27/10/2026

2026.10.27(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編82編8節
神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての国民をご自分のものとされます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録10章34~35節
(ペトロの言葉)
神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。今日も私たちに生きる一日を与えられた神が、その命と生活の喜びを感じる心をも与えてくださいますようにと心から祈ります。いみじくも、私が働く教会メンバーの方に宿された命が、今誕生しようとしています。出産の無事を祈りつつ、自分自身に与えられた命の尊さを振り返ることができますようにとも祈りました。
 
さて、今日の魯0-ズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け取りたいと思ったのは、「神の選びに分け隔てはない」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思いますが、ここで大切にしたいのは、私たち人間は、いとも簡単に分け隔てしてしまう存在であるということへの「自覚」です。
 
神は、私たち人間を外見はもとより、社会的な状況であるとか、健康であるとか、そういう見地からものごとを量る方では決してありません。今日のふたつの聖句が指し示すとおりです。神にとっての唯一の基準というものがあるとすれば、ご自分が人間に示されたありったけの愛が、人間の喜びのために用いられているかどうかという一点に尽きるのだと私は思います。神の愛は、人間をはじめとする被造物世界が、この世界で喜びつつ生きるために注がれているからです。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一節には、「すべての国民をご自分の民とするための裁き」について歌われています。裁きとは悪を断罪することだけを意味するのではありません。それは裁きの一側面に過ぎないのです。あくまで「裁量する」わけであって、裁きには、喜びへと至らせる神のご判断という意味をも含まれていることを考えれば、また、すべての人間をごじぶんのもととされるという目的を考えれば、神が決して分け隔てなさるような方ではないことが明白なのです。
 
にもかかわらず、私たち人間の世界に隔絶があり、格差があり、到底喜べない状況がいくらでも存在するのです。その理由はたったひとつです。私たち人間の願望が、神の願いをはるかに上回っているからです。自分自身が「神」となろうとする態度こそ、神の分け隔てなさらないという願いを踏みにじってないがしろにしてしまうということなのです。そうであってはならない。そんなことを胸に刻まされる聖書の言葉に、身の引き締まる思いがあふれてきました。
 
今日から三日間、東京で日本基督教団総会が開催されます。私も議員として参加しますが、会議を通して決定されるすべてが、そのような神の喜びにあふれることを実感できるような三日間となりますようにと、心から祈るばかりです。そして、この祈りは、総会のみならず、私たちの住む世界のすべてに同様にあふれるものなのだということを思い、今日一日の主にある平安と祝福を、心から祈りたいと思います。どうぞ、素敵な一日をお過ごしください。

26/10/2026

2026.10.26(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書30章11節
けれども、あなたを滅ぼし尽くすことはない。私はあなたを公正によって懲らしめる。あなたを罰せずにおくことは決してない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙2章4節
知らないのですか。神の慈しみがあなたを悔い改めに導くのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今日も神の助けによって、新しいウィークデイの初日が祝福されますように!私も明日から土曜日まで東京へ出張になりますので、その備えの一日として、また午前は保育園礼拝、午後は教会メンバーの納骨式と予定が控えています。メリハリのある時となりそうです。心を引き締め、また心を込めてひとつひとつの出来事にお仕えしたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、私にとって「ドキッ」とさせられる聖句でした。旧約聖書はエレミヤ書30章の一節でした。エレミヤ書30章から33章は、いわゆる「慰めの書」と呼ばれている部分です。バビロニア帝国によって故郷を追われ、捕虜の身となったイスラエル人の辛苦に対する、神の慰めがあますところなく語られています。
 
そのなかで、神がご自分の民たちに、ふたつのことを告げているというのが、今日の聖句のポイントであると私は受け止めました。ひとつは「神はご自分の民を滅ぼし尽くすことはない」ということ、もうひとつは「しかし、神の公正によって民を懲らしめ、罰する」ということのふたつです。
 
一見すると、滅ぼさないということと、懲らしめ罰するということとは、真逆のことを語っているようにも思えます。懲らしめ罰する=滅びなのではないか、とも読めなくないからです。しかし、決してそうではないのです。
 
「ダメなものはダメ」という神の正しさに、一点のブレもないなかにあっても、神はご自分の民たちをあくまでご自分の正しさに引き戻そうとされる思いが、この聖句には十分に語りつくされているということなのです。神はいたずらに人間を懲らしめたり、罰したりすることはありません。見せしめとしてそのようなことをなさる方ではないのです。
 
神は、ご自分の愛する民たちに「気づいて欲しい」のです。しかし、究極的に気づくことができるのは、私たち人間に他なりません。だからこそ、あえて「生かす」道を神はお与えになられ、民たちが労苦のなかで生きることの意味であるとか、そのなかでも幸いを見い出せるとするならば、それはいったい何なのかということを、じっくりと考える時と機会というものを、神はご自分の民にお与えになられているのだというふうに、私は受け止めました。
 
ですから、神は滅びの道ではなく、生きる道によって再生されることを、私たち人間に心から願われている。これこそ「いつくしみ」の何物でないのだということを、私たちは是非とも気づき続けていきたいのです。今日の新約聖書で語られている「神のいつくしみが、私たちを悔い改めに導く」と語られているとおりです。悔い改めとは、これまでの自分自身を振り返りつつ、そこに何らかの瑕疵を見い出して、思い直すこと、そして方向転換するという意味です。そこに神のいつくしみなしには、そのような作業は成り立たないということを、私はしっかりと胸に刻んで、今日の一日を歩みたいと願わされました。
 
自分自身におごることなく、だからといって卑下しすぎて自分自身を見失うことなく、神のいつくしみによって生きる幸いを、今日も見い出すことができますように。皆さんの、そして私の主にある平安と祝福を心からお祈りします。

25/10/2026

2026.10.25(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編63編4節
あなたの慈しみは命にもまさる恵み。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙1章13節
御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
新しい一週間が始まりました。神が特別に取り分けてくださったこの聖なる一日が、すべてにおいて良きスタートを切ることのできる時となりますように。そのことを心から祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から、黙想を得たいと思います。
 
今日の二つの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「神がイエス・キリストによって私たちへの救いを果たされたのは、神の慈しみの何物でもない」というものでした。
 
今日の詩編に描かれている「慈しみ」は、原語であるヘブライ語では「ヘセド」という言葉が用いられています。このヘセドという言葉は、新約聖書で言われる「愛(アガペー)」の土台となる神のいつくしみのことを指します。
 
神御自身が心からの愛情をこめて造られた人間に対して、ご自分の誠実さを示すことを貫かれるその思いを、ヘセドという言葉は的確に表現するものなのです。たとえ人間が神を裏切ったとしても、そのことを反故にして無きものとするようなものではなく、何度も何度も、あらゆるアプローチによって、その本質を貫徹されようとする神の思いが、結果として、イエス・キリストによる十字架とご復活という出来事につながっていくということなのです。
 
だからこそ、この神の慈しみ(ヘセド)は、私たちの命を根本的なところから支える、命にまさる恵みとまで賛美できるようなものであるということを、私たちはこの一日、そして新しい一週間を通して受け取り続けていきたいと願わされました。
 
どうか、皆さんの新しい一日から始まる七日間の旅路が、ますます祝福されますように。この慈しみに支えられながら、私たちの命を保つことができますように。心からお祈りします。

24/10/2026

2026.10.24(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書52章10節
主はその聖なる腕を
すべての国民の目の前にあらわにされた。
地の果てのすべての者が、
私たちの神の救いを見る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章19節
あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この七日間の旅路を振り返る時として、今日の一日が充実したものとなりますように。そのことを祈りつつ、ローズンゲンによって示されたふたつの聖句から黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約・新約聖書の両方に見い出すことのできる言葉は「聖」でした。神の聖なるみ腕が私たちを救うのだと、預言者イザヤはご自分の民たちに告げられました。そもそも「聖」という言葉は、旧約聖書の原語であるヘブライ語では「カードーシュ」という言葉が用いられています。その意味とは、本来「切り離された」というものです。他のあらゆるものに支配され、左右されることなく、神の唯一無二の働きが、私たち人間に豊かに及ぶのだということを、聖なるみ腕という言葉をもって私たちに知らせているのです。
 
私たちは日々、さまざまな出来事や物事に振り回されて生きています。どんなに自分自身を整え、律して生きようとしても、それから完全に逃れることは不可能なのです。だから、それらに翻弄されることのなかで、少しでも確かなみ腕によって守られたいという願望というものが、私たちの守りとなり、慰めや励ましに結びついていくのでしょう。
 
その守りとなってくださるのが神の「聖」ゆえのことなのだということを、私たちは改めて感じ取り、受け取る者でありたいと願うのです。このことを、後に「神の家族」という言葉で表現されました。神の力強いみ腕に守られる姿は、まさに一家の大黒柱的な存在を彷彿とさせます。皆で協力しながら、一家の長(おさ)によってしっかりと守られるイメージです。これこそ、神の「聖」によって成立するものなのだということを、私たちは是非胸に刻むことができればというのが、私が今日の黙想で受け取ったことでした。
 
どうか、そのようなみ腕に守られながら、聖なるという言葉を携えて、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの歩みを、そして私の歩みをも、心からお祈りします。

23/10/2026

2026.10.23(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書23章5節
その日が来るー主の仰せ。
私はダビデのために正しい若枝を起こす。
彼は王として治め、悟りある者となり
この地に公正と正義を行う。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書16章16節
シモン・ペトロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
現在、仙台の気温は8度。ここ数週間で、やっと本格的な秋となってまいりました。今は朝の5時ですが、このシーズンで初めて、部屋のエアコンに暖房をかけました。私は秋が深くなりゆきつつあるこの季節が、一抹のもの悲しさを覚えつつも一番好きです。今日も秋晴れの予報。気持ちよく一日を過ごしたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する話題は「私たちの王」というものでした。私たちはそれぞれの国で、為政者や政府組織のもとで生活していますが、それら目に見える実際の国の国民でありながら、神がお建てになられた「御国(みくに)」のもとでも生かされています。それが究極的な全世界の政府であり、その王として立てられたのが、救い主イエス・キリストであるというのです。
 
神の御国は「すでに」訪れていますが、その完成にいたるまで、神はその先取りとして、神の抱く、そして王であるイエス・キリストの価値観をこの世界につくられました。これこそ、ペンテコステ以来連綿と今日まで続いている「キリストのからだなる教会」であり、この教会を通して、神の御国は全世界に伝えられ、広げられ、分かち合われていると言えるのです。
 
教会とは、なにも「建物」だけを意味しているのではありません。イエス・キリストによって集められた人々の「信仰共同体」であり、〇〇教会という既存教会の枠を超越した、全世界的な信仰者のつながりが、主のからだとされているということを、私たちはキリストからいただいた信仰として、大切にしているのです。
 
この主のからだに、神の価値観が充分に注がれるのです。今日の旧約聖書のことばであるエレミヤ書の一節には、「公正と正義」とあります。誰かを持ち上げ誰かを貶めることは、神の本来の価値観ではありません。そこに神の正しさがあります。しかし、私たちはその価値観を時に無視し、神の思いを踏みにじってしまうことがあります。
 
正しさを主張し、愛そうとしても、究極的にそのことが成しえない。私たちの偽らざる現実です。だからこそ、神は私たちの王として、イエス・キリストを目に見えるかたちで差し出されました。光かがやく王というよりは、人々のあざけりをこれまでもかというほど甘受して、十字架の道をただただ進まれたイエスが、私たちのキリストであり王であるというのです。
 
ここに、あくまで私たちを正しく扱われる方の真実があります。この真実に裏打ちされた正義と公正が、今日も私たちの心と思い、そして行動に活力を与えてくださいます。そのことを、今日のふたつの聖句を通して受け取りたいと、心から願わされました。
 
どうか今日の一日も、主にあって健やかに、そして、平安と祝福に満ちあふれた時となりますように。心からお祈りします。

22/10/2026

2026.10.22(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

 くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば

詩編100編3節
主は私たちを造られた。
私たちは主のもの。
主の民、その牧場の羊。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書10章14節
(イエスの言葉)
私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今朝も秋晴れのさわやかな朝を迎えました。そのようななかで命与えられた私たちが、今日、どのような一日を歩むことができるのでしょうか。そんなことを思い描きつつ、その基盤となるべく、ローズンゲンによって指し示されたふたつの聖句から黙想を得たいと思います。
 
今日の旧約・新約聖書の両方に登場する言葉は「羊」という言葉でした。聖書では、羊と言えば私たち人間のこと、特に神によって守られ、養われている者たちのこと全般を指す言葉として、広く用いられているのは、皆さんもご承知のことと思います。
 
羊は決して「強い」動物ではありません。視力が弱いため、目の前にあるものについていくという習性があります。ですから、ついていく先にあるものがどういう存在かによって、羊にとっては死活問題となるのです。あくまで「良いもの」の後について行かなければ、待ち受けているものがどうなるかはわかりません。危険を味わわなければならないことだって十分にあるわけです。
 
そのようななかで、そのような羊を守る神がおられることを、古今問わず、信仰者たちは自分自身の助けとし、希望としていった。これが、今日のふたつの聖句に描かれている賛美であり宣言なのだというのです。
 
神である主は、ご自分に似せたかたちとして、私たち人間をありったけの愛情をこめてお造りになられました。ご自分が最高傑作品と絶賛するまでに、私たち人間のことを深く愛しておられるわけですから、神にはその人間を養う務めというものを、決して放棄されることなく私たちに対して抱き続け、そして行使し続けておられます。
 
だからこそ、神によって遣わされた救い主イエスは、その務めを一身に背負い、私たちの「羊飼い」となってくださいました。変なものに誤導されることのないように、私たちの手をしっかりとつかんで、導かれるイエスが、今日も私たちとともにおられます。私たちは先のことまで明確に見通せるような視力はありません。だからこそ、主イエスの言葉に導かれながら、今日という一日を歩んで生きたいのです。
 
どうか、この一日もまた、秋空のさわやかな気持ちにたとえなれなかったとしても、そこには必ずイエスがおられることを信じて、歩むことができますように。神の守りと祝福を、心からお祈りします。

21/10/2026

2026.10.21(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

 くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば

イザヤ書58章11節
主は常にあなたを導き
干上がった地でもあなたの渇きを癒やし
骨を強くされる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章11節
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今朝はゆっくりと休むことができました。今日から3日間、目白押しの予定が入っておりますが、ひとつひとつ心を込めて仕えたい。そんな思いとともに朝を迎えました。その前に、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から、黙想を得たいと思います。
 
今日の旧約・新約聖書から私が受け止めたいと思ったのは「日々新たにしてくださる神」というものでした。たとえ前の一日に疲れを覚えても、新しい朝とともに私に復活の思いを与えてくださる神が、今日も私にともなってくださり、私を導いてくださる。そんなことを今日の聖書の言葉から希望とともにいただいたような思いでおります。
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちにとって大変有名な「主の祈り」の一部分です。私たちに「日ごと」の糧を、今日この日にお与えくださいというものです。私たちは、食べるものに事欠くことがない環境のなかで、糧をいただくということを当たり前のように受け止めているかもしれません。私とてそのように思うわけですが、しかし、それは決して「当たり前」のものではありません。神がその日その日に、一日を生きる力というものを更新と再生の思いをもって与えてくださるのです。新鮮で、昨日とは違う新たな道をもってです。
 
惰性で動くのではなく、何の感動もなしにその日ぐらしをするのでもなく、なにか新しい出会いと発見が、私自身に感動を与えてくださる神がおられる。これは本当にすごいことなのだということを、私は何度も何度も聴き、祈りの言葉にしたためているこのフレーズを通して、「新たにされる経験」というものを、今日も大切にしたいと願わされたのでした。
 
たとえ干上がった地で渇きを覚えても、心を全面的に癒やす水を与えてくださる神がおられるのだというメッセージが、今日の旧約聖書の言葉で希望をもって語られています。この言葉に支えられながら、今日の一日を歩みたいと願います。この連鎖こそ、私たちの住む世界に平和を与えるものだということを、心から信じつつです。
 
どうか、今日の一日に新鮮な発見を、神の助けによって見つけ出し、それを営むことができますように。主にある平安と祝福を、心からお祈りします。