30/04/2022

2022.4.30 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記33章17節より
主はモーセに言われた。「あなたは私の目に適い、私は名指しであなたを選んだのだから。」
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書10章14節
イエスは言われる:
私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
本日の旧約・新約聖書の言葉に共通するのは「知っている」という言葉です。ここで用いている聖書(聖書協会共同訳)では、知っているという言葉は旧約聖書・出エジプト記にはありませんが、ドイツ語聖書(ルター訳2017年版)では、

「私は好意の目をもってあなたを見いだし、あなたの名前をもってあなたのことを知っている。」
 
といった感じで訳すことができます。神の目に適ったモーセが名指しで選ばれたというのは、神がモーセのすべてを知っていたということに相通じるというわけです。
 
そこで、私は今日の御言葉を通して「神に私が知られている」というのはどういうことか、そのあたりを黙想してみたいと思いました。
 
自分のことは自分が一番よくわかっている。私たちはそのようなことを口にするときがあるかもしれません。そうです。自分の「隠している部分・他人に知られていない部分」も含めて、自分のことは自分が一番よく知っているというのです。
 
しかし、私たちは「自分で気づいていない自身の姿」があるということを、決して忘れてはいけないのだと思います。また、私はそうなのだと自分のことを思って疑わなかったとしても、他人の目から見たら全然違う印象を受けるということも往々にしてあるのではないでしょうか。
 
神は私たちにとって「絶対他者」なる存在だとある哲学者は言いましたが、神は私たちとは関係のない他人ということではなく、絶対的に私の知らない部分まですべてご存知である他者であるということを考えれば、今日の聖書の言葉につながっていくのではないか。そのように感じたのです。
 
私たちは他者との付き合いが深ければ、ある程度その人のことを知ることができるだろうし、その人のために気遣いを示したり祈ったりすることもできるでしょう。しかし、その人と交流が薄かったり無かったりすれば、知らないのだからと関心を示すこともなければ、知らないから祈れない、果てには懐疑の目をもってその人のことを見ることはないだろうか。これが人間の現実なのだと思います。
 
そう考えると、神が私たちの体を表す名前を知り、すべてをご存知なうえで好意を示され、牧場の羊を飼うように、愛し慈しみながら育ててくださる。「知っている」という言葉が、どれだけ重い言葉なのかを思わされます。
 
モーセは確かに神の目に適い、出エジプトのリーダーとしての人生を長年にわたって過ごしました。しかし、そのモーセも時には間違いを犯し、決して完璧と言えるような人生ではありませんでした。まさに蒔いた種を刈り取るように、苦難の流浪生活を生きなければならなかった。それがモーセでした。
 
しかし、神はそのようなモーセを確かに知り、最終的には次世代がヨルダン川を越えて、約束の地にたどるために無くてはならない存在として、モーセを祝し続けたことも事実でした。有名だから知っている。能力があるから、目立っているから知っているという話ではありません。神は、その人を隅から隅まで知っているからこそ、その人にとってのベストな人生をお与えくださった。
 
そして、羊飼いであるイエスは、私たち羊をそのような知り方をもって、私たちひとりひとりを今日も大切に、ご自分の言葉と聖霊の働きをもって、ご自分の弟子として養い育ててくださるのだと。自分のことを一番知っているのは私自身でありません。神でありイエスこそ、私たちにとって必要な生き方というものを一番ご存知なのだと。これが今日与えられた黙想でした。
 
そんな神に守られながら、導かれながら、今週の最終日もまた素敵な一日でありますように。お祈りいたします。

29/04/2022

2022.4.29 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書8章17節
互いに心の中で悪をたくらんではならない。
偽りの誓いを求めてはならない。
これらすべてを私は憎むからだ――主の仰せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章32節
互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
人のあやまちを赦すことは、そう簡単にできることではない。
 
聖書に「赦しなさい」という言葉が記されていると、自分のなかで起きている許せない感情が浮き彫りにされて、許せない現実と向き合わなければならないとき、赦しなさいという聖書の言葉がとてつもない圧力に感じることはないだろうか。
 
今日の新約聖書の言葉を目にしたとき、私は「赦し」というものをどのようにとらえることができるだろうかと、改めて黙想したいと思わされました。いくら黙想しても、黙想しすぎることのないテーマであると、私はつくづく感じさせられます。
 
私は、赦しというものが最終的には「なされるべきもの」である。なぜならば、それが神が私たちに対してお望みになられていることだからだ。そのことを中心に置いていないと、赦すことのできない自分自身に開き直って、あらぬ方向に自分自身を導いてしまうことになるからだ。そう思います。
 
一方で、どうしても赦すことのできない自分自身があることを正直に、目を背けることなく見つめ続けることを大切にしたいと思います。そういう自分自身があることを受け入れ、認めてあげなければ、どうして隣人を赦すことができるだろうかと思うからです。そして、自分自身もまた、神から赦されて生きている存在なのだということを、聖書の言葉から聴く者でありたいと願わされます。
 
だからと言って、どうしても赦すことができないという感情に振り回されるとき、それを聖書の言葉で無理やり押し込めたり、罪というひと言で片づけてしまうことを、自他に対してしてしまうならば、それこそ暴力的なことなのだと自戒したいという願いもあります。
 
そういったさまざまな思いが交錯するなかにあって、自分自身が神によって解放されることを心から願い出る気持ちを大切にしたいと、あらためて思わされました。そのためにも、私自身、神の抱く価値観というものを自分自身の生き方とできるように、聖書の言葉に聴き、それを己が欲で改変したり我田引水的な利用をすることなく、聴いたことに従っていきたい。これが今朝私がいただくことのできた黙想でした。
 
世界が平和になるためには、まず自分自身が赦しの担い手として立つこと。そういった最小単位の平和が、神の平和、世界の平和へとつながっていくことを信じて、今日も歩んでまいりたいと思います。素敵な一日でありますように。お祈りいたします。

28/04/2022

2022.4.28 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書2章4節より
主は多くの民のために判決を下される。
彼らはその剣を鋤に
その槍を鎌に打ち直す。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録10章36節より
神は、イエス・キリストを通して御言葉をイスラエルの子らに送り、平和を告げ知らせてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧約聖書には「判決をくだす」という言葉があります。今日はこの言葉を中心に、黙想を深めてみたいと思いました。
 
判決をくだすという言葉は、裁判の結果を知らせるものとして用いられる言葉です。いわゆる「裁き」という言葉であり、これまた聖書ではしばしば登場する言葉です。
 
神の裁き、人間による裁き、世界の終末における裁きなどなど、私たちは裁きという言葉を通して、今まで自分自身がしてきたことの判定について知らされることとなる。それが良かれ悪しかれ、裁きというのはそういうことを指し示す言葉なのだと思わされます。
 
裁きは何も悪い意味だけで用いられることもありません。あくまで公平公平な判断によって真実が明らかにされて、その正しさが証明されたり、不利と思っていたものが有利な判決がくだされたというのも、しばしばあることです。
 
また、イエスは人間の固定観念や神の御心によらない断罪については、厳しい態度をもって戒めている場面を見ることがあります。こうして、裁きの主体はどこにあるのか。それは自分ではなく神御自身であることも、私たちは聖書から知らされます。
 
以上、裁きと判決のかかわりについて書き連ねましたが、今日の聖書の言葉が指し示している裁き、つまり神のご判断によって導き出された判決は、どこを向いているのだろうかと言えば、それは「平和」であるということが分かります。今日の旧約・新約聖書の共通するテーマです。
 
平和とは、地平線がどこまでも広がっている状態。起伏がなく障害障壁もない様子がもともとの意味となり、人間同士の起伏ない関係性、人生の苦難で穴や溝にはまることなく、しっかりと歩むことのできる状態こそ、平和なのだと。
 
この平和によって、人を殺める武器は豊穣の道具として打ち直され、誰かを踏み台とするのではなく救い主イエスご自身が犠牲となることで、世界が平和で満ちあふれる土台となってくださった。その判決を私たちが受け入れるのか、不服とするのかで、世界の現実が見えてくるのではないか、そう思わされます。
 
私たちは神の判決を不服としたところで、本当に独自の基準で平和を生み出せるのだろうか。今起きている、これまで起きてきた戦争や、人間関係におけるいさかいを見れば明らかだし、もし、自分自身のなかに神のご判断が何かについての無知無理解があるのならば、それをもっと深めていきたいと願わされました。
 
こういう黙想が深められることによって、神が愛する平和が見えてくる。私たちすべてにとって、そんな一日でありますように。お祈りいたします。

27/04/2022

2022.4.27 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨシュア記23章8節
今日までしてきたように、あなたがたの神、主にのみ付き従わなければならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二3章5節
何事かを自分のしたことと考える資格は、私たちにはありません。私たちの資格は神からのものです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の新約聖書の言葉に「資格」という語が登場します。この言葉について、今日は黙想を深めてみたいと思いました。
 
この手紙を書いたパウロは、手紙を書き送ったコリント教会とのあいだで起きていた問題に対して、丁寧にその解決にあたるべく筆を進めていることがわかります。その問題のひとつに「パウロは使徒を名乗る資格はあるのか」というものがありました。コリント教会の一部の人々の間には、パウロにはそのような立ち位置を名乗る資格はないという批判があったようです。
 
余談ですが、私は日本基督教団という団体に所属している「教師」という身分です。そして、教団内の正規の手続きをもって「正教師」という資格を得ています。これをもって、教会の牧師を名乗ることができるというのです。
 
ただ、誤解を恐れず申し上げれば「だから何?」という話なのです。日本基督教団正教師というライセンスを持っているから、牧師としての万能感があるなんていることは全然ないし、そもそも牧師に万能感などあるはずがない。そもそも牧師とは、文字に表せるような資格を得たからどうこうという話ではないというのが、今日の新約聖書の言葉が指し示しているメッセージなのだと、私は受け止めました。
 
パウロは「私たちの資格は神からのものです」と断言します。これも読みようによっては怪しい言葉で、私はみんなにはわからないだろうけれど、神から資格を得ているのだからと、その資格を看板にして強権をふるい、自分の意のなすままに振舞うのであれば、それこそカルトの世界である、ということなのだと。
 
パウロの言う「神からのもの」というのは、一体何をさすのか。その資格をひけらかすことでなければ、自分の自信のなさをカバーするための張り子でもない。いかに主の御心というものに聴従できるか。資格に生きるというのは、神の御前にまず謙遜な態度を求めつつ、謙遜になれない私の現実をさらけ出して、神の御前に立つ。そして歩む。これでこそ、神から与えられた資格に生きるということなのだと、改めて痛感させられました。
 
牧師という仕事が与えられて、働きの場が与えられている今、では、私は神からの任命というものをどうとらえつつ、日々の営みに仕えるか。自分自身にではなく、他者に仕えるよりもまず、神に仕えてこそ他者を隣人として健全に仕えることができるし、自分自身に与えられた資格に対する健全な仕え方をもって、今日も生きていきたいと願わされました。
 
神に幸いを与えられていることが、今日一日を生きる素晴らしい資格であることを握りしめつつ、素敵な一日となりますよう、お祈りいたします。

26/04/2022

2022.4.26 リビングライフ


日本CGNTV リビングライフ
2022年4月26
聖書:マラキ書2章10〜16節
テーマ:隣人愛によって証明される契約に対する誠実さ

↑の動画からご視聴ください。

2022.4.26 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編89編49節
誰が生きて、死を見ず
陰府の手から魂を救うことができるでしょうか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙6章23節
罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
陰府(よみ)。
 
聖書以外で使うことはないのではないかというくらい特殊な用語が、今日の旧約聖書の言葉に登場します。この言葉を「死者の世界」を指す言葉として、日本語聖書には長く用いられています。
 
もともとは、墓を指す言葉として用いられていたヘブライ語のシェオールからきた言葉ですが、それは同時に、神の与える命の宿らない場所であり、神との関係が切り離された場所、それならば悪魔が支配する場であったり、そういった人間の苦しみの場という意味から、地獄の世界を表すなど、さまざまな意味をシェオールという言葉はイメージを与えています。
 
いろいろありますが、要するに「命を感じることのない場」こそ陰府の世界であることを私たちに思い起こさせます。もちろん、聖書で語られるすべては実際の死の世界を指しているわけですが、私たちは実際に生きているあいだも、まるで死を思い起こさせるような絶望感、奈落の底に突き落とされたようなショッキングな出来事、そこからなかなか脱出できない苦しみを経験することがあれば、それも広い意味での陰府と言って良いのかもしれません。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エズラ人エタンという人物によって歌われた詩です。聖書にはほとんど登場することのない人物ですが、神殿において賛美リーダーのような役割を与えられた人物であることが、聖書の他の部分からわかります。つまり、神の命が宿る場である神殿で、エタンは今日の聖書の言葉にあるような、人間の現実を正直に歌い、そのうえで神がそのような死の世界に手を差し伸べ、私たちのうちに命があふれますようにと願っていることがわかります。
 
つまり、人間の力ではどうすることもできない死、それが実際の死であっても精神的な死を表す場合にあっても、死から命の世界へと私たちを導いてくださる神に、私たちは信頼し、委ね、期待することができるのだと、そんなエタンの思いが伝わってきます。
 
神のとの関係が断絶された状態。それは「罪」という言葉の意味であると、後の時代になって人々に知らせたのは使徒パウロでした。パウロは、この罪こそ死という神との断絶状態そのもののことであると、人々に伝えました。そのうえで、その間に立ってご自分の死をもって神と人との仲立ちとなられた、救い主イエスの存在について人々に伝え続けました。
 
イエス・キリストという神からのギフト(賜物)を、私たちはエタンの祈りが込められた賛美と掛け合わせながら、黙想させられます。神は、私たちを死の状態のままにされておかれない。救い主イエスの命こそ、私たちの今生きる日々にも、潤いと活力を与えるのだと。そのことを心から期待して、今日も歩んでいきたいと願わされました。あのエタンの賛美のように。
 
今日も、皆さんの一日が、神の与えてくださる命の豊かさにあふれるときとなりますように。お祈りいたします。

25/04/2022

2022.4.25 リビングライフ


日本CGNTV リビングライフ
2022年4月25
聖書:マラキ書2章1〜9節
テーマ:いのちと平安の契約を回復しましょう

↑の動画からご視聴ください。

2022.4.25 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌上16章31節
天は喜べ。地は喜び躍れ。
国々で告げ知らせよ。主が王であると。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書28章18~20節より
イエスは言われる:
私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
私は天地における一切の権能を授かっていると、天に挙げられる前のイエスは、弟子たちへ語られました。一切の権能。それは父なる神がイエスに与えられた権能であって、イエスが地上にいようとも天に挙げられようとも、ご自身がすべてを神とともにご支配されることを意味しました。
 
そのイエスが、弟子たちにご命令をされました。いわゆる「宣教大命令」と言われる、マタイ福音書の最後の部分が今日選ばれた新約聖書の言葉です。
 
①来るのを待つのではなく、こちらから出向くという積極的かつ外向きな業。
②神の祝福を洗礼というかたちで授ける業。
③イエスの弟子として生きていくために、教え育てる業。
 
これらはすべて、救い主であるイエスの権能によっておこなわれます。イエスによって宣教の命令を受けた弟子たちひとりひとりに対して託された業ですが、その主体は私たちではありません。私たちが委ねられた業を果たすなかで、イエス・キリストが私たちをご支配くださっていることが明らかにされることこそ、主体そのものであるというのです。
 
ですから、宣教とか伝統というものを、何か物事の成果を上げるように、数的な業績にこだわる必要はまったくないのです。数というものは、私たちがイエスの弟子として、イエスが望まれるようにそのことを誠実に営めば、神が祝福として与えてくださる結果こそ、数というものになって自然に表れるものなのだと感じます。
 
その目的を間違えてしまうと、神の祝福とか守りとか助けというものを第一にするのではなく、私の業績を上げることが第一の目的となってしまい、そのために神の助けを利用するといった発想になりかねません。主客が知らぬ間に逆転してしまいます。イエスが私たちに命令された宣教命令とは、そのような種類のものとはまったく違うと思うのです。
 
私自身、新しい教会へ赴任して、その場で宣教するとはどういうことなのだろうかということを、改めて考えさせられています。祝福される教会、喜びに満ちあふれた教会とは、一体どのような場のことを指すのだろうかと。
 
キリストが天地の一切の権能を神から授かっているという考え方は、天も地もすべて、イエスの価値観でつながれていることであって、さて私は、そのイエスの価値観というものを本当に自分自身の生き方としているかどうか。その価値観を愛して、他者とともに生きるための柱としているだろうか。その価値観が共有されるところには、必ず生きる喜びがあふれてくることを心から信じ、期待してです。
 
イエスが救い主・キリストとなられて2000年もの間、教会というものがこの世に続いてきたという事実は、どの時代にもイエスの価値観を誠実に自分の生き方としてきた弟子たちのバトンリレーの歴史に他なりません。そのバトンを今の時代に渡された者として、今日も誠実にイエスの弟子として歩んでいきたい。そう願わされました。
 
どうぞ皆さんの一日もまた、数よりも業績よりもまず、イエスの価値観に生きる喜びと幸いがあふれるときでありますように。お祈りいたします。

24/04/2022

2022.4.24 仙台宮城野教会主日礼拝メッセージ

 

2022年4月24日
仙台宮城野教会主日礼拝

聖書 コリントの信徒への手紙一3章1〜9節
説教 成長させてくださる神 牧師 齋藤 篤

※上の動画をクリックしてご視聴ください。
※聖書朗読→祈り→メッセージの順番で動画が進んでいきます。

2022.4.24 リビングライフ



日本CGNTV リビングライフ
2022年4月24
聖書:マラキ書1章6〜14節
テーマ:神への恐れのない祭司、傷だらけのささげ物

↑の動画からご視聴ください。

2022.4.24 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ハバクク書3章18節より
私は主にあって喜び
わが救いの神に喜び躍る。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書10章20節より
あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧・新約聖書の言葉を貫くのは「喜び」という言葉です。この部分だけに限らず、聖書には喜びという言葉が実に多く登場することに、皆さんもお気づきのことと思います。それだけ、聖書に記されている神は、私たちが喜んで日々を営むことを心から期待しておられると言って良いと私は考えています。
 
しかしどうでしょう。そう簡単に、いつも喜べるような生活を、私たちは営むことができているだろうかという疑問も、心の一方で抱えながら生きているのではないでしょうか。これが、私たちの生活の現実なのだと私は受け止めています。そのうえで、今日の聖書の言葉にも記されている「喜び」というものを、私はどのように受け止めて今日の一日を生きることができるか。このことを黙想したいと思いました。
 
あなたがたの名前が天に書き記されている。イエスが弟子たちに語られた言葉です。名前が天に書き記されている。つまり、神に私たち一人ひとりは見捨てられず、忘れられることもなく、その記憶と守りのなかにとどめられているのだという、イエスによる約束が語られています。忘れないでいてくださる神が、私たちとともにおられる。嬉しさも悲しみも、すべて神はご存知なうえで、私たちを慰め、励まし、立ち止まり寄り添いつつ、明日の一歩へ足を進ませてくださる方。それが神だというのです。
 
今日は喜びなんか見いだせなかった。しかし、それは今日のこと。明日はきっと喜ぶことができるさ。そういう神の声が聞こえてきそうな保証こそ、「あなたがたの名が天に記されている」ことの意味なのでしょう。
 
旧約の預言者は言いました。私は主にあって喜ぶと。主とは神のお名前であり、「私は神であり、私はあなたとともにいることで、あなたの神となる」という意味をもつ「私はいる(ある)」というお名前です。この神が、私たちに寄り添ってくださり、決して喜ぶことが難しい現実のなかでも、喜びを携えてともに歩んでくださる。だからこそ、預言者も最終的には希望との言葉として、神の預言者としての務めを果たすことができたのだと思いました。
 
今日から新しい一週間がはじまりました。この一週間が、そしてその初日である今日の主の日が、そんな喜びを神とともに味わうことのできるときとなりますように。お祈りいたします。

23/04/2022

収録

 

インターネットキリスト教テレビ局の
日本CGNTVで放映されている
聖書黙想番組・リビングライフ


その収録のため
東京・大久保にあるスタジオへ
行ってきました




2018年から(2020年はお休み)
月のうち4〜5日分の担当を
させてもらっています




担当ディレクターの千さんと
カメラマンの荻野さん
ご迷惑をかけながらも
その親切さにいつも助けられています


そして
ちょうど収録の最中に
なんと!
ぶっちゃけ・キリストーク
収録もやっているではありませんか!




こんな感じで収録
やっぱりスマホ、すごいです!


そして
ブロガー・キートンと
女子大生・マナティに
会えて大感激!




調子に乗って
スリーショットを
お願いしちゃいました!


是非是非皆さんも
日本CGNTV
ご視聴くださーい!


日本CGNTV


リビングライフ(YouTube)


キリストーク(YouTube)

2022.4.23 リビングライフ


日本CGNTV リビングライフ
2022年4月23
聖書:マラキ書1章1〜5節
テーマ:「存続」によって証明される神の選びと愛

2022.4.23 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書58章11節より
あなたは潤された園のように
水の涸れない水源のようになる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章11節
私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
どんなに人生の苦労を重ねても、報われているような気がしてこない。それはまるで、いくら水を飲んでも喉の渇きを癒すことができない。
 
今日の新約聖書・ヨハネによる福音書4章にある、サマリア人の女性とイエスとの出会いは、まさに女性の生きざまが明らかにされるときとなりました。
 
この女性は、今まで五人の夫がいたこと、そして今共にいる男性は夫ではないことをイエスによって言い当てられます。イエスがそのことを言い当てたことは脇に置いて、この女性は何らかの理由で代わる代わる男性と一緒に暮らさなければならない事情があったのでしょう。夫に先立たれたか、離縁を申し渡されたかはわかりません。しかし、生活のパートナーからは、永続的な人生の潤いというものを、得ることができなかった。そういう女性でした。
 
その女性に、イエスは「永遠の命に至る生ける水」についてお語りになられました。絶対にサマリア人である自分自身をさげすんで見ているであろう、ユダヤ人のイエスからです。この人の言葉からは、自分が決して経験できなかった人生の潤いを感じたのかもしれません。サマリア人の女性は、その水をイエスに所望しました。
 
ここで注目したいと思ったのは、イエスはこの命の水を、関係が断絶状態にあるとされていたサマリア人の女性に勧め、そして与えようとしているということです。ここに、イエスの思うというものをうかがうことができるわけです。断絶された関係にこそ、水の潤いがあふれるように働かれるイエスの姿勢をです。
 
このような潤いを、私はどのように受け止めれば良いのだろうか。これが私にとっての今日の黙想です。
 
我田引水という言葉があります。文字通り、自分の田んぼだけに水を引いて田畑を潤そうとする態度、つまり自分本位で相手の利益をわきまえない姿勢のことを指すわけですが、自分だけが潤ったところで、それが本当に自分にとっての幸福なのだろうかと、つくづく考えさせられます。
 
関係が断絶するところには、水がお互いにいきわたることなど不可能なのであって、そこには我先にと奪い合うような世界がある。イエスがサマリアの女性に話しかけ、命の水について語られ、それを与えようとされたこの出来事に、私は本当に聴従しているだろうかと、深く黙想したいと思わされました。そして、一時的なものではなく、私たちを連続的に潤し続ける水の豊かさをいただき続けたいと願わされました。
 
どうか私たちの人間関係に、国と国との争いによって生じる断絶に、命の水がほとばしり、あふれ満たされますように。そのためにも、なによりも私がまず、そのような水を流れさせ、あふれさせてくださるイエスの言葉に、今日も聞き従うことができますように。皆さんの一日もまた豊かなものでありますように。お祈りいたします。

22/04/2022

2022.4.22 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌上22章16節より
直ちに実行しなさい。主が共におられるように。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録4章33節
使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かに注がれた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
「みこころ病」という言葉を聞いたことがあります。なんのことでしょうか。
 
神の御心が分からないと、いつまで悶々とする状態のことなのだそうです。御言葉を開いても、祈っても、何をしても分からない。そうしているうちに時だけが過ぎていき、神は私を見捨てているのではないかと思い悩んでしまうというのです。
 
みこころ病について触れた、ある牧師は言いました。そんなのやってみないと分からない。やってみて、うまくいかなかったら神の御心を求めて方向転換すれば良いのだし、本当に神の御心だったら、そこには平和が訪れる。それだけなんです、と。
 
結局のところ、私たちには神の御心なんていうものは誰も100%分かりえません。だから、私たちは、決断したことが神の御心であると「信じて」歩む以外にないのだと思うのです。
 
ただし、そのときに大切なことがあります。まずは、信じるに至った根拠がどこにあるのかが明確であるかどうかです。もっと具体的に言えば、聖書の言葉に示された本質というものに基づいているかどうかということです。
 
このことを明確にしていないと、私たちは、簡単に自分の感情を容易に神の御心にすり替えてしまいます。そうなると、信じてやまないことを絶対化してしまう。神の御心であると私が信じることは、絶対化することを厳に慎まなければならないということです。
 
そのために、御言葉に真剣かつ謙遜な思いをもって聴く態度というものが求められるわけであって、聖書の言葉に触れ続けることによって、神のセンスというものを養い続けることは、本当に必要なのだと痛感させられます。
 
そうすれば、先に申し上げた通り、信じてやまないことでも、それを放棄する思い、引き返す勇気、もう一度神の御心がどこにあるのかを探求しようとする謙遜な態度が、私たちに与えられます。それはみこころ病への予防という意味で、とても重要なことであると思うのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、非常に鮮烈なものでした。直ちに実行しなさい。とても大胆な言葉です。みこころ病にあれば、絶対にこんなことはできません。
 
しかし、心配いりません。たとえそのことで失敗したとしても、神が私とともにいてくださるのだから、引き返して神の御心を求め、信じて、また歩めば良いだけなのです。神の視点から見る失敗とは、何かをして失敗をすることではなく、失敗を恐れて何もしないことです。
 
実際に、反対と迫害のなかにあっても、イエスの復活を心から信じてそれを大胆に宣べ伝えた使徒たちは、神の大いなる力が使徒たちを支えたからこそ、失敗にひるむことなく宣教に進むことができました。その結果、神の恵みがあふれたと、今日の新約聖書の言葉は伝えています。
 
神の御心を信じて、その信仰に対して機敏に反応できるような思いを神が与えてくださることを信じて、今日の一日も歩んでまいりたいと思います。神の助けがともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

21/04/2022

2022.4.21 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
アモス書5章15節より
悪を憎み、善を愛し
町の門で公正を打ち立てよ。
あるいは、万軍の神である主が
憐れんでくださることもあろう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章8~9節より
光の子として歩みなさい。――光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にあるからです。――
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
最近、ある方の言葉を通して、とても考えさせられる機会がありました。その方は言いました。「正義ほど怪しいものはない」と。
 
昨日の黙想でも触れましたが、ロシアがウクライナを侵攻した動機は、まさに「正義」です。ロシアの為政者たちの正義が、今、市民の命を奪うという結果を招いているわけです。
 
正義に人命の犠牲など、本当に必要なのでしょうか。私がこれまで大切にしてきた信仰というのは、人命の犠牲はイエスによる十字架の犠牲、それだけで十分なのだと。それ以外、人が人を殺め、その尊厳を破壊させるような犠牲は、無益の何物でもないというのが、私の信仰です。
 
昨日、私は考えました。では、ある人たちの信仰によって攻められるようなことがあった場合、私は丸腰でただやられるがままに生きるべきなのだろうかと。答えはそうではない、こういうときにこそ、私は「どの正義」で生きることが求められているのだろうかと、考えさせられました。
 
どの正義。それは神が私たちに示されている正しさであり、その正しさに裏打ちされた善に他ならないと、今日の聖書の言葉から改めて感じさせられました。善もまた、正義と同じくらいあやしさを醸し出す言葉であるかもしれません。善の基準など千差万別であり、その人によって善いとされていることなど、本当に善であるかどうかなど、実に怪しいとしか言いようがないのだと思います。
 
神の抱く善とは、私たちが善い生活を営むことができるように、最大限の犠牲を払って自分の大切な持ち物を惜しみなく差し出してしまうような善です。これこそ、いけにえとなられたイエス・キリストという犠牲に他なりません。
 
他者の幸福のために、自分自身を消費し、貢献するような善によって生かされているという信仰が、どのように善をもって生きることができるだろうか。自分の願望を神のご託宣にすり替えて、人が大切にしているものを奪い取り、犠牲を生むような善らしきいかがわしいものを、私自身がつくりあげていないだろうか。そんなことを黙想させられます。
 
今日の新約聖書の言葉は、神によって明らかにされる善にこそ、光が照らされ、すべてが明らかにされることが希望として語られています。その光を喜んで受け入れる私自身でありますようにと願い、その実践者として今日も生きたいと神に願いたいと思います。
 
どうぞ、光によって神が与えてくださる善に生きることができますように。お祈りいたします。

20/04/2022

2022.4.20 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章10節より
イスラエルを散らした方はこれを集め
自分の群れを牧する者のようにこれを守られる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章20~21節
イエスは祈られる:
また、彼らについてだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします。すべての人を一つにしてください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
昨日のニュースで、ロシアがウクライナ東部のドンバス地方で、新たな戦いが始まったことが報じられました。信じられない出来事が次々と起こっているなかで、それを対岸の火事のようにしか観ることのできない自分自身があることを痛感させられています。
 
そのようなもどかしさのなかで、今日与えられた新約聖書・ヨハネによる福音書におけるイエスの祈りは、私にとって大きな慰めとなり、また、これ以上犠牲を生まないためにも、神の介入を心から望む祈りは本当に必要なのだということを、改めて確信させられました。
 
イエスの祈り。この祈りは今や逮捕され、十字架への道が現実のものとなろうとしている直前に、神にささげられました。イエスは「彼ら」のために祈りました。彼らとはイエスの弟子であり、この世界に向かって心からイエスの愛と平和を願う人々のことです。
 
イエスの愛は自利益を追求することよりも、他者の幸福のために自分自身を貢献することを大切にしようとするアガペーの愛です。この愛が通い合うことで平和が現実のものとなる。そのために、イエスの愛で戦うということを私たちは学び、この世界に向かって愛を叫ぶ者でありたい。そのような彼らのために、イエスは祈ってくださっています。
 
イエスの祈りはそれだけにとどまりません。彼らを通してイエスの愛を知るすべての人々のためにも、イエスの愛と平和が豊かにありますようにと、神に祈りをささげています。そして、イエスは「すべての人を一つにしてください」と祈られました。
 
私はこのイエスの祈りを、責任追及を放棄して、すべてを水に流しましょうという意味で、一つにしてくださいという祈りをしているとは全く思いません。むしろ逆で、イエスの愛が中心に立てば、おのずと人間の身勝手な態度、その態度に示される罪というものが白日のもとにさらされ、そこに悔い改めがあるからこそ、すべての人が一つになれる。そのことをイエスはただ神に願っているのだと。
 
それぞれの願望で散らされた人々を、神は集め、神の愛と御心で人々が養われることによってこそ、人々は神の御心によってはじめて一つにされるのだ。今日の旧約聖書の言葉が指し示しているメッセージなのだと私は受け止めました。
 
好戦的にまやかしの平和を進めようとしている者たちが、イエスの愛によって本当の平和が明らかにされますように。人の罪があらわにされますように。そこにこそ、本当の意味での平和が豊かにありますように。対岸の火事ではなく、それが実は私自身のうちに、イエスの愛と平和を本当に理解できるように、導いてくださいますように。そのことを心から祈り、実践する一日でありたいと願わされました。

19/04/2022

2022.4.19 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編143編6節
あなたに向かって両手を広げます。
私の魂は荒れ果てた大地のように
あなたを慕います。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録22章17節より
渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
皆さんは朝起きて、一番最初にすることはなんでしょうか。私は、冷蔵庫の扉を開けて、ポットに入れている冷水をコップ1杯飲みます。長年続けている習慣ですが、渇ききった喉を潤すことで、シャキッとした気分となって、朝の黙想に向かうことができています。
 
朝、頭痛で目覚めることもあります。長年の頭痛持ちである私にとっては、決して珍しいことではないのですが、そういうときは温かくした水分を摂るようにします。そうすると、自然と頭痛が取れることが多くあります。まさに「命の水」であることを実感させられます。
 
今日の聖書の言葉は、私の渇きはどこにあるのか。それを潤す命の水とは一体何かについて、黙想を得ることができました。そのときに、私にとって実際に喉を潤うときの体験が思い浮かんだというわけです。朝の目覚めを豊かなものとするために、不調のときに回復するために無くてはならないものとして、水の存在は本当に大切なのだと思わされます。
 
本日の旧約・新約聖書が書かれた頃の環境のことを考えれば、少なくとも水資源な豊富な日本の状況とは全然違うものであっただろうと想像します。荒野が広がるイスラエルという環境のなかで、飲み水を確保するというのはとても貴重なことだったのではないかと思うのです。そういうなかで喉の渇きを癒そうとする人々の思いというものをイメージすることは、本当に大切なことだと思わされます。
 
実際に詩編の言葉を歌ったダビデ王が、自分自身の心を荒野にたとえて、神に渇きを癒してほしいと懇願し、神をしたい求める姿を、今日の聖書の言葉から見ることができますし、今日の新約聖書の言葉もまた、幾多の困難を乗り越えてきて、神によって守られてきた民たちが、神が与えた新天地で命の水をいくらでも口にすることができる。そこには制限などないことを、豊かに伝えています。
 
私はこう受け止めます。私は自分自身の渇きというものをどれだけ理解しているだろうか。その渇きを癒そうとするために、どこに自分自身の軸足を向けているだろうか。そして、神が私の渇きを癒してくださるという保証を、本当に慕い求めているだろうか。そして、そのことゆえに、瑞々しく生きているだろうか。そんなことを考えさせられました。
 
そう考えますと、やはり潤いある生き方をしたいと心から願わされる自分自身があると思わされますから、そのために喉の渇きを癒してくださる神とともに歩む一日でありたい。それが私の一日を潤いあるものとするならば、なおのことだと。。。
 
今日の一日がまた、皆さんにとっても神が与えられる潤いに満たされたときとなりますように。お祈りいたします。

18/04/2022

2022.4.18 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記上8章29節より
夜も昼も、この神殿に目を向けていてください。ここは、あなたが、『そこに私の名を置く』と仰せになった所です。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書20章19節より
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧約聖書の言葉は、イスラエルの都エルサレムにいよいよ神殿が建築されたときに、ソロモン王が神にささげた祈りの言葉です。長年の偉業が成し遂げられたとき、ソロモン王は何を思って神に祈りをささげたのか。そのあたりを黙想してみたいと思いました。
 
ソロモン王は、今日の聖書の言葉に先立って、このようなことを神に告白しています。
 
神は果たして地上に住まわれるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。(8章27節)
 
ここに、ソロモン王の謙遜を見ることができます。誰もが見とれる神殿を建築したのですから、それは偉業と言っても間違いありません。しかし、ソロモン王は「そのような神殿に、本当に神がお住まいになられるだろうか」と案じます。
 
ここで、ソロモン王の謙遜のひと言があります。「天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです」と、ソロモンは心のうちを告白しました。どういうことでしょうか。
 
これは、私たちの傲慢が神を引き寄せ、自分の願望通りに押し込めるような態度であると私は受け止めました。この場合は、私の建築した素晴らしい神殿にこそ、神は入って当然だというような姿勢です。しかし、ソロモン王はそのような態度には走りませんでした。
 
ソロモン王は、ただひとつ神に願います。「私は神であり、あなたがたと共にいて、あなたの神となる」というお名前こそ、この神殿を支配されますように。ただあなただけが、この神殿の中心でありますようにという願いです。決して私が傲慢にならないように、絶えることなく、視線と御心を注いでくださいという、ソロモンの謙遜にもとづく祈りがささげられました。
 
どうしてソロモンはそのような謙遜を示したのでしょうか。私はこう思うのです。ソロモンは、自分自身がいつ傲慢になってもおかしくない存在であることを重々理解していたからのではないかと。
 
私たちにとって、傲慢が露わにされる要素はいくらでもあります。そのうちのひとつは不安です。不安を解消したい、そこから脱却したいと願うばかり、我流で物事を解決しようとすることが、私なんかもいくらでもあることを思い起こされます。
 
そういうときには、私の心に神はいなくなる。だからこそ、神のお名前の示すところを私は必要とするし、視線と御心を注いでほしいと願いたいのです。
 
復活の主イエスが、迫害者を恐れるあまり、玄関の扉にかんぬきをして潜んでいた弟子たちの真ん中に立たれて「平和があるように」と告げられた、あのイースターの夕方の出来事は、そのような人間の不安からくる傲慢さをすら打ち破る、私たちの救い主がともにおられるということを明らかにしている。これが、今日の新約聖書が示すメッセージであると私は受け止めました。
 
復活信仰に生きるとはどういうことか。イースター2日目の朝を迎えました。私たちの不安が傲慢を育てませんように。私たちを守られる主なる神が、今日も私たち一人ひとりを喜びへと養い、育ててくださいますように。心よりお祈りいたします。

17/04/2022

2022.4.17 仙台宮城野教会主日礼拝メッセージ

 

2022年4月17日
仙台宮城野教会主日礼拝

聖書 ルカによる福音書24章13~35節
説教 心は燃えていた 牧師 齋藤 篤

※上の動画をクリックしてご視聴ください。
※聖書朗読→祈り→メッセージの順番で動画が進んでいきます。

2022.4.17 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記上2章1~3節より
死期が近づいたとき、ダビデは息子ソロモンにこう言い残した。
「私は、この世のすべての者がたどる道を行こうとしている。だが、あなたは強く、雄々しくありなさい。あなたの神、主の掟と戒め、法と定めを守りなさい」。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書20章21節より
復活者は言われる:
あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
自分にとって大切な存在を失わなければならないとき、そこに襲うのは心細さや寂しさであるかもしれません。そして、その存在なしに生きていかなければならないことへの不安も、自分自身を取り囲むのだと思うのです。
 
まさに、偉大な王にして父親であったダビデが生涯を閉じようとしているときに、息子ソロモンはそのような寂しさや心細さ、不安を感じたに違いないのです。そのことを、ダビデは父親として、また王位を後継させようとする相手に対して、ひしひしと感じたのでしょう。
 
そのときに、ダビデはなにをソロモンに向かって語ったのでしょうか。今日の旧約聖書で採りあげられているダビデの言葉は、「主の言葉に基づいて生きるときに、あなたは強く、雄々しくあることができるのだ」というものでした。
 
このダビデの言葉は、私たち一人ひとりが孤独や寂しさ、心細さからくる不安を感じたときに、どのように生きることがベストなのかを明らかにしているのだと、私は受け止めました。自分が無力に感じるからこそ、本当の意味で頼るべき相手に頼りなさいと。
 
それは見える存在での父ダビデではなく、ダビデをも人生のさまざまな場面で助け、導き、戒め、つねに人生を支えてくれた父なる神に頼りなさいと。これは、ダビデの生涯を通して、自分自身が得た確信に基づいた遺言であり期待でした。息子ソロモンよ、あなたもそのように生きなさいと。
 
死者のなかから復活されたイエスが、弟子たちに語りました。平和の使者として、私はあなたがたをこの世界に遣わすと。誰にですか。弟子たちにです。今日、この世界で生きようとする私たち一人ひとりにです。
 
弟子たちも、偉大な師イエスを裏切り、失ったことへのさまざまな感情が行き来していたに違いありません。だから、恐れのあまり玄関の扉にかんぬきをして、おびえながら潜んでいました。そこに、復活者イエスが弟子たちの前に現れたのでした。
 
平和の使者。それは、神がご自分の言葉と行いを通して与えられた平和であり、まさにイエス・キリストその御方そのものです。私たちの心が、思いが平和なものとなるように、イエスは私たちを絶対に孤独な状態にはされておかれません。ご自分の言葉で、私たちの背中を押し、手を取ってともに歩んでくださる方、それがイエスその御方です。
 
そのイエスが復活者のかたちをとられて、私たちの人生の日々における復活体験をサポートしてくださる。これがイースターの喜びへと導かれていくのだと、私は受け止めることができました。イースターの朝に、心おどる聖書の言葉を与えてくださった神に、心から感謝するばかりです。
 
イースターおめでとうございます!
皆さんの一日に、主のご復活の喜びがともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

16/04/2022

2022.4.16 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編80編19節より
私たちを生かしてください。
私たちはあなたの名を呼び求めます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章10節より
キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧約聖書である詩編80編を含む一連の賛美は、賛美リーダーとして立てられたアサフによって歌われています。そのアサフが「私たちを生かしてください」と、神のお名前を呼び求めつつ賛美をしているというところに、今日の聖書の言葉の肝があるような気がしてなりません。
 
私たちを生かしてくださいという願いは、何も生体的な命を長らえさせてくださいと言いたいのではないと私は受け止めています。私たちの活力の源はどこにあるのか。それはあなたのお名前なんです、神様。アサフは、神のお名前こそが、自分たちを活かすために無くてはならないものなのだと、賛美しているのだと。
 
神のお名前。それは「インマヌエル」です。私は神であり、あなたと共にいて、あなたの神となる。そのような宣言が神の名には込められています。この神の宣言があるからこそ、私たちは安心して神のお名前を呼び求めることができるのかもしれません。
 
私たちを生かしてくださいというアサフの賛美は、すでに神が私たちを生かしてくださるということが前提とされて、そのうえで、私たちがそれを呼び求めるということをもって、神に生かされていることの実感というものを感じ取ることができるのだと。この順番というものを、私は是非自分に与えられた命や生活というものに照らし合わせながら、とらえていきたいと思わされました。
 
生かされるということと対極にあるもの、それは死です。その死を打ち破られ、無力なものとされたのが、十字架に死に、そして復活されたイエス・キリストその御方であるというのが、今日の新約聖書のメッセージです。
 
イエスの十字架と復活の出来事も、イエスが私たちの要望に応えた結果起きたものではありません。私たちのみじめな姿を、インマヌエルの神が憐れまれたからこそ、神の側からすべて提示され、私たちに贈られたギフトだったのです。このギフトがあるからこそ、私たちはそれを呼び求める賛美を、心からおささげすることができるのだと。
 
主の復活祭・イースターまであと1日となりました。レントの最終日、神が私たちのために準備してくださったギフトが明らかにされる備えのときとして、私たちの心が賛美に満たされますように。心からお祈りいたします。

15/04/2022

2022.4.15 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編119編36節
不当な利益にではなく
あなたの定めに私の心を傾けさせてください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章8節
へりくだって、死に至るまで
それも十字架の死に至るまで
従順でした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
不当な利益にではなく。それはどのような利益のことを指すのだろうか。今日はここからまず、黙想を深めてみたいと思いました。
 
まず、神が私たちにご自分の利益というものをを分け与えてくださる方であるというのは、聖書全体を通して伝えているメッセージであると私は思っています。これは、神が私たちの幸せのために与えようとしている利益ですから、正当な利益と言えるでしょう。
 
それに対する不当な利益。それは独占しようとする態度から生じる利益であると私は考えます。もう少し簡単な言い方をすれば、「自分のことしか考えていない」利益。自分が得をすることしか考えていない態度から、公共の利益を食い物にしようとするときに、それは不当な利益と言えるのでしょう。
 
このような態度は、意識的・無意識的かかわらずに、他者のためと言いながら、結局自分自身の経験や気分、志向というものを基準にしようとします。だから、やっていることにムラが生じ、そのムラが人間関係にトラブルを生じさせて、利益どころか損害をつくりあげてしまうことすらあるのだと思わされます。
 
そのような不当な利益を生じさせないためにも、今日の旧約聖書は、このように歌います。あなたの定めに心を傾けさせてくださいと。あなたの定め。それは神の基本的な態度である、隣人の幸福のために、自分の利益を脇に置いて自分の持っているものを差し出そうとする思いに基づいた定めであると。
 
その点で、死に至るまで自分の利益ではなく、神の与えられる利益のために徹底的に生きたのが、十字架上のイエスその方でした。今日は受難日。イエスが十字架で負われた苦痛は、私たちが神の利益によって生きる幸福を味わうため。そのために、自分を捨て、自分に死に、神に完全な従順を示された。
 
イエスの示されたこの従順の上に、今、私たちは生かされていることを想うときに、では、不当な利益とは何なのだろうかということに、今いちど立ち止まって、今日の一日を過ごしてまいりたいと願わされました。
 
どうか、神の利益が豊かにこの世界を平安へと導いていくださいますように。祈ります。

14/04/2022

2022.4.14 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書45章23~24節より
すべての膝は私の前にかがみ
すべての舌は誓い
私について、「正義と力は主だけにある」と言う。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章51節より
イエスは言われる:
私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
教会の暦では、今日は「洗足木曜日」と呼ばれる一日です。イエスが十字架に架けられる前夜、彼は弟子たちとの最後の食卓(晩餐)を囲んで、そこで深い交わりのときを持たれました。
 
家に到着したイエスと弟子たちは、砂ぼこりにまみれた足を洗います。しかし、このときだけは違いました。イエスが弟子たちの足を洗われます。汚い足を洗うのですから、決して気持ちの良いものではありません。
 
弟子たちは恐縮しました。しかし、イエスは手を休めることはありません。イエスによる洗足の行為は、人が嫌がることをするということに主眼を置いているのではなく、あくまで向こう側にいる一人ひとりへの深いご自身の愛情から、ただそのようにするのでした。
 
こうして、彼らは食卓につきました。パンとぶどう酒が供されました。そこで、イエスはパンをこれは私の体、ぶどう酒を新しい契約によって立てられる私の血潮と呼ばれました。パンを食べ、杯を飲むこの行為で、弟子たちはイエスがともにいてくださる経験を味わいました。ただ、その意味を本当に気づけたのは、もうちょっと後の話になりますが・・・。
 
さて、イエスはご自分のことを「命をつなぎ、支えるパン」であると、これまでも弟子たちに語っておられました。本日の新約聖書の言葉が、まさにそうであると言えるでしょう。天から降ってきた生けるパン。それは出エジプトの時代に、空腹にあえぐイスラエルの民のために、神が天から「マナ」というパンのようなものを降らせたことを彷彿とさせます。こうして、神は私たちの命を支えるために、必要なものを降り注いでくださいました。
 
そして、今やイエスご自身が「天からの生けるパン」として、私たちに与えられました。永遠へと命をつなぐパンとしてです。では、私たちにとって生けるパン、永遠を保証するパンは、具体的にどのように与えられるのでしょうか。
 
私は、それこそ、神が与えてくださったご自分の言葉に示された、本質と真実であると受け止めたいと思います。聖書の言葉を、ゆがみなく、文字面だけで受け止めずに、イエスが私たちの足を洗われるような思いを受け取るように、聖霊に示された正義と力をいただきつつ、今日も神の言葉に聴くことの幸いを味わっていきたいと、願わされました。
 
着実にイースターの喜びへと近づいている私たちの一日に、今日も神様の平安と祝福が豊かにあることを心から願い、お祈りいたします。

13/04/2022

2022.4.13 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ミカ書5章3節より
彼は今、大いなる者となって地の果てにまで及ぶ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書12章24節より
イエスは言われる:
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
誰かが犠牲になられなければ、多くの人の幸せにはつながらないのだ。
 
失敗をしなさい。
これは、私が初任地でのつとめを終えて、ドイツへ宣教師へ赴くときに、ある牧師が「はなむけの言葉」として贈ってくれた言葉です。
 
普通、はなむけの言葉といえば、もう少し気の利いたものであったりするものですが、その牧師は違いました。失敗をしなさい、と。そして、その牧師はこうも言いました。どうか、これを皮肉と受け止めないでほしいと。
 
成功、とまではいかなくとも、次の任地ではよい働きをしたいと願うのは当然のことです。しかし、私はドイツの地で宣教をして気づかされたことがあります。良い働きというのは、必ずしも人々の称賛を受けるような、成功体験だけとは限らない、ということをです。
 
失敗をすること。このことで、私は大切なことを知らされました。そう。見た目には十字架で殺された「失敗者」こそ、実は全世界を救うために自らの命をそのようにしたのだと。それが救い主イエスでした。イエスは失敗者のように見えて、実はそうではなかった。
 
良い働きには犠牲がともなう。しかし、その犠牲とは他者を犠牲にして、その踏み台の上にのし上がることではありません。自分が犠牲になること。自分が損をすること、失敗すること。しかし、その犠牲が、多くの実を結ぶ。まさに、今日の新約聖書の言葉が私たちに伝える通りです。
 
しかし、私は失敗を失敗と悔やみ、そのことで苦味をいつまでも引きづっている。しかし、それは自分自身がそのような失敗体験を許せないからなのでしょう。そのようなプライドが、失敗から良いものが生まれることを拒んでしまっている。いや、そうではないのだと。十字架上で殺されたイエスこそ、復活の命をもって、全世界の救い主になったではないか!
 
今から10年前に、失敗をしなさいと告げてくれた牧師の言葉を思い出しました。そして、それは本当に皮肉の言葉ではなかったと、思い起こしては感謝するばかりです。今日も、私たちのために一粒の麦となってくださったイエスがともにおられる。そのことを胸に抱いて、一日を過ごしてまいりたいと願いました。
 
皆さんの一日に、イエスがともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

12/04/2022

2022.4.12 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ48章20節より
喜びの声をもって告げ、聞かせよ。
地の果てまで響き渡らせよ。
「主はその僕ヤコブを贖われた」と。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙1章13節
御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
救い主イエスの犠牲を想う受難週も3日目を迎えました。イエスは私たちの罪を贖われた。「あがない」という言葉を初めて聞いたのは、中学2年のときでした。アガナイという言葉なぞ使ったこともなかったので、とても不思議な感覚にさせられたのを思い出します。あと、罪のアガナイ。罪、罪から想像できるのは、せいぜい「悪いこと・犯罪のことか?」という程度のものだったことも思い出します。
 
ですから、ツミノアガナイノタメニという言葉を聞いて、罪とはなにか、贖いとはなにか、イエスはどのような思いで十字架にかかられたのか、そしてその上で苦しまれたのかということへのイメージは、この30数年のなかで随分豊かにされてきたと思わされます。もちろん、豊かにされたからと言って、罪の贖いということを100%わかりきっているかと言われれば、まだまだと痛感させれらるのもまた事実なのですが。。。
 
贖い。それは身代金のような代価をもって、囚われている人々を救い出すことです。私たちを縛り、捕え続けている罪から解放されるために、神はイエスという身代金を差し出された。これが贖いの指し示すところです。
 
しかし、改めて思わされることは、私たちを縛り続けている罪に縛られる道へ進んだのは、私たち人間に他ならないということです。誘拐犯のような悪魔が、善悪と知識という美味しそうなものをちらつかせて、人間を罪の道、つまり神との関係を拒む道を選ぶように誘導されたことは事実です。しかし、冷たい言い方をすれば、それは、だまされる方が悪いという、人間自身の自業自得の結果でもあったと言えるでしょう。
 
しかし、そういう人間の自業自得など、神にはまったく関係なかった。もちろん、人間には自業自得の念を「罪の意識」という思いを通して痛感させたでしょう。だからと言って、神は人間を見捨てることはなかった。こどもが誘拐されたときに、親はこどもを救いたいとの一心で身代金を差し出すように、その親心が、贖いの主を差し出された。私たちは、本当の親心というものを見せられているのだと思うのです。
 
この親心ゆえに、私たちは生きる喜びというものを味わうことができるのだと、今日の聖書の言葉は、私たちに訴えているような気がしてなりません。この喜びを胸に抱いて、今日の一日を歩みたいと願います。親心に支えられているという安心感と充足感をもって。
 
どうぞ、すてきな喜びの思いが、皆様とともにありますように。お祈りいたします。

11/04/2022

2022.4.11 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編31編25節
勇ましくあれ、心を強くせよ
主を待ち望む人は皆。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章2節
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧約聖書・詩編31編25節は、長く「雄々しくあれ、心を強くせよ」として覚え続けてきた言葉ですが、聖書協会共同訳では「勇ましくあれ」と訳されるようになりました。雄々しいも勇ましいも意味としては一緒なのですが、「雄(おす)」という言葉を使うことによって「男らしい」という意味合いがあるため、あえて「勇ましく」とするあたりは、新しい聖書がジェンダー意識にも配慮されたものなのだということを改めて思わされますし、好意をもって受け入れることができます。
 
そのことを踏まえて今日の聖書の言葉を見ますと、主なる神のなさることに希望を抱く者は皆、勇気を持ちなさい、心を強くしなさいという、ダビデ王の賛美に歌われた勧めであることがわかります。
 
しかし、私自身がそうなのかもしれませんが、勇気を持ったり、心を奮起しながら歩むというのは、そう簡単にできることではないだろうと、ついつい思ってしまうのです。勇気を抱くには、それなりの根拠であるとか、そのときのコンディションだとか、そういうものをどうしても必要とするではないか。そんなことを考えるのが、人間のごくごく自然であり、正直な感想なのではないかと思わされます。
 
それこそ、そのような人間の弱さというものをどうしても考えてしまうときに、では、神はそんな私たちをどのように扱ってくださるのかが、今日の聖書の言葉の肝であるような気がしてなりません。ここで一つのイメージを抱きたいと思いました。神は弱い私たちを強制的な軍事訓練のようなものを通して強くするのではない、というイメージです。
 
私たちの心を強くするのは、私たちの生身からではなく、キリストの強さが私たちにともなってくださるからである。それが、今日の新約聖書の言葉が伝えようとしているメッセージなのではないか。私はそのように受け止めました。
 
私たちはすぐにキリストの力というものを、心に、思いに、行動に働かせることは難しいこともあるでしょう。私の本来持っているものが、それを拒み、強くされることに信頼できないこともあるでしょう。それでも、キリストは私たちのためにいつもスタンバイしてくださる。ご自分の力を必要なときに、必要なだけ、ご自分の御心をもって私たちに分け与えてくださるのだと。
 
それが「神の栄光にあずかる希望」という言葉で表現され、結果として待ち望むという思いへと導かれることなのでしょう。決して勇ましいとは言えず、心の弱い私に、今日もキリストが生きて働いてくださる。そんなことを胸にして、歩んでまいりたいと願いました。
 
どうぞ一日が、そのようなキリストの力と助けが、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。

10/04/2022

2022.4.10 仙台宮城野教会主日礼拝メッセージ

 


2022年4月10日
仙台宮城野教会主日礼拝

聖書 詩編69編20~22節
   ヨハネによる福音書19章28~30節
説教 成し遂げられた 牧師 齋藤 篤

※上の動画をクリックしてご視聴ください。

2022.4.10 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書8章17節より
ヤコブの家から御顔を隠されていても
私は主に望みをかける。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テトスへの手紙2章13~14節より
また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望みます。キリストが私たちのためにご自身を献げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出すためだったのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私たちは、今日から「受難週」に入ります。イエスが十字架上で、人々の嘲笑と憎しみを浴びせられ、苦しみの極みを経験されたことを、私たち一人ひとりの問題としてとらえることのできる一週間です。教会の先人たちは、このような時を通して、自分たちの抱える罪の問題に向き合ってきました。
 
私たちは、自分自身の「いやな部分」に向き合うときに、それは決して心地の良いものではないことをよく知っています。だから、少しでも明るく、楽しく過ごそうと一生懸命頑張ったりするのかもしれません。そして、少しでも暗く、かたく、つまらないものを自分自身のなかから排除しようとします。
 
しかし、私たちはあえて、自分自身の「いやな部分」に目を向け、見つめ、それを自己理解しようと努めるところにこそ、そこに神がどのような希望を与えてくださるのかを理解できるのではないだろうか、と思わされるのです。そういう意味では「暗く、かたく、つまらない」という営みもまた、私たちにとって大切なものなのだと。
 
今日の新約聖書の言葉に、「私たちをあらゆる不法から贖い出す」ために、キリストは私たちに命を与えてくださったとあります。この不法という言葉を、私たちは自分の外にあるあらゆる不法とみなすのか、それとも、私たち一人一人の心や思いのなかで渦巻く不法とみなすかで、罪を贖うという務めを果たされたイエスへの理解というものも随分違ってくるのではないか。そう思えてならないのです。
 
自分自身の不法を見つめるなんて、何といやなことだろう。しかし、それを見つめるからこそ、イエスが私たちの救い主となってくださったことを喜べるのも、また事実なのだと思わされるのです。そういう意味では、教会という場は、時には罪ばかりを強調すると言われることがあります。しかし、それこそ、教会だからこそそのようなことを強調する先にある、救いの喜びというものが見いだせるのではないでしょうか。
 
たとえ、神が私たちの前からその顔を見せない。神が見えない。そんなことが私たちのうちにあろうとも、それでも私は神が喜びを与えてくださることに希望をかけて生きる。そのために、私たちの心にある闇の部分をあえて見つめることは、本当に大切なことなのだとの黙想に導かれました。
 
どうか、この一週間が、イースターへと向かうために無くてはならないひと時となりますように。心からお祈りいたします。

2022.4.9 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編97編1節
主は王となられた。
地は喜び躍れ。
多くの島々は喜べ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙14章17節
神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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4月9日の黙想を、翌朝掲載することになりましたことを、どうぞお許しください。昨日は、前任地の信徒さんが神様の御許に召されたため、今週半ばに執り行う葬儀の打ち合わせのために東京へ出かけておりました。夜に帰宅してすぐに休んでしまったため、夜のうちにと思いつつ、翌朝の掲載となってしまいました。
 
与えられたふたつの聖書の言葉が貫くキーワードは「喜び」であると私は受け取りました。改めて、喜びとは一体何なのだろうかということを黙想したいと思いました。しかし、一方ではこう思うのです。「喜びのことで、黙想することなど必要ないのではないか。喜びは喜びだ。それ以外は何もないのだ」と。
 
今、私たちはイエスが十字架への道を進まれたことを黙想する四旬節、レントのときを過ごしています。このレントの期間、特にイエスが十字架につけられた時のシーンを聖書から読んでいると、イエスを十字架につけた人々の喜びというものがどこにあるのかということを、ついつい思ってしまいます。人々の喜びは、イエスを十字架につけて殺すことでした。
 
そうなりますと、私たちが体験する喜びというものが、必ずしも神の望まれる喜びであるとは限らないということがわかります。今日の聖書の言葉に記されているのは、神が私たちの王となられたことへの喜びです。神が王となられたというのは、神の価値観でこの世界が満たされることを意味します。そして、その喜びは、神の正義と平和で満たされると、新約聖書の言葉は語ります。
 
私たちは、神が与えてくださるそのような喜びを、自分自身の喜びとしているだろうか。そんなことをやはり自分自身の黙想としたいのです。もし、神の喜びを自分自身の喜びとしているならば、そこには神の正義と平和が宿るのだと。そんなことを心から望みつつ、神の喜びで生きていきたい。そんな風に願わされた次第です。
 
この世界が、神の喜びで満たされますように。それをゆがみなく、私たち一人一人が受け取れますように。

09/04/2022

本日(4月9日)のローズンゲン黙想について

いつもご愛読くださり、ありがとうございます。

本日(4月9日)のローズンゲン黙想ですが、急用が生じましたため、朝の掲載は見送り、夜に掲載いたします。

まことに申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

齋藤 篤

08/04/2022

2022.4.8 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記下12章13節
ダビデはナタンに言った。「私は主に罪を犯しました。」ナタンはダビデに言った。「主もまたあなたの罪を取り除かれる。あなたは死なない。」
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙2章13節より
あなたがたは過ちによって、死んでいた者でした。神は、そのようなあなたがたをキリストと共に生かしてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧・新約聖書をつらぬくテーマは「罪・過ち」であると私は受け止めました。そもそも罪とはなんなのか。そんなことを改めて黙想してみたいと思います。
 
聖書の言う罪とは、神に背を向け、神の視線と私の視線が合っていない状態のことを指すわけですが、具体的には、神を必要としない態度のことを指しています。自分が神となって、自分の願望をしたいがままに果たそうする態度。これが具体的な罪の行動へと私たちを誘導します。
 
神から存分の祝福を受けたダビデ王は、バト・シェバという美しい女性を手中に収めるために、彼女の夫であるウリヤを戦場の最前線へ送りました。その結果、ウリヤは戦死して未亡人となったバト・シェバをダビデは自分の妻としました。願望は犠牲を生んだ、典型的なエピソードです。
 
しかし、ダビデは、神によって遣わされた預言者ナタンを通して、後になって自分のしたことの身勝手さを思い知ります。バト・シェバとの間に生まれた初子は程なくして亡くなります。神の視線を無視して、意のままに事を動かそうをしたダビデは、その罪を認め、神と視線を合わせて生きることを誓いました。
 
大切なのは、悔い改めのあるところには、神の赦しがあるということです。人生、いくらでもやり直しが利くのだということを、この物語は私たちに伝えています。現に、バト・シェバとの間に生まれた二番目の子どもは、後にダビデの後継となるソロモン王でした。神は、このソロモン王を大いに祝しました。
 
この神の赦しが、今の私たちにとっては救い主イエス・キリストによって与えられる。罪に死んでいた私たちが、キリストによって復活し、生かされ、やり直しの人生を歩むことが大いに許されている。今日の新約聖書の言葉が指し示すメッセージです。
 
この世の中は、勝ち組・負け組と区分けされて、失敗者の烙印を押され、二度と立ち上がれないように潰すことを平気でおこなう風潮があります。しかし、それで良いのか。罪の赦しを知る者として、そのような希望のない社会が存在するならば、その社会に抗う生き方をしたい。神は人を殺す方ではなく生かす方なのだと。
 
願望あるところには犠牲がともなう世界に、神の赦しによる希望と平安が豊かにありますように祈ります。多くの命が犠牲とされている地域のために。私たちの人間関係のために。そして、私の今日与えられた一日の命と生活のために。