19/08/2026

2026.8.19(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨエル書2章1節
主の日が来る、それは近い。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書24章44節
だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も残暑の一日がやってまいりました。どうか、私たちの健康と信仰を守られる神である主が、皆さんとともにいてくださる幸いを、私たちひとりひとりが感じ取ることができますように。そして、熊本や千葉の地にあって、災害の爪痕で痛みや苦しみを抱えているすべてのかたに、神の慰めや励ましが、ともに豊かにありますようにとお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは、「神の時を見る」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは「終末」というものに対して、どれほどのリアリティを抱いているでしょうか。皆さんが所属される教派によって温度差があるかもしれません。いわゆる「契約主義」や「経綸主義(ディスペンセーション)」のあいだにも、終末に対する考え方はかなり違いがあることが分かります。
 
しかし、どのような主義主張を抱こうとも、私たちキリスト教が共通して信じているのは「世界の終末がやって来る」ということです。いわゆる「世の終わり」と呼ばれるものです。どのようなかたちで来るかはわかりません。しかし、明らかに「その日、その時」は、今日の聖書の言葉にあるように、思いがけない時に神のみ心によってやって来ることに間違いないのです。
 
私はかつて、終末を強調するキリスト教を標榜する団体で信者生活を送っていましたから、ことさら恐怖をあおり立てて、終末をちらつかせるやり方には正直辟易としていることがあります。しかし、だからと言って、私たちは神が定められた「終わりの時」がやって来ることそのものまで、否定することはできないと思っています。そのように聖書に記されているからです。
 
ただし、私たちは自分の意識の如何に関わらず、神の思いのままに「神のタイミング」というものが、私自身に訪れるのだということだけは大切にし続けてまいりたいのです。私たちの常識や願望をはるかに超えた「神のタイミング」は、必ずや私たちに良いものをもたらすのだということへの希望と信仰、そして幸いです。
 
私たちは、いつ自分自身の終わりを迎えるか分かりません。詳細を記すと誤解を招きそうですが、実は一昨夕、私は気を失うということがありました。まったく記憶にないのですが、周りに人が大勢いましたので、適切な処置がなされました。ほどなくして意識を取り戻したのですが、もし、誰もいないところで気を失っていたら、事故とか起きていたかもしれないことを考えると、ぞっとします。(原因ははっきりしていますので、ご安心くださればと思います。今の私はいたって元気ですので。)
 
だからこそ、私たちの意識によらず、常に「神とともに歩む」ことに、充実していたいと心から願わされるのです。「いつまでも生きていると思うな」と心のどこかで思いつつも、神とともに歩む幸いを噛みしめるのです。そのために、自分自身をよく確かめつつ、神の言葉に聴き、祈ること。この循環を大切にしていきたいのです。
 
今日も、そんな一日がやってまいりました。皆さんの生活が、神にあって豊かなものでありますように。心から今日の幸いをお祈りします。

18/08/2026

2026.8.18(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書50章5節
主なる神は私の耳を開かれた。私は逆らわず、退かなかった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書10章39節
マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日から、私の所属する日本基督教団の行事へ、スタッフとして参加するため、東京へ出かけております。「教師継続教育研修会」と呼ばれるものです。スタッフとしてではありますが、私もひとりの「研修生」として、学びの機会をいただいています。そして、同労の友である牧師の皆さんと一緒に交流できることは、とても嬉しく、またありがたいことです。今日も一日、学びの時を得てまいりたいと思います。今日も引き続き、酷暑のなかにあって、特に災害のもとにある熊本や千葉の方々のために、祈りを合わせたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「聴く」ということにまつわるものでした。旧約聖書には「耳を開かれる」という言葉が用いられており、新約聖書では「聞いていた」という言葉が用いられています。私たちにとって聴くとはなにか、そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、大変有名なエピソードです。都エルサレムにほど近いベタニアの村で、イエスの友人であったマルタ、そしてその姉妹であるマリアが登場します。この村を訪れたイエスを、マルタは家へ招きました。イエスを心からもてなしたいと思ったからです。そして、マルタはもてなしのための作業のために忙しくしていました。
 
一方で姉妹マリアは、イエスの足元に座って、イエスの語る言葉に耳を傾けていました。忙しく動き回るマルタと、じっと話を聞き続けているマリアの姿は、とても対照的です。そんな対照的な姿に、いら立ちを覚えたのはマルタでした。マルタの不満はマリアに向けられますが、同時にイエスに対してもその不満の思いが示されました。
 
イエス様、マリアが私の手伝いをしてくれないことを、何ともお思いにならないのですか。手伝ってくれるように言ってやってくださいと。しかし、イエスは、マリアがご自身の語る言葉に耳を傾けていたことを、決してとがめたりはなさいませんでした。イエスはマルタに、マリアから「取り上げてはならない」と告げられました。
 
このエピソードは、「もてなすべきかイエスの話を聞くべきか」という二者択一の話ではないと私は思っています。イエスをもてなすことも、イエスの言葉に耳を傾けることも、大切であり尊い「務め」であることに間違いありませんでした。大切なことは、それぞれに与えられた大切な務めを「取り上げてはならない」という、イエスの言葉にポイントがあると私は思うのです。
 
マルタは、イエスに対して自分のことも注目してほしいと思っていたのでしょう。「何とも思わないのですか」という言葉には、私のことも気にかけてほしい、配慮してほしいという思いが込められています。そこには、マリアに対する嫉妬のようなものも含まれていたのかもしれません。マリアばかりずるいという思いが、イエスに向けられたことが、マルタの発言に表れていると私は思うのです。
 
イエスは、そんなマルタに対して、マリアは、彼女にとって「今、大切なこと」を良いものとして選んだことをマルタに伝えます。マルタにはマルタの良い選択をしたわけですが、マリアもマルタの良い選択をしたわけです。マルタはそのことに不満を抱くのではなく、目を細めて見守ることこそ、大切だったのだと私は思います。それがイエスの価値観そのものだったからです。
 
私たちはイエスの価値観に「耳と心を傾ける」ことこそ大切なのだと。それが私たちの生き方に表れるときに、私たちは誰かをうらやむわけではなく、嫉妬することもなく、それぞれの判断と決断を、主のもとに尊び合えるような生き方ができるのだと思うし、そのことを望んで、今日の一日を生きてまいりたいと思います。皆さんの今日が、そのような神のまなざしによって豊かなものでありますように。お祈りします。

17/08/2026

2026.8.17(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編37編28節
主は公正を愛する方。
主に忠実な人々を見捨てることはない。
彼らはとこしえに守られるが
悪しき者の子孫は絶たれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書12章17節
イエスは言われた。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も私たちに命と生活を与えられた神が、私たちとともにおられることの幸いと慰めを、私たちひとりひとりに気付かせてくださいますように。特に、被災のなかで今日の一日をも歩もうとされている、熊本や千葉の方々の生活を、神が十分に守ってくださいますようにと祈ります。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは、「神の公正に生きる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
神の公正とはなんでしょうか。その文字のとおりですが、神の抱かれるみ心(基準)にしたがって、世界を、そして人々を格差なく取り扱われる態度のことを指します。その結果、時には弱者を救済し、ゆがみを是正し、私たちが神のみ心にふさわしく幸福と平安のうちに歩むことができるように、神が取り計らい、働いてくださるというのが、神の公正が指し示す方向性となります。
 
私たちのことを過不足なく取り扱い、この世界で生かしてくださるのですが、現実の生活は、そのようにはいかないことを私たちはよく知っています。不公平があり、不公正があり、その影響で得をしたり損をしたりするのが、私たちの偽らざる現実なのです。これは、神の願いとは逆行する生き方を、私たちは否が応でも受け入れなければならないのです。
 
なぜ、このようなことが起きてしまうのでしょうか。それは、神の願いを私たちがないがしろにしてしまうからです。それが意識的であろうと無意識的であろうと、私たちは神の公正を無きもののようにして、自分自身の幸せ「だけ」を考えて言動し、生きようとする悲しき性というものを持ち合わせているからと、私は自戒を込めて痛感させられます。
 
しかし、そういう私たちをも、神は公正に取り扱われます。もし、私たちの心のうちに、少しでも神の公正に生きようとする思いがひとかけらでもあるのであれば、神はその思いというものを引き立ててくださいます。私たちが神の公正ゆえに、私もあなたもあの人も、幸福のうちに生かされていることを、互いで共有することが大いに許されていることを知るのです。こうして、結果的に、神の公正をほめたたえることができるのではないだろうかと、私は信じてやまないのです。
 
「神のものは神に返す」とイエスは言われました。神が与えてくださる公正さを知った私たちは、神の公正を自分の生き方として営むことによって、神に忠実さをもってお返しすることができるのだと信じます。こうして、今日も神とともに生きる幸いと平安を感じ取れるような一日でありたいと、心から願わされます。
 
どうか、今日の一日が、そのような思いに満たされて、神の公正を慕い求める時となりますように。心からお祈りします。

16/08/2026

2026.8.16(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書60章10節
異国の子らはあなたの城壁を築き
その王たちもあなたに仕える。
私は怒りをもってあなたを打ったが
恵みをもってあなたを憐れんだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章9節
神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得られるように定められたのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。その初日であるこの主の日、世界中でおこなわれる礼拝のすべてが、私たちの新しい七日間の旅路を豊かに導き、祝福されていることを望みつつ、今日も神の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神の義憤」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書のなかで、神はご自分の民に対して、怒りを示されたことが記されています。しかし、怒りという感情は、私たちのなかでは負のものとして捉えられることが多くあると思いますし、それは事実です。私たちは不用意に、自分自身の怒りというものをあらわにすることが、愚かな行為であるということが、しばしば言われているわけです。
 
そのようななかで、神の怒りというものを、私たちはどのように捉えたらよいのだろうかと考えるのです。神の怒りを都合よく持ち出して、私たちが怒ることを正当化する材料にするのでしょうか。私たちは、神の怒りというものに対する、健全な意識というものを抱いていることは、本当に大切なのだと思います。
 
神の怒りは、正しいことがなされない「ゆがみ」に対してのものであることを、私たちは忘れてはならないのだと思います。神の正しさは「人間のいのちを活かすこと」にあることを、私たちはどれだけ認識しているだろうかと問い続けることは大切です。つまり、そのことに私たち人間が気づかないときに、神は怒りという感情を示されるのです。
 
しかし、怒りが怒りのままで終わることは決してないということが、今日の旧約聖書・新約聖書の両方に記されているのは、大変興味深いことと言えます。怒るが憐れみを示される神でもあるのです。怒りが怒りのまま残ることはありません。人が神の正しさに生きようと決意して、神と歩調を合わせて生きようとしたときに、神は怒り以上の憐れみを示されるということも、私たちは決して忘れてはならないのです。
 
そのために、命を投げ捨ててまで私たちにとことん付き合われた救い主イエスがおられ、その様子を怒りつつも、それ以上の憐れみをもって見守られた神がおられるのです。この神御自身の定められた思いによって、私たちひとりひとりが生かされているということを、今週一週間を生きる柱にしていきたい。これが私の受け止めたいと思ったメッセージでした。
 
神の憐れみに生きるために、神の正しさに自分自身を沿わせているかということを問いつつ、今日の初日を迎え、過ごすことができますように。皆さんの主にある守りと祝福を、特に、被災のもとにある熊本や千葉の方々のためにお祈りします。どうぞ素敵な一日をお過ごしくださいますように。

15/08/2026

2026.8.15(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編95編6節
さあ、ひれ伏し、身をかがめよう。
私たちを造られた方、主の前にひざまずこう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章16節
そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。帰省によるUターンラッシュも、そろそろ始まることかと思います。どうかすべてにおいて安全が守られますように。そして、熊本の地において、そして千葉の地において集中豪雨で不便と不安を感じておられるすべての方々に、神の守りが十二分にありますように、心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは「ひれ伏する」ということについてでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
ひれ伏するとは、「両手をつき、頭を地につけて礼拝すること」(広辞苑第七版)とあります。身を低めること、頭を下げること、手を出さないことなど、いろいろなイメージを私たちに呼び起こします。
 
そして、日本にとって、おそらくひれ伏することと同列に置かれている言葉に「土下座」というものがあります。土下座も似たような意味があるかと思います。「相手に恭順の意を表すため、地上にひざまずいて礼をすること」(広辞苑)とあります。しかし、土下座という言葉には、相手に対する強い反省や謝罪をするときに行うものという意味も含まれるかもしれません。もっとも、そのような意味が、土下座に含まれるようになったのは、第二次世界大戦後、時代小説や時代劇などで使われるようになったからだと言われているようです。
 
私たちは、聖書に書かれている「ひれ伏する」を考えるときに、人に対する謝罪や許しを乞うしるしとして行うものというイメージをもって、ひれ伏することを考えるよりは、神に対する敬意と感謝ゆえに、自分自身の身を低めるということの象徴的なしるしとして、ひれ伏するというイメージをとらえるということが、大切なのだと私は考えます。
 
私たちが神によって造られ、命与えられたことに対する感謝のしるしとしてのひれ伏するという行為、サマリア人がイエスに対して感謝の心をもって自分自身の身を低めてひれ伏したという出来事など、今日の聖句に記されていることは、最大限の感謝と好意ゆえの私たちの表現であることを、前向きに受け止めたい。私が今日思ったことです。
 
明日の礼拝において、私たちはどのように神に感謝や好意をもって、礼拝のときを過ごすことができるでしょうか。実際的にひれ伏するということはなかったとしても、心と思いは、神にひれ伏する精神をもって、主を礼拝する喜びにあふれたいと願います。そのための備えの一日として、今日という日が神の祝福にあふれますように。
 
今日の皆さんの一切が、神の守りと祝福のうちにありますように。心からお祈りします。

13/08/2026

2026.8.13(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編105編8節
主は心に留められる
主の契約をとこしえに
命じた言葉を幾千代に

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章20節
神の約束はすべて、この方において「然り」となったからです。それで、私たちはこの方を通して神に「アーメン」と唱え、栄光を帰するのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
台風の影響もあって、昨日の仙台は強い雨が地を叩きつける時間帯もありましたが、何とか台風も本州を抜けて、ホッとひと安心です。しかし、台風の爪痕も各地であったようですし、新たな台風もやってくるとのこと。引き続き、安全が守られますように。そして、今日も熊本の地で不自由を感じているすべての方々に、神の慰めと励ましがあることを、引き続き祈りたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神は約束を必ず果たされる」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
神は幾千代、つまりいつまでも絶えることなく、ご自分が人間に対して宣言された約束を反故にされることはないと、歌い手は詩にしたためました。神はご自分の約束を「契約」のかたちにして、人間に与えられました。
 
もちろん、契約ですから、神が出された約束に対して、人間はその約束に対する責任を果たさなければならないということが必須でした。それが破られるならば、契約破棄という、私たちの世界では当たり前の展開となります。実際に、これまでの歴史のなかで、人間は神が提示され、そして締結された契約内容を、何度も何度も破り続けてきました。それは、聖書、特に旧約聖書に記されているとおりです。
 
しかし、にもかかわらず、神は人間とのあいだに結ばれた契約を破棄されることは決してありませんでした。それどころか、人間がいとも簡単に破ってしまう契約が空しいものとならないために、「究極の契約」を提示されました。それが、まことの人でありまことの神となられた、み子イエス・キリストだったのです。
 
イエスはその言葉と生き方によって、契約の本質を私たちに見せてくださいました。そして、最終的には私たちの命のために、自らの命を犠牲とされるまで、私たちとの契約を大切にされました。犠牲となった命が終わることなく、復活をとおしてその約束が永遠にわたるものであることを、私たちに明らかにしてくださいました。
 
今日の新約聖書の言葉にもあるように、「神の約束はすべて、この方(イエス・キリスト)において『然り(そのとおりに)』となった」というのは、まさに、イエスによって神の約束が決して反故にされることがなかったのだということを、私たちに事実として提示されたのでした。私たちはただ、この出来事に対して「アーメン(その通りです)」と認めることこそ、契約における責任を果たすことなのだと、私はあらためて受け入れたいと思ったのです。
 
こうして、神と人間との契約が、私たちを活かすためのものであったことを想いつつ、また、契約をないがしろにしない神のなさることに感謝しつつ、少しでも「アーメン」と私たちの生き方において示すことができますように。今日一日の、皆さんの一切に、神の平安と祝福が豊かにありますように。心からお祈りします。

12/08/2026

2026.8.12(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編103編13節
父が子らに憐れみをもたらすように、
主を畏れる者らに憐れみをもたらす。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙4章6節
あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
台風が関東地方に上陸し、そのまま本州を横断するようです。少しでも災害から心身を守ることができますように。そして、熊本地震で苦しみを覚え続けているすべての方に、神の守りがありますことを、心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「父」でした。父とは、まさに父なる神のことを指すわけですが、あらためて父なる神の姿というものについて、聖句より黙想したいと思います。
 
まず、今日の詩編の言葉103編13節には「憐れみ」という言葉が記されています。親が子をいつくしむような憐れみの思いを引き合いに出して、父なる神は私たちをいつくしみ、憐れんでくださるというのです。心の底から相手の痛みや弱さに共感し、温かく守ろうとする深い愛情や同情心が、憐れみという言葉の根底にある意味なのです。
 
また、この言葉から派生したものに「内臓」や「胎内」という言葉があります。お腹を痛めて宿した子を産むくらいにまで、母親の子に対する深くいとおしむ気持ちにも相通じるというのです。
 
この思いをもって、父なる神は、私たちひとりひとりの痛みを知り、それを担おうとしてくださるというのが、今日の旧約聖書の言葉が指し示す意味なのだと、私は受け止めることができました。たとえ人には理解してもらえなくても、私の神は私の悪いところも良いところもご存知であり、変えられるべきところは神の愛をもって変わるように、素敵な部分はそれが引き立つように、神は深い憐れみをもって私たちに助けを与えてくださるのです。
 
こうして「神の子」とされる私たちですが、その私たちにはモデルがいることを忘れてはなりません。「アッバ、父よ」と父なる神に呼び求めた、救い主イエス・キリストその御方です。イエスは神に憐れみを求めました。神が御自身を憐れんでくださることを疑うことなく信じていたからです。そして、救い主としての使命を貫徹されたのでした。
 
私たちは、このイエスに倣う者となることが許されているのです。そのために、御子の霊、つまり聖霊の善き力にしっかりと守られながら、今日という一日をも生きていくことが可能とさせられていく。このことを心の希望として、歩んで生きたいと思います。皆さんの一日に、神の平和と憐れみが、ともに豊かにありますように。心からお祈りします。