30/06/2023

2023.6.30(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書8章4節
倒れたら、起き上がるのではないだろうか。
背いたら、立ち帰るのではないだろうか。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章5節
使徒たちは「私どもの信仰を増してください」と、主に言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日の新約聖書の言葉は、弟子たちが救い主イエスに、自分たちの信仰を増してくださいと願い出ているシーンです。そして、それら弟子たちの願いに応じて、イエスは、このようなことを弟子たちに語っていることがわかります。
 
主は言われた。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。
(ルカによる福音書17章6節)

からし種一粒ほどの信仰。
イエスが言われた、大変有名なひと言です。実は、私が働く教会の祈祷会で、昨日この「からし種の話が話題になりました。私たちが読んでいた聖書箇所はマタイによる福音書17章であって、少しシチュエーションは違いますが、イエスが弟子たちに対して「あなたがたの信仰は薄い」ということを告げたのちに、からし種の話をされたことが記されています。
 
では、信仰とはいったい何だろうか。信仰の厚い薄いは何をもって語ることのできる事柄なのだろうか。桑の木でも山でも動かすことのできる信仰の力とは、どのようなものなのだろうか。そんなことを考えさせられます。
 
信仰とは、努力の結果獲得できるものではなく、あくまで神から与えられるものである。
よく言われる言葉です。そして、神から与えられるものと言えば、やはり「アガペーの愛」なのかなと思えてなりません。あくまで周囲の幸せのために自分自身が働く愛。そんな意味を持つアガペーの愛を携えながら、イエスは私たちの内にとどまってくださる。この事実こそ「信仰」の本質なのだと。私たちが何かをする功徳を積むということそのものが信仰ではなく、その前に先立つ神の愛が私たちの内にとどまることなのだと。
 
からし種は、あんぱんの上に乗っているけしの実よりもさらに小さいものです。ひと粒とっても、注意深くしていなければ簡単にこぼれ落ちてしまう。それがからし種です。しかし、私たちが簡単に見過ごしてしまいそうなからし種であったとしても、そのひと粒に神の愛が十分に詰まっていて、世の中を変える力があるのだ。イエスが弟子たちに語られた「からし種ひと粒の信仰」とは、そのような神の不思議な業について語っているのかなと思わされました。あくまで私たちの側の努力の問題ではなく、神がそうしてくださるから、私たちは神から信仰の本質をいただき、それをもって日々の生活のなかで神とともに生きることができるように導かれているのだと。そんなことをあらためて思わされました。
 
今日一日が、私たちの見過ごしてしまうような出来事にも、神の愛が詰まっていることに信頼して歩むことができますように。心からお祈りいたします。

29/06/2023

2023.6.29(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書20章11節
主は、恐るべき勇士のように
私と共におられます。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章12節
私を強めてくださった、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日選ばれたふたつの聖書の言葉を通して、私はあらためて「強くなる/強くさせられる」とは、いったいどういうことなのだろうか。そんなことを黙想したいと思わされました。
 
私たちは「強さ」の基準をどこにもとめるだろうか。高い能力か、知性か、腕力か、経済力や名声か、数の大小か。この世の中で一般的に、誰の目から見ても受け入れられるような強さが幅を利かすなかで、私たちは「強さの根源がどこにあるのか」ということを見る必要があるように思わされます。
 
使徒パウロは言いました。強さの源は救い主イエスにあると。ローマの市民権という社会的ステータスを有し、律法の学びを通して論理的な思考に満ちあふれ、手に職を付けて自活することもできたパウロは、世の中からすれば「強い部類の人間」とみられていたかもしれません。しかし、当のパウロ自身は、自分のうちにある「弱さ」で大いに苦しみ、悩み、だからこそ、神の助けを徹底的に求めました。弱いからこそ強いとパウロが告白したのは、自分自身の弱さというものに徹底的に向き合った結果、私は神が与えてくださる強さによってでしか、生きることができないのだという心からの告白でした。
 
私の強さは、私由来の強さではない。神が強い方でおられるがゆえに、私は強くさせられているのだ。この弱い私を。その結果、現れる強さというものは、もちろんこの世界で受け居られる強さが結果として現れる場合もあるでしょう。しかし、世界がどんなに認めなかったとしても、誰もが見てわかるような強さでなかったとしても、自分自身が神の助けによって、地を足を付けて、それを踏みしめて、たとえ地味でも、与えられた命というものをじっくりと味わうことができるのではあれば、それは「神に強められた命と生活」に他ならないのだと。私はそのように受け止めたいのです。
 
神は恐るべき勇士のようである。神からの裁きの言葉を伝えようとする前に、逡巡(しゅんじゅん)する預言者エレミヤが、神の力を信じて告白しました。多くの憎しみを買うことになるだろう。しかし、神が恐るべき勇士として私を守ってくださる。神は私に預言者としての仕事を与えられた以上、決して心配はないのだと思っての、エレミヤの告白だったのでしょう。このエレミヤの言葉にも励まされながら、今日の一日を生きていきたいと願わされました。
 
皆さんの一日に、神の守りがあり、それによって強くさせられる幸いがありますように。お祈りいたします。

28/06/2023

2023.6.28(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編138編2節
あなたの慈しみとまことのゆえに
御名に感謝を献げる。
御名と仰せを大いなるものとされた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一1章23節
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける言葉によって新たに生まれたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日選ばれたふたつの聖書の言葉から、私たちは「神の仰せ」という言葉と「神の生ける言葉」という共通するキーワードを見つけることができます。神が聖書を通して語られる言葉について、詩人ダビデは神の慈しみと真実が込められたものであると歌い、イエスの弟子ペトロは人間を生かす、決して朽ちることのない永遠の言葉であると私たちに伝えています。
 
ダビデは、「御名と仰せ」というように、神の言葉と神のお名前をセットにして神を賛美しているというところに、重要なポイントがあるように私は感じます。神である主のお名前は「私はいる」であり、それは私たちとともにおられる神という、とても大切なメッセージを私たちに与えています。私たちとともにいてくださる神が、私たちに生きるための言葉を語りかけ続けてくださるというのです。それこそ、神の慈愛の思いであり、神が真実な態度で私たちひとりひとりを取り扱ってくださる。この神をダビデ王は賛美しました。
 
私たちがどんなコンディションにあったとしても、神の言葉は変わることなく、私たちに語りかけてくださる。もし、何かが変わることがあるのであれば、それは私たちの心境や態度というものでしょう。私たちは大いに揺れ動きます。激しい浮き沈みのなかで、神を自由に評価します。時に持ち上げたり、そして落としたりと言った具合にです。
 
しかし、神はそんな私たちの姿をご存知なうえで、決して変わらない言葉を与え続けられる。私たちに「平安」の心が与えられるのは、そのような神の安定感がかもし出すゆえのことなのだと、私は受け止めたいと思いました。
 
今日も、そのような神の言葉に支えられることに感謝しつつ、一日を歩むことができますように。そのような言葉によって、皆さんの一日に豊かな平安の思いが与えられますように。お祈りいたします。

27/06/2023

2023.6.27(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書49章26節
すべての肉なる者は知るようになる。
私が主、あなたの救い主、あなたの贖い主であることを。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書28章18~20節
イエスは言われた。
「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日選ばれた聖書の言葉は、神が私たちのために身代金を支払ってくださることによって、私たちが闇の世界から神の守りの世界へと買い取られた。この神の御業というものを、私たちは知り、理解し、受け入れることができるのだ。そんなメッセージを私たちに伝える言葉であると、私は理解しました。旧約聖書・イザヤ書による希望の言葉です。
 
私たちが経験する闇の世界とは何か。そんなことを思わされます。昨日、宇宙の世界よりも深海の世界のほうが、未知の部分が多いということがテレビで紹介されていました。なぜならば、深海の世界は「光」がないからです。宇宙のほうが恒星が輝いているので、そのなかを遊泳することがまだまだ可能なのだそうです。深海の世界は、前に踏み出すことも難しくさせる。それは光がないから。光のない世界で動こうとするならば、それはもがき苦しみの世界でもあると言うことができます。
 
そういう世界に私たちもまた、人生のあらゆる問題課題に直面し、人間関係の難しさを感じながら、もがいて生きているのだと思います。問題解決というのは、実は簡単なようでそうではないことは、自分自身がよく知っているのではないだろうか。そう思えてならないのです。そもそも神無しでも人間は万全に生きていくことができるのだと主張し、あえて闇の世界へもぐりこんでいったのは、何を隠そう人間なのだということを、聖書の冒頭にある創世記には書き記されています。
 
しかし、自業自得であると私たちの突っ走りを見捨てることなく、あえて深海の世界から私たちを引き出して、買い取って、救いへと導かれる神がおられる。それは、救い主イエスが弟子たちに語られたあの言葉から、あらためて知らされます。イエスは言いました。すべての国の人々を私の弟子としなさい。バプテスマ(洗礼)の業を通して、そのような神を理解し、受け入れ、そして聖書の言葉を通して、そういう神がおられることを知り続けなさいと。
 
ここで言う知り続けるとは、理解し、自分のものとすることです。自分の生き方にイエスという光を灯すこと。それこそ、私たちが光のなかを歩むことのできる、神が与えてくださった恵みなのだと、私は受け入れたいと願わされました。
 
どうか、今日の一日がそのような神の恵みというものに支えられた時でありますように。皆さんにとって素敵な一日となりますことを、心からお祈りいたします。

26/06/2023

2023.6.26(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編23編4節
たとえ死の陰の谷を歩むとも
私は災いを恐れない。
あなたは私と共におられ
あなたの鞭と杖が私を慰める。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章8~9節
私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
先週の水曜日以降、昨日まで黙想をお届けすることができませんでした。楽しみにしてくださっている皆さんへは、本当に申し訳ないと思っています。今日から再開しますので、どうぞよろしくお願いします。
 
今日私たちのために選ばれた聖書の言葉を通して、浮かんだテーマは「絶望のただなかに立たれる神」というものでした。私の感じる絶望について、人間社会でしばしば起こる絶望について、いろいろ考えさせられます。絶望とはその文字の通り「希たれること」です。なにもかも失ったように感じるとき、前へこれ以上進めないと感じるとき、やはり私たちを襲うのは絶望の思いなのだと。
 
そのような襲い来る絶望のただなかに神は立たれる。今日の聖書の言葉が指し示すメッセージであり、絶望のなかにあっても、なおも希望を抱こうとする神の民による告白の言葉というものを、私たちはどのように受け止めることができるのだろうか。そんなことを考えさせられます。
 
絶望から起き上がったり、希望に自分自身の心身を向けさせようとすることは、そう簡単にできることではないと私は思います。人間、そんなに切り替えを速くすることなど難しい、本当に弱い存在なのだと私は思います。自分のこだわりであるとかプライドがそれを邪魔することもあります。自分の願望が満たされないときにこそ、私たちは自分自身がつかんで放せないものがあることにすら気づけない。だから、本当は絶望でないことを絶望と感じたりすることが往々にしてあるのかもしれません。
 
私たちがつかんで放せないもの。それを「執着」という言い方で表現することもあるでしょう。そして、絶望を感じたとしても、あとひとつ、私に残されている営みがあるとすれば、それは案外、自分自身の手中でしっかりとホールドしている「自分自身」なのかもしれません。それを手放した時に、私たちはそのかわりにしっかりとつかめるものがある。それが、絶望を希望へと変える、神の御手なのかと。詩編に残したダビデ王の詩も、パウロが手紙にしたためた自分自身の告白も、そういうところから来る思いのアウトプットなのだろうと、私は今日の聖書の言葉を通して、受け止めていきたいと思わされました。
 
どうか、皆さんにとっての一日も、主と手を取り合い、主に導かれて歩む幸いを味わう一日でありますように。お祈りいたします。

20/06/2023

2023.6.20(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編102編18節
主はすべてを失った者の祈りを顧み
その祈りを軽んじませんでした。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章6節
何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日の黙想
神に祈ることは、私たちが絶望の渦中にいるときは、毒にも薬にもならない出来事に思えるかもしれません。もっと現実的で、目に見えて、即効性のある答えを、私たちは心から望むからです。
しかし、それでも神にすべてを打ち明け、訴え、ときに願い、ときに自分の不満をふつける私たちの思いを、神は決して軽んじることはありません。神が私たちのために、最良と思える道を私たちの思いにかかわらず提示してくださいます。私たちはそれを感謝をもって受け取る者でありたいと願いつつ、祈りをささげる者でありたいと思います。
 
今日の一日のすべてに、神による守りと祝福が豊かにありますように。
お祈りいたします。

19/06/2023

2023.6.19(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書17章13節
主よ
あなたを捨てる者は皆、恥じ入る。
命の水の泉である主を捨てたからだ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録21章6節
神は言われた。
私は、渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
いつもローズンゲン黙想をお読みくださり、ありがとうございます。

私事ですが、少々疲れがたまっていることもあり、今日から土曜日(24日)まで、必ずしも朝の配信にはせず、都合のよい時に配信したいということと、黙想も、ほんのひと言程度にとどめてまいりたいと思います。いつも私の長文(?)に付き合ってくださっている皆さまには、これ幸いか?それとも物足りないか?と言ったところかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。少しでもリフレッシュして、また皆さんへ黙想をお届けしたいと思っておりますので、どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
 
本日の黙想
私たちの命にうるおいを与え、渇きをいやすのは、神がご自分の言葉を通して与えてくださる励ましと、聖霊なる神を通して与えられる慰めであると。神はそれをためらいもなく、私たちに与え、飲ませてくださると、神御自身が語りかけてくださいます。その命の泉からわき出る水を、今日もいただくことができますように。

18/06/2023

2023.6.18(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編89編12~13節
天はあなたのもの、地もまたあなたのもの。
世界とそこに満ちるものは
あなたが礎を築いたもの。
北も南もあなたが創造された。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙1章16~17節
万物は御子において造られました。
御子は万物よりも先におられ
万物は御子にあって成り立っています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい朝を迎えました。そして、新しい一週間を迎えました。世界中の教会や集会で行われる主の日の礼拝が、大いに祝されますように。心からお祈りいたします。
 
さて、私たちは礼拝において、何を喜ぶことができるのでしょうか。そんなことを思いつつ、今日のローズンゲンに選ばれた聖書の言葉に触れますと、私たちの生きる世界が、そして、私たちひとりひとりが、神からのありったけの愛情が込められた「被造物」であるということが、今日のふたつの聖書の言葉にあふれていることがわかります。そして、私たちは神のものとされているということを、これらの聖書の言葉を通して知らされます。
 
今日の新約聖書には、万物は御子イエスによって造られたとあります。私たちの命の救い主となられたイエスは、ご自分の命を犠牲とされることによって、私たちに与えてくださいましたが、それは同時に、私たちの命というものを、ご自身による創造の御業を通して与えられた方でもあるということなのです。命を与えるというのは、創造においても犠牲においても、極めて自由な神の意志によっておこなわれている。そのなかに、私たちが生かされているというのです。
 
私たちはその事実というものを、礼拝を通して、賛美を通し、祈りを通し、そして聖書の言葉を通して、聖霊の力強い助けをいただきながら、神が私たちのすべてを守りで導いてくださることを実感できる。礼拝とはそういつ時なのだと心から信じたいし、そういう礼拝というものを心から喜びたいと思うのです。
 
皆さんを守ってくださる神が、この日曜日という特別な一日を祝してくださいますように。お祈りいたします。

17/06/2023

2023.6.17(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編50編1節
神々の神、主は語りかけ日の出る所から日の沈む所まで、地に呼びかける。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章20~21節
神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。「ここにある」とか、「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、黙想をお届けすることができず、申し訳ありませんでした。少し木曜日の黙想に書きましたが、去る木曜日・金曜日と、私の所属する日本基督教団で開催された「カルト問題全国連絡会」に、主催者側として参加をしていました。長年協力関係を持っている韓国・大韓イエス教長老会(統合)のカルト対策担当者もお招きして、4年ぶりに対面での開催が実現しました。残念ながら、内容についての詳細をここに書くことはできませんが、今回はいわゆる「宗教2世」問題について、日本と韓国側からそれぞれ講演があり、よい交流の時を持つことができました。その感想も含めて、今日与えられた聖書の言葉から黙想を得たいと思いました。
 
今日の新約聖書のなかで、イエスは「神の国」についてとても興味深いことを告げておられます。神の国は、その存在を観察したり、何かを探し当てるようにどこそこにあると言えるようなものではないのだと、イエスは言われました。これはある意味で言えば、私たちが真理や真実というものを探求するときに、それを見つめ、その存在というものを確かめて、見つけるという行動をするのが、ごく当たり前のように受け止められているのではないかと思うのです。ですから、イエスが、観察したり見つけたりするものではないのだという言葉に、とても興味深く感じたのだと思います。
 
しかし、イエスは言われました。神の国とは「あなたがたの中にある」のだと。この「中にある」という表現こそ大切なのであって、神の国とは究極的に外面的なものによって表されるというよりは、私たちの内にある、つまり内面的なものを通して、神の国というものが明らかにされるのだということを、イエスは言いたかったのではないか。そう思えてならないのです。
 
カルト宗教と呼ばれるものの存在は、ことさら「見えるものを通して」「自分たちの正しさをアピールするために」「自分たちの存在(リーダーの卓越性や組織のすばらしさ)」を強調することによって、人を集めることに必死になり、「ほら、ここに真実があるからおいで」と、パフォーマンスを繰り返します。しかし、そこに究極的に落ち着くことのできる場を存在していません。ただ単に、不健全な支配の渦に巻き込み、巻き込まれる構造を作り上げるだけなのだと。
 
しかし、神の国とはそういうものではない。救い主イエスが私たちの心にとどまることによって、私たちがイエスの心によって、日々の営みというものに押し出されていくことで、その場には神の国の文化というものがあふれ出てくる。それは、イエスの心を私たちがたとえ100%受け取り、そして表現することができなかったとしても、それでもイエスがともにいてくださることで生み出される、自己省察の思い、安心感、励ましや慰めというものも含めて、神の国というものがイエスによって生み出されていくことなのだと、私はそのように今日の聖書の言葉から感じ取りたいと思わされたのでした。
 
神の国を心から信じ、また神の国がもたらす平和を「造り出す」者として、この辺をはき違えることのないように、今日の一日を歩み、明日の主の日へと導かれていきたいと思います。どうぞ、皆さんの一日にも、神が私たちの内に宿ってくださることによって生み出される幸いがともにありますように。お祈りいたします。

16/06/2023

2023.6.16(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨシュア記22章29節
今日、私たちが主に逆らって、主から離れ去るはずがありません。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙10章25節
ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、かえって励まし合いましょう。かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日は黙想を掲載する時間が取れませんので、聖句だけを掲載して、それぞれに黙想をお委ねしたいと思います。
どうぞ良い一日をお過ごしくださいますように。私たちの集まるところに祝福を与えてくださる主なる神の守りをお祈りいたします。

15/06/2023

2023.6.15(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書39章29節
私は二度と彼らから顔を隠さず、わが霊をイスラエルの家に注ぐ――主なる神の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章16節
この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日から明日にかけて、私の所属する日本基督教団で会議があり、始発の新幹線に飛び乗りました。今、東京に向かう新幹線の車中からこの黙想を書いています。仙台から東京までは1時間半で到着します。あっという間の移動時間ですが、そんな時にも黙想の作業ができるのは、本当にありがたい話です。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉に共通するテーマは「神の霊」についてです。神の霊は私たちにどのような働きをもって及んでくださるのでしょうか。今日の新約聖書の言葉には「私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます」とあります。つまり、神は聖霊の働きを通して、私たちが神の子であることを証明してくださるというのです。親の慈しみと愛に包まれながら、私たちは神を親として生きることができるのだと、聖書は私たちに神の思いを伝えます。
 
聖霊とは親心である。ある神父の言葉です。とても明快な表現だなと思いました。聖霊にはいろいろな働きがありますが、子どもの尊厳を守り抜く親の愛情そのものであると言えるでしょう。聖霊の働きを私たちが考えるときに、この土台がないと、聖霊を利用して人を不健全な支配の渦に、人間が人間を巻き込んでしまうということがあります。霊は自由自在な動きをするがゆえに、私たち人間は聖霊の働きというものを誤解して、自分の好き勝手に聖霊を都合の良いように解釈して、利用・悪用してしまうことすらあるということです。
 
ですから、神がご自身の霊をもって私たちひとりひとりを取り扱ってくださるときに、慈愛に満ちあふれた親心、そこに示された神の愛というものに対する豊かなイメージというものを是非抱き続けたいのです。私たちを縛るのではなく、あくまで私たちを守り続ける神のイメージというものをです。
 
今日の旧約聖書は、神がご自分の民イスラエルに対して「私は二度と彼らから顔を隠さない」と約束し、その証として「わが霊」をイスラエルの家に注ぐと宣言されました。もう逃げられない、神によってイスラエルの民は束縛されるということを意味しているのではありません。神はご自分との関係において、私たちを命を守り抜くべく、聖霊の働きをもって私たちとともにいてくださるということを示しているのです。
 
この神の証しに生かされる者として、今日も一日を歩むことができる。その幸いを感じ取ってまいりたいと願います。どうぞ皆さんの一日にも、聖霊なる神の働きをもって私たちを守ってくださる神の祝福が、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。

14/06/2023

2023.6.14(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編34編3節
私の魂は主を誇り
苦しむ人は聞いて喜ぶ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章4~5節
喜びなさい。あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンの言葉を通して、注目したいと思ったのは「主は近い」というパウロによって綴られたひと言です。このことをについて、黙想したいと思いました。
 
主は近い。パウロが宣教をしていた当時は、救い主イエスが再び自分たちのもとにやって来られて、神の国が完成するということを真剣に受け止め、また信じられていた時代でした。現在、そういう信仰がまったく無くなったわけではありません。私たちの信仰には「主の再び来たり給うを待ち望む」とあるように、イエスが平和を携えて再臨されることを、希望のうちに信じているということがあります。
 
ただ、パウロの時代(つまり1世紀)はおそらく、今まで以上にキリストの再臨に対する待望が今よりももっと強くあったことと私は思います。イエスに出会った人々が実際に多くいたこともそうでしょうし、ローマ帝国の圧政のもとにあって、人々の期待がイエスに強く向けられたのも、納得できるからです。パウロが「主は近い」と手紙二書き綴ったのも、そういう強い期待が、愛するフィリピ教会の方々とともにあるようにという願いから起きたものなのでしょう。
 
イエスの再臨と言うと、ことさら「裁き」であるとか「生き残るためにサバイブすることの必要性」などを強調する動きがあります。自分は正しい、世界は間違っているのだと強調して、自分たちのグループが特別に神から選ばれた存在であることによって、自分以外の人々や世界に対して、不寛容な態度を取ったりする動きを見ることがあります。現在「カルト」と呼ばれるゆがんだ支配を助長する動きの多くにみられる特徴は、こういうことをことさらあおる傾向にあると私は思っています。
 
しかし、今日のパウロの手紙にみる、イエスの再臨を待ち望む者が抱くことのできる態度とは何かと言えば、「喜び」と「寛容」であることが分かります。緊迫感・危機感・分断を促すような環境のなかにあっても、私たちが抱くことができるのは、あくまで希望なのだと。救い主にある希望があるからこそ、私たちは寛容にもなれるし、喜びを抱きながら生きることができるのだ。これがパウロの態度であると言えるでしょう。
 
実は、本日の新約聖書であるフィリピ4章4~5節の直前の部分には、フィリピ教会におられたふたりの熱心であっただろう婦人たちのことについて書かれています。おそらくこのふたりの女性たちのあいだには、不和があったのだろうと読み取ることができます。ふたりに同じ思いを抱くことを勧め、周りもこのふたりのために協力し、助けてくださいとパウロは進めているからです。
 
人間関係のもつれは、さまざまなストレスを生みますし、喜びや寛容というところから離れてしまい、溝と分断をつくりあげてしまうことが往々にしてあります。その渦中にいることこそ、つらいものはありません。しかし、主が近いということに対する私たちの信頼は、むしろ逆の思いを私たちに与えるのだと。それが、喜びであり、肝要であり、希望なのだと。それをあふれんばかりに注ぎ、与えておられる神がともにおられるからこそです。
 
余談ですが、私が働く教会には「主は近い」の聖句にちなんで名づけられた「近(ちかし)さん」と仰る信徒さんがおられます。最長老の近さんですが、実に希望に満ちあふれた元気いっぱいの方です。いつも私は近さんから元気をいただいております。まさに主とともに歩む幸いとは、こういうことを指すのだと、私は今日選ばれた聖書の言葉とともに、黙想させられました。
 
今日の一日も、私たちの心のうちに神が与えてくださる喜びで満たされますように。皆さんの歩みの一切に、主の守りと祝福が豊かに臨んでくださいますように。お祈りいたします。

13/06/2023

2023.6.13(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
民数記14章17節
どうか、わが主の大いなる力を現してください。
かつてあなたはそのように告げられました。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章49節
マリアは言った。
力ある方が
私に大いなることをしてくださいました。
その御名は聖です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
今日ローズンゲンによって選ばれた聖書の言葉に共通するのは「主なる神の大いなる力と行い」というテーマであると私は受け止めました。このことについて黙想したいと思います。
 
昨日、ある方とこんな会話をしていました。その時は分からなくても、ひとつひとつの出来事に無駄なものなど何もない。その出来事を通して神が必ず、私たちに意味というものを与えてくださり、その意味を知ることによって、神の大いなる御業というものを実感することができるのですよね。そんなことをその方との会話を通して耳にし、まことにその通りだと思います。アーメン!とうなずく自分自身がありました。
 
マリアが天使のお告げによって、わが身に「ありえない妊娠」を知らされた時に、マリアは戸惑いました。これから起こり得ることをあれこれ想像したかもしれない。おそらくその想像には、恐れや不安が襲ったに違いないのです。しかし、マリアはそのような思いを抱えつつも、その出来事を通して働かれる神の御業というものに、自分自身の意識を集中させようとしていることが分かります。力ある神と、自分の神をそのように表現し、そして、神のお名前が「聖」であることを、マリアは告白しました。
 
私は神であり、あなたと共にいることで、あなたの神となる」という神のお名前(YHWHと表記される神)の意味がマリアに臨んだときに、マリアはそこに「聖」を感じました。神聖というのは、「侵さずべからず」という言葉がセットで語られることの多い言葉ですが、それは近づき難い存在というよりは、その逆で、私のすぐそばで働いてくださる方であるからこそ、神聖と言えるのだと。これがマリアの偽らざる告白の意味でした。
 
聖というのは、そのような親密さをもって語られる、神の特性であることを思わされます。常に私たち人間との関係性のなかで、主なる神はご自分の意味というものを携えて、私たちに近づいてくださる。臨んでくださり、私たちに守りと祝福を与えてくださるというのです。こんな神の御姿と御業を前にして、私は思いました。必ず神は御業をご自分の望まれるかたちで表してくださるのだと。この神のなさることに、希望をもって自らを委ね、託し、そのうえで、自分自身に与えられた務めというものを、誠実に果たしていこうと。
 
ついつい、近くにおられる神を忘れて、自分のやりたいように、自分の願うままに振舞おうとする自分自身があります。本当に神に祈って、神の御心を尋ね求めたうえでそうしたのだろうか。自分の願望を果たすために神を利用しただけに過ぎないのではないか。そんな問いが自分自身を突き刺します。私には神の御心というものを100%知ることは不可能です。どこかで必ず、欠けやゆがみというものを抱えながら、神の御業について考え、信じ、行おうとする自分自身があることを思います。だからこそ、神の御業が私の願い、願わざるところにかかわらず、与えられる現実というものを受け止めながら、そこに神が意味をともなってくださることを信じながら、自分自身のあり方を識別していきながら、今日という一日を歩みたいと黙想させられました。その向こうに、神の大いなる力が働かれることを、希望としながら。
 
今日の営みのすべてに、神の守りと平安がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

12/06/2023

2023.6.12(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編25編18節
見てください、私の苦しみと労苦を。
取り除いてください、私の罪のすべてを。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書15章7節
言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
昨日、東北地方も梅雨入りしました。一日じゅう湿気のあるじめじめした天候でした。私はこの季節が本当に苦手なのですが、それでもこの季節に降りしきる雨は、作物を豊かに育てるための恵みの雨でもありますので、何も悪いことばかりではないのだなと。物事の本質というものを、自分の好き嫌いだけで容易に排除したりしてはいけないということを、こういう梅雨を通して想わされたりする一日でした。
 
神が与えるものに対して、自分自身の好みで良し悪しを断言し、そして気に入らないものを排除することこそ「罪」のあらわれであると、私は自分自身を振り返りながら想わされます。罪とは、神に背を向けて独立独歩の営みをしようとする人間の姿を表しているものですが(その結果、認知のゆがみを生み、それがゆがんだ言動につながるわけです)、自分好みのあり方というものを正当化することが、結果として神から与えられるさまざまな恵みの価値というものを認められない自分自身を生んでいるのだなと感じさせられるのです。
 
そんななかで、今日ローズンゲンによって選ばれたふたつの聖書の言葉は、自分自身の姿というものをあらためて見つめさせられる機会を与えてくださるものだと思わされた次第dす。物事を前向きに受け止められるよう、私の心を整えてくださいと、私は神に祈りをささげたいと思わされました。自分自身でなんとかなると思いながら、それが果たせない自分。それどころか、苦しみばかりが自分自身の心に募るときに、だからこそ、神の御心於に自分自身を沿わせるべく、立ち帰るものでありたい。昨日も「立ち帰ること・悔い改める」ことについて、ローズンゲン黙想をしたわけですが、その連続性のなかで与えられる聖書の言葉に、なおのこと考えさせられました。感謝なことです。
 
イエスは言われました。ひとりの罪人が自分の孤独に苦しみ、そのことに悔い、神のもとに方向転換して歩むならば、そこには天からの大きな喜びがあると。自分自身が、群れから離れた一匹の羊なのだと。しかし、その羊は羊飼いによって大切にされて、もとの状態に連れ戻されるのです。そういう羊飼いイエスが、ともにおられることの幸いを味わいながら、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
皆さんもこの季節、いろいろな不便を感じることがあるかもしれませんが、そのような不便ななかにも、主なる神の祝福が豊かにあることを実感できる一日でありますように。心からお祈りいたします。

11/06/2023

2023.6.11(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書31章6節
立ち帰れ、あなたがたが甚だしく背いてきた方に。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章15節
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい週がやってまいりました。その初めの日であるこの日曜日が、一週間の始まりとしてのふさわしさと新鮮さを、神が私たちに与えてくださることを心から期待しつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと願います。皆さんの一日に、世界の各地で行われる礼拝や集会の一切に、主なる神の守りと祝福がありますようにと祈ります。
 
さて、今日の聖書の言葉を通して想わされたのは「立ち帰って生きる」ということです。方向転換をすることの大切さ、もう引き返せないと思ったとしても、まだまだ帰る道というものが神によって十分に備えられているのだということを、神は「立ち帰れ!」というひと言をもって私たちに呼びかけておられる。そのように私は今日の旧約聖書の言葉を受け止めました。
 
私たちがよく用いる「悔い改め」と言うことについて想います。私たちは自分の生き方を振り返り、悔いることはしばしばあったとしても、悔いる事だけで終わっていないだろうかと思うことがあります。つまり、自分はなんてダメな奴なんだと自分を責めることがあったとしても、責めるだけで終わり、そこで終わってしまうということがないだろうか。そんなことを思うのです。
 
しかし、悔い改めとは、悔いることもさることながら、改めることも大切である。つまり、そこに再生の道、赦しの道、やり直しの道というものがともなっていることを、私はどれだけ真剣に受け止めているだろうか。自分自身の生き方としているだろうか。もしくは、改めて生きようとしている人を、祈りと実際の助けをもって支えようとしているだろうか。そんなことを思わされました。
 
もし改めて生きようとしても、そのように神が促し、導いてくださっているのにもかかわらず、私たち人間が自分自身の「許せない」思いで、その道を断とうとしていないだろうか。もしそうであるとするならば、悔い改めることすら躊躇してしまう、悔いる事だけ終わってしまい、その後の希望に目を向けることもできないような環境をつくりあげてしまっているのだと、私は自分自身のさまを振り返り、自戒の心をもって考えさせられました。
 
そのためにイエスは、自分自身の命をもって私たちにその道を与えてくださったではないか。そういう真実に、私は悔い改めることの喜びというものを見い出したい。そう思ったのです。自虐的に生きるのではなく、希望をもって、その希望を他虐的な思いをもって潰すことのないように、今日も生きてまいりたいと思います。
 
どうぞ皆さんの一日にも、神の豊かな導きと祝福がありますように。お祈りいたします。

10/06/2023

2023.6.10(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章25節
私が疲れた魂を潤し、衰えたどの命も満ち足らせる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章3節
心の貧しい人々は、幸いである
天の国はその人たちのものである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今週も早いもので最終日を迎えました。ここのところ(なぜか毎年6月がそういう時期であることをつくづく思わされるのですが)、何となくバタバタしていて、心に余裕のない日々を過ごしている自分自身を思います。務めがあることは本当に感謝ですし、ひとつひとつの出来事に向き合える喜びもあります。ただ、それで心の余裕がなくなるのでは、本末転倒なのかなとも思わされています。そんなときに、今日、ローズンゲンによって選ばれた聖書の言葉は、私にとって大変慰めとなるものでした。
 
今日の新約聖書の言葉は、救い主イエスが民衆に対して語られた、いわゆる「山上の説教(垂訓)」と呼ばれるメッセージ集の一節です。私はかねてから「説教」という言葉がふさわしいだろうか、ましてや「垂訓」という言葉にいたっては、イエスがこの時に人々に語られたイメージから離れてしまっているような気がしてたまらないのです。
 
垂訓、それは「訓示を下々の者たちに垂れる」という意味があります。だいたい、イエスのもとに集まってきた人たちは、おそらく日々の生活に疲れ、なんとかイエスの言葉によって癒されたい。そういう言葉をひと言でもいいから欲しいと願って、集まってきたのではないか。私はそう思うのです。そういう人たちに訓を垂れても、抱えている疲れは癒されることはないのではないか。これが私の抱くイメージです。説教というのも何となく違う。やはりイエスは、人々の疲れを癒しへと導くメッセージを、ひと言、ひと言、軟膏を塗るようにお語りになられた。そんな風に思えてならないのです。
 
その冒頭が「心の貧しい人は幸いである」というものでした。心の貧しい人という表現は、日本では決して良い意味では語られません。度量が小さく、しみったれているような様子を、私たちは「心が貧しい」という言葉を用いて表現します。では、イエスが言われた「心の貧しい」とは、そのような私たちが普段使いしている、心が貧しい状態を指すのでしょうか。決して、そのような人々のことを指しているのではないと私は思うのです。
 
日々の出来事に忙殺されて、疲れを抱えている人たちが、イエスのもとに集まりました。安心を感じるような余裕すらない彼らに、イエスは「あなたはもうすでに幸いな者とさせられている」と告げられたのです。私たちは誰でも、心の余裕というものが削がれていくと、おのずと、心が狭くされている自分自身というものが現れるかもしれません。そして、そのような状態に気づくことなく、気持ちが不安定になったり、怒りや悲しみという感情が自分自身を支配するということは往々にしてあると思うのです。かく言う私が、まさにそういう状態に陥ってしまうのを実感させられます。
 
ただ、そのような自分自身に気づけるならば、それはイエスの語られる「すでに幸いである」ということなのでしょう。自分自身の何かが足りなくさせられているというのは心、つまり神の霊が自分のうちに満たされていない状態のことを指すのでしょう。実際、今日の言葉である「心の貧しい人」とは、本来の訳では「霊において貧しい人々」という意味なのです。つまり、神が私たちを助けるために惜しみなく与えてくださる聖霊が、何かを受け入れる余裕のない私のうちに注がれるならば、それは本当に幸いなことなのだと。なぜならば、神が私と常にともにいてくださるということが、私にとっての励みとなり、慰めとなっていくからです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、まさにそのことを物語っています。神は語られました。「私が疲れた魂を潤し、衰えたどの命も満ち足らせる。」と。だからこそ、疲れを癒される方の助けが、私の魂を潤し、衰えから回復させてくださることに期待して、今日の一日を歩む者でありたいと願わされました。
 
どうぞ今日の一日が、明日への備えのひとときとして、私たちの疲れを癒すときでありますように。心よりお祈りいたします。

09/06/2023

2023.6.9(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記23章6節
あなたの神、主はあなたのために呪いを祝福に代えられた。あなたの神、主は、あなたを愛されたからである。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二3章15節
私たちの主の忍耐強さは救いであると考えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日の旧約聖書の言葉は、あらためて驚かされるものでした。「呪いを祝福に代えられる神」という記述にです。今日の旧約聖書である申命記は、どちらかと言えば「祝福呪い」という、二者択一的な選択を私たちに求めている書として知られています。神に従えば祝福、従わなければ呪い。これは、エジプトから神が示された約束の地にたどり着くまで、イスラエルの民が実際に経験したことでした。40年ものあいだ流浪を経験しなければならなかったのは、ある意味で言えば「呪いたくなる出来事」だったかもしれません。
 
しかし、呪うべき流浪の日々が民を襲っても、その40年間を振り返った指導者モーセは、呪いを祝福に代えられる神をたたえます。いろいろなことがあったけれど、約束の地を目の前にして、ここまで忍耐強く自分たちを導いてくださった神への正直な実感だったのでしょう。モーセは約束の地にたどり着くことは叶いませんでした。それでも、今ある状況を見渡しながら、神は間違いなく自分たちとともにいてくださったことを、感謝のうちに告白できた。これはすごいことなのだと、私は改めて思わされました。
 
私たちは苦しみの渦中にいると、その渦のなかに巻き込まれ、苦しみで思いも心もいっぱいになってしまう自分自身があるのですが、なかなかそこから抜け出せず、どうして良いのか分からない。つまりパニックにも似た状態になってしまうことを思います。そして、この苦しみに神がどのように関わってくださるのか。そういうことすら、考えられなくなってしまっている自分自身があることに、発見すらできない。だから、どんどん渦に巻き込まれてしまうのだと、私は自分自身のありさまを見て思わされます。
 
しかし、神はご自分の忍耐をもって私を見続けてくださっている。私がそのことに気づくまで、神は決して私を見捨てない御方なのだと。主なる神の忍耐強さこそ、私たちにとっての救いであるという、今日の新約聖書の言葉に、大きな慰めを感じずにはいられません。まさに、あくまで呪うことを主眼に置かず、私たちを祝福と救いへと導かれる神がおられることを、心から感謝して一日を過ごしたいと願わされました。
 
仙台は朝から雨が降っています。日本の多くの地域では梅雨入りし、また、災害級の大雨をもたらす気象が、日本の各地を襲おうとしています。そんななかで、私たちを守り導いてくださる神が、少しでも慰めと励ましというものを私たちに与えてくださることを、私たちが感じとることができますように。皆さんの主にある平安を心からお祈りいたします。

08/06/2023

2023.6.8(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ルツ記2章12節
ボアズはルツに言った。
あなたがその翼のもとに逃れて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章17節
キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日(6月7日)のローズンゲン黙想(コチラから読むことができます)に引き続いて、今日のローズンゲンによって選ばれた聖書の言葉から黙想を得てまいりたいと思います。
 
私は今日の新約聖書の言葉から、あらためて「平和の福音」とは何だろうかということについて、思いを寄せたいと思いました。私たちにとって平和とは何だろうか。平和とは、私たち人間の関係の真ん中に神が立たれることだと思います。私とあなたという人間関係で起きる、さまざまな齟齬や自己主張のぶつかり合い。そのことを通して起きるさまざまなトラブルや関係の分断。ときにはゆがみ切った、独り善がりな平和の主張による奪い合い、争い。そうなってしまうと、もはや手の付けられない状態へと、私たちは引き込まれ、負のスパイラルに巻き込まれてしまう。だからこそ、私たち人間関係の真ん中に、神が立たれることが本当に大切なのだと私は考えます。
 
そうすれば、私はあの他者と向き合う前に、神と向き合わなければならない状況が生まれます。神と向き合うなかで、私たちは自分自身が神の愛で守られていることを、神の言葉と聖霊による導きで知らされるならば、まず自分自身が変えられる体験ができる。そのような体験が、他者との「新たな出会い」が生み出されるのだと、私はあらためて考えさせられます。神が不在の状況で、互いが関係を回復したり、和解することなど絶対に無理なのだと私は考えます。どちらかが、また双方が鬱屈した気持ちを抱えながら、表向きに関係性をやり過ごしたところで、そこに「平和の福音」は無いのだと思います。神が真ん中に立たれない限り。
 
そのために、キリストは私たちのもとに来られた。かつてルツが父なる神が広げるみつばさのもとに隠れ、そして守られたように、私たちもまた、キリストによって守られるために、そして、守られるだけではなく、前に備えられている新たな人生における出会いのために、キリストがご自身のさまをもって「平和の福音」を私たちに提示してくださっているのだと。私はそのように受け止めたいと思いました。
 
神様、
私たちが出発するときに、
これまでの古い道だけを歩み、
馴染みの者と握手するということではなく、
見知らぬ者と出会い、
何か新しいことにチャレンジするための勇気を
私たちに与えてください。
 
今日の「第3のテキスト(原著のみ)」に記された、作家ヒルデガルト・ニースの祈りです。平和の福音は、あくまで未来志向であることを思わされます。そんな思いに支えられながら、私もまた今日という新たな一日を歩みたいと願わされました。皆さんにとっても、今日の一日が。平和の福音によって新たな一日を歩み出すことができますように。お祈りいたします。

2023.6.7(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記5章33節
あなたがたの神、主があなたがたに命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたがたは生きることができる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙15章4節
これまでに書かれたことはすべて、私たちを教え導くためのものです。それで私たちは、聖書が与える忍耐と慰めによって、希望を持つことができるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日(6月7日)は、私の個人的な事情のために、黙想をお届けすることができませんでした。ですので、前日のものではありますが、あらためてブログに黙想を掲載したいと思いました。
 
昨日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して与えられたこと。それは「神が私たちの人生を導かれるために、ご自身の言葉を豊かに与えられた」というものです。
 
昨日の旧約聖書の言葉は、申命記の一節でした。申命記と言えば、モーセをはじめとするイスラエルの民が、40年間にわたる流浪の日々を経て、いよいよ神が示された約束の地へたどり着こうとしていた時、モーセによって語られた追憶集です。彼がこれまでの歩みを振り返り、大切なことをもう一度民たちに伝えておきたい。その中心にあるものは、イスラエルの民たちを導いたのは、私モーセではなく。究極的には神であったのだということなのではないか。私は、昨日のローズンゲンの言葉を通して、そう思えてならないのです。
 
この感覚というのは、実はすごい大切なことで、自分で建てた人生設計が思い通りにならない場合、その中心に立つのが自分自身「だけ」だとすれば、それは空しいものとして自分の記憶のなかに、後悔や疑問とともに残るだけなのではないか。そう思うのです。そうではなく、私の人生をご自分の計画のなかで、ご自分の言葉をもって豊かに導く神がおられるからこそ、私に与えられた賜物であるとか、私の環境というものが豊かに人生の日々のなかで生かされていく。人生設計の主体が誰であるかを考えるだけで、感じ方というものが俄然変わっていくのだと、私はとらえたいのです。
 
私の日々を導かれる神が、私にどのようなチャレンジを与えてくださるのだろうか。そんなわくわくした気持ちとともに、希望を抱きながら与えられた一日を歩む。そこに幸いがあるのだと。たとえ流浪の苦しみがあっても、忍耐や労苦がともなうことがあっても、そこに意味を見い出せるような姿勢というものを大切にしたい。昨日のローズンゲンの言葉から、あらためて明くる朝に考えてみました。
 
皆さんにお届けするのが遅くなったことをお詫びしつつ、お読みくだされば幸いです。主の守りと祝福をお祈りいたします。

06/06/2023

2023.6.6(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記2章19~20節
神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人はあらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に名を付けた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書12章6節
五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神の前で忘れられてはいない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
今日の聖書の言葉に出会って、とても感謝の思いにあふれました。それは「名付けられ、名前を呼ばれることの幸い」というものに、改めて感動と感謝の思いを抱くことが出来たからです。
 
名前で呼び、名前で呼ばれることの幸い。そこには、その人の名前だけではなく、その人にまつわるさまざまな出来事を「忘れない」ということが含まれているような気がしてなりません。名前とは、単にその存在の「呼び名」だけにとどまらない。その人すべてを表現することのできるものなのだと私は改めて思わされました。
 
今日の旧約聖書の言葉によれば、神はご自分がつくられた人間に対して、神が造られた動物や鳥たちに「名をつける」ことを委ねられたと記されています。名付けるというのは、決して簡単なことではありません。ある意味で、名付けられた者の生涯に大きな影響を与えます。私には「篤」という名前が付けられていますが、ここには名付けた親の思いというものがいっぱいに詰まっているわけです。そして、その名前を通して私という人間が覚えられ続ける。やはり名前というものは、本当に大切なのだと思わされます。
 
そして、究極的には、私たちの名前を決して忘れない方がおられるというのが、イエスの語られた今日の新約聖書の言葉に記されています。取るに足らないくらいの安価で売られている雀ですら、名付けられていることでその存在が覚えられ続け、そして決して忘れられることがない。忘れない方、それが私たちの神であるというのです。
 
神の前で忘れられていない私たち。そんな私たちもまた、隣人の名前を覚え、その存在を尊び、愛することができるのだと。今日の聖書の言葉は、自分自身がまず神から覚えられていることの嬉しさと、その嬉しさがあるからこそ、名前を呼ぶことの幸いというものを他者にも向けていきたいと思わされたのでした。
 
今日の一日が、そのような幸いに包まれたときでありますように。お祈りいたします。

05/06/2023

2023.6.5(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書38章19節
父は子にあなたの真実を知らせる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙2章6~7節
あなたがたは、このように、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストの内に根を下ろし、その上に建てられ、教えられたとおり信仰によって強められ、溢れるばかりに感謝しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
今日の旧約聖書の言葉に「父は子に」という言葉があります。ここで指す父とは、文字通りの父のことであり、いわゆる年長者とも言える存在の人物のことを指します。その父が、子、いわゆる年若い人に対して、「あなたの真実」を知らせるとあります。ここで言うあなたとは、主なる神のことを指しますので、年長者は年若い人に対して、主なる神が真実な御方であることを教え、諭し、知らせるのだという、預言者の思いを私たちはうかがい知ることができます。
 
私はおととい、「親のカルト信仰や宗教活動を強制されて生きる『宗教2世』の問題を考えるためのシンポジウム」に行ってまいりました。私もこのシンポジウムで、登壇者のひとりとして招きを受けていたからです。(詳しくはコチラをご覧ください。当該のYahooニュースへジャンプします。)
 
昨今、いわゆる「カルト宗教2世」への児童虐待の問題が取りざたされていますが、私も元エホバの証人のひとりとして、聖書的なしつけと称して行われる子どもたちへの暴力的な虐待の現場というものを、幾度となく見せられてきました。このことに触れると、「なんとひどいことをする親なのだ」という反応を受けることが多くあるのですが、そのように安易に直結して考えて良いのだろうかと思わされることがあります。
 
もちろん、児童への虐待行為であることには何ら変わりませんし、そのことは決して許されるべきではありません。子どもたちの一生にトラウマとなって残ることで、後の人生の日々で苦しみを抱えながら生きなければならないからです。ただ、親たちもまた、そのカルト宗教団体に「精神的虐待」を受けている当事者であることも事実なのだと私は思います。繰り返しますが、親の子に対する行動は決して許されるものでひゃありませんし、親は子に対して真摯な悔い改めと謝罪が必要であることに変わりはありませんし、それがいかなる理由で正当化されるべきものではありません。ただ、親たちも、カルト宗教の影響がなければ、子どもに対してそんな暴力的な教育をすることはなかったのだろうと思うのです。
 
あるエホバの証人の親が、涙を流しながら子どもの臀部を鞭打っていた現場を、偶然に見たことがありました。その親は、私にその現場を見られてしまったからなのでしょうか。こんなことを話してくれたのを思い出したのです。「何で泣きわめく子どもに鞭なんか打たなければならないのだろうか。この時ほどつらく、また苦しいことはない。」と、その親は言ったのです。それがエホバの証人が指し示す教えだから、仕方がなくするしかないというのです。子の親もまた、エホバの証人が提示する暴力的な行為を正当化する教えに毒されてしまった。まさに、マインド・コントロールを受けたがゆえに、解放されていない「精神的虐待の被害者」なのだと。
 
話は変わりますが、私は4月から「日本基督教団東北教区センター・エマオ」の主事として働いていますが、この教区センターにある「日本基督教団仙台青年・学生センター」の働きも、主事としての働きに加えられています。つまり、私には青年・学生と呼ばれる若い方々への交流を通して、何かを伝えなければならない、そういう立場にあることを思わされています。私もあと数年で50歳を迎えようとしているなかで、自分より年若い人たちに、何を、どのように伝えなければならないかについて、日々考えさせられます。
 
そのようななかで、今日の聖書の言葉はまさに、その答えを与えられていると思わされました。それが「あなたの真実を知らせる」という聖書の言葉です。
 
神の真実とはなにか。神は正しい御方であることを、ご自分の忍耐と犠牲によって示されました。それが、究極的には最愛の御子を差し出されるほどに、私たち人間を愛された。これほどの忍耐を要した犠牲は他に見られないのです。同時に私は思いました。人を育てるということにも多くの忍耐が必要であり、時には自分自身が犠牲を払ってでも、神の真実が年若い人を育てるということを信じて、自分自身ができる最善をもって、年若い人たちに接することが必要なのだと。
 
だからこそ、エホバの証人が受け、またしてきたように、身体的・精神的な苦痛を負わせるような接し方は、結果として良いものはひとつも生み出さないのだと痛感させられます。神が愛を示されることで明らかにされた真実をもって、私もまた年若い人たちを神の愛で愛しつつ、ときには忍耐しつつ、時には自分自身が犠牲になってでも、接していくことを第一にして、自分に与えられた務めを果たすことが、今日の聖書の言葉に示された私の目指す生き方なのだということを強く思わされたのです。
 
そのことが、今日の新約聖書の言葉に具体的に記されています。イエスが救い主、キリストであることを受け入れた者として、キリストにあって生きる。「キリストにあって」とは「キリストのうちに」ということであって、自分自身をキリストに深く潜り込ませながら生きるということを意味しています。今日の聖書の言葉で「キリストの内に根を下ろし」とは、まさにそのような自分自身の態度のあり方を意味しています。神の愛に込められた真実を私たちに示すために、イエスは父なる神同様に、これほどまでかという忍耐をもって、私たちに向き合ってくださいました。そして、十字架の犠牲をもって自己正当化から最も遠い生き方を私たちに示された。その謙虚さは神の愛に直結するものなのだとあらためて思わされるのです。
 
自分自身がいつまでも歳若いわけではない。若さの与える魅力を尊重し、それを大切にすることができるために、自分自身を差し出し、忍耐をもって見守る生き方のモデルを神に、そしてキリストに徹頭徹尾求めながら、今日与えられたいのちに感謝したいと思います。そのことで、キリストの示された愛がひとりでも多くの方々と分かち合えることを心から願いつつ。
 
皆さんの一日に、主なる神の真実がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

04/06/2023

2023.6.4(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編145編17節
主は、その歩まれるすべての道で正しく
あらゆる御業において慈しみ深い。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙1章6節
あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さんこんばんは。
今日は、朝に十分な黙想の時間を取ることができませんでした。午後にとも思いましたが、やはり黙想を取る時間が確保できませんでしたので、今日の聖書の言葉だけを掲載したいと思います。
 
黙想を楽しみにしてくださっている皆さんへは、大変申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたします。夜のひととき、皆さんの過ごされる一切に、善い業を私たちに与えてくださる主なる神様の慈しみと祝福が、ともにありますように。心よりお祈りいたします。

03/06/2023

2023.6.3(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書9章9節
見よ、あなたの王があなたのところに来る。
彼は正しき者であって、勝利を得る者。
へりくだって、子ろばに乗って。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章5節
へりくだった人々は、幸いであるその人たちは地を受け継ぐ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さんおはようございます。
今日選ばれた旧新約聖書に共通するのは「へりくだり」という言葉です。へりくだった人々は幸いであるとイエスは語ります。日本はある意味では「へりくだりの文化」のなかで生きていると言えるでしょう。謙譲語という言葉の文化を持っているのは、日本語と韓国語くらいと言われています。一歩引いて、身分が上の人に対して自分を低める言葉を用いる。そんなことから、日本がへりくだりの文化を持っていると言われているのでしょう。
 
では、聖書で書かれている「へりくだり」と、日本で考えられているへりくだりの文化は、果たして一緒なのだろうか。私はあらためてそんなことを思わされます。今日のふたつの聖書の言葉を通して、私たちがぜひ知りたいこと。それは、私たちにとってのへりくだりのモデルは、救い主イエスにある、ということです。イエスがどのようにへりくだりの精神を持たれたかということを、私たちひとりひとりがいかにイメージできるかで、私たちもまた、へりくだって生きるというのがどういうことかを、具体的に理解できるのかもしれません。
 
イエスが示されたへりくだりとは、その向こうに必ず「私たちに対する『愛』」が存在しているということに尽きると私は考えています。自分を低めるだけではなく、他者に対するを通して隣人となるために、イエスがその愛を示される。あくまで他者の幸いのために差し出すその態度こそ、へりくだりであるというのです。どうでしょうか。私たちは自分自身を低めようとする時に、その動機が他者に対するものというよりは、むしろ自分自身を守るために行っていないだろうか。私自身も自己保身のためにへりくだりというテクニックを使って、世の中を渡り歩こうとしていないだろうか。そんなことを思わされたのです。
 
自己愛を動機とするへりくだりか、隣人愛を動機とするためのへりくだりか。そんなことを自分の言動を振り返りながら、思う一日でありたいと願わされました。明日の主の日への備えとともに、私のためにへりくださってくださる主がともにおられることに感謝しつつ。
 
皆さんの一日にも、主の豊かな守りと祝福がありますように。お祈りいたします。

02/06/2023

2023.6.2(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ハガイ書2章9節
この場所に私は平和を与える――万軍の主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙3章15節
キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。また、感謝する人になりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さんおはようございます。
今日選ばれた旧新約聖書に共通するのは「神/キリストが与えてくださる『平和』」です。平和を与えるのは誰か。その問いに、今日の旧約聖書では「私が平和を与える」と仰せられる主なる神が、新約聖書からは「キリストの平和」とし、平和がキリストに由来していることを明らかにしています。
 
つまり、聖書を通して私たちが知ることのできる平和とは、神御自身のものであることが分かります。つまり、神が望まれるように、キリストが望まれるような平和であることが分かります。
 
今日の旧新約聖書に続く「第3のテキスト(原著)」は、イギリスの賛美歌作家である、ジェームス・モンゴメリーによる賛美歌の歌詞でした。
 
あなたが来られると、
暗闇に光が照らされ、
不安は明らかに消えてなくなるのです。
聖霊よ、来てください。
ああ、すぐに来てください。
暴力に代わって、恵みで支配してくださいますように。
 
私たちの心にある不安は、私たちにさまざまな疑心暗鬼の心を生み、その心はやがて、私たちの心にガードをつくって、独り善がりな平和を造り出そうとする。この平和「風」なものこそ、人を攻撃し、傷つけてこそ成り立つ平和と勘違いしてしまうのだと。だからこそ、神が望まれる平和を造り出すために、私たちに与えられたのが聖霊なる神の助けなのだ。私たちを支配するのは、ゆがんだ人間関係ではなく、あくまで幸いへと私たちすべてを導く神のご支配に他ならないのだと。今日の第3のテキストから、そんなことを強く思わされました。
 
どうか、神の与える平和が、私たちひとりひとりに隔てなく働かれますように。皆さんの心に主の平安が豊かに宿りますように。お祈りいたします。

01/06/2023

2023.6.1(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書25章8節
主なる神は、死を永遠に吞み込んでくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙3章10~11節
私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さんおはようございます。
昨日は、2024年版のローズンゲン日本語版の編集のため、もうひとりの編集者が働く職場に伺い、ともに編集作業をおこないました。少しでも良い冊子を皆さんにお届けできるように、心を込めて編集に携わっていきたい。そんな思いにさせられながら、ひと時を過ごすことができました。
 
さて、本日の新約聖書として選ばれたのは、「死者の中からの復活」を心から望む、この手紙の筆者である使徒パウロによる言葉です。パウロはまだ生きています。ですから、死者からの復活とは、自分がやがて訪れることになるであろう将来について、その希望を述べたものであると言えるでしょう。
 
しかし、パウロは本当に「死後の世界」だけに言及して、そのような自分の思いを述べたのだろうか。そんな風にも思ったのです。パウロ自身、かつてあのダマスコに向かう途上で、キリストの幻に出会った時、これまでの自分自身の「死」を経験して、目からウロコが落ちて再び起き上がった時、彼は明らかに「復活」を経験しました。そのようなパウロのライフヒストリーは、まさに「復活」が死後の世界はもとより、今自分自身が生きているさまざまな場面において、十分に体験し、経験できるものなのだということを踏まえて、今日のような言葉をつづっているのではないだろうか。そう思えてならないのです。
 
パウロが知った、つまり心の底から理解し、認識した「キリストの復活の力」とは、人を全人的に活かす大きな力のことであると私は推察します。復活とはやり直しという言葉に置き換えることができるのだと。パウロもこれまでの生き方に別れを告げ、キリストによって復活の力というものをいただくことによって、新生させられました。のちの宣教者としての人生にすべてをささげることができた。それがパウロの復活体験であったのだと。
 
復活体験をしたからと言って、苦痛がすべてなくなるわけではありません。むしろ、パウロの場合、苦痛が増幅したのではないかと思うくらい、自分自身に内在する「罪」の問題で、実に苦しみ悩みます。にもかかわらずパウロは、ことあるごとに自分の身を起こし、さらなる宣教活動に赴くことができたのは、「キリストの苦しみ、キリストが自分の死をもって私たちに命をあたえてくださったという事実」にパウロが返り、この生き方にあやかりたいと思ったからなのだと。キリストは死に、そして復活された。これが、パウロの人生の慰めであり励みであり、また将来への希望だったのだと。
 
今日の旧約聖書は、死を永遠に呑み込んでくださる主なる神がおられるというものでした。私たちの生きている世界で、永遠を見ることはまだできません。限りある限界のなかを、私たちは時にもがき苦しみながら歩んでいかなければならない。しかし、それでも復活の主イエスを見上げ、またその死にあやかりながら、私たちはいくらでも希望をもって生きることができるのだ。やり直しできるのだということを、今日を生きるための神の御言葉として受け取ってまいりたいと心から願います。どうぞ、皆さんの一日に、命を活かしてくださる神の平安と祝福がともにありますように。お祈りいたします。