21/02/2026

2026.2.21(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書43章18~19節
先にあったことを思い起こすな。昔のことを考えるな。見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章17節
(パウロの手紙)だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
この一週間も最終日を迎えました。この七日間の旅路を導いてくださった神が、私のどこにおられたのか、私はその神の導きに応えつつ歩んでいたか、どんな祝福を神が備え、与えてくださったか。そんなことを想いつつ、今日選ばれた聖句に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の助けによって未来志向に生きる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
神が私たちに指し示してくださるのは、神のみ国の一点に尽きると言えるでしょう。私たちはその完成に向かって、神の備えられた道を歩む民であることを知らされます。それはやがて来たる終末の時まで続くことを想わされます。そこにこそ、未来にある幸いを見つめる「未来志向」というものが、確かに存在することを私たちは心から信じて歩みたいのです。
 
実際に、今日の聖句のなかにも、過去にあったことにこだわりを抱き続け、そこにしがみつくのではなく、神が与えてくださる「新しさ」が、いかに貴く、素晴らしいものであるかについて力強く語られていることが分かります。未来志向というのは、私たちの能力や努力で勝ち取るものでは決してなく、あくまで神が与え、指し示し、導いてくださるものなのです。
 
しかし、私たちはこの聖書の言葉に触れるときに、「過去をないがしろにする」ことは決して勧められていないということをも、大切にしたいと私は考えています。過去の歴史を私たちは決して忘れてはならないのです。そうしないと、私たちは過去に学ぶことなく、同じ轍を踏んでしまうのです。歴史はそうやって同じことを繰り返していることも事実なのです。
 
だからといって、昔のことにしがみ付いてもならない。それを神は決してお望みで無いことも確かなのです。だからこそ、神は昔のことを指し示しつつも、神とともに歩む未来志向の思いというものを、私たちに余すところなく提示してくださるのだと。私たちはそのことを心から信頼して、神である主とともに歩みたいと心から願わされるのです。これが私が受け止めたいと思ったことでした。
 
明日の主の日に向かって歩む者として、そのことを心しつつ、祈りつつ、神の助けをいただきながら、一日を歩むことができますように。神が皆さんの一日を守り、祝福してくださいますように。心からお祈りします。

20/02/2026

2026.2.20(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編40編12節
主よ、私に憐れみを閉ざさないでください。
あなたの慈しみとまことが
絶えず私を守ってくださるように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ユダの手紙2節
憐れみと平和と愛を、神があなたがたに豊かに与えてくださいますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、こんばんは。
毎朝お届けしている黙想ですが、今日は夜になってしまいました。今朝は、外出地から仙台への移動をし、その後職場(教区センター)へ出勤しましたので、黙想をつづる時間をなかなか取ることができませんでした。
 
しかし、職場では朝にローズンゲンを開いて朝の祈りの時を持ち、夕方には、テナントとして入っているキリスト教書店(エッサイの木)で、ローズンゲンを開いて終わりの祈りの時を持ちます。そこでみ言葉の分かち合いを、ともに祈る仲間たちと味わっています。そのことを、遅くなりましたが今日の黙想としてつづりたいと思います。
 
私は昨晩、日本基督教団小田原教会の牧師であった、豊田通信(とよだ・みちのぶ)牧師の前夜式に参列しました。あまりにも急な発病と、その闘病生活の末、あっという間に神のみもとに先週召されていきました。豊田牧師とは20年間にわたって、カルト宗教対策で大変お世話になりました。つい最近まで、一緒にこの問題について、これからも続くものと思いつつ、活動していました。
 
それだけに、自分自身のなかで現実を受け止めるだけの速度に全然付いていくことができませんでした。自分自身のなかに大きな緊張を抱えつつ、弔いの場へ向かいました。そこで、司式の牧師が語る言葉のひとつひとつに耳と心を傾けるなかで、ひとつのことにあらためて気づかされました。神は、この同労者を大きな憐れみのうちに招き入れて、慈愛を注ぎ続けてくださっていたのだということをです。
 
カルト対策活動というのは、はた目からしたら決して報われることの多いものとは言えないかもしれません。牧師という仕事も、決して自分自身が得をするような生き方を与えるものではない。そんなことはいくらでも感じるわけです。しかし、報われなければ報われないほどに、損をすればするほどに、神の憐れみと慈しみは、これでもかというくらいあふれ、注がれるのです。私は先生にそのような思いを感じずにはいられませんでした。そうしたら、自然に涙があふれるのを感じました。葬儀に参列してめったに涙することはないのですが、昨晩は特別でした。
 
こうやって、神は私たちのひとりひとりをしっかりと守ってくださる。天に在る者も地にある者もすべて。そんな憐れみに支えられつつ、私は豊田牧師の遺志というものをしっかりと引き継いで生きる者でありたいと願わされました。これが私の黙想です。
 
今日も夜が更け、また朝がやって来ます。どうぞ神が与えてくださる良き休息が、私たちとともにありますように。そして、明日の日への備えが祝福されますように。心からお祈りします。」

19/02/2026

2026.2.19(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編66編8~9節
もろもろの民よ、彼らの神をたたえ、その栄光を轟かせよ。神は私たちの魂を生かし、その足をよろめかすことがない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙15章5~6節
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を崇めさせてくださいますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節(レント)2日目の朝を迎えました。私は例年、この40日間の旅路のなかで、何か読み通せるようなものを1冊、読むことができたらと思い、その年ごとに書籍に当たってきましたが、ここ数年はそのことからも何となく離れていました。ですので、今年はそのことに久しぶりに取り組もうと思い、久々ではありますが、『人生を導く5つの目的~自分らしく生きるための40章~』(リック・ウォレン、尾山清仁訳)を読むことにしました。1日一章ずつ読むことができるので、こういう時にこそ読み通すことができると思いました。ここでも観想を述べることができれはいいなと思ったりしています。楽しみです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「キリストの価値観によってひとつとなる」ということについてでした。その黙想をつづりたいと思います。
 
今日の聖句は、新約聖書・ローマの信徒への手紙にしたためられた、伝道者パウロの言葉からでした。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ」という部分です。ここで私はハッとさせられることがありました。私は日頃から、イエス・キリストに倣う者として、イエスの価値観に生きることの大切さと幸いについて、繰り返し繰り返し述べているわけですが、そのような思いを抱かせるのは誰かということについて、この聖句は大切なことを教えていることにあらためて気づかされました。
 
私たちにそのような思いを抱かせるのは、他ならぬ「神」であると、パウロは述べました。その神のことを、パウロは「忍耐と慰めの源」であると、私たちに伝えています。私たちの神は、私たちに対してキリストに倣う者となるべく、ひいてははるか昔から神に従う者となるべく、どれだけの忍耐を私たちに示し、どうしても従いえない私たち一人ひとりの心を慰めながら、私たちにともなってくださった、今もなおともなってくださるのだと。
 
私たちは、そのような神の私たちに対する態度を知ってこそ、そのような神に従い、それを私たちに体現されたキリストのように生きたい、キリストに倣う者として立てられるということを知るのだということを大切にしたいと思ったのです。何かマニュアルがあって、その通りに従っていればそれでよい、というわけではありません。その動機であるとか、根拠というものを大切にしたい。それが、私たちの神が私たちに対して示された忍耐であり、慰めであるというのです。
 
それは、私たちの命の救い主であるイエス・キリストが架かられた十字架における忍耐そのものであると私は受け止めたいと思いました。主イエスの十字架を見つめ、そのことを前にして自分自身を見つめる営みのなかで、この忍耐を見つめたいと思ったのです。
 
今日の一日が、そのような忍耐に支えられたものでありますように。そのことを心から願いつつ、皆さんの主にある守りと平安を、心からお祈りします。

18/02/2026

2026.2.18(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編119編41節
主よ、あなたの恵みが私にもたらされますように。あなたの救いがみことばのとおりに。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書4章36節
人々は皆恐ろしくなって互いに語り合って言った。「一体この言葉は何であろうか。イエスが権威と力とをもって命じると、汚れた霊たちが出て行く。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は「灰の水曜日」です。イエスが私たちと神の関係が回復されるために十字架に架かられた、そしてその関係を執り成してくださった「あがない」の出来事を想い起こす期節です。「40」という苦難を象徴する数にちなんで、イースターに先立って日曜を除く40日間を「四旬節(レント)」としました。その初日となる今日が「灰の水曜日」です。灰は悔いることの象徴として、古代より用いられてきたものです。この期節が実際に聖書に記されているわけではありませんが、信仰の先達たちが、自分たちの信仰生活をより具体化しようとして行われるようになったこの習慣を、私たちは継承しています。今日から始まる40日間の旅路を、自らのあり方を見つめつつ、十字架の主イエスとともに歩んでまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「言葉」でした。具体的には神の語られる言葉であり、実際に生ける「神の言葉」となられた救い主イエス・キリストの語られた言葉に言及した聖句が、本日の聖句として選ばれています。
 
私たちは、神の言葉を聖書の言葉を通して、それも単なる活字ではなく、聖霊の助けをともなって「生きた言葉」として私たちに与えられています。その言葉を、私たちは実際に神が語られた「現実味のある言葉」として受け取っているでしょうか? そんなことを灰の水曜日にあたって想わされます。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一片は、そのような神の言葉が実際に、私にとっての救いの言葉となりますようにという嘆願がささげられているものです。神のお言葉の通りに、私たちが神の守りに支えられて、その日を生きる活力となりますようにという切なる願いが、この詩編の言葉にあふれています。私たちはそのような心からの祈りを、神にささげているでしょうか?
 
そして、今日の新約聖書の言葉は、悪霊に取りつかれている人の差しさわりを、ご自分の宣言によって取り除くことができたイエスに対して、人々の反応が記されています。イエスの言葉に権威と力を感じた人たちによる驚きがありました。イエスもまた、ご自身が「神の言葉」として、この世界で父なる神のみ心を一身に背負い、それを完璧に成し遂げた人物でした。そのクライマックスが十字架刑の出来事からの復活、そしてイエスをかしらとする教会の形成でした。
 
だからこそ、私たちは教会という場所が、神の言葉によって生かされる場であるということを、教会に集められた誰もがアーメンと心からそのことを信じ、認めつつ、自分自身のあり方というものを虚心坦懐な思いをもって、この40日間も過ごしてまいりたいのです。
 
その初日である今日の一日もまた、神の守りに支えられながら、神の言葉によって祝福を得、生きる者でありますように。その歩みのために、心からお祈りします。

17/02/2026

2026.2.17(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記29章28節
隠されたことは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、とこしえに私たちとその子孫のものである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙2章2~3節
それは、彼らの心が神の秘儀であるキリストを深く知るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
最初に、皆さんにお詫び申し上げなければならないことがあります。昨日のローズンゲン黙想ですが、2月16日(月)のものではなく、翌週の2月23日(月)のものであることのご指摘を受けました。ご指摘くださった方には深く感謝しつつ、皆さんにはご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ありませんでした。
なお、黙想はこのままにしておきます。そして、2月23日に2月16日の聖句黙想を掲載したいと思います。似たような間違いを繰り返し、まことにお恥ずかしい限りです。今後ともお付き合いのほど、よろしくお願いします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「隠された」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。私はこの言葉を、「私たちの想像や現実をはるかに超越した神のみ心」というふうに捉えたいと思いました。
 
私たちは、究極的に神のみ心というものを知ることはできません。知ることはできないけれど、すでに与えられた聖書の言葉や、歴史が織りなした神と人間との物語を通して類推をして、それが神のみ心と「信じて」行動をするのです。もちろん、そのような私たちの行動には、聖霊のお導きというものがありますから、私たちは祈って、神のみ心を求めるということが行われるその営みのなかで、神のみ心により近づいた言動ができることを心から望み、また信じてそうするのです。
 
しかし、だからと言って、私たちが神のみ心を100%理解し、それを実行することは絶対にあり得ません。たとえ神のみ心が示されたとしても、私たちの認識のゆがみが、それを改変させてしまうことなど、いくらでもあるのです。私たちが「罪びと」である以上、私たちの世界に完璧は無いのです。完璧にことを成し、そして生きられたのは、イエス・キリストただお一人なのです。
 
だからこそ、私たちでは完璧に理解することのできない神のみ心には、必ず「隠された部分」があるということを、私たちは心から認めて、神が働かれるスペースに対する深い信頼を寄せることこそ、私たちの信仰生活には大切な営みであるということなのです。それは、自己絶対化というものを避ける大きな助けとなります。自己絶対化とは「自分が神となる」ことなのです。
 
隠されたという言葉は、新約聖書の原語であるギリシア語では「ミュステリオン」という語が用いられています。現在でも「ミステリー」という英語が用いられますが、そのもととなった言葉です。そういう意味で言えば、神のみ心は実にミステリーなのです。しかし、ミステリーがやがて明らかにされるときが来る。その時に、それは私たちの確信となって、私たちの現実の世界に、神がともに臨まれることを知れるようになるというのです。
 
私たちは神が働かれるスペースというものを、自分自身のなかで大切にしたいと思います。目の前で起きる出来事に一喜一憂するのではなく、そのなかで、神が最良の指し示しを私たちに与えられるということに心から期待しつつ、神のミステリーに心を寄せたいと願わされました。皆さんのすべてに働かれる神の守りが、やがて平安へと豊かに結び合わされることを、心からお祈りします。

16/02/2026

2026.2.16(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書31章7節
声を響かせ、賛美して言え。「主よ、あなたの民をお救いください」と。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章68節
イスラエルの神である主は、ほめたたえられますように。主はその民を訪れて、これを贖われた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、皆さんの一日を導かれて、私たちの歩みにともなってくださる神が、ご自分の言葉を通して、私たちを整えてくださいますように。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「救い」でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エレミヤ書の一節でした。エレミヤ書に記されていることは、神によって選ばれ、守られていた国民でありながらも、そのうえにあぐらをかきつづけていたイスラエルが、その代償として辛酸を舐めなければならなかったうえで、なおもその民をご自分の民として愛し、神の民として再生させようとする神の思いというものが、預言者エレミヤを通して明らかにされる、という物語です。
 
そして、今日の聖句はまさに、神がイスラエルにある人々を再生させようとして、民たちに語りかけている箇所です。そのメッセージは、自分自身を賛美しつつ「救ってください」と叫びなさい、というものでした。このような嘆願が、嘆願される側のほうから嘆願すべき側に対して語られているということが、とても不思議に感じながらも、どこまで民の再生を願い、そのために愛を注ぎ続けようとしている神がおられるのかと、そのように感じてならないのです。そんなことをしてまで、私たち人間のために備えてくださる方の譲歩を思わずにはいられません。
 
本来ならば、私たちが自分たちの至らなさに気付き、一から再生すべく感じ、考え、行動するというのが、責任を取るべき側の務めでしょう。しかし、そのすべすら見いだせない、どうして良いかわからないという環境のなかで、神はそんな民たちが五里霧中のうちにもがき苦しむことのないように、私たちが歩むことのできる道を備え、そのナビゲーションすら明らかにしてくださるというのです。本来、そんなことをする必要すらない神御自身が、ご自分を譲歩させて、私たちに迫っておられるのです。
 
これを、私たちは「贖い」という言葉で表現することができるのだと思います。贖いという言葉は、元来「身代金」を指す言葉です。私たちのために、私たちが本来の姿に戻されるために、神が私たちをそのような束縛状態から解放させるために、身代金をこれまでもかというくらい払ってくださっている。身銭を切って私たちを救い出そうとする神の態度が、贖いというかたちとなって明らかにされたのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、洗礼者ヨハネの父となったザカリヤの賛歌と呼ばれる箇所の冒頭部分です。神がイエス・キリストという救い主を与えるにあたって、その道備えをする務めにあたるヨハネが生まれたことを、ザカリヤは神に感謝しつつ、この賛美の言葉を述べました。神は私たちのもとを訪れて、私たちのために身代金を支払ってくれたのだと。この身代金こそ、救いの物語のために、神が私たちの意識にかかわらず与えてくださったすべてであるというのです。
 
私たちの反応の鈍さに迫り来る神。その神が今日も私たちとともにいてくださる。このことを心の希望として、一日を歩みたいと願わされました。皆さんにとっても、行く道を示してくださる神の守りと祝福が、存分にともにありますように。心からお祈りします。

15/02/2026

2026.2.15(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記50章17節
(ヨセフの兄たちがヨセフに懇願する言葉)どうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章32節
互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださるように、互いに赦し合いなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。これから始まる七日間の旅路もまた、私たちと共に歩んでくださる神が、どのような指し示しを私たちに与えられるのでしょうか。神に期待しつつ、今日も神の言葉に聴いてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「赦し」でした。旧訳聖書の箇所は、ヤコブの愛する息子であったヨセフの10人に兄たちが、彼に対して行った謀略を詫びているシーンですが、兄たちはその行いを「神に対する罪」ととらえていました。そのうえで、ヨセフに赦しを願っていることが分かります。また、新約聖書では、「互いに赦し合いなさい」という勧めの言葉が与えられています。どちらも「赦す」ということについて書かれた聖句なのです。
 
さて、私が現在担当している講座で、おととい「愛の特質としての『赦し』」について学ぶ機会がありました。テキストとして用いている『サーバントリーダーシップの原則 ー権力によらないリーダーシップ』(ジェームズ・ハンター、地引網出版)には、第一コリント書13章にある「愛」について、そのひとつの特質である「赦し」について解説されていました。
 
赦しとは何か。テキストにはこのようにありました。「恨みを捨てること」と。
 
どうしても赦せないことがある時、その赦しというものを放棄することは、本当に難しいのです。これを捨てられたらどれだけ楽だろうと思うし、そのことを願うのです。しかし、なかなかできません。思い出してしまうのです。忘れられないのです。赦せない感覚を抱くのは、体力を消耗させ、心を疲弊させます。そんなことなど嫌だと分かっているのに、それを手放すことのできない自分自身を発見してしまうのです。私もその代表的なひとりなのです。
 
これは到底、人間のわざでは成し得ないことなのだと私は思っています。究極的には、神にしかできないことなのだと。私の限界をはるかに超える方である神が、私がしっかりとしがみ付いている恨みの感情を手放すことができるように、私たちの心をときほぐしてくださるのだ。そのことにただ希望をもって歩むことが必要なのだと。私はそう願いたいし、それをなしてくださる神に、心からの信頼をもって期待したいのです。
 
前のローマ・カトリック教皇であるフランシスコは。人間の悲しみには二種類あることについて言及しました。一つは、キリスト教的な生活のためになり、神の恵みのおかげで喜びへと変わる、回心の歩みの一部となる悲しみであり、もう一つは常に復讐を思い描き、健全な生活も。キリスト教的生活も生み出さない、心を壊疽させてしまう悲しみであると。
(詳しくはこちらをごらんください)
 
まさに赦すという行為は、私自身だけでは実現することのできないものなのだということを、明快に私たちに知らせる示唆だと私は思いました。だからこそ、今日も神が与えてくださった御言葉に聴き、赦すことを手放せない自分自身を神の前にさらけ出したいのです。そのことを神は、すべて受け入れたうえで、私たちに新しい命の道を与えることを信じたいのです。
 
無理やり赦そうとして、自分自身の心に蓋をする必要はどこにもありません。心を楽にして、神にそのことを打ち明けて、神が必ずや自分自身のうちにある恨みや悲しみというものを、和らげてくださる日がやって来るということに希望を抱き続けていく。私たちに今与えられていることなのだ。私は今日の聖句から、そのようなことをメッセージとして聴きたいと思いました。
 
この新しい一週間もまた、そのような神の守りが私たち一人ひとりとともにありますように。心からお祈りします。