くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編140編13節
私は知っている
主が苦しむ人の訴えを取り上げ
貧しい人のために裁きを行うことを。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章15~16節
もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい」と言いながら、身体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょうか。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用
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皆さん、おはようございます。今日も、私たちを命の道へと導かれる神が、皆さんとともにいてくださり、その行く道を守り、祝福してくださいますように!
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「貧しい者に裁きを与える神」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
貧しい者への「裁き」とは何でしょうか。そこには、あくまで神の「公正」が十二分に働いていると私は考えています。貧しくされた者が貧しくされたままでいいはずがないのです。神はそもそも、誰もが神とともに生きることで幸せな日々を営めることを、心から願っているからです。
しかし、現実はそうではありません。貧しくされる者がますます貧しくされていくのです。神がおられるのに、どうしてそのようなことが起きるからでしょうか。それは、人間が「神になりたがる」からだと私は思います。神になろうとしている人間こそ、人から豊かさというものを奪い取り、大切な尊厳までも剥奪しようとするからです。
人間が神になることそのものが「罪の本質」です。神のようになれるという悪魔のささやきに、最初の人間夫婦はまんまと乗せられてしまいました。それ以来、神とともに歩む機会が与えられて、そのことで喜んでいるはずなのに、心の片隅では、自分自身が神よりも一番と考えてしまうようになっているのです。それが悲しきかな、人間の持っているさがであり、神に背を向けて歩むことを、自分自身で許してしまっているのです。
話は戻します。世の中に貧しさがあるのは、神の責任ではありません。私たち人間の側に、与えられた自由の誤用があるからです。だからこそ、私たちは神の公正な判断と、助けというものをどうしても必要とせずにはいられないのだと、私は思うのです。
神の公正さは、貧しいものにも豊かにするだけの力が働くことで、たとえ物質的に乏しかったとしても、精神的な喜びが私たちに与えられます。しかし、もし物質的な面でも豊かにされるとするならば、神の思い願いに私たちが進んで協力することによって、神の助けを心から認める者となることでしょう。果たして私にそれができているのか。そんなことを黙想しつつ、神が私たちを豊かにされることに、具体的な言動をもって表現していきたい。これが私の黙想でした。
今日も、すべてを見守られる神が、皆さんとともに歩んでくださいますように。そのことを願い、心からお祈りします。