くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨエル書2章1節
主の日が来る、それは近い。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書24章44節
だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日も残暑の一日がやってまいりました。どうか、私たちの健康と信仰を守られる神である主が、皆さんとともにいてくださる幸いを、私たちひとりひとりが感じ取ることができますように。そして、熊本や千葉の地にあって、災害の爪痕で痛みや苦しみを抱えているすべてのかたに、神の慰めや励ましが、ともに豊かにありますようにとお祈りします。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは、「神の時を見る」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
私たちは「終末」というものに対して、どれほどのリアリティを抱いているでしょうか。皆さんが所属される教派によって温度差があるかもしれません。いわゆる「契約主義」や「経綸主義(ディスペンセーション)」のあいだにも、終末に対する考え方はかなり違いがあることが分かります。
しかし、どのような主義主張を抱こうとも、私たちキリスト教が共通して信じているのは「世界の終末がやって来る」ということです。いわゆる「世の終わり」と呼ばれるものです。どのようなかたちで来るかはわかりません。しかし、明らかに「その日、その時」は、今日の聖書の言葉にあるように、思いがけない時に神のみ心によってやって来ることに間違いないのです。
私はかつて、終末を強調するキリスト教を標榜する団体で信者生活を送っていましたから、ことさら恐怖をあおり立てて、終末をちらつかせるやり方には正直辟易としていることがあります。しかし、だからと言って、私たちは神が定められた「終わりの時」がやって来ることそのものまで、否定することはできないと思っています。そのように聖書に記されているからです。
ただし、私たちは自分の意識の如何に関わらず、神の思いのままに「神のタイミング」というものが、私自身に訪れるのだということだけは大切にし続けてまいりたいのです。私たちの常識や願望をはるかに超えた「神のタイミング」は、必ずや私たちに良いものをもたらすのだということへの希望と信仰、そして幸いです。
私たちは、いつ自分自身の終わりを迎えるか分かりません。詳細を記すと誤解を招きそうですが、実は一昨夕、私は気を失うということがありました。まったく記憶にないのですが、周りに人が大勢いましたので、適切な処置がなされました。ほどなくして意識を取り戻したのですが、もし、誰もいないところで気を失っていたら、事故とか起きていたかもしれないことを考えると、ぞっとします。(原因ははっきりしていますので、ご安心くださればと思います。今の私はいたって元気ですので。)
だからこそ、私たちの意識によらず、常に「神とともに歩む」ことに、充実していたいと心から願わされるのです。「いつまでも生きていると思うな」と心のどこかで思いつつも、神とともに歩む幸いを噛みしめるのです。そのために、自分自身をよく確かめつつ、神の言葉に聴き、祈ること。この循環を大切にしていきたいのです。
今日も、そんな一日がやってまいりました。皆さんの生活が、神にあって豊かなものでありますように。心から今日の幸いをお祈りします。