31/01/2022

2022.1.31 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書3章22節
立ち帰れ、背信の子らよ
私はあなたがたの背信を癒やそう。
我々はあなたのもとに参ります。
あなたこそ我々の神、主だからです。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章25節
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
今日の旧新約聖書を貫くのは、立ち帰るという言葉です。この言葉に注目して、黙想してみたいと思います。
 
立ち帰るのは誰でしょうか。旧約聖書・エレミヤ書では背信の子が、新約聖書・ペトロの手紙ではさまよっていた羊のようなあなたがたとあります。そう、私たちは背信の子でありさまよえる羊であるというのです。
 
神を必要としなくても、自分自身で歩むことができると豪語しつつも、後について行くべき群れを失い、道に迷ってしまった羊のような私たち人間。この姿を自分のこととしてイメージできるだろうかというのが、今日の聖書を黙想するうえで欠かせないと、私は受け止めました。
 
私はもう神の側にいるから立ち帰る必要はないと、私たちの姿を振り返るならば、もはやこの聖書の言葉を、私は必要としないだろう。神の言葉を必要としないということは、それすなわち、神を必要としない生き方に相通じるのではないか。そう思うのです。
 
どんなにクリスチャンとして一生懸命生きたとしても、完璧というものはどこにもありません。完璧というのは、神の国が完成したそのときに観ることができるものであって、それまでは、欠けある場で欠けたるものを持ち備えながら、生きていかなければならない。
 
だからこそ、わが身を心を振り返る作業は、私たちが神に助けていただくためには、何が何でも必要なのだと思うのです。神は、背信の子を癒されます。癒されたいかという御声に、私は癒されたいと願いつつ、素直に自らの心身を差し出すことこそ、謙遜に生きるということなのだと。
 
その癒し主こそ、魂の牧者であり監督者であるイエス・キリストであるというのが、今日の新約聖書が語るメッセージです。牧者であり監督者は、羊一匹一匹の必要を熟知されたうえで、その羊に必要な生活と、生活を支えるための糧をお与えになります。それは、羊によって違います。共通するのは、いかなる糧でも、その人にとってはベストなものが神によって与えられるということです。
 
魂のケアをされるために、監督されるために、背信の子たちは自らが背信者であることを知り、それを癒してほしいと心から願う。この願いこそ、私たちの体の向きを振り返る、立ち帰ろうとする謙遜さに結びつく。この謙遜さを、私は今日、神からいただいて生きたい。これが私の黙想でした。
 
神による豊かな癒しによって、今日も神の御心に立ち帰ることができますように。

30/01/2022

2022.1.30 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ホセア書14章4節より
我々はもはや、
自らの手の業にすぎないものを
私たちの神とは二度と言いません。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書8章36節
人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
自らの手の業にすぎないものを、私たちの神とは二度と言うまい。
 
今日の旧約聖書が伝えるメッセージは、まさに人間にとっての長年のテーマであると言えます。ここで言う「私たちの神」とは一体何を指すのだろうか。そのあたりを深く黙想してみたいと思わされました。
 
手の業で作ったもの。それは、目に見える偶像のようなものをはるかに超える手の業であると、私は受け止めています。つまり、私たちの神とは、私たち自身のことを指しているのだと、私は強く思わされます。
 
昨日も触れましたが、人間は神から離反し、隔絶することで、自分たちが神となる道を選びました。神など必要としない。究極的には神を必要としていない自分自身の姿に気づいていない。その結果こそが、まさに旧約聖書に描かれている人間観と言えるでしょう。
 
この人間観を、聖書では「罪」という言葉で表現しました。罪とは、最終的に現れる犯罪以前に、そのように自分自身を動かそうとする、心の深みから発生する動機こそ、私たちがじっくりと見つめる対象です。
 
私の言動が、神のように礼賛する手の業になっていないだろうか。この問いに深く黙想の思いを向けたいと思います。神は本当に何を願われているか。それは私たちの誰もが分からないことです。しかし、神はヒントを私たちに与えています。それが、聖書に収められた神の言葉の数々に他なりません。
 
自らの手を業を、私たちの神とは二度としない。この決意の言葉こそ、神が与えてくださる言葉によって生きることの決意です。文字面で読むのではありません。御言葉を目の前にして、ただ黙して神の御声を聴き取ります。今、私の思いと心にあるものは、自分の手の業か、それとも神の御声か。これこそ識別の作業であり、識別を経て、私たちはこれこそ神の御業であると信じて、歩むことが許されるのでしょう。
 
それでも、私の選択が間違えることはあります。私たちは神ではありませんから、失敗もあるでしょう。しかし、それで良いのです。また戻れば良いだけの話です。そのときに必要なのは、人間の手の業を責めるのではなく、責め合うのではなく、それを放棄しようとする決意です。そうすれば、神は必ず導きを与えてくださると私は受け止めたい。
 
目に見える繁栄があっても、神との深いつながりによって生み出される命が損なわれれば、そこに何の得があろうか。その命をいただいて生かされたい。これが私の黙想でした。世界中でおこなわれる主の日の礼拝が、そのような命を感じ取ることのできる、素敵なときとなりますように。

29/01/2022

2022.1.29 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書37章23節より
私は彼らを、罪を犯させるあらゆる背きから救い、清める。彼らは私の民となる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一3章16節
あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分のうちに住んでいることを知らないのですか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
今日の旧約聖書であるエゼキエル書37章にある一節は、神が私たちの罪を洗い清めてくださることによって、私たちを救い、ご自分の民としてくださるという約束の言葉です。
 
しかし、神が私たちに与えてくださる救いの約束には、前提があります。その前に描かれている「枯れた骨の復活」と呼ばれる神の言葉です。ここに少し注目してみたいと思います。
 
枯れた骨。それは命の息吹を感じることすらできないものへの象徴であり、命の源である神との関係が隔絶された人間のさまを物語っています。枯れた骨が積み重ねられた場に、預言者エゼキエルは神の霊に導かれます。
 
この枯れた骨は復活できるかと、神はエゼキエルに問います。エゼキエルは、神がすべて御存知であることを告白します。神は枯れた骨に向かって、ご自分の言葉に聞けと命じ、霊の息吹を吹きこむと告げられました。
 
エゼキエルは、その言葉を預かって枯れた骨に向かって預言をし始めると、枯れた骨は轟音とともに骨が動き、からだが組み合わされ、ついには霊の息吹が四方八方から吹き込まれて、神によって復活の命が与えられた、という話です(37章1~14節)。
 
この前提があって、本日の旧約聖書へと導かれます。私たちの罪、それは神からの離反による隔絶の状態であり、神不在の状態、自分という神にしがみついて生きることです。それを神が清め、救うために、ご自分の霊、つまり聖霊の力と助けを余すところなく、私たち一人ひとりのうちに、注いでくださるのです。
 
聖霊は、神の言葉と連動して起こされるというのは、今日の聖書が物語るメッセージです。私たちが神の言葉に聴く時に、それをどのように聴くでしょうか。聖霊の力と助けなしに、私たちは聖書の言葉を、神の言葉として聴くことはできません。
 
聖書を単なる書物として読むか、神の言葉として読むかには、大きな隔たりがあります。なぜならば、神の言葉は、私たちを枯れた骨から躍動する命へと導く力があるからです。神は私たちにささやかれることもあれば、轟音をもってその声を知らせることもあります。いずれにせよ、そのような御声に、私たちは耳と心を傾けることができるというのです。
 
神の民、神ご自身のものとされた人間は、今日の新約聖書の言葉によれば、神の神殿そのものであると記されています。私たちが神殿とされるとは恐れ多い話です。しかし、私たちがそうされるのは、まさに「神の霊」によるものであることを知らないのですかと、私たちに問うているのです。
 
神の霊と神の言葉。車の両輪とも言えるこの働きによって、車は動き出します。私たちの思いと心に、聖霊に裏打ちされた神の言葉がいっぱいに詰まったところにこそ、神の命が宿り、私たちが神殿とされるということです。
 
今日も神の霊という息吹によって、私たち一人ひとりが生き生きと活かされる者でありますように。

28/01/2022

2022.1.28 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編62編6節
私の魂よ、ただ神に向かって沈黙せよ。
私の希望は神から。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書11章15節
耳のある者は聞きなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
今日の旧新約聖書を通して黙想してみたいのは、ずばり「黙想」とはなにか、ということについてです。
 
今日の旧約聖書には「沈黙せよ」という言葉が込められているわけですが、その沈黙は「神に向かって」ただなされるものであると描かれています。ここに大きなポイントがあると、私はとらえました。
 
沈黙とは、ただ黙ることではありません。声を発さなければ、それで良いということではありません。なんのために、私たちは沈黙するのでしょうか。このことを考えるうえで「神に向かって」というひと言が、とても重要なポイントです。
 
私たちは自己主張の世の中で生きています。自分の思いを表現する、自分の考えを発言するなどの言動そのものは、決して悪いことではありませんし、それがなければ、世の中は回っていかないでしょう。
 
ただし、私たちは自己を主張する前にすることがある。これが「神に向かって沈黙する」ことの意義に相通じます。神に向かって沈黙するとは、神の発するささやきのような声に、私たちがいかに耳と心を傾けることができるか。そのことが問われているのだと思います。
 
沈黙しなければ、私たちは神の御声というものすら、聴くことができないし、それに従うこともできない。聞こえていても、聴くことができない。神の方角にしっかりと私たちのアンテナを向けて、ただ沈黙して神の御心がなんであるかを、聖書の言葉・聖霊の助けをもって聴き取っていこうとする願いこそ、今日の旧約聖書の言葉が語るメッセージです。
 
のちにイエスが、耳のある者は聞きなさいと、群衆に告げられました。私たちは不安があればあるほど、口数が多くなるかもしれません。この聖書の言葉が語られたときの状況が、まさにそうでした。ここでは詳しくは触れませんが、投獄されたひとりの男・洗礼者ヨハネによる、将来への不安がありました。
 
その不安に、イエスは「耳のある者は聞きなさい」と告げられました。「ただ神に向かって沈黙せよ」と、神の御心に聴いて、御言葉を握りしめて生きるならば、それは私たちにとって希望そのものなのだと。
 
ただ静まって、御言葉によって神の御声に聴くこと。喧噪のなかにあっても、そのようなひとときが一分、一秒でも確保できることを、私の希望の源としたい。これが、私の黙想でした。
 
どうか、今日の一日も沈黙することから始まる豊かさが、神とともにありますように。

27/01/2022

歩く黙想

 


歩く黙想・ラビリンス


滋賀・近江八幡にある
アシュラムセンター施設の
シメオン黙想の家の庭にあります


円内にある迷路を
黙想しながら歩きます
中心に近づいたり
遠ざかったりと


それはまるで
人生そのもののようです


入口から中心へ向かい
また、入口へ帰る
リフレッシュのひとときでした




ちなみに、このラビリンスは
フランス・シャルトル大聖堂のと
同じかたちのもの


歩く黙想
おすすめです



2022.1.27 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編103編17~18節より
主の慈しみは
いにしえからとこしえまで主を畏れる者の上にあり
その義は子らの子に
その契約を守る者に及ぶ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙13章8節
イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
今日の旧新約聖書を貫くのは、永遠・とこしえという言葉です。私たちの神、そしてイエス・キリストは永遠に神であられ、私たちの神となってくださり、永遠に私たちの神でいてくださる。これは、決して変わることのない、聖書が語る神の私たちに対するメッセージです。
 
私たちは、究極的には有限の世界しか知りませんし、経験したことがありません。その最たるものが死であることを、私たちはよく知っています。一度きりの人生だからという言葉を、私たちはよく使い、そのような価値観のもとで人生設計をします。これは何ら間違っていない、私たちの現実です。
 
では、そのようななかで、私たちはどのように神の永遠という言葉を、自分たちのなかで真実のものとしてとらえることができるのでしょうか。そのあたりをぜひ黙想したいのです。
 
最初に、永遠という言葉は「今から未来」のことではなく、「過去から今、そして未来」のことであると、今日の聖書の言葉は私たちに伝えています。この時間的な観念は、とても重要なのではないかと私は考えています。
 
私は、今という言葉を、自分自身というようにとらえています。つまり、今、自分の生きている時代が今なのです。一番イメージしやすく、かつ現実的な世界。それが今であるということです。
 
しかし、今私たちが生きている時代は、過去から継承された世界、たまたまそのバトンを受け取っている時代にすぎません。まさに過去が現在をつくりあげていると言っても良いでしょう。そのときに、その過去にも神がともにおられ、私たちの神でいてくださったという事実があった、ということなのです。
 
私はこう思います。過去をどれだけ私たちが大切にすることで、現在という世界を誠実に見ることができるのではないかと。この場合、過去を大切にするというのは、意味のない伝統固守や単なる懐古主義、トラウマをひきずることを言っているのではありません。
 
良い時も悪い時も、私たちが失敗の連続をしでかしたとしても、それでも神は私たちを愛し、ときには戒めることも含めて、私たちを祝福し続けてくださった、その歴史を私たちが建設的な批判の上に立って受け入れることこそ、いにしえからという言葉が、私たちのうちに生きるのではないかと思うのです。
 
建設的批判は、決してネガティブなものではありません。建設的なのですから、それはつねに未来志向な思いへと私たちを導く原動力となります。健全に過去を見つめる生き方は、神の永遠に相通じます。そして、未来に向かっても、神は私たちをご自分の御心で導いてくださる、自分が死んだとしても、神が私たちの神でいてくださるという約束は、とこしえに続くというのです。
 
この永遠に、私は今日も生かされて今日という一日を大切に過ごしたい。これが私の黙想でした。今日はどのような歩みが私たちの先にあるのでしょうか。そのことに希望を抱きつつ、神とともに歩むことができますように。

26/01/2022

シメオン黙想の家

 

着きました!


今晩はここに泊まって
明日から
年頭アシュラム
です


ゆっくり備えして
臨みたいと思います

2022.1.26 リビングライフ

 

日本CGNTV  リビングライフ
2022年1月26日
聖書:ルカの福音書7章18〜35節
テーマ:疑いから確信へ、拒否から歓迎へ

2022.1.26 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編90編16節
あなたの業があなたの僕らに
輝きがその子らに現れますように。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章14節
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
今日の旧新約聖書に共通するのは「栄光の輝き」と私は受け止めました。その辺を中心に黙想してみたいと思います。
 
栄光の輝きとは、神御自身が放たれる光の輝きであって、それは私たちを、私たちの行くべき道を照らすための光です。
 
今日の旧約聖書には「あなたの業」とあります。神の業は「光あれ」という言葉をもって開始されました(創世記1章3節)。この言葉によって、混とんとしていた世界に秩序を与え、天地創造が始まった。聖書が示す世界観がここにあります。
 
神の言葉は、すべてをつくりあげる原動力となり、神の栄光に輝く業となる。言葉が業に相通じるという神のイメージは、そのまま神の独り子であるイエス・キリストの栄光に共通します。それが、今日の新約聖書に記されている「言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光である」という言葉につながっていきます。
 
私たちが神の栄光、イエス・キリストの栄光によって照らされ、行くべき道が与えられ、光に支えられながらその道を歩むときに、それは「恵みと真理とに満ち」たものであると、聖書の言葉は私たちに保証を与えます。
 
神が与える光は、恵みと豊かさを実感できるために与えられる光であり、何が真実かを見極めることができるために放たれる光です。恵みと豊かさは、単に数量の豊かさのことではありません。神が私たちとともにいてくださるという安心感から起こる豊かさです。見た目に捕らわれない、内実からくる恵みです。
 
また、真理は事実のことではありません。私にとって事実でも、神にとって真理であるとは限りません。神の真理に生かされるならば、私自身を縛り上げ、固定化する思考と感情、行動から自由にされます。つまり、私たちが神から享受される自由こそ、神の栄光が与える賜物であると。この賜物を喜んで受け取って、今日も一日を歩みたい。これが私の黙想でした。
 
今日の一日もまた、神の栄光を心の底から感じ取れるようなときでありますように。

25/01/2022

酸菜白肉鍋

 

寒い日は
やっぱり鍋


今日は酸菜白肉鍋
なんと


白菜の漬物と
豚バラ肉の鍋です
中国や台湾では人気の鍋です


近所の季節料理の店
ふくちゃんでいただいた
お母さんお手製の白菜漬けで
こしらえました


白菜漬けの酸味が
豚肉のコクと相まって
どんどんイケます


妻ちゃんが仕事から帰ってきて
鍋の香りに
早く食べた〜い


ふたりで美味しく
いただきました


ご馳走様でした

2022.1.25 リビングライフ

 

日本CGNTV  リビングライフ
2022年1月25日
聖書:ルカの福音書7章11〜17節
テーマ:愛の慰め主、いのちの主権者

2022.1.25 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書10章24節
主よ、私を懲らしめてください。
しかし、あなたの怒りによらず
ただ、公正によって。
さもなければ、私は無に帰してしまうでしょう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章9節より
神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
今日の旧新約聖書を貫くテーマ、それは「懲らしめの動機」と捉えました。そのことを黙想してみたいと思います。
 
今日の旧約聖書では、祈り手であるエレミヤという人物が、神に向かって「私を懲らしめてください」と願い出ています。どのような思いをもってエレミヤは、神に自分を懲らしめてくださいと願い出たのかに、私はとても興味があります。
 
人間は誰でも、懲らしめを受けることを嫌います。懲罰という言葉があるくらいですから、懲らしめを受けることは、それすなわち罰を受けるようなイメージが、私たちのうちにはあるのではないかと思うのです。その延長線上で、懲らしめを通して、責められたくない、怖い思いをしたくないと言った、自己防御の思いが働きます。場合によっては、自分は悪くないと主張してしまうような、自己正当化の状況すらつくってしまうこともあるのではないか、と。
 
今日のエレミヤがそうなのですが、あえて自分の側から懲らしめを受け入れようとするときに、神がどのような動機で自分を懲らしめるのかが大切であると、私はとらえました。神の怒りではなく公正によってと、エレミヤは神に願い出ます。
 
怒りとは、根拠も配慮もない感情であり、公正とは、神の正しさそのものです。エレミヤが求めたのは、神の公正な判断に基づく懲らしめでした。根拠のない感情では、懲らしめの本質や真意というものを理解することができない。エレミヤはそのことを「さもなくば、私は無に帰してしまう」というひと言で表現します。
 
神の正しさは、感情というバリアを打ち破る力を持ちます。自分の持つ感情によって起きる、あらゆる不安や恐れ、トラウマや怒りを乗り越えさせ、神の思いを素直に受け取ることができるよう、私たちは導かれていくでしょう。
 
今日の新約聖書では、神は怒りではなく救いに導くよう、私たちを定められたと書かれています。神の懲らしめとは、そのような目的に基づいたものであることを、私は今日の聖書の言葉を通して素直に受け取りたい。
 
そして、私自身が神の言葉を取り次ぐときにも、神がご自分の公正さをもって私たちを懲らしめられたかを理解したうえで、救いに至る神の言葉を握りしめながら歩みたいと願わされました。これが私の黙想です。
 
今日もまた、神の言葉をもって、自分を整えていただけるような一日でありますように。

24/01/2022

2022.1.24 リビングライフ

 

日本CGNTV  リビングライフ
2022年1月24日
聖書:ルカの福音書7章1〜10節
テーマ:主が認められた立派な信仰

2022.1.24 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編139編11~12節より
「闇は私を覆い隠せ。
私を囲む光は夜になれ」と言っても
闇もあなたには闇とはならず
夜も昼のように光り輝く。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書4章40節
日が暮れると、いろいろな病気に悩む者を抱えた人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスは一人一人に手を置いて癒やされた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
今日の新約聖書は、イエスが病に苦しむ多くの人々を、手を置いて癒されたことが書かれた箇所です。私たちは、イエスによる癒しの場面をしばしば見ることができます。
 
今日の聖書の言葉で大変興味深いのは「日が暮れると」とあり、イエスは夜の時間帯にそのような癒しをおこなっていたということです。つまり、闇のなかでの話なのです。
 
なぜ、病気に悩む人々は、夜になってからイエスのもとを訪ねたのでしょうか。昼間に出かけることのできない理由があったからなのでしょう。人目をはばかって、家族や友人が病人を連れてイエスのもとへやって来た、そんな光景を思い浮かべました。
 
しかし、イエスにとっては、夜であろうと昼であろうと関係ありません。闇のなかに隠されたものに、神から授かった光をあてて、手を置いて、闇から解放されたのがイエスでした。だから、日が暮れてからイエスが多くの者の病気を癒されたというのは、大変象徴的な話であると言えるのです。
 
私の心のうちにある闇の部分を見つめるよう、今日の聖書の言葉は私に促しました。意識的に闇にしまっているさまざまな思いや感情、自分で気づくことのできない闇の部分、思い出したくもない、触れられたくもないトラウマなどなど、私のうちにある闇の部分に、私はどれだけ真摯に見つめることができているだろうか。
 
今日の旧約聖書の言葉が語り伝えているのは、私がどんなに闇に隠したとしても、隠されているものがあったとしても、神にとっては闇などない。ただ光によってすべてが明らかにされ、白日のもとにさらされているということだと。
 
ならば、イエスによって癒していただきたいのです。闇の中でも、いや、闇の中だからこそ、イエスは多くの病人にご自分の手を置いて癒された。私の闇の部分に働きかけてくださる神は、私を癒すために闇に光を当ててくださるのだと。
 
今日も、癒し主イエスが、私たちとともにあり、私たちを豊かな思いで満たしてくださいますように。

23/01/2022

2022.1.23 リビングライフ

 


日本CGNTV  リビングライフ
2022年1月23日
聖書:ルカの福音書6章39〜49節
従順の土台の上に人生を築く弟子

こういう日曜の朝がいい!

 

今日は信徒による
証と説教礼拝


説教に感涙しました
涙腺ゆるゆるです


そして
礼拝に聖人くんが来会
小学校の同級生です
去年洗礼を受けた、信仰の友


とても嬉しい日曜の朝でした
感謝感謝

2022.1.23 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編104編33節
私は命のあるかぎり、主に向かって歌い
長らえるかぎり、わが神をほめ歌う。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙5章13節
あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
今日の旧新約聖書を貫くテーマは「賛美」であると、私はとらえました。神に向かって、神をほめる賛美がささげられ、喜びの表現として賛美の歌が歌われた。長い歴史を通じて、人々が人生のすべてを尽くして、賛美がいつも私たちとともにありました。今も、そしてこれからも。
 
賛美はなにもクリスチャンだけの所有物、専売特許ではありません。誰にとっても賛美の歌は、すべての人の心を慰め、励まし、孤独を助け、連帯を促す力があります。その力とは、賛美を通して神が与えてくださる力です。なぜならば、賛美の歌は概して、神の言葉である聖書から直接・間接のかたちで、賛美歌作家によって編集されているからです。
 
賛美は、それを歌う、聴く、奏でる、つまり、いろいろな役割が与えられてこそ成立します。さまざまな感情や思い、健康の状態などが行き交うなかで、ときには声を出して賛美することが難しい場合もあるでしょう。でも、心配いりません。賛美のさまざまな関わりかたを通して、神が私たちとともにおられることを感じ取ることができれば、それで良いのです。
 
そのような賛美への理解は、最終的に私たちへ喜びをもたらし、生涯にわたって、私たちを生かす礎(いしずえ)となるでしょう。今日の聖書の言葉に説明もなにもいりません。ひとつだけ、私は賛美というものをどのようにとらえているだろうかと、ゆっくりじっくりと黙想することができればと願いました。
 
今日は、世界中の教会で賛美の歌が歌われることでしょう。いかなる場でも、賛美する喜びが満ちあふれますように。

22/01/2022

落語は楽し

 


祝福亭福助さんによる噺「出来心」。


間抜けな泥棒さんと間抜けな長屋の住人、
その家主が繰り広げる滑稽な噺。


がん哲学外来メディカルカフェin世田谷深沢
@深沢教会でのご披露でした。


私は撮影担当。スマホ、大いに役立っています!


お後がよろしいようで。

2022.1.22 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書9章4節
地を踏み鳴らした兵士の靴と血にまみれた服は
すべて焼かれ、火の餌食となった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章78~79節
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって
高い所から曙の光が我らを訪れ
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし
我らの足を平和の道に導く。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
今日の旧新約聖書を通して黙想したいと思ったのは、「私たちはどの道を自分の足で歩むことができるか」ということについてです。
 
地を踏み鳴らした兵士の靴。そのように今日の旧約聖書には描かれています。それに続いて、血にまみれた服とありますから、この靴もおそらく血塗られたものでしょう。争いによって、傷つけ合ったところに流れる血に汚れた、靴であり服を兵士は身にまとっています。
 
それらの靴や服は、すべて火で燃やし尽くされると、聖書には記されています。血を流すような歩みは、最終的にはすべて無にされると、神はご自分の言葉を通して約束し、保証されました。
 
血を見るような争い、それにともなう犠牲。人間の歴史は、まさにその繰り返しであったと言って間違いありません。人間が神の心をないがしろにして、独立独歩の道を進んだことの結果です。神がいたずらに罰を与えたとは決して捉えたくはありません。そのような選択をした人間の意思が、すべての根源であると私は感じます。
 
だから、神が血塗られた一切を火に投げ込み、私たちの歩む道がどういうものかを指し示してくださるとすれば、私たちが新しい進路を目指すことができる。こんなに素晴らしいことはないと思わされます。
 
今日の新約聖書は、新しい時代が来ることを神から聞いたザカリヤという男が、喜びつつ賛美したその歌です。暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。血を見た歴史があったことを認めながらも、その悪しき記憶に引きずられる必要はどこにもない。神が新しい道を歩むように、私たち一人ひとりに促しておられる。
 
負の遺産に蓋をしても、問題は何も解決せず、時折、蓋のすき間から悪臭がただようだけです。いっそのこと、神に燃やしていただくのです。私の血塗られ、汚された心をもです。そして、まだ見えぬ、しかし祝福に満ちあふれた道を歩こうではないか。これが、今日私に与えられた黙想でした。
 
週の最終日、神が指し示してくださっている道を見極め、心なおく歩むことができますように。そして、新しい一週間への備えができますように。

21/01/2022

二ーバーの祈り



神よ
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
ラインホルド・ニーバー
(アメリカの神学者・牧師)


今朝、ふっと思い出したニーバーの祈り。


繰り返し、繰り返し、
この祈りの言葉を繰り返す。
かみしめ、味わう。


神は、この世界に、私たちに、私に、
何を望まれ、願われているのだろうか。


そのことを真ん中にし
自分自身を整えていきたい。


そのためになら
自分が変わることを恐れない。
神がないがしろにされないように
自分自身が揺り動かされないようにしたい。


今日も、そのことを識別できる
一日でありますようにと祈れた。


感謝。

2022.1.21 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書64章7節より
主よ、あなたは私たちの父。
私たちは粘土、あなたは陶工。
私たちは皆、あなたの手の業です。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章16節より
あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
私たちは神によってつくられた。今日の旧約聖書の言葉には、神は陶芸家であり、私たちは粘土であると記されています。私は陶芸の心得はありませんが、陶芸家には2つの意図というものを持っているのではないかと、素人ながらに感じさせられます。
 
ひとつは、その陶芸作品がどのように用いられるのかという機能性であり、もうひとつは、陶芸家が陶芸作品に込めるデザイン性であると、私は感じました。
 
私たちが陶芸作品に限らず、電化製品とか洋服とか、何かを買うときにポイントにするのが、機能性とデザインであることは誰もが知っています。そこに価格であるとか、いろいろな付加価値がついてくるのだと思うのです。
 
さて、私たちが神につくられた者であるという自覚をするときに、私たちは作者である神が私たちに寄せる機能性であるとかデザイン性というものを、どのように考えることができるのかというのが、本日の聖書を黙想するうえでの鍵になるような気がしてなりません。
 
そこには、私たちがいかに作者の意図というものを知ることで、自分自身に与えられた機能性・デザイン性を具体的にとらえることができるのではないだろうか。作者の意図とはまさに、神がご自分の言葉を通して示された御心によって明らかにされるというわけです。
 
私たちは、作者の意図を無視しても、自分の思うように製品を用いることは十分に可能です。しかし、誤った使用方法を選択することで、思わぬ事故を生み、犠牲が起きることを、私たちはよく知っています。
 
私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを選ばれたというイエスの言葉には、私たちが神を利用して好き勝手なことを推し進めるのではなく、神が願われたとおりに、私たちが生きることこそ、神の切なる私たち人間への願いであるということを、明らかにしています。
 
神は私たち人間が「実を結ぶ」べく、私たちの生き方を整えてくださいます。実りある人生。その実りは誰もが喜べる心の充実、その心を土台とした平安に結びつく実りです。
 
神によってつくられたという思いが、今日も私たち一人ひとりの生活を実りあるものへと導かれますように。

20/01/2022

くじ引き


パソコンのファイルを整理していたら、なかなか見つけることのできなかった動画を発見!


私が毎日黙想をアップしている『日々の聖句 LOSUNGEN(ローズンゲン)』の、その日の聖句をくじ引きしているところの動画です。


毎年5月、2年先のローズンゲンに収録するための日々の聖句を、くじ引きします。2016年にドイツ・ヘルンフート村にある兄弟団本部の施設でおこなわれた時の動画です。


聖書でも、大切なことを決定するときには、くじを通して神の御心に聴くということがおこなわれました。その精神を今に継承しています。人間の思いによらず、ただ神の御心を求めるために。。。

2022.1.20 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編19編2節より
天は神の栄光を告げる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録14章7節より
天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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今日の旧新約聖書に共通する言葉は「天」であると、私はとらえました。今日はそのことを中心に黙想してみたいと思います。
 
天とは神の住まうところ。これが神に対する主なイメージであると言えるでしょう。実際にイエスも「天におられる私たちの父よ」と、神に向かって祈っています。
 
では、その天とは何のことを指すのでしょうか。私たちにとって天とは、上空の世界を指すときに使われる言葉です。しかし、神は必ずしも空の上にいつもいるわけではありません。私たちのかたわらにおられ、私たちを土台のようにしっかりと支えてくださる神がおられるというのが、聖書の語る神の姿だからです。
 
だとすれば、どうして神のいますところが「天」なのでしょうか。やはり、天というところはすべてが見渡せる場なのでしょう。私たちをこぼすことなく常に見守り、その人にとって常に必要とされる物事を見極め、それを惜しみなく与えてくださる神が天におられるというのは、私たちにとっては大いに幸いなことなのだと思うのです。
 
逆のことも言えます。どんなに外見だけを整わせたとしても、神は私たちの内なるものまですべて御存知であられる。天網恢恢疎にして漏らさず(てんもうかいかいそにしてもらさず)とはよく言ったものです。
 
私たちは神にすべてを見られているからといって、恐怖におびえる必要はどこにもありません。私たちを創造された神は、私たちを漏らさず、ご自分の愛で養われることを最大の喜びとされるからです。
 
神の御前にとても見せられないと思うこともあるでしょう。しかし、さらけ出していいのです。神の御前に自分の恥ずかしさをさらけだすところに十分な祝福がある。これこそ、礼拝することの神髄である。これが、今日の聖書の言葉から導かれた私の黙想でした。
 
天から私たちを守られる神が、今日も皆さんへ祝福と喜びを注がれることを、一日を生きる礎とすることができますように。

19/01/2022

2022.1.19 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言17章5節
貧しい人を嘲る者は造り主を見くびる者。
災いを喜ぶ者が罰を免れることはない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章7節
憐れみ深い人々は、幸いである
その人たちは憐れみを受ける。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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今日の旧約聖書は、箴言という書物に収められた一文です。箴言とはことわざ集と言っても良いでしょう。それに「箴」、つまりハリという文字を、中国語に翻訳されるときに採用しました。
 
医療行為にも使われるハリですが、刺すときには痛みを感じることがあっても、ツボが刺激されることで健康になる。今日の聖書の言葉も、そんなことを私たちに伝えているのだと、私は受け止めました。
 
そういう意味では、今日の旧約聖書の言葉は、痛みを感じるものです。私の目から見て、貧相に感じることを嘲る行為は、それすなわち、神である主を見くびる者であると書かれています。人の不幸を喜ぶ者は、自分にも災いがある。まさに、「人を呪わば穴ふたつ」の世界です。
 
私たちは他人と比較して、変な優越感を抱いたり、優位に立ちたいがためにマウント行為に走ってしまうことがあるかもしれません。逆に、人をねたみ、恨みたくなるような感情を抱くこともあるでしょう。そういう感情は、多かれ少なかれ、私たちの心を巡るのは、何らおかしいことではありません。それが、人間の偽らざる姿なのですから。
 
ただ、そういう時に、私たちはどのように生きるべきなのか。今日の旧約聖書の言葉が、そのことを振り返り、黙想するためのきっかけになることを、私自身も願いたいと思います。竹針は痛い。しかし、その痛みは成長痛であることをただただ願いたいと思いました。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって語られたとても有名な言葉です。他者に向けられるべきなのは、優劣感ではなく、嫉妬でもなく、恨ましい思いでもありません。神が私たち人間を愛し、慈しまれるその本質をもって、他者のために慈愛の思いで祈り続けていくことなのだと。
 
私の心をすべて探られる神が、私を正しい思いに導いてくださいますように。そういう祈りで、今日の一日も過ごしてまいりたいと思いました。これが私の黙想です。
 
皆さんの一日も、祝福に満ちあふれた良き時となりますように。

18/01/2022

魚釣り

 昨日「駒沢釣り部」の方々と、五目釣りに行ってきました。


トンガの噴火による津波警報もすべて解除されて、晴天にも恵まれて、無事に釣りを楽しむことができました。葉山の海から臨む富士山も、最高の眺めでした。


前回行ったときには、ウキウキしすぎて寝不足に。それゆえに、ずっとトイレで嘔吐していました。前回の反省を生かして、前の日はたっぷりと眠りました。おかげさまで、吐き気ひとつなく、元気に釣りを楽しめました。


一緒に行った釣りの師匠たちの御指南のおかげで、カサゴ、カレイ、イトヨリダイと魚を釣ることができました。エサに魚が食いつく感覚、竿がビクビクッと動く感覚、糸を引き上げる感覚、どれも新鮮なものでした。


この地域に住んで7年、地域のかたがたとこのようなお付き合いができることに、心から感謝を想うひとときでした。

2022.1.18 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ミカ書7章14節より
どうか、ご自分の民
あなたの所有の民を治めてください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書10章4節より
羊はその声を知っているので、付いて行く。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
今日の旧新約聖書を貫くテーマは、「人間をご自分のものとされる神、その神に従って歩む人間」だと、私はとらえました。
 
最初に、神が人間をご自分のものとされるとは、どういうことなのでしょうか。今日の旧約聖書では「あなたの所有の民」とあります。
 
この所有という言葉について黙想するのは、とても大切なことであると思います。なぜなら、所有という言葉を通して、持ち主の動機というものを探ることができるからです。
 
所有者は、その所有物を思うがままに用いることができます。強制労働の道具に使ったり、所有者の欲望を満たすために、非人道的な扱いすらできるのです。
 
しかし、今日の旧約聖書の言葉は、人間の側から神に向かってなされた祈りです。人間が神に所有されること、治められることを期待して、祈りがささげられました。この祈り手の心には、神は決して自分たち人間を乱暴に扱わないという深い信頼の思いがありました。神のご支配は、必ず人間社会に平安をもたらすのだと。
 
この信頼こそ、今日の新約聖書にある「羊はその声を知っている」という言葉に集約できるのだと感じます。羊とは人間のことであり、その声とは、羊を養う羊飼いのことです。
 
私たち人間は、神がどのような御声を発し、私たちを養われるのかということに、思いを寄せてまいりたいと思います。ご自分の思うがままに人間を扱われる神は、そのすべてが、羊である人間に対する深い慈愛の念に基づいています。
 
大切に思うがゆえに、真剣に私たちに向き合ってくださる神がいると思うだけで、私たちはどれだけの慰めや励ましを受けることができるだろうか。そんなことを心のなかで思い巡らしながら、新しい一日を歩んでまいりたいと思います。それが、結果的に羊飼いの声に耳と心を傾けるということなのでしょう。
 
皆さんの一日に、豊かな平安がありますように。

17/01/2022

2022.1.17 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編147編1節より
ハレルヤ。
我らの神をほめ歌うのはなんとすばらしいことか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章19節
互いに詩と賛歌と霊の歌を唱え、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
一昨年の夏、洗礼を受けられたひとりの女性の方のお話です。
 
その方は90代。女学校時代は、第2次世界大戦の真っ最中で、ろくに勉強することもできませんでした。そんななかで、その方にとって心の支えとなったのは「賛美歌を歌う」ことでした。彼女は、ミッションスクールに通っており、宣教師の先生から多くを教えてもらったとのことでした。
 
人生も終盤にさしかかり、これから後、神様に守られながら人生の日々を過ごしていきたい。そんな彼女の願いをうかがい、無事に洗礼へと導かれました。コロナ禍のこともあり、いろいろな制限がなされるなかにあっても、彼女とともに生活をしてきたご子息のお連れ合い(教会メンバーです)の機転によって、無事に洗礼を受けることができました。
 
その後、訪問聖餐に伺うことができていますが、そのときには、何曲か記憶している賛美歌を一緒に賛美し、聖餐をともにいただき、昔話に耳を傾けながら、ささやかな、しかし心の十分に温まるひとときを過ごしています。相変わらずコロナ禍による制限がありますが、またお伺いできることを楽しみにしているところです。
 
さて、今日の聖書の言葉は、説明もなにも必要ないと私は感じました。そのまま受け入れるに十分な、聖書の言葉だからです。
 
そのうえで、ひと言だけ申し上げるならば、今日の新約聖書の言葉にある「互いに」というところに、さらなる賛美の喜びを味わうことができる秘訣があると、私は感じました。
 
神は、ともに賛美する仲間を与えるべく、キリストのからだにたとえられる教会に、私たちを招き入れ、そのからだの一部としてくださいました。たとえ場所が違っても、キリストのからだという世界的であり普遍的な交わりのなかで、私たちは互いに神を賛美する喜びを味わえるのです。
 
だからこそ、私たちは「教会」とはなんだろうか、教会とはどのような場なのかを、じっくりと黙想するのは、本当に大切なことです。教会とは建物のことだけではなく、信仰者の目に見える集まりだけでもなく、◎◎教会という各個教会のことだけでもありません。全世界的なキリストのからだであり、教会の各部各所にあらゆる教会、そして私たちをも組み入れられているのです。それこそ、互いに喜びのうちを生きるための真髄そのものです。
 
今日も賛美する喜びにあふれた一日でありますように。

16/01/2022

2022.1.16 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編105編4節
主とその力を求めよ。
常にその顔を尋ねよ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書11章10節
誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
今日選ばれた、旧新約聖書を貫くテーマは「求める」ということであると、私は理解しました。そのことについて、少し書き綴ってみたいと思います。
 
何を、どのようなかたちで求めるのでしょうか。私たちは祈りによって神に願い求めます。さまざまなことを願い求めるでしょう。どんなことでも、私たちは願い求めることが許されているのです。
 
ただ、願い求めたことが、神によってすべて成就するわけではないのは、神に祈り求めたことのある方ならば、誰でも知っています。だから、何を願い求めるかということを問うのは、とても重要です。
 
今日の旧約聖書では、「主とその力を求めよ」とあります。これが、聖書の示している第一の求めるべき願いです。神がどのように導いてくださるのか、神のなさることに希望を置きます。
 
そのことを前提としたうえで、「その顔を尋ねよ」とあります。ここで、自分の思い描いている願いというものが、本当に神の力によって果たされるべきものなのかを、私たちは尋ね続けます。
 
求めるというのは、一貫した要求を神に押し付けるというよりは、祈りをもって神と深い交わりをするなかで、軌道修正させられたり、撤回することすらあることも含めて、神に求め続けるということなのではないでしょうか。
 
あくまで、神のなさることに主軸を置いて、自分の言動を常に確かめていくならば、求めることも、単なるわがままの押し付けではなく、主なる神の力によって、神が望まれる道が開かれていくのです。
 
それが、今日の新約聖書にある、求めれば受け、探せば見つかり、叩けば開かれるという、イエスの言葉の意味なのではないでしょうか。これが、今日の私の黙想です。
 
ぜひ、今日の言葉をじっくりと味わうことによる神の幸いが、皆さんとともにありますように。

15/01/2022

2022.1.15 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書53章5節より
彼は私たちの背きのために刺し貫かれ
私たちの過ちのために打ち砕かれた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章21節
神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
今日の旧約聖書であるイザヤ書53章は、「苦難のしもべ」というタイトルがしばしばつけられる箇所です。神に背き続けるという人間の罪を打ち砕くために、苦難の僕は刺し貫かれると、イザヤの書には描かれています。
 
キリスト教は、このイザヤの書にあった言葉を、十字架にかかられたイエスによって成就されたと理解し、イエスは私たち人間の罪のためにそうされたのだと、解釈しました。これが、今日の新約聖書の言葉にしたためられた内容です。
 
さて、「私たちの罪のために十字架にかかられて死なれたイエス」という、キリスト教が最も大切にしてきた教えですが、このことを、私たちがどのように自分のこととして受け入れているのだろうかと、黙想するのは本当に重要です。
 
私たちは、あまりにも当たり前だと思っているだろう、キリスト教の最重要な教えを知っていても、それを理解する、自分自身の生き方に落とし込むというのは、全く別の作業であることを、十分に認識する必要があります。
 
今日の新約聖書には、私たちがその方、つまりイエスによって「神の義となるため」に、神への背きが全くないイエスが、人間たちによって罪人とされて十字架刑になったのだと書かれています。ここで明らかにされるのは、神の義、すなわち神の正しさです。
 
私たちは誰の正しさによって生きるのか。それは神の正しさであると、聖書は語ります。そもそも罪とは、神の正しさとは相容れない自分自身の正しさによって生きることを意味しています。
 
自分が正しいと思っていることは、本当に神が正しいと思っておられることなのか。それを問うために、私たちはじっくりと黙想し、識別して、その根拠を明らかにしたうえで、神の正しさと信じて生きるということが、私たちの罪のために十字架にかかられて死なれたイエスというテーマに、神の義をもって応答するということなのでしょう。
 
当たり前と思うことは決して当たり前ではない。そのことを胸に刻みながら、神が与えてくださった生きる喜びに導かれる一日でありますように。イエスはその喜びのために、あえてひとりで苦難を背負い、犠牲を払ってくださったのです。

14/01/2022

2022.1.14 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編126編3節
主は、私たちに大きな業を成し遂げてくださった。
私たちは喜んだ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章3節より
私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
今日の新約聖書に「霊の祝福」という言葉があります。
 
私たちは人間を見るように神の姿かたちを見ることはできません。ですから、神を見るというのは、まさに霊的(スピリチュアル)な領域なものである、と言えるでしょう。
 
先日、知人の僧侶が主催する「暗闇ごはん」という催しに参加することがありました。アイマスクをして、出される料理を手探りで口に運びながら、これがどんな料理か、どんな材料で調理法なのかを当てます。
 
私は思いました。見えないものに目を注ぐという聖書の言葉の意味が深まったと。私は、普段見えるという世界で生きているなかで、実は見るべきものを見ていないんだなと、あらためて思わされたのです。
 
具体的には、見たいものしか見ていない。ある種の情報だけに引きずられて、そのものの本質がわかっていない、わかろうともしていない。そして、見えるものだけで物事を判断して、評価をくだそうとする態度などなど。
 
つまり、話を戻しますと、私たちがスピリチュアルなものに、いかに心を寄せて生きるかで、おそらく本日の聖書の言葉が指し示している「あらゆる霊の祝福」がなんであるかも、感じ取ることができるのだろうなと、深く感じさせられたのでした。
 
神が与えてくださる祝福というのは、私たちの喜びに直結します。ただし、その喜びが、具体的に何を指すのかということを、私たちは神の視点に立って、じっくりと黙想することが大切なのだと。
 
見た目のことだけにとらわれることなく、神が与えてくださる祝福と喜びによって、今日も歩むことができますように。

13/01/2022

16年前



2006年春、僕は静岡・富士にある教会に赴任し、牧師生活がスタートしました。


右も左もわからないなかで、神学校の同窓生というつながりで、同じ分区でいつもお世話になったM牧師とお連れ合いのTさん、K牧師。


どんなときにも、励ましてくれたこれら皆さんがあってこそ、今でも牧師を続けてこれたんだと言っても、決して大げさじゃない。神様からのプレゼントです。


久しぶりに夕食を囲んで、まったく気がねのない楽しい時間を過ごすことができました。初めてお会いした時からもう16年も経ったんだ。そう思ったら心が熱くなりました。

2022.1.13 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編70編5節より
あなたの救いを愛する人が
「神は大いなるかな」と
絶えることなく言いますように。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙15章5~6節
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を崇めさせてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
今日の聖書は、賛美をすることの喜びを、私たち一人ひとりに伝えている言葉であると言えるでしょう。
 
ところで、賛美とはなんでしょうか。それは、本日の旧約聖書の言葉にもありますように、「神は大いなるかな」と、神をあがめることです。
 
賛美は、何も喜びのときだけにするものではないというのが、今日の聖書の言葉が語るメッセージです。本日の新約聖書の言葉が語るとおり、神は「忍耐と慰めの源」です。私たちが悲しいときにも、賛美は私たちを慰め、励まし、生きる力を与えるものであることを、私たちはよく知っています。
 
また、今日の聖書の言葉で、大変興味深いのは、賛美は個人のものであると同時に、共同体のものでもあると言われているところです。どのような共同体でしょうか。「神の救いを愛する者」「イエス・キリストに倣う者」たちの共同体であると書かれています。
 
私たちは教会という、集められた場所で賛美をささげることが多くあります。そういう意味では、声やメロディーを合わせることはできるのです。しかし、今日の新約聖書で言われているのは、神の救いを愛する心、イエス・キリストに倣う者としての思いがひとつに集められるからこそ、私たちは賛美をすることができるのです。
 
だから、私たちが賛美の歌を歌ったり聴いたりするときに、自分自身の喜びや慰めのためにもちろんそうします。それに加えて、この賛美をともにする人ひとりひとりもまた、神の慰めや励まし、喜びというものを受け取り、それを共有することができますようにと祈ることができるのです。
 
神の御言葉を賛美し、賛美しつつ祈るところには、必ず神が大いなる祝福を私たちに与えてくださいます。今日も、私たちはそのような賛美に支えられながら一日を歩むことができますように。

12/01/2022

臭くても

 

隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
(新約聖書 マタイによる福音書6章4,6,18節・聖書協会共同訳)


臭い物に蓋をしたところで、神様はその臭い物、ぜーんぶ知ってるよ。


だったら、もうカッコつけなくていいんだよ。


人前で臭い物をさらけだしたときに、心のなかに起きる恥ずかしさ、みっともなさ、崩れゆくプライドなどなど。


でも、神様はそんなぶざまに見える自分自身の正直さを、ちゃんと見ておられる方。


その正直さに報いてくださる方、祝福してくださる方。


だから、裏表なく、面従腹背もせず、真っ正直に神様のなさることに期待して生きていきたい。


神様とともに、幸せな人生を歩んでいきたい。

2022.1.12 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書10章10節より
主は真実の神、命の神、永遠の王。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書11章25節より
イエスは言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました」。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
イエスはこう言われました。父なる神は「これらのことを」知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちに示されたと。
 
では、これらのこととは一体何なのでしょうか。それが分かると、イエスが語られた言葉の意味を知ることができるのではないかと思うのです。
 
イエスは、この言葉を語る前に、悔い改めない、つまり、神が与えられる幸いを知っても、神とともに歩もうとしない人々に対して、叱られたということがありました。イエスは人々に言います。お前たちは不幸だ、と。
 
人間は、神が与えられる幸いによってこそ、幸福な人生を営むことができるのだ。これらのことを、知識だけですべてを得たような感じでいる人々にではなく、幼子のように素直に受け取ろうとする人たちに、神の幸いが与えらえるのだというのです。
 
聖書の言葉を私たちは聴きます。大切なのは、私たちが示された言葉の「何」に、耳と心を傾けるか、聴き続けていくかということです。
 
ローズンゲンもそうだと思うのです。毎日、聖書の言葉に触れる。これはとても良いことなのですが、それをじっくりと味わう。黙想する。神の幸いを素直に感じ取る。これこそ、日々を生きる大きな力になるのだと。
 
そういう意味では、私たちは「論語読みの論語知らず」ならぬ、聖書読みの聖書知らず、つまり、聖書を読んでいても神の御心を知るに至らない、なんてことにならないように、素直な幼子のように、今日も神の言葉と幸いを受け取っていきたい。これが、私の黙想でした。
 
今日も、私たちの命をご自分の言葉で支えてくださる神に守られながら、皆さんの一日が豊かなものでありますように。

11/01/2022

その根拠は?

 
あなたは根も葉もない噂を流してはならない。
悪人に加担して、悪意のある証人になってはならない。
(旧約聖書・出エジプト記23章1節)


根も葉もないうわさ。
別な聖書では「根拠のないうわさ」とも書かれています。


人を動かすのに根拠や理屈なんか必要ないんだよ。
場の「空気」さえ動かせばよいのさと、ある人は言いました。


こうやって、風評被害が生まれ、デマが流れ、
人がおとしめられていくんだなあと。


何ごとにも「根拠」を求め、それをきちんと説明できるような、
そんな人間となれるように、神に育てていただきたいと思いました。


みんなが祝福される日々を歩むことができるために。

2022.1.11 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
コヘレトの言葉5章6節
夢が多ければ、ますます空しくなり
言葉も多くなる。
神を畏れよ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙2章18節より
あなたがたは、自分を卑下したり、天使を礼拝したりする者から、あなたがたの救いを否定されるべきではありません。彼らは、キリストにつく代わりに、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによっていたずらに誇っているだけです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
今日の聖書には「夢」とか「幻」という言葉が登場します。聖書ではしばしば、夢や幻という言葉が良い意味で使われることがあります。眠るときに観る夢を通して、神が大切なことを教えてくださる。または、神が幻(ビジョン)を通して、私たちの行くべき道を指し示してくださるといった感じです。
 
しかし、今日の聖書で取り上げられている「夢」や「幻」という言葉が、良い意味で語られていないことに、皆さんもお気づきになられたのではないでしょうか。人を空しくさせ、神への畏敬の念を損なわせ、神が人に与えた救いすら否定し、キリストとともに歩むこともしなくなってしまうような言動を、私たちのうちにある夢幻がさせてしまうというのです。
 
夢とは、現実の出来事でもないのに、さも現実のような出来事を味わっているような気持ちを経験することです。それが睡眠中であったり、今起きていることを推測したり、将来起こることを色々考えるときに、私たちの心の内を夢が駆け巡るわけです。幻についても、同様のことが言えるでしょう。
 
私たちには、今日や明日、将来に起こることを誰も予測できません。しかし、これまでの経験をもとに予測して、「こうであるに違いない」と、事実に近づけようとすることがあります。そのときに、夢や幻というものが良いかたちで用いられるのか、それとも悪い意味で用いられるのか。そのことを考えるのは、私たちにとって本当に重要です。
 
私たちが夢や幻を見るときに、それは神の言葉に裏打ちされた御心に基づいたものでしょうか。神の言葉、御心だと言いながら、自分自身の妄想を神の言葉の威を借りて、さも神の言葉、神の御心のように語るならば、今日の聖書の言葉が指し示しているような、悲惨な結果を招いてしまいます
 
私の言動が、神が示してくださる希望ある夢・ビジョンなのか、それとも、私の欲求を振りまいているだけの妄想と邪推なのか。神が聖書の言葉を通して語ろうとしている御心というものに、じっくりと耳と心を傾けるならば、神は必ず、私たちにそれを見分ける力を与えてくださいますし、私たちが歩むべき道というものを、必ず指し示してくださいます。
 
神は悲惨な結果になることを求めず、ただひたすら私たちが幸いな者とされるように導かれる方です。私たちはそのことを今日も胸にし、神が与えられる夢や幻に期待して歩むことができますように。