24/08/2023

皆さまへのお知らせ


いつも、ローズンゲン黙想をご愛読くださり、まことにありがとうございます。
私事ですが、本日より9月1日(金)まで、夏季休暇の時をいただきます。それにともない、黙想も明日(25日)より9月1日(金)までお休みさせていただきたく思います
次回は9月2日(土)より、ローズンゲン黙想を再開したいと思います。なにとぞご理解くださいますよう、よろしくお願いいたします。
それでは、主にあって、よき残暑の日々をお過ごしくださいませ。

2023.8.24(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書49章3節
主は私に言われた。
「あなたは私の僕、イスラエル。
 私はあなたの中で私の栄光を現す。」

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録10章36節
神は、イエス・キリストを通して御言葉をイスラエルの子らに送り、平和を告げ知らせてくださいました。このイエス・キリストこそ、すべての人の主です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日の旧約聖書のなかで「あなたは私の僕」という言葉に目が留まりました。神は私たちを僕としてくださる、つまり神に仕える者とすると私は読みました。であるとすれば、その僕とはいったいどのような存在なのだろうか。そんなことを考えさせられたのです。
 
僕といっても、強制労働を強いるような主人の僕なのでしょうか。だとすれば、それはとんでもない僕になるということで、神は私たちにそんなことを求めたくて、ご自分の僕とさせるはずはない。そういう頭が働いてしまいます。それで、聖書の言葉に目を移すと、そうではないことにあらためて気づかされます。「私はあなたの中で私の栄光を現す」と、神は私たちに語りかけられるからです。
 
つまり、神はご自分の光を、私たちが生きるために現してくださるというのです。ご自分が神であるということを明らかにするために、ご自分の栄光を現すのですが、それは私たちの行くべき道を示すためにも、その光をあふれんばかりに照らしてくださる。私たちに光を当ててくださり、闇のなかで生き続けなくても良いのだということを、神御自身が示してくださるのです。
 
神は、その栄光をさらに具体化されました。それが、救い主であるイエス・キリストであって、キリストを通して明らかに、より具体的にされた神の御言葉は、平和という方向へと私たちを揺り動かし、導いてくださるというのが、今日の新約聖書において示されたメッセージであると私は受け止めました。
 
イエス・キリストこそ、私たちの主であり、私たちはそのなかで生きることが大切に守られている僕なのだと。その関係性には平和があることを、今日の聖書の言葉は私に希望のうちに教え諭してくださるのだと、受け止めたいと思いました。
 
私たちが神の民として歩むことの幸いを、今日一日味わうことができますように。皆さんの主にある平和を、心からお祈りいたします。
 
【皆さまへのお知らせ】
いつも、ローズンゲン黙想をご愛読くださり、まことにありがとうございます。
私事ですが、本日より9月1日(金)まで、夏季休暇の時をいただきます。それにともない、黙想も明日(25日)より9月1日(金)までお休みさせていただきたく思います
次回は9月2日(土)より、ローズンゲン黙想を再開したいと思います。なにとぞご理解くださいますよう、よろしくお願いいたします。
それでは、主にあって、よき残暑の日々をお過ごしくださいませ。

23/08/2023

2023.8.23(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書63章7節
私は、主の慈しみと主の誉れを語ろう
主が私たちに報いてくださったすべてのことのゆえに。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章3節
あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わったはずです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日選ばれた聖書の言葉で、私が興味をひいたのは「味わう」という一語でした。どこまで食いしん坊なのかと、自分自身にあきれ返ってしまうわけですが、それでも、味わうという言葉に神の恵みというものを具体的に感じ、また表現するのにこれほど良い言葉は無いと思わされたわけです。
 
味わうことを考えたときに、私たちは味覚と嗅覚、そして触り心地や口のなかで食感を楽しみ、視覚を通してその食べ物の様子を知ることで、いわゆる五感をフル活用しながらそれを楽しんでいることがわかります。そのなかで、味覚だけを取り上げれば、甘味・酸味・苦味・塩味・うまみという「基本五味」に加えて、最近では脂味・こく味・渋味・辛味などさまざまな味覚もまた認められているというのですから、とても複雑なのだと思わされます。
 
私は、神を味わうとき、まさにそれは私たちの人生におけるさまざまな経験と重ね合わせるわけですから、実に味覚に似ていると思わされたのです。甘味やうま味といったような、和私たちの心を喜ばせるものもあれば、その度がきつすぎたりすると違和感を覚えてみたり、苦味が口のなかをほと走らせる時に感じるつらさとか。
 
しかし、そういうなかでも「神の恵み深さを味わう」こともまた、神が私たちに与えてくださる大きな喜びなのだと、今日の聖書の言葉は私たちに伝えようとしています。味わうためには、えさを食むようにではなく、丁寧に確かめながら味わうという行為を、私たちは神との出会いのなかで、自分自身の生活に照らし合わせながら、与えられた御言葉と聖霊の助けによって行っていくことができるのだろうと思うのです。
 
そして、私は「この味わいは素晴らしい!」と公言できるような者でありたいと、今日の聖書の言葉からそんな思いをいただきました。味わい豊かな神との出会いの経験が、今日も私たちを豊かなものとしてくださいますように。お祈りいたします。

22/08/2023

2023.8.22(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記13章4節
あなたがたの神、主はあなたがたを試し、あなたがたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたがたの神、主を愛するかどうかを知ろうとされる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一10章13節
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
私は今日の聖書の言葉。特に新約聖書の言葉に対して、常日頃からいろいろ考えさせられることがあります。そのことを雑感として書き綴りたいと思いました。黙想にならないかもしれませんが、どうぞお許しください。
 
神は私たちに耐えられないような試練に遭わせることはないと、この手紙の筆者であるパウロは読み手に伝えました。私も経験上、そのように感じることがこれまで多々ありました。しかし、やはり「耐えられない」と思うようなことも実際にあったのです。
 
私は、この聖書の言葉を読むときに、忍耐を強いることを主訴とはしていないと感じるのです。どうしてもこの聖書の言葉を精神論的に読んでしまうきらいがある。私はそのように感じてならないのです。耐えられなければ「信仰が薄い」と簡単にレッテル貼りすることがないだろうか。もし、そんなことを強いる信仰者の世界があるとすれば、それはもはや信仰者のすることでないと言っても言い過ぎではないと思うのです。
 
そうではない。神は「逃れ道」をも設けてくださる方であると。この逃れ道とは何かと考えさせられるわけですが、私はこの言葉を、文字通り「逃げる」ことを決して否定的に捉えないということを、私たちに伝えている。そう受け止めたいのです。
 
辛かったら逃げればいい。何も我慢大会のように、その場に居続けなければ信仰が薄いなどと思う必要もない。そうし続けることで、命が危ぶまれる可能性だってあるのだから。逃げることによって、神が与えられた命を保つことこそ、神とともに歩もうとする姿なのではないか。そう感じさせられるのです。
 
聖書にも「逃げる」ことで、その逃げた場に神が働かれた出来事を、聖書からいくらでも見い出すことができます。耐えるという行為は、できる時にはすれば良いことだし、そもそも耐えるとは決して孤独の作業ではないし、他者からとやかく言われてすることでもない。神が一緒にいてくださるから、そのところに、その日を過ごすことができるし、耐えきれないと思えば、神が設けた逃れ道を使って、本当に逃げれば良いのだと私は受け止めたいのです。
 
この考えは、おそらく受け入れられないとも思うのです。逃げるのは負けというこの世の中の常識があるからです。大切なのは、逃げるか否かではなく、逃げてもとどまっても、神がともにおられるということを、私たちの心の真ん中に置くことなのだと。そんなことを今日の黙想にあたって、あらためて考えさせられました。
 
どうか今日一日も、私たちとともに歩んでくださる神の祝福と守りが、皆さんの生活にありますように。お祈りいたします。

21/08/2023

2023.8.21(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書24章7節
私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙4章3節
パウロによる手紙:
私たちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘義を語ることができますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、こんにちは。
今日はローズンゲン黙想をお届けするのが遅くなってしまいました。今朝は早くに家を出発し、明日お招きを受けている大学の教職員研修会での仕事をするために、北九州へ移動しました。今日中にこなさなければならない仕事をひと通り終えて、今遅ればせながら御言葉に聴くひと時が与えられたところです。
 
今日の旧約聖書・新約聖書を貫く、共通するテーマは「神を知る心」であると、私は受け止めました。しかも、神を知るということについては、今日の新約聖書には「秘儀」と記されています。実はこの言葉、パウロはギリシア語で書き記しているわけですが、「ミュステリオン」という言葉を用いています。英語でいうミステリーの語源となった言葉です。
 
神を知るとは、まさにミステリーだと言うのです。人間業ではなかなか理解できないことを、神は私たちのために極めて自由にされた感覚のなかで与え、行ってくださる方である。本当に不思議で、ミステリーなことを、神はご自分の御業として見せてくださるのです。
 
神が御言葉の門を開いて、私たちにもっと神の御業について語らせてくださいますようにとパウロは願い、そのパウロが私たちのために祈ってくださいと、ひとりひとりにお願いしています。
 
昨日、礼拝に出席されたある方がおっしゃっておられました。最近、検査のために入院をされました。検査ひとつ行うのも難しい御身体をお持ちということで、無事に検査が終了しておられたことを喜んでおられましたが、その検査で、早急に対処しなければならないことが分かり、神が絶妙なタイミングで私にそのことを知らせてくださったのだと、とても感慨深いものを感じられたとのことでした。今後入院をし、手術をされるとのことです。
 
私は、その話を聞いて、神が私たちにひとりひとりのために生きて働いておられるとはこういうことなのかと、改めて思わされたのです。その話をしてくださった方も、今回の出来事を通して、より神を深く知ることができるようになったと話してくださいました。神を知る思いを、神みずからが私たちに与えてくださるのだと。こんなことに喜びつつ、今週のウィークデイを過ごしていきたいと思わされ、願わされました。
 
どうぞ皆さんの日々にも、ミステリーとも思える神の御業が、豊かに祝福とともにありますように。心からお祈りいたします。

20/08/2023

2023.8.20(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記1章3節
神は言われた。「光あれ。」すると光があった。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章9節
光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にあります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。今日世界中の教会や集会でおこなわれる主の日の礼拝が、神の祝福が豊かにあふれるときとなりますように。お祈りいたします。
 
神の祝福は何によって明らかにされるか。今日のローズンゲンとして選ばれた旧約聖書の言葉、それに続く新約聖書の言葉は、それが「光」であると示しています。
 
神が「光あれ!」と叫ばれたときに、暗闇で混沌とした状態に一筋の光が照らされました。これによって秩序が生まれ、さまざまなものが分けられて、生命が誕生したというのが、聖書に描かれているはじめであり、天地創造の第一歩であると言えます。
 
光はいのちを生みだす。逆を言えば光がなければいのちが現れることはないとも言えるでしょう。私たちの心に神が光を射しこまれることで、私たちはその光に照らされながら、与えられたいのちの道というものを歩むことができるのだと。
 
そのいのちの道は、神が言われる正しさが何であるかが明らかにされることによって、あらゆる良い実を生み出し、その実は私たちにそれを見、いただくことの喜びを見いだし、そこに神の真実というものが表れる。これが、今日の新約聖書のことばであるエフェソの手紙の一節が明らかにしていることです。
 
神の創造観というものは、光といのちの抜き差しならぬ関係を明確にしていることを、私は今日の聖書の言葉を通して受け止めました。礼拝にも、神が放たれる光があふれるような、そんな時でありたいと心から願い、祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
皆さんの一日もまた、そのような光に包まれた時でありますように。心からお祈りいたします。どうぞ神である主にあって、素敵な一日をお過ごしくださいますように!

19/08/2023

2023.8.19(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書12章3節
主よ、あなたは私をご存じです。
あなたは私を見て
あなたに対する私の心を試されます。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章15節
愛をもって真理を語り、頭であるキリストへとあらゆる点で成長していくのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。今週前半はお盆休みのなか、特に西日本では台風による被害や多くの支障があったことを思います。いろいろ不便を感じられることもあったのではないかと思います。そのようななかでも、神が私たちひとりひとりを見守り続けてくださることを信じつつ、今日の御言葉に心を向けたいと思いました。
 
神である主は、私の思いや心をすべてご存知である。この言葉は、時にギョッとすることもあれば、誰も理解してくれなくても神は私の本当の姿というものをご存知なうえで、その日を生きるに必要な糧を与えてくださることもある。「知られている」というのは、そんな私の心というものが良くも悪くも探られているという思いが、私の胸に去来します。
 
誤解を恐れず申し上げれば、私はいつも神とともにあることを十全の確信を持って生きているわけではありません。時に迷い、悩み、疑いながら生きている。自分自身のことでいっぱいになってしまうがゆえに、余裕を持てないで生活することもあります。しかし、そんな私の姿を知っておられる神がおられて、決して見捨てない。このことに深い慰めを得ながら、励ましをいただきながら、今日という日に希望をもって生きることができる。これが信仰の醍醐味なのだと思わされることも確かです。
 
今日の新約聖書の言葉で、キリストの愛が私たちをかたちづくり、成長へと向かわせるのだということが述べられています。愛によって人間が形成されて、この形成されているという事実を受け止めることで、人生の日々が豊かにさせられる。この豊かさをしっかりと握りしめながら、一週間の7日目を歩み、明日の主の日へと向かいたいと思わされました。
 
皆さんの一日もまた、すべてをご存知である主なる神が与えてくださる希望が、豊かさへと変えられていくような時でありますように。お祈りいたします。

18/08/2023

2023.8.18(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編119編2節
幸いな者、主の定めに従う人
心を尽くして主を尋ね求める人は。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章19節
これらの最も小さな戒めを一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれる。しかし、これを守り、また、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
先日「法と掟と戒め」という言葉を、旧約聖書から見つけました。これらが並記されており、それを総称して「律法」と呼ぶことができるのだということを改めて知らされました。
 
では、法と掟と戒めには何か違いがあるのだろうか。戒めとは命令のことを指し、掟とは私たちに与えられた役割や責任、法とは裁きを本来意味するのだそうです。つまり、私たちが律法を通して、神から与えられた命令を、自分自身に与えられた果たすべき役割や責任ととらえ、それを無視したりないがしろにすることによって、自分自身の生き方が診断され、判断されていくのだという風に受け止めました。
 
いずれにしても、律法というものを私たちがどのように受け取り、受け止め、自分自身のものにすることができるのか。そんなことを想いつつ、今日選ばれた聖書の言葉に心を傾けていきたいと思いました。
 
では、ここで言う律法とは何なのか。イエスは律法の完成者としてこの世に来られ、私たちに律法の真髄というものを伝え、教えられました。そして、イエスは最も重要な掟として、私たちに教えられたことは、神を愛し隣人を愛するというひと言に尽きました。ここで言う愛とは、独り善がりな自己中心的な愛ではなく、あくまで他愛的かつ喜捨的な愛(アガペー)であることを、イエスはその生涯において強調され、また実践されました。
 
イエスが今日の聖書で言われる「掟」とは、まさにこれであると。それは旧約聖書の世界で神が言われた「定め」というものが、イエスの時代になって本質が明らかにされたと言って間違いないと私は受け止めたいのです。
 
ただ、私たちはそのような神の愛を、探求し続ける者として生きることが幸いなのだと、私は受け止めたいと思います。それを完全無欠なまでに守り、実践することは実に難しく、私たちは失敗を重ねていきながらも、それら失敗の数々を通して、神の愛というものを実践を通して学び取っていくのだと。まさに、愛を尋ね求める旅こそ、人生の旅路なのだと。
 
そんな旅路を今日も歩みたいと思いました。神が与えてくださった愛の掟に憧れる者として。皆さんの一日に、神様の祝福をお祈りいたします。

17/08/2023

2023.8.17(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
士師記8章23節
ギデオンは答えた。「私はあなたがたを支配しない。主があなたがたを支配される。」

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書23章11節
あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日の聖書の言葉に触れて、私は「支配」という言葉に注目したくなりました。拙著『わたしがカルトに?ゆがんだ支配はすぐそばに』でもかなり触れていますが、カルトとは「ゆがんだ支配構造」であると、私はとらえています。人が人を支配するときに、どうしても支配しようとする側が、支配される側の大切なものまで奪ってしまうという「ゆがみ」が、カルトをつくりあげると私は常日頃から想っています。
 
そんなことを踏まえながら、今日の旧約聖書の言葉に聴くならば、士師(裁き人)ギデオンが「私はあなたがたを支配しない」と、イスラエルの人々に告げておられるのは、大変興味深いことだと思わされたのです。ここで言う支配とは、ギデオンが傍若無人に人を操ろうという意図はないことは、ギデオンの生き方からしてもよく理解できます。しかし、同時にギデオンは、人間が支配の権力を持つときに、ややもすると簡単に民たちをゆがんだ支配構造の渦に巻き込む危険性があることを、十分に悟っていたのではないだろうか。私はそんなことを思いました。
 
だからこそ、ギデオンは、神である主があなたがたを支配すると言われたのだと私は考えます。神による支配は、人々に過不足なく分配されるものが分配され、生きることへの役割が与えられるようなシステムだと、私は信じます。問題なのは、そのような神が抱かれる御心、つまり理想を、私を含めて人間が十分に理解していないということでしょう。だから、神の名を用いて、神が意図しない支配というものを人に押し付けることだって簡単にできてしまう。ギデオンもそのような思いをもって、支配されるのは主であるという言葉を告げたのだと、私は受け止めたいのです。
 
そのことをさらに具体的に、イエスは「仕える」という言葉をもちいて、支配者のあり方を告げています。神は私たちに仕えられた。ゆえに、最愛の御子を私たちに与えてくださった。あの十字架の上で苦しみもだえるほどに、イエスを私たちに与え、私たちに仕えられた。
 
今日も、神が私たちを支配されることの意味を問いつつ、一日を過ごしてまいりたいと思います。どうぞ皆さんの一日に、そのような神がともにおられることの幸いがありますように。お祈りいたします。

16/08/2023

2023.8.16(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌上29章15節
私たちは、先祖が皆そうであったように、あなたの前では寄留者であり、滞在者にすぎません。私たちの地上での生涯は影のようなもので、希望などありません。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章16節
だから私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨晩遅くのことです。私のもとに1通の報せがきました。「ちいろば先生」こと、榎本保郎牧師のお連れ合いである和子さんが、神様のもとに召されたという報せでした。この数か月、寝たきりの生活を過ごしておられましたが、最後はご家族に見守られながら、静かに、そして安らかに地上での生涯を閉じられたことを伺いました。
 
私は「ちいろばの女房」こと、和子さんに初めてお目にかかったのは約2年前のことでした。それ以来、近江八幡のアシュラムセンターへ足を運ぶたびに、和子お母さん(と私は呼んでいました)にお目にかかるのを楽しみにしていました。いつも、遠方から来る私のことを気遣ってくれました。
 
最後にお目にかかったのは、先月下旬に近江八幡を訪ねたときでした。いつものようにお部屋に行って、楽しくおしゃべりをしていました。すると、和子お母さんは手を伸ばして、私の頬をスリスリと触るのです。私の頬を触ると心地よいと、いろいろな方から言われることがあります。まるで和子お母さんの孫にでもなったかのような感覚でした。そして、近江八幡を離れるとき、では帰りますねと和子お母さんに再び会って言ったとき、今度は「もう帰るのか」と言われて、軽く頬を叩くではありませんか。おそらく和子お母さんは「まだまだ元気だぞ」ということをおっしゃりたかったのではないかと思うのです。また、会いに行きますねと言って別れたのが、この地上での別れとなってしまいました。
 
今朝、ローズンゲンの言葉を目にしたときに、またしても神はなんとタイムリーな言葉を与えてくださるのだろうかと思いました。たとえ外なる人が朽ちたとしても、内なる人は日々新たにされていくのです。使徒パウロの言葉です。身体は老い、死をもって朽ちていくなかにあっても、神が与えられた内なる人はますます豊かにされて、神の御許へと召されていくのだと。そこに神の大きな祝福がともにあることを、改めて信じさせられ、また思わされたのです。
 
早くにご夫君を亡くされて以来、なおも御言葉と祈りに深く自分自身を重ね合わせながら生きてこられた和子お母さん。ある日、和子お母さんが使っているローズンゲンを見せてもらいました。余白の部分にびっしりと書き込みがなされていました。私自身、ローズンゲンの編集を担う者として、こんなに愛用してくださっていることに、ただただ感謝しかありませんでした。御言葉によって新たにされる生き方というものは、こういう日々の営みから生まれているのだと。私もかくあれかしと心から想わされました。
 
今日は、黙想と言うよりは思い出を書き連ねたようなものですが、そんな時にもっともふさわしい御言葉が与えられたことを思いつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さまの一日にも、神がその生活を新たなものとしてくださいますように。お祈りいたします。

15/08/2023

2023.8.15(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言16章7節
人の歩みが主の喜びのうちにあるとき
主はその人を敵とも和解させる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章44~45節
敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日は、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏、つまり敗戦を宣言した1945年8月15日から78年が経ったことを祈念する日です。いわゆる終戦記念日・敗戦記念日と呼ばれる一日を、私たちは過ごすことになります。おそらく日本国中が意識して、平和というものを考えることのできる、数少ない一日となりましたし、そうでなくても、この8月15日が忘却のかなたへ追いやられてしまうのではないだろうかと、危惧を覚えたりします。私もまた「戦争を知らない」世代であり、自分自身のこととして、平和というものをつくり出す者のひとりでいなければならない。そんなことを改めて願わされます。
 
そんな思いのなかで、今日いただいた聖書のことばは、まさに神が狙いを定めたかのように与えてくださったものと受け止めました。神は日本のためにこの聖句を準備したわけではないでしょう。Die Losungenが出版されているドイツの終戦記念日は5月8日ですから。。。
 
しかし、今日は私の勝手な受け止めで、これは日本に与えられた聖書の言葉なのだと、そう思いたいのです。私は、日本に住むキリスト者として、本当の意味での平和に私たちを導いてくださるのは、愛と平和を私たちへ生き方をもって示してくださったイエス・キリストその御方であることを信じて、キリストの弟子として、キリストとともに歩む者でありたいと心から願わされます。
 
人の歩みが主の喜びのうちにあるとき
主はその人を敵とも和解させる。
 
主なる神の喜びとは、私たちが平和に生きることであって、私たちの歩む人生の日々が、そのような神の喜びに連動するようなものであるとすれば、たとえ敵となるような存在が間近にあったとしても、和解が可能であることを私は希望としたいのです。だた、そのためには、私たちにとって究極の仲立ちが必要なのでしょう。それが、イエス・キリストに他ならないのだと、私は受け止めたいのです。
 
そのイエスが私たちに説かれた「愛敵の教え」は、私たちだけでは到底不可能な出来事でも、その愛が「神の愛」だからこそ、つまり、神が私たちの真ん中に立たれるからこそ、実現可能なものとなるのだと、かつてイエスが山上から人々に向けてお語りになられた言葉を、私は想像しながら、愛と平和を自分自身の生き方としていきたい。たとえ失敗を繰り返してでもです。
 
そんなことを想いつつ、今日も皆さんの一日に、神の愛と平和が豊かに宿ることを心からお祈りいたします。

14/08/2023

2023.8.14(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言31編8節
あなたの口を、ものを言えない人のために
捨てられた人の訴えのために開きなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙13章3節
自分も一緒に捕らえられているつもりで、捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人たちを思いやりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日は黙想をお届けできず、申し訳ありませんでした。昨日は代務教会での務めでしたが、とても充実したときを過ごすことができました。夕礼拝も休会、夜の時間もゆっくり過ごすことができました。世の中が「お盆休み」であるように、私もひとときの休みを、自宅でたまった仕事を片付けながら、ゆっくりと過ごすことができています。とても感謝なことです。
 
さて、今日の聖書の言葉を通して、私が思わされたのは「与えられた言葉を何のために用いるのか」ということでした。あの人の代わりに、恵みの言葉を用いるということの大切さについてです。
 
ある「誤解されやすい人」のことを思いました。とても口下手で、決して人付き合いの上手な人とは言えません。風貌と物言いから、いつも誤解されているのです。しかし、その人がそうなったのには訳があります。幼い頃から、つねにダメ人間の烙印を押されていました。だから、人に対してどうしても当たりがきつくなってしまうのです。
 
しかし、その人に必要なのは「神の愛」でした。甘えと言われるかもしれませんが、その人に必要なのは、究極的なところから受け入れられているがゆえの安心感でした。その人の言動にいくらでも忠言することができるでしょう。しかし、どんなに忠告を重ねても、本人が受け入れることができなければ、それは単なるお小言になってしまう。この人が愛を受け入れられるようになることが先なのだと思わされたのです。
 
そのために、神の恵みの言葉を、恵みと感じられるように、愛と感じることのできるように、私は言葉を選びながら、その人の枯渇した心に届くように伝える。忠告をうるさい説教ではなく、あくまでその人の心に届くように丁寧に、丁寧に思いを注ぎながら、言葉をつむいでいくという作業。それはとても骨の折れる作業です。
 
しかし、それが一番の方法なのだと思わされます。今日のふたつの聖書のことばを通して、あらためて、口の用い方というものに心を寄せることができました。言葉を選び、用いることの難しさがあるからこそ、神の助けをいただきながら、チャレンジする者でありたいと心から願わされた次第です。
 
皆さんの一日に、主なる神からの祝福がありますように。お祈りいたします。

12/08/2023

2023.8.12(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章1節
私の心は主にあって喜びます。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書10章20節
あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
私にとって今週の一週間は、いつになくあっという間に過ぎた日々でした。しかし、週の後半は夏休みモードに入りましたので、懸案だったいくつかのことを片付けられました。明日の主日の準備もほぼ終わりましたので、今日はかねてより予定していたいくつかの用事をこなしながら、備えの一日を過ごしたいと思います。
 
さて、本日の旧約・新約聖書の両方に示されたテーマは「喜び」です。そして、その喜びとはいずれも、神に覚えられているという喜びについて、ふたつの聖句は語っています。
 
本日の旧約聖書であるサムエル記上2章は、のちにイスラエルの指導者となるサムエルの母であるハンナが、なかなか子が与えられなかったことに悩み、神に祈りと願いをささげた末、サムエルという子が与えられたことへの感謝を祈るシーンの一節です。
 
子が与えられないというのは、当時の社会では神から見捨てられているような印象を与えるものでした。神からの祝福のひとつに「子が与えられる」という考えがあったからです。ですから、その社会のなかで生きたハンナにとって、私は本当に神から覚えられているのだろうかと思ったのだろうと想像できるのです。
 
しかし、神はハンナのことを忘れるはずがありませんでした。ハンナの願いに応えられることで、神はハンナのことを覚えている。そのことを実証したのでした。主にあって喜ぶとは、神にいつも私自身が覚えられている、記憶され、見守られているというところからわき出る喜びなのでしょう。
 
このことが、本日の新約聖書にすれば「名が天に書き記されている」という表現をもって、主なる神に記憶されている、決して忘れ去られていないということを明らかにしています。神は天の国、ご自分の世界に私たちをその国民として招き入れてくださる方であるということなのです。
 
天の国の民として、私たちが招かれているというのは、私たちがこの世の中でサバイバーとして生きているなかにあっても、しっかりと神が私たちの命を守ってくださるという私たちに対する深い信頼を、私たちがどう受け止め、その喜びを味わうことができるかなのだと感じます。そのために、今日の一日がまた与えられていることに感謝しつつ、歩みを踏んでまいりたいと願わされました。
 
今日一日の皆さんの予定のうえに、神の守りと喜びがあふれんばかりにありますように。お祈りいたします。

11/08/2023

2023.8.11(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ダニエル書2章22節
神は闇にあるものを知り、光が御もとに宿ります。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章5節
光は闇の中で輝いている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
本日選ばれたふたつの聖句に共通するワードは「闇と光」です。聖書では、このふたつの言葉がしばしば登場し、それは対極にあるものであり、真反対のものとして描かれています。神は光を投じられ、光のなかに住まわれ、私たちをご自分の光で照らされて、私たちの行くべき道を明らかにしてくださるというのです。これが旧約・新約問わず私たちに語りかける神のメッセージです。
 
そして、今日の聖書の言葉からも分かるように、光が照らされる先は私たちのうちにある「闇」の部分です。闇というと、悪魔の領域のようなイメージがもしかしたらあるかもしれません。確かにそういう一面もあることでしょう。しかし、私は今日黙想するなかで、闇というのは、私自身ですら気づかない「隠された部分」のことでもあるのではないかと、そのように思わされたのです。
 
心理学の世界では、自分自身でも気づかない「未発見の部分」が、他者からの指摘やその他のきっかけによって気づかされることで、より豊かな人生が営めるようになると言われています。確かに分からない部分が分かるようになることで、対処ができるというものです。私はこの気づきや発見こそ、神が闇の部分に光を投じられることで明らかにされるもろもろを意味しているのはないだろうか。そのように思わされたのでした。
 
自分自身の視野というものが、神の言葉である聖書を通して、また神の助けである聖霊の導きによって広げられていく経験。この経験こそ、自分自身がより豊かに生かされることとなり、他者に対しても寛容になれる。まさに平和への道を神は備えてくださっていることを、私は今日の聖書の言葉から受け止めてまいりたいと思います。
 
今日あたりからお盆休みが始まるところが多いのではないかと思います。どうぞこの期間に行楽や帰省などで移動される皆さんの安全が、神様によって守られますようにお祈りいたします。私はこのお盆休み中、礼拝もありますのでずっと仙台におります。今日は部屋の片づけや書類の整理に励みたいと思います。それでは、皆様主にあって良い一日をお過ごしくださいませ。
 

10/08/2023

2023.8.10(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ハバクク書2章4節
見よ、高慢な者を。
その心は正しくない。
しかし、正しき人はその信仰によって生きる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙1章21節
あらゆる汚れや甚だしい悪を捨て去り、植え付けられた御言葉を謙虚に受け入れなさい。御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日、教会の信徒さんから「立秋を過ぎ・・・」というお祈りの言葉を聞きました。そうか!もう立秋だったのだと気づかされました。一昨日8日が立秋。ここから「残暑」と言うべきなのでしょうが、昨日も本当に暑い一日でした。ただ、夕方になると幾分か涼しい風が吹いてきました。やはり少しずつ暑さが変わってきているかな、そんなことも感じることができました。今日も暑さゆえの災害から少しでも避けることができるように、祈るばかりです。
 
さて、今日選ばれた旧約聖書のハバクク書2章4節で「高慢な者」という言葉が登場します。さて、高慢な者とはいったいどのような者を指すのだろうか。そんなことにふと心が留まりました。高慢とは「うぬぼれが強く、高ぶっていること」と国語辞典には記されています。うぬぼれ=自惚れとある通り、自己自身に陶酔している姿、陶酔しているがゆえに、自分は偉いと思い込んでしまう姿を、高慢というようです。
 
一方で『Die Losungen』に記された当該のドイツ語は、halsstarrigという単語が用いられていました。これは「強情な・頑固な・いこじな」という意味のようです。また、旧約聖書原語であるヘブライ語では「アファル」という言葉が用いられていますが、この言葉のもともとの意味は「膨らむ」というものなのだそうです。
 
これらの言葉から、高慢という言葉をイメージしてみますと、自分のなかで膨張するがゆえに、他のスペースを許すことなく膨らみ続けてその環境を自分の心や思い、考えでいっぱいにしてしまって、そこから身動きのできない状態。その状態こそ、強情さや頑固さを生む根拠となるのだろうと思わされました。
 
つまり、自分自身のことで精いっぱいになるばかり、他の何かが入り込むスペースがなくなってしまうのです。それで、良いものすら入り込む余地がなくて締め出してしまうのだと。このハバクク書の後半部分には「信仰」という言葉が登場しますが、これは「真実」とも訳せる言葉です。つまり信仰とは、私が神に向かう姿を表す前に、神が真実をもってご自身を現わしてくださるという大前提があるのですから、その真実を自分自身の思いや心で締め出してしまう姿こそ、今日の聖書の言葉にある「高慢」の意味であると私は受け止めたいのです。
 
今日の新約聖書・ヤコブの手紙には「御言葉を謙虚に受け入れなさい」という言葉が登場しますが、これこそ、自分自身の心や思いに、神が与えてくださった御言葉を通して働くご自身の真実というものを、自分自身のスペースのなかに入り込ませなさいという勧めであると私は理解しました。常に自分自身が余裕をもって生きることの幸いというものを自戒を込めつつ想わされました。
 
どうか今日の営みにも、神の御心が豊かに皆さんのスペースに入り込むことができますように。お祈りいたします。

09/08/2023

2023.8.9(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編119編165節
あなたの律法を愛する者には豊かな平安があり
この人たちをつまずかせるものはありません。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙3章16節
キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。
知恵を尽くして教え合い、諭し合いなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日も暑い一日でしたが、皆さんはいかがお過ごしでしたでしょうか。私はかねてより準備を重ねてきた、拙著『わたしがカルトに?ゆがんだ支配はすぐそばに』出版記念トークイベントが、無事に、そして盛況のうちにおこなうことができました。対面・オンライン合わせて70名弱の方々に参加していただけて、本当に良かったと思っています。これを励みに、許される限りカルト問題に携わっていきたいと心から願うばかりです。お憶えくださった皆様に、心から感謝申し上げます。
 
さて、本日のローズンゲンの言葉ですが、旧約聖書である詩編119編の最後の言葉です。神の律法を愛する者は平安を得、つまずかせることはないと詩人は歌いました。しかし、私は思うのです。モーセ爾来、いわゆるイスラエル国民のアイデンティティーをつくりあげてきた律法こそ、多くのつまずきをもたらしたのではないかと。特に、イエスと律法学者やその実践者のやり取りを見て思うのは、律法を使って、人をつまずきに陥れることができるかという、人間の側の問題が確かにあるのだということを実感させられます。
 
私は思います。律法に問題があるのは、それを与えた神ではなく、それをゆがんで運用しようとする人間の側にあるのだと。本質に回帰しようとせず、どうでもよい枝葉のことをこねくり回して人をつまずかせ、不安に陥れようとする人間の姿があるということを思わされます。それはあたかも、聖書を利用して人間をゆがんだ支配構造の渦に巻き込もうとする、カルト的な動きに相通じるものがある。私はそう思えてならないのです。
 
では、人間を平安な世界へ招き、つまずきのない律法とは何なのだろうか。それこそ、神がイエスを通して私たちに与えられる愛が中心に立ってこその律法なのだと。神に大切にされている私たちの実感がなくて、どうして律法を語ることができようか。それが「律法の完成者」であるイエスの生涯における主訴でした。律法は愛によって完成されるからこそ、その世界にはただ平安が、そしてつまずきのない社会が生み出されるのだということを、私は心に刻みたいと思わされました。
 
キリストの言葉に裏打ちされた神の愛が、私たちのあいだに宿るようにという願いが、今日の新約聖書の言葉にあります。宿ることとはとどまること。根付くこと。そこから幹が伸び、枝葉が成長すること。そのための本質というものを求めつつ、今日という一日を歩んでまいりたいと願います。
 
今日も暑い一日であると思います。どうか健康が守られますように。神の平安と祝福を心からお祈りいたします。

08/08/2023

2023.8.8(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章14節
私の民を良いもので飽かせる――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一4章10節
あなたがたは、それぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を用いて互いに仕えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日はいつもに比べたらやや涼しい一日を過ごすことができました。夕方には心地よい風が吹きましたので、何となくホッとした思いでいます。
 
今日は夕方18時30分より、竹迫之(たけさこ・いたる)牧師と私が書いた『わたしがカルトに?ゆがんだ支配はすぐそばに』の出版記念トークイベントが行われます。対面・オンライン含めて、50名ほどの方がお申込みくださいました。本当にありがたいかぎりです。心を込めてイベントに臨みたいと思っております。
※イベントの詳細はこちらをご覧ください。東北教区センター・エマオのウェブサイトのイベントページへジャンプします。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉ですが、神から私たちに贈られた「良いもの(賜物)」が、旧約・新約聖書を貫くテーマであると私は受け止めました。神はご自分の良いもので、私たちを飽かせる。つまりこれほどにと言うくらい満たしてくださるということを約束しています。そして、新約聖書では神が私たちのそれぞれに賜物を授けているがゆえに、私たちはその賜物を預かった者たちとして、それを管理し、互いのために豊かに用いなさいということが書かれています。
 
このようなことを考える際に、では、私は神からどのような良いもの、つまり賜物をいただいているのだろうかと、あらためて問われていることを思います。実は分かっているようで、私がどんな賜物を神からいただいているのかということに、気づいていない場合が多いのではないだろうか。私はそんなことを思わされるのです。
 
もしくは、こんな風にも考えることができるかもしれません。神から素敵な道具をいただいているのだけれども、さて、その道具をどういう風に使うことができるか。そもそもこの道具は何のために使うものなのだろうか。賜物の用い方というものに、今ひとつピンとこない場合もあるのではないだろうかと。そんな風にも思わされます。
 
今日の聖書の言葉によると、その良いもの、賜物は「私の民」のあいだで用いられるものであると神は仰せになられていることに注目できます。民、それは具体的にはイスラエル国民を指すのであって、人間集団のなかで用いられるものであることを意味しています。つまり、集団のなかで神の良いものが用いられることで、平和と幸福につながっていくという神の意図があることを思わされます。それが、今日の新約聖書の言葉によれば「互いに仕えなさい」という言葉が登場することで、お互いにその賜物を活かしあえるような用い方がされることを、神は期待しておられるのだと、私は受け止めたいのです。
 
私たちに神はどのような賜物を与えてくださったのだろうかということへの、具体的なイメージを抱くべく、神の御言葉に聴き祈るということを通して、その神の思いをつかんでいくことができれば、少しでも私自身が生かされていることへの感謝を抱けるだろうし、相手のことも大切にすることができるのではないだろうか。実は平和というものは、そういう小さなところから始まるということを、今日も胸にして一日を歩みたいと思います。
 
皆さんの一日に、神の平和と、与えられた賜物が豊かに活かされる幸いへと結び合わされますように。お祈りいたします。

07/08/2023

2023.8.7(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記39章20~21節
ヨセフはこうして、牢獄にいることになった。しかし、主はヨセフと共におられた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録16章25節
真夜中頃、パウロとシラスが神への賛美の歌を歌って祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、こんばんは。
すっかり夕方になってしまいました。今朝まで我が家に滞在しておられた旧知の仲である牧師仲間を空港まで送り、その後教会員のお宅を訪問して、自宅に戻ってきたところで、昨日何となく発症した「ぎっくり腰」がひどくなってしまいました。施術してもらい、午後はベッドでゆっくり休んでいたら、こんな時間になってしまいました。痛みもやや治まってきて、ホッとしています。しなければならないこともありましたが、これも神様がくださった休みだと思って、今日のひと晩を過ごしたいと思います。ローズンゲンの黙想が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。
 
さて、今日の旧約聖書の言葉は、兄たちの策略によってエジプトへ売り飛ばされたヤコブの子ヨセフの話です。ヤコブはエジプトに売られた後、エジプトの王宮役人であったポティファルの下僕となりました。そのような環境のなかでも、神はヨセフを大切にされた。だからこそ、ポティファルはヨセフを重用しました。ヨセフの人生にとって悪いことばかりではないと思わせる一シーンです。
 
しかし、ヨセフの幸福も長くは続きませんでした。ポティファルの妻は若いヨセフを性的に誘惑します。一緒に寝なさいと。しかし、そのことがヨセフにとっては背徳的なことであることを知っていましたから、妻の誘惑から逃れようとします。しかし、またもや、妻のとっさの策略によって、ヨセフは主人の妻に性的な誘惑をしようとした張本人として、ポティファルによって投獄されてしまいました。
 
ヨセフは一度ならず二度までも、人のうらみを買って理不尽な仕打ちを受けました。誰も理解してくれない孤独のなかにヨセフはありました。しかし、ヨセフはそのような状況でも、「主がともにおられる」ことを忘れなかった。そのことをヨセフの心に刻み続けたのは、他ならぬ神であったことを、私は今日の旧約聖書の言葉から黙想させられました。
 
結果としてヨセフは、エジプト王の観た夢解きをおこなうことで、最終的にはエジプト王に信頼されつつ、その人生を送ることになりますし、家族との再会も果たします。神は理不尽なものを理不尽のままにはされておかれない。主がともにおられるとは、そういうことを含まれるのだということを、私は希望の言葉として受け取りました。
 
今日の新約聖書は、やはり投獄されたパウロが、牢屋のなかで神を賛美したことが記されています。投獄という暗い状況のなかで、なぜ神を賛美することができたのか。賛美を通して、やはり神がともにおられることを、パウロは大切にしたのだろうなということを想像しました。苦境のときにこそ、何をしなければならないのかということを、思い起こすことができた、そんな聖書の言葉です。
 
新しい一週間も2日目。明日以降も暑い夏の毎日がやって来ると思います。どうぞ今晩のひとときに、そして明日の一日に、神の守りがともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

06/08/2023

2023.8.6(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編22編5節
私たちの先祖はあなたに信頼した。
彼らは信頼し、あなたに救われた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙5章11節
主は憐れみに満ち、慈しみ深い方です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。そして、今日8月6日は広島に原子爆弾が投下された日でもあります。今年で78年を迎えました。私の所属する日本基督教団では「平和聖日」として、平和について聖書から考えるときを持ちます。遠くウクライナの地で繰り広げられている戦争を、そして私たちのあいだにある人と人との溝。そういうことを考えると、神が与える平和とはいったい何なのだろうかと、黙想させられます。
 
今日の聖書の言葉が与えるような、神が与えられる憐れみや慈しみというものを、私たちがいかに信頼し、神のなさることを心から期待して、そしてまた、私たちが神が私たちを信頼して生かしてくださるということの意味を問い続けることこそが、神が望まれる平和をつくり出す者として、この世界に導かれていることを思います。
 
私たちが平和をつくることができるとするならば、神の慈愛というものがどういうところに働くのか、誰に対して深い憐れみを示されているのかについての、深いイメージを抱くことから始まると私は考えます。そして、思わされるのは、この私に神は憐れみの目を、慈愛の思いを向けてくださっているということです。どんなに頑張っても神のように愛することの絶対できない私に対してです。神が信頼して、期待して私の命を与え、保たせてくださる。そして、神が私たちひとりひとりをお用いになられて、今日という一日を平和の道具として用いてくださる。このことを心から神に信頼しつつ、歩んでまいりたいと願わされました。
 
どうか世界が、そして世界をつくる私たちのあいだに、神の平和が豊かにありますように。主にある皆さんの平和を、心よりお祈りいたします。

05/08/2023

2023.8.5(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編5編2~3節
主よ、私の言葉に耳を傾けてください。
私のつぶやきを聞き分けてください。
私の叫びに心を向けてください。
わが王、わが神よ。私はあなたに祈っています。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書11章24節
祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。猛暑・台風・大雨と、自然災害が絶えることのない日々でした。少しでも被害から免れるようにと祈るばかりですが、それでも被害に遭われた方々に、神の慰めと励ましをただ祈るばかりです。
 
そんなことを思いながら、今日の聖書の言葉に出会ったときに「祈ったらその通りになる」という聖書の言葉に、何となく違和感を覚えてしまうのです。牧師がそんなことを言っていいのか、と言われてしまいそうですが、それだけ、この言葉だけを取り上げると、祈ったら何でもそのようになると思いたくなるような印象を持つ方も、決して少なくないようです。
 
ある時に、信徒の方から「こんなに祈っているのに、どうして神様は祈りに応えてくださらないのですか」と尋ねられたことがありました。なんでも与えられると聖書に書いているじゃないですか、それなのにと。。。こういうことを聞かれると、「それは祈りが足りないからだ」「あなたの信仰が足りないからだ」という返答をされる方もあると聞きます。しかし、本当にそうなのだろうかと、私は思えてならないのです。
 
私自身、祈ることを大切にしたいといつも思っていますし、神は必ず祈りに応えられる方であることを信じて祈ります。そもそも祈らなくても神は私たちのことを何でもご存知であるということも自覚しています。しかし、それでも私たちは神に自分自身をさらけ出して祈るということを、大切なものとして受け止めているのだと思います。「どうせその通りにならないのだから、祈ってもしょうがない」という風には、私の場合はなかなかなりません。
 
神は、ご自分の御心通りにその御業をなされる方です。私たちの意識いかんにかかわらずです。ただ、私たちの祈りを聴かれない方では決してない。そういう意識をもって、神に私たちの思いを祈りをもって聞いてくださいと願い出ることは、やっぱり必要なのだと思います。それが神の御心に沿う内容かどうかはわかりません。しかし、神は私たちにとって常にベストに働くような返答をしてくださる。そう信じて歩みたいのです。
 
そんな思いをもって、明日の主の日に向かいたいと思わされ、願わされました。祈ることへの希望を忘れることなく、今日も歩むことができますよつに。お祈りいたします。

04/08/2023

2023.8.4(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
コヘレトの言葉5章1節
神の前に言葉を注ぎ出そうと
焦って口を開いたり、心をせかしたりするな。
神は天におられ、あなたは地上にいるからだ。
言葉を控えよ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章1節
人を裁くな。裁かれないためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンとして選ばれた聖書の言葉もまた、昨日と同様、私の心にズキッと突き刺さるようなものでした。私たちがどのような言葉を発することができるのか。そんなことを黙想させられる聖句であると私は思いました。
 
今日の旧約聖書の言葉であるコヘレトの言葉5章にある冒頭の言葉を言い換えると、「性急に判断して、言葉にするな」というようなことが言えるのではないか、そう思ったのです。もちろん、物事の判断にはスピーティーに行わなくてはいけないこともあるでしょう。しかし、それでも私たちに必要なのは、冷静さであることを思わされました。
 
私たちは熱くなればなるほど、冷静さを失ってしまうあまり、大切なことを見失ってしまうことがしばしばあります。かく言う私も、双方のあいだにトラブルがあった場合、一方だけの主張を鵜呑みにしてしまったがゆえに、真実というものをとらえることができなかったということが何べんもあります。真実が見えないがゆえに、そこに隠れている犠牲も置き去りにされてしまうことが往々にしてあるのです。
 
だからこそ、なるべく広く情報を収集して、どこに真実があるかを判断しつつ、ファクトチェックに心がけることの大切さを想わされます。そこに必要なのは「冷静な心」なのだと痛感しますし、私たちに冷静さを与えるのは、私たちの神であることを意識させられるのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによる山上の説教における言葉です。「人を裁くな」という、有名な聖句です。ここに登場する「裁くな」とは、断罪するという意味だけの言葉ではありません。一般の裁判が有罪判決だけをくだすのではなく、あくまで裁判官の良心にしたがって判断されたことを公表する場であることを、私たちはよく知っていると思います。
 
ですから、裁くとは「総合的に判断する」という意味を強く持っています。裁くという言葉に対するイメージがあまりにも強くて、ネガティヴに考えてしまいそうなのですが、実はそうではない。冷静に判断をするということであって、私たちが自分自身の主張だけでそうするのではなく、私たちを平和へと導いてくださる神ならば、この状況をどのように考えるのだろうかということを、あらゆる情報を収集するなかで、真実をあぶりだしていくなかで、真実の神の御心というものをイメージしていくことが、いかに大切なことかを想わされたのでした。
 
一方的な言葉に自分自身が支配されることなく、つねに冷静であることを大切にしながら、神の視点を探り求めつつ、判断をしていくことに、今日も誠実でありたいと願います。そのために、神の助けを必要としつつ、今日の一日を歩むことができますように。お祈りいたします。

03/08/2023

2023.8.3(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ホセア書6章4節
あなたがたの慈しみは朝の霧、はかなく消える露のようだ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一13章1節
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日も変わらず猛暑の一日となりそうですが、そんなときにこそ、神によって与えられた命というものを慈しみながら、歩んでまいりたいと思います。決して無理をしない生活というのも、本当に大切なことであると私は思っていますし、無理をしなくても、神の御言葉に養われる工夫というものを、私たちはコロナ禍を通して学んできたと思いますので、その工夫に思いを注ぎたいということも、この夏特に思わされているところです。
 
さて、今日選ばれたふたつの聖句は、私にとっては「くさび」となるような聖書の言葉でした。それは「本当に私は神の慈しみに生きているだろうか」という問いが突き付けられたからです。
 
今日の旧約聖書の言葉であるホセア書6章4節にある「あなたがた」とは、同じ4節にある言葉を見れば明白ですが、その部分も含めて、4節から6節にはこのように記されていますので、それをまとめて掲載したいと思います。
 
ホセア書6章4~6節
エフライムよ、私はあなたに何をなすべきか。
ユダよ、あなたに何をなすべきか。
あなたがたの慈しみは朝の霧
はかなく消える露のようだ。
それゆえ、私は預言者たちによって切り倒し
私の口の言葉によって彼らを打ち殺す。
あなたの裁きは光のように現れる。
私が喜ぶのは慈しみであって
いけにえではない。
神を知ることであって
焼き尽くすいけにえではない。
 
上の言葉から「あなたがた」とは、エフライムでありユダ、つまり、神によって選ばれた全イスラエルの民であることが分かります。その民たちが示す慈愛が、はかなく消える露のようであると神はホセアを通して、ご自分の言葉を語られました。
 
つまり、見せかけの慈愛、かたちだけの慈愛が本当の慈しみなのかと、神は私たち人間に向けられ、厳しく問われています。そこに愛はあるのかと。自分は神の民であると豪語しながら、その神が私たちに示される慈愛の深さというものを理解せず、非常に表面的・外面的な部分だけで判断をして、愛を示すか否かを定めようとするイスラエルの姿に対して、神はホセアを通して、ご自分の愛というものを明らかにしようとします。
 
神の愛とは、裏切られても裏切られてもなおも、私たちの幸いのために働こうとするところに、大きなポイントがあります。簡単に朝露が消えてしまうようなものではない。今日の新約聖書の言葉にもあるように、どんなに華々しく信仰の行為を見せたとしても、聖霊がもたらすあらゆる賜物をいただいたとしても、それを他人をおとしめたり、自分自身が特別に選ばれた者であることを誇示するだけに用いるならば、何の意味もないと。そこに神が示された愛は、私たちのうちに通っているのかと、神はそう問われるのです。
 
ホセア書6章6節にもう一度、注目したいと思います。
私が喜ぶのは慈しみであって
いけにえではない。
神を知ることであって
焼き尽くすいけにえではない。
 
神の喜びは、ご自分の慈しみが人々に行き渡ることで、人間が幸せになり、その慈しみが、私たち人間のあいだに分かち合われることに他なりません。そのために、救い主イエスが私たちに与えられ、聖霊様が与えられて、聖霊様がもたらすさまざまな賜物を通して、神の愛というものが明らかにされていくのだと。この愛に生き、生かされる者としての私の人生があることを、今日の聖書の言葉を通して、感じ取っていきたいと願わされました。
 
どうぞ、皆さんのうちにもあいだにも、神の愛が豊かにあふれますように。今日一日も決して無理をしないところにこそ、神の慈しみがあることを信じる幸いにあふれますように。心からお祈りいたします。

02/08/2023

2023.8.2(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編118編5節
苦難のただ中から私は主を呼んだ。
主は答えて、広い所に私を解き放った。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章7節
私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日の仙台は、幾分か過ごしやすい一日ではありましたが、それでも最高気温は決して涼しいとは思えないものでした。おそらく室内で一日を過ごしていたからかもしれませんし、体調も悪くなかったからかもしれません。無事に一日を過ごすことができたのは感謝なことですし、今日もそのような一日でありたいと願うばかりです。皆さんも健康が十分に守られますように、祈りたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「苦難」であると、私は受け止めました。生きづらさを抱えているときに、目の前にはだかる壁に絶望するときに、どんなに頑張っても明るい兆しが見えてこないときに、私たちはその苦難のなかで、どのように歩むことができるのだろうか。改めて考えさせられるテーマです。
 
そういう意味で言えば、聖書は一貫して私たちに「生きる希望」というものを与え続けています。たとえ苦しくても、そのことをすべてご存知である神がおられることを、聖書はためらうことなく私たちに伝えようとしています。神がいるならば、さっさと苦しみを取り除いて欲しい。そもそも人間が苦しまないようにしてほしいと、私たちは願うでしょう。しかし、私たち人間がこの世界で生きている以上、私たち自身があらゆる差しさわりを助長していることを忘れてはならないのだと、私は思うのです。
 
この世の中にあるあらゆる差しさわり、障害というものから、すべて解放されることはありません。大切なのは、そういうものを抱えながらも、そのことが原因で、さらなる差しさわりというものを拡大して、生きづらさというものを抱えなければならない状況から、いかに私たちが回避できるかということなのだと、私は考えます。
 
そのために、私たちには叫び求める方がともにおられる。苦難に慰めと希望を与える、私たちの神がおられるということを、愚直に受け止めていきたいのです。あらゆる障害を促進する神ではなく、苦しみから必ず解放へと導いてくださる神へ、叫び、祈り、なさる御業に希望を託して今日も生きる。そんな一日を、今日も過ごしていきたいと思わされました。
 
どうか、皆さんの一日も、たとえ苦しくても、そこに神が与えてくださる慰めと希望があふれ出るようなときでありますように。心よりお祈りいたします。

01/08/2023

2023.8.1(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編73編28節
私には、神に近くあることこそが幸い。
私は主なる神を逃れ場とし
あなたの業をことごとく語り伝えよう。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録3章8節
足が癒された男は、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、ペトロ、そしてヨハネと一緒に境内に入って行った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日から8月が始まりました。多くの教会では夏の諸行事のなかにあると思いますが、コロナ禍明けゆえに、以前のようにフル稼働というわけにはいかないかもしれません。それでも、このひと月のあいだ、猛暑にあっても、神が多くの祝福を御業を通してさやかに示してくださる。そんなことを心から期待しながら、日々を過ごしてまいりたいと思います。私事で言えば、8月はゆっくりと休むことができそうです。秋に向けて英気を養う一か月間でありたいと、心から願います。
 
今日の聖書の言葉を通して、私は特に新約聖書・使徒言行録3章の言葉に注目しました。いわゆる「私には金銀はない」と言われる、使徒であるペトロとヨハネによって、足の不自由な男の障害が癒されたシーンです。物乞いをしていた男に金銀はないが、イエス・キリストのお名前によって神の御業が、この男に示されました。その日暮らしの生活をするよりも、喜び踊って神を賛美する生活のほうが、この男にとっては比べ物にならないほど豊かで、大きなものであったことが、今日の聖書の言葉から読み取ることができます。喜び踊りつつ、神殿での礼拝に出かけることができました。これまでは神殿の門をくぐることすらできなかったのです。
 
その日を生きるのに必要なのは、もちろん衣食住であったり、それを備えるための経済的な準備や身体的な健康であることは間違いありません。しかし、どんなに裕福な生活を営んでいたとしても、究極の安心とはいったい何かについて、今日の聖書の言葉は実に考えさせるものなのではないかと私は思います。それは「信頼関係」であり、ことに神と私とのあいだにおける信頼関係こそ、私自身を安心へと導き、その日を生きるための無くてはならない礎(いしずえ)となることを、今日の聖書の言葉は伝えているような気がしてならないのです。
 
それこそが、今日の旧約聖書である詩編の「神が私の近くにいてくださることへの幸い」という信仰告白へと結び合わされていくのだと、私は受け止めました。逃れ場(これは別な聖書では信頼と訳されたりもしています)にいるがゆえの安心。この安心が神を礼拝し、神がともにおられるがゆえにあふれ出る喜びへとつながっていくのだと。この安心を神からいただきたい。そのことを今日も一日を生きるための望みにしたい。そのように願わされました。
 
皆さんにとっての8月という一か月間も、神が与えてくださる平安が、安心と平和を願う私たちの心へとつながり、そこから生み出される喜びをともに味わうことができますように。心からお祈りいたします。