03/08/2026

2026.8.3(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編100編3節
主こそ神と知れ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録11章18節
(使徒ときょうだいたちは)「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を崇めた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まり、昨日はそれぞれの場所で主の日の礼拝のときをお過ごしになられたことと思います。今日から始まる週日の日々にも、神が皆さんお一人お一人に親しく臨んでくださいますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「私たちの想像をはるかに超える神」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、使徒ペトロがキリストによる救いを宣べ伝えるなかで、救いの「範囲」というものが、それまで救いの外にいたものと思われていた、ユダヤ人以外の「異邦人」にも及んだことに触れたことを、都エルサレムに報告したなかでの一節です。
 
これまで、ユダヤ人のあいだでは、救いの外にある異邦人に対しては、触れることすら忌み嫌われるような態度で接していたことが伺えます。もともと、神がイスラエルの民を自分の民として選んだことが、イスラエルの民たちに特権意識のようなものを生んだのでしょう。彼らのあいだから、異邦人に対するそのような思いが芽生え、定着したのでした。
 
異邦人にキリストのよいたよりを伝えたペトロを、ユダヤ人たちは汚らわしいと批判しました。しかし、ペトロのそのような行動は、自らの意思というよりは、神が幻を通してペトロにそのようなアプローチをされたからでした。あくまでペトロは、神のみ心によってそのようにしただけでした。これまで自分たちがそうであると信じ続けてきた壁が、神によって打ち破られる一瞬がここにあったのです。
 
だからこそ、ペトロの報告を聞いたキリストの弟子たちは、素直に神を賛美し、あがめることができました。私たちの固定観念を超えて、新たなステージへと進ませてくださる神が、私たちとともにおられるのだ。このことは、今日の旧約聖書の言葉である詩編100編3節にある「主こそ神と知れ」という、詩人の賛美に直結するものなのだと、私は受け止めることができたのでした。
 
今日も、私たちの心を更新してくださる神が、私たちに新たな思いを授けてくださいますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

01/08/2026

2026.8.1(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記5章21節
隣人のものを一切貪ってはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙5章16節
私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
8月を迎えました。そして、今週も最終日を迎えました。
昨日から、東京にある「学生キリスト教友愛会(SCF)」と、明治学院東村山高校ボランティアチームの皆さんが、仙台に来てくださっています。東日本大震災以来、私が働く東北教区センター「エマオ」と深いつながりにある、荒浜・笹屋敷町内会がおこなう夏祭りのボランティアをされるためです。昨日今日と、エマオを宿泊場所に利用してくださっています。感謝です。私も、後ほど夏季伝道実習に来ている神学生とともに、仙台の被災地を訪ねたいと思います。今日も一日が充実したときとなりますようにと祈りつつ、ローズンゲンに示されたみ言葉に聴きたいと思います。
 
今日与えられたふたつの聖句を通して、私が大切にしたいと思ったメッセージは、「尊厳を守る」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、「十戒(申命記版)」の一節でした。隣人のものを貪るなと、神はモーセを通して語られました。つまり、この戒めを考える際に、そもそも、私たちに与えられた「人間が幸福のうちに生きることのできる」こと、つまり「尊厳」というものは、どのように生まれるのかという問いは、大変重要なものとなります。
 
私たちは、さも自らの所有物や権利というものを、私だけの独占物のように考えます。それが目に見える現実ですから、そう思うのも無理がありません。しかし、その思いが助長すると、人が大切にしているものまで、我が物顔で奪ったり踏みにじったりするのも、悲しきかな、世の中の現実なのだと私は感じています。
 
だから、私たちが人間として幸福に生きるために、無くてはならない「尊厳」の源と言うことについて考えるのは、本当に必要なのだと私は思うのです。神がモーセを通して与えられた十戒のなかに、隣人のもの(尊厳)を貪る、つまり奪い取ってはならないと記載されているのは、尊厳の与え主は、私たちの神に他ならないという、基本的な教えによるものなのです。もちろん、私たちには自由が保障されていることに間違いないのですが、だからと言って、決して、私たちが好き勝手にできるようなものでないということを、私たちは深く認識する必要があるでしょう。
 
だからこそ、今日の新約聖書の言葉でも言及されている通り、「霊によって」、つまり、私たちは神の真心である聖霊の導きによるからこそ、私たちは他者を隣人とすることができるし、隣人が大切にしている物事は、神から与えられているのだと言う認識が生まれてくるのです。だからこそ、貪るという身勝手な行動から、自分自身を守ることができるし、神が守ってくださるということが、自らの尊厳にもつながっていくのでしょう。私は、今日の聖句をそのように受け止めたいと思いました。
 
どうか、今日の一日もまた、そのような神の守りのもとにありますように。熊本の地にあって被災しているすべての方に、神の慰めと実際的な助けがあることを、心より祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。どうぞ、キリストにあって、素敵な一日をお過ごしください。

31/07/2026

2026.7.31(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書9章6節
見よ、私は我が民を火で精錬し、試練を与える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章40節
祈りなさい。誘惑に陥らないために。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日で7月も最終日を迎えます。この一か月間、私たちはどのような日々を過ごすことができたでしょうか。それらの時を振り返りつつ、今日も与えられた神の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「私たちに訪れる試練の多くは、誘惑によるものである」ということでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
誘惑とは何だろうか。そんなことを考えます。ひと言でいえば「神がイエス・キリストを通して差し出してくださる方法以外を選択することが、私たちにとって幸いをもたらすのではないか」と感じ、思い、行動にいたる私たちの心境なのではないかと私は思いました。
 
神がイエス・キリストを通して差し出される方法は、時には魅力的なことを私たちに提示しますが、その反面、即効性がなく、現実的でもなく、実効性もないように見えることがあります。私の思うように神が動いてくださらない。そのことに私たちは待つことができず、どうしても耐えることができないのです。だからこそ、私が「気持ちよくなる方法」を見つけ、そのことに忠実になろうとする。これこそ「誘惑」が指し示す意味なのだと私は思うのです。
 
しかし、その方法を選択することは、いっ時の役得というものを私たちは経験するかもしれませんが、その思いが永続するとは決して限らないということは、歴史と私たちの経験が証明しているのではないだろうかと思えてならないのです。私たちが空しさを感じ、だれかの尊厳を犠牲にしてでも、私たちは大切にしなければならないことを踏みにじり、それを踏み台にして自分自身だけが幸せになろうとする。そこには平和は決して存在しないのです。
 
だからと言って、私たちの幸福というものが決してふいにされてもならないことも事実です。なぜならば、私たちに幸福を誰よりも願っておられるのは、神御自身であることに間違いないからです。だからこそ、私たちは神の願いとともに歩めるような幸福を味わうために、神が提示される方法によって、自分自身の生き方を神に「精錬」していただく必要なあるのだと。今日の旧約聖書の言葉が述べている通りです。
 
そのためにも、私たちは祈ることを忘れないでいたいと心から願います。神の言葉に聴き、尋ね、そして祈るのです。神との深い対話を通して、私自身の姿というものを吟味しつつ、自分自身が神の品性によって練られていくことを信じ、私自身の姿を見つめつつ、誘惑に対峙しながら神とともに歩むことが、私たちにとっての真の幸いなのだということを確認したいのです。
 
イエスがなぜ「祈りなさい」と弟子たちに告げられたのか。神の言葉とともに祈りというものがセットとなって、私たちは出会う日々の出来事のなかで、神に精錬されていくことを喜びたい。これが今日、私が受け止めたいと思ったメッセージでした。
 
どうか、神が私たちの心を守り、誘惑によらなくても生きていくことのできるような者でありますように。そのことを心から願いつつ、今日も一日、神からの平安と祝福をいただきたいと祈ります。皆さんの一日にも、主がともにいてくださることを実感できますように。心からお祈りします。

30/07/2026

2026.7.30(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ダニエル書11章32節
自分の神を知る民は揺るがず行動する。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録3章7,10節
聖なる方、真実な方がこう言われる。「あなたは忍耐について私の言葉を守った。だから試練の時に、私もあなたを守ろう。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
たとえ揺さぶられたとしても、芯さえしっかりとしているならば、立ち続けさせてもらえるのだ。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのはこのことでした。大地震によって多くの建物が倒壊している現状のなかで、このような言葉をつづるのは極めて不適切であるかもしれません。連日の報道を通して私の思いと心のなかで、そんなイメージがわいてきたのでした。
 
私たちは、絶対に「揺れない」ことはありません。大なり小なり、揺さぶられる経験というものは誰でもするのです。今日の旧約聖書・ダニエル書にある「揺るがず行動する」の意味とは、何があっても微動だにしない態度のことを指すのではないと、私は考えています。
 
そうではなくて、さまざまな要因によって揺さぶられる私たちの姿があったとしても、そのうえで、私たちは「何を芯とすることができるのか」というところに、思いを寄せる者でありたいと私は思うのです。では、その芯とは何でしょうか。それは、私たちを守ってくださる神御自身に他なりません。
 
私たちの中心を一本筋を通すように芯となってくださる神が、私たちの揺れ動きというものに耐えることができるように、しっかりと受け止めてくださる。今日の新約聖書の言葉である「試練の時に、私もあなたを守ろう」という、イエス・キリストの言葉に、私たちは心を寄せ、信頼することが許されているのです。
 
そのような思いをもって、私たちの揺れを一緒に担ってくださる神がともにおられることを、私たちの今日を生きる喜びとすることができますように。熊本の地で苦痛を味わっている方々のために祈りつつ、皆さんの主にある祝福を心よりお祈りします。

29/07/2026

2026.7.29(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編42編4節
昼も夜も、私は涙を食物とする。
人は日夜私に言う
「あなたの神はどこにいるのか」と。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙1章13~14節
(パウロの言葉)私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日、熊本県を震源とする大きな地震がありました。猛暑のなか、ライフラインが寸断されていることで、生活に苦痛を覚えられる方も多くおられることに心を痛めています。また、残念ながら命を奪われた方々や、その家族の悲しみを思うと、さらなる痛みを覚えずにはいられません。適切な助けが速やかになされることを祈りつつ、何とかして助けにならないかと思わされつつ、今日のローズンゲンを開きました。まさに、今日のみ言葉は、そのことをの如実に訴える聖書の言葉であると感じずにはいられなかったのです。
 
「あなたの神はどこにいるのか」と、人々は叫びます。私の心のうちもその叫びで大いに痛みます。誰も悪いわけではない。ただ自然のいたずらが人の生活を容赦なく襲い、そして苦しめるのです。この自然を目の前にして、私たちはどうすれば良いのか、ただそこに茫然と立ち尽くしてしまう。そんなことを想わされます。私が現在住んでいる仙台の地も、15年前に同様の経験をしました。私はその場に当時いませんでしたから、それを当事者として語ることはできません。しかし、今ともに生活を営んでいる大切な友たちからは、神がおられるから、神を信じているからと言って、即座に心を神に寄せることが難しかったという話も耳にします。この苦しみのなかで、神が応えてくださることを待ち望みながらもです。
 
昼も夜も涙を食物として生きることのつらさがあります。しかし、その神は必ず私たちのことを見捨てたりはしない。あてもなく、目に見える保証はたとえなかったとしても、私たちはそのことだけに、一縷の望みというものを託しつつ、与えられた日々を生きるしかないのかもしれません。そして、その望みというものを共有してくれる友たちの目に見える助けがあってこそ、神を具体的に見ることができるのかもしれません。だから、できることがあるのであれば、何とかして少しでも助けになりたいと心に願わずにはいられないのです。
 
望みを決して忘れない。そして望みを神に叫び、訴え、神のなさることにすべてを委ねつつも、私にできることを、神の真心をもって誠実に果たす。それがひとひとへの慰めへとつながっていきますようにと願います。今日の新約聖書の言葉は、投獄されていたパウロの姿勢が、人々に希望を与えたことが記されています。熊本は遠い地ではありますが、私がそのことを決して他人事にはせず、希望をもって祈り、そして心を寄せ、何か働きが許されるならば、その働きに有形無形のかたちで参加すること。これが、今日の聖書の言葉から聞こえたメッセージでした。
 
今日も、神である主の励ましと慰めが、ともに豊かにありますように。心からお祈りします。

28/07/2026

2026.7.28(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編44編9節
私たちは日夜、神を誇り
あなたの名にとこしえの感謝を献げます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章19節
主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も一日が、私たちの神である主の守りと平和が、私たちひとりひとりと豊かにありますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンを通して与えられた聖句から黙想をつづりたいと思います。
 
賛美するとは誇ること。そんな言葉が、今日の聖句を通して私のなかで浮かんだテーマでした。誇るとは何でしょうか。国語辞典を開きますと、「立派だと思う。誉れとする。また、その思いを言葉や態度にあらわす。」(広辞苑第七版)とありました。つまり、今日の詩編のことばにもあるように「神を誇る」とは、まさに、神を立派な方であることを嬉しく思う思いであり、その思いが私たち一人ひとりの人生における、言動にしっかりと表れるような生き方を営むことこそ、神を誇るということの真意なのです。
 
今日の聖書の言葉ではありませんが、この思いを使徒パウロは、次のように表現しました。「誇る者は主を誇れ」(コリントの信徒への手紙一1章31節他)。自分自身の限界ある富や力、権力や社会的地位を、さも自分自身の独占物のように見なして、その自分自身の姿に陶酔するような誇りではなく、そもそもそのことを与え、導き、私たちを幸いな者としてくださる神こそ、立派な御方なのだということを、私たちは心の底から喜ぶことができるのだということを、私たちは神を誇ることによって明らかにすることができるというのです。
 
その喜びのかたちこそ、賛美という手段によって私たちは表現することができるのです。だからこそ、賛美するとは誇ることであると、私はあらためてこの聖句から受け取ることができました。主がなされたことを、私たちは心から喜び、歌うことによって、主に向かって賛美することを可能とするのです。
 
私たちは賛美をするときに、何に感動するでしょうか。その音楽性のすばらしさや歌詞に込められたその意味が、私たちの心を鼓舞したり、慰めたりすることが往々にしてあるでしょう。しかし、そこには「私たちの好み」の問題が入り込むこともあるかもしれません。私たちには、どうしても好き嫌いというものが存在します。そのことを私たちはどうしても否定することができないのです。
 
だからと言って、好きだからそれが万人にとって素晴らしい、嫌いだから素晴らしくないなどという理由はどこにもありません。私たちは、自分自身の慣れ親しんだものや向きというものを「最高のもの」とみなせば、それは神を誇る手段というよりは、自分自身に対する誇りを助長するために、賛美を用いることになりかねません。
 
このことは、私たちの嗜好性というものを決して否定しているわけではありません。神は素晴らしい御方であるということを的確に表現しているものであるならば、そこには良し悪しなどというものは存在しないということを積極的に肯定していきたいということなのです。どのような賛美の歌を歌っても、そこには主を誇りとする大きな喜びがあるということを、私たちは心の底から感じ取ることができるように、歌詞に込められた言葉をもって、音楽性をもって、大切にしていきたいのです。そのように、私は今日の聖句を通して、受け取りたいと思ったのでした。
 
時に応じて、私たちが神を心から賛美することによって、主を誇るということを実質的に表現することができますように。そして、賛美から導かれる私たちの生き方というものを、大切にすることができますように。心からお祈りします。

27/07/2026

2026.7.27(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編34編16節
主の目は正しき人に注がれ
その耳は彼らの叫びを聞く。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書27章19節
ピラトが裁判の席についているとき、その妻が彼のもとに人をやって言わせた。
「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
主の日も終わりました。今日から土曜までの週日の日々もまた、皆さんにとって神とともにある生活において、豊かな祝福を感じることのできるものでありますように。そのことを祈りつつ、今日の聖句に心を寄せてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「正しさ」でした。私たちの神の正しさ、そして、その正しさを私たちに示されるために、私たちのもとに神から遣わされた救い主イエスの正しさが、今日の聖句を通して、私たちひとりひとりに与えられています。
 
私たちは、自分自身の生活において、「正しさ」というものについて、どのようにとらえているでしょうか。私たちは生まれながらにして、正しさというものを身に付けているとは思いますが、しかし、その多くは、私たちが育った環境と出会った人々、影響を受けた物事によって形成されていくのだと私は思っています。その形成されたものが、私たちが生まれながらにして抱いている正しさというものと融合されることで、自分なりの正しさというものへの観念が生まれていくのだと思うのです。
 
ですから、正しさに対する私たちの思いは千差万別とも言えるでしょう。しかし、この多様性は、良い方向というよりは、むしろ正しさと正しさの衝突を生み、人間関係に亀裂が生じることで、さまざまな差しさわりを生んでいるような気がしてならないのです。この世は大体、「自分が正しい」と思って、その正しさに従って生きています。誰だってそうです。ここで問題になるのは、自分自身の正しさを貫き通すことで、多くの痛みを生じさせる可能性がいくらでもある、ということなのだと私は思います。
 
今日の聖句は、神の正しさ、イエスの正しさについて、それをめぐる私たち人間がどのように向き合って言ったらよいのかについて、ひとつの示唆というものを与えているような気がしてなりません。「神の正しさを神の正しさとして受け入れ、神の所在なき私の正しさを神の正しさにすり替えない態度」というものこそ、同じ正しさによって、人と人とが生きていくためになくてはならない姿勢なのだと、私はぜひ受け止めたいのです。
 
そのために、私たちは、聖書の言葉から神の正しさとは何かを学びつつ、その正しさが人の尊厳を奪ったり、傷つけたりしないことをしっかりと心に刻みつつ、出会う人ひとりひとりに接し、その交わりを通して喜びを体験することが大切なのだと思うのです。その過程のなかで、自分自身の正しさというものが、本当に神の正しさを体現したものなのだろうかということについて、自問自答し続けることが、大切な営みなのだと。私は今日の二つの聖句をとおして、そのことを今週のウィークデイを生きるための意識したいこととして、歩んで行きたいとあらためて思わされました。
 
どうか、皆さんの生活もまた、神の正しさによって生きる幸いというものを豊かに味わうことができますように。心からお祈りします。