くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
出エジプト記9章34節
ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またも罪を犯し、心がかたくなになった。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一4章10節
きょうだいたち、あなたがたのうちに、不信仰という悪しき心が芽生えて、生ける神から離れ去る者がないように気をつけなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
昨日は体調が不良だったため、一日休んでおりました。そのため、黙想もお休みしました。告知なく大変申し訳ありません。しかし、一日休んでかなり回復しました。今日も健康が与えられたことに感謝して、与えられた務めに当たりたいと思います。
今日の新約聖書にある「不信仰」とは何か。そんなことを考えてみたいと思います。信仰とは、救い主イエスが私たちのためにその生きざまを示してくださったこと、それは夢でも幻でもなく、いまだ私たちとともにいてくださるという実体そのものを指します。だから、信仰は「得る」ものではなく「与えられる」ものなのです。イエスからの素晴らしい贈り物なのです。
この贈り物は誰にでも与えられるものです。ですので、そこに「不」という文字が付けられるということは、これこそ私たちが意識的であろうと、無意識であろうと、それを「拒絶」することに他なりません。つまり、三位一体の神の働きをないがしろにして、自分自身が神となろうとしてしまう態度が表出したときに、それは「不信仰」なのであり、罪が露わにされるということなのです。
エジプト王(ファラオ)は、まさに「のど元過ぎれば熱さ忘れる」の状態でした。災いが振りかかれば、一旦は神妙になりました。しかし、時が過ぎればそんなことをいとも簡単に忘れてしまうのです。私たちも、調子の良い時だけ神を熱心に賛美し、信仰の行動を見せるけれど、少しでも自分自身に都合の悪いことが起きれば、いとも簡単に不信仰になってしまうということはないでしょうか。
私がかつて、こんなことがあったのを思い出します。祈れない、聖書が読めない、礼拝に行きたくない。そんなことがありました。しかし、同じ教会のある方が、私にこんなことをおっしゃいました。「そんなことをすべてわかっている神があなたと一緒におられるのだから、そういう時こそ、あなたはほんの少しでもいいから聖書の言葉に触れて、ひと言でもいいから神に祈って、寝ててもいいから礼拝に出てみたらいいんだよ。神は必ず、あなたに必要なものを与えてくれるから。」
私はこのひと言がなかなか受け入れられませんでした。しかし、受けとめて、その通りにしてみることにしました。今思えば、ああ、本当にその通りにしていてよかったなと思ったのです。無理しなくても良い。しかし、神が私に触れてくださる体験を、私自身が感じ取らなければ、何も起きてこないのだ。そう思ったのです。
この「日々の聖句 ローズンゲン」も同じです。たったひと言の聖句です。しかし、今日一日の私たちの命を支え、信仰の歩みを導いてくださる。ほんの少しの時間でも、本当に大切な営みを持つことができるのだと、あらためて思わされます。
どうか、今日一日の皆さんの歩みをともにしてくださる神である主が、守りと祝福を豊かに与えてくださいますように。心からお祈りします。