23/09/2026

2026.9.23(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編103編2節
私の魂よ、主をたたえよ。そのすべての計らいを忘れるな。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章20節
いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父なる神に感謝しなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日でシルバーウィークも最終日を迎えます。今回の連休は、台風の襲来ということもあり、多くの被害があった数日間となりました。大切なものを失ってしまった方々のために、神の慰めを引き続き祈りたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が今日受け止めたいと思ったのは、「神に感謝する」というシンプル、しかし、私たちにとってとても重要なひと言でした。もはや自明のことではありますが、そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私は考えてみました。感謝と対極にある「不平不満」ということについてです。私たちの生活において、私たちのうちから不平や不満をすべて取り除いた時を過ごすことなど、なかなか無いのではないかと思うのは私だけでしょうか。少なくとも私は、ことあるごとに不平や不満を抱えたり、思ったり感じたり、時にはその感情が表出することすらあります。
 
自分の思うとおりにはいかない感情というものは、神への感謝の思いというものを容赦なく削ぐ力というものがあると思います。感謝している暇などないのです。感謝できないのは、神が私自身に不平不満の思いを抱くことに、何の手立てをすることがないからだと、神にその責任をなすりつけてしまうこともあるかもしれません。他責思考をもって、「自分は何にも悪くないのだ」と私たちは思いたくなるのです。
 
そう。今日の詩編の言葉にもあるように、神である主のなされたことを「忘れるな」とうたっているように、私たちはいとも簡単に、神の存在があることそのものへの感謝を忘れてしまうのです。だからこそ、私たちは「忘れないような営み」というのが、本当に必要なのだと思います。そのことを思うときに、私たちは「主イエス・キリストの名によって」という、今日の新約聖書の言葉が指し示す思いこそ、大切なのだと思わされます。
 
イエス・キリストのお名前によってというのは、イエスが私たちのキリスト(命の救い主)となられるために、何を思い、何を感じ、私たちにどのように触れてくださり、言葉と行いを残されたかということを、私たちが聖書の言葉から丹念に聴きとることから始まります。聴き取った声を私たちの心身に巡らせるために、神に祈り、聖霊の助けを求めるのです。そのための時間と機会というものを、積極的に得ていくことで、私たちは「感謝」というものがどういうものか、少しでも考えるきっかけとなれば、こんなに良いことはないのだと思いました。
 
今日の連休最終日が、主にある多くの喜びに感謝できるような一日となりますように。心からお祈りします。

22/09/2026

2026.9.22(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
歴代誌上29章9節
こうして民は、自分たちが自ら進んで献げた物を喜んだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録4章37節
キプロス島生まれのヨセフは、持っていた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
台風一過の青空が広がる今日の仙台です。今回の台風では、犠牲者が出たこともニュースを通して知りました。自然災害の恐ろしさを改めて感じるとともに、このことで悲しみや不安を感じておられる皆さまに、神様の慰めと励ましがあることを、心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンを通して与えられたふたつのみ言葉ですが、「自らを喜んで献げる」ということがテーマとして語られている聖句です。このような聖句を取り扱うときには、極めて注意が必要であると、私はつねづね思わされています。そのことに触れて、今日は黙想をつづりたいと思います。
 
自らを、そして自らのものを喜んでささげることは、何ら悪いことではありませんし、むしろ良いことなのだと私は思っています。私もそうでありたいと心から願いつつ、自分自身の生活のなかで、そのように実践できることは実践していきたいと思っているわけですが、「何者かにそのように誘導されて、自分自身を超える分までささげるべく強制される」ことがあってはいけないと、強く思わされますし、実際に、聖書の言葉を悪用して、そのように人々を誤導しているケースが後を絶たないということも、私たちは知っておくべきなのです。
 
旧統一協会による違法献金の実態は、まさにこの構図のなかで語られているものであると言って良いでしょう。それだけではありません。いわゆる「カルト化した教会」と呼ばれるところで、そのような実態が実際に起きていることの相談も受けます。概して、このような団体や教会でおこなわれていることは、指導者的な立場の人から「そうしないことの代償」を提示されるのが常です。「〇〇しなさい。さもなくば・・・」と言ったように、「さもなくば」という言葉が出たら注意が必要です。私たちはあくまで、何者にも誘導されることなく「自発的な判断と決断」によって、そのようになされることが大切なのです。
 
ですから、私たちが「喜んで神に献げる」ということを考える場合、その喜びは、本当に自発的なものによるものなのかということを、じっくりと祈りのうちに考慮することが、何よりも大切なのです。この時に、その判断基準というものが「私の好き嫌い」や「私の気分」だけでそうするのであれば、それはそれで問題なのです。あくまで、神との深い対話を通して、導き出されたものであることが大切なのです。神と私たち個々人との関係は、何者にも邪魔されることはありませんが、その関係性をいかに維持できるかというところに、このような聖書の言葉を考える際のポイントというものがあるのです。
 
「神のみ言葉に聴き、そして祈る。聖霊の導きを大切にしながら、自分自身と神との関係性のなかで、大切なことを判断し、決断していく」ということを、私たちは大切にしたいと思います。そんなことを、今日の黙想としたいと思いました。
 
どうか神が、私たちの姿というものを豊かに導いてくださいますように。そして、今日も主にあって素敵な一日となりますように。心からお祈りします。

21/09/2026

2026.9.21(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
サムエル記上1章27節
主は私が願ったことをかなえてくださいました。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章58節
エリザベトの近所の人々や親類は、主が彼女を大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、主の日の礼拝を楽しまれたことと思います。いただいた御言葉を携えて、今週もその日々を歩んでまいりたいと思います。関東以北では、台風が訪れつつあります。少しでも災害から免れることができますようにと祈るばかりです。そして、シルバーウィークを過ごされる皆さんに、安全が豊かに与えられることもお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から、今日私が受け止めたいと思ったことは、「神は何でもかんでも、私の要求や願いをかなえてくれるわけではない」ということを、いかに肝に銘じることができるか、というところにありました。
 
今日の旧約聖書の言葉は、サムエルを身ごもった母ハンナによる感謝の言葉でした。子が与えられるようにと、ハンナは神に祈り続けました。当時の世界において、子が与えられるというのは、ひとつの祝福のしるしでした。しかし、主とともに忠実にその人生の日々を歩んでいたハンナにとって、子が与えられないというのは、大きな苦しみとなっていきました。そんななかで、神はハンナに子を身ごもるという祝福を与え、かくしてサムエルは誕生しました。
 
この言葉を読むのには注意が必要です。なぜならば、世の中には不妊で苦しむ多くの女性たちがおられるからです。「子が与えられない=神に祝福されない」と、すべてに適用するのは決して正しいことではありません。そのような聖書の読み方は乱暴であると言えるでしょう。これは、ハンナ自身の状況について語られたものですから、私たちにすべてを適用する必要はないと私は考えています。
 
しかし、神とともに歩むことを第一とするなかで、今自分自身が苦しんでいることを神に打ち明けたときに、苦しみを解放させてくださる神がおられるという点については、私たちがぜひ聴くことのできるメッセージなのだと思います。神とともに歩むことで得られる幸いというものは、私たちのタイミングではなく、神のベストなタイミングをもってなされるのだ、ということなのです。
 
逆に、私たちの要求が何でもかんでも神によって叶えられると思ったら大間違いだと、私は自戒を込めて受け入れたいと思います。あくまで、神がどう思われるかということを、私は第一にしたいのです。神とともに歩み、神の御心に聴こうとしないなかで、自分自身の要求を神にぶつけるとしたら、それは身勝手というものなのでしょう。
 
今日の新約聖書の言葉は、洗礼者ヨハネを身ごもり、出産した老女エリサベトについての言及でした。基本的にはハンナと同じことが言えるのだと思います。エリサベトも夫ザカリヤとともに、神とともに、その人生を忠実かつ誠実に歩んでいた人物でした。
 
周囲にどんな評価があろうとも、環境がそうさせなかったとしても、神の御前に誠実であることの大切さというものを、本当に大切にしながら、今日の一日も歩んでまいりたいと思います。一切に、神の御心が明らかにされますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

19/09/2026

2026.9.19(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書57章18節
(神の言葉)
 私はいつまでも争うことはなく
 永遠に怒ることもない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章1節
たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。シルバーウィークを前にして、しばらくの休みを楽しまれる方もおられるかもしれませんし、訪れようとしている台風への対策をされておられる方もおられると思います。そして、明日の主の日への備えのときを持っておられる方もおられるでしょう。そのすべてに、神の守りがありますことを心から祈りつつ、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉に聴きたいと思います。
 
神は怒るが赦される方でもある。
その怒りというものは、人を奈落の底に陥れることを目的としたものでは決してないことが、今日の旧約聖書に選ばれた言葉の言わんとしていることなのだと、私は受け止めました。「許せない感情」ということについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは誰でも、許せない感情というものを抱えながら、この世界で生きているのだと思います。聖書に「許しなさい」という言葉がところどころに登場するのは、私たちもよく知っている事でしょう。しかし、私たちはそのような勧めがあるのにもかかわらず、なかなか許せないのです。怒りを抱え込んだまま、人に対してその思いをぶつけようとするのです。
 
私は、なにもかも有耶無耶(うやむや)にして、ただ無条件に許せばよいとは全く思っていません。さまざまな被害をこうむった方々の悔しさや怒りというものは、ときには正当なものとしてみなされるべきだからです。神もときに怒るくらいですから、怒りということがすべて悪などということはありえないのです。
 
しかし、私たちはここで考えたいのです。今、私が抱えている怒りは、本当に正当なものなのだろうかと。隣人という他者との関係性のなかで、その関係性を回復すべく、正当で健全な怒りを表現するのであれば、その怒りは正当なものといえるでしょう。しかし、そうでない場合もあるのです。単なるうっぷん晴らし、自分の気の済むまで、人を完膚なきまでに叩きのめすことを目的とする怒りであれば、そのような怒りは空しさしか生まないのだと私は思います。
 
神は怒ります。しかし、その怒りを永遠のものとしないと語っておられます。あくまで、赦しへと向かうための怒りなのであって、その根底には神の深い愛というものが脈々と流れていることを、今日の旧約聖書の言葉は私たちに伝えているのです。
 
私たちもまた、自分自身がその神の想いに応えようとしているのだろうかということを、自問自答することはとても大切な営みであると言えるでしょう。許せない感情というものをいつまでも抱えながら、それを人にぶつけ、自分の納得いくまで、その人を叩き潰そうとするならば、どうして、私たちのために罪をかぶって、その命を投げ捨てられた救い主イエスがおられるのでしょうか? そんなことを一週間を振り返る問いとして、今日一日考えていきたいと思わされました。
 
皆さんにとって、この一日の営みが、神の赦しというものを深く考え、感謝できるような時でありますように。心からお祈りします。

18/09/2026

2026.9.18(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書23章35節
あなたがたは、隣人や兄弟との間で互いに、「主は何と答えられたか。主は何と語られたか」と言わなければならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書26章75節
ペトロは「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
秋分近くなって、少しずつ秋めいた天気になってまいりました。とはいえ、まだまだ暑さが続くこの頃ですし、また台風が列島を襲おうとしています。少しでも安全が守られることを心から祈りつつ、今日も御言葉に聴き、心を整えて一日へ向かいたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、ずばり「御言葉『に』聴く」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
昔、私は「御言葉『に』聴く」という言葉に、とても違和感を抱いた時がありました。随分昔の話です。『に』ではなく『を』なのではないかと思ったのです。「御言葉『を』聴く」のほうが、日本語的にしっくりいくのではないかと感じていました。
 
しかし、今では、やはり「御言葉『に』聴く」なのだということを強く感じています。そのことを、今日の聖書の言葉からなおのこと、あらためて感じさせられたのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、「主は何と答えられたか、主は何と語られたか」ということが記されています。私たちが行動する時に、私たちの意志もさることながら、やはり「私たちの神はこの状況において、何をお考えになられているか」ということを、尋ね求めることが必要なのだと、私は強く感じます。
 
私たちの経験不足、また自分の利だけを考えたい気持ちが、ついつい神の望まれることを踏みつけてしまうことはないでしょうか。私は誤解を恐れず申し上げれば、そうしてしまうことがことごとにあることを振り返ります。そして、そこに「神の思い」を引き寄せて言動してしまうのです。
 
しかし、そのような私の行動の結末は、あまり良い結果をもたらさないことが多くあるのを痛感させられます。あの時に、心をしずめて、身を低くして、神の指し示しというものを大切にするべきだったと反省させられるのです。ついつい自分の願望というものが勝ってしまうのです。
 
だからこそ、神に尋ね、神に求め、神の言葉に耳と心を傾けることが、やはり大切なのだとあらためて思わされるのです。そういう意味で言えば、御言葉「に」聴くという表現は、まことにふさわしいのだと感じます。御言葉「を」聴くということが決して悪いわけではないのですが、その時の主体は、やはり「私自身」になってしまうのです。健全に聴けたら良いのですが、そうでない場合もあるからです。
 
あくまで、私たちの命を守り、支え、歩むべき道を指し示し、そこを歩かせてくださる幸いを味わうために、神にお伺いを立てる気持ちをもって、神の言葉に聴くのだと。今日も、そのような心が、一日を幸いへと導いてくださる神を実感できるのだと、信じたいのです。
 
私たちは鼻息の荒いことを豪語しつつも、やはり失敗してしまうことの多い存在です。今日の新約聖書の言葉が示しているとおり、イエスの一番弟子ペトロがそうでした。絶対に裏切らないと言いつつ、その直後にイエスを裏切ってしまいました。ペトロがハッと気づかされたのは、イエスの言葉を思い出したときでした。
 
しかし、その失敗は、ペトロのその後において、大いに活かされることになりました。ペトロが流した涙、悔しさ、やるせなさが、その後の彼の人生において、「キリストを伝える」原動力になりました。それも神の言葉を思い出し、神の言葉に聴くということの大切さを、彼自身が心の底から実感したからなのでしょう。
 
神の言葉に聴き、そして神に祈ることの循環が、私たちの言動を健全なものへと神が導いてくださる。そんなことを胸にしつつ、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

17/09/2026

2026.9.17(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編142編8節
私の魂を牢獄から引き出してください。あなたの名に感謝するために。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録12章6節
ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神に献げられていた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は黙想をつづる時間を確保することができず、お届けできませんした。気を取り直して、少し遅くなりましたが、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「牢」でした。牢獄とも書かれていますし、今日の新約聖書の言葉には投獄されていたペトロについて書かれています。つまり、何らかの理由によって閉じ込められた状態を指していることがわかります。
 
今週に入って、もちろん充実した日々を過ごしていることは間違いないのですが、何か心にひっかかるものを感じながら過ごしていました。自分自身の心の許容範囲が明らかに狭まっていることを、痛感させられるようなできごとがいくつもありました。そのときに、普段だったら笑ってやり過ごせるはずなのに、なかなかそういうところに自分自身を持っていくことができない、そんな己の姿に嫌気がさしてきたのです。
 
まさに「自分の心が投獄され、牢獄のなかに閉じ込められているような感覚」に陥ってしまったのです。時間が経てばそのような感覚が薄れていくのだと思いつつも、また心狭く思ってしまうような出来事が続いてしまうために、なかなかそういうところから脱出できない自分自身があります。実は、今も現在進行形だったりします。
 
そんなときに、今日のローズンゲンの言葉は私の心境にフィットするものでした。「あなたの名に感謝するために」と詩人は歌いました。あなたの名、つまり、神である主のお名前には、「あなたとともにいることで、あなたの神となる。私はいるのだ」という言葉が、私に迫ってきたのです。そのことに感謝することすら薄れてしまっている自分自身を思い、申し訳ないやら、ありがたいやら。そんな温かい気持ちに包まれたのでした。
 
私のためにも祈ってくださる方が大勢おられますが、その筆頭に立って私のために祈ってくださる主イエスがおられるのだと。そんな救い主が与えられているのに、くよくよしている自分自身を省みては、本当にごめんなさいと謝りました。しかし、同時にありがとうございますと感謝することもできました。ここにこそ、たとえ牢獄のなかにあっても、それでも感謝をささげることの幸いを、あらためて思わされたのでした。
 
今日も与えられた一日のすべてが、そのような神の守りによって支えられますようにと祈ります。皆さんの一日にも、神がともにいてくださいますように。お祈りします。

15/09/2026

2026.9.15(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
出エジプト記14章14節
主があなたがたのたえに戦われる。あなたがたは静かにしていなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書13章13節
(イエスの言葉)
連れて行かれ、引き渡されたとき、何を言おうかと心配してはならない。その時には、あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、私たちの一日の生活を導かれる神が、その言葉を通して、私たちを祝福のうちに導いてくださいますように。そのことを祈りつつ、ローズンゲンに示された聖書の言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の聖書の言葉はまさに、私自身に語りかけているものであると、私は深く感謝しました。「主が戦われる。だから、あなたは静かにしていなさい」という言葉は、私自身に、神とともにあるということに誠実に向き合う思いというものを、新たにしてくださったと心から信じるものです。
 
詳しいことをここで述べることは控えますが、私自身、この数年間にわたって、あることで自分自身のあり方というものを、深く問わされる日々が続きました。時に悩み、苦しみ、そのことに自分自身が開き直ることを戒めつつ、ただ謙遜の思いをもって、神のなさることに期待して、自分に与えられた務めというものを、淡々かつ忠実に果たそうとしてまいりました。私を取り巻く環境の不条理さに、自分自身悔やみつつ、自分ではどうすることもできない出来事に、どのように向き合って良いのか随分苦悩を感じ続けてきました。
 
しかし、今思うことは、「神はご自分の公正さをもって、この世界に判断をくだされる」ということです。どんなに世の中が騒いでも、そのことで心傷つくことがあったとしても、神は私に気付きを与え、言葉にならないうめきというものをも必ず聞いてくださり、神の御心があらゆるところに明らかにされる日が必ず来ることを信じ続けてまいりました。
 
その結果がどのようなものになるのか、私にはまだわかりません。しかし、私に求められることは、変に自分自身を荒立てることなく、そのことで他者を振り回すことなく、神の御前にただ立って、神のなされることに心をしずめてただ待ちつつ、自分に与えられた分を誠実に生きることなのだと。それが、今日の旧約聖書の言葉の意味なのだと受け止めました。
 
かつて、私が牧会していたある教会員の方に、この聖句を示したことがありました。その方も、ずいぶん不条理な目にあって苦しんでおられました。どうして良いかわからないと生きた心地がしなかったということでした。私は、主にあって誠実に生きるならば、必ず主は戦ってくださるから大丈夫と、聖句の意味を分かち合い、ともに祈ったことがありました。その結果、その不条理さはいつの間にかに消え去っていました。最近、そのことを振り返る機会があり、当時苦しみを抱えていた方とともに喜び、神に感謝したのでした。
 
私たちは聖霊の導かれるがままに、誠実に生きることが求められているのだと思います。しかし、その聖霊の導きというものも、ついつい我田引水のように利用してしまうこともあるかもしれません。それが自らの「ゆがみ」によるものだとも気づかずにです。だからこそ、神の御前に謙遜に生きることを確かめるために、神の言葉が私たちに与えられ、聖霊の助けが与えられているのでしょう。
 
今日も聖書の言葉が与えられたことに感謝しつつ、一日を過ごすことができますように。皆さんとともに生きてくださる神が、大きな祝福を注いでくださいますように。心からお祈りします。