15/03/2024

2024.3.15(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記14章1節
あなたがたは、あなたがたの神、主の子らである。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙3章26節
あなたがたは皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日、日付が変わった頃に、福島県沖を震源とするやや強い地震がありました。仙台の我が家も、少し強い揺れを感じました。物が落ちたとか、どこかにひびが入ったとか、そのような被害はまったく無かったのですが、その後も変に目がさえてしまって、寝不足の朝を迎えました。黙想もままならず、こんな時間を迎えてしまいました(今は朝の10時をまわったところです)。黙想をお届けするのが少々遅くなってしまいましたことを、どうぞお許しください。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「主である神のこどもである私たち」と受け止めました。神のこどもとされているというのは、どのようなことなのだろうか。そんなことを思い巡らしていました。
 
私にとって親の存在というものは、少し特異なものであるかもしれません。父親は私が9歳の時に、家族を捨てて行方不明になりました。それから20年あまり経った時に、父親を見つけて再会し、その後の交流はあったものの、父親と認識しながらも、心のどこかでは親であるという意識を持てないまま、時が過ぎていったように感じます。父は一昨年亡くなりましたが、最後父を引き取って臨終を見守った際も、父親に対する愛情ゆえというよりは、引き取り手の無い父を、ある意味仕方なく引き取ったというところが、正直言うとあったりします。父を引き取った際、父は認知症が進んでおり、満足にコミュニケーションを取ることが難しかったので、もやもや感を抱えながらも臨終の時を迎えました。しかし、死の直前に、遠方に出かけていた私の代わりに、妻が洗礼を父に授けてくれたのは、一信仰者として大きな慰めになったことは、言うまでもありません。

家族にさんざん迷惑をかけまくり、父親としての務めもろくに果たさなかった父でしたが、それでも神から愛されたひとりの子どもであった。それは私自身の意識にかかわらず働いている父なる神の御心なのだと、私は受け止めたいのです。私は父親になった経験がありませんので、実際の父親となっておられる方々のように感じとることは難しいのだと思いますが、それでも、父なる神が私たち一人ひとりをご自分の子としてくださるというのは、こういうことを指すのかなと、決してほめられた訳ではない父の姿というものを見つつ、イメージしていきたいと思うのです。
 
私たちは、現実の世界では、本当に親の愛情を受けるということをイメージしにくい状況がいくらでもあるのだと私は思います。しかし、だからこそ、神がご自分の子どもとし、私たちを扱ってくださるということを、イエス・キリストという「真実」を通して、今日も感じ取っていきたいと願います。同様に神の子とされている皆さんの一日にも、神からの豊かな祝福がありますように。お祈りいたします。

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