12/03/2024

2024.3.12(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言3章29節
友に対して悪意を耕すな
彼はあなたのそばで安らかに住んでいるのだから。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一2章8節
あなたがたをいとおしむ思いから、私たちは、神の福音だけでなく、自分の命さえも喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたは私たちの愛する者となったからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今朝は少しゆっくりと休んで、遅い朝を迎えました。おかげさまで、身体も幾分か楽になりました。
 
今日の聖書の言葉で注目したいと思ったのは、旧約聖書・箴言の言葉です。「悪意を耕す」。そうか。悪意は耕すものなのかということに、あらためて気づかされました。耕すという言葉は、どちらかというと良い意味で用いられることが多いので、とても意外な気がしたのです。
 
あらためて「耕す」という言葉を考えてみたいと思います。辞書を見てますと「田畑を掘り返して、農作に都合がよいように土を柔らかくする」と書かれています。私はこの説明から、ふたつのことを考えました。
 
まず「掘り返す」という意味です。土を掘り返すことで、土に適度な空気が含まれて、土が柔らかくなることを私たちは知っています。とても良いことなのは言うまでもないのですが、こうも考えることができると思いました。土地を耕すのは、その地に種を植え、作物が成長して実ることを期待してのことです。そのために土地を掘り返します。
 
だからと言って、むやみやたらに土地を掘り返して良いわけではありません。せっかく地固めした場所を、あえて掘り返す必要はどこにもありません。私は「雨降って地固まる」という言葉を思い出しました。トラブルなどが起きた時(雨降った時)に、それを建徳的に解決することによって、その場に神様の平和が訪れた(地固まる)場合、それをあえて蒸し返すことによって、再びトラブルが起きることあるならば、それは決して良いことではありません。耕さなくても良いこと、いや、もはや耕してはいけないところを、あえて耕す必要はどこにもないのだと私は思います。
 
それは、耕さなければならないことを見て見ぬふりをするとか、無きもののように放っておこうということではありません。あくまで「悪意」をもって、平和のうちに地固めしたものを掘り返して悪意が芽生えるようなことがあってはならないということなのだと、私は思ったのです。
 
悪意とはなにか。あらためて思います。悪意の根というものがどこにあるのか。それは私自身の心にあるのだと。私自身が「都合よく」耕すために悪意というものが働くならば、そこには決して良いものは生まれることがない。私が今していることが、神の御心に立ったものなのか、それとも私の都合よさを助長するためのものなのか。そんなことを御言葉に向き合いながら、じっくりと黙想することの大切さを想わされます。
 
そんな思いから生まれるものこそ、今日の新約聖書の言葉にもある通り、隣人をいとおしむ思いへとつながっていくのだと。まさに良い作物が成長することなのだと、私は受け止めてまいりたいと願わされました。
 
そんな一日を過ごすことができますように。神に祈りつつ、今日もすてきな一日となりますように。皆さんの主にある平安をお祈りいたします。

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