くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記30章9節
あなたの神、主は、あなたのすべての手の業を喜びとされる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一4章6節
このようなことで、きょうだいを踏みつけたり、欺いたりしてはなりません。主はこれらすべてのことについて正しく裁かれるからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
台風の影響がまだ多少残っているなかではありますが、峠は越したというところも各地であるかと思いますし、爪痕に向き合わなければならない方々もおられるかと思います。神の守りが皆さんとともに、豊かにあることを心から祈りつつ、ローズンゲンに示された今日の聖書の言葉に聴きたいと思います。
どうせ生きるなら、出会う人ひとに接するのであれば、そのすべてが「喜び」でありたいと願うのは、誰でも同じことと思います。しかし、私たちにとって「喜びの基準」というのは、実に千差万別、まちまちであることも私たちはよく知っています。この基準にズレがあるからこそ、私たちは自分が喜べないことで一喜一憂したり、時に人間関係にゆがみや亀裂を生んだりすることも間々あるのです。
私たちはそのような現実のなかで、今日の聖句をどのように受け止めることができるだろうか。そんなことを想わされました。神が喜びとされる、私たちの「手の業」とはいったいどんなことを指すのでしょうか。私はこんなことを考えました。私たちの手の業、つまり言動というものを、「私たちの占有物」のように考えてならない、ということをです。
私たちは「~の自由」というものを持っていますし、この日本において、それは憲法でも保障されている権利です。信教の自由、言論の自由、思想の自由などなど。しかし、それらの自由というものは、決して「濫用」されることがあっては、決してならないということも、憲法で保障されています。つまり、自由は自分の好き勝手なままに濫用することによって、それはもはや「自由」の指し示す意味が失われてしまう、ということなのだと私は考えています。
つまり、私たちの手の業というものを神が喜びとされるというこの事実に、私たちがいかに謙虚に向き合えるのかということが大切であるということです。私たちの自由や権利というものは、決して私たちの占有物などではなく、神の占有物なのだということを、私たちの心に刻まなければならないといことなのです。その神の占有物も、さも自分自身の占有物であるかのように思い違うならば、神の喜びというものをないがしろにしてしまうことを、私たちはしっかりと認識するところにこそ、神の喜びが私たちを支配するということを、私たちは心から信じつつ、自分に与えられた使命というものを果たせるのだと。
あまりにもこの世界が、古今東西にわたって神の喜びが明らかにされない状態のなかで、人と人とが無用に傷つけ合うような状況を、私たちは安易に人のせいにするのではなく、自分自身に与えられた「責任」として、神から与えられているということを、今日の私を生きる土台としたい。自戒を込めつつ、そのような生き方を営みたいと、今日の聖句を通して、あらためて願わされました。
神の与えられた喜びが、私たちにとっての喜びとなりますように。心から願いつつ、皆さんの一日における主にある平安を、心からお祈りします。