くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
出エジプト記19章4節
(主の言葉)あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章10節
これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
昨日、東北地方にも梅雨明け宣言が出されました。いよいよ本格的な夏と思いきや、今年の仙台は暑すぎない日々が訪れています。昔の仙台の夏を知る者にとっては、「久しぶりに仙台の夏らしい夏がやってきた」といった声をよく耳にしますし、私もそう思います。一方で、酷暑とも言える地方が多くありますし、熊本では40度前後の最高気温となっているとも聞いています。危険な暑さのなかにあっても、健康が十分に守られますように。そのことを祈りつつ、一日を過ごしてまいりたいと思います。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の守り」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
私たちが神の守りを思うときに、私はいつも「神の創造のみ業」というものに想いを寄せるようにしています。そもそも神が人間をおつくりになられたとき、神はどのような思いをもってつくられたかということへのイメージです。神は天地のすべてのものを創造されるなかで、被造物すべてを管理するために、人間を「ご自分のかたち」に似せてつくられました。
つまり、人間は神御自身の抱かれるさまざまな性質に似た者として、神の愛情をたっぷりと受けてつくられたということです。親子が似るように、私たち人間は、神がこの世界に対して望まれるみ心に沿って生きることこそが、神の創造の目的に適った生き方であることを、私たちひとりひとりに知らせています。
そして、神は創造の業をすべて終えられたときに、「それはとても良かった」と絶賛しておられます。これ以上ないまでに、私たちは神の喜びをともなってこの世界に生み出されるということを大切にするならば、少しでも健やかで平和な日々を歩むことができるのだということを、私たちは心から喜びたいのです。
よく「神を喜ばせる」という言葉をよく聞きますが、誤解を恐れず申し上げれば、神を喜ばせるということ以上に、「神の喜びを受けて、自分の喜びとする生き方」という言い方のほうが適切なのではないかと思うのです。神を喜ばせるために、あれこれ努力することは決して悪くはないのですが、時に私たちは「神を喜ばせようと思うことが、神が示される喜びに沿っていない」可能性だっていくらでもあるのです。それは、私たちが「ゆがみ」、つまり根本的な罪(神とともに生きることを拒否する思いと行動)を、基本的なところで有しているからです。
だからこそ、神と歩調を合わせて生きる喜びとは、神による創造のみ業を通して、感じとることができるものなのではないかと、私は思えてならないのです。
そのような思いを胸にして、今日の一日を歩むことができますように。神は必ず、私たちの心を守り、ご自分のみ心へと導いてくださることを信じつつです。皆さんの生活すべてに、神の祝福と喜びが豊かにありますように。心からお祈りします。