31/01/2023

2023.1.31(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編102編28節
しかし、あなたは変わることなく
あなたの歳月は終わることがありません。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録1章4(~5)節
今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、恵みと平和があなたがたにあるように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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今おられ、かつておられ、やがて来られる方。
 
昨日のローズンゲンに示された新約聖書の言葉であった、マタイによる福音書28章20節は、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエスの言葉でした。
 
その後、私のブログを毎日読んでくださっている方から、ご質問を受けました。「世の終わりの後でも、イエス様は私たちと共にいてくださるのですか」というものでした。このようなご質問をいただきますと、ローズンゲンを介して、御言葉の分かち合いというものができることの喜びを、しみじみと感じさせられます。とても感謝なひと時でした。
 
私は「もちろんです」と答えました。世の終わりの後に完全に訪れる神の国において、神は私たちと共にいてくださるという「インマヌエル」の約束を果たされます。これこそ、神が創造当初に思い描いた「神の国の完成形」なのだと、私は受け止めています。
 
そんなことを想いながら、今日与えられたローズンゲンの言葉は、まさに「永遠なる神」を想うことのできる言葉でした。変わることなく、終わることのない神の歳月について、詩人は賛美しました。それは神御自身が不動不変の存在であるという意味もさることながら、私たちと共にいてくださるという約束が、決して改変されることなく永遠にわたっていくのだと、私は受け止めたいのです。
 
そのことが、今日の新約聖書の言葉であるヨハネの黙示録における冒頭の言葉にも、如実に示されています。ヨハネの黙示録を受け取った読者たちは、ローマ帝国による厳しいキリスト教迫害のなかにあった信仰者たちと言われています。まさに命の危機のなかで生き、終わりというものを意識しなければならないような状況のなかで、手紙の挨拶文に記されたのは、昔も、今も、そしてこれからも、変わることなく私たちに恵みと平和を与えてくださる神が共におられるということを、読者に意識させる言葉だったのです。
 
危機にある時にこそ、神が永遠のなかで与えてくださる恵みと平安のありがたさというものを感じられるような思いを大切にしたい。そんなことを改めて思わされます。約3年間にわたった新型コロナウイルスによる危機からも、解放のきざしが見えてきているように感じますが、この3年間という期間が、命の尊さであるとか、当たり前だと思っていたことが、実は当たり前でなかったということを、実感する時でもありました。
 
そういう意味では、どんなときにも私たちを守ってくださる永遠なる神が、ご自身の御手のなかで危機の時も、喜びの時も。昔も今も、そしてこれからも、私たちを守り続けてくださるのだ。そんな希望を胸に歩みたいと改めて思わされました。そんな神の守りが、今日も皆さんと共にありますように。お祈りいたします。

30/01/2023

2023.1.30(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨシュア記24章17節
私たちの神、主こそ、私たちの歩んだすべての道で、私たちを守ってくださった方です。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書28章20節
私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日の新約聖書の言葉は、マタイによる福音書のフィナーレを飾る、イエスによって語られた言葉です。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。この言葉こそ、神が預言者イザヤを通して語られた、そして神の使いを通してマリアの婚約者であり後に夫となるヨセフに語られた「インマヌエル(神は私たちと共におられる)」という言葉の実現でありました。マタイによる福音書はまさに、インマヌエルからはじまりインマヌエルに終わる、そのような書物と言って間違いありません。
 
神が私たちと共におられるのは「世の終わりまで」であると、救い主イエスは語りました。決して見捨てたり、見離されたりすることのない、イエスの私たちに対する強い決意と保障の言葉を、私たちは聴き、それをいただくことができるというのです。私たちがたとえ出来の悪い、同じ過ちを繰り返してしまう「劣等生」であったとしてもです。
 
話題は変わりますが、昨日、私はあるテレビの再放送番組を観ていました。「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組に登場したのは、「ホルモンの神様」と呼ばれている、ある方の話でした。幼い頃に神様は、事故で右指を失いました。普通の人と違う、そのことで社会でみんなと同じように扱われることがなく、まさに「ホルモン(放られた者)」として生きていたと、その方は振り返ります。
 
しかし、神様はある時から人生が一変します。ホルモンをひとりでも多くの人に、美味しく食べて欲しい。そんな思いからまさにホルモンの下処理から調理方法にいたるまで情熱を注いだのだろうです。その結果、評判が評判を呼んで、その方のお店は、今では数時間待ちが当たり前と言われるほどの大人気店となり、今日に至っているとのことでした。
 
そんななかで、私が興味深く観たのは、神様から多くを学びたいとその方のもとを訪れる多くの職人たちのなかで、ひときわ出来が悪く、気も利かず、やる気があるのだろうかと思えてしまう若者が登場します。神様は、その若者に注意をします。しかし、恫喝するようなことは一切ありません。ただ淡々と、言うべきことを言い、丁寧に教えて、失敗を恐れるなと勧め、そして見守る。そのことを繰り返すだけです。そうしているうちに、若者は大切なことを、ひとつ、またひとつ積み重ねていくのが誰の目から見ても明らかになっていきました。その姿を、神様はほほ笑ましく眺めている。そんなシーンが放映されていました。
 
神様は言います。自分が捨てられた者、つまり「ホルモン(放る者)」としての経験があるからこそ、捨てないんだ。放らないんだと。私はここに、この方の仕事の流儀というものを見ました。まさに「インマヌエル」ではないか。そう私は思ったのです。ホルモン焼きが好きな私ですが、そんな神様がおられるとはまったく知りませんでした。そして、その神様が語る言葉に、私はイエスのそれが重なって見えたのでした。
 
私たちの行くすべての道を守られる神は、こうして、私たちの迷走をじっくりと見守ってくださっているのだと。出エジプトにおける40年の旅路を見守られた神について語られた、本日の旧約聖書の言葉から聴くことのできるメッセージです。そのような神が、私たちと共におられると思うだけで、どれだけ慰めになるだろうかと思わずにはいられない本日の聖書の言葉です。そんな神に見守られながら、今日という一日を歩むことのできる幸いに、心から感謝して歩みたいと願わされました。
 
皆さんにとっても、今日の一日がそのような神によって見守られた幸いに包まれた一日でありますように。心よりお祈りいたします。

29/01/2023

2023.1.29(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編80編20節
万軍の神、主よ、私たちを元に返し
御顔を輝かせてください。
その時、私たちは救われるでしょう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章78~79節
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって
高い所から曙の光が我らを訪れ
暗闇と死の陰に座している者たちを照らす。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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新しい一週間が始まりました。1月も早いもので、最後の日曜日を私たちは迎えているわけですが、世界にどんなことが、また私たちの生活にいかなることが起きようとも、週の初めが訪れ、私たちに日曜日のひと日が与えられる。この当たり前とも思えるようなことでも、一旦立ち止まってその当たり前のことを黙想すれば、そこには何とも言えない嬉しさのようなものが生じてくる。そんな風になれたらと思いつつ、本日の聖書の言葉に聴きたいと思いました。
 
本日の旧約聖書と新約聖書を結ぶキーワードは、輝きであると私は受け止めました。主なる神から放たれる御顔の輝き、祭司ザカリヤによって歌われた賛歌に込められた、救いという朝日の輝き。そのどれもが、暗闇から徐々に明るんできてやがて東の空を赤く染めるあの輝きを、私たちは自分たちの神に、救い主イエスに見ることができるというのです。少なくとも私たちの先達たちは、新しく訪れる朝ごとに与えられる命を想い、命を与えてくださる神に感謝し、たとえうなだれていたとしても、この朝日の輝きによって、神の助けを待ち望んだのではないだろうか。そう思えてならないのです。
 
本日の旧約聖書である詩編80編20節にある「私たちを元に返し」という神への願いの言葉ですが、これは詩人が、神のもとに私たちを戻してください、私たちをあなたのもとで守り導いてくださいという意味でとらえることができますが、ローズンゲン原著に示されたドイツ語聖書によると、この部分は「私たちを慰めてください」という、より具体的な表現になっていることは、とても興味深いと思いました。神が放つ輝きに生きるというのは、つまり、神の慰めを受け、神の憐れみと慈しみをいただきながら、私たちが生きることができるのだ。そのように私たちを導いてくださる神がともにいてくださるのだと。変わることなく朝日とともにやってきた今日という一日もまた。
 
世界中で行われる主の日の礼拝、そして、安息の一日をそれぞれの場で過ごされる皆さんに輝きを与えてくださる神が、十分に皆さんを祝福してくださいますように。お祈りいたします。

28/01/2023

2023.1.28(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上17章45節
ダビデはそのペリシテ人(ゴリアテ)に言った。「お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私は万軍の主の名によって、お前に立ち向かう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章2節
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日のローズンゲンによって選ばれた聖書の言葉は、サムエル記上の17章です。本日の聖書の言葉には「そのペリシテ人」とありますが、それは巨人ゴリアテのことです。そのゴリアテと戦ったのは、後にイスラエルにして最も有名な王となったダビデであることは、皆さんもおそらくご存知のとおりです。本日の聖書の言葉は、そのダビデによってゴリアテに語られた言葉です。
 
イスラエル人とペリシテ人とのあいだに戦いが始まりました。サウル王率いるイスラエル軍に立ちはだかったのは、ペリシテ人の代表兵士であったゴリアテでした。身長が約3m、身にまとった鎧は約60kg。見るからに屈強で、それはイスラエル軍の兵士たちを恐れさせるものでした。
 
ゴリアテはイスラエル軍を挑発します。自分に戦い挑む兵士をひとり出せと。自分を殺すことができるならばペリシテ人はイスラエルの奴隷になろう。しかし、自分が勝てばお前たちイスラエルはペリシテ人の奴隷になるのだと。そして、恐れをなしているイスラエル軍を愚弄するにとどまらず、イスラエルの神をも侮辱したのでした。
 
そのようなゴリアテに、ダビデは立ち向かいます。しかし、恐れに取り囲まれた他のイスラエル兵士たちとはひと味もふた味も違った。それがダビデでした。ダビデは、見た目の強さや迫力、そこから発せられる脅しの言葉に屈することは決してなかったのです。剣や槍という凶器で戦うのではない。私は万軍の主の御名によって戦うのだと宣言しました。
 
ダビデは経験していました。自分がどうして神によって油注がれた者として選ばれたかということをです。サムエルが神に導かれて後継者を選ぶ際に、神は見た目の良さで選ばれるのではなく、心をご覧になる方であることをもって、サムエルを導きました。その結果、神はサムエルを通してダビデを選び、戦いの場にこうしてダビデは立たされているのです。
 
つまり、ダビデは神の姿勢を自分の姿勢としました。大切なのは見た目にどれだけ強くあることではない。主の力と助けによって生きることこそ、本当の強さなのだとダビデは確信していました。だからこそ、多くの恐れが取り囲むなかで、ダビデはゴリアテにそのような宣言ができたのでしょう。そして、神の助けによって、ダビデはゴリアテを打ち倒すことができたのです。
 
そのことを踏まえて、本日の新約聖書の言葉に触れますと、具体的なイメージを持つことができると私は受け止めました。この世に倣ってはいけないという言葉は、言い換えれば、この世界でまかり通っている基準というものが、神が私たちに指し示そうとしている姿勢に相通じるのだろうかという、私たちの識別が求められていることを示唆するものであると、私は受け止めました。
 
私の生活も、衣食住も、経済的なことも、人間関係も、牧師という職業をもって教会と隣人、社会に仕えることも、教会という組織をもって生きていることも、すべてこの世界のただなかで起こっていることですから、それはすなわち、この世界でまかり通っている基準によって、時には支配され、翻弄されながら生きていかなければならない現実があるのだと。それは紛れもない事実です。
 
しかし、そのような世界のなかで、やはり大切にしなければならないことがある。それは、私がいかに神の姿勢を深く知り、その姿勢によって生きるかということをです。どんなにそれがチャレンジングなことであっても、恐れを呼び起こすようなことであったとしても、その先にあることは、神が私のうちにあるさまざまな恐れやひるむ心をすべてご存知なうえで、究極の平和を与えてくださるのだと。そのことを信じたいのです。
 
ゴリアテに屈して奴隷状態を味わわなければならないということは、人間を窮地に陥れる価値観に支配されることによって、尊厳を得ることができない状態を意味しているのだと私は理解します。そうではなくて、人間を愛し、人間を大切にされることを第一の姿勢とした神の平和によって守られるということ。その価値観を大切に守りたいと願わされました。
 
今週も最終日を迎えました。一週間の日々を振り返りながら、神によって守られていることの幸いを想いつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一切に、そのような神の平和がともに豊かにありますように。お祈りいたします。

27/01/2023

2023.1.27(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編1編3節
(幸いな者)その人は流れのほとりに植えられた木のよう。
時に適って実を結び、葉も枯れることがない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙1章9,11節
パウロの手紙:
あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神を崇め、賛美することができますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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おととい、昨日と、ローズンゲンによって示された聖書の言葉は「義」について言及されたものでしたが、驚いたことに、本日も旧約聖書と新約聖書が「義」というキーワードによって結ばれています。
 
本日の旧約聖書である詩編1編3節は「その人は」という言葉から始まっていますが、その人とは、1節にある「幸いな人」であることが分かります。そして、幸いな人たちに相当するドイツ語聖書には「Der Gerechte」と書かれていました。「義人たちは」と訳することのできる言葉です。
 
そして、その義人たちはどのような者のことを指すのかというと、「悪しき者の謀に歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も唱える人」(1節後半~2節)とあります。悪しき者たちの対極にある義人の姿は、主の教えを自分の生き方とする喜びと、主が与えてくださる言葉の本質をとらえつつ、その教えを賛美するように大切にする者として描かれています。
 
聖書の言葉は、その解釈と運用によっては、カルト宗教のように人を痛めつける凶器ともなり得る。聖書が伝える教えに向き合うことが辛くなるほどに、私たちを苦しめ続ける聖書の言葉であったとしたら、私たちはどうしてそのような言葉を喜び、昼も夜も口ずさむことができるだろうか。そんなことを想いました。
 
考えてみれば、救い主イエスは世界に対して、律法の完成者として、その解釈と運用の正しい道を示されました。それを人に強要することなく、まず自分自身がその模範をお示しになられることで、律法の言葉の本質というものを私たちに与えました。それが「神の義に生きる者の幸い」であり、本日の旧約聖書の言葉につながっていくのだと、私は受け止めました。
 
私たちが聖書の言葉に聴いて、それに従うということは、すなわち「愛が豊かにされていくこと」であると、本日の新約聖書であるフィリピの信徒への手紙1章の言葉は語ります。愛とは神が与えてくださった愛であり、その愛が人間のあいだに広がりゆくときに、その言葉をも苦しみの材料としていたずらに用いられるのではなく、喜びが行き渡り、その喜びを分かち合うことができるような言葉となっていくのだと。
 
それが「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされ」ることの意味なのだと、私は思うのです。私たちがそのような実を携えて、今日という一日を歩むことのできる幸いを心から信じつつ、歩んでまいりたいと願います。皆さんの一日が、そのような幸いに包まれて、喜び歩むときとなりますように。お祈りいたします。

26/01/2023

2023.1.26(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編4編8節
あなたは私の心に
穀物と新しいぶどう酒の豊かな実りにまさる喜びを
与えてくださいました。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙14章17節
神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日のローズンゲンによって示された聖書の言葉をいただいた時、ふと昨日のローズンゲンの言葉がよみがえりました。イエスによって語られた山上の説教の一節、マタイによる福音書5章4節にはこうあります。
 
義に飢え渇く人々は、幸いである
その人たちは満たされる。
 
まさに「飢え渇く」という言葉に、私は引き戻されました。飢え渇き、それはまさに食べ物も飲み物も失われた状態が続いたときに起きる、私たちの生理現象です。もっとも、私たちの住む日本には、飢え渇きなるものが存在するのだろうかというくらい、飲み食いに困らない環境があるやに思われがちですが、突き詰めると、あながちそうであると言えない状況もあるようです。
 
最近「子どもの貧困」という言葉を耳にするようになりました。日本に住む子どもたちの7人に1人は「貧困状態」にあると言われています。この場合の貧困とは、経済的困窮を背景に教育や体験の機会に乏しく、地域や社会から孤立し、様々な面で不利にある状況のことを指すのだそうです。実際の飲み食いを超えた、人間が人間として生きるにあたって満たされるべき物事が、十分に与えられない状態が、今の日本には確かにあるというのです。
 
その貧困のひとつに、実際、十分な食べ物が与えられない状況のなかで暮らしている家庭もあります。だからこそ、こども食堂やフードパントリーなどの必要があり、多くの貧困が助けられている現実があります。私は、こういうところの現場で働いておられる方々に対して、ただ尊敬の思いを寄せるばかりです。
 
そのうえで、私は本日の聖書の言葉を通して黙想したいのは、そのような貧困の土台にあるのはいったい何なのだろうか、ということについてです。本日の聖句は、旧約も新約も、飲食に勝る喜びや平和、正義というものについて言及されていることが分かります。つまり、飲食という私たちが本来十分に与えられるべきものを通して、何を見ることができるのだろうか、そんなことを考えたいと思いました。
 
私たちの命が保たれるために、本来与えられるべきものが与えられず、貧困状態にあるというのは、文字通りの飲食もさることながら、私たちの心も飢餓状態、枯渇状態にあることを指すのではないだろうか。そんなことを思わされました。どんなに食べ物や飲み物に満たされていたとしても、心が満たされていない。よく聞かれる話です。空虚なまま今ある時を過ごさなければならないほどに、私たちの心はときに悩み、苦しみ、助けを必要としたくても、具体的にそのような手が差し伸べられることもない。孤独のただなかにある自分自身を見つけることができるかもしれません。
 
そんなときに、何によって私は満たされるのだろうか。本日の新約聖書に語られているのは、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」、つまり聖霊なる神が私たちの心を満たすと言及されているのです。聖霊なる神が、私たちの心を慰め、傷口を癒し、おだやかな心を与え、ご自分の正しさを与えることで、私たちの心に喜びが芽生えるように働いてくださるのだ。この手紙の筆者であるパウロは、私たちをも含む読者すべてに知らせました。
 
聖霊信仰という言葉があります。私たちはこの言葉をどのようにとらえることができるのでしょうか。私たちは聖霊信仰がもたらす成果に目が行くかもしれません。よく言われる賛美や癒し、異言や預言と言った類のことです。確かに、それらは聖霊信仰がもたらす実であることに間違いないでしょう。
 
しかし、私はその「土台」をしっかりと見据えたいのです。私たちの飢餓状態をどうにかすべく、神がご自分の言葉をもって私たちを満たそうと働いておられるという現実があってこその、私たちのあいだに具体的な神の働きがあるということを、私は心に刻みたいのです。
 
賛美するにしても、いくら賛美をしても心が満たされないとすれば、無理に賛美しなくてもいいのだと私は思います。それは、神が私たちの心にご自分の平和を満たそうと働いておられる時なのだから、その働きをじっくりと待ち、静かにしている時だって必要なのだと私は思うのです。飢餓状態で無理に動けば、その命は危険にさらされるからです。
 
聖霊の働きをじっくりと噛みしめ、自分自身の養いとする幸いが今日もここにあるのだと、ローズンゲンに示された聖書の言葉から、今日も感じ取っていきたいと願わされました。皆さんにとっての今日の一日も、聖霊がもたらす豊かさがともにありますように。お祈りいたします。

25/01/2023

2023.1.25(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言11章19節
正義は命に
悪を追い求める者は死に至る。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章6節
義に飢え渇く人々は、幸いである
その人たちは満たされる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日の旧約聖書と新約聖書を結ぶテーマは「正義」であると私はとらえました。正義とはなにか、そして正義はどこにあるのか。そんなことを改めて黙想させられます。
 
正義は、私たちの心で芽生え、そして養われるもの。そして、正義とは私たちの意思によって起こされるものである。おそらく、正義に対するこのような考え方を、否定する人は誰もいないのではないかと思います。しかし、その正義がどういうところから起きて、どのように用いられるかで、それはとても「厄介な」ものとなり得るものことを、私たちは痛感しているのではないでしょうか。
 
正義は、人を殺す力をも持ち備えてしまう。客観的に見て、利己的かつ凶悪に働く蛮行であったとしても、それを執行する当人からすれば、きわめて真っ当な、その人の「正義」に基づいて行われることがあるわけです。自分以外の何物が犠牲になってしまうようなことが、本当に「正義」なのだろうか。そんな問いが、私を突き付けます。
 
正義とは、自分自身が犠牲になることがあったとしても、他者の尊厳までも犠牲にしてしまうことがあってはならない。しかし、現実はそうはいかないのです。自分なりに正義を実行したら、他者の正義とぶつかってしまう。そして、お互いの尊厳が傷つけられ、汚されていく。正義とは本当に厄介なものだとつくづく感じさせられるのです。
 
そのようななかで、神の言葉が突き刺します。正義は命であると。私だけの命か、いや、すべての人にとっての命は、正義と密接な結びつきがあるのだと。では、その正義はどこから来るのだろうか。それは、命の源である私たちの神なのだと。神が人間をつくられたときに示された思いにこそ、正義が込められていることを私たちが本当に理解していなければ、正義など用いることができないのではないだろうか。そう考えさせられます。
 
神は最大限の愛をもって、私たちをご自分の姿のとおりにつくられました。私たちが神の御心を自分の心として生きることができるように、神は私たちの心の中で神の正義を芽生えさせ、聖書の言葉と聖霊の助けによって養い育ててくださるのです。最良の栄養と水、光をもって育てられた正義という植物は、豊かな実りをもたらすまでに成長するのだと。この実りこそ、正義によって誰もが喜ぶ世界であると、私は受け止めたいのです。
 
草木も、乾ききった環境のなかで少しでも水を吸い上げようと渇望する姿は、まさに神の正義をいただきたいと願う人の姿に重ね合わせることができます。義に飢え渇く者は幸いであるというイエスの言葉は、たとえ、現実の生活のなかで正義がさまざまな支障を人間関係のなかで生んでいるとしても、神が与えてくださる正義によって、誰もがそれを享受できるような世界を心から渇望するならば、神は必ず私たちに命の水を注いでくださり、私たちを幸いな者として養い育ててくださるのだと。そして、平和という果実を、私たちのあいだに実らせてくださるのだと。それが、イエスの言われる「満たされた」ということの意味なのだと。
 
私の正義を思う心がどこから来るのか。そんなことを確認しながら、神のもたらされる正義を振り返ることのできるような一日を、ともに営むことができますように。そのような営みこそが、私たちを幸いな者へと導いてくださることを望みつつ。皆さんの一日に、神の幸いが豊かにありますように。お祈りいたします。

24/01/2023

2023.1.24(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編91編9節
あなたは、わが逃れ場である主
いと高き方を住まいとした。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章1節
イエスは言われた。
心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日より黙想を再開いたします。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。この一週間、私は休暇のときを教会からいただき、ゆっくりと過ごすことができました。あっという間に過ぎた日々でしたが、体力・気力ともに充実してまいりました。ときに休養するのは、本当に大切なことだと改めて思わされた次第です。
 
今回、私の休暇中のメインとなったのは、1月19日から21日にかけて琵琶湖畔で開催された「年頭アシュラム」への出席でした。御言葉と黙想を大切にするこn集会で、聖書の言葉を黙想する機会にたっぷりと浸かることができました。毎日ローズンゲンによって与えられた聖書の言葉を黙想する機会が私にはあるわけですが、それでも、アシュラムのような場で、日曜から離れて、立ち止まって、自分の生活を振り返りながら、聖書の言葉が与える響きに耳と心を傾けることが、生きるに無くてはならないものであることを、改めて実感するひと時でした。
 
そんな思いを新たにしながら、本日の聖書の言葉を開きました。そして、その言葉の数々もさることながら、本日目に留まったのは、ドイツ語原版には記載されている「第3のテキスト」と呼ばれる、詩人による詩や信仰者による祈りの言葉にある一文でした。本日は、オトマール・シュルツさんという、ドイツで牧師を務められた方の祈りの言葉ですが、このような一文から始まっています。
 
不安と恐れが私のうちに募るとき、あなたは私に新たな勇気を与えてくださいます。
 
ここでいうあなたは、シュルツ牧師を「友」と呼んでくださる主イエスに他なりません。たとえ四面楚歌のなかで孤独に感じるような出来事が私を襲ったとしても、イエスは私とともにいてくださり、友として寄り添ってくださり、私に生きる力と勇気を与えてくださるのだ。シュルツ牧師の希望が、この祈りの言葉に込められているのだ。そんな思いにさせられました。
 
イエスは、今や自分たちから遠く離れてしまうのはないかと、不安におびえる弟子たちに言われました。心を騒がせてはならない。神を信じ、私を信じなさい、と。どんなに屈強さをアピールしても、それはやせ我慢に過ぎない。私たちは大なり小なり、見えぬことへの不安を抱えながら生きている。そんな存在であることを思わされます。
 
しかし、そんな不安に駆られ、信用できるものも疑ってかかってしまうくらいに、疑心暗鬼にあるときこそ、私たちに生きる勇気を与えてくださる方は、実は私の目の前にいてくださるのだと。イエスが、心を騒がせてはならないという言葉を弟子たちに投げかけられたとき、実は弟子たち当人も、自分が恐れに取り囲まれていることすら気づけないくらい、恐怖と不安のなかにあったのかもしれません。
 
そんなときに、イエスから発せられたひと言こそ、弟子たちひとりひとりに現実を自覚させたのかもしれません。恐れと不安にあるときにこそ、私がいるではないか。私があなたに新たな勇気を与えるのだから。そんな主イエスが目の前にいて。共に私と歩んでくださる。そのことを信じてくださいと、イエスが今日も私たちに語り掛けてくださるのです。
 
どうか、今日の一日もまた、そのようなイエスの御手にひかれながら、新しく、また希望に満ちあふれた一日を営むことができますように。お祈りいたします。

23/01/2023

2023.1.23(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編25編20節
私が恥をさらすことがないようにしてください。
私はあなたのもとに逃れます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章25節
雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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みなさん、おはようございます。
 
1月17日(火)より、本日(1月23日・月)までの一週間、ローズンゲンは、聖句のみを掲示して、黙想はお休みさせていただきます。
明日24日(火)より再開いたしますので、どうぞそれまでの間、聖書の言葉からみなさんそれぞれが黙想してくだされば幸いです。
 
どうぞよろしくお願いいたします。
今日も皆さまの一日に、神様の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。
 
齋藤 篤

22/01/2023

2023.1.22(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書10章6節
主よ、あなたのような方はいません。
あなたは大いなる方
あなたの名は偉大で、力に満ちています。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一3章11節
イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできません。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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みなさん、おはようございます。
 
1月17日(火)より、来週月曜日(1月23日)までの一週間、ローズンゲンは、聖句のみを掲示して、解説はお休みさせていただきます。私事によるものですが、24日(火)には再開したいと考えておりますので、どうぞそれまでの間、聖書の言葉からみなさんそれぞれが黙想してくだされば幸いです。
 
どうぞよろしくお願いいたします。
今日も皆さまの一日に、神様の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。
 
齋藤 篤

21/01/2023

2023.1.21(土) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨブ記1章21節
私は裸で母の胎を出た。
また裸でそこに帰ろう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙13章14節
主イエス・キリストを着なさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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みなさん、おはようございます。
 
1月17日(火)より、来週月曜日(1月23日)までの一週間、ローズンゲンは、聖句のみを掲示して、解説はお休みさせていただきます。私事によるものですが、24日(火)には再開したいと考えておりますので、どうぞそれまでの間、聖書の言葉からみなさんそれぞれが黙想してくだされば幸いです。
 
どうぞよろしくお願いいたします。
今日も皆さまの一日に、神様の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。
 
齋藤 篤

20/01/2023

2023.1.20(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
レビ記25章14節
あなたがたが同胞に土地を売ったり、同胞から買ったりする場合、互いに損失のないようにしなさい。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二8章21節
私たちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大に振る舞うように心がけています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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みなさん、おはようございます。
 
1月17日(火)より、来週月曜日(1月23日)までの一週間、ローズンゲンは、聖句のみを掲示して、解説はお休みさせていただきます。私事によるものですが、24日(火)には再開したいと考えておりますので、どうぞそれまでの間、聖書の言葉からみなさんそれぞれが黙想してくだされば幸いです。
 
どうぞよろしくお願いいたします。
今日も皆さまの一日に、神様の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。
 
齋藤 篤

19/01/2023

2023.1.19(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨブ記28章24節
神は地の果てまで目を凝らし
天の下をことごとく見ておられる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書18章14節
これらの小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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みなさん、おはようございます。
 
1月17日(火)より、来週月曜日(1月23日)までの一週間、ローズンゲンは、聖句のみを掲示して、解説はお休みさせていただきます。私事によるものですが、24日(火)には再開したいと考えておりますので、どうぞそれまでの間、聖書の言葉からみなさんそれぞれが黙想してくだされば幸いです。
 
どうぞよろしくお願いいたします。
今日も皆さまの一日に、神様の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。
 
齋藤 篤

18/01/2023

2023.1.18(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記15章13節
あなたは贖われた民を慈しみをもって導かれた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一3章18節
キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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みなさん、おはようございます。
 
1月17日(火)より、来週月曜日(1月23日)までの一週間、ローズンゲンは、聖句のみを掲示して、解説はお休みさせていただきます。私事によるものですが、24日(火)には再開したいと考えておりますので、どうぞそれまでの間、聖書の言葉からみなさんそれぞれが黙想してくだされば幸いです。
 
どうぞよろしくお願いいたします。
今日も皆さまの一日に、神様の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。
 
齋藤 篤

17/01/2023

2023.1.17(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編119編11節
心の中にあなたの仰せを納めています
あなたに罪を犯さないために。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章14節
あなたに委ねられた良いものを、私たちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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みなさん、おはようございます。
 
本日(1月17日)より、来週月曜日(1月23日)までの一週間、ローズンゲンは、聖句のみを掲示して、解説はお休みさせていただきます。私事によるものですが、24日(火)には再開したいと考えておりますので、どうぞそれまでの間、聖書の言葉からみなさんそれぞれが黙想してくだされば幸いです。
 
どうぞよろしくお願いいたします。
 
齋藤 篤

16/01/2023

2023.1.16(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編71編23節
私の唇は喜び歌い
あなたに贖われた私の魂はあなたをほめ歌います。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙1章11~12節
光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかる資格を、あなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝するように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日の旧約・新約聖書を貫くキーワードは「喜び」です。聖書にしばしば登場する言葉ですが、では、その喜びとは一体何だろうか。そんなところに注目しながら、あらためて喜びについて黙想してみたいと思いました。
 
これは私がいつも思わされていることなのですが、教会という場では、しばしば喜びということが強調されていて、「いつも喜んでいなさい」という聖書の言葉(テサロニケの信徒への手紙一5章16節)なんかもあったりして、どんなことがあっても、いつも喜んでいなさいと勧められることがあったりするわけです。
 
しかし、私たちは感情的に、喜ぶことができない時も当然あるわけであって、そんな時に喜べない自分自身の姿が不信仰なのではないだろうかと、なおも自分自身を責めてしまうようなことがないだろうか。そして、知らず知らずのあいだに、教会が聖書の言葉を使って、喜ぶことを強要していないだろうか。そんなことを思わされるのです。
 
表面的に喜びをつくろったところで、それが聖書の言う喜びにつながるとはどうしても思えないのです。私自身、自戒を込めて申し上げるならば、聖書の言葉を使って「喜びの同調圧力」というものを人々に迫っていけないことを痛感させられます。では、聖書の言う喜びとは何なのだろうか。それは「神がおられるということの事実」なのではないか。私はそう受け止めたいのです。私たちが喜ぼうが喜べなかろうが、神は私たちの姿を喜びをもって見守ってくださっているのだと。
 
神は私たちのことを愛してくださるというのは、同時に私たちの存在そのものを喜んでくださっていると言い換えることが可能なのだと思うのです。私たちが優秀だから、いつも前向きに積極的に生きているから喜ばれる、逆に私たちが喜べないような状況であるがゆえに、神がそのような私たちを喜ばないということではないと信じたいのです。
 
そして神は、私たちがどんな状況にあったとしても、ご自分の喜びをもって私たちと共に生きるという働きをなしてくださっているのだと。その喜びのかけらを私たちが少しでもいただけるのであれば、それが慰めとなり、励ましとなり、私たちが神の喜びのなかに包まれて生きていることを実感できるように、神が働いてくださるのだと。喜びとはそういうものなのだと、私は受け止めたいのです。
 
喜びとは、私たちの側がカラ元気を装ってでも、明るく元気に楽しく振舞うことで生じる見た目の雰囲気ではなく、神が静かに、しかし力強く、忍耐を思いをもって、私たちがこの世界で生きていくことのできる源なのだと。神が与えられる喜びはとても地味で、にぎやかなものではないかもしれないけれど、しかし、確実に私たちを生かす源なのだと。
 
私たちに命を与え、生きるという資格を与えてくださっている神が、私たちが生きているという事実だけを見て、喜んでくださっている。この言葉に心が動かされたときに、私たちは初めて自分の唇をもって、神を賛美することができるのだと。決して喜びの同調圧力を人間が振りまいて、形ばかりの喜びをつくり上げることのないように、肝に銘じたいと思わされました。
 
神が私たちに御顔を向けることで明らかにされるご自分の喜びを、少しでも受け取ることができますように。ちょっとしたことで決して消え去ることのない喜びというものが、私たちを生かしてくださいますように。祈りつつ、一日を歩んでまいりたいと思います。喜びが失われているところにこそ、神がともなってくださることを信じつつ、皆さんの一日に神の守りがありますように。お祈りいたします。

15/01/2023

2023.1.15(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言21章3節
正義と公正を行うことを
主はいけにえよりも喜ぶ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章26節
霊のない体が死んだものであるように、行いのない信仰もまた死んだものです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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私は、今日の聖書の言葉を目にしたときに、とても驚かされました。なぜならば、本日私が働く仙台宮城野教会でおこなう説教題が「正義はどこにあるのか」というものだからです。つまり、人間の正義はどこにあるのかということを、聖書の言葉から取り次ごうとする前に、本日のローズンゲンの言葉が「正義と公正をおこなうこと」について言及した、箴言の聖句だったというわけです。
 
では、その正義とは、公正とはどこにあるのだろうか。私は説教の準備をするにあたって、このことを日々黙想させられました。先週も、本当にさまざまな「正しさ」というものが、世間を、そして私のなかを通り過ぎ、また駆け巡りました。人間は、自分が正しいと信じたことに従って、日々の営みをするわけですから、当然のことと言えます。
 
しかし、私のなかを通過したいかなる正しさをもってしても、究極的に完璧な正しさなど、私の側からつくり出すことはできないのだと痛感させられました。正しいと思ってしたことであっても、思い返せば、ああ、あの時こうしていれば良かったとか、こういう選択をするべきではなかったなど、反省や後悔することが多々あるのです。
 
しかし、そのような失敗は失敗ではないのだと。なぜならば、そのことを通して、神が言われる正義と公正とは何かについて、改めて考えさせられる機会が与えられたのだから。そのように受けとめられたら、神の正しさによって生きるという決意が新たにさせられるような気がしてならないのです。失敗とは、いつまでも自己を正当化し続ける態度のことを指すのではないだろうか。そう思ったのです。
 
私は、究極的に正しい御方である神がおられ、その正しさを私たちに生き方をもって示された救い主イエスから知り、学び、自分の生き方とすることができます。昨日、カルトに関する発題を、ある集会でしたときに「解釈と運用」次第で、健全な行動ができれば、カルト的な行動にもなる、という類の話をしました。
 
その後、来場者の方からこんな質問を受けました。「解釈と運用の基軸になるのはなんですか?」と。私は答えました「イエス・キリストそのものだと思います」と。私たちは正義を自己生産することはできないけれど、究極の正義であるイエス・キリストという存在を知らされているのだと。この御方の弟子として生きることは、イエスが示された正義と公正をいただいて生きることなのだと、改めて思わされました。
 
私たちはイエスの正義をいただいていたとしても、解釈しだいで間違って運用してしまうこともあるでしょう。しかし、そのことを通して、よりイエスの正義というものについて、深く考えさせられる機会が与えられることを考えれば、運用すること、つまり「行うこと」は、その道をたどるために必要な営みなのだと。本日の新約聖書に示された「行いのない信仰」というのも、イエスが中心にある私たちの行いというものを、私たち一人ひとりに気づかせる言葉なのだと受け止めました。
 
今日から始まる新しい一週間もまた、イエスの御心が私たちの行いを豊かにする、そんな日々でありますようにとお祈りいたします。主の御心が、天になるごとく、私たちの生き方を通して地でも行われますように!

14/01/2023

2023.1.14(土) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編139編16節
胎児の私をあなたの目は見ていた。
すべてはあなたの書に記されている
形づくられた日々の
まだその一日も始まらないうちから。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章25節
自分の命のことで思い煩うな。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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自分の命のことで思い煩うな。
本日の新約聖書の言葉である、マタイによる福音書6章25節の言葉は、イエスによって語られた山上の説教における一節です。ローズンゲンに示されている部分は聖句の一部ですが、詳しくはこのようなことがイエスによって語られていることが分かります。
 
自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
 
命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
命を保つためには食べ物が必要だし、身を寒さや暑さから守るためにも衣服はやはり必要なものです。実際に、明日食べるものがなければ命が絶えてしまうような現実にさらされている方々がおられることも事実です。一枚の毛布が寒さから命を守るときに、それすら無いことに思い悩んでいる人々がいることを思えば、「思い煩うな」という言葉を目の前にして、私たちはその言葉に、心から受け入れて歩むことができるのだろうかと、それこそ思い煩ってしまうのではないだろうか。それが私たちの現実なのだと。
 
そのような現実を前にして、では私はどうすればよいのだろうか。本日の聖書の言葉は改めて神の言葉をどのように受け入れることができるのだろうかと、深く考えさせられます。
 
本日くじによって選ばれた旧約聖書の言葉は、神は私を胎児である頃から、いやそれよりも前から私という存在をすべてご存知であるという告白の詩です。この詩の示すところとはいったい何か。神が私たちの命を与えてくださる方なのだから、その命がどのように用いられることが祝福につながるのか、神はすべてご存知なうえで私たちと共に生きようとされておられるのだと、私は受け止めました。
 
つまり、命を保たせることで思い煩ってしまうという世界の現実を踏まえて、その根源とは一体何なのだろうかと考えたときに、それは、私たち人間の側にある「命の誤用」から来るのではないだろうか。そのように感じたのです。
 
食べ物のことで思い煩うことは、それすなわち貧困と大きく関係しているとも言えるでしょう。貧困の原因は富む者が富み、貧しくされる者が貧しくされるような社会システムにあって、そのような社会システムはまさに人間によってつくり上げられているわけです。まさに、私たち人間の命の誤用によって、貧困が起き、飢餓が起き、そして命の心配があるのだと。それは着るものについても、同じことが言えるのだと私は思うのです。
 
つまり、イエスが「思い煩うな」と言ったのは、思い煩ってしまうような現実があるなかで、そんなこと心配するなよ、神様が全部守ってくださるのだからというメッセージにたどり着く前提として、神様が全部守ってくださるというメッセージを無視し、もしくは利用して、人間が自分の欲のために人が受けるものまで搾取することで貧困をつくり出し、思い煩うような世界を導いてしまっているのではないか。そんな警告の言葉のようにも思えてならいのです。
 
どんなに神が命を与え、それを守ってくださっていても、私の心が命の用い方をミスリードしてしまっているのでは、それはあまりにももったいない話なのだと。だからこそ、思い煩いの原因をつくっている私たちの態度というものがどのようなところにあるべきなのかを、今日も与えられた命の時間を費やすなかで、是非黙想しつつ歩んでいきたいと願わされました。
 
一週間も終わりを迎えます。この7日間にあった出来事を振り返りながら、命を与えてくださった神に感謝しつつ、週の初めを迎えるための備えをすることができますように。皆さんの一日が神にあって幸いなものでありますように。お祈りいたします。

13/01/2023

2023.1.13(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書44章8節
恐れるな、おびえるな。
昔から私はあなたに聞かせ
告げてきたではないか。
あなたがたは私の証人。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章20節
神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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神の証人・キリストの使者。
本日選ばれた聖書の言葉に示されているのは、私たちがキリストによってこの世界に遣わされて、神を証しする者とさせられているというメッセージです。そう考えますと、この言葉はとても重みのあるものだと強く感じさせられたというのが、本日の聖書の言葉から受けた第一印象でした。
 
さて、私自身キリストから遣わされた使者という認識と自覚というものがあるだろうか。そんなことをあらためて考えさせられます。神がくださる良いものを存分に受けているという認識はあるのです。しかし、その神がご自分の良いものを私だけが独り占めするのでなく、その良いものを分かち合いなさいと。そのことを証しする者として遣わしておられるのだと。少なくとも本日の聖書の言葉は、そのことを明確に告げていることがわかります。
 
自分のことを伝えてくれと誰かにお願いするときに、お願いする側にとってはお願いする人に対して、よほどの信頼が無い限り、お願いすることはないだろうと思うのです。そういうことを考えますと、私たちにご自分を証しするように託しておられる神は、私たちに対して深い信頼の念を抱いておられるということを想像するのです。
 
私は果たして、神の信頼に足る人物なのだろうか。そんなことを考え始めたら、とても自分はそんな存在ではないことを思わされます。信頼されるというのは、そこに込められた期待とか、もし失敗したらどうしようとか、そんなことも含めて考えてしまいますから、それは結構なプレッシャー(重圧)だったりするのが、この世界の現実なのかもしれません。
 
しかし、神は本日のイザヤ書の言葉にもありますように。神から信頼を受け、ご自分の証し人として生きることに「恐れるな、おびえるな」と告げておられるのです。これは自信を持てという意味ではありません。私があなたと一緒にいて、あなたを全面的にサポートし、助けるのだから、安心して証人としての人生を送りなさい。たとえその証しがつたないと思えたとしても、神が私と共におられる。このひと言だけで十分なような気がするのです。
 
先日、ある医師の方と夕食を共にしました。その方は小学生時代、同級生に牧師のご子息がおられたのだとか。その同級生のお宅は、山のふもとの真っ暗なやぶの中を突き抜けた先にあったそうなのですが、日も暮れると、その道を通るのはとても怖さを覚えるようなところだったのだそうです。怖くないのかと、その方は同級生である牧師のご子息に尋ねたんだそうです。その時に返ってきた言葉が、「神様がいるから大丈夫!」のひと言だったのだそうです。
 
その医師の方はおっしゃいます。子ども心ながらに、信仰ってすごいんだなと。医師になって人の命を預かる仕事をして、信仰がその人を支えることを実感することがたびたびあるらしいのですが、そのたびに、少年時代のその出来事を思い出すんだそうです。ちなみに、その牧師のご子息という方は、やがて牧師となって、現役の神の証し人としてその日々を過ごしておられます。
 
神の信頼を受け入れること。それすなわち、本日の新約聖書の言葉にある「神の和解を受け入れる」ことなのだと思わされました。私たちの資質いかんにかかわらず、神は私たちを信頼して、ご自分の証し人・使者としてくださるのだと。このことを大きな励みとして、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの新しい一日に、皆さんを信頼してくださる神が、ともにおられることの幸いを与えてくださいますように。お祈りいたします。

12/01/2023

2023.1.12(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記10章12節
イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。あなたの神、主を畏れ、主の道をいつも歩み、主を愛し、あなたの神、主に、心を尽くし、魂を尽くして仕えることではないか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章5節
神の言葉を守るなら、その人の内に神の愛が真に全うされています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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神の言葉を守るなら。
本日は、新約聖書・ヨハネの手紙一2章5節の言葉に注目してみたいと思います。神の言葉を守るとは、具体的にどういうことなのだろうかということをです。
 
私たちが「神の言葉を守る」と言えば、どういったことをイメージするだろうか。そんなことを考えますと、聖書の言葉をルールブックのように、法律の言葉のように遵守するといったようにとらえる向きがあるのではないだろうか。そんなことを思わされます。しかし、本日はあえて、神の言葉を守るということの意味は、本当にそのことを意味するのだろうか。そんなことを思わされます。
 
神の言葉とは何か。私はヨハネによる福音書の冒頭にある「はじめに言(ことば)があった」という一文に注目したいのです。この「言」こそ、私たちの救い主にしてまことの人、そしてまことの神であるイエス・キリストを指すわけですが、神の言葉とは、文字に書き記された聖書の言葉も指すことながら、それそのものがイエス・キリストそのものを指し示し、表現する言葉として、私はそれを受け止めたいのです。神の言葉とは何か、それはイエス・キリストそのものである、と。
 
ですから、神の言葉をいただいた者に求められているのは、その言葉に示された文字を忠実に遵守する私たちの行動よりも先に、言葉、つまりイエス・キリストが生涯をかけて私たちに示された「精神」というものを大切に握りしめることから始まるのだと。その精神があって、精神の意味を問うて、はじめて私たちの言動に反映されていくものなのだと、私は受け止めたいのです。
 
実際に、イエスは地上での宣教のあいだ、律法に込められた精神を忘れ、文字面だけでそれを厳格に守り抜こうとした律法学者やファリサイ派と呼ばれる人々に対して、律法の神髄・本質というものを示され、そして実践されました。まさに、本日の旧約聖書の言葉が指し示している「主があなたに求めておられること」に他なりません。
 
そういう意味で言えば、私たちは聖書の言葉を通して、神の言葉そのものであるイエス・キリストの生涯と精神というものをじっくりと知ることができます。イエスが何をされたのかの本質を私たちが理解し、大切にしようとするところには必ず、神の愛が全うされるのだと、本日の新約聖書の言葉には示されています。
 
とどのつまり、神の言葉=イエス・キリストの中心にあるのは、神の愛(アガペー)であると。このアガペーの愛を私自身の中心に据えたときに、私は与えられた聖書の言葉をどのように自分の生き方とすることができるのだろうか。そんなことを黙想させられます。
 
確かに神の愛・アガペーは、人を慈しみ、自分の利得を差し置いてでも働く愛ですが、時にはその愛がある種の厳しさへと揺り動かされることもあります。それがどのような形で愛が示されたとしても、大切なのは、他者に苦痛を味わわせ、いたぶるための道具として、神の言葉を利用してはならないのだということでしょう。それが、神の言葉を守るという意味を考えるうえで、私たちに求められる態度に大きく影響するのだと、私は本日の聖書の言葉を通して受け止めたいのです。その中心は神の愛であり、イエス・キリストそのものなのだと。
 
今日も神の言葉であるイエス・キリストが私たちに与えらえていることを思う時に、その言葉を大切に握りしめながら、大切に守ることができますように。握った手には、神の愛が豊かにあふれるような一日でありますように。お祈りいたします。

11/01/2023

2023.1.11(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編6編10節
主が私の願いを聞き
主が私の祈りを受け入れてくださる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章6節
あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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隠れたことを見ておられる父
 
私は、本日の聖書の言葉のなかで、このひと言に突き刺さるものを感じました。祈りという、私たちには決して見ることのできない空間のなかでなされる神との交わりのなかで、神が私たちの心をもすべてご存知なうえで、私たちの祈りというものを聴いてくださる方であることを、あたらめて考えさせられました。
 
私自身、祈るときに純真な心や思いをもって神に向くことができないときが多くあります。祈っているうちに、心の中にある雑念のようなものが支配することがあるのです。自分を憎んでいる者ののために祈りなさいという、イエスの言葉に従って祈ろうとしても、その祈りの言葉が嘘くさく思えることもあります。まさに、私の心にうちに隠していることまで、神にはすべて見抜かれていると思ったうえで、神に祈りの言葉をぶつけることがしばしばなのです。
 
しかし、祈りとはそういうものなのだろう。私は神を御前にして、何も恰好つける必要など全然ないと思うのです。美辞麗句を並べたとて、心の中をすべてご存知である神が私の祈りに付き合ってくださるのであれば、自分の今ある、素直な気持ちというものをありのままに神に聴いてもらったほうが、神はそういう祈りに応えてくださるのではないかと感じさせられています。
 
本日の新約聖書の言葉はイエスによって語られた山上の説教の一節で、いわゆる「密室の祈り」の重要性というものを教えてきた根拠となる聖書の言葉です。しかし、この「密室」とは何かと考えたときに、それは文字通りの密室、つまり誰にも見られないところでいう意味もさることながら、私の心という「密室」をも指しているのではないだろうか。そのように私は受け止めました。
 
私の心は誰にも知られることのない密室と言えるでしょう。他者には見られることのない私の密室です。しかし、その密室をただひとり、ご覧になることのできる方が私とともにおられるのです。それが、私たちの祈りを聴いてくださる神なのだと。密室の祈りを聴いてくださり、その祈りに報いてくださる神がおられるという本日の新約聖書の言葉は、私の心をすべてご存知である神のことを、私たちに明らかにしているのだろうと、私は信じ、受け止めたいのです。
 
神にこんなことを知られてしまって良いのだろうかと思えるような私たちの心のうちを、包み隠さず神に祈るときに、神はそういう祈りに込められた私の思いに、必ずなんらかの形で応えてくださるのだと。たとえそれがよこしまな思い、憎しみやうらみを込めた思いのなかで祈る祈りでも、神は必ず聞いてくださる。そして、神が一番良いと思える方法を通して、私の心にそのことを明らかにしてくださるのだと。
 
私の祈りを受け入れてくださるという本日の詩編の言葉は、私たちの要求通りに神がそれを叶えてくださるということではなく、私たちの祈る時に起きるさまざまな負の感情すらも、神はすべて受け入れてくださったうえで、神が私にとってのベストというものを提示されることで、祈りに応答されるのだと私は受け止めたいし、そういうところから支えられた祈りというものを、神に打ち明けていきたいと願わされました。
 
今日も、御言葉に聴き、黙想し、祈るひと時が与えられたことを感謝しつつ、そういうところから一日を生きる活力というものをいただいてまいりたいと思います。皆さんの祈りに込められた心の奥底までもご存知である神が、皆さんの一日を豊かにしてくださいますように。お祈りいたします。

10/01/2023

2023.1.10(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記3章11~12節
モーセは神に言った。「私は何者なのでしょう。この私が本当にファラオのもとに行くのですか。私がイスラエルの人々を本当にエジプトから導き出すのですか。」
すると、神は言われた。「私はあなたと共にいる。」
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書10章16節
イエスは言われた。
「見よ、私があなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである。だから、あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように無垢でありなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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私はあなたと共にいる。
本日の旧約聖書である、出エジプト記3章12節において、神はモーセに対してこのひと言を告げています。まさに聖書全体のテーマと言っても言い過ぎでない、神は私たちと共におられるという言葉をです。
 
本日の聖書の言葉に続く3章14節で、神はご自分の名前について『私はいる』と告げておられます。多くの聖書は『私はある』と日本語で訳されていますが、私はこの訳し方に何となくぎこちなさを感じておりました。ですから、聖書協会共同訳で今回このような訳となったのは、これまでの違和感のようなものから解放されたような気がしています。そう。神はご自分の名前を通して、私たちと共にいてくださることを体現されておられます。そして、神の愛というものは『共にいる』ところから、すべてが始まっているのだと、私は受け取りたいのです。
 
さて、本日の旧約聖書の言葉は、神がモーセを、イスラエルの民をエジプトから脱出させるためのリーダーとして召し出す場面での一節です。かうてモーセは、エジプト王族のひとりとして暮らしていましたが、苦役のなかにあった同胞イスラエルの民が、エジプトの役人によって痛み付けられているのを見ては耐えきれず、その役人を殺してしまいます。しかし、そのモーセの行動が裏目に出てしまいます。イスラエルからそのことでかえってうとまれ、王ファラオはモーセを殺すよう命じます。モーセは殺されるのを恐れて、遠くミデヤン地方(現在のサウジアラビア)まで逃げのびて、羊飼いとして生活していたのでした。
 
そこに、神の招きがありました。エジプト人によって苦役を受けていたイスラエル人のうめきと叫びを、神が聴かれたからです。神はご自分の民イスラエルと共にいることを、ご自分の御業によって明らかにされる。これが出エジプトに至る神の動機です。そのために、神はモーセをお用いになられようとされますが、モーセは王と同胞に対して恐れを抱いていましたから、この私がどうして神に招かれるのかと思ったのではないだろうか。私はそう思うのです。
 
恐れゆえに、一歩前に踏み出せない状態が私を襲う時に、しかし、どうしても前に進まなければならない状況のもとにさらされると、「神は私に何をさせようとしておられるのか」と訴えたくなるときがあります。そんな時に神は、「私はあなたと共にいる」とひと言だけ、私に告げられる。そして、私が歩くことができるように、具体的に道を指し示してくださるのだ。モーセが神と共に歩んだ荒れ野の40年の出来事から、学べることなのだと改めて思わされます。
 
確かに、モーセがイスラエルの民とともに歩んだ40年の道は、歩きやすく快適な道のりではありませんでした。荒れ野のなかをまさにさ迷い歩く日々を過ごさなければなりませんでした。神とともに歩むというのは、禍(わざわい)から100%解放されて生きることを保証するものではありません。しかし、神が「私はあなたと共にいる」と約束し、そのことを危機と思えるようなところで具体的に明らかにしてくださるからこそ、苦しい道のりをも心を平安にして歩むことが可能とさせられるのだと。
 
まさに、本日の新約聖書においてイエスが弟子たちを宣教の道へと遣わすときに、その道のりは狼の群れのなかに放り込まれるようなものだけれども、神がご自分の知恵と純真さをあなたがたに与え、あなたがたと共におられるから、安心して宣教の道のりを歩みなさいと、弟子たちに告げられるイエスの思いに相通ずるものを感じずにはいられません。
 
私たちも、今日という一日が始まりました。その道のりはどのようなものか、私たちには想像もつきません。恐れのなかを歩まなけれなならないこともあるかもしれません。しかし、それでも、いや、だからこそ神は私たちと共にいてくださる。このひと言に支えられながら歩んでまいりたいと思います。共にいてくださる神が、皆さんに平安を与えてくださいますように。お祈りいたします。

09/01/2023

2023.1.9(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記23章1節
悪人に加担して、悪意のある証人になってはならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章8節
きょうだいたち、すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判のよいことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日の旧約聖書の言葉は、いわゆる法廷の場において、どのような態度が求められるかについて言及された、モーセ律法の一節です。悪人に加担をし、悪意のある証人となってはいけない。まことにその通りです。そして、まさか自分が悪意に満ちた証人になるなどありえない話だ。私たちは誰でもそのように思うのではないでしょうか。
 
最近、このようなことがありました。ある人とある人とのあいだにトラブルが生じました。どちらも自分自身の被害性を訴えています。どちらの言い分を聞いても、とても嘘をついているようには思えないのです。しかし、事実はひとつしかありませんから、最終的には第三者の判断によって、何が事実であるかを判定しなければなりません。結果として、何が事実で何が事実でないかについての冷静な判断がなされました。
 
しかし、その判断に対して、双方は納得がいきませんでした。引き続き双方が自分の「真実」を訴え続けている。そんな出来事です。
 
事実はひとつしかありませんが、しかし、自分にとっての真実が、イコール事実とは限らない。客観的に見てどんなに事実ではなかったとしても、その人にとっての印象や感情、経験などがあいまって、その人にとっての真実となり得てしまうのです。そういう真実は結果として、無意識の虚偽となってしまうのだと、つくづく感じさせられました。
 
さて、問題なのは「無意識の虚偽」を私が担ってしまうときに、私は悪くないのでしょうか。私は、本日の旧約聖書に書かれた「悪人への加担」「悪意のある証言」とは、そういうもののことを指すのではないだろうか。そのように思ったのです。別に悪気はない、それが真実だと思って、良かれと思ってしたことが、結果として重大なミスリードとなってしまった。それは結果としてそのように自分自身を導いてしまったことに対して、真摯に向き合うことが必要なのでしょう。これは、最近私が経験したことを振り返って、そのような思いにさせられていましたので、本日の旧約聖書の言葉は、実にグサリとくるひと言だと感じたのでした。
 
私は思います。事実を真実なものとするには、どうしたら良いのだろうかと。私自身の真実を真実としないこと。真実なのはただひとつ。私たちの神にあることを、いかに謙虚に受け止めることができるかというところにかかっているのだろうと、本日の新約聖書の言葉を通して、あたらめて感じさせられました。
 
本日の新約聖書の言葉である、フィリピの信徒への手紙4章8節で言及されている「すべて真実なこと」ですが、ここで言われている真実とは、イエスが「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章8節)の「真理」と同じ言葉が用いられています。つまり、真実とは、イエス・キリストそのものであると言えるでしょう。私の真実ではなく、キリストの心を自分自身の心、つまり生き方の根幹としようと心に決めて日々を営もうとするならば、私たちは本日の聖書の勧め通りに、真実を心に留めることを大切にできるのだと感じたのです。
 
私の真実をキリストの真実にすり替え、引き寄せるのではなく、あくまでイエスの真実に耳と心を傾けるための営みを、今日も聖書の言葉を通じていただくことができるのを感謝しました。イエス・キリストの真実が私たちのあいだに宿るときに、そこには神が与えてくださる平和と祝福が豊かにあることを信じつつ、今日という一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日に、そのような平和と祝福がともにありますように。お祈りいたします。

08/01/2023

2023.1.8(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記15章10節
彼に与えるときに惜しんではならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書6章38節
与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日選ばれた旧約聖書の言葉である申命記15章10節に書かれている「彼」とは誰のことでしょうか。それを知るためには、私たちは15章に書かれていることに注目することができます。申命記15章の冒頭から言及されているのは、「負債の免除」に関する律法規定です。
 
それによると、隣人や同胞に対して貸した債務については、7年ごとに来る安息年の終わりに帳消しにすることと、たとえ負債免除があったとしても、貧しい兄弟のために貸すことを物惜しみするようなことがあってはならないと言った内容のことが記されています。
 
つまり、彼とは債務を負わなければいけないほどに、与えられることを求めている人のことであることがわかります。そのような求めに対して、どのような態度をもって接することが神の民としてふさわしいことなのか。そのようなことを考えさせられます。
 
実は、本日の聖句である10節には続きがあります。
そのことで、あなたの神、主は、あなたのすべての働きとあなたのすべての手の業を祝福してくださる。
とあります。つまり、貸す側にとって、自分の財産が目減りするのではないかと心配する必要はどこにもないのだよと、この律法の言葉は語っているのです。貸した分に相当する、いやそれ以上の祝福というものを、神は与えてくださるのだからと。かえってあなたは豊かにされるということを、神は約束しておられるのです。
 
本日の新約聖書におけるイエスの言葉も、まさに上に掲げた律法の精神に通じるわけですが、私はこの聖書の言葉に聴くたびに、ある物語を思い出します。ご存知の方も多くおられるかもしれません。『おおきな木(原題:The Giving Tree)』という、アメリカの作家シェル・シルヴァスタインによって書かれた短編物語です。
 
リンゴの木と少年は友達であった。ともに遊び、心を通わせていた。しかし少年は大人になってゆきお金が必要になる。木は「私の果実を売りなさい」と言う。少年は果実をすべて持っていった。しばらくして、大人になったその子は家が必要になる。木は「私の枝で家を建てなさい」と言う。その子は枝をすべて持っていった。また時が経ち、男は「悲しいので遠くへ行きたい」と言う。木は「私の幹で舟を作りなさい」と言う。男は幹を持っていった。時が経ち、男は年老いて帰ってきた。そして「疲れたので休む場所がほしい」と言う。木は「切り株の私に腰をかけなさい」と言う。男は腰をかけた。木は幸せであった。
 
私はこの物語に初めて接した小学生の頃、この少年がことあるごとに、リンゴの木を利用し続けた。そんな身勝手さに腹を立てたものでした。それなのに、どうしてリンゴの木は「幸せであった」と言えるのだろうか。そのことがずっと謎でした。しかし、本日の聖書の言葉である「与える者の幸い」というものに出会ったときに、そこに究極の祝福があるということを知らされました。たとえ自分が損をすると思えるようなことがあったとしても、回りまわって神は祝福してくださるのだと、だから心配ないんだと。。。
 
正直に言えば、確かに自分のものが減らされていくことに不安がありますし、出し惜しみしたくなる気持ちが顔をよくのぞかせます。貸すことで、それこそ貸しをつくって恩を着せようとする自分自身があることを発見します。しかし、本当にそれで良いのだろうか。私の心に神が問いかけているような気持ちにさせられるのです。大丈夫!私はあなたを必ず祝福して、あなたが豊かになるようにするのだから。だから手を広げなさいと、神が語り掛けてくださる。その声に応えたいと今日の聖書の言葉を通じて、改めて思わされました。
 
今日は安息日。神が私たちが負っているすべての負債を帳消しにして、祝福してくださる一日。世界中で祝われる主の日の礼拝が、皆さんにとって豊かな経験のときとなりますように。心からお祈りいたします。

07/01/2023

2023.1.7(土) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編113編3節
日の昇る所から日の沈む所まで主の名は賛美される。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙15章5~6節
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を崇めさせてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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心を合わせ、声をそろえて、神をあがめさせてくださいますように。
伝道者パウロによる言葉が、本日選ばれた新約聖書の言葉です。私は心を合わせること、声をそろえるとはどういうことなのかについて、あらためて黙想したいと思いました。
 
今日のパウロの祈りは、神が私たちをキリストが示された生き方にふさわしい者として、私たちが神の助けによって整えらえることによって、心を合わせ、声をそろえつつ、神をあがめることができるのだという信仰によって、ささげられたものであることがわかります。つまり、私たちをひとつの思いにしてくださるのは、私たちの努力の結果ではなく、私たちのそのように整えてくださる神なのだということを、私たちはパウロの祈りから知りたいと思うのです。
 
私は思います。人は誰ひとりとして同じではないということを。なぜならば、神がそのように私たちをおつくりになられたからです。個性をつくり、その人にしかない賜物をさずけ、その個性や賜物が行き交う場としての社会をおつくりになられたからです。
 
しかし、だからこそ、私たちは悩みを抱きます。心理学者であるアルフレッド・アドラーは「すべての悩みは、人間関係からできている」という言葉を残したのも、大いに納得できます。私たちが誰ひとりとして同じではないということは、人と人とのあいだにある「違い」というものを、どのようにとらえることができるかという考えに私たちを導きます。
 
人間関係におけるトラブルは、「あの人を私と同じくしよう」というところから起きてきます。それは、あの人は私と同じ考えを抱いてくれるはずだと期待し、その期待が外れて、自分の意に沿わないことを相手が言ったりおこなったりすると、そこにネガティヴな思いが生じて、いろんな理由をつけては正当化して、何が何でも同じくさせてやろうと躍起になったりするわけです。こういう過程のなかで、人間関係のトラブルが起きるのだと私は思ったりしています。
 
話を戻せば、本日の新約聖書の言葉にある「心を合わせて、声をそろえて」というのは、私たちがどんなに努力して一斉的な行動ができたとしても、その心が本当にひとつとされているのだろうかというところにまで考えたいと私は思いました。人と人とのあいだにさまざまな違いがあるなかで、その個性を十分にお認めになり、賜物をそれぞれに授け、それが活かし合えるようなところにこそ、「神が私たちをひとつにしてくださる」ことの本質があって、それをなしてくださる唯一の方が、私たちの神なのだと。
 
日の昇る所から日の沈む所まで。つまり、私たちの知らない最果ての地にいたるまでという言葉が、本日の旧約聖書の言葉です。私たちは他者のすべてを知ることはできないので、すべての人の心を強制的にひとつにすることができません。しかし、私たちのすべてをご存知である神が、私たちをひとつとすることができるからこそ、最果ての地まで同じ神をあがめることができるのだと、今日のふたつの聖書の言葉から黙想させられました。
 
そういう環境にこそ、それぞれに与えられた個性とか賜物というものを、自分に与えられたものと同じように愛おしむことができるのだと。そこに、世界がひとつさせられることを信じて歩みたいと思わされました。それが、キリストに倣ってという意味なのかと受け止めて、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日に、神が与えてくださる平和がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

06/01/2023

2023.1.6(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌下32章24~25節
ヒゼキヤは病を得て死にかけたが、彼が主に祈ると、主は彼に答え、彼にしるしを与えられた。ところが、ヒゼキヤは受けた恩恵に報いることをせず、かえってその心を驕り高ぶらせた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一5章5節
神は、高ぶる者を退け
へりくだる者に恵みをお与えになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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驕り高ぶる心。
そのことについて、黙想を深めたいと思いました。本日与えられたふたつの聖書の言葉を通して、私の心にある傲慢さとはいったい何だろうか。そんなことを改めて思わされました。
 
傲慢について考えるにあたって、本日の聖書の言葉を通して、私たちにヒントを与える言葉があります。「へりくだる」、つまり謙遜です。傲慢と謙遜という言葉が対義として用いられていることに注目できます。
 
本日の旧約聖書の言葉は、南イスラエル(ユダ王国)の王であったヒゼキヤにまつわる物語の一節です。彼は神にとても忠実に仕えていました。常に神を自分の心の真ん中に置いて、与えられた王としての立場を神とともに歩んだ人物でした。そういうヒゼキヤ王を、神は十分に祝福し、ヒゼキヤの治世中、都エルサレムをはじめとするユダ王国は発展するにいたりました。
 
ある日、ヒゼキヤ王は死病とも言える重い病気にかかります。その時も神はヒゼキヤ王の祈りを聞かれました。王として引き続き国を治めるように導いたのは、他ならぬ神でした。しかし、ヒゼキヤは自分が王として君臨できるのは、自らの優秀な政治力があるからだと誇るようになります。神を何よりも自分の生活の中心に立てていたヒゼキヤですら、その神を忘れてしまうことがあった。そのことを示すエピソードです。
 
神はヒゼキヤ王の傲慢を本人に気づかせるべく、預言者イザヤを遣わして憤りの言葉を授けました。はっと我に返ったヒゼキヤ王は、自分のしたことを真摯に見つめてその傲慢さを認めました。ヒゼキヤ王は、神を中心に置いて生活していると思い込んでいたのかもしれません。しかし、神の言葉が己の現実を彼に知らせました。つねに神の言葉によって自分自身を整えていたヒゼキヤ王だったからこそ、いっときの傲慢を認めて、自分自身を謙遜にして、神の言葉が指し示す方向へと、自分自身を転換することができたのでしょう。
 
どんなに謙遜を心がけて、そのように歩んでいると思っていても、傲慢という芽が吹いていることに気づかないことがあるのだと、本日の聖書の言葉から知らされます。そんなときに大切なこと。それは、自分自身のなかにある傲慢さにいかに気づけるか。その気づきは神の言葉によって与えられるとすれば、神の言(ことば)として生まれた救い主イエスが、私の心にいるのだろうか、そこに愛はあるんか?と、聖書の言葉と向き合いながら自分自身を確かめていくことなのだろうと。
 
だからこそ、たったひと言の聖書の言葉でも、それを一日一日積み重ねるようにいただいてくことの大切さを思わされます。そんな思いをもって、今日もローズンゲンの言葉に出会えたことを心から神に感謝しつつ、一日を過ごしてまいりたいと思いました。皆さんの一日も、ひと言の神の言葉が、皆さんの行く道をまばゆく照らしてくださいますように。お祈りいたします。

05/01/2023

2023.1.5(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編71編17節
神よ、若い時からあなたが教えてくださったので
今に至るまで私は奇しき業を語ってきました。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章29~31節
シメオンは言った。
「主よ、今こそあなたはお言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 私はこの目であなたの救いを見たからです。
 万民の前に備えられた救いを。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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人生の最晩年に差し掛かったとき、神とともに人生を歩んできたひとりの老人に、これまで言われてきた神のお告げが実現する時がやってきました。救い主を見るまで、あなたは死ぬことがないというお告げです。そして、今や老人は、やがて救い主となる赤ちゃんを抱きあげて、神を賛美しました。
 
本日の新約聖書の言葉に示されているのは、シメオンという老人が救い主イエスと出会ったときの物語です。神が与えてくださる慰めを、シメオンはずっと待ち望んでいました。長い人生のなかで、おそらくさまざまな経験をしたであろうシメオンを、神は最終的に平安な場へと導いてくださいました。シメオンは神を賛美します。この私を、あなたは平安のうちにこの世から去らせてくださいますと。
 
人生の最終目的は、老年の平和である。
日々の聖句の原著であるDie Losungenに掲げられた本日の「第三のテキスト」は、チェコ出身の教育学者であったヤン・コメンスキーによって語られた言葉でした。コメンスキーは後にローズンゲン運動を始めるヘルンフート兄弟団に大きな影響を与えた人物とされており、本人も数奇な人生のなかで迫害を逃れ、チェコからドイツ、そしてオランダへと渡って、神とともに歩んだ生涯を送りました。まさに、コメンスキーによる言葉は、自分自身の人生が神から守られ続けてきた、その平和について語っているようにも見えてきます。
 
老年における平和。シメオンの言葉からも分かるのは、この平和を与えてくださるのは他ならぬ神なのだと。私はまだ老年の域に達しているわけではありませんので、自分の経験としてこのことを語ることはできませんが、教会の場でお年を重ねられた方々に出会うときに、とても穏やかに接してくださる姿に出会っては、このような年の重ね方をしたいものだと憧れることがしばしばあります。神がその方々の人生に平和を与え続けてくださっているからなのだと、心から思わされるからです。
 
それは、本日の旧約聖書における詩人の賛美からも聴くことができます。詩人は若い頃から、いや母親の胎内にいるときから、神の言葉を聴き続けてきたと告白して、だからこそ、その人生の数々の場面で出会った、神の不思議な業を語ることができるのだと。それは、これからの人生で、どんなに苦しいことが私を襲ったとしても、私は神の不思議な業を今後も自分の希望とすることができるのだと。
 
今日という一日もまた、自分の人生をつくり上げる大切な時間であり、その時間を神が私のうちに働いて、平和への砦をつくり上げるためのレンガを積み上げてくださるのだと。そんな一日になることを願いつつ、歩んでまいりたいと心から願わされました。皆さんの一日も、平和の砦を神様から築かせてもらえる、そんな一日でありますように。お祈りいたします。

04/01/2023

2023.1.4(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記上19章7節
主の使いがエリヤに触れ、「起きて食べなさい。この道のりは耐え難いほど長いのだから」と言った。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙12章12~13節
萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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起きて食べなさい。
列王記上19章では、預言者エリヤに対して主のみ使いがこの言葉を2度語り、エリヤに呼びかけています。この時エリヤは、エルサレムじゅうに広がっていた人々による偶像崇拝の影響で、それに反対する者として目を付けられ、王の命令によって自分の命が狙われていたところでした。追われて逃げて、もうこれ以上こんな目に遭うのはたくさんだ。いっそのこと殺してくれと神に願ったのです。
 
そんな時に、神がみ使いを通して語られた言葉が「起きて食べなさい」でした。パンと水がエリヤの前に準備されていました。それでエリヤは生きることの意味を確認することができました。食べるということが、いかに人間の命を前向きにさせるかということを知らせるエピソードです。
 
教会のメンバーに社会福祉士をされておられる方がいます。多くの女性たちの生活と人権を守る尊い仕事に携わっているわけですが、どう生きたら良いか分からない。これからどうしようと行くあてもなくさまよい歩く女性たちに向き合うなかで、彼女が大切にしている言葉があります。「ご飯食べようか?」と。実は、そういう女性の方と一緒に牧師館で食卓を囲んだことがあります。そうすると、希望を失っていた方は、本当に元気を取り戻し始めます。私はそういう現場に立ち会わせてもらって、食卓というのがいかに大切かということを、心底実感させられたのです。
 
食べたからすべてが解決するわけではありません。食べた後の道のりはまだまだ解決にはいたらない長い道のりかもしれません。しかし、食べることで元気を取り戻したエリヤは、神が指し示される道を、神とともに歩むことができました。神の名によって命の危険すら経験したエリヤは、神の名によって再び人生の幸いが与えられて、それを見い出す人生を歩むことができたのでした。
 
手足に元気が出ない。歩くことすらままならない。私たちが悩み苦しみの渦中にあるならば、立ち止まってうずくまってしまい、もう歩きたくないと思うこともあるでしょう。そういう時には休息はとても大切であることを、私たちはよく知っています。現にエリヤも眠りまくりました。しかし、十分な睡眠を取るとともに、動き出すために食べる、栄養を摂ってエネルギーとすることこそが、前を向いて歩くために欠かせないことを、今日の聖書の言葉は示しています。その栄養を与えてくださるのは、他ならぬ神なのだと。
 
私は、聖書の言葉こそ私たちが生きるために無くてはならない食物であると受け止めたいと思います。聖書の言葉はいろいろな用法があるでしょう。言葉を盾や剣にして人を刺す殺すこともできるでしょう。しかし、そういう用法がある一方で、やはり私が一番大切にしたいこと。それは「人を生かす」ために、神の言葉はあるのだということです。
 
殺すのではなく生かす言葉。神の言葉に今日も養われて、私自身が発する言葉もまた、人を殺す言葉ではなく人を生かす言葉をつむぐ者でありたいと心から願いつつ、一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日も、ともに歩んでくださる神様が、生きる活力と幸いを豊かに与えてくださいますように。お祈りいたします。

03/01/2023

2023.1.3(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編119編154節
私に代わって争い、私を贖い
あなたの仰せのとおりに私を生かしてください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二3章3節
主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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昨日は思いもかけず、かつての教会で一緒に信仰生活を過ごした方々と再会することができました。ほんの20~30分の再会でしたが、かつて一緒の教会で過ごした日々を思い出しながら、その交わりの深さというものをしみじみと実感するひと時でした。この再会を実現させてくださった神様に感謝するばかりです。
 
私は、その方々と一緒の教会で過ごした頃、心病ませることがありました。そんなときに、神はその方々を通して私を元気づけてくださいました。一緒に神の示される道を歩むことができた。その思いを心底から共有することができたのです。それらの方々の神とともに歩む信仰の姿に、大いに励まされ慰められました。それは、昨日会ったときも全く変わることなく、ものすごい元気をいただいた。そんな気持ちで夜を過ごし、朝を迎えることができました。
 
さて、今日の詩編の言葉です。「あなたの仰せのとおりに私を生かしてください」という詩人の言葉に注目しました。この一文ですが、原著であるDie Losungenに示されているドイツ語聖書では、「あなたの言葉を通して私を元気づけてください」と日本語に訳すことのできる言葉が用いられています。とても分かりやすい表現だなと思いました。
 
私たちは神の言葉によって元気を得ることができる。まさに昨日の交流は、神の言葉を真ん中にしたやり取りのひと時でした。神の言葉を中心に置いての交わりは、私たち一人ひとりを元気にさせるのだと。私たちは一人でも聖書を読むことができますし、神との一対一の対話を楽しむことができますし、それはとても必要なことだと思います。その一方で、神の言葉を真ん中に置いて、思いを分かち合い交流できることの喜びは、より一層神の言葉によって元気になることができる、大切な道なのだと感じます。だからこそ、神は信仰共同体である教会を、私たちにキリストのからだとしてお与えくださったのだと。もちろん、私たちもまたそのからだの一部とされていることを受け止めながらです。
 
私たちは神の言葉を携えて、今日も一日を歩むことができます。そのなかで、だからこそ、道を示され、私の代わりに諸悪と闘ってくださる方が、私に言葉を与えてくださる。いたずらに何かに対して敵対することなく、大切な生き方というものを教えてくださる神によって、今日も元気を得たいと願わされました。特に、私は今日、ある方と対話をする予定があります。その方に対して、神がその方をも深く愛しておられることを心に留めながら、向き合ってまいりたいと思います。ぜひ祈りの片隅にお憶えくだされば幸いです。私も皆さんが神の言葉によって元気づけられる一日であることを、心よりお祈りいたします。

02/01/2023

2023.1.2(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章20節
エフライムは私の大事な子ではないのか。
あるいは喜びを与えてくれる子どもではないのか。
彼のことを語る度に、なおいっそう彼を思い出し
彼のために私のはらわたはもだえ
彼を憐れまずにはいられない――主の仰せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章4~5節
神は憐れみ深く、私たちを愛された大いなる愛によって、過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かしてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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お正月の三が日のなかをお過ごしの方もおられれば、帰省や旅行を楽しんでおられた方々のなかには、Uターンの準備に入られておられる方もおられることと思います。2023年も日常に戻りつつあるときに、本日選ばれた聖書の言葉は、私を日々の営みへと送り出してくれるようなものだということを感じました。そのあたりのことを黙想しながら、本日の御言葉をいただきたいと思います。
 
神はエフライムを忘れることなく、憐れみを示し続けたと、預言者エレミヤは語っています。神がどのような方かを伝えている、とても大切なひと言ですが、では「エフライム」とは何でしょうか。もともとはイスラエル12部族のひとつであるエフライム族に由来するものでしたが、エフライムの領地が持つその豊かさから、神が祝されるイスラエルを象徴する言葉として、用いられるに至りました。
 
しかし、エレミヤの時代はすでに北にあるイスラエル王国は滅亡し、南にあるユダ王国も廃れ、都エルサレムの民たちはバビロニア帝国の捕虜として祖国を離れなければならない状況でした。イスラエルに未来はない。誰もがそのように思える状況にあっても、しかし、なおも神はご自分の民のためにはらわたをもだえさせて、深く憐れんでくださるのだと言っているのです。決して神は、ご自分の民がどんな目に遭ったとしても見捨てることなどないのだと。エレミヤはそう語ったのでした。
 
エフライムは私の大切な子、喜びを与える子であると、神は言われます。神によ人々への変わらぬ愛は、捕らわれの身であったユダヤの民の心を神に再び向けさせ、方向転換をする、つまり悔い改めて生きるのを決意することによって、数十年ののちに神の不思議な方法によって故郷への帰還が実現したのです。
 
私は思います。どんなに破綻があっても、分断があっても、そこに怒りや悲しみのようなものが存在したとしても、私たち自身ではどうにもならないような出来事が私たちをがんじがらめにしたとしても、神は必ずご自分のお働きによって、その鎖を解いて、私たちが悔い改めの実を結ぶことができるようにしてくださるのだと。
 
その神の憐れみを、私は忘れてはいけないのだと思ったのです。昨年の一年間を振り返りますと、私は公私ともども、随分人の怒りというものを買ったことを思い出します。もちろん理由はいろいろあります。私のいたらなさゆえのこともありますが、もっとこのことについて対話を重ねたいと思っても、その道が断たれてつらい思いをすることも幾たびもありました。どんなに自分が頑張ったとしても、物事の状況が良くならないときは良くならない。そう感じたのでした。
 
しかし、私が本当に忘れてはいけないことは、そんな私でも愛してくださり、キリストという救いの主を与えてくださった神がおられるという事実です。この神がユダヤの民を故郷に戻されたように、必ず以前の平和な状態へと帰らせてくださるのだということを、私の生きる希望としたい。そして、向きなおして生きるという日々の生活、営みを大切にして、神を覚えつつ毎日を過ごしたいと思わされたのでした。
 
許しのない世界のなかで、それを保持しようとする私たち自身の限界があります。感情がそうさせてしまうのだから、それは抗いようのない事実ですし、それに支配されている私がここにいます。許せない感情に捕らわれているなかで、そのことを振り返りざんげしつつ、神がご自分の方法で。不思議に私を平和への道へと導いてくださることを信じて、2023年という年の日々を歩んでまいりたいと思います。まずは今日からです。
 
皆さんの一切に、憐れみをもたれる神の愛が、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。