31/07/2023

2023.7.31(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編25編7節
私の若き日の罪や背きを思い起こさず
主よ、あなたの慈しみにふさわしく
あなたの恵みのゆえに
私を思い起こしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章7節
イエスはニコデモに言われた。『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日で7月が終わります。あっという間に今月も過ぎてしまった。そんな感じが私のなかにあります。今日は久しぶりに一日ゆっくりと過ごすことができそうです。ずっと気になっていた家のなかの雑事をこなしながら、家の中で涼しく過ごそうかと思います。
 
今日選ばれたふたつの聖書の言葉は、どちらも人生のなかばを過ぎた詩人ダビデ、そしてイエスのもとを訪れたファリサイ派ニコデモが、神によって思い起こされ、またここからでも人間は変わることができるのだということを、神に願い、またイエスから宣言されているのだということを想い起こさせてくれます。人生、時すでに遅しということはないのだということに、希望を抱かせてくれる。そんな風に私は受け止めました。
 
あるクリスチャンの方がいました。その方は自他ともに認める「短気」の持ち主で、すぐに喧嘩やトラブルを起こしてしまいます。とても正義感の強い人でした。しかし、心の優しい一面もあります。とにかく人間味あふれる人でした。
 
ある日、一触即発。けんかになりそうな場面が起きてしまいます。しかし、その方は静かにそのような場面をつくることを避けました。何も言わずその場を去ったのです。あとでその人は話してくれました。自分は「神は愛なり」で行くのだと。相手に対しては、許せないという思いが消えることが無かったのだそうです。それでも、おとなしく身を引くことでその方は神にすべての委ねたのだと私は理解しました。
 
その方は、決して歳が若くありません。しかし、それからでも人生は変わることができるのだということを、私に話してくれました。私は思わず「アーメン!」と叫んでしまいました。確かに神が愛を、平和を与えて、私たちの心を変えてくださった一瞬でした。
 
私たちは自分自身の力だけでは、物事を解決することはできない。しかし、神がともにいてくださる。助けてくださる。その力と知恵、助けのおかげで、私は今日も神の愛に応える者とさせられるのだと。そんな思いを胸にしながら、神様、今日も私を想い起こしてください、私の心を変えさせてくださいと祈りたいと思います。
 
皆さんの一日に、神様の助けと平和がゆたかにありますように。お祈りいたします。

29/07/2023

2023.7.29(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編77編3節
苦難の日にわが主を尋ね求め
夜もたゆまず手を差し伸べた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書26章38~39節
イエスは弟子たちに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」少し先に進んでうつ伏せになり、祈った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日で一週間も終わろうとしています。今週も皆さんがそれぞれの一週間を過ごされたかと思います。猛烈な暑さのなかで、必ずしも皆さんが経験されたことは、楽しいことや嬉しいことばかりではなかったのではないかと思います。つらいこと、苦しいこと、もがいてしまうようなこともあったかもしれません。そんななかでも、私たちに与えられていることとは何か。そんなことを今日の聖書の言葉から黙想したいと思いました。
 
苦しい時こそ、神に依り頼む。救い主イエスですら、その苦しさを包み隠されたり、やせ我慢することはありませんでした。苦しい時は苦しいと神に告白して、神に自分のすべてを委ねた。神のなさる御業に、自分のすべてを浸すように神に関心を向けた。今日の聖書の言葉はそんなことを私に伝えてくれました。苦しいときにこその神頼みであることが、イエスが弟子たちに示された道だったのだと。
 
それでどうなるかはわかりません。自分の思うように事が運ばないかもしれない。しかし、神はそんな私たちのことをすべてご存知なうえで、私にその御業を見せてくれる。この御業によって、安心して今日の一日を歩むことができるのだというのです。だからこそ、私に求められることは何か。自分自身の今の姿に素直になること、そしてその素直さを神に向けること、そして神に祈ること。そんなことが、私の思いのなかにあらためて与えられた思いです。
 
一週間の最終日、明日に向けての備えがますます豊かにされますように。お祈りいたします。

28/07/2023

2023.7.28(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編97編10節
主を愛する者よ、悪を憎め。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章24節
あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日も暑い一日でした。昨日は、所用で宮城県南部の福島県境にほど近いところにある、あるキリスト教団体の施設に行ってまいりました。あることで全国的に有名なことを行っている団体ですが、実際施設を訪れて、スタッフの方々の紳士さに触れる良い機会でした。外見で判断するのと、実際に目で手で触れて見るのとでは結構違うことを思わされるひと時でした。
 
さて、本日くじによって選ばれた聖書の言葉についてですが、特に新約聖書であるマタイによる福音書6章24節は、イエスによって語られた、山上の説教の一節です。神と富とに仕えることができない。私は、この聖書の言葉を「二者択一的」に読むのか、それとも「均衡的」に読むのかによって、随分違う印象を受けるのではないか。そのように感じさせられました。
 
この聖句だけを切り取って取り上げると、神を取る、富を取る、どっち?という印象すら起きてくると私は思うのです。人から富を巻き上げることを目的とする、旧統一協会のような団体は、聖書の言葉を巧みに「利用」します。そして、神を取るならば富を捨てよ的なアプローチを、信仰の絶対条件のように提示し、脅迫することによって、人を不安に陥れるのです。
 
しかし、この聖書の言葉はそういうことをイエスが言いたくて収められたものなのだろうか。私はイエスの言葉の原理というものに、あらためて注目したいのです。そこで、今日の旧約聖書の言葉に注目したいのです。「主を愛する者は」という言葉です。主を愛する者というのは、神である「主」が私たちに惜しみなく与えてくださる愛をもって、それに答え応じるということであると私は受け止めています。
 
そのことを踏まえて、「神と富に仕えることはできない」というイエスの言葉を考えるならば、神の愛というものが大前提にあるうえで、富についてバランスの取れた考え方をすることをイエスは伝えたかったのではないだろうか。決して、富を捨てるということを推奨することを目的にはしていない。神の愛のあるところには、富を人間支配の材料にしたり、悪用したりしないという、私たちの目指すところをイエスは語りたかったのではないかと、私はこの聖書の言葉を受け取りたいと思いました。
 
そんな思いをもって、「神の愛を中心としたバランス」というものをもって、今日の一日を過ごしたいと思わされた次第です。皆さんの一日にも、神の愛があますところなく注がれて、それによって素敵な時となりますように。心からお祈りいたします。

27/07/2023

2023.7.27(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書43章11節
私、私が主である。
私のほかに救う者はいない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章3節
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、朝から予定が詰まっていて、黙想する時間を確保することができませんでした。ローズンゲン黙想をお届けできず、申し訳ありません。暑い毎日が続きますし、健康管理に努めなければとも思い、できないときは決して無理をしないで与えられた日々を過ごそうと思います。黙想をお届けできないのは申し訳ないところですが、どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
 
さて、本日の旧約聖書の言葉として選ばれたイザヤ書43章は、祖国を離れて強国バビロニア帝国の捕虜状態にあったイスラエルの民たちが、自分たちはもはや神から見離されたと誰もが思っていたところに、神は、そんなことはない、私はあなたの名前を呼んで、あなたがたの神となるということを力強く民たちに語られた。そんな神の言葉が収められています。
 
そのなかで神は、私が「主」であるということを、民たちにあらためて告白します。先日も触れましたが、「主」というお名前は、「私は神である。私はあなたがたとともにいる。私はあなたがたの神となる。」という、すべての存在を明らかにするという意味をもっています。その主である神が、私の他にあなたがたを救う者はいないのだということを、民たちに語りかけているのです。
 
この言葉は、聖書に語られている神以外の神仏には救いはないということを強調することを目的とするのではなく、あくまで神が、ご自分の民を守り抜くという宣言のようなものであるところに主訴があると、私は理解したいと思います。他宗教の存在を貶めなくても、私は神のこの熱意あふれる、愛の言葉を受け取りたいというところに、あくまで集中したいと思わされるのです。
 
だからこそ、今日の新約聖書にあるように、神と神の子であり救い主であるイエス・キリストを「知る」ことに、自分自身を浸していきたいと願わされました。知るとは「理解する」ということであり、単なる知識の習得ではなく、心の底から理解できるような知り方をしたいと思わされます。そのために、聖霊なる神の力をいただきながら、神の御言葉に聴き祈るという営みを大切にしたい。そのように思わされました。
 
今日も暑い一日となりそうですので、皆さんの御身体が守られますように。そして何よりも神様が皆さんの一日を祝してくださいますように。お祈りいたします。

25/07/2023

2023.7.25(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編35編18節
私は大いなる集会であなたに感謝を献げ
強力な民の中で、あなたを賛美します。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章19節
互いに詩と賛歌と霊の歌を唱え、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日選ばれた旧約聖書の言葉と新約聖書の言葉を結び合わせるキーワードは「賛美」であると、私は受け止めました。他の宗教にも「歌う」という行為はありますが、キリスト教、特にプロテスタント教会の歴史において「賛美する」ことを、特に大切にしてきたのではないかと私は思います。
 
キリスト教の中い歴史のなかで、誰でも賛美をすることができる道を開いたのは、宗教改革者マルティン・ルターでした。ルターは賛美歌作家でもあり、礼拝に集められたすべての者(会衆)が歌えるように、数多くの賛美歌をつくり、賛美することを愛しました。それは、今でも「ドイツコラール(会衆賛美歌)」として残され、今日に至っています。
 
ルターは、なるべく民衆が歌いやすい、馴染みやすいという観点から、賛美歌を世に送り出したと言われています。つまり、ルターの頭のなかには、賛美することは、私たち人間の日常生活のなかで、普段づかいできるようなものであることへの、強い意識があったのではないかと思うのです。神への賛美は、決して特別なことではないのだと。
 
賛美には、もちろん音楽性が問われたりすることがあります。しかし、誤解を恐れず申し上げれば、賛美をするうえで最も大切なのは、呼吸をするように賛美ができるということをもって、私たちが普段使いできるのだという、私たちの「心」なのかもしれません。そのような賛美を神に向けるということは、神とともにある幸いというものを、心のどこかで抱きながら、また期待しながら、そうでありたいと願いながら過ごすことなのだと。
 
あらためて、賛美をするということが自分自身に何を与えるのだろうかということを想いに留めつつ、賛美するときを設けてみたくなりました。もし、今日の生活のなかで賛美する機会が無ければ、1曲口ずさむだけでもいい。大声で歌うもよし。歌詞とメロディーを味わいながら、神との関係を深めてみたいと思います。皆さんの賛美する今日の歩みに、神の祝福と幸いが豊かにありますように。お祈りいたします。

24/07/2023

2023.7.24(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編23編3節
主は御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書10章14節
私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しいウィークデイの日々が始まりました。それぞれの予定のすべてに、神である私たちの主がともにおられることを感じとり、それゆえに喜べる思いを、神が与えてくださいますように。祈りつつ、今日選ばれた聖書の言葉に注目したいと思います。
 
今日の旧約聖書は、詩編でもおそらく最も有名な箇所と言っても良い23編のなかから選ばれています。「主は羊飼い」から始まる賛歌のなかで、改めて私たちの神である「主」について、考えさせられます。主という名前を持たれる方である神は「私はいる」という意味を持っています。ここで言う主とは主人という敬称のことではなく、あくまで「私はいる/ある/なる」という存在全体を表す言葉から来ているということなのです。
 
私は神である、あなたがたとともにいる、ゆえに私はあなたの神となる。つまり、私たちから離れることなく、私たちの人生を一緒に歩んでくださる方、私たちの歩みを導かれて、私たちが迷わないで人生を歩むことができるようにしてくださる羊飼いであるということを、詩編の言葉は明らかにしています。「御名にふさわしく」というのは、お上のお名前が表す意味の通りに、私たちを正しい道へと導かれるという意味で「ふさわしい」と言えるのだと、改めて受け止めたいと思わされました。
 
その神の思いを、100%体現されておられるのが、救い主イエスです。イエスも「私は良い羊飼いである」と、弟子たちに語られました。「私はいる」という神の名前の意味を、イエスは「知っている」という言葉をもって、人々に伝えられました。知っているとは、単に知っている以上の意味が含まれます。理解しているという意味です。ともに歩んでくださるからこそ、私たちのことを理解している、あなたにとって一番良い人生の道とは何かを知っているのだから、そういう私がいることをあなたがたも理解してほしい。そんなイエスの願いというものがあふれ出てくるようにも、私は今日の新約聖書の言葉から想わされるのです。
 
私たちにまた、そのような神が、そしてイエスがおられることを「知る」営みというものを大切にしつつ、この週日の日々を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの日々に、神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。

23/07/2023

2023.7.23(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編5編13節
主よ、あなたは正しき者を祝福し
御旨の盾で守ってくださいます。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一5章18節
私たちは神から出た者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がはじまりました。猛暑が続くなかですが、今朝の仙台はとても涼しく、快適な朝を迎えることが出来ました。全世界でおこなわれる主の日の礼拝が、神の守りと祝福を心から感じとることのできる機会となりますように、祈りつつ、今日の聖書の言葉に耳と心を傾けたいと思います。
 
まさに、今日の聖書の言葉で語られようとしているのは「神の守り」であることを、私たちはふたつの聖書の言葉から知ることができます。神が私たちを祝福してくださることと、神から私たちを引き離そうとするもろもろから、神が私たちをしっかりと守ってくださるということを同じテーブルに置いて、私たちに神の御業というものを知らせようとしています。
 
祝福というのは、順風満帆の時だけに感じることのできるものではなく、祝福を感じることができないようなときでも、神は私たちの命を、理性そして感情をも、あらぬ方向に行かないように、ご自分の言葉と聖霊なる神の助けによって、私たちに気づきを与えてくださるというのです。与えられた気付きは、私たちに物事を神の視点で考え、落ち着きを取り戻し、健全な決断をするように導かれる源になるのだと、私は今日の聖書の言葉を通して受け止めたいと思いました。
 
私も先週の一週間を振り返ったとき、いかに祈ることに疎く、遠く、自分自身の判断ばかり頼っていただろうかという自分自身に気づかされました。昨日まで3日間、みことばと黙想に集中するときが与えられたわけですが、そこで改めて自分自身の姿というものに気づかされて、神の御言葉が与える幸いというものによって生かされたいと、祈ることができたのは本当に大きな喜びでした。
 
今週一週間も、暑さと日々の慌ただしさのなかに自分自身の身を置くことになりますが、どんなときでも、神がご自分の言葉と導きによって、私が行くべき道を守ってくださることを信じつつ、その日々を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神様の豊かな祝福がともにありますように。お祈りいたします。

22/07/2023

2023.7.22(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書25章9節
この方こそ私たちが待ち望んでいた主。その救いに喜び躍ろう。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙11章1節
信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日選ばれた聖書の言葉、特に新約聖書のヘブライ人への手紙11章には「信仰とは」というテーマのもとに語られていますが、その最初の言葉として、1節は定義とも言えるものが書き記されています。
 
信仰とは何でしょうか。「望んでいる事柄の『実質』」とあります。信仰と言うと、とかく私たちの「行為」に注目されがちですが、聖書で語る信仰とは、私たちの行動いかんに関わるところにないものとして描かれているのは、大変興味深いことです。私たちが望んでいることは、私たちの信仰行動の可否によって実現するのではなく、すでに「実現していることの実体」によって明らかにされて、実現されていることを、私たちが認め、それを信じることが「信仰」であるというのです。
 
実現していることの実体とは、救い主イエス・キリストに他なりません。私たちが一生懸命信じた結果、イエスが現れたわけではありません。むしろ逆で、イエスが私たちの前に現れてくださって、救いの実体として十字架と復活の御業を私たちに示し、明らかにしてくださったことで、私たちはそれを信じることができたというのです。この順番を、私たちは決して忘れていけないのだと思わされます。
 
ゆえに、たとえ先行き見えないことがあったとしても、私たちはそのイエスの実体を知っているからこそ、これから未来に向かってもまた、イエスがその実態をもって祝福と平和を確証してくださることを、希望のうちに信じていくことが、信仰の神髄であるというのだと、私は受け止めました。必ず神は悪いようになさらない。そのことを胸にしながら、今日の一日を歩みたいと心から願わされました。
 
信仰とは私たちの努力ではなく、神の与えてくださった恩寵への返答であることを、私たちは心しつつ、今日の一日を歩むことができますように。お祈りいたします。

21/07/2023

2023.7.21(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌下5章13~14節
ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を上げ、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、主の栄光が神殿に満ちた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録21章2,23節
聖なる都、新しいエルサレムは、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日から、私が協力牧師をつとめている「宗教法人アシュラムセンター」の役員会と、役員会による「修道場アシュラム」の時を過ごしています。修道場アシュラムでは、ただ心を静めて神の御言葉に向き合って、黙想し祈りながら御言葉を味わい、参加者とともに思いを分かち合いながら祈るということを大切にする集会です。
 
第二次世界大戦後ほどなくして、アメリカ・メソジスト教会宣教師であったスタンレー・ジョーンズ氏が、インドでの宣教師生活のなかで経験したことにヒントを得て、クリスチャン・アシュラム運動がはじまり、それが日本にも紹介されました。近江八幡にあるセンターの施設で、3日間ではありますが、ゆっくりと時を過ごして、身も心も魂もリフレッシュしてまいりたいと思います。
※アシュラムセンターについては、こちらをご覧ください。ウェブサイトを見ることができます。
 
さて、本日選ばれたふたつの聖書の言葉を通して、共通して語られているのは「主なる神の栄光」というものです。神が人々からほめたたえられるにふさわしい方であることを、栄光という言葉を用いることによって、光り輝く神の姿というものを、私たちは表現することができるのです。
 
神の放つ光は、私たちの心を照らします。私たちが暗闇のただなかにいるときも、神の栄光は私たちの真実を照らします。どこに歩むべきなのかを指し示してくださるのも、神の栄光がなせる御業であると言って間違いありません。その光に照らされながら、私たちはその栄光をほめたたえることができるというのです。
 
今日選ばれた聖書の言葉は、旧約聖書は、イスラエル王ソロモンによって建造されたエルサレム神殿の工事を終え、奉献礼拝がささげられたときに神殿を神の栄光が覆ったという話の一節であり、新約聖書は。やがて来る神の御国において、聖なる都エルサレムに、神の栄光が満ちあふれたという幻の一節です。いずれも、神の家、神の都にこそ、私たちの神が何の揺らぎもなく、光源として私たちに生きる力を与えるという実績と約束を私たちに示されるということなのだと、私は受け止めることができました。
 
神は必ず私たちに生きる光を与えてくださる。そんなことを心から期待しつつ、今日も神に向き合うことが出来るような生活をいとなみたいと願います。皆さんの一日にも、そのような神の栄光が、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。

20/07/2023

2023.7.20(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編62編8節
神にこそ、私の救いと栄光はある。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書8章48節
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日の新約聖書の言葉は、会堂長であったヤイロの12歳になる娘が、病に冒された後、ついには亡くなってしまうものの、イエスによって命がよみがえるという奇跡が起きた物語に、いわゆる「幕間劇(まくあいげき)」のように入り込む、この娘の歳と同じ12年ものあいだ、病に悩まされた女性がわらをもすがる思いで、イエスの服の房に触れたことで、たちまち病が癒され、苦しみから解放されたという話の結論部分として、イエスがその女性に語りかけたひと言が選ばれています。
 
イエスによって病気がいやされた女性は「出血が止まらない」という症状を持っていたようです。そして「全財産を使い果たした」とも、ルカによる福音書では説明されています。つまり、これは私の想像ではありますが、少なくとも「娘」と呼べるような年齢ではなかったのではないかと私は思うのです。ある程度財産のある、成人女性をイメージします。しかし、にもかかわらずイエスは、その女性を「娘」と呼んでいます(ギリシア語原文でもそういう言葉が用いられています)。
 
娘よ。イエスがそう語られた理由はどこにあるのだろうか。12歳の会堂長ヤイロの娘と、12年間病を患っていたい女性。状況こそ違えど、このふたりの女性には、やはり重なるものがあると思えてなりません。本当はヤイロの娘を癒すために家に向かったものの、ある意味で言えば「邪魔」が入ったというわけです。急いでいるのに、一刻も早く治して欲しいと父ヤイロは願ったはずです。結果として、別の女性の相手をしている間に、彼の娘は死んでしまいました。
 
しかし、イエスは出血の止まらない女性の病を癒しつつも、ヤイロの娘も間違いなく生き返らせた。イエスにとっては、どちらが大切でどちらが大切でないということは無かったのだと。イエスに助けを求める、オーバーラップする状況にあったふたりの女性を、同じように問題なく命の喜びへと導かれた。それがイエスなのだと。
 
私は、今日の聖書の言葉を通して想わされたことがあります。私たちは気がもめます。一刻も早く不安を解消したくて、急いで、急いで事を進ませようとします。しかし、焦るばかり、判断を誤ってしまうことがしばしばあったりします。しかし、イエスは違う。私たちの心とは別の、着実確実な計画を私たちに示される方なのだと。私たちがうろたえたとしても、神はご自分の御心にもとづいて、必ず私たちの必要に応えてくださるのだと。私たちがどんなにうろたえたとしてもです。
 
そういう神がともにおられることに喜びつつ、神に期待して今日の一日を過ごすことができますように。お祈りいたします。

19/07/2023

2023.7.19(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編74編2節
どうか心に留めてください
昔あなたが買い取り
ご自分のものとして贖われた部族の群れを

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書18章20節
イエスは言われた。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
神はどこにおられるのだろうか。実はすぐそばに、いや、私たちのただなかにおられるのだ。今日選ばれたふたつの聖書の言葉から、私はこんなイメージがわいてきました。イエスは、少なくとも人が二人、三人集まるところには私がいるのだということを、弟子たちに語られました。
 
イエスはなぜ、私ではばく「私たち」のただなかにと意識させるような言い方をされたのでしょうか。本日の新約聖書の言葉である、マタイによる福音書18章の後半部分で語られているのは、人間関係に溝が出来たときに、私たちはその関係性をどのように修復することができるだろうかというテーマについてです。イエスは、その結論として、人と人とを結び合わせるのは神の助けによってでしかないということを伝えようとされておられるのだと、私は受け止めたいのです。
 
イエスが私たちのただ中に立られるとは、神の愛が中心に立つということです。神の愛とはアガペーの愛。自分のことは差し置いてでも、相手の幸いのために働く愛です。もちろん自己主張をすることは大切ですが、そのことにこだわるために、私たちはしばしば、人間関係が崩れてしまうことがあるのです。だから、イエスは言われました。人が二人、三人集まるところには私もいるのだと。私たちはそのイエスの言葉を、どう受け止めることができるのでしょうか。そんなことを想わされます。
 
特に、神を知る者同士のあいだでは、私たちの共同体を神はどのようにご覧になられているだろうかということを、そして、そのためにどのような助けを与えてくださるだろうかということを、そして、そのためにどのようなご自分の言葉を、聖書を通して授け、聖霊の助けをもって私たちの生き方にしてくださるのかということをです。
 
今日一日の私たちの生活に、神が入り込んでくださることを心から期待して、その時を過ごすことができますように。お祈りいたします。

18/07/2023

2023.7.18(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編150編2節
力強い御業のゆえに神を賛美せよ。
そのすぐれた偉大さにふさわしく神を賛美せよ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙1章20節
神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日から、ウィークデイの日々がまた始まります。皆さんの日々の生活が、神様によって守られますように。天災や日照りのつらさがあっても、神の御業と栄光が、私たちの心を平安なものとしてくださいますように。お祈りいたします。
 
今日選ばれました聖書の言葉ですが、神の偉大な御業と栄光を心から賛美しようではないかという、詩編作者の「ハレルヤ」がしたためられている詩編150編が旧約聖書の言葉となっています。私たちがハレルヤと叫ぶことができるのは、嬉しいとき、楽しくなる時、喜ばしい思いとともになされることがほとんどでしょう。私もそうです。しかし、私が思ったのは、とうていハレルヤと神に叫ぶことすら躊躇してしまうようなときに、私たちが今日のような聖書の言葉に出会った時、それでもハレルヤと声高らかに賛美することが求められているのだろうか、ということです。
 
私の心は弱く、ハレルヤなどと言える状態ではありません、神様。と自分自身の思いを打ち明けてしまうかもしれません。そして、そういう私を、神はどのようにご覧になられるのかなとも思ったりします。
 
今日の新約聖書の言葉では、神の御業と栄光は、造られたものを通して明らかにされると書かれています。そのなかに、被造物である私も含まれているということなのだと。つまり、私が今、命与えられて生きているという事実だけでも、それは「ハレルヤ」と呼ぶことのできる、神が生きて働いていることの紛れもない証左なのだと。だから、私はこう祈りたいと思わされました。今はハレルヤと即賛美することができなくても、神様、私が今生きているという事実に感謝できるように、私を聖霊の助けで整えてくださいますように。と。
 
今日出会うひとつひとつの出来事を通して、神がそのように私自身を導いてくださるときに、私が心からハレルヤ!と神に向けて発することができますように。皆さんの思いからもハレルヤと、神である主を賛美することができますように。お祈りいたします。

17/07/2023

2023.7.17(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ホセア書8章12節
私は彼のために多くの教えを書き示したが
無縁なものと見なされた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章24節
イエスは言われた。「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日は梅雨はもう明けたのではないかと思うくらいの猛暑の一日でした。今日も昨日以上に暑い一日とのこと。豪雨で被害に遭われた方々のことも心配です。あらゆる災いから少しでも安全が神様によって守られますように。祈りつつ、一日を過ごしたいと思います。
 
私の喉の痛みは、ピーク時の2割ほどになりました。礼拝メッセージをしたあとに、神の言葉が喉を通ると癒されるのだろうかと、昨日冗談めいたことを話しておりましたが、あながち間違っていないのかなとも思ったりしています。皆さんの祈りも大変ありがたく、大きな力になったことは間違いありません。ありがとうございます。
 
昨日の午後から今日の午前中まで、仙台宮城野教会の「教会修養会」がおこなわれています。いくつかの発題に加えて、白熱した話し合いと交わりのときをもっています。そのなかで、私の発題で「5つのビジョン」というものを話しました。その最初に挙げたのが「神の御言葉に堅く立つ教会」というものでした。当たり前のことと言えばそうなのですが、神が聖書を通して与えられる価値観を、自分の生き方とするというのは、簡単なようで決してそうではないのだと。だからこそ、御言葉に聴いて神に祈る生活の繰り返しを通して、神の価値観というものを知り、それを身にしみこませることが「神の御言葉に堅く立つ」ことなのだということを、教会の皆さんと分かち合うことができました。
 
その明くる朝に与えられたローズンゲンの言葉に、思わず「アーメン!」と叫んでしまいました。岩という頑丈な土台の上に建てられた家こそ、「神の御言葉に堅く立つ」ということの、実に秀逸なたとえなのだと感じさせられました。決して、私には関係ない、私は十分なので必要ないなどと思うことのないように、今日も御言葉に聴いて一日を過ごしていきたいと神に祈りました。
 
私の感想のような黙想ですが、今日も神の御言葉が与えられる幸いに感謝しつつ、皆さんの一日にも、神様からの幸いが豊かにありますように。お祈りいたします。

16/07/2023

2023.7.16(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書25章8節
主なる神はすべての顔から涙を拭ってくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章20節
イエスは言われた。「あなたがたの苦しみは喜びに変わる。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がはじまりました。皆さんにご心配いただいていた私の喉の痛みですが、随分楽になりました。無事に礼拝メッセージも、午後から明日にかけて行われる修養会も乗り切れそうです。お祈りくださった皆さんに心から感謝です。ありがとうございます!
 
そんな私に、今日の聖書の言葉はまさに、神様に感謝したくなるものでした。苦しみ痛みを取り除いて、私を喜びへと導かれる神が、私の涙をも取り去ってくださる。なによりも礼拝で務めを果たすことができてこそ、私の喜びであるとあらためて感じさせられました。今日の黙想は黙想らしくありません。ダイレクトに響く神の喜びを受け取ったからです。そんな気持ちで、今日の一日を過ごしてまいりたいと思いました。
 
皆さんの日曜日はいかがでしょうか。連休中ということもあり、いろいろとご予定もおありかと思います。どうぞ素敵な休日となりますように。そして、礼拝を通して喜びを運び、働いてくださる神の祝福が、皆さんと共にありますように。お祈りいたします。

15/07/2023

2023.7.15(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記31章42節
神は私の労苦と悩みを目にされたのです。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一15章58節
あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
猛暑が訪れたと思えば、豪雨が襲う日々。体調を崩しやすい陽気のなかですが、少しでも健康が守られますよう祈るばかりです。私も何が原因かはわかりませんが、右の扁桃腺が腫れてしまいました。ものを飲み込むごとにズキンとくる痛み。なかなか不快なものです。はやく痛みが治まればと思ったりしています。日曜日は礼拝で声を出しますのでなおのこと。少しでも養生に努めたいと思います。
 
さて、今日選ばれたふたつの聖書の言葉ですが、私が個人的に申し上げれば、今日の新約聖書の言葉である、第一コリント書の15章58節は、私も最も好きな聖書の言葉です。「主にあって苦労は無駄にならない」。主との関わりを意識すればするほど、私の経験するひとつひとつの出来事に、無駄なことなど何一つないのだ。この思いこそ、生きる希望につながっているのではないかと、私はどうしてもそう思えてならないのです。
 
自分の努力が報われない、陽の目を見ない、人から評価されずに誤解されることしきり。もちろん、自分自身の至らなさがそうさせていることは間違いないのですが、結局のところそんなことを思うときに、そういう思いがどこから来るのだろうかと考えるのです。そうすると、大体は「自分のプライド」というものが、そう思わせているのだという結論に達することがしばしばあります。
 
結果オーライなのです。しかし、自分が報われていないと感じるあまり、そのオーライの出来事に喜べない。周りは喜んでいるのになぜか自分は喜べない。なぜか意固地になってしまい、陽の当たるほうを向いてはうらんだりねたんだりするのです。でも、それは結局自分が満たされないから。自分に陽の光が向かないように感じないから。いや、結局それは「そう思っているだけ」の自分自身があるからなのだと。
 
パウロは手紙にしたためました。神につながっているのであれば、神があなたのその出来事をすべてわかってくださっている。そして、あなたの人生のなかでその出来事やあなたの存在自体を決して無駄になさらずに取り扱ってくださる神がおられるのだから。パウロの手紙には、人々に対してあくまで神が与えられる希望によって、生きる幸いというものを見い出せるのだと、告げておられるということだと、私は受け止めたいのです。
 
今は無駄と思えても、いつかは「ああ、無駄ではなかったのだ」と振り返ることのできるような思いでありたい。そういう思いができるように、神からの支えと助けが欲しいのだと。人生すら無駄であると思うことがあるならば、そうではないよと語りかけてくださる神に今日も出会いたい。そんな思いにさせられました。若い人たちが人生に絶望し、自ら命を絶ってしまうようなことが起きないように、今日もその人たちのために祈りたいと思わされました。
 
一週間の最終日である今日の一日もまた、あらゆる出来事を決して無駄になさらない神の助けが、皆さんとともにありますように。お祈りいたします。

14/07/2023

2023.7.14(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記14章2節
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主はあなたをご自分の宝の民として、地上のすべての民の中から選んだのである。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章5節
あなたがたは皆、光の子、昼の子だからです。私たちは、夜にも闇にも属していません
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日選ばれたふたつの聖書の言葉を通して、神は私たちのことをどのように取り扱ってくださっているのかを知ることができます。
 
「ご自分の宝の民」(旧約聖書・申命記)
「光の子」(新約聖書・テサロニケの信徒への手紙)
 
神は、ご自分の宝として私たちひとりひとりのことを、そして光源である神の子どもとして取り扱ってくれると言うのです。大切にご自分の財産として守られる神のイメージというものが、この申命記の言葉から明らかにされています。これはもう少し具体的な言葉で言えば、多くの犠牲を払ってでもご自分の宝を大切に守り続けてくださる。この犠牲こそが、いわゆるアガペーの愛であり、この愛はイエスの犠牲によって成し遂げられたというのです、イエスが十字架という刑具にかかって死なれたのは、私たち人間を宝とみなされた神の、私たちに対する愛ゆえのことでした。
 
その私たちが、神の放つ光に照らされながら、闇にとどまり続けることのないように、神が働いてくださるのだと、この手紙を書いた使徒パウロは、私たちのことを「光の子」という表現をもって明らかにしています。私たちひとりひとりがそのような光に照らされながら、自分自身をご自分の宝としてくださる神の愛によって、今日も歩むことができる。そんな幸いを是非味わいたいと願います。どうぞ皆さんの一日にも、光り輝く宝であることの喜びを味わうことができますように。お祈りいたします。

13/07/2023

2023.7.13(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記37章22節
ルベンは兄弟たちに言った。「血を流してはならない。」

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章15節
互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日くじで選ばれた創世記37章の出来事は、ヤコブ(のちのイスラエル)の息子たちの間におきた、ねたみの感情について描かれたものです。父親に寵愛されたヨセフの言動が許せなくて、ついには殺してしまおうと、ほかの兄弟たちは結託します。
 
感情というものは、実にとどまるところを知りません。それが相手との感情のもつれがエスカレートすれば、なおのことです。もし、そのような抑えきれない感情が自分のうちにあるとするならば、どうすれば自分の心にストップをかけることができるのだろうか。今日の聖書の言葉で語られたルベンの言葉こそ、彼自身が神によって与えられた良心こそが、彼に言葉を与え、殺したいという感情に取り囲まれていたほかの兄弟たちの思いをとどまらせました。その結果、ヨセフは古井戸に投げ込まれたものの、命まで奪われることはありませんでした。ルベンは「血を流してはならない」と言ったのでした。
 
私たちもそれぞれに感情を持ち、その感情に従って言葉をつむぎ、行動します。しかし、感情のおもむくままに自分自身の言動を用いようとするときに、私たちの感情を何よりも優先するということは、つまり自分自身を第一にすることであって、少しストレートな言い方をすれば、神の御心というものを第一にしていないということを、自ら明らかにしていることなのだと私は受け止めたいのです。
 
だからこそ、ルベンのような良心の発露というものが、本当に大切なのではないかと私は思うのです。神が与えた命を、人が粗末にしたり消してしまうようなことがあってはならない。彼の良心は、神が私たち人間に示してくださったことに基づくものであったことに間違いありません。この良心を私たちも神からいただいた者として、神が与えられた善い物事に生きる者でありたいと、願わされました。
 
今日も私たちに良心を与えてくださる神が、私たちのあいだに平和を宿す大きな根拠となりますように。お祈りいたします。

12/07/2023

2023.7.12(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨエル書2章17節
主よ、あなたの民を憐れんでください。
あなたの相続地をそしりの的にしないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テトスへの手紙2章14節
キリストが私たちのためにご自身を献げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出し、
良い行いに熱心な民を、ご自分のものとして清めるためだったのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
昨日は、黙想をお届けすることができず、申し訳ありませんでした。去る月曜日から、私の所属する日本基督教団東北教区の「教師研修会」という行事が1泊2日の日程でおこなわれました。私は準備委員の立場で関わりましたが、もちろん一参加者の立場としても、学びと交わりの時をいただき、とても充実した2日間を過ごすことができました。講師は、八戸小中野教会牧師の小林よう子先生でした。歴史というものについて考える、とても良い示唆をいただきました。
 
さて、今日の聖書の言葉を通して想わされたこと。神は私たちが必要以上にみじめにならないように、常に働いてくださっているということです。私たちにとってみじめになるとは、単に自分のプライドが汚されることではなく、あくまで神を自分の神とし、神とともに歩んでいるがゆえに、周りからそしりを受けることによって生じるみじめさのことを指しています。
 
自分のプライドとは何でしょうか。自分が自分として周囲から認められるということを根っことしたところから起きるものであると、私は考えています。私たちは誰でも承認欲求というものを持っています。認められることで自分の立ち位置というものを確認して、そしてそれが自尊心、プライドへとつながっていくのだと、私は自分のことを振り返ってもそう思わされます。
 
そんなことを思うときに、私が神を信じるということを自分自身の生き方とするときに、また、そうしていることを周りへ伝えようとするときに、必ずしもそれが周りに理解してもらえないということがあります。宗教なんてやっていて何が楽しいの?神を信じるなど馬鹿げたことだとか、宗教があるから統一協会のような害悪を生むのだとか、いろいろなことを言われることがあります。
 
そういう時に、プライドが傷つけられることを恐れるならば、自分自身が信仰者であることを隠したり、弱めたりしながら、何とか自分自身の立ち位置を認めてもらおうと工夫してしまうかもしれません。しかし、それはプライドという段階に自分自身をとどまらせようとする際に起きてくるものであって、実にみじめな自分自身に取り囲まれて、さも悲劇の主人公のようになってしまうのかもしれません。
 
しかし、神はそのようなみじめな私たちを受け入れてくださる。神とともに生きるということへの幸いを、私たちにはっきりと見せてくださる。そして、働いてくださるというのです。イエスを救い主として、私たちに与えてくださった神が、私たちをみじめという枠のなかに閉じこもることのないように、助けてくださるというのです。
 
こうして、私自身が、神とともに歩むことの幸いというものを、今日も気づかせてくださる。そのことを希望として、今日の一日を歩む者でありたいと願わされました。皆さんの一日も、そのような神の助けが豊かにありますことを、心からお祈りいたします。

10/07/2023

2023.7.10(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編95編6節
さあ、ひれ伏し、身をかがめよう。
私たちを造られた方、主の前にひざまずこう。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章17節
永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
主の日を終え、私たちはまた週日の日々へと向かってまいります。どうか、皆さんのウィークデイの毎日に、神様からの守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。
 
今日私たちに与えられたふたつの聖書の言葉は「主なる神を礼拝する」ことについて、示されたものであると私は受け止めました。ひれ伏し、ひざまずきつつ、私たちの神を礼拝することの幸いを、詩人は歌いました。そして、この礼拝の喜びが、世々限りなく続きますようにと、テモテに手紙を書き送ったパウロは、神に祈りをささげています。
 
礼拝すること、また神に祈り、賛美の歌をささげて、神の御言葉に聴くというのは、そういった営みのなかで、神が私たちのために生きて働いてくださっていることへの確認の営みであり、そのなかで起きてくる喜びだとか驚きというものを味わうことのなのだと。こういった日々の営みのなかで、神を礼拝するということがより豊かになっていくのだと、私は受け止めたいと思いました。神を礼拝するというのは、なにも日曜日に限ったことではなく、私たちが聖書・祈り・賛美に触れるごとに、味わうことのできるものなのです。
 
今日も、皆さんの神との交わりの一切に、主なる神の祝福がありますように。
心からお祈りいたします。

08/07/2023

2023.7.8(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言10章7節
正しき者を覚えることは祝福に
悪しき者の名は滅びに至る。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙6章12節
あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束を受け継ぐ人たちに倣う者となるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。新しい週への備えとして、今日の一日もまた、神が私たちを守り、祝福してくださることに期待を寄せながらその日を過ごすことができますように、祈りたいと思いました。
今日は、私が牧師代務を務めている教会で、葬儀を執り行います。この場に神の慰めと励ましが十分にあふれることを信じて、心を込めてお仕えしたいと思います。
 
さて、今日選ばれた聖書の言葉ですが、新約聖書には「あなたがたが怠け者とならず」という一文があります。ここで言う怠け者とはいったいどのようなことを指しているのだろうか。そんなことを思わされました。
 
主なる神の業にいつも励みなさい。そんな言葉を聖書から拾い出すことができます。もし、そのような勧めと、怠け者になるなという言葉が連結されるならば、私のなかにあるイメージは「休むな!働け!怠けるな!」のように聞こえてしまいます。がむしゃらに休みを取ることもなく、神様のための奉仕しろ的な。
 
しかし、そういう読み方で本当に良いのでしょうか。私は、この手紙を通して、何に怠けることなく歩むことを言わんとしているのだろうかと思うのです。ここで「信仰と忍耐によって」と書かれていることに、注目したいのです。
 
信仰について、同じヘブライ人への手紙には、その定義が書かれています。信仰とは何でしょうか。
 
信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。
(11章1節)
 
臨んでいる事柄の「実質」とあります。信仰と言えば、私たちの主体的な決断と行動としての「~を信じる」というように見えますが、そうではない。少なくとも聖書に書かれている信仰とは、私たちが望んでいることが「救い主イエス」という「実質」によってすでに「確証」されているということ。つまり、イエスがすでに、私たちとその実質と確証によって、救い主としてともにいてくださること。それそのものが「信仰」であるというのです。
 
つまり、信仰とは、自ら探求して得るものではなく、神によって与えられるものであるということです。信仰とは、自己努力の結果ではなく、神の一方的なお働きによって、私たちがいただけるものなのだと。
 
そういう意味で言えば「怠け者とならず」という言葉は、私たちの側の一心不乱な努力を促すというよりは、神が私たちとともにいてくださることによって、心が熱くされ、脈々とした鼓動を感じられるような私のありようなのだと、私は受け止めました。この内的な躍動こそ、私たちを生かす源なのだと。他者からあれこれあおられたりすることがなくても、私の心のなかにイエスがともにいてくださることによる、安心な思いを抱きながら、神とともに歩みたいと願わされました。
 
どうぞ、今日の一日が、そのような神の守りによって得られる幸いを味わうことができますように。お祈りいたします。

07/07/2023

2023.7.7(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編90編8節
あなたは私たちの過ちを御前に
隠れた行いを御顔の光にあらわにされる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章12節
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日の新約聖書のことばであるマタイによる福音書6章の言葉は、のちに「主の祈り」の一節となったものです。
 
  私たちに罪をおかした者をゆるしましたから
  私たちのおかした罪をおゆるしください。
 
私は長年、この主の祈りの言葉に違和感を否定感を抱き続けてきました。私がどうして、自分に対して罪をおかした人を許すことができるだろうか。でなければ、私も神に自分の罪というものを許してもらうことはできないのだろうか。
 
人を許せないということで、自分自身が神から見離されたような感覚に陥ってしまうのです。礼拝やその他の場所で、主の祈りが祈られるたびに、心が苦しくなってついには祈れなくなってしまったのです。神学生のときでした。まだエホバの証人であることに別れを告げて、教会で信仰生活を送ることになって数年しか経っていない頃でした。
 
私は、同じ教会の方にそのことを打ち明けました。そうしたら、その方から出た返答というものは、実にシンプルなものだったのです。「だから祈るんでしょ?」と。
 
祈れないことを祈る。できないことを祈り続ける。祈ることを通して神の助けを願い求める。そして、この祈りを教えてくださったイエスが、私とともにいてくださることを信じて祈る。
 
許すことのできない自分自身が、この祈りによって再び気づかされるときに、できない自分を責めたり、それゆえに自己否定感にさいなまれるのではなく、だからこそ、イエスの助けによって、罪ゆるされたものとして、いつかは神の助けによってゆるすという出来事を自分のものとすることができますようにと、祈ることができるのだと。そのために神は私のために働いてくださることを信じるだけで、見方というものが随分違ってくるのではないだろうか。そんなことを思いつつ、主の祈りを祈れるようになったことを思い出しました。
 
祈るということで、自分自身の偽らざる姿に気づくことができるのであれば、それがたとえネガティブなことであったとしても、そこに神が生きて働いてくださるのだと。そんな思いを胸にして、今日という一日を歩みたいと願わされました。
 
猛暑が続くなか、皆さんの健康が守られますように。主の守りと祝福を、心からお祈りいたします。

06/07/2023

2023.7.6(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編25編1~2節
主よ、私の魂はあなたを仰ぎ見る。
わが神よ、私はあなたに信頼する。
私が恥を受けることがないように。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章3節
ザアカイは、イエスがどんな人か見ようとした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
昨日は黙想をお届けすることが出来ませんでした。楽しみにしていてくださっている皆さんへ、お詫び申し上げます。
昨日の朝、黙想に取り掛かろうとしたところで、一本の電話が入りました。私が代務を務める教会の信徒さんが、急逝されたとの知らせでした。私がその方にお会いしたのは、ちょうど一週間前のことでした。ゆっくりと1時間以上、お話をしたのです。いろいろなお話を伺いました。その残像が今でもしっかりと残っていて、だからこそ、あまりにも突然のことに、戸惑いを感じずにはいられませんでした。すぐさまご自宅を訪ねて、祈りのときを持ちました。今日も葬儀への備えのためにお訪ねします。一切に主なる神の慰めを祈るばかりです。
 
こういうときにこそ、神がどのような御方か、その御業を見るということに心を寄せたい。今日の聖書の言葉をいただいて、思ったことです。ダビデにしてもザアカイにしても、父なる神を、そしてイエスがどのような方かを「見る(た)」と、今日の聖書の言葉には記されています。神を見るとは、私の心へ、またこの世界に神がどのように働いてくださるかということに、思いを集中させることであると私は受け止めました。
 
私たちはどうしても、神を見ることよりも、時分自身の今を取り囲む状況に、関心が行ってしまうことが多々あります。昨朝のような、あまりにも信じがたい出来事が突如として襲うときに、そのことで頭も心もいっぱいになる自分自身があります。これは仕方のないことです。神を見る余裕などない。こんな風に思うのが、私たちの偽らざる真実なのかもしれません。しかし、それでも、そんな時だからこそ、神を見ることを通して、ただ、神の慰めを祈り求める思いを大切にしたいと思わされました。悲しみのなかにも慰めを、怒りのなかにも落ち着きを、神の御業を見せてくださいと、私は祈りたいとあらためて思わされました。
 
ダビデは、「私が恥を受けることのないように」と祈りました。私が苦痛に取り囲まれ、みじめになることのないように、神に訴える祈り。今日もそのような祈りを神にささげつつ、一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神である主の御業が豊かにありますように。お祈りいたします。

04/07/2023

2023.7.4(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書26章3節
志の堅固な者を
あなたは確かな平安をもって守られる。
彼があなたを信頼しているゆえに。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章21節
私たちとあなたがたとをキリストのうちに堅く保ってくださったのは、神です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日今日と、私の所属する日本基督教団の役員会にあたる、常議員会という会議に出席しています。私が担当している委員会の報告をするためです。初めてこの会議に出席しましたが、将来に向かって、私が属する日本基督教団のみならず、日本にある諸教会が実に多くの課題を抱えながら、一歩一歩を歩もうとしていることを実感しました。
 
そんなことを思いながら、今日選ばれたローズンゲンの言葉に出会った時に、旧約・新約の両方で取り上げられているのは「堅く立つ」ことであると、私は受け止めました。では、私たちが堅く立つとは、いったいどのようなことだろうか。そんなことをも思わされました。
 
私たちが堅く立つとは、キリストにあって成されるものであるということを、聖書は語っています。キリストの支えがなければ、私たちは立つことが難しいということをであって、自立というのは、決してひとりだけの作業によってなされるものではないことを明らかにしています。自立というのは、ひとり「だけ」で立つことではなく、誰かの助けを必ず必要とし、そのような助けがあるからこそ、自分で立つことが可能だと思うのです。
 
あと、大切なもうひとつのこととは、どんなに強靭な脚力があったとしても、土台が軟弱では、決して立つことは難しい、という事実です。堅固な土台があってこそ、私たちは立つことが可能なのです。その土台こそ、私たちの神であり、私たちの救い主イエスに他ならないということです。神が私たちを平安へと導かれるべく、しっかりと底支えをしてくださるというのです。神が私たちを信頼をもって取り扱われるからこそ、私たちはそのような神を信頼して、不健全な依存から解放された自立の道を歩むことができると、私は今日の聖書の言葉を受け止めました。
 
私たちの自立を助け、ともに立つべく支えてくださる神の恵みが、皆さんとともにありますように。お祈りいたします。

03/07/2023

2023.7.3(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編103編2節
私の魂よ、主をたたえよ。
そのすべての計らいを忘れるな。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章18節
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて
神があなたがたに望んでおられることです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日から、新しいウィークデイの日々が始まります。昨日の礼拝から背中を押し出された私たちの生活が、どのようなものになるのだろうか。私たちが想像する時に、今日選ばれたローズンゲンに示された聖書の言葉は、実に豊かなイメージをあたえるものだ。私はそのように感じました。
 
神である主が、私のために生きて働いてくださったことを、何ひとつ忘れてはならないと、詩人は歌いました。私は、こんなことをふと思いました。
 
感謝はすぐに忘れるが、憎しみはいつまでも記憶にとどめようとする
 
こんな経験はないでしょうか。私はあります。その時は感謝の心を示しても、簡単に忘れてしまい、忘却のかなたへ押しやってしまう。しかし、憎しみの思いは、いつまでも傷となって残り続けることを、さも積極的に受け入れてしまう私があるのです。何とも心の狭い、いやらしさを感じずにはいられません。しかし、これが人間の偽らざる現実なのかもしれません。
 
だからこそ、感謝となる出来事を、何ひとつ忘れてはいけないという聖書の言葉が、ものすごく心に突き刺さるものを感じるのです。そのように私のためにことを成してくださる神がおられる。主が、私たちとともにおられるのだと。神がそうしてくださることを、私はどのように受け止めることができるだろうか。
 
どんなことにも感謝するというのは、イエス・キリストの望みである。感謝できないことがあったとしても、それでもそのたびごとに感謝できない私を無きことのように扱い、さも忘れたかのように振る舞うのではなく、感謝できなくても、感謝という言葉を心に巡らすだけで、神をわが心に宿すことができるのではないだろうか。そんなところに自分自身を置いてみたいと思わされ、願わされます。
 
感謝の思いを私たちのうちに宿してくださる神の助けが、今日も私たちひとりひとりとともにありますように。心よりお祈りいたします。

02/07/2023

2023.7.2(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編119編64節
主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。
あなたの掟を私に教えてください。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章12節
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
これこそ律法と預言者である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。全世界の教会や集会で行われる主の日の祝祭と礼拝を通して、神の慈愛と喜びが私たちひとりひとりの内に外にあふれますように!
 
今日選ばれた、ふたつの聖書の言葉を通して、私たちは神の掟、すなわち律法や、預言者を通して語られた神の言葉とは、いったいどのようなものなのかについて、いろいろと考えさせられます。そして、今日の聖書の言葉から、そのことを思うときに、神による人への、また創造されたすべてに対してあふれる「いつくしみ」というものを、つくづく思わされました。
 
いつくしみとは、相手のことを大切に思い、接し、そして扱うことです。そして、いつくしみは愛と直結することを、私たちは知ります。それは「慈愛」という言葉が指し示すものそのものであると、私たちは理解することができます。神が私たちをいつくしんでくださるように、私たちも、神がいつくしまれておられる人々に、慈愛の念を抱く。これが、神が御水から示された掟であり、預言者を通して語られたメッセージであると。
 
私たちはいつくしむことが苦手かもしれません。愛する者だけを愛して、愛せないものを愛せない。愛したいと思ってもなかなかそうできない。そこに、私という人間のゆがみというものが生じていることに気づかされます。だからこそ、神の慈愛をいただき続ける必要があるし、いただき続けたものを確認し続け、それをもし分かち合える環境にあるならば、それを喜んで差し出すことにこそ、イエスの言葉を自分の生き方とすることが可能となるのかもしれません。それは自分自身の努力によってではなく、神の慈愛によってです。
 
新しい一週間の日々が、そのような神の慈愛に支えられたものでありますように。皆さんの一切に、主なる神の守りと祝福を、心からお祈りいたします。

01/07/2023

2023.7.1(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書11章20節
主よ、私はあなたに向かって
私の訴えを打ち明けました。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章10節
御心が行われますように
天におけるように地の上にも。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
はやいもので、2023年も半分を過ぎてしまいました。今日から7月。梅雨から夏に移ろい行くこの時も、神が私たちひとりひとりを守り、導かれ、そのためにご自分の言葉を豊かに与え、その意味を悟らせてくださいますように。祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。
特に、昨日から豪雨に見舞われている地域と、そこに住まわれる方々に、少しでも不安が取り除かれて、神様による安全と安心があますところありますように。お祈りします。
 
さて、今日選ばれた旧新約聖書を通して考えさせられたのは「神の御心」についてです。神の御心に示されたことが、天の国で行われるように、地上においても行われますようにと、イエスは私たちに、模範の祈りとして教えられました。私たちは、究極的に神の御心を100%知ることはできません。もし知ることができたら、とっくに世界は平和で満たされていたことでしょう。しかし、私たちは神の御心が私たちの住むこの地にもなりますようにと祈ることはできます。そして、そのゴールにある「主なる神の平和」というものを信じて、歩むことができるし、その歩みが少しでも、神の思いに沿えるように、聖書の言葉に丹念かつ謙虚な思いで聴くことが出来るのだと思います。
 
そのことが、預言者エレミヤの訴えにも明らかにされています。主よ、私はあなたに自分の思いを訴えました。大切なのは、その先です。ですから、私にあなたの御心を見せてください。その御業というものを示されて、私に分からせてくださいと、エレミヤは神にそう訴えているのです。エレミヤは自分の訴えを要求さえすれば良いなどとは全然考えていませんでした。むしろ、神の御心が明らかにされることを心から望んだのもエレミヤだったのだと。
 
私が神の言葉である聖書にあたるときに、それをどのように読むことが大切か。聖書を文字通りに読むことはとても大切ですが、この文字を通して、神が何を私に語りかけようとしているのかというところに、是非目を向けて心を注ぎながら、聖書を読んでいきたいし、それでも思い違いするかもしれない私に、神が教え諭してくださるよう、聖霊なる神の導きを求めて、祈ってまいりたいと心から願わされます。
 
どうぞ一週間の最終日であるこの一日が、7日間の歩みを振り返ることができるような時となりますように。明日の主の日への良き備えとなりますように。お祈りいたします。