くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言3章5~6節
心を尽くして主に信頼し
自分の分別には頼るな。
どのような道を歩むときにも主を知れ。
主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書21章18節
よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
******
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して、私が受け止めたいと思ったのは「人は自分の思い通りにはいかない」ということです。そのなかで、私たちが見つけることができるものとはいったい何かについて、あらためて黙想したいと思いました。
私は昨日から、日本基督教団新任教師オリエンテーションで研修のときを過ごしております。二十数名の新任教師の皆さんがこの研修を受けられるのをともに過ごしつつ、私も19年前にこの研修を受けていたことを思い出しておりました。今回、私は主催者側の立場から新任教師の皆さんへのお手伝いをさせてもらっています。
キリストを伝えていくという務めと営みは喜びが多いが悲しみも多い。決して順風満帆とは言えない時だって経験することがある。礼拝メッセージや講演を伺っていますと、私よりもさらに経験のある先輩牧師たちからそのようなお話を伺います。しかし、同時にそのどなたも語られるのは、自分自身の力で成し得ようとすると必ずと言ってよいほど無理が生じるということでした。私も20年になろうとしている牧師としての歩みのなかで、そのことを痛感し、また心から実感させられることを思います。
伝道とは自分の所業ではなく、神の御業そのものなのだと。実際に働くのは私自身かもしれませんが、その背後には神である主の大きな働きのなかで私という人物が神の御心を自分の思いとしていただいて宣教をした結果としての神の御業なのだと。まさに今日の旧約聖書の言葉である、箴言3章の言わんとしていることなのだと私は受け止めました。
自分の思い通りにならない。このことは牧師として実感させられる大変必要な感覚かもしれません。なんでもかんでも自分の思い通りにいったら、私自身が何によって生きているのかということにおいて、大いなる勘違いをしてしまうかもしれないからです。もしかしたら、神の御業を賛美する前に、自分自身の手柄に酔いしれてしまうかもしれないのです。そこに鼻っ柱の強さを感じる自分自身など発見することができないのが、私たち人間の偽らざる姿なのでしょう。
若い者が若い時になんでもできたのに、歳をとればとるほど周りの助けなしには生きていけないということが、実は大きな祝福なのだということを、今日の新約聖書の言葉は私たちに知らせています。イエスがご自分の弟子であるペトロに対して語った言葉です。主イエスの弟子としてこれからも生きていくために無くてはならないこと。それは主の御業に助けられつつ生きていくことで得られる幸いというものをいかに大切にできるかということなのでしょう。自分自身の能力に頼ることではないのだと。
そんなことを思いつつ、主の御業に生きる幸いを今日も味わってまいりたいと思います。皆さんの一日に、神の御業が親しく臨んでくださいますように。心からお祈りします。