11/08/2026

2026.8.11(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編143編8節
歩むべき道を教えてください。
私はあなたに向かって魂を高くあげます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章68~69節
シモン・ペトロが答えた。
「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も暑い夏の一日を迎えました。仙台は昔のように30度を超えない日々を過ごしていますが、各所で酷暑とも言える陽気のなかで、健康が守られますように。そして、台風が直撃しようとしている関東地方が、危険から守られますように。震災後の熊本の地に、少しでもそこに住まわれる方々の安全が守られますように。そのことをお祈りしつつ、今日の聖書の言葉に聴きたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「私たちの歩む道を、神はご自分の言葉を通して備えてくださっている」でした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉である、ヨハネによる福音書6章は、長い物語となっています。イエスは、ご自分の言葉を聞こうとする大勢の人々を前に、奇跡を通してそれらの人々の空腹を満たしたり、病気をいやされました。そして、会堂においては、神の言葉を取り次ぐことを通して、人々の心に神の思いを吹き込みました。
 
しかし、人々のなかには、イエスを通して語られる神の言葉に対して、拒否感を示す人もいました。「あまりにもひどい話だ」と言う人たちもいました。イエスの語る言葉に付いて行くことができずに、その場を離れ去った人たちもいました。神の言葉に拒否感を示す人間の思いというものは、古今東西変わることがないということを、私たちはこれらの物語を通して知ることができます。たとえ神によって良いものを私たちがいただき続けているのにもかかわらずです。
 
神から良いものを得ているのにもかかわらず、自分自身のなかに起きる拒否感は、それだけ私たちは「自我の強い存在」であることの紛れもない証拠です。自我の強さが、神のなさることを受け入れなくさせてしまうことだって、私たちの生活には往々にしてあるのです。しかし、そのことに開き直る生き方を営み続けているのであれば、私たちは神を拒み続けて生きることになってしまうことも、また間違いない事実なのです。
 
そのような私たちに、イエスは近づかれました。今もご自分の言葉をもって、私たちに神の愛というものを示し続けておられます。その示された道を、私たちは「教えてください」と問い尋ね続け、また、ペトロによって語られた信仰告白のように、その言葉を自分自身を活かす無くてはならないものとして、受け入れることの幸いというものを、私たちは自我の現実を見つめつつも、前向きにとらえていきたいと心から願います。
 
神を信じたい。しかし、拒んでしまう自分がある。だからこそ、そんな私たちにイエスは今日もともにいてくださり、良いものを授けてくださる。このことが幸いなのだということを胸にして歩むことができますように。皆さんの一日に、神からの祝福と平安がありますように。心からお祈りします。

10/08/2026

2026.8.10(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編103編19節
主は天に王座を据え
その王権はすべてを治める。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章31~32節
人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
お盆休み前の平日の一日を迎えました。すでに休まれている方もおられるかと思います。私も今日から土曜日まで休暇のひと時をいただきました。普段できないことに手をつけながら、ゆっくりと休暇を楽しみたいと思います。皆さんの一日にも、神の守りと平安がともに、豊かにありますようにお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神は私たちのすべてを治められる」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちの神は、全世界を治める、つまり統治される方であることは、今日の聖句が語っているとおりですし、私たちは、その統治のもとに生かされている神の民であることに間違いありません。統治者に求められていることとは、私たち民を幸福へと導くということに他なりません。
 
しかし、私たちの神の統治があるのにもかかわらず、この世の中は本当に神の統治にふさわしいものとなっているでしょうか。相も変わらず差しさわりがあり、人と人との間に起こる亀裂や衝突が後を絶ちません。自分だけが得をしようとする思いが、他者の大切なものを奪い取り、不均衡や不条理が私たちの世界を容赦なく襲うこともあるのです。そんなことを考えると、神の統治など本当にあるのだろうかと、首をかしげてしまうのです。
 
しかし、それは神の統治不足なのでしょうか。私たちの神は、そのような不均衡に大なたを振るって強制的に是正することを、拙速に行われません。忍耐をもって、私たちの動向をじっくりと見守っているのです。そして、イエスという救い主を差し出されることによって、イエスの生涯における言葉と行いによって、神の統治のもとに生きるとは、どのようなことかをその生き方で示されました。命を私たちに与えられることによって、その尊さということを、私たちひとりひとりに示されたのは、神の統治の何物でもないと言えるのです。
 
神の統治のもとに、神の願いにふさわしく生きることの幸い。どんなに統治者が素晴らしくても、その統治のもとで生きる私たちがそこに同調しない限り、世の中はいつまでもゆがみに満ちた世界になることは間違いないのです。だからこそ、私たちの姿勢というものが問われていることを、私たちは今日の聖句からじっくりと聴きとりたいと思います。
 
神の御国の民として、今日も神のみ心に生きる者となることができますように。神の言葉と聖霊の助けによって、今日一日が主にあって健やかであることを、心からお祈りします。

09/08/2026

2026.8.9(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書42章9節
見よ、先にあったことは実現した。
そこで、私は新しいことを告げよう。
それが起こる前に
私はあなたがたに聞かせよう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書13章37~38節
良い種を蒔く者は人の子、畑は世界。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間を迎えました。世の中はお盆休みで移動をされたり、ひと時の休みを楽しまれると思います。そのすべての予定に、神からの守りと平安が、皆さんとともにありますように。私も今週は、いつもよりもゆっくりできるので、いつもできないことなどをゆっくりとおこなおうと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「新しいことをなしてくださる神」です。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
神は常に新しいものを私たちに見せてくださいます。しかし、その新しさは単なる物珍しさや、一時で輝きを失う打ち上げ花火のようなものではありません。私たちを活かすために、新しいことを私たちに示してくださる神がおられるということです。私たちが何の変哲もない生活を歩むのではなく、日々ますます神がおられることに感謝して歩めるように、ひとつずつ、私たちが受け取れるように、神は新鮮さというものを与えてくださるのです。
 
そのことを、私たちは神の言葉を通して、ひとつずついただくことができるのです。私は、このような日々の聖句が、その日ごとに私たちの命を活かす言葉として、新鮮さを私たちに与えるものなのだということを受け止めています。いろいろなディボーション雑誌があり、毎日聖書に親しめるように準備されているわけですが、どのような媒体でも良い、たったひと言の聖句でも良いのです。その言葉を通して、神が私たちに新鮮さを与えてくださるのであれば、これは、イザヤ書で神が私たちに告げておられることに相通じるのだと、私は受け入れたいのです。
 
人の子であるイエス・キリストは、こうしてご自分の言葉を私たちの心に種を蒔くように、蒔いてくださるのです。私たちの心が土壌であり、その土壌が畑となり、その畑こそ世界そのものだというのが、今日の新約聖書でイエスが告げておられることです。私たちがそのような畑となるべく、神に養われて育ちゆくことができますように。今日の世界中でおこなわれる礼拝が祝されますように。その礼拝から、活きる活力というものを得ることができますように。お祈りします。

08/08/2026

2026.8.8(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編25編5節
あなたこそ、わが救いの神。私は日夜、あなたを待ち望んだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章7節
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この七日間の旅路をどのように過ごすことができたでしょうか。私自身も、その日々を振り返りながら、神がその旅路を導いてくださったことを指折り数えながら、一週間を締めくくりたいと思います。
 
今日の新約聖書のことばは、イエスによって語られた勧めです。求めること、探すこと、そして叩くこと。その相手は、私たちの神です。神を求め続け、神が与えてくださる道を探し続け、神が準備してくださる門を叩き続けることの幸いというものを、イエスは弟子たちに対して、そして、私たちに対して語りかけてくださいました。
 
以前、こんな話を聞いたことがありました。「求め続けているのに、神は何も答えを与えてくださらない」と。その方は、長い期間、あることで苦しみ続けてきました。その苦しみから解放されたくて、ずっと神に祈り続けていました。しかし、神はこの私から苦しみを取り去ってくれない。そのことを嘆いておられました。
 
苦しみのただなかにあって、なかなかその苦しみから脱しきれないほど、つらいことはありません。神が求めなさい、探しなさい、叩きなさいと言っておられるのにもかかわらずです。しかし、その方はやがて、自分自身を襲う苦しみと向き合うようになりました。苦しみは決して消え去ることはありませんでした。しかし、この苦しみを御存知である神が、一緒にその苦しみを担ってくださるということに、その方は気付いたのでした。
 
その方は悟りました。神は、私のうちにある苦しみをすべて取り除くという道を与えられるのではなく、どんな時にも神が一緒にいてくださり、慰め励ましてくださるのだということを、自分自身が生きるための、無くてはならないものとすることができるのだと。このことは、その方にとっては人生を営むための、神から与えられた大きなプレゼントとなったのでした。
 
大切なことは、自分の思うようにならなくても、神は必ず、その方にとってベストなタイミングをもって答えを与えてくださるということです。そのことを求め、探し、叩き続けることができるように、神は私たちに「待望する」心をも与えてくださるということなのです。私が今日の聖句を通して、受けとめたいと思ったのはこのことでした。
 
どうか、明日への備えの一日が、神の祝福に満たされますように。心からお祈りします。

07/08/2026

2026.8.7(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ゼファニヤ書3章14~15節
娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜びの声を上げよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び歌え。主は、あなたに対する裁きを取り去られた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章17節
キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も暑い夏の一日となりそうですが、どうが私たちの健康が霊肉ともに神から守られて、少しでも健やかに過ごすことができますように。そして、熊本の地にあって、痛み苦しみを覚えておられるすべての方々に、神の慰めと励ましが豊かにありますようにと、心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったメッセージは「平和の福音」という、新約聖書・エフェソの信徒への手紙の一節でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今、私がお仕えしている教会に、夏季伝道実習生として来会している神学生が、先日の礼拝メッセージのなかで、「平和とは、状態が『普通』そのもののことである」とおっしゃっておられました。私は、実にありふれたこの言葉に、強烈なインパクトを受けたのです。
 
普通とは、波風立たない穏やかな状態のことを指すのだと私は受け止めました。確かに、平和という言葉には、日本語でもその文字のとおりに「平らかな」という意味が含まれますし、実際に聖書で日本語に訳されている平和(ヘブライ語:シャローム、ギリシア語:エイレーネー)にも、そのような意味があります。
 
しかし、平らかとひと言に言っても、それはとても難しいことであるということも、私たちはよく知っているのではないでしょうか。私たちの心に波風が立ち、時に嵐となり、私たちの心をしばしば騒がせます。人間関係にざわつくものを感じ取る時に、私たちはなかなか平らかな心境などにはなれないと思うのは、日常茶飯事なことかもしれません。
 
だから、普通という言葉には、とても奥深く、含蓄のある意味合いが私たちひとりひとりに向けられているのだと、あらためて思わされるのです。平和を愛し、平和を希求したいと心から願っても、実際的に私たちは平和を愛せないがゆえに、普通でいられないのです。
 
普通でいる「ふり」はできるかもしれません。その場を乗り越えるために「大人の対応」も取ることができるかもしれません。しかし、それでは何も根本的な解決には至らないということを、私たちは痛感しなければならないのです。もちろん、大人の対応を否定しているわけではありません。しかし、その場限りの、仮面的な態度が、究極の平和を生み出すとはとうてい言えないというのが、自戒を込めた私の偽らざる心境です。
 
今日の聖書の言葉には「平和の福音」と記されています。平和がこの地にあまねく広がりゆくためには、「福音」が無くてはならないものなのだということを、今日の聖句は如実に物語っています。ここで言う福音とは、まさにイエス・キリストが私たちに語られ、行われ、犠牲となって私たちのために最も大切ないのちを与えられたことすべてが、福音の本質であるというのです。
 
私たちが「普通」でいられるために、イエスは自らの命を私たちにささげてくださいました。人命の重みは、普通という言葉と対極をなすものです。この犠牲の重さを心に抱きつつ、普通になれない私たちひとりひとりが、キリストに対して普通であることの尊さというものを、ぜひ噛みしめてまいりたいと心から願わされます。これが、私が今日得たいと思ったことでした。
 
どうか今日の一日が、キリストの平和に満たされた「普通」の生活を営めるような一日でありますように。私たちひとりひとりのあいだに、キリストの平和が大黒柱として据えられますように。心からお祈りします。

06/08/2026

2026.8.6(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編65編9節
朝と夕べの始まる所に
あなたは喜びの歌を響かせてくださいます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録16章34節
看守は二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は、広島に原子爆弾が投下されて81年を迎える記念日です。決してほめられたものではない記念日ですが、この日を通して、あらためて平和とはいったい何であろうかということを、じっくりと考える一日として過ごしてまいりたい。そんなことを想いつつ、今日のみ言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「世界中に神の平和がいきわたる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書のことばである詩編の一節に「朝と夕べの始まる所」という表現がありました。朝の始まる場所は東であり、夕べの始まるところは西と考えれば、神のつくられたすべての場所でと読むことができると私は思いました。ちなみに、今日の聖句の65編9節の前半部分には「地の果てまで」とあります。私の決して知ることのないところまで、神の平和は漏れることなく広がりゆくことを示す賛美のことばなのだと私は思います。
 
私たちの知る世界は、非常に限りある範囲内のものであることを、私たちはよく知っています。どれだけ情報網や交通網が発達したとしても、私たちが知ることのできる量というものには限界があるのです。私たちは限りある世の中で、時に他人事となり、ある時には「井の中の蛙」となってしまうのです。世界のどこかで、大なり小なり人と人、国と国とのあいだに憎しみや戦いが繰り広げられたとしても、私たちは自分自身の限界というものを、認識しなければならないのです。
 
そのようななかで、神は東西南北のすべてをつぶさに見ておられるのだというのが、私たちの信仰なのです。神が不在の世界などありえないのです。もしあるとするならば、それは私たちが神の存在をないがしろにする時なのでしょう。あるものをないものかのように扱うときに、私たちは限界という壁にぶつかり、それを乗り越える方法として平和と逆行するような行為に走ってしまうのです。
 
しかし、そうではないのです。神のなさることに私たちは自分たちの限界を超えて働かれることを知った時に、そこには喜びがあり救いがあるというのです。今日の新約聖書のことばは、大地震というアクシデントに遭遇してパニックになった牢獄の監守たちに、主の弟子のふたりであるパウロとシラスが、救い主イエスを信じることの幸いを伝えることで、それら看守に平安と喜びを与えました。そして、命救われたことをともに喜ぶことができたのでした。これは、私たちの想像を超えた神の力によるものでした。
 
大切なことは、私たちがいかに限界あるなかにあったとしても、希望を忘れることなく神のなさることに信頼を寄せて生きることができるか。そんなことを、私は今日の聖句を通して問う一日でありたいと思ったのです。
 
今日の一日が、神の平和を心から感じる時となりますように。心からお祈りします。

05/08/2026

2026.8.5(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
出エジプト記19章4節
(主の言葉)あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章10節
これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日、東北地方にも梅雨明け宣言が出されました。いよいよ本格的な夏と思いきや、今年の仙台は暑すぎない日々が訪れています。昔の仙台の夏を知る者にとっては、「久しぶりに仙台の夏らしい夏がやってきた」といった声をよく耳にしますし、私もそう思います。一方で、酷暑とも言える地方が多くありますし、熊本では40度前後の最高気温となっているとも聞いています。危険な暑さのなかにあっても、健康が十分に守られますように。そのことを祈りつつ、一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の守り」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちが神の守りを思うときに、私はいつも「神の創造のみ業」というものに想いを寄せるようにしています。そもそも神が人間をおつくりになられたとき、神はどのような思いをもってつくられたかということへのイメージです。神は天地のすべてのものを創造されるなかで、被造物すべてを管理するために、人間を「ご自分のかたち」に似せてつくられました。
 
つまり、人間は神御自身の抱かれるさまざまな性質に似た者として、神の愛情をたっぷりと受けてつくられたということです。親子が似るように、私たち人間は、神がこの世界に対して望まれるみ心に沿って生きることこそが、神の創造の目的に適った生き方であることを、私たちひとりひとりに知らせています。
 
そして、神は創造の業をすべて終えられたときに、「それはとても良かった」と絶賛しておられます。これ以上ないまでに、私たちは神の喜びをともなってこの世界に生み出されるということを大切にするならば、少しでも健やかで平和な日々を歩むことができるのだということを、私たちは心から喜びたいのです。
 
よく「神を喜ばせる」という言葉をよく聞きますが、誤解を恐れず申し上げれば、神を喜ばせるということ以上に、「神の喜びを受けて、自分の喜びとする生き方」という言い方のほうが適切なのではないかと思うのです。神を喜ばせるために、あれこれ努力することは決して悪くはないのですが、時に私たちは「神を喜ばせようと思うことが、神が示される喜びに沿っていない」可能性だっていくらでもあるのです。それは、私たちが「ゆがみ」、つまり根本的な罪(神とともに生きることを拒否する思いと行動)を、基本的なところで有しているからです。
 
だからこそ、神と歩調を合わせて生きる喜びとは、神による創造のみ業を通して、感じとることができるものなのではないかと、私は思えてならないのです。
 
そのような思いを胸にして、今日の一日を歩むことができますように。神は必ず、私たちの心を守り、ご自分のみ心へと導いてくださることを信じつつです。皆さんの生活すべてに、神の祝福と喜びが豊かにありますように。心からお祈りします。