30/06/2022

2022.6.30 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記15章2節より
主は私の力、私の盾、私の救いとなられた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章49節
マリアの言葉:
力ある方が
私に大いなることをしてくださったからです。
その御名は聖です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書である、出エジプト記15章2節にある「私の」という言葉は、ほかの聖書では「」「ほめ歌」と訳されることの多いものです。『日々の聖句』の原版である『Die Losungen』でも「賛美の歌」と日本語に訳することのできるドイツ語が用いられています。
 
どうしてほめ歌が盾なのだろうか。そんなことを黙想させられます。ちなみに、今日の旧約聖書の箇所は、モーセをはじめとするイスラエルの民がエジプトの軍勢に追われたときに、海が開いて無事向こう岸に逃げることができ、海が閉じることによってエジプト軍が壊滅したときに、イスラエルの民たちによって歌われた賛美の冒頭部分です。
 
また、今日の旧約聖書の言葉に応じて選ばれた新約聖書・ルカによる福音書1書49節の言葉は、受胎告知を受けたマリアが、神を賛美したほめ歌の一節です。そして、モーセの歌もマリアの歌も、そこで共通して賛美されるのは「神の力と御業」であることがわかります。
 
そう考えますと、モーセをはじめとするイスラエルの民は、自分たちの命を狙うエジプト軍から、マリアは、妊娠することが死罪を意味した未婚の女性であるがゆえに、殺される危険があったという意味で、状況が共通していたと言うこともできます。
 
しかし、イスラエルの民にも、そしてマリアにも、神は「私はあなたを守る」という、まるで盾のような務めを力あふれる御業をもって見せてくださる。それゆえに、賛美の歌を歌うことができたのだと。そう考えれば、神が私の盾となってくださるその力と御業をほめ歌うという意味で、十分つながりを感じることができるのではないか。私はそう受け止めました。
 
私は神を賛美することについて考えました。賛美を通して明らかにされること。それは神が私を、私たちを盾のように守ることで、私たちを愛してくださっている。そのために、救い主イエスを与えてくださったということへの感謝そのものであるのだと、改めて感じさせられます。
 
それが音楽のかたちとなり、文学や芸術のかたちをもって、賛美が告白されていくのだと。私もまた、神が私たちを力強い御腕で優しく抱きかかえてくださることで、善き力にしっかりと守られていることを、日々の生活のなかで実感したいし、実感できることを期待して、また実感できたことを感謝して、賛美する喜びにあふれたいと願わされました。
 
私たちの生活に、賛美が今日もあふれますように。たとえ賛美できないくらいに弱り果てていたとしても、賛美は自分の中から決して消え去ることはないことを信じて、歩むことができますように。お祈りいたします。

29/06/2022

2022.6.29 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記30章19節より
私は命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章3節
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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命を選びなさい。この言葉に、今日は黙想を深めてみたいと思いました。
 
命を選ぶというのは、死を選ばない選択というふうにも読むことができますから、それはすなわち「生きる道を選ぶ」ということに相通じるのだと思います。「人間生きていりゃなんとかなる」とよく言われるように、命を選ぶというのはとても重要な決断なのだと思います。
 
しかしながら、ここでいう「命を選ぶ」というのは、単に生きていりゃなんとかなるということを言っているわけではありません。生きるにしても「どのように生きるか」という、その内容にかかわってくる話であることに関心を向けたいのです。
 
なぜ、そのようなことが言えるかというと、その前に神によって語られた「命を置く」という言葉があるからです。つまり、聖書は一貫して命を私たちに提示し、与えてくださるのは神であることを明らかにしています。その神が、命を置かれ、それを選ぶように私たちに勧めておられるということは、すなわち、生きる命を充実へと導く生き方とは何なのかを、それを選び取る私たちに対して問いかけておられる、ということなのではないかと思うのです。
 
そのことを具体的に示したのが、今日の新約聖書におけるイエスによる祈りの言葉です。イエスは「永遠の命」とは、神とイエスが救い主であることを「知る」ことであると祈られました。知識として知ること以上に、神が私たちをご自分の愛で愛しておられることを、イエスがそれを私たちに生き方として示してくださったことを理解し、自分の生き方とすることが、まさに知るということの意味なのだと。
 
イエスは、私たちに命の道を私たちの前に置かれ、提示されました。そして、それを選びなさいと私たちに告げておられまる。命か死か、祝福か呪いか。それを選び取るのは私たち自身なのだと言うのですから、自分の心や思いがどこにあるのかということを、日々確かめることの大切さを思わされました。ただ単に生きているということ以上に、どのような生き方をするかということこそ、潤いに満ちた祝された生活が営めることを希望として、今日という一日を歩んでいきたいと願います。
 
命を道を選ぶことのできる人たちの集まるところに、今日も神の平和が豊かにありますように。お祈りいたします。

28/06/2022

2022.6.28 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編16編8節より
主が右におられ、私は揺らぐことがない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録26章22節
パウロの言葉:
私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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揺らぐことのない信仰。私たちはこの言葉はどのように考え、またとらえることができるのでしょうか。今日はそのことを黙想したいと思いました。
 
今日の旧約聖書の言葉にもありますが、主なる神が私とともにおられるから、私は揺らぐことはないのだと、詩人は歌いました。この言葉を聞くだけで、なんと立派な信仰なのだろうと思ってしまうのです。
 
それでさてはて、私の信仰というものはそんなに揺らぐことがないのだろうかと、ついつい思ってしまったりするのです。正直に申し上げれば「揺らぎっぱなしの信仰」というものを、私なんかは抱いていると思わされることが多々あります。これが偽らざる正直な私の現実なのだと。
 
だとすれば、「揺らぐことのない信仰」とは何なのだろうか。ものすごく高いハードルを越えなければいけないような課題なのだろうか。そこに、私の「信仰観」というものが浮き彫りにされ、明らかにされていくような気がするのです。
 
揺らぐことがないのは私ではなく神。私はそのように思うのです。たとえ私が日々の生活に翻弄されて揺らぎっぱなしの状況であったとしても、神はどっしりと構えていてくださる。そして、私の揺らぎというものをしっかりと見守り、支えていてくださる。ゆえに、私は揺らいでも、ゆるぎない神の守りのおかげで、私は生きていくことができるのだと。
 
今日の聖書の言葉ではありませんが、船に乗り込んだイエスの弟子たちが、嵐によって湖上の船が沈みそうなほどに揺れ動いたときに、弟子たちの心も揺れ動きながらも、イエスは船端で動じず眠っていたというシーンを思い出します。弟子たちはイエスに不安を叫びます。しかし、イエスは嵐を鎮め弟子たちを安心へと導いた。まさに「信仰」が物語る一場面です。
 
信仰とは、神が人間を祝福し守ってくださることの実体・実質そのものです。私が神に向かう態度を明らかにすることそのものが信仰の本質ではなく、揺れ動く私たちを助けてくださるイエスという実体がおられるというのが「信仰の本質」です。
 
だからこそ、私たちがどんなに揺らごうとも、不安定であったとしても「信仰」は明らかに存在するのです。その信仰を、私たちは神の助けとしていただき、それを握りしめるからこそ、私たちは「信仰によって生きる」ということが可能にさせられるのだと言えるのです。
 
使徒パウロも、多くの困難と迫害、大波小波に翻弄されながら、イエスという信仰の実体を宣教し続けました。パウロは言います。神のおかげで私はそのような困難ななかでも立たせてもらえたし、信仰を伝え、分かち合うことができたのだと。それは、パウロの能力でも精神力でも根性でも力のゆえでもありませんでした。神がこの弱い私を支えてくれた。この一点に尽きるのだと。
 
今日も、頼りない私をすべてご存知である神が、私をしっかりと抱えてくださり守ってくださる。そのことに心を寄せつつ、一日を過ごしてまいりたいと思いました。皆さんの一日にも、そのような主なる神が豊かにともなっていることを、希望の源とすることができますように。お祈りいたします。

27/06/2022

2022.6.27 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書33章17節より
あなたの同胞は、『主の道は公正ではない』と言っている。しかし、彼らの道こそ公正ではない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章10節
主に喜ばれるものが何かを吟味しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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主なる神の喜びに資するものが何であるかを吟味することの大切さ。今日の新約聖書の言葉を通して、あらためてこの大切さに立たされたいという思いにさせられました。
 
吟味すると日本語に訳されたもともとのギリシア語である「ドキマゾー(δοκιμάζω)」は、吟味するの他に、確かめる・検査する・検討する・試験するなど、さまざまな日本語に訳することができる語です。総じていえば、念入りに確かめることによって、物事の本質を識別し見極めるということが期待されるときに、ドキマゾーという語が用いられています。
 
味にも、舌で感じることのできる甘味・酸味・塩味・苦味・うま味のほか、辛味・渋味や、嗅覚や食感、視覚や記憶などが相まって総合的に味覚というものが構成されるのであれば、「おいしい」とひと言で表現できることも、実に奥が深いものだと思わされます。
 
ですから、神の喜びとは一体なんだろうかと考えるときに、私たちは深い思索と黙想というものが必要であることを思わされます。ただし、その営みはいたずらに複雑なものにすることではありません。シンプルな聖書の言葉のなかにも、奥深い味わいがあるということを自覚することの大切さが、私たちの心や思いのうちに温められていくならば、それはおのずと神の喜びというものを味わうことができるのだ。そのように思うのです。
 
そのことを踏まえれば、今日の旧約聖書の言葉はとても深い思索を与えるものだと受け止めることができます。正しくないと確信してやまないことが、実は正しくないのだというのです。言い換えれば、自分が正しいと断言できることが本当に正しいのだろうか。神が期待されている喜びや正しさというものに勝って自分自身を支配してしまう「自己正義」の危うさというものを黙想しながら、聖書の言葉に向き合っていくことの大切さを感じさせられました。
 
神の言葉という眼鏡を通して、聖霊なる神の助けをいただきながら、じっくりと聖書の言葉を味わいたい。そんなことを願いながら、祈りつつ今日の一日を歩んでまいりたいという黙想が与えられたことを感謝し、喜びがにじみあふれるような世界が今日もありますように。お祈りいたします。

26/06/2022

2022.6.26 #仙台宮城野教会 主日礼拝説教「話さずにはいられない」

 

聖 書 使徒言行録4章5〜21節
説 教 話さずにはいられない
説教者 牧師 齋藤 篤

2022.6.26 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編71編20節より
あなたは多くの苦しみと災いを
私に思い知らせましたが
再び命を与えてくださいます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章27節
私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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神によって実に多くの祝福を受けたイスラエルの王ダビデ。そのダビデがこう歌いました。
 
あなたは多くの苦しみと災いを
私に思い知らせた
 
この言葉に触れたときに、ダビデはどのような思いをもって、神にそのような告白をしたのだろうかと思わされました。読み方によっては、神が苦しみや災いというものを、ダビデに与え、ダビデに思い知らせたとも読める文章です。となりますと、神は何かを人間に思い知らせるために、苦しみや災いを与えるのかという素朴な疑問がわいてくるのです。
 
私はいつも思うのです。神はいたずらに人間に対して苦しみや災いをもたらす方ではないということをです。もちろん、神には災いや苦しみをもたらすだけの力がありますし、まるで罰が当たるようにそのようなことをするのは、とても容易いことなのだとも思うのです。
 
しかし、何もないところから苦しみや災いが起きるのではなく、あくまで人間がどのような生き方をするかで、蒔いたものを刈り取ることになり、その結果として苦しみや災いというものがつきまとって来るということなのでしょう。
 
私は、11年前に起きた東日本大震災によって、確固たる安全が叫ばれていた福島原発が爆発することによって、多くの放射能被害が起きたことを思い出すのです。この被害はまさに苦しみであり災いでした。しかし、これは神がいたずらに引き起こした罰だったのでしょうか。私はまったくそう思いません。人間の浅はかさ、その罪の結果が苦しみとなり災いとなった。私はそう思えてならないのです。
 
話はダビデに戻って、ダビデも王権を盾にして欲望を満たそうとしたことがありました。その結果彼は苦しんで、その災いを己が身に受けたのです。こうしてダビデは、自分の欲望が神の御心に勝っていたことを自覚しました。
 
しかし、そのようなダビデを神は決して見捨てたりされないというのが、続く言葉によって明らかにされます。
 
あなたは再び命を与えてくださいます
 
苦しみの行く末に、生きる命が与えられる。何という希望だろうかと実感させられます。殺伐とした、裁かれ打ちのめされ、立ち上がれなくなるようなことがあったとしても、神はそのうえでこの私に命を与えてくださるというのです。
 
神とともに歩むことの幸いを痛感したのちの神の助けは、これまで以上に大切にするに違いない。ダビデは実際にそうであったし、私自身も神の助けが本当にありがたいものなのだと胸に刻みつつ、今日の一日を神からの命によって生かされたいと願い、祈ることができました。
 
苦しみにおびえる人生ではなく、イエスが平和を与えることによって芽生える命が、今日もすべての人を根本的なところで生かす礎でありますように。お祈りいたします。

25/06/2022

2022.6.25 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記8章5節
人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練することを心に留めなさい。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書13章15節
イエスの言葉:
私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私事ですが、4月から7月までの期間、ある教会が主催する「主の弟子訓練」クラスにオンラインで参加しています。これまでも、この「主の弟子訓練」に大きな関心と興味を抱き、自分自身もその実践者となるべく関わり、取り組んでまいりましたが、あらためて初心に帰って、今回のクラスに参加することにしました。
 
ちょうど昨日そのクラスがあったのですが、とても和やかな雰囲気のなかで、参加者同士が互いの思いや心のうちにあるものを分かち合い、祈り合い、御言葉に聴くとても充実した機会をいただいています。昨日もそのような気持ちを十分にいただくことのできたひと時でした。
 
しかし、弟子訓練と聞くと、とてもダーティーなイメージが教会の世界につきまとっているのを、私自身よく知っています。私も一番最初に弟子訓練の看板を立てているある教会とその牧師を見たときに、とても嫌悪感を催すものであったことを思い出します。
 
なぜならば、その教会の牧師は主の弟子というよりは、自分という人間の弟子、つまり自分が意のままに操ることのできる信徒に仕上げるために、弟子訓練という言葉を使っていたからでした。一見すると統制の取れているような教会が仕上がったわけですが、その実は、牧師の欲望を強制的に信徒に押し付けているにすぎませんでした。結果、その牧師は信徒に対する強制性交の罪で逮捕されました。まさに「カルト化」の温床として、弟子訓練という名前が用いられたわけです。ダーティーな印象がつきまとうのも十分に納得できます。
 
さて、今日の旧約聖書の言葉にも「訓練」という言葉が用いられています。訓練とはトレーニングという言葉に置き換えることができます。人間の健康維持に日ごろの運動・トレーニングが必要であるように、私たちの魂も日常の整えが必要であることを訓練という言葉が物語っていると私は思っています。
 
そのときに、何によって私たちの魂が訓練されることが必要なのか、今日の申命記の言葉は的確に述べられています。「親が子を訓練するように、主なる神の訓練を心に留めよ」と。親が子どもを育てるときに、真心のこもった愛情で養い育てているように、神は私たち人間の魂を、ご自分の愛がこもった御心で育ててくださろうしておられるのだ。この思いを大切にしなさいと述べているのです。
 
訓練という言葉は、軍事訓練のようなものではありません。神が聖書を通して語っておられるご自身の言葉の本質が、私たち一人ひとりの魂を育ててくださり、私たちはそれによって人生が実に豊かにさせられるということを、訓練という言葉は指し示しているのだと実感させられます。
 
神の御心の完全な実践者となられたのが、救い主イエスでした。今日の新約聖書の言葉にもあるように、イエスは弟子たちに言われました。私はあなたがたにその模範を示したのだと。この言葉に私たちは心を寄せたいのです。イエスがどのように生きたのか、その本質に生きることこそ、主イエスの弟子となることであり、そのための訓練なのだと。そして、その訓練には、イエスの愛があふれているものなのだと。少なくとも、昨日のクラスはそのような愛に参加者が互いに共有される時と機会だったと、昨日のことをを振り返りながら思わされていました。
 
神の言葉を取り扱い、それを取り次ぐ立場にある者として、神が与えてくださる訓練の意味というものを決して取り違えることなく、明日の礼拝に向かって、自分自身が主の弟子とされるべく魂を主なる神に整えていただきたいと願い、祈りました。今日の一日が、神を知るすべての方々にとって、そのような祝福に満ちあふれた整いの時でありますように。お祈りいたします。

24/06/2022

2022.6.24 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編19編8節より
主の律法は完全で、魂を生き返らせる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書3章10~11節
群衆は、「では、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書、そして旧約聖書からの新約聖書の言葉を黙想して感じたのは、いわゆる「主なる神の律法」の本質というものがどこにあるのかということへの深い洞察と示唆でした。
 
今日の旧約聖書の言葉は、主の律法は完全であり、それは私たちの魂を生き返らせる力を持っているのだという詩人の思いが歌われています。そして、律法とはかつて神がモーセを通してエジプトを脱出したイスラエルの民に与えられた、十戒をはじめとするさまざまな教えや掟を指すわけです。では、律法の何が完全であって、どうだから私たちの魂をリフレッシュさせる力があるというのでしょうか。
 
律法とは、神の人間に対する愛の表明であると言った人の言葉を思い出しました。神の愛はときに人間を良い意味での自由と解放に向かわせ、自由と解放に向かうなかで、人間が苦難の路頭に迷ってしまうことのないように、行くべき道を指し示す。神は、人間に対して本当に幸せな人生を歩んで欲しいからこそ、愛の表明として律法を与えられたということを踏まえれば、「主の律法は完全」という言葉は、神の愛が完全であるという言葉にも置き換えられるのだと、私は受け止めました。
 
ですから、律法を守るということがすなわち、神の人間に対する愛がこの世界にあふれるような方向性に働くのであれば、律法における本来の目的が果たされると思うのです。だからこそ、私たちの魂は神の愛によってリフレッシュされて、その愛が人間関係にあふれ出すのだと思うのです。
 
そのことを踏まえますと、私は律法というものを使って他者をいたずらに断罪し、その人の魂が生き返るどころかスカスカなものにさせていないだろうかと、自分自身が問わされます。その状況における意味も本質も問うことなしに、聖書の言葉を文字面だけでとらえて人に向けて放つのであれば、そこに神の愛はあるのか。聖書の言葉を取り次ぐ務めにある者として、深く考えさせられます。
 
今日の新約聖書の言葉は、神の愛を曲解していたイスラエルの民が、神の愛に歩調を合わせて生きるべく、洗礼者ヨハネに洗礼を授けてもらった後に、では、今後どのような生き方をすれば良いのですかと、人々がヨハネに尋ねているシーンです。ヨハネは言います。施しなさいと。施しというのは、それこそ律法に記されている生活行動でした。
 
しかし、ヨハネが人々に勧めた施しの行為というものは、ただ機械的に行うもの、行わなければその罪が問われるようなことを目的とはしなかった。神の愛が人々の間にあふれるような神の愛に基づいた律法の本質というものを人々に知らせ、神の愛が表明され、あふれ出し、分かち合われる世界を担うことのできる私たちの生き方というものを提示されたのだと私はそのように捉えました。
 
神の愛がこの世界にあふれますようにと祈りつつ、その愛を受けた私自身の生き方を愛の道へと整えてくださいと祈りました。そして、神の示される愛の道を、私たち一人ひとりが共に歩むことで、本当にこの世界が平安へと導かれますように。お祈りいたします。

23/06/2022

2022.6.23 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章7節より
声を響かせ、賛美して言え。
「主よ、あなたの民をお救いください」と。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録4章29節より
主よ、あなたの僕たちが、堂々と御言葉を語れるようにしてください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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主よ、私たちの道に、あなたの光を照らしてください。
私たちの心をさわやかにし、あなたへ向かって私たちとともに人生を歩む、すべての人々の魂を励ますことができるようにしてください。
アウグスティヌス
 
ふたつの聖書の言葉にもとづいた、今日の「第三のテキスト(ドイツ語原版である『Die Losungen』にある祈りや賛美のことば)」は、4~5世紀に生きた神学者であり宣教者であったアウグスティヌスの祈りでした。
 
このアウグスティヌスの祈りから思わされたこと。それは、人間を励ましたり元気づけるためには、神によって心がリフレッシュされ、さわやかにされるのが本当に大切なのだということでした。
 
こんなことを思い出しました。かつて働いた教会に属しておられた信徒さんの言葉です。「牧師が輝けば、教会が明るくなる」と。私はその方が語るこの言葉に、随分慰めを受けたものでした。そして、改めてその言葉の意味というものを考えさせられました。
 
牧師という職をいただいている私ですが、私は自家発電機ではありませんので、私自身が発光したり、それで輝くわけでは決してありません。むしろ、時には消極的に、場合によっては輝きとは真逆の、どんよりとした闇をかもし出していることも多々あることを思わされます。
 
しかし、どんなに闇をまき散らしてしまうような素材を持っている私であっても、光かがやく人生を歩むことができるのだというのが、今日の聖書の言葉が伝えるメッセージなのだと受け止めました。私たちの人生の道程に光を注ぎ、行くべき道を示してくださる主なる神がおられるではないかと。
 
牧師が輝くという言葉は、まさに主が放たれる光によって人生を歩もうとするときに、その人生をともに歩んでくれる方々とともに、神によって励まされたり慰められたりしながら、希望をもって人生の日々を歩むことができるように、神は教会という共同体を与えてくださったのだと、だから教会が明るくなるということが言えるのだろうと改めて実感させられました。
 
なにも、牧師や教会だけに限りません。私たちの生きる場はいかなる形を取ろうとも、神が照らされる光によって、私の心がさわやかにされ、賛美を奏でながら神の言葉に耳と心を傾けて、身の回りに生きる方々とともに生きることができるのだと。
 
今日の新約聖書にある「堂々と御言葉を語れるようにしてください」というのは、聖書の知識を蓄積して、その蓄積を披露するといった意味ではないと私は思います。もちろん、私たちは神の御言葉に生かされます。しかし、言葉は私たちを励まし、慰めるための神の働きなのだということを、何よりも大切なものとして受け取りたい。そのように思ったのです。
 
私たちの人生に潤いを与えるべく、生きて働いておられる神に感謝し、また期待しつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと心から願い、また祈ります。どうぞ素敵な一日でありますように。お祈りいたします。

22/06/2022

2022.6.22 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言7章2節
私の戒めを守って生きよ。
私の教えを目の瞳のように守れ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙3章13節
あなたがたの中で、知恵があり分別があるのは誰ですか。その人は、知恵に適う柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書の言葉に「目の瞳のように」という表現が登場します。私は、目そのもののことを瞳だと思っていましたので、なんか面白い表現だなと思わされたわけです。
 
しかし、瞳という文字を調べますと、瞳というのは、いわゆる眼球の構造のなかでも、光を取り入れる部分のことを特定して瞳と言うのだそうです(間違った理解かもしれません。詳しい方で間違いがありましたら、是非教えてください)。
 
つまり、私たちは目を持っていても、光を認知しなければ物を見ることはできないというわけで、これはとても興味深い言葉だなと思いました。神が放つ光を受け取る瞳を守りなさい。箴言の言葉は、そのように私たち一人ひとりに伝えているのだと理解しました。
 
それが具体的には、神が人間に与えられた教え・戒めであると、今日の箴言の言葉にあることに気づかされます。この場合、神による戒めとか教えとは一体何だろうか。そのように考えます。
 
一般的に教えとか戒めという言葉を聞くと、私たちの生き方を指し示すものというイメージがあり、戒めという言葉を聞けば、何やら厳しい戒律のようなものという印象を抱かせるものであるかもしれません。それを守りなさいと言うのですから、守れないと感じた途端に、ものすごいハードルの高さを感じるかもしれません。一般的に宗教というものに「敷居の高さ」を感じるのは、そういうところから来ているのかもしれません。
 
しかし、今日の箴言の言葉を通して思わされることがあります。それは何かというと、たとえ眼球を持っていたとしても、光をキャッチする瞳がなければ、何も見えないということです。つまり、見た目にはどんなに神の教えや掟というものを守っているように見えたとしても、神が放たれる光、つまり神が私たちに与えられるご自分の御心、本質、生きる喜びというものを私たちが受け取ることがなければ、どんなに立派な行いをしていたとしても、それはとても空しいものとなってしまうのではないか。そう黙想しました。
 
今日の新約聖書の言葉であるヤコブの手紙の一節は、知恵に適う柔和な行いをもって、良い生き方を示しなさいとあります。ここで言う知恵とは、紛れもなく神の知恵のことを指しているわけですが、私たちの側に求められていることは、その神の知恵を受け入れるための瞳を、私たちは瞳としての機能が果たされるべく、大切に守り続けることなのだと理解できます。
 
行いを果たす前に、自分自身のうちにあるものを確かめる営み。この営みのなかで、神の放たれる光というものを受けられるように、自分自身を神の言葉と聖霊の助けで整えたい。そんな思いに導かれた、今日の黙想でした。
 
昨日、このような聖書の言葉を知りました。
 
守るべきものすべてにも増して
あなたの心を保て。
命はそこから来る。(箴言4章23節)
 
今日の一日が、私の心が主なる神様とともにありますように。お祈りいたします。

21/06/2022

2022.6.21 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編8編3節より
あなたは幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書21章15~16節
祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、また、境内で子どもたちが叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私はよく覚えていないのですが、幼い頃親に連れられて誰かの家に行くと、帰り際、私はそこの家の人に「お土産はないの?」と言っていたんだそうです。帰りに何かを持たせろと言わんばかりの(実際に言ってしまっているわけですが・・・)、何とも礼儀知らずの言葉だと、振り返っては思わされます。母親が笑いながらそのときの話をしてくれます。
 
こどもは大人のように、周りの空気を読むとか、そういうことをすることはありません。自分の思ったことを、自分の思ったように、自分の表現方法で言ったり行ったりする。その素直さが良かったりすることが、しばしば私たちの日常のなかであったりするのを、私たちはよく知っていると思います。
 
今日の聖書の言葉ではありませんが、大人たちの集まるところで、子どもがイエスに近づきます。大人は子どもはあっちに行けと扱おうとすると、イエスは子どもを抱き寄せ、子どものように神の国を求める者の幸いについて語られました。イエスの持つ価値観というものは、子どものような素直さを抱くことの大切さに触れているのです。
 
さて、今日の聖書の言葉です。旧約聖書の・詩編にあるひとことは、神が子どもたち、まだ言葉を発することすらできない乳飲み子の口から砦、つまりご自分の力というものを明らかにされたという歌です。知恵の言葉を話すことはできない。大人たちの集団のなかでは、何とも空気の読めない物言いかもしれない。しかし、神はそのような知恵も知識も遠慮も配慮もなんもない、しかし、素直に生きるその口から、ご自分の知恵と力を示されるというのです。
 
そのことが、今日の新約聖書の言葉になりますと、もっとストレートに知らされる物語として、私たちにその意味が明かされます。イエスを良しと思わない人々は、子どもたちがイエスによる救いをわらべ歌のように賛美しているのを見て、イエスに憤慨したというストーリーです。イエスを殺そうと思っていたくらいに憎んでいた人々は、子どもたちの口から出る言葉にも怒りをあらわにしますが、子どもたちから真実が語られたことも事実だったのです。
 
私は黙想します。大人になればなるほど、さまざまな経験や知識が蓄積されることによって、それはこの世を生きるための知恵となり、過酷な世の中を生きるために無くてはならないもののように思えるかもしれません。しかし、その分素直に生きるということからは離れてしまってはいないだろうか。周りの空気や調和、ときには圧力というものを感じてしまうがゆえに、神が与えてくださる幸いというものを思いながらも、それを口にし、自分の生き方で表現することにはばかってしまうような自分自身はないだろうかと。
 
子どものような素直な喜び、神がご自分の言葉を通して私たちに語られる豊かさというものを、私の生き方としたい。そんなことを願わされました。そういうところには、神はご自分の知恵と力をふんだんに注ぎだし、真実が喜べるような世界をつくりだしてくださる。そんな神のなさることに期待して、今日という一日を歩んでまいりたいと願います。
 
皆さんの一日にも、そのような神の豊かさが皆さんを通してあふれ出しますように。お祈りいたします。

20/06/2022

2022.6.20 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章3節
あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章68~69節
シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の聖書の言葉とともに、『日々の聖句』の原本である『Die Losungen(ローズンゲン)』に掲載されている「第3のテキスト(聖書の言葉にテーマを合わせた賛美の歌詞や祈りの言葉、名言格言)」は、このような言葉が記されていました。
 
泉で水を汲める者が水瓶から汲んではならない
レオナルド・ダ・ヴィンチ
 
ダ・ヴィンチがこのような言葉を残したことを初めて知ったのですが、実に深い示唆というものを、私たちに与えていると感じました。私はこのダ・ヴィンチの言葉を通して今日の聖書の言葉を黙想したときに、あるひとつの思いが与えられました。それは、
 
原点回帰の大切さ、本質を求めることの重要さ
 
というものです。源泉で新鮮な水を汲むことができるのであれば、そこから水を得たほうが新鮮な水を手に入れることができるというものです。それは、水瓶にどれだけ水がためられていたとしても、その水量と新鮮さたるや源泉には逆立ちしてもかないません。
 
もし、泉に象徴される原点・本質に帰ることができるのであれば、それに帰らずして、どうして神を知ることができよう。神についての知識が水瓶にたたえられた水のように、ふんだんに語られ守られたとしても、神が私たちに期待しておられることの本質からずれ、異なっているのであれば、どうして神を語ることなどできるのだろうか。そのように黙想させられました。
 
今日の聖書の言葉は私たちに語ります。私以外に神々があってはならないと。モーセをはじめとする神の民に与えられた十戒における最初のコマンドです。この神々というのを、異教の神々というふうに直結してしまい、それだけに集中してしまうのであれば、原点回帰にはならないと私は思うのです。
 
そうではなくて、神々とは本質を求めようとしない人間そのものの姿なのではないか。そう思ったのです。聖書を通して語られる神の真の姿を理解しようとせず、自分好みの、非常に都合の良い神を私自身が規定し、そこから生き方を得ようとする姿は、せっかく源泉から水をふんだんに飲める機会を逸し、目の前にある水瓶だけで満足しようとする人間の姿に相通じるのではないか。そう感じたのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、永遠の命の言葉を持っておられるイエスにこそ、帰る道があるのだと告白した、弟子ペトロの信仰告白です。イエスの言葉にこそ神の本質があるのだというペトロの告白は、実に考えさせられます。私は本当にイエスの言葉の本質というものに、自分自身を置いて生きようとしているのだろうかと。
 
これは、聖書の言葉を自分の都合を優先した結果、神の本質から逸脱した受け取り方をしていないだろうか。また、言葉の文字面だけに集中してしまうあまり、言葉の奥深くにある本質を無視してはいないだろうか。そんなことを思わされたのです。泉ではなく水瓶に自分の根拠を求めようとする姿ではなく、あくまで泉から活ける水をいただく者でありたい。それが私の黙想です。
 
今日も、神が与える本質に導かれたいがゆえに、神の言葉に向き合うことができますようにと祈りました。皆さんの一日も、活けるいのちの水を得る幸いなときでありますように。お祈りいたします。

19/06/2022

2022.6.19 仙台宮城野教会主日礼拝メッセージ


2022年6月19日
仙台宮城野教会主日礼拝

聖書 創世記12章1〜4節
   ローマの信徒への手紙4章1〜3節
説教 75歳の信仰者  牧師 齋藤 篤

※上の動画をクリックしてご視聴ください。

2022.6.19 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言11章24節
惜しまず与えても富の増す人があり
物惜しみをしても乏しくなる者もある。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録20章35節
パウロの言葉:
「労苦して弱い者を助けるように、また、主イエスご自身が『受けるよりは与えるほうが幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧約聖書の言葉は、とても考えさせられるものだとつくづく感じさせられました。私訳ですが、こんな訳し方もできる聖書の言葉です。
 
太っ腹はますます富むが、けちはますます貧しくなる。
 
しかしどうでしょう。これは世の中一般で受け入れられている考え方ではないような気がするのです。太っ腹に財産を使えば、最後はすっからかん。けちを発揮すれば、財産はどんどん増えていく。いろいろな人の実例を見ても、それが普通のことなんだと思わされます。
 
ただ、こういうことも言えます。太っ腹な人は悪く言われることはありませんが、けちな人はあまり良く言われることもない。この富んだり貧しくさせられたりというのは、私たちの心の状態のことを指しているのではないだろうか。そう思わせられたのです。
 
ですので、この聖書の言葉は、実際の財産は太っ腹に使わなければならないとか、財をためこむことが悪いのだというように解釈をすると、なんかおかしいことになってしまうと思うのです。そういうことではなくて、私たちの心が、今日の新約聖書の言葉で触れられている『受けるより与えるほうが幸いである』というイエスの言葉を、どのように受け止められるだろうか、ということにポイントがあるような気がするのです。
 
イエスの言葉にある「幸いである」という言葉は、言い換えれば「すでに祝福されている」とも訳することのできるものです。たとえ与えることで馬鹿を見たとしても、神はすでにそういうあなたを祝福しているのだと。たとえそのことであなたがすっからかんになってしまっていたとしても、あなたの心をすべてご存知である神は、あなたはいっぱいに祝福するのだよ。
 
逆に、物心問わず人に寄生し、消費し、依存し続けるような生き方、つまり「受ける」だけの生き方は、神の祝福のありがたみすら失われて、忘れ去られてしまう状況に自分自身を追い込んでしまう結果となる。たとえ実際に豊かな生活をしていたとしても、どこか心は空虚なものとなっていく。そういう意味での貧しさを思わせる生き方なのかもしれません。
 
神の祝福が、また私たちの心を豊かなものとするときに、それはおのずと満たされる生活へと導かれることを信じて歩みたい。たとえもぎ取られ、失われるような目に遭ったとしても、そのことをすべてご存知である神は、必ず豊かさというものを与えてくださるのだということを心の希望にして、今日という一日を歩みたいと願わされました。
 
週の初めの日、ほうぼうで持たれる礼拝が祝福されますように。そして、この祝福こそ、私たちをまことに豊かな一週間へと導いてくださる基であることを、ひとりでも多くの方々が味わうことができますように。お祈りいたします。

18/06/2022

2022.6.18 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編107編9節
まことに主は渇いた魂を潤し
飢えた魂を良いもので満たしてくださった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章19節
私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
朝起きたときに口に含む一杯の水が、渇いた喉を潤す経験というものを、私たちは誰でも持っていると思います。私も今朝、起き掛けに飲んだ水がからだ中に浸みわたるのを経験しました。寝かたが悪かったのか、いささか頭痛を感じた朝だけに、水を飲んでしばらく経つと、徐々に頭痛が和らいできました。おそらく水分が血管を通じてほうぼうに行きわたったのだと感じています。それだけ人間のからだにとって、水分というものの大切さを実感させられます。
 
今日の旧約聖書のことばは、まさに私たちにとって魂を潤す水分こそ、いのちの水である神の働きであり、具体的には聖霊の注ぎが私たちの魂を潤すのだと受け止めました。飢えや渇きというものを、私たちは自分の魂のなかでどのように感じているのだろうか。そんなことを思いながら、神の働きを思い巡らします。神は良いもので満たしてくださったと詩人は歌いました。この「良いもの」とは一体何だろうか。そんなことを黙想させられます。
 
私にとって良いものと、神にとって良いものとは、時と場面によって異なることがあるのだと感じています。私が「これがいい!」と思っていても、神にとっては実はそうではない。このズレが、ときに私たちを悩ませることがあります。自分の思うように事が運ばない。思うようにあの人は動いてくれない。期待していたことと違う。そんな思いが私たちの思いをよぎるとき、また支配するときに、私たちは心が騒ぎます。さまざまな感情が行き交い、それがストレスになったり、ときには怒りの感情を生むことがあるかもしれません。
 
そんななかで、神は私たちの必要を「イエス・キリストにあって」満たしてくださると、今日の新約聖書の言葉は、私たちに語ります。私たちの望むまま以上に、神がイエス・キリストの御心を私たちに、聖書の言葉の本質、聖霊の助けをともないながら、私たちにとってベストとなるべく、その必要を与え、満たしてくださるというのです。
 
私たちが聖書の言葉にふれるときに、それは時に様々な葛藤を生み、心が悶々とし、神の言葉に抗いたくなるような感情が生まれるかもしれません。それ自体、全然悪いことではありません。むしろ、自分の素の感情にふたをするほうが、よほど不健全でしょう。
 
しかし、そういう自分自身を見つめながら、神は私にどのようなベストの選択をお与えになられるのだろうかということに、私たちは期待ながら、いのちの水を口に含むことをしたいのです。そのために、聖書の言葉が今日も与えられることに、聖霊なる神が私たちをしかるべきところへ導いてくださることを期待しながら、一週間の最後の一日を歩む者でありたいと願わされた次第です。
 
一週間も最終日を迎えました。どうぞこの一日が、明日の主の日への備えの一日として、神が導いてくださいますように。お祈りいたします。

17/06/2022

2022.6.17 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編104編1~2節より
わが神、主よ、あなたは大いなる方。
威厳と輝きで身を包む。
光を衣のようにまとわれる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章9節より
あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちを闇から光の世界に招いてくださった救い主イエスを宣べ伝える「ために」どうさせられているのかということがポイントになります。今日選ばれた聖書の言葉は、第一ペトロ2章9節の後半だけですので、前半部分にも目を留めてみたいと思います。こうあります。
 
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。
 
前半部分を見れば、私たちは神によって選ばれ、祭司、つまり神を礼拝する民とされ、そして何よりも神のものとさせられた者たちであることが記されています。このことを踏まえて後半部分を読めば、「神がおられる」ということを私たちが宣べ伝えることができるのは、神が私たちをご自分の民としてくださったからなのだと受け取ることができるのだと思います。
 
この考え方は、とても重要なことを私たちに伝え、教えるものなのだと私は受け止めました。神の救いを伝えるという行動は、どうしても私「自身」の言動にかかっているような思いにさせられることはないでしょうか。これだけ一生懸命伝道したとか、積極的にあの人に救いを伝え続けたとか、そんな感じにです。
 
もちろん、愛する者の救いのために神を伝え続けることは何も悪いどころか、とても素敵なことだと私は思います。ただ、その前提があるということなのです。そもそも宣教とか伝道というのは、私というからだを用いて神がなしてくださる業なのだという大前提です。そのために、私たちをご自分の民としてくださり、礼拝する民へと整えてくださることで、ご自身の愛に代表されるご自分の価値観を御心として、私たち一人一人に光のごとく注ぎ、宣教する者としてくださったというのです。
 
そういう意味で言えば、私たちは神が注がれる光をキャッチしてその光を放射することのできる、言わば反射板のような働きを担われているのだと思います。反射板は受けた光を渡すことができるように、メンテナンスをし続けることで反射板としての役割を果たせるようにするのが、反射板としての務めなのでしょう。
 
そのためにも、神の言葉である聖書が語る本質と、それを本質と気づくように促してくださる聖霊の働きが、反射板を磨く研磨剤のような役割を果たしてくださるのでしょう。聖書の言葉に聴き、祈り黙想しつつ、今日という生活へ押し出されることの幸いを今日も感じながら、歩んでまいりたいと思います。
 
どうぞ、皆さんの一日もそのような幸いなる時でありますように。お祈りいたします。

16/06/2022

2022.6.16 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記23章25節
あなたがたは、あなたがたの神、主に仕えなさい。そうすれば、主はあなたのパンと水とを祝福する。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章31~32節より
だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の聖書の言葉を通して思わされたこと。それは、私たちの衣食住に神が祝福するとは一体どういうことなのだろうか。ということです。そのことを黙想してみたいと思いました。
 
イエスは人々に言われました。飲食や生活のことで思い煩うことがあってはならないよ。天の父なる神は、私たちの必要をすべてご存知なのですから。
 
この言葉を、私たちはどのように受け止めることができるのでしょうか。衣食住の思い煩いというものは、大体はそれが欠乏した時に起きるのではないかと思うのです。経済的に苦しいときに、私たちは思い悩むのではないか。
 
また、たとえ欠乏していなかったとしても、衣食住のことで思いや心がいっぱいになってしまうあまり、本当に大切にしなければならないことを見失ったりないがしろにしたりする場合にも、もしかしたら「思い煩い」という言葉が用いられるかもしれません。この「思い煩う」と日本語に訳した原語には、思い煩うの他に「心配する」もしくは「心を配る」という意味としても用いられるからです。
 
だからといって、もし欠乏のことで心配してしまうその思いに、神はそのままで良いとは全然思っておられないと私は感じるのです。なぜならば、今日の旧約聖書の言葉にもありますように、神は私たちに与えられた「パンと水」、つまり飲食に示された私たちが生きるための生活を祝福してくださる方だからです。あくまで私たちの神は、私たちの生活で本当に必要なものをご存知なうえで、私たちに必要なものを、必要なときに、必要な分だけ与えてくださる方であるというのです。
 
では、現実的に欠乏を感じるときにでも、神が私たちの必要を満たしてくださるとどのように思えるのでしょうか。私たちがどんなに窮乏を訴えたとしても、すぐに神が満たしてくださるなどということは、現実的にあり得ないと感じる場合があります。そんな時に、私たちは神が私たちの願いを聞いてくださらないと思うこともあるのではないか。では、そんな時に私たちはどうすればよいのでしょうか。
 
私はこう黙想させられます。神は私たちが本当に必要とされるベストタイミングをご存知な方なのだということを私たちの希望にして、日々与えられた分を精一杯生きながら、神に期待し続けることなのかなと。
 
今日の旧約聖書には「あなた方の神である主に仕えよ」とありますが、イエスはそれを具体的に、今日の新約聖書の言葉に続いてこう語っておられます。
 
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。
(マタイによる福音書6章33節)
 
大変有名な聖書の言葉です。神に仕えるというのは、神の国、つまり神の持たれる価値観で満たされた世界と、神の義、つまり神が正しい御方であるということを、私たち一人ひとりがその手に握りしめ、胸に抱き期待しながらその日その日を生きるときに、必ず神は私たちに生きる充足感を与えてくださるのだと。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられるというイエスの言葉に、今日も心から期待して歩んでいきたい。これが私に与えられた今日の黙想でした。
 
どうか、みなさんの生きる一日も、そのような神への期待に満たされた時となりますように。お祈りいたします。

15/06/2022

2022.6.15 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編121編8節
主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。
今より、とこしえに。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二3章3節
しかし、主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧約聖書の言葉は、新共同訳聖書では「あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」というフレーズで知られたものです。「~してくださるように」という祈願の言葉に代わって、聖書協会共同訳聖書では「~くださる」と断言しているのは、とても新鮮であると私は感じました。
 
守ってくださいますようにと神へ祈ることができるのは、神が守ってくださるという真実への深い信頼があってこそなのでしょう。その前提を、私たちは聖書の言葉を通して知らされます。たとえ、神が守ってくださるということに私自身がついて行けない、そんな確信がなかったとしてもです。
 
私たちは、自分のなかで確信がなければ、神を信じることができないと思っている節はないでしょうか。信仰とは自覚的なもので、私の行動の結果であると、私たちは心のどこかで思っているかもしれません。しかし、今日の聖書の言葉にもありますように、私たちが願う前に、すでに神は私たちの願いがあろうとなかろうと、私たちのために働き、私たちを守ってくださっているという大前提があるのです。
 
大切なのは、神の働きに私たちが生活のあらゆる場面において「気付き、発見する」ということです。この気づきと発見が、私たちに信仰の告白を促したり、願いに満ちた祈りをささげるよう、私たちを導いてくださいます。
 
もちろん、私たちは神のそのような働きに気づく前から、神に頼って、すがって、祈りをささげることが多々あったことを思い出すでしょう。その結果、神の働きを知り、気づいたからこそ神を信じることができた。それは間違いありませんし、神を信じるに至った大切な過程です。
 
そのうえで自覚したいこと。それは初めて神を信じたその後も、神の働きを通して自分自身が守られているということは「繰り返し繰り返し起きる」ということです。この連続性のなかで、私たちは神が与えてくださる恵みを感じ取り、そしてその応答として神を信じるという交流の循環がある。この循環こそ、神とともに生きる味わいなのだと。
 
今日一日も、その循環が与えられ、自分自身の生活が守られていることを期待して、歩んでまいりたいと願わされました。皆さんにとってもこの一日が、そのような神の守りに気づきが与えられるような時でありますように。お祈りいたします。

14/06/2022

2022.6.14 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編127編1節より
主が町を守るのでなければ
守る人は空しく見張ることになる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙1章6節
あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
神に守られている感覚というものを、私たちはどのように抱きながら毎日の生活を営んでいるのだろうか。今日の聖書の言葉を通して、こんな黙想に導かれたいと思わされました。
 
主が町を守るのでなければ、どんなに自分自身で守ったとしても、それは空しいもので終わってしまうと詩人は歌いました。守るとは大切にすることに相通じます。つまり、私たちは何を大切にして生きているか。そんな問いへとつながっていくのだと思います。
 
さて、現在お仕えしている教会は、2020年を創立年としています。2つの教会が合併して新たな歩みを始めたという気持ちがあふれており、私もその思いに心から同調しつつ、宣教の務めをいただいています。そのうえで、2つの教会はそれぞれ、1941年(旧・仙台愛泉教会)と1989年(旧・宮城野愛泉教会)という創立年を持っていました。さらに、1941年に創立した旧・仙台愛泉教会は、1906年に創立された「救世軍仙台小隊」をルーツにもっています。まさに116年という長い歴史のうえに、創立3年目の新しい教会の歴史があることを思わされます。
 
何が言いたいかと申しますと、歴史というものはそれを守り大切にする信徒や、教会に招かれ派遣される牧師の協働があってこそのものであると思うのですが、この協働の中心に立たれるのは私たちの神であり、神が私たちにご自分の御心を現わしてくださり、その御心を聖書の言葉であるとか聖霊の助けというものを得ることによって、本当に大切なものを、大切なものとすることができるのだと。
 
教会の歴史というものは紆余曲折、まさに谷あり山ありの歴史をたどっていくのだと思います。1941年から長年仙台愛泉教会の牧師として歩んできた揚野與之助牧師は、仙台に派遣されてきた当日のことを振り返り、こう綴っています。
 
「半年以上も人の気配のなかった家の中には、会堂は勿論、座敷も二階もほこりで歩けない…」
 
それまで30年余り宣教が展開されてきたであろう教会は、300名以上書き連ねられていた会員名簿に記されたお名前の一軒一軒を訪ねても、返ってくる反応はかんばしいものではなかったのだそうです。つまり、死んだかのように見えたかもしれない教会も、神が守ってくださるという御心に立てば、以後80年に至るまで神の善い業が教会を通して働き、それが決して空しいものならずに、教会の歴史は引き継ぎ引き継がれるのだと。
 
ですから、教会がどんな形に変わっていこうとも、主なる神がその真ん中にいてくださり、私たちに大切なことを示してくださることを大切にするならば、神が祝され、導き続けてくださることを、私の希望として歩みたいと思わされました。何も教会だけの話に限りません。家庭も職場も学校も、地域社会も同じことが言えるのだと思うのです。
 
私たちの心の真ん中に神がおられ、その神が私たちを日々御言葉と聖霊で整えてくださることを大切にすることができますように。空しさから脱却させてくださる神の御心を今日も自分の生きる柱とすることができますように。お祈りいたします。
 

13/06/2022

2022.6.13 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編65編6節より
我らの救いの神よ
あなたは義によって答えます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章14節
私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
私は前に、こんなことを尋ねられたことがあります。

「イエスは、願うことは何事でもかなえてあげようと言っておられるのに、どうして私の祈りは聞いてもらえないのでしょうか。」
 
このような質問を、私は何度も受けたことがありました。このような質問をされる方は、本当に悩み苦しみを抱えておられて、真剣に神に祈りをささげていることがじんじんと伝わってきます。しかし、どんなに願っても、自分の願うように悩みが解消されることがないのです。本当につらいことだと思います。
 
そのような質問に、どのように応えることができるだろうか。こんな話を聞いたこともあります。牧師がこのように返答したのだそうです。
 
「それは祈りが足りないからだ。」
 
いかにももっともらしい答えかもしれませんが、的外れもいいところです。どんなに回数を多くして祈り倒したとしても、大切なのは「どのように祈るか」です。このことなくして、どんなに祈ったとしても、祈りそのものが間違っているならば意味がありません。同じ牧師として自戒させられる実例です。
 
では、どのようにその質問に答えることができるのでしょうか。今日の聖書の言葉によれば、「神の義、正しさ」を理解した祈り、そして「イエスの名」による祈りこそ、神に聞かれる祈りであるということを分かち合えるような答え方をしたいと思わされます。
 
神の正しさは、イエスの生涯を通して明らかにされました。イエスが祈るとき、人に接するとき、トラブルが起きたとき、イエスは何を大切にされたのでしょうか。それは、神がただ正しい御方であり、その正しさをもって私たちを大切にされているということです。そして、神の正しさによって示された愛は、しばしば私たちが求めていることに沿わない場合もあるということです。
 
ですから、私たちは祈っていく過程のなかで、神の御心というものを聖書の言葉を通してであるとか、聖霊の助けを通していただいてくうちに、私自身の願いというものが軌道修正させられていくことがあります。祈りで気づかされていくことは、意外に多くあるものなのだと、祈るたびに感じさせられていくことがしばしばあります。
 
こうして神の御心に近づいたときに、イエスの生き方に自分自身が寄り添われていくことで、私たちは「イエスの名によって」祈ることができるし、そういう祈りに含まれた願いは、必ず神が叶えさせることを、今日の聖書の言葉は私たちに知らせているのだと受け止めたいのです。
 
こういう質の祈りならば、私たちは熱烈に祈ることは何ら間違ったことではありませんし、むしろ祈りを通して神と交わされるコミュニケーションこそ、私たちの生き方が神によって豊かにされていくのだと。そんなことを望み、また神に期待して、今日の一日を歩んでまいりたいと思いました。皆さんの一日にも、そのような神との交わりがあふれますように。お祈りいたします。

12/06/2022

2022.6.12 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記23章2節より
多数に追従して、悪を行ってはならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章15節
愛をもって真理を語り、頭であるキリストへとあらゆる点で成長していくのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
多数に追従する。今日の旧約聖書の言葉を目にして真っ先に思ったのは「同調圧力」「赤信号みんなで渡れば怖くない」などという言葉でした。
 
私たちはどのような時に、そのような思いにさせられるのでしょうか。自分の心のなかでやましい、良心がとがめるような思いがあったとしても、そのことを言い出せない、行動として表すことができない場合、どうしても強いものに巻かれてしまうような自分自身の決断をしてしまう。そして、多数に追従してしまうのです。
 
さらに加えて言えば、その強い者に対していわゆる「御恩と奉公」のような意識が働いてしまうことがあります。あのときに世話になったのだから、今さら反抗することなどできないという感覚です。そして、強い者に対する「私の愛情」というものが働くこともある。
 
しかし、その愛は神が私たちに示された愛なのだろうか。そんなことを思わされます。愛しているからこそ、真実を共有できるような関係が生まれ、多数に追従して悪の道を歩んでしまうことのないように、是々非々で生きるように促される土台にあるものが、神の愛であると、私は今日の聖書の言葉を通して改めて痛感させられました。
 
愛と甘えというものが表裏一体なものとなりうるときに、キリストの愛がぼやけてしまう。そんなことを想うことがあります。キリストの愛というものは、私たちすべてに徹頭徹尾働き続けていることは、聖書を通して私たちに伝えられるメッセージですが、実はキリストの愛というものは、愛に簡単にすり替わってしまうような人間の甘えとは全然違うものであることを知らされます。
 
ご自分の命を痛みと苦しみのなかで私たちにささげてくださった厳しさがある。この厳しさこそ、多数に飲み込まれることなくただただ私たちの命を救おうという一点において突き進まれた、イエス・キリストの愛なのだと。
 
この愛において、私たちは主の御心によって是々非々の態度を示し続けることこそ、キリストの愛によって成長させられていくということなのだと、自分自身のうちにある、なにもかもうやむやにしてしまうような甘さを真摯に見つめつつ、キリスト自身が負われた厳しさの結果としての愛を、心からいただきたい。その愛をもってこの一週間の始まりを迎えたいと願わされました。
 
今週も、そのようなキリストの愛が真実を明らかにし、私たちもその真実をもって生きることができますように。心からお祈りいたします。

11/06/2022

2022.6.11 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書2章2,4節より
終わりの日に
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦いを学ぶことはない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書3章14節
兵士も、「この私たちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「誰からも金をゆすったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
イエスがこの世で神の国の幸いを伝えるに先立って、洗礼者ヨハネが登場しました。彼に与えられた務めとは、人間に幸いを与える神の心を人々が気づくことで、これまで神をないがしろにしていた生き方を改め、神と歩調を合わせて生きることを促すというものでした。
 
このことを聖書では「罪の悔い改め」という言葉で表現します。罪の悔い改めというと、もちろんその通りの意味なのですが、その言葉の真意を理解していなければ、とても重々しい印象を与えるものであるかもしれません。罪という意味が神との関係性を表していることなど、聖書の価値観というものが基本的な文化として持っていない日本では、なかなか理解されにくいものであると、罪という言葉を聖書から説き明かす立場にある私は、つくづく思わされています。
 
そういう意味から今日の聖書の言葉を思い巡らしますと、特に新約聖書の言葉はとても考えさせられるものであると感じます。兵士は、罪を悔い改めた者の生き方について、洗礼者ヨハネに尋ねました。ヨハネは答えます。奪うな。自分の持ち物で満足せよと。
 
兵士の務めのひとつに、戦いに参加して相手の大切にしている領土や財産を奪い取ることあります。自衛という大切な務めもありますが、いざ戦いとなると自衛のためだけではやっていけない。自衛のために相手の大切なものを奪い取ることだって往々にしてあるわけです。
 
洗礼者ヨハネが兵士に向かって「奪わない生き方」を勧めるというのは、とても興味深いことだと思わされます。まるで兵士であることを放棄するよう勧めているようにも思えます。まさに、今日の旧約聖書の言葉にある通り「戦いを学ばない」のひと言に直結します。
 
相手の尊厳や人権というものを踏みにじってまで、自分の権利にしがみ付いてそれを貫こうとする生き方。ここに神をないがしろにする態度が明らかにされる。つまり、私たちが抱いている尊厳や人権というものは、神が私たちが幸福に生きることができるように、ご自分の御心に従って私たちに与えているのだから、私たちは、神の御心を理解することで、その用い方をも健全なかたちで、それら尊厳や人権というものを考えることができるのだと。
 
自分の給料で満足するとは、自分に与えられている尊厳を重んじることにつながり、神が誰にも同様に、そのような尊厳を幸福のために与えているのだから、それを奪い取ることがあってはならない。それが、いわゆる神と共に生きるということの意味なのだと。私は洗礼者ヨハネの言葉から、そのような思いが与えられました。
 
私たちが好戦的に、自分自身を守るために相手が大切にしているものまで奪い取るような生活をしていないだろうか。そんなことあるわけないと思いつつも、今一度自分自身を吟味して、一週間の振り返りをしたいと思わされました。そして明日、素敵な一週間の始まりを迎えることができますように。そのことを祈りつつ今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。

10/06/2022

2022.6.10 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言15章1節
柔らかな受け答えは憤りを鎮め
傷つける言葉は怒りをあおる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章26~27節より
日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。また、悪魔に隙を与えてはなりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約・新約聖書の言葉を貫くのは「怒り」であると私は受け止めました。この言葉に、私は特別なチャレンジを与えられている者として、特に黙想を深めてみたいと思いました。
 
私はもともと、怒りの感情を管理し、調整しながら表現することがそんなに上手なほうでありません。怒りの感情を抑えることができず、爆発させてしまうようなことがこれまで幾たびもあり、そのたびごとに後味の悪さというものを経験してきました。
 
最近では、怒りを放出することで「ハラスメント(いやがらせ)」につながることが、社会的にも認められるようになりました。ですから、怒りに対してはとても厳しい目が向けられます。それはとても良いことだと思いますし、私のような牧師という職をいただいている者にとっては、そのあたりのことに細心の注意は払わなくてはとつくづく思わされます。
 
数年前から「アンガーマネジメント」という分野に大きな関心をもって、自分自身へのトレーニングとして怒りの感情と付き合うようにしています。怒りの感情を我慢するのではなく、いかに健全なかたちで自分自身のなかで整理し、それを表現することができるだろうか。試行錯誤の毎日ですが、意識するだけでこうも違うものなのだと思わされることも多くあったりします。
 
そう考えますと、聖書という本もまさにアンガーマネジメントに関する多くの勧めがあることに気づかされます。今日の聖書の言葉はまさにそれであるとも言えるわけですが、今日の言葉を通して改めて気づかされたことがあります。それは、怒ること自体もさることながら、怒りを誘発するような言動にも注意を払うことの大切さについてです。
 
私たちの怒りというものは、これまでの生い立ちのなかで培われてきたがゆえに生じる「痛み」が刺激されることによって、引き起こされることがあります。同じ言葉やおこないをとっても、ある人は怒り、ある人はなんも感じないというのは、まさに痛点というものが人それぞれに違うからとも言えるわけです。
 
だから人間関係というものはロボットのように画一的でなく、とても複雑な構造のうえに成り立っているのであって、それだけに難しいのだなと痛感させられます。人を傷つけるつもりはないのに、結果としてその人の心を傷つけてしまったということはいくらでもあるものです。その逆もあるでしょう。
 
では、どうすればよいのでしょうか。私はこう思わされました。まず、自分自身の痛みがどこにあるのかということに真摯に向き合うこと。それを美辞麗句や美談、記憶の美化で覆い隠さないこと。そして、私の向こう側にいるあの人も、私と同じなんだということへの自覚。神はその人が抱える苦悩をすべてご存知なうえで、その人を生かしてくださっているという事実があること。
 
私が相手に関わることで感じる痛みを我慢する必要はないと思うのです。しかし同時に思うことは、相手も同じことを感じているかもしれないという想像力なのでしょう。そして、すべてをご存知である神が、それぞれに痛みから遠ざけてくださるように働きかけてくださっていることへの信頼。
 
毎夕太陽が沈むように、私たちの怒りもやがては沈むときがやってくる。このことを実現させてくださる神に期待して、無理やり怒りを鎮めずにその感情とうまく付き合うことで、今日の新約聖書の言葉にあるように、怒りの日没というものを経験できるのかもしれません。それが実際の日没後に至り、数年後にいたるとしてもです。
 
怒りを誘わず、引き起こさず、受けることで得る傷に向き合う思いを、今日も神様が与えてくださるように祈りたいと願わされました。そうして私たちのあいだに神の平和が豊かに宿りますようにと祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。

09/06/2022

2022.6.9 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記4章7節
もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙5章1節より
この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書に触れてまず思ったこと。それは「顔も見たくない」ときの状況は、まさにこれなのだと。カインは弟アベルどころか神の貌まで見たくなくなるぐらいまでに、憎しみの念にあふれていた。そのように思わされるのです。
 
今日の旧約聖書の言葉である創世記4章にある一節は、最初の人間のであるアダムとその妻エバから生まれた、ふたりの兄弟のあいだに起きた悲惨な殺人事件の序章となる話です。ふたりは神の御前にそれぞれささげ物をささげた。神はアベルのささげた肥えた子羊を目に留められるが、カインのささげた土の実りには目を留められなかった。その結果、カインは心のうちに怒りを覚えます。この怒りの感情に対する神の言葉が、今日の聖書の言葉というわけです。
 
この話をめぐっては、神がどうしてカインのささげた土の実りに目を留められることがなかったのか、明確には記されていません。この解釈については諸説ありますし、なんか釈然としない話の展開に、私たちは惑うこともあるかもしれません。ただ、この物語はカインの心のなかに怒りの感情が起きて、この怒りがうらみとなり、ついには弟を殺してしまうという惨事を招いたということです。
 
神は言われました。あなたが正しいことをしているならば、堂々と顔を上げて目をそむける必要などないではないかと。この言葉にズキンと心響かせられます。目を背け、相手の顔を見ることができないような感情の奥底にあるものがなんであるかに、私は関心を向けなければいけないのだと思わされます。
 
目を背け、顔を背け、心を背け、思いを背け、体を背ける行為。この方向を同調させない行為こそ「罪」という言葉のもともとの意味です。具体的には、私たち人間が神から与えられた自由意思を傍若無人に振る舞い用いることで、神を必要としない私たちの方向性が結果として、罪という背きの心を生み、思いを養い、行動へと発展するというのです。
 
カインが「顔も見たくない」という行動に走らせたのは、彼の心のうちにある背きの思いを具体的に表現したものだったのでしょう。だから神が言われた「正しいことをしているならば・・・」という言葉には、たとえそのことが間違っていたとしても、神の顔を見つめ神ととものに歩もうとするために顔を見上げるならば、その間違いはさして大したことではない。神とともに歩むことで、カインもまた自分自身の生き方や思いというものが軌道修正されて、最終的には祝福された人生が与えられたに違いないのです。
 
のちにカインは神に告白します。私にはその罪は負いきれないと。結局カインは神なしに生きることの限界を痛感させられます。神はそんなカインを生かし続けるという憐れみを示されました。その後のカインの人生について聖書は具体的に記してはいませんが、カインとその家族、子孫を神はさらに守り続けたことが聖書に記されている物語です。
 
私は思います。人生のなかで間違いや過ちなど山ほどあるなかで、大切なのはそんなときでも神の顔を見つめ続けることなのだと。怒りや恐れの感情に打ち負かされて、自分自身の殻に閉じこもってしまうことのないように、今日も神に心を開かされて生きたいと思わされました。今日の新約聖書の言葉のとおり、私たちの心の扉を開けてくださり、私たちを解放し、自由を与えてくださったイエス・キリストが、今日も私たちとともにいてくださるのだからと。
 
今日の一日もまた、心の窓を開けて清々しい空気と、陽の光、鳥のさえずりを耳にするように、神の与えてくださるすべてを喜ぶ者とさせてください。アーメン。
 
今朝のシメオン黙想の家・部屋の窓から

08/06/2022

2022.6.8 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章7節
主は貧しくし、また富ませ
低くし、また高めます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章1節
私のきょうだいたち、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰があるなら、分け隔てをしてはなりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書の言葉は、イスラエルの裁き人・士師の時代を経て、イスラエル国民の指導者となったサムエルの母・ハンナによる祈りの言葉の一節です。ハンナは子が与えられたことを神に感謝して、感謝の祈りをささげました。
 
ハンナは神がもたらされる救いに感謝しつつ、その神に抗おうとする人間の傲慢さが、主によって低められ、神の御心こそが豊かにイスラエルの地になされるように祈ります。その祈りが今日の聖書の言葉です。この祈りを通して、神の栄光と人間の傲慢さというものが、実に対比的に語られているのがとても印象的であると言えます。
 
人間の傲慢さ。そのことに想いを寄せます。普段、私は傲慢に生きるなどということは考えていなかったとしても、結果としてそれは傲慢甚だしい言動であったことを思い起こすことがしばしばあります。もちろん、人に対してそういう言動が働いて思うのですが、人の尊厳を大切にしないということは、それすなわちその人を愛される神に対する傲慢なのだと思わされます。
 
神が愛しておられるその人を愛する。それは時に大変難しいことなのだと思わされます。特に、自分の尊厳や人権というものを踏みにじり、それをないがしろにしようとする傍若無人な態度を明らかにする相手に対しては、とうてい愛することなどできない。これは当然のことなのだと思うのです。
 
そういう時に実感するのは、自分自身の限界です。この限界を自覚することこそ、おのれの心のなかにあるものに素直に向き合える一瞬なのかもしれません。そして、この一瞬があってこそ、すべてを豊かにしてくださる神の知恵と力、そのタイミングに委ねることができるのではないだろうか。これは人間の傲慢さとは真逆の行動なのだと私は信じたいのです。
 
神は私たちにチャレンジすることを期待しておられますが、同時に無理やり押し込めたり、自分の感情に蓋をして善人ぶらなくても良い。神の善に生きるとは、神に自分の素直な気持ちをぶつけながら、神が与えてくださる何かに期待しようとする謙遜さなのかもしれません。
 
そのためにも、イエス・キリストへの信仰があるならと、今日の新約聖書の言葉は語ります。この場合の信仰とは、自分が神に向かう一方向の行動のように思えますが、その大前提があります。信仰とは、救いそのものの実体を示す言葉です。その実体とは、救い主イエスであり、このイエスが心の中にしみわたるときに、初めて神に向かうことが可能になるということであると言えます。
 
イエスは、私たち一人ひとりの心にご自分の御心を今日も与えてくださる。その御心で、私たちは傷ついた心が癒され、許せない思いという傷口に塩をなすりつけられることなく、じっくりとゆっくりと、回復のときが与えられることを期待しつつ、神の豊かさに生きる者となりたい。そんなことを願わされました。
 
今日も、神の豊かさがこの地に、そして私たちに行きわたりますように。そのことを心からお祈りいたします。

07/06/2022

2022.6.7 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上12章20~21節より
主から離れることなく心を尽くして主に仕えなさい。役にも立たず救うこともできない空しいものを求めて離れてはならない。それは空しいものなのだ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書12章26節より
私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日は、早朝から腹痛に悩まされました。おそらく急激な気温の変化に体がついていかなかったからなのでしょう。いつもならばそのまま起きて朝の黙想と祈りに入るところなのですが、大事をとってベッドでゆっくり休みました。そして遅めの8時に起床しましたが、しっかりと休んだおかげで、とても元気になりました。皆さんも健康が守られますように。お祈りいたします。
 
ということで、今日はじっくりと黙想に時間をとることができませんので、日々の聖句の原書である『Die Losungen』にある、今日の「第3のテキスト」と呼ばれる祈りや賛美のことばを紹介したいと思います。今日は、中国にあるローズンゲン愛用者による祈りのことばです。

主よ、私たちがあなたの足跡に従うべく、あなたが御心を動かしてくださっていることを理解できるように助けてください。あなたが私たちに従うことを期待する私たちの愚かさから、救い出してください。
 
主に従うとはどういうことなのかを、実に考えさせられる祈りの言葉であると私は思わされました。主に従うと言いながら、自分好みに神に変容させて、結局自分の意のままに神を利用してはいないだろうか。神は私たちをロボットのように扱われるのではなく、私たちの生き方のために、つねにご自分の心を動かし、心配りをしながら私たちの生活を見守り、ご自分の言葉と聖霊をもって導いてくださるのだ。そのように思わされました。
 
私たちは、そのような神の御心によって生かされているのだと。今日一日が、その豊かな心によって生きる幸いを味わうときとなりますように。皆さんのために、また自分自身のために祈ります。

06/06/2022

2022.6.6 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌上28章9節より
主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを見抜かれる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一4章13節
神は私たちにご自分の霊を分け与えてくださいました。これによって、私たちが神の内にとどまり、神が私たちの内にとどまってくださることが分かります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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昨日は聖霊降臨祭(ペンテコステ)の日曜日を、それぞれの教会で過ごされたと思います。ペンテコステの礼拝を通して、あらためて聖霊なる神の働きについて知ることができたのではないでしょうか。
 
ペンテコステの余韻は、私たちの日々の生活に続きます。ちなみに、ドイツでは「ペンテコステ月曜日(Pfingstmontag)」と呼び、特別な礼拝のときを持ちます。クリスマスもイースターもそうなのですが、一日祝ったらそれで終わりという話ではありません。祝いの余韻というものを是非味わうものでありたいと心から願います。聖霊なる神は、ペンテコステから始まる日々を欠けることなく守り、私たちの心を守り続けてくださるからです。
 
そういう意味で言えば、今日の聖書の言葉はまさに私たちの心に住まう聖霊なる神が、私たちの心をつねに整え、私たちが向かおうとしているところをすべてご存知なうえで、私たちに生きるにふさわしい道を指し示してくださることを、私たちに想い起させてくださるものなのだと、私は受け止めることができました。
 
私たちは自分自身の生き方、または自分がかかわる教会などの信仰共同体や社会のなかで、多くの決断が迫られています。そのときに、神の御心がどこにあるのだろうかと御言葉を開き、祈り、神がその御心を示してくださるのを尋ね求め、また待つということがしばしば起きます。
 
そんなときに、私たちは「神の御心がどこにあるかわからない」と思うことがあるかも知れませんし、「これぞ神の御心だ!」と確信することもあれば、聖霊が導いてくださったと信じて、決断の道を進むこともあるかもしれません。
 
しかし、私がいつも思わされるのは「神の御心と信じて進もうとしていることが、すでに進んでいることは、実は神の御心でないのかもしれない」という思いを、心のどこかで抱くのは本当に大切なんだ、ということです。だからと言って、神の御心がわからないと右往左往していたり、神の御心を待ち続けようと何もしないのでは進歩もへったくりもない。たとえ間違っていたとしても、己が神の御心と信じた道をただ歩むのしかないのだと思います。
 
そんなときに、聖霊なる神は私に「軌道修正」を与え、修正することへの知恵と力を授けてくださる。それこそ、聖霊なる神の重要なお働きであると受け止めたいのです。融通を利かせながら軌道修正するところには、神の力が十分に働き、私たちに自由を与えてくださる。聖霊なる神様の働かれるスペースが、私たちの心のなかに生まれ、そのスペースは私たちの生きる社会へ拡散されていく。ここに、神を信じる者の喜びがあるのではないでしょうか。
 
何かを貫き通すこと。これはとても立派なことだと思います。しかし、そのことを何が何でも維持しなければならないと頑張ってしまうがゆえに、本当に守らなければならないこと、聖霊なる神の働きまで阻害してしまうような自我を頑固なまでに貫き通そうとしてはいないだろうか。そんなことを黙想させられます。
 
神の御前にただその御心に聴き、自分自身を柔軟なさまへ整えてもらうべく、聖霊なる神に助けていただくこと。これが、聖霊降臨の喜びに生きることなのだと、ペンテコステの余韻あふれる今日の一日を過ごしてまいりたいと願わされました。
 
どうぞ皆さんにとっても、聖霊なる神が与える自由を喜ぶことのできる一日でありますように。お祈りいたします。

05/06/2022

2022.6.5 仙台宮城野教会主日礼拝メッセージ


2022年6月5日
仙台宮城野教会主日礼拝

聖書 ヨエル書3章1節
   使徒言行録2章1~13節
説教 激しい風が  牧師 齋藤 篤

※上の動画をクリックしてご視聴ください。

2022.6.5 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編73編26節
この身も心も朽ちるが
神はとこしえにわが心の岩、わが受くべき分。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章23~24節より
霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。私たちは、この希望のうちに救われているのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日は聖霊降臨祭、ペンテコステの日曜日を迎えました。毎年思うことですが、クリスマスやイースターに比べてなんとなく祝う盛り上がに欠けてしまうように感じるのはどうしてだろうかと。三大祭と言っている割には、本当に他のふたつの祭りと同様にみなしているだろうか。まことに不遜な気持ちを抱いてしまっている私自身を思わされます。
 
そんなはずはないと、自分自身に言い聞かせながら今年もやってきたペンテコステ。聖霊なる神の存在をもう一度、自分自身のうちに確かめたい。それを「教会の誕生日」という決まりきったフレーズに落とし込んでしまうことがないように、ペンテコステの喜びを味わいたい。そんなことを感じさせられています。
 
牧師のくせにそんなことを言ってもいいの?と問われれば、確かにそんなことを言ってしまって良いはずはないのですが、それが正直な感想だからしょうがない。ただ、それに抗うように思わされるのは、聖霊なる神様が私たちにさまざまなかたちで助けを与え、私たちを守り、神を感じさせてくださるのは、年に一度だけ思うことではなく、毎日感じているということなのだと私は受け止めています。そういう意味で言えば、私にとっては毎日がペンテコステなのだと。
 
だからこそ、ペンテコステという特別な一日をどのように際立たせることができるのだろうかと、思ってしまう自分自身があるのかもしれません。ペンテコステという毎年訪れる日曜日一日だけ聖霊を意識して、ほかの364日に聖霊の恵みというものを忘れてしまうようなことがあっては元も子もない。聖霊こそ、私たちを日々生かす助け主、慰め主なる神なのだと。父なる神と子なるキリストの現代における目に見えるかたちそのものが、聖霊なる神なのだと思わされるのです。
 
霊の初穂という言葉が、今日の新約聖書のなかで語られています。クリスチャンはそれを持っているというのです。この手紙を書いた使徒パウロは、今生きる苦しみのなかで、聖霊の助けをいただいているからこそ、キリストが決して遠いところにいるのではなく、私たちとともにいてくださり、その苦しみを忍耐しながら、希望をもって乗り越えることができるのだと書き綴っています。

初穂と聞くと、聖霊降臨のあの日に聖霊が注がれたその初穂、そこから聖霊の力があふれ出たときに限定されているように聞こえるかもしれません。そうならば、ペンテコステの出来事から2000年もたった今、聖霊の初穂もなにもないのではないか。いや、それは違うのだと。私たちが命の一日を更新するたびに、聖霊は私たちをリセットして、フレッシュな聖霊を注ぎ、それによって目覚め、神とともに新しい一日を生きることができるならば、それはイコール初穂なのではないかと思えてならないのです。そういう意味で、ペンテコステは年に一度の出来事では決してなく、毎日が聖霊降臨の出来事なのだと感じ取りたいのです。
 
夜には疲れ果て、休みたくなる状態に心身が陥ったとしても、私たちの心の慰め主、岩のように力強い神の力が、聖霊によって与えられるならば、私たちは新たな命に支えられて、今日という一日を歩むことができるのだ。そういう一日を今日も歩みたいと願わされます。
 
どうか、私たち一人一人に初穂として注がれる聖霊の助けが、私たちの生活に希望を呼び起こしてくださいますように!お祈りいたします。