30/09/2026

2026.9.30(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
歴代誌下15章2節
もしあなたがたが主を求めるなら、主はあなたがたに現れてくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章25~26節
女は言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知らせてくださいます。」
イエスは言われた。「あなたと話をしている私が、それである。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今日で9月も最終日を迎えました。いつになく自然災害の多かったこの一か月間でした。被災の地にある方々の痛みを思わずにはいられません。どうか、それら苦痛のなかにおられるすべての人々に、神の慰めと励ましが豊かにあることを、心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神である主を求めることの幸い」であると私は受け止めました。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、南イスラエル(ユダ)王国の第3代目の王であったアサに、預言者アザルヤが進言した言葉です。アサ王はこの時、順風満帆な王としての歩みをしていました。そんなアサ王に対して、アザルヤが語った言葉は「神である主を求める」ことをさらに勧めるものでした。このアザルヤの言葉にアサ王は素直に受け入れます。さらに、神とともに歩むことの大切さを、自らの政治に余すところなく生かしました。それによって、ユダ王国には長期間にわたる平和が訪れたのでした。
 
「得意冷然、失意泰然」という言葉がありますが、順調なときにこそ、順調であることの意味というものをじっくりと噛みしめたときに、そこに浮かび上がってくる神の御顔と深いまなざしがあることに感謝し、主とともに生きる喜びを味わいたいという憧れを大切にしたいと、襟を正されるような思いで、今日のみ言葉を受け入れたいと思いました。
 
そして、今日の新約聖書の言葉は、不幸な人生を歩んでいたサマリア人の女性に主イエスが現れたときの会話です。彼女はずっと救い主が現れるのを待ち望んでいました。その人生が不幸なものであったからこそ、彼女の希求の思いというものは特別だったのかもしれません。しかし、主はそんな彼女の求めに対して、確かに答えられました。
 
得意にあっても失意にあっても、神を求めることが私たちの人生を豊かにするのだ。そんなメッセージを胸にして、今日も一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神が豊かに臨んでくださいますように。心からお祈りします。

29/09/2026

2026.9.29(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ダニエル書2章20節
神の名が代々とこしえにたたえられますように。知恵と力は神のもの。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録7章12節
アーメン。賛美、栄光、知恵
感謝、誉れ、力、権威が世々限りなく私の神にありますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今日も、私たちをよろしくご支配くださる神が、私たちひとりひとりの心と行動を守り導いてくださいますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に聴きたいと思います。
 
今日の旧約・新約聖書に共通するテーマは「神をほめたたえる」というものでした。神をほめたたえることは、私たちの生活が順風満帆で、明らかに「神からの祝福」を感じるときにこそ、できるものなのではないかと思うのですが、では、逆風が吹き荒れて、船が難破してしまいそうなときにも、私たちは神をほめたたえることができるのだろうかということを、私はあらためて問いたいと思ったのです。
 
とうてい神をほめたたえることなどできない。これが偽らざる私たちの本音でしょう。しかし、そんなときにも神をほめたたえるとはどういうことなのかについて、今日のふたつの聖句は私たちに励ましを与えています。
 
今日の旧約聖書の言葉は、預言者ダニエルによる神への賛美でした。この時のダニエルは、祖国を離れて、バビロニア帝国の捕虜とされていました。神を自由に崇拝することの難しい環境のなかで、彼の境遇は決して幸せなものではありませんでした。しかし、ダニエルは、にもかかわらず、自分たちを守ってくださる神の存在に疑いの思いを挟むことなく、神を賛美し続けたのでした。神はそのダニエルを、後々大いに祝福することになります。
 
また、今日の新約聖書の言葉は、ヨハネの黙示録の一節でした。ヨハネの黙示録は、イエスをキリスト(救世主)と信じたがゆえに、時の政権であったローマ帝国からの激しい迫害のなかを生き抜いてきたクリスチャンたちに宛てられたものでした。過酷な環境のなかにあっても、キリストは必ず信仰者を守られる。この希望に満ち溢れた黙示録の内容は、読み手に大きな励ましを与えたに違いありません。
 
順調にあっても、逆境にあっても、それでも私たちは神を賛美することが大いに許されているのだ。これが、私が今日受け止めたいと思ったことでした。このような賛美が、のちのち神によって大きな祝福を感じるきっかけとなりますようにと祈りたいと思います。今日の一日の生活がそのような出来事への出会いの機会となりますように。皆さんの主にある平安を心からお祈りします。

28/09/2026

2026.9.28(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ホセア書2章21節
私はあなたと、とこしえの契りを結ぼう。
私は正義と公正、慈しみと憐れみをもって
あなたと契りを結ぶ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章16節
(イエスの言葉)
あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
昨日の「主の日」、皆さんはどのようにお過ごしでしたでしょうか。それぞれの充実した一日を送られたことと思います。そして、今日からウィークデイの日々が始まりました。どうか、平日の日々を歩まれるその一つひとつの出来事に、神が豊かにともなってくださいますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想つづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、預言者ホセアに神が与えられた「契り」でした。契約と書かず、あえて契りと日本語に訳したところに、温かみのようなものを感じたのは私だけでしょうか。そこには、この聖句に描かれているように、神の「慈しみと憐れみ」というものが充分に込められているような気がしてなりません。
 
ホセアが預言者として活動していた時代、神の民であるイスラエルは、自分たちの神をないがしろにして、魅力的な偶像に心が魅了されていました。そのような「不倫状態」は、実はホセア自身の家庭の状況そのものでもありました。ホセアの妻ゴメルは、不倫の末ホセアではない男性との子を産みます。このような不貞をホセアはどのように向き合わなければならなかったのか。ゴメルはその後、不幸な人生に見舞われますが、ホセアは神の慈愛と憐れみの心をもって、ゴメルとその子たちを引き取りました。
 
神が人間に結ばれる契りに込められたいつくしみとあわれみは、「正義と公正」という基盤があってこそのものであることが、今日の聖句から読み取れます。神の正しさ(ツェダカー)と公正(ミシュパート)があってこそ、神は人間の裏切りにも忍耐をもって応え、人間が神御自身のもとに帰って来ることができるようにしてくださったのです。
 
ですから、神の正義と公正なしには、愛もいつくしみもあわれみも全く存在しないのです。そのような神の愛に、私たちはどのように応えることができるだろうか。そんなことを強く思わされます。
 
私たちが自分の自由裁量で、数あるなかから神を選んだのではなく、神のそのような正義と公正によって、私たちが愛されて選ばれたのです。それが、十字架に架けられる前夜に、イエスによって弟子たちに語られた言葉の真意です。私たちひとりひとりが、この愛にしっかりとホールドされながら、新しい日々を歩むことができる幸いに、私たちひとりひとりが包まれたい。そんなことを思わされたのでした。
 
今日も、そんな神が私たちの一日を祝福へと導いてくださいますように。祈りつつ、皆さんの主にある平安を心よりお祈りします。

27/09/2026

2026.9.27(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
サムエル記上12章22節
主はその偉大な御名のゆえに、ご自分の民を決しておろそかにはなさらない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章25節
(イエスの祈り)
私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。新しいい一週間が始まりました。その先駆けとなる今日の礼拝が、大きな神の喜びをいただける場となりますように。そのことを心から祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に聴きたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなげる言葉は「神の御名」というものでした。このローズンゲンでも、幾たびも神の御名について私たちに思い起こさせる聖句が登場しています。旧約聖書だけでも約8,000回登場する神のお名前は、ヘブライ語4文字で表記される「ヤハウェ」と発音されていたであろう言葉です。この神のお名前には、「私はいる」という意味があることを、神御自身が遠い昔にイスラエルの指導者モーセとその民たちに告げられました。
 
私はいる。その言葉は、すべての存在を表す言葉として私たちに知らせるものです。存在とは「ある・いる・なる」という、英語でいうbe動詞が表す意味に相通じます。つまり、①私は神である。②私はあなたがたとともにいる。③私はあなたがたの神となる。という3つの意味であり、神があくまで私たちの神でいてくださるという確固たる約束が、私たちひとりひとりに与えられているというのです。
 
私たちをおろそかにしまいと働いてくださる神、その神の愛は、私たちを生かす機動力となり、私たちは神からいただいた愛をもって、この世界で生きることができるのだ。そのことを救い主イエスは望み、神に祈りをささげ、私たちのためにも祈ってくださいました。
 
この祈りに支えられながら、私たちは新しい一週間の日々を歩むことが許されています。どうかこの七日間のなかで出会う様々な出来事のなかで、神に出会う機会に喜べますように。その喜びを携えて、その旅路を歩むことができますように。心からお祈りします。

26/09/2026

2026.9.26(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ゼカリヤ書9章10節
その支配は海から海へ、大河から地の果てにまで至る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書24章14節
この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は朝から雨模様の仙台です。毎年度秋学期に担当している大学の講義が始まり、今、新幹線のなかからこの黙想をつづっています。新幹線のなかで黙想もへったくりもないのですが(もっと静かな環境でするべきなのでしょう)、御言葉に触れることのできる喜びをかみしめつつ、今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、想いをつづっていきたいと思います。
 
今日の聖句が指し示しているテーマは「神の良い言葉を全世界で分かち合う」というふうに私は受け止めました。神の言葉をいただいたとき、その言葉に感動や慰めを覚えたら、その感じたことを誰かと分かち合いたいと思うのは、ごくごく自然なことと言えるでしょう。
 
昨日、ある大学生がお母さまと一緒に、私の職場でおこなわれているご飯イベントに参加されました。その大学生の方は、キリスト教主義学校に入学されて、キリスト教に触れる機会ができて、大学での素敵な出会いがあるなかで、キリスト教に対して好印象を抱いているご様子でした。そこに、お母さまも一緒にいらっしゃったというわけです。
 
そのお母さまと話をする機会をいただきました。そのなかで、お母さまご自身もこれまでキリスト教に触れる機会がなかったのだそうですが、ひとつひとつの出会う機会のなかで、キリスト教に対する良いものを感じ取っておられるとのことでした。そして、私にこんなことを仰っておられました。「もっと聖書のこととか、キリスト教のことを伝えたら、その話を聞く人っていると思いますよ。私がそうでしたから」。
 
私はとても嬉しい気持ちにさせられるのと同時に、なんか身の引き締まるような思いもしたのです。昔から、とかく「宗教」というと、あやしいとか怖いという印象がどこかにつきまとっているのを、私は当事者として感じながらも、しかし、キリスト教ならばキリスト教が大切にしてきた魅力というものを分かち合いたいと思い続けてきました。だからこそ、「もっと聴く人がいると思いますよ」という言葉に、とても暖かい励ましを受けることができたのでした。
 
全世界に福音(神の国の良いたより)が伝えられるときに、それは何も遠い最果ての地のことだけを指しているのではありません。私たちの身近に、手の届くところにも、神様が与えられる良いものを分かち合うことのできる幸いが、十分に散りばめられているということを、私は自分自身のよき燃料としたいと思ったのでした。翌朝、明けてこの聖句をいただいたときに、昨晩に起きたできごとに、感謝をもって受け止めることができたのでした。
 
今日で一週間も最終日を迎えます。この七日間の旅路が、神様の豊かな守りと祝福のうちにありますように。そのことを心から願いつつ、明日への備えをすることができますようにと祈ります。皆さんの一切にも、神の守りと祝福がありますように。心からお祈りします。

25/09/2026

2026.9.25(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編144編15節
幸いな者、主を神とする民は。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙10章12節
同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
暑い日が続きながらも、空が秋の空になってきた仙台の街です。こうして季節が移ろいゆくのを感じることができるのは、本当にありがたく、感謝なことだなとつくづく感じさせられる朝を迎えることができました。今日も、与えられた命を尊べるようなときでありますように。祈りつつ、ローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、神の御声を聞いてまいりたいと思います。
 
今日の旧新約聖書のことばに共通するテーマは「神を私たちの神とすることへの幸い」というふうに私は受け止めました。「神を神とする」とはどういうことなのでしょうか。神が単に置物のようなものではなく、困ったときの神頼みのようなものでもなく、私たちの生活につねに神が「ともにいてくださる」ことへの深い自覚と感謝を抱くことなのかもしれません。
 
もちろん、困ったときの神頼みが悪いわけでなければ、置物のようにつねに見える場所に神を鎮座しておくことそれ自体が悪いわけでもありません。しかし、願わくば、私たちの生活の中心に、神がしっかりと据えられていること、私たちの心に神が置かれているからこそ、ときどきではなく、いつも神が私たちの生活に関わってくださっていることに喜べる、幸いを感じ取ることができるのではないだろうか。そんな気持ちにさせられたいのです。
 
どんな時でも、私たちは神を知るだけのさまざまな「素材」が散りばめられています。その素材が必ずしも、良い状況だけを示すわけではありません。触りたくない、できれば避けて通りたいような素材も、私たちの生活のなかには多々あるのであって、それらが私の生活を否応なしに襲うときに、私たちは「何を中心にしたらよいのだろうか」と思い悩むこともあるでしょう。
 
だからこそ、好調な時も不調なときも、得意なときも失意にあるときも、私たちは神がすぐそばにおられるからこそ、神に頼り、委ね、教えを受けることがいつでもできるからこそ、どんなときでも泰然でいられるのだ。これが、今日の聖書の言葉で物語られている「幸い」なのだということを改めて受け取って、新しい一日を主とともに歩みたいと思わされたのでした。
 
そんな一日が、今日も私たちの生活を充実したものとしてくださいますように。神にある幸いが、皆さんと豊かにありますことを、心からお祈りします。

23/09/2026

2026.9.23(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編103編2節
私の魂よ、主をたたえよ。そのすべての計らいを忘れるな。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章20節
いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父なる神に感謝しなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日でシルバーウィークも最終日を迎えます。今回の連休は、台風の襲来ということもあり、多くの被害があった数日間となりました。大切なものを失ってしまった方々のために、神の慰めを引き続き祈りたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が今日受け止めたいと思ったのは、「神に感謝する」というシンプル、しかし、私たちにとってとても重要なひと言でした。もはや自明のことではありますが、そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私は考えてみました。感謝と対極にある「不平不満」ということについてです。私たちの生活において、私たちのうちから不平や不満をすべて取り除いた時を過ごすことなど、なかなか無いのではないかと思うのは私だけでしょうか。少なくとも私は、ことあるごとに不平や不満を抱えたり、思ったり感じたり、時にはその感情が表出することすらあります。
 
自分の思うとおりにはいかない感情というものは、神への感謝の思いというものを容赦なく削ぐ力というものがあると思います。感謝している暇などないのです。感謝できないのは、神が私自身に不平不満の思いを抱くことに、何の手立てをすることがないからだと、神にその責任をなすりつけてしまうこともあるかもしれません。他責思考をもって、「自分は何にも悪くないのだ」と私たちは思いたくなるのです。
 
そう。今日の詩編の言葉にもあるように、神である主のなされたことを「忘れるな」とうたっているように、私たちはいとも簡単に、神の存在があることそのものへの感謝を忘れてしまうのです。だからこそ、私たちは「忘れないような営み」というのが、本当に必要なのだと思います。そのことを思うときに、私たちは「主イエス・キリストの名によって」という、今日の新約聖書の言葉が指し示す思いこそ、大切なのだと思わされます。
 
イエス・キリストのお名前によってというのは、イエスが私たちのキリスト(命の救い主)となられるために、何を思い、何を感じ、私たちにどのように触れてくださり、言葉と行いを残されたかということを、私たちが聖書の言葉から丹念に聴きとることから始まります。聴き取った声を私たちの心身に巡らせるために、神に祈り、聖霊の助けを求めるのです。そのための時間と機会というものを、積極的に得ていくことで、私たちは「感謝」というものがどういうものか、少しでも考えるきっかけとなれば、こんなに良いことはないのだと思いました。
 
今日の連休最終日が、主にある多くの喜びに感謝できるような一日となりますように。心からお祈りします。