28/02/2023

2023.2.28(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編130編1~2節
主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。
わが主よ、私の声を聞いてください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章38~39節
盲人は、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)6日目を迎えました。
 
本日、私たちのために選ばれた聖書の言葉は、私たちの「切なる祈り」について、その大切さを私たちに教える聖書の言葉であると、私は受け止めました。神は、私たちの真剣な叫びに、必ず耳を傾けてくださる御方であることを、これらふたつの聖句は私たちに伝えます。
 
極論を申し上げれば、私たちが祈っても祈らなくても、神は私たちの必要というものをすべてご存知なのだと私は思っています。私たちが祈らないからと言って「わしゃお前のことなど知らん」という方ではないと、私は考えています。だからと言って、では、私たちは祈らなくて良いのかと言えば、そんなことは絶対になく、やはりそれでも、神に自分の心を向けて祈ることは、本当に大切なことなのだと私は思います。
 
本日の新約聖書の言葉にありますが、イエスを前にしてひとりの盲人は「私を憐れんでください」と叫びました。周囲は、彼の叫びを制止しようとします。しかし、人の制止くらいで、その人の叫びはとどまりません。そしてイエスは、彼の叫びに応えられました。彼の視力は回復したのでした。
 
私はこのエピソードに触れるたびに、盲人の叫びを制止し、黙らせようとした人々のことを思わされます。どうしてこの人たちは盲人の悲痛な願いをシャットアウトしたのだろうか。よほどうるさく、うっとうしく感じたからなのか、あまりにもイエスを気遣う人たちが、イエスを煩わせたくないという親切心から起きた行動なのか、聖書の言葉にある文中だけでは、それを察することはできません。
 
しかし、ここではっきりと言えるのは、人々は盲人の祈りというものを判定し、結果としてそれを妨げたという事実があったということです。しかし、そのような人たちの判断があったのにもかかわらず、イエスはそれとは裏腹の行動を盲人に対して向けられた。ここに、人々の感覚というものとイエスの心にズレがあったことが分かります。
 
私はここから学びたいと思いました。どんなに神の御心だと信じて行動したとしても、それがイコール神の御心であるとは限らないということをです。だからと言って、神の御心は分からないのだから、何もしなくても良いのか。盲人は、やはり祈った結果、神の御心と遭遇することができたし、自分の視力が癒されることによって、神と出会うことが可能とさせられたのです。やはり、神に祈るという行動が、神を知り、理解するうえで無くてはならない私たちの営みなのだと、あらためて思わされるのです。
 
たとえ私たちの判断が神の御心と違っていたとしても、神はご自分の御心というものを明らかにしてくださることにより、私たちの側がそれを受け止めることが大いに許されているのです。神の御心こそベストであることを、私たちがしっかりとキャッチする者でありたいと、本日の聖書を通して感じさせられた次第です。
 
今日も神に自分の思いをさらけ出して、祈り、願うことができますように。そのようななかで示される神の御声に、謙遜な思いをもって聴くことができますように。祈りつつ、レント6日目の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。

27/02/2023

2023.2.27(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編98編9節
主は来られる、地を裁くために。
主は義によって世界を裁き
もろもろの民を公平に裁かれる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録15章4節
主よ、誰があなたの名を畏れず
崇めずにおられましょう。
聖なる方は、あなただけです。
あらゆる国々の民が来て
あなたの前にひれ伏すでしょう。
あなたの正しい裁きが
明らかにされたからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)5日目を迎えました。
 
本日選ばれたふたつの聖句を貫くキーワードは「裁き」です。私たちの神は「裁く方」であることを、聖書は明確に述べています。私たちは、神が裁かれる方であるという事実を、どのように受け止めることができるのでしょうか。そのことを黙想したいと思いました。
 
まず、神は何によって裁きを執行される方なのかということについて、本日の聖書の言葉には、裁きという言葉とセットで「正しい/義」「公平」という言葉があることにお気づきになられたことと思います。ここから見えてくる裁きの目的とは、神が正しい御方であり、人を公平に扱われることが明らかにされるところにあります。そして、その根底に流れているのは、神が私たち人間を、ご自分の愛情をもってつくられ、見守り、養っておられる御方であるという、聖書全体を貫くテーマそのものです。このテーマがあるなかで、神の裁きが執行されることを、私たちは覚えていたいと思うのです。
 
裁きとは、人を断罪することを目的とするのではなく、神の正しさに挑戦し、その正しさを否定しようとする悪魔の働きを滅ぼすことを目的としています。ローズンゲンに掲げられた今週の聖句は「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」という、新約聖書ヨハネの手紙一3章8節後半の言葉です。神は悪魔の働きによってもがき苦しんでいる人間を救いたいとの一心で、神の子イエスが私たちに与えられました。
 
実は、この出来事こそ、神による裁きの結実であると言えます。神はご自分の正しさと公平さをもって、人間の側に何らかの犠牲を負わせることはありませんでした。ご自分の独り子を犠牲として差し出すことにとって公平さを示され、ご自分の正しさを私たちの前に明らかにされました。この独り子イエスによって、私たちは神との深い関係のなかで生かされ、いのちを得ることができるというのです。まさに、四旬節の黙想としてふさわしい聖書の言葉が、今日も与えらえたと思わされた次第です。
 
世界は人による裁きではなく、神による公平かつ正しい裁きを必要としています。人が人を裁くことによって起きるさまざまな苦しみに嘆くのではなく、あくまで神がこの世界に平和を与えるために、自分自身を犠牲にするまでに裁きを執行される方であることを、私たちは今日を生きるための励みとして、言葉を受け取ってまいりたいと思います。皆さんの新しい一日に、神の守りと公平さが豊かにありますように。お祈りいたします。

26/02/2023

2023.2.26(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言3章26節
主が罠から足を守ってくださる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章15節
イエスの祈り:
私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)最初の日曜日を迎えました。レントのあいだ、私たちは6回の日曜日を迎えることになりますが、十字架への道を歩まれたイエスの後を私たちも歩みつつ、私たちもまたその道を歩むことの意味を問いながら、来る復活祭(イースター)への備えをしてまいりたいと思います。
 
十字架への道を歩もうとするときに、イエスというひとりの命が、十字架上ではりつけにさせられることによって、それは私たちひとりひとりの命を守るための生贄(いけにえ)となった。つまり、神は私たちの命を守るために、ひとりの命を犠牲に、それも、最も大切な独り子の命を犠牲にされた。この事実というものをどのようにとらえ、また受け止めることができるのかを歩みながら黙想する。長い歴史のなかで、教会が継承してきた、私たちが40日間にわたって歩む「レントの意味」なのです。
 
そういう意味で言えば、本日の聖書の言葉は、まさに私たちを悪から助け出そうとする神の思いというものを理解すべく、与えてくださった言葉であることを思います。しかし、いつ足を取られるかもしれない私たちの歩みにかかる罠から、私たちの足を守ってくださる神がともにいてくださるという格言(箴言)を知っていたとしても、それでも私たちは罠に足を取られてしまうことが多々あると、私なんか思うのです。神はこの危機のなかで、本当に私を助けてくださるのだろうか。そんなことを思うときに、では、どのようにこの聖書の言葉を理解すれば良いのだろうかと思ってしまいます。
 
つまり、罠にかからせるような悪というものから、私たちは100%解放されることなどないのだと思います。少なくともこの世界で生きている以上は。悪がすべてなくなる時代があるとすれば、それはやがて来る神の御国の時であって、私たちはまだ十字架の道を歩むように、神の御国に向かって、地上を旅する神の民なのだと。そういう旅路を歩んでいる以上、悩みや苦しみというものと向き合いながら、歩んでいかなければならないのだと。
 
本日の新約聖書の言葉であるイエスの祈りは、まさにそのことを物語っています。悪が放逐されるのではなく、悪に遭遇したとしても、その悪から私たちを守ってくださる神への祈りです。イエスはかつて「私たちを誘惑に陥らせず、かえって悪からお救いください」という祈りを教えてくださいました。この世に生きている以上、そのような悪であるとか誘惑というものに人を陥らせるという事実を受け止めなければならないことを、この祈りの言葉が示しているのです。
 
しかし、私たちが苦痛を味わわなければならない時に、神が私たちの傍らにおられてその苦しみを一緒に乗り越えるための力を与えてくださる。このことを希望として私たちが抱き続けることができるように、イエスはご自分の十字架における苦痛を寸前にして、このような祈りを神にささげることができたのだということを、改めて思わされた次第です。
 
どうかこの主の日も、苦しみのなかに立たれ、私たちを見守り、救ってくださる神の恵みというものを味わうことができますように。世界中で行われる礼拝や集会の一切に、神の恵みが豊かにありますように。お祈りいたします。

25/02/2023

2023.2.25(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ホセア書4章1節
主の言葉を聞け。
この地に住む者を主は告発する。
この地には真実も慈しみもなく
神を知ることもないからだ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙1章5節
あなたがたの中で知恵に欠けている人があれば、神に求めなさい。そうすれば、与えられます。神は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与えてくださる方です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)4日目を迎えました。
 
真実もいつくしみも失われた世界に、神による告発が臨むという言葉を聞いた時に、私たちはどのような反応を起こすだろうか。本日の旧約聖書の言葉に触れ、そのようなことを感じたのです。
 
決して、それを喜んで受けようとかという気分にはなれないのではないか。私はそう思いました。どちらかと言えば、神の怒りに対する恐れのようなものが私を襲う。それが、この言葉を聞いた時に起きる、ごくごく「普通の」反応なのかもしれません。
 
そのようななかで、預言者ホセアは神の告発の言葉が臨む理由を「神を知ることもないからだ」と告げています。私はこの言葉はまさに、私たち人間の心のうちを表しているひと言だと思ったのです。それは「無知ゆえの恐れ」というものなのかもしれないと。

知らないがゆえに不安になる、恐ろしく感じるということが、私たちにはあると思います。だから少しでも多くの情報を集めて、私たちはその情報を安心するための材料にしたりする。私たちが無意識のうちに取っている行動です。しかし、神を知るということになると、途端に及び腰になる人間の姿があるかもしれない。怒りや罰を受けるのではないかという恐れゆえにです。神を知り、神を信じるということが、怒りという鎖に束縛されているような気持ちになるのです。だから、神をあがめる宗教は、窮屈なことを私たちに強要しているように感じるのかもしれません。これが一般的な人たちの考えなのかもしれません。
 
しかし、それこそが知らないがゆえの無知がもたらすことなのではないか。私はそのように感じさせられました。本日の新約聖書の言葉である、ヤコブの手紙1章5節には、神の知恵とおいうものについて語られ、それを求めることの幸いについて語られています。
 
では、神の知恵とはなにか。「神は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与えてくださる方」。私は「とがめもせず惜しみなく」という言葉に引き寄せられました。私たちは、神による怒りであるとか災いというものを、意外に自分自身のなかで勝手につくりあげ、怒りの神のイメージを神に押し付けているのではないだろうか。そう思ったのです。
 
宗教にも責任があります。神の真実であるとかいつくしみ、そこにしっかりと流れている愛が何であるかを示す前に、信じなければ、さもなくば的な条件をつけて、神による災厄をちらつかせることに熱心になっているとするならば、神を知ることを遠くさせているのではないだろうかと、自戒を込めて思わされたわけです。
 
とがめもなく惜しみなく。私たちにご自分の知恵を授け与えてくださる神を知ることの幸いを思います。そういう意味で、神の本質を知る一日でありたい。神を勝手につくりあげてしまう私の罪というものを見つめていきたいと願わされました。明日の主の日に向けて、自分自身を神の知恵によって整えるときとなりますように。皆さんの一切に、主なる神の守りと祝福をお祈りいたします。

24/02/2023

2023.2.24(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書55章3節
私はあなたがたと永遠の契約を結ぶ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章20節
神の約束はすべて、この方において「然り」となったからです。それで、私たちはこの方を通して神に「アーメン」と唱え、栄光を帰するのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)3日目を迎えました。
 
本日の新約聖書の言葉は、使徒パウロによって綴られた手紙の一節です。「この方」とは救い主イエスのことであり、神の約束はイエスによって「然り」、つまり、その通りになったのだと断言しています。イエスが十字架への道を歩まれて、その苦しみをただひとりで担われたこと。その苦しみを経て死を経験したものの、三日目に復活した命をもって、永遠なるものを私たちに与えてくださいました。まさに、本日の旧約聖書の言葉にある「永遠の契約」は、ここに実現しました。
 
まさに四旬節とは、永遠の契約をその通りとさせたイエスを通して、私たちひとりひとりが神に向かって「アーメン(その通りです!)」と告白できる機会なのだと、あらためて思わされます。
 
アーメンと言えば、ひとつ思い出したことがあります。
 
私の前任地時代、教会の礼拝と祈祷会へ頻繁にいらしていたSさんという方がおられました。他の教会に属しておられる方でしたが、家が近所なのと、私の前任地の教会に居心地の良さを感じてか、よく足を運んでおられました。
 
そのSさんですが、祈りのときになると「合いの手」が入ります。前任地の教会では、しばしば「アーメン!」という合いの手が、祈りの際によく聞かれることがありました。しかし、Sさんは違うのです。「その通りです!」と。その告白とも言えるSさんの言葉が、とても新鮮に感じたのを、今でも思い出すことができます。
 
Sさんはご自身の抱えている病のことで、随分苦しんでおられました。平日、仕事から帰宅される前に教会を訪ねられて、今日一日あったことやご自身の生活のことなどをお話になられながら、一緒に祈りのときをよくもちました。そのときも「その通りです!」と祈りの合間に告白されておられました。今は神の御許に召されたSさん。その声だけはしっかりと脳裏に焼き付いているのです。
 
私は、アーメンという言葉に思いを寄せたいと思いました。本当に「その通りです」という思いから、この言葉を発しているだろうか。いや、そうではなく、たとえ「その通りです」とは程遠い、疑いや迷いが自分自身のなかにあったとしても、神がその通りにしてくださるという希望と期待をこめて、神御自身がおられることへの「アーメン」。アーメンを単なる符号記号のように扱ってはいないだろうか。そんなことを思わされるのです。
 
パウロはこの時、手紙の宛先であるコリント教会に対して、再訪問の計画を立てていました。何かと問題の多いコリント教会へ直接赴いて、ひとりひとりを主の言葉によって慰め、励ましたい。そう思っていました。しかし、そこにいたるにも、問題があったようです。パウロは「このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。」(17節)と手紙にしたためています。
 
このパウロの問いかけの背景には、パウロには自分たちの教会を指導する「使徒としての資格などない」と主張する人々の存在がありました。お前ごときに私たちのこれをあれこれ指導する筋合いはないと言ったところでしょうか。少なくともパウロの再訪問に神の御旨を感じられない。「アーメン」と告白できなかったのです。
 
そのことを踏まえて、パウロは救い主イエスによる「然り」、その応答としての「アーメン」について書き綴りました。パウロはコリント再訪問が自分自身の人間的な計画ではなく、本当に神の御心に基づいたものならば、それは然りとなりアーメンと告白できるものであることを、自分自身に言い聞かせながら手紙を書いたのではないか。そんな風に思えてならないのです。
 
パウロだって人間です。間違いだって多々あったことでしょう。だからこそ問いかけました。断言して人々に自分の思いを強要したりはしない。軽はずみなことなのかと問いかけたうえで、神のなさることに希望を託した。そして神に原点回帰し、神から出発する御心に、自分自身の心を沿わせようとした。それが「アーメン」の意味なのかなと思うのです。
 
前述のSさんも、多くの苦しみのなかにありました。「その通りです!」という言葉の背景には、実に多くの悩み苦しみがありました。しかし、神の御心を慰めとして歩もうとされていたSさん。だからこそ、私も大胆に「アーメン!」と唱える者でありたい。そう思わされたのでした。
 
皆さんにとっての一日の歩みが、そのようなアーメンという言葉に支えられ、祝されたものでありますように。お祈りいたします。

23/02/2023

2023.2.23(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書33章11節
立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。あなたがたがどうして死んでよいだろうか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章13節
私たちを悪からお救いください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ鍵の言葉となるのが「悪から立ち帰る/救われる」という言葉です。このことについて、黙想を深めてみたいと思います。
 
ところで、すでにお気づきかもしれませんが、日々の聖句で使用されている聖書の言葉は、必ずしもその節の全文が収録されているわけではありません。ドイツ語原著であるDie Losungenに記載されている聖書の言葉を日本語にしているため、節の一部だけが『日々の聖句Losungen』に記載されているというわけです。本日は旧約・新約の両方が、節の一部だけが取り上げられています。
 
そういう意味で言いますと、本日の旧約聖書であるエゼキエル書33章11節の言葉にある「あなたがたがどうして死んで良いだろうか」という神の言葉が、どのようなところから来ているものなのかについて、同じ11節には、このように記されているのがとても興味深く思いました。「私は悪しき者の死を決して喜ばない」。このひと言に、神の思いというものを知ることができるのだと、私は受け止めたのです。
 
悪しき者の死を決して喜ばない。旧約聖書のなかでこのような言葉が神によって語られるのは、意外な思いすらします。なぜならば、悪しき者は罰を受け、民のなかから断たれ、そして殺される。旧約聖書が醸し出す神とは、そのような厳しさをところどころで見つけることができるからです。しかし、実際はどうなのか。悪しき者の死を決して喜ばない神がおられるとも聖書は言っているわけです。
 
考えても見れば、最初の人間夫婦を神がつくられた際、このふたりはいとも簡単に神に背を向けて、独立独歩の道を歩み始めました。神ならば、このふたりを絶やして、新たに自分に従順な存在をつくることだってできたことでしょう。しかし、神はそれをなさらなかった。どうしてなのか。究極的に、神はいのちを絶やす方ではなく、いのちを与え、育み、たとえ欠陥が生じても回復に向かわせる、そういう方なのだ。だからこそ、アダムとエバに衣を着せて、たとえ苦しくてもこの世界で生きる道を与えられた。与えられただけではなくて、ともに歩まれた。その神の思いが、本日のエゼキエル書にしたためられた言葉に相通じるような気がしてならないのです。
 
ヨハネによる福音書3章16節の言葉が思い浮かびます。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 
この言葉は、御子を信じる者だけが救われるという限定的な救いについて重きを置くよりも、ご自分が慈愛をこめてつくられた人間が、ひとりも残らずそのいのちが救われて欲しいという、神の思いに重きを置いて読んだほうが良いのではないかと思うのです。少なくとも、本日のエゼキエル書の言葉に沿って読むならばです。
 
だからこそ、私たちはこう祈ることができるのではないでしょうか。「私たちを悪からお救いください」と。イエスによって語られた「主の祈り」の一節です。悪の問題をひとりで解決することはできません。だから、救いを神に求め、祈りを教えられたイエスに求める道がイエスから与えられました。その道とはイエスが歩んだ十字架への道。その2日目を、私たちは今日歩むことができるのだと受け止めたいのです。

悪がはびこるこの世界にあっても、神による救いの思いが、この世界に広がりゆきますように。そのために、私の心の中にある悪しき思いを、どうか神が取り除いてくださり、善へと向かわせてくださいますように、祈りつつレント2日目を過ごしてまいりたいと願わされました。皆さんの一日に、救いを望まれる神の慈愛がともにありますように。お祈りいたします。

22/02/2023

2023.2.22(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書20章13節
主に向かって歌い、主を賛美せよ。
主は貧しい人の魂を
悪をなす者の手から救われた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章46~48節
マリアは言った。
「私の魂は主を崇め
 私の霊は救い主である神を喜びたたえます。
 この卑しい仕え女に
 目を留めてくださったからです。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日は「灰の水曜日」です。本日より、救い主イエスのご復活を喜ぶイースター(今年は4月9日)までの日々を、私たちは四旬節(受難節・レント)の時を過ごします。四旬(40)という言葉が用いられるのは、聖書がしばしば物語る「40」という数字が、苦難を意味するものとして用いられるからです。出エジプトにおける荒野の40年、イエスが荒野で断食しつつ、悪魔の誘惑を受けた40日といった具合にです。日曜日を除く40日間の日々、私たちは救い主イエスの苦しみ(受難)の意味を思いにとどめながら、黙想の日々を過ごすことができます。この期節を「レント」と呼ぶのは、古ゲルマン語で「春」を意味することにちなみます。やがて来る命の芽吹きである春を、救い主イエスの復活を重ね合わせながら、その時を待ち遠しさをもって暮らしていこうという、先達たちの思いを受け継いでいると言えるでしょう。
 
十字架への道を進み行く救い主イエスのご受難を思う時に、なぜイエスは十字架の道をただ進まれたのか。それは、私たちのいのちを、神が意図された本来のかたちに回復させるためでした。まさに、本日の旧約聖書の言葉が物語る通りです。本日の旧約聖書の言葉は、預言者エレミヤによる告白の言葉の一節です。神はエレミヤに重大な務めを言い渡しました。神から心の離れていた民たちに、神から預かった厳しい言葉を告げなければならない、そのような任務でした。語れば語るほど、民の心は神から離れていくのをエレミヤは目にします。徒労とも思えるような状況のなかで、エレミヤに嫌気がさしてきます。
 
しかし、エレミヤがなおも語り続けた理由は、神はこれらの民を救ってくださるという強い確信があったからです。もちろん、神の民たちは苦難を経験しなければなりませんでした。俗にいう「バビロン捕囚」における数十年にわたる苦難です。しかし、苦しみの先には解放があり、回復がある。エレミヤによる預言の働きは、そのような神が民たちとともにおられることの明示に他なりません。
 
レントの時を過ごすというのは、そういうことなのではないだろうか。私は思います。私たちの人生の道にも大なり小なり苦しみがある。しかし、苦しみの先にはかならず解放があり回復がある。そこにいのちの尊さと救いがあるのだと。神はマリアのような仕え女にも、救い主のいのちを宿した事実は、大きな戸惑いの渦中にあったマリアに解放の思いを与え、自分の身に起きたできごとを受け入れるに至らせます。まさにマリアの回復がここにありました。
 
今年のレントは、何を思い、何を心に置くか。そんなことをイメージしながら、四旬節の第1日目を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一切に、解放と回復を与える神の守りと祝福がともにありますように。お祈りいたします。

21/02/2023

2023.2.21(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記下24章10節
ダビデは主に言った。「私は重い罪を犯してしまいました。主よ、どうか僕の過ちを見過ごしてください。」
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一1章9節
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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ダビデ王は、神に自らの罪を告白し、その罪の赦しを願いました。本日選ばれたサムエル記下24章にある一節です。ダビデは一体どのような罪を犯したのでしょうか。
 
サムエル記下24章を見ますと、ダビデは全イスラエルの人口調査を命令します。人口調査が終わったときに、「民を数えたことは、ダビデの良心の呵責となった」と聖書には記されています。なぜ、民を数える、つまり人口調査をすることが、ダビデにとって良心の呵責を生む結果となったのでしょうか。
 
この出来事の並行記述箇所である歴代誌上21章には、「サタンがイスラエルに対して立ちはだかり、イスラエルの人口を調べるようにダビデを唆した。」(1節)と記されています。どうやらダビデの命令による人口調査は、サタンがダビデをそそのかした結果であったことがわかります。では、サタンはダビデのどのような思いをそそのかしたのでしょうか。
 
ダビデによる人口調査は、どれほどの武力があるかというものだったようです。その証拠に、「イスラエルには剣を扱うことができる勇敢な者が八十万人、ユダには五十万人いた。」(9節)と記されています。それ以外の人口については言及されていません。ここから私たちは何を見ることができるのでしょうか。
 
サタンの働きとは、その名の意味が示す通り「神から人間を引き離す」ことです。それがサタンの持つ唯一の働きなのです。つまり、サタンがダビデをそそのかすというのは、ダビデの思いを神から引き離すことに目的がありました。こうして、サタンにそそのかされたダビデは、武力人口調査を命令します。
 
つまり、ダビデは武力というものがどこから来ているのかということの認識にゆがみが生じていました。ダビデはこれまで、武力の大小にかかわらず、神がダビデの軍勢を守り導き、祝福を与え続けてきたことを経験していました。だから、特段武力調査などしなくても、神としっかりとつながっていれば、神が守ってくださる。そう確信できたはずなのです。
 
しかし、ダビデがあえて調査をおこなったその動機は、いつ敵に襲われるかわからない不安から来るものだったのかもしれませんし、自分が王として有する武力はこれだけのものだと安心したいという願望からだったのかもしれません。つまり、そこには神が関わってくださると言う感覚が失われてしまっていたのです。まさに「神から引き離す」ことを狙うサタンの思うツボだったのです。
 
だから、ダビデは良心の呵責を覚えました。そして、神に罪を告白します。そもそも、聖書の物語る罪とは、神との関係がゆがんでいる状態のことを指します。よく言われる「的外れ」という意味は、当てようとする方向に当たらない状態のことを指しますから、それはまさに、関係のゆがみと言っても良いのだと私は思います。
 
神はダビデの告白を受け入れました。戒めはありましたが、ダビデはその戒めをも受け入れました。そして、神との関係がきちんと修復されて、彼は再び神と共に歩む者とされました。ダビデが神に愛された理由は、自分と神との関係性というものに、敏感に反応することができたというところにあると、私は思います。神との関係性において、私たちがいかに純真に、正直に向き合うことができるか。そこに人生を豊かに生きる鍵があるのだと、私は受け止めたいと思いました。
 
本日の新約聖書の言葉は、まさにそのまま受け入れることのできるものです。罪の告白のあるところには、必ず神の赦しとともに、愛と慈しみが私たちに注がれるのだと。そんなことを思う一日でありたいと願わされました。どうか、皆さんにとっての一日も、神との豊かな関係がもたらす祝福のときでありますように。お祈りいたします。

20/02/2023

2023.2.20 (月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨブ記14章1~2節
女から生まれた人間は
その人生も短く、苦悩に満ちている。
咲いては枯れる花のように
逃げ去る影のように、とどまることがない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙13章14節
私たちには、この地上に永続する都はありません。むしろ、来るべき都を求めているのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日の旧約聖書の言葉であるヨブ記14章。神に反抗する者のいたずらによって、神とともに歩んでいたヨブは、その人生が振り回されてしまいました。財産を失い、家族を失い、本人も原因不明の病に冒され、もはや死を待つのみという状況のなかで、ヨブは語ります。それが本日選ばれた聖書の言葉なのです。
 
なんとも生きる希望が失われた言葉なのだろうか。ヨブのような「義人」と呼ばれるような、神と共に歩む信仰者ですら、そのような言葉を口にするとは。しかし、これが現実であるし、そういう心のうちというものを否定してはならないのだと、私は改めて感じさせられました。主よ、どうしてですかと、私たちは神に訴えることができるのです。弱音を吐くこともできれば、愚痴や文句すら、神に聴いてもらうことができるのだと、私はヨブのそういう姿から「素直さ」というものを見たいのです。
 
ヨブの素直さ、正直さは、人生のはかなさというものを物語ります。それは、この世の中で生きる私たちが感じる悲嘆というものに相通じます。そのなかで、神は私をどのように生かすのだろうか。私たちはやはり、悲嘆のなかにあっても、そのなかで見いだされる神の御業というものを見つめたいのではないでしょうか。そこに私の未来があり、私の希望があるのだと。
 
本日の新約聖書の言葉は、まさにそういうことを私たちに与えるメッセージなのだと思います。来るべき都。それはまさに、イエスが福音(良いたより)として伝えた「神の国」の希望というもです。イエスは「神の国が近づいた」ことを、人々に知らせました。そのメッセージの中心は、現在にいたっても何ひとつ変わっていません。十字架も復活も、昇天も聖霊降臨の出来事も、イエスの生涯におけるさまざまな言動も奇跡も、そしてやがて来る終末もイエスの再臨も、そのすべては「神の国」に集約し、神の国に至るなかで起きていることだと。
 
ですから、「地上に永続する都はない」という言葉は、まさにヨブが感じた、自分の人生のはかなさというものに相通じるものなのではないでしょうか。いつかは、はかなく消え去ってしまうように見えても、神はご自分の世界のなかで、とこしえなるものをもって、私たちを取り扱い、私たちにご自分の御業を示してくださるのだと。その御業である「来るべき都」を、私たちはひとかけらの希望でもいい、求め、望むことができるのだと、私は受け止めました。
 
今週もどのような一週間が、私たちのうちに訪れるのだろうか。いみじくも、今日は私の23回目の受洗記念日でした。23年間、神の国への旅路をこうして続けられたことを感謝して、24年目の歩みに向かっていきたいと思わされました。どんなことがあっても、神の国へのレールを敷いてくださっている神の御業に感謝しつつ。皆さんの神の国へと向かう一日に、神様の平和が豊かにありますように。お祈りいたします。

19/02/2023

2023.2.19 (日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編42編9節
昼に、主は命じて慈しみを私に送り
夜には、主の歌が私と共にある
わが生ける神への祈りが。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書14章23節
(イエスは)群衆を解散させてから、祈るために独り山に登られた。夕方になっても、ただ一人そこにおられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日の旧約聖書と新約聖書を貫くテーマは「祈り」であると、私は受け止めました。神とじっくりと対話するひと時としての祈りというものを、私はいかに大切にしているだろうか。そんな問いを思わされる、そのような聖書の言葉であると感じました。
 
忙しい一日の務めを終えて、暮れ行くなかでひとり静かに祈るイエス。本日の新約聖書の言葉が伝えるメッセージです。実際に、ついさっきまで、イエスは五千人の群衆に対して、奇跡によってパンと魚を与えていたことが聖書に記されています。弟子たちを先に舟に乗せて、ひとりの時を大切にしたイエスの姿を思い浮かべることができます。
 
話題はずれますが、孤独という言葉にはふたつの意味があると言われています。ロンリネスとソリチュードという言葉です。ロンリネスとは「寂しさ」を指す言葉であり、孤独でいることに耐えられないような、独りぼっちを感じるような状況のことを指します。一方でソリチュードとは、孤独でいることでかえって充実感を抱くことができる状況のことを指します。同じ孤独でも、全然違う方向性を生み出していることが分かります。孤独を感じるならば、ロンリネスよりソリチュードであることの方が、結果として私に良い影響を及ぼすということなのでしょう。
 
イエスが大切にした祈りとは、まさにソリチュードなのだと、私は受け止めました。孤独の祈りというものが、決して孤独ではなく究極的かつ絶対的な他者である神が、私とともにいてくださることを確認する大切な機会なのだと。私はイエスの姿から、そのような祈りの大切さを、改めて思わされました。決してロンリネスではない孤独を、今日という一日を終えようとする時に、祈りを通して是非実感したい。そのように願わされました。そうすることで、本日の旧約聖書の言葉にもあるように、「夜には、主の歌が私と共にある。わが生ける神への祈りが」という詩人の思いを私も実感できるようになれば、新しい一週間も健やかに過ごすことができるかなと思わされました。
 
どうか、皆さんの祈りの生活もまた、豊かに祝されるひと時でありますように。お祈りいたします。

18/02/2023

2023.2.18(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編73編25節
天では、あなたのほかに誰が私を助けてくれようか。
地には、あなたのほかに愛するものは何もない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章38~39節
私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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誰も引き離すことのできない神の愛、キリストの愛。
 
本日の旧約・新約聖書から聴くことのできる、共通するメッセージがここにあります。『日々の聖句』(ローズンゲン日本語版)では、本日の旧約聖書である詩編73編25節は、このように日本語に訳されています。
 
あなたさえ私のところにいてくださるのであれば、私は天地の何をも問題としません。
 
神の愛というものは「共にいる」ということによって明らかにされるというのが、旧新約聖書を通して一貫して語られるメッセージです。神の名が示す「私はいる」という意味こそ、神御自身による愛の体現であり、神を信じ、神と共に歩んだ信仰者たちも、「私はあなたと共にいる」という言葉に支えられたからこそ、神と共に歩む人生を生きることができました。何の保証もないのに、信仰者が自分の「強い意志」だけで歩むことなどできなかったのです。もし、強い信仰のことばかりが信仰者の間で語られているとするならば、それは神をそっちのけにしているか、「弱いときにこそ強い」と語ったパウロの意見に同意しているかのどちらかだと、私は思わされるのです。
 
天地にはあらゆる問題があり、私を悩ませます。悩みなき人生など、ありえないのが私たちの現実です。しかし、あなたがいてくださるのであれば、あなたの愛があるのなら、私はそれらの悩みは問題ではないのだ。問題だけれども問題じゃないんだと告白した詩人の思いに、とても励まされる思いがします。どんなに悩んでも、私のことを理解してくれていて、本当に私のことを助けてくださる方がそばにおられるならば、どれだけ安心できることでしょう!私はそれを神の現臨というものに見たいのです。
 
新約聖書においても、救い主イエスをそのように見ていた使徒パウロの言葉に聴くことができます。この世にある何物をも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのだと、パウロは断言します。パウロも自分のこと、周りのことで悩み多い人生でした。パウロは決して強靭な信仰の持ち主ではなく、常に自分の心にある罪や「とげ」の問題に悩み、宣教者として経験するさまざまなトラブルやアクシデントに翻弄されることもありました。にもかかわらず、パウロにそのような告白をなさしめたのは、共にいる神、インマヌエル(神はあなたと共にいる)と名付けられた救い主、イエス・キリストがパウロとともにいてくださったから。自分の弱さを十二分に補ってくださる方が共におられたからこそ、パウロはこのような告白ができたのだろうと、思えてならないのです。
 
そのような神の愛に支えられながら、一週間を振り返りつつ最終日の一日を歩んでまいりたいと思わされました。どうか皆さんにとっての一日もまた、決して引き離されない神の愛がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

17/02/2023

2023.2.17(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編104編24節
主よ、あなたの業はいかに豊かなことか。
あなたは知恵によってすべてを造られた。
地はあなたの造られたもので満ちている。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録4章11節
私たちの主、また神よ
あなたこそ
栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。
あなたは万物を造られ
万物はあなたの御心によって存在し
また造られたからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
神の知恵によって生きることの幸い。
 
本日の旧約聖書と新約聖書の言葉から、私の心の中で浮かび上がったキーワードです。本日のふたつの聖書が物語るところは、いずれも「神によってすべては創造された」というものでした。神による創造という考え方は、もはや神話の世界であり、非科学的とみなされることが多いわけですが、それでも「神によって造られた」ということの意味を問うことは、科学や宗教の枠を超えて、私たち人間がこの世界で生きていく以上、大変重要であり必要なことなのではないか。私はそのように思わされます。
 
そのことが「知恵」という言葉と大いに関係があると、私は受け止めました。つまり、私たちがこの世界で生きていくために必要な、そして実に多種多様な「知恵」が散在しているなかにあって、私たちはどのような知恵を選び取って生きることができるかということが、私の生活のみならず、世界のすべてに影響を及ぼすからです。
 
そのうえで、聖書は「神の知恵」について言及します。神の知恵は天地万物に働いたというのが、本日の聖書が指し示すメッセージであり、私たちはこの自然界におけるサイクルやバランス、そのシステムのすべてを通して神の知恵を見ることができるというのです。私たちが手つかずの世界を見ては、大きな感動を覚える。そして神を信じようが信じまいが、誰でも畏敬の念を抱くのは、まさに神の知恵に他ならない。そのように思えてなりません。
 
しかし、人間は自分たちの生活のために、そのような神の知恵を壊すことがあります。それが神の知恵を超える私たちの英知であると自画自賛します。しかし、その知恵はときに破壊的であり、他者をも含む周囲に犠牲を与える知恵なのだと。だからこそ、犠牲を与えない知恵とはどういうものなのかを、私たちはじっくり考えたい。そう思ったのです。
 
神の究極の知恵とは、ご自分の独り子の命を十字架につけて犠牲にした知恵です。この究極の知恵は、見た目からすればこれほど破壊的なものはありません。しかし、その壊れから、神は命を生み出しました。すべての人を生かす神の知恵とはそういうものなのだと。そして、聖書は語ります。その知恵によって私たちは生きているのだと。
 
今日一日の歩みが、神の知恵にあって豊かな者でありますように。お祈りいたします。

16/02/2023

2023.2.16(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨナ記2章3節
苦難の中から私が主に呼びかけると
主は答えてくださった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書12章7節
イエスの言葉:
それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れることはない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
髪の毛一本まで残らず数えてくださる神。
 
イエスによる、大変有名な言葉です。おそらく皆さんのなかにも、幾度となくこの言葉を耳にされた方がおられることと思います。どんなに些細なことでも、それをしっかりと覚えてくださっている神。それは決して、事細かなところまで、重箱の隅を突っつくような、もしくは監視の目を光らせている神という意味ではありません。どんなにちっぽけな存在とみなされていても、神は私たちを見離したり、見捨てたりはしないのだということを、イエスは伝えたかったのでした。
 
本日の聖書の言葉に触れると、こどもさんびかの『どんなにちいさいことりでも』という歌を思い出します。
 
「どんなにちいさい ことりでも かみさまは そだててくださる」って
イェスさまの おことば。
「なまえもしらない 野のはなも かみさまは さかせてくださる」って
イェスさまの おことば。
「よいこになれない わたしでも、 かみさまは あいしてくださる」って
イェスさまの おことば
 
この歌詞は、マタイによる福音書6章に基づくものですが、言わんとしていることは、本日の新約聖書であるルカによる福音書12章に相通じるものです。いずれも「山上の説教」「湖畔の説教」として知られている、イエスによる言葉集の一節です。(ちなみに、この賛美歌の作詞者である菅千代さんは、仙台で長年幼児教育にあたり、また多くの教育者を養成された方です。)
 
ここに、イエスの人間観というものを見ることができます。私たちの目で見る、ものの大小、強さ弱さ、多さ少なさ、高さ低さというものに、イエスは決して振り回されることなく、惑わされることもなく、たとえ一本抜けても気が付かないようなそんな存在にまで、ご自分の関心と愛を注いてくださる。それだけ私たち人間の存在は価値あるものなのだというものです。最近あまり聞かなくなりましたが、しかし今もその風潮は根強く残っている「勝ち組・負け組」などというものとは一切関係のない、イエスの人間観がこの言葉に込められているのです。
 
本日の旧約聖書は、とても面白いなと私は感じました。あのヨナ記の一節だったからです。ヨナは神から預言の務めを与えられたものの、その重さに逃亡を図った最中に、船上で大嵐に遭います。ヨナは悟りました。自分をいけにえにささげれば嵐は静まると。こうして船に乗っていた人々に頼んで、自分を海に放り出しました。嵐は静まった代わりに、ヨナは海のなかに潜ってしまいます。しかし、神はヨナを魚によって吞み込ませ、ヨナは三日三晩魚のなかにとどまった。なんともユニークななかに、神がご自分の大切な人間たちを守り抜かれる。そんな神の愛を知る物語です。
 
逃げて、なおも神の愛が追いかけてくる。その愛に圧倒されて、その愛の海に潜りゆく時に、神は必ず、私たちの苦しみを受け止めてくださるのだと、私は本日の聖書の言葉を受け止めることができました。そういう神に守られて、今日という一日を歩むことのできる幸いを味わいたいと思わされました。
 
どうか、皆さんにとっても、そのような一日でありますように。心よりお祈りいたします。

15/02/2023

2023.2.15(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書29章14節
それゆえ、私は再びこの民を
驚くべき業によって驚かす。
この民の知恵ある者の知恵は滅び
悟りある者の悟りは隠される。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書15章31節
群衆は、口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
本日の旧約聖書の言葉と新約聖書の言葉をつなぐのは「驚き」というキーワードにあると、私は受け止めました。何に驚くのでしょうか。神の御業によって人々は驚くのであると、本日のいずれの聖書にも記されています。
 
なぜ私たち人間は驚くのでしょうか。それは、私たち人間ではとうてい想像もつかないようなことが起こるからです。私たちの知恵や力ではどうしようもできないことが、非常に不思議な方法で進んでいく。私自身もそのような場面に何度も遭遇したことがありましたし、そのたびごとに、神は生きて働いておられることを実感する。そんなことを実感してまいりました。
 
しかし、こういうことは一般的に、世の中ではなかなか受け入れてもらえないのが現実かもしれません。「宗教じみている」「現実離れしている」「たまたま偶然だ」と言われることもしばしばあるのではないでしょうか。無理もありません。そのような「神の御業」というものを利用して、人間の所業をさも神の導きのようにして他者をだますカルトのような存在が世の中を騒がせば、神の御業というものはどうしても隠されてしまうからです。
 
しかし、本日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書の一節には、そのことが非常に端的に物語られていることに、大きな興味深さを覚えます。預言者は語ります。「この民の知恵ある者の知恵は滅び 悟りある者の悟りは隠される」と。知恵ある者の知恵が滅ぶとは、私たち人間の知恵には限界があると、読み替えることのできる言葉と受け止めました。神の知恵による不思議な御業を前にしては、私たちの知恵など取るに足らないのだと。そういう意味で「滅」という言葉が用いらているのだと。
 
逆に、神の知恵や導きを信じて生きようとするということは、なかなか世の中に受け入れられない場合もあるというのは、先に述べた通りです。何やら怪しいものとしてしか見られることがないのです。しかし、私たちは「悟る」ことができるのです。たとえ人が理解してくれなかったとしても、神は必ずご自分の知恵と力をもって、その御業というものを私に示してくださるのだということをです。そして、その悟りというものは、その意味が明らかにされ、自他ともに驚くその時まで、大切にされ続けていく。その姿こそ「隠される」ということの意味なのではないか。私はそのように思わされました。
 
なかなか世に受け入れられない、私たち人間の限界を超える神の御業が明らかにされることによって、人々は大きな驚きを得ました。イエスの時代、イエスによって病気が癒され、あらゆる悩み苦しみから解放されていった人々は、その驚きの結果、神を崇めたというのが、本日の新約聖書の物語るところです。つまり、神を崇めるに至る驚きというものは、私たちひとりひとりの心や思いというものを、ある種の縛りから解放する力を持っているのだということを、私たちにささやかに、しかし確実に知らせていることを、本日与えられた聖書から受け入れたいと思わされた次第です。
 
悩みあるところにこそ、神の御業が豊かに現れ、私たちはそのことで驚き、喜ぶことができるのだと。そんなことを希望にして、今日という一日を歩んでまいりたいと願います。皆さんの一日に、そのような神の御業が、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。

14/02/2023

2023.2.14(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編73編1節
神はなんと恵み深いことか
イスラエルに、心の清い者たちに。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章8節
心の清い人々は、幸いである
その人たちは神を見る。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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心の清い者
この言葉が、本日の旧約聖書と新約聖書の言葉を貫くテーマです。
イエスは言いました。心の清い者は幸いであると。そして、詩人は歌いました。心の清い者にとって、神はなんと恵み深い存在なのだろうかと。
 
本日のドイツ語原文を見ていましたら、旧約聖書詩編73編1節の「神は何と恵み深いことか」という言葉に、Trostというドイツ語が用いられていました。こういう風に訳することができます。「神は慰めである」。なんともシンプルで、かつ分かりやすい訳であると私は感じました。つまり、なぜ神に対して私たちは恵み深いと感じることができるのか、ということを考えたときに、そこには大きな慰めというものが神から与えられるからと、私たちは受け入れることができるのです。
 
正直者は馬鹿を見るという言葉があります。世の中、正直であることが道徳的に教えられたとしても、それでも正直でいることによって、この世の中を生き抜くことの困難さというものを、こういうことわざは語っているのだと思います。実際に正直であることによって、かえってひどい目に遭うことなど、私たちの世界ではいくらでもあると思うのです。
 
本日の聖書の言葉に登場する「心の清い者」とは、まさに正直者という言葉に言い換えることのできるものだと私は捉えました。心のうちにある良いものも悪いものも、決して包み隠したり蓋をすることなく、自分自身の真実の姿として受け入れようという態度のことなのではないかと、私は思うのです。昨日のローズンゲン黙想でも、神の御前に自らを正直にさらけ出すことの幸いについて黙想したわけですが、それに続く本日の黙想なのかなと思ったりしています。
 
たとえ世の中で、正直さゆえに馬鹿を見るようなことがあっても、それでも幸いなのだというイエスの言葉に、私は心を傾けたいと思いました。人は私に馬鹿を与え手も、神は私に慰めを与え、幸いをあふれんばかりに注いでくださるのだと。私はそのことを見るからこそ、たとえ馬鹿を見ても、なおも生きる幸いというものを見い出すことができるのだと。そんなことを思わせる、本日の聖書の言葉に感謝して一日を歩みたいと願わされました。
 
皆さんの一日に、そのような神の慰めと幸いが豊かにありますように。お祈りいたします。

13/02/2023

2023.2.13(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編51編13節
あなたの前から私を退けず
聖なる霊を私から取り去らないでください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章13節
徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人の私を憐れんでください。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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神の御前にすべてをさらけ出すことによって芽生える幸い。
 
本日与えられた聖書の言葉を通して、私が感じたことでした。神の御前に「正直」であること。それが、積極的なものであったとしても、とうてい周囲には見せることすらはばかれてしまうようなものであっても、すべてをご存知である神の御前にさらけ出すことで、どれだけ楽になるだろうか。そんなことを思いながら、今日の聖書の言葉に触れたいと思いました。
 
本日の新約聖書の言葉である、ルカによる福音書18章にある物語は、救い主イエスによって語られたたとえの一節です。イエスは冒頭にこう語ります。
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。(9節)
 
自分は正しい人間だとうぬぼれる。私たちは誰でも「自分が正しい」と思ったことに従って生きている存在です。正しいと思って、正しいと信じて歩む。しかし、その正しさが、本当に正しいかどうかというのは、究極的には、その結果を見るまでは誰も分からないのだと私は思います。正しいと思って判断をし、決断をくだしたことがあったとしても、ああ、あれは正しい判断ではなかったと、あとになって分かることなど、いくらでもあるのだと思います。だからこそ、イエスはこのようなたとえを話されたのだと思うのです。
 
自分が正しいという感情は、その心がエスカレートすることによって「他人を見下す」という結果を生みます。私は正しくてあの人は間違っている。事実そういうこともあるかもしれませんが、その時に必要なことがあるとすれば、そのように思っている自分の方が、実は間違っているかもしれないという謙遜な感情なのだと私は思うのです。
 
しかし、私とあなた(他者)との間では、自分が間違っているかもしれないなどという感情はそう簡単に起きないでしょう。だからこそ、私たちには「絶対的に正しい御方」の存在を必要とするのではないでしょうか。絶対的に正しい御方、それは私たちの主なる神であり、具体的に私たちに生き方というものを示されたイエスを、私たちは必要とするのだと、私は受け止めたいのです。
 
神についてもイエスについても、私たちに示されたのはその「正直さ」であったと、私はとらえています。父なる神にいたっては、その粗削りな言動を私たちに対して容赦なく見せつけられます。時に恐ろしさすら感じる神の姿をです。しかし、神はそういうご自分の姿を正当化し続けるのではなく、自分が無しえなかった部分をすべて御子イエスによって完成させられるように、その歴史を導かれました。そこに、神御自身、自分自身を絶対化せず、その正直さと誠実さをもって、イエスを私たちに差し出してくださったのです。そして、私たちの救いのために働かれた。とてもウィットに富んだ行動なのだと受け止めたいのです。
 
そのイエスが、私たちに子のたとえ話を語られたことの意味というものを、じっくりと噛みしめながら、今日という一日を歩んでまいりたいと思いました。自分自身を見つめて、神の御前にすべてをさらけ出すことができるような正直さがあるときに、神は本日の聖書の言葉にもあるように、必ず憐れんでくださり、聖なるご自分の霊をもって私たちの一日を支えてくださることを信じつつ。皆さんの一日に、神様のそのような守りと支えが豊かにありますように。お祈りいたします。

12/02/2023

2023.2.12(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨシュア記22章5節
あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道を歩み、心を尽くしなさい。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書12章26節
私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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昨日は、信州・松本教会を会場にして行われた「日本基督教団東海教区南信分区・2.11思想・信教の自由を守る集い」において講演をしてまいりました。カルトとはいったい何かについて、対面とオンラインのハイブリット方式によって集まられた来場者の方々とともに、理解を深めることができました。
 
夕方、松本から東京へ移動し、本日は日本基督教団亀戸教会にて、主日礼拝の説教と、修養会の講演のつとめが待っております。新会堂献堂30周年記念の礼拝と修養会という記念すべき出来事であり、そのようななかで主なる神様に、そして教会にお仕えしますので、とても身の引き締まる思いでいます。
 
今朝目覚めて、しばらく祈りのときをもっていました。心を静めて祈っているうちに、ふと気づかされたことがあったのです。実は、ここ数日間こんなに心を静めて祈ったことがあっただろうか。恥ずかしながら、慌ただしさのなかでじっくりと祈るための時間を、積極的にとっていなかった自分自身があったことに気づかされました。
 
そういう自分自身の姿に気づかされて、なんとも恥ずかしい気持ちになりました。しかし、その恥ずかしさは、神への感謝と変えさせられました。こういうことに気づけたからこそ、じっくりと祈ることの大切さと幸いというものを、再び取り戻すことができたからです。どんなにカルトに関する知識を披露し、その理解を深める機会が与えられたとしても、その根本にあるのは、主なる神がこのような務めを与えてくださっているのだという心を忘れないようにしよう。そんな思いで、今日の一日を過ごしてまいりたいと願わされました。
 
そして開いたローズンゲン。本日示された聖書の言葉は、まさに祈りに対する神のお答えだったのだと確信しました。心をこめて、主なる神によって与えられた道を歩むということは、イエスに従い、イエスに仕えることであって、そんなイエスが、ご自分の言葉と聖霊の助けによって、私の歩みをともにいてくださる。そんな風に、本日の聖書の言葉を受け止めることができました。どんな歩みにも、神がご自分の言葉と聖霊の助けを与えてくださるからこそ、私は今日という一日、礼拝のつとめ、また修養会のつとめに当たらせてもらっているのだ。神の助けを心から求めて、与えられた務めに仕えてまいりたい。そのように思わされました。
 
本日の聖書の言葉は、説明や解説を必要としないくらい、自分自身の心にスッと入ってきた、というより自分の足りない部分を補うかのように、与えられた言葉であると感じさせられました。つまり、私自身のことしか書いていないわけです。それに皆さんを突き合わせてしまう申し訳なさがありますが、御言葉を介して皆さんと主にある交わりをもてることを感謝しつつ、本日のローズンゲン黙想としたします。どうか、皆さんのもたれる主の日の礼拝に、安息日のひとときに、道を与えてくださる神の守りと平安がともにありますように。お祈りいたします。s

11/02/2023

2023.2.11(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編142編8節
私の魂を牢獄から引き出してください。
あなたの名に感謝するために。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書8章36節
だから、もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日2月11日は「建国記念の日」として定められている休日ですが、もともとは明治時代の初めに制定された「紀元節」に由来しています。初代天皇とされる神武天皇が、天皇に即位した日にちなんだのだそうです。国はこの日を「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と、その趣旨を説明しています。
 
神武天皇は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の5代孫と伝承され続けてきました。つまり、神武天皇が即位し、日本という国の建国にたずさたったという歴史は、日本が古来から自分たちの独自宗教として守り続けてきた「神道」と大きな関係があることをうたっています。「日本は天皇を中心とする神の国」という発言をした首相が、かつて報道に取り上げられて、問題にされたことがあるのを皆さんもご記憶にあるのではないかと思います。
 
つまり、こういう日に、宗教とは何か。信じるとはどういうことなのか。日本国憲法で保障されている「信教の自由」とはいったいなんなのだろうかということを、じっくりと考える機会にすることは、とても大切なのだろうと私はあらためて感じさせられています。ちなみに、キリスト教を中心にこの日を「信教の自由を守る日」と言うこともあります。私は本日、長野県松本市で行われる「2.11集会」の講師として、カルト宗教問題について、信教の自由に対する理解を深める機会をいただきました。
 
さて、そういう時に読まれる本日の聖書の言葉は、まさにタイムリーとしか言いようのないものであることを思わされます。あなたがたは本当に自由になる。そう告げたのは、救い主イエスでした。私たちにとって自由とはなんなのだろうかということを考えるときに、聖書は一貫して、神との関係性について明らかにしています。「もし子があなたがたを自由にすれば」という条件の言葉は、イエス・キリストとの関係において、あなたがたは本当に自由になるのだということが約束されているわけで、ややもすれば束縛しかねない関係性が多数あるなかで、イエスとの関係性は、本当に人間を解放に向かわせることを、イエスご自身が約束されたのでした。
 
では、関係性を束縛に向かわせるものとは一体何か。それは、人間が人間を支配しようとする時です。本日の旧約聖書の言葉は、束縛され、捕らわれの中にある私の魂を救ってくださいと神に願い出る詩人の祈りとなっています。詩人は人間関係のしがらみに悩みや苦しみを持っていたのでしょう。詩編には概してそのような表現がいくたびも登場します。私たちもまた、人間関係で苦しむことが多々あることをよく知っています。神にその苦しみを願い出るときに、神は私たちをまやかしのない自由を与え、解放に向かわせてくださる。これが、本日の聖書が与えるメッセージであると受け止めました。
 
カルト宗教のように、人を苦しみの底に突き落とすような存在を思う時に、宗教というものが人を縛り付けるために、しばしば用いられてきた手段であることを思います。しかし、神はその逆のことを、私たち一人ひとりに対して言葉として与えられているならば、私自身、宗教が与える役割というものを、たびたび捉えなおすことの大切さを思わされた次第です。こういう日だからこそ、いみじくも自由について考えることのできる一日を、私たちは神との関係を見つめつつ、過ごしてまいりたいと願います。皆さんの一日に、自由を与えてくださる神の守りと祝福が、ともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

10/02/2023

2023.2.10(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書52章7節
なんと美しいことか
山々の上で良い知らせを伝える者の足は。
平和を告げ、幸いな良い知らせを伝え
救いを告げ
シオンに「あなたの神は王となった」
と言う者の足は。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙6章15節
平和の福音を告げる備えを履物としなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日の旧約聖書と新約聖書をつなぐキーワードは「足」です。

平和の良い知らせ(新約聖書では「福音」)を伝える者の足は何と美しいのだろうと、神から言葉を預かった預言者は語りました。そして、イエスが救い主として私たちに与えられてからは、その足に履かせる履物の大切さが、使徒パウロによって告げられています。
 
私事になりますが、私は靴底がすぐにすり減ってしまいます。体重が重いのと、足のバランスが悪いからです。特に外側がすり減りやすいのですが、靴底をそのまま放っておくと、しだいに股関節が痛くなってきます。ですから、ちゃんとした靴底の靴を履くのが、いかに足にとって大切なのかということを、いつも思わされています。
 
つまり、健康な体でいるためには、履物から整えなければならないと言う私の経験を通して、いくら神がイエスを通して救いを私たちに与えてくださった、その福音の言葉を身に着けていても、それを伝えるための足や履物が整えられていないと、福音を福音として伝えることができないのだということを、あらためて実感させられます。
 
もちろん、ここでいう足や履物は、あくまで「比喩」としてとらえたいと思います。足で稼げという言葉があるように、実際に足を使って伝道に励むことを奨励するような聖書の言葉のようにも思えますし、実際にそうなのかもしれませんが、こういう言葉を利用して、信者を働きアリのように酷使させるようなカルト宗教の姿勢とは、一線を画す必要があると私は考えています。あくまで足や履物が、私たちの霊的健康に欠かすことのできないものなのかということを、わかりやすく解説されたものなのだと、私は受け止めたいのです。
 
最近、寒くなって少しさぼり気味のなっているのですが、ここのところ夜のウォーキングを楽しんでいます。歩くことで体中に酸素を送り込んで、脳もリフレッシュされたような気持ちにさせられます。歩き始めはだるさを覚える足も、歩いているうちに楽になっていくのを感じることもあります。そして翌日の目覚めも良く、足にも痛みが走ることがありません。ここのところ少しさぼり気味と申し上げました。そうなりますと、やはり足が重だるく感じるのです。ですから、少しでも歩くことを大切にしなければならないんだと、50歳を目前に控えた者として痛感させられるのです。
 
救いの良い知らせと平和を伝えることも、同様であると感じました。毎日少しでも良い。平和を心に置き、そのために与えられた言葉をつむぎつつ、地を踏みしめながら一日の歩みをなすことの幸いについて思いを巡らせたいし、巡らせた結果、そのことを心の柱にして一日を生きたい。そのように思ったのです。
 
そんなことを想いながら、今日の一日、そして週末に向かう者でありたいと願わされます。私事、明日土曜日は信州松本で、日曜日は東京でご奉仕の機会をいただいています。それこそ与えられた足を平和のために用いてまいりたいと思います。
 
皆さんの新しい一日が、平和の道を踏みしめる幸いに包まれますように。お祈りいたします。

09/02/2023

2023.2.9(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼファニヤ書1章7節
主なる神の前に静まれ。
主の日は近づいているからだ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書24章44節
だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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ご存知の方も多いかと思いますが、私は10代の後半から20代前半にかけての数年間を「エホバの証人」信者として過ごした経験があります。安倍元首相銃撃事件以降、カルト宗教がクローズアップされるようになったのにともなって、エホバの証人のことも取り上げられるようになりましたので、私も改めてエホバの証人時代のことを振り返る機会が多くなりました。
 
エホバの証人の特徴はいろいろあるのですが、そのひとつに「終末待望」というものがあります。近いうちに「世の終わり」が来ることを、エホバの証人はその誕生(19世紀後半)以降、変わることなく主張しています。まさに、本日のローズンゲンに示された類の聖書の言葉を、エホバの証人は自分たちの信仰を根拠づけるものとして強調しています。
 
もちろん、キリスト教が大切にしてきた信仰には、定められた日にこの世の終末が訪れるとともに、キリストが再臨して、神の国が完成するというものがあります。神の国が完成することによって、永遠が確実なものとなる。だから、世の終末と言っても、何もかもなくなるわけではなく、新しい、永遠たる神の世界が訪れることを意味しているわけです。
 
エホバの証人時代、この終末を乗り越えて神が与えてくださる永遠を得るべく、エホバの証人組織の示すことを忠実に守り続けることが要求されました。さもなくば、突然訪れるかもしれない終末に応ずることができない。だからこそこの終わりの時に熱心に伝道をし、ひとりでも多くの人をエホバの証人にしなければならない。そんな使命が常に切迫されているような中で、毎日を過ごしていたことを思いだすのです。
 
今思えば、そのようなアプローチがいかに「カルト」的なものであったかということを、容易に実感することができるわけなのですが、その当時は生き残るために必死だったという言い方が正確かもしれません。結局私は組織のなかで忠実な信者になれず、落ちこぼれていくわけですが、それでも信者時代の切迫感のようなものに、その後もしばらく悩まされることになりました。
 
そんな遍歴があるものですから、本日のような聖書の言葉に出会いますと、さて、この言葉をどのように私は受け止めたらよいのだろうか、そのたびに思わされるのです。そんななかで、本日の旧約聖書の言葉はまさに、私にとっては慰めとなるものでした。
 
主なる神の前に「静まれ」と、聖書の言葉は伝えます。
主の日が近いからこそ、がむしゃらになるのではなく、切迫感に囲まれるがゆえにあたふたするのでもなく、ただただ冷静に、ただ静まって神の前に座する。そんなイメージが私を心を突き抜けました。
 
切迫感のあるときだからこそ、ただ静まることの大切さ。じっと神の声に耳を傾けて、本当に大切なことを識別し、見極める冷静さを神からいただくことの大切さと幸い。そんなことを思ったのです。何かにあおられるように自分自身を動かすのではなく、黙想をすることで神を見つめる思いを、私は是非養いたいと、本日の御言葉から願わされました。
 
その結果、適切に備え、安全な場所に逃げるもよし、適切な判断に基づいた行動を取ることができるのだと感じます。その思いが神から与えられた時に得る幸いというものを、今日も大切にすることができますように。皆さんの一日にも、そして私の一日にも。

08/02/2023

2023.2.8(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編33編21節
主によって私たちの心は喜ぶ。
まことに、私たちは聖なる御名を頼みとする。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙5章16~17節
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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いつも喜んでいなさいという聖書の言葉が、逆にプレッシャーに感じる。そんな声を聴いたことがあります。このような聖書の言葉を持ち出しては、思い悩み、気持ちが沈んでいる方々に対して「いつも喜んでいなさいと聖書に書いてあるでしょ!」と言われても、喜べないことだったあるのだと。それを神はどのようになられているのかと思うと、喜ばなければならないのかとプレッシャーになるという話でした。
 
確かに、この聖書の言葉を神の言葉として受け止めるときに、ある種の圧力を感じることがあるならば、神は自分の気持ちというものを押し殺しても喜ばなければならないことを期待しておられるのか、そんなことを考えさせられます。もし、聖書の言葉を盾にして、悲しみのなかにある方々にプレッシャーを与えるような用い方をするのであれば、それはあまりにも暴力的だろう。私はそう思えてならないのです。
 
だからこそ、喜びという聖書にしばしば登場するこの言葉について、じっくりと黙想したいと思いました。喜びを与えられる神は、どのようにその喜びを私たちに分け与えられるのだろうかということをです。
 
喜ぶことは、から元気を示してでも喜んでいる様子をアピールすることではないと私は考えています。熱烈な祈り、心が躍動するような賛美、活動的な様子を見ることで、そこには何となく喜びのようなものが存在しているように、私たちには見えるのです。そう見てしまうのです。もちろん、それが喜びから生じていることもあるのを、私たちは知っています。
 
しかし、そういう空気のなかに、喜べない思いに満たされた人たちにとっては、居場所がありません。取り残されたような気持ちにさせられるばかりか、この自分の姿を神は喜んでおられないのではないか。そのような罪悪感のようなものを抱えたまま、人々のあいだに居続けなければならない。そこにも神の喜びがあるとすれば、それは一体何なのだろうか。そんなことを考えさせられるのです。
 
私たちは、神が私たちとともにおられる、私たちの神としてともにおられる。ご自分のお名前に示された意味(「わたしはいる」)を私たちの頼みの綱とすることができるのだ。本日の詩編の言葉に示された、詩人の思いです。私たちがたとえ喜べなくても、いや、だからこそ神を頼みとすることができるのです。神を頼るということが、即喜びを実感できるような私たちの姿にはならないかもしれません。しかし、頼みとされた神は必ず、私たちに喜びを与えてくださる。「主によって」という詩人のひと言に、神への深い信頼をうかがうことができるのだと、私は受け止めたいのです。
 
ですから、今は喜べなくても良いのです。周りがどんなに喜ぶことを迫っても、そのような空気が取り囲んでも、まったく気にする必要がないのだと私は思います。神が、その人にとってベストタイミングというものを必ず設けてくださり、心の底から、じんわりと感じることができるような喜びを与えてくださる。そういった喜びは、私たちを生かす源となるのだということを希望して、今日の一日を歩みたいと願わされました。
 
もし喜ぶことが難しい一日を迎えられたならば、それでも神は私たちとともにおられ、私たちのための好機というものを考えておられるのだ。そのことを一日の希望とすることができますように。お祈りいたします。

07/02/2023

2023.2.7(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書55章10~11節
雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく
必ず地を潤し、ものを生えさせ、芽を出させ
種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。
そのように、私の口から出る私の言葉も
空しく私のもとに戻ることはない。
必ず、私の望むことをなし
私が託したことを成し遂げる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章7~8節
あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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言葉の与える力。
本日の聖書の言葉を通して、こんなキーワードが私の思いに刺さりました。確かに言葉は人間に「生きる力」を与えるものなのだ。普段から私はそのことを、聖書の言葉に求めているわけですが、本当に聖書の言葉に、人を生かす力があるのだろうか。それは「用い方次第」なのだと、最近とみに感じさせられています。
 
少々話題がずれますが、順天堂大学名誉教授の樋野興夫さんが長年提唱してきた「がん哲学外来」というものを知り、それに関わる機会が前任地の教会で牧師をしていたときに与えられました。がんキャリアであった方が教会の門をくぐり、洗礼を受けられ、がん哲学外来が目指すところの考えに共鳴して、「がん哲学外来メディカルカフェ」を立ち上げて、多くの方々が交流できる場をつくられました。その方は一昨年天へ召されましたが、今でもカフェは定期的に行われているとのことです。
 
そのがん哲学ですが、「がんと生きる言葉の処方箋」ということを大切にしています。がんキャリアにとって大切なのは、外科的手術もそうですし、投薬や放射能治療も確かにそうなのですが、「言葉の与える力」というものをとても大切にします。言葉に聴き、その言葉を共有して、互いに励みになるものを得つつ、がんと共に生きるということを大切にしているのです。ですから、カフェに参加している方々は当事者や周囲の人たちも含め、実際は大変なものを抱えながらも、どこかで平安な気持ちにさせられている。そんな姿を間近で接することができたのです。
 
話は戻りますが、聖書という一冊の書物が、人間に生きる力を与えると受け止めている者が、本当にその言葉を人を生かすために用いているだろうか。そんな「聖書の用い方」について、あらためて考えさせられます。「聖書は神の言葉である」という御旗を掲げながら、人を苦しめるための材料として、私たちは用いていないだろうか。神が忌み嫌われることだからと言いつつも、私が忌み嫌っていることに聖書のよろいかぶとをまとって、人を縛り付けていないだろうか。これらは、神の言葉を託された私たちの「解釈と運用」にかかっていると思えてならないのです。
 
本日の聖書の言葉は、神が注がれた言葉がむなしく神のもとに帰ることはない、というものです。神が言葉を与えられるのは、人を生かすために他なりません。それ以外の何物でもないのです。しかし、その言葉が人を苦しめるのです。だから、与えられた言葉を通して、神はこの言葉を通して、私たちをどのように生かす道へと導かれるのだろうかと、じっくりと黙想することは、決して欠かすことのできない営みなのだと、私は感じるのです。
 
そのことを具体的に示されたのが、救い主イエスでした。イエスの言葉につながる。イエスの言葉によって生きる。律法の完成者と自らを表現したイエスが、律法の本質を大切にして私たちに神とつながれていることの幸いを、私たちにご自分の言葉を通して伝えられました。イエスの言葉が私たちの心に、思いにとどまり続けることの幸いです。そのために、イエスは、どこにいてもご自分の代わりに私たちを守る者としての存在、聖霊の力をお与えくださいました。
 
私たちの人生に実を結ばせるイエスの言葉に、私たちは今日もいただくことの幸いを味わっていきたい。そのように願わされた今日の聖書の言葉に感謝して歩みたいと思います。皆さんの一日にも、神様が与えてくださる言葉の幸いがともにありますように。お祈りいたします。

06/02/2023

2023.2.6(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書19章7~10節
心は何にも増して偽り、治ることもない。
誰がこれを知りえようか。
主である私が心を探り
思いを調べる。
おのおのが歩んだ道
その業が結んだ実に応じて報いるためである。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙6章9節
たゆまず善を行いましょう。倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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人の目には見えなくても、すべてをご存知である神が、私たちの言動を良かれ悪しかれ、報いてくださるのだ。
 
そんなメッセージを、本日の聖書の言葉を通して私は受け取ることができました。日本では「因果応報(いんがおうほう)」という仏教が伝える考えにあたるのかなとも思ったりしますが、本日の聖書の言葉と因果応報のあいだにあえて違いを挙げるとすれば、それを個々人がすべて責任をとらなければいけないことなのか、それとも神との関係性において、自分自身のあり方というものを整えることができるのか、という風にも言えるのかなと思うのです。
 
その昔、神に背を向けて生きていたユダヤの民に、神のメッセージを伝え続けたエレミヤの言葉が、本日の旧約聖書の箇所にあたります。エレミヤは、その当時の人々の姿を包み隠すことなく明らかにします。人間はいかに邪悪な心をもって生きている存在なのだろう。そのようにエレミヤは人々に告げるのです。私自身の心も、どんなに神様を知っていたとしても、よこしまな思いがすべて消え去っているわけではありません。神からいただいた良いものと、自分のうちにある悪いものが心の中でつねに戦っているのです。そういう意味で言えば、私の心はエレミヤの時代とそう変わっていないことを思わされるのです。
 
そんな私の思いを、神が探り、その心を調べるのだとエレミヤは言います。なんか神に監視されているような印象を受けるかもしれません。カルト宗教などは、そういった言葉を巧みに利用して、リーダーが人々の心を束縛したりするのですから、このようなエレミヤの言葉に対しても、ある種の恐ろしさのようなものを感じるかもしれません。
 
しかし、逆のことも言えるのだと、私は受け止めました。たとえ人には理解されないこと、さまざまな誤解や行き違いが生じて、真意が伝わらないときに、神はそんな私の心というものをすべてご覧になられ、ご存知である方であるということも、本日の聖書の言葉が与える慰めなのだと私は思えてならないのです。人に理解してもらえなかったとしても、神がご自分の目をもって私を取り扱ってくださるならば、それだけで安心できるのだと。この安心こそ、この世の中を生きるために無くてはならないことなのだと、そう思うのです。
 
本日の新約聖書の言葉で「たえず善を行いましょう」とあります。この善行を「倦むことなく励んでいれば」、つまり諦めることなく、飽きることなく、誰にも理解してもらうことなかったとしても、神との関係においてただ誠実に生きようとするならば、その思いをご存知である神が、必ず良いように報いてくださるのだと。たとえ自分自身ではあまりにも負いきれない重荷であったとしても、神は必ず私の心をともに担ってくださり、良い果実を刈り取ることができるように、共に働いてくださる御方なのだと信じて歩みたい。そのように願わされた本日の聖書の言葉でした。
 
皆さんの思いが、たとえ悪いものであっても良いものであっても、それをご自分の公正をもって取り扱い、また私たちだちに必要なことを教え諭してくださる神が、今日も皆さんの生活に寄り添ってくださることを、私たちの希望とすることができますように。心よりお祈りいたします。

05/02/2023

2023.2.5(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
コヘレトの言葉7章14節
幸せな日には幸せであれ。不幸な日にはこう考えよ。人が後に起こることを見極められないように、神は両者を造られたのだ、と。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章26節
空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日選ばれた旧約聖書の言葉は、現実を物語るものとしては「とてもよくわかる言葉」なのですが、その一方で「とても理解に苦しむ言葉」でもあると、私は思ったのです。
 
人生幸福なことばかりではない、不幸な時もある。そのような私たちの現実というものを知恵者は語ります。そういう意味では、私たちは本日の「幸いな日には・・・」という言葉がよく理解できると思うのです。では、不幸な時にはこのように考えなさい、と言われる理由についてはどうでしょうか。私たちが未来を予測できないために、神が幸いと不幸の両方をつくられたのだと、知恵者は続けて語るのです。
 
不幸をも準備された神という言葉に、ひっかかりを覚えます。神はあえて、いたずらに、私たちの前に不幸を準備されたのだろうか。そう読めてもおかしくないような表現です。そもそも神は、私たちに不幸を与えることを意図していなかったはずです。にもかかわらず、私たちは不幸を味わわなければならない現実を、誰でも迎えます。このことを、どのようにとらえることができるのでしょうか。不幸とは、神との関係性から離れて、神無しに生きようとしたときに起きるものであることを、聖書はアダムとエバによるあの木の実を食べたときの出来事は明らかにしています。不幸は神のせいではなく、私たち人間に責任があるのだと私は考えるのです。
 
私はこのように本日の言葉を受け止めたいと思いました。不幸は私たちのつくった結果であったとしても、その不幸のなかにも、神が私たちとともにいてくださり、私たちが不幸を受け止めることができるように、働いてくださるのだと。不幸のなかにも神がともなってくださるということが、不幸を冷静に受け止め、神の知恵と助けによって乗り越えることができるように備えられた、神御自身の働きなのだと。神に背を向けたアダムとエバに、不幸を提示されつつも、毛皮で衣をつくり、それを与えられたのも神であったことを、私たちは思い起こすことができるのです。
 
不幸のなかにも、いや不幸なときだからこそ、神は私たちとともにいてくださることを、私たちの心に置いてくださるのだと。たとえ生産性がなかったとしても、神は鳥を養い育ててくださっているではないかと、救い主イエスは語られました。汗水たらして一生懸命働泣ければ、人間幸せにはなれないのだという価値観があります。だから、勤勉に働き、少しでも多くの金銭を稼ぎ、裕福に暮らすことの幸いについてさかんに叫ばれます。勤勉に働くことも、経済的に豊かにされることも全然悪いことではありませんし、それが結果として、神が与えてくださる幸いであることも、また確かなことだと私は思います。
 
しかし、たとえ私が不幸に感じることがあっても、神は私たちを見捨てることなどはありえないのだ。神は毛皮の衣を与え、不幸を受け止められるように生きて働いておられるということを、私たちの生きる希望にしたい。これが知恵者の語りたかったことなのではないかと私は受け止めたいのです。
 
今週も主の日がやってまいりました。どうか皆さんの新しい一週間が、順境であっても逆境であっても、皆さんのために働いてくださる神がともにおられることを感じられるような日々でありますように。お祈りいたします。

04/02/2023

2023.2.4(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記28章22節
ヤコブの誓い:そこで私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二9章6節
惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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十分の一
 
本日の旧約聖書である創世記28章の物語は、私の最も好きな聖書物語のひとつです。石もて追われるかのように、生まれ育った家を離れなければならなかったヤコブにとって、自分を守る神はいるのだろうか。そんな疑念が彼を襲います。しかし、そんなヤコブのもとに神は現れます。私は決してあなたを見捨てないとヤコブに告げられる神。その神との出会いに、ヤコブは「私は知らなかった」と告白します。そして、ヤコブは枕にした石を立てて、神に誓いました。あなたが与えてくださる十分の一を、あなたへお返ししますと。
 
私は、ヤコブの思いというものを深く探りたいと思いました。ヤコブにとって、両親、特に母親の思惑に翻弄された自分がありました。神のお告げとは言え、そのお告げを実現するために母リベカの行ったことは、結果としてヤコブ本人が多くの怒りと悲しみ、恨みを買う結果となったのですから、ヤコブ自身にとっては「とんだとばっちり」のように感じたかもしれません。もちろん、ヤコブにもいささかの野心のようなものがあったことは事実です。しかし、ヤコブは自分のしでかしたことを振り返るよりも、自分の身の上に起こった「不幸」のことで、頭も思いもいっぱいになったに違いない。そのように思うのです。
 
そんななかで、転がってあった石を枕にして野宿するしかなかった。すべてを失ったと思われたヤコブに、天のはしごを行き来する天使たち、そして現れる神の御声が、ヤコブの意識を根本から変革させました。ヤコブに与えられたのは、神が傍らにおられることへの安心でした。すべてを手に入れ、しかしすべてを失ったと思っていたヤコブにとって、決して失わないものがあったのです。神という、自分とともに人生を歩んでくれる御方です。
 
ヤコブの感じた安心こそ、感謝の思いを生み、決して失っていなかった物のうちから、その少しだけでも、そのことを気づかせてくださった神にお返ししたい。そのヤコブの思いこそ「十分の一」という言葉に込められているのだと、私は受け止めました。ヤコブは誰からも強いられたりすることなく、あくまで自分自身の自発的な思いで、十分の一を献げるという決断をし、それを果たし続ける人生というものを営むことができたのだと。
 
さて、私はあえて誤解を恐れず申し上げるならば、教会は「十分の一」という言葉を、あまりにも「制度化」しすぎてはいないだろうかと感じるのです。教会という組織を財政的に支えるために、十分の一という言葉を、聖書に書かれている鉄則のように掲げているのではないだろうか。そのように思わされるのです。もちろん、こういう財政的なシステムというか制度に助けられて、私などは牧師としての働きができているわけですし、教会という組織を維持するためにも、財政的なことを考えるのはとても大切なことであるのも事実ですので、私が上に掲げた思いは、矛盾しているようにも思えるかもしれません。
 
そのうえで、ヤコブが感じたように、神がすぐそばにおられたのに気づかなかった、気づけなかった。しかし、傍らにおられると分かった今、神とともに営む人生があることに感謝しよう。この思いをなによりも大切にしたい、そう思ったのです。十分の一というのは、その結果論であって、制度化するための根拠とは決してなり得ない。何にも妨げられることなく、強要されることもなく、私と神とのあいだにおいてなされる私の自発的な決断において、十分の一という言葉を選び取るなら選び取りたい。そう改めて思わされました。
 
巧みに人の心を操りながら、自発的という決断をしたかのように思わせて、結果としてその人が「生活できないような」額の献金をささげさせる。旧統一協会のようなカルト宗教が用いる常とう手段として聖書の言葉が用いられることが、私たちを生かそうとする神の願いではないことは明らかです。本日の新約聖書の言葉にもありますが、惜しまず豊かに蒔く(ささげる)ことで、多くを刈り取ることになるという聖書の言葉なんかは、用い方次第で、人を生かすどころか、人を殺す言葉にもなりかねない。だからこそ、ヤコブの思いを大切にしたいと、私は本日の聖書の言葉を受け止めたいのです。私が「カルト」にならないために。
 
皆さんの一日を共に歩んでくださる神がおられることが豊かさを生む。そんなひとときでありますように。お祈りいたします。

03/02/2023

2023.2.3(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書29章16節
あなたがたの考えは逆様だ。陶工が粘土と同じに見なされるだろうか。造られた者が、それを造った者に言えるだろうか。「彼が私を造ったのではない」と。陶器が陶工に言えるだろうか「彼には分別がない」と。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章10節
私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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私たちは「神の作品」である。
 
本日、私たちに与えられた聖書の言葉のなかで、注目したくなるのが、上に掲げた神の作品という一文です。まさに神の最高傑作品として、私たち人間が造られたのです。
 
神は、天地創造の最後に、私たち人間を造られました。神御自身が造られたものを「治めさせる(管理させる)」ためです。最初はいわゆる「男」だけを造られましたが、男がひとりでいるのは良くないと判断された神は、男と共に生きる、パートナーとしての女を創造されました。男と女がそれぞれに与えられたものをもって互いに生きる。そして、神が創造されたすべてのものを神の御心通りに管理するその世界を、神は「極めて良かった」と絶賛されました。その極めて良かった神の仕事に、人間をご自分の最高傑作品としてお造りになられたことが含まれるのです。
 
しかし、神が最高傑作品として造られた割には、私たち人間は「欠陥品」のように思える。失敗はするし、病気にもかかる。私たちは善い行いというよりは、よこしまな思いがいつも頭や心を駆け巡ってしまう。本当に、神は私たちを善い存在として創造されたのだろうか。そんな疑問を持ってしまうことはないでしょうか。神が私たち人間を最高傑作品としてつくられたのであれば、もっと幸せになるようにつくられなかったのかと。
 
神は、私たちを造られ、ご自分の大切な仕事を私たち人間に委ねられました。しかし、神はロボットのように、絶対服従をプログラミングしたような存在としてはつくられませんでした。あくまで自分の心で感じ、頭で考え、神とともに生きる幸いを心と思いで理解したうえで、与えられた務めを果たすように、神は私たちを設定されたのでした。神の支配の仕方は、カルト宗教の教祖のようなものとは違う、あくまでつくられた者の尊厳を大切にされたことが、この創造の出来事からも理解できるのです。
 
しかし、本日の旧約聖書にもありますように、私たち粘土は、私たちという作品を作った陶工である神に対して、お前の腕が悪いと不平をこぼすのです。なぜ私たちをもっと完璧につくらなかったのかと。製造者の責任にすべてを押し付けるならば、それほど楽なことはありません。
 
しかし、神はあくまでつくられたそのもの、またその作品の使用者である私たちに、その多くを委ねられました。繰り返しになりますが、ロボットのようには私たちは造られてはいないのです。だからこそ、神によって与えられた務めとはなにかを、そこから生み出される幸いとは何かということを、与えられた言葉と与えられた聖霊の助けをもって、黙想することができるのです。そういった営みを通して、神とともに歩む幸いを見つけることができるのであれば、私たちは「神の作品」としてのふさわしい用い方ができるのだと思うのです。
 
本日の新約聖書の言葉には「キリスト・イエスにあって造られた」とあります。私たちが作品として生きるということは、私たちの生活に、創造者であるイエス・キリストがともなってくださるのだということを意味しています。たとえとして適当ではないかもしれませんが、イエスという「トリセツ」が私たちの人生を支えてくださるというのです。救い主イエスに支えられながら今日という一日を歩みたいと、私は今日の聖書から受け止めました。
 
どうか皆さんの一日が、神の作品として、神が「極めて良かった」と絶賛されたその思いを感じ取ることができるような時でありますように。お祈りいたします。