くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記32章11節
(ヤコブの言葉)私は、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるには足らない者です。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章16節
(パウロの手紙)しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神の憐れみと慈しみに生きる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
今日の聖句は、神の憐れみと慈しみを受けたふたりの人物の心境が描かれています。ひとりはイスラエルの民の祖となったヤコブ、もうひとりは、伝道者パウロです。このふたりが、神に出会い、キリストに出会うなかで、どのような心の揺らぎであるとか、その決意というものを読み取ることができると、私は思いました。
ヤコブは、神とともに歩むその人生のなかで、神のスケールの大きさに圧倒されます。どんなに疑っても、迷っても惑っても、神が「私はあなたを決して見捨てない」(創世記28章15節)という約束によって、神とともに歩む幸いというものを味わい続けてきました。そのようななかで、ヤコブは神に告白します。私はあなたのそのような憐れみを受けるには足らない者、つまりそんな資格がないくらい貧しく、乏しく、ふさわしくない者であるという、ヤコブの謙虚な言葉が、神に向けられました。
神はそんなことなど承知のうえで、にもかかわらず、ヤコブの人生の旅路を守り続けました。ヤコブには相も変わらず人生の苦しみや痛みがありました。人との関係に悩みました。しかし、神がただ注がれる憐れみと慈しみによって、ヤコブは神とともに歩む道に幸いを見い出します。まことに頼りない人生かもしれません。しかし、神とともに歩むということによって、ヤコブの人生は神に祝福を存分に受けました。それは、ヤコブの謙遜な告白に、神が十分に答えられたことを示すものでした。
私たちの人生は、つねに痛みと苦しみをともなうものです。この苦痛に耐えられなくなるのです。いたたれなくなこともあります。穴があったら入りたく、その環境から逃げ出したくなることもあるでしょう。しかし、繰り返しますが、神はそんな私たちの心境など百も承知のうえで、私たちとともに歩むことを心から願っているがゆえに、私たちのあり様に忍耐を示して、寛容をもって私たちに接し続けてくださる。この事実を、私たちがどのように受け止め、また心から応答することができるかというところに、今日のもうひとつの聖句が示す肝というものを感じるのです。
今日の新約聖書の言葉は、パウロが神の憐れみを受けた者として、どのような生き方を指し示されているかについての告白の言葉です。どのような告白か。「キリストの憐れみによって私が『手本』となる」ということでした。
パウロは、決して非の打ちどころのない立派な人間であるというわけではありませんでした。人一倍自分が、神と歩調を合わせることのできない者であることを自覚していました。キリストによって救われたという事実と、自分自身のうちにあるさまざまな感情とのあいだにあるズレに、大いに悩み苦しみました。私など、キリストの前にあってなんとふさわしくない人間なのか。パウロが記した手紙の随所には、そのようなパウロの思いがつづられていることが分かります。
しかし、そんな私にキリストは寛容を示し続けているではないか。良いものの、数多くの出会いというものを与えてくれているではないか。そして、現にキリストの救いの言葉に私自身が生かされているという現実があるではないか。私が生かされているのがキリストのおかげであるならば、私自身もまた、自分が救われているということを自分の生き方をもって示し続けていくことこそが、私の生き方なのだ。どんなに失敗をしたとしても、神の憐れみに抗う自分自身に気付いたとしても、それでも私はキリストによって生かされていることを、大切にして生きたいのだ。そんなパウロの心というものを、このひと言から読み取ることができるのです。
ヤコブしかり、パウロもそうであったように、私たちは決して立派な人間ではありません。しかし、神がそんな私たちを愛し、ご自分の道へと導いてくださるということを、私たちは今日の一日もまた心に感じつつ、神の御前に正直な者でありたいと願いつつ、その時を過ごすことができますようにと祈りたいと思います。私たちひとりひとりが今日も、神の守りと平安に生きることができますように。心からお祈りします。