くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ゼファニヤ書3章14~15節
娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜びの声を上げよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び歌え。主は、あなたに対する裁きを取り去られた。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章17節
キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日も暑い夏の一日となりそうですが、どうが私たちの健康が霊肉ともに神から守られて、少しでも健やかに過ごすことができますように。そして、熊本の地にあって、痛み苦しみを覚えておられるすべての方々に、神の慰めと励ましが豊かにありますようにと、心からお祈りします。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったメッセージは「平和の福音」という、新約聖書・エフェソの信徒への手紙の一節でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
今、私がお仕えしている教会に、夏季伝道実習生として来会している神学生が、先日の礼拝メッセージのなかで、「平和とは、状態が『普通』そのもののことである」とおっしゃっておられました。私は、実にありふれたこの言葉に、強烈なインパクトを受けたのです。
普通とは、波風立たない穏やかな状態のことを指すのだと私は受け止めました。確かに、平和という言葉には、日本語でもその文字のとおりに「平らかな」という意味が含まれますし、実際に聖書で日本語に訳されている平和(ヘブライ語:シャローム、ギリシア語:エイレーネー)にも、そのような意味があります。
しかし、平らかとひと言に言っても、それはとても難しいことであるということも、私たちはよく知っているのではないでしょうか。私たちの心に波風が立ち、時に嵐となり、私たちの心をしばしば騒がせます。人間関係にざわつくものを感じ取る時に、私たちはなかなか平らかな心境などにはなれないと思うのは、日常茶飯事なことかもしれません。
だから、普通という言葉には、とても奥深く、含蓄のある意味合いが私たちひとりひとりに向けられているのだと、あらためて思わされるのです。平和を愛し、平和を希求したいと心から願っても、実際的に私たちは平和を愛せないがゆえに、普通でいられないのです。
普通でいる「ふり」はできるかもしれません。その場を乗り越えるために「大人の対応」も取ることができるかもしれません。しかし、それでは何も根本的な解決には至らないということを、私たちは痛感しなければならないのです。もちろん、大人の対応を否定しているわけではありません。しかし、その場限りの、仮面的な態度が、究極の平和を生み出すとはとうてい言えないというのが、自戒を込めた私の偽らざる心境です。
今日の聖書の言葉には「平和の福音」と記されています。平和がこの地にあまねく広がりゆくためには、「福音」が無くてはならないものなのだということを、今日の聖句は如実に物語っています。ここで言う福音とは、まさにイエス・キリストが私たちに語られ、行われ、犠牲となって私たちのために最も大切ないのちを与えられたことすべてが、福音の本質であるというのです。
私たちが「普通」でいられるために、イエスは自らの命を私たちにささげてくださいました。人命の重みは、普通という言葉と対極をなすものです。この犠牲の重さを心に抱きつつ、普通になれない私たちひとりひとりが、キリストに対して普通であることの尊さというものを、ぜひ噛みしめてまいりたいと心から願わされます。これが、私が今日得たいと思ったことでした。
どうか今日の一日が、キリストの平和に満たされた「普通」の生活を営めるような一日でありますように。私たちひとりひとりのあいだに、キリストの平和が大黒柱として据えられますように。心からお祈りします。