01/11/2026

2026.11.1(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ミカ書5章3節
彼は今、大いなる者となって地の果てにまで及ぶ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録1章8節
(イエスの言葉)
あなたがたはエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
新しい一週間がやってまいりました。そして、11月を迎えました。ついこの前まで暑かったのに、今朝の仙台の街は随分冷え込んでいます。こうして私たちは、クリスマスに近づいていくのだなということを、あらためてしみじみと感じさせられました。
 
私の所属する日本基督教団では、11月第1日曜を「聖徒の日・永眠者記念礼拝」としています。おそらく多くの教会で、信仰の先達を通して働かれる神を礼拝する機会が持たれるのではないかと思います。私の働く仙台宮城野教会でも、そのような礼拝の機会をいただきます。教会の召天者パネルには、この7月に召された方のお写真をひとり追加しました。これら神の御許に召された方々をも、神は愛しておられる。そんなことを感謝の思いをもって、礼拝のときをいただきたいと思いました。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「地の果てまで」というものでした。たとえ私たちが知らない土地に、その名前を知らない方々がいたとしても、私たちの神はそれらのすべてをご存知である。覚えていてくださっている。そして、天にあっても地上にあっても、生きていても既に生涯を終えた者でも、神は地の果てまで働かれるのだ。そんなことをあらためて思わされたのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ミカ書の一節が選ばれました。救い主(メシア)への預言の言葉です。私たちのために、平和を携えてやって来られるメシアが、イスラエルという限定されたところだけではなく、全世界へとその救いがおよぶことを「地の果てまで」という言葉は、的確に表現しています。そして、今やその預言は、イエス・キリストによって成就され、今、私たちは聖書の舞台である中東から遠く離れた、地の果てである日本まで、その救いの良いたよりが伝えられ、受け取ることができている。ここに、神の恵みの豊かさがあるということを、今日の聖句から自分自身の掌のなかで、握りしめ、そして温めたいのです。
 
今日も、世界中で行われる主の日の礼拝が、大いなる方の祝福のうちにありますように。みなさんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

31/10/2026

2026.10.31(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言10章2節
不正に得た富は役に立たず、正義は人を死から救い出す。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙3章24節
キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。今週も最終日を迎えました。私にとって今週の七日間は、教団総会をはじめとするもろもろの予定が詰まった時でした。今日も、朝に大学の授業を終えたのち仙台へ戻り、私の働く「エマオ」で、キリスト教文化セミナーの時をもちます。秋らしいイベント目白押しのときにあって、ひとつひとつの出来事に誠実に取り組みたいと願わされます。そんなことを思いつつ、今日のローズンゲンによって示されたふたつの聖句から、黙想を得たいと思います。
 
今日はいみじくも「宗教改革記念日」です。今から509年前、1517年10月31日、カトリック司祭にして大学教授であったマルティン・ルターは、当時の教会体制について痛烈に批判をしました。その問題提起をした日にちなんで、以後、宗教改革記念日として覚えられ続けています。
 
私たちは、この記念日を通して、何を思い、何をいただくことができるのでしょうか。そんな意味で言えば、今日の旧約聖書の言葉は、くじで選んだとは思えないような聖句が選ばれていると私は感じました。不正は何の役にも立たない。ただ、神がもたらす正義こそが、人に命を与えるのだと。
 
宗教改革は、当時の宗教指導者が掲げる「正しさ」が、神の掲げる正義に沿っていなかったことによる改革運動でした。人間は誰でも、自分の思ったことを正しいと信じて生きている存在です。しかし、その正しさが、本当に正しいという保証はどこにもありません。正義の名のもとに、結局自己正義に生きてしまうのが、悲しきかな人間の性なのです。
 
だからこそ、私たちに生きるいのちを与えられた神は、ご自分の正しさによってのみ、私たち人間を活かすことができるのです。私たちはそのことを、どれだけ自分自身に与えられた良い「恵み」として受け取っているだろうかということを、じっくりと考えたいのです。
 
そのために、イエスは私たちに「正しきいのち」をささげられました。私たちがどんなにしてもささげられないものを、イエスは私たちのためにささげられました。ここにこそ、イエスを私たちのために遣わされた神の正しさ、正義があるということを、私たちは一週間を締めくくる一日の言葉として、しっかりと握りしめたいと思います。
 
どうか、私たちを守られる神が、この一日も、平安を与え、祝福を授けてくださっていることを、私たちが実感する者となることができますように。心からお祈りします。

30/10/2026

2026.10.30(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章8節
主は貧しい者をちりの中から引き上げられる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章46〜48節
そこで、マリアは言った。「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたえます。この卑しい仕え女に、目を留めてくださったからです。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。新しい朝を迎えました。私事ですが、火曜日から昨日まで、所属する日本基督教団の総会が行われました。三日間の会議に、身体も心もかなり疲れを覚えましたが、こうして朝の目覚めが与えられていることに、改めて、命生かされていることに、心からの感謝を神様に向けることができました。気持ちを新たにして、今日からの日々を神とともに過ごしてまいりたいと思います。

そのために、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、私に大きな慰めと励ましを与えるものでした。弱く、貧しく、大きなふりをしても、実はちっぽけで、消え去ってしまいそうな灯火である。私自身にも、神はいのちの光を与えてくださり、光輝く一日を与えてくださっているのだと。そんなことを、希望の思いをもって与えてくださる神が今日もおられる。そんなことを思っていたら、とても嬉しくなったのです。

誰もが、順風満帆に歩めるわけではない。失敗も旅重なってしまう。そんなことを経験しているうちに、自分の情けなさであるとか、辛さのようなものをいっぱいに抱えて、息苦しくなってしまうことがあるのです。本当ならば、備えられている道も、見えなくなってしまう。そんな私たちの姿を、神はじっと見つめていてくださるのです。

神が備えられる道は、私たちが思うほど豊かなものには見えないかもしれません。ときには、目を凝らさなければ、よくわからない道もあるかもしれません。しかし、その道は着実確実ないのちへの道なのだと。今日の聖書の言葉に示されたふたりのの女性がまさにそうでした。

なかなか子を宿す恵みにあずかれないハンナ、そして、いきなり子を宿すことになったマリア。ふたりの境遇は大変対照的ともいえますが、しかし、その2人が抱えたものには共通点があります。弱く、小さくされたものが抱える不安です。

その不安を取り除かせ、歩むことができるように支えてくださる神がおられるのです。私たちが不安から逃れられる事は無いでしょう。しかし、その不安を抱えつつも、希望を持って歩むことを、神は必ず与えてくださる。そんなことを心から期待しつつ、今日の1日を歩みたいと心から願わされました。

どうか、皆さんの一日にも、いのちの光を豊かに与えてくださる神がともにおられますように。心からお祈りします。

29/10/2026

2026.10.29(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上9章27節
サムエルはサウルに言った。
「あなたはしばらくここにいてください。神の言葉をあなたに聞かせます。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書1章17節
イエスは、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。今日も、私たちの命を与え、その生活を支え導いてくださる神が、私たち一人ひとりにに豊かに伴ってくださいますようにお祈りします。

一昨日から行われている私が所属する教団の総会も最終日を迎えました。人間が行う会議ですから、様々な欠けが存在するのだと思います。だからこそ、神がささやき、語りかける、その声というものを、心から大切にしたい。そんなことを思わされる会議の時を過ごしています。

そんな中で、今日、私たちに与えられた聖書の言葉は、まさにそのことを私に伝えているのではないかと思わされました。そのことの黙想を綴りたいと思います。

とどまること、そしてじっと耳と心を傾けること。神の言葉が語られようとしているときに、最も大切にするべき私たちの態度が、今日の旧約聖書の言葉に認められていました。イスラエルの指導者であるサムエルが、後に王となるサウルに対して、語った言葉の一節です。

私たちは、周囲がやかましくなれば、なるほど、冷静さを失ってしまいます。ついつい感情的になり、その波に飲まれるが如く、理性を失ってしまうのです。だからこそ、その場その時で、神が望まれる判断を冷静に決断することができるよう、ちょっと語りかけられる神の声というものに、耳を傾けたい。心を傾けたい。そんな思いを大切にしていきたいのです。

この旧約聖書の言葉に合わせて選ばれた新約、聖書の言葉は、イエスが一番弟子となるペトロに対し、語られた呼びかけでした。人間をとる漁師にしようという、神の語りかけです。

私は、この言葉を量産的な意味で読んでしまうことの危うさを感じます。ただ、むやみやたらに魚に例えられる人間をとれば良いと言う話ではないと私は感じます。そうではなくて、網で掬う(すくう)という言葉と、人を救う(すくう)という日本語は、もともと下から上へ持ち上げると言う意味があります。

つまり、見えなくされている闇の部分を抱えているならば、その闇から光の部分に持ち上げるというという日本語のもたらす意味が、人間を深い闇の部分から、神の光へと招き入れるというイメージを、魚をとるという日常のイメージに、つなぎ合わせることができるのではないか、そのように思ったのです。

そのために、雑踏と喧騒の中で、そっと語りかける神の声に、じっくりゆっくり、耳と心を傾けていきたいと思ったのです。

どうか神が、私たち一人ひとりにその思いを与えてくださいますように。今日も、神が私たちに心の落ち着きと平安を与えてくださいますように。心からお祈りします。どうぞ素敵な一日をお過ごしください。

28/10/2026

2026.10.28(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編103編2,4節
主をたたえよ。
あなたの命を墓から贖い
あなたに慈しみと憐れみの冠をかぶせる方を。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書13章12~13節
イエスはその女を見て呼び寄せ、「女よ、あなたは病から解放された」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を崇めた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。今日も、私たちのいのちを与え、守ってくださる神が、私たちに授けてくださる一日の歩みを、大いに祝福してくださいますように。心から祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想を得たいと思います。
 
今日、私が受け止めたいと思ったことは「神による本当の解放とは?」というものでした。私たちに生きるいのちを与えられた神は、私たちひとりひとりを「解放」してくださる方である。それを真実の出来事として、神の民は受け取り続けてきました。
 
しかし、ここで言う「解放」とはいったい何か。私は「不必要な束縛から自由にさせられること」と思わされました。あくまで「不必要な束縛」からの解放であると。つまり、神が本来意図していない束縛というものを、人間がいとも簡単におこなってしまうがゆえに、私たちは互いに苦しみ続けるのだということを、私たちは実感することが大切なのだと思わされます。
 
今日の新約聖書の言葉は、18年間にわたって腰に疾患を抱えていた女性に、イエスが近づかれて、その苦しみを取り除かれたという話の一節です。ここで、その女性を苦しめていたのは、腰の病そのものだったのでしょうか。もちろん、それもあるでしょう。しかし、それ以上に、彼女を苦しめていた「束縛」がありました。
 
それは、イエスがこの女性の病を「安息日」にいやされたということに注目できるのだと私は思います。イエスのこのような行為を経て、安息日に労働するなどあってはならないと、イエスを非難する人たちが現れました。
 
しかし、イエスは、安息日が与える「本質」に眼を向けられました。安息日とは、日頃の労働という束縛から解放されて、神とのまじわりを楽しむために設けられたものです。安息日規定で束縛するためにあるのではなく、私たちを解放するために安息日が与えられたのです。
 
今日の聖句に続くルカ福音書13章16節は、「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではないか。」と記されているとおりです。私たちをあらゆる差しさわりから解放してくださるイエスが、今日も私たちとともにいてくださることへの幸いが、この聖句を通して私たちの心に響いてくるのです。
 
この慈しみと憐れみの「冠」をかぶせてもらいながら、この一日も神である主とともに歩むことができますように。主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

27/10/2026

2026.10.27(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編82編8節
神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての国民をご自分のものとされます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録10章34~35節
(ペトロの言葉)
神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。今日も私たちに生きる一日を与えられた神が、その命と生活の喜びを感じる心をも与えてくださいますようにと心から祈ります。いみじくも、私が働く教会メンバーの方に宿された命が、今誕生しようとしています。出産の無事を祈りつつ、自分自身に与えられた命の尊さを振り返ることができますようにとも祈りました。
 
さて、今日の魯0-ズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け取りたいと思ったのは、「神の選びに分け隔てはない」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思いますが、ここで大切にしたいのは、私たち人間は、いとも簡単に分け隔てしてしまう存在であるということへの「自覚」です。
 
神は、私たち人間を外見はもとより、社会的な状況であるとか、健康であるとか、そういう見地からものごとを量る方では決してありません。今日のふたつの聖句が指し示すとおりです。神にとっての唯一の基準というものがあるとすれば、ご自分が人間に示されたありったけの愛が、人間の喜びのために用いられているかどうかという一点に尽きるのだと私は思います。神の愛は、人間をはじめとする被造物世界が、この世界で喜びつつ生きるために注がれているからです。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一節には、「すべての国民をご自分の民とするための裁き」について歌われています。裁きとは悪を断罪することだけを意味するのではありません。それは裁きの一側面に過ぎないのです。あくまで「裁量する」わけであって、裁きには、喜びへと至らせる神のご判断という意味をも含まれていることを考えれば、また、すべての人間をごじぶんのもととされるという目的を考えれば、神が決して分け隔てなさるような方ではないことが明白なのです。
 
にもかかわらず、私たち人間の世界に隔絶があり、格差があり、到底喜べない状況がいくらでも存在するのです。その理由はたったひとつです。私たち人間の願望が、神の願いをはるかに上回っているからです。自分自身が「神」となろうとする態度こそ、神の分け隔てなさらないという願いを踏みにじってないがしろにしてしまうということなのです。そうであってはならない。そんなことを胸に刻まされる聖書の言葉に、身の引き締まる思いがあふれてきました。
 
今日から三日間、東京で日本基督教団総会が開催されます。私も議員として参加しますが、会議を通して決定されるすべてが、そのような神の喜びにあふれることを実感できるような三日間となりますようにと、心から祈るばかりです。そして、この祈りは、総会のみならず、私たちの住む世界のすべてに同様にあふれるものなのだということを思い、今日一日の主にある平安と祝福を、心から祈りたいと思います。どうぞ、素敵な一日をお過ごしください。

26/10/2026

2026.10.26(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書30章11節
けれども、あなたを滅ぼし尽くすことはない。私はあなたを公正によって懲らしめる。あなたを罰せずにおくことは決してない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙2章4節
知らないのですか。神の慈しみがあなたを悔い改めに導くのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今日も神の助けによって、新しいウィークデイの初日が祝福されますように!私も明日から土曜日まで東京へ出張になりますので、その備えの一日として、また午前は保育園礼拝、午後は教会メンバーの納骨式と予定が控えています。メリハリのある時となりそうです。心を引き締め、また心を込めてひとつひとつの出来事にお仕えしたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、私にとって「ドキッ」とさせられる聖句でした。旧約聖書はエレミヤ書30章の一節でした。エレミヤ書30章から33章は、いわゆる「慰めの書」と呼ばれている部分です。バビロニア帝国によって故郷を追われ、捕虜の身となったイスラエル人の辛苦に対する、神の慰めがあますところなく語られています。
 
そのなかで、神がご自分の民たちに、ふたつのことを告げているというのが、今日の聖句のポイントであると私は受け止めました。ひとつは「神はご自分の民を滅ぼし尽くすことはない」ということ、もうひとつは「しかし、神の公正によって民を懲らしめ、罰する」ということのふたつです。
 
一見すると、滅ぼさないということと、懲らしめ罰するということとは、真逆のことを語っているようにも思えます。懲らしめ罰する=滅びなのではないか、とも読めなくないからです。しかし、決してそうではないのです。
 
「ダメなものはダメ」という神の正しさに、一点のブレもないなかにあっても、神はご自分の民たちをあくまでご自分の正しさに引き戻そうとされる思いが、この聖句には十分に語りつくされているということなのです。神はいたずらに人間を懲らしめたり、罰したりすることはありません。見せしめとしてそのようなことをなさる方ではないのです。
 
神は、ご自分の愛する民たちに「気づいて欲しい」のです。しかし、究極的に気づくことができるのは、私たち人間に他なりません。だからこそ、あえて「生かす」道を神はお与えになられ、民たちが労苦のなかで生きることの意味であるとか、そのなかでも幸いを見い出せるとするならば、それはいったい何なのかということを、じっくりと考える時と機会というものを、神はご自分の民にお与えになられているのだというふうに、私は受け止めました。
 
ですから、神は滅びの道ではなく、生きる道によって再生されることを、私たち人間に心から願われている。これこそ「いつくしみ」の何物でないのだということを、私たちは是非とも気づき続けていきたいのです。今日の新約聖書で語られている「神のいつくしみが、私たちを悔い改めに導く」と語られているとおりです。悔い改めとは、これまでの自分自身を振り返りつつ、そこに何らかの瑕疵を見い出して、思い直すこと、そして方向転換するという意味です。そこに神のいつくしみなしには、そのような作業は成り立たないということを、私はしっかりと胸に刻んで、今日の一日を歩みたいと願わされました。
 
自分自身におごることなく、だからといって卑下しすぎて自分自身を見失うことなく、神のいつくしみによって生きる幸いを、今日も見い出すことができますように。皆さんの、そして私の主にある平安と祝福を心からお祈りします。