23/03/2024

2024.3.23(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書16章20節
人間が神を造れようか。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙3章5節
だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今週も今日で最終日となりました。私にとってはあっという間の一週間でしたが、皆さんはどうだったでしょうか。年度末でもありますから、特にしなければならないことがあったりもしますし、今年度はイースターを最終日に迎えるということもあって、何となく慌ただしさというものを感じています。そんな時だからこそ、御言葉に聴く時間だけは、しっかりと確保したい。そんな思いにさせられる朝でした。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「偶像礼拝」であると私は受け止めました。そして、究極の偶像礼拝の対象とは、何を隠そう「私自身」であるということだと、今日の聖句は私に語りかけている。そんな風に思ったのでした。
 
今日の新約聖書であるコロサイ書に描かれている偶像礼拝は、みだらな行いや情欲と言った、いわゆる性欲に起因したものがそうなのだという印象を抱かせているように私は思います。確かに、性欲というものはとどまるところを知らない。人間ならば多少なりともそのようなことは自分自身のこととして受け止められるかもしれません。
 
しかし、何も性的なことだけが偶像礼拝の対象になるわけではない。私は「エロス」の愛に込められた動機こそ、自己崇拝の根源なのだと思わされました。エロスの愛とは、結局自分自身の欲求に任せる愛として、しばしば語られるものです。自分の思い通りに事をなそうとするときに、それがたとえ性的なものでなかったとしても、それがエロスの愛となり、自分中心の愛、つまり「自分自身を神としてしまう」偶像礼拝なのだと思うのです。
 
そのエロスの愛ですが、しばしばその対極の愛として語られるのが「アガペー」の愛、つまり、自分のことは差し置いて、相手の幸福のために働く神の愛です。この神の愛を、私たちは救い主イエス・キリストを通していただいています。この愛がたてられるところには、神が私たちの真ん中に立ってくださり、その神を礼拝する喜びへと、私たちは導かれているのだと、今日の聖書の言葉は伝えているのだと思うのです。
 
自分自身の欲求に忠実である場合、その欲求は神の思いに沿っているものなのだろうか。そんなことを考えながら、この一週間に起きたひとつひとつの出来事を思い起こしながら、歩んでまいりたいと思いました。そして、明日が素敵な主の日を迎えることができますように。皆さんの主にある平安もお祈りいたします。

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