26/02/2026

2026.2.26(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
箴言4章18節
正しい人の進む道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一3章14節
しかし、義のために苦しみを受けることがあっても、あなたがたは幸いです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も神のみことばが、私たちの心にしみわたる時に、私たちの生きる慰めや励みとなり、力となっていきますように。そんなことを願いつつ、ローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想をしてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句に共通する言葉は「正しさ(義)」でした。正しさは私たちを幸いなものとするということを、この聖句は私たちに伝えています。しかし、その正しさとは何なのでしょうか?
 
私たちは誰でも、正しさというものを抱きながら生活しています。しかし、その正しさはまさに千差万別と言えるでしょう。正しさは、人に良かれ悪しかれ他者に影響を及ぼします。人のために正しさが働くこともあれば、自分自身を守るために正しさが主張され、発揮されることもあります。正しさという言葉が世の中のゆがみやねじれをただすこともあれば、自分のうちにある悪を正しさという言葉にすり替えて、悪が助長されることもあるでしょう。
 
だからこそ、本当の正しさとはどこにあるのかということに、私たちは思いを寄せることが大切なのだと思います。私たちには、ひとつの「正しさ」が提示されました。それは、まさに「神の正しさ」というものです。神は正しいお方である。この定義を事実と認め、その正しさによって生きる者こそ、たとえ苦しくても心の幸いが与えられ、その正しさによって生きるときに、神の正しさを帯びた者として、朝日の光、真昼の輝きのように、この世に対して、隣人に対して生きることが可能たらしめるというのです。これが、今日の聖書の言葉が伝えようとしていることなのです。
 
自分の主張を補強するために、独り善がりな正しさを前面に打ち立てるのではなく、神の正しさの前に自らを低めて生きようとしたときに、神は私たちに輝きを与えてくださることを信じて、この一日を歩んでまいりたいと思い、願わされます。そのような連鎖と連結こそ、この世の中のゆがみを矯正してくださる神に対する信頼を高めるものとなるのでしょう。
 
どうか、今日もそのような一日を過ごすことができますように。自らの正しさに生きるのではなく、神の正しさの前にみんなが恩恵を受けることができますように。そんなことを心から祈り、一日を過ごすことができますように。皆さんの生活が、素敵なものとなりますよう。心からお祈りします。

25/02/2026

2026.2.25(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書42章6節
わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書17章5節
すると、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」という声がした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
三寒四温とはよく言ったものだというくらい、暖かくなったり寒くなったりと、天気が安定しないこの頃ですが、そんななかでも健康が守られ、健全に神とともに歩むことができますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったこと。それは「握られた手を、私たちは握り返すことができるか?」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは握手をすることがあります。握手は、握られる手を私たちが握り返すことで成り立つ行為です。つまり、どんなに強く手を握手はられたとしても、その手を握り返さない限り、握手となることは決してありません。それは私たちの握力の問題ではありません。私たちが「手を握る気持ち」というものが、本当にあるかどうかというところにこそ、握手という行為が指し示す本質があります。
 
神は私たちの手を握ってくださった。これが、今日の旧約聖書のことばが私たちに伝えていることです。それは、私たちを造り、私たちを大切にし、それゆえに私たちひとりひとりを招かれようとする神の思いそのものである、ということです。神は私たちにつねに手を差し伸べて、私たちをしっかりと守ろうとしておられる、ということなのです。
 
そのような神の招きに対して、私たちはどうあることが大切なのでしょうか?しっかりと握り返すことができます。たとえ、握るだけの力が無かったとしても、握りたいという気持ちを相手に伝えることもできるでしょう。その一方で、差し伸べられた手を振り払うこともできるでしょうし、握られていることを「無かったことのように」して、歩むこともできます。つまり、私たちの側に、その選択が委ねられているということなのでしょう。
 
そのことが、今日の聖句が言わんとしていることなのだと、私は受け止めました。イエスが、弟子たちとともに暗闇の山へ出かけた時に、夜の空はまばゆく光りました。その光のなかから聞こえたのは、父なる神の声でした。その神から語られた言葉が、今日の新約聖書のみことばです。神は言います。「これに聞け」と。
 
イエスが私たちのために与えられたという事実は、まさに「神が差し伸べられた手」の具体的なかたちでした。その手であるイエスの言葉と行いを私たちが受け取り、私たちがその手を握り返すことができるかどうか。これこそ、「これに聞け」という神の私たちに対する語りかけであり、期待なのであると。四旬節2週目を迎えた今日、私たちひとりひとりに「神と握手すること」の大切さを伝えているような気がしてなりません。
 
伝えられたことを、私自身が自分自身にとって大切なものとして、しっかりと握り返したいという思いを大切にして、神とともに歩む者でありたい。これが、今日の私が受け止めたいと思ったことでした。皆さんのひとりひとりの手が、神としっかり握り合わされることで幸いな思いへと導かれることができますように。そのことを祈ります。どうぞ素敵な一日をお過ごしください!

24/02/2026

2026.2.24(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編140編13節
私は知っている
主が苦しむ人の訴えを取り上げ
貧しい人のために裁きを行うことを。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章15~16節
もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい」と言いながら、身体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょうか。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。今日も、私たちを命の道へと導かれる神が、皆さんとともにいてくださり、その行く道を守り、祝福してくださいますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「貧しい者に裁きを与える神」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
貧しい者への「裁き」とは何でしょうか。そこには、あくまで神の「公正」が十二分に働いていると私は考えています。貧しくされた者が貧しくされたままでいいはずがないのです。神はそもそも、誰もが神とともに生きることで幸せな日々を営めることを、心から願っているからです。
 
しかし、現実はそうではありません。貧しくされる者がますます貧しくされていくのです。神がおられるのに、どうしてそのようなことが起きるからでしょうか。それは、人間が「神になりたがる」からだと私は思います。神になろうとしている人間こそ、人から豊かさというものを奪い取り、大切な尊厳までも剥奪しようとするからです。
 
人間が神になることそのものが「罪の本質」です。神のようになれるという悪魔のささやきに、最初の人間夫婦はまんまと乗せられてしまいました。それ以来、神とともに歩む機会が与えられて、そのことで喜んでいるはずなのに、心の片隅では、自分自身が神よりも一番と考えてしまうようになっているのです。それが悲しきかな、人間の持っているさがであり、神に背を向けて歩むことを、自分自身で許してしまっているのです。
 
話は戻します。世の中に貧しさがあるのは、神の責任ではありません。私たち人間の側に、与えられた自由の誤用があるからです。だからこそ、私たちは神の公正な判断と、助けというものをどうしても必要とせずにはいられないのだと、私は思うのです。
 
神の公正さは、貧しいものにも豊かにするだけの力が働くことで、たとえ物質的に乏しかったとしても、精神的な喜びが私たちに与えられます。しかし、もし物質的な面でも豊かにされるとするならば、神の思い願いに私たちが進んで協力することによって、神の助けを心から認める者となることでしょう。果たして私にそれができているのか。そんなことを黙想しつつ、神が私たちを豊かにされることに、具体的な言動をもって表現していきたい。これが私の黙想でした。
 
今日も、すべてを見守られる神が、皆さんとともに歩んでくださいますように。そのことを願い、心からお祈りします。

23/02/2026

2026.2.23(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書31章7節
声を響かせ、賛美して言え。「主よ、あなたの民をお救いください」と。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章68節
イスラエルの神である主は、ほめたたえられますように。主はその民を訪れて、これを贖われた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。

今日のローズンゲン黙想ですが、去る2月16日に間違って本日の聖句黙想をしてしまいました。ですので、今日はその再掲をしたいと思います。誠に申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いします。

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今日も、皆さんの一日を導かれて、私たちの歩みにともなってくださる神が、ご自分の言葉を通して、私たちを整えてくださいますように。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「救い」でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エレミヤ書の一節でした。エレミヤ書に記されていることは、神によって選ばれ、守られていた国民でありながらも、そのうえにあぐらをかきつづけていたイスラエルが、その代償として辛酸を舐めなければならなかったうえで、なおもその民をご自分の民として愛し、神の民として再生させようとする神の思いというものが、預言者エレミヤを通して明らかにされる、という物語です。
 
そして、今日の聖句はまさに、神がイスラエルにある人々を再生させようとして、民たちに語りかけている箇所です。そのメッセージは、自分自身を賛美しつつ「救ってください」と叫びなさい、というものでした。このような嘆願が、嘆願される側のほうから嘆願すべき側に対して語られているということが、とても不思議に感じながらも、どこまで民の再生を願い、そのために愛を注ぎ続けようとしている神がおられるのかと、そのように感じてならないのです。そんなことをしてまで、私たち人間のために備えてくださる方の譲歩を思わずにはいられません。
 
本来ならば、私たちが自分たちの至らなさに気付き、一から再生すべく感じ、考え、行動するというのが、責任を取るべき側の務めでしょう。しかし、そのすべすら見いだせない、どうして良いかわからないという環境のなかで、神はそんな民たちが五里霧中のうちにもがき苦しむことのないように、私たちが歩むことのできる道を備え、そのナビゲーションすら明らかにしてくださるというのです。本来、そんなことをする必要すらない神御自身が、ご自分を譲歩させて、私たちに迫っておられるのです。
 
これを、私たちは「贖い」という言葉で表現することができるのだと思います。贖いという言葉は、元来「身代金」を指す言葉です。私たちのために、私たちが本来の姿に戻されるために、神が私たちをそのような束縛状態から解放させるために、身代金をこれまでもかというくらい払ってくださっている。身銭を切って私たちを救い出そうとする神の態度が、贖いというかたちとなって明らかにされたのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、洗礼者ヨハネの父となったザカリヤの賛歌と呼ばれる箇所の冒頭部分です。神がイエス・キリストという救い主を与えるにあたって、その道備えをする務めにあたるヨハネが生まれたことを、ザカリヤは神に感謝しつつ、この賛美の言葉を述べました。神は私たちのもとを訪れて、私たちのために身代金を支払ってくれたのだと。この身代金こそ、救いの物語のために、神が私たちの意識にかかわらず与えてくださったすべてであるというのです。
 
私たちの反応の鈍さに迫り来る神。その神が今日も私たちとともにいてくださる。このことを心の希望として、一日を歩みたいと願わされました。皆さんにとっても、行く道を示してくださる神の守りと祝福が、存分にともにありますように。心からお祈りします。

22/02/2026

2026.2.22(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書29章19節
苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い
貧しい人々は
イスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二8章9節
あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、こんばんは。
今日も一日の夕べが訪れました。朝の時間に黙想をつづることができませんでしたので、簡単ではありますが。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想をつづりたいと思います。
 
イエスが十字架に架かられたことを心に思い巡らす四旬節(レント)の最初の日曜を、私たちは迎えました。それぞれの教会や集会で、礼拝が持たれて、神のみ言葉を通して、今週の日々を歩むにあたって考える良いきっかけが与えられたのではないかと思います。
 
私たちのために十字架上で、その命をささげられたイエス。そのイエスの「貧しさ」について、今日の聖句は私たちに告げています。貧しさによって豊かになる。この考え方は世の中のあり方と「あべこべ」な論理であると誰もが思うでしょう。しかし、そのあべこべな論理こそ、実に「神のみ業」として、私たちが自分自身の限界ある理解を超越して起こされるものなのだと、思えてならないのです。
 
大切なのは、この世界でまかり通っていることが、神の視点からすれば、それが決して「当たり前」のものではない、ということです。その当たり前でないものを、私たちがいかに神への信頼とともに心から受け止めることができるだろうか。ということなのでしょう。神の働かれるスペースに、私たちが身を委ねるとは、そういうことなのだろうと。それによって豊かさを味わうことが可能となることを信じたい。それが、私の黙想です。
 
今日も夜がやってまいりました。どうか、神がこの夜のひと時も、夜の休息のときも、神が祝福してくださいますように。心からお祈りします。

21/02/2026

2026.2.21(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書43章18~19節
先にあったことを思い起こすな。昔のことを考えるな。見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章17節
(パウロの手紙)だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
この一週間も最終日を迎えました。この七日間の旅路を導いてくださった神が、私のどこにおられたのか、私はその神の導きに応えつつ歩んでいたか、どんな祝福を神が備え、与えてくださったか。そんなことを想いつつ、今日選ばれた聖句に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の助けによって未来志向に生きる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
神が私たちに指し示してくださるのは、神のみ国の一点に尽きると言えるでしょう。私たちはその完成に向かって、神の備えられた道を歩む民であることを知らされます。それはやがて来たる終末の時まで続くことを想わされます。そこにこそ、未来にある幸いを見つめる「未来志向」というものが、確かに存在することを私たちは心から信じて歩みたいのです。
 
実際に、今日の聖句のなかにも、過去にあったことにこだわりを抱き続け、そこにしがみつくのではなく、神が与えてくださる「新しさ」が、いかに貴く、素晴らしいものであるかについて力強く語られていることが分かります。未来志向というのは、私たちの能力や努力で勝ち取るものでは決してなく、あくまで神が与え、指し示し、導いてくださるものなのです。
 
しかし、私たちはこの聖書の言葉に触れるときに、「過去をないがしろにする」ことは決して勧められていないということをも、大切にしたいと私は考えています。過去の歴史を私たちは決して忘れてはならないのです。そうしないと、私たちは過去に学ぶことなく、同じ轍を踏んでしまうのです。歴史はそうやって同じことを繰り返していることも事実なのです。
 
だからといって、昔のことにしがみ付いてもならない。それを神は決してお望みで無いことも確かなのです。だからこそ、神は昔のことを指し示しつつも、神とともに歩む未来志向の思いというものを、私たちに余すところなく提示してくださるのだと。私たちはそのことを心から信頼して、神である主とともに歩みたいと心から願わされるのです。これが私が受け止めたいと思ったことでした。
 
明日の主の日に向かって歩む者として、そのことを心しつつ、祈りつつ、神の助けをいただきながら、一日を歩むことができますように。神が皆さんの一日を守り、祝福してくださいますように。心からお祈りします。

20/02/2026

2026.2.20(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編40編12節
主よ、私に憐れみを閉ざさないでください。
あなたの慈しみとまことが
絶えず私を守ってくださるように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ユダの手紙2節
憐れみと平和と愛を、神があなたがたに豊かに与えてくださいますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、こんばんは。
毎朝お届けしている黙想ですが、今日は夜になってしまいました。今朝は、外出地から仙台への移動をし、その後職場(教区センター)へ出勤しましたので、黙想をつづる時間をなかなか取ることができませんでした。
 
しかし、職場では朝にローズンゲンを開いて朝の祈りの時を持ち、夕方には、テナントとして入っているキリスト教書店(エッサイの木)で、ローズンゲンを開いて終わりの祈りの時を持ちます。そこでみ言葉の分かち合いを、ともに祈る仲間たちと味わっています。そのことを、遅くなりましたが今日の黙想としてつづりたいと思います。
 
私は昨晩、日本基督教団小田原教会の牧師であった、豊田通信(とよだ・みちのぶ)牧師の前夜式に参列しました。あまりにも急な発病と、その闘病生活の末、あっという間に神のみもとに先週召されていきました。豊田牧師とは20年間にわたって、カルト宗教対策で大変お世話になりました。つい最近まで、一緒にこの問題について、これからも続くものと思いつつ、活動していました。
 
それだけに、自分自身のなかで現実を受け止めるだけの速度に全然付いていくことができませんでした。自分自身のなかに大きな緊張を抱えつつ、弔いの場へ向かいました。そこで、司式の牧師が語る言葉のひとつひとつに耳と心を傾けるなかで、ひとつのことにあらためて気づかされました。神は、この同労者を大きな憐れみのうちに招き入れて、慈愛を注ぎ続けてくださっていたのだということをです。
 
カルト対策活動というのは、はた目からしたら決して報われることの多いものとは言えないかもしれません。牧師という仕事も、決して自分自身が得をするような生き方を与えるものではない。そんなことはいくらでも感じるわけです。しかし、報われなければ報われないほどに、損をすればするほどに、神の憐れみと慈しみは、これでもかというくらいあふれ、注がれるのです。私は先生にそのような思いを感じずにはいられませんでした。そうしたら、自然に涙があふれるのを感じました。葬儀に参列してめったに涙することはないのですが、昨晩は特別でした。
 
こうやって、神は私たちのひとりひとりをしっかりと守ってくださる。天に在る者も地にある者もすべて。そんな憐れみに支えられつつ、私は豊田牧師の遺志というものをしっかりと引き継いで生きる者でありたいと願わされました。これが私の黙想です。
 
今日も夜が更け、また朝がやって来ます。どうぞ神が与えてくださる良き休息が、私たちとともにありますように。そして、明日の日への備えが祝福されますように。心からお祈りします。」