くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編98編9節
主は来られる、地を裁くために。
主は義によって世界を裁き
もろもろの民を公平に裁かれる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書5章30節
(イエスの言葉)私の裁きは正しい。それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方のみ心を求めているからである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに選ばれたふたつの聖句に共通するテーマは「裁き」でした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
「死後裁きにあう」
いわゆる「キリスト看板」と呼ばれるものには、かつてはこのようなフレーズの聖句がよく用いられていたように、私は記憶しています。その看板を作成している団体は、小さなブックレットを発行していて、よく学校の前で配られていました。その中身を見ると、神に従わない者に対しては、まさに阿鼻叫喚ともいえるような地獄絵図が、おどろおどろしく描かれていたことも思い出します。つまり、裁きとはそのようなイメージというものを、私たちに与えるものとして印象付けられているのではないでしょうか。
確かに、聖書に描かれている裁きには、そのような一面もある「かも」しれません。しかし、裁きというのは、何も悪を断罪して奈落の底に突き落とすことだけを目的としているのではありません。裁きの指し示す先にあるものは、「神は公平にこの世界を見ておられる」というところにこそ、私たちは関心を寄せるべきなのではないだろうか。私はそう思えてなりません。つまり、神はご自分のみ心によって、不条理を味わっている人が不幸のままに生きることのないように、必ず助けのみ手を差し伸べてくださる。ここにこそ、裁きという言葉の真意があるような気がしてならないのです。
神はご自分の正しさ、つまり「義」よって裁かれると、今日の旧約聖書の言葉にもあります。神の正しさは、人間をはじめこの世界を創造されたときに、最高の愛をもってつくられたものすべてを慈しまれたということにあります。その神の目的と実践こそが、神の正しさであるというのです。そして、その正しさが人間との関係をかたちづくり、私たち人間同士の関係性をもかたちづくるというのです。
裁きという言葉は「審査する」という意味もあります。どれが本物か、正しいかを見極めることが裁くということなのです。ですから、私たちもまた、何が正しいかということを見極める知恵と眼力というものを神からいただいて、そのために御言葉に聴き祈るという循環が求められているです。私は、今日の聖句からそんなことを黙想しました。少しでも神の正しさにあやかって生きることができますように。そのことが神の望まれる平和へと結び合わされるからです。
今日も皆さんの一日がそのような神の愛と正義に導かれますように。心からお祈りします。