02/10/2026

2026.10.2(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
サムエル記上3章9節
主よ、お話しください。僕は聞いております。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章24節
(イエスの言葉)
私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
仙台の街は、秋晴れの朝を迎えました。雨続きの日々でしたから、さわやかな一日の始まりを迎えることができるのは、本当に気持ちの良いものです。この秋空のように、気持ちを新たにして、今日与えられたローズンゲンによって示されたふたつの聖句から、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「御言葉に聴く生活」であると私は受け止めました。旧約聖書は、指導者サムエルが神に対して告白したみずからの信仰の言葉であり、新約聖書は、イエスによって語られた「山上の説教」の最終に語られた「岩の上と砂の上に建てた家」のたとえ話の一節です。
 
さて、私の働いている東北教区センター・エマオでは、毎月一度「静かに聖書に聴く夕べ」という集会が行われています。聖書の言葉を前に心をしずめて、御言葉が語るメッセージに耳と心を傾けるひと時です。その後で、参加者とともにその味わいを共有することで、聖書の言葉が与える恵みをいただきます。少人数の参加者ではありますが、とても素敵な時間をいただいています。私も久しぶりにこの集会へ出席しました。
 
それで、先日の集会で読まれたのが、マタイによる福音書7章の「岩の上/砂の上に建てた家のたとえ話」でした。よく聞いたことのある、なじみ深い聖書の言葉です。私は小学生のとき、まだ教会へも行っていなかったころ、キャンプソングでこの話を知りました。まさか聖書の言葉だったとはと知ったのは、ずっと後のことです。
 
だれもが納得するたとえ話ですが、それが聖書の言葉であり、私へ向けられた神の言葉であるとあらためて知った時には、「誰もが知っている話」という一般的な話題ではなく、家や土台とはいったい何だろうかということに、想いを寄せるようになりました。土台がしっかりしてこそ、家が家として保たれるというイエスの言葉はまさに、自分自身のありようというものを如実に映し出すものなのだということを、感じずにはいられません。
 
私の立ち位置というものが、神の言葉によって形成されるものなのだということに気付いたのです。そして、私の歩みを底辺からしっかりと支える、土台たるイエス・キリストがおられるのだということが、雨風が吹き荒れても、それに持ちこたえることのできる私という存在がつくられていくことに、ただただ感謝でしかありませんでした。そんなことを、先日の集会では、参加者の皆さんと分かち合って、ほっこりした気持ちで家路へ就くことができました。
 
歳若いサムエルも、神に向かって「主よ、お語りください」と、神の御声にじっくりと耳と心を傾けようとする思いが込められたこの聖句に、私たちの態度というものが問われているような気がしてなりません。しかし、その問いはあくまで、私たちを健やかな一日へと導く問いなのだということを胸に刻みつつ、新しい一日を歩んでいきたいと、思い新たにさせられました。
 
どうか、今日の一日もまた、そのような神の良いものに支えられながら、歩みを踏むことができますように。そして、皆さんの主にある、守りと平安が豊かにありますことを、心からお祈りします。

01/10/2026

2026.10.1(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編71編20節
あなたは多くの苦しみと災いを
私に思い知らせましたが、
再び命を与えてくださいます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二2章9節
主は、敬虔な人々を試練から救い出す。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今日から10月、そして年度の下半期に入りました。あっという間に半年が経ってしまったという印象をぬぐえませんが、下半期も一日一日を大切にしながら、神様から与えられる時と機会を過ごしていきたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想をつづりたいと思いますが、今日の新約聖書の言葉であるペトロの手紙のなかから、私が注目したいと思ったのは「敬虔」という言葉でした。
 
敬虔という言葉を聞くと、よく「敬虔なクリスチャン」という言葉を思い出すかもしれません。一般的にも、クリスチャンを指す言葉として用いられるのではないかと思います。しかし、よくよく考えてみれば、敬虔とはいったい何かということを、あらためて思わされるのです。意味をよく理解することなく、使われている言葉なのではないかと思ったりするのです。
 
敬虔という言葉を辞書で調べますと、「うやまいつつしむこと。特に神仏に帰依して、つつしみ仕えること」(広辞苑第七版)とあります。ここで登場するのは「つつしむ(謹む・慎む)」という言葉です。ここから想像するイメージは静的なものであると私は感じていますが、果たして敬虔とは、静的なイメージだけを私たちに与えるものなのだろうかと、私は思ったりするのです。
 
神を敬うということは間違いないと思います。しかし、神を敬うかたちは、なにも静的なものだけではない、極めて私たちの動的な営みなのではないかとも思うのです。この言葉の原語(ギリシア語でエウセベイア)は、「神に向かう健全な姿勢」というもともとの意味があります。つまり、敬虔とは動的であれば静的であれ、神に私たちが誠実に向き合おうとする態度のことそのものを指す言葉ですから、そのことに私たちは「敬虔」であることの意味を見い出したい。そんなことを感じたのです。
 
そのような敬虔さがあってこそ、巡り来るさまざまな試練に向き合う知恵と力というものが、神によって豊かに与えられるのだ。そんなことを今日の黙想としてつづりたいと思いました。
 
どうか、今日の一日も試練と感じるようなことがあっても、私たちの神に向かう誠実さを、ご自分の言葉と聖霊の導きで養ってくださる神が、ともにおられますようにと祈ります。皆さんの一日にも、神である主がともにいてくださいますように。お祈りします。

30/09/2026

2026.9.30(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
歴代誌下15章2節
もしあなたがたが主を求めるなら、主はあなたがたに現れてくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章25~26節
女は言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知らせてくださいます。」
イエスは言われた。「あなたと話をしている私が、それである。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今日で9月も最終日を迎えました。いつになく自然災害の多かったこの一か月間でした。被災の地にある方々の痛みを思わずにはいられません。どうか、それら苦痛のなかにおられるすべての人々に、神の慰めと励ましが豊かにあることを、心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神である主を求めることの幸い」であると私は受け止めました。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、南イスラエル(ユダ)王国の第3代目の王であったアサに、預言者アザルヤが進言した言葉です。アサ王はこの時、順風満帆な王としての歩みをしていました。そんなアサ王に対して、アザルヤが語った言葉は「神である主を求める」ことをさらに勧めるものでした。このアザルヤの言葉にアサ王は素直に受け入れます。さらに、神とともに歩むことの大切さを、自らの政治に余すところなく生かしました。それによって、ユダ王国には長期間にわたる平和が訪れたのでした。
 
「得意冷然、失意泰然」という言葉がありますが、順調なときにこそ、順調であることの意味というものをじっくりと噛みしめたときに、そこに浮かび上がってくる神の御顔と深いまなざしがあることに感謝し、主とともに生きる喜びを味わいたいという憧れを大切にしたいと、襟を正されるような思いで、今日のみ言葉を受け入れたいと思いました。
 
そして、今日の新約聖書の言葉は、不幸な人生を歩んでいたサマリア人の女性に主イエスが現れたときの会話です。彼女はずっと救い主が現れるのを待ち望んでいました。その人生が不幸なものであったからこそ、彼女の希求の思いというものは特別だったのかもしれません。しかし、主はそんな彼女の求めに対して、確かに答えられました。
 
得意にあっても失意にあっても、神を求めることが私たちの人生を豊かにするのだ。そんなメッセージを胸にして、今日も一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神が豊かに臨んでくださいますように。心からお祈りします。

29/09/2026

2026.9.29(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ダニエル書2章20節
神の名が代々とこしえにたたえられますように。知恵と力は神のもの。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録7章12節
アーメン。賛美、栄光、知恵
感謝、誉れ、力、権威が世々限りなく私の神にありますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今日も、私たちをよろしくご支配くださる神が、私たちひとりひとりの心と行動を守り導いてくださいますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に聴きたいと思います。
 
今日の旧約・新約聖書に共通するテーマは「神をほめたたえる」というものでした。神をほめたたえることは、私たちの生活が順風満帆で、明らかに「神からの祝福」を感じるときにこそ、できるものなのではないかと思うのですが、では、逆風が吹き荒れて、船が難破してしまいそうなときにも、私たちは神をほめたたえることができるのだろうかということを、私はあらためて問いたいと思ったのです。
 
とうてい神をほめたたえることなどできない。これが偽らざる私たちの本音でしょう。しかし、そんなときにも神をほめたたえるとはどういうことなのかについて、今日のふたつの聖句は私たちに励ましを与えています。
 
今日の旧約聖書の言葉は、預言者ダニエルによる神への賛美でした。この時のダニエルは、祖国を離れて、バビロニア帝国の捕虜とされていました。神を自由に崇拝することの難しい環境のなかで、彼の境遇は決して幸せなものではありませんでした。しかし、ダニエルは、にもかかわらず、自分たちを守ってくださる神の存在に疑いの思いを挟むことなく、神を賛美し続けたのでした。神はそのダニエルを、後々大いに祝福することになります。
 
また、今日の新約聖書の言葉は、ヨハネの黙示録の一節でした。ヨハネの黙示録は、イエスをキリスト(救世主)と信じたがゆえに、時の政権であったローマ帝国からの激しい迫害のなかを生き抜いてきたクリスチャンたちに宛てられたものでした。過酷な環境のなかにあっても、キリストは必ず信仰者を守られる。この希望に満ち溢れた黙示録の内容は、読み手に大きな励ましを与えたに違いありません。
 
順調にあっても、逆境にあっても、それでも私たちは神を賛美することが大いに許されているのだ。これが、私が今日受け止めたいと思ったことでした。このような賛美が、のちのち神によって大きな祝福を感じるきっかけとなりますようにと祈りたいと思います。今日の一日の生活がそのような出来事への出会いの機会となりますように。皆さんの主にある平安を心からお祈りします。

28/09/2026

2026.9.28(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ホセア書2章21節
私はあなたと、とこしえの契りを結ぼう。
私は正義と公正、慈しみと憐れみをもって
あなたと契りを結ぶ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章16節
(イエスの言葉)
あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
昨日の「主の日」、皆さんはどのようにお過ごしでしたでしょうか。それぞれの充実した一日を送られたことと思います。そして、今日からウィークデイの日々が始まりました。どうか、平日の日々を歩まれるその一つひとつの出来事に、神が豊かにともなってくださいますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想つづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、預言者ホセアに神が与えられた「契り」でした。契約と書かず、あえて契りと日本語に訳したところに、温かみのようなものを感じたのは私だけでしょうか。そこには、この聖句に描かれているように、神の「慈しみと憐れみ」というものが充分に込められているような気がしてなりません。
 
ホセアが預言者として活動していた時代、神の民であるイスラエルは、自分たちの神をないがしろにして、魅力的な偶像に心が魅了されていました。そのような「不倫状態」は、実はホセア自身の家庭の状況そのものでもありました。ホセアの妻ゴメルは、不倫の末ホセアではない男性との子を産みます。このような不貞をホセアはどのように向き合わなければならなかったのか。ゴメルはその後、不幸な人生に見舞われますが、ホセアは神の慈愛と憐れみの心をもって、ゴメルとその子たちを引き取りました。
 
神が人間に結ばれる契りに込められたいつくしみとあわれみは、「正義と公正」という基盤があってこそのものであることが、今日の聖句から読み取れます。神の正しさ(ツェダカー)と公正(ミシュパート)があってこそ、神は人間の裏切りにも忍耐をもって応え、人間が神御自身のもとに帰って来ることができるようにしてくださったのです。
 
ですから、神の正義と公正なしには、愛もいつくしみもあわれみも全く存在しないのです。そのような神の愛に、私たちはどのように応えることができるだろうか。そんなことを強く思わされます。
 
私たちが自分の自由裁量で、数あるなかから神を選んだのではなく、神のそのような正義と公正によって、私たちが愛されて選ばれたのです。それが、十字架に架けられる前夜に、イエスによって弟子たちに語られた言葉の真意です。私たちひとりひとりが、この愛にしっかりとホールドされながら、新しい日々を歩むことができる幸いに、私たちひとりひとりが包まれたい。そんなことを思わされたのでした。
 
今日も、そんな神が私たちの一日を祝福へと導いてくださいますように。祈りつつ、皆さんの主にある平安を心よりお祈りします。

27/09/2026

2026.9.27(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
サムエル記上12章22節
主はその偉大な御名のゆえに、ご自分の民を決しておろそかにはなさらない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章25節
(イエスの祈り)
私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。新しいい一週間が始まりました。その先駆けとなる今日の礼拝が、大きな神の喜びをいただける場となりますように。そのことを心から祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に聴きたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなげる言葉は「神の御名」というものでした。このローズンゲンでも、幾たびも神の御名について私たちに思い起こさせる聖句が登場しています。旧約聖書だけでも約8,000回登場する神のお名前は、ヘブライ語4文字で表記される「ヤハウェ」と発音されていたであろう言葉です。この神のお名前には、「私はいる」という意味があることを、神御自身が遠い昔にイスラエルの指導者モーセとその民たちに告げられました。
 
私はいる。その言葉は、すべての存在を表す言葉として私たちに知らせるものです。存在とは「ある・いる・なる」という、英語でいうbe動詞が表す意味に相通じます。つまり、①私は神である。②私はあなたがたとともにいる。③私はあなたがたの神となる。という3つの意味であり、神があくまで私たちの神でいてくださるという確固たる約束が、私たちひとりひとりに与えられているというのです。
 
私たちをおろそかにしまいと働いてくださる神、その神の愛は、私たちを生かす機動力となり、私たちは神からいただいた愛をもって、この世界で生きることができるのだ。そのことを救い主イエスは望み、神に祈りをささげ、私たちのためにも祈ってくださいました。
 
この祈りに支えられながら、私たちは新しい一週間の日々を歩むことが許されています。どうかこの七日間のなかで出会う様々な出来事のなかで、神に出会う機会に喜べますように。その喜びを携えて、その旅路を歩むことができますように。心からお祈りします。

26/09/2026

2026.9.26(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ゼカリヤ書9章10節
その支配は海から海へ、大河から地の果てにまで至る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書24章14節
この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は朝から雨模様の仙台です。毎年度秋学期に担当している大学の講義が始まり、今、新幹線のなかからこの黙想をつづっています。新幹線のなかで黙想もへったくりもないのですが(もっと静かな環境でするべきなのでしょう)、御言葉に触れることのできる喜びをかみしめつつ、今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、想いをつづっていきたいと思います。
 
今日の聖句が指し示しているテーマは「神の良い言葉を全世界で分かち合う」というふうに私は受け止めました。神の言葉をいただいたとき、その言葉に感動や慰めを覚えたら、その感じたことを誰かと分かち合いたいと思うのは、ごくごく自然なことと言えるでしょう。
 
昨日、ある大学生がお母さまと一緒に、私の職場でおこなわれているご飯イベントに参加されました。その大学生の方は、キリスト教主義学校に入学されて、キリスト教に触れる機会ができて、大学での素敵な出会いがあるなかで、キリスト教に対して好印象を抱いているご様子でした。そこに、お母さまも一緒にいらっしゃったというわけです。
 
そのお母さまと話をする機会をいただきました。そのなかで、お母さまご自身もこれまでキリスト教に触れる機会がなかったのだそうですが、ひとつひとつの出会う機会のなかで、キリスト教に対する良いものを感じ取っておられるとのことでした。そして、私にこんなことを仰っておられました。「もっと聖書のこととか、キリスト教のことを伝えたら、その話を聞く人っていると思いますよ。私がそうでしたから」。
 
私はとても嬉しい気持ちにさせられるのと同時に、なんか身の引き締まるような思いもしたのです。昔から、とかく「宗教」というと、あやしいとか怖いという印象がどこかにつきまとっているのを、私は当事者として感じながらも、しかし、キリスト教ならばキリスト教が大切にしてきた魅力というものを分かち合いたいと思い続けてきました。だからこそ、「もっと聴く人がいると思いますよ」という言葉に、とても暖かい励ましを受けることができたのでした。
 
全世界に福音(神の国の良いたより)が伝えられるときに、それは何も遠い最果ての地のことだけを指しているのではありません。私たちの身近に、手の届くところにも、神様が与えられる良いものを分かち合うことのできる幸いが、十分に散りばめられているということを、私は自分自身のよき燃料としたいと思ったのでした。翌朝、明けてこの聖句をいただいたときに、昨晩に起きたできごとに、感謝をもって受け止めることができたのでした。
 
今日で一週間も最終日を迎えます。この七日間の旅路が、神様の豊かな守りと祝福のうちにありますように。そのことを心から願いつつ、明日への備えをすることができますようにと祈ります。皆さんの一切にも、神の守りと祝福がありますように。心からお祈りします。