02/04/2026

2026.4.2(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編146編5節
幸いな者、ヤコブの神を助けとし
望みをその神、主に置く人。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書26章27~28節
また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与え、言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
受難週5日目の朝を迎えました。そして、本日は「洗足木曜日」です。イエスが十字架に架けられた前夜にあったことを、聖書の記述を通して思い起こしながら、一日を過ごすということを、信仰の先達たちは大切にし続けてきました。
 
このキリスト教的な習慣、つまり「暦」を定めて聖書の物語をたどる考え方を「聖書的でない」とか「異教の習慣」とおっしゃる方もおられるでしょう。それはひとつの意見であるとは思いますが、暦を通して神を感じ取るという、先人たちの思いというものもまた、受け取るにふさわしいものであると、私は思っています。
 
そんな思いを踏まえながら、今日のローズンゲンに選ばれたふたつの聖句を通して、黙想してまいりたいと思います。
 
どうして私たちは、神の助けに希望を寄せることができるのか。そんなことに対して、今日の二つの聖句は応えていると私は受け止めました。では、なぜか。それは、神と私たちのあいだに結ばれた「契約」があるからです。
 
私たちの生きている社会には、実に多くの契約が存在します。正当に契約が結ばれているならば、たとえトラブルが生じたとしても、契約にしたがってどちらも不利益をこうむることなく、事が行われるということを、私たちはよく知っています。
 
その契約が、神と私たちのあいだにも結ばれているからこそ、私たちは神の助けがあることを、自分たちの希望とすることができるのです。しかし、同時にこうも考えることができます。その契約の有効期限はいつなのかと。
 
神はいくたびも、ご自分の民である人間に向けて、契約を結び、そのことを思い起こさせる機会を設けてきました。人間もそのことを受け止めて、契約主である神に向けて、その契約内容を果たそうと、誠実に努めてきたときもありました。しかし、その逆もあったのです。
 
契約違反がある場合、通常ならば契約は破棄されます。しかし、神はその契約を反故にすることなく、終了させることもなく、契約を続行されました。私たち人間をご自分の愛で大切にされるからこそです。
 
そして、その契約はイエス・キリストが私たちに提示された「杯」によって、確かなものとされました。それが、今日の新約聖書の言葉に示されています。イエスはご自分の流される血を、杯になぞらえて「新しい契約」と、弟子たちに、そして私たちに差し出されました。
 
神は、イエスを通してその契約をまさに「命を懸けて」私たちの幸せのために与えられました。この契約が今、私たち一人ひとりにも与えられている。だからこそ、私たちがこの契約を心底から自分自身のために与えられた契約として受け入れるならば、それは間違いなく、私たちにとっての助けであり、希望となっていくのです。
 
その契約を胸にして、今日の洗足木曜日の一日を歩むことが、神によって許され、期待されていることに感謝しつつ、生きてまいりたいと思います。皆さんの一切にも、神がそのように臨んでくださることを、喜びとすることができますように。心からお祈りします。

01/04/2026

2026.4.1(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編35編18節
わたしは大いなるつどいの中で、あなたに感謝し、多くの民の中で、あなたをほめたたえるでしょう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章11節
すべての舌が
「イエス・キリストは主である」と告白して
父なる神が崇められるためです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
受難週4日目の朝を迎えました。明日は洗足木曜日、いよいよ受難に向かって、私たちの心が主イエスが架かられた十字架に向かっていくことを思います。どうか今日の一日も、神の守りと助けのもとで歩むことができますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉に心を傾けていきたいと思います。
 
大いなるつどいのなかで神である主に感謝し、賛美する。この詩編の言葉に、感慨深さを覚えました。今日は、自分語りをすることをお許しください。
 
私は、ちょうど20年前の2006年4月1日に、伝道者としての道を歩み始めました。昨日から、20年間の歩みを、じっくりと振り返っていました。
 
静岡・ドイツ・東京・そして現在の仙台の地で、牧師としての務めをいただいてまいりました。決して、ほめられることのない、失敗ばかりの伝道者人生であったと、振り返っていました。あの時代に戻れるならば、こういうことができた、こうすべきではなかったのになとそんなことを指折り数えながら、いろいろ思っていました。
 
しかし、神が集めてくださった教会という大いなる集いのなかで、神である主を礼拝し、神に祈り、賛美をささげ、神の言葉によって生かされてきた自分自身を、感謝のうちに振り返ることもできました。失敗を通して、そのたびに主が再び立ち上がらせてくださった。決してほめられることのない人生を、相も変わらず続けているのですが、失敗に打ちひしがれることがあっても、そのことにとどまり続けることなく、主が助けてくださる、戒め、常に更新し続けてくださることに、感謝の思いにあふれました。
 
私がどんなに変わっても、「救い主イエスをキリストとあがめる」ことだけは、何も変わることなく、今日も私の生きる指針として与えられていることを、今日も胸に抱きつつ、新しい一日、新しい一年、そして、伝道者21年目の歩みを始めることができるのだと。これも、主イエスが私たちのために、その命をささげられたからなのだと、今日の聖句からメッセージとしていただくことができました。
 
今日は黙想というよりは、私の心境と抱負のようなものとなってしまったことを、どうぞお許しくださればと思います。同時に、皆さんの新しい一日、新しい年度もまた、そのような神がともにおられることに、感謝と賛美をともにささげることができますように。そのことを心からお祈りします。

31/03/2026

2026.3.31(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ダニエル書9章14節
私たちの神である主は、ご自分がなさることをすべての業において正しいのです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書24章26節
メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
受難週3日目を迎えました。どうか今日の一日もまた、命の救い主イエスが私たちのために、ご自身の命を与えられたことを心に刻みながら、一日を過ごすことができますように。
 
今日のローズンゲンに示された聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の正しさ」についてです。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
神は正しいお方か? そう聞かれて「はい。正しいお方です」と即答することが、私にできるだろうかと、私自身問われていることを思います。ただやみくもに神は正しいお方だということを、インプットされた情報をオウム返しのように答えるのではなく、本当に、自分自身の心の内からそう思っていての言葉でなければ、そこには味わいも深みもないと感じるのは、少し厳しすぎるのでしょうか? いや、それこそ大切なのだと思っています。
 
では、神の正しさを「どこ」に見い出すことができるのか。私は何と言っても「救い主イエス」が、私たちに与えられたことにこそ、父なる神の正しさというものがあるのだ。すべてがイエスに集約されているのだと信じていますし、イエスが私たちに示された言動のすべてが、まさに完璧な正しさというものを、私たちに提供しているのだと、疑うことなく思わされるのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが死者のなかから復活された日の夕刻に、ふたりの弟子たちとエマオへの途上で出会った時に語られた言葉です。イエスは、かねてより語られていたメシア(救世主)が今現れていることを、弟子たちに思い起こさせようとしています。そして、その後イエスは、聖書を用いてそのことをふたりに語られました。神が聖書を通して、約束し続けていたことが、今ここに果たされた。そこにこそ、約束を決して反故にしない神の正しさが光輝いた一瞬がありました。
 
この神の正しさに、私たちもまた慰められ、励まされるのです。決して私たちを見捨てることなく、私たちの幸いのために、全身全霊をもって働いてくださる神の正しさがともにある。そのことを胸にして、受難週の道のりを歩んでまいりたいと思います。
 
皆さんの一日に、神の正しさが豊かにともなってくださいますように。お祈りします。

30/03/2026

2026.3.30(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記4章2節
あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙15章18節
(パウロの手紙)
私は、キリストが私を通して働かれたこと以外は、何も話そうとは思いません。キリストは異邦人を従順へと導くために、(私の)言葉と行いを通して働かれました。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
おととい、昨日と、黙想をつづることができず、申し訳ありません。体調が優れず、昨日の礼拝での務めに集中するために、それ以外は床に伏せっておりました。しっかり休んだこともあり、随分体調も回復してまいりました。三寒四温の候、気温の急激な変化などで体調を崩しやすい時だと思います。どうぞ皆さんも、健康が守られますように心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神の戒めをどのように私たちは受け止めるのか?」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
「神の言葉を文字通り受け止める」という態度は、キリスト教の世界で広く受け入れられている考え方であると、私は思っています。しかし、この場合の「文字通り」とはいったい何かについて、私たちは「機械的にそれを受け止め、受け入れ、守れば良い」ということを意味するかについては、私たちは慎重な態度をもって、そのことを考えなければならないと私は思っています。
 
今日の旧約聖書の言葉である申命記にある神の言葉「私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない」とは、何を加えても削ってもならないのでしょうか。私はこのように思います。それは「自分自身の願望」であると。そのことを考えるうえで、アダムとエバが神から食べてはならないと命じられたあの木の実を、みずからの願望から食べるという決断にいたった態度に相通じるものであると、私は思うのです。
 
つまり、ふたりが木の実を食べたその根底にあったものは、蛇に扮した悪魔が「あなたは神のようになれる」とそそのかした言葉を、受け入れてしまったことにありました。「神のようになれる」という態度は、まさに神をないがしろにするものでした。
 
ですから、私たちが神のようになれることを意識的・無意識的な動機にかかわらず、そのような態度を抱いたときに、神の言葉を勝手に改変しつつ解釈して、自分の都合の良いように受け止め、行使しようとするならば、それは、申命記に記された神の戒めに逆らうことになるのでしょう。
 
ただ、この場合、「神の戒めの中核にあるものはいったい何なのか」ということを明確にしなければ、大変危険な方向に私たちは進んでしまうことも、また事実であると私は思っています。神の戒めの中核とは、「神を愛し、隣人を愛する」ことにあります。そして、その愛のかたちは、神が、具体的にはイエスが私たちに示してくださった愛のかたちであって、私たちの利己的な動機にもとづく愛では決してないということを、私たちはしっかりと受け止める必要があるのだと思います。
 
今日の新約聖書の言葉で、パウロが手紙を通して語ろうとしていることは、まさにそこにあるのだと私は思います。キリストが私たちに示してくださった愛以外は、何も語るまいと。
 
神の言葉と標榜して、人々を奈落の底へ陥れるような態度を示し続けることだって大いにありうるのだと肝に銘じて、神の示された愛を明らかにするために、神の言葉に聴く態度というものを、今日も大切にしてまいりたいと願います。皆さんの一日にも、神が豊かにのぞみ、守りと祝福を与えてくださいますように。心からお祈りします。

27/03/2026

2026.3.27(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編11編19節
正義は命に
悪を追い求める者は死に至る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙6章8節
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
暖かな日が続いたと思ったら、いっぺんに寒が戻った仙台です。三寒四温とはまさにこのことだと思わされています。しかし、戻っても必ず進んでいく。そして確実に春は訪れる。天気を見て、そんなことをも強く思わされました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「どこに土台を据えるか」というものです。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書のことばは、「人は蒔いたものを刈り取る」という言葉で知られる、ガラテヤの信徒への手紙の一節でした。種を蒔くということが何を意味するのか。私は「根を下ろす」という言葉をもイメージしました。つまり、自分自身の立ち位置がどこにあるのか、どこに自分自身が根を下ろし、立とうとしているのか。そんなイメージです。
 
今日のガラテヤ書の言葉に、「霊に蒔く」という言葉があります。霊とは紛れもなく聖霊のことを指すわけですが、聖霊にこそ、父である神とそのみ子であり私たちの命の救い主の心がいっぱいに詰まっています。私たちを助けるために。私たちとともに歩んでくださるために。
 
その聖霊に、自分自身の思いを、心を、考え方を、感じ方を、そして生き方のすべての導きを求めることにこそ、私たちが「霊に蒔く」ということの意味があるのだと、私は受け止めたいのです。霊に蒔き、そして自分自身を聖霊の助けによって根を下ろすならば、神という台地が私自身をしっかりと支え続けてくださる、ということなのです。
 
神が与えてくださった命が、命として活かされることを心から願いつつ、今日の一日を歩むことができますようにと祈ります。皆さんの一日のために。そして、私自身の一日のためにも。

26/03/2026

2026.3.26(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編34編2節
私はどのような時も主をたたえよう。私の口には絶え間なく主の賛美がある。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章5~6節
神は御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。それは、ご自身の栄光に満ちた恵みを、私たちがほめたたえるためでした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は一日雨模様の仙台ですが、雨がもたらすうるおいが、私たちの心をもみずみずしいものとしてくださいますように。そんな気持ちを抱きながら、神が与えてくださるみ言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するメッセージは、「神をたたえる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
「たたえる」とは何でしょうか。私たちは似たような表現で「ほめる」という言葉も知っています。では、たたえることとほめることとのあいだには、どのような違いがあるのでしょうか。その点で、ある方が興味深いことを言っていたのを思い出します。
 
ほめるというのは、結果に対する賞賛、しかし、たたえるというのは結果いかんにかかわらず、その過程に対する賞賛なのだと。ゆえに、ほめることよりもたたえることのほうが、より深く、より敬意のこもった私たちの表現なのだと。
 
なるほどなと思いました。私たちは成果主義の世界で生きていますし、もちろん、そのことも大切なのでしょうが、過程が何かと軽視されがちなのも事実です。しかし、結果の裏に涙ぐましい努力や営みというものがあるならば、そこにこそスポットを当てることの大切さがあることも、また事実なのではないかと私は思うのです。
 
すべてをご存知である神は、そのような私たち人間がくだす評価とは違うところで、私たちの動向を見守り、たとえ目に見えない結果が私たちをくじこうとも、神は私たちの心、そして誠意というものを大いに祝福してくださる。そのような神だからこそ、私たちもまた、目に見える事象だけで、短絡的に神を評価するのではなく、総合的に神のなさることをもって、大いにほめたたえたい。私はそのように思わされたのです。
 
ちょっとしたことで、神をも憎み、うらむ態度というものを、私たちは多少なりとも持っているものです。「神がいるのにどうして」と、私たちはついつい思ってしまうのです。しかし、そんな私たちの気持ちをも、神はすべてご存知なうえで、その意味というものを私たちに与えてくださり、私たちを総合的に見守ってくださるからこそ、私たちは安心を得ることができるのでしょう。
 
そのような安心に支えられながら、今日の一日を歩むことができますように。神が、皆さんを、そして私をも祝福してくださいますように。心からお祈りします。

25/03/2026

2026.3.25(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編9編20節
主よ、立ち上がり、人間が勝ち誇らないようにしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書9章31節
(イエスが弟子たちに語った言葉)
「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
しばらく、黙想をお休みしておりました。読んでくださることを楽しみにしてくださっている皆さまへ、大変申し訳ありませんでした。随分ご心配のメール・メッセージをいただきましたが、返信もできずままでおりました。そのことも併せて、心からお詫び申し上げます。
 
ここのところ、「言葉をつむぐ」ということについて、しばらく考えておりました。言葉で人を傷つけ、また傷つけられる現実を目の当たりにして(具体的に、私がどうこうされたというわけではないのです)、とても心を痛めておりました。そうこうしているうちに、あっという間に2週間も黙想をお休みしてしまいました。四旬節のとき、あらためて自分自身の弱さと、神に十二分に頼ることのできない罪深さというものを痛感させられた次第です。
 
しかし、このあいだにいろいろなことを考えさせられ、多くの出会いがあり、別に相談したわけでもなんでもないのですが、私の心と思いに多くの刺激が与えられました。聖霊の息吹が私のなかを吹き抜けたのでしょう。それで、今日から気持ちを新たにして、黙想を再開することにいたしました。どうぞ主にあって、今後ともよろしくお願いいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに私の今の心境にしっくりとくる言葉でした。「人間が勝ち誇る」ということについて、それを我が心のうちにとどめるように働いてくださいと、ダビデ王は神に願い、祈りの言葉をささげました。勝ち誇るとはなんでしょうか。「他者より自分が優れている」という思いから生じる態度のことです。
 
それは、往々にして、私自身のうちにある「正義感」から生じることがあります。私の正義感が、他者の言動を許せなくなるのです。それはきわめて日常的な、私たちの感覚であるかもしれません。正しく生きることは良い。自分の正しさに相容れない相手に対して、批判するのも良いでしょう。しかし、その目的は「神によって建て上げてもらうこと」にあるのだと私は考えます。
 
批判するならば、創造的、建設的な批判をしたいものです。ただ人格を攻撃し、反対したい、抗いたいという欲求を充足させるためだけに、批判を展開させるのであれば、それは、もはや批判ではなく、批難というしかないのだと。あまりにも、自分と相容れないものを徹底的に叩くことで、まさに「勝ち誇る」ということを勝ち取ろうする人間の姿というものを、自分自身に当てはめて考えたいのです。神はそんなことをお臨みでないことは明らかですので、その御前に、自分自身の罪というものを、じっくりと見つめ、悔い改めて生きたいのです。神の助けによって。
 
そのことを十二分に実践されたのは、救い主イエスでした。いくらでも勝ち誇れるような機会があっただろうに、屈辱の極みを味わわれたのがイエスでした。むしろ、負けることにこそ誇りがあると言わんばかりに、イエスは十字架への道をただ歩まれた。このイエスを前に、自分自身の至らなさに悔いつつ、しかし、それに開き直ることなく、「勝ち誇らせないようにしてください」と神に祈り、神の助けによって「負ける」ことにこそ、誇りを見い出したい。神はすべてをご存知なのだから、他者をおとしめることなく、主の御前にただ誠実であり続けたい。そんなことを、今日の聖句から想わされました。
 
四旬節も終わりを迎えようとしているなかで、今日の一日もまた、自分の弱さをすべてご存知である神の助けによって、少しでも主のご犠牲にふさわしい生き方をすることができますように。皆さんの主にある平安を心からお祈りします。