くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書29章16節
どうしてあなたがたはそう逆さまなのか。まるで粘土が陶工と等しくなったかのようだ。造られた者が造った者のことで「彼が私を造ったのではない」と言い、作品が作者のことで「彼は何もわかっていない」などと口にするとは。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章10節
私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用
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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。あっという間の一週間だったと、私などは思うのですが、皆さんはいかがだったでしょうか。目まぐるしく物事が進むなかにあっても、せめて神の言葉に向き合う時くらいは、心を落ち着かせ、ゆとりのあるひと時でありたい。そんな思いをもって、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想をつづりたいと思います。
今日の聖句に共通するワードは「神の作品」でした。具体的には、神によって造られた私たちのことを指しています。私たちは神の作品として、どのような思いをもって、それを受け止めることができるのでしょうか。
今日の旧約聖書の言葉は、痛烈な問いというものが私たちに突きつけられています。神の作品である私たちが、その作品をつくった神に対して、陶工と材料の関係になぞらえながら、不平不満を表す人間の姿について語られたものです。
私たちをどうしてこんな風につくったのか。粗悪な出来であると神に不平をこぼし、それをぶつけるのです。「他者のせいにする」ことで、自分自身の責任というものから逃避し、自分自身を正当化する人間の姿です。本当に神は私たちを「不良品」としてつくられたのでしょうか?
決してそうではありません。神は私たちを「最高傑作品」としてつくられました。しかし、それをどのように受け止め、つくられた作品を管理する責任は、私たち人間の側にあります。神はそのような作品である私たちに対して、「自由意思」という権利と義務を与えられたからです。
私たちの自由意思が、神の望まれる通りに働くのか、それともそのような関係性を破棄したうえで、自分に与えられた自由を、自分の好きな通りに用いるのか。そして、それが自分の思うとおりに自由が果たせないときに、その自由を、いとも簡単に他者のせいにするのです。こういうのを「他責思考」と言います。おのれの自由の誤用を棚上げにして、私たち人間は他責思考に立って、神の「頼りなさ」を責め、人のせいにすることによって、自分自身が「神」となってしまうのです。これこそ、聖書が一貫して語っている「罪」の根源であり、本質なのです。
神はそんなことをお望みになられません。だからこそ、私たちを罪の縄目から解放させるために、救い主イエス・キリストを私たちに与えられたのは神でした。神御自身が譲歩し、犠牲を払って私たちを大切にされたのは、私たちを造られた神御自身だったのです! 神はご自身の私たちに対する責任を十二分に果たされているのです。
私たちは、この神の責任に応える者として、自分自身の自由を行使する責任というものを大切にしたい。これが私の受け止めたいと思ったことです。
今日も一日の歩みのなかで、私たちに与えられた自由を、神が願われるようなかたちで、ゆがみなく用いることができますように。そして、明日の主の日に向かって備えることができますように。私たち一人ひとりが神の守りと平安を感じ取ることができますように。心からお祈りします。