31/08/2022

2022.8.31 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編130編7節
イスラエルよ、主を待ち望め。
主のもとに慈しみがあり
そのもとに豊かな贖いがある。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二9章8節より
神は、あらゆる恵みをあなたがたに満ち溢れさせることがおできになります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
昨日、オンラインで開催されたある「黙想会」へ参加しました。聖書の言葉にただ黙して聴き、それをグループで、また全体で分かち合うというものです。批評し合う会ではなく、お互いに御言葉によって神の声を聴く作業を大切にする会。私が関わっているアシュラムに相通じるものを感じながら、日ごろ伝道牧会の業に励んでおられる全国の牧師たちとの、とても素敵な交わりのひとときをいただきました。
 
そのときに与えらえた聖書の言葉は、新約聖書・ヨハネによる福音書13章1~10節でした。イエスが弟子ペトロの足を洗う、よく知られた「洗足」の聖書箇所です。あらためてじっくりと噛みしめるように、聖書の言葉に聴こうと思いました。泥とほこりにまみれた弟子たち、そしてペトロの足を洗うイエス。最初、ペトロはそれを拒みます。
 
ペトロの心中はさまざまな思いがこもごもとしていたと思うのです。汚い部分を見られたくない恥ずかしさ。一番弟子としての手前、ほかの弟子たちの前で師に足を洗ってもらうなど己のプライドが許さない。とにかくペトロはイエスの奉仕を素直に受けることができません。
 
自分の罪を知っていながらも、心の底から罪を自覚することができず、罪の赦しすら素直に受容することのできない人間の現実こそ、ペトロのそれであるような気がしてなりません。しかし、にもかかわらず、イエスはペトロのどろどろとした現実のなかにためらいなく入り込んで、ただ足を洗い続ける。ここにこそ、イエスが与えてくださった「恵みの出来事」が存在するのだと。

そのとき、ペトロはそのことに気づきませんでした。しかし、イエスの言われる通り、後になってペトロは恵みの大きさを自覚するに至ります。極みの極みまで私たちに慈しみと愛を注いでくださるイエスに、自分自身の心を向けて生きる者でありたい。そんなことを感じとることのできた黙想会のひとときでした。
 
そんなことを思いながらいただいた今日の聖書の言葉です。私たちのうちに恵みを満ち溢れさせてくださる神が、私たちとともにいてくださることに期待し、その御業を待ち望め。そんな御声を今日の聖書の言葉から聴くことができたような気がしています。私事、今身体の痛みがありますから、この痛みからはやく解放されたいという思いのなかに、神が私の心を整えさせてくださり、希望をもって今日の一日を過ごすべく私を導いてくださることこそ恵みのなのだと。
 
神の恵みが、この世に、また私たちの一人ひとりに豊かに臨みますように。お祈りいたします。

30/08/2022

2022.8.30 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記14章21節より
モーセが海に向かって手を伸ばすと、主は夜通し強い東風で海を退かせ、乾いた地にした。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙11章29節より
信仰によって、人々は乾いた陸地を通るように紅海を渡りました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
昨日は、私の体調不良からローズンゲン黙想をお休みいたしました。病院へ行き、レントゲンやら血液検査などを受けて、医師の診察と処方箋をいただきました。正式な診断は血液検査の結果を経てからとなりますが、症状からして「無疱疹性帯状疱疹」の疑いがあるとのことでした。帯状疱疹!その言葉を聞いて驚いたわけですが、ここのところの自覚症状にもあてはまりますので、なるほど納得させられた次第です。ご心配をおかけしました。じっくり治療してまいりたいと思います。
 
さて、今日選ばれた聖書の言葉は、エジプトから脱出し、神が示される旅路を歩んでいたイスラエルの民が、エジプト軍によって追われているさなかでのシーンです。イスラエルの民に立ちはだかったのは紅海。これ以上先に進めません。エジプト軍の追手はもうそこまで来ています。まさに危機一髪の状態でした。
 
しかし、イスラエルの民は神に守られていました。神は強い東風を吹かせて紅海の水を割り、逃げ道を設けられました。最終的にイスラエルの民はその道を渡ることによって、命を得ることとなりました。映画『十戒』でも知られる、あの有名なシーンです。
 
今日の新約聖書には、そのことについて「信仰によって」と記されています。この信仰によってというひと言は、いったい何を意味するのだろうか。イスラエルの人々はそんなに強靭な信仰の持ち主だったのだろうか。そんなことを考えさせられました。
 
出エジプトしたイスラエルの民は、決して神を信じて疑わないという存在ではなかったことは、不平不満を口にし続け、神の不在に恐れを抱いていとも簡単に偶像礼拝をしてしまうようなことを繰り返していたことからも明らかです。では、ここで言う信仰とななんなのか。
 
信仰とは、信仰者の素質や努力の結果生じるものでは決してありません。神が私たちに信仰を与えてくださる。つまり、神からのプレゼントです。神は力強い東風とともに、民たちに信仰を与えてくださった。この信仰をいただいた民は、はじめて割れた紅海のなかを歩むことができたのだと。絶体絶命と思える場面で、最後の最後に神が示してくださった助けこそ、彼らにとっての信仰そのものでした。
 
私たちは、神が吹かれる命の息吹をどうしても必要とします。しかし、本当に必要としているとき、助けを必要とするときに、なかなか助けを感じることができないと感じることは多々あると思うのです。しかし、土壇場で働かれ、必ず命を救い保たせる神がおられる。このことに、期待し、信頼して今日の一日を歩むことが確かにできるのだと、私は今日の聖書の言葉から頂きたいと心から願いました。私も体に痛みがあるときだから、なおのことそう感じさせられたのだと思います。
 
今日の一日もまた、私たちを守られる神が、ともに豊かにいてくださいますように。心からお祈りいたします。

28/08/2022

2022.8.28 仙台宮城野教会主日礼拝説教

2022年8月28日
仙台宮城野教会主日礼拝説教

聖 書 ルカによる福音書6章37~42節
説 教 どんな定規を使っていますか
説教者 牧師 齋藤 篤
 
私たちはそれぞれ、自分自身のうちに定規を持っています。しかし、その定規は神が私たちに望まれ、使うことを期待されている定規なのだろうか。聖書という物差しをどのように自分の物差しとすることができるか、聖書に聴きました。

↓の動画をご視聴ください。



2022.8.28 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編96編3節
国々に、主の栄光を
すべての民にその奇しき業を語り伝えよ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙二4章3節より
私たちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
昨晩、一週間の旅路が終わり、無事に仙台へ戻ってまいりました。日々を振り返って、さまざまな出会いのなかで、キリストが私たちを平和のうちに結び合わせてくださることを、より実感することができました。移動に少々の疲れを感じましたが、昨晩ゆっくりと休んでおかげで、回復することができました。今日は主の日。礼拝から始まるこの一週間も、神から頂く御言葉と聖霊なる神の助けによって、はつらつと生きることができたらと願います。
 
神は「奇しき業」を私たちに与えてくださる。そのことを心から実感していた詩人は、その奇しき業が一人でも多くの人たちの心と思いに響くことを願ったからこそ、今日の旧約聖書の言葉にあるような詩を歌うことができたのでしょう。奇しき業という言葉は、私たち一人ひとりに驚きの心を与えます。驚くほどの嬉しさを、私たちに神は運び、届けてくださると言うのです。
 
神とともにある生活というのは、私たち自身ではどうすることもできない限界への認識と、その認識のうえに、神が私たちのためにどのように働いてくださるのだろうかという切なる期待なのではないか。この一週間、私は神によって選ばれた老人アブラハムの生き方というものに注目することができました。アブラハムもまた、自分自身の限界に対して神の奇しき業が働くがゆえに、物事が進んでいき、その人生を歩むことができました。
 
アブラハムは決して立派な人間ではありませんでした。アブラハムは神を信じた、それが彼の義と認められたと言われます。アブラハムの信仰というのは、アブラハムの立派な人格を後押しするものではありませんでした。むしろ逆で、アブラハムの決して褒められることのない人生に、神が奇しき業を働かせたことに対する同意と、その同意ゆえに、神と歩もうとするアブラハムに、神がご自分の正しさを与えてくださった。
 
この義によって、神がご自分の御言葉の門を開いてくださることを期待して、今日も歩むことができる。そのために祈り、御言葉に聴く礼拝が祝されることを祈りたいと思います。世界中でおこなわれる礼拝が祝されることを、そこに神の奇しき業が働けば、「すべての民に語り伝えよ」という詩編の言葉が、神によって実現するのだと。
 
どうか、今日世界中でおこなわれる主の礼拝の一切に、神の平安と祝福がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

26/08/2022

【お知らせ】8月26日・27日 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

 
いつもローズンゲン黙想をお読みくださり、ありがとうございます。
 
標記、8月26日・27日のローズンゲン黙想ですが、昨日より明日までアシュラムセンターで開催されている、常任運営委員のための修道場アシュラムに出席しておりますので、黙想をお休みいたします。
 
28日(日)より再開いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。皆さんの主にある平安と祝福を心よりお祈り申し上げます。

25/08/2022

2022.8.25 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編55編17節
私は神に呼びかける。
主は私を救ってくださる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章10~11節
これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。
あなたがたも祈りによって、私たちに協力してください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
日本聖書神学校の卒業生研修会も終えて小倉を離れ、昨晩より近江八幡に滞在しています。アシュラムセンターでおこなわれる常任運営委員による修道場アシュラムのひとときを過ごします。シメオン黙想の家で朝を迎えました。御言葉に向き合い、黙想するひとときを過ごしてまいりたいと思います。
 
さて私は、今日の聖書の言葉に触れて思ったことがあります。私が神に救われるとは、結局のところどういうことなのかを。
 
ご存知の方も多くおられるように、私はエホバの証人としての信者生活を経て、現在の信仰生活がある者です。エホバの証人も聖書を使い、人間に対する神の救いを説きます。しかし、神に救われるとは裁きの日を逃れることであり、その裁きで滅ぼされないためにエホバ神を信じなさいというアプローチで、救いを知らされたことを思い出します。
 
つまり、自由とか解放とか、神の愛とかイエスがともにおられるとか、癒しとか慰めとか、そういうものが先に来ることがありません。滅びと災いというものを前面に出して、そこに恐れを抱かせて、その災難に遭いたくないのであれば、神に救われなさいということのほうが大切なメッセージにされていたのではないかと思い出します。
 
このような私のヒストリーというものがあって、現在牧師としての職を神から与えられているわけですので、救いに対する思いというものも、そのヒストリーというものが影響しないはずがありません。恐れを呼び起こすような脅し文句を使って、救いをちらつかせるようなやり方は、一時的な効果を生むことはあるかもしれないけれど、そのようなやり方で、本当に神の救いを神の救いとして受け止めることができるのだろうかという疑問を、どうしてもぬぐえないのです。
 
私たちが聖書を読むときに、聖書を通して神の声に耳と心を傾けるときに、そこに聴こうとするときに、神はこの私に何を語りかけているのだろうか。神はどのような思いで私を救おうとしているのだろうか。どのような思いで私を戒め、諭そうとされておられるのか。そのことを、今回のアシュラムの期間中も深めてまいりたいと思わせる、今日の御言葉をいただきました。
 
どうか、今日の一日もそのような神の語り掛けが、皆さんにとっての救いとなりますように。お祈りいたします。

24/08/2022

2022.8.24 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編119編45節
私は自由に歩みます。
あなたの諭しを尋ね求めているからです。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章37節
私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
昨日に引き続いて、くじによって選ばれた旧約聖書の言葉は、自由について触れられたものです。私は自由に歩みます。詩人はそのように歌いました。自由に歩むとはどういうことなのか。詩人は自由に歩むことの根拠を歌いました。主なる神の諭しを尋ね求めているがゆえに、私は自由に歩むのだと。
 
一見すると、とても矛盾しているようにも聞こえる言葉です。和葦たちは宗教的な教えや諭しを受けるときに、まるで自由が削がれてしまうようにも思えるからです。それなのに、詩編の言葉は神の諭しを求めるがゆえに、私は自由にされている。自由に歩むことができるのだと。
 
ここで言う自由とは、神がそもそも人間を創造されたときに与えられた自由意思と言っても良いでしょう。神は人間を操り人形のように創造はされませんでした。自由意思を与えることによって、人間が自分の頭で考え、自分の意志で言動を決定するようにされました。それは、きわめて自由な方である神が、ご自分に似せて人間を造られたわけですから、人間が自由意思持つものであることは、神の御心であると言えるでしょう。
 
そのことを踏まえて大切なこと。それは、人間がその自由をどのように用いることができるのかという問いに対する私たちの応答です。そのときに私たちが物事に対する判断の基本になるのは、神がどのように私たちに自由を与えられたのかということへのイメージです。そのために、私たちは聖書の言葉を言葉面だけでとらえるのではなく、言葉を通して神が何を願われ、何を私たち人間に期待されておられるのか。それが人間にどのような決断を与えようとしているのか。言葉を通してその本意・本質を尋ね求めるのです。
 
言葉面は時として人を縛ります。言葉は分かりやすく、人を縛りやすいからです。しかし、それだけでは表層的なところでしか、聖書の言葉を受け止めることはできないでしょう。言葉が人を自由にするどころか束縛してしまうという皮肉です。神がご自分の言葉を通して人間を自由にする根拠は、神の心を知ること。それに尽きるのだと私は受け取りたいのです。
 
言葉を通して働く心を知る。私たちは親しい間柄でも自然に行っていることです。神の似姿として私たち人間が創造されているのであれば、究極の知者である神の言葉をどのように受け取ることができるか。そこに御心を知るという私たちの営みを大切にしたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、キリストの愛が私たちを引き離すことができないというテーマのもとに、その愛こそ真理であり、真理は私たちを自由にし、キリストの愛によって神の御心を自分自身の生き方とすることができるのです。
 
イエスの愛にあこがれ、それを私の生き方とすることを望み、神の自由に喜ぶ者でありたい。そんな一日を今日も生きたい。その連鎖がひと日の平和へと結び合わされることを願いつつ、お祈りいたします。

23/08/2022

2022.8.23 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章2節より
私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二3章17節
主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の聖書の言葉は、神が私たちに与えてくださる束縛からの解放と、それゆえに得ることのできる自由について言及されています。では、私たちにとって「解放されること」「自由にされること/その自由を謳歌し、用いること」とは、いったいなんなのかについて黙想を深めてみたいと思いました。
 
聖書の言葉ではありませんが、私が高校生のときに初めて聞き、今でも胸に刻み続けているものがあります。それは「自由には責任がともなう」という言葉です。自由とは自分に与えられた自由もさることながら、私以外のすべての人に与えられた自由をも尊重すること。互いに自由を尊び合うところにこそ、責任ある自由を大切にすることができるのだと。
 
自由だからと言って何をしても良いはずはない。誰もが知っていることです。その自由が何らかの犠牲を生むのであれば、その自由はもはや神が与えたもうた自由とは程遠いものになってしまうのです。私たちは、その自由とは私だけが用いることのできる私有物・所有物なのではなく、私たちが生きるために神が与えてくださった自由であるという視点を大切にすることができる。今日の聖書の言葉が伝えようとしているところです。
 
私は、この視点を大切にしようとするときに、それは「聖書の読み方」に大きく影響するのだと感じています。私たちは聖書の言葉に触れるときに、この言葉の数々をどのようにいただくことができるでしょうか。
 
私は、聖書を通して私たちが知るべきなのは、もちろん自分自身がどうであるべきかということもあるのでしょうが、それよりも大切なのは「関係性に生きる」ことであると思っています。神と私の関係、そして私たち人間のあいだにある関係性です。
 
それで、この関係性が築かれるときに、私の、また私たちの意識のうちに起きるのが「束縛」であると、私は考えることがあります。何かルールをつくり、規制線を張り、禁忌とされることを立て並べて、目に見える仲間意識、同族意識を養うといったことは、私たちの世界では普通に行われていることです。そのときに、聖書の言葉が看板として用いられることがあるのです。
 
しかし、束縛からは自由は絶対に生まれません。自由は束縛の鎖が破られて、解放されて初めて享受されることだからです。私たちが究極的に望み、求め、愛したいのは、神の言葉を通して、神は私たちに束縛という方法を用いなくても味わえる、神が与えられた自由、犠牲を伴う、伴わせることのない自由です。この自由こそ、神と人、人と人との関係性を豊かに築くために、なくてはならないものなのだと、私は心から望みたいし、そういう生き方をしたいのです。
 
束縛から自由を与えた神、死という鎖を解き放ち、私たちに永遠に生きる自由を与えてくださった救い主イエス。この神をいただいた私たちが、今日の新約聖書にもありますように、聖霊の力と助けによって自由を得、それを愛することのできる一日でありますように。心からお祈りいたします。

22/08/2022

2022.8.21 仙台宮城野教会主日礼拝説教

2022年8月21日 仙台宮城野教会主日礼拝説教
 
聖 書 創世記2章15~16節
    ヨハネによる福音書8章31~36節
説 教 自由の神
説教者 牧師 齋藤朗子
 
私たちに自由を示し、そして与えられる神は、まず神御自身が極めて自由であること、そして神のかたちとしてつくられた私たちがその自由を愛せる存在であることを聖書から聴くことができました。
 
↓よりご視聴ください。


2022.8.22 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書14章22節より
私たちの神、主よ
それはあなたではありませんか。
私たちはあなたを待ち望みます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙4章16節より
憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
ときのイスラエルは、旱魃(かんばつ)の状態にありました。家畜が食むための牧草も水不足も枯れて、命の危機を感じずにはいられなかった。家畜も、飼育者たちも困り果てて、どのように生きたらよいのか。皆が苦しみの淵をさまよい歩いていました。
 
そんな時に、人々が頼るべき先。預言者エレミヤはこのことをはっきりと断言します。それは私たちの神、私たちとともにいてくださる主であると。それはあなたではないかとエレミヤは言い、それを苦しみのなかで生きている民にとっての希望なのだと告げました。
 
このとき、世間を賑わしたのは「偽預言者」の存在であることが、エレミヤ書14章に書き記されています。神からのメッセージであると断言し、人々をそのメッセージに従わせようとします。しかし、メッセージに引き寄せられた人々は、なおのこと苦しみの渦に巻き込まれるというのです。偽預言者の言葉からは、犠牲しか生まないのです。
 
何度も言いますが、カルト宗教のすることは、まさに甘い言葉と犠牲の現実です。ある者だけが甘い汁を吸い続けて私腹を肥やす。さんざん絞られ、吸い取られた者はやがて捨てられる。そんな苦しみが人々を襲うのです。神の言葉を利用して人々を苦しみに追い込もうとする態度に、希望を生む神の言葉の本質が人々の心を癒し、人々をまことの幸いへと導く。これが今日の旧約聖書の言葉が示すメッセージです。
 
この希望を私たちは自由に求めることができるのです。神の御前に近づくという今日の新約聖書の言葉は、私たちが遠い旅路を苦労して歩き、その果てにおられる神へたどり着くという意味ではなく、あくまで私たちの目前に希望を提示してくださっている神の差し伸べられる手に、私たちの手をつなぐことなのだと私は受け止めたいのです。
 
憐れみや恵み、タイムリーな助けとは、苦しみのなかであるがゆえにものすごく遠く感じるかもしれない。しかし、それは私たちの眼がかすんでいるだけなのかもしれません。希望はすぐ目の前にあるということを、私たちは苦しみから解放されるための望みとしたいと願いつつ、今日の一日を生きてまいりたいと思います。そのような一日が祝福のうちにあることを、心よりお祈りいたします。

21/08/2022

2022.8.21 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記24章56節
この旅の目的をかなえてくださったのは主なのですから、私を引き止めないでください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録8章36節
道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
一週間の始まりを迎えました。全世界でもたれるすべての礼拝に、神様の祝福が豊かにありますことを、心からお祈りいたします。私は昨日から仙台を離れて、一週間あまりの旅の日々を過ごします。今日は、前任地時代より関わりのあった、北九州・小倉にある単立教会で礼拝の御用をいたします。久しぶりにメンバーの方へお目にかかることができるので、とても楽しみです。
 
旅には予定があり、その予定をひとつひとつこなしていくことで、旅は充実したものとなります。しかし、時には予定通りにいかない旅があることも事実です。しかし、予定通りにいかなかったとしてもその旅には物語が生まれ、後に語られることになるエピソードが生まれることで、旅行が充実することには変わりはない。どんなふうに転んだとしても、旅には味わいがある。そう、人生の旅路も同様のことが言えると思うのです。
 
あてもなく、どのようなことが起こるか分からない人生の旅路を導かれるのは神である。大切な決断をしなければならない時に、どんな不安が待ち受けようとも、神は決して悪いようにはなさらないのだから、安心して歩むことができるのだ。そう今日の聖書の言葉は私たちに伝えます。
 
結婚という人生の一大事、まだ見たことのない相手と結婚するということへの不安。家族をまだ知らぬ家族に送ることの心配。それは決して珍しいことではありません。そのような不安や心配のなかで、最終的には神が導かれることへの深い信頼という一点に、人生の物語は展開されました。(もっとも、神が決めた結婚を。。。というこの物語を、人間が悪用して無理のある結婚を導こうとする歴史と現実がありますから、この聖書の言葉も、単純に受け止めることはできないのですが・・・)。
 
それは、聖書の言葉を聞いて、その言葉に込められた神の愛と人間に対する救いの物語を知ったひとりの人物が、その物語のなかに自分自身の人生も組み入れられていることをも知ると、神とともに歩む人生の旅路を願います。そして、洗礼を受けることをためらわず受け入れました。まさかそんなことになるとは、その当人も周囲も思わなかったかもしれません。しかし、人生の旅路に変更が生じたときに、その変更は旅路を壊すものではなかったということです。それどころか、豊かな旅路を楽しむことができたのだというのです。
 
トラブルこそトラベルである。誰かが言ったこの言葉を思い出します。トラブルすら豊かな人生を歩むために用いられる神が、私たちと今日もともにおられることを、私たちの希望とすることができますように。今日一日のためにお祈りいたします。

20/08/2022

2022.8.20 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ホセア書14章6節より
神の言葉:
私はイスラエルにとって露のようになる。
彼は百合のように花を咲かせる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章5節
私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
昨日、仙台は雨ひとつない快晴の一日でした。雨の多い今年の夏ですので、こんなことはとてもめずらしく、中途半端で終わっていた梅の土用干しを仕上げようと思い、冷蔵庫のなかにしまっていた梅漬けを取り出して、ざるの上に並べて天日にしっかりと干すことができました。
 
しかし、天日に梅をしっかりと干すと、かごに梅の皮がくっついてしまい、無理やりはがすと皮が破れてしまいます。そういう時は無理しないで、夜風に少しでもさらすとかごと皮のあいだに湿気ができて、問題なく皮をはがすことができます。湿気の力というものを改めて感じさせられました。これで土用干しは終わり。しばらく梅のなかの塩分を馴染ませて、おいしい梅干しを楽しみたいと思います。
 
さて、今日の旧約聖書の言葉・ホセア書にある言葉のなかに「朝露」という言葉が出てきました。イスラエルでは、春分から秋分くらいまでの半年間、雨が全く降らない季節を迎えます。草花が枯れてしまうくらいの乾きと吹き付ける熱風は、一気に潤いを失わせます。
 
しかし、そんなイスラエルの乾いた土地にも、朝になると露が土地や草花を濡らすことがあるのだそうです。それは湿気のなせる業であると言えるでしょう。太陽が沈むことによって急激に温度が落ちれば、空気が冷やされて水蒸気が水滴となる。それが露となってほんの少しでも潤いを与えるというのです。
 
今日の聖書の言葉では、神が人々にとっての露のようになるとつづられています。露で私たちの喉の渇きというものを根本的には癒すことはできない。しかし、少なくとも潤いを私たちは感じることができる。神は、その潤いをなすための露となってくださるというのです。見た目にはほんのちっぽけかもしれないけれど、確実着実に私たちにとって必要なものを与えてくださるという、神の親心を感じることができる言葉であると私は受け止めました。
 
それと同じことが、今日の新約聖書であるヨハネ福音書の言葉にも記されています。私はぶどうの木、あなたがたはその枝という、イエスによって弟子たちに語られたあまりにも有名な言葉です。長いつる枝をつたって、水分は確かに供給されます。そして甘い実をしっかりとつけるために、幹となる木の役割は水分や養分を吸い取ってそれを行きわたらせる。実に水分を潤わせるために、イエスご自身が私たちのために働いてくださるということを示した聖書の言葉です。
 
暑い夏の日々が、私たちの心身から水分を奪い取るがゆえに、私たちは乾きます。渇きます。しかし、ほんの少しの露だったとしても、梅干しのように無理やりはがされることによって傷つくことを防ぐ大きな働きがある。そのような働きを神がなしてくださるのだと、今日の聖書の言葉から励みを得た思いがいたしました。
 
一週間も最終日を迎えました。この7日間を振り返るとともに、週の夜明けである明日への備えであるこの一日が、私たちすべてにとって豊かなときでありますように。お祈りいたします。

19/08/2022

2022.8.19 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編63編9節
私の魂はあなたに付き従い
あなたの右の手は私を支えてくださいます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章12節より
私は自分が信じてきた方を知っており、私に委ねられたものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
私が神を信じたから、神は私を守ってくださるのか?それとも、神が私を守ってくださっていることに気づいたから、私は神を信じることができたのか?
 
私たちは信仰というものを考えるときに、今掲げた問いに必ず向き合うことになります。私の生活が豊かにされるのは、私が一生懸命神を信じ、宗教活動を懸命に行った結果だからなのだろうか。最近、カルト宗教問題がクローズアップされるなかで、その問いにたとえ答えがわかっていたとしても、真摯に向き合わなければならないことを思わされるのです。
 
たくさん献金をしたから宗教的に注目されてレベルアップするとか、これだけ宗教活動のノルマを挙げたから徳が高くなるとか、まるで論功行賞のようにその人の「頑張り」が成果に結びつくような信仰であるならば、それは神の業というものがどこかに追いやられ、信仰と言いつつも人間の小手技に矮小化してしまっているのだと、私は感じずにいられません。
 
誤解を恐れず申し上げれば、これは教会の世界においても、しばしば見受けられる「信仰に対するモノの考え方」であると思えるし、実際に経験することがあります。実際に「熱心な宗教活動」というものが、教会の教勢というものをあげたり、活気づくための要素であったりするわけですが、問題なのは、それを人間の成果の結果のようにとらえ、そのことを知らず知らずの間に推進してしまうような空気が醸し出されるということなのです。
 
だからこそ、神が私たちに向かってなぜ、どのように愛してくださり、具体的な言動に発展したのかを、聖書の言葉から丹念に理解しようとする態度こそ、本当に必要なことなのだと思わされるのです。そのことを知れば知るほど浮かび上がってくるのは、私たちの素質や努力などは関係なく、私たちによいものを与え続けてくださろうとする神が私たちとともにおられ、私たちの腕を、命をしっかりとホールドしてくださる方なのだということです。
 
だから、私たちは安心して神にすがることができるのです。これだけ頑張らななければ、神に手を握ってもらえないのだろうか。そんなことはありません。私たちの信仰からくる生活の営み、宗教的な言動というものはすべて、そのような神の守りを受け取ったものの応答としてなされることを、神は期待しておられるということです。そのことに改めて気づかされつつ、今日という一日を歩んでいきたいと願わされました。
 
どうか、努力の良し悪しや多少で物事を計るようなところから解放されて、誰をも祝される神の御腕にすがりつくことのできる自由によって、今日も一日を豊かに味わうことができますように。お祈りいたします。

18/08/2022

2022.8.18 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編37編28節より
主は公正を愛する方。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書20章25節
それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
皇帝のものは皇帝に
神のものは神に。
 
これはイエスによって語られた、よく知られた言葉であることは、聖書をお読みになられている方ならば、どなたでもご存知であるかもしれません。それくらい有名な聖書の言葉なわけですが、私は今日この御言葉をいただいたときに、まさに「イエスの政治観」というものはどこにあったのかということにつくづく気づかされる、そのような思いがいたしました。今とても必要な言葉であると私は感じたのです。
 
まず、イエスご自身はこの世界の政治に大きな関心を抱いていたということを、私たちは決して忘れてはならないのだと思います。教会という場は「中立性」という立場から、特定の政治思想を支持したり、それに組してはならないという考えが、不文律のように存在しているのはよく聞く話です。それも一理あると私は思います。
 
しかし、どうなのでしょうか。だからといって、私たちは「政治に無関心であればよい」理由などは、どこにもありません。イエスご自身が社会の現実に向き合って、神の御心をすべて受け取った者として大胆な発言を繰り返したことは、今日の聖書の言葉からも明らかです。
 
私たちは、神の御心が政治に働くように祈りをつむぐことは本当に大切です。政治のことはイエス様にお委ねして祈ろう。よく聞く話です。しかし、私たちがイエスにすべて委ねたのだから、政治的な「中立」を保とうと何もしないのであれば、それは、神から命をいただき、この世界で生きる者としての責任というものを放棄しているのではないか。安易に「委ねた」という言葉に片づけてしまうのであれば、それは非常に無関心な態度であると私は思わずにはいられません。イエスの弟子として生きるのであれば、イエスが政治に関心を抱き、そこに立ち向かって私たちの生きるモデルになられたことを、私自身真摯に向き合うことの大切さを思わされるのです。
 
イエスは、もし皇帝、すなわちこの世界の政治が行う政策というものが、本来神にお返しすべきものに勝ってしまうのであれば、何を優先すべきかを明らかにしています。神にお返しするものを第一にするときに、この世界の政治に反抗の意を示さなければならないことだってあるのだというのが、私が改めて受け取った今日の御言葉が語るエッセンスであると、強く感じさせられるのです。
 
ただ、そのときに反抗の根拠がなんであるかは、やはり明確にしておかなければならないのだと。それが、今日の旧約聖書で語られる「公正」であると、私は受け止めました。公正。それは、神が示される正義というものが、あまねく私たちの一人ひとりに余すところなく広がりゆくさまを表すものであって、私たち人間の正義というものが、神の正義を勝ってしまうことがあってはならないという自戒を促すものなのだと。
 
ですから、私たちがどのような政治思想を抱き、関心を抱き、そこに向かっていくかの自由が与えられているなかにあって、私たちが本当に大切にし、愛するべきなのは、神が示された公正が、私たちを用いて世界中に分かち合われることなのだと。このことが基盤となって、宣教という営みが初めて成立するのだと感じさせられます。私たちに委ねられた宣教のつとめというものが何であるか。今日の聖書の言葉を通して、襟をただされる思いがいたしました。そのことを今日一日の黙想として歩んでまいりたいと思います。
 
神の公正がこの世界に広がりゆくときに、必ず平和が訪れることを信じつつ。アーメン。

17/08/2022

2022.8.17 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上12章24節
ひたすら主を畏れ、誠実に心を尽くして主に仕えなさい。主があなたがたになさった偉大な御業をよく考えなさい。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12書11節
怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧約・新約聖書に共通するのは「主に仕えなさい」という言葉ですが、それよりも大切なのは「どのように」神である主に仕えることができるのか、というだと受け止めました。そのあたりのことを黙想してみたいと思います。
 
まず、旧約聖書に記されているのは「ひたすら主を畏れ、誠実に心を尽くして」という言葉です。ここで言われている「畏れ」は、深い尊敬の念が込められたおそれであり、決して恐怖心から来るそれではないということです。神に仕えるのに、恐怖心というものは無用であると、誤解を恐れずに断言することができると私は思います。
 
地獄に落ちたくなかったら神を信じなさいというアプロ―チは、古今東西宗教の別を問わず存在していると思います。閻魔(えんま)さまに舌を抜かれたくなければ、良い生活に心がけなさいとか、私がかつて信者生活を送っていたあるカルト宗教のように、世界の終末、ハルマゲドンで滅ぼされたくなかったら、神(結局のところ宗教組織)の指示に従順でありなさいとか、宗教的に忠実な人間をつくり上げるための「おどし文句」として、恐怖心を巧みに利用するということが行われるのです。
 
しかし、それは神が望まれていることなのでしょうか。旧約の預言者たちが、民の態度を改めるよう警告を与えることがあったのも事実です。しかし、それは先にありきの話ではありません。今日のサムエル記上12章24節の後半部分では、「主があなたがたになさった偉大な御業をよく考えなさい」とあります。私たちのためになされた神の御業とは、神の人間に対する深い慈愛が土台となっていることを、私たちは聖書の物語から知ることができるのではないだろうか。そう思えてならないのです。
 
真実の愛は深い尊敬の念を生み、互いに敬い合う関係性を築く。これこそ神と人間のあいだに築かれる関係性であり、神はその関係性が築かれるために、私たちひとりひとりに対して働いておられるということを、ことあるごとに思い起こし、黙想し続けられるような私たちの態度というものが求められているのだと、私は受け止めたいのです。
 
今日の新約聖書にある「怠らず励み」という言葉も、同様に考えることができます。信仰生活を営む際に、がむしゃらに信仰生活を営まなければ神を悲しませるとか、神から何らかの罰が下るとかということへの恐怖心ゆえにそうしているのであれば、それは実に本末転倒なのことなのだと。そのように思わされます。
 
「霊に燃える」という言葉は、聖霊なる神が父なる神と子なるキリストが私たちに示されたアガペーの愛、つまり無私の愛の結晶であると言い換えるならば、聖霊の力によって燃えることは、それすなわち神が私たちに示された愛が基盤にあってこその、互いに敬い合う態度からくる誠実さであり、ひたむきさであると言えるのだと。
 
今、私たちは神の愛というものが、いったいどのようなものなのかを、立ち止まってじっくりと思い巡らせながら、今日という一日を歩んでいきたい。私のなかにある「神の愛」に対する認識と理解が、決して自己愛や恐怖をともなった愛のように見えるだけのものにならないように、神の愛に心ほぐされながら今日という一日を歩みたい。そんな風に思わされた次第です。
 
このような尊敬にもとづいた神との関係性、そして人との連鎖が、私たちを神の愛によってまことに活かす基盤になりますように。お祈りいたします。

16/08/2022

2022.8.16 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編78編4節より
主の誉れと力を
主がなされた奇しき業を
後の世代に語り伝えよう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章15節
また、灯をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家にあるすべてのものを照らすのである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
未来志向。
 
今日のふたつの聖書の言葉を通して、こんな言葉が脳裏をめぐりました。神が私たちに伝えているのは、歴史に振り返ることの大切さとともに、その振り返りの作業は未来を生きる人たちのためにあるということをです。
 
未来へバトンを渡すために、今私ができること。それは、たとえ私自身の業績がこの場で評価され、感謝され、名声が鳴り響くことなどでは決してない。たとえ今、そのことが理解されなくても、そのことで冷たい態度を浴びせられることがあっても、未来を生きる人たちがそのことで幸福を感じることができるように、自分自身を犠牲にしてもいいという覚悟と自分自身に見返りを求めない生き方。そんな生活にあこがれたいという切なる願いがあります。
 
しかし、そんな願いとは裏腹に、自分自身の心をめぐるのは、注目されたい、人々から報われたい、感謝されたい、私の業績として見て欲しいなどという思いがうごめくのです。もちろん、感謝されることは本当に嬉しいことです。しかし、そのことを主な目的にして生き、何かの目標に向かって行動することは、本末転倒だと思わされるからこそ、自分自身の醜さというものがあることに嫌気がさしてくることが多々あります。
 
私が伝えるべきことは、今日の聖書の言葉にもあるように、私自身ではない。神がこの世界に向かって何を願われ、望まれ、そのためにご自分の御心を明らかにされ、神御自身の言葉を与え、救い主イエスを与えてくださり、そのイエスを「光」として私たちの行く道を照らしてくださったかということなのだと。この光を灯して燭台のうえに掲げつつ、未来に向かってトーチを掲げることのできる者として、主の放たれる光に仕えたい。そんな思いが心を巡りました。
 
未来を想像しては暗澹(あんたん)たる気持ちにさせられることを容易に提供しているこの世界で、この光によって希望を抱き続ける一日のつとめを、今日のひと日も大切にしつつ、神の助けによって歩んでまいりたいと思います。それこそ、私利私欲なく、私たち人間のあいだに起こる犠牲をともなわない平和が来ることを心から信じつつ。
 
皆さんの一日に、神が未来に向かって放たれる光の幸いと喜びがともにあり、未来志向の思いが希望となりますように。お祈りいたします。

15/08/2022

2022.8.15 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編118編15~16節より
歓喜と勝利の声が正しき人の天幕に響く。
主の右の手は高く上がる。」
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章46~47節
私の魂は主を崇め
私の霊は救い主である神を喜びたたえます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧約聖書の言葉に「主の右の手は高く上がる」というものがあります。原文のドイツ語聖書では「主の右の手は勝利を保つ」と訳することができるのですが、この勝利という言葉は、ドイツ語のSieg(ジーク)という単語です。
 
ジーク。私はこの言葉を聞くと、かつてのドイツ国民が右手を高く挙げて「ジークハイル!(勝利万歳!)」と、時の政権であったナチス党をほめたたえ、指導者ヒトラーに対する忠誠を誓いました。
 
私がドイツで牧師をしていた頃、教会のかたから「礼拝の祝福(祝祷)は、両手を使ってしてください。片手だけの祝福は絶対にだめです」と言われたことがあります。ドイツの法律では、公の場で右手を高く掲げる行為は犯罪とみなされます。祝福の行為はそれにみなされるというわけです。ドイツという国がいかにナチスの残した負の遺産というものに、敏感に反応しているかを示す、ひとつの例であると言えるでしょう。
 
ドイツという国が、第一次世界大戦の敗戦によって国全体が沈み、経済力が低迷するなかで、強力な指導者がドイツ国民の平和を訴え、それを約束しました。その結果、ナチス党政権による「強いドイツ」が誕生し、それが実現しているように見えました。しかし、結果として、第二次世界大戦のきっかけをつくり、ユダヤ人大虐殺をはじめとする、平和とは到底言い難い行動を、時のドイツは率先して行ってしまったのでした。
 
その象徴が「右の手を高く上げる」というシンボル的な行為だったのです。ですから、私は今日この行為が描かれている聖書の言葉を目にしたとき、いみじくも今日8月15日は終戦記念日であることを心に留めたときに、「右の手を上げるのは誰か?」というところに、心を寄せたいと思いました。
 
そうです!聖書において右の手を高く上げるのは、私たちの神である主御自身であると描かれています。そこで人々のあいだには、歓喜と勝利があると言うのです。主なる神のもたらす平和というものが、人を犠牲に招かず、犠牲に導こうとする人間の知恵や力というものを打ち砕く。その神のなさることを、私たちは与えられた命をもって、自分の生き方とするところにこそ、真の平和が私たちのあいだに芽生えるのだと。
 
今から2000年前、社会の隅っこに追いやられ、ややもすると社会の強い力によって尊厳が握りつぶされようとしていたのは、不思議な仕方で妊娠をした未婚の女性であったマリアでした。未婚の女性が妊娠をするということは、当時の社会では「死」を意味することでした。それゆえに死刑を宣告され、処刑されることとなったからです。
 
しかし、マリアの命は神の力強い右の手が高く上げられることによって守られました。守られるどころか、救い主となるイエスの母として、辱めを受けることは決してありませんでした。まさにマリアは両手を挙げて神をたたえることができました。確固たる平和への約束が、マリアの両手をためらいなく挙げる十分な根拠となったのでした。
 
右の手を高く掲げ、私たちに真の平和を約束してくださっている神のなさることに、心からの信頼をもって、自分の生き方としたい。それが平和を愛し、神の平和がこの世でつくり出されることを願う者としての、最低限のつとめであると受け止めて、今日という一日を生きてまいりたいと思います。
 
どうぞ、皆さんにとっての一日もまた、神の平和に満たされた時でありますように。お祈りいたします。

14/08/2022

2022.8.14 仙台宮城野教会主日礼拝説教

2022.8.14 仙台宮城野教会主日礼拝説教

聖 書 ヨハネによる福音書14章1~14節
説 教 教会の標識
説教者 牧師 齋藤 篤

道路に標識があるおかげで交通安全が保たれるように、キリストが私たち人生の道となってくださり、聖書に示された言葉のひとつひとつがの道しるべとなってくださる。そんなことを聖書から聴くことができました。

↓の動画よりご視聴ください。



2022.8.14 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編113編5~7節
私たちの神、主のような方がほかにあろうか。
高きところに座し
天にあっても地にあっても
低きに下って御覧になる方。
弱い人を塵の中から起こし
貧しい人を芥の中から高く上げられる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章6~7節より
キリストは
神の形でありながら
神と等しくあることに固執しようとは思わず
かえって自分を無にして
僕の形をとり
人間と同じ者になられました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
神はどこにおられるのか。
 
今日のふたつの聖書の言葉からいただくメッセージは「低み」であると私は受け止めました。神はいと高いところにおられる方であると同時に、決して高みの見物のように、また、高いところから無造作に何かを投げられるようなことを、神は決してなさらない。低みにまで降りてこられる方であり、私たちの傍らにおられるのだと、今日の聖書の言葉は、私たちに知らせています。
 
地獄の一丁目まで出張される神。
 
『神の痛みの神学』で知られる、神学者・北森嘉蔵がそんな言葉を残しています。ぬかるみにはまり、暗闇の底から抜け出すことのできない私たちのもとに出張される神。そして私たちをそのはまったところから抜け出すことができるように助け出してくださる方。それが神なのだと。地獄の一丁目まで出張されるとは、よく言ったものだと思わされます。
 
神の支配というものは、そういうものなのだと。上意下達のように、何かを命令して、その命令通りに下っ端が動くといったようなやり方は、一見すると統制のとれたかたちに見えるかもしれません。軍隊などがその典型例と言えるでしょう。しかし、そこには一人ひとりの状況であるとか事情というものは考慮されることはありません。必ずそこからこぼれ落ちてしまうのです。
 
もちろん、神のご命令というものは大切なのですが、そのご命令というものは、人々を苦しませ、束縛させるものでは決してありません。神は人間があらゆるしがらみによってがんじがらめにされることを、決してお望みになりません。神のご命令の目的は、あくまで人間が神とともに歩むことによって、自由と平和を得ることができるところにあります。
 
もし、神のご命令に対して窮屈な思いが感じるとするならば、私たち人間の運用のしかたに問題があるのかもしれません。私たちは心や思いのどこかに、束縛する/されることへの願望というものがあるのかもしれません。それを忌避しながらです。
 
しかし、それは神がお望みにならないことです。あくまで神は、私たちのもとに出張されるのです。そして、私たちの苦しみや痛みというものを、ご自分の苦しみ、痛みとしてくださるのです。神の子であり救い主イエスが、私たち人間と同じかたちをとられて、市井のただなかで生き、私たちと同じ釜の飯を食べ、ともに笑い、そして泣き、十字架の苦痛という道を自分で選びとられた。その神の低みによって、私たちは生かされているというのが、聖書を通して語られるメッセージです。
 
明日は日本にとっては敗戦記念日。忘却のかなたに押しやられそうな戦争による苦痛から、私たちは、その苦痛をともに担い、ご自分の平和へと私たちを向かわせてくださる神がおられるということに感謝して、今日の一日を過ごしていきたい。私はそのように受け取りつつ、今日おこなわれる礼拝のために祈り、礼拝の喜びに仕える者となりたいと思わされました。
 
どうか、世界中でおこなわれる主の日の礼拝と、その集会すべてに、低みにまでくだってくださる神の平和がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

13/08/2022

2022.8.13 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書50章6節
神の僕の言葉:
打とうとする者には背中を差し出し
ひげを抜こうとする者には頰を差し出した。
辱めと唾から私は顔を隠さなかった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章29節より
見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
捨て身になる生き方。
 
詳しいことはここでは控えたいと思いますが、どうして私は今、牧師という仕事をしているのだろうか。そんなことをここ数日考えさせられるいくつかの出来事がありました。
 
もちろん、聖書の言葉に示された福音という良いたよりを伝えるため。神が愛しておられるこの世界、そして人ひとりひとりに神の愛をもってお仕えするため。牧師のつとめとはそういうものだということを、私が信徒のときに教会で、神学校での学びのなかで、牧師という仕事が与えられてからまだまだ少ない経験のなかで、さまざまなかたちで教えられてきました。
 
そんななかで、今日私に与えられた聖書の言葉を通して、改めて実感させられたことがあります。それが「捨て身になる生き方」というものです。私たちのような牧師の働きをする者のことを「献身者」と呼ばれることがあります。献身とは自分の身をささげること。つまり、捨て身になる生き方を自分の生き方とすることだと。
 
誤解を恐れず申し上げれば、伝道に牧会、教育や奉仕という仕事に携わるときに、事務的に、淡々とノルマをこなすように、そのことを行うことだってできると思うのです。しかし、そこに「捨て身となる生き方」はあるのだろうか。たとえそのことができなかったとしても、自分自身の限界というものに打ちのめされながら、捨て身となる生き方を完璧にまで果たされたイエスの生き方というものを、いつも自分自身の心に刻みつけながら生きていくことができるだろうか。いや、そういう生き方を私の生き方としたい。イエスの弟子として。そんなことを強く思わされたのです。
 
神が私たち一人一人の命を守るために、神の下僕が与えられた。どんなに辱めを受けても、神が与えた目的のために、ただ自分を捨てる生き方の道を貫かれたイエス。私たち人間の限界をはるかに超えて働かれる神の小羊であるイエスが、私たちとともにおられる。このことを今日を生きる心の支えとしつつ、明日への備えをしたいと思いました。

皆さんの一日にも、私たちのために捨て身となられるイエスが、ともに、豊かにおられますように。お祈りいたします。

12/08/2022

2022.8.12 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編146編7節
主は虐げられている人のために裁きを行い
飢えた人にパンを与える方。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書8章6節
そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じ、七つのパンを取り、感謝してこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐのは「パン」という言葉です。パンは文字通りのパンですが、私たちの命を支えるために無くてはならない食糧すべてを指す言葉として、私たちはこの言葉を受け止めることができるのだと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉においては、パンは「飢えた」人々に対して、神である主が与えてくださるものであり、新約聖書の物語においては、イエスの言動に魅了され、イエスとともに歩んだ群衆の「空腹」を満たすために、イエスが奇跡を起こされてほんの少しのパンを増やされた出来事が語られています。
 
ここで考えさせられるのは、私にとって「飢える」体験、また「空腹」とはいったいなんなのだろうかということだと受け止めました。そこらへんにつまむものがあるから何かを食べるということではなく、「これを食べなければ命を保つことができない」という、ある種の危機感のようなものを、果たして私は経験することがあるのだろうかと。
 
イエスはしばしば、私たちの命をつなぐのは神の言葉であり、イエスご自身の言葉と行いであることを弟子たちに教えられました。それは具体的に、今私たちに対して聖書に示された言葉の数々を通して明らかにされていることを思います。では、聖書の御言葉に、私たちはそれを食べないと命を保つことができないという、ある種の飢餓感のようなものをもって見ることはあるのだろうか。そんなことを思わされました。
 
私自身の話になり申し訳ありませんが、毎日、朝起きてローズンゲンに示された聖書の言葉に向き合い、思うことを綴ってブログアップする作業は、今の私にとって毎朝の習慣にさせられていますが、時々「毎朝、そのように続けるのは大変ではありませんか?」と聞かれることがあります。
 
正直に申し上げますと、身体が疲れているときなどは、朝6時に起きるのは結構つらいこともあります。今日も6時にアラームをセットしながらも、床から起き上がったのは6時30分でした。しかし、にもかかわらずローズンゲン黙想をもう何年も続けることができているのだろうか。この日課が結果として、聖書の言葉によって生かされているのだという実感を喜ぶことのできる、私にとっては「無くてはならないパン」になっているからなのだと、黙想のなかで改めて気づかされました。
 
私は、この「無くてはならない感」というものを大切にしたいと思いました。もちろん、神の言葉に触れることは、義務や権利という側面からも見ることのできるものであるかもしれません。しかし、それらを越える根拠と理由、つまりそれが「私にとって必要なことだから」という感覚をもって、聖書の言葉に今日も接することができるのを感謝したいと思わされました。それが結果として、私自身の、またまわりを囲む環境の充足につながっていくことに、それをなしてくださる神に、心から期待しつつ。
 
今日の一日に、そのような神が共にいてくださいますように。お祈りいたします。

11/08/2022

2022.8.11 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編31編24節より
すべて主に忠実な者たちよ、主を愛せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一13章13節
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
あなたがたの神である主を愛しなさい。
 
忠実な者に向けられたとされるこの聖書の言葉を、私たちはどのように受け取ることができるのでしょうか。
 
私たちは自分の愛したいと思う者に対しては、自分の思うように愛します。しかし、今自分が愛そうと思って行使している愛が、本当に神が私たちに期待している愛なのだろうかと、じっくりと黙想することは本当に大切なことだと思わされます。
 
隣人愛と言いながら自己愛を押し付けていることはないだろうか。結局のところ、本当に隣人のために愛そうとしているのではなく、自分が感謝されたい、愛されたいという目的のために、意識的であろうと無意識的であろうと、愛のようなものを振りまいていないだろうか。そこに神の愛が中心に立っているのだろうか。今日の旧約聖書の言葉にある「主を愛しなさい」という言葉も、このような問いの延長線上にあるものなのだと感じさせられるのです。
 
私は、自分の愛したいように神を愛することができます。しかし、それは独り善がりに神を愛しているだけなのかもしれないし、神が私たちに示された「愛」というものの本質を知らずに、その愛のかたちとは到底思えないような愛というものを、実際に人に対して示している自分自身を発見することがいくらでもできます。
 
そういう愛は、本当の意味で隣人愛とはなり得ないし、愛という名のもとの支配になることだってあるわけです。愛とは支配することではなく仕えること。神の愛は、イエスによる犠牲を通して、仕える愛を私たちにお示しになりました。ですから、私たちが主なる神を愛するというのは、いかに自己愛という執着を捨てて愛を受け取り、それを心のうちにしっかりと握りしめながら、日々の営みに遣わされるかということなのだと、そう思わされました。
 
信仰も希望も、そのような愛の土台があってこその信仰であり希望であることを、今日の新約聖書の言葉を通して黙想させられます。自己愛がついつい勝ってしまう私の心に、神の愛を宿らせてくださいますようにと祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一切にも、神の愛が豊かに宿り、ともにある幸いがありますように。お祈りいたします。

08/08/2022

#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば 配信お休みのお知らせ

皆さまへ:
 
日々配信しております「ローズンゲン黙想」ですが、私が属する日本基督教団東北教区で行われる、夏季中高生・青年ワークキャンプへ参加のため、
 
8月9日(火)と8月10日(水)の2日間
 
配信をお休みさせていだきます。
 
毎日お読みくださりありがとうございます。11日(木)には再開いたしますので、今後とも引き続きのご愛読をよろしくお願いいたします。
 
齋藤 篤

2022.8.8 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書9章5節
その名は
「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一4章16節
私たちは、神が私たちに抱いておられる愛を知り、信じています。神は愛です。愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書9章には、私たちのために与えられた一人のみどりご、男の子について描かれています。そして今日選ばれた5節の言葉に続いて、6節には「その主権は増し、平和には終わりがない」とあります。神が私たちのために与えられた男の子によって、終わりのない平和が訪れる。このイザヤ書にしたためられた預言を、当時受け取ったイスラエルの国民は自分たちの希望とし続けました。
 
それは、後になって、神の助けによって若い夫婦マリアとヨセフとのあいだに生まれた幼子イエスであったことを私たちは知らされます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネによる福音書3章16節)という聖書の言葉は、まさに今日私たちに与えられた新約聖書・ヨハネの手紙の言葉に引き継がれていることを、私たちは知らされます。平和の君であるイエスを通して、神の愛が私たちのうちに宿るときにこそ、神の望まれる真の平和が、神と私たち、私たちと私たちのあいだをしっかりと結び合わせ、その平和に終わりはないのだと。
 
さて、今日の旧約聖書には、平和の君となる者について「驚くべき指導者」と書かれています。これを別な聖書(新改訳2017)では「不思議な助言者」という言葉で訳されているのが、とても興味深く思えました。随分違った印象を与えると私は感じたのです。指導と助言というものは同じ意味だろうか。そのように感じたのです。
 
その点で、インターネットのあるサイトに掲載されていた説明が、私が思っているイメージを分かりやすく伝えていると思いましたので、引用したいと思います。
 
「助言」という言葉は、「相手の役に立つような(相手の助けになるような)言葉を近い場所から言うことやその言葉の内容」を意味しています。
それに対して、「指導」という言葉は「助言のような相手の役に立つための目的」ではなくて、「教える側の意図・価値観・常識を前提にして教え導く目的」を持っているという違いがあります。
「助言」の表現は「その相手が今困っていることを解決するような役に立つ言葉(助けとなる言葉)」を意味していますが、「指導」というのは「先生・教師・親などが特定の意図に沿って教えて導くこと」を意味している言葉であるという違いを指摘できます。
(https://meaning-difference.com/?p=3914#toc3より引用)
 
このことを踏まえますと、私たちの神というのは、私たちのあらゆる状況をご存知なうえで、ご自分の愛をもって私たちとともに歩みつつ、私たちを助けご自分の言葉を与えられる方という点においては「助言者」なのだと。それも、私たちが予想もしないようなかたちで、神は私たちを平和への道へと導いてくださる。そういう意味でとても不思議で驚くべき神の御業が、私たちに与えられるのだと、私は黙想させられました。
 
私たちに一方的に押し付けるのではなく、愛と和らぎをもって私たちを諭してくださる神の平和。この平和のモデルを私も自分自身の生き方としたい。そのように願わされた朝でした。平和について深く考える日本の8月に、またしても平和にまつわる御言葉が与えられたことに感謝でした。私たちの今日の一日にも、そのような神の平和がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

07/08/2022

2022.8.7 仙台宮城野教会 主日礼拝説教

聖 書 テモテへの手紙二3章10~17節
説 教 神の霊感
説教者 牧師 齋藤 篤
 
聖書は「神の霊感によって」成立したと聖書には記されています。霊感とは、その人を全人的に活かすために吹かれた神の息吹です。霊感は人を縛るものではなく、人を解放に向かわせるものであることを、御言葉に聴くことができました。

↓の動画よりご視聴ください。


2022.8.7 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ダニエル書10章19節より
恐れるな、愛される者よ。あなたは安らいで、強くあれ。強くあれ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章20節より
あなたがたの苦しみは喜びに変わる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
私が属する日本基督教団では、毎年8月第1主日を「平和聖日」と位置付けています。昨日6日は、広島に原子爆弾が投下されたことを憶え続けるための記念式典が執り行われました。そして、9日には長崎で記念式典が、そして15日には終戦(敗戦)記念日をそれぞれ迎えます。戦争というものが、どれだけの害悪を人間に与えるものなのか。そのことを思い起こしながら、この世の中に神がお望みになられていることを今日の一日も心に刻んで、そのときを過ごしたいとただ願うばかりです。
 
さて、そんなことを踏まえながら本日の聖書の言葉に聴いてまいりたいと思いますが、今日の旧約聖書の言葉にある「安らいで」は、原語であるヘブライ語では「シャローム(שָׁל֥וֹם)」が用いられています。平和とか平安という日本語でも訳することのできる言葉です。まさに「あなたは平和でいなさい」ということです。
 
平和(平安)に逆行するのは「不安」です。今日の聖書の言葉で言えば「恐れ」です。つまり、平和という言葉が安らぎという言葉で表現できるように、平和というものは、私たち一人一人の心から生まれるものであることを、今日の聖書の言葉は明らかにしています。心安ら安らかにあるところにこそ、私の平和が、私たちの平和が、そして世界の平和が生み出されていくのだと。
 
ダニエル書では、神に愛されているという安心感が、平和を生み出すことを示しています。神に守られ、愛されているのだから鬼に金棒、何をしてもいいということではありません。神の名を用いて、神の名による「聖戦」はこうして行われました。しかし、そこに「神の愛」がなければ、その戦いは聖戦などという言葉からは程遠く、単に人間の願望が神の名を都合の良いように利用したに過ぎないのだということを、私たちは自覚する必要があるのだと思います。
 
神は私たちの命を守るために、善人にも悪人にも恵みの雨を降らせ、この世界のために救い主をお与えになられたということを考えれば、あらゆる脅威に対しても神のシャロームで臨むという、私たち一人一人の意識が神によって期待されているのだと、私は今日の聖書の言葉を受け止めていきたいと願わされました。そのような神のシャロームこそが、最終的に喜びへと変えられていくことを心から願いつつ。
 
本日、世界中の教会や集会でおこなわれる主の日の祝祭・礼拝に、そこにあずかる私たち一人ひとりに、神のシャロームがともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

06/08/2022

2022.8.6 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記4章9節より
あなた自身くれぐれも気をつけ、注意を払い、目で見たことを忘れないようにしなさい。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録3章3節
どのように教えを受け、また聞いたかを思い起こして、それを守り通し、かつ悔い改めよ。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
自分の眼で確かめたことを忘れず、教えられたこと、聴いたことを常に思い起こしながら、自分に与えられた日々を歩む者となりなさい。今日の旧約・新約聖書から聴くことのできるメッセージであると私は受け止めました。
 
自分自身の「今」を生き、「明日」に向かって歩むためには、過去をどのようにとらえ、また自分自身のうちに位置づけることができるだろうか。そんなことを考えました。私たちにとって過去を振り返る作業というのは、時には心を喜ばせ、また逆に悲しみや怒りを呼び起こすことだってあるわけです。
 
私自身、思い出したくない過去があります。それを思い出すことによって、辛い思いに引き戻されるような気持ちになるからです。だからと言って、それに蓋をし続けていても自分の将来のためにはならない。そんな風にも思うのです。だからこそ、その辛かった過去に、神がどのように関わり、私自身を明日へと向かわせたのかということを、じっくりと思い起こす作業というものが、本当に大切なんだと思わされます。
 
私自身思うことは、神は私が想像にもしなかった実に絶妙なかたちで、私の当時の出来事に介入してくださったということです。たとえ、その当時は神の介入に気づかなかったとしても、後になって「ああ、あれはそういうことだったのだ」と気づかされることが数多くあります。そういうときは大概、当時の出来事が自分の思うように進んでいかなかった場合に、しかし、それが自分自身にとって、自分自身を取り巻く環境にとって本当に良かったのだと。確かに神の介入があったのだと、振り返させられることが多くあることに気づかされます。
 
今日の新約聖書の言葉に「悔い改めよ」という言葉が登場します。悔い改めるという言葉には「方向転換」という意味があります。自分自身が進もうとしていた道ゆきを変更しなければならないと自覚した時に、いわゆる方向転換・悔い改めということが起きるのですが、私が思わされるのは、そのような悔い改め・方向転換というものを、当時いやいやながらおこなっていたとしても、後になって、神がそのように自分自身の進むべき道を整え、転換へと向かわせてくださったのだということです。
 
たとえ、自分自身にとって思い出したくもない過去の出来事も、いつか神がそのことすら生きるために必要なこととしてくださる。今はそのように思えなくてもいい。神が私にとってベストなその時をすべてご存知なうえで、私自身を明日への道に向かわせてくださる。そのことを心の希望として、今日の一日を歩んでいきたいと願わされました。
 
一週間も最終日を迎えました。私たちとともに歩んでくださる神が、この時をも私たちのために良いものを与えてくださるべく、生きて働いておられるということが、私たちにとっての希望となることができますように。お祈りいたします。

05/08/2022

2022.8.5 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編18編30節より
わが神によって城壁を飛び越える。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章7節
神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
私自身を襲うあらゆる困難、克服することができないと思わせるような出来事、それらを乗り越えることができるのは、なにゆえか。今日選ばれた聖書の言葉から、そんなことを改めて考えさせられます。
 
旧約聖書・詩編18編には、こんな表題があります。
 
指揮者によって、主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。(詩編18編1節)
 
イスラエルの王ダビデもまた、王となるまで、また王となってからも、困難から解放されることは決してありませんでした。自分の命をねらう者の存在をはじめ、さまざまな出来事が彼を悩ませました。災いというものからすべて解放されるときなどというのは、私たちの誰もが生きているあいだは、おそらく無いのだろうなと思うのです。
 
しかし、大切なことはそのような困難や悩みというものは、決して乗り越えられないものではないと、ダビデも自分の詩のなかで歌っていることに注目したいのです。「わが神によって」とダビデは歌います。自分自身の力ではどうにもならないという限界の向こう側に、神がご自分の力をもって、私がこの難局を乗り越えることができるように助けてくださるのだと。事実、ダビデはこうして命ねらう者たちから守られ、人生の日々を歩むことができました。ただただ孤独に、歯を食いしばりながら頑張り過ぎなくても良いということなのだと。
 
しかし、私たちは神の助けによって困難を乗り越えるというときに、決して忘れてならないものがある。それが今日の新約聖書の言葉にもしたためられているわけですが、それはなにか。困難を乗り越える助けとなる神の力とは、その土台に神御自身の「愛」があることを、私たちは忘れてはならないのだと思わせられます。
 
今日の新約聖書には「臆病」という言葉が登場します。私たちは、臆病になると自分自身を防御するために、しばしば攻撃的になることを知っています。攻撃的というといかにも強さの象徴とも思えますが実は逆で、弱さの露呈だったりするわけです。本当の意味での強さとは、強さを誇示しなくても、攻撃的に振舞わなくても、生きていくことができるのだという安心感から来るものなのではないかと感じるのです。
 
そうではなく、神が賜る力は、愛と思慮が込められた聖霊の力であると、新約聖書の言葉につづられています。救い主イエスが人々に示された愛と思慮が、困難を乗り越えるための土台となり、私たち一人ひとりの生き方となるというのです。イエスは、ご自分の弟子をこのような仕方で育てられました。そして、私たちもまたイエスの弟子として、神の愛と思慮によって育ててもらうことができる。今日の聖書の言葉は、そんなことを私に伝えているものだと受け止めました。
 
私のうちにある攻撃したくなる心が、神の愛と思慮によって鎮められるときに、困難に対して臆病になることなく、私もまた愛と和らぎをもってその課題に向き合うことができますようにと祈ります。またそのような連鎖こそ、この世界の平和をつくり出す者として歩む連帯となりますように。ただ、神の愛と思慮による助けによって。アーメン。

04/08/2022

2022.8.4 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記下19章14節より
ヒゼキヤはこの手紙を使いの者の手から受け取って読むと、主の神殿に上った。ヒゼキヤはそれを主の前に広げた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章6節
何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
昨日は、ローズンゲン黙想をブログアップすることができませんでした。最近、ブログ掲載がいつもと違う時間帯になりますと、お読みくださっておられるかたがたから、ご心配の声を頂戴することが多くなりました。それだけ、黙想を読んでくださっているのだなと思ったら、感謝の思いでいっぱいになりました。この場を借りて厚く御礼を申し上げます。ありがとうございます。
 
昨日は『日々の聖句(ローズンゲン)2023』の編集作業が佳境を迎えているなか、締め切りをともなう作業があったために、どうしても朝黙想をすることができませんでした。その作業は無事終わったのですが、少々身体が疲れておりましたので、昨日は思い切って一日ゆっくりと休むことにしました(あらかじめそのことをご連絡しておけばよかったと、反省しております)。そのおかげで疲れはかなり回復しましたが、徹夜すると昔のような回復は難しいなと思わされます。いつもは朝6時に起きて最初にこのローズンゲン黙想をするのですが、今朝は6時にいったん目覚めたのち、二度寝して起きたのが7時半でした。いつもより遅い配信をどうぞお許しください。
 
さて、今日の旧約聖書には、南イスラエル(ユダ王国)の王であったヒゼキヤが登場します。聖書に記されている数ある国王のなかで、ヒゼキヤは神への忠信をとても大切にした人物であると言われています。神への忠実な信仰というものが、彼の言動にどのような影響を与えたかについては、今日選ばれた「列王記下」のなかに記されています。
 
ときに、強国アッシリアからの軍事的な攻撃を受けるなかにありました。決して大きく、強くない小国であるユダ王国。アッシリアにやいばを向いたとて、そこに生じるのは犠牲だけであることを、ヒゼキヤ王は十分知っていたことでしょう。そこでヒゼキヤ王は知恵を用いて小国なりの政治を展開するわけですが、ヒゼキヤにとってその知恵の源は、神御自身にあったということが、今日の聖書の言葉からもうかがい知ることができます。
 
アッシリアから届いた侮辱的な手紙を感情的に握りつぶし、破り捨てることなく、ヒゼキヤ王はそれを神殿へ持っていき、その手紙を開いて神へ祈りをささげました。どんなときにも、自分自身の経験や知恵、感情に頼るのではなく、またその足りなさにひるむのでもなく、神の言葉に聴く態度をヒゼキヤは貫き通しました。神の言葉「に」聴く態度というものです。どんなささいなことでもヒゼキヤは神の言葉を通して、神への信仰をいただいたことで、それが彼自身の人生の土台となったというのです。
 
私自身、今日の聖書の言葉に聴くなかにあって、はてさて、私自身そのような生き方をしているだろうかと改めて振り替えさせられました。どんなささいなことにも、神の言葉に聴く態度。今日の新約聖書の言葉にもあるように、思い煩いのなかにあったとしても、神に自分をさらけだし、思いを打ち明けることで、神にアドヴァイスを求める思い、神の言葉に自分自身を沿わせようとする態度。そんな態度をもって今日の一日を歩みたいと願わされた次第です。
 
神の言葉を通して働く神の助けと祝福に、今日も私たちが包まれ、生きるための大きな励みとなりますように。お祈りいたします。

2022.8.3 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書60章1節
起きよ、光を放て。
あなたの光が来て
主の栄光があなたの上に昇ったのだから。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章5節より
あなたがたは皆、光の子、昼の子だからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
※当日黙想ができませんでしたので、翌日となってしまいましたが、聖句だけを掲載いたします。

02/08/2022

2022.8.2 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
マラキ書2章10節より
我々には皆、ただひとりの父がいるではないか。
ただひとりの神が我々を創造されたではないか。
なぜ、我々は互いに裏切るのか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章3節
へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
互いに軽蔑しあうのではなく、謙遜な態度をもって互いを尊び合う世界。これが、今日の旧約・新約聖書の言葉から受け取りたいメッセージであると私は受け止めました。
 
では、そのときに言われる「謙遜な態度」とはいったい何を指すのだろうか。謙遜という言葉について黙想を深めてみたいと思いました。今日の新約聖書の言葉にある「へりくだって」という一語についてです。
 
この「へりくだって(謙遜)」という言葉は、新約聖書の言語では「タペイノフロシュネー ταπεινοφροσύνη」という言葉が用いられています。この言葉について事典にはこのようなことが書かれていました。「それは団体生活を損い破壊する私欲と自慢に対立する」。
 
私たちは団体のなかで「生き抜く」ために、いかに競争をして良いものを勝ち取っていくかということに情熱を燃やすのを見たり経験したりすることはないでしょうか。そのために、ただ自分自身を研鑽し続けるならばまだ良いとは思うのですが、私欲ゆえに、自分が他者に勝っていることをアピールするがゆえに、他者を蹴落とすことを主な目的としてしまうならば、それは団体生活を損い、破壊するものを生み出しているかもしれないということなのでしょう。
 
カルト宗教の特徴として「信徒同士を競わせる」という特徴があります。どれだけ忠実にリーダーに従うか。そのために、どれだけ良い業績を挙げ、どれだけ多くの信者を獲得したか、奉仕活動をおこなったか、多くの献金をささげたか。そんなことを競わせれば、活気があるように見えるのは明白です。しかし、そこには今日の聖書の言葉にあるような「謙遜」は、そのかけらすら見出させないというのです。それはリーダーの私利私欲のためであり、その私利私欲の精神は、知らぬ間にメンバーの心にも浸みこんでしまっているというわけです。
 
そういうときに「謙遜」はその本質がすり替えられます。いかにも謙遜なさまを見せて、忠実にリーダーに仕えるその背後には、私利私欲にまみれた謙遜とは程遠い現実がある。だから、互いに軽蔑する思いも生まれるし、そういう思いが根付いている団体には、損失と破壊が生み出されてしまうのだと、私は改めて思わされました。
 
謙遜のモデルは、私たちのために自らの命をささげ、与えられたイエス・キリストに見ると、今日の新約聖書の言葉に続く部分でこの手紙の筆者であるパウロは綴りました。得をするのではなく自ら損失と破壊の道を歩まれたわけですが、しかしそこには豊かさがあふれ出した。私たちが互いに尊び合えるような世界が、本質にしっかりと根ざしたイエスの示された謙遜によって与えられるのだと。
 
昨日に続き「平和」について考えます。平和とは私たちの心が平安とされていること。その起伏のない地平線が広がるところには、高さ低さ、大きさ小ささで物事を判断し、それを評価し、優劣を決定する世界は存在しないのだと。私自身の心のうちにある、謙遜を破壊させるような思いが取り除かれることを願いつつ、今日の御言葉を握りしめたいと思わされた次第です。
 
今日も私たちの生きる世界に、主の平和とキリストが示された謙遜が私たちのうちに満ちあふれますように。お祈りいたします。

01/08/2022

2022.8.1 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書57章19節より
遠くにいる人にも近くにいる人にも
平和、平和があるように。
私は彼を癒やそう――主は言われる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙15章33節より
平和の神があなたがた一同と共にいてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
8月を迎えました。
 
この夏は異常に早い梅雨明け、災害を思わせるような豪雨、社会を見渡せば政治家が暗殺され、宗教という言葉が人々の心を騒がせ、海外では戦いに苦しむ方々がおられる。そんななかで迎える8月、特にこの日本では長年「平和」について心と思いを巡らせ、平和を心からこいねがうひと月として大切に守られ続けているのは、私たちの誰もが知るところです。
 
この『日々の聖句』の原著である『Die Losungen』はドイツで発行されていますので、もちろん日本の平和月間である8月を意識して、今日の聖書の言葉が選ばれたわけではありません。しかし、聖書で繰り返し繰り返し語られ、神が究極的に私たちに与えてくださるものが「平和」ですから、私たちが8月だから平和について考えるのはそうなのですが、地上を旅する神の民として神の国に向かうということは、それすなわち「平和への道」を歩む毎日を、私たちは営んでいるのだと思えてならないのです。
 
平和には癒しがある。今日の旧約聖書で語られているエッセンスがここにあります。人々の傷ついた心を慰め、励まし、倒れてしまいそうな状況にあって寄り添って、立ち上がるためにその身を起こしてくださる。これが平和の道になくてはらないものなのだと、神の言葉は私たちに語りかけます。
 
平和のために刃(やいば)を向けるのであれば、そこには必ず犠牲がともないます。人を傷つけることが平和ではない。人を傷つけるくらいならばまだ自分自身が傷ついたほうがましである。しかし、神はそのような私が傷つくことすら究極的にはお許しになられないのでしょう。神は私たちに平和を与えるために、傷つくのはたったひとりだけで良いのだという思いのもとに、いばらの冠をかぶせられ、鞭うたれ、十字架に釘つけられたイエスを私たちに差し出された。
 
まさに、イエスが「インマヌエル(神はあなたがたとともにおられる)」という名の通りに、今日の新約聖書の言葉が語るとおりに、癒しを与える平和の神が、あなたがたと共にあることを、私たちのあいだに起こる平和のために与えてくださったのだと。
 
いみじくも8月の最初の日に、このような聖書の言葉が与えられることを感謝しつつ、神の助けと力、知恵によって、平和をつくり出す者として歩みたいと願わされました。皆さんおひとりおひとりの一切にもまた、主の平和がともに、豊かにありますようにお祈りいたします。