30/04/2023

2023.4.30(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記28章16節
ヤコブは眠りから覚めて言った。「本当に、主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった。」

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書24章32節
二人(の弟子)は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活22日目を迎えました。そして、イースター後3回目の日曜日を私たちは迎えました。世の中はゴールデンウィークで、列島を移動する人たちのニュースが流れていました。昨日は初夏を思わせるような快晴の一日でしたが、今朝の仙台は雨模様です。この連休中の皆さんの安全を心から祈るばかりです。ちなみに、仙台宮城野教会は本日教会総会があります。昨年度の振り返りと。今年度の計画を主の御心を問いながら、その時を教会の皆さんとともに過ごしたいと思っています。
 
さて、本日の旧約聖書の言葉ですが、旧約聖書のなかで私が一番好きな聖句です。図らずもローズンゲンで愛唱聖句に出会うと、とても嬉しい気持ちになれます。神がともにおられることに何の疑いも持たなかったヤコブですが、双子の兄エサウの怒りを買うことになり家を出されることになりました。神がともにおられるはずなのに、その実感が前々わいてこない。おそらくヤコブの心の中は、そんなものであったに違いないと思うのです。
 
私たちもそうです。神はともにおられる、インマヌエル・アーメン!そのように口で告白しながらも実感がわいてこない。まるで神に見捨てられたような気持ちになることはないでしょうか。私は一時でもそのように感じる自分がまったく無いとは断言できません。孤独を感じることがあります。そのことに苦しみ悩むこともあります。これが人間が人間として生きる現実なのでしょう。だからこそ、ヤコブが最終的に「知らなかった」と告白するところに、大きな慰めを感じるのです。
 
孤独のヤコブに神は現れました。私はあなたとともにいる。私は決してあなたのことを見捨てないとヤコブに告げたときに、ヤコブは夢から覚めて言った言葉。それが「私は知らなかった」だったのです。ヤコブは神がおられることに、何の疑いもなくこれまで生きてきたことでしょう。神を信じていたことでしょう。しかし、彼の苦境を通して、ヤコブは改めて告白しました。「私は神がともにいてくださることを『知らなかった』」と。
 
この気づきは、私たちの胸を熱くさせます。それは復活の主イエスが、エマオへの途上にてふたりの弟子たちにその姿を現されたとき、弟子たちは「私たちの心は燃えていた」と後になって振り返りました。心が燃える経験。それはヤコブがこれから待ち受けている長い旅路を歩むための土台となりましたし、弟子たちの燃える心も、その後キリストの弟子として生きるための忘れられない根拠となったに違いないと私は思うのです。
 
神がともにおられないことに孤独を感じることがあったとしても、神は必ず私たちにそのことを気づかせてくださるときがやって来る。そのときを望みつつ、今日という一日を生きてまいりたいと願わされました。主の日に礼拝を通して神と出会うことの実感を大切にしながらです。どうか、皆さんの一日にも、神からの豊かな臨みがありますように。お祈りいたします。

29/04/2023

2023.4.29(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記26章10~11節
あなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとその家に与えられたすべての恵みを楽しみなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一6章17~18節
この世で富んでいる人々に命じなさい。高ぶることなく、不確かな富に望みを置くのではなく、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活21日目を迎えました。
 
本日からコールデンウークの前半部分が始まりました。途中の平日2日間をはさめば、再来週の月曜日(5月6日)までの大型連休となります。皆さんはどのようなご予定をお過ごしでしょうか。どうぞそれぞれのご予定に、主なる神の守りと平安が豊かにありますように。お祈りいたします。
 
さて、今日の旧約・新約聖書の両方に共通するテーマは「神からいただいたすべての恵みを『楽しむ』」という風に私は受け止めました。聖書ではしばしば語られることであると思いますが、さて「神からいただいた恵み」とはいったい何であるか。そんなことを思いめぐらしました。そして、それら恵みを「楽しむ」とはどういうことだろうか。恵みにしても楽しむにしても、私たちの意識というものが問われているのだ。そんな風に私は思ったのです。
 
物事のとらえようによっては、恵みと言われるものを恵みと感じることが難しい場合もあるでしょうし、どう考えても恵まれていないと感じるときに、そのなかからキラリと光るものを発掘して「楽しみ」を自分のなかで見い出すポジティヴな姿勢というものを感じとることができるのではないか。そんなことを思わされました。
 
アメリカの小説家であるエレナ・ホグマン・ポーターさんの代表作に、『少女ポリアンナ(パレアナ)』シリーズがあります。両親を一度に亡くし叔母の家に引き取られた少女ポリアンナが、父との約束である「よかった探し」を通して町を明るく変えていくといった話です。昔、「ハウス名作劇場」というアニメで、少女ポリアンナの物語を観たのは、私が小学4年生のときで、そのときにこの物語を知ったのですが、この「よかった探し」という言葉がとても心に響いて、物事をポジティヴにとらえると、見方そのものが随分変わっていくのだということを教えてもらったことがありました。
 
後で知ったのは、ポリアンナという少女の設定に、父親のジョンが牧師であったということでした。どんなにネガティヴなことでも、ものの見方次第ではポジティヴに受け取ることで、その場にある喜びや楽しみというものを見い出そうという発想は、「神が私たちとともにいてくださる」という土台があってこそ成り立つものなのではないか。そこに作家の意図があったのかなと思ったりしています。もちろん、ネガティヴなことから目をそらす、現実逃避するといった意味で「ポリアンナ症候群」という言葉すらあるくらいなのですが、そういう意味でこの物語をとらえるのではなく、あくまで「神が私たちとともにある」という土台から出発する喜びや楽しみというものをとらえていきたい。そんな風に改めて思わされました。ポリアンナという言葉は「喜び楽しむ」という意味として、その後多くのネーミングとして使用されました。まさに、今日の御言葉に相通じると思わされました。
 
このゴールデンウィークの日々も、そのような喜び楽しみというものをひとつでも見い出すことが出来ればと私は願います。まさに「よかった探し」の旅路を歩みたいと思います。どうぞ皆さんにとってのゴールデンウィークの日々も祝されたときでありますように。心からお祈りいたします。

28/04/2023

2023.4.28(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記上20章11節
武具を着ける者は、武具を解く者のように、勝ち誇ってはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章23節
心の霊において新たにされなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活20日目を迎えました。イエスが復活されてから昇天されるまで、ちょうど折り返し地点を迎えました。イエスが復活された40日間という期間は、実にあっという間だったの出来事だったのだなと、私自身、このイースターの期節を過ごして思わされます。イエスが弟子たちに再会し、大切なことを伝え、そして触れ合った期間、私たちはどのよつな思いでいることができるのだろうか。そんなことを想いながら、今日の聖書の言葉に聴いてみたいと思いました。
 
今日の旧約聖書に記された言葉を通して、それをひと言でまとめるとどう表現できるか考えました。つまり「傲慢になるな」ということだろうか。そんなことを思いました。自分の身を外敵から守るために武具というものを装着することは当たり前なのですが、同時に立派な武具を付けたら万能感に満ちあふれる。武具を身に着けるとはそういうものなのだろうと思いました。身を守るだけではなく、自分が強くなったような気分にさせられる。「武具を解く者」とは、あたかも強くなったかのような思いで、他者の大切なものを奪い取るような行為をする者のことなのかなと思います。
 
そういう者に「勝ち誇ってはならない」との忠告の言葉が響きます。私は思いました。クリスチャンという立場を持つ者として、神からの救いを受けているとはどういうことだろうか。クリスチャンであるがゆえに、救われていることの喜びを持つことは当然なのですが、それが異様な優越感を抱き、そうでない者を見下し、また、自分の目から見て何か劣等な物事や人を探し出して、優越感というものをひけらかし、言葉と行いで示してはいないだろうか。私は、自分のことも省みつつ、「武具をつける者」が陥りがちな傾向というものに注意を傾けたいと思わされました。
 
その点において、復活の命に救われ、復活の命に生きるとは、まさに「心が更新され、新鮮な思いをもって新しい生活を迎える」ことなのだろうと、今日の新約聖書の言葉をもってあらためて思わされました。「心の霊によって新たにされる」とは、私たちがクリスチャンとして生きるために、常に新鮮な風を聖霊の息吹とともに私たちの魂に送り込んでくださる方の言葉と助けをいただき続けることなのだろうと黙想しました。
 
こうして、毎日少しずつでも聖書の言葉に触れて生きるというのは、新鮮さを神から頂くことに相通じることですし、その新鮮さをもって生きることのできる幸いなのだと。そのことを信じつつ、今日の一日を活かされていきたいと願わされた次第です。
 
どうか皆さんの一日が、神の息吹によってフレッシュなものでありますように。お祈りいたします。

27/04/2023

2023.4.27(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書44章21節
私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。
イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙11章1節
神はご自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活19日目を迎えました。
 
主イエスによる救いは、イスラエルという一つの民族のためにとどままらず、全世界の人々へのものとなりました。では、もともと神の民とされていたイスラエルの民はどうなったのでしょうか。
 
イスラエル人、そしてユダヤ人と言えば、イエスを迫害し、殺した人々というイメージがどうしてもつきまといます。そのようなイメージがいわゆる「反ユダヤ主義」を生み、ユダヤ人の存在が忌み嫌われるどころか、ついにはあのナチスによるユダヤ人大虐殺という、大惨禍を生むことになりました。そのどれもこれもが、キリスト教徒のユダヤ教徒に対する「イメージ」がそうさせたのだと思います。
 
しかし、神はそのような人間の「イメージ」というものを認めておられたのでしょうか。少なくとも今日私たちに与えられたふたつの聖書の言葉が語るメッセージは、その逆であることが分かります。イスラエル人ですら、いや、だからこそ神によって決して忘れられることのない民であることを、私たちはこれら御言葉から聴くことができると私は思います。
 
救いの範囲が全世界に広がったという事実は、イスラエルを見捨てた末の結果だと決して思ってはならないのだと。救いの「範囲」があまねく広がったというのが、神の思いであり御心なのだと。そのために、イエスが救い主として与えられたのだと。私だけではなく、神が愛しておられるすべての人々のために。
 
私たちは、どうしても人と比較して自分自身の位置を確かめようとします。あの人よりも優れている、劣っている。裕福であるとかないとか、救われているとかいないだとかなどなど。それがいわゆる「差別の根」であることに、私たちはどうしても気づくことができないなんていうことは、いくらでもあるのだと思います。私自身、どんなに気を付けていても、ついつい他者と比較して自分自身の姿を憂いたり、喜んでみたり。差をつけることを無意識のうちに行っていることを、自戒をこめつつ痛感させられます。
 
しかし、神はそういう方ではない。どんな者をも、たとえ私たちの目からして出来が良くても悪くても、神にとってはご自分が慈愛をこめてつくられ、命の息吹を与えられた人間だと言うのです。それなのに、私たちはどうしても優劣をつけようとする。そして差別を助長する。そんな自分自身もまた神によって退けられず、愛されつつ今日という一日を生きることができるのだと。そう思ったら感謝の念がふつふつと沸いてくる自分を思わされました。
 
今日という一日もまた、私たちひとりひとりにとって、決して忘れてくださらない神の幸いがともにありますように。お祈りいたします。

26/04/2023

2023.4.26(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書33章11節
喜びの声と楽しみの声、花婿の声と花嫁の声、『万軍の主に感謝せよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と言って感謝の献げ物を主の神殿に携えて来る者たちの声が聞こえるようになる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テトスへの手紙2章11節
救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活18日目を迎えました。
 
今日はこれから、仙台にあるキリスト教主義学校のひとつである、尚絅(しょうけい)学院中高へ出かけます。朝おこなわれる礼拝でメッセージをするためです。昨年から月一回、中高生の前で聖書のお話を担当させてもらっていますが、毎回緊張します。自分自身が中高生のときに、朝礼とかをどんな気持ちで聞いていただろうか。そんな思いをもちながら、その場に立っているような気がします。
 
私はキリスト教主義学校に進学したわけではありませんから、学校の朝礼はいつも、校長先生によって話されていたわけですが、私が中学生のときに校長を務めておられた先生の一言が忘れられません。それは「私は3分以内で話しますよ!」というものでした。そして、その3分以内で話す内容がいつも楽しく、面白く、またためになる話で、3分が1分に思えてしまうような話でした。校長先生は人のうけを狙おうとして悪ふざけしていたわけではありませんでした。ただ、真剣な思いがいつも伝わっていました。こういう人に私はなりたい。大昔に感じたことが、今でも説教者としての基本のひとつに立っているような気がするのです。
 
聴いた時に幸せになれるような話。聖書という一冊の書物に込められた神の言葉というものは、そういうものなのだろうと私は思います。もちろん、耳の痛い話もあることは事実です。しかし、耳の痛さを通して、最終的には神の幸いというものを知ることができるのではないか。私はそんなことを心から願います。
 
そういう意味で言うと、今日の旧約聖書の言葉であるエレミヤ書の一節は、神によるエルサレムの民への救いと幸いを提示しています。だが、しかし、その当時の民たちはおそらく「喜びを喜びとして受け取ることができない」状況にあったのではないかと思うのです。今や強国バビロニアが、自分たちを攻撃してくるかもしれない。そんな不安のなかで人々は不安の渦中にありました。
 
そんななかで、神の言葉を預かったエレミヤは、神に自分の心を向けることへの警告をいくたびも訴え続けました。しかし、警告と同時に発したのは、神と向き合うことで生まれる幸いだったのです。それが、今日示されている聖書の言葉に込められているメッセージです。聖書の言葉が耳痛く聞こえてくるなかでも、神はその言葉に触れる者ひとりひとりに対して、究極的に神とともにある幸いというものを提示しようとしてます。神とは、人々を決して恐怖に追い込むことを、その仕事とはしていないのだと。私は今日の聖書の言葉を通して、エレミヤが預かった神の言葉とはそういうものなのだと受け取りたいのです。
 
それが今や、イエスが命の犠牲と復活を通して、私たちの救い主となられたことで、全世界へのメッセージとなっていった。そのなかには、今日も身の回りのことで悩むかもしれない私も救いのむしろに招かれているのだと。ここに大きな慰めと励ましを得るのだと信じたいのです。
 
救いをもたらす神の恵みは、すべての人に与えられた。このことを胸にして、今日の一日を歩んでまいりたいと願います。皆さんの一日に、神の幸いを感じとる思いが豊かに与えられますように。お祈りいたします。

25/04/2023

2023.4.25(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編112編4節
正しい人には闇の中にも光が昇る
恵みに満ち、憐れみ深く、正しい光が。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章17~18節
このしばらくの軽い苦難は、私たちの内に働いて、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活17日目を迎えました。
 
昨日は私のことでご心配をおかけしました。多くのお祈りと励ましをいただき、とても嬉しいばかりでした。昨晩はしっかりと休みましたので、とても爽快な朝を迎えることができました。今日もいろいろと用事がありますので、そのひとつひとつに心を向けながら一日を過ごしたいと思います。どうぞ皆さんの一日にも、主なる神が豊かに臨んでくださいますように。お祈りいたします。
 
さて、今日の新約聖書の言葉にあったのは「見えないものに目を注ぐ」というものでした。見えないものをあえて自分の視力や感覚を集中することで、いろいろなイメージがわいてくるということがあります。
 
東京・浅草に青江覚峰さんというお坊さんがいらっしゃいます。この青江さん、とても異色な経歴の持ち主であり、アメリカでMBA(経営学修士)を取得された後、企業での勤務経験を経て僧侶になられた方です。現在は「料理僧」として、食べることの大切さというものを多くの方々に伝える活動をしておられます。
 
その青江さんが行っているイベントとして「暗闇ごはん」というものがあります。アイマスクをして、手探りで目の前に準備された料理を口に運び、味わい、それが何であるかを答えながら、最後はアイマスクを外してその正体を知るというものです。視力以外の感覚をフルに使いながら見えないものに目を注ぐことで、新たな発見をすることができる。そんなイベントなのです。私もおととし参加をして、とても素敵な経験を味わうことができました(NHKでそのときのことが放映されて、インタビューを受けた私の映像をご覧になられた方もおられるかもしれません。笑)
 
私はこのことを通して、見えないものに目を注ぐことの大切さというものを知ることができました。つまり、見えないものに目を注ぐとは、私たちならば誰でも持つ「固定観念・バイアス」というものから解放されるために、必要な作業なのだということをあらためて知らされたのでした。私たちが実際に見ることのできない神を、さまざまな知覚と感覚を通して心の眼で見つめていくという営みを、私たちはどのように経験することができるのだろうか。そんなことを想わされます。
 
形あるものはいつかは朽ち、壊れ、滅んでいく。しかし、永遠なる神はいつまでも生きて働き、私たちとともにいてくださり、私たちの心のうちにとどまってくださるならば、私たちの一時の苦しみもやがて消えてなくなることに、私たちの希望というものを寄せていきたい。そんな風に思わされた次第です。
 
今日も朝日とともに一日が始まりました。今日の旧約聖書の言葉にもありますように、神が注いでくださる陽の光が、私たちの心に神の視線として射しこんで、私たちのことを見つめてくださる。だからこそ、私もまた神を見つめながら、御言葉に聴き祈る生活を今日も営んでまいりたいと願わされました。
 
神の与えてくださる一切の恵みが、皆さんとともにありますように。お祈りいたします。

24/04/2023

2023.4.24(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編130編6節
私の魂はわが主を待ち望みます
夜回りが朝を、夜回りが朝を待つにも増して。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ユダの手紙21節
神の愛の内に自らを保ち、永遠の命を目指して、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活16日目を迎えました。
 
今日は早朝からしなければならないことがあり動いていたのですが、作業中から調子が悪いなと思って体温を測ったら、熱があることが分かりました。コロナ感染を疑いましたが、検査をした結果はただの風邪でした。身体を休ませたら、熱も下がり調子も戻ってきました。ここのところ日中と夜の寒暖差が激しく、仙台も今日の明け方は気温が5度でした。こういう時にこそ、体調管理が求められるとあらためて実感した次第です。そういうことで、体調も回復したところでの、夕方の黙想となりました。いつも楽しみにしてくださっている方には、配信が遅れてしまいましたことをお詫びいたします。
 
今日のふたつの聖句に共通するテーマは「待ち望む」です。新約聖書では、おそらく私たちがあまり読むことがないかもしれない「ユダの手紙」の一節が選ばれています。このユダの手紙が書かれた頃には、イエスが復活から昇天をされ、聖霊の降臨によってイエスを救い主であることを伝える歴史が始まって以来、人々のあいだで待ち望まれてきた「キリストの再臨」というものが、待てど暮らせどやって来ない。明らかに初期のクリスチャンと呼ばれた人たちの持っていたスタイルから変化が生じた頃に書かれた手紙であると言われています。
 
待ち焦がれる思いも、時代が過ぎると待つことに疲れてしまうということは、私たちの誰でも持っていると思いますし、当初の新鮮さであるとか熱意というものも失われてしまうわけです。いわゆる「マンネリ化」というものが、私たちの生活を取り囲んでしまうときに、あらゆるものが形骸化してしまう。もちろん、歴史の積み重ねによって生まれてくる熟成した状態というのも私たちの生活には必要ですが、フレッシュな感覚というものをいつも持っていることも大切だと思うのです。
 
今日の新約聖書であるユダの手紙には、私たちが待ち続けるために何が必要かということについて、とても興味深い一文があることに、あらためて気づかされました。それは「神の愛の内に自らを保ち」という言葉です。自分自身の新鮮さとか初心というものがいつまでも保たれるために必要とするのは神の愛なのだと、この手紙にしたためられている。私にとってこの言葉がとても新鮮に感じたのです。
 
望んでいることの答えがなかなか返ってこない。反応が無い時に、捨て去られているのではないか、忘れられ、見捨てられているのではないかと不安になることが、私もときどきあります。そういう時は大体体調がよくない時、心の調子がなんとなく思わしくないときにこそ、そういう不安に駆られることがあるのですが、そんなときに「私がいかに神によって大切にされているか」ということを、聖書の言葉に向き合ったり祈るなかで確かめる機会が与えられるのは、本当に幸せなことなのだなと思わされます。
 
今日はベッドでしっかり横になりながら、いろいろなことを思いめぐらしていました。こういうゆっくりとした時間のなかで休息を取りながら、神の愛に触れることのできるひと時を過ごす。心身ともに回復する大切な機会だなと思わされました。
 
夜警の人が夜明けを待ち遠しく待ち、やがて朝日が昇ったときに緊張感から解放される。待ち遠しく待つというのは、待つことに疲れてしまうという道もありながらも、自分自身の希望を確かめることのできる大切なときなのだと。そういう時を大切にしたいと、今日の聖書の言葉から思わされた次第です。
 
今、この黙想を書いているのは夕方5時前です。これから夜が訪れます。暗い夜を過ごして、また朝日とともに新しい一日がやって来る。どうぞ皆さんにとっての夜のひとときもまた、希望を感じることができるようなひとときでありますように。お祈りいたします。

23/04/2023

2023.4.23(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書23章24節
人がひそかな所に身を隠したなら
私には見えないとでも言うのか――主の仰せ。
天をも地をも、私は満たしているではないか
――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙4章13節
神の前にあらわでない被造物はなく、すべてのものは神の目に裸であり、逃れることはできません。私たちはこの神に弁明しなければなりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活15日目を迎えました。そして、イースター後2回目の日曜日を迎えました。この日曜日には「主のいつくしみ」という名がつけられています。詩編33編5節の「主は正義と公正を愛し、主の慈しみに地は満ちる」という聖書の言葉が伝統的に読まれてきました。イエスが復活の主となられたのは、主の慈愛が私たちに働いた結果である。そんなことを想う日曜日として大切にされ続けてきたのだと思います。今日世界中の教会や集会で行われる主の日の礼拝と祝祭が、そのような主なる神のいつくしみで満ちあふれることを心よりお祈りいたします。
 
さて、本日私たちに与えられたふたつの聖書の言葉を通して、私は「天網恢恢疎にして漏らさず(てんもうかいかいそにしてもらさず)」という言葉が思い浮かびました。中国の思想家である老子の言葉で、「悪いことを働けば、天罰をまぬかれることはできない」という意味です。恢恢とは網の目が粗い様子のことですが、天から見る眼は粗い網の目のようだが、必ず悪事を拾い出して逃すことはしない。簡単に言えば、悪いことをすれば必ずばれるとでも言いましょうか。そんなことを言っている故事として知られています。
 
そんなことを踏まえて、今日のふたつの聖書の言葉に触れますと、まさに「天網恢恢・・・」に相通じる部分があるのではないか、そういう風に思うのです。私たちの言動をすべてご存知である神から、私たちは逃れることは決してできないのだと。明らかに今日の聖句は、そういうことが背景にあって語られているものであると私たちは理解できます。
 
ただ、それだけで良いのだろうか。私はそのように思いました。つまり、神の眼が怖いから言動に気を付けようという発想は、抑止力になるかもしれないけれど、いわゆる悪事から離れることの究極的な方法なのだろうか。そう思えてならないのです。恐怖をちらつかせて神を信じるようなスタイルは、古今東西どの宗教でも行われていることですが、カルトというフィルターを通してこれらの聖句を見ますと、やはり違和感を持ってしまうのです。
 
私たちは主の復活を通して、主のいつくしみに招かれた者であるという、復活後2回目の日曜日を迎える者として、神はすべてご存知であるという聖書の言葉を、主のいつくしみの視点から読むことが可能なのではないか。私はそのように思うわけです。
 
神がその眼をもって、私たちを見つめ続けてくださる。すべてを神はご存知であるという言葉に、私は大変慰めを得ます。日々を生活するなかで、なかなか他者には理解してもらえないことというのがどうしてもあります。どんなに言葉をつむぎ、行いを重ねたとしても、お互いに理解することの難しさを覚えるときがあります。ボタンの掛け違い、歯車がなかなか噛まないときに、理解してもらえないことがストレスになります。これが私たち人間生活の限界なのだと私は感じるのです。
 
しかし、人は理解できなくても神はすべてをご存知である。悪事を逃さない眼をお持ちならば、同時に私たちの隠れされた、なかなか陽の目を見ることのない部分にも、ご自分のいつくしみをもって見つめてくださり、理解してくださり、ご自分の御心によって導いてくださることもされる神が、今日も私たちとともにおられる。それこそ「主のいつくしみ」に、今日も私たちが生かされる者となることができるのではないか。そんな気がしてならないのです。
 
恐怖におびえながら神を信じようとすることより、いつくしみに包まれる神とともに歩む幸いを見い出して、自分自身の生き方というものを整えていくというほうが、私にとってはとてもありがたいことだと思ったのです。今日もそのような一日が歩めることを望んで、その時を過ごしてまいりたいと願いました。
 
皆さんの一日に、いつくしみにあふれた主なる神の御眼が守ってくださいますように。お祈りいたします。

22/04/2023

2023.4.22(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編39編5節
主よ、知らせてください、私の終わりを。
私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。
私は知りたい、いかに私がはかないかを。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章1節
私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活14日目を迎えました。
 
今日の聖書の言葉を通して思い浮かんだイメージは「私たちのはかなさ、そして神の与える永遠」というものでした。そのことを思いに留めつつ、御言葉に聴いてまいりたいと思いました。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ダビデ王によって歌われた詩の一編です。ダビデほど祝福され、一国の王としての権威を持っていたとしても、彼は知っていました。自分に与えられているものは限界があるのだということをです。人はいずれか死に向かう。そのなかでダビデは神に尋ねました。今日の御言葉の後でも、ダビデはこう歌っているのです。「私の寿命など、あなたの前では無に等しい」(6節)。
 
一見すると、ダビデ自身は自分の人生における空しさ、はかなさを嘆いているようにも読める聖書の言葉です。この話題については、ダビデよりもむしろその息子であるソロモンが「コヘレトの言葉(伝道者の書)」で述べているのが有名ですが、私は、ダビデが6節の言葉でこのようなことを語っているときに、必ずしもネガティヴな意味で言っているのでもないのではないか。そのように思ったのです。
 
ダビデは、常に自分自身の向き合う相手である神を意識して、言葉をつむいでいます。神との関係性において、自分の立ち位置を確かめていくというものです。だからこそ、神様、あなたの御前では、自分の寿命やその期間のなかで得るすべてのものは無に見えるくらい、あなたは偉大な御方ですという、信仰告白にも思える言葉なのではないか。そう思ったのです。
 
あなたがおられるからこそ、私の人生がある。もちろん、私たちはそれぞれ自分自身の人生を営んでいますから、それは神と関係しなくても生きていくことは可能でしょう。しかし、私たちは日々の生活の各所各所で、空しさやはかなさというものを知るときに、その限りあるものをも永遠のなかで育み、そして支えてくださる神がともにおられるのだと。そういうことに気づきながら一日を歩めるならば、少しでも豊かなものになるのではないだろうか。私はそのように思わされました。
 
そのことが、今日の新約聖書である第二コリント書の言葉にも書き記されています。どんなに立派な材料で家を建てたとしても、朽ちるときは朽ちるし、崩れるときは崩れるというのが、私たちの世界の限界です。この手紙を書いたパウロもそのことを自覚していました。だからこそ、彼は神に向き合います。神の与える永遠のなかで生かされる幸いというものを、パウロは手紙を通して、コリントにあるひとりひとりに伝えたかったのです。
 
週の7日目のこの日が、明日への備えとなる素敵な一日でありますように。主の永遠のなかで与えられる幸いのためにお祈りいたします。

21/04/2023

2023.4.21(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章16節
隣人について偽りの証言をしてはならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章29節
聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活13日目を迎えました。
 
今日のローズンゲンに示された聖書の言葉は、実に驚くべきものでした。隣人について偽りの証言をしてはならない。神がモーセを通して与えられた十戒のひとつです。偽りの証言。実はそのことを巡って、私はある出来事における話題の渦中にいるのですが、昨日もその話題について触れる機会がありました。詳しいことは申し上げませんが、ある発信者によって私に関する「事実ではない情報」が流布されていることを耳にしました。実は今回が初めてではありません。この数か月、幾度となく同一の話題でその情報に接してきました。
 
私は、その情報を発信されている方との会話のなかで、その発信者の方が意識的な虚偽をしているとは思えないのです。その方のなかでは真実と化してしまっているのだなと感じています。ただ、私たちは誰でもそうなのですが、自分が真実だと受け止めていることが必ずしも事実であるとは限らない。できればそうでないことを願うのですが、私たちは自分の考えたいように考え、思うように思いたいという基本的な欲求があると思うのです。そんなこともあってか、事実を意図的無意図的にかかわらず、なかなか受け入れることができない。そんなことがあるのではないかと私は思うのです。
 
私は今日の旧約聖書を受け止めるときに、虚偽の証言をしてはならない対象である「隣人」とは誰のことか。そんなことを思わされました。今日の聖書の言葉である出エジプト記には「隣人」という言葉がしばしば登場します。そして、隣人は神の愛が注がれる対象として語られています。私の隣り人とは、私と同様に神の愛が注がれている人物なのだということを思わされます。たとえ私が愛せない相手でも、神の愛が注がれている相手だということです。
 
そういう相手に虚偽をしてはならないというのは、結局のところ私自身が神の愛を知り、それをどのように受け取っているかということにかかっているような気がします。神の愛を受け取ることによって、私のなかに根付いている「真実」とはいったい何か。そんなことへの自己吟味をすることができるのだと思います。そうした時に、事実と真実というものの関係性というものを見つめることができるのではないか。つまり、事実を事実として受け取り、そこから真実が何かを探って生きることができる。そうなると、虚偽をしない生き方とは、神との深い関係性のなかで、愛されていることの自覚から生まれてくるのだと私は受け止めたいと思いました。
 
嘘をついてはならない。そういうことを言うのは簡単かもしれません。しかし、それは単に「嘘をつかない」という事柄だけを意味しているのではない。虚偽をしないということへの私の動機とか相手への感情、そして何よりも神との関係を問いながら織りなされていく営みなのだろうと私は思います。非常に深いひと言なのだと改めて思わされました。
 
前述の「事実でない情報」を流布する方の行動に、私は正直言って良い感情を抱いていません。しかし、そういう方にも神の愛が注がれていて、その方にとっての真実を事実のように扱ってしまう態度に対しては、私自身「隣人に対して虚偽をしない者」として、これからも接していきたいと思わされています。虚偽をしない者とは、あくまで事実を事実として大切にすることで、真実とは何かということを見極めて、神の愛がその方へ届いていることを信じつつ、その方に向き合うことなのだろうと。そういうなかでモーセ律法の本質というものを大切にしたいと願わされました。
 
今日の黙想は「わかりやすさ」を求めて書いてはおりません。どうぞお許しください。ただ私が思うことを綴りたいと思いました。今日一日もまた、神の守りと平和が皆さんとともにありますように。お祈りいたします。

20/04/2023

2023.4.20(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記下19章34節
(主は言われた。)私はこの都を守り、これを救う。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書12章32節
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活12日目を迎えました。
 
昨日、代務教会の聖研祈祷会で、ある方からこんな質問を受けました。「復活体験と聖霊体験は違うのですか」と。質問された方は、聖霊体験を大変重んじおられる方なのですが、お話を伺いますと、復活体験も聖霊の働きなしにはなしえないのではという趣旨のご発言でした。復活体験も聖霊体験も切り離して考えられるものではなく、神の救いという大きな枠内のなかで連動していることをお話しました。復活とは決して死後の世界だけを語っているのではなく、私たちの生活のただなかにも、救い主イエスのご復活がもたらす恵みというものは確かに、そして明らかにあるのだと。そのことを理解するために、聖霊なる神が働いてくださるのだと私は考えています。
 
さて、今日の旧約・新約聖書に共通するのは、神による守り・救いというテーマであると私は受け止めているのですが、今日の聖書の言葉には「都」「神の国」という言葉とつなぎ合わせながら、守りとか救いという言葉が語られています。都にしろ神の国にしろ、政治的な支配に関係のある言葉です。
 
つまり、神の守りであるとか救いという言葉は、王として立たれる私たちの神が、私たちをゆがんだ支配の渦に巻き込むのではなく、あくまで私たちの幸福のために良い政治をおこなってくださる、そういう支配をイメージさせるものだと私は思います。
 
だからイエスは言われました。「小さな群れよ、恐れるな」と。どんなに治める民が優秀でなかったとしても、あまりにも守るには見劣りするような存在であったとしても、どんなに小さく弱くとも、そういうひとりひとりを神は守られる、幸福のために治められる。だから、恐れなくても良いのだよと、イエスは語られました。
 
イエスは、私たちの父である神が「喜んで」神の国をくださると言われました。そう。神の守りや救いというものは、それがもたらされる側の私たちが喜ぶことはもとより、神御自身の喜びというものが伴っていることを、私たちはこの御言葉から聴くことができます。守ろうとする愛する人が喜んでいる姿を見ると、守る側はとても嬉しい気持ちにさせられることをイメージしています。「あなたの笑顔が見たいから」というキャッチフレーズがありますが、まさに神はそういうことを喜びながら、私たちに自分のものを惜しみなく与えてくださるのだと。それが生きる命であり、日々の生活で味わうひとつひとつのことだったり、そして救い主、復活の主イエスなのだと。
 
今日の聖書の言葉に導かれた「第三のテキスト(ドイツ語原著)」は、ボヘミア兄弟団による詩でした。その一節にこんな文があります。
 
多くの逆境に耐えなければならなかったとしても
絶望してはいけません
主はすべての苦しみからあなたを救うのですから
 
多くの苦しみで神の喜びも、守りも救いも見えなくなることが私たちにはあると思うのです。しかし、絶望してはならないのだと。神は必ず私たちにとってベストのタイミングでそのご支配を明らかにされて、私たちを喜びへと導いてくださるのだと。そのことを私も胸に刻みつつ、今日という一日を歩んでまいりたいと心から願わされました。
 
どうぞ皆さんの一日に、主なる神の喜びがともにありますように。お祈りいたします。

19/04/2023

2023.4.19(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書8章13節
私があなたがたを救い
あなたがたは祝福となる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二3章5節
何事かを自分のしたことと考える資格は、私たちにはありません。私たちの資格は神からのものです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活11日目を迎えました。
救い主イエスのご復活は、まさに私たちひとりひとりに与えられた「祝福」に間違いないのですが、今日の旧約聖書の言葉は、神の救いによって、私たちが祝福「そのもの」となるという、なんとも興味深い表現だなと私は思いました。
 
祝福は与えられる与えられないということではなく、祝福そのものであるという考え方は、私たちをつくられた神が祝福の源であり、私たちが神から生きる命をいただいていること自体がすでに祝福であるというところに、今日の聖書の言葉を読み解く大きなポイントがあるような気がしてなりません。
 
旧約聖書・申命記にはしばしば「祝福と呪い」という言葉が登場します。神の掟を守れば祝福が、守らなければ呪いがというような読み方ができてしまう聖書箇所です。もちろん、神の掟を大切に守ることは重要でしょう。しかし、この言葉はややもすると、神の祝福というものが、私たちの掟を守るという努力の結果としていただけるものなのだというような理解もできてしまうわけです。
 
しかし、それは「業績主義」であると私は思います。一生懸命頑張ったから褒美をいただける、頑張らなかったから呪われるといった、私たちの能力や努力に重きを置くような聖書の読み方というものを、今日の「あなたがたは祝福となる」という言葉は打破してくれる。そもそも神は私たちを「祝福そのもの」となるべく創造され、今日まで導いておられるのだと。そこには私たちの業績や努力が中心に立つのではなく、あくまで祝福の源である神が、私たちのが真ん中に立つ。私は改めてそのことを受け入れたいと思いました。
 
宣教者であるパウロが批判を受けました。「あなたに何の資格があって使徒を名乗っているのだ」と。教会内で「あなたに何の資格があって牧師を名乗っているのだ」と言われたら、つらいだろうなと私自身思ったりするわけですが、パウロはここで「資格は神からのものである」という応答をしています。私は、このパウロの言葉を「神から与えられた資格をもって働いているのだから敬え」とか「言うことを聞け」ということを言いたくて、そのような資格の由来について語ったとは思えません。
 
資格は自分の立ち位置を補強するための言葉ではなく、資格そのものが神からの祝福であって、資格を有するということは、その祝福が祝福として私たちのうちで共有されることで、神を賛美し、あがめるということに直結するのだと、私は今日の言葉をとらえたいと思いました。神が私たちを祝福で満たすために、今与えられた立場や賜物というものを心から大切にしながら、それを与えてくださった神に感謝しつつ今日という一日を過ごしたいと願います。
 
どうぞ皆さんの一日に、そのような神の祝福が豊かに、ともにありますように。お祈りいたします。

18/04/2023

2023.4.18(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼファニヤ書3章15節
イスラエルの王なる主はあなたのただ中におられる。
もはや、災いを恐れることはない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章7節
神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活10日目を迎えました。
復活されたイエスと弟子たちがともにいたのは40日のあいだでした。イースターから数えて10日。時が過ぎるのはあっという間だと、あたらめて思わされました。
 
そんななかで今日、ローズンゲンに示された聖書の言葉を通して与えられるテーマは「恐れ」であると私は受け止めました。そのあたりのことを黙想してみたいと思います。
 
実は、私にとって恐怖に感じていることが現在いくつかあります。そのどれもが、解決するのが本当に難しいと感じている人間関係についての悩みと恐れです。そんなことでくよくよしていたってしょうがない。神様が何とかしてくださるさ。そう思いながら夜の眠りに就いても、朝目覚めると、そのことがふっと頭をもたげます。
 
昨日、こどもさんびかの「きょうだんげんかをするときは」という曲を聞いていました。その曲のなかで「かみさま かみさま かみさま そのわけおしえてください」という歌詞があります。人間関係のもつれのようなものがあって、このもつれから解放されたいと思うときに、しかしどうしたらよいか分からない。まさに「神様、教えてください」と祈りたくなるのです。
 
そんななかで今日の聖書の言葉は、何度も何度も繰り返し聞いてきたものでありながらも、やはりそこに立つことが本当に大切なのだということを、改めて思わされる一節でした。神が私たちのただ中におられる。ともにおられる。私たちの背後に、私たちの目前に、そして傍らに、そして底辺から私たちを支え、天上からもすべてをご覧になられている。つまり全方位から私たちを見ていてくださる方が、究極的に私たちのただ中におられるのだということを、私たちに伝え続けてくださっているのだと。
 
私自身、そのような聖書の言葉に励まされます。しかし、すぐに忘れてしまいます。恐怖、つまり自分自身の臆病さというものに取り囲まれて、そのことでいっぱいになる私自身があるのです。だからこそ、こういう聖書の言葉を繰り返し繰り返し聴き続けることのできる幸いというものをかみしめたいのです。「力と愛と思慮の霊」という、今日の新約聖書の言葉に惹かれます。神がご自分の力をもって私たちを愛し、その愛には十分な思慮がともなっているのだと。それがキリストの愛なのであって、この愛を私自身受け取りたいし、受けとることで少しでも臆病から解放されて、キリストの愛で人ひとに向き合いたい。そんなことを願わされました。
 
私たちのただ中に立たれる主なる神の愛と平和が、今日も私たちを支配してくださいますように。お祈りいたします。

17/04/2023

2023.4.17(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書51章50節
遠くから主を思い起こし
エルサレムを心に思い浮かべよ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章19節
あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活9日目を迎えました。
 
昨日は代務を務めている仙台北三番丁教会の礼拝説教奉仕、それに続く役員会議長の務めを終え、県南の大河原町へ行きました。病院に入院している教会メンバーのお母様への病床洗礼式を執り行いました。90歳を過ぎ、人生のターミナル期にあたって洗礼を受けたいとの思いを明らかにされました。決して体調が万全でないなかで、その姿は凛としておられました。そして、ご自分の口で救い主イエスへの信仰を告白された姿に、私もああ、この場に立ち会って本当に良かったと思わされました。まさに復活を祝うイースターシーズンにふさわしい、復活体験の出来事に私もあずかることができ、感謝感謝の一日でした。
 
遠くから主なる神を想う。今日の旧約聖書の言葉は、遠くバビロニア帝国の捕虜となった神の民たちに与えられた神からのメッセージです。「ふるさとは遠きにありて思うもの」という詩の一節があります。詩人室生犀星は、どんなことがあっても故郷、田舎へ帰りたくないという思いから詩をつづったと言われています。遠くから故郷を眺めたほうが、現実を考えなくて済むという気持ち、私も何となくわかるような気がします。私も20歳のときに故郷を出て上京するわけですが、田舎のしがらみのようなものに辟易していた時でした。
 
しかし、今日の旧約聖書の言葉は違います。バビロニア帝国によって自分の故郷が破壊され、強制的に知らない土地に連行されてしまった、都エルサレムの人々が背景にあります。エルサレムが嫌でその場を離れたのではなく、むしろ愛する都エルサレムを追われた人々です。強制的な力によって、遠くから神を想うことしかできなかった。そのようななかで、神は預言者エレミヤを通して、遠くから主を想いなさいと告げられたのでした。
 
当たり前のものとして受けていたものが、実は当たり前ではなかったのだ。それはその環境から離されたところで、はじめてそのありがたみというもの実感できるのではないだろうかと思うのです。例えばコロナ禍によって、日常の物事が私たちから奪われ、遠いものとされたときに、やはり私たちは遠くからそれを眺めては、あらためてありがたさを知り、感謝の思いを抱くようになる。室生犀星にしても、エルサレムの民にしても、動機は違えど遠くにあって良いものを想う気持ちは、そう変わらないと思うのです。
 
バビロニアにあって、エルサレムの民はいわゆる「よそ者」でした。しかし、そのよそ者をよそ者のままにはしておかれませんでした。今日の新約聖書の言葉は、救い主イエスによって、遠くにあっても近くにあっても神によって集められることでひとつにされたことが描かれています。物理的な遠さ近さがあったとしても、もはや「よそ者」ではなく、身近に救い主イエスを私たちは感じ取りながら、日々を歩むことができるのだと、使徒パウロは手紙に書きつづったのでした。
 
非日常の世界から日常を眺めるときに、当たり前だと思っていた日常の出来事が本当に感謝にあふれるものだったのだということに気づかされたときに、私たちはその先にある再生・復活の希望に思いを寄せることができるのです。復活に対する希望と待望を、必ずや復活の主イエスは、私たちにそれを味わわせてくださるのだと。私は今日の聖書の言葉をそのように受け止めつつ、今日の一日を歩みたいと思わされました。どうか、皆さんの一日も感謝の思いで満ちあふれますように。お祈りいたします。

16/04/2023

2023.4.16(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編99編5節
我らの神、主を崇めよ。
その足台にひれ伏せ。
主は聖なる方。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録4章31節
(使徒たちによる)祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語りだした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
救い主イエスの復活8日目を迎えました。そして、イースター後の最初の日曜日がやって来ました。私たちが復活と救いの音信を受け取って、受け止めながら、今日から始まる新しい一週間をどのように過ごすことができるのか。今日も新たに御言葉に聴いてまいりたいと思います。
 
イエスによる命の復活は、イエスの弟子たちを命の再生へと導き、命の再生に導かれた弟子たちは、やがて訪れる聖霊なる神の降臨をもって、躍動へと導かれた。今日の新約聖書はまさに、そのようなドラマを経て、聖霊に満たされた使徒ペトロによる説教が終わったのち、弟子たちには明らかな変化が生じました。
 
ペトロが神殿で説教することを良しと思わないユダヤ教指導者たちは、ペトロとヨハネを逮捕し投獄します。そして、彼らに脅しをかけます。しかし、そのような人間の脅しに、彼らは屈することはありませんでした。なぜならば、それが聖霊なる神の力だからです。聖霊は弟子たちを守る御方であることは、イエスからかねて聞かされていた通りでした。聖霊に満たされるとは、神の御心が具体的に展開していくことです。ペトロは大胆に、イエスが復活の救い主であることを、妨害者たちに語ることができたのです。
 
ペトロを言い負かすことのできないユダヤ教の指導者たちは、彼らを釈放しました。その後、聖霊に満たされた使徒や弟子たちは主なる神に祈ります。聖霊に満たされることが神の御心の具体的な展開だとすれば、祈りはその展開を私たちが神から聴き、それを私たちの言動を通して明らかにしていくことでしょう。祈りに動かされた弟子たちは、堂々と神の言葉を語りだしたと、聖書は続けて述べています。
 
一同のいた場が揺れ動いたとあります。それぐらいの躍動感にその場があふれていたのでしょう。それは単なる熱狂とは違います。神の力が私たちをあらゆる恐れから解放するときに起きる着実確実な動きでした。まさに弟子たちの心を、復活の主イエスが揺り動かしてくださるのです。このような喜びが、復活によって生かされる私たちの姿だとすれば、希望にあふれてくるのではないか。そのように思い、また受け止めたいと思いました。
 
今日、世界中の教会や集会で行われる、主の日を祝うすべての集まりに、復活から導かれる喜びが、私たちの一切にあふれますように。お祈りいたします。
 

 

15/04/2023

2023.4.15(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨブ記9章4節
神は心に知恵があり、力は強い。
神に対してかたくなになって
誰が無傷でいられよう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙9章20節
ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活7日目を迎えました。そして、4月も折り返し地点を迎えました。この1日もまた、神が私たちとともにおられることについて、心のなかで思い巡らしながら、聖書の言葉に聴いてまいりたいと思います。
 
今日の聖書の言葉を見ますと、これまた私たちにとって恐れをなすようなひと言だなと感じたのは私だけでしょうか。神に対して頑固な自分自身を見せ、逆らい、口答えすることによって、あなたは無傷でいることができようかという問いを、今日の聖書の言葉は示しています。これは読み方によっては、いわゆる「神罰」というものを、あなたがたの態度次第で受けてしまうのだとも読めてしまいます。いわゆるカルト宗教は、こういう言葉を巧みに利用して、指導者の言うことをメンバーに聞かそうとするわけです。神の怒りを買いたくなかったら私に従え。と言ったような感じでです、昨今話題になっている、エホバの証人による2世への「むちによる虐待」は、そういうところに起因していると私は思います。
 
しかし、どうなのでしょう。「誰が無傷でいられよう」という言葉は、神が罰として私たちに制裁を加えるのだという読み方をするべきなのでしょうか。少なくとも私は、そういう読み方からは解放されたいし、是非とも避けたいと考えています。ではどういう読み方かというと、これは「自傷」なのではないかと思えてならないのです。心をかたくなにすることで、自分自身を傷つけるというものです。神の知恵と力よりも、自分自身の判断や行動を確信して物事を行う時に、ときに私たちは自分自身を傷つけてしまうことがあるのです。そういう姿を「自暴自棄」という言葉で、私たちは表現してきたのかもしれません。
 
あらゆるものにがんじがらめになりながら、袋小路に突き進んでしまい、後戻りできないようなとき、はじめて私たちは自分自身を傷つけていることに、はっと気づかされていることがあるでしょう。おのれが何者かを知る機会となるのです。今日の新約聖書が指し示している「あなたは何者か」という問いかけは、そのような私たちの自己認識というものを促すものにつながるのではないか。私はそのように受け止めました。
 
ですから、神に口答えすることで裁きや制裁を受けることへの恐れを助長するのではなく、自分自身のありようを見つめるなかで、実は自分で自分を追いつめていることに気づかされたら、私は今こそ、神の知恵と力によって生まれる慰めや助けというものに、自分自身が癒されたいと心から願わされました。私もいくつかの傷を抱えて生きていますが、その傷を癒してくださる神の助けを求めながら、今日の一日を生きていまいりたいと思います。
 
皆さんの一日にも、神の守りと平安がともにありますように。お祈りいたします。

14/04/2023

2023.4.14(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書23章5節
その日が来る――主の仰せ。
私はダビデのために正しい若枝を起こす。
彼は王として治め、悟りある者となり
この地に公正と正義を行う。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙2章15節
(キリストは)死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた人々を解放されました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活6日目を迎えました。
 
はやいもので、今週も金曜日を迎えました。受難日から1週間。復活祭を経て、私たちはイースターの余韻から、私たちひとりひとりが「復活に生かされる者」として歩むために、今日も聖書の言葉によって励まされたい。そんな思いをもって御言葉をいただきたいと思いました。
 
さて、本日の旧約聖書の言葉は、まさに神がご自分の民に対して果たされようとしている「約束」について告げたものであることが分かります。「ダビデのために正しい若枝を起こす」と、神は預言者エレミヤを通して語りました。エレミヤによって取り次がれた神の言葉の多くは、決して「喜ばしい」ものだけではありませんでした。ユダ(南イスラエル)の民にとって、自分たちの神に向かっていない現実の姿が明らかにされ、来るべき自分たちの末路というものが露わにされるからです。こうして彼らは、数十年にわたる捕虜生活を経験しなければなりませんでした。
 
しかし、民たちが神に向かっていなかったとしても、神は民たちのほうをいつも向いて、助けを与えてくださるということにおいては、一点の曇りもありません。神が自分のほうを向いてくれなかったから、いたずらに罰として制裁を与えるというものとは違います。バビロニア帝国による苦難を味わわなければならなかったのは、ユダの民が自ら蒔いた種のゆえでした。そんなユダの民に、神はまなざしを向けられ、助けを与えようと働いておられるのです。それに気づいて欲しいと願いながらです。
 
神が民たちに与える「若枝」は、その正しさをもって人々に向かわれます。ご自分の正義と公正をもって、私たちを治めてくださるというのです。神が人々に向かわれるというのは、ご自分のうちにある正しさが人々にあまねく分配されるということです。こうして、神が本来人間に与えられた命の尊さというものを明らかにされるというのです。
 
それが、イエスによるご受難とご復活によって明らかにされました。死という奴隷状態、捕虜状態にあった人間の姿は、はるか昔バビロン捕囚の憂き目にあったユダの民と相通じます。死という脅威にがんじがらめにされていた私たちを解放してくださったのが、救い主イエスであったというのが、今日の新約聖書に指し示された言葉の意味です。
 
キリストが死者のなかから復活された出来事は、私たちをいろいろなしがらみから解放する力があります。イースターを喜ぶというのは、今私たちのうちにある苦しみをも、神はすべてご存知なうえで救い主イエスを差し出してくださった。その正しさが私たちの心にキリストを刻み込んでくださった出来事なのだと、私はあらためて受け取りたいと思わされました。
 
このような神の差し出された幸いを胸に抱いて、今日という一日を歩むことができますようにと祈ります。皆さんおひとりおひとりの平和のために、そして幸いのためにお祈りいたします。

13/04/2023

2023.4.13(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ネヘミヤ記9章31節
主よ、
あなたはその深い憐れみによって
彼らを滅ぼし尽くすことはせず
お見捨てにはなりませんでした。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章19節
イエスの言葉:
私が生きているので、あなたがたも生きることになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活5日目を迎えました。
 
今朝は、近江八幡にあるアシュラムセンターの施設である「シメオン黙想の家」で朝を迎えました。月に一度の「常任運営委員会」に、協力牧師として出席するためです。3か月振りの近江八幡は、前回の冬模様とは打って変わって、新緑まぶしい初夏を思わせるような陽気と風景です。黙想の家で黙想を楽しむことのできる幸いを覚えながら、今日の聖書の言葉をいただきたいと思いました。
 
今日選ばれた聖書の言葉を通して思わされたのは「私たちを愛し続ける神」というものでした。旧約聖書の言葉はネヘミヤ記の一節です。それによれば、神はご自身の憐れみによって、ご自分の手でつくられた人間を滅ぼしたり、見捨てたりすることはなかったのだと記されています。人間は、神が創造された時に抱かれた「意図」にようには動きませんでした。人間が選んだ道、それは「神無しに生きる」というものでした。
 
人間が神から背を向けて生き始めたとき、神はこの作品は失敗作だったと簡単につぶすことは可能だったでしょう。しかし、神はそのようにはなさらなかった。失敗作をも愛おしんでくださったのです、人間が自分に背を向けて生きるということへの結末を、自分自身が自覚するように神は人間を扱わされたのでした。
 
私たちもそうです。人からガミガミ言われれば言われるほど、反発したくなる自分自身があります。そう、人間は極めて「あまのじゃく「」な存在なのだと。しかし、自分で経験してみて、初めていろいろなことに気づかされる。喜びもあれば後悔もある。はじめて物事のありがたみであるとか、それを見守ってくれた存在への感謝の念があふれたりだとか、私たちは自己発見することで、その背後にある意図というものに気づかされるのです。
 
では、私たちは何に気づかされるのか。滅ぼさない、見捨てない神の「憐れみ」に気づかされるのだと。この世の中が、必要と思われないもの、役立たないもの、従順でないものに対して、はい用無しと簡単に投げ捨ててしまい、葬り去ってしまうようなことが数多くあるなかで、神の私たちに向けられる憐れみこそ、私たちが再生して生きる、つまり、復活に生きることができるための、なくてはならない助けなのではないかと思わされるのです。
 
イエスは言われました。私が生きているから、あなたがたも生きると。私が復活の主であるからこそ、あなたがたも復活するのだと。これほど心強い希望の言葉はあるだろうかと、私は素直に受け入れたいのです。
 
どうぞ今日の一日が、皆さんにとって神の憐れみによって立ち上がることのできるときでありますように。お祈りいたします。

12/04/2023

2023.4.12(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書45章12節
私はその手で天を広げ
その万象に命じた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙1章17節
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の源である御父から下って来るのです。御父には、変化も天体の回転による陰もありません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活4日目を迎えました。
 
本日選ばれた聖書の言葉を通して与えられるテーマは「すべての良いものを与えてくださる神」であると受け止めました。では、神が与えてくださるものとは一体なんだろうか。そんなことを改めて考えてみました。
 
昨日、保育園の園児礼拝でお話をすることになっている、私が働く教会の信徒さんとともに、お話のテーマである「復活」について、どうしたら子どもたちに届くメッセージというものを話すことができるだろうか。そんなことについて話し合っていました。
 
私もいろいろ考えたのですが、私たちにとって朝の目覚めというものが「復活の疑似体験」なのではないか、そう思ったのです。夜眠りに就いて、その時にせいぜい夢を観るこち以外には何の自覚的な経験がない、つまり「仮死状態」のところから、目覚めることによって生きていることの実感があふれてくる。そして、新しい一日の命が始まる時に、まさにそれが復活の出来事なのだと。そんなイメージがわいてきたのです。
 
新しい命を与えてくださる方、その御方が天で両手をいっぱいに広げ、私たちに語りかけてくださり、生きる命をプレゼント、ギフトとして与えてくださる。その御方こそ、私たちの神であると、今日の聖書の言葉は物語っているのだと。与えられていることの幸いを思い巡らすきっかけとなる、今日の聖書の言葉をいただいたことに感謝して、一日を歩みたいと願わされました。
 
皆さんの一日の歩みにも、良いものを与えてくださる神が、ともにいてくださることを感じとることができますよう、お祈りいたします。

11/04/2023

2023.4.11(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編91編9節
あなたは、わが逃れ場である主
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章5節
キリストの苦しみが私たちに満ち溢れているように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ち溢れているからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活3日目を迎えました。
 
昨日はじっくりとイースターの余韻に浸ろうと思い、仕事から離れて一日を過ごしました。しかし、ほぼほぼ「寝て過ごした」一日でした。朝のごみ出しを終えて、9時にベッドに就いて12時まで眠り、まだ眠れそうと思って、13時にもう一度ベッドで横になったら17時まで眠ってしまいました。そして、夜も22時に眠り始めて、今朝起きたのがなんと7時でした。この一日で16時間も眠っていたとは。静かにしているのにもほどがあると自分自身に呆れつつ、しかし、しっかりと休むことができたので、元気を取り戻すことができました。今日からまた張り切って働くことができそうです。
 
さて、今日の旧約聖書の言葉である、詩編91編9節には「主はわが隠れ家」という、詩編でしばしば用いられているフレーズです。主なる神は私たちをそのような所でかくまってくださるというイメージを、私たちに与える言葉であると思います。
 
この詩編91編9節ですが、ローズンゲンの原著で引用されている「ルター訳聖書2017年版」では、隠れ家について「Zuversicht」という単語が用いられています。この言葉は「確信・信頼」という意味があります。私は思いました。隠れ家とは、絶対にかくまってもらえるという安心や信頼にもとづいた確信があってこその隠れ家なのだと。
 
主はわが隠れ家、ということは、私たちにとって主なる神の存在こそ、私たちの安心であり、信頼であり、絶対的な確信であるということなのだと。この絶対的な信頼を受けるにふさわしい方であるということが、そのまま救い主イエスに引き継がれているというのが、今日の新約聖書の言葉が指し示していることなのだと私は受け止めました。
 
私たちの味わう苦しみ。そしてそういう時にこそ欲したくなる慰め。しかし、私たちの苦しみの一切合切は、救い主イエスの十字架によってすべて引っ提げられたのだ。そしてイエスの苦しみが私たちすべてを慰めへと向かわせてくださったのだ。あなたがたはしっかりとイエスによって守られているのだと。あなたが信頼をもって逃れ場として選んでくださったところは、そのようなイエスの慰めに満ちた守りが、あなたをしっかりとホールドしているのだ。そんな風に私は感じたのです。
 
神にしっかりと抱かれ、守られていることこそ、イースターの期節を生きる私たちへの慰めと受け止めて、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。どうぞ皆さんの一日もまた、主によって守られていることの幸いを味わうときとなりますように。お祈りいたします。

10/04/2023

2023.4.10(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記14章14節
主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一15章57節
私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に、感謝しましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスのご復活を祝うイースターから一日が過ぎました。イエスは復活されたその日から、40日間にわたって弟子たちにその姿を現されて、人々とともに過ごされました。

使徒言行録1章3節
イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

せっかく、これまでのレントの期間も「レント〇日目」と書き綴りましたので、ここでも「イエスの復活〇日目」という書き出しをもって始めたいと思います。ということで、今日は「イエスの復活2日目」ということになります。40日目は5月18日の「昇天祭」です。この期間、イエスのご復活を心に留めながら、御言葉に聴きたいと思います。
 
余談ですが、私がかつて暮らしていたドイツでは、イースターの翌日は「イースター月曜日」という祝日です。私がドイツへ渡った2012年、私は食料を買うのをすっかり忘れていました。近所のスーパーは前週土曜日の午後2時から月曜日までお休みなのです!その話を聞いていたのに、なんとも間抜けな話です。幸い、教会の信徒さんが食べ物を差し入れてくださり、とても助かったのを思い出しました。
 
私は思ったのです。便利さも大事だけど、そういう便利さから離れて、たとえ不便のなかでも自分自身をゆっくりと休ませて、ただ静まってその時を過ごすことは本当に大切なのだと。心静まるなかで、神のお働きにじっくりと思いを寄せて、安心してその時を過ごす。イースター翌日の、そういう豊かな過ごし方があるのだとドイツにいる間に徐々に思わされたことも思い出しました(とはいっても、牧師館の2軒先にあったカフェレストランの断食明けイースタービュフェもまた、私の楽しみでしたが・・・)。
 
そんなことを思いながら、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉に、私は引き寄せられました。「あなたがたは静かにしていなさい」という、神の言葉です。どんなに心騒ぎ、恐怖が私たちを襲うことがあろうとも、神は私たちのために働かれる、戦われる。だから、あなたがたはただ心静まり、その時を過ごしなさいと。
 
泰然自若という言葉も思い出しました。大変なときこそ落ち着いていることの大切さを教える四字熟語ですが、それは自分自身の忍耐力であるとか努力からというよりは、私たちのために戦われる神がおられるからこそ、私たちは泰然自若でいたいという思いにさせられるのです。
 
そして、今こそ、神の繰り広げられる戦いに勝利された救い主、イエス・キリストがおられるのだというのが、今日の新約聖書の言葉です。静まることで得られる幸いと祝福。勝利者イエスをいただくことへの安心感が、イースターの季節、特にイースターの余韻冷めやらぬ今日一日の過ごし方かなのかと思わされました。
 
もちろん、お仕事や学校など、世の中は普段の平日に過ぎませんから、一日を静まって過ごすことは難しいかもしれませんが、それでも、心静めるひとときが与えられるのであれば、復活の喜びを心に想う時間となりますことを、心からお祈りしております。私の手帳は、今日は真っ白ですので、ただ静まって喜びに満たされたいと思います。
 
皆さんにとっての一日が、主の守りと祝福のうちにありますように。お祈りいたします。

09/04/2023

2023.4.9(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編3編6節
私は身を横たえて眠り、目覚めます。
主が私を支えておられるから。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書16章9~10節
週の初めの日、朝早く、イエスは復活して、まずマグダラのマリアにご自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた女である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところに行って、このことを知らせた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスのご復活、おめでとうございます!
 
私たちはレントにおける40日間の旅路を終え、ゴールにたどり着きました。日が昇る東の方から神が起きました。まさに「東方神起」の出来事でした。
 
こんなことを思い出しました。私が定期的に説教奉仕に出かけていた教会の信徒の方が天に召されました。葬儀を私が担うことになり、かの地へ向かいました。葬儀社さんとのやり取りのなかで、非常に誠実で丁寧なディレクターさんへ、韓国の歌手グループである「東方神起」の話をし、実はこれこそ復活のイエスであり、死者を永遠の命へと導くという、キリスト教の中心的なメッセージなんですよとお話をしました。ディレクターさんは、そのことをノートに熱心に書き留めていたのです。
 
次の日の朝、そのディレクターさんからひとつのエピソードを伺いました。ご遺族との打ち合わせの中で、ご遺族の方がディレクターさんのノートに書いてある「東方神起」の文字を見て、「なにをふざけたことを書いているんだ!」と憤慨されたそうです。ディレクターさんは、これは牧師さんから聞いたことで、実は死者の復活の希望というキリスト教の教えがあることを伝えたのだそうです。
 
いみじくも、ご遺族の方からもそのことについて私に話してくれました。ご遺族の方は、葬儀社の控室で夜を過ごして、まばゆい朝日の光が部屋を差し込んだときに目覚めたそうです。そして、その光が何とも温かく、それが神の温もりであり、愛する者を失った家族が大切にしていたことが何であるかを、改めて実感したのだそうです。まさに東方神起の経験をされたということを、興奮気味にお話してくれたのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、まさにそのときのことを思い出させてくれるような言葉だったのです。私たちは眠りに就く。しかし、神が私を覚え、支えてくれるからこそ、私は再び目覚めることができるのだと。日毎に与えられるこの出来事こそ、復活が指し示す福音なのだと私は受け止めたいのです。それが人間の死からの復活へと私たちを導き、命の希望へと私たちを揺り動かすのだと。そのような気持ちで、今日のイースターの祝いにあずかりたいと願わされました。
 
今日の新約聖書にあるマグダラのマリアも、まさに東方神起を経験したひとりでした。そして、その喜びを人々に伝えました。私たちもかくあれかしと。イースターがもたらす幸いが、皆さんとともにありますように。お祈りいたします。ハッピーイースター!

08/04/2023

2023.4.8(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編40編3節
主は私を滅びの穴、泥沼から引き上げて
私の足を岩の上に立たせ
歩みを確かなものとしてくださった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一3章18~19節
キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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私たちは四旬節(レント)40日目、いよいよ最終日を迎えました。この40日間の旅路の締めくくりとして、本日選ばれた聖書の言葉は、十字架に架かられ、殺されたイエスが陰府(よみ)の世界に降られたことを意識させるものであると私は感じました。
 
「よみ」という読み方をもって陰府という言葉を表すときに、そこには「よみがえり(陰府帰り)」という言葉が関係しているのだと思います。つまり来たるべき復活を待つ死者の世界であり、陰という言葉が用いられているくらいですから、そこは暗闇に囲まれた環境であることが想像できます。暗闇が支配する世界。そこにイエスも死者のひとりとして降られたと理解できます。つまり、私たちと同じようにイエスは人間として死なれたのです。
 
さて、本日の新約聖書の言葉では、とても興味深い記述がなされています。イエスが捕らわれた霊のもとへ行って宣教をされたという一文です。肉では殺されたという前提が語られていますので、そこにはおのずと死というものを連想させます。そう考えますと、捕らわれた霊というものがどういうものかというイメージもわいてくる。私はそのようにこの聖書の言葉をとらえました。つまり、イエスは陰府の世界にある死に捕らわれたひとりひとりに対しても、宣教をされたのだと。
 
ただ、この場合、死というものが文字通りの人間の死だけを表すのではなく、私たちの生きている世界でも、生気が失われ、生きる気力が奪われて、まさに「死」を彷彿とさせるような私たちのもだえるような苦しみをも指しているのではないか。私はそう思えてならないのです。イエスが死んで陰府に降られたという経験こそ、生きている間でも死を思うような私たちひとりひとりのもとに、イエスは宣教をされ、教え、慰め、励まし、私たちをよみがえりの道へと導いてくださるのだ。そんな希望にあふれた言葉が、今日の新約聖書の箇所に示されているメッセージであると、私は受け止めました。
 
そのことがリアルに描かれているのが、本日の旧約聖書の言葉です。死を思うような滅びの穴、ぬかるみにはまり込んでしまった私たちを、主なる神は引き上げてくださり、しっかりとした地盤の上に立たせてくださる。そして明日の一歩を歩ませてくださる。そういう御方なのだと詩人は賛美しました。この言葉が示すメッセージと、今日の新約聖書の言葉が絶妙にマッチする。私はそう思ったのです。
 
あらゆる苦痛にがんじがらめにされながら、私たちが経験する暗闇。まさに墓に葬られたイエスを見届ける人々のうちにある暗闇というものを、私たちは想像し、黙想することができます。昔から受難週の土曜日を「黒の土曜日」として一日を過ごしたのも納得できます。しかし、その暗闇は暗澹たる状況だけを指しているのではない。そんななかでも、その暗闇から引き出そうと、霊において生きて働いてくださる主がおられることに、私たちは来るイースターへの希望を抱きつつ、今日の一日を過ごしたい。私はそんなふうに願わされました。
 
どうぞイースターへの備えの一日が豊かにされつつ、レント最終日の時を過ごすことができますように。皆さんの一日に、生きて働いておられる神の愛がともにありますように。お祈りいたします。

07/04/2023

2023.4.7(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編34編9節
味わい、見よ、主の恵み深さを。
幸いな者、主に逃れる人は。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書23章42~43節
(犯罪人のひとりが)
「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。
 するとイエスは、
「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)39日目を、そして私たちは受難日を迎えました。本日選ばれた旧約聖書の言葉は、受難の苦しみを物語るというよりは、主なる神の恵みを味わい知ることを私たちに促す詩の一編です。
 
主がいかに私たちを愛し、慈しんでおられるかを私たちが味わい、じっくりと噛みしめていくうちに、その味わいがあふれてくる。そんなイメージが私の思いのうちを駆け巡ってきました。
 
これは私の妄想かもしれませんが、嚙みしめるという行為は相当な力を込めないとできないことです。奥歯に力が入らないというのは、大したことがないようで実は不便だったりするわけです。食べ物もしっかりと噛みしめないと、その味わい深さを知ることが半減するような気がするのです。味わいというのは、味覚だけでなく粘膜にふれるときの触覚であるとか、噛みしめる時に歯肉に伝わる弾けるような感覚であるとか、そういうものを総合的にとらえて、初めて味わうことが可能なのだと思うのです。
 
私たちは、イエスの肉体が十字架で引き裂かれるような出来事が、まさに舌の上を通り過ぎるだけの感覚とはかなり違うものであると思うのです。私の体と言われたパンを噛むときの感触は、まさにイエスが十字架で釘打たれた時の肉体に相通じるのだと。そのパンのひとかけらを私たちがじっくりと噛みしめるときに、主の味わい深さというものを実感できるのではないか。そう思えてならないのです。
 
イエスとともに十字架に架けられた犯罪人のひとりが、それこそ引き裂かれるような苦痛の中でイエスに「私を思い出してください」と願い出たときに、それこそ、彼がイエスの味わい深さを経験した瞬間だったのではないか。そのように思うのです。イエスが単なる犯罪人のひとりではなく、罪のないイエスがあえて十字架にかかられた、その意味の深さを彼は知ったのです。そう、それは実に深い味わいなのだと。
 
主の味わい深さを知った者は恵みのなかにあると詩人が歌ったように、イエスはその犯罪人に言いました。あなたは今、私と共に楽園にいるのだと。将来の話でも希望的観測でもありません。今、あなたは私の味わい深さを知り、それを共に食しているのだと。その幸いをイエスは語られました。
 
どうして世界の救い主が死罪人なのか。そこには一般的な常識では平易に理解できないものがあるかもしれない。しかし、そこには味わい深さがある。噛みしめれば噛みしめるほどに恵みという味わいが、私たちの口の中にあふれてくるのだと。このあふれる味わいを、受難日という今日の一日、経験したいと改めて思わされました。
 
受難日の一日が、苦しみのなかに恵みという味わい深さもまた経験できる時でありますように。皆さんの主にある平安をお祈りいたします。

06/04/2023

2023.4.6(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記8章22節
(洪水の後、神は言われた)
 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ
 寒さと暑さ、夏と冬
 昼と夜、これらがやむことはない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章19~20節
それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)38日目を、そして受難週5日目である本日は「洗足木曜日」です。イエスが弟子たちの足を洗い、そして、いわゆる「最後の晩餐」を通して、イエスはパンとぶどう酒を弟子たちとともにあずかったことを記念する一日です。私の働く仙台宮城野教会でも、19時より洗足木曜日礼拝を執り行います。いよいよイエスの十字架を想う夜を迎えることになる。そんなことを思うと、胸が高鳴るをのひしひしと感じます。
 
洗足木曜日だからこそ、本日選ばれた新約聖書の言葉は、イエスが弟子たちとともに食卓を囲まれたとき、イエスから出た特別な命令です。私の記念としてこれを行いなさいと命じられたのは、いつもと変わらないパンとワインが、私の体、私の血を想い起こすものである、というところが特別だったのです。弟子たちはこの意味をまだ悟っていませんでした。イエスが十字架に架けられて、その命を落とされてもなおも、パンとワインを通してイエスが自分たちとともにいてくださるという意味を知ることができませんでした。そのことに気づいたのは、ずっと後になってからのことでした。
 
どうして弟子たちは気付かなかったのか。そんなことを思います。先のことを悟ることができないのは、私たち人間の持つ限界であるというのは、私たちの誰もが実感していることと思います。だからこそ、弟子たちはこの後に訪れる、イエスの身に降りかかるあまりにも恐ろしい状況に耐えられず、イエスのもとを去ってしまいました。どんな苦しみにも主がともにおられるというイエスの教えは、弟子たちの心を巡ることがありませんでした。それよりも目の前にある恐れで思いも心もいっぱいになってしまったのでしょう。私たちもよく経験することだと思います。
 
しかし、どんな苦しみが訪れようとも、主は日常の食卓の場面にも、その他多くの日常の場面でも、私たちとともにいてくださる。それは非常時となったとしても、何ら変わらない神の約束なのだと。
 
本日の旧約聖書の言葉は、いわゆる「ノアの洪水」が収まった時に、神がノアに告げた言葉でした。地が続く限り、あらゆる日常が絶えることがないという神による約束です。その日常の真ん中に、神が私たちとともにおられることを、私たちは日常のなかで感じ取ることができるのだと。喜びの日も、悲しみの日も、笑いの時も、怒りの時をも。
 
私は思います。今日と明日は聖書を通して「非日常」を味わう日だけれど、私たちにとっての日常があっても、非日常であっても、神が私たちとともにいてくださることには、何ら変わりがないのだということをです。そう考えますと、日常とか非日常というのは、神がつくりあげるものではなく、私たちの心の揺れ動きがそのように感じさせるのだと思うのです。先行き見えない不安や恐れがそうさせるのでしょう。しかし、そんな私たちの変化があるにもかかわらず、神は私たちに変わらぬ愛を注いでくださる。そんなことを信じつつ、洗足木曜日の一日を過ごしたいと願わされました。
 
どうぞ、皆さんにとっての一日が、いつもともにいてくださる神の恵みというものを感じとる時でありますように。お祈りいたします。

05/04/2023

2023.4.5(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編33編5節
主は正義と公正を愛す。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二8章9節
あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)37日目を、そして受難週4日目を迎えました。
主の受難週も、もう中日を迎えました。明日からは洗足木曜日(聖木曜日)、そして明後日は受難日(聖金曜日)を私たちは迎えることになります。救い主イエスが私たちのために最も貧しくなられたことの意味を、心のなかで反芻しながら、その備えとなる今日の一日を過ごしてまいりたい。そんな思いで本日選ばれた御言葉に心を傾けてまいりたいと思います。
 
主なる神は「正義」と「公正」を愛される。これが本日の旧約聖書の言葉です。正義と公正は、なんとなく同じ響きを持つ言葉であり、どちらも「正しい」という意味が込められているのは、漢字から読み取ることができます。しかし、あえてこれらの言葉を使い分けているところから、もう少し掘り下げて考えてみたいと思いました。
 
まず正義から。正義とは文字通り「正しさ」そのものです。そして、聖書で正義という言葉が用いられる場合、それは「神御自身の正しさ」と言って間違いありません。神が私たちに与えられる正義とはどのようなものなのだろうか。それは私たちのそれぞれが抱く正義というものと比較しながら考えることができるのかもしれません。
 
私たちも自分なりの正義をもって、日々の行動を歩もうとしますが、その正しさは時に、独り善がりなものになってしまうことがないだろうか。そんなことを思わされます。自分自身が正しいと思っていることが、実は万人に共通するものではないということを、私自身も生活のあらゆる場面で実感することがあります。私は正しいという感覚は、それイコール「他人は間違っている」と断定しまうこともしばしばあるからです。そのことがエスカレートすると、自分の正しさを押し付け、それで抑圧し束縛する。こうして不幸というものが生まれていくのではないか。そんなことを自戒を込めつつ思わされるのです。
 
神はご自分の正しさを、救い主イエスの生き方というものをもって究極的に示されました。あえて貧しいところに自分の身を置いて、本来得るべきであった富を投げ捨てて私たちのために与えてくださった。すなわち、私たち人間の命を、ご自分がつくられたその意図にしたがって大切にされるところに、神が示された「正義」があるのだと、私は受け止めたいのです。たとえ人間が神に逆らっても、神はご自分の当初の目的を崩すことなく、壊すことなくご自分が貧しくなっても与える正しさです。
 
公正とは、その正しさというものを分け隔てなく行き渡らせようとする態度のことを指します。誰もが幸せを受け取ることができるように働く思いが、公正の示す意味です。そう考えますと、ご自分の富を貧しくさせてまで、私たちのすべてに与えようとする正しさが公正であり、ご自分の正義を公正に私たちに与えるほどに、私たちを愛された、つまり大切にされておられるという意味で、神は正義と公正を愛される御方であるということができるのだと私は受け止めました。
 
それが、十字架の痛み苦しみという貧しさをあえてお受けになられ、その道を進んだイエスの恵みであると、後に使徒パウロは人々に知らせました。その恵みというものを「私たちは知っています」と手紙にしたためたパウロの思いを、私たちもまた受け取ることができるのだというのです。まさに、受難週に聴きたい御言葉だと私は思わされました。
 
貧しくなることでかえって富んだ。私たちの現実ではなかなか理解しがたい出来事を、あえて私たちに示してくださった神の正義というものを身にまといながら、今日という一日を歩んでいきたいと願わされました。神の正義と公正が私たちを豊かにしてくださることを信じつつ望みつつ、受難週の旅路を歩むことができますように。お祈りいたします。

04/04/2023

2023.4.4(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨエル書2章21節
大地よ、恐れるな。楽しみ、喜べ。
主は偉大な業を成し遂げられた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章37~38節
弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。
「主の名によって来られる王に
 祝福があるように。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)36 日目を、そして受難週3日目を迎えました。
 
本日の新約聖書は、救い主イエスがエルサレムに入場されたときの場面における一節です。イエスの弟子の群れは、いよいよイエスが自分たちの王として来られたことを喜びました。その群れは、これまでイエスの言葉と行いに励ましを得、勇気づけられた人たちでした。そのイエスが私たちのために王となってくださるのだ。それはまさに彼らにとっての喜びに他なりませんでした。
 
神は、私たち人間のために「喜び」を与えられた。これが、神が天地万物を創造されて以来、変わることなく被造物に提示され続けておられることです。にもかかわらず、私たちの世界にはどんなに喜びをそぎ、奪ってしまうような出来事の多いことか。聖書に記されている喜びとは真逆の現実があることを、私たちは十分に知っています。
 
イエスが王として来られたという弟子たちの喜びもつかの間のことでした。イエスをねたみ、殺したいと心から願っていた人々の存在も、私たちは忘れることができません。そのような人たちの存在を通して、私たちは喜びとは真逆の方向に向かう力の根源というものを知ることができるからです。
 
人々のイエスに対するうらみねたみは、自分たちの望むように望み、願うように物事が実現することが喜びであると理解していた人たちによって起きたものでした。つまり、喜びというものの根源が神にあるのではなく、あくまで自分自身の思いを源とした喜びでした。だから、自分の思い通りにならなければ、そうならない理由を探し出しては、それが見つかると自分自身の不満というものをそこにぶつけるのです。
 
しかし、私は思うのです。なにもこのようなことは、イエスを殺そうと思った人たちだけに起きたのではなく、私たち人間ならば、誰でも持っている感情なのではないかと。自分の思い通りにいかないと、なかなか喜べないということが、私たちの生活のなかにはいくらでもあるのではないかと、私は自分自身を振り返っては、いくらでも思わせられるのです。
 
だからこそ、神が与えてくださる喜びとはいったいどういうものなのかを、私自身じっくりと御言葉と聖霊なる神の助けをいただいた祈りのなかで、じっくりと神と対話し、黙想することの大切を持っていきたいと思ったのです。神はその喜びをどのように、私たちに示されたのか。そして、ご自身の喜びをどのように私たちを感じることを期待しておられるのだろうか。そんなことをじっくりと心に想う一日でありたいと、本日の御言葉から受け止めたいと思ったのです。
 
神が与えてくださる喜びを、喜びのままに受け取ることができますように。皆さんの一日もまた、イエスの受難の出来事を通して見えてくる神の喜びというものが、皆さんにとっての喜びとなりますように。心よりお祈りいたします。

03/04/2023

2023.4.3(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編16編8節
私は絶えず目の前に主を置く。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙12章2節
信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)35 日目を、そして受難週2日目を迎えました。
 
本日の旧約・新約聖書を通して受け止めることのできるテーマは「主を見つめる」であると私は思いました。私たちの見つめる方向はどこにあるのか。それは主なる神であって、十字架の道を進まれる主イエスの道であって、向こうからあけぼのの光とともに輝く復活の希望なのだと。そういうことを想わされました。
 
私たちは、福音とは私たちの資質にかかわらず、神が私たちを愛してくださり、救い主イエスを私たちのために与えてくださったことの事実を信仰として受け入れることができます。神が私たちとともにおられるというのは、私たちが何かをしたから、そのご褒美として与えられるものではありません。それが「私たちの資質にかかわらず」の意味なのです。
 
しかし、私たちはこう考えることができます。私たちの資質いかんによらず、神が私たちに恵みを与えてくださるのであれば、私たちは何をしなくても良いのかと。私たちが神から与えられる恵みというものを知るためには、やはり「見つめる」ことは必要なのだと。私たちの日々の営みに無くてはならないことなのだと思うのです。
 
そのために、神はイエスという私たちが見つめることのできる存在を与えられ、その言動のひとつひとつを、聖書の言葉を通して後代の人々が知ることのできるように与えてくださったのだと。そしてレントという期節の日々を通して、受難週の日々を通して、そして間近に迫っているイースターの喜びを、私たちは具体的に見つめることができるのだと思うのです。
 
そして、主を見つめるという作業は、同時に自分自身のあり方をも見つめることができるのだとも思います。主という反射板が自分自身の姿というものを明らかにするからです。こうして、主とともに歩むということが具現化できるのではないか。そう思えてならないのです。
 
今日も、主を見つめることは自分自身を見つめることという出来事をを大切にしながら、一日を歩んでまいりたいと願います。どうぞ皆さんの歩みのうえに、神様の守りが豊かにありますように。お祈りいたします。

02/04/2023

2023.4.2(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章13節
私は彼らの嘆きを喜びに変える。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章4節
悲しむ人々は、幸いである
その人たちは慰められる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)6回目の日曜日を迎えました。レント最後の日曜日であり、本日から「受難週」に入ります。イエスが十字架の苦しみの極みに立たれた。そこに至る道のりを、私たちは聖書の言葉に聴きながら、歩んでまいりたいと思います。
 
私たちの悲しみ、そして嘆きとは一体何だろうか。そんなことを想う本日の聖書の言葉に出会いました。私たちの悲しみは、時にとどまることを知りません。この悲しみから解放されたいと願っても、なかなかそうならない。そんな自分自身に嘆きます。それは、たとえ救い主がおられるということが分かっていたとしても、そんな思いをすべてかき消してしまうくらい、自分自身の思いが募り、あらゆる希望をなぎ倒してしまうくらいに勝ってしまうものなのだと。
 
自分自身の十字架を背負うとは、おそらくそのような感覚を自分自身のなかに置くことなのかもしれません。この世の不条理に悲しみ、自分自身ではどうにもならない出来事に悲しみ、そのような状況に耐えられない自分に悲嘆するのです。この悲しみがあるからこそ、神が、そしてイエスが本日の御言葉にもあるように、嘆きや悲しみというものを引き合いに出して、私たちに大切なことを伝えておられるのだと、私は受け止めたいのです。
 
神が語られることは極めてシンプルです。神は私たちに自分の決意を示されます。嘆きは必ず喜びに変えるのだ、いや変えたいのだと神は私たちにご自身の意志を訴えます。それが私たちには、いつそうなるかは分からないから悶々となるのです。しかし、神のその意志は必ずや実現するのだ。神はそのことを救い主イエスにすべてを託されたのでした。
 
そのイエスが人々に告げられます。悲しむ人々は幸いであると。この幸いというのは、可能性であるとか、条件付きの仮定でもありません。あなた方はもうすでに幸せになっているのだという断定の意味で語られています。なぜならば、あなたがたの目の前には私がいるから。イエスはそのように悲しむ人々に告げられたのでした。
 
人々はイエスによって慰められます。イエスの言葉によって、イエスが人々に対してどのように出会い、接し、食卓を囲み、そして私たちをご自分の愛で愛してくださったかを、私たちは聖書の言葉から慰めを受けることができるのだと。イエス・キリストがおられるということ、そのことが唯一の慰めなのです。
 
ハイデルベルク信仰問答の問1には、このようにあります。
問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 
答 わたしがわたし自身のものではなく、
身も魂も、生きるにも死ぬにも、
わたしの真実な救い主
イエス・キリストのものであることです。
この方は御自分の尊い血をもって、
わたしのすべての罪を完全に償い、
悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。
また、天にいますわたしの父の御旨でなければ、
髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、
わたしを守ってくださいます。
実に万事がわたしの益となるように働くのです。
そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、
今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、
またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。
 
まさに受難週を歩む私たちひとりひとりに語りかけてくださるイエスが、私たちとともにおられることを、この問答は物語っている気がしてなりません。私たちはイエス・キリストのものとされていることを心に刻みつつ、今日という一日を、そして受難週の日々を歩んでまいりたいと思います。
 
みなさんの日々に、主の豊かな守りと祝福がありますように。お祈りいたします。