28/02/2026

2026.2.28(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書29章16節
どうしてあなたがたはそう逆さまなのか。まるで粘土が陶工と等しくなったかのようだ。造られた者が造った者のことで「彼が私を造ったのではない」と言い、作品が作者のことで「彼は何もわかっていない」などと口にするとは。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章10節
私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。あっという間の一週間だったと、私などは思うのですが、皆さんはいかがだったでしょうか。目まぐるしく物事が進むなかにあっても、せめて神の言葉に向き合う時くらいは、心を落ち着かせ、ゆとりのあるひと時でありたい。そんな思いをもって、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の聖句に共通するワードは「神の作品」でした。具体的には、神によって造られた私たちのことを指しています。私たちは神の作品として、どのような思いをもって、それを受け止めることができるのでしょうか。
 
今日の旧約聖書の言葉は、痛烈な問いというものが私たちに突きつけられています。神の作品である私たちが、その作品をつくった神に対して、陶工と材料の関係になぞらえながら、不平不満を表す人間の姿について語られたものです。
 
私たちをどうしてこんな風につくったのか。粗悪な出来であると神に不平をこぼし、それをぶつけるのです。「他者のせいにする」ことで、自分自身の責任というものから逃避し、自分自身を正当化する人間の姿です。本当に神は私たちを「不良品」としてつくられたのでしょうか?
 
決してそうではありません。神は私たちを「最高傑作品」としてつくられました。しかし、それをどのように受け止め、つくられた作品を管理する責任は、私たち人間の側にあります。神はそのような作品である私たちに対して、「自由意思」という権利と義務を与えられたからです。
 
私たちの自由意思が、神の望まれる通りに働くのか、それともそのような関係性を破棄したうえで、自分に与えられた自由を、自分の好きな通りに用いるのか。そして、それが自分の思うとおりに自由が果たせないときに、その自由を、いとも簡単に他者のせいにするのです。こういうのを「他責思考」と言います。おのれの自由の誤用を棚上げにして、私たち人間は他責思考に立って、神の「頼りなさ」を責め、人のせいにすることによって、自分自身が「神」となってしまうのです。これこそ、聖書が一貫して語っている「罪」の根源であり、本質なのです。
 
神はそんなことをお望みになられません。だからこそ、私たちを罪の縄目から解放させるために、救い主イエス・キリストを私たちに与えられたのは神でした。神御自身が譲歩し、犠牲を払って私たちを大切にされたのは、私たちを造られた神御自身だったのです! 神はご自身の私たちに対する責任を十二分に果たされているのです。
 
私たちは、この神の責任に応える者として、自分自身の自由を行使する責任というものを大切にしたい。これが私の受け止めたいと思ったことです。
 
今日も一日の歩みのなかで、私たちに与えられた自由を、神が願われるようなかたちで、ゆがみなく用いることができますように。そして、明日の主の日に向かって備えることができますように。私たち一人ひとりが神の守りと平安を感じ取ることができますように。心からお祈りします。

27/02/2026

2026.2.27(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ネヘミヤ記1章6節
ああ、主よ、どうかあなたの耳を傾けて、私が今、あなたの僕たちのために昼も夜もあなたの御前で祈るこの祈りを聞いてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章7~8節
まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日、日本中で曇り空の一日になりそうですが、私たちの心や思いを曇らすような出来事や物事があるならば、神が私たちに晴れ間の心地よさを与えてくださいますように。そんなことを願いつつ、今日のローズンゲンに示された聖句に耳と心を傾けたいと思います。
 
今日選ばれたふたつの聖句に共通する言葉は「昼も夜も」でした。旧訳聖書では、昼も夜も神に祈る人に、耳を傾けてくださいと願う信仰者について、新約聖書では、どんなに非人道的な裁判官であっても、寡婦の熱烈な祈りには耳を傾けるだろうというたとえ話を引き合いに出しつつ、私たちの神は私たちの願いに必ず耳を傾けてくださるという、イエスの言葉が語られています。
 
昼も夜も、という言葉に、私たちはどのような印象を抱くでしょうか? 絶え間なく、どんな時でもあきらめることなく、呼吸するようになど、いろいろな印象が浮かび上がってきます。私はいつも思うのですが、私たちはたとえ祈ることがなかったとしても、神は私たちの思いをすべてご存知なのだから、祈ることそのものに意味はあるのだろうか、という問いに対して、そうであったとしても、神に祈ることはやはり大切なのだと。
 
子どもが親に対して、今日あったことを、「あのね、あのね」と一生懸命話そうする姿こそ、神に祈る私たちの姿なのかなと、私はイメージしたいのです。こどもは自分自身のうちにとどめておくというよりは、少しでも知って欲しい、わかって欲しい、理解してほしいと願い、そのことが果たされることによって安心感を得ることを心から望みます。私たちはこのようなこどもでありたい。人は聴いてくれなかったとしても、神は聴いてくださるのです!そんな思いをもって、神に祈る一日というものを営みたい。これが、私の受け止めたいと思ったことでした。
 
忙しいさなかにあったとしても、今日も私たちの一日をともに歩んでくださる神が、祈りを通して私たちに安心感を与えてくださいますように。その安心感こそ、私たちひとりひとりを生かすもといとなりますように。心からお祈りします。

26/02/2026

2026.2.26(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
箴言4章18節
正しい人の進む道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一3章14節
しかし、義のために苦しみを受けることがあっても、あなたがたは幸いです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も神のみことばが、私たちの心にしみわたる時に、私たちの生きる慰めや励みとなり、力となっていきますように。そんなことを願いつつ、ローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想をしてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句に共通する言葉は「正しさ(義)」でした。正しさは私たちを幸いなものとするということを、この聖句は私たちに伝えています。しかし、その正しさとは何なのでしょうか?
 
私たちは誰でも、正しさというものを抱きながら生活しています。しかし、その正しさはまさに千差万別と言えるでしょう。正しさは、人に良かれ悪しかれ他者に影響を及ぼします。人のために正しさが働くこともあれば、自分自身を守るために正しさが主張され、発揮されることもあります。正しさという言葉が世の中のゆがみやねじれをただすこともあれば、自分のうちにある悪を正しさという言葉にすり替えて、悪が助長されることもあるでしょう。
 
だからこそ、本当の正しさとはどこにあるのかということに、私たちは思いを寄せることが大切なのだと思います。私たちには、ひとつの「正しさ」が提示されました。それは、まさに「神の正しさ」というものです。神は正しいお方である。この定義を事実と認め、その正しさによって生きる者こそ、たとえ苦しくても心の幸いが与えられ、その正しさによって生きるときに、神の正しさを帯びた者として、朝日の光、真昼の輝きのように、この世に対して、隣人に対して生きることが可能たらしめるというのです。これが、今日の聖書の言葉が伝えようとしていることなのです。
 
自分の主張を補強するために、独り善がりな正しさを前面に打ち立てるのではなく、神の正しさの前に自らを低めて生きようとしたときに、神は私たちに輝きを与えてくださることを信じて、この一日を歩んでまいりたいと思い、願わされます。そのような連鎖と連結こそ、この世の中のゆがみを矯正してくださる神に対する信頼を高めるものとなるのでしょう。
 
どうか、今日もそのような一日を過ごすことができますように。自らの正しさに生きるのではなく、神の正しさの前にみんなが恩恵を受けることができますように。そんなことを心から祈り、一日を過ごすことができますように。皆さんの生活が、素敵なものとなりますよう。心からお祈りします。

25/02/2026

2026.2.25(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書42章6節
わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書17章5節
すると、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」という声がした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
三寒四温とはよく言ったものだというくらい、暖かくなったり寒くなったりと、天気が安定しないこの頃ですが、そんななかでも健康が守られ、健全に神とともに歩むことができますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったこと。それは「握られた手を、私たちは握り返すことができるか?」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは握手をすることがあります。握手は、握られる手を私たちが握り返すことで成り立つ行為です。つまり、どんなに強く手を握手はられたとしても、その手を握り返さない限り、握手となることは決してありません。それは私たちの握力の問題ではありません。私たちが「手を握る気持ち」というものが、本当にあるかどうかというところにこそ、握手という行為が指し示す本質があります。
 
神は私たちの手を握ってくださった。これが、今日の旧約聖書のことばが私たちに伝えていることです。それは、私たちを造り、私たちを大切にし、それゆえに私たちひとりひとりを招かれようとする神の思いそのものである、ということです。神は私たちにつねに手を差し伸べて、私たちをしっかりと守ろうとしておられる、ということなのです。
 
そのような神の招きに対して、私たちはどうあることが大切なのでしょうか?しっかりと握り返すことができます。たとえ、握るだけの力が無かったとしても、握りたいという気持ちを相手に伝えることもできるでしょう。その一方で、差し伸べられた手を振り払うこともできるでしょうし、握られていることを「無かったことのように」して、歩むこともできます。つまり、私たちの側に、その選択が委ねられているということなのでしょう。
 
そのことが、今日の聖句が言わんとしていることなのだと、私は受け止めました。イエスが、弟子たちとともに暗闇の山へ出かけた時に、夜の空はまばゆく光りました。その光のなかから聞こえたのは、父なる神の声でした。その神から語られた言葉が、今日の新約聖書のみことばです。神は言います。「これに聞け」と。
 
イエスが私たちのために与えられたという事実は、まさに「神が差し伸べられた手」の具体的なかたちでした。その手であるイエスの言葉と行いを私たちが受け取り、私たちがその手を握り返すことができるかどうか。これこそ、「これに聞け」という神の私たちに対する語りかけであり、期待なのであると。四旬節2週目を迎えた今日、私たちひとりひとりに「神と握手すること」の大切さを伝えているような気がしてなりません。
 
伝えられたことを、私自身が自分自身にとって大切なものとして、しっかりと握り返したいという思いを大切にして、神とともに歩む者でありたい。これが、今日の私が受け止めたいと思ったことでした。皆さんのひとりひとりの手が、神としっかり握り合わされることで幸いな思いへと導かれることができますように。そのことを祈ります。どうぞ素敵な一日をお過ごしください!

24/02/2026

2026.2.24(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編140編13節
私は知っている
主が苦しむ人の訴えを取り上げ
貧しい人のために裁きを行うことを。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章15~16節
もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい」と言いながら、身体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょうか。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。今日も、私たちを命の道へと導かれる神が、皆さんとともにいてくださり、その行く道を守り、祝福してくださいますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「貧しい者に裁きを与える神」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
貧しい者への「裁き」とは何でしょうか。そこには、あくまで神の「公正」が十二分に働いていると私は考えています。貧しくされた者が貧しくされたままでいいはずがないのです。神はそもそも、誰もが神とともに生きることで幸せな日々を営めることを、心から願っているからです。
 
しかし、現実はそうではありません。貧しくされる者がますます貧しくされていくのです。神がおられるのに、どうしてそのようなことが起きるからでしょうか。それは、人間が「神になりたがる」からだと私は思います。神になろうとしている人間こそ、人から豊かさというものを奪い取り、大切な尊厳までも剥奪しようとするからです。
 
人間が神になることそのものが「罪の本質」です。神のようになれるという悪魔のささやきに、最初の人間夫婦はまんまと乗せられてしまいました。それ以来、神とともに歩む機会が与えられて、そのことで喜んでいるはずなのに、心の片隅では、自分自身が神よりも一番と考えてしまうようになっているのです。それが悲しきかな、人間の持っているさがであり、神に背を向けて歩むことを、自分自身で許してしまっているのです。
 
話は戻します。世の中に貧しさがあるのは、神の責任ではありません。私たち人間の側に、与えられた自由の誤用があるからです。だからこそ、私たちは神の公正な判断と、助けというものをどうしても必要とせずにはいられないのだと、私は思うのです。
 
神の公正さは、貧しいものにも豊かにするだけの力が働くことで、たとえ物質的に乏しかったとしても、精神的な喜びが私たちに与えられます。しかし、もし物質的な面でも豊かにされるとするならば、神の思い願いに私たちが進んで協力することによって、神の助けを心から認める者となることでしょう。果たして私にそれができているのか。そんなことを黙想しつつ、神が私たちを豊かにされることに、具体的な言動をもって表現していきたい。これが私の黙想でした。
 
今日も、すべてを見守られる神が、皆さんとともに歩んでくださいますように。そのことを願い、心からお祈りします。

23/02/2026

2026.2.23(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書31章7節
声を響かせ、賛美して言え。「主よ、あなたの民をお救いください」と。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章68節
イスラエルの神である主は、ほめたたえられますように。主はその民を訪れて、これを贖われた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。

今日のローズンゲン黙想ですが、去る2月16日に間違って本日の聖句黙想をしてしまいました。ですので、今日はその再掲をしたいと思います。誠に申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いします。

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今日も、皆さんの一日を導かれて、私たちの歩みにともなってくださる神が、ご自分の言葉を通して、私たちを整えてくださいますように。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「救い」でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エレミヤ書の一節でした。エレミヤ書に記されていることは、神によって選ばれ、守られていた国民でありながらも、そのうえにあぐらをかきつづけていたイスラエルが、その代償として辛酸を舐めなければならなかったうえで、なおもその民をご自分の民として愛し、神の民として再生させようとする神の思いというものが、預言者エレミヤを通して明らかにされる、という物語です。
 
そして、今日の聖句はまさに、神がイスラエルにある人々を再生させようとして、民たちに語りかけている箇所です。そのメッセージは、自分自身を賛美しつつ「救ってください」と叫びなさい、というものでした。このような嘆願が、嘆願される側のほうから嘆願すべき側に対して語られているということが、とても不思議に感じながらも、どこまで民の再生を願い、そのために愛を注ぎ続けようとしている神がおられるのかと、そのように感じてならないのです。そんなことをしてまで、私たち人間のために備えてくださる方の譲歩を思わずにはいられません。
 
本来ならば、私たちが自分たちの至らなさに気付き、一から再生すべく感じ、考え、行動するというのが、責任を取るべき側の務めでしょう。しかし、そのすべすら見いだせない、どうして良いかわからないという環境のなかで、神はそんな民たちが五里霧中のうちにもがき苦しむことのないように、私たちが歩むことのできる道を備え、そのナビゲーションすら明らかにしてくださるというのです。本来、そんなことをする必要すらない神御自身が、ご自分を譲歩させて、私たちに迫っておられるのです。
 
これを、私たちは「贖い」という言葉で表現することができるのだと思います。贖いという言葉は、元来「身代金」を指す言葉です。私たちのために、私たちが本来の姿に戻されるために、神が私たちをそのような束縛状態から解放させるために、身代金をこれまでもかというくらい払ってくださっている。身銭を切って私たちを救い出そうとする神の態度が、贖いというかたちとなって明らかにされたのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、洗礼者ヨハネの父となったザカリヤの賛歌と呼ばれる箇所の冒頭部分です。神がイエス・キリストという救い主を与えるにあたって、その道備えをする務めにあたるヨハネが生まれたことを、ザカリヤは神に感謝しつつ、この賛美の言葉を述べました。神は私たちのもとを訪れて、私たちのために身代金を支払ってくれたのだと。この身代金こそ、救いの物語のために、神が私たちの意識にかかわらず与えてくださったすべてであるというのです。
 
私たちの反応の鈍さに迫り来る神。その神が今日も私たちとともにいてくださる。このことを心の希望として、一日を歩みたいと願わされました。皆さんにとっても、行く道を示してくださる神の守りと祝福が、存分にともにありますように。心からお祈りします。

22/02/2026

2026.2.22(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書29章19節
苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い
貧しい人々は
イスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二8章9節
あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、こんばんは。
今日も一日の夕べが訪れました。朝の時間に黙想をつづることができませんでしたので、簡単ではありますが。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想をつづりたいと思います。
 
イエスが十字架に架かられたことを心に思い巡らす四旬節(レント)の最初の日曜を、私たちは迎えました。それぞれの教会や集会で、礼拝が持たれて、神のみ言葉を通して、今週の日々を歩むにあたって考える良いきっかけが与えられたのではないかと思います。
 
私たちのために十字架上で、その命をささげられたイエス。そのイエスの「貧しさ」について、今日の聖句は私たちに告げています。貧しさによって豊かになる。この考え方は世の中のあり方と「あべこべ」な論理であると誰もが思うでしょう。しかし、そのあべこべな論理こそ、実に「神のみ業」として、私たちが自分自身の限界ある理解を超越して起こされるものなのだと、思えてならないのです。
 
大切なのは、この世界でまかり通っていることが、神の視点からすれば、それが決して「当たり前」のものではない、ということです。その当たり前でないものを、私たちがいかに神への信頼とともに心から受け止めることができるだろうか。ということなのでしょう。神の働かれるスペースに、私たちが身を委ねるとは、そういうことなのだろうと。それによって豊かさを味わうことが可能となることを信じたい。それが、私の黙想です。
 
今日も夜がやってまいりました。どうか、神がこの夜のひと時も、夜の休息のときも、神が祝福してくださいますように。心からお祈りします。