03/03/2026

2026.3.3(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
士師記10章10節
イスラエルの人々は主を叫び求めて言った。「私たちはあなたに罪を犯しました。私たちの神を捨てました。」


旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書3章2節
(洗礼者ヨハネは)言った。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
©日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も私たちの一日を守り、導いてくださる神が、私たちの歩みにともない、ご自分の言葉と聖霊の導きによって、私たちに行くべき道を与えてくださいますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、どちらも「罪」について語られたものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
罪とは神を捨てること。今日の旧約聖書の言葉である士師記の一節から、私たちはこのように考えることができます。何を捨てるのでしょうか。「神の思い」を、自分自身の思いから排除、またはないがしろにし、もしくは自分自身の願望にすり替えて、さも神の願いのように思い込んでしまおうとすることが、「神を捨てる」という行為につながるということです。
 
私たち日本人は、神に背を向けて歩むことも、いわゆる一般的な「悪いこと」も、すべて「罪」という言葉で表現します。そのこと自体間違っているわけではないのですが、聖書で示されている罪は、神を捨てて、独立独歩の道を歩むことによって、さまざまな思い違いを生むことで、一般的悪事に至るという基本的な理解があります。
 
それは逆を言えば、神の願いを自分自身の生き方とし、神とともに歩もうという謙虚な気持ちをもって、自分自身が神によって変えられることをいとわないような思いがあるならば、少しでも罪の道へさ迷いこんでしまうことから、神が私たちを守ってくださいます。そうであったとしても、私たちは折に触れ神を捨ててしまうことがあるくらいですから、なおのことなのだと思います。
 
大切なのは、その自分自身のありようというものを、謙虚に見つめ続けること。その思いをもって、神に自らをたださらけ出すことなのだと。神の前で格好つけたってしょうがない。もうすべてを知られているのですから。神の御前に正直であること。そして、私たちを平安へと導いてくださる神がおられるということに、心から喜べるような自分自身にしてもらうべく、神に願い求めること。そして、ただ誠実であること。こういうことこそ、みずからの罪を自覚しながらも、神を積極的に捨てることから、少しでも解放されるのだと思うのです。
 
そのために、洗礼者ヨハネが私たちのために神によって与えられ、新たに神とともに生きるそのしるしとして洗礼という出来事が与えられ、そして何よりも、洗礼によって神の御子であることが明らかにされた救い主イエスが私たちに与えられたことを、心から感謝して歩みたいというのが、今日私が得た黙想でした。
 
今日の一日が、そのような感謝と喜びに満ちあふれた時となりますように。心からお祈りします。

02/03/2026

2026.3.2(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編22編28節
地の果てに至るまで、すべての人が主に立ち帰るように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書8章11節
東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、私たちに生きる命を与え、その行く道を導かれる神が、皆さんとともにおられることを、私たちの喜びとすることができますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「地の果てにいたるまで」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって語られた言葉です。「神の国」、つまり神の抱かれる価値観について、触れているなかで語られたものですが、神の価値観がいきわたる世界は、まさに「宴会」のような喜びがあることが、イエスによって語られています。
 
アブラハム・イサク・ヤコブという、いにしえから神の民の祖として大切にされ続けてきた人物が列挙されています。アブラハム・イサク・ヤコブと言えば、おのずとイスラエルのことを指します。神はイスラエルという国こそ、神の国の現実的な姿である。そう信じている人たちも決して少なくありません。このイスラエルから世界的な「神の国」が広がりゆき、展開されていくという考え方です。
 
しかし、一方で、そのような「イスラエル主義」という考えではなく、神はイスラエルを超越した「全世界」にこそ、神の国をお建てになられた、という考え方もあります。イスラエルから出発したことは確かですが、イエスが十字架と復活を経て私たちの救い主となられた時、この良いたよりは全世界へと広げられていきました。この日本へもです。それは「イスラエルの拡張」では決してなく、「全世界を治められる、世界の神である主」の喜びなのだと。私はそのように信じ、神の世界のなかで生かされていることを、大いに喜びたいのです。
 
今日の旧約聖書の言葉には「立ち帰れ」とあります。私たちが神の世界に生かされるということを、私自身のなかで大切なものとして温め、そしてしっかりと握りしめているだろうか。そんなことを振り返り、思い巡らされています。限定されるのではなく、広がりゆく神のダイナミックスというものを、大いに喜びつつ、私もそういう神の価値観に支えられながら生きていきたい。これが今日の私の黙想でした。
 
その広がりとダイナミックスのなかで生かされる今日の一日が、素敵なものでありますように。神が与えてくださる守りと平安を、心からお祈りします。

28/02/2026

2026.3.1(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨシュア記23章11節
あなたがたは生きていくために、あなたがたの神、主を愛するようにひたすら心がけなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一5章3節
神の戒めを守ること、これが神を愛することだからです。その戒めは難しいものではありません。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、こんばんは。
新しい一週間を迎えました。今朝は十分に黙想をつづる時間がありませんでしたので、夜になってしまいましたが、簡単に今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句からの観想を書き留めたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「神である主ヤハウェを愛する」でした。神を愛するということは、決して難しいものではありませんと、今日の新約聖書・ヨハネの手紙の一節では述べられています。この言葉に、私たちはどのような印象を抱くでしょうか?
 
神を愛することは、実に難しいとお感じになられるのではないでしょうか? 神を愛したくても愛せない自分自身がいる。そんなことを感じる自分自身が私にもあります。それこそ、私たちが神に向き合うことのできない「罪」の根源というものであるかもしれません。
 
しかし、私たちが神を愛そうとする前に、神は私たちのことを愛してくださるという前提があるからこそ、私たちはそのことを聖書の言葉から知り、神が私たちひとりひとりを信頼して今日も生かしてくださっているということを、自分自身のなかで想い巡らすことができるのだと思います。
 
愛するとは大切にすること。私たちがどんなに周囲から、社会から大切にされていないと感じたとしても、私たちは神によって大切な存在とされているという自覚が、慰めを生み、励ましを生む。生きていくことができる希望が私たちのなかから芽ばえるならば、それが神を愛するという私たちの思いへと揺り動かしていくのです。これが、旧約の時代からずっと、神の民たちの土台となったものなのです。
 
私たちが十分に神を信頼できなかったとしても、神は私たちに「大切にする」ことの意味というものを、あらゆる場面を通して気づかせてくださる。神がそのようにしてくださるという思いが、神を愛するということを「決して難しいもの」という私たちの意識から解放させてくださるのだ。これが、今日の聖書の言葉が、私たちに伝えようとしていることなのであって、私たちはこの希望に生かされ、生きる者でありたいのです。
 
今日も残り少ない時を私たちが過ごす時に、この事実を思い巡らすことができますように。そして、今日の休息の時を経て、また訪れる朝の光を、喜んで迎えることができますように。そのことを心から祈りつつ、皆さんとともに神を愛する喜びを味わってまいりたいと思います。どうぞ素敵な夜のひとときをお過ごしください。

27/02/2026

2026.2.27(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ネヘミヤ記1章6節
ああ、主よ、どうかあなたの耳を傾けて、私が今、あなたの僕たちのために昼も夜もあなたの御前で祈るこの祈りを聞いてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章7~8節
まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日、日本中で曇り空の一日になりそうですが、私たちの心や思いを曇らすような出来事や物事があるならば、神が私たちに晴れ間の心地よさを与えてくださいますように。そんなことを願いつつ、今日のローズンゲンに示された聖句に耳と心を傾けたいと思います。
 
今日選ばれたふたつの聖句に共通する言葉は「昼も夜も」でした。旧訳聖書では、昼も夜も神に祈る人に、耳を傾けてくださいと願う信仰者について、新約聖書では、どんなに非人道的な裁判官であっても、寡婦の熱烈な祈りには耳を傾けるだろうというたとえ話を引き合いに出しつつ、私たちの神は私たちの願いに必ず耳を傾けてくださるという、イエスの言葉が語られています。
 
昼も夜も、という言葉に、私たちはどのような印象を抱くでしょうか? 絶え間なく、どんな時でもあきらめることなく、呼吸するようになど、いろいろな印象が浮かび上がってきます。私はいつも思うのですが、私たちはたとえ祈ることがなかったとしても、神は私たちの思いをすべてご存知なのだから、祈ることそのものに意味はあるのだろうか、という問いに対して、そうであったとしても、神に祈ることはやはり大切なのだと。
 
子どもが親に対して、今日あったことを、「あのね、あのね」と一生懸命話そうする姿こそ、神に祈る私たちの姿なのかなと、私はイメージしたいのです。こどもは自分自身のうちにとどめておくというよりは、少しでも知って欲しい、わかって欲しい、理解してほしいと願い、そのことが果たされることによって安心感を得ることを心から望みます。私たちはこのようなこどもでありたい。人は聴いてくれなかったとしても、神は聴いてくださるのです!そんな思いをもって、神に祈る一日というものを営みたい。これが、私の受け止めたいと思ったことでした。
 
忙しいさなかにあったとしても、今日も私たちの一日をともに歩んでくださる神が、祈りを通して私たちに安心感を与えてくださいますように。その安心感こそ、私たちひとりひとりを生かすもといとなりますように。心からお祈りします。

26/02/2026

2026.2.26(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
箴言4章18節
正しい人の進む道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一3章14節
しかし、義のために苦しみを受けることがあっても、あなたがたは幸いです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も神のみことばが、私たちの心にしみわたる時に、私たちの生きる慰めや励みとなり、力となっていきますように。そんなことを願いつつ、ローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想をしてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句に共通する言葉は「正しさ(義)」でした。正しさは私たちを幸いなものとするということを、この聖句は私たちに伝えています。しかし、その正しさとは何なのでしょうか?
 
私たちは誰でも、正しさというものを抱きながら生活しています。しかし、その正しさはまさに千差万別と言えるでしょう。正しさは、人に良かれ悪しかれ他者に影響を及ぼします。人のために正しさが働くこともあれば、自分自身を守るために正しさが主張され、発揮されることもあります。正しさという言葉が世の中のゆがみやねじれをただすこともあれば、自分のうちにある悪を正しさという言葉にすり替えて、悪が助長されることもあるでしょう。
 
だからこそ、本当の正しさとはどこにあるのかということに、私たちは思いを寄せることが大切なのだと思います。私たちには、ひとつの「正しさ」が提示されました。それは、まさに「神の正しさ」というものです。神は正しいお方である。この定義を事実と認め、その正しさによって生きる者こそ、たとえ苦しくても心の幸いが与えられ、その正しさによって生きるときに、神の正しさを帯びた者として、朝日の光、真昼の輝きのように、この世に対して、隣人に対して生きることが可能たらしめるというのです。これが、今日の聖書の言葉が伝えようとしていることなのです。
 
自分の主張を補強するために、独り善がりな正しさを前面に打ち立てるのではなく、神の正しさの前に自らを低めて生きようとしたときに、神は私たちに輝きを与えてくださることを信じて、この一日を歩んでまいりたいと思い、願わされます。そのような連鎖と連結こそ、この世の中のゆがみを矯正してくださる神に対する信頼を高めるものとなるのでしょう。
 
どうか、今日もそのような一日を過ごすことができますように。自らの正しさに生きるのではなく、神の正しさの前にみんなが恩恵を受けることができますように。そんなことを心から祈り、一日を過ごすことができますように。皆さんの生活が、素敵なものとなりますよう。心からお祈りします。

25/02/2026

2026.2.25(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書42章6節
わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書17章5節
すると、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」という声がした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
三寒四温とはよく言ったものだというくらい、暖かくなったり寒くなったりと、天気が安定しないこの頃ですが、そんななかでも健康が守られ、健全に神とともに歩むことができますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったこと。それは「握られた手を、私たちは握り返すことができるか?」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは握手をすることがあります。握手は、握られる手を私たちが握り返すことで成り立つ行為です。つまり、どんなに強く手を握手はられたとしても、その手を握り返さない限り、握手となることは決してありません。それは私たちの握力の問題ではありません。私たちが「手を握る気持ち」というものが、本当にあるかどうかというところにこそ、握手という行為が指し示す本質があります。
 
神は私たちの手を握ってくださった。これが、今日の旧約聖書のことばが私たちに伝えていることです。それは、私たちを造り、私たちを大切にし、それゆえに私たちひとりひとりを招かれようとする神の思いそのものである、ということです。神は私たちにつねに手を差し伸べて、私たちをしっかりと守ろうとしておられる、ということなのです。
 
そのような神の招きに対して、私たちはどうあることが大切なのでしょうか?しっかりと握り返すことができます。たとえ、握るだけの力が無かったとしても、握りたいという気持ちを相手に伝えることもできるでしょう。その一方で、差し伸べられた手を振り払うこともできるでしょうし、握られていることを「無かったことのように」して、歩むこともできます。つまり、私たちの側に、その選択が委ねられているということなのでしょう。
 
そのことが、今日の聖句が言わんとしていることなのだと、私は受け止めました。イエスが、弟子たちとともに暗闇の山へ出かけた時に、夜の空はまばゆく光りました。その光のなかから聞こえたのは、父なる神の声でした。その神から語られた言葉が、今日の新約聖書のみことばです。神は言います。「これに聞け」と。
 
イエスが私たちのために与えられたという事実は、まさに「神が差し伸べられた手」の具体的なかたちでした。その手であるイエスの言葉と行いを私たちが受け取り、私たちがその手を握り返すことができるかどうか。これこそ、「これに聞け」という神の私たちに対する語りかけであり、期待なのであると。四旬節2週目を迎えた今日、私たちひとりひとりに「神と握手すること」の大切さを伝えているような気がしてなりません。
 
伝えられたことを、私自身が自分自身にとって大切なものとして、しっかりと握り返したいという思いを大切にして、神とともに歩む者でありたい。これが、今日の私が受け止めたいと思ったことでした。皆さんのひとりひとりの手が、神としっかり握り合わされることで幸いな思いへと導かれることができますように。そのことを祈ります。どうぞ素敵な一日をお過ごしください!

24/02/2026

2026.2.24(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編140編13節
私は知っている
主が苦しむ人の訴えを取り上げ
貧しい人のために裁きを行うことを。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章15~16節
もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい」と言いながら、身体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょうか。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。今日も、私たちを命の道へと導かれる神が、皆さんとともにいてくださり、その行く道を守り、祝福してくださいますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「貧しい者に裁きを与える神」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
貧しい者への「裁き」とは何でしょうか。そこには、あくまで神の「公正」が十二分に働いていると私は考えています。貧しくされた者が貧しくされたままでいいはずがないのです。神はそもそも、誰もが神とともに生きることで幸せな日々を営めることを、心から願っているからです。
 
しかし、現実はそうではありません。貧しくされる者がますます貧しくされていくのです。神がおられるのに、どうしてそのようなことが起きるからでしょうか。それは、人間が「神になりたがる」からだと私は思います。神になろうとしている人間こそ、人から豊かさというものを奪い取り、大切な尊厳までも剥奪しようとするからです。
 
人間が神になることそのものが「罪の本質」です。神のようになれるという悪魔のささやきに、最初の人間夫婦はまんまと乗せられてしまいました。それ以来、神とともに歩む機会が与えられて、そのことで喜んでいるはずなのに、心の片隅では、自分自身が神よりも一番と考えてしまうようになっているのです。それが悲しきかな、人間の持っているさがであり、神に背を向けて歩むことを、自分自身で許してしまっているのです。
 
話は戻します。世の中に貧しさがあるのは、神の責任ではありません。私たち人間の側に、与えられた自由の誤用があるからです。だからこそ、私たちは神の公正な判断と、助けというものをどうしても必要とせずにはいられないのだと、私は思うのです。
 
神の公正さは、貧しいものにも豊かにするだけの力が働くことで、たとえ物質的に乏しかったとしても、精神的な喜びが私たちに与えられます。しかし、もし物質的な面でも豊かにされるとするならば、神の思い願いに私たちが進んで協力することによって、神の助けを心から認める者となることでしょう。果たして私にそれができているのか。そんなことを黙想しつつ、神が私たちを豊かにされることに、具体的な言動をもって表現していきたい。これが私の黙想でした。
 
今日も、すべてを見守られる神が、皆さんとともに歩んでくださいますように。そのことを願い、心からお祈りします。