くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編40編18節
私は苦しむ者、貧しい者。
わが主が顧みてくださるように。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章12~13節
(パウロの言葉)
私は貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、こんにちは。
今朝はゆっくりと過ごして、もう昼前ですが、ここから一日の活動を始めました。朝に黙想をお届けできず、いつも朝に読んでくださる方々には、申し訳ないばかりです。一週間も最終日を迎えました。この七日間の旅路を振り返りながら、今日与えられたみ言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
今日のローズンゲンに示された旧約聖書の言葉は、詩編40編の最終節でした。詩編40編はダビデ王によって歌われた詩編ですが、その内容を読んでみますと、ダビデのような神の祝福にあふれながら生きていた人物ですら、多くの苦しみにまみれながら、そこに悩み、逡巡しながらも神とともに生きる幸いを見い出したというダビデの心情というものを読み取ることができるわけです。
ダビデは王として、多くの幸福を味わっていたことは間違いないでしょう。しかし、そんなダビデが災いや苦しみから一切縁が無かったと言えば、そんなことは全くありませんでした。人のあざけりや中傷がダビデを容赦なく襲うことも少なくありませんでした。ダビデ自身の問題もあったことでしょう。そのようななかで、神が与えた幸福と裏腹の災いというものの両方を抱えながら、神が自分自身とともに歩まれるとは、一体どういうことなのだろうかと、ダビデは真剣に祈りつつ、考えていたからこそ、詩編40編のような詩が生まれたのだと私は思うのです。
私の苦しさ、そして貧しさを、すべて神である主はご存知であり、こんな私を顧みてくださるのだ。これがダビデの信仰でした。その態度には好戦的・攻撃的なものではなく、あくまで神のみ前にあって、身と心が低くされた姿というものを、私は感じずにはいられないのです。私自身も、日々を生きるなかで、苦しさや自分自身の貧しさというものを痛感し、実感しながら営む者ですが、そういうときに、痛み苦しみに苛まれながらそのことで頭がいっぱいになってしまうがゆえに、神を忘れてしまうことも往々にしてあるのです。実に弱い存在なのです。
しかし、ダビデの「神が顧みてくださる」という告白の言葉に、私もそのような告白を神に向けて発したいという憧れを抱きます。神様が分かっていてくださるのだ。そのうえで、私に必要なことを教え、諭し、戒め、矯正しながら、主の道を歩ませてくださることにこそ、苦しみのなかの幸いというものを味わえるということに、希望を抱いて生きたいとあらためて願わされました。
後に使徒パウロは、投獄の身にあってフィリピに宛てて書いた手紙で、「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」とつづりました。私は、その「秘訣」とは何かということに注目したいと思いました。しかし、それは決して突飛なことでも何でもなく、やはり「主がともにおられる」という一点に尽きるのではないかと強く思わされたのです。それ以外にはない。自分の殻に閉じこもるのではなく、すべてご存知である方に自分自身を整えてもらうことにこそ、あらゆる境遇にあっても、心おだやかに生きることができるのだと。そのことに心を込めつつ、今日という一日を生きて、明日への備えを迎えていきたいと思わされました。
どうか、皆さんにとっての一日もまた、明日への備えが希望にあふれたものでありますように。そのことを心からお祈りします。