26/06/2026

2026.6.26(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ミカ書5章1節
エフラタのベツレヘムよ、あなたはユダの氏族の中では最も小さな者。あなたから、私のためにイスラエルを治める者が出る。その出自は古く、とこしえの昔に遡る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書2章1~2節
イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、黙想をつづる時間を確保することができませんでした。楽しみにしてくださった皆さんには、申し訳なく思っております。すみませんでした。
 
昨日眼科で受診し、左眼の手術を来週月曜(6月29日)におこなうこととなりました。ここがピンポイントで空いているということでしたので、ためらわず予約をしました。少しでも眼を大切にしなければと思い、手術を受けようと思います。それで、大変勝手ながら、1週間(6月29日~7月5日)黙想をお休みしたいと思います。重ねて申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに救い主イエスについての預言であり記述です。長い歴史を経て、私たちのもとに命の救い主が神によって与えられる。神はそのためにずっと働いてこられたことを、私たちはこれらの聖句から見つけ出すことができます。
 
つまり、神による救いというものは、今、この時にだけ起きているものでは決してなく、長い歴史を経ているという事実を、私たちは決して忘れてはならないのです。しかし、それは伝統や歴史に固執せよという意味でもありません。そうではなくて、神を通じて神が豊かに働かれてきた歴史があるということを、私たちは大切にするのだということです。
 
神の歴史を大切にするというのは、神を大切にするということです。だからこそ、私たちが歩んできた歴史というものが、「本当に神とともに歩んできた歴史なのか?」と問い続けることは、大変重要であると言えます。聖書を読めば、時に神の歴史と同調できず、乖離してしまった人間の歴史があったことを、いくらでも見つけ出すことができます。しかし、そんな私たちのために、心をこめて働いてくださった神の歴史を通して、人間がその神に導かれて生きようとした歴史もある。私たちは、その歴史を評価し、自分自身の歴史とするのです。
 
そして、その中心には、昨日も、今日も、そして明日もともにいてくださる主イエスがおられることを、私たちの今日を生きる糧としたい。そんなことを黙想させられました。
 
今日の一日も、神が私たちの歩みを導かれ、私たちが神の歴史の一ページを歩むことができますように。心からお祈りします。

24/06/2026

2026.6.24(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書64章8節
どうか主よ、激しくお怒りにならないでください。いつまでも過ちを覚えていないでください。御覧ください。私たちは皆、あなたの民です。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書3章8節
(先見者ヨハネの言葉)それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
『日々の聖句』日本語版には、今日6月24日は「洗礼者ヨハネ祭」とあります。洗礼者ヨハネの誕生を祝うという日とされています(もちろん、これは明確な証拠がある訳ではありません。クリスマスの半年前ということで、6月24日としているだけです。洗礼者ヨハネは、イエスが生まれる半年前に生まれたからです)。
 
ちなみに今日は、私が属する「日本基督教団」の創立記念日でもあります。今年で85年を迎えました。くしくもこの時に、教団の新任教師オリエンテーションの開催中であり、そこに参加していることに、不思議な感覚を覚えます。洗礼者ヨハネにしても、日本基督教団にしても、誕生日という節目を思うときに、それは「更新の時」であると私は感じたりしています。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、語ろうとしているメッセージは「悔い改め」であると私は受け止めました。悔い改め。それは「方向転換」という意味で語ることもできると思いますし、「思い直して歩む」という意味も与えるものであると私は考えています。昔のことをきれいさっぱり水に流して、無きものとするということではありません。過去に引きずられないで生きるために、神が私を更新させてくださる、思い直させてくださる。これこそ「悔い改め」の本質だと私は思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、民たちがこれまでの背反を神にざんげし、赦しを乞うシーンです。このとき、神がいなければ、私たちは思い直し、再び歩むことはできないという民の確信がありました。だから、神に真剣に願いました。そして、民は神に赦されて、神とともに歩むことができたのでした。
 
洗礼者ヨハネは言います。「悔い改めにふさわしい『実』を結べ」と。この実は、自分でならせるのでは決してありません。神とともに生きるときに、神の思いを自分の生き方としようと願ったときに、私のこの心身に神が実を結ばせてくださるのです。この神の業に、私たちは希望を託して、与えられた務めを果たしたい。これが、今日私が得た黙想でした。
 
どうか、一日の歩みが、悔い改めにふさわしい実を結ばせてくださる神とともに歩む幸いを味わうことができますように。お祈りします。

23/06/2026

2026.6.23(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編68編21節
彼らの神は救いの神。わが主は死から逃れさせてくださる神。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一6章14節
神は、主を復活させ、また、その力によって私たちをも復活させてくださいます。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、神である主にあって、皆さんの一日に豊かな祝福がありますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「復活信仰に生きる」です。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちにとって「死」とは、当たり前に受け入れなければならないものであることは確かです。しかし、聖書全体を通して私たちに伝える神のメッセージは、やはり神は、当初から私たちが死ぬことを想定されてはおられない方である、ということを私たちに伝えています。
 
だからこそ、死は神との関係性の破綻によって起きた、私たちの責任によって負わなければならないものなのです。しかし、私たちはその重さに耐えられないのです。死ぬことに耐えられないのです。なかなか受け入れることができないのです。
 
昨日、残忍な殺人事件に対する裁判所の判決が言い渡されました。人の命を失い、失なわれるなかで、死を恐れる犠牲者も加害者も、その双方の様子というものを伺い知ることができました。死が人間の産物の結果とはいえ、その死を受け入れられない私たちの弱さというものが、浮き彫りにされていることを痛感させられます。
 
だからこそ、死を受け入れられない私たちにとって必要なのは、その死を私たちから逃れさせてくださり、死からの解放と復活という希望を与えてくださる神に、私たちはすべての希望を託すことこそが、私たちができる唯一のことなのだと、今日の聖句は私たちに伝え、教えてくださっているのだと、私は受け止めたいと思います。
 
命の与え主である神に感謝しつつ、命の尊さを喜べるような一日となりますように。みなさんの平安を心からお祈りします。

22/06/2026

2026.6.22(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書2章2節
主はこう言われる。
私は覚えている
あなたの若い頃の誠実を
花嫁の時の愛を
種の蒔かれない地、荒れ野で
 あなたが私に従ってきたことを。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙3章14節
私たちは、初めの確信を終わりまでしっかりと保つならば、キリストにあずかる者となるのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日の礼拝から、私たちはまた新しい一週間の旅路に遣わされました。日々が神とともにある幸いを味わうことのできる時でありますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「初心を忘れない」であると、私は受け止めました。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日から3日間、私の属する日本基督教団では「新任教師オリエンテーション」が開催されます。この春、全国各地の教会や関係学校に遣わされた新任教師の先生方に対する研修と交流のときをもちます。私は準備委員の立場で参加します。思えば20年前、私もひとりの新任教師として、このオリエンテーションに参加したことを思い出しました。神学校を卒業したての者たちが3か月ぶりのリユニオンを果たしたり、他の神学校出身の先生方と良き交流を楽しんだりと、とても楽しい3日間でした。
 
その時のことを思い出していますと、宣教の場へ遣わされたことへの新鮮さとか、意気揚々とした「初心」の初々しさのようなものを振り返ることができますし、20ねん経った今、その初心に、私自身どのくらい帰ることができているだろうかと思ったりもします。初心に帰るというのは、とても重要なことだと改めて思わされます。時間が経つともに、当たり前でないことが当たり前のように思えてきて、鮮やかさというものが失われているようにも感じるからです。もちろん、時間が経つなかで神からいただくものはあまりにも多いので、そのことで満たされることも確かなのではありますが。。。
 
今日の聖句、特に旧約聖書に記されたメッセージは、神に背を向けたイスラエルの民が、かつては神とともにある幸いというものを、生きる土台としていたのに、今やそのことに新鮮さを失ってしまった自分たちの姿というものに注目した言葉です。新婚当初の新鮮さが、今や失われつつある。そのことを、神と民との関係性のたとえとして語られているのです。
 
かたちばかりは夫婦でも、その愛は冷え切ってしまっている。それを何となく惰性でやり過ごしているような状況は、決して良いものではありません。しかし、その関係になぞらえられた神と私たちの関係のなかで、神はかつての深い関係性のことを、決して忘れないと私たちに語り掛けてくださるのです。ここに帰りなさいと、神は私たちに手招きして待っていてくださるというのです。
 
それを、今日の新約聖書の言葉では「初めの確信」という言葉を用いて表現しています。子の確信は、イエスがキリスト(救い主)となられたという実体そのものに対する私たちの深い確信です。無いものを探るかのように得る確信では決してありません。私たちと関係性を求められる神が、間違いなく私たちに近づいてくださるということへの紛れもない確信なのです。
 
この確信に生きるために初心に帰る。私は新任教師の皆さんとともに過ごすなかで、今日一日の励みにしてまいりたいと思います。皆さんの一日も、そのような関係性のなかで与えられる大きな神からの祝福がありますように。心からお祈りします。

21/06/2026

2026.6.21(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨナ書2章3節
苦難の中から私が主に呼びかけると
主は答えてくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二12章9節
(パウロの言葉)主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい朝が訪れ、新しい一週間が訪れました。今日、世界中の教会で行われる主の日の喜びが、すべての礼拝や集会とともにありますように。そこに集われる皆さんが、主とともにある喜びに包まれますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示された聖句、特に新約聖書の言葉は、パウロによってつづられた、大変有名なものと言って良いでしょう。「我が恵み、汝に足れり」。主はパウロにそのようにお語りになられました。
 
私たちはそのことをなかなか評価できません。受け入れることができないのです。なぜなら、私がそんな恵みを十分に受けているという実感がないからかもしれません。資格がないと尻込みすることもあるでしょう。出会うのは苦しみばかり。そんななかで、神を知り、神を信じていたとしても、十分に「満足」することができないのです。
 
そうすると、自分自身を責め、また他責思考に陥っては、周囲や環境のせいにするのです。悲しいかな、これが私たちを取り囲む現実なのでしょう。しかし、パウロはつづりました。そんな私たちひとりひとりに、主の語りかけがあるのだと。それが「私の恵み」、つまり良いものは、あなたがたに十分に働いているのだ!私が、あなた方に対して精一杯働いているのだと。
 
私たちは弱い。本当に弱いんです。だから、この言葉を受け入れるだけの強さを持ち合わせてはいないんです。だからといって、私たちはさらに落ち込むのでしょうか。いいえ、決してそんなことはないのです。キリストが私たちのために働いてくださることそのものが、私たちの生きる「力」となるのです。キリストの働きが、私たちの弱さのすべてに、力として発揮してくださるというのです。
 
私たちは自力のみで、ある程度のことはできるでしょう。それを、私たちはあたかも手柄のように勝ち誇って、さも自分自身の獲得物のように豪語するのです。しかし、それは逆なのです。私たちの神の働きが、私たちのうちに御言葉と聖霊によって私たちのうちに注がれるからこそ、私たちは神の力と助けによって生きていくことが可能とさせられるのです。
 
このことを忘れずに、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。魚の腹という暗闇のなかに放り込まれたヨナですら、神の助けによって生きることができたのですから。
心からお祈りします。

20/06/2026

2026.6.20(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編71編23節
私の唇は喜び歌い、あなたに贖われた私の魂はあなたをほめ歌います。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章63~64節
父親は書き板を持って来させて、「その名はヨハネ」と書いたので、人々は皆不思議に思った。すると、たちまちザカリヤは口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになって、主をほめたたえた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨晩はたっぷりと休んで、朝もゆっくりと起きました。今日は午後に会議に出席するために東京へ向かっています。今、その車中からこの黙想をつづっています。
 
今日のローズンゲンによって選ばれたふたつの聖句に共通するキーワードは「賛美」です。賛美の歌を歌うこと。私たちはそれがたとえ賛美で無かったとしても、歌うということに喜びや楽しさ、心の満たされるような思いにさせられることをよく知っています。
 
私たちは教会の礼拝で賛美歌を歌うことがあるでしょう。歌うことが好きな方は、音符が自由に読める方は、歌うことに大きな充実感のようなものを感じるに違いありません。歌うのが苦手、声が小さい、そういう方でも、まわりで歌われるその歌声に、うっとりすることもあるかもしれません。もしかしたら、賛美歌に好き嫌いがあるかもしれません。歌詞にこだわりがあるかもしれません。自分の感覚に合わない、そんなことを思ったりするかもしれません。好き嫌いがあるということは、それだけ関心があるということの表れかもしれません。
 
いずれにせよ、歌うということが、私たちの生活ち切って離せないものであることは確かですし、神の民が長い歴史のなかで、神とともにあることの喜びの表現方法として、賛美という方法が用いられ続けてきたことを考えれば、私たちが賛美というものに、どのように向き合うことができるかについて、じっくりと考えることができるのではないかと私は考えます。
 
今日の聖句に「贖い(いわゆる「つぐない」と言ってもよい意味の言葉)」や、長い期間口から言葉を発することができなかったひとりの老人が、神によって再び話せるようになったときの心境として、賛美の歌を歌っていることに、私たちは注目したいと思います。賛美はなにも、順風満帆なときだけに歌うものではありません。つぐなってほしいとき、つぐなわなければならないと思っても、なかなかそのことが果たせない時、悩み苦しむとき、そして不自由を感じるときに、私たちはその想いを「神とつながるための大切な道具」として、賛美をゆたかに用いることができるのです。
 
このような思いが賛美に結び付いたとき、たとえ歌わなくても、歌ったとしても、その場にはえもいわれぬ充足感というものが満ち溢れるに違いありません。聖霊なる神がそのようにしてくださるのです。
 
私たちの誰もが、今日の営みのなかで、神とともにある喜びや望みを賛美に託すことができますように。皆さんが神に祝福されてお過ごしになられますように。心からお祈りします。

19/06/2026

2026.6.19(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編31編9節
あなたは私の両足を広々とした場所に立たせてくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒の手紙5章1節
この自由を得させてくださるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。

「自由には責任がともなう」
 
しばしば聞かれるこの言葉は、一説では心理学者フロイトが言い始めたものとは言われていますが、そうでなくても、古今東西誰もが認める常識として、広く知られているものであるというのが、本当のところかもしれません。なぜなら、「自由」によって、本当に人間が自由を味わう喜びを経験できた一方で、誰かが獲得した自由のもとで、自由が剥奪されることによって、「不自由」を経験しなければならない人たちも多く存在したのを、私たち人間はよく知っているからです。
 
神は自由を愛され、そして自由というものを私たちひとりひとりにお与えになられました。今日の旧約聖書・詩編の言葉は、自由というものがまさに神から与えられたことを、心から実感した詩人の賛美です。神がどのような思いで、私たちひとりひとりに自由を授けられたのかということを、この人は理解していました。足かせをはめられた状態では決してなく、広々としたところで両足を地につけて歩むことのできる幸いというものを、心の底から賛美したのです。
 
そしてこの賛美は、誰もが味わうことのできるものなのだということを、神は変わることなく、私たちに知らせてくださるのですが、しかし、人間世界は「誰もが」自由を味わうことができないよう、独り善がりな人たちによる「自由の占有」がなされ続けてきたのです。
 
つまり、私たち人間による個々人の自由観というものが、どのように形成されるかで、自由が自由でなくなってしまうということなのです。少なくとも、神が望まれる自由というものが、世界中に広がりゆくことを、私たちは心の底から認め、受け入れ、それを尊重することが求められるのだと、私はあらためて思わされます。
 
キリストが、私たちを不自由によってがんじがらめにされた状態から解放してくださった、このことが今日の新約聖書の言葉が意味するところです。後に宗教改革者マルティン・ルターは、「キリスト者の自由」という言葉を用いて、神の御心という基盤があってこそ、この自由が自由とされていくことを説きました。私たちもまた、自分が味わう自由というものが、本当に神に由来しているものなのかどうかを、じっくりと吟味する必要があるのです。
 
どうか今日の一日もまた、私たちが誰でも喜べる自由というものを謳歌することができますように。祈りつつ、主の御心とともに生きる幸いを味わうことができますように。心からお祈りします。