30/03/2024

2024.3.30(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書30章18節
主は
あなたがたを憐れもうと立ち上がる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章17節
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
受難週の最終日を迎えました。何も存在しない空虚な一日。この時を教会は「黒の土曜日」などという表現もしてきましたが、むしろ、空虚だからこそその後に訪れる復活の喜びへと私たちを導く、無くてはならない備えの一日なのだということを想い起こさせます。
 
今、40日間にわたるレントの時に終わりを告げようとしています。十字架への道をたどり抜いたイエスは、今復活のための備えのときを、墓のなかでもたれています。そのようななかで、今日与えられるふたつの聖句を通して、空虚とは決して「むなしいもの」ではないということを、私たちが抱き、そして思わされるのだということを、私は受け止めたいと思いました。
 
神が与えられる憐れみは、空しくあるからこそ、私たちがありがたみをもって受け入れられるのではないだろうかと思うのです。私たちが充実したなかにあれば、憐れみを与えられても、その意味すらわからない。私なんか絶対そうであるに違いないと、我が心に振り返れば思わされるのです。そういう意味で言えば、空しさというもの自体、決して悪いものではないということを、逆説的に考えることができると私は思うのです。
 
そこに、裁くためではなく救うために世に来られたというイエスの言葉が響きます。救いに対する裁きという言葉の使い方は、どこかネガティヴでマイナスなイメージというものを呼び起こしているように私は思います。空虚という言葉すらも、何もない、もはや無いといったようなかたちで、無いこと自体が非常に消極的な印象をもって語り、とらえてしまうのです。
 
しかし、救いは、空虚なところから起きる再生であり、創出であり、そして復活なのだと。失われたところから、第二章が始まるのだと。そんな思いを抱きたい。イースター直前の一日が、そのような希望に胸を膨らませる時でありますように。皆さんの一日のために、お祈りいたします。

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