27/03/2026

2026.3.27(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編11編19節
正義は命に
悪を追い求める者は死に至る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙6章8節
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
暖かな日が続いたと思ったら、いっぺんに寒が戻った仙台です。三寒四温とはまさにこのことだと思わされています。しかし、戻っても必ず進んでいく。そして確実に春は訪れる。天気を見て、そんなことをも強く思わされました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「どこに土台を据えるか」というものです。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書のことばは、「人は蒔いたものを刈り取る」という言葉で知られる、ガラテヤの信徒への手紙の一節でした。種を蒔くということが何を意味するのか。私は「根を下ろす」という言葉をもイメージしました。つまり、自分自身の立ち位置がどこにあるのか、どこに自分自身が根を下ろし、立とうとしているのか。そんなイメージです。
 
今日のガラテヤ書の言葉に、「霊に蒔く」という言葉があります。霊とは紛れもなく聖霊のことを指すわけですが、聖霊にこそ、父である神とそのみ子であり私たちの命の救い主の心がいっぱいに詰まっています。私たちを助けるために。私たちとともに歩んでくださるために。
 
その聖霊に、自分自身の思いを、心を、考え方を、感じ方を、そして生き方のすべての導きを求めることにこそ、私たちが「霊に蒔く」ということの意味があるのだと、私は受け止めたいのです。霊に蒔き、そして自分自身を聖霊の助けによって根を下ろすならば、神という台地が私自身をしっかりと支え続けてくださる、ということなのです。
 
神が与えてくださった命が、命として活かされることを心から願いつつ、今日の一日を歩むことができますようにと祈ります。皆さんの一日のために。そして、私自身の一日のためにも。

26/03/2026

2026.3.26(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編34編2節
私はどのような時も主をたたえよう。私の口には絶え間なく主の賛美がある。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章5~6節
神は御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。それは、ご自身の栄光に満ちた恵みを、私たちがほめたたえるためでした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は一日雨模様の仙台ですが、雨がもたらすうるおいが、私たちの心をもみずみずしいものとしてくださいますように。そんな気持ちを抱きながら、神が与えてくださるみ言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するメッセージは、「神をたたえる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
「たたえる」とは何でしょうか。私たちは似たような表現で「ほめる」という言葉も知っています。では、たたえることとほめることとのあいだには、どのような違いがあるのでしょうか。その点で、ある方が興味深いことを言っていたのを思い出します。
 
ほめるというのは、結果に対する賞賛、しかし、たたえるというのは結果いかんにかかわらず、その過程に対する賞賛なのだと。ゆえに、ほめることよりもたたえることのほうが、より深く、より敬意のこもった私たちの表現なのだと。
 
なるほどなと思いました。私たちは成果主義の世界で生きていますし、もちろん、そのことも大切なのでしょうが、過程が何かと軽視されがちなのも事実です。しかし、結果の裏に涙ぐましい努力や営みというものがあるならば、そこにこそスポットを当てることの大切さがあることも、また事実なのではないかと私は思うのです。
 
すべてをご存知である神は、そのような私たち人間がくだす評価とは違うところで、私たちの動向を見守り、たとえ目に見えない結果が私たちをくじこうとも、神は私たちの心、そして誠意というものを大いに祝福してくださる。そのような神だからこそ、私たちもまた、目に見える事象だけで、短絡的に神を評価するのではなく、総合的に神のなさることをもって、大いにほめたたえたい。私はそのように思わされたのです。
 
ちょっとしたことで、神をも憎み、うらむ態度というものを、私たちは多少なりとも持っているものです。「神がいるのにどうして」と、私たちはついつい思ってしまうのです。しかし、そんな私たちの気持ちをも、神はすべてご存知なうえで、その意味というものを私たちに与えてくださり、私たちを総合的に見守ってくださるからこそ、私たちは安心を得ることができるのでしょう。
 
そのような安心に支えられながら、今日の一日を歩むことができますように。神が、皆さんを、そして私をも祝福してくださいますように。心からお祈りします。

25/03/2026

2026.3.25(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編9編20節
主よ、立ち上がり、人間が勝ち誇らないようにしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書9章31節
(イエスが弟子たちに語った言葉)
「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
しばらく、黙想をお休みしておりました。読んでくださることを楽しみにしてくださっている皆さまへ、大変申し訳ありませんでした。随分ご心配のメール・メッセージをいただきましたが、返信もできずままでおりました。そのことも併せて、心からお詫び申し上げます。
 
ここのところ、「言葉をつむぐ」ということについて、しばらく考えておりました。言葉で人を傷つけ、また傷つけられる現実を目の当たりにして(具体的に、私がどうこうされたというわけではないのです)、とても心を痛めておりました。そうこうしているうちに、あっという間に2週間も黙想をお休みしてしまいました。四旬節のとき、あらためて自分自身の弱さと、神に十二分に頼ることのできない罪深さというものを痛感させられた次第です。
 
しかし、このあいだにいろいろなことを考えさせられ、多くの出会いがあり、別に相談したわけでもなんでもないのですが、私の心と思いに多くの刺激が与えられました。聖霊の息吹が私のなかを吹き抜けたのでしょう。それで、今日から気持ちを新たにして、黙想を再開することにいたしました。どうぞ主にあって、今後ともよろしくお願いいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに私の今の心境にしっくりとくる言葉でした。「人間が勝ち誇る」ということについて、それを我が心のうちにとどめるように働いてくださいと、ダビデ王は神に願い、祈りの言葉をささげました。勝ち誇るとはなんでしょうか。「他者より自分が優れている」という思いから生じる態度のことです。
 
それは、往々にして、私自身のうちにある「正義感」から生じることがあります。私の正義感が、他者の言動を許せなくなるのです。それはきわめて日常的な、私たちの感覚であるかもしれません。正しく生きることは良い。自分の正しさに相容れない相手に対して、批判するのも良いでしょう。しかし、その目的は「神によって建て上げてもらうこと」にあるのだと私は考えます。
 
批判するならば、創造的、建設的な批判をしたいものです。ただ人格を攻撃し、反対したい、抗いたいという欲求を充足させるためだけに、批判を展開させるのであれば、それは、もはや批判ではなく、批難というしかないのだと。あまりにも、自分と相容れないものを徹底的に叩くことで、まさに「勝ち誇る」ということを勝ち取ろうする人間の姿というものを、自分自身に当てはめて考えたいのです。神はそんなことをお臨みでないことは明らかですので、その御前に、自分自身の罪というものを、じっくりと見つめ、悔い改めて生きたいのです。神の助けによって。
 
そのことを十二分に実践されたのは、救い主イエスでした。いくらでも勝ち誇れるような機会があっただろうに、屈辱の極みを味わわれたのがイエスでした。むしろ、負けることにこそ誇りがあると言わんばかりに、イエスは十字架への道をただ歩まれた。このイエスを前に、自分自身の至らなさに悔いつつ、しかし、それに開き直ることなく、「勝ち誇らせないようにしてください」と神に祈り、神の助けによって「負ける」ことにこそ、誇りを見い出したい。神はすべてをご存知なのだから、他者をおとしめることなく、主の御前にただ誠実であり続けたい。そんなことを、今日の聖句から想わされました。
 
四旬節も終わりを迎えようとしているなかで、今日の一日もまた、自分の弱さをすべてご存知である神の助けによって、少しでも主のご犠牲にふさわしい生き方をすることができますように。皆さんの主にある平安を心からお祈りします。

09/03/2026

2026.3.9(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編89編12~13節
天はあなたのもの、
地もまたあなたのもの。
世界とそこに満ちるものは
あなたが礎を築いたもの。
北も南もあなたが創造された。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録17章26節
神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の全地域に住まわせました。
©日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、私たちに命を与えられる神が、私たちに良い道を指し示し、その道を歩ませ、私たちが道を踏みしめる幸いを味わうことができますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「私たちの創造主である神」でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちが今、世界中で見ている戦争・紛争はいずれも「宗教が異なるあいだでのもの」であることが分かります。ロシア(ロシア正教会)とウクライナ(ウクライナ正教会)、イスラエル(ユダヤ教)とパレスチナ(イスラム教)、そしてアメリカ(キリスト教)とイラン(イスラム教)といった具合にです。
 
民族が違えば宗教も違う。そのような「違い」のなかで、人が人を傷つけ、殺め合う現実が起きていることに心痛めます。そして、神はこのような状況をどのようにご覧になられているのか。そんなことを心底から想わされます。そのときに、「創造主である神」という考え方は、私たちの心の抑止力になるのだと、私は信じてやまないのです。
 
今日の聖句で言われている「神」は、聖書に記された神であることに間違いないのですが、それはいわゆる「キリスト教至上主義」を助長するものでは決してないと私は考えています。他と比較して優劣を人間が決めようとするからこそ、争いが絶えないのだと思うのです。大切なことは、「神がどう思われるか」というところにあるのです。
 
もし、私たちすべての命の源が、宗教や民族の別なく、おひとりの方であるという考えが、私たちの共通認識となれば、そこには「造られた者であることへの責任」というものが生まれてくるのでないか、いや、この責任を大切にしようという動きが少しでも芽生えて来れば、平和というものに一歩だけ近づけるのではないだろうかと、私は思ったのです。
 
もちろん、近親であればあるほど、そのような関係を構築することの難しさというものもあるでしょう。しかし、そういうときにこそ、水平でものを見、相手との違いをことさら強調するのではなく、垂直思考で神を見、神と私との関係性、神とあなた、神のあの人とのつながりということに、目をとめ、思いを寄せることが大切なのだ。そのように私は思ったのです。
 
そういう営みが、結果的に自分自身の神を確認し、その神を大切にすることへの幸いへとつながるのだと思います。自分自身のあり方に誠実であることの幸いというものを、今日も味わっていきたいと心から願わされた次第です。
 
皆さんの一日もまた、そのような幸いに包まれることを、心からお祈りします。どうぞ素敵な一日でありますように!

08/03/2026

2026.3.8(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記18章3節
わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章5節
イエスは言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」
©日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。この一週間、私たちはどのようなことが待ち受けているのでしょうか。東日本大震災から15年、パレスチナ、ウクライナ、そしてイランの各地で繰り広げられている戦争、私たちの人間関係、そのひとつひとつに、私たちの神はどのように関わり、私たちにご自分の御心を与えようとされておられるのでしょうか。そして、私たちは御心にどのように応答しようとしているのでしょうか。
そんなことを思いながら、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句より、黙想をつづりたいと思います。
 
今日のテーマは「私たちの前を通り過ぎない神」と受け止めました。むしろ、神の前を通り過ぎようとしているのは、私たち自身なのではないかと。私はそのように思えてならないのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、自分の前を通り過ぎようとする旅人を、アブラハムが迎えるシーンです。自分の前を通り過ぎないでくださいと、客人を呼び止め、もてなしをしました。実はこの客人こそ、神が遣わした天使であったろうと考えることができます。この客人によって、アブラハムと妻サラのあいだに男の子が生まれることを予告されます。まさに、それは神による恵みのメッセージでした。
 
神は決して、ご自分を慕い、懇願する人間を見捨てることはありません。それがご自分の御心に適うものならば、神は惜しみなくご自分の良いものを与えてくださる方です。これこそ、後にエリコの町を訪れたイエスにひと目会いたいと、イエスのそばに近づいたザアカイに、イエスが「あなたの家に泊まりたい」と、ザアカイの願いを叶えさせて、ザアカイの心を神に向けたエピソードに相通じるものがあるのです。
 
アブラハムにしてもザアカイにしても、彼の心に神が宿りました。これが、彼らにとって生きるためになくてはならない土台となりました。私たちも神によって、私たちの心に神御自身の良いものを宿らせてくださるのです。決して通り過ぎることがない。そのことを信じて、今日という一日、今週の七日間を歩む者でありたいと願います。
 
どうか皆さんの新しい日々が、神によって豊かなものとされますように。心からお祈りいたします。どうぞ素敵な一日をお過ごしください。
 

07/03/2026

2026.3.7(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編115編2~3節
なぜ国々は言うのか。
「彼らの神はどこにいるのか」と。
私たちの神は天にいまし、
御旨のままにすべてを行われる。


旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章9節
イエスは言われた。「私を見る者は、父を見ることになるのだ。」
©日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日までの三日間、黙想をお休みさせてもらいました。お読みくださっている皆さまには、不便をおかけして申し訳ありません。疲労がたまっておりましたので、自分自身を整えるために、お休みをいただいていました。休んだおかげで、英気を取り戻すことができましたので、今日から再開したいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が今日受け止めたいと思ったのは、「イエスの言動を通して神を見る」ということでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは、救い主イエスを2000年前の弟子たちのように、直接見ることができません。その代わり、私たちには聖書の言葉を通して、イエスの言葉と行いに触れることが十分にできるのです。それが単なる「読み物」ではなく、イエスの息づかいというものは、聖霊の大きな助けによって、私たちの心に響きわたることを私たちは信じて、聖書の言葉にじっくりと聴くことが可能とさせられているのです。
 
イエスは、神がどのような御方であるかということを、100%、その人生において明らかにされました。旧訳聖書に記されている父なる神の姿が、さらに完璧なかたちによって明らかにされたのです。一見すると、粗削りなまでに私たちに豪放磊落ぶりを示した父なる神のシルエットは、イエスによって粗削りの十字架に架けられることによって、その命を私たちに与えられることによって、私たちの目の前に実像として明らかにしてくださいました。その姿は、決して粗削りなどではありませんでした。究極の「愛」というものを、私たちに対して突きつけられたのでした。
 
だからイエスは言われました。「私を見る者は、父を見ることになる」と。私たちは、徹底的にイエスの足跡についていく。その足取りが乏しくても、ついて行きたいと思う心が少しでもあるのならば、イエスは絶対に私たちと一緒に歩んでくださいます。イエスを見つめ歩むことの幸いを、イエスは十字架に架かる前夜に、弟子たちに対して語られたのです。
 
だから、私たちは五里霧中のなかで「私たちの神はどこにいるのか」と、さまよい歩く必要はどこにもありません。そういう思いになってしまうこともあるでしょう。疲れている時などは、特にそのような思いにさせられることがあります。私はそこまでではありませんでしたが、身体が疲れていると、健全な思考にいたらないことも多々あります。ここ数日は特にそうでした。しかし、そんな時にも体と心を休ませ、落ち着いて神を見つめる時が与えられるというのは、次を生きるための幸いになることを強く思わされます。
 
そんなことを胸にして、今日という一日を生き、明日から始まる新しい一週間の良き始まりにつながれたいと心から願い、祈ります。皆さんの一日も、七日間の旅路の最終日として、神の守りによって、大いに祝福されますように。心からお祈りします。

03/03/2026

2026.3.3(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
士師記10章10節
イスラエルの人々は主を叫び求めて言った。「私たちはあなたに罪を犯しました。私たちの神を捨てました。」


旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書3章2節
(洗礼者ヨハネは)言った。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
©日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も私たちの一日を守り、導いてくださる神が、私たちの歩みにともない、ご自分の言葉と聖霊の導きによって、私たちに行くべき道を与えてくださいますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、どちらも「罪」について語られたものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
罪とは神を捨てること。今日の旧約聖書の言葉である士師記の一節から、私たちはこのように考えることができます。何を捨てるのでしょうか。「神の思い」を、自分自身の思いから排除、またはないがしろにし、もしくは自分自身の願望にすり替えて、さも神の願いのように思い込んでしまおうとすることが、「神を捨てる」という行為につながるということです。
 
私たち日本人は、神に背を向けて歩むことも、いわゆる一般的な「悪いこと」も、すべて「罪」という言葉で表現します。そのこと自体間違っているわけではないのですが、聖書で示されている罪は、神を捨てて、独立独歩の道を歩むことによって、さまざまな思い違いを生むことで、一般的悪事に至るという基本的な理解があります。
 
それは逆を言えば、神の願いを自分自身の生き方とし、神とともに歩もうという謙虚な気持ちをもって、自分自身が神によって変えられることをいとわないような思いがあるならば、少しでも罪の道へさ迷いこんでしまうことから、神が私たちを守ってくださいます。そうであったとしても、私たちは折に触れ神を捨ててしまうことがあるくらいですから、なおのことなのだと思います。
 
大切なのは、その自分自身のありようというものを、謙虚に見つめ続けること。その思いをもって、神に自らをたださらけ出すことなのだと。神の前で格好つけたってしょうがない。もうすべてを知られているのですから。神の御前に正直であること。そして、私たちを平安へと導いてくださる神がおられるということに、心から喜べるような自分自身にしてもらうべく、神に願い求めること。そして、ただ誠実であること。こういうことこそ、みずからの罪を自覚しながらも、神を積極的に捨てることから、少しでも解放されるのだと思うのです。
 
そのために、洗礼者ヨハネが私たちのために神によって与えられ、新たに神とともに生きるそのしるしとして洗礼という出来事が与えられ、そして何よりも、洗礼によって神の御子であることが明らかにされた救い主イエスが私たちに与えられたことを、心から感謝して歩みたいというのが、今日私が得た黙想でした。
 
今日の一日が、そのような感謝と喜びに満ちあふれた時となりますように。心からお祈りします。