31/07/2026

2026.7.31(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書9章6節
見よ、私は我が民を火で精錬し、試練を与える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章40節
祈りなさい。誘惑に陥らないために。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日で7月も最終日を迎えます。この一か月間、私たちはどのような日々を過ごすことができたでしょうか。それらの時を振り返りつつ、今日も与えられた神の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「私たちに訪れる試練の多くは、誘惑によるものである」ということでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
誘惑とは何だろうか。そんなことを考えます。ひと言でいえば「神がイエス・キリストを通して差し出してくださる方法以外を選択することが、私たちにとって幸いをもたらすのではないか」と感じ、思い、行動にいたる私たちの心境なのではないかと私は思いました。
 
神がイエス・キリストを通して差し出される方法は、時には魅力的なことを私たちに提示しますが、その反面、即効性がなく、現実的でもなく、実効性もないように見えることがあります。私の思うように神が動いてくださらない。そのことに私たちは待つことができず、どうしても耐えることができないのです。だからこそ、私が「気持ちよくなる方法」を見つけ、そのことに忠実になろうとする。これこそ「誘惑」が指し示す意味なのだと私は思うのです。
 
しかし、その方法を選択することは、いっ時の役得というものを私たちは経験するかもしれませんが、その思いが永続するとは決して限らないということは、歴史と私たちの経験が証明しているのではないだろうかと思えてならないのです。私たちが空しさを感じ、だれかの尊厳を犠牲にしてでも、私たちは大切にしなければならないことを踏みにじり、それを踏み台にして自分自身だけが幸せになろうとする。そこには平和は決して存在しないのです。
 
だからと言って、私たちの幸福というものが決してふいにされてもならないことも事実です。なぜならば、私たちに幸福を誰よりも願っておられるのは、神御自身であることに間違いないからです。だからこそ、私たちは神の願いとともに歩めるような幸福を味わうために、神が提示される方法によって、自分自身の生き方を神に「精錬」していただく必要なあるのだと。今日の旧約聖書の言葉が述べている通りです。
 
そのためにも、私たちは祈ることを忘れないでいたいと心から願います。神の言葉に聴き、尋ね、そして祈るのです。神との深い対話を通して、私自身の姿というものを吟味しつつ、自分自身が神の品性によって練られていくことを信じ、私自身の姿を見つめつつ、誘惑に対峙しながら神とともに歩むことが、私たちにとっての真の幸いなのだということを確認したいのです。
 
イエスがなぜ「祈りなさい」と弟子たちに告げられたのか。神の言葉とともに祈りというものがセットとなって、私たちは出会う日々の出来事のなかで、神に精錬されていくことを喜びたい。これが今日、私が受け止めたいと思ったメッセージでした。
 
どうか、神が私たちの心を守り、誘惑によらなくても生きていくことのできるような者でありますように。そのことを心から願いつつ、今日も一日、神からの平安と祝福をいただきたいと祈ります。皆さんの一日にも、主がともにいてくださることを実感できますように。心からお祈りします。

30/07/2026

2026.7.30(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ダニエル書11章32節
自分の神を知る民は揺るがず行動する。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録3章7,10節
聖なる方、真実な方がこう言われる。「あなたは忍耐について私の言葉を守った。だから試練の時に、私もあなたを守ろう。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
たとえ揺さぶられたとしても、芯さえしっかりとしているならば、立ち続けさせてもらえるのだ。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのはこのことでした。大地震によって多くの建物が倒壊している現状のなかで、このような言葉をつづるのは極めて不適切であるかもしれません。連日の報道を通して私の思いと心のなかで、そんなイメージがわいてきたのでした。
 
私たちは、絶対に「揺れない」ことはありません。大なり小なり、揺さぶられる経験というものは誰でもするのです。今日の旧約聖書・ダニエル書にある「揺るがず行動する」の意味とは、何があっても微動だにしない態度のことを指すのではないと、私は考えています。
 
そうではなくて、さまざまな要因によって揺さぶられる私たちの姿があったとしても、そのうえで、私たちは「何を芯とすることができるのか」というところに、思いを寄せる者でありたいと私は思うのです。では、その芯とは何でしょうか。それは、私たちを守ってくださる神御自身に他なりません。
 
私たちの中心を一本筋を通すように芯となってくださる神が、私たちの揺れ動きというものに耐えることができるように、しっかりと受け止めてくださる。今日の新約聖書の言葉である「試練の時に、私もあなたを守ろう」という、イエス・キリストの言葉に、私たちは心を寄せ、信頼することが許されているのです。
 
そのような思いをもって、私たちの揺れを一緒に担ってくださる神がともにおられることを、私たちの今日を生きる喜びとすることができますように。熊本の地で苦痛を味わっている方々のために祈りつつ、皆さんの主にある祝福を心よりお祈りします。

29/07/2026

2026.7.29(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編42編4節
昼も夜も、私は涙を食物とする。
人は日夜私に言う
「あなたの神はどこにいるのか」と。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙1章13~14節
(パウロの言葉)私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日、熊本県を震源とする大きな地震がありました。猛暑のなか、ライフラインが寸断されていることで、生活に苦痛を覚えられる方も多くおられることに心を痛めています。また、残念ながら命を奪われた方々や、その家族の悲しみを思うと、さらなる痛みを覚えずにはいられません。適切な助けが速やかになされることを祈りつつ、何とかして助けにならないかと思わされつつ、今日のローズンゲンを開きました。まさに、今日のみ言葉は、そのことをの如実に訴える聖書の言葉であると感じずにはいられなかったのです。
 
「あなたの神はどこにいるのか」と、人々は叫びます。私の心のうちもその叫びで大いに痛みます。誰も悪いわけではない。ただ自然のいたずらが人の生活を容赦なく襲い、そして苦しめるのです。この自然を目の前にして、私たちはどうすれば良いのか、ただそこに茫然と立ち尽くしてしまう。そんなことを想わされます。私が現在住んでいる仙台の地も、15年前に同様の経験をしました。私はその場に当時いませんでしたから、それを当事者として語ることはできません。しかし、今ともに生活を営んでいる大切な友たちからは、神がおられるから、神を信じているからと言って、即座に心を神に寄せることが難しかったという話も耳にします。この苦しみのなかで、神が応えてくださることを待ち望みながらもです。
 
昼も夜も涙を食物として生きることのつらさがあります。しかし、その神は必ず私たちのことを見捨てたりはしない。あてもなく、目に見える保証はたとえなかったとしても、私たちはそのことだけに、一縷の望みというものを託しつつ、与えられた日々を生きるしかないのかもしれません。そして、その望みというものを共有してくれる友たちの目に見える助けがあってこそ、神を具体的に見ることができるのかもしれません。だから、できることがあるのであれば、何とかして少しでも助けになりたいと心に願わずにはいられないのです。
 
望みを決して忘れない。そして望みを神に叫び、訴え、神のなさることにすべてを委ねつつも、私にできることを、神の真心をもって誠実に果たす。それがひとひとへの慰めへとつながっていきますようにと願います。今日の新約聖書の言葉は、投獄されていたパウロの姿勢が、人々に希望を与えたことが記されています。熊本は遠い地ではありますが、私がそのことを決して他人事にはせず、希望をもって祈り、そして心を寄せ、何か働きが許されるならば、その働きに有形無形のかたちで参加すること。これが、今日の聖書の言葉から聞こえたメッセージでした。
 
今日も、神である主の励ましと慰めが、ともに豊かにありますように。心からお祈りします。

28/07/2026

2026.7.28(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編44編9節
私たちは日夜、神を誇り
あなたの名にとこしえの感謝を献げます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章19節
主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も一日が、私たちの神である主の守りと平和が、私たちひとりひとりと豊かにありますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンを通して与えられた聖句から黙想をつづりたいと思います。
 
賛美するとは誇ること。そんな言葉が、今日の聖句を通して私のなかで浮かんだテーマでした。誇るとは何でしょうか。国語辞典を開きますと、「立派だと思う。誉れとする。また、その思いを言葉や態度にあらわす。」(広辞苑第七版)とありました。つまり、今日の詩編のことばにもあるように「神を誇る」とは、まさに、神を立派な方であることを嬉しく思う思いであり、その思いが私たち一人ひとりの人生における、言動にしっかりと表れるような生き方を営むことこそ、神を誇るということの真意なのです。
 
今日の聖書の言葉ではありませんが、この思いを使徒パウロは、次のように表現しました。「誇る者は主を誇れ」(コリントの信徒への手紙一1章31節他)。自分自身の限界ある富や力、権力や社会的地位を、さも自分自身の独占物のように見なして、その自分自身の姿に陶酔するような誇りではなく、そもそもそのことを与え、導き、私たちを幸いな者としてくださる神こそ、立派な御方なのだということを、私たちは心の底から喜ぶことができるのだということを、私たちは神を誇ることによって明らかにすることができるというのです。
 
その喜びのかたちこそ、賛美という手段によって私たちは表現することができるのです。だからこそ、賛美するとは誇ることであると、私はあらためてこの聖句から受け取ることができました。主がなされたことを、私たちは心から喜び、歌うことによって、主に向かって賛美することを可能とするのです。
 
私たちは賛美をするときに、何に感動するでしょうか。その音楽性のすばらしさや歌詞に込められたその意味が、私たちの心を鼓舞したり、慰めたりすることが往々にしてあるでしょう。しかし、そこには「私たちの好み」の問題が入り込むこともあるかもしれません。私たちには、どうしても好き嫌いというものが存在します。そのことを私たちはどうしても否定することができないのです。
 
だからと言って、好きだからそれが万人にとって素晴らしい、嫌いだから素晴らしくないなどという理由はどこにもありません。私たちは、自分自身の慣れ親しんだものや向きというものを「最高のもの」とみなせば、それは神を誇る手段というよりは、自分自身に対する誇りを助長するために、賛美を用いることになりかねません。
 
このことは、私たちの嗜好性というものを決して否定しているわけではありません。神は素晴らしい御方であるということを的確に表現しているものであるならば、そこには良し悪しなどというものは存在しないということを積極的に肯定していきたいということなのです。どのような賛美の歌を歌っても、そこには主を誇りとする大きな喜びがあるということを、私たちは心の底から感じ取ることができるように、歌詞に込められた言葉をもって、音楽性をもって、大切にしていきたいのです。そのように、私は今日の聖句を通して、受け取りたいと思ったのでした。
 
時に応じて、私たちが神を心から賛美することによって、主を誇るということを実質的に表現することができますように。そして、賛美から導かれる私たちの生き方というものを、大切にすることができますように。心からお祈りします。

27/07/2026

2026.7.27(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編34編16節
主の目は正しき人に注がれ
その耳は彼らの叫びを聞く。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書27章19節
ピラトが裁判の席についているとき、その妻が彼のもとに人をやって言わせた。
「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
主の日も終わりました。今日から土曜までの週日の日々もまた、皆さんにとって神とともにある生活において、豊かな祝福を感じることのできるものでありますように。そのことを祈りつつ、今日の聖句に心を寄せてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「正しさ」でした。私たちの神の正しさ、そして、その正しさを私たちに示されるために、私たちのもとに神から遣わされた救い主イエスの正しさが、今日の聖句を通して、私たちひとりひとりに与えられています。
 
私たちは、自分自身の生活において、「正しさ」というものについて、どのようにとらえているでしょうか。私たちは生まれながらにして、正しさというものを身に付けているとは思いますが、しかし、その多くは、私たちが育った環境と出会った人々、影響を受けた物事によって形成されていくのだと私は思っています。その形成されたものが、私たちが生まれながらにして抱いている正しさというものと融合されることで、自分なりの正しさというものへの観念が生まれていくのだと思うのです。
 
ですから、正しさに対する私たちの思いは千差万別とも言えるでしょう。しかし、この多様性は、良い方向というよりは、むしろ正しさと正しさの衝突を生み、人間関係に亀裂が生じることで、さまざまな差しさわりを生んでいるような気がしてならないのです。この世は大体、「自分が正しい」と思って、その正しさに従って生きています。誰だってそうです。ここで問題になるのは、自分自身の正しさを貫き通すことで、多くの痛みを生じさせる可能性がいくらでもある、ということなのだと私は思います。
 
今日の聖句は、神の正しさ、イエスの正しさについて、それをめぐる私たち人間がどのように向き合って言ったらよいのかについて、ひとつの示唆というものを与えているような気がしてなりません。「神の正しさを神の正しさとして受け入れ、神の所在なき私の正しさを神の正しさにすり替えない態度」というものこそ、同じ正しさによって、人と人とが生きていくためになくてはならない姿勢なのだと、私はぜひ受け止めたいのです。
 
そのために、私たちは、聖書の言葉から神の正しさとは何かを学びつつ、その正しさが人の尊厳を奪ったり、傷つけたりしないことをしっかりと心に刻みつつ、出会う人ひとりひとりに接し、その交わりを通して喜びを体験することが大切なのだと思うのです。その過程のなかで、自分自身の正しさというものが、本当に神の正しさを体現したものなのだろうかということについて、自問自答し続けることが、大切な営みなのだと。私は今日の二つの聖句をとおして、そのことを今週のウィークデイを生きるための意識したいこととして、歩んで行きたいとあらためて思わされました。
 
どうか、皆さんの生活もまた、神の正しさによって生きる幸いというものを豊かに味わうことができますように。心からお祈りします。

25/07/2026

2026.7.25(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編68編6~7節
みなしごの父となり
やもめの裁き手となるのは
聖なる住まいにいます神。
神は孤独な人を家に住ませ
捕らわれ人を幸福へと導かれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章14節
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日で一週間の旅路も最終日を迎えました。今日の一日が、明日の主の日に向かう備えの一日となりますように。この七日間に起きた出来事を振り返りつつ、今日も与えられたみ言葉に、耳と心を傾けていきたいと思います。
 
今日のローズンゲンを通して選ばれたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「私たちは決して孤独ではない」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書・詩編のことばに記されているのは、孤児の父となり、未亡人の裁き手となる神についてでした。親を亡くし、配偶者を失った者たちの孤独を、私たちの神は親となり、裁き手となってくださると詩人は歌いました。
 
裁き手とは、公平に物事を取り扱い、その人が不利益をこうむることのないように、対処してくださる役割を持つ存在のことを指します。もちろん、この場合の裁き手とは、孤独なものが孤独であり続けるがゆえに味わわなければならない不利益から、人々を解放してくださるという意味で用いられていますから、まさに、私たちの神がそのように、人間の孤独から解放してくださる方なのだということを表しているわけです。
 
それは私たちにとって、大きな慰めになるに違いありません。
 
私たちは日々の生活、人と人とのかかわりのなかで、多種多様な孤独を味わうことがあるでしょう。そのときの空しさというものは、私たちの安心に容赦なく攻撃を仕掛けるのです。人の集団のなかで、わいわいと騒ぐことがあったとしても、心がぽっかりと穴が開く経験というものを、私たちはしたことがないでしょうか。いろいろな幸せの機会に恵まれても、私の心の穴を埋めることができない時も、往々にしてあるものです。
 
しかし、それでも私たちは決して孤独ではないというのです。神の慰めが私たちを手当てするのです。キリストが私たちのために痛んでくださったという事実が、私たちの痛みや傷というものを守り、これ以上傷がさらされたり、さらに傷が広がらないように軟膏でしっかりとガードし、ガーゼのような柔らかい布を当てて、傷の回復に当たらせてくださる。これが神による慰めに他なりません。
 
私たちもこの七日間の生活を通して、大小さまざまな傷を負ったかもしれません。疲れそのものが私たちにとっての傷かもしれません。しかし、新しい週の夜明けとともに、その傷は、神が語りかけられる言葉と、聖霊の助けによって回復へと向かわせてくださる。そのことを十分に受けるために、今日の一日が良き備えの時となるように、私たちは祈りつつ、与えられた一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
どうか、皆さんの新しい一日もまた、神からの豊かな慰めを感じ取り、それを心地よく受ける機会となりますように。心からお祈りします。

24/07/2026

2026.7.24(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨブ記9章10節
神は偉大なことをなさり、究め難く
その驚くべき業は数えきれない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章14節
主イエスを復活させた方が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと共に御前に立たせてくださると、私たちは知っています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日午後から、30度を下回り、涼しい陽気の仙台です。今日は雨の一日の予想です。梅雨に戻ってしまったような感じもしますが、雨が緑をうるおすこともまた恵みなので、そんな一日に感謝しながら、与えられた時を過ごしたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日、私が受け止めたいと思ったのは、「神のなさることの不思議さと偉大さ」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
義人ヨブは、みずからに災難がこれまでもかと降りかかった時に、それでも自分に命を与えられる神をほめたたえました。そして「神のなさることは究め難い」と、ヨブは神をそのように見ていたことが、今日の旧約聖書の言葉に記されています。ヨブは、悪魔のいたずらによって、神から祝福されたことへのしるしとしての財産や家族を、ことごとく奪い去られてしまいます。それどころか、ヨブ自身の健康までもが奪われてしまいました。
 
そのような時に、私たちはどのように考えるでしょうか。神がおられるならば、なぜそのような苦しみに遭わなければならないのかと、自分の境遇をうらみ、神の無力さというものを感じることもあるでしょう。それでも、ヨブは「神は偉大なのだ」という、かつての記憶をかき消すことは決してなかったのです。
 
ヨブは、自らのかつての記憶のなかで、しっかりと神のなさることは、人間のちっぽけな知識の範囲では想像もできないくらいに、素晴らしいものなのだというところに、自分自身の確信を置いていたのでしょう。だからこそ、苦難の中でも、それを励みとして生きることができた。今日の聖句は、そのようななかで語られたヨブの神に対する告白であったのです。
 
私たちは、このヨブの姿勢に聴きたいのです。実際に、私たちは、より明らかにされた「神からの救い」というものを、イエス・キリストによって得ることが大いに許されているのです!イエスを犠牲として惜しみなく差し出しただけではなく、死からの復活というできごとを通して、神が与えられた命というものを決して無駄にしない神の人間に対する姿勢というものが、私たちひとりひとりに明らかにされたのでした。これこそ、「神の偉大なみわざ」そのものなのだと。
 
今日も、私たちの命を活かしてくださる神が、ご自分の偉大なみわざを私たちに明らかにして、それを見せてくださるのです。もし、そのようなことを感じられない私があるならば、必ず神は良きように導いてくださるということを、私たちの希望として生きていきたいのです。今日の聖句を通して、私が受け取りたいと思ったメッセージはそのようなものでした。
 
どうか、今日の一日も、皆さんの一切に恵みを雨を降らせてくださる神が、平安と祝福を注いでくださいますように。心よりお祈りします。