くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書17章7~8節
主に信頼する者は、水辺に植えられた木のように、流れに向かって根を伸ばす。干ばつの年が来ても心配せず、絶えることなく実を結ぶ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章5節
(イエスの言葉)私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっているなら、その人は豊かに実を結ぶ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用
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皆さん、おはようございます。
昨日も触れましたが、暦のうえでは立春。今日から春が始まるとはありますが、東北は2月が一番寒さ厳しいときであるという認識が私にはあります。今日は春のような天気であるとの予報のようなので、小春日和の気分を少しでも味わいたいと思います。皆さんの一日が、神様による祝福があふれますように。心からお祈りします。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神につながれて、そしてつながる」ということについてでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
「つながれる」と「つながる」という言葉に、私は注目したいと思うのです。「私たちがつながろうとするから、神がつながってくださる」ではありません。「神が私たちにつながってくださるから、私たちはつながることができる」のです。
私たちは往々にして、この主客を逆転してしまうことがあるのです。神は私たち一人ひとりに「自由意思」というものをお与えになられました。ですから、私たちはどのように感じ、思い、行動するかは、何かに束縛されることなく自由にされているという大前提があります。
ただ、この前提に基づいた私たちの感情や思考、言動というものが、この世界をゆがませていることも、紛れもない事実なのです。その原因は、私たちの「自由の誤用」にありますし、その自由には「責任」がともなうということに耐え切れず、いとも簡単に放棄してしまうことで、そのゆがみはますます顕著なものとなってしまう。これが世界の、そして私たちの現実なのです。
だからこそ、「私が神につながって生きる」という言葉に触れたときに、つながろうとしている神は、どのような方で、どのような思いと願いをもって、私たち一人ひとりを取り扱ってくださるのだろうかということに、思いを深く寄せたいのです。その神を知ったときにこそ、私たちは、神によってつながれているその手を、どうするかという判断と決断にいたるのだと私は思うのです。
今日のローズンゲンに示された聖句は、どちらも「水源」と「水脈」について言及するものでした。ここで言う水源とは、紛れもなく私たちの神であり、その神が私たちに与えられた救い主イエスのことを指します。その水源からあふれ出す水が、水脈を通って命を潤すとあります。水脈とは、私たちの自由意思や意識認識のことを指すのでしょう。
私たちは、各々に与えられた水脈を整えるということに、注意を傾けることの大切さというものを、今日の聖書の言葉を通して、私が受け止めたいと思ったのです。水脈が壊れていたり、簡単に毒を入れることのできるようなものであるならば、良いことは何ひとつないのだということを、私は心に留めて、今日の一日を歩みたいと思わされました。
神の水源、私たちの水脈が、命を活かす水として、私たち一人ひとりを潤すものとなりますように。神の守りと平安を、心からお祈りします。