30/09/2022

2022.9.30(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編90編4節
まことに、あなたの目には
千年といえど過ぎ去った一日のよう。
夜回りの一時にすぎない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章50節
その慈しみは代々限りなく
主を畏れる者に及びます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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私たちにとっては、とても長い一日であったとしても、神の目からすれば、千年も一日のようであるその永遠のなかで、まばたきのような一瞬のときなのだ。
 
今日与えられた旧約聖書・詩編の言葉は、私に何を伝えるものなのか、そんなことを考えているうちに、私が思ったり考えたりしていることの「大きさ」について黙想させられました。
  
悩みは尽きない。そんな思いが私を取り囲むときに、一分一秒ですらものすごく長い時間に感じることがあります。早くこの悩みから解放されたいと思えば思うほど、そこにとらわれている自分自身があれば、なおのことそのように感じるのだと。こうして、暗闇のなかをもがきながら、今という時間を過ごしているなんてことは、よくあるのかもしれません。
 
しかし、よくよく考えてみれば、私に与えられた人生のときというものは、長い歴史のなかのほんの一瞬に過ぎないのだと。人並みに80年あまりの人生を過ごしたとしても、それは長い歴史のように感じたとしても、この世界の長い歴史に比べれば、ほんの一部分のことなのだと思うのです。ましてや、永遠をつかさどられる神の歴史からすれば、それは豆粒のようなものなのかもしれません。
 
だからと言って、私の人生というものがちっぽけなものなのか。そうではありません。神の目からすればほんの小さな私の人生であっても、髪の毛一本まで残らず数えてくださる神がおられるではないか。神はどんなに小さなことでも、ご自分が与えられた命を必ず守り通してくださる御方なのだと。その神の偉大さと細かいご配慮のなかで、私という一人の人間が生かされているのだと。
 
私を支配して離そうとしない、重く苦しく、とてつもなく大きく見える出来事も、神のそのようなご配慮と、私の心や思いをはるかに超えて大きな時空のなかにおられる神のスケールの大きさによって、私のうちにある大きなものは、実は自分が苦しみ悩むほど大きなものではないということに気づかされていく。もちろん、度量の大きな神がこの小さな私とともにおられるがゆえのことです。
 
神のそのような懐の深さに守られながら、永遠のなかで今日という一日が今日も与えられて、そして生かされていく。私の今抱えている課題も、必ず神がその大きな御腕のなかで、ちいさなひなを守られるように、支え、しかるべき道へと導き、そして祝福してくださる。そんなことを胸に抱きながら、希望をもって歩みたいと願わされました。
 
私たちにとっては強大に見えても、神の世界からすればほんの小さなことなのだと。しかし、小さなものを見過ごさず、見捨てることなく大切に守ってくださる神がおられるということが、私たちにとっての平安でありますように。お祈りいたします。

29/09/2022

2022.9.29(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨシュア記5章14節より
ヨシュアは地にひれ伏して礼をし、「ご主人様は僕に何をお告げになるのですか」と尋ねた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章41~43節より
イエスはひざまずいてこう祈られた。
「父よ、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」
すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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父よ、私の願いではなく、あなたの御心のままに。
 
私が神に祈るときに、もちろん今願っていることを神に祈ります。こうあってほしい、ああであってほしいと祈るのです。しかし、その祈りが全部聞かれるわけではありません。むしろ、聞かれないほうが多いかもしれません。私が望むその時にかなえてほしいと祈っても、神は私がまったく考えもしなかった別な時に、確かに私の祈りを聞いてくださったと思うことを感じたりもするのです。
 
これらのことは、私だけでなく多くの方がお感じになられていることなのではないでしょうか。神は私たちの願望実現マシーンではない。ただ、神の御心が私たちひとりひとりに及ぶときに、私たちの想像をはるかに超えた答えが、願望以上の事柄が起き、私に臨んでくる。今までそのような「奇跡」に遭遇し、体験してまいりました。
 
人間、すべてが思い通りにいくことなどないというのは、誰もが知っているところです。だからと言って、それは神に見離されたり、見捨てられているということではありません。神の御心は私の心と別なところで働いているということです。そして、神がベストと思われるそのときに、祈り願う私たちにそのことをさやかに示してくださるということなのです。
 
だったら、私の願いを神に打ち明ける必要はないのかと言ったら、それも違うと私は考えています。私の願いを神に打ち明けることは、何ら悪いことではないのです。たとえとんちんかんなことを祈り願っても良いのです。それが神との対話そのものであり、対話があってこそ、神が投げてこられるボールを受け止めることができるからです。それが、私の予想しなかった変化球であったとしてもです。神が応答してくださる。そのことを感じとるために、私は祈りというボールを神に投げ続けたいのです。
 
そのうえで、私の願いを神に打ち明けるとともに、神はどのようなことを私に期待しているのかということを、与えられた神の御言葉を通して聴き、黙想し、祈る。そして識別するといった作業が、私自身に求められていることを改めて感じさせられます。今日もそのことを理解するための御言葉が、ローズンゲンを通して与えられることを神に感謝します。そして、真摯に祈る者とさせてくださいと神に願い求めます。そして、神がなさることに期待して、今日という一日を歩みたいと思います。
 
皆さんの一日にも、神のベストな示しがともに豊かにありますように。お祈りいたします。
 

28/09/2022

2022.9.28(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書52章9節より
主がその民を慰め、エルサレムを贖われた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章8節より
闇が過ぎ去り、すでにまことの光が輝いています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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明けない闇はない。光は必ずやってくる。
 
今日の御言葉に触れ、真っ先に思わされたことです。まさに、今の私にこれら聖書の言葉は、本当に慰めになりました。慰めに感じるような、自分にとって闇を感じるような出来事があったからです。
 
私たちはどうしても、自分の感情というものに忠実です。感情に忠実なこと自体、全然悪いことではありません。しかし、感情と感情が相対したときに、必ずしもそこに平和が生まれないことがあります。感情が自分自身を支配し、相手方の感情がどうしても受け入れられない。多かれ少なかれ、私たちが経験することです。
 
どちらの感情が正しくて、向こう側が正しくないというものではないのです。しかし、自分が正しいと思って、相手を正しくないと定めた方が私たちにとっては楽なのです。だから衝突があり、葛藤があり、その結果、闇が私たちを囲むことがあるのだと。
 
私は思います。人間同士ではどうにもならない感情の行き交いがあったとしても、すべてをご存知なのは神なのだと。その神が、双方に慰めを豊かに与えてくださるのだと。慰めを通して平安が明らかにされるときに、闇が闇のままでは終わらない。必ず光を感じとるときがやってくるのだと。
 
今は闇かもしれない。闇がしばらく続くかもしれない。闇であり続けることに、嫌気がさしてくるかもしれない。しかし、闇のまま終わることは絶対ないのだ。神がその時も慰め、必ず光をその心にさしてくださるのだと。そのことを希望として、今日も生きていきたい。前向きに歩んでいきたい。そう強く思わされました。
 
今日一日の歩みに、まことの光であるイエス・キリストの輝きが、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。

27/09/2022

2022.9.27(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ダニエル書11章32節より
自分の神を知る民は揺るがず行動する。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙11章24節
信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの娘の子と言われるのを拒みました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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自分自身が「揺るがないため」にはどうしたらよいか。そんなことをふと考えました。強靭な精神力と体力、経済的に困ることのない財力、社会的な立場や地位、それを支えてくれる人々など、いろいろなことが考えられます。そして、そのことを追い求めるために日々努力する。そのことに歯を食いしばって頑張って成果を見る。これが社会の一般常識のように私は思ったりします。
 
そのようななかで、今日の新約聖書の言葉をみますと、のちに出エジプトのリーダーとして神から用いられたモーセが、なにを「揺るぎない源」としたのかについて記されていることに気づかされます。モーセは成人したとき、ファラオの娘の子と言われるのを拒んだと聖書には記されています。
 
ファラオの娘の子。つまりエジプト王族のひとりとしての地位であることを拒んだのがモーセだったというのです。世間一般の感覚であれば、王族であることのほうがまさに「揺るがない人生」でい続けるためには、絶好の機会であるように思えるのです。何一つ生活に不自由しない環境が、王族には備わっている。これをあえて拒む理由はどこにあるのだろうか。そう思われるのが自然なのではないかと。
 
しかし、モーセはそうではなかった。モーセは「信仰によって」そのようにしたと、聖書は私たちに伝えます。彼にとって揺るぎないことへの源は、この世の中一般で受け入れられているような地位や名声、体力や精神力、経済的な裕福ではなく、自分自身の命を守り、育み、励まし慰め、祝福を与えてくださる神の助けと導きであったということです。
 
結果として、モーセのその後の人生は、実に波乱万丈に満ちあふれたものでした。まさにそれは「いばらの道」と言っても言い過ぎではない、そういう人生をモーセは歩むことになります。王族のままでいれば、絶対に経験することのなかった人生であり、ある意味で言えば、安定を捨てた馬鹿な奴と思われてしまうような人生の選択でした。
 
しかし、どうでしょう。モーセはエジプトの圧政のもと奴隷とされ、苦痛を覚えながら生きていたイスラエルの民が、再び神の守りによって生きることができるために、その人生を神とともに歩んだ。そのことがすなわち、神によって実に揺らぐことのない人生が与えられて、神とともに歩む幸いというものを経験することができた。それがモーセでした。
 
神が与えられる揺るがなさ。これはなかなか受け入れられることがないかもしれません。目に見えて安定を提供してくれるもののほうが、揺るがないために必要だと思われるのです。神を信じたところで飯が食えるか。それが現実です。だから、神を知り、理解し、信じるというのが、まるでお花畑の話のように思えるのかもしれません。
 
しかし、神とともに歩むという道は、結果として神の揺るがなさを実感できる道なのだと、私は希望のうちに受け止め、それを握りしめながら神にすがって歩みたいのです。何とかなる。神がそうしてくださるから。もちろん、独り善がりな思いを神が実現させてくださるというのとは違います。神に与えられた使命というものを誠実に果たそうとするときに、自分自身が神によって与えられている命の尊さを大切にしようとするときに、必ず神はおぼつかない歩みをする私を、しっかりと支えてくださるに違いない。いや、支えてくださるのだと。そして、祝福を与えてくださる神がおられるのだと。
 
そんなことを黙想しながら、今日の聖書の言葉をいただきました。今日も相も変わらず私の状況は、そして心は揺らぐでしょう。しかし、私がどれだけ揺らいでも、神がともにいてくださる。それだけで十分な慰めと励ましを思う、ひとときをいただくことができました。感謝です。どうぞ、皆さんの一日にも、揺らぐことなく私たちの命を守ってくださる神がともにおられることを、実感できる出来事がありますように。お祈りいたします。

26/09/2022

2022.9.26(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章18節より
私を立ち帰らせてください。
私は立ち帰りたいのです。
あなたこそ私の神、主だからです。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書20章27節
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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私たちには帰る場所が確かにある。
 
今日与えられたふたつの聖書の言葉を通して、私が感じたことです。私たちには確かに帰ることのできる場所がある。神のふところという場所にです。
 
神から遠く離れてしまったような経験。私たちは昨日も礼拝の機会をいただくことができました。日曜日は教会へ行って礼拝のひとときを持つということが、すでに習慣となっておられる方も多くおられるかと思います。それが身体に染みこんでいる。それは、今日の旧約聖書の言葉を述べた預言者エレミヤの時代も同じでした。イスラエルの民は、神殿での礼拝を自分たちの習慣としていたはずです。
 
しかし、どんなに宗教行為をしても、イスラエル人の心は神から遠く離れていた。この心を神に立ち帰るようにと告げることを、人生の務めとして与えられたのがエレミヤでした。機械的に行うことができても、そこに心がともなっていない。実は私もこういうことがしばしばあったりします。行っているということだけで、すべてが満足したような気分になってしまう自分自身を見つけることができるのです。
 
もちろん、行いは大切だと私は思っています。行いを通して自分自身の心のありよう、心のうちにある本心というものが隠れたところから顔を覗かせ、それに気づかせることもあるからです。ただ、そうであれば良いのですが、知らず知らずのうちに神を信じている、神とともに歩んでいると思いこみながら、自分の思いや心、行いが明らかに神とともに歩んでいないなあと思わせられることもある。
 
だから、帰る場所が必要なのだと、今日の聖書の言葉を通して痛感させられたわけです。神から「帰っておいでよ。私はあなたをこれからも守り続けるから」という、神の声が聞こえてきます。「私はあなたと共にいる」という意味の名を持たれた神が、どんなに遠く離れてしまった私に手招きをして、また迎えてくれる。安心して帰る場所があるならば、またやり直すことができるのだと。いわゆる「失敗」をしたら、感嘆に見捨てられてしまうような世界とは違うところに、神が与える幸いがあるのだと。私はそのようにこの言葉を受け止めたいのです。
 
イエスの弟子のひとりであったトマスは、ほかの弟子たちに遅れて復活のイエスと出会いました。なかなか復活の真実を受け止めることのできないトマスに、信じるという場を与えてくださいました。そして手にしっかりと付けられた釘跡を見せて、それに触れさせようとされたのがイエスでした。見て、触れて、確かめることのできるような場を、信仰の実体であるイエスが、トマスにともなってくださった瞬間がここにありました。
 
私たちが探し求めなくても、さ迷い歩かなくても、帰る場所が確実に供えられている。私たちにできることは「帰りたい」というひと言なのかもしれません。このような黙想が与えられたことに感謝しつつ、新しい一日を歩みたいと願いました。皆さんの一日も、神様の豊かな守りと祝福がありますように。心よりお祈りいたします。

25/09/2022

2022.9.25(日)仙台宮城野教会主日礼拝説教

2022年9月25日
仙台宮城野教会主日礼拝説教

聖 書 マタイによる福音書12章1~8節
説 教 それ、神が言っていることですか?
説教者 牧師 齋藤 篤

私たちが聖書を「規範」として読む時に陥りやすい罠がある。そもそも規範とは何なのか。それをイエスはどのように明らかにされたのかを、聖書が語る本質に注目しながら、メッセージを聴くことができました。

↓の動画よりご視聴ください。


2022.9.25(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編121編3節
主があなたの足をよろめかせることがないように。
あなたを守る方がまどろむことがないように。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一1章7~8節より
私たちの主イエス・キリストは、あなたがたを最後までしっかり支えて、非の打ちどころのない者にしてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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非の打ちどころのない者にしてくださるイエス・キリスト。
 
今日の新約聖書にあるこの言葉に、なんとなく「ひっかかり」を覚えました。そのあたりを黙想してみたいと思います。どうしてひっかかりを覚えたのか。おそらく、非の打ちどころのない状態には程遠い私自身を発見しているからなのかもしれません。
 
この言葉は、使徒パウロがコリントにある教会の信徒に宛てて書いた手紙の冒頭部分にあるひと言です。しかし、このあとにパウロによって書かれることは、いかにコリント教会というところが、さまざまな問題を抱えていたかを明らかにしています。分派の問題からはじまり、個人の生活や賜物にいたるまで、とうてい「非の打ちどころのない」とは言い難い状況が、コリント教会にはありました。
 
そのようななかで、パウロは「イエス・キリストがあなたがたを最後までしっかりと支えてくださった」うえで、最終的には非のうちどころのない者として神の御国を迎えることになると手紙にしたためました。つまり、教会にある種々の問題を解決し、私たちをそのなかで生かし続けることができるのは、ほかならぬイエス・キリストであり、イエスの助けなしには何も成り立たないことを、パウロは説明したかったのです。
 
イエスの助けを私たちが切に求めるためには、イエスがどのような心と思いをもって私たちに接してくださるかということを理解しようとする態度が、まずなによりも必要であると私は受け止めました。聖書を読むときの態度。それは、私たちを最後までしっかりと支えてくださるイエスの心を、私たちがゆがみなく、都合の良いところだけを取り出すことのないように、キャッチし続けようという願いから来ると私は受け止めました。
 
その基本にあることは、コリント書のなかにもありますように「愛」です。イエスは、神を愛し、隣人を愛すること。これこそ律法を全うするものであると言われました。神を愛し、隣人を愛するに先立って、神が私たちを深く愛し、救い主イエスを差し出すまでの愛を示してくださった。この愛のモデルがあって、はじめて私たちは神を愛し、隣人を愛することが可能となるのだと。この愛が基本にあって、イエスを私たちは見るのです。愛がなければ、信仰も希望もないのだと、イエスの心を理解していたパウロも告げているほどです。
 
この愛を私たちはイエスから受け取るときに、今は不完全で落ち度だらけの状態が私のうちを取り囲み、縛り付けていたとしても、そのなかで少しずつイエスの愛で歩むことができるのだと私は受け止めました。イエスの愛を聖書のエピソードから学び取り、自分自身の心の糧とするときに、必ず、この世にある数々の課題に向き合い、神とともに、イエスとともに歩む足取りがしっかりとしたものになるのだと信じたいのです。それは、今日与えられた旧約聖書の言葉にある通りです。
 
今日も、世界中の教会や集会で、神の愛が語られます。神の愛が世界の中心で叫ばれるときに、私たちのうちに変革をもたらし、何かか必ず起こるのだ。そんなことを胸に抱きつつ、今日という一日を歩みたいと思います。皆さんの一日が、そのようなイエスの愛によって支えられますように。心よりお祈りいたします。

24/09/2022

2022.9.24 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼファニヤ書1章12節より
私は捜し回る。
ぶどう酒のおりの上で身じろぎもせず
「主は幸いも災いももたらさない」と
心の中で言っている者を。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録3章17~18節より
あなたは、「私は裕福で、満ち足りており、何一つ必要な物はない」と言っている。そこで、あなたに勧める。豊かになるように、火で精錬された金を私から買うがよい。自分の裸の恥をさらさないように、身にまとう白い衣を買い、また、見えるようになるために目に塗る薬を買うがよい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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自分自身が見えているようで見えていないことの不幸。
 
今日の二つの聖書の言葉を通して、私が最初に感じた印象です。そのことを黙想してみたいと思いました。
 
今日の旧約聖書の言葉が語っているのは、ぶどう酒の滓(おり)の上で身じろぎもしない人間の姿です。こんなことは実際の世界ではありえない光景なのですが、ぶどう酒を醸造した樽の底には、たくさんのかすが沈んでいているわけです。ぶどう酒がまずくならないためには、このかすを取り除かいて容器などに注ぐ必要があります。
 
つまり、取り除かなければならないものを取り除くこともせず、なんの行動もしない人間の姿。そのことすら気づくこともなければ、自分で取り除くことができなければ、それらを除去してくださる神に願うこともできるはずなのに、その神に対しては「幸いも災いももたらさない」と言い、神に寄り頼むこともできない状態。そういう意味なのだととらえました。
 
そのような思いはどこから来るのだろうか。それは、自分自身の状態を見つめることができず、自己認識ができないから、自分自身に何のケアをする必要もないというところから来るのだろうと私は感じました。セルフケアというものが、いかに大切かということを思わせられるのです。
 
セルフケアなどしなくても健康に毎日を過ごすことができる。まさに10代20代の頃は、自分自身の健康などに気を遣うことなど私はなかったわけです。いわゆる暴食する毎日を過ごしていました。自分の意のおもむくままに食べたいものを食べ、飲みたいものを飲む生活の結果、私は長いこと肥満と付き合い続けてきました。
 
しかし、40歳を超え50代に近づきつつある今、肉体的にも精神的にも健康に暮らすためには、己を知り、セルフケアを意識して行うことの大切さをつくづく思わされています。まだまだ肥満の域に達している者ではありますが、ケアすることの幸いというものにも目を向けたいと心から願うようになっている今日この頃です。
 
自分自身のありようを見つめて、そんな時分に神が私の現実を探し求め、関わってくださり、ケアすることの大切さを知らせ、そのために具体的な助けを与えてくださる。この「神によって助けられることで、私自身は幸いに生きることができるのだ」という自覚を大切にしたい。そんなことを感じさせられたわけです。
 
今日の新約聖書の言葉にある「火で精錬された金」とは、何度も溶解することによって不純物が取り除かれて、純度の高い状態の金のことを指します。不純物を完全に取り除くことができなかったとしても、自分自身のうちにある不純なものに気づくだけでも、とても大切なことと言えるでしょう。究極的に、不純なものを取り除いてくださるのは神御自身に他なりません。
 
裸をさらさないように白い衣を着ることや、目薬を塗ることが勧められています。白い衣は裸の王様のような状態を指すのだろうと思いますし、目薬を塗る行為は、自分自身を見つめるために無くてはならないものであることを想像させてくれます。
 
今日で一週間の旅路を終えようとしています。その最終日であるこの一日が、その旅路を振り返って、自分自身を見つめるとき、そこに神がどのように関わり、気づきを与えてくださったかを感じとることができるようなとき、明日から始まる新しい週を目の前にして、その備えとなるような一日となりますように。心からお祈りいたします。

23/09/2022

2022.9.23 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上12章22節より
主はあなたがたをご自分の民と固く決めておられる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章8節
あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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主はあなたがたをご自分の民と「固く決めておられる」。
 
今日与えられた聖書の言葉は、神の私たちに対する揺るぎない決意を知ることのできるものであると、私は改めて受け止めることができました。
 
聖書には、その最初から神の私たちに対する思いをうかがい知ることができるわけですが、それは「人間に『生きる道』を与え続ける」という一点において、決してブレることのない神の姿であると言えます。ご自分の似姿として人間を最高の愛情をもって創造され、どんなに人間が神の愛を踏みにじり、背を向け、裏切り続けたとしても、あくまで神は創造に込められた思いを撤回することなく、今日まで人間と歩み続けることに徹し続けられた神がおられるということです。
 
私たちは神を簡単に忘れます。すぐに疑います。神を無意識のうちにないがしろにした方が、豊かな人生を送ることができるのではないかと考えてしまいます。神を信じるということが非科学的であり、おとぎ話の世界であり、現実を直視していないあらわれだという波に吞まれてしまいます。神の権威を利用して、あたかも自分自身の努力がすべての成功につながっているのだと豪語し、それを生きる柱にしようとします。程度の差こそあれ、神を信じていると言っている私が、容易に振り返ることのできる数々です。
 
しかし、そんな私をご自分の民と固く決めておられる神がいるのだ。この世の中の論理だったら簡単に見捨てられても言い訳の出来ない私をです。そして、神はそんな私にイエスを与えてくださった。イエスの生き方に示された神とともに歩む幸いというものを教え、伝えてくださった。そして、そのことに命をささげ、その命こそ神の決意を確かなものとする永遠の喜びへとつなげてくださっているのだと。
 
そのような幸いこそ、今日の新約聖書の言葉で綴られている「恵み」であり、神が私たちに示してくださる信頼にすべてを応答された、信仰の実体としてのイエス・キリストがおられるから、私たちは今日の命を歩むことができるのだと。それは、決して自分自身の能力や努力の賜物ではない。神がくださった賜物なのだと。今日の聖書の言葉を通して、そのように改めて感じさせられました。
 
私自身、ここのところ自分のからだに走った痛みのことや、なおも続くカルト宗教被害の実体に向き合うこと、自分自身を取り囲むさまざまな問題課題。それらのことで押しつぶされそうな自分自身がありました。しかし、神はそんな私を決して見捨てることなく、ひとつずつ解決への道を与えてくださる。そのことと向き合いながら前を進む道を、神がしっかりと手をつかんでともなってくださる。今日も生きようという気持ちがあふれてきます。
 
今日は早朝の黙想はせず、午前中ゆっくりと休みつつ黙想しながら、この文章をしたためました。少々遅くなりましたが、心から神に感謝しつつ、皆さんと共に聖書の言葉をいただけたことを感謝いたします。今週2回目の連休初日の今日からの数日間、皆さんの命をしっかりとつかんでくださる神の守りと平安がともにありますように。お祈りいたします。

22/09/2022

2022.9.22 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編89編9節より
主よ
誰があなたに並びえましょうか。
力強い方、主よ
あなたのまことがあなたを囲みます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章17節より
私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与えてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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神が与えてくださる「知恵と啓示の霊」とはいったいなんだろうか。そんなことを、今日の聖書の言葉を通して黙想してみたいと思いました。
 
さまざまな「知恵」があふれるこの世界で、神が与えてくださる知恵とは、今日の旧約聖書の言葉によれば、神のまこと、つまり神御自身の誠実さをもって、うそやまやかしのない姿を私たち一人ひとりに示してくださることによって、明らかにされる知恵のことであると私は受け止めました。この知恵を私たちは、聖書の言葉と聖霊による神の助けによって受け取り、それを自分自身の生き方とすることができるというのです。
 
知恵は何のためにあるのか。そんなことを考えるときに、知恵は自分自身を守る盾のような役割を果たすことを、私たちはよく知っています。ただ、自分自身を守ろうとするときに使う知恵によって、他者の尊厳までも汚し、犠牲を与えてしまうような知恵は、今日の聖書の言葉で示されているような、神が与えようとしている知恵とは程遠いものであると感じます。神が与えてくださる知恵とは、あくまで私たちの生活に平安を呼び起こすようなものである。つらく、苦しいことがあったとしても、その場面を神とともに歩むことで共存し、乗り越えることができるような知恵なのだと思うのです。
 
また、知恵とともに与えられるのは「啓示の霊」であると、今日の新約聖書の言葉は語ります。啓示とは先を見通すために与えられる言葉や示しのことですが、それは、未来を予想するといったいわゆる予言のようなものというよりは、物事の判断をし、神の御心によって今ある状況や今後の身の振りというものを識別するために与えられる聖書の言葉、つまり神から預かった言葉としての「預言」を理解するために与えらえる聖霊のことを指しているのだと、私は受け止めました。
 
知恵は、私たちのうちから起こるものではなく、神が私たちに与えられるものであるという意識と自覚が養われていくならば、神とともに歩む幸いを味わうことができるのだと。そのために、神が与えてくださった聖書の言葉と聖霊の導きの両輪によって、今日の一日を進み行く者でありたいと願わされました。この両輪の助けをいただきながら、決して気負うことなく、平安のうちに、今日という一日を歩むことができますように。お祈りいたします。

20/09/2022

2022.9.21 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ12章5節
主をほめ歌え、主は大いなることをされた。
これを全地に知らせよ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録14章27節
(パウロとバルナバがアンティオキアへ)到着すると教会の人々を集めて、神が彼らと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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私はあることを思い出していました。
 
ずっと憎しみを抱き続けていた人がいました。この人のおかげで人生がめちゃくちゃにされたと思い続けていました。だから本当に嫌いでした。できるだけ顔を合わせたくない。そう思って生きてきたのです。うらみの感情というものは、そう簡単に消えることはない。それは事実でした。
 
牧師になって数年が経った頃、その人が亡くなったという話を聞きました。うらみ憎しみの思いなど忘却のかなたにありましたが、引き金を引いたように、またあの嫌な思い出がよみがえってきました。しかし、その後のひと言で、その思いが一変します。
 
最後は、今までの自分自身が散々人に迷惑をかけてきたことを懺悔して、神様がすべてを許してくれることを信じて、洗礼を受けたという話でした。洗礼を受けた数日後に、その方は息を引き取ったというのです。
 
私は、金づちで頭が殴られるような思いがしました。神による人への救いを宣べ伝える仕事をしていながら、自分自身のなかに凝り固まるうらみつらみのために、伝えることのできたかもしれない相手に伝えることすらしていなかったということにです。
 
私の心では、どうすることもできなかった。限界があり、無理があり、なにしろそれを拒んでいた自分自身がいた。しかし、絶対不可能を可能とする神の御業は確かに存在していた。そして、かくして門は開かれたのだと。
 
私は、今日与えられたふたつの聖書の言葉を通して、神の御業が救いの門を異邦人へ、そして全世界へ広げてくださったという言葉に触れて、そのことを思い出さずにはいられませんでした。私が決して解決しない、これは無理だと思うのは当然のことです。それは、私がなんとかしようと思っているのですから。
 
しかし、神は門を開けてくださる。門戸を広げてくださる。このことを私の希望としたい!そう思ったのです。そう思ったら、今感じているつらいことも、乗り越えられそうだ。そう思ったのです。
 
そのように感じておられる方が他にもおられましたら、このことのために一緒に希望を抱くことができますように。それをなしてくださる神に御顔を向けて、今日も歩むことができますように。お祈りいたします。

2022.9.20 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ42章1節より 
私は彼に私の霊を授け
彼は諸国民に公正をもたらす。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書10章42~43節より
あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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神は、ご自分の僕(しもべ)たる者に、ご自分の御心を授けることで、その僕は、この世界に対して公正をもたらされた。今日の旧約聖書の言葉がそのように私たちに示しています。
 
公正とは、その字のとおり、公に正しさが示されることです。つまり、神が公正を示されるというのは、公に神の正しさが明らかにされ、その影響によって世界が進んでいくことを意味しています。その公正さは、神がお選びになった僕によって具体的に明らかにされることが、神の願いであるということになります。
 
僕とは誰のことでしょうか。それは神の民とされている者すべてであると言って間違いありません。神の御心はご自身の霊、つまり聖霊の働きによって私たちひとりひとりの生き方に神の公正さがあふれてくることを、神は期待しておられます。別の言い方をすれば、神の喜びというものが、私たちひとりひとりの存在そのものであって、私たちが神の喜びによって生きるときに、神の公正さが全世界に広がりゆくことを、今日の聖書の言葉は私たちに希望として告げているのです。
 
昨日、イギリス前国王であるエリザベス2世の葬儀が執り行われました。多くの方々がライヴィに釘付けになったのではないでしょうか。そして、葬儀はとても感動的なものであったという感想を多く聴きました。私は残念ながら観ていないかったので、想像の域を超えないのですが、ひとりの人物の葬儀がここまで感動を呼び起こすのは、その人物を通して神の荘厳さや公正さというものが明らかにされたことが、自覚無自覚の別にかかわらず、人々のあいだにあったからなのではないか。そう思ったりもするのです。少なくとも、キリスト教葬儀の目的とは、故人をたたえることではなく、故人の生涯を通して神が公正を示され、祝福と喜びをその人の人生に与えたということの表明の機会であると、私は思っています。
 
イエスは、神の公正について、それは世界の王たちがふるうような支配のかたちとは一線を画したかたちで弟子たちに伝えています。王なのだから、トップダウンに人々を支配するのはある意味当たり前のことです。しかし、そうであってもそうではない。人々に仕える僕であれと、イエスはそう語られました。神の御心に仕え、その仕える心が具体的にこの世に示され、人々に示されるときに、神の公正さが明らかにされるのだと。人間に中心になるのではなく、神が中心に立たれる正しさというものがです。
 
仕えるというと、奉仕という言葉が私たちの思いや心に浮かびます。人よりへりくだって、人のしたがらないことをすることこそ奉仕なのだと。そのような話を耳にすることがあります。確かにそうかもしれません。しかし、奉仕とは結果として、神御自身の公正さがあふれ出ることが主な目的であって、私たちの頑張りが目的ではありません。神の喜びというものがこの場にあふれ出るようなもの。それが仕えるということのもたらすものなのだとすれば、神が私たちに僕としてお選びになられていることを、もっと自分自身の生き方というものに反映できるようにしていただきたいと、私は願わされました。

今日も全世界に、神の公正が示され、広がりゆくことの喜びを、私たちひとりひとりが味わうことができますように。お祈りいたします。

19/09/2022

2022.9.19 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編103編6節
主は虐げられているすべての者のために
正義と公正を行う。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書12章46節
私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
私は光として世に来た。

イエスは人々に対して、自分自身の目的について語られました。それは、神がこの世界をつくられたその最初から示されたことであったと私は受け止めました。
 
神は天地創造の最初に「光あれ」と宣言されることによって、混沌であった世界にご自身の働きを加えられたことが、旧約聖書・創世記の冒頭に記されています。混沌。それはぐちゃぐちゃな状態であり、闇が深淵の極みにまで及んでいて、とうてい光が届くことなどありえないと思えるくらい、闇に覆い囲まれていたことを想像できます。
 
しかし、光あれ!と神が宣言された途端に闇に光が投じられることによって、そこに整理がつけられました。光を光として感じることのできる世界が始まり、そこから多くの命が神によって生み出されます。命は光を必要とする。まさに、神の働きは無理とも思えるような状況を可能なものとし、闇のなかでもがき苦しむことのないように、すべてを整えてくださった。それが神の御業そのものであるというのです。
 
今日の旧約聖書の言葉で、神は虐げられている人々のために、ご自分の正義と公正を明らかにされることが描かれています。虐げられている状態。それはまさに闇のなかをさまよい歩いている状態に相通じるような気がします。光を見い出したい。しかし、光が見えない。そんなイメージです。そのような闇の奥深くに一条の光が差し込むときに、神は私たちのためにご自分の正しさというものを示されることを宣言されます。この正しさによって私たちは闇のなかで光を見い出すように、命を得、それによって生きることができるのだと。
 
神の正義の公正を自分自身の生き方とし、神の御業を何よりもの希望であると宣言し、それを私たちに示されたのがイエスでした。私は光としてこの世に来たというイエスの目的は、その言葉どおりに、神が与えてくださる光によって日々の生活に希望を抱くことができるのだと。私たちに教えてくださいました。まさに、そのイエスという信仰の実体を、私たちは神からギフトとしていただいているのだと、今日の聖書の言葉は私たちに伝えています。
 
闇に囲まれてどうにもならない。私自身、そのことでもがきます。神の御業を知っているのに、自分自身の正直な思いで張り裂けそうになることもあります。しかし、だからこそ、イエスの言葉に秘められた光をいただきたい。そう思いたくなるし、すがりつきたい。そして、少しでも光を感じることができるときに、ああ、神は生きて働いておられるのだということを、心の底から実感することができるのだ。できているのだと喜ぶことができる。今までもそうだったし、これからもそうなのだと信じることができるのだと。
 
イエスという信仰の実体を、御言葉を通していただくことが今日もできることに感謝したいと思います。今日の一日もまた、そのような日でありますように。日本では台風の災害が、また世界中で起きているさまざまな災いによって闇を感じるなかにあっても、神があててくださる光が、大きな慰めと励ましの源となりますように。お祈りいたします。

18/09/2022

2022.9.18 仙台宮城野教会主日礼拝説教

2022年9月18日
仙台宮城野教会主日礼拝説教

聖 書 創世記1章1~5節,ヨハネによる福音書1章1~5節
説 教 神のことば
説教者 牧師 齋藤 篤

聖書が神のことばと言われます。しかし、言葉のあとには必ず神の働きがあり、混乱した世の中、私たちの心に光を与え、その混乱を明らかにして平安へと導かれる。その働きに先立つことばを、私たちは聖書から聴くことができるのです。
 
↓の動画よりご視聴ください。


2022.9.18 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
民数記9章18節より
イスラエルの人々は主の命によって進み、主の命によって宿営した。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙3章17節
何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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主なる神の命令によって進み、また宿営する。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エジプトの地を脱出したイスラエルの民たちが、神によって約束された土地に向かうまでに何を生活の基本にしたか、ということについて語られたものです。
 
主の命令によって、という言葉が何を意味するのか。そのあたりを黙想したいと思いました。旧約聖書に対応する今日の新約聖書の言葉は、それを「主イエスの名によって」というひと言で表現していると、私は受け止めました。
 
私たちは、主のご命令によってと聞けば、何をイメージするでしょうか。プロテスタント教会に属している私なんかがすぐに思いつくのは、聖書の言葉にしたためられた神のご命令であるというイメージです。そして、それを律法の言葉のように感じてしまうこともあったりするわけです。
 
しかし、この時に注意しなければならない。そう思うことがあります。聖書において、イエスの名によって行うことが大切にされるべきこととは何なのか。イエスは、そのことをしっかりと弟子たちに伝えていることがわかります。
 
「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」
(マタイによる福音書22章37~40節)
 
この二つの戒めに、律法全体と預言者、つまり当時それしかなかった(旧約)聖書の全体がかかっているのだと、イエスは語られました。つまり、イエスはその人の命を尊び、守り、ともに歩んでくださる神の愛が基礎にあってこその、神のご命令であることを明らかにされます。その神の愛が人々のあいだに分かち合われることが、隣人を愛するという具体的な私たちの生活へと反映されるのだと。
 
イエスが宣教中、一番批判したのは「神の愛が取り除かれた律法の解釈と運用」でした。律法を生活指針とする人々には、その動機というものが問われました。その動機こそが、神がどのように人間を取り扱われているのかということへのイメージであり、そのイメージこそ神の愛であるというのです。
 
ですから、私はこうあらためて思わされました。神の愛を聖書から聴きとり続けることで、神の愛が具体的に私たちの生活にどのように働き、私たちの生きる決断となり、それによって日々を歩み、そしてときに休息することでそれを振り返ることができるのかを確かめ続けていく大切さがあるのだと。
 
私自身、神の愛をはき違えていると感じることが多々あることを思わされます。神は本当にそのことをお望みなのだろうか。聖書に示されたことばを文字を追って読み進めるにしても、そこにも私たちの思考や感情には限界というものがあることを認めるならば、自分の思いや心というものを絶対化して、それを盾にして、剣にして振舞おうとすることから少しでも解放されるのではないか。自戒しながら、主の命令によって歩み、宿営するものでありたいと願わされました。
 
今日、世界中でおこなわれる主の日の礼拝や集会のすべてが、御言葉に示された神の愛によって立ち止まるひととき、そして歩み出すスタートとなることができますように。そのことを祈りつつ、一日を過ごすことができますように。お祈りいたします。

17/09/2022

2022.9.17 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編89編15節
正義と公正は王座の礎。
慈しみとまことはあなたの前を進みます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙3章12節
ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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慈愛を土台とした正義。
 
今日与えられたふたつの聖書の言葉を通して、私の心にこんな言葉が思い浮かびました。正義という言葉をめぐって、黙想を深めてみたいと思います。
 
昨日、こんな会話がありました。どうしてプロテスタント教会にはこれほどまでの教派やグループが数多く存在するのだろうか、という問いについてです。ある意味、プロテスタント教会の「お家芸」というか、アイデンティティーとも言えるのが、いわゆる「多種多様なかたち」であるとも言えるでしょう。もちろん、組織内に多様な考えがあったとしても、カトリック教会のような監督制度のように、教皇の勅令のようなものに全世界の教会が倣うというものは、プロテスタント教会にはありません。
 
プロテスタント教会における500年の歴史のなかで、教派やグループというものは「神の御心を御言葉に聴き、より具体的に表現した」ゆえの産物であると私は思いますし、そこにはそれらグループをつくりあげ、それを保ち、改革していった信仰者の信仰の表明であるとも思っています。それも、神が多種多様なかたちを祝福として与えていると信じたいのです。
 
しかし、どうしても避けられない現実もあります。多種多様なかたちの「違い」ゆえに、ときに葛藤が起き、衝突が生まれ、それぞれが抱く「正義」がぶつかり合うということです。自分自身に与えられた道は「正しい」と信じているからこそ、違いが生まれ、その違いも表出されるわけです。私は、違いというものがこの現実の世界で、完全に無くなることはないと思っています。むしろそれらが明らかにされてこそ、私たちはなお、神の御心を求めるべく動かされるとも思っているからです。
 
ただし、私は今日の御言葉を通して是非とらえたいと思いました。それは、私たちの正義の土台がどこにあるのか、ということです。今日の聖書の言葉には、それは神がこの世界を愛し、私たちを愛し、いつくしんでくださるということが示されています。つまり、この神の慈愛があってこそ、私たちの正義というものもまた神から与えられたギフトであることを、私は忘れてはいけないのだ。そう思ったのです。
 
それぞれに与えられた正義がぶつかり合う。しかし、大切なのは、その正義から神の慈愛というものを取り除いてしまうならば、正義の衝突は犠牲しか生まなくなってしまうということなのだと私は思います。自分自身を中心に物事を動かそうとする「自己正義」が、神の慈愛に基づいた正義を押しつぶしてしまうのです。
 
多種多様な世界のなかで、その違いゆえに葛藤や衝突が起きたとしても、本日の詩編のことばのように神の慈愛がしっかりと土台に据えられて、そのうえに私たちが立たされているならば、神の慈愛を土台とした正義のおかげで、少しでも何かを乗り越えることができるのではないか。そう願いたいのです。決して神の威を身にまとって、自分自身の正義をさも神の正義のように振る舞うようなことがないためにもです。
 
そんなことを心に刻みながら、今日も多種多様な私たちの姿の足元に働かれる神の慈愛を感じ取りながら、生きてまいりたいと思います。皆さんの一日に、神様の祝福と平安、そしてなによりも慈愛が豊かにありますように。お祈りいたします。

16/09/2022

2022.9.16 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書32章18節
私の民は、平和な住まい、安全な家
心配の要らない安らぎの場に住む。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章19~20節
ですから、あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。あなたがたは使徒や預言者から成る土台の上に建てられています。その隅の親石がキリスト・イエスご自身であります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
私は、今日の新約聖書の言葉に触れるたびに、思い出すことがあります。教会が「神の家族」であるというくだりについてです。
 
この手紙のなかで述べられている教会とは、そこに集められた者が「もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なるものたちと同じ民」であることについて触れられています。ここで言うよそ者とか寄留者というのは、神の民として選ばれているという自負のあったイスラエル人からすれば、差別の対象にあった人たちでした。
 
しかし、教会とはそういうものではなく、もはや差別のない世界なのだ。私はこの聖書の言葉からそう読み取りたかったのです。しかし、ある方のご指摘でその考えは一変します。「教会の場こそ、差別のある現実のただなかで生きていかなければならない所なんですよ」。その方は、ご自身の人生で差別と闘い続けてこられた方でした。この世の中で、そして教会のなかですら現実に起きている差別に対して。
 
究極的には、神はご自分の建てられる御国において、何の差別もない世界を完成されると私は信じています。しかし、神の国の先取りと言えども、欠けの多い私たちのなかには、しっかりと大なり小なり差別意識というものを抱えながら、教会という世界のなかで、また自分が関わる社会のなかでもがきながら、また時には加害者となりながら生きているのだと思います。
 
ですから、私たちは神の国が完成させる目標を心から望みつつ、欠けが多いなかにあっても、今の自分自身にできることを誠実に向き合っていくことが必要なのだと感じさせられます。そのときに、今日の新約聖書の言葉で触れられているのは「隅の親石であるイエス・キリスト」である、ということなのでしょう。
 
イエスがこの世に人間のかたちをとられて、差別に満ちあふれた世界のなかでどのように神の国の良いたよりを伝え続けられたか。私たちは現実に起きたそのことを自分自身の生き方に無くてはならないものとして、とらえ、それを握りしめつつ、心から期待しつつ、日々を生きること。それが苦闘のなかにあっても、いっときでもいい。安住できる場が神によって与えられる望みとなるのだと信じたいのです。
 
理想論に逃げるのではなく、現実に目を背けることなく見つめながら、イエスが与えられたこと、神が示される御国に望みを置く一日でありたいと願わされました。そのような思いが重ね合わされるところにこそ、神の家族としての喜びがともに、豊かにありますことをお祈りいたします。

15/09/2022

2022.9.15 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言12章18節
あたかも剣で刺すかのように軽率に語る者がいる。
知恵ある人の舌は癒やしを与える。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙14章19節
平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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自分自身に与えられた舌をどのように用いることができるだろうか。そんなことを黙想させられる、今日のふたつの聖書の言葉に耳と心を傾けていきたいと思います。
 
舌。私の考えや感情を表現するために、舌は大いに用いられます。しかし、舌を通して表現される言葉によって、私たちは喜ぶこともできるし怒ることもできる。舌が平和の材料として用いられれば、トラブルの根を引き起こすことだってある。
 
今日の旧約聖書の言葉である箴言には「剣で刺すように軽率に語る」という言葉が登場します。このときの軽率とは、いったい何を指す言葉なのかを考えさせられます。
 
この軽率さとは、ただ単に軽々しくといった意味というよりは、自分自身の心や思いというものが、なにによって養われているだろうかというところにまで考えが及ぶものなのではないか。そう思ったのです。つまり、自分自身の感情に任せて語る言葉が、神の御心というものによって整えられ、育てられているながら、剣で刺すような軽率な言葉から、少しでも離れることができているのではないか。そんなことを思いました。
 
つまり、ここで言う軽率さとは、神の御心よりも自分自身の思考感情が勝っている場合に起こるものなのだと理解しました。たとえ、聖書を用いて神の言葉を雄弁に述べたとしても、そこに神の御心、つまり神が人間に対して慈愛の動機をもって取り扱われているその御心が私自身に反映されていなければ、私は聖書の言葉を用いて人を剣で刺すことになるのだろう。そう考えたのです。
 
知恵ある人の舌は癒しを与えると、箴言の続く言葉にあります。ここで言う知恵は、まさに神の知恵であると私は受け止めました。それは、私たちがこの世の中での経験で得た処世術などによって得られる一時の癒しではなく、神の言葉を通して得ることのできる本質というものが、人間を全体的に癒す働きがあるということだと。そのことを表現する道具として、舌というものが神から与えられたのだと、私は理解しました。
 
平和に役立つこと、互いに築き上げるのに役立つこと。今日の新約聖書の言葉には、そのために必要なものとは何だろうかということについて考えさせられる目標というものが描かれています。平和を建築することの難しさを思います。一致しようと願っても、それが同調圧力によって成り立つものであるならば、そこには歪みが生じるのは間違いありません。互いに築き上げるというのは、人間関係をつくり上げる双方が、公平な立場でつくり上げていくものなのだと思います。そこに上下関係を作るならば、誰かの言うことを聞かなければならない。そこに同調圧力などというものが容易に入り込むのではないかと思うのです。
 
だからこそ、私は思います。神はご自分の言葉を通して、私たちをどのように癒されるのかということをです。そんなことを思いつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと願わされました。こういった黙想から導かれる舌の用い方が、この世の平和に役立つものとなりますように。そのことを祈りたいと思います。

14/09/2022

2022.9.14 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編81編8節より
神の言葉:
あなたが苦難の中で呼ぶと
私はあなたを助け出した。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二4章17節
パウロの手紙:
主はそばにいて、私を強めてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の聖書の言葉ほど、神のことを端的に表現したものはないと感じました。神は私たちの苦しみの声に耳を傾け、必ず助けられる方であると、神御自身がこの私に語りかけておられると、詩人は自分の思いを歌いました。それは旧約の時代のみならず、イエスが救い主となられた後も、パウロがそのことを実感し、愛する若い仲間テモテへ手紙を書き送ったときにも、そのことを何のためらいもなく書き綴っています。苦しみを理解し、ともにおられ、助け出す私たちの神がイメージだけではない、実際におられるのだという確信です。
 
昨晩は、スペイン・バルセロナで毎月開催されている「バルセロナ日本語で聖書を読む会」のメッセージを担当する機会をいただきました。コロナ禍以降、オンラインによる集会が一般的なものとなったおかげで、世界中から集会に集まって、聖書の言葉を真ん中にして交わりを楽しむことができるのは、本当に素敵なことだなとつくづく思わされます。とても楽しく充実した2時間あまりのときを過ごすことができました。
 
昨日は、創世記12章にある記述、アブラムとサライの夫婦が飢饉のためにエジプトへ逃れたという物語からメッセージをいただきました。アブラムは妻サライの美貌のために、エジプトへ行ったら自分が殺されてしまうのではないか。そうすることで神の選びというものを台無しにしてしまうかもしれないとでも思ったのかもしれません。妻を妹と偽ってその場を乗り切ろうとします。そして、サライはエジプト王の妻として迎え入れられ、アブラムは生活に困らないだけの宝を手にします。
 
しかし、アブラムもサライも命拾いはしたけれど、思わぬ展開に後にひけなくなった。そんなときに神の御業が働きます。エジプト王宮にいるものは重い病気をわずらいます。そして、王にアブラムとサライは夫婦であることがばれて、王は恐ろしさゆえにサライをアブラムのもとへ帰しました。
 
なぜ災いを受けたのは、アブラムではなくてエジプト王だったのでしょうか。それはアブラムが神に選ばれた信仰者でエジプト王が異教者だったからという単純なものではないように私は思います。アブラムはエジプト滞在で起こりうる危機に際して、神に頼ることなく自分の知恵に頼ろうとしてこのような行動に出た。しかし、神はそんなアブラムに気づかせたのではないでしょうか。自分の知恵に頼らず、私に依り頼みなさいと。そうすれば、私はあなたを必ず助けるのだと。
 
つまり、失敗から学ぶ教訓を神はアブラムに与えつつ、彼の命を助けるという本質に生きるようにアブラムを導かれた。アブラムはこうして、自分に与えられた信仰というものを生涯のなかで少しずつ、少しずつ自分自身の確信とすることができたのかもしれません。
 
私は、アブラハムという人物が、最初から立派な「信仰者の父」であったなどとまったく思いません。創世記の記述からすれば、アブラハムの人間臭さというものをいくらでも見ることができます。しかし、彼は神が与えられた信仰を、その人生の歩みのなかで徐々に自分自身の生きる支えとすることができた。そして、今日の詩人のように、使徒パウロのように、自分自身の経験からくる確信へと結び合わされていったのだと、思えてならないのです。
 
私たちの生活にどんなことが起こるのか、まったく想像もつきませんが、今日起きる一日にも神が私たちとともにおられる。それを希望として歩むことができますように。お祈りいたします。

13/09/2022

2022.9.13 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編118編14節
主こそ私の力、私の歌。
私の救いとなってくださった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙15章13節
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、あなたがたを希望に満ち溢れさせてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日のふたつの聖書の言葉を通して、私は「三位一体の神による助け」というものを思い浮かべることができました。皆さんもご存知のように、キリスト教の世界では私たちの神を、父なる神・子なる神(イエス・キリスト)・聖霊なる神といった、三つの顔をもったそれぞれ違う働きをなすけれど、おひとりの神としてあがめています。
 
ただ、それら父・子・聖霊なる神がひとつなる神であるという理解は、決して簡単に理解できるものではないと私は考えています。実際に、キリスト教の教理というものを決めるにあたって、長い時間をかけて神の姿についての論争があり定められたという歴史があります。それだけ議論の余地が十分にあることだったのでしょう。
 
しかし、私たちはその理解しがたい神の御姿というものを「信仰」のことばとしています。ここで、信仰とはいったいなんだろうかということに注意を傾けることができると、私は思わされました。ここで思うことは、信仰とは自分のうちから何かを見い出し、その結果生じるものではなく、神が私たちのうちにご自分を現わすことによって、私たちに与えてくださるのが信仰であるということです。
 
そのことを踏まえて、今日の聖書の言葉をいただきますと、何かが見えてくると私は思いました。主なる神は私の力であり私の賛美、助けであると詩人は歌いました。ここに、神のこの世界に対する目的というものを知ることができます。それは私たちの命を与え、支え、助けるということ。ご自分の力をもってご自分の民としてくださり、きわめて健全なご支配をしてくださる方、それが主なる神であるというのです。
 
それをさらに具体的に述べているのが、今日の新約聖書の言葉です。私たちを守り、助けるという希望を与えてくださる神が、具体的にイエス・キリストの十字架と復活による救いを私たち与えてくださったことそのものが信仰の御業であり、その信仰の御業を理解できるように、神とイエスが私たちをいつまでも守るために、聖霊なる神を豊かに注いでくださる。父・子・聖霊のいずれも、決して勝ることも劣ることもなく、私たちのために信仰を与えてくださる御方なのです。神の子だからといって神に劣る、神の力だからといって神ではないとは決して言い難いのです。
 
聖書には「三位一体」という言葉自体は一度も登場しません。だからと言って三位一体を否定する理由はどこにもありません。神の働きを聖書から丹念に読み取っていくなかで、神が明らかに信仰の言葉として与えてくださる物事もあるということです。それは聖書の言葉が示す本質に基づいたものであり、単なるインスピレーションのようなものとは全然違うものです。
 
私たちにとって聖書を読むという営みとはそういうものではないかと私は思うのです。文字を通して本質を理解するという信仰が与えられるという営みに、今日もあずかりたい。そんな思いで、今日のふたつの聖書の言葉を黙想することができました。そのような営みが、今日の聖書の言葉にありますように、喜びと平和に至る希望の源を感じられるときでありますように。お祈りいたします。

12/09/2022

2022.9.11 仙台宮城野教会主日礼拝説教

2022年9月11日
仙台宮城野教会主日礼拝説教
 
聖 書 ヨハネによる福音書17章1~5節
説 教 知るという営み
説教者 牧師 齋藤 篤
 
知るという営みは、単に知識を座学で吸収することにとどまらない体験・経験の営みであるということを、聖書から聴くことができました。

↓の動画からご視聴ください。



2022.9.12 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編78編3~4節
これは私たちが聞いて知ったこと
先祖が語り伝えたこと。
これを子孫に隠さず語り伝えよう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書10章8節
ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日は夕方の配信となってしまいました。疲れたせいか朝早く起きることができず、午前から病院へ行っていたこともあったからです。朝お読みになられるのを楽しみにしていた皆さんへは、申し訳ないことをしてしまいました。
 
ですので、今日選ばれた聖書の言葉を通して、一日を振り返るような思いで、黙想をしてみたいと思いました。ローズンゲンの発祥であるドイツ・ヘルンフート兄弟団は、朝と夕に会堂へ集まり、御言葉に聴き祈るときをもっていたのだそうです。朝に御言葉に聴いて一日生きる力とし、夕に御言葉に聴いて振り返り、感謝を思う時とした。御言葉に生かされる喜びというのは、こういう連続性のなかにあることを、改めて思わされます。
 
今日の旧約聖書の言葉を通して、私は「隠さず語り伝える」という言葉に立ち止まりたいと思いました。もちろん、私は牧師という仕事のなかで「守秘義務」というのを大切にしなければならないですから、そのような守秘を打ち破ってすべてを明らかにしなければならないという意味ではないことは承知しています。しかし、神が私たちにご自分の言葉と行いをもって示されたことは、隠す必要も理由もどこにもないのだと、そう感じるのです。
 
私は、神の御業というものを大胆に伝えたいと思っても、周りの状況であるとかある種の配慮のためにそれを差し控えたり、その場の状況に合った言葉を選んで語ることがあります。そのような一定数の配慮は必要だとは思いつつも、その動機というものがどこにあるのかを問わされることがあります。この配慮はいったいどこからくる配慮なのかと。
 
私たちがもろもろ配慮の心を働かせるときに、それが過剰に「人におもねる」ものになっていないだろうか、そんな自問自答をすることは本当に大切なのだと思います。つまり、配慮しているつもりが忖度(そんたく)してしまっている。人との関係の維持ばかりに気を取られてしまうがゆえに、神がなさることへの期待や希望というものを、脇に追いやってはいないだろうかと思わされることがしばしばあります。
 
宗教は怪しい、怖い、関わりたくない。カルト宗教問題が再燃している今、世間の宗教に対する風当たりが強くなっているからこそ、私は今何をしなければならないのかということを、まじまじと思わされます。自分たちが悪く言われないために防御線を張るのだろうか、それとも、自分が今まで受け取ってきた、何の掛け値もないなかでの神の御業というものを、ただただ真摯に期待して、自分に与えられたつとめというものを、淡々と誠実に果たすことなのだと。それが伝道の肝なのではないかと。そう思えてならないのです。
 
ただで受けたのだから、ただで与えなさい。救い主イエスによる言葉です。お金を積まなければ幸せになれるとか、なにか忖度をして、気に入られればご利益があるとか、そんなことをすべてを排除した世界に、私たちを招き入れてくださるイエス。このイエスによって私たちは生きる道を与えられたのだと。そう思ったら、とても楽な気持ちにさせられるのは私だけでしょうか?
 
そんな神の御業を一人でも多くの方々と分かち合いたい。イエスが何の条件も掛け値もなく、私たちに命を与えてくださった。そんな一日を今日も過ごすことができ、心から感謝したいと思います。どうぞ皆さんの夕べのひとときも、神の守りと平安がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

11/09/2022

2022.9.11 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上24章20節
サウルによるダビデへの言葉:
お前が今日、私にしてくれたことに対し、主は豊かに報いてくださるであろう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章17節
誰にも悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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悪に悪をもって返しても、そこには何の益もない。
神が与えられる善を信じて、ただ誠実に生きることの大切さ。
 
誰でも悪意に基づいた言動を受けたら「仕返ししたくなる気持ち」が起きてくるのは当然のことであると私は思います。最近、以前テレビでも人気を博したドラマ『半沢直樹』を観ることがあるのですが、主人公である銀行マン・半沢直樹が「やられたことはやり返す。倍返しだ!」と叫ぶシーンは、ドラマをご覧になられた方ならば、私のみならず、多くの方々の記憶にあることと思います。
 
ただ、ドラマを観ていますと、半沢による倍返しは、決して単なる「仕返し」ではなさそうです。姑息な手や謀略を使って人をだましたり、窮地に陥れているわけではありません。むしろ逆で、そういう悪意をもって人を罠に落とし込もうとする勢力に対して、あくまで誠実に向き合い、真実を明らかにすることによって、そのような悪意に立ち向かっているようにも思えるのです。まるで水戸黄門でも観ているかのような、勧善懲悪的なものを感じるのは私だけでしょうか。
 
やられたことをやり返すとき、悪意で受けたものを悪意で返してしまうならば、その時はすっきりするかもしれませんが、悪意が増幅され、それが繰り返されるだけです。そして、悪意のあるところには、神が入り込む余地などなくなってしまいます。つまり、神が不在であるところに、人間だけでそのドラマを繰り広げ、負の連鎖をつくり上げてしまう。これが、聖書に描かれている人間の歴史そのものなのではないかと思うのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、イスラエルの王ダビデを悪意をもって追い続ける前の王サウルに対して、ダビデが悪意をもってし返すのではなく、あくまで神の御心に立って、神が与えられた王としての意味というものを問いつつ、誠実さをもってサウルに応じた結果、それがサウルの心に突き刺さったゆえに、サウルがダビデに語ったひと言です。
 
お前が私にしてくれたことを、神は豊かに報いるであろう。それは、ダビデに対して悪意を抱き続けていたサウルにとって、そもそも抱いていた神の誠実さが、一瞬だったとしてもその心によみがえりました。悪意ではなく神の誠実に生きることは、それに触れる人々にも影響するということを表した歴史のひとコマと言えるでしょう。
 
もし、私たちにもとめられる「仕返し」があるとするならば、神の誠実を身と心に受けた者として、まず自分自身が神の御前にあって誠実に生きることで起きる応答、仕返しなのだと、私は今日のふたつの聖書の言葉を通して黙想させられました。
 
悪意を被らせる相手を意識すれば意識するほど、そこに生じるのは怒りや憎しみの感情です。しかし、憎しみが助長される対象を見るのではなく、ただ神を見つめ、神が私たちにご自分の言葉をもって与えられる誠実と真実を見続けることで、生まれるものは必ずある。そこに私自身焦点をあてて、今日という一日を生きたいと願わされました。
 
週のはじめの日、世界中でおこなわれる主の日の礼拝や集会すべてに、そのような神の誠実から起きる善が私たちを囲み、平和な道へ進むことができますように。お祈りいたします。

10/09/2022

2022.9.10 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ダニエル書6章11節より
ダニエルの屋上の部屋の窓はエルサレムに向かって開かれていた。その日も三度、ひざまずき、祈り、自分の神に感謝した。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章12節
希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈りなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私が、今日選ばれたふたつの聖書の言葉から思い浮かべたのは「祈り」です。私はどんなときにも、神に祈るということを大切にしているだろうか。そんな問いが与えられました。
 
詳しいことは記しませんが、私個人長いこと抱えている「トラブルの根」というものがあります。普段はこの問題が浮上することがなかったとしても、ちょっとしたことがきっかけで、この問題に悩まされます。つい先日も、このことで辛い思いにさせられることがありました。
 
こういう問題を抱えると、ついついその問題から逃れたくて、それを他人や環境のせいにしてしまいたいということがあります。私たちはそうすることでストレスというものを緩和する術というものを身に着けているのだと思います。そして、実際にそのようにして楽になることもあります。
 
しかし、問題から逃げずに向き合わなければならないときもある。逃げるわけにはいかない。そういうことがあるのもまた事実です。私が抱えている問題とは、まさにそのたぐいのものです。そういう時に、経験や知恵を駆使して問題の解決にあたろうとする。当たり前のことです。
 
しかし、こういう時にこそ「祈る」ことを私は神に教えられました。自分自身ではどうにもならないことを、変な小手技を使って対処するのではなく、もちろんできる限りの誠実さをもって真摯にその問題に向き合うのと同時に、ただひたすら祈ることの大切さを、今日の聖書の言葉からも教えられるわけです。
 
しかし、そう分かっていても、祈るという気持ちが起きてこないこともある。そして、目の前の出来事に心がかき乱されて、そのことで思いも心もいっぱいになってしまい、手も足も出ないともがく自分自身があることも事実です。だからこそ、今日のような聖書の言葉が与えられると、原点に帰らされるというか、神に祈りたくなる気持ちがあふれてくる。それ自体が感謝なことなのだと。
 
神は、何が最善な道かをすべてご存知なうえで、祈る私たちに、神の御心をあらわし、私が想像もしなかったことを提示し、前進させてくださる。この繰り返しがあったからこそ、ここまで乗り越えることができたじゃないか。今日の聖書の言葉を通して、あらためて励まされました。
 
大小の別があったとしても、私たちを取り囲む問題や課題を具体的に助けてくださる神に祈る幸い。一週間の最後の日に、そんなことを希望としながら過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日に、そのような神の豊かな守りと祝福がありますように。お祈りいたします。

09/09/2022

2022.9.9 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書17章14節より
主よ、私を癒やしてください。
そうすれば私は癒やされます。
私を救ってください。
そうすれば私は救われます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書2章17節より
医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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本日選ばれたふたつの聖書のことばを通して黙想したいと思ったのは「癒し」についてです。癒し、それは単に病気が治るとかという話にとどまらず、私たちの「心」が癒されることも含まれるのだと、私は今日の聖書の言葉を通して、気持ちが新たにさせられました。
 
私たちにはいろいろな記憶や思い出があります。そのなかで、かつて精神的に、また気持ちが傷つけられたという記憶というものが、なかなか癒えることがない。そういうことは私たちの生活でしばしばあることです。受けた傷によって生じたさまざまな憎しみや恨みといった感情が、私たちを支配することは、私たちの日常のなかでよくあることです。
 
私も最近、ある出来事のゆえに怒りの感情が抑えきれないという方の場面に出会うことがありました。普段はその感情にふたをしていたとしても、何かのきっかけで怒りの感情が沸き起こり、その怒りをどのように整理したらよいか分からない、というものです。私にもそのような経験がありますから、よくわかる話です。
 
ただ、その怒りが怒りのまま保ち続けることが良いはずなどありません。病気やけがが治癒するように、私たちの心もまた怒りの感情が無理なく手放せる時が来ることを、私たちは心のどこかで期待しているのではないだろうか。そう思うのです。こうして自分自身の心がじっくりと癒されていくことを、私たちは何かの力によって望むことができるならば、どれだけ楽だろうか。
 
私は、その力こそ神の御業そのものにある。そう信じたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって語られたものです。私たちは医者を必要とするのです。イエスは言います。私が来たのは罪人を招き、それらの人々を癒すためであると。ここで言う罪人とは、人生経験のなかで生じるさまざまな歪みゆえに生じる人間関係のもつれや通えあえない心の状況のことをも指していると思います。それゆえに、心が傷つき、決して健全とは言えない状態は、健康とは真逆の病人の状態であるとも思うのです。
 
そのような私たちの抱える病に、神が手を差し伸べ、私たちの心をご自分の言葉と助けでゆくりと癒してくださるというのです。即効性はないかもしれない。しかし、決して無理のないように私たちの心の癒しに触れてくださる方がいるのだということが、私たち一人ひとりにとっての大きな慰めであり、励みであると、私たちに語り掛けてくださるのです。
 
私は、自分自身の力ではどうにもならないことこそ、神に自らを打ち明け、神による癒しをこい願うところに、必ず神は答えてくださるということを信じたいのです。今日の旧約聖書の言葉にある、預言者エレミヤが語った通りにです。私を癒してください。そうすれば、私は必ず神によって癒されるのだということをです。そして、傷つき続けている方々のためにも祈りたい。神が必ずあの方も、この方をも癒してくださるのだという望みをもって。
 
そのような連鎖が、この世を平和にしてくださいますように。心からお祈りいたします。

08/09/2022

2022.9.8 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
マラキ書3章1節より
私は使者を遣わす。
彼は私の前に道を整える。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書1章12~13節
それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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昨日、おとといと、私事の事情でばたばたしており、ローズンゲン黙想を掲載することができませんでした。楽しみにしてくださっている皆さまには、申し訳ない思いでいっぱいです。心からお詫び申し上げます。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
 
さて、今日私たちのために選ばれたふたつの聖句に共通するワードは「神からの使者」、いわゆる「天使」です。私が属するプロテスタント教会では、天使の存在は聖書から知ることがあっても、私たちの生活自体に、天使がどのような関わりをもっているかということを、あまり意識することがないかもしれません。
 
天使よりも、神からの使者のような役割をもって、私たちに臨んでくださるのは、むしろ「聖霊」なのではないでしょうか。聖霊なる神が直接的にメッセージを私たちに与え、私たちの生活に豊かに臨み、具体的な神の助けを、私たちは感じとることができるのだというのが、私たちの信仰の告白として広く受け入れられていると私は思います。
 
では、ここで考えたいと思いますが、天使の存在はどうなったのか、ということです。聖霊が天使に成り代わったのでしょうか。天使の存在はもはやなくなってしまったのでしょうか。
 
天使はあくまで、神からの使いとしての役割、神に仕え、神のメッセージを人間をはじめとする世界に知らせる役割を持ちます。聖霊と決定的に違うのは、キリスト教の世界では、聖霊が単なるメッセンジャーではなく、神であると信じ、受け止められているということです。天使は私たち人間と同様に神のよってつくられた存在、聖霊は三位一体の神の一面である神そのものである、ということです。
 
そのうえで、天使の存在というものが、神のメッセージを人間に伝えるために、神に仕える存在として神によってつくられ、存在していたというその目的に、私たちは注目することができるのだと私は思います。つまり、神のメッセージを伝えるということは、神に仕えるということなしには成立しない、ということです。
 
私は自分のこととして考えました。私も神の言葉である聖書に示された神からのメッセージを取り次ぐつとめが与えられています。その時に一番大切なこととは、神に仕えるという視点です。神に仕えるわけですから、神が私たちに発信しようとしていることの本質を、メッセージとして伝える責任というものがあるのだ。そう感じさせられます。
 
聖書の言葉を神の言葉と言いながら、結局のところ自分の言いたいこと、感じたいこと、そう思いたいことに引き寄せて、結局自分自身の言葉として伝えていないだろうか。聖書を文字通りにと言いながら、文脈を無視したり、本来神が聖書全体を通して私たちに語り掛けているテーマをそっちのけにして、文字面だけで聖書の言葉を自己主張のための看板として利用していないだろうか。私は、神が天使を創造されて、天使に与えたつとめというものを念頭に置きながら、そんなことを黙想させられました。
 
神が天使をつくられたことは、現在生きる私たちに大きな意味を与えます。天使のつとめに示された神の御心というものを、私たちの生き方の大切な柱とするところにこそ、神とともに生きる幸いというものが芽生え、生まれていくのだと。そのように受け止めました。
 
神が私たちに与えられたメッセージの本質を、私たちは今日も大切にすることができますように。大切にするところにこそ、神の平和が豊かにありますように。お祈りいたします。

05/09/2022

2022.9.5 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書49章15節
女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。
自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。
たとえ、女たちが忘れても
私はあなたを忘れない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙13章6節より
だから、私たちは、はばからずにこう言うことができます。
「主は私の助け。私は恐れない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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胎内で育んで、慈しまれて生まれた乳飲み子を最大限の愛情をもってさらに慈しむ母の姿。
 
私は出産の経験も子育ての経験もない者ですから、今日の旧約聖書に示された母の慈愛というものを、我が事として語ることは難しいのですが、新しい命が与えられた赤ちゃんを心から慈しむお母さんの姿に接する場面は幾度となく出会ってきました。教会の牧師をしておりますと、まさにゆりかごから墓場まで、またその先にある永遠の喜びというものに触れることができるのは本当に幸せなことで、人間の一生に携わることのできるこの仕事に就いて、本当に良かったなと思わされます。
 
それ以上に、今日の聖書の言葉は、その母親にはるかに勝る慈愛について描いています。私はあなたを忘れないと、神は私たち一人ひとりに宣言されます。忘れる、つまり絶対に私たちを見捨てない神の強い意思が、この言葉に集約されています。
 
私たち人間の愛情というものは、たとえありったけのそれを注いだとしても、限界というものがあります。完璧に人を愛することなどできない。愛したとしてもそこには裏切りがあり失望がある。そのことで一喜一憂して人を愛することにすら恐れを抱いてしまう。これが私たち人間世界の偽らざる現実なのではないかと思うのです。
 
しかし、神は私たちのことを決して見捨てたり忘れたりはなさらない。現実の世界に抗うように、神の約束は私たちに直球を投げられます。しかし、それが目に見えるわけでもなく、自分が愛情を欲しいと願ったときに、すぐにその返事があるわけでもない。そんなときに私たちは「神は本当に私を忘れていないのだろうか?」とすら、思えてしまうのではないかと私なんか感じることがあったりします。それを不信仰なさまと言われればその通りなのです。しかし、それが限界ある私たち人間の現実であることを、私自身のこととして認めたいのです。
 
ただ、そんな疑い深い私にも、神は決してあきらめることはありません。これまで土壇場の極みにまで立たされたとき、どれだけ神がそのような私を助けてくれたことでしょうか!神が私たちを信頼して、最大限の愛を注いでくださっていることを受け取ったときに、その疑いの厚い雲がスーッと晴れていくような経験は、確かに私を信仰の道へと導いて今日に至っていることを思わされます。
 
今日の新約聖書の言葉のように、何にもはばかることなく、主なる神は私の助け、私は恐れない!と断言できるようなときがいつも来れば良いなと思いつつ、たとえ10回に1回、100回に1回の割でも、その経験をさせてくださる神の慈愛を胸に抱いて、今日の一日を期待をもって歩みたい。これが、今日の聖書の言葉を通して黙想させられたことでした。
 
私たちの喜びも悲しみも、安心も不安も、平安も恐れもすべてご存知である神がともにいてくださることを、今日も私たちの希望とすることができますように。お祈りいたします。

04/09/2022

2022.9.4 仙台宮城野教会主日礼拝説教

2022年9月4日 仙台宮城野教会主日礼拝説教

聖 書 ヨハネによる福音書16章4〜15節
説 教 聖書を読むために必要なのは
説教者 牧師 齋藤 篤

私たちの命を守るためにイエスの言葉は与えられました。それは、弁護者として遣わされた聖霊が、私たちを守るために聖書の言葉とともに働いてくださいます。私たちの聖書への向き合い方について、最初から聴くことができました。

↓の動画よりご視聴ください。


2022.9.4 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編22編20節
主よ、あなただけは遠く離れないでください。
私の力の源よ、急いで助けに来てください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一5章15節
私たちは、願い事を何でも聞いてくださると知れば、神に願ったことは、すでにかなえられたと知るのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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神は私たちの願いを聞いてくださる方である。
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちの願いというものを神がどのように聴かれるかについて、考えさせられるものであるに違いありません。なぜならば、神がそう簡単に私たちの願いを聴いてくださるとは限らないことをも知っているからです。
 
では、今日の新約聖書の言葉は、私たちにどのようなメッセージを与えるものなのだろうか。そのことに心を寄せつつ、黙想を深めてみたいと思います。
 
まず、神は私たちの願いというものをすべてご存知である、ということです。私たちが祈ろうが祈るまいが、神は私たちのすべてをご存知です。神は私たちのことを、髪の毛一本までもご存知であるとイエスが言った通りです。それは、私たち一人ひとりにとって何が生きるために必要であるかということも、すべてご存知であるということでもあります。
 
しかし、私たちは究極的にそのことを知らないのだと私は思います。神が私たちにとって何が幸福であるかということをです。私たちは神の思いというものを、神の言葉である聖書と、聖書の言葉を神の言葉と理解するための助けとなる聖霊の導きによって知ることができますが、結局のところ、聖書の言葉を自分の思いたいように引き寄せ、聖霊の導きという言葉を用いて、自分の感覚と同一化してしまうことで、究極的に神の御心というものを誤解することは、いくらでもあると私は自戒を込めて思わされます。
 
ですから、私たちは私たちの願いというものを神の御心と信じつつも、それがもしかしたら神の御心と思い込んでいるだけなのかもしれない、間違っているかもしれないという思いも、持ち合わせる必要は十分にあるのだと私は思います。
 
そんなことを踏まえて、今日の聖書の言葉を味わうならば、私たちの願いというものがどこから起因し、動機とし、それを願いとしているだろうかということを、じっくりと黙想して、識別をしながら、少しでも神の御心を理解したうえでの自分自身の願いであるかどうかを吟味するならば、神は必ずご自分の御心というものを明らかにしてくださり、その御心人沿った私たちの願いというものを、必ずかなえてくださることを信じたいのです。
 
もし選択が誤っているのであれば、軌道修正すればいいだけの話です。軌道修正とは向きなおすことであり、それは私たちが「悔い改め」という言葉をもって表現していることでもあります。悔い改めというのは一見重苦しく暗いような作業に見えて、実は希望のあふれた私たちの行為であると言えるでしょう。
 
今日は主の日。世界中でおこなわれる礼拝や集会のすべてでなされる祈りが、願いが、主の御心を理解するための素敵な機会となりますように。お祈りいたします。

03/09/2022

2022.9.3 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記29章28節より
隠されたことは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、とこしえに私たちとその子孫のものである。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章26節
イエスの祈り:
私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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神は私たちに何を現わされたのでしょうか。神の御心をこの世に示されたイエスは、その生涯を通して、私たちに何を知らせたのでしょうか。そして、今も知らせ続けているのでしょうか。
 
今日、私たちに与えられたふたつの聖書の言葉は、その問いの答えを与えるものです。しかし、具体的にそれが何を指すのか、これら言葉を通して、じっくりと黙想してみたいと思いました。
 
今日の旧約聖書である申命記の言葉は、神は私たちに対して明確に現わされることがある一方で、隠されるものもあることが書かれているのは、とても興味深いと思いました。私たちは神の持つご計画、その御心のすべてを知っているわけではありませんし、それを知ることもできません。それはイエスも同じことを言っておられます。
 
例えば、イエスが十字架につけられる前に、弟子たちは尋ねました。エルサレム神殿が崩壊させられるのはいつの話ですかと。つまり、これから未来のこと、いわゆる終末に対する弟子たちの不安は、イエスにぶつけられます。その時を知れば、弟子たちは自分たちの不安というものが、少しは解消されるかもしれない。そう思っての質問だったのでしょう。
 
それに対して、イエスはその明確な時というものを弟子たちには知らせることはありませんでした。それはただ父なる神だけがご存知なのだと。そのうえで、いくつかの前兆というものを語られました。そのなかに「愛が冷える」という兆しについて、イエスは弟子たちに語られたのです。
 
愛が冷える。ここにイエスが語りたかった本質があるような気がしてならないのです。人は不安になると、自分のことだけで精一杯、とても他人のことに関心など向けられなくなるのは、私たちが経験で十分に知っていることだと思います。時には自分本位な姿が、愛というものを薄れさせて、それを崩壊させる力すら持ってしまうのです。
 
私たちが自分のことに、周囲のことゆえに悩み苦しむとき、神がこの苦悩にどのように応えてくださるのだろうか。神のなさることが隠され、見えないなかでなおのこと苦しむことがあるでしょう。愛がますます冷えてしまう状況のなかで、神は私たちに何を示し、知らせてくださるのだろうかと。
 
そこで、今日の聖書の言葉が伝えるメッセージこそ、私たち一人ひとりの心に響かせるものがあるのだ。そう思えるのです。愛が冷えるときにこそ、イエスが父なる神への祈りのなかで、神が余すところ注いでくださる愛が、私たちの冷え切った心を温め、熱くし、神が私たちとともにいてくださるという神の名に示された真実が、私たちの生きる希望となりますようにと、私たちのために祈ってくださっているイエスがいるというのです。
 
私たちは、たとえ先行き見えない不安の中にあったとしても、イエスが、またイエスを救い主として与えてくださった神が、必ずやご自分の愛だけは隠すことなく私たちに現わし、示し、それによって生きる幸いを知らせてくださる。これこそ、私たちの生きる希望としてしっかりと握りしめることができるのだと、今日の聖書の言葉は私たちに伝えてくださっているのだと受け止めたいのです。
 
一週間も最終日を迎えた今日の一日が、そのような希望に裏打ちされたものでありますように。お祈りいたします。