12/02/2026

2026.2.12(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書44章22節
私はあなたの背きの罪を雲のように
罪を霧のようにかき消した。
私に立ち返れ。
私があなたを贖ったからだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一3章5節
イエス・キリストは罪を取り除くために現れたのだということ、そして御子の内には罪がないのだということを、あなた方は知っています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も私たちの行く道を導いてくださる神が、ともにいてくださいますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「罪」についてでした。そのことの黙想をつづりたいと思います。
 
そもそも「罪」とは何か。今日の旧約聖書の言葉はそのことを明確に示しています。それは「神への背き」である、ということです。神が私たちのために与えられた「よいもの」に対して背を向けて、わが道を歩もうとするならば、それは「自分自身が『神』となること」への始まりであり、それが「罪」であると、聖書は一貫して私たちに伝えています。
 
それは、神が私たちに示し続けてくださった愛といつくしみ、憐れみ、忍耐、そのことが私たちの目に見えるように、命の贖い主、救い主として与えてくださったイエス・キリスト、そのイエスが新たな信仰共同体をつくられ、それが教会というかたちとなって現在まで継続されていること、その教会を導く聖霊の働き。それらすべては、神が私たちに与えられた「よいもの」である、ということなのです。
 
それらよいものを「よいもの」として受け入れ、「よいもの」として私たちが預かったものを健全に用いてこそ、神と歩調を合わせる生き方となるのでしょう。しかし、この世界において、それを私たち人間は健全に用いていないのです! 自分の都合の良いように解釈して、自分自身で、自分好みの神をつくりあげてしまうのです。自分自身の神をつくりあげたときに、私たちは神に背を向けて歩んでいることに、もはや気づけないでしまっているのです。
 
だからこそ、私たちは自分自身の信仰のあゆみというものを、じっくりと検証する必要があるのです。自分自身の心のうちにあるものを、正直にさらけ出したときに、その正直な思いに神は必ず応え、ご自分が与えられた道というものを歩むことができるように、導いてくださるのです。そのために、イエス・キリストが私たちにために与えられました。具体的な生き方というものを指し示されました。罪の道を私たちが歩むことのないようにです。
 
ですから、私たちはイエス・キリストの提示された道というものを、自分の生き方とすることが、何よりも大切なことなのだと。これが、今日の新約聖書が示しているメッセージであると私は受け止めました。私自身も今日の歩みのなかで、そのことを神の助けを得ながら、祈りつつ体現していきたいと願わされた次第です。
 
少しでもゆがみのない世界となることを心から望みつつ、私たちのひとりひとりが主とともに歩むことができますように。この一日のすべてに、神のよいものがあふれますように。祈りつつ歩むことができますようにと、祈りたいと思います。どうぞ素敵な一日をお過ごしください。

11/02/2026

2026.2.11(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書31章20節
エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあらまれずにはいられない。ー主のことばー

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙11章2節
神はあらかじめ選ばれた御自身の民を退けたりなさいませんでした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は国民の休日ではありますが、全国の各地で「信教の自由」について考える集会がおこなわれます。あらためて「神を信じる生活」とはどのようなものであるかについて、考えるひと時が与えられていることを心に思いつつ、その一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
そのようなななかで、今日のローズンゲンにしめされたふたつの聖句に心と思いを寄せたいと思います。私はこれらふたつの聖句によるテーマを「神の願い」と受け止めました。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
神の願いとはなんでしょうか。ご自分の民とともに歩むことに他なりません。ただ、神の願いと裏腹に、人間が好き勝手なことをしてしまい、神の願いがないがしろにされるような生き方を営んでいるようでは、せっかくの神の願いは台無しになってしまうことでしょう。
 
私たち夫婦には子どもが与えられていませんので、子育ての経験のない私がこんなことを言うのは的外れになってしまうかもしれませんが、親が子に対して、自分の願いや期待というものを子に寄せることは、周知の事実でしょう。しかし、その子が親の願いに沿わない生き方をしたとしたら、それゆえに子の人生というものが悲惨に満ちあふれるものであるならば、親としては大いに悲しみ、心を痛めるということもしばしばあるのではないかと私は思うのです。「親の心子知らず」とはよく言ったものです。
 
ただ、子は決して親の独占物ではありません。子には子の意思があり、親にはそれを縛り付ける権利も義務もありません。だから、親がどんなにアドバイスをしたとしても、最終的には子が自分で考え、気づき、その気付いたことに基づいて行動してくれることを、親はただ見守りながら、その子の幸せのために関わり続けるしかないのです。
 
私たちが日常で感じ、経験するこのようなことこそ、神と私たちの関係性になぞらえることができるのだと私は思います。今日の旧約聖書の言葉は、神に大切にされながらも、神の思い願いをないがしろにし続けてきたイスラエルの民が、自分のしてきたことに気付いて、それを悔やみ、あらためて神のもとに帰りたいと心から願ったとき、その思いに神が応えられた。それはまさに、神が人に示されたあわれみであったことを、今日の聖句から知れるのです。神はそうなることをただ望みつつ、忍耐をもって私たちとともに歩んでくださるというのです。
 
私たちの世のなかでは、神が私たちに示された姿勢というものに、私たちもまた神の子どもとして親である神に、真心をもって立ち返ろうとする時に、そこには必ず健全な親子関係というものが芽ばえ、幸いがあふれるということを心から信じたいのです。
 
神は決して私たちを退けることなく、私たちが気づくのを待っておられる。今日の新約聖書の言葉が言わんとしているメッセージです。ゆがみがあるこの世界、人間関係のなかで、私もまたこの神の言葉をただ受け流すのではなく、私たちの神との立ち位置や距離感というものを、聖書の言葉と聖霊の助けによって、じっくりと検証していきたい。そんな風に私は受け止めたいと思ったのです。神の願いは、私たちが神とともに歩むことで、少しでもゆがみが矯正されて、健全かつ幸いな道を歩めることだからです。
 
今日の一日の歩みのなかで、少しでもそのことを感じ取れる幸いが私たちのあいだにありますように。そのことを心から願い、また皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

10/02/2026

2026.2.10(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記32章11節
(ヤコブの言葉)私は、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるには足らない者です。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章16節
(パウロの手紙)しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神の憐れみと慈しみに生きる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の聖句は、神の憐れみと慈しみを受けたふたりの人物の心境が描かれています。ひとりはイスラエルの民の祖となったヤコブ、もうひとりは、伝道者パウロです。このふたりが、神に出会い、キリストに出会うなかで、どのような心の揺らぎであるとか、その決意というものを読み取ることができると、私は思いました。
 
ヤコブは、神とともに歩むその人生のなかで、神のスケールの大きさに圧倒されます。どんなに疑っても、迷っても惑っても、神が「私はあなたを決して見捨てない」(創世記28章15節)という約束によって、神とともに歩む幸いというものを味わい続けてきました。そのようななかで、ヤコブは神に告白します。私はあなたのそのような憐れみを受けるには足らない者、つまりそんな資格がないくらい貧しく、乏しく、ふさわしくない者であるという、ヤコブの謙虚な言葉が、神に向けられました。
 
神はそんなことなど承知のうえで、にもかかわらず、ヤコブの人生の旅路を守り続けました。ヤコブには相も変わらず人生の苦しみや痛みがありました。人との関係に悩みました。しかし、神がただ注がれる憐れみと慈しみによって、ヤコブは神とともに歩む道に幸いを見い出します。まことに頼りない人生かもしれません。しかし、神とともに歩むということによって、ヤコブの人生は神に祝福を存分に受けました。それは、ヤコブの謙遜な告白に、神が十分に答えられたことを示すものでした。
 
私たちの人生は、つねに痛みと苦しみをともなうものです。この苦痛に耐えられなくなるのです。いたたれなくなこともあります。穴があったら入りたく、その環境から逃げ出したくなることもあるでしょう。しかし、繰り返しますが、神はそんな私たちの心境など百も承知のうえで、私たちとともに歩むことを心から願っているがゆえに、私たちのあり様に忍耐を示して、寛容をもって私たちに接し続けてくださる。この事実を、私たちがどのように受け止め、また心から応答することができるかというところに、今日のもうひとつの聖句が示す肝というものを感じるのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、パウロが神の憐れみを受けた者として、どのような生き方を指し示されているかについての告白の言葉です。どのような告白か。「キリストの憐れみによって私が『手本』となる」ということでした。
 
パウロは、決して非の打ちどころのない立派な人間であるというわけではありませんでした。人一倍自分が、神と歩調を合わせることのできない者であることを自覚していました。キリストによって救われたという事実と、自分自身のうちにあるさまざまな感情とのあいだにあるズレに、大いに悩み苦しみました。私など、キリストの前にあってなんとふさわしくない人間なのか。パウロが記した手紙の随所には、そのようなパウロの思いがつづられていることが分かります。
 
しかし、そんな私にキリストは寛容を示し続けているではないか。良いものの、数多くの出会いというものを与えてくれているではないか。そして、現にキリストの救いの言葉に私自身が生かされているという現実があるではないか。私が生かされているのがキリストのおかげであるならば、私自身もまた、自分が救われているということを自分の生き方をもって示し続けていくことこそが、私の生き方なのだ。どんなに失敗をしたとしても、神の憐れみに抗う自分自身に気付いたとしても、それでも私はキリストによって生かされていることを、大切にして生きたいのだ。そんなパウロの心というものを、このひと言から読み取ることができるのです。
 
ヤコブしかり、パウロもそうであったように、私たちは決して立派な人間ではありません。しかし、神がそんな私たちを愛し、ご自分の道へと導いてくださるということを、私たちは今日の一日もまた心に感じつつ、神の御前に正直な者でありたいと願いつつ、その時を過ごすことができますようにと祈りたいと思います。私たちひとりひとりが今日も、神の守りと平安に生きることができますように。心からお祈りします。

09/02/2026

2026.2.9(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた2月1日の旧約聖書のことば
レビ記19章33節
もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた2月1日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章14節
(イエスの言葉)私の命じることを行うならば。あなたがたは私の友である。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
衆議院議員選挙が終わりました。自由民主党が単独3分の2の議席を獲得したニュースで、朝から持ちきりです。どんな理由や背景があれ、これが「国民の意思」なのだということを、強く感じさせられました。政権を担う与党、それに対峙する野党がそれぞれの使命というものに、真摯に向き合って欲しいと思います。それに、私自身としては、ひとりのクリスチャンとして、イエスがこの地に示されたその価値観を自分の生き方として大切にする者として、支持できるところは積極的に支持していきたいし、支持できないことは毅然とした態度を明らかにできるよう、世の中の動きに敏感な者でありたいと、改めて思わされた次第です。
 
そのようななかで、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、その思いを高めるものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスの言葉でした。イエスの命じられる言葉に同意し、それを実践する者ならば、イエスの友としていただけることの幸いを、イエスは私たちに語られています。イエスの命じられる言葉とは何でしょうか。それは「神がつくられた人間の尊厳が大切にされること」以外になにもありません。私は「神がつくられた」というところに、強調点があると思います。造り主である神は、ご自分の思いや願いをつくられた万物、そして人間に込められました。
 
つまり、神の思い(つまり神のみ心)が明らかにされてこそ、尊厳や人権というものがゆがみなく働くということを、私たちがどれだけ真剣に受け入れることができるかということが、とても大切であると私は思っています。神が不在でも、人権や尊厳を語ることができるし、友という言葉を用いて、人間関係を構築することは可能です。しかし、これらの言葉をめぐって、どれだけの衝突があり、いさかいがあり、人間関係の崩れの元となるかということをも、私たちはよく知っています。神にある尊厳、神にある人権、そして、神があって初めて友という言葉の本質が大切にされて、本当の友としての関係がつくりあげられると私は信じたいのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、「寄留者を守る」という、神の命令の言葉でした。寄留者、つまり立場の弱い人たちを守るという、誰もが受け入れることのできる言葉でしょう。しかし、誤解を恐れず申し上げれば、この言葉がどれだけこの世界で大切にされているかと言えば、それは甚だあやしいものと言えるのではないでしょうか? 弱い者を守ると言いながら実際にはそれになり得ていない世の中があるのです。私は、ここに「神不在の世界」があると私は思えてならないのです。
 
私は思います。神を信じていないから神不在というわけではなく、神を信じていても神不在の世界はいくらでも存在します。だからこそ、神のみ心はどこにあるのかということに、真摯に向き合うということが、この聖書の言葉が与えられた者としての務めなのだと強く感じさせられます。だからこそ、今日もこの言葉を胸にして、その言葉の示す本質というものを大切にして、自分の生活を、日本の未来に向かって歩む一日を大切にしていきたいと願わされました。
 
 神の言葉に聴き、それを自分の胸に手を当てながら、その言葉を大切にすることのできる一日でありますように。皆さんの一切に、神の平安と祝福をお祈りします。

08/02/2026

2026.2.8(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた2月1日の旧約聖書のことば
ホセア書6章4節
お前たちの愛は朝の霧
すぐに消えうせる霧のようだ

旧約聖書に応じて選ばれた2月1日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章9節
(イエスの言葉)私の愛にとどまりなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい週が始まりました。今週はどのような七日間が待ち受けているか、心を弾ませながら迎えられたらと願いますが、どんなことがあっても、私たちの行く道を守ってくださる神が、私たちの旅路にともなってくださいますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲン黙想ですが、私が間違えて、今日のものを2月1日に掲載してしまいましたので、こちらをクリックしてお読みくだされば幸いです。ということで、今日は2月1日の聖句の黙想をしたいと思います。ふたつの聖句に共通するワードは「愛」でした。
 
ギリシア語で愛を表す言葉は9種類ある。私が講師をしている大学の授業で、そんなことを学生たちにそんなことを教えています。それらの愛のなかで、もっとも有名であり比較しやすい愛は「アガペー」と「エロース」であると言われています。アガペーとは、聖書全体を貫いている神の愛、イエス・キリストが私たちに示された愛であり、自分の利益を差し置いて他者のために働く愛のことであり、エロースとはしばしば「性愛」と訳されるものではありますが、元来は自分の欲求を充足させる、つまり自分の利益のために、他者にそれを求める愛であって、アガペーと対極のものであると言われています。
 
そういう意味で言えば、これらふたつの愛について、2月1日の聖句の旧約聖書部分はエロースの愛であり、新約聖書部分はアガペーであると言えるでしょう。エロースの愛は、その一瞬一瞬については燃え上がるような情熱があるかもしれないけれど、熱が冷めたら跡形もなくなってしまうものなのであり、アガペーの愛は、決して消えることなく、私たち人間のために働き、私たちにともない続けてくださる愛であるというのです。
 
私たちはそのアガペーに支えられているからこそ、エロースの愛もまた、バランスの取れた仕方で用いることのできるものなのかもしれません。エロースがアガペーを上回った時に、人間関係、そしてなによりも神との関係において、ゆがみやひずみが生じてくるのでしょう。そのことを心にとどめつつ生きることの大切さというものを、是非受け止めたいと思いました。
 
どうぞ今日の一日も、アガペーを私たちに示してくださる神が、私たちを愛にあふれた道へと導いてくださいますように。心からお祈りします。

07/02/2026

2026.2.7(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書9章6節
その主権は増し、平和には終わりがない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章14節
キリストは、私たちの平和。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。今週90歳の誕生日を迎えた私たちの教会メンバーの方が、こんなことをおっしゃっておられました。歳をとればとるほど、あっという間に時間が過ぎてしまう、と。しかし、その方はまだまだできることがあるのだと、意欲が十分におありなのです。私はその方の姿勢に大いに学ばされました。あっという間に過ぎてしまう時だったとしても、その時をも次の時へとつなぐ大切な時としているのだと。来週につなぐ今日の一日を、聖書の言葉によって始めることの幸いを望みつつ、今日も神のみ言葉に聴きたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉に共通するワードは「平和」です。神の子の世界に対する願いであり、価値観そのものと言える言葉に間違いありません。しかし、神が望まれる平和とは何か。そのことを私たち人間が考えるときに、私たちの価値観というのは千差万別であることに気付かされます。
 
ある人は平和のために非暴力を訴えます。しかし、ある人は平和のためには暴力もやむを得ないと考える人もいます。戦争などにいたっては「平和のために戦う」という大看板を掲げて、人の命を犠牲にするのもいとわない態度が、私たちの世の中に渦巻くこともありますし、実際にそのような光景が今日も繰り広げられています。そのようななかで、私たちはどのような「平和」を心から望み、その平和を実践するものであることが大切なのでしょうか。これは私たちにとっての永遠のテーマと言えるでしょう。
 
聖書が伝える平和とは、神が望まれる平和であり、その平和観というものは、イエス・キリストによって具体的に示されました。誤解を恐れず申し上げれば、父なる神が推し進めた平和は、自分の民を守るためにしばしば戦争という手段を是認されました。つまり、そこには命の犠牲があったことを、私たちは否定できません。歴史を通じておこなわれてきた戦争の多くは、「神の御意思によって」と信じた人間によって展開されてきたことを、私たちは認めざるを得ません。
 
だからと言って、私たちはこの神の姿勢というものを、あえて自分自身が実践する必要があるのでしょうか。私は決してそうは思えないし、思いたくはありません。結局のところ、神は平和に対する解決の最終手段として、自らのひとり子であるイエス・キリストを私たちにお与えになられたという事実を、私たちは真剣に受け入れなければならない。私は堅く信じたいのです。
 
イエス・キリストは、人の暴力に刃を向けて対抗するというよりは、むしろそれに耐えて、決して暴力的にことをなすのではなく、神の平和というものを完璧にまで実践されました。ここにこそ、私たちが目指すべき平和のモデルというものがあるのです。暴力のない世界こそ、私たちが心から愛する神の平和に対する価値観であることを、今いちど心に刻みたいと私は心から願わされます。
 
暴力なき闘いというものがあることを、私は信じたいのです。その時にどうしても必要なのは、「神が守ってくださる」ということへの深い信頼の念であって、そのことをキリストの視点から、日々の営みに活かそうとする私の判断と決断なのだと。一週間の終わりにあたって、そのような思いを抱きつつ、来週の歩みへと進んでいきたい。これが私が今日の聖句を通して受け止めたいと思ったことでした。

この世界に平和が訪れますように。そのために、まずは私自身の心が、平和な思いへと神が導いてくださいますように。その導きに従って、今日も健やかに歩むことができますように。そんなことを心から祈りつつ過ごしたいと思います。皆さんの一日にも、平和の主なる神がともにいてくださいますように!

06/02/2026

2026.2.6(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ダニエル書9章7節
主よ、あなたは正しい方です。しかし、今日このとおり、私たちは、恥辱に直面しています。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章45節
そこで、王は答える。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も皆さんに生活を与えてくださった神が、皆さんをご自分の道へと豊かに導いてくださいますように。皆さんの神にある祝福と平安を、心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「恥辱とはなにか」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ダニエル書9章の一節でした。バビロニア帝国によって捕虜の身とされたユダヤの民のなかから、神の言葉を預かり、それを伝える預言者として立てられたダニエルが、民族を代表して神に祈りをささげている。その祈りの言葉の一部が、今日の聖句となっています。
 
なぜ、私たちは祖国を追われ、辛酸をなめ、恥辱を味わっているのだろうか。ダニエルはその理由を「自分たちの父祖が神の思い願いに沿って生きなかったから」と自覚し、神と歩調を合わせなかった先祖たちの「罪」を、今自分自身が自覚的に負い、神へざんげの祈りをささげているのです。
 
しかし、ダニエルはそのような悲惨な状況にあっても、神が私たちを愛し、憐れみ続けてくださっていることも自覚していましたから、そのことも祈りのなかで感謝の言葉としてささげていることが、他の節から読み取ることができます。そして、それは「神である主の正しさ」から来るものであることをも、ダニエルはよくわかっていました。
 
決して人にその責任を被せるのではなく、その責任から逃げるのでもなく、神への感謝の念を忘れることなく、神とともに歩むことの幸いを自覚しつつ、その幸いを心から願う祈りを、ただ謙虚に神へささげたのでした。今、自分自身が神の御前にあって弱く、小さくされた者なのだというのが、ダニエルの偽らざる心境だったのです。
 
この謙遜な意識があったからこそ、ダニエルは同胞のために祈ることができたのでしょう。同胞が神によって救われることを信じつつ、接することができたのでしょう。このモデルこそ、今日の新約聖書の言葉に相通じるのかもしれません。
 
この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。イエスは弟子たちにそのようなことを弟子たちに語りました。今日の新約聖書の言葉です。「この最も小さな者の一人」とは誰でしょうか。周りを見渡す前に、まず自分自身がそのような者であるという深い認識があるならば、決しておごり高ぶることなく、神の憐れみの心をもって、他者に接することができるのだと、私は受け止めたいのです。
 
神の憐れみが行きわたるとき、それはイエスの心に応えることにもつながるのだ。私に対してしたかしなかったかというのは、イエスが私たちに示してくださったその価値観と生き方に、私たちがいかに応答しているかということへの問いが、私たちに与えられているということなのだと、私は受け止めたいのです。
 
今日も、そのような言葉が私たちの心に浸みわたり、神にまなざしを向けて祈り、自分の心を整え、新しい一日の旅路を歩むことができますように。神の守りと憐れみを、心からお祈りします。