くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書24章7節
私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書24章32節
二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってきました。この七日間の旅路を、私たちはどのように歩むことができるでしょうか。今日もローズンゲンを通して与えられた聖書の言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
神は私たちにひとりひとりに、神が「主」、つまり、神が私たちとどんな時にも一緒にいてくださる方であることを「知る心」を与えてくださると、はるか昔の預言者であるエレミヤに告げられました。
私たちにとって「知る」とは、単に「知っている」ということ以上の意味が含まれています。誰々さんを知っている、この人はこういった肩書でこういう背景をもっていて、こんなことを言った、あんなことを行動した人であるという、その人の人となりのことを、私たちは「知っている」という言葉を使って表現するかもしれません。
しかし、ここで言う「知る」とは、「理解する」ということを意味しています。うわべだけで知っているのではなく、その相手の本質というものを「理解する」のです。良い部分も悪い部分もすべて理解するというのは、その相手を尊重することをも意味します。
ですから、私たちが神を知る心というのは、神が私たちとともにいてくださるという自覚と意識が、神のみ心どおりに、私自身の人生をも変える力をお持ちであるということを、いかに受け入れることができるのかということと、深い関係性があるのです。そのうえで、神はわたしたちひとりひとりに、ご自分を「知る心」を与えてくださるというのです。
イエスが復活したその夕方、エマオ村の途上で復活のイエスに出会ったふたりの弟子たちがそうでした。彼らは十字架にかけられて殺され、しかしどうやら復活したらしいという「情報」は知っていました。しかし、目の前に復活のイエスがいても、それを見ても、究極的に彼らはイエスを「知ること」ができませんでした。
しかし、イエスが聖書からすべてを説き明かしたとき、彼らの心は熱くなりました。この「熱くなった経験」こそが、神である主がイエスを救い主として与えてくださったことを「理解」した瞬間だったのです。知るとは、このような心の熱さをもって、神がともにいてくださることの大切な意味でした。
私たちは今日、それぞれの教会や集会でおこなわれる礼拝で、聖書の言葉に聴きます。その言葉は、私たちの心を熱くするべく、神が与えてくださった助けに他なりません。大切なのは、その言葉が今の自分自身を活かす力となりゆくという、紛れもない事実です。私たちはそのことを今、語る側も聴く側も受け入れようとしているでしょうか。
そんな思いをもって、今日の一日もともに歩んでくださる神である主をあがめ、自分自身の生きる力としてまいりたいと思います。どうかすべての歩みに、私たちが主を「知る」心というものを確かめることができますように。心からお祈りします。