10/10/2026

2026.10.10(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
民数記11章23節
主の手は短いのだろうか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書4章41節
弟子たちは非常に恐れて、「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と互いに言った。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この七日間の旅路を、私たちはどのように過ごすことができたでしょうか。その最終日にあたり、私たち一人ひとりがそのことを思い起こしながら、また、明日訪れる主の日への備えの一日として充実して過ごすことができるためにも、御言葉に聴きたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け止めたいと思ったことは「神には何の不足もない」というものでした。それは、私たちがもしかしたら抱くかもしれない、あらゆる不平不満をはるかに超えたところで、神は必ず私たちのために働いてくださる方なのだという信頼と希望を抱きたいという願いを込めてのことでもあります。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エジプトから脱出して神が約束される土地へ向かうなかで、果てしなく続く流浪のために、疲れ果ててしまったイスラエルの民がこぼした不平不満に対するモーセの言葉が選ばれています。元気のつく肉や野菜にありつくことができないなかで、どのように長旅を続けることができようか。食べることができるのは神が与えられたマナくらいのものだ。そんなんだったら、エジプトでの奴隷でいたほうが、まだましだった。こんな民たちの不平が、広がっていったのでした。
 
そのようななかで、指導者として対処しなければならなかったモーセも大変だったと私は思います。しかし、モーセはここで「信頼と希望」への突破口として、「主の手は短いのだろうか」と語りました。みんなの必要に届かないほど、神である主の手は短いのか、いや、そんなはずはないだろう。必ず、その必要に応えてくださるのが神なのだから。こうして、モーセは民たちを慰め、励ましました。
 
その結果、彼らは肉にありつくことができたのでした。神は民たちのために、うずらを天から降らせて、肉を食べることができるようにしてくださったのです。人間の不平不満に対しても、神なりの方法で人間が生きるための必要を与えてくださるのが、神の与える「信頼と希望」だったのです。この神のなさることに、民たちは旅を続けることができたのでした。それは、今日の世界で生きる私たちに対しても、神は同様の思いをもって接してくださるのだという「信頼と希望」を抱くことが大いに許されているのです。
 
私たちの人生の荒波や暴風にも、それを鎮めてくださる主イエスがおられるのだ。今日の新約聖書に描かれている、イエスによる奇跡の業を弟子たちが驚嘆したように、私たちの日々にも容赦なく襲うさまざまな出来事にうろたえることがあったとしても、そのままにはしておかれない神が、今日も私たちとともにおられるのだ。そのことを希望の糧として、今日も歩んでまいりたいと思います。
 
どうか、この七日目の時も、神が与えてくださる信頼と希望が、私たちの生きるいしずえとなることができますように。主にある守りと祝福を、心からお祈りします。

09/10/2026

2026.10.9(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書50章9節
見よ、主なる神が私を助けてくださる。誰が私を罪に定められよう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章34節
死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も秋晴れの素敵な朝を迎えた仙台です。この秋晴れのような一日を過ごしたいと心から願いつつ、ローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉から、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の聖書の言葉を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神は私たちを『救う』ことを第一に考えておられる方である」ということです。神がありったけの愛情をこめて、私たちを創造された以上、その私たちが路頭に迷ったならば、全身全霊をかけて、私たちをその迷いから救うために生きて働いてくださる方である、ということを信じたいのです。
 
そのような神の思いを、今日の旧約・新約聖書は私たちに語りかけています。今日の旧約聖書の言葉は、イザヤ書からの一節でした。神をないがしろにしたその代償を、神の民たちは自業自得の結果として受け入れなければなりませんでした。しかし、そんなみじめな民たちの姿を、神は見守り続けていたのです。
 
神は、自覚のない私たちに対して、安易に「助け舟」を出されるような御方ではありません。あくまで私たちの「判断と決断」を見守る御方なのです。私たちのそのような選択が、神の目から見てふさわしいかそうでないかは、私たちがその結果を経験することによって明らかにされていくことを、私たちは受け入れることが大切なのです。
 
そして、私たちがそのことを受け入れたときに、それと同時、いや、それ以上に、神が救いのみ手を差し伸べてくださっていたことに、私たちは気付かされる時が必ずやってくるのです。そのために、私たちに神の言葉が与えられ、聖霊の助けが与えられ、神が決して私たちを見捨ててはいなかったことを、再び認識することができるというのです。
 
「だれが罪に定められよう」と、神は私たちに語りかけてくださいます。罪というのは神との関係性の隔絶を意味しますから、神とつながるということはそれすなわち、罪である状態からは解放されている、つまり「助けられている」ということなのです。今日のイザヤ書の聖句は、そのことを如実に物語っているのです。
 
それが、今や、私たちのために神との仲介者として立ってくださった、キリスト(救い主)であるイエスが、神とともに、私たちのために働いてくださっているというのです。今日の新約聖書の言葉にある通りです。取り成す(仲裁する・とりもつ)務めを果たす使者として、神はもっとも愛する独り子を、私たちのために与えてくださいました。そのイエスが、今日も私たちとともに歩んでくださいます。
 
どうか、今日の私たちの歩みが、そんな神の思いを豊かに受けるものとなりますように。心からお祈りします。どうぞ主にあって素敵な一日をお過ごしください。

08/10/2026

2026.10.8(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ハバクク書2章3節
この幻は、なお、定めの時のため
終わりの時について告げるもので
人を欺くことはない。
たとえ、遅くなっても待ち望め。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙5章7節
見なさい、農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待ちます。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
秋晴れの日が続いていますが、まだ先の災害の爪痕ゆえに苦痛を覚えておられる方々がおられることを思うと、手放しで喜ぶことのできない自分自身があります。どうぞ、少しでもそのような苦痛から解放されることを祈りつつ、今日のローズンゲンに示された聖句から黙想を得たいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「じっくりと待つことの幸い」というものでした。すぐに結果を求めたがる私たち、そのために、性急な言動であらぬ方向に物事が進んだりと、私たちは「待つことのできない」存在であるということを、生活の端々で感じるかもしれません。もっとも、私がその最たる者であるという自覚があるわけですが。。。
 
今日の新約聖書の言葉は、ヤコブの手紙の一節です。私は、この聖句にある「秋の雨、春の雨」という言葉に目が留まりました。この手紙が書かれた中東地域は、春分から秋分にかけての約半年間、雨がほとんど降らない季節を迎えます。ですから、農夫にとって、秋に降る雨は、長い乾季を経て地をうるおすために、無くてはならない再生の恵みであり、春に降る雨は、乾季に備えて作物が充分に実るよう、無くてはならない成長の恵みとなるのです。
 
ですから、農夫にとって秋の雨と春の雨が訪れるのを、ただじっくりと待ちながら、作物の植え付けから収穫までの働きを、そのタイミングごとに丁寧におこなっていたことがわかります。大地の尊い実りを待つことの幸いを、この聖句は豊かに物語っていると私は思いました。
 
さて、私たちにとっての「実り」とは何でしょうか。いろいろな物事にたとえることができると思います。私たちの営みの結実を「実り」と言えると思いますが、しかし、その営みはさまざまな障壁にぶち当たりながら、その壁をどうやって乗り越えるかということに、心を悩ませ、苦しみ、時に痛みながら、向き合う私たちの姿というものがあります。
 
そんなときに、私たちは天からの恵みがくることを、じっくりと待つことができるのだ。神が、私たちの想像を超えるベストなタイミングをもって、私たちひとりひとりに臨んでくださるのだという希望が、私たちの心にあふれるのを大いに許されるのです。
 
それが「春の雨であり秋の雨」なのだと。私たちの心をうるおし、耕し、成長させるために無くてはならない雨が、今日も私たちに御言葉と聖霊の助けをもって注がれます。この水の恵みを、じっくりと受け取りたい。たとえ、自分の思うようにそれがなせなくても、必ず神は私たちをうるおしてくださいます。そのことを信じて、今日の営みを大切にしてまいりたいと思います。
 
どうぞ皆さんの一切に、神が恵みを豊かにもたらしてくださいますように。心からお祈りします。

07/10/2026

2026.10.7(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
アモス書5章14節
善を求めよ、悪を求めるな
あなたがたが生きるために。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章15節
誰も悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは、「『善』とは何か?」ということです。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉が「善」であり、その対極にある「悪」という言葉でした。私たちは善悪のどちらも兼ね備えている存在であることは、皆さんもご存知の通りだと思います。では、その善悪に対して、私たちがどのような見方をするのが大切かというのが、今日の聖句を読み解くポイントになるのだと思います。
 
そもそも、善という言葉は、私たち人間の産物ではないという大前提があります。善とは与えられるものであり、そのいただいた善をもって、私たちが善行を自分自身の営みとすることができるというのが、聖書が語っている「善」に対する見方なのです。そして、善の与え主こそ、私たちの神以外に誰もおられないのだ。だから、善である神が、ご自分のものを私たちひとりひとりに分け与えてくださることで、私たちは善をいただくことができるのだということなのです。
 
つまり、今日の旧約聖書の言葉である、アモス書の一節で語られている「善を求めよ」とは、換言すれば「神を求めよ」ということなのです。道徳的に美しい行いを求めよ、善いとされることを求めなさいという前に、まず、神御自身の姿がなんであり、私たちに対する善い取り扱いすべてを求めなさいという意味で、この聖句は語られています。この前提無くして、善行もなにもあったものではないからです。
 
私たちが神を心の底から求めるとき、神は私たちのために、「善」をもって取り扱ってくださったことを思い起こせるように、神が導いてくださいます。そのことを信じて、善を求めることのできる一日となりますようにと祈ります。決して神不在の状態でそれに報いることなく、です。皆さんの今日一日の、主にある平安と祝福を心からお祈りします。

06/10/2026

2026.10.6(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編25編20節
私が恥をさらすことがないようにしてください。
私はあなたのもとに逃れます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章19節
(イエスの言葉)
私が生きているので、あなたがたも生きることになる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も新しい一日がやってまいりました。どうかこの日が、私たちにとって、神を心から感じることのできる、そのことによって生きる励みや慰めが豊かに与えられるよう、心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは「ただ神のおかげで」ということでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書のことばは、詩編25編でした。イスラエル王ダビデによる神への告白の一節が選ばれています。「私が恥をさらすことがないようにしてください」というダビデの願いは、その前の節を読むと、より深い理解を得ることができると私は思いました。
 
詩編25編19節
見てください、どれほど私の敵が多く残忍なまでに私を憎んでいるかを。
 
つまり、ここで言う「恥」が何であるかについて、明確にそのことを示しています。ダビデの感じた恥とは、神に与えられたイスラエル王としての務めを果たすがゆえに生じる、敵からの残忍な憎しみに起因するということです。イスラエル王に求められていることは、ただ神に忠実であって、神とともに誠実に歩むということでした。ですから、ダビデが感じた恥は、あくまで神とともに歩むことが前提にあってこその恥ということがわかります。
 
つまり、神とともに歩むというのは、自らのうちそとに生じる恥と、いかに向き合うことができるかということをも意味しているような気がしてならないのです。その恥がなんであるかを理解した時に、自身が感じた恥というものを、神はどのように取り扱ってくださるのだろうかという思いへと動かされるのであれば、それはとても良いことなのだと思うのです。
 
もしその恥が、神を誇ることではなく、自分自身を誇り、自益を優先するがために起きるものであるならば、その恥は甘んじて受けなければならないだろうし、そこに神の介入と助けがあり、そういうところから解放してくださるように導いてくださることを、受け入れる思いが与えられるかもしれませんし、神を誇るがゆえに生じた恥ならば、それは必ず神が私たちを助けてくださるのだという、強い信頼と信仰の根拠となることでしょう。
 
イエスは言われます。私が生きているからこそ、あなたも生きるのだと。恥をその大きな愛で覆い、ケアし、大切なことを教え、導いてくださる方だからこそ、今日も主にあって生きることが大いに許されているのだ。そんな思いをもって、一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一切に、神の守りと祝福が豊かにありますように!

05/10/2026

2026.10.5(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記18章27節
塵や灰にすぎない私ですが、あえてわが主に申し上げます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書15章27~28節
女は言った。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日の主の日の礼拝をいただき、私たちはまた、新しい一週間の日々を歩む者として、神から押し出されました。今週の週日の日々も、神の守りに支えられながら、神とともに歩む者として生きることができますように。そんな思いとともに、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想を得てまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「私のような弱き、小さき者にも、神は恵みを十分に与えてくださる」ということでした。
 
今日の旧約聖書の言葉は、アブラハムが神にとりなしの願いをしているシーンです。道徳的に頽廃して、神を神と思わない態度を明らかにしていたソドムとゴモラの町に対して、神は怒りを示そうとされていた時のことです。確かにソドムとゴモラは、見た目には豊かな生活を皆が抱いていました。しかし、その背後に神が命を与え、生活を与えることを、この町に住む人たちはすっかり忘れていました。忘れるどころか、ないがしろにしていたのです。
 
この神の怒りに、アブラハムは神の救いを求めます。この荒れ果てた町のなかに、あなたに忠実に生きようとする人がいても、それでもあなたは怒りを発出されますかと。それは、傲慢な思いから出た言葉ではなく、あくまでアブラハム自身が弱く、小さな存在であることを十分に自覚していたうえでの告白でした。あなたの助けがなければ生きていけないのです。だからこそ、そこに眼を留めてくださいという切なる願いの言葉だったのです。
 
もちろん、神はそんなアブラハムを見ていないはずはありません。しかし、大切なのは、私たち人間の側にある「自覚」だったのです。そのような謙虚な自覚から出る神への切なる願いこそ、神はためらいなく受け入れらるということを、この物語は如実に物語っているのです。
 
そして、今日の新約聖書の言葉は、イスラエルの辺境の地とも言える場での、カナン人の女性とイエスとの出会いの物語です。娘が悪霊に取りつかれて苦しんでいるのを見て、いたたまれない気持ちになった母親は、そのいやしをイエスに求めます。まさにとりなしの思いをもって、彼女はイエスに近づきました。しかし、イエスはにべもなく、彼女の願いを一蹴するかのような言葉を彼女に放ちました。
 
それに対して、彼女が告白したことが「小犬もパン屑をいただきます」というものでした。自分のことを小犬にたとえつつ、娘のために神からの恵みをいただきたいという信仰の告白をイエスに向けられました。イエスはすべてご存知だったのでしょう。大切にしたかったのは、彼女の深い自覚から来る謙遜さと大胆さだったのかもしれません。だからこそ、イエスは彼女の娘から、悪霊を追い出されました。
 
弱き小さき者にも、神は必ず臨んでくださる。それがこの私なのだ。そんな自覚を確かめながら、今日という一日を生きていきたいと心から願わされた次第です。感謝をもって、今日のみ言葉を受け入れたいと思いました。
 
どうか新しい今日の一日が、そのような思いをもって神に向き合うことができますように。みなさんの主にある守りと平安を、心からお祈りします。
 

2026.10.4(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ネヘミヤ記9章5節
経って、あなたがたの神、主をほめたたえよ。
いにしえからとこしえまで
あなたの栄光の御名がほめたたえられますように。
それはあらゆる祝福と賛美にまさります。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一10章31節
食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
昨日(10月4日)、ローズンゲン黙想を10月11日のものをしてしまいましたので、日付は変わりましたが、振り返りの意味も込めて、黙想を書きつづりたいと思います。
 
この日のローズンゲンに示された、旧約と新約のふたつの聖句をつなげる言葉は「栄光」でした。栄光とは、神が私たちをまばゆく照らし、行く道を示され、私たちが路頭に迷うことのないようにしてくださる、そのような光の源である神が放たれるすべてを「栄光」と表現することができるのだと私は思います。
 
旧約聖書の言葉として選ばれたのは、ネヘミヤ記9章の一節でした。ネヘミヤ記は、バビロン捕囚からエルサレムへ帰還することができた民たちが、その後、自分たちの町の城壁を完成させました。いよいよ都が復興しようとするそのとき、彼らは神の言葉を朗読して、ハッとさせられたのでしょう。「同じ轍を踏んではならない」と。
 
彼らは、神の光に照らされて歩むということの真意を理解していませんでした。最初は理解していましたが、そのうち忘れてしまったのです。光を受けて生きることに慣れてしまい、それが「当たり前」のものとして受け止めてしまったのです。だからこそ、光源がどこにあるのかなどということを考えずに生きてしまったのです。
 
彼らは、バビロン捕囚での苦しみをへて、神のおきての言葉に触れたときに、「もう二度と同じことを繰り返すまい」と決意します。そして、民たちは神へ、ざんげの祈りをささげました。そのなかで、彼がもっとも大切にしようとしたのは、「神の栄光」が自分たちには無くてならないものであるという、強い自覚の念だったのです。
 
それを受けた新約聖書の言葉は、そのことを私たちに思い起こさせるものです。食べるにも飲むにも、何をするにも、神の栄光があるからこそ、それを楽しむことができるのだと。そんな思いが、私たちに与えられているのだということを思い、深く感謝できました。
 
この感謝の思いを共有しつつ、神の栄光をたたえることができますように!