるのは、本当に大切なことなのだと思わされるのです。私たちが希望や期待を持つというのは、場合によっては、実に独りよがりなもので、期待を寄せるという行為そのものが、実は期待する相手への押し付けだったり、支配への序曲であったりするのではないだろうか。そんなことすら考えてしまいます。
 
そんなことを踏まえて今日の聖書の言葉を読むならば、イエス・キリストへの希望が失望に終わることがないという言葉の意味というものを、深く考えさせられるわけです。イエスに期待して、自分の思い通りにならなかったからと言って、それが即失望につながるものなのだろうか。もし、私たちがそのように考えてしまうならば、それは非常に短絡的で、自分勝手の何物でもないと、私は自分のこととして黙想させられます。
 
イエスの御心は、私たちの願望とかかわりなく、私たちにベストな道を与え、示されます。それが私たちの希望に沿わないからと失望することがあったとしても、長期的な視点では、結果として、神がそのように指し示してくださったおかげで、私たちは神のよき力にしっかりと守られながら生きることができるのだと、強い確信を抱くことができる。神の民の歴史は、そのことへの気づきの歴史として、今日に至っているのだ。そのように思うのです。
 
だから、この希望が語られる前に手紙の筆者であるパウロはつづりました。「苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです」(5章3~4節)
 
私たちが主の御心に生きようとするときには、人間社会で生きている以上、必ず苦しみや忍耐がともないます。しかし、その先には神が必ず私たちを希望にあふれる状態にしてくださることを握りしめて、今日の一日を歩んでまいりたいと願います。

29/05/2022

2022.5.29 仙台宮城野教会主日礼拝メッセージ


2022年5月29日
仙台宮城野教会主日礼拝

聖書 創世記28章10~15節
   使徒言行録1章6~11節
説教 またおいでになる  牧師 齋藤 篤

※上の動画をクリックしてご視聴ください。

2022.5.29 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記上8章27節より
ソロモンの言葉:
天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一4章12節
いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内にとどまり、神の愛が私たちの内に全うされているのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今から約3000年前、イスラエルの王ダビデの指揮によるエルサレム神殿建築を引き継いだソロモン王が、いよいよ神殿の完成を迎えたときに、神へ自分の思いを告白します。あなたをこの神殿にお入れすることができません、と。
 
神が住まうにふさわしいと言えるような思いをもって、神殿は建てられたはずです。そのために厳選された建材、金銀宝石、調度品などが数多く用いられました。それは神からいただいた富と宝がいかにすごいものであったかを示すものであったことでしょう。
 
にもかかわらず、ソロモンはそのような神殿に神が住まわれるのだろうかと問います。ここに、ソロモンという人物の謙虚な態度を見ることができます。神殿建設の成果を決して誇ることなく、それよりももっと大切なことをソロモンは知っていました。だから、そのような言葉を告白することができたのでした。
 
その大切なものとは何でしょうか。神殿での礼拝を通して明らかにされる私たちの心です。どんなに素晴らしい神殿で礼拝をしたとしても、私たち自体が神の住まう神殿である、つまり神の御心が私たちの魂に宿り、その御心によって生きるということを第一にしなければ、その神殿礼拝は空しく、無意味なものになってしまうということです。
 
私たちもまた、礼拝するときの心が問われます。どんなに快適で、設備の整った、見た目に美しい会堂で礼拝できたとしても、私たちの心に神の思いや願いというものがしみ入って、今日の新約聖書の言葉にあるように、神の愛、イエスの愛の本質というものが理解され、それが分かち合われることこそが、神殿や会堂というところで礼拝が執り行われる最大にして最高の目的なのだと感じさせられます。
 
今日、それぞれの場で主の日の礼拝がおこなわれます。礼拝におけるすべての出来事を通して、私たちの心に住まわれる神が、私たちの心を神の御心によって整え、変え、祝福を与えてくださいますようにと祈ります。どうぞ素敵な日曜日となりますように!

28/05/2022

2022.5.28 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編146編3節
諸侯を頼みにするな
救うことのできない人間を。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録1章5節より
真実な証人にして死者の中から最初に生まれた方、地上の王たちの支配者、イエス・キリスト。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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諸侯を頼みにするな。
 
今日の旧約聖書にうたわれた詩の一文は、私たちひとりひとりに対して、頼るべきなのは誰なのかということを鮮烈に伝えているメッセージであると、私は受け止めました。そのことをさらに黙想したいと思います。
 
この詩を歌ったのは、イスラエルの王ダビデでした。ダビデも支配者のひとりとして、自分の王という立場は何ゆえに成り立っているのかということを、いつも考えていたに違いありません。日々の王としての務めのなかで起きる様々な出来事を通して、ダビデは自分の王としての限界を感じることも多々あったのではないか、そう思えてなりません。
 
リーダーとして働くというのは、多大な責任とプレッシャーに囲まれながら日々を歩むということなのかもしれません。リーダー、それはリードする者、導く者という意味です。王ならば国民を、牧師ならば教会という群れを、その他、職場や地域、家族を導く者としての務めを持つならば、その難しさというものを実感しているのではないかと思うのです。
 
そのときに、強権的に振る舞うこともできれば、声の大きさ、経験の有無、他者を黙らせることのできるような威力などで人を導くこともできるでしょう。しかし、今日の旧約聖書の言葉は私たちに伝えます。諸侯を頼みにするな/救うことのできない人間を。

その時だけだったら、人間が人間を支配することである程度の統制や団結力というものが生み出されるかもしれない。しかし、究極的にはそのような集団は、支配者がいなくなれば必ず衰えます。真に頼るべき存在を知らないからです。
 
ダビデは王として知っていました。自分自身がリーダーとして生きることができるのは、自分自身をリードし、行くべきところへ行かせ、導くところに導かれる究極の御方がおられるからだということを。それが、イスラエルの神、父なる神その御方なのだと。
 
ダビデも随分失敗しました。自分が与えられた権力を己の欲望のために使うこともありました。しかし、その結果は惨憺たるものでした。その失敗のなかでダビデは気づかされました。神のリードに自分自身を委ねるとはどういうことかを。そして、それを丸投げするのではなく、自分に与えられた責任というものを忠実に果たすことで、イスラエルの民を神の民として育て、そこに神の祝福があふれるように、王としての務めを全うしました。だから、それは究極的には失敗ではないのです。
 
私は思います。失敗とは失敗することそのものではなく、失敗を恐れて何もしないこと、失敗の出来事から何も学ばず、その経験をないがしろにすること。それこそ失敗なのだと。いわゆる失敗の出来事は、神が必ず私たちひとりひとりに大切なことを気づかせてくださり、今後どのように生きれば良いかを、神御自身が導いてくださいます。

神のリードに任せるというのは、体の良い責任転嫁では決してないのです。私たちが与えられた分、責任をもって生きるということなのではないか。そのように黙想させられました。そのためにこそ、神はすべての支配者に勝る王、復活の主であるイエス・キリストを私たちに与えてくださいました。
 
そのイエスの生きざまが、今日の私の生き方を導いてくださるのだと。そのことに希望を抱いて歩む者でありたい。そのように願わされました。今日という一日が、明日から始まる新しい一週間の良き備えの時となりますように。お祈りいたします。

27/05/2022

2022.5.27 リビングライフ


2022年5月27日
日本CGNTV リビングライフ

聖 書 コリント人への手紙第一12:1-11
テーマ 多様な賜物の根源は一つの御霊です

2022.5.27 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上17章37節より
行くがよい。主がお前と共におられるように。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一4章11節より
奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私が仙台の地に赴いて、はや2か月が経とうとしています。私が新たに遣わされた日本基督教団仙台宮城野教会は、同じルーツを持つ2つの教会(仙台愛泉教会・宮城野愛泉教会)が2020年に合併し、新たな歩みを始めた教会です。
 
同じルーツと言っても、それぞれの教会のカラーが定着しているなかでの合併でしたから、2つの教会の良さというものが豊かに用いられながら、新しい時代へ向かっていくキリストの教会が作り上げられればと願いつつ、2か月の歩みを踏んでまいりました。
 
そんなことを心に描きつつ、そろそろ具体的なことを考えなければならないなと思って、あれこれ準備しているところなのですが、そんなときに、今日私に与えられた聖書の言葉は、その土台というか、基本中の基本について示されたものであったと実感させられました。
 
あれこれ魅力的なプログラムを立てて、打ち上げ花火を打つように華々しく教会の営みをおこなっていくことも、ある意味伝道とか宣教の一環かもしれません。しかし、基本がしっかりしていなければ、単なるイベント主義に終わってしまうし、はかない美しさに魅了されるだけで深まりがない。そう思わされるのです。
 
今日の聖書の言葉を通してつくづく思わされたのは、私たちの歩みは、主なる神がともなってくださり、歩むために必要なことを気づかせてもらいながら、神の御心によって歩むという大前提があることを知らされるものなのだと思います。
 
「こういう教会になってみたい」「そのためにこんなことをしてみたい」という願いが私たちのためにあるとすれば、その願いを神はどのようにご覧になられ、そのために神がどのようにそれを具体的に展開し、ときには修正や軌道修正をするように、私たちを促しておられるのか。そんな神の御声に丁寧に聴き取っていくときに、私たちはキリストのからだとしての神の教会の営みに参与できるのだと。その時に欠かせない基本的な感覚というものを大切にしたいと、今日の聖書の言葉を通してあらためて思わされた次第です。
 
神がともにおられ、神の助けによってこそ、今日も与えられたものをもって、それを用いつつ、神とともに生きることこそ豊かにさせられる経験。この経験を味わってまいりたいと願わされます。一人ひとりの今日の一日が、そのような豊かさに満ちあふれたものでありますように。心からお祈りいたします。

26/05/2022

2022.5.26 リビングライフ



2022年5月26日
日本CGNTV リビングライフ

聖 書 コリント人への手紙第一11:27-34
テーマ 恵みとなる聖餐、罪となる聖餐

2022.5.26 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編92編14~15節
主の家に植えられ
我らの神の庭で茂る。
年老いてもなお実を結ぶ
命豊かに、青々として。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章22節より
イエスの言葉:
私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書の言葉のなかで「年老いてもなお実を結ぶ/命豊かに、青々として。」という一文に、深い感銘を覚えることができました。そのあたりのことを黙想しながら、筆を進めてみたいと思います。
 
この聖書の言葉の前提にあるものは、「主の家に植えられ/我らの神の庭で茂る。」という言葉です。神の家、その庭園で神御自身によって植えられて、神の手入れによって豊かに繁茂する植物のイメージです。これが、神の民の姿そのものであると、詩人はうたいました。
 
つまり、人間は「神のかたち」としてつくられた、まさに神の作品です。私たち自身が自分自身を自分なりに育てたのではなく、あくまで神のデザインのなかで育てられるというのが、聖書における人間の成長観というものです。だからこそ、神の庭で茂り、枯れかかると思われるような時期、つまり老齢の衰えを感じるようなことがあったとしても、神が青々と茂り続け、実を結び続させることが可能なのだと、今日の聖書の言葉は私たちに知らせていると思うのです。
 
神のもとで丁寧に、じっくりと育てられることによって、いつまでも新鮮な気持ちでいることができる。そこには、キャリアの有無や蓄積はあまり関係ないのではないか。今日の聖書の言葉を通して、そのように黙想させられます。「年老いてもなお実を結ぶ」という一文からの黙想です。
 
具体的には、長年クリスチャンであるからといって、自分の経験や知識を誇ったり、優劣をつけるための材料にする理由はどこにもないのだと。神が日々、クリスチャンとして生きるための養分を注いでくださるからこそ、日々改革される者として、神の民として生きていくことが、いわゆる「年老いてもなお実を結ぶ」ということの意味なのだと、私はそう思わされました。
 
最近「聖書的な議論」ということをテーマとした、雑誌の特集記事に出会いました。そのなかで、なぜ聖書的な議論ができないかという問いに対するふたつの答えが書かれてありました。ひとつは「空気を読む」、もうひとつは「上下の序列」というものでした。私は改めてなるほどその通りと思わされました。
 
もし、場の空気をつくるならば、年長者や経験者のご機嫌を損ねない空気の読みではなく、私たちがみんな、神から聖書の言葉と聖霊の助けによって、育てられているんだというセンスこそ全体的な場の空気になれば良いと思いますし、そういう空気の流れるところには、人間同士に何かの理由をつけて序列や優劣をつける必要はなくなるということなのでしょう。その空気こそ、聖霊なる神が吹く風、空気なのだと私は思わされます。
 
そして、そこには必ず、イエスと出会うという喜びがあって、この喜びこそ、私たちが神によって豊かに成長させられるためには、無くてはならないものなのだと。そのように思い、また願いつつ、今日の一日も主なる神にあって新鮮な思いで過ごしてまいりたいと願わされました。
 
主よ、あなたに養われ、育てられ、聖霊の風をいっぱいに受けながら、イエスと出会う経験こそが、神の庭のうるわしさである。その庭の美しさゆえに、今日も喜ぶ者とならせてください。イエス・キリストのお名前によって。アーメン。

25/05/2022

2022.5.25 リビングライフ


2022年5月25日
日本CGNTV リビングライフ

聖 書 コリント人への手紙第一11:17-26
テーマ 主の死の意味を深く心に刻む聖餐

2022.5.25 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌上29章11節より
主よ、偉大さ、力、誉れ、輝き、威厳はあなたのもの。まことに、天と地にあるすべてのものはあなたのもの。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一2章5~6節より
神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです。この方は、すべての人のための贖いとしてご自身を献げられました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私事になりますが、今から16年前の昨日5月24日、日本基督教団東海教区総会で、伝道の准允(じゅんいん)を受領しました。私にとって、この5月24日という日は大切な記念日であって、昨日は伝道者としての歩みを振り返りながら、改めて伝道とは何なのだろうかということを、深く考えさせられる一日となりました。
 
そんなことを想いつつ、今朝ローズンゲンに示された聖書の言葉をいただいて、この言葉こそ伝道することの根拠なのだということを深く感じさせられました。この原点であり基本を、まず私自身が大切にするところにこそ、伝道を伝道たらしめるのだと。そう思ったのです。
 
私は何のために伝道をしているのだろうか。勢力拡大か、洗礼者を増やすことか、財政を満たすことか、立派な会堂を建てることか、組織維持か、生活の糧を得るためか。もちろんそれも大切な要素なのかもしれませんが、そのことに関心を寄せるあまり、一番大切なことを忘れてはいないだろうか。そんなことを強く思わされるのです。
 
ある人は言いました。伝道とは良き感化であると。その人が神と出会うことで幸せを味わい、苦しい時に深い慰めを得、時には立ち止まり、時には歩き、駆け出しながら、神の善き守りのなかで、私たちが生きることができる。そのためには、まず私自身の生き方が問われていることを思わされます。
 
そんなことを考えるなかで、今日の聖書の言葉はまさに、私たちのために生きて働いておられる偉大な神がおられ、神と私を結ぶために、イエスがキリストとなって橋渡しをしてくださった。この言葉を誠実に、正直に受け止めて生きる私自身でありたいと願わされました。そして、その願いが伝道するための基盤となり、第一の根拠して今日も生きることができるように、祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。

24/05/2022

2022.5.24 リビングライフ

 

2022年5月24日
日本CGNTV リビングライフ

聖 書 コリント人への手紙第一11:2-16
テーマ 秩序と調和に従う成熟したクリスチャン




2022.5.24 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書64章8節
どうか主よ、激しくお怒りにならないでください。
いつまでも過ちを覚えていないでください。
御覧ください。私たちは皆、あなたの民です。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章1節
私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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徹底的に叩く、叩き続ける。叩こうとする者の気が済むまで、完膚なきまで叩きのめす。
 
このような世の中の動きというものを目にすることがありますし、私たちの身の回りでもそのようなことが起き、気づかぬ間に私たちもまた叩こうとする者の一人になることがあれば、徹底的に叩きのめされて行き場を失ってしまうようなこともあったりします。
 
なぜ叩きのめすのか。私はそのことを黙想しました。そこには自覚してもしていなかったとしても、根本的な「怒り」というものが、人間を支配しているからなのだ。では、私の場合、根本的なところでの怒りとは何だろうか。自分の胸に当てて振り返るときに、理解してもらえない、誤解、赦されていない感情をぶつけられた時、それを行動で示されたとき、その記憶、記憶からくるトラウマ。それが怒りに結び付くのだと思わされます。

怒りは正義の思いから生じることがあります。しかし、私のうちにつくられている正義の定義も、その多くは私の生い立ちであるとか経験したことに基づいていて、怒りの痛点のようなものに遭遇した時に、怒り、その怒りを解消するために叩く。気が済むまで叩き続けるのだと。
 
しかし、いくら叩き続けたからと言って、すっきりとするかと言えば私の場合そうではない。むしろ、嫌な思いがなお自分を縛り続けるのです。おそらく怒り続ける、叩き続けることでは、その怒りが解消されることがないからなのでしょう。
 
怒ること自体が悪いことではない、なぜならば神も怒られる方だからです。私たちは神のかたちを受け継ぐ者として、怒りを持つことは当然なのでしょう。しかし、怒り続けること良くない。いずれかはそれを手放す時と機会を私たちは望みつつ、今自分のうちにある怒りというものを認めたい。そのように思わされました。
 
今日の聖書の言葉は、私たちのうちにある、時には外に露出する怒りというものをなだめ、それを手放すことができるように働いてくださる神が、そして救い主イエスがおられることを感じさせるものでした。
 
どうか主よ、私のうちにある怒りをすべてご存知であるあなたが、その怒りをあなたの御心で健全なものへと導いてくださり、そしてその怒りが、あなたが良しとされるときに、わだかまりなく手放すことができますように。どうぞ私を支えてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

23/05/2022

2022.5.23 リビングライフ

 

2022年5月23日
日本CGNTV リビングライフ

聖 書 コリント人への手紙第一10:23-11:1
テーマ キリストに倣ってほかの人の利益を求める人生




2022.5.23 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編81編2節より
我らの力である神に喜び歌え。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二6章4,10節より
あらゆる場合に自分を神に仕える者として推薦しているのです。悲しんでいるようでいて、常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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本日の新約聖書の言葉である「コリントの信徒への手紙」を書いたパウロは、一部の信徒たちから自分の資質を問われていました。使徒と名乗るにはふさわしい人物ではないという批判です。
 
手紙の内容からすると、パウロの行動は軽率だとか、手紙で書いていることと言動が一致していないとか、そのような批判の内容だったようです。
 
私自身のことですが、私も牧師という職をするなかにあって、今まで自分自身の資質を問われることが幾度となくありました。そして、牧師として生きることは、やはりふさわしくないのではないかと、思い悩んだことも数多くありました。それだけ、自分自身の至らなさというものを痛感していたからだと思いますし、今でもその至らなさをさらけ出しながら、日々を歩んでいることを実感しています。
 
そんななかで、パウロは自分自身のことをどのように批判者を含むコリント教会の人たちに伝えようとしたのか。今日の聖書の言葉に私はとても慰められました。「あらゆる場合に自分を神に仕える者として推薦しているのです」というパウロの自己推薦の言葉に、パウロの思いのすべてが込められている。そう思うのです。
 
この言葉は、パウロ自身が神に仕えるだけの力量や知識があるという意味で、自分は神に仕えるふさわしさをもって自己推薦をしているわけではありません。むしろ逆で、自分は神の力と助けなしには何もできないほど、少なくされ小さくされ弱くされている。しかし、神を自分自身の真ん中に立てて、神の御心に忠実でありたいという意味で、私はふさわしい者になりたい。自分自身を推薦しているのではないだろうか。
 
そう考えると、あとに続くパウロの言葉がすんなりと通るわけです。自分自身の資質のなさに、神の豊かな力が働くからこそ、私は悲しくても喜びに導かれるよう自分を促す機会が与えられているし、自分自身がたとえ貧しくても、神の助けによって使徒という務めをなんとか果たすことができているのだと。そういう者に私はなりたいという切なる願いが、自己推薦の言葉へとつながっていくのだと思うのです。
 
我らの力である神に喜び歌え。そのようにいにしえの詩人が歌ったように、私も今日の一日を喜び歌いたいと願わされました。ふさわしくない自分自身に嘆き悲しむからこそ、神は私たちをご自分の民としてのふさわしさを与えてくださるのだと信じつつ。お祈りいたします。

22/05/2022

2022.5.22 仙台宮城野教会主日礼拝メッセージ


2022年5月22日
仙台宮城野教会主日礼拝

聖書 エレミヤ書6章17節
   使徒言行録1章3~5節
説教 角笛の響きを待て  牧師 齋藤 篤

※上の動画をクリックしてご視聴ください。

2022.5.22 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書13章9節より
私は銀を精錬するように精錬し
金を吟味するように吟味する。
彼は私の名を呼び
私は答える。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一1章6~7節より
それゆえ、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、さまざまな試練に悩まなければならないかもしれませんが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊いのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書の言葉に「銀を精錬する」という言葉と、「金を吟味する」という言葉が登場します。いわゆる金とか銀という貴金属と呼ばれるものを、精錬し吟味するとはどういうことか。そのあたりから黙想を深めてみたいと思います。
 
まず精錬とは、金属のなかから不純物を取り除くことで、純度の高い金属にする作業のことを指します。そのために火力を用いて、金属をいったん溶かすことによって不純物を取り除くということが行われていたのは、今日の新約聖書の言葉からも明らかです。
 
また吟味とはこの場合、精錬された金属の成分を分析し、判定することを指します。この作業は一般的に「試金(しきん)」と呼ばれる作業ですが、今日の旧約聖書の「吟味」と訳されている言葉が「試す」と訳されたりもしていますので、その金属のなかにどのような成分が含まれているかをよく吟味し、確かめるととらえることができるのだと思います。
 
そして、今日の聖書の言葉は、旧約聖書も新約聖書も、金そして銀という金属を私たち人間にたとえ、精錬し吟味する者としての神の存在を明らかにしています。そして大変興味深いのは、精錬する者に対して、本来言葉を発さない金属が精錬され、吟味されることを願っている。つまり人間が神に自分自身が純度の高い者となることを願っている。そんなイメージすらわいてくる、今日の聖書の言葉であることがわかります。
 
人は神の名を叫ぶと、旧約聖書の言葉は伝えます。神の名、それはインマヌエル(神は私たちとともにおられる)であり、私たちに寄り添い、私たちをご自分の言葉と聖霊の助けをもって育ててくださることを、私たちに与え続けておられる方であることを明らかにし、告白することに他なりません。
 
この告白に、神は必ず答えてくださる。私たち一人一人の心と思い、そして促される日々の営みを、神の御心に沿った者となるべく精錬してくださり、ありようを確かめる、つまり聖霊の力によって識別することができるように、私たちを整えてくださるというのです。
 
そのことを具体的に伝える言葉こそ、今日の新約聖書の言葉であると私は受け止めました。私たちという金属は、世の中の様々な思い悩みによって不純物がいくらでも入り混じることがあります。純度100%の人間になるということはあり得ない話であって、いつもどこかしらで不純な動機を抱えながら、それを心のうちに秘め、ときにはそれが露出してしまう。それが私たち人間の現実なのだと、私は自分のことを振り返っても大いに思わされます。
 
だからこそ、神が私たちを精錬してくださり、吟味してくださる御方なのだという意識を、心からの希望と期待をもって歩んでいくというのは、私たちにとって慰めであり、励みであり喜びへとつながっていくのだと。信仰の試練は辛いことなのですが、それをも喜んで受け入れる者として、今日も歩んでいきたいと願わされました。
 
今日は主の日。ここから一週間が始まることを心から願いつつ、その日々を歩んでまいりたいと思います。皆さんの新しい一週間にも、精錬し吟味をしてくださる方の守りと祝福が豊かにありますことをお祈りいたします。

21/05/2022

2022.5.21 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
コヘレトの言葉5章9節より
銀を愛する者は銀に満足することがなく
財産を愛する者は利益に満足しない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一6章8~9節
食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです。
金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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昨日、私が利用しているSNSでこんな文章を掲載しました。

生活の安定とかステータスの獲得とかひと旗揚げるとか、そんなことを目指すんだったら牧師なぞ続けておりませんわ。他の仕事をしたほうがよっぽどそういうことができるからね。そこそこに美味い飯が食えて、気の置けない仲間がいて、そして神が共におられる。これで大満足!」(Twitterより)
 
そして、明けて本日のローズンゲンを開いたらびっくりしたというわけです。まさに、その聖書的な裏付けの言葉に出会ったからです。自分の思っていること考えていることが、聖書の言葉にしたためられていると、それだけで神の価値観を十分にいただいたような気持ちになれて、嬉しくなるのは言うまでもありません。今朝はまさにそんな気分にさせられました。
 
私は、金銀つまり財産というものを考えるときに、それに過剰な執着心を働かせたり、優越感を得るための、または支配するための材料にするほど空しいものはないと考えたいのです。財産だけではありません。地位や名誉なども同じことが言えるのだと私は思っています。そして、私はこういう欲というものが自分自身の心の中にこそ蠢(うごめ)いているのだという自意識を忘れないようにしたいと思っているのです。
 
そのような執着から解放されて生きること。ここにこそ神が与えてくださる自由があるのだと、その自由を神からいただきたいと願う一日を過ごしてまいりたいと思いました。聖書の言葉が与えられたことに、心から感謝しつつ。
 
どうぞ、主日への備えの日が、皆さんにとってもさまざまなしがらみからの解放と自由を味わうことのできるときとなりますように。お祈りいたします。

20/05/2022

2022.5.20 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編38編5節
私の過ちは頭を越えるほどにもなり
重い荷物のように重くのしかかります。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙2章14節
数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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もちろん、自分自身のうちにある「罪」の問題を、真剣に考えることは大切なのだけど、そこから抜け出せないのも、やっぱり問題なんだよね。
 
昨日会ったクリスチャンの友人が、そんなことを言っていました。どういうことかと言うと、私はこういう悪いことをしました、ああいう罪を犯しました。どうしようもない罪人ですと、まるで罪の自慢披露会みたいに、祈りの言葉をつむぐ人がいるのだそうです。それは真剣な罪の告白というよりは、お題目のように決まりきった罪の言葉を祈らなければ祈りじゃないというところから、結果的に罪の自慢合戦になってしまうのだと。
 
その友人は続けて言います。結局のところ、その人が罪の告白を真剣にしているかどうかは、その人がイエスの生き方を自分の生き方としようとしているかどうかなんだよねと。まことにアーメン!その簡潔たる言葉に、思わずうなってしまいました。
 
今日の旧約聖書の言葉に示された罪の告白の言葉は、真実かつ真剣なものなのだと私は思います。頭を越えるくらい自分自身ではどうにもならない過ちをおかす、または遭遇したことに、私たちは少なくとも一度二度経験したことがあるのではないでしょうか。
 
自分ではどうすることもできない問題課題に直面したときに、私たちは別に罪を犯したわけではないけれど、それは世界を罪が支配しているからこそ、悩み、苦しみ、のしかかる重荷を背負わなければいけない。たとえ自分は悪くないと思ってもです。
 
罪の告白に生きるとは、この問題課題に向き合って生きること。しかし、自分自身で抱えることの難しさがあるからこそ、今日の新約聖書の言葉にもあるように、すべての借用証書を破棄してくださって、借財が清算された状態で新しい人生を歩むことができるようにしてくださった方に、自分自身の重荷を委ねることなのだと。
 
借財を帳消しにしてくださった方こそ、イエス・キリストだというのです。そのイエスが、言われました。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11章28~30節)
 
私は今日の黙想を通して、自分自身の罪の告白というものを捉えなおす良いきっかけをいただいたと思わされました。自分に与えられた分をもってイエスの弟子として生きること。しかし、そのためにこそ、イエスによる赦しと助けがあるのだと。
 
悩み苦しみが跡形もなく私から消え去ることはありません。しかし、それを担いやすくしてくださる方が確かにおられる。イエスの御心に生きるところにこそ、罪の告白を自虐的にではなく、積極的に受け入れてつつ、希望をもって生きていくことができるのだと。そんな一日でありたいと願わされました。
 
今日一日の歩みの一切に、そのようなイエスの豊かな助けがともにありますように。お祈りいたします。
 

19/05/2022

2022.5.19 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編77編10節
神は恵むことを忘れ
怒りのあまり憐れみを閉ざされたのか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章20節より
罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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善人なおもて往生(おうじょう)を遂(と)ぐ、況(いわん)や悪人をや。
 
鎌倉時代の仏教家である親鸞が、代表作『歎異抄(たんにしょう)』に綴った一文です。よい行いをする少数の善人でさえも極楽に行けるのだから、仏の救いに頼るしかない大多数の無力な悪人が救われるのはいうまでもないことだ、という意味です。
 
私は、今日の新約聖書の言葉に触れたときに、まさにこれだ!と思わされました。そのうえで、このローマの信徒への手紙にしたためられた言葉の意味を黙想したいと思います。
 
罪が増したところには。ここで言う罪とは神に背を向けることであり、神を必要としなくても生きていけるという、人間の態度全般のことを指します。その結果、誤った判断をくだしてしまうがゆえに、一般的に罪と言えるさまざまな言動に発展する。
 
聖書で言う罪とは、神との関係性の破れゆえに起きるものであり、この破れが悪を生み、ますます世界に増大させる。それは、この手紙を書いた2000年前もそうですし、さらにさかのぼること3000年前に歌われた詩編の時代も、今日のような神の怒りにまつわる歌が歌われるわけですし、現代の世界でも、同様のことが言えるのだと。
 
昔も今も何も変わっていない、人間の持つ基本的な罪、そして悪。しかし、だからこそ、神はこの悪人たちに、この世の悪に、ご自分の良いものを満ちあふれさせるのだというのが、今日の新約聖書に込められたメッセージです。
 
私たちが善人だから、神は恵まれたのではない。私たちが今なお神から離れ行く者だからこそ、そうすればするほど、神が人間を憐れみ、恵まれる。こうして罪の破れから、恵みの連結へと、私たちを導かれる方。その方こそ神なのだと。
 
歎異抄にある善人とは、いわゆる善行を積んだ者のことを指すわけですが、おそらく親鸞が言いたかったのは、仏につながれていなければ善行すらできない。だからこそ、悪人には仏の慈悲というものが多くの悪人を救うという言葉へとつながっていくのでしょう。まさに自己正義ではなく、仏に帰依(きえ)することの心構えについて、述べているものなのだろうとつくづく思わされます。
 
私は思います。日本はいわゆる仏教国であるから、キリスト教、いわゆる福音が浸透しないのだと。しかし、本当にそうだろうか。私はこういう共通項があることを大いに喜びたいと思うのです。決してキリスト教が、日本の風土に馴染まないものだとは決して思えません。日本人のメンタリティにも、キリスト教的なものの考えは十分に通じるものなのだと、私は思うのです。
 
日本で宣教をするというのは、すべて排他的に物事を処理するのではなく、こういう共通項を十分理解したうえで、自分に与えられた福音宣教という業に、神の知恵と力によって歩み、励んでいくことなのだと。実は、自分自身のうちにある排他的な思いこそ、罪の何物でもないと思わされるのです。
 
今日は仏教と絡み合わせながら黙想したわけですが、「仏教は異教だから悪」と即断に導くような、熟考のない排他的な言動を吐いてしまうことのないように、それだけでなく、自分の基準や好き嫌いで、それに沿わないことを意味なく排除してしまうことのないように、神の恵みによって今日も生きたいと願わされました。
 
神の恵みによる互いを敬う心を神様、今日も私に与えてくださいと祈ります。その心こそ、主の平安そのものであることを信じつつ。

18/05/2022

2022.5.18 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章8節より
地のもろもろの柱は主のもの。
主はそれらの上に世界を据えられました。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章1節
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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お昼前になって、何名の方から「明日のローズンゲンを掲載していますよ」とのご指摘をいただきました。え~~~っ!と驚いて、見返してみると、見事に明日(5月19日)のローズンゲン黙想をしていたことに気づきました。何と思いこみの激しいものよと反省しつつ、本日の御言葉を黙想してみたいと思います。
 
お気づきくださった皆様に、心から感謝いたします!
 
地のもろもろの柱。今日の旧約聖書に記されている言葉であり、その柱の上に世界が据えられたとあります。しっかりとした土台の上に柱が据えられたとき、いかなる災いがあってもそれに耐えうる建築物を建てることができる。そんなイメージを抱かされます。
 
仙台に越してきて、いまだに東日本大震災の余震ともいえる地震が起こりうることを意識しながら、家具の配置や固定をおこなってきました。しかし、どんなに耐震対策をしたところで、その建物の土台や柱が弱いものであったしたら、簡単に崩れてしまうこともまた事実です。

ちなみに、私が働く仙台宮城野教会は比較的地盤が堅いらしく、これまでも幾たびの強い地震に耐えてきたどころか、家具が倒れたりすることもなかったのだとか。どうしてかはわかりませんが、昔JR仙石線の線路だったところに教会は建てられています(インターネットで調べてみると、線路と地盤の因果関係はないとのことですが・・・)。
 
それはさておいて、頑丈な地盤、しっかりとした柱と聞きますと、やはり私たちは安心するのではないでしょうか。それがあたかも、自分自身の人生を支える土台や柱のようにです。私たちの人生は、そのような支えというものを必要としているのだと私は思います。
 
主なる神は、御みずから土台となり、柱となって、私たちの人生を支えてくださる。それが何かと言えば、今日の新約聖書にある通り「言(ことば)」となられたイエス・キリストその御方であるというのです。
 
ご自分の言葉と行いによって、私たちに教え伝えられたイエス。その言葉が、私たちの人生をしっかりと底から支えてくださる。ですから、たとえ上に建てられた建物が、安い建材しか用いることができない弱弱しいものであったとしても、それは決して倒れることはないのだと、今日の聖書の言葉は、私たちに確かなメッセージとして伝えているのだと思うのです。

一日間違えてしまいましたが、どんなときにも聖書の言葉は、私たちの弱さに寄り添い、活力を与えてくださる。そこにイエスが私たちと言葉をもってともにいてくださることを心の礎として、午後の時間を歩んでまいりたいと思います。
 
皆さんの一日にも、神様の守りと平安が豊かにありますように。お祈りいたします。

17/05/2022

2022.5.17 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書28章29節より
主は驚くべき計画を行われ
大いなる洞察を示される。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章17節
キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧新約聖書の言葉に共通するのは、神の計画というものは全世界にあまねく及ぶものなのだという、私たちへのメッセージであると私は受け取りました。
 
主の驚くべき計画と大いなる洞察。別な聖書ですと摂理と英知という言葉で表現されたりもしています。つまり、そこには神の人間に対する知恵が示される結果、それが深い配慮となって私たちに豊かに及んでいると考えることができるでしょう。
 
つまり、神の知恵というものはなんであるかということを、私たちが深く考えるきっかけというものを、今日の聖書の言葉は与えているのではないだろうか。そう私は思わされました。神の知恵というものは、決して浅はかなところで働いているのではないということをです。
 
私は思います。所詮私自身の持ち備えている知恵や知識などは、ほんのちっぽけなものなのに、それを誇大して人々に披露しようとしている自分自身がいるということを。こういうおごりが、神の知恵というものを自分自身の手で過小評価してしまってはいないだろうか。振り返り、そのような自己吟味が求められているような気持ちにさせられます。
 
主なる神の知恵は、確かに私たちの生活を豊かなものとし、喜びと平和で私たちを満たしてくださいます。しかし、私たちは知らず知らずの間に、神の知恵とは何たるものぞと問い続けるよりも、自分の持っている知恵だけで生きようとするからこそ、喜びや平和が損なわれる原因を自分自身の手でつくりあげてしまっているのかもしれない。私は、自分自身を振り返りつつ、そのように問わされます。
 
キリストは、遠くにいる者にも近くにいる者にも、平和の福音を告げ知らされた。この神の知恵のおかげで、私は自分の命が救われ、救われた者の生活へと導かれている。たとえ平和に思えないことが自分自身を襲ったとしても、キリストの知恵に帰ることで、確かに平安な心を抱けるように、自分自身が整えられていくのだ。今日もそのような一日でありたいと願わされました。
 
そのような連鎖と連帯が、世界をキリストの平和へと導く。そんな思いをもって祈り続けたいと思いました。

16/05/2022

2022.5.16 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨブ記2章11,13節より
ヨブの三人の友人は、ヨブに臨んだこのすべての災いを耳にし、七日七夜、ヨブと一緒に地面に座っていたが、その苦痛が甚だしく大きいのを見て、話しかける者は一人もいなかった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙6章2節
互いに重荷を担いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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互いに重荷を担いなさいと、今日の新約聖書の言葉が私たちに語り掛けます。そのことを中心に、今日の黙想をしてみたいと思います。
 
今日選ばれた旧約聖書の言葉は、神の民ヨブに禍(わざわい)が降りかかったことで、ヨブの三人の友人がやって来たときのシーンについて書かれたものです。友人は、ヨブのあまりにも悲惨な状態に言葉を失います。そして一週間、何の言葉を交わすこともなく、一週間ヨブとともに座っていたと、聖書には書き記されています。
 
っとえ一万の美辞麗句を紡いだとしても、その言葉が人と人とのあいだに通い合うことがなければ、その言葉は空しいものになってしまいます。言葉を交わさなくとも、そこには通じ合うものがある。それは決して、場の空気を読むとか、そういうことではなく、言葉にならないときでも、寄り添いの思いが人と人とをつなげることだってある。そういうことなのだと私は思うのです。
 
三人の友人による無言の7日間は、心のなかからどれだけのうめき声があげられたのだろうと思わずにはいられません。しかし、心のうめきを聴き取ってくださる神は、確かにその場に苦しみの共有を生み、連帯を生んだ。そのことに間違いないのです。
 
それは、後に使徒パウロが述べているとおりです。「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。」(ローマの信徒への手紙8章26節)
 
無意識に、しかし必然として起きた三人の友人による行動は、明らかにヨブを慰め、励ました。それは、神に反抗する悪魔のしたいがままにさせておく状況のなかで、神がヨブとその友人に向けられた慰めだったのだと。神は決して無視され、関心を向けることなく放置されるような方ではないのだと。私はそのように受け止めたいのです。
 
そのことが「互いに重荷を担う」ことの意味であると。重荷を担うとは、必ずしも見た目に華々しく、汗水をたらし体を動かすことだけではありません。一見、非生産的に見えたとしても、聖霊によってひとつとされているのであれば、神が必ずその連帯を、今日という一日を生きるための源としてくださるのだと。その連帯を今日もまた味わう者でありたいと願わされました。
 
聖霊がとりなしてくださる私たちの祈りを、神がご自分の御心によって整えてくださいますように。その先にある平安と喜びを信じつつ、祈ってまいりたいと思います。

15/05/2022

2022.5.15 仙台宮城野教会主日礼拝メッセージ


2022年5月15日
仙台宮城野教会主日礼拝

聖書 申命記31章1~6節
   ヨハネによる福音書21章20~25節
説教 この人はどうなるのでしょうか  牧師 齋藤 篤

※上の動画をクリックしてご視聴ください。

2022.5.15 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨエル書3章5節より
主の名を呼び求める者は皆、救われる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録4章12節
ペトロはイエスについて、このように述べています:
この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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主の名を呼び求める。そうです。名前を呼び求めます。
 
私がかつてエホバの証人であった頃、その団体は「神の名はエホバである」ということを強調し、その名前を呼び求めることにこだわりを持っていました。だから、自分たちのことをエホバの証人と呼ぶまでになるわけですけれど、私はその時のことを振り返って、こんなことを思わされました。
 
神の名はエホバであることは知っている(実はエホバという発音ではないということは明らかです。理由はまた別なところで語りたいとは思いますが)。「私はある」という意味であることも聞いたことがある。しかし、そこにどのような「意味」があるかは、深く考えたこともなければ、詳しく教わったこともなかった。
 
つまり、どんなに神の名を知っていたとしても、名前に込められた意味というものが、私の生き方にどのように影響しているか、良いものをもたらすかということを知らずして、理解を深めること無くして神の名を機械的に呼び続けていたとしても、そこには一体何の意味があるのだろうかと。そう思うのです。
 
自戒を込めて申し上げれば、私たちは教会という世界に長くいればいるほど、教会だけでしか通用しない言葉に慣れてしまうばかり、人並みに祈ることもできれば、それらしい信仰者の言葉をつむげるかもしれません。しかし、どうでしょう。その言葉には神の真実はあるのだろうか。条件反射のように、こう来ればこの言葉を発せればただ悦に浸っているだけなのではないだろうか。
 
主の名を呼び求めるとはつまり、このような問いの上に初めて成り立つ言葉なのだろうと私は思わされます。神の持つ「主(ヤハウェ)」という名前は、「私は神であり、あなたがたと共にいることで、あなたの神となる」という、実は私たちに対する呼びかけであることを知らされます。そう。私たちが神を呼ぶ前に、神が私たちを呼んでくださる。この呼びかけに「聴き、信じ、従います」と答え応じるところにこそ、救いがある。そのように、今日の旧約聖書の言葉に聴くことができるのだと、黙想させられます。
 
そのような黙想を土台として、神が与えてくださる真実の言葉を祈りつつ語る者となりたい。忖度(そんたく)のないそういう言葉にこそ、救いの喜びがあることを信じつつ。週の初めの日のこの一日が、皆さんにとって素敵なときとなりますように。お祈りいたします。

14/05/2022

2022.5.14 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
哀歌3章22~23節
主の慈しみは絶えることがない。
その憐れみは尽きることがない。
それは朝ごとに新しい。
あなたの真実は尽きることがない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章16節
だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私事ですが、去る木曜日に開催された、宗教法人アシュラムセンター常任運営委員会に出席するため、水曜日から今朝がたまで、滋賀・近江八幡にあるアシュラムセンターに滞在しておりました。静かな環境のなかで、ゆっくりと心を落ち着かせながらの数日間を過ごすことができました。今は、東京に向かう新幹線のなかで、今日の黙想をつづっているところです。
 
滞在中、アシュラムセンターを創立した「ちいろば先生」こと、故・榎本保郎牧師のお連れ合いである和子さんと交流する機会をいただきました。御年96歳の和子お母さん。耳が遠くなり眼も見えにくくなったと仰ってはおられますが、それでも笑い声の絶えない心から愛するお母さんです。本当に楽しいひとときをいただくことができました。
 
初めて和子お母さんにお目にかかったときに、一冊の『日々の聖句・ローズンゲン』を見せてもらいました。和子お母さんは、毎日ローズンゲンを用いて黙想されて、決して広いとは言えない余白の部分に、びっしりと黙想の文章が書き連ねられていました。和子お母さんは仰られます。「私が死んだときに、こんなのを残しておくのは恥ずかしいから、神に召される前にぜーんぶ捨てて、それから神様に召されるのよ」と。
 
100歳近くになり、ご自身の死というものをリアルに感じられることもあるのでしょうが、どうしてこんなに若々しく、孫くらいの私と気張らず偉ぶらず話ができるのだろうか。そんなことを思ったときに、ああ「日々新たにさせられる」とは、こういうことなのだなと心から感じさせられました。
 
人生のなかで、いくらでも落胆することがある。和子お母さんもご自身の回想で、そのように仰っておられます。しかし、たとえ体力が落ち、思うように自由が利かず、朽ちていく途上であったとしても、日々新たにさせられていく。今日も神が与えてくださる新たな命に活かされて歩むことができる。和子お母さんの姿にふれて、私もそのような者になりたいと、強く願わされました。
 
今週も今日で終わり、また明日から新しい一週間が始まります。その備えの一日として、今日も決して絶えることのない神の慈愛と真実が、私たちを生かしてくださいますように。お祈りいたします。

13/05/2022

2022.5.13 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編30編3節
わが神、主よ、私があなたに叫ぶと
あなたは私を癒やしてくださいました。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書5章19節より
イエスは癒された人に言われた。「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約・新約聖書を貫くテーマは「癒し」であると受け止めました。この言葉について、黙想を深めてみたいと思います。
 
聖書には癒しについての記述が実に数多くあることに気づかされます。特にイエスは宣教活動の重要な柱のひとつとして「癒しの業」をおこなわれました。身体の癒し、心や思いの癒しを通じて、その人が神を賛美して生きることができるように、人々を導きました。
 
イエスが人々を癒された目的は何だったのでしょうか。ただ病気が治癒すればそれで良いというものではありませんでした。命が与えられていることの原点に帰って、命の与え主である神の慈愛をほめたたえることでした。そのように癒された人々の気持ちが向くべく、決して無理強いすることなく、しかし、イエスはそのように導かれました。
 
私たちはさまざまな「癒し」に出会います。医学的な面から、心理学的な面から、またスピリチュアルな方面から、さまざまな癒しがこの世の中に散在していることを、私たちは知っています。そして、実際に癒される経験を味わうこともあるでしょう。私は、それら数々の癒しを全否定する気はありませんし、私自身も癒しを求めるべく、医療行為を受けたりすることも間違いありません。
 
そのような現状のなかで、私はどのように神がイエスを通して与えてくださる癒しというものを、どのようにバランス感覚を大切にしながら、肯定的に、積極的に受け取り、自分自身のものとすることができるだろうか。そう黙想させられるのです。
 
神が与えてくださる癒しなど、本当に「効き目」があるのだろうか。世の中はそのような評価をくだすかもしれません。そのような世の中に対して、もし神による癒しというものが世の中に輝く光として、多くの人々の希望となるのでしょうか。
 
私は、このように思わされました。今日の新約聖書の言葉で、イエスが癒された人に対して、そのことを家族に知らせなさいというひとつの指示を与えています。この言葉から、私は自分が味わった癒しの経験、それがどんなに些細なものであったとしても、その味わった経験を旨として、生きていくことなのだろうなと。
 
今、癒されていることを感じることができなかったとしてもいいのだと思います。かつて味わった経験に帰れば、それは癒しを胸にして、大切にしていることにつながり、そのような姿勢を、神は必ず祝して、癒しへと向かわせてくださることを信じたいと思わされました。
 
今日の一日もまた、神が与えてくださる癒しが、この世界を照らしてくださいますように。お祈りいたします。

12/05/2022

2022.5.12 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨブ記10章12節
あなたは私に命と慈しみを授け
私を顧みて、私の霊を見守りました。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙5章11節より
あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主がもたらした結末を知っています。主は憐れみに満ち、慈しみ深い方です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の聖書の言葉は、旧約聖書に登場するヨブについて触れられている箇所です。悪魔の挑戦的な命題によって、ヨブは災いをこうむりました。家族も財産も失い、病におかされたヨブにとって、何を頼りに生きていけば良いのか。そんなときにヨブが告白した言葉が、今日の旧約聖書の言葉です。
 
ヨブは神に呼びかけます。あなたは私に何を与えたか。家族か、財産か、祝福か。いや、なによりも命を与えられたではないか。命を与えただけで見捨てられるような方ではない。慈しみを与えたではないか。私を顧みてくださっているではないか。そして、私を見守り続けてくださっているではないか。
 
ここで、ヨブは苦難の中にきらりと光る希望に、自分自身の視線を集中したいという願いを抱いていることがわかります。苦難のときに希望など見いだせないからこそ苦難なのです。苦しい時にそんなこと言ってられるかと、私なんか考えてしまいます。
 
ヨブもそうであったかもしれません。なぜ私がこんな目に遭わなければいけないんだと、思ったに違いないのです。同じ人間ですから。しかし、行きつく先は神が何を私に与えたかという深い黙想から生み出された、今日の聖書に示されたヨブの告白だったのではないか。私は少なくとも、そのように思いたいのです。
 
私たちはヨブ記を通して、その後ヨブがどのように自分自身を守ってくださる神がおられるかを心の底から実感します。そこには生きる喜びもあり、また自分自身の罪をも悔い改める姿をみることができます。神が中心に立たれ、ヨブを守られたとき、ヨブはこれまで以上の神の守りと祝福を経験しました。そのことを、私たちは聖書から知ることができるのです。
 
主のもたらした結末。今日の新約聖書に書かれているひと言は、まさに私たちが安心して神の守りに自分の身と心を委ね、今、現実に起きていることに落胆することがあっても、その落胆をすらすべてご存知であり、なおも私たちを慰め、励まそうとする神がともにおられることを、今日一日を生きるための柱、糧とすることができるのだと。
 
そんな思いをもって、今日の一日を黙想しつつ歩んでまいりたいと願わされました。皆さんの一日にも、是非そのような希望に向けられた実感を神が与えてくださいますように。お祈りいたします。

11/05/2022

2022.5.11 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上3章19節より
主がサムエルと共におられたので、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書10章16節より
イエスの言葉:
あなたがたに耳を傾ける者は、私に耳を傾けるのである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧約聖書の言葉にある「地に落ちる言葉」とは一体何なのだろうか。そのことを今日は黙想してみたいと思います。

私たちが聖書から、地に落ちる言葉について見るときに、有名なのはイエスによって語られた「種まきのたとえ話」かもしれません。種になぞらえた神の御言葉が4種類の土壌に蒔かれたときに、種はどのような成長を遂げたか。私たち一人ひとりは土壌であり、自分たちの持つ土壌とはどのようなものかについて、考えさせられる聖書の言葉です。
 
一方で、今日の旧約聖書の言葉は、神がイスラエルの指導者サムエルと共におられたので、神の御言葉は、サムエルの外からこぼれ落ちて、地に落ちることはなかったという意味で、土壌が用いられています。つまり、御言葉という種を蒔いても、全体の4分の3は十分に育つことがなかった。良い土に蒔かれた4分の1の種こそ成長し、実りをもたらした。
 
つまり、その土壌とはまさに、神の御言葉を受け入れたサムエル自身の心のことを指しているのだと受け止めることができると思うのです。
 
私たちの心の土壌もそのようでありたい。私はそのように心から願うのですが、現実はそうもいかない。種まきのたとえ話のように、4つ聞いたら1が心に根付く、いや、100個の言葉を聞いて、やっと1つを理解できるかどうかというくらい、私の心の土壌はやせ細っているのかもしれません。
 
にもかかわらず、神の言葉に聴き、その言葉に生き続けることができるのは、今日の旧約聖書の言葉にあるように、まさに「神が共におられるから」のひと言に尽きません。私のために忍耐強く付き合い、寄り添ってくださる神が私とともにおられる。100粒の種の1粒だけだったとしても、それが育てば共に喜んでくださる神が、こんな私とともにおられる。
 
サムエルが経験した「神の言葉が一つたりとも地に落ちることがなかった」というのは、私たちがそれをこぼさないで生きることができるかどうかという、完璧な態度を求めている言葉というよりは、地に数多くこぼれ落ちてしまうような状況のなかでも、たった一粒でも心に神の言葉が根付くことへの大いなる幸いを示した言葉なのではないか。そのように黙想させられました。
 
この世界で、多くの大切な言葉がこぼれ落ちてしまう現実があります。しかし、ほんの少しの言葉が世界を変えることだってあるのは、その言葉に神が共にいてくださることへの実感があるからに他なりません。今日もその言葉が、豊かに私たちの心に根付くことができますように。お祈りいたします。

10/05/2022

2022.5.10 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章34節より
もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、「主を知れ」と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである――主の仰せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章28~29節
そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、エスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日、私たちに与えられた聖書の言葉は、あらためて「神を信じる」とはどういうことかを、深く考えさせられる言葉であると私は受け止めました。具体的には、信仰とは「私の業」ではなく「神の業」である、というひと言に尽きる、ということです。
 
信仰というと「この私が」神を信じることであると、私たちは誰でも考えると思います。それは間違いないことです。しかし、信仰の主体、つまり信じるということの主人公は、実は私ではありません。あくまで、信じる対象こそが主体、主人公であるという事実を忘れていけないのだと、今日の聖書の言葉を通して、私たちにイメージを与えます。
 
つまり、信じるという行為は、ときには人を傲慢なものにさせてしまうのではないかと思うのです。つまり自分を信じること、すなわち「自信」へとつながっていくことで、そのことが神を信じる以上に強くなってしまうというのです。その結果、神を信じるということが、神の御心に生きるということに主眼を置く以上に、神を信じる自分自身のやりたいように生きることが、信仰の主体となってしまう。つまり、神が主体であるよりも、自分自身が主体になってしまうというのです。
 
今日の旧約聖書に記された言葉は、神がご自分の民に対して新しい契約を結ぶと宣言しておられる箇所ですが、それは、かつて民に授けられた「律法」を守り行うことで、神の民として保証されるといった内容のものではありませんでした。何かをすればよい、一生懸命おこなえばそれで自信を抱くような信仰のありかたではない、新しい契約を神は提示されました。
 
それは具体的には、イエス・キリストの御心が、救い主として私たち一人ひとりの心に宿るときに、それそのものが信仰であり、イエスの心をもって生きることこそ、神の業を自分の生き方とすることができるのだと。これが今日の新約聖書において、イエスが弟子たちに告げられた言葉でした。この生き方は、私を主体とする生き方でなく、イエスを主体として生きる生き方であることに気づかされます。
 
あくまでイエスを中心として生きる幸い。この幸いを信じて今日も歩んでまいりたいと願わされました。皆さんの一日にも、そのような幸いが豊かにありますように。お祈りいたします。

09/05/2022

2022.5.9 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編11編7節より
主は正しき方。正義を愛される。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章23~24節
心の霊において新たにされ、真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって造られた新しい人を着なさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の新約聖書の言葉には「神にかたどって造られた新しい人」を身につけなさいとの勧めがなされています。「神にかたどって造られた」とはどういうことかについて、黙想を深めてみたいと思います。
 
私たちは神にかたどって造られたというのは、神が本来私たち人間をつくられたときの意図であることは、旧約聖書・創世記に記載されているとおりです。それは形状の問題もさることながら、神の持つ思いや願いという性質にこそ、私たちは神のかたちとして造られたその意図であるというのです。
 
その数々ある性質のなかに、正義があります。正しさとはなんだろうか。私たち人間は、自分が正しいと思った道を選択し、忠実に歩む存在です。たとえ自分が正しい道を選んでいない、選べないと思い悩んだとしても、そうすることに自分自身がとどまっているわけですから、そこに正しさを無意識のうちに求めていると言って良いのだと思います。
 
しかし、その正しさは一体どこから発生しているものなのだろうか。ここが重要です。私たちは本来、神のかたちに造られたという聖書の言葉に依拠しているならば、その正しさは神の正しさであり、神の正しさとは何かということを聴き取り続けなければ、その正しさすら求めることはできないのでしょう。
 
私たちは、自分が正しいと信じてやまないことが、本当に神の正しさに歩調を合わせているのかどうか、常に自分自身を確かめ、吟味し、聖霊の力をもって識別しながら、間違いや失敗を繰り返しつつ、神の正しさを自分自身の生き方としていくことが、今日の新約聖書にある「神にかたどって造られた新しい人」を身に着けるということにつながっていくのでしょう。
 
セルフチェックを続けていくことは、結果としてそれそのものが長持ちする結果を生み出すことは、誰もが知っているこの世の常です。それは生身の人間にも共通することなのだと、今日の聖書の言葉を通して改めて知らされた次第です。
 
そのことに感謝して、セルフチェックする喜びを味わえるような一日でありたい。そのように願いつつ、皆さんの一日にも、神様の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

08/05/2022

一通の手紙、そして30年ぶりの再会

 
私が植え、アポロが水を注ぎました。
しかし、成長させてくださったのは神です。
(新約聖書 コリントの信徒への手紙一3章6節 聖書協会共同訳)


月の第2日曜におこなわれる
東北教区センター・エマオ夕礼拝に
行ってきました


そこでのビッグサプライズ!
30年ぶりの再会がありました


直接教わらなかったけれど
高校時代の先生がおられました


どうして教わらなかったのに
その先生のことを知っているか?
そこには大切な思い出があります


当時わたしは
カルトと言われる宗教団体の
信者になろうとしていました


そんなときに 先生は私に
「教会の礼拝に行ってみませんか?」
そんなお誘いの手紙をくださいました


私は先生に誘われるがままに
その教会の礼拝に一度足を運びました
しかしそれっきりだったのです


それから私は
カルト団体の信者となり
その信者をやめて教会に行くようになり
クリスチャンとなって牧師になりました


そして今日の再会がありました
先生は私の思い出話を聞いてくださり
一緒に喜んでくださいました


30年前
確かに先生は水を私に撒いてくださいました
それは確かに
神が育ててくださるための
最初の出来事でした


私は礼拝に誘ってくださった
先生に心から感謝します
そして 先生を用いて
私を育ててくださった神さまに
心から感謝します


うれしくってうれしくって
それは素敵な夜をいただきました


日々観想

2022.5.8 仙台宮城野教会主日礼拝メッセージ

 

2022年5月8日
仙台宮城野教会主日礼拝

聖書 イザヤ書40章9節b~11節
   ヨハネによる福音書21章15〜19節
説教 小羊をふところに抱き  牧師 齋藤 篤

※上の動画をクリックしてご視聴ください。

2022.5.8 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書42章16節より
私は目の見えない人に知らない道を行かせ
知らない道を歩かせる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章9節より
神はあなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書に「知らない道」という言葉が2回登場します。知らない道とは何か。そのことを黙想してみたいと思いました。
 
仙台に越してきてひと月、それこそ知らない道を走ることの多い毎日ですが、走っているうちに、ああ、この道とあの道はつながっていたんだとか、この道を通らなくてもあの道を通ればいいんだという発見を体験しています。
 
知らない道を歩むというのは、時間や心に余裕のあるときにしかできませんし、歩くとしても、多少なりとも不安が生じるというのが、偽らざる事実であると私は思っています。だから、リスクを避けて知らない道を歩かない、自分自身の知っているところだけで歩もうとする私自身があることに気づかされます。
 
しかし、それは自分自身にとっては安心安全なのかもしれませんが、それ以上の発展はありませんし、歩んでみたら実は多くの発見があったということにも、なかなか気づかされないまま時が経ってしまうということもあるのではないかと、そのように思えてなりません。
 
私は、本当に知っているのだろうか。実は知っているつもりで過ごしているだけなのではないだろうか。そう思った時にこそ、神の導き(道を引く)があるのではないか。その導きに私たちがいかに信頼して、未知の世界へ進んでいくことができるだろうか。それこそ、神が与えてくださる希望であり、神の国へと進んでいく希望そのものなのだと。
 
私は、自分自身のうちにある狭量なはかりだけで測ろうとし、そこに神のダイナミックな指し示しを締め出すことがあっては決してならない。神が与えてくださる魅力的な未来へ、神の御心をやわらかい心で受け入れたい。今日の聖書の言葉を通して、そのように思えたのです。
 
どうか、今日の主の日が、そのような一日でありますようにと祈ります。皆さんの一日にも、主の豊かな導きがありますように、お祈りいたします。