27/03/2024

2024.3.27(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編109編31節
主は貧しい人の右に立ち
その命を死に定める者たちから救ってくださいます

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章5節
私の愛するきょうだいたち、よく聞きなさい。神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
受難週四日目の朝を迎えました。今日は、ローズンゲンに示されたふたつの聖句から「貧しさ」について、黙想したいと思いました。
 
貧しさとは何か。私たちが真っ先に思うのは、何かが失われ、空っぽな状態なのではないかと思います。そして、貧しいという言葉が、決してポジティヴな意味で用いられることはないでしょう。貧しいということが豊かな生活を阻害し、そこに至らせないさまざまな要素とセットとして語られることが多いからです。経済的な困窮における貧困というふうにです。
 
しかし、貧困であればあるほど、何のためらいもなく、目の前に出されたものをいただきたいという気持ちにもあふれるのではないかとも、思ったりします。貧しさという言葉が、神とともにあるための、重要なアイテムであるかのように、とらえることができるのかもしれません。イエスが「貧しいものは幸いである」と言われたのは、まさに良いものを何のためらいも無く受け取ろうという気持ちにさせられたときに、そこには神が幸いを余すところなく与えてくださるのだよと、そんなイエスの声が聞こえてくるのです。
 
貧しさを貧しさのままで評価して、役に立たないと簡単に捨て去ってしまうような世の中があるとすれば、神はご自分の民を大切にされ、空っぽの心にご自分の愛を注いでくださるのだと。この愛が、私たちを決して卑屈にせず、ゆがまず、何のためらいもなく受けようとする心を、豊かなものへと満たしてくださる。今日のふたつの聖句は、そんな保証というものを、私たちに与えているのだと私は受け止めました。
 
貧しさの究極とは死。イエスが十字架に架かられたときに、そこには究極の貧しさがありました。しかし、貧しさを貧しさのままでは終わらせない神が、イエスを復活の主として立たせてくださった。まさに受難週にいただくべき聖書の言葉であるとも思いました。この週の半ばにあって、皆さんの一日がますます祝福を感じられるようなひと時でありますように。お祈りいたします。

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