31/05/2023

2023.5.31(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編30編12節
あなたは私の嘆きを踊りに変え
私の粗布を解き、喜びを帯とされました。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙15章13節
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、あなたがたを希望に満ち溢れさせてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さんおはようございます。
昨日は関西から東京へ移動し、見えにくくなったメガネを新調しようと思い、20年近くお世話になっている眼鏡屋さんに行きました。前回メガネを新調したのが3年前、ちょうどコロナ禍が始まったころで、国からいただいた給付金でメガネを買ったのを思い出しました。あれから3年も経ったのだと。時の速さを感じます。結果として、近眼が改善されたのと、老眼がかなり進んだとのことでした。パソコンの文字や本を読むのがつらいと感じていましたので、新しく出来上がるメガネがとても楽しみです。なぜ、わざわざこの眼鏡屋さんでというと、私の愛用している丸メガネのフレームがこの店にあるからで、その在庫も今回新調したもので最後なんだとか。今あるフレームを大切に使わなければと思った次第です。
 
さて、私の話はここまでにして、今日選ばれた聖書の言葉を通して思い浮かんだのは、「喜びに向かわせてくださる神への希望」という言葉でした。神は、私たちひとりひとりを苦しみや痛みから解放されることを、心から望んでおられる方なのだと。その神が、私たちを解放後の喜びへと向かわせてくださる。そういう神のお働きというものに、私たちは大いに期待し、希望を抱くことができると、聖書の言葉は私たちに語ります。
 
もう生きる価値などこれっぽっちもない。
先日、数十年ぶりでお会いしたある方の言葉です。その方は長年連れ添った妻を亡くして、ご自身も病身であるなか、住居のこと、今後の生活のこと、経済的なことでとても困っておられることを伺いました。もう私は生きている価値なんてないんだ。そうおっしゃっていたのです。
 
しかし、その方にお会いして、なんも心配のないことを伝えました。そして、今後その方が福祉的なサポートを受けることができるように、お手伝いをすることになりました。そうしたら、明らかにその方に「希望」が芽生えていくのを感じたのです。後日お電話で話したときに「ご飯を食べてますか?」と尋ねましたら、「はい!生きる希望がわいてきましたから。」と、電話の向こうからおっしゃってくれました。
 
その方は神を信じたからそうなったわけではありません。しかし、明らかにその方を生きる力へ導かれるのは、他ならぬ神であることを私が信じることで、その方にも神の愛が伝わることをただ願い、私も本当に微力ながら、神の愛を携えてその方に接することができるのだと。これも希望なんだと信じて、その方の人生に寄り添いたいと思わされた次第です。
 
嘆きを踊りに、懺悔の象徴と呼ばれている粗布を脱がせ、喜びへと導かれる神がともにおられる。そんなことを心の希望として、今日の一日を歩むことができますように。お祈りいたします。

30/05/2023

2023.5.30(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
民数記11章23節
主の手は短いのだろうか。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書18章19節
イエスは言われた。「よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さんおはようございます。
九州から東海地方の地域において、昨日梅雨入りに入りました。私は昨日から私用のために関西地方に滞在しています。昨日は、本当に梅雨らしい雨の一日でした。私にとっては実にうっとうしい、あまり好きではない、じめじめした季節ですが、これも作物を実らし、地をうるおす恵みの雨と思えば、感謝すべてきひと時なのだなあと思わされました。
 
そんな思いを抱きながら、今日選ばれた御言葉に出会った時、ぎょっとしました。「主の手は短いのだろうか」と。主なる神の御腕は、私たちの必要に全然応えてくれない。そんなことを思う人々の不平不満が、今日のような言葉を生んだのでした。
 
エジプトから脱出したものの、行けども行けども荒れ野のなかをたださまようだけ。そんな生活を繰り返していたイスラエルの民の疲れはピークに達します。私たちは元気なときにそれほど感じないことでも、疲れた途端にあらゆることに過敏になって、そのことにいら立ちを覚えて、不平不満や怒りをぶつけることがあります。だからこそ、自分自身の疲れに向き合い、いたわることに心を配ることは大切なのですが、そうならないことも往々にしてあるでしょう。
 
荒れ野をさまようイスラエルの民たちがそうでした。エジプトで奴隷として苦しんでいた日々があったとしても、それでも食べたいだけ肉や魚にありつくことができ、喉をうるおすみずみずしい野菜、精力をつけるねぎやにんにくの類が自分を元気づけることができた。しかし、今はそれが無いから、私たちはこれ以上旅を続けることができない。限界だ。そんな私たちの限界を、神はただ見て見ぬふりをしているのか。私たちに手を差し伸べてくれない神の腕は短いのかと。
 
これまでイスラエルの民たちは、神から十分に助けを受けてきたはずです。そのことを記憶し続けていれば、「神がなんとかしてくださる」というところに、自分自身の身を置くことができるかもしれません。しかし、人間とはそういう存在ではないのだと。身の回りにある、目の前のことに一喜一憂して、昔のことなど記憶のかなたに投げ捨ててしまい、そして不平不満や怒りを露呈してしまう。そんな存在なのだと、我が身を振り返っても痛感させられるのです。
 
主の手は決して短くはないのです。
実際に神は、この後に民たちにうずらを天から降らせて、肉食の恵みを民たちに与えられました。人々の不平不満に、ご自分の仕方で答えて、民たちが旅を続けられるようにしたのも神御自身であることを決して忘れてはならないのだと、私は思わされたのです。その時の気分や自分自身のコンディションやトラウマに起因することだけで、神や人を評価してはならないのだと。
 
そんな時こそ、自分自身のすべてを神に聴いてもらうことが必要なのだと、今日の新約聖書の言葉を通して想わされます。私たちの思いや口からあふれ出る不平不満は、出てしまうのだからしょうがない。むしろ、神の御前に正直にそのことを打ち明ける私たちの思いこそ、大切にされるべきだと私は思います。そのうえで、本当に必要なのは、その不平不満に神はどのように応えてくださるのかを、心から神に期待することなのだと思うのです。
 
自らの不平不満にふたをし、我慢するだけでは、その不平不満を解消し、解決するにいたらないでしょう。むしろ鬱憤(うっぷん)がたまる一方で、やがては爆発してしまう。神や人を非難するだけで終わってしまうのです。そうではなく、私たちの思いにご自分の思いを注ぎ、私たちを不平不満から解放できるように働いてくださる神に期待しつつ、祈りの手を神へ向けていくことを、大切にしていきたい。これが今日与えられた願いであり、私の黙想です。
 
うっとうしい梅雨空も恵みの雨をもたらす時なのだと。そんな前向きな思いをもって、一日を過ごしてまいりたいと思います。今日は東京へ移動します。一日が良い時でありますようにと祈りつつ、皆さんの一日にも神が親しく臨んでくださいますように。そのことに私たち一人一人が気づき、神とともに歩む幸いを見い出すことができますように。お祈りいたします。

29/05/2023

2023.5.29(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ハガイ書2層8節
銀は私のもの、金も私のもの――万軍の主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録4章32節
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さんおはようございます。
今日から始まるウィークデイの日々に、神様からのよき守りと祝福がありますように。お祈りいたします。
 
さて、本日選ばれた聖書の言葉は、読み方によっては祝福にも呪いにもなると感じた言葉でした。なぜそのように感じたのかというと、私たちの所有物はすべて「神のもの」であるという言葉が、人間による「我欲」のために使われる可能性がいくらでもあると感じたからです。
 
本日の新約聖書の言葉である、使徒言行録4章32節には、初期のクリスチャンは信仰共同体であるとともに「精神的共同体」「財産共同体」でもあったことが記されています。ともに集まるということの喜びは、自分の所有物がみな神から与えられたという自覚のもとに、それらを共有することに喜びを見い出していたと言えるでしょう。これはおそらく、聖霊なる神の導きというものに触発されたキリストの弟子たちが、あくまで「自発的に」そうすることの幸いというのを感じ取って、そうしていたのであろうと思うのです。
 
しかし、現代において、そのことを「初期教会のスタイル」だからと、そうしなければ教会ではないとうたい、ひとどころで共同生活を営み、それぞれの財産もすべて、その共同体のためにささげなければならないと信仰的に強要されて、世俗とも断交してそのような生活を営んでいるグループの存在を、見聞きすることがあります。私はカルト問題の相談として、そのようなグループに家族を取られてしまったという話を聞くことがありますが、これが本当に初期教会の姿なのだろうか。単に都合の良い部分だけを切り張りして「初期教会ごっこ」をしているだけに過ぎないのではないか。そんなことすら思わされることがあります。まさに「我欲のために聖書の言葉を利用する」典型例と言えます。
 
今日の聖書の言葉を通じて思わされるのは、あくまで「自発的に」神の所有物というものをいただいている私たちが、財産をどのように考えることが必要なのだろうかということを考えて、自らの決断に従った行動ができるか、ということなのだと私は受け止めました。そのことを通して、私たちの「所有欲」のようなものについて、あらためて見つめたい。そんな思いにさせられました。そして、そのような欲から私たちを解放してくださる神のお働き、聖霊なる神の導きに、今日も自分自身をささげて生きたいと思わされた次第です。
 
皆さんにとっても、今日の一日が聖霊なる神の十分な導きのもとにある、豊かなときでありますように。お祈りいたします。

28/05/2023

2023.5.28(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書2章9節
私自身がエルサレムを取り囲む火の城壁となる――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録2章1,3~4節
五旬祭の日が来て、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さんおはようございます。そして、ペンテコステおめでとうございます。聖霊なる神が豊かに私たちに与えられたことを、心から喜び祝うことができる。その喜びを与えてくださった神に、心から感謝と賛美を捧げたいと思います!
 
聖霊。階上の部屋で祈っていた弟子たちに降り注がれたのは、炎のような聖霊でした。舌のようなかたちをもって私たちに与えられることによって、私たちは神の知恵に基づいた命の救いと、救い主イエスを宣教する力が与えられました。聖霊なる神の助けは人を全人的に癒し、私たちに活力を与えるとイエスが約束してくださった通り、復活の命を具体的に私たちの生活に与えてくださいました。
 
その炎が、私たちを守る。今日の旧約聖書の言葉であるゼカリヤ書2章の言葉には、エルサレムの城門が人々を守るように、神が御自ら降り注ぐ「火の城壁」となってくださることが記されています。聖霊なる神の働きが「弁護者」としての役目を果たされることからも、今日のゼカリヤ書の言葉は、ペンテコステを祝うにとてもふさわしい御言葉であることが分かります。私たちを守られる炎のような聖霊が、ペンテコステの時に、弟子たちに余すところなく降り注がれ、それは瞬く間に、何千、何万もの人々の心に燃え広がりました。それは決して被害をもたらすものではなく、人々に情熱というものを与えるものなのなのだと。
 
私たちが弱り果て、自分自身の力ではどうすることもできない状況にあったとしても、この炎が私たちをしっかりと守ってくださるからこそ、私たちは守られて生きる幸いというものを味わうことができるのだと。そんなことを、今日のペンテコステの一日、そこから始まる聖霊降臨の日々を歩んでまいりたいと思います。
 
どうか、世界中で祝われるペンテコステの恵みが、皆さんとともにありますように。お祈りいたします。

27/05/2023

2023.5.27(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記32章4節
主は真実の神で、偽りがなく
正しく、まっすぐな方。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一3章24節
神が私たちの内にとどまってくださることは、神が私たちに与えてくださった霊によって分かります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さんおはようございます。
いよいよ、明日は「聖霊降臨祭(ペンテコステ)」です。イエスが弟子たちに約束された通り、イエスの身代わりとなる弁護者である聖霊が、私たちひとりひとりに与えられたことを記念する祭りです。
 
昨日、私が勤務する東北教区センター・エマオで月に1回開催される「合同青年会(セカチュー)」へ、初めて来てくれた高校生が、ペンテコステという言葉を聞いて「ポンポコの助」だと思ったと話してくれました。そりゃそうだよなあと思ったのです。クリスマスやイースターに比べたら、まだまだペンテコステという言葉が世の中に出回ることがありませんし、聖霊と聞けば、何それ?となる。「霊」という言葉にピンとこない。そりゃそうだよなあと思うのです。
 
しかし、教会は、クリスマスやイースターと並んで、ペンテコステを何の遜色もなく、大切な祭りとして祝い続けてきましたし、私はこの祭りこそ強調してしかるべきものなのだと、いつも思わされています。今日の聖書の言葉は、まさに聖霊を説明するのにふさわしい、そのようなものだと思わされました。
 
今日の新約聖書の言葉である、ヨハネの手紙一で綴られていることは、神が私たちのうちにとどまってくださるのは、聖霊によって分かるのだということです。その前に、神の「なに」がとどまっているのだろうか、ということです。神が私たちのうちにとどまり、、、という表現は、かつてイエスが弟子たちに語られたメッセージのなかにあります。十字架にかけられる前に、弟子たちに語られた「送別説教」と呼ばれているものです。
 
イエスは、父なる神と御自身、そして弟子たちである私たち人間との間で「とどまり」という言葉を何度も用いられます。とどまりとは滞在することであり、滞在することで「つながり」、すなわち連帯感というものを味わい、愛に生かされる者となることができる。つまり、神と人とのつながりにおける基となるのが「神の愛(アガペー)」であるというのです。
 
そして、イエスはそのつながりについて語られるのと同時に、真理の霊、つまり聖霊の助けというものを弟子たちに語られました。ヨハネの手紙の中で、神が私たちにとどまっていることは「聖霊」によって分かると述べたのは、まさに「神の愛」が私たちのうちにとどまり、神の愛によって神と私たちがつながっているということと、聖霊のお働きというものが、決して切り離せない関係にあるということなのです。
 
つまり、聖霊は「神の愛」が十分に詰まっているということなのです。今日の旧約聖書の言葉で語られているのは、神の真実であるとか、正義、公正というものですが、これもその基盤にあるのは「神が私たちを大切にされるがゆえに注がれる愛」ということであり、それが、今私たちに対して、聖霊が働かれることによって、私たちの心にとどまることによって、私たちが愛を受けて生きるべく、私たちを支えてくださるのだと。
 
そう考えますと、ペンテコステとは「神の愛が生まれた日」を祝う出来事と言えるのかもしれない。私はそんなことを思わされたのでした。明日のペンテコステに向けて、心を弾ませながら、備えの時を持ちたいと思います。皆さんの一日にも、神の愛が聖霊を通してしみわたり、それぞれの心にとどまってくださいますように。お祈りいたします。

26/05/2023

2023.5.26(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ダニエル書9章14節
私たちの神である主は、ご自分がなさるすべての業において正しいのです。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙3章26節
神が今この時にご自身の義を示されます。
すなわち、ご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とされます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さんこんにちは。
今日のローズンゲンの黙想をお届けしようと思っておりましたが、朝から予定が詰まっておりまして、黙想を綴る時間が今日は確保することが難しそうですので、聖書の言葉だけをアップさせていただきます。
 
楽しみにしてくださっている皆さんへは、大変申し訳ありませんが、皆さんの黙想に、神の助けと祝福がありますように、心からお祈りいたします。
 
齋藤 篤

25/05/2023

2023.5.25(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ミカ書5章1節
エフラタのベツレヘムよあなたはユダの氏族の中では最も小さな者。あなたから、私のためにイスラエルを治める者が出る。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一3章16節
まぎれもなく偉大なのは、敬虔の秘義です。すなわち、
キリストは肉において現れ霊において義とされ
天使たちに見られ
諸民族の間で宣べ伝えられ
世界中で信じられ
栄光のうちに上げられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日はいつもより休息をゆっくりと取りました。風邪が抜けきっていませんでしたので、意識して朝遅めに起きました。それだけ黙想をお届けするのが遅くなりましたが、私自身は爽快な朝を迎えることができましたので、本当に良かったと思っています。風邪が結構流行っていますので、皆さんの体調が守られますように。お祈りいたします。
 
さて、今日の聖書の言葉で注目したいと思ったのは、「敬虔の秘儀」という、第一テモテ3章の言葉です。この経験の秘儀が語られた後、救い主イエスがどのようにして、私たちの命の救い主となられたのかについて、賛歌のように綴られています。まさにマリアの胎内に宿った時から、昇天に至るまで、イエスの歩みというものは、私たちの想像をはるかに超える、神の御業であったと言えるでしょう。私たちの常識ではないという意味で「秘儀(原語ギリシア語ではミュステリオン:英語ミステリーの語源となった言葉」であると言えます。
 
この秘儀という言葉が「敬虔」という言葉とつながって「敬虔の秘儀」と、今日の聖書の言葉として表現されています。つまり、私たち人間では想像もできないようなことをもって、私たちを愛し、命を与え、救いへと導いてくださった神の御業に対して、畏敬の思いを抱くほどに、この救いというものは不思議なのだということを、「敬虔の秘儀」という言葉は表現しているのだと。あらためてそんなことを思わされました。
 
私は仙台の街に牧師として赴任して1年2か月になります。このところ考えていたのですが、私がこの街にやってきたのは、ある意味で言えば「志願した」からだったのですが、しかし、その理由だけでは語れない「さまざまな理由」が分かってきました。これは、自分自身の意志ではとうてい推し量ることのできない、神の導きというものが働いている。私は最近そのことを強く感じることがたびたびあるのです。
 
昨日、そのことを感じるある出来事がありました。孤独な生活を送らなければならないある方との、数十年ぶりの出会いがありました。昨日、電話でその方と話したのですが、それはとても不思議な体験でした。おそらく、私が仙台に転居しなければあり得なかった出会いだったからです。実は、その方のことがずっと気にかかっていました。だからこそ、電話口でその方の声を聞いた時に、そしてその方から「助けてください」と言われたときに、私は、ああ、仙台に来たひとつの理由なのだなと感じたのです。その方のことを具体的に助けることができる。決してその方に宗教勧誘するわけではなく、あくまで「イエスが与えてくださった愛」をもって、接することができるのだ。そう思ったら、なんとも嬉しい気持ちにさせられたのです。これぞ、神の秘儀を見せられた経験なのだと。神が敬虔の思いを私に与えてくださったのだと。そう確信せずにはいられませんでした。
 
今日の午後に、その方とお会いします。胸が高鳴ります。少しでもその方の助けになることができますようにと祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。どうか、皆さんの一日にも、神の不思議な御業が、祝福となって表れますように。お祈りいたします。

24/05/2023

2023.5.24(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編142編4節
私の霊が萎え果てるときもあなたは私の小道を知っておられる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書11条28節
すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編142編は「ダビデの詩。ダビデが洞穴にいたとき。祈り。」という表題から始まります。ダビデが洞穴にいたときと言えば、サウル王の時代に、ダビデが命狙われていたがゆえに、洞穴で身を隠していたことを想い起こすことができます。ダビデが神から油注がれた、つまり王として神の命(めい)を受けたからこそ、サウル王に追われ、命が奪われようとしていた。このまま父エッサイのもとで羊飼いのままでいたら、そのような危険を経験するようなことはなかったでしょう。
 
神が与えた人生の道というのは、時として過酷と思えるようなことが、私たちにもあるかもしれません。神が与えてくださった命の尊さを想い、その命を永遠なるものとして私たちに明らかなものとしてくださったイエスをまとって生きるというのは、それを知らなかったら考えもしないようなことを、一生懸命考えさせられる。そんなことがあるかもしれません。
 
昨日の黙想でも、「神が与えてくださった『愛』に生きる」という唯一の戒律を大切にすることの幸いについて申し上げましたが、幸いとは言っても、愛に生きるというのは、本当に苦しくもある営みであることは、愛に生きようと思う人が誰でも経験することなのではないか。私は自分自身のことを振り返りつつ、そう思えてならないのです。なぜならば、この世の中にあふれる愛とは、神が願い、望んでいるような愛のかたちとは違うことが、極めて利己的な愛が横行しているのを、往々にしてあることを、私たちは見て、触れることで、神の愛と比較しながら、一喜一憂のうちに実感するのだと思います。
 
クリスチャンとして生きるというのは、大きな幸いがあるのと同時に、実に起伏に富んだ「小道」なのだと。今日の旧約聖書におけるダビデの詩は、まさに神から与えられた小道を歩む大変さについて告白しています。実際に、ダビデは、本日の聖書箇所である4節の後半で、「私が歩むその道で、彼らは私に網の罠を仕掛けた。」とうたっている通りです。
 
私たちもまた、愛を想うことに疲れ、それを営むことの難しさに萎え果ててしまうときに、しかし、神はそういう愛に生きる人生のすべてを「知っておられる」という告白なのだと。神が知っておられるということはすなわち、その神に叫びの声を発したとき、必ず神は助けてくださるという、深い信頼に基づいているからこそ、神に助けを求めることができるのだと、私はそう受け取りたいのです。
 
だからこそ、今日の新約聖書の言葉がきらめきます。私たちの叫びに、救い主イエスは答えてくださいます。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」というイエスの招きの言葉は、私たちの疲れや苦しさを知っておられるからこその招きであって、私たちはその招きに応じて、主が与えてくださった小道を歩むことができるのだと。そこにたとえ罠が存在したとしても、神がその罠目をほどいてくださり、安心して休むことのできるところへと、私たちを導いてくださるのだと。そんな一日でありたいと心から願わされた次第です。
 
どうか、皆さんにとっても今日歩まれる小道が、神の豊かな招きのもとにありますように。もし歩む辛さがあったとしても、その先にある幸いが、歩む動機となり希望となりますように。お祈りいたします。

23/05/2023

2023.5.23(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記5章32節
あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおり、守り行わなければならない。右にも左にもそれてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書22章37~39節
イエスは言われた。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
今日選ばれた聖書の言葉に触れたとき、昨日のある出来事を思い出しました。地元FM局の番組収録があったのですが、そのなかで「宗教=戒律」のイメージがあるという、パーソナリティの方の言葉があったのです。おそらくこれが、一般的な宗教に対するイメージなのかもしれません。そこには、戒律=多くの制限をともなう、厳しい掟という印象がともなっているのだと。
 
私は、キリスト教にもし戒律というものが存在するとするならば、たったひとつだけあると答えました。それが「神が私たちに与えられた『愛』に生きること」だと。愛を与えてくださった神を愛し、その愛をもって隣人を大切にすること。もし、キリスト教に戒律があるとすれば、そのひとつしかない。この基礎があってこそ、さまざまな生活態度に広がっていくのだと私は考えていますし、キリスト教が2000年の歴史を経ても、決して「右にも左にもそれることのない」、最大にして最高の掟なのだと。これは誰もが認めることだと思うのです。
 
ただ、右にも左にもそれないで、神の愛を十分に受け取って、その愛をもって生きることは何と難しいことか。自我というものが、この愛を阻害するのです。愛を受け取っていながら、その愛を分かち合うことのできない自分自身というものに、いやというほど出会うことがあります。自分が気に入るか気に入らないかで、非常に限定された環境のなかに自分自身を押し込めながら、非常にちっぽけな愛を振りまいて満足し、愛せないという自分自身の姿に開き直ってしまう。これが偽らざる私の現実なのです。
 
だから、自分自身に制限を課すことで、何かを抑制する。この抑制がいかにも、宗教行為のように見えてしまう。~はダメ、○○してはならない。その動機が神の愛に基づいているのであればまだ良いのですが、そんな動機すら忘れてしまう。ある意味で言えば、自分自身を縛るだけではなく、人を宗教や自分の支配下に縛り付けておくために、戒律というものを利用され、悪用される。そこには神の愛の真実や本質など、何も見えてこない。そう思えてならないのです。
 
イエスが言われた、神を愛し隣人を自分自身のように愛するとは何か。その戒律を守れないこの私でも、その愛によって生かされていることの幸いを、今日じっくりと黙想しながら、過ごしていきたいと思わされました。右にも左にもそれて歩んでしまう私でも、神のまっすぐな態度に生かされていることに感謝しつつ。皆さんの一日に、そのような神の愛がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

22/05/2023

2023.5.22(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
コヘレトの言葉8章15節
そこで、私は喜びをたたえる。
太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに人に幸せはない。
これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に伴うものである。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章4節
主にあっていつも喜びなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
今日選ばれた旧約・新約聖書から、共通するキーワードが何かと言えば、それは「喜び」であると私は受け止めました。本日のローズンゲンとなる言葉は、コヘレトの言葉8章の一節です。
 
太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに人に幸せはない。
このようにコヘレトと称される人物は言います。これは世の中でも広く受け入れられる、私たち人間が共通して感じる事なのではないかと思うのです。そのうえで、コヘレトはこのようにも言っているわけです。
 
太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に伴うものである。
太陽の下で神が与える私たちの人生は、決して嬉しいことばかりではない。時には労苦をともなうものである。そうコヘレトは言うのです。「人生楽ありゃ苦もあるさ」という歌詞で始まる、テレビ時代劇の曲を思い出しました。しかし、労苦があるなかでも、だからこそ、私たちには神から与えられた喜びを、存分に楽しむことができるのだ。この神が与えてくださる幸福のゆえに、私は喜ぶことができるのだと。
 
そのことを踏まえて、今日の新約聖書の言葉を考えてみるならば、「主にあっていつも喜びなさい」というのは、苦しいことがあってもカラ元気を装っていても喜んでいなさいと言うことでは決してありません。そもそも喜びというのは、どこから来るものなのか。フィリピ教会へ手紙を宛てたパウロは、このことについて「主にあって」というひと言をもって、その問いに答えています。
 
つまり、私たちが喜ぶというのは、その源泉が神にあることを示すものであって、私たちに人生の日々を与えてくださった神が、私たちの経験する労苦のなかにあっても、私たちが喜び楽しむことができるように、整え、導いてくださることなのだと。ちなみに言えば、私たちの経験する労苦とは、神に背を向けて生きようとした結果、私たち人間が経験しなければならない、いわゆる「自業自得」的な結果なのであって、決して神が罰として与えたものとは違うと私は考えています。神はあくまで、私たちが喜び楽しむことを期待し、望んでおられるということなのだと、私は受け止めています。
 
今日から始まるウィークデイの日々が、私たちに喜びを与える神がともにいてくださることを感じとるまい日でありますように。お祈りいたします。

21/05/2023

2023.5.21(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編51編14節
救いの喜びを私に返し
導きの霊で私を支えてください。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙5章13節
あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
イースターから数えて6回目の日曜日がやって来ました。早いもので、来週の日曜日には聖霊降臨祭(ペンテコステ)を祝います。イエスが天に昇られても、イエスが父なる神とともに私たちを守るために与えてくださると約束された聖霊が、私たちのもとに訪れてくださる。そんなことを心に描きながら、イースター後最後の日曜日の時を過ごしたいと思います。
 
今日私たちのために選ばれた聖書の言葉は、私たちにとっての「祈り」や「賛美」の源泉について、私たちに深い示唆を与えるものであると、私は受け止めました。苦しみがあれば祈り、喜びがあれば賛美する。これはまさに、今日の旧約聖書の言葉にもある通り、「礼の導き」によってなされるものである。つまり、聖霊なる神が私たちのために働いてくださることが、結果として私たちの祈りや賛美に表れることを、私たちは受け止めることができるというのです。
 
もし、苦しんでいる人が、祈ることはもとより賛美する気持ちにもなれないとき、私たちはその人のために祈り、そして賛美をすることができます。聖霊なる神が、他者・隣人のそのような祈りを通して、必ずその方に働かれることを信じつつ。そのために、礼拝というものが存在するのだと私は受け止めたいのです。決してひとりではない。神がともにいてくださる。この私たちの信仰がより豊かにされるために、ともに礼拝する友が与えられているのだと、私は心から信じたいのです。
 
人と人とが相交わる時、そこには不和をつくり出すこともあるでしょう。しかし、不和をつくりだす以上に、神が与えてくださる聖霊の導きが私たちのうちに平和をつくり出す。この平和に生かされる喜びを味わう幸いに、今日も味わってまいりたいと思います。皆さんの礼拝のうえに、一日の一切に、平和の神の喜びがともにありますように。お祈りいたします。

20/05/2023

2023.5.20(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書65章1節
私を求めなかった者に私は尋ね出され
私を探さなかった者に見いだされた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書19章30節
先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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私たちに与えられた今日の聖書の言葉ですが、特に旧約聖書の言葉に出てくる「私を求めなかった者」「私を探さなかった者」とは、いったい誰のことを指すのでしょうか。預言者イザヤは、少なくともそういう人たちに神の存在が見いだされたことが記されています。
 
これは、伝統的に救いの外にあると思われ続けてきた「異邦人」をさすと言われています。神を求め、探さなかったというよりも、そのような機会にこれまであずかる機会がなかった、という言い方のほうが適切なのかもしれません。誰の目からも見て、とうてい救われることなどないだろうという人々によって、神の存在が明らかにされ、そして見いだされることによって、その人たちは神によって救いの経験を得るというのです。
 
これは、特権であるとか優越感というものに対する、厳しい示唆を与えるものなのではないだろうか。私はそのように感じたのです。神が選ばれたイスラエルの民たちは、自分たちは神によって絶対的に守られているという確信があったにちがいありません。しかし、そこに何らかの驕り(おごり)の心があったからこそ、彼らは大切なものを見失うことになります。そして、大切なものが、本当に大切なものを求め、大切にし続けるそのような価値を見いだそうとしている人々に、与えられることになりました。
 
イエスは言います。「先の者が後になり、後の者が先になる」と。神の救いとは、その救いの本質というものを、本当に分かっている人々に優先して与えられるものなのだという、イエスの思いというものが明らかにされる言葉です。
 
私は思いました。私はクリスチャンとして、神の救いというものを確実に受け取ったという思いがあります。しかし、だからと言って、そのことに慢心するあまり、神の救いの本質というものに、つねに目を向け、心を注ぎながら、神が期待しておられる生き方というものを、真摯に歩むことをおそろかにしていないだろうか。そんなことを思わされました。
 
安心感を得ることは大切だけれども、安心しすぎることで、大切なものまで見失うことのないように、自分自身をよく確かめながら、聖書の言葉を心身にしみこませていく幸いを、今日も味わいたいと願わされました。どうか、主の日の備えとなるこの一日が、皆さんにとっても神の救いというものを確かめるための、素敵な一日となりますように。お祈りいたします。
 

19/05/2023

2023.5.19(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上17章47節
主が救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書10章5節
どんな家に入っても、まず、「この家に平和があるように」と言いなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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なぜ暴力がなくならないのか。そんな問いに、今日選ばれた聖書の言葉は、大切なことに気づかせてくれる。私は今日の聖書の言葉に出会った時に、真っ先にそんなことを思わされました。
 
救いに剣や槍は必要ない。一見すると、旧約聖書に記述されている数々の戦いが繰り広げられていることを踏まえると、今日の聖書の言葉はとても矛盾しているようにも思えます。しかし、そういう矛盾のなかにも、今日の聖書の言葉は心から納得させられたことに間違いありません。救いに暴力は必要ないのだと。では、なぜ暴力がこうも起き続けるのか。そんなことを黙想したいと思いました。
 
私たちの戦いはあくまで暴力を用いないところで行われるべきだと。今日の新約聖書の言葉のなかで、主イエスが弟子たちに命じられた宣教の方法とは、「平和があるように」という祈りをもってなされることであり、そのような態度をもって戦う大切さを思わされます。
 
暴力がなぜ私たちのうちからなくならないのか。やはりそれは、私たちの誰もが持っている「不安や恐怖」に起因すると、私は改めて思わされました。私自身のことを振り返りました。不安がさまざまな恐怖を呼び起こすときに、自分自身を時には防御し、そして正当化しようとする時に起きるのが暴力であると。こうして自分自身が暴力をもって優位に立とうとする。私は身体的暴力をすることがたとえなかったとしても、置かれた立場や言葉を利用して、暴力的なことを行ってしまう自分自身があることを認めます。それが顔を出さないようにといつも心がけるわけですが、時に自分の感情が理性を超えてしまう場合、結果として暴力行為だと思わせるようなことをしてしまった。そんなことに気づかされるのです。
 
こういう自分自身があることに気づかされるとき、あくまで暴力のないところでの戦い、平和を心に刻んでそれを貫こうとする自分自身に、今日の聖書の言葉が身に染みる。そんなことを思わされてなりません。どんな家に入っても、誰に対してでも、暴力ではなく寛容な思いをもって、神が、そして救い主イエスが言われた言葉を大切にしたい。そんなことを思わされた今日の聖書の言葉でした。
 
今日はまとまりのつかない言葉を皆さんにさらけ出しているかもしれません。だからこそ、じっくりと考えていきたいと思います。私たちのあいだに非暴力の平和を与えられる主イエスの恵みが、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。

18/05/2023

2023.5.18(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言19章21節
人の心にはたくさんの企て。
主の計らいだけが実現する。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録1章6~9節
使徒たちは集まっていたとき、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活40日目を迎えました。そして、今日はキリストが天にあげられたことを祝う「昇天祭」です。今日選ばれた旧約聖書のテーマに沿って選ばれた新約聖書は、イエスが昇天されたときの記述である、使徒言行録1章の言葉が選ばれています。教会暦を意識して選ばれた聖句ですので、もちろんそういう恣意的なところはあるわけですが、しかし、それでも本日の旧約聖書のテーマに沿っているものですし、何よりも「イエスの昇天」の意味というものを、あらためて考えさせられる。そういう聖書の言葉であると心から感じさせられました。
 
その前に、今日の旧約聖書の言葉に心を傾けたいと思います。
 
人の思いを超えて、ただ神の御心のみがなる。今日の旧約聖書の言葉に触れて、私が真っ先に思い浮かんだ言葉です。どんなに私たち人間があれこれ神の御心について考え、そのために聖書の言葉に当たったり、神に祈るなどして、自分なりに「これが神の御心である」と信じて行動しても、それが本当にそうなるかどうかは、やはり分からない。もし間違っていたら原点に回帰することの大切さを想わされる聖書の言葉でした。
 
引き返す勇気。これは神から与えられるものなのだと、私は今日の聖書の言葉から改めて思わされました。そして、引き返す勇気は聖霊の導きによるものなのだと、新約聖書の言葉から想わされたのです。
 
復活のイエスに出会った弟子たちは、やはりイエスに自分たちを治める王として君臨してほしい。そのような思いがあったに違いありません。これは弟子たちがイエスに対して抱き続けていた期待でした。しかし、イエスはそんな弟子たちの願望にかかわらず、天に昇って行かれました。これは弟子たちの願いというものを反故にしたものではなかったと私は思います。むしろ、イエスが王として私たちを平和のうちに治めてくださるために、より確実な道というものをイエスが私たちに示されるために天に昇られていったのだと。
 
弟子たちは、イエスがイスラエルという国を建て直すのは今ですかと尋ねます。まさに自分たちの期待をイエスに寄せていたゆえの言葉であると言えるでしょう。しかし、イエスは、その時はあなたがたの知るところではないと答えられました。ただ神のみぞ知るのだと。そしてイエスは、神の御心を明らかにされます。それが「聖霊の降臨」であって、弟子たちにイエスの良き支配を宣教するという新しい使命をお与えになられました。
 
イエスの昇天というのは、まさに弟子たちにとって新しい転換点を示すものであったことを思います。しかし、弟子たちとイエスの関係性というものは決して途切れるものではなく、むしろより明らかに、より確かに、その関係性が大切にされる機会でもあった。私たちは、10日後に訪れるペンテコステを前に、聖霊という存在が私たちに力を与えることの意味というものをじっくり考える。そういう機会が与えられていることを大切にしたいと思います。
 
今日も皆さんの一日に、確かな関係を求められるイエスの恵みが、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。

17/05/2023

2023.5.17(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編6編2節
主よ、怒りに燃えて私を責めず
憤りに任せて懲らしめないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章9~10節
神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたのです。主は、私たちのために死んでくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活39日目を迎えました。
 
朝のうちに仕上げなければならない仕事があり、ローズンゲン黙想は後回しになってしまいました。今日の旧約・新約聖書をつなぐ言葉は「怒り」であると私は受け止めました。私たちはどのように怒りというものに向き合っていく必要があるのか。そんなことをアあらためて黙想してみたいと思いました。
 
私は、自分自身のなかにいる怒りというものを、あまり上手に処理することができないままでいました。ちょっとしたことで、怒りの感情がふつふつと沸いて来る自分自身があるのです。ただ、怒りをコントロールできない自分自身があることで「得」をしたことは、おそらく一度もありません。だから、怒りをため込む自分自身に対して、本当に嫌気がさしてくることがあります。
 
怒りは自分自身の気持ちの問題である。怒りの原因を他者や他のなにかに押し付けることなく、ただ辛抱我慢するのではなく、自分のなかでじっくりと分析して、整理して、怒りを自分自身のうちでコントロールしようと願っています。そんなこともあって、怒りに対する向き合い方というものが、少し上手になってきたかなと最近思わされることがあります。こういう自分自身を感じることができるのは、自画自賛かもしれませんが、やっぱり嬉しいことなのだと思わされます。
 
さて、本日の旧約聖書の言葉は、怒らないでくださいと神に願うダビデの詩です。何ゆえにダビデはそのような願いを神に向けて語ったのか。病の癒しだったかもしれないし、その病が自分の罪の結果ゆえのことと認識していて、神にざんげの祈りをささげているのか。その詳細は分かりませんが、しかし、ダビデにとって神の怒りを受けることはやはり恐ろしいこであり、私を憐れんでください、慈しんでくださいというダビデの心から願いを、十分にくみ取ることのできるものだと私は感じたのです。
 
ダビデが神に対して怒らないでくださいと願った気持ちというものを、私たちもまた理解できるのではないでしょうか。私は今まで自分の怒りというものをまき散らすことによって、無意識のうちに自分自身が他者に対して優位に立とうとしてたことに気づかされています。怒りはある程度人を恐れさせ、従わせる効果があるかもしれません。しかし、それは究極的に人と人とをつなぐためには、あまり役に立たないことを思わされます。
 
神と人との関係だってそうです。怒りによって神と人とがつながっているのであれば、その関係性は恐れによってつながっていることになります。いわゆる「カルト的な関係」とは、恐怖をつながりの材料に用いられていることを考えると、怒りをつながりの材料として用いるのは、決して良くないことを強く思わされます。
 
ダビデは、神に対して怒らないでくださいと願ったときに、神に対する恐怖心を抱いていたのでしょうか。あとに続く詩文を見ると、決してダビデは恐怖に取り囲まれていなかったことがわかります。確かに神の怒りを買うことは恐ろしかったでしょう。しかしダビデは、恐れ以上に、神が私たちを慈しみ、そして憐れんでくださることを心から信じていました。
 
10節にはこのようにあります。
主が私の願いを聞き主が私の祈りを受け入れてくださる。
 
このようなダビデの確信があった、つまり主に対する深い信頼の念があったからこそ、素直に自分自身の恐れを神の前にさらけ出して、そのうえで、神の慈愛というものを心に置きながら、神に願ったのではないかと私は黙想しました。
 
怒りというものはできれば無いほうが良いのです。しかし、怒りを引き起こす要因というものがこの世界にはいくらでもある。だからこそ、怒りというものを自分自身の問題としてじっくりと黙想して、怒りから解放してくださる神のなさることに信頼したい。そのように思わされました。
 
神の怒りは怒りのままでは終わらず、救い主イエスによって愛と慈しみのうちに招かれている私たちのあり方を想いつつ、一日を過ごすことができますように。皆さんの主からの祝福を心からお祈りいたします。

16/05/2023

2023.5.16(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編107編10,13,15節
闇と死の陰に住む者たち
苦悩と鉄の枷に締めつけられる捕らわれ人は
苦難の中で主に叫ぶと
主は彼らを苦しみから救い出した。
主に感謝せよ。その慈しみと
人の子らになされた奇しき業のゆえに。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章10節
義のために迫害された人々は、幸いである
天の国はその人たちのものである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活38日目を迎えました。
皆さん、おはようございます。昨日は冷たい雨が降りしきる仙台の街でしたが、今日あたりから夏日を思わせるような陽気がやって来るとのこと。気持ちよい一日を迎えることができるなと感謝して、神様に祈りました。
 
さて、今日の旧約聖書の言葉は、昨日の旧約聖書の続きとなる部分です。「くじ」で選ばれるはずなのに、同じ書の同じ章の続きが選ばれることがあるのだと、少々驚きました。昨日は、東西南北から神の民が集められて、神が設けてくださった食卓の喜びをともに味わうことができると、黙想で申し上げました。
 
では、私たちはなぜ神が設けてくださった喜びをいただき、味わうことができるのでしょうか。詩編107編は「苦しみから私を助け出してくださった神」というものを、ひとつのテーマにしています。苦しみのなかで神に叫ぶと、神は救ってくださった。私たちの苦難をすべてご存知である神は、私たちのことを決して見捨てないのだという、歌い手の期待と確信がにじみ出ている詩であるのです。
 
昨日、教会員Aさんの葬儀を執り行いました。先月病床洗礼をお受けになられて、約1か月間を過ごされたのちのご召天でした。若い頃、キリスト教主義学校で学ばれて、その後ご結婚されてお子さんに恵まれるものの、早くにお連れ合いを亡くされて、いろいろご苦労もおありだったと思いますが、常に気品にあふれて人生の日々を過ごしておられたと聞きました。その最終場面で、病と向き合うなかにあって「神とともに生き、洗礼を受けたい」との思いを明らかにされました。まさに、痛み苦しみのなかにあって、その方の「叫び」に、神は喜びをもって応えてくださった。私はそんな風にこれらの出来事をとらえ、受け取りました。
 
Aさんは神の国に招かれて、神が与えてくださる平安に包まれながら、喜びの食卓の座につきながら、喜び楽しまれることを想います。死が死のままでは終わらない。復活という私たちの抱く最も大切な信仰について、主イエスの昇天に先立って改めて振り返って考えさせられる聖書の言葉であると思いました。
 
私たちを苦しみから生かし、喜びを味わわせてくださる神に感謝しつつ、今日の一日もまた素敵なときでありますように。お祈りいたします。

15/05/2023

2023.5.15(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編107編3,8節
国々の中から集めてくださった
東から西から、北から南から。
主に感謝せよ。その慈しみと
人の子らになされた奇しき業のゆえに。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書8章11節
言っておくが、東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活37日目を迎えました。
皆さん、おはようございます。私にとって昨日の一日は、実に多彩な時を過ごすことができました。代務教会での礼拝と役員会、その後地区教会群の総会、教区センターの夕礼拝、その合間に来仙していた友人牧師との再会などなど、充実した一日を過ごすことができました。帰宅したのが夜9時でしたが、そのままベッドに直行して爆睡し朝まで休みました。たっぷり寝ましたので、気分爽快です!
 
そして、今日は教会員のお葬儀が控えています。他の教会堂をお借りしてのお葬儀ですが、心を込めて礼拝にお仕えしたいと思います。
 
さて、今日私たちのために選ばれた旧約・新約聖書の言葉ですが、私が注目したのは、二つの聖書の言葉に支えられた、「第3のテキスト」と呼ばれる、賛美歌の歌詞や祈りの言葉です。原著である「Die Losungen」に掲載されていますが、残念ながら日本語版は割愛しています。今日の第3のテキストは、ドイツの賛美歌作家である、マリア・ルイーゼ・トゥアマイアーさんによる賛美歌の歌詞の一節でした。その一文がとても印象深かったので、ご紹介します。
 
Aus vielen Körnern ist ein Brot geworden
(たくさんの穀物から、ひとつのパンになった)
 
私は、この言葉に感銘を受けました。別に突飛なことを言っているわけではありません。ただ、ひとつのパンがあらゆる穀物がたくさんに含まれて焼かれることで完成する。純粋な小麦粉一種類だけでつくられるのではなく、味わいも組成も違う者同士が、ひとつのものとされていく。そこに多様性と統一性の絶妙なマッチングのようなものを私は感じたのです。
 
今日のふたつの聖書の言葉から「東西南北から」というイメージを私たちは持つことができます。あらゆるところから、あらゆる人々がひと所に集められる。そのような人々を集めてくださった神が、そういう人たちのために宴会を催してくださる。そこで、飲んで食べることで皆が喜び楽しむさまこそ、神の御国、天の国の喜びなのだと。
 
私たちは、言語や人種、民族、信仰、またさまざまな属性によって「分けたがる」存在なのだと思います。そのほうが分かりやすいからです。しかし、分けることによって、そこに神の愛が注がれなくなってしまうような分断や排除がもし起きてしまうならば、その分類に幸福を見い出すことは決してできないでしょう。
 
しかし、あらゆる穀物、雑穀もひとつのパンにまとめられて、互いの味わいが生かされながら、食卓にのぼるときに、そこには食卓を囲む者の大きな喜びがあふれる。これが神の願われる世界なのだと。そのように私は受け止めることができました。そのために、福音という私たちにとってのグッドニュースが、豊かに私たちのうちに広がりゆくことを心から願いたい。そんな思いにさせられました。
 
どうぞ今日の一日が、今日から始まるウィークデイの日々がそんな喜びに満たされますように。心からお祈りいたします。

14/05/2023

2023.5.14(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ダニエル書6章23節
ダニエルは言った。
私の神が御使いを遣わしてライオンの口を塞いでくださったので、ライオンは私に危害を加えませんでした。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書10章27~28節
イエスは言われる。
私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。また、彼らを私の手から奪う者はいない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活36日目を迎えました。
 
皆さん、おはようございます。イースター後5回目の日曜日を迎えました。主イエスの復活の日々も終わりを告げようとしています。イエスの復活によって、安心を得た弟子たちにとって、再びイエスとの別れを経験しなければなりません。実はそうではないのですが、弟子たちとっては、聖霊が降るペンテコステの時まで「主がいつまでも私たちとともにおられる」ことを、心から理解することはなかなかできなかったことでしょう。しかし、神、そしてイエスは常日頃から、私があなたがたから決して離れることはないと、何度も何度も約束されておられました。それが、まさに本日私たちに与えられた聖書の言葉そのものであると言えるでしょう。
 
檻の中のライオンに今や襲われかねない預言者ダニエル。しかしそのダニエルが無傷でいられたのは、神がダニエルとともにいてくださり、ダニエルの命を守られたからでした。このことを通して、バビロニアの王であるネブカドネツァルはダニエルの神を大いにたたえます。異教の神を信じる王ですら、神がご自分の民をしっかりと守られることに驚嘆し、ほめたたえずにはいられなかった。とことん命を守られる神の姿に、私たちはその言葉を通して接することができるというのです。
 
そして、その神の思いはイエスに引き継がれます。イエスは言います。良い羊飼いとして羊をとことん守り抜くその姿勢というものを、弟子たちに告げられました。羊はいつ狼などの外敵に襲われてもおかしくない状況のなかで、ただ羊飼いの導きによって平安に暮らすことのできる存在です。その羊を弟子たちにたとえられたイエスは、外敵から奪われることはないのだと、弟子たちに告げられたのです。
 
そして、羊は、羊飼いの声を聴き分けるとあります。私たちもまた、どこに神の声があるのかを、聴き分けることがイエスによって可能にさせられると、イエスご自身が語りかけてくださいます。神の声を聴き分けるのも、私たちの能力いかんによってではなく、イエスがご自分の言葉と行いを私たちに示されることによって、私たちが聴き分けることができるように整えてくださいます。それが、神の言葉である聖書と、聖霊の導きによって明らかにされるというのです。
 
イエスの昇天を目前に控える弟子たちを前にして、イエスは弁護者たる聖霊の助けを弟子たちに告げられました。そして、やがてその聖霊の助けを十分に受けた弟子たちは、究極の羊飼いであるイエスの声をしっかりと聴き分けることができるよう導かれました。私たちもまた、その声に導かれながら、新しい日々を主と共に歩むことが大いに許されているのです。
 
主の日でそのメッセージを私たちは聴くことができます。どうか世界中で行われる主の日の礼拝というセレブレーションが、主とともに、私たちとともにありますように。そして新しい一週間を迎えることができますように。心よりお祈りいたします。

13/05/2023

2023.5.13(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書15章20節
私があなたと共にいてあなたを救い
助け出す――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙4章16節
それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活35日目を迎えました。
 
ローズンゲン黙想をお届けするのが、夜の時間となってしまいました。日付が変わって間もなく、去る4月16日に病床洗礼を受けられた方の呼吸が浅くなったとのご連絡を受け、40kmほど離れた病院へ向かいました。その後、神様の御許へ召されたことを確認して、枕元の祈りをご家族の方々とともにささげ、御身体を葬儀社さんへ移動したのち、葬儀の打合せ、そして納棺の祈りを済ませて、自宅へ戻りました。少し睡眠をとって、夜の時刻になって、あらためてローズンゲンに示された聖書の言葉に目を傾けることができた次第です。
 
牧師という仕事をしていていつも思わされることですが、人生のターミナル期に立ち会い、その人の人生に神がともなってくださったことを実感し、そのことを葬儀等の儀式を通して、ご遺族の皆さんとともにそのことを味わう。人の死というものに携わり、葬儀を執行する立場にある者として、とても尊い務めをいただいていることを思わされます。
 
そういうなかで、今日与えられた聖書の言葉は、まさにそのような思いに至る一切を与えてくださる神の憐れみというものを、感じずにはいられない。そんなことを心から実感することのできる聖書の言葉であることを強く思わされます。神が私たちひとりひとりの命を与え、そして助け出し救い出す。そんな神の思いというものを、地上での人生を振り返るなかで感じ取っていきたい。これから葬儀の準備をする者として、そんなことを中心に置いていきたいと願わされました。
 
今日は、本当に短めな私自身の黙想をお届けするだけですが、皆さんの生活のなかでも同じ思いが神から与えられることを信じ、願いつつ、夜のひとときの時間を持ちたいと思います。どうぞ皆さんの夜に、そして主日への備えが、祝福されたものでありますように。心よりお祈りいたします。

12/05/2023

2023.5.12(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章9節
彼らは泣きながら帰って来る。
私は彼らを慰めながら導き
水の流れに沿って行かせる。
まっすぐな道で、つまずくことはない。
私はイスラエルの父であるからだ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章22節
あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活34日目を迎えました。
 
私は彼らを慰めながら導く。預言者エレミヤによって語られた神の言葉が、今日の旧約聖書の選ばれた聖句です。自業自得的な苦しみの末、神のもとに泣きながら帰ろうとするイスラエルの民に対して、神は彼らを慰めるというのです。
 
この聖書の言葉を読んでいますと、脚注に驚くべきことが記されていました。この「慰めながら」という言葉はギリシア語訳旧約聖書の訳であり、原語であるヘブライ語では「哀願して」と書かれていたのです。哀願するとは「相手の情に訴えて切に願うこと。嘆願。」(広辞苑)と記されています。
 
神の民が神に哀願するならばわかるのです。しかし、神がイスラエルの民に哀願しながら導くとは、えっ?逆じゃない?と私は思ったのです。実際にイスラエルの民は苦しんだ末に、神にもとに泣きながら帰ると言っているわけですがら。
 
仮に、哀願してという言葉を生かすならば、苦しみを経験した末、神のもとに変えるイスラエルの民たちに対して、この道(つまずくことのない、まっすぐな道)を歩んで欲しいと、嘆願する神がおられるというイメージです。神が人にこうして欲しいと願い出る。これが神からの命令ではなく、嘆願である。神が与える慰めとは、私たちへの神の願いが非常に深いところからあふれ出るといった類のものなのだと、私は「哀願する」のひと言から黙想させられました。
 
神が人に対してこれほどまでに低姿勢で迫り来るというイメージを、私はどのように受け止めることができるのだろうか。それは、イエスが最も低いところの極みにまで自分を追いやって、十字架上の犠牲に立たれた。そして、私たち一人ひとりに対して、神とつながる道というものを示された。そこに相通じるものであると思ったのです。それが結果として、復活の主であるイエスに出会うという喜びにへと、私たちは神に慰められながら、導かれているのだと。イエスの負われた苦しみは、私たち一人ひとりの苦しみなのだと。その苦しみに、イエスが私たちに願われる。救いという喜びを携えて。
 
どうか、今日の一日もまた、神の私たちに対する哀願ゆえに、私たちが喜びの時を過ごすことができるのを望みつつ、過ごすことができますように。お祈りいたします。

11/05/2023

2023.5.11(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書65章8節
主はこう言われる。「ぶどうの房に発酵しかけの果汁があるのを見たらそれは潰すな、そこには祝福があるのだから」と人は言う。そのように、私は私の僕たちのためにそのすべては滅ぼさない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章17節
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活33日目を迎えました。
来週の木曜日には、いよいよ「昇天日(キリスト昇天祭)」を迎えます。イエスが40日間にわたる復活の日々を終え、天へと向かわれることを記念する時が昇天祭ですが、日本ではこの日を祝うことがなかなかありません。私がかつて住んでいたドイツの地域教会では、この日に野外礼拝を行っていました。空を見上げながら礼拝をするという、とても新鮮な経験をしたものでした。もっとも、ドイツではこの日は祝日となりますので、そのような礼拝が祝日のイベントとして行うことができるのですが。。。復活から昇天へ向かうイエスに思いを抱きながら、今日の聖書の言葉をいただきたいと思います。
 
今日の聖書の言葉を読んで思ったことは、「腐りかけた果実をつぶさない神」の存在についてです。昔のテレビドラマで「腐ったみかん」という言葉が出てきたのを思い出しました。腐ったみかんを箱の中にあると、そのみかんから他のみかんにまで影響を与えて腐らせてしまうことから、そのようなみかんは取り除かなければならない。いわゆる学園ドラマで登場したこの言葉は、学校にとって足手まといになる不良たちを排除することで、学校は良くなるのだという論理で用いられていました。
 
私たちの世界にもあります。悪影響をもたらすような存在をつぶし、排除することで、良い世界をつくり上げるという考え方です。実際、そのようにしなければ良い状態を保ち続けるのは難しいという現実もあります。悪がはびこっていく姿を、私たちは見過ごすことはできない。だから悪を排除すれば良いのだと。なんとも分かりやすい話です。
 
しかし、今日の旧約聖書の言葉には、発酵しかけのぶどうを潰してはならないという、主なる神の言葉があります。そして神はこう言われるのです。そこには祝福があるのだからと。
 
私は、この言葉を目にして思わされたことがあります。私たちにとって排除すべき悪とは何なのかと。その時に、私たちにとって排除したくなる存在を、神はどのようにご覧になられているだろうかという視点を、果たして大切にしているだろうか。そのように思ったのです。もちろん、悪という存在に対して、私たちは神の視点に立って毅然とする態度というものを大切にしなければならないと私は思います。しかし、そのような存在にも神の愛や祝福というものが注がれようとしている事実を、私は果たして受け止めているだろうか。そんなことを問わされたのです。
 
発酵しかけの果汁をもったぶどうにこそ、祝福があるのだ。この神の言葉を、私の感情であるとか好み、経験やトラウマという視点で握りつぶして、排除してしまってはいないだろうか。そんなことを思わされたのです。
 
そこで、今日の新約聖書の言葉が私たちに更なる理解を与えます。神が御子であり救い主であるイエスをこの世に遣わされたのは、私たちを滅ぼす(潰す)ためではなく、イエスによって世界が救われるためであると。まさに復活の主イエスは私たちを罪人だから潰すというのではなく、まさにご自分の命をもって私たちを救うために来られたのだと。
 
無為に潰すのではなく活かすために。この思いを大切にして一日を歩みたいと願わされました。私たちは活かされているという喜びを味わうことができる。その喜びを胸にしたいと思います。皆さんの一日が主にあって活き活きとされたものでありますように。お祈りいたします。

10/05/2023

2023.5.10(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書50章2節
私の手は短すぎて、贖い出すことができず
私には救い出す力がないと言うのか。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書8章2節
規定の病を患っている人が近寄り、イエスの前でひれ伏して、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活32日目を迎えました。
 
今日選ばれた旧約聖書の言葉は、主なる神に不平不満をもらす民に対する神の返答の言葉です。民たちは、神には何の力も無い、救いの手すら差し伸べてくれない。そのように不平をこぼします。
 
私たちが本当に助けてほしいと神に願い出ても、自分の思うようにいかない時というのは、神に助けを求めたことがある人ならば誰もが経験していることなのではないかと私は思います。かく言う私自身も、ここぞ神に助けて欲しいと思う時に限って、なかなか答えが与えられないと、悲しくなることが今までも何度もありました。さすがに、こんな神など効き目がない!と、神を投げ捨ててしまうようなことは無かったのですが、神に不平不満をこぼしたことは数えきれないほどあります。だから、今日の旧約聖書の言葉にあるような神に不満を向ける民たちの気持ちというものが、分からないでもないのです。
 
しかし、そんな民に神は答えます。私には救い出す力がないと言うのか、と。神のこの問いかけは、いや、そんなことはない。私はあなた方を必ず救い出す力がある。その手を十分に差し伸べて、あなたがたを救うと約束し続けてくださるのだと。
 
私たちは、神の言葉のなかで繰り返し語られる救いの約束というものを、どのように受け止めたら良いのでしょうか。自分の願望というものを、神はすべて聞かれるわけではありません。私の願いというものが独善的で、利己的な者であった場合、そのような願いを神は聞かれることはないでしょう。そのことに対して、もし私たちが不平不満をもらしているのであれば、それはとても神が救いの約束を私たちに向けられたとしても、私たちはいとも簡単にそれを投げ捨ててしまう。とても空しいものに映ることでしょう。
 
だからこそ、神は私たちひとりひとりにとってベストなことを、私たちの思いにかかわらず必ず与えてくださる方であることを、私たちは希望をもってとらえ続けていくことを、大切にしていきたい。そんなことを改めて思わされます。今日の新約聖書の言葉が物語るメッセージは、主がお望みならば、私の病は癒されますという、私の気持ちというものが前面にあふれ出た願いというものを、病を負った方がイエスに向けていることが分かります。
 
主よ、お望みならば。ここに、病を癒して欲しいと願う人が、神のなさること、つまりその御心というものにすべてを委ねていることが分かります。究極的に、この人は神の御心というものがどこにあるか、この時点では何も分からなかったでしょう。しかし、神様、あなたならば、この私に対してあなたがベストと思われることを示してくださる。だから、病を癒して欲しいという願いの言葉よりも、「主よ、お望みならば」という言葉のほうが、大切なのではないか。私はそのように思ったのです。
 
主よ、御心ならば。この言葉に希望をもちながら、神に助けていただくことに私の望みを抱き、そして神に委ねつつ、今日の一日を歩みたいと願わされました。どうか、神の御心が今日の一日もこの世界に豊かにあふれ、平和に満ちあふれた時となりますように。お祈りいたします。

09/05/2023

2023.5.9(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ダニエル書2章44節
天の神は永遠に滅ぼされることのない王国を興されます。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章29~30節
イエスは弟子たちに言われた。
私の父が私に王権を委ねてくださったように、私もあなたがたにそれを委ねる。こうして、あなたがたは、私の国で食卓に着いて食事を共にする。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活31日目を迎えました。
今年のイースターが4月9日でしたので、今日で1か月が経ったことになります。振り返ればあっという間のひと月であったことを思いますし、あっという間でありながらも、まさに充実した日々であったことを想い起こせる。本当に感謝なことだなと思わされました。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉はいずれも、神の御国について述べられたものですが、永遠に滅びることのない神の建てられた国を、救い主イエスは弟子たちにお与えになられ、その弟子たちとともに、イエスは食卓を囲まれる。そんなイメージを呼び起こす言葉であると受け止めました。
 
神の国は飲み食いを通して喜び楽しむ場である。これがイエスによる「神の国」のイメージであったことは、イエスによる神の国についてのたとえ話などから明らかです。気の合う者同士が食卓を囲むということが、いかに私たちに喜びというものを与えるかという経験を、私たちは多少なりとも経験していると思うのです。
 
私も昨晩、神学校時代の恩師のひとりであり、現在は仙台在住の先生ご夫妻との楽しい食卓を囲むことができました。私のみならず、お友達を連れてきていいよと言われましたので、教会の若いメンバーを連れて、そのメンバーは初対面ながらも、本当に楽しいひと時を過ごすことができました。おいしいお料理に飲み物を囲みながら、さまざまな話題に花が咲きました。そして、その話題を通して新しい発見を得ることも多く、私は「これぞ御国の喜びだ!」といったことを実感したのでした。
 
イエスを中心とした食卓の交わり。そんな喜びを実際に日々の生活のなかで味わうことが可能なのだと。神の御国はやがて来る神の永遠の統治であるという視点だけではなく、すでに私たちの日常のあらゆる場に、イエスが中心として立たれるところであるならば、心から実感できるものなのだということを思うのです。イエスはこうして、神の御国の完成に向けて、私たちとともに歩んでくださる。その途上に生かされている私たちが、神の御国を今日も実感することができるのを希望しながら、一日の営みを踏んでいきたい。そのように思わされました。
 
皆さんの一日のただなかにも、神の御国が豊かにあることを実感できるような機会を、神様が豊かに与えてくださいますように。心からお祈りいたします。

08/05/2023

2023.5.8(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記3章14節
神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章31節
神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活30日目を迎えました。昨日から降り続いている雨は大雨となり、豪雨となっているようです。宮城県内でもこの大雨によって暴風警報が出ているところがありました。少しでも災害を免れることができますよう、祈りたいと思います。
 
昨日は教会役員会後に、3週間前に病床洗礼を授けた方が入院しておられる病院へ向かい、病床聖餐を行うことができました。洗礼を行った日に聖餐を行うことが出来なかったのが心残りでしたので、教会でも聖餐礼拝のあった同じ日に、朝の礼拝で用いたパンとぶどう液を用いて聖餐をおこなうことができたのは、とても感慨深いものでした。随分衰弱されておられましたが、かすかに声を出されたり、うなずくなどの反応が明らかにありましたので、本当に良かったなと思っています(すでに飲食ができなくなってしますので、口元にぶどう液をしみこませたパンを近づけ、お食い初めのようにチョンチョンと唇につけました)。
 
さて、私たちに与えられた今日の御言葉は、まさに神がどのような御方であるかを、とてもシンプルなひと言で表現しているものなのだと。「私はいる」という神の名は、私たちに大きな安心を与えるものなのだと。私はそのように感じたのです。
 
長く「私は『ある』」という日本語に訳され続けていた聖書の言葉です。「ある」にしても「いる」にしても、存在を表す動詞の日本語訳ですから間違ってはいません。ただ「私は『ある』」という日本語訳に、私は何となく不自然さを感じ続けていました。ですから、新しい聖書(聖書協会共同訳)になって、「私はいる」という日本語訳に、分かりやすさというものをより感じられるようになった。私はそのように思っています。
 
私は神で「あり」、あなたがたと共に「いる」ゆえに、あなたがたの神と「なる」。
 
「ある」「いる」「なる」は、神のお名前に込められたすべての意味であると。その名前をもった神が、私たちひとりひとりに生きる命を与えられ、しっかりと守られ、こうして私たちの「味方」となってくださる。まさに、本日の新約聖書の言葉に示された「私たちの『味方』である神」に相通じるのだと。そのように受け止めたいのです。
 
さまざまな不安のなかにあっても、苦痛のなかにあったとしても、私たちの神となってくださる方が、何を私たちに与えらえるのか。そんなことを思いにとどめながら、一日を営んでまいりたいと思います。さまざまな方の苦しみに神が親しく臨んでくださることを祈りつつ。皆さんの一日に、ともにおられる神の守りと平安がありますように。お祈りいたします。

07/05/2023

2023.5.7(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言25章21~22節
あなたを憎む者が飢えているならパンを食べさせ
渇いているなら水を飲ませよ。
こうしてあなたは彼の頭に炭火を積み
主はあなたに報いてくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書6章35節
あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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※私の手違いで、5月7日(日)の黙想を削除してしまいました。大変申し訳ありません。

06/05/2023

2023.5.6(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編18編7節
苦悩の中から主に呼びかけ
わが神に叫びを上げると
主はその宮から私の声を聞いた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書4章38節
イエス自身は、艫の方で枕をして眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活28日目を迎えました。
 
ゴールデンウィークの日々が好天に恵まれつつも、昨日は石川県でとても大きな地震が起きたことが大変気になりました。引き続く揺れに不安を抱えておられるすべての方々に、少しでも慰めと安心が神から与えられることを、ただただ祈るばかりです。
 
根底から揺さぶられることによって、不安や恐れを感じない人はひとりもいないと私は思います。たとえ信仰を抱いていてもです。私は、今日の新約聖書の言葉に出会ったときに、そのことを改めて感じさせられました。舟の上で弟子たちはうろたえました。そしてイエスは訴えました「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と。
 
私はこの言葉に聴くときに、この弟子たちの叫びを「不信仰なひと言」と取るのか、それとも「主に向かう純真な思い」と取るかで、この聖句に対する印象というものがガラリと変わって来るのではないか。そう思ったのです。誤解を恐れず申し上げれば、どちらも正解なのでしょう。しかし、弟子たちの叫びを私たちは決してネガティヴなものとして受け止めなくても良いのだと思います。自分の不安をもって主に叫びの声をあげることで、主に頼り、自分自身を委ねようとする思いが明らかにされるからです。
 
私たちは、この思いを大切にしたいと思いました。いくらでも恐れることがあっても良い。大切なのは、恐れたときにどうすることで、自分自身を保ち、少しでも平安な思いをもって生きることができるかということなのだと、私は今日の聖書の言葉を通して、そのような大いに導かれたいと思いました。
 
地震の揺れに不安を抱かれるかの地の皆さんに、少しでも慰めがありますように。恐れから解放されることを心より祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの新しい一日にも、私たちの叫びを聞いてくださる方からの守りが豊かにありますように。お祈りいたします。

05/05/2023

2023.5.5(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書3章9節
私はこの地の過ちを一日のうちに取り除く。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章2節
(イエス・キリストは)私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活27日目を迎えました。
 
昨日は、GRC(Grobal Returnees Conference)23でカルトのお話をしたのち、夕方には無事に日本基督教団東北教区総会の会場となる山形学院高校へ到着、ゆっくりと休んで朝を迎えました。体調も万全です。今日一日、会議に臨んでまいりたいと思います。
 
さて、昨日のコンファレンスで行われた分科会で、私はカルトについてのお話をさせてもらったわけですが、今回は対象者がクリスチャンでしたので、割にいわゆる「キリスト教用語」を用いていきながら、お話を進めてまいりました。そのなかで、私はこういう言い方をしました。「カルト問題は、神の御国が来るその時まで、無くなることはない」と。
 
なぜ無くならないのか。私はこのように説明しました。カルト問題というのは、人が人をゆがんだ形で支配しようとするところから起きてきます。つまり、神の健全なご支配がないがしろにされるからこそカルトがあるのであって、それは私たちの「罪(神に背を向けること)」と抜き差しならぬ関係にあるということを、私たちは認識している必要があります。つまり、罪が根本的になくならない限り、カルト問題は私たちのただなかに生き残り続けるのです。と。
 
だからこそ、私たちならば誰でも有している罪の問題=カルトなるものを多少なりとも有している問題について、その罪を贖ってくださる方の存在がどうしても必要であって、その方が私たちのさまざまな思いを超えて、私たちの中心に立ってくださることこそ、カルト化の道を少しでも抑制するための鍵となるのだと。私はそのように話をしました。まさに、本日のローズンゲンの言葉が指し示している通りなのだと、私は信じてやまないのです。究極的に、私たちの世の中に渦巻くカルトの問題を解決させてくださるのは、救い主イエスご本人に他ならないのだと私は心から信じたいのです。
 
イエスが、神と私たちとのあいだを結ぶ「宥め(なだめ)」となってくださった。なだめは凍てついた心を溶かし、潤いと温かさを与えてくださる。そういう存在としてイエスが私たちのあいだに立ってくださることを感謝しつつ、一日を過ごしてまいりたいと願います。どうぞ皆さんの一切にも、そのような神の助けと守りが豊かにありますように。お祈りいたします。

04/05/2023

2023.5.4(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編119編172節
私の舌はあなたの仰せを歌います。あなたの戒めはすべて正しい。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙1章12節
私は福音を恥としません。信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活26日目を迎えました。
 
今日から明日にかけて、私が所属する日本基督教団東北教区定期総会が、山形学院高校を会場に開催されます。しかし、総会日程が決まる前から、山梨・河口湖で開催される「GRC(Global Returnees Conference)23」という帰国者クリスチャンの集会で、カルトについての講演をすることになっています。仙台→河口湖→山形という移動中心の一日となりますが、ひとつひとつに心を込めて一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんにとってのゴールデンウィークの一日が、祝福のうちにありますように。お祈りいたします。
 
さて、本日の旧約聖書には「あなたの戒めはすべて正しい」という一文があります。ここで言う「戒め」とはいったい何か。そのことに注目してみたいと思いました。私たちは「戒め」という言葉にどんなイメージを抱いているか。それは「戒律」というイメージであるかもしれません。戒律と言えばとても厳しいといったイメージです。神の与える戒めとは、厳しさを与えるものなのだろうか。そんなことを考えるかもしれません。確かに厳しさというものがあるかもしれませんが、厳しいか厳しくないかを考える前に、そもそもここで言っている戒めとは何かということに注目したいのです。
 
結論から言えば、神が与える戒めとは、それすなわち「神が与え、注いでくださる愛を、私たちの中心とせよ!」という戒めであり、この戒めがあってこそ、神の正しさというものが私たちの世界にあまねく広がりゆくことを、神は期待しておられるということに尽きると私は考えています。その愛に生きる。確かに私たちにとっては厳しいことであるかもしれません。しかし、神はご自分の愛を通して私たちを大切に守り続けてくださる。そのことを私たちが心底から理解するならば、この世の中は平和な世界になるに違いない。私はそのことを心から望みたいと思っています。
 
決して、世間一般に言われている戒律というものと訳が違うのだと受け止めたいのです。そのことを、後にキリストの弟子となり宣教者となったパウロは「福音」という言葉を用いて表現しています。私たちに幸福をもたらす音声・知らせこそ福音であり、福音とは神による愛のチカラがあふれんばかりに込められている。まさに神がご自分の正しさをもって示される愛そのものに他ならないのだ。その愛の言葉が今日も私たちに与えられて、私たちの内に働き、私たちもまた神の愛に生きることができるのだと。そのことを心からこいねがう者でありたいと願わされました。
 
キリストを通して働く神の愛が、今日も私たちのあいだに、私のうちに、豊かに働きますように。そのことを願いつつ、心からお祈りいたします。

03/05/2023

2023.5.3(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
レビ記19章2節
あなたがたの神、主である私が聖なる者だからである。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章12節
キリストに以前から希望を抱いている私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活25日目を迎えました。
 
今日から本格的なゴールデンウィークが始まります。そして、今日は憲法記念日であり、ローズンゲンが発足した記念日(1728年)でもあります。いろいろな節目を感じる一日に、私たちは神のもとに生かされている者として何を想いながら、今日のひと時を過ごすことができるだろうか。朝起きて、ローズンゲンの言葉をいただいて、そんなことを思わされました。皆さんそれぞれのご予定の一切に、神様による守りと祝福をお祈りいたします。
 
今日の旧約聖書の言葉であるレビ記19章2節では、神が聖なる御方であることが述べられています。神が聖なる御方であるがゆえに、私たちもその聖性というものによって生かされる者であるということが示されているわけです。そのなかで「私が聖なる者と『なる』」ということに、改めて考えさせられます。
 
私たちが「きよい(清い・潔い・聖い・浄い)」ということを考えるときに、一般的には私たちの言動によって示されることが多くあるわけです。手を洗うこととか、口汚い言葉を発さないとか、誰からも後ろ指をさされない生活を営むとか、私たちはいわゆるきよい生活を自分の意志によってそれを実現する、そういうことが道徳的に勧められていることが、世の中には多くあるわけです。
 
しかし、私たちはどんなに清廉潔白に、清く正しく美しく生きようとしても、究極的には100%そうなることができない自分自身というものに気づかされるのではないかと、私自身も己を振り返るときに、痛感させられることが多くあるわけです。もちろんきよく生きることは大切だと私も思います。しかし、自分自身の能力や努力には限界があることも事実なわけです。
 
だからこそ、私たちの前に「聖なる御方」がおられるというのは、私たちにとっての大きな安心であり、慰めであり励みである。そんな風に私はあらためて思わされました。神が聖なる方であられるがゆえに、私たちにご自分の聖というものを示してくださる神が私たちの生活のすべてを支え、ご自分の言葉と聖霊の助けによって、私たち自身が整われて生きることができるのだと。私たちの限界というものをすべてご存知なうえで、神御自身が、ご自分の聖を明らかにしてくださり、私たちひとりひとりと共に生きてくださるのだと。
 
私自身、決してきよさというものから遠く離された者であることを思います。しかし、きよい者でありたい、きよく生きたいというあこがれというか、願いみたいなものがあることも事実ですし、そこに自分自身の生きる希望のようなものも抱きながら、与えられた日々を歩む者でありたい。そんなことを思わされています。
 
だからこそ、自ら聖であると宣言されている父なる神、その神の聖性というものを私たちの前でご自分の言葉と行いをもって示された救い主イエス、そして父なる神とイエスが私たちを助けるために与えてくださった聖霊なる神の助けというものを今日も存分にいただきたいと願います。
 
皆さんの一日に、そしてゴールデンウィークの日々に、神様の豊かな守りと祝福がありますように。お祈りいたします。

02/05/2023

2023.5.2(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌下30章18~19節
恵み深い主よ、彼らをお赦しください。(彼らは)心を定めて神を、先祖の神、主を求めたのです。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書2章17節
イエスは言われた。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活24日目を迎えました。
 
昨日は、私が2018年より担当していた、日本CGNTV『リビングライフ』の最後の収録のため、東京へ出かけました。途中1年のブランクがありましたので都合4年間、毎月御言葉の取り次ぎを通して、御言葉を真ん中にした多くの方々との交わりをいただくことができました。この仕事を通して多くの出会いが与えられ、特に日本CGNTVの皆さんには大変お世話になりました。多くの職員が最後に労ってくださり、祈りのときをもってくださいました。心から感謝のひとときを過ごすことができました(写真:日本CGNTVスタッフの方々と)。
 
さて、今日の新約聖書の言葉は、イエスによって語られた有名なことばです。人々が医者を必要とするように、私たちも自分の足らざるところを補い、傷を癒し、健康に向かわせてくださる方を必要とする。その方とは、罪人をご自分のもとに招いてくださるイエスご本人であると、弟子たちに告げられました。
 
罪人とは、本来向かうべき方向に定まらない「的外れ」な人という意味があります。向かうべき方向とは、正しい御方である神であり、神が注いでくださるご自分の愛を、うまくキャッチできない私たちの姿が、私たち自身を「罪人」にさせるというのが、聖書が与える罪、そして罪人に対する理解です。決して、いわゆる「犯罪人」のことだけを指すわけではありません。神が注いでくださる愛が通い合わない状態であり、つまり「ゆがみ」の産物であることなのです。
 
正しい人が陽の目をみることは明白でしょう。しかし、イエスの関心は愛の通い合わないゆがんだ環境にあえてその足を踏み入れてくださり、そのなかでもがき苦しんでいる私たちに癒しを与え、神に向き合うことのできる道を提供してくださるところにあります。ある意味で言えば、そのことにしか関心を持たれないのがイエスであると言っても過言ではないと私は思います。それが、イエスのこの世界に来られた目的に他なりません。
 
そういうなかで、私たちの生活のただなかに、神の愛というものが豊かに働く時に、私たちは人と人とのあいだで、神と人のつながりを感じながら、平和に歩めるように導かれている。そんなことを信じたいのです。そのために、今日も御言葉が与えられていることをじっくりと黙想しながら、感謝な思いへと導かれてまいりたいと願わされました。
 
今日も皆さんの一日に、神様の豊かな愛が注がれることによって、神の招きに応える喜びを味わうことができますように。お祈りいたします。