21/10/2026

2026.10.21(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

 くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば

イザヤ書58章11節
主は常にあなたを導き
干上がった地でもあなたの渇きを癒やし
骨を強くされる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章11節
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今朝はゆっくりと休むことができました。今日から3日間、目白押しの予定が入っておりますが、ひとつひとつ心を込めて仕えたい。そんな思いとともに朝を迎えました。その前に、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から、黙想を得たいと思います。
 
今日の旧約・新約聖書から私が受け止めたいと思ったのは「日々新たにしてくださる神」というものでした。たとえ前の一日に疲れを覚えても、新しい朝とともに私に復活の思いを与えてくださる神が、今日も私にともなってくださり、私を導いてくださる。そんなことを今日の聖書の言葉から希望とともにいただいたような思いでおります。
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちにとって大変有名な「主の祈り」の一部分です。私たちに「日ごと」の糧を、今日この日にお与えくださいというものです。私たちは、食べるものに事欠くことがない環境のなかで、糧をいただくということを当たり前のように受け止めているかもしれません。私とてそのように思うわけですが、しかし、それは決して「当たり前」のものではありません。神がその日その日に、一日を生きる力というものを更新と再生の思いをもって与えてくださるのです。新鮮で、昨日とは違う新たな道をもってです。
 
惰性で動くのではなく、何の感動もなしにその日ぐらしをするのでもなく、なにか新しい出会いと発見が、私自身に感動を与えてくださる神がおられる。これは本当にすごいことなのだということを、私は何度も何度も聴き、祈りの言葉にしたためているこのフレーズを通して、「新たにされる経験」というものを、今日も大切にしたいと願わされたのでした。
 
たとえ干上がった地で渇きを覚えても、心を全面的に癒やす水を与えてくださる神がおられるのだというメッセージが、今日の旧約聖書の言葉で希望をもって語られています。この言葉に支えられながら、今日の一日を歩みたいと願います。この連鎖こそ、私たちの住む世界に平和を与えるものだということを、心から信じつつです。
 
どうか、今日の一日に新鮮な発見を、神の助けによって見つけ出し、それを営むことができますように。主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

20/10/2026

2026.10.20(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

 くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば

出エジプト記32章31~32節
彼らは金の神々を造りました。どうか彼らの罪をお赦しください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録17章23節
(パウロの言葉)
道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを私はお知らせしましょう。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
昨日から、私の出身神学校の同窓会で旅行に出かけています。気の置けない友との交流は、気持ちをリフレッシュさせるものだと、あらためて思わされました。ゆっくりと朝を過ごしましたので、黙想も少し遅い時間でのお届けとなってしまいます。どうぞお許しください。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったテーマは「神を『神』とする幸い」というものでした。そのことについて思ったことを、つづりたいと思います。
 
神を「神」とするということは、すなわち「自分自身を『神』としない」とも言えるでしょう。神を信仰としていただいている私たちにとって、誰も自分が神になろうとは思わないでしょう。しかし、私たちは知らず知らずに自分自身を「神」とする可能性というか、そのような素質というものはいくらでもあることを、私たちは胸に刻まなければならないだろうかと、自戒を込めて思わされるのです。
 
私たちは誰でも「自我」というものを持ち備えています。そのように神がお造りになられたからです。しかし、その自我というものを、どのようにコントロールし、マネジメントすることができるだろうかというところに、重要なポイントがあるのだろうと思います。
 
自我をどのように用いるかについては、それなりの「トリセツ」が必要なのだと思います。しかし、私たちには明確なトリセツが存在し、与えられています。これこそ、神の言葉である聖書であり、その聖書を単なる言葉ではなく、神の言葉として受け入れられるように導いてくださる聖霊様の助けに他ならないのだと。私はそのように心から受け入れたいのです。
 
かといって、私たちはそのように思えても、自分自身を神としてしまうのです。だからこそ、神に向き直して、神とともに歩むためにも神のみ前に謙虚な者となりたい。そのような循環の営みこそ、今日の聖句から自分自身を整えたいと強く思わされたのでした。
 
今日も神を神とすることの幸いが、私たちすべてとともにありますように。そのことを心からお祈りします。どうぞ主にあって素敵な一日をお過ごしくださいませ。

19/10/2026

2026.10.19(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
マラキ書2章7節
祭司の唇は知識を守り
人々は彼の口から律法を求める。
彼こそ万軍の主の使者だからである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二4章2節
御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
昨日はそれぞれの持ち場で、週の第一日目をお過ごしになられたかと思います。私自身も朝・昼・晩と、3つの教会で礼拝のひと時を過ごすことができました。教会を通して出会ったすべての方々に心から感謝の思いを表しつつ、なによりもそれを導いてくださった主がおられたことを心から想うひと時となりました。感謝でなりません。
 
そんな感謝の思いを携えながら、週日の六日間を過ごしてまいりたいと思います。今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想をつづりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句から、私が受け止めたいと思ったのは「与えらえれた口を用いて、どのように言葉をふさわしく用いることができるか」ということでした。与えられた務めや持ち場にふさわしい言葉を用いることは、神の素晴らしさであるとか愛を映す鏡のようなものであると私はあらためて受け止めることができました。
 
今日の旧約聖書の言葉は、旧約聖書の最終巻である「マラキ書」の一節からでした。本来、神に仕えることを務めとして与えられた祭司に求められることは、神が与えられた律法の本質に裏打ちされた言動をなすことでした。それは決して窮屈極まりないことではなく、神が私たちを豊かにするために、なくてはならないものでした。
 
しかし、のちに彼ら祭司たちは、その務めを窮屈に感じ、みずからの思いのままに振舞うことによって、自分自身の言葉でそれをないがしろにしてしまう結果を招きます。神の栄光を現す言動ではなく、自分自身の栄光を現すために、与えられた言葉を乱用してしまったのでした。
 
どうせ言葉を使うならば、誰もが平和になれるような言葉をつむぎたいのです。しかし、どうしてもこの世界に生じる「ゆがみが」そうさせてくれない。だからこそ、私たちのうちから生み出されるものではなく、与えられた美しさをもってそれを分かち合うことにおいてだったら、そのようなことを少しでも営めるのではないかと信じたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、まさにそのことを如実に知らせるものなのではないかと思うのです。時が良くても悪くても、状況が決して順風満帆どころか逆風難破の状態にあったとしても、それでも与えられた良いものを分かち合いたいがゆえに、与えられた唇と舌をつかって言葉をつむぐ幸い。そんな思いをもって、新しい週日の日々を歩みたいと願いました。
 
皆さんの新しい日々にも、神の与えてくださる務めが豊かに働きますように。心からお祈りします。

18/10/2026

2026.10.18(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ハガイ書2章9節
この場所に私は平和を与えるー万軍の主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書11章17節
(イエスの言葉)
「こう書いてあるではないか。『私の家は、すべての民の 祈りの家と呼ばれる。』」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
新しい一週間を迎えました。その先駆けとなる今日の礼拝が、どの場所においても、朝も夕も、そこに集まるすべての方々も、集まることの叶わない方々も、神によって安らぎと生きる力を得ることができますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想を得たいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して、私が受け取ったテーマは「場所」でした。私たちがどういう立ち位置に身を置いているか、その場所に私たちは立とうとしているのだろうか。そんなことを想わされました。
 
あくまで私たちの神は、私たちひとりひとりを「神である主の平和」に立たせようと働いておられる方です。しかし、そうはならない現実があるとすれば、私たちは神をないがしろにしたところで、自分自身「だけ」が平和に立とうとしているからなのではないかと、自戒を込めて思わされるのです。だから、私たちは平和に立つことができないのです。私のなかにある「自我」が何よりもまさってしまった時に、私たちは「この場所」がどこなのかをも分からなくなってしまうのです。
 
だからこそ、私たちは場所をお与えになった神が、どこに立つことを望んでおられるのかということに、思いと心を寄せて、神の御声に耳と心を傾ける必要があるのでしょう。
 
イエスは言われました。「祈りの家」と呼ばれる場所に、私たちを招こうとしておられます。それはかたちばかりの「教会」でもなければ、形式ばかりの「礼拝」でもありません。本質的に、私たちを平和へと立たせようとしておられる神のご臨在を、心から感じることのできるような場に立たされているという私たちの自覚こそ、「今、私はここに立っているのだ」という、深い自覚へと導かれるのだと私は、今日のふたつの聖句を通して、それを素直に受け取る者でありたいと思わされました。
 
どうか、今日の一日が、私たちの立ち位置というものが少しでも明らかになることを心から祈ります。そして、その場にこそ、神の平和が豊かに宿ることを、心からお祈りします。

17/10/2026

2026.10.17(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書22章3節
公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙6章2節
互いに重荷を担いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになります。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この一週間を振り駆ることのできる今日のすべてが、神によって守られ、祝福されていることの実感がありますように。そのことを確かめるために、御言葉に聴いてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神の力と助けによって誠実に生きる」と私は受け止めました。そして、そのような神による力と助けは、神御自身の姿勢である「公正と正義」に裏打ちされた「愛」であると私は受け止めたいと思いました。
 
公正と正義という言葉は、旧約聖書でしばしば登場する神の持つ特質です。神は、人間社会のなかではびこっている社会的な不正をご自分の姿勢で正し、不当な扱いを受けた者を守りることによって、秩序や公平をもたらされることを「公正」と呼び、その公正さをもって、神との正しい関係や、人びととの間(特に貧しい人や弱い立場の人々に対する)で誠実に生きる倫理的な態度のことを「正義」と呼んでいます。
 
つまり、公正と正義は切り離すことのできない言葉であり、かつそれは、神の関係性においても、決して切り離すことのできないものであると、私たちは理解することができるのです。
 
ですから、私たちが神から切り離されたところで、公正と正義を実践することはあり得ないし、もし、そのようなことを行うのであれば、それは人間の罪によってゆがんだものとなるのだということを、私たちは胸に刻まなければなりません。
 
このゆがみを担い合うことこそ、今日の新約聖書に記された「重荷を担い合う」ことの意味であると私は受け止めたいのです。だれもがゆがみを抱えて生きています。ですから、支障が私たち人間社会のなかでは必ず生じるのです。これを、神の公正と正義に裏打ちされた愛で担い合うことで、神の律法・キリストの律法の中心となる「慈しみの愛、自己犠牲的な愛」を私たちは神からいただきながら、この世界で誠実に生きるように促されているのだと、私は受け止めたのでした。
 
この一週間を振り返りつつ、神がなされたすべてのことに想いを巡らせながら、明日の主の日への備えの一日としたいと思います。神が私たちのこの時を祝福してくださいますように。心からお祈りします。どうぞ主にあって、素敵な一日をお過ごしください。

16/10/2026

2026.10.16(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編85編10~11節
救いは主を畏れる者に近く
栄光は私たちの地に住む。
慈しみとまことは出会い
義と平和が口づけする。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章9節
光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にある。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
この前月曜日が来たと思ったら、あっという間に金曜日を迎えてしまいました。時が容赦なく過ぎ去ってしまうことにあらためて驚かされるばかりですが、そのような一時一瞬を大切にしながら、今日も神とともに歩んで生きたいと願わされました。聖書の言葉に聴いて、一日の土台としたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは、「神こそすべてを治めるのにふさわしい御方である」というテーマであると私は受け止めました。そのなかでも、特に詩編85編の「慈しみとまことは出会い/義と平和が口づけする」という言葉に注目したいと思いました。
 
そもそも、慈しみ(慈愛)とまこと(真実)は、どちらも神の抱く特質として知られている言葉ですし、それは義(正義)と平和(平安)も同様です。ですから、「出会い」とか「口づけする」という言葉があることに、少々?と思ったのです。あえて、出会うこと、口づけすると詩人が歌ったのは、どうしてなのだろうかということを考えたからです。
 
愛は真実を生む。私たちの人間社会でも、そのような愛やいつくしみというものを簡単に見つけることができるのだろうか。私はそう考えたのです。この世の中のすべての正義というものが、平和を私たちの世界にもたらすだろうか。そう感じたのです。
 
愛にもいろいろな形があります。しかし、ゆがんだ愛は人に真実をもたらすどころか、独り善がりな愛が他者を傷つけるなどということは日常茶飯事の出来事なのです。正義についても同じことが言えます。自分だけが正しいという人間の横行が、どれだけ人を苦しめ続けるだろうかということは、いくらでも存在しているということを、私たちはよく知っています。
 
だからこそ、私たちは、そのような慈愛や真実、正義や平和というものの「源泉」をしっかりと確かめていく必要があります。その源泉こそ、わが神なのです。その神をおそれ敬うこと、その神が放たれる光のひとすじに従って、神が備えてくださった道を歩むこと。これが、今日のふたつの聖句が指し示すことであると、私は受け止めることにしました。
 
少しでも神の愛とまこと、正義と平安のために生きることができるよう、神の助けを十分にいただきつつ、歩む者となることができますように。皆さんの一日に、神である主が親しく臨んでくださいますように。お祈りします。

15/10/2026

2026.10.15(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
哀歌3章25節
主は、ご自分に希望を置く者に
ご自分を探し求める魂に恵み深い。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録3章20節
見よ、私は戸口に立って、扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今日も秋晴れの朝を迎えた仙台の街です。この空のように、主にあってさわやかでありたいと思いました。その思いを確かなものとするために、今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句から、黙想を得たいと思います。
 
今日のふたつの聖句から、私は「探求し続けることの幸い」というものを感じることができました。私たちも探求します。しかし、私たちをいつも、いつまでも探求し続けてくださる方がおられるからこそ、私たちも探求することが大いに許されているのだということを、今日のみことばを通して、深く味わうことができました。そのことをつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、哀歌3章の一節でした。哀歌と言えば、紀元前6世紀にイスラエルの都エルサレムが、新バビロニア帝国の攻撃によって陥落し、民たちが強制連行されて、捕虜生活を余儀なくされた、ある意味で言えば「どん底」の時代でした。そんな時に、預言者エレミヤを通して語られたのが、希望のメッセージだったのです。どん底だからこそ、神を探し求めようと。求めるところには、必ず神が私たちを祝福してくださっていることを実感できるのだからと。今日のみことばは、そのことを民たちに、そして私たちに知らせるものとなっています。
 
私たちが探したから神にたどり着いたのではありません。そもそも神はご自分がおつくりになられた私たち人間にずっとまなざしを向け続けてくださっています。しかし、私たちは気付かないのです。そのことに忘れてしまうのです。どこかそっぽを向いてしまう私たちの現実があるのです。
 
しかし、神は私たちに対するまなざしを反らすことは決してありません。私たちが自分の身の周りをじっくりと眺めまわしたときに、そこに神がずっと私たちのことを見つめてくださっていたという事実に気付くのです。この気づきこそ、私たちにとっての「希望」となることを、私たちは忘れたくはないのだと、私はあらためて受け止めたいと思いました。
 
求めるのは私たちからではなく、そもそも私たちを求め続け、戸口の前に立ち続け、その扉を叩き続けておられる神である主に他なりません。私たちはその神を迎えるために、自らを御言葉と聖霊様で整えつつ、たとえその迎える準備が万全でなかったとしても、迎えたいという思いがあるならば、必ず神はその恵み深さというものを、余すところなく与えてくださるのだと。そのことを心に刻みつつ、今日の与えられた一日を過ごしてまいりたいと思いました。
 
どうか皆さんの一日も、そのような恵み深さに満たされる時でありますように。主にある守りと平安を、心からお祈りします。