19/10/2026

2026.10.19(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
マラキ書2章7節
祭司の唇は知識を守り
人々は彼の口から律法を求める。
彼こそ万軍の主の使者だからである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二4章2節
御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
昨日はそれぞれの持ち場で、週の第一日目をお過ごしになられたかと思います。私自身も朝・昼・晩と、3つの教会で礼拝のひと時を過ごすことができました。教会を通して出会ったすべての方々に心から感謝の思いを表しつつ、なによりもそれを導いてくださった主がおられたことを心から想うひと時となりました。感謝でなりません。
 
そんな感謝の思いを携えながら、週日の六日間を過ごしてまいりたいと思います。今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想をつづりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句から、私が受け止めたいと思ったのは「与えらえれた口を用いて、どのように言葉をふさわしく用いることができるか」ということでした。与えられた務めや持ち場にふさわしい言葉を用いることは、神の素晴らしさであるとか愛を映す鏡のようなものであると私はあらためて受け止めることができました。
 
今日の旧約聖書の言葉は、旧約聖書の最終巻である「マラキ書」の一節からでした。本来、神に仕えることを務めとして与えられた祭司に求められることは、神が与えられた律法の本質に裏打ちされた言動をなすことでした。それは決して窮屈極まりないことではなく、神が私たちを豊かにするために、なくてはならないものでした。
 
しかし、のちに彼ら祭司たちは、その務めを窮屈に感じ、みずからの思いのままに振舞うことによって、自分自身の言葉でそれをないがしろにしてしまう結果を招きます。神の栄光を現す言動ではなく、自分自身の栄光を現すために、与えられた言葉を乱用してしまったのでした。
 
どうせ言葉を使うならば、誰もが平和になれるような言葉をつむぎたいのです。しかし、どうしてもこの世界に生じる「ゆがみが」そうさせてくれない。だからこそ、私たちのうちから生み出されるものではなく、与えられた美しさをもってそれを分かち合うことにおいてだったら、そのようなことを少しでも営めるのではないかと信じたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、まさにそのことを如実に知らせるものなのではないかと思うのです。時が良くても悪くても、状況が決して順風満帆どころか逆風難破の状態にあったとしても、それでも与えられた良いものを分かち合いたいがゆえに、与えられた唇と舌をつかって言葉をつむぐ幸い。そんな思いをもって、新しい週日の日々を歩みたいと願いました。
 
皆さんの新しい日々にも、神の与えてくださる務めが豊かに働きますように。心からお祈りします。

18/10/2026

2026.10.18(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ハガイ書2章9節
この場所に私は平和を与えるー万軍の主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書11章17節
(イエスの言葉)
「こう書いてあるではないか。『私の家は、すべての民の 祈りの家と呼ばれる。』」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
新しい一週間を迎えました。その先駆けとなる今日の礼拝が、どの場所においても、朝も夕も、そこに集まるすべての方々も、集まることの叶わない方々も、神によって安らぎと生きる力を得ることができますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想を得たいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して、私が受け取ったテーマは「場所」でした。私たちがどういう立ち位置に身を置いているか、その場所に私たちは立とうとしているのだろうか。そんなことを想わされました。
 
あくまで私たちの神は、私たちひとりひとりを「神である主の平和」に立たせようと働いておられる方です。しかし、そうはならない現実があるとすれば、私たちは神をないがしろにしたところで、自分自身「だけ」が平和に立とうとしているからなのではないかと、自戒を込めて思わされるのです。だから、私たちは平和に立つことができないのです。私のなかにある「自我」が何よりもまさってしまった時に、私たちは「この場所」がどこなのかをも分からなくなってしまうのです。
 
だからこそ、私たちは場所をお与えになった神が、どこに立つことを望んでおられるのかということに、思いと心を寄せて、神の御声に耳と心を傾ける必要があるのでしょう。
 
イエスは言われました。「祈りの家」と呼ばれる場所に、私たちを招こうとしておられます。それはかたちばかりの「教会」でもなければ、形式ばかりの「礼拝」でもありません。本質的に、私たちを平和へと立たせようとしておられる神のご臨在を、心から感じることのできるような場に立たされているという私たちの自覚こそ、「今、私はここに立っているのだ」という、深い自覚へと導かれるのだと私は、今日のふたつの聖句を通して、それを素直に受け取る者でありたいと思わされました。
 
どうか、今日の一日が、私たちの立ち位置というものが少しでも明らかになることを心から祈ります。そして、その場にこそ、神の平和が豊かに宿ることを、心からお祈りします。

17/10/2026

2026.10.17(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書22章3節
公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙6章2節
互いに重荷を担いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになります。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この一週間を振り駆ることのできる今日のすべてが、神によって守られ、祝福されていることの実感がありますように。そのことを確かめるために、御言葉に聴いてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神の力と助けによって誠実に生きる」と私は受け止めました。そして、そのような神による力と助けは、神御自身の姿勢である「公正と正義」に裏打ちされた「愛」であると私は受け止めたいと思いました。
 
公正と正義という言葉は、旧約聖書でしばしば登場する神の持つ特質です。神は、人間社会のなかではびこっている社会的な不正をご自分の姿勢で正し、不当な扱いを受けた者を守りることによって、秩序や公平をもたらされることを「公正」と呼び、その公正さをもって、神との正しい関係や、人びととの間(特に貧しい人や弱い立場の人々に対する)で誠実に生きる倫理的な態度のことを「正義」と呼んでいます。
 
つまり、公正と正義は切り離すことのできない言葉であり、かつそれは、神の関係性においても、決して切り離すことのできないものであると、私たちは理解することができるのです。
 
ですから、私たちが神から切り離されたところで、公正と正義を実践することはあり得ないし、もし、そのようなことを行うのであれば、それは人間の罪によってゆがんだものとなるのだということを、私たちは胸に刻まなければなりません。
 
このゆがみを担い合うことこそ、今日の新約聖書に記された「重荷を担い合う」ことの意味であると私は受け止めたいのです。だれもがゆがみを抱えて生きています。ですから、支障が私たち人間社会のなかでは必ず生じるのです。これを、神の公正と正義に裏打ちされた愛で担い合うことで、神の律法・キリストの律法の中心となる「慈しみの愛、自己犠牲的な愛」を私たちは神からいただきながら、この世界で誠実に生きるように促されているのだと、私は受け止めたのでした。
 
この一週間を振り返りつつ、神がなされたすべてのことに想いを巡らせながら、明日の主の日への備えの一日としたいと思います。神が私たちのこの時を祝福してくださいますように。心からお祈りします。どうぞ主にあって、素敵な一日をお過ごしください。

16/10/2026

2026.10.16(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編85編10~11節
救いは主を畏れる者に近く
栄光は私たちの地に住む。
慈しみとまことは出会い
義と平和が口づけする。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章9節
光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にある。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
この前月曜日が来たと思ったら、あっという間に金曜日を迎えてしまいました。時が容赦なく過ぎ去ってしまうことにあらためて驚かされるばかりですが、そのような一時一瞬を大切にしながら、今日も神とともに歩んで生きたいと願わされました。聖書の言葉に聴いて、一日の土台としたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは、「神こそすべてを治めるのにふさわしい御方である」というテーマであると私は受け止めました。そのなかでも、特に詩編85編の「慈しみとまことは出会い/義と平和が口づけする」という言葉に注目したいと思いました。
 
そもそも、慈しみ(慈愛)とまこと(真実)は、どちらも神の抱く特質として知られている言葉ですし、それは義(正義)と平和(平安)も同様です。ですから、「出会い」とか「口づけする」という言葉があることに、少々?と思ったのです。あえて、出会うこと、口づけすると詩人が歌ったのは、どうしてなのだろうかということを考えたからです。
 
愛は真実を生む。私たちの人間社会でも、そのような愛やいつくしみというものを簡単に見つけることができるのだろうか。私はそう考えたのです。この世の中のすべての正義というものが、平和を私たちの世界にもたらすだろうか。そう感じたのです。
 
愛にもいろいろな形があります。しかし、ゆがんだ愛は人に真実をもたらすどころか、独り善がりな愛が他者を傷つけるなどということは日常茶飯事の出来事なのです。正義についても同じことが言えます。自分だけが正しいという人間の横行が、どれだけ人を苦しめ続けるだろうかということは、いくらでも存在しているということを、私たちはよく知っています。
 
だからこそ、私たちは、そのような慈愛や真実、正義や平和というものの「源泉」をしっかりと確かめていく必要があります。その源泉こそ、わが神なのです。その神をおそれ敬うこと、その神が放たれる光のひとすじに従って、神が備えてくださった道を歩むこと。これが、今日のふたつの聖句が指し示すことであると、私は受け止めることにしました。
 
少しでも神の愛とまこと、正義と平安のために生きることができるよう、神の助けを十分にいただきつつ、歩む者となることができますように。皆さんの一日に、神である主が親しく臨んでくださいますように。お祈りします。

15/10/2026

2026.10.15(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
哀歌3章25節
主は、ご自分に希望を置く者に
ご自分を探し求める魂に恵み深い。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録3章20節
見よ、私は戸口に立って、扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今日も秋晴れの朝を迎えた仙台の街です。この空のように、主にあってさわやかでありたいと思いました。その思いを確かなものとするために、今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句から、黙想を得たいと思います。
 
今日のふたつの聖句から、私は「探求し続けることの幸い」というものを感じることができました。私たちも探求します。しかし、私たちをいつも、いつまでも探求し続けてくださる方がおられるからこそ、私たちも探求することが大いに許されているのだということを、今日のみことばを通して、深く味わうことができました。そのことをつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、哀歌3章の一節でした。哀歌と言えば、紀元前6世紀にイスラエルの都エルサレムが、新バビロニア帝国の攻撃によって陥落し、民たちが強制連行されて、捕虜生活を余儀なくされた、ある意味で言えば「どん底」の時代でした。そんな時に、預言者エレミヤを通して語られたのが、希望のメッセージだったのです。どん底だからこそ、神を探し求めようと。求めるところには、必ず神が私たちを祝福してくださっていることを実感できるのだからと。今日のみことばは、そのことを民たちに、そして私たちに知らせるものとなっています。
 
私たちが探したから神にたどり着いたのではありません。そもそも神はご自分がおつくりになられた私たち人間にずっとまなざしを向け続けてくださっています。しかし、私たちは気付かないのです。そのことに忘れてしまうのです。どこかそっぽを向いてしまう私たちの現実があるのです。
 
しかし、神は私たちに対するまなざしを反らすことは決してありません。私たちが自分の身の周りをじっくりと眺めまわしたときに、そこに神がずっと私たちのことを見つめてくださっていたという事実に気付くのです。この気づきこそ、私たちにとっての「希望」となることを、私たちは忘れたくはないのだと、私はあらためて受け止めたいと思いました。
 
求めるのは私たちからではなく、そもそも私たちを求め続け、戸口の前に立ち続け、その扉を叩き続けておられる神である主に他なりません。私たちはその神を迎えるために、自らを御言葉と聖霊様で整えつつ、たとえその迎える準備が万全でなかったとしても、迎えたいという思いがあるならば、必ず神はその恵み深さというものを、余すところなく与えてくださるのだと。そのことを心に刻みつつ、今日の与えられた一日を過ごしてまいりたいと思いました。
 
どうか皆さんの一日も、そのような恵み深さに満たされる時でありますように。主にある守りと平安を、心からお祈りします。

14/10/2026

2026.10.14(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編97編11節
光は正しき人に
喜びは心のまっすぐな者に蒔かれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書14章13~14節
宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。今日も皆さんにいのちを与えられた神が、私たちに大切なことを伝え、教え、導いてくださいますように。そのことを心から願いつつ、ローズンゲンに示されたみ言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
喜びは心のまっすぐな者に蒔かれる。
 
今日の旧約聖書の言葉である、詩編97編の一節が選ばれています。詩編97編は「喜びの賛美」とも言える箇所ですが、私たちにとって、喜びの源泉はどこにあるのだろうかという問いに対して、この聖書の言葉は大切なことを私たちに伝えているといえます。
 
喜びが私たちの心に種が蒔かれるように与えられるというのです。しかし、その喜びが「種」であるというところに、私は注目したいと思ったのです。種が芽生え、発育し、実りをもたらあすためには、種本体ではどうしようもありません。適切な土壌があり、温度や光が注がれ、水分が時宜に適ったかたちで与えられることで、種ははじめて成長するということを、私たちは誰もが知っていると思うのです。
 
そのことを知ってか、詩人は「心のまっすぐな者」という言葉をつけて、喜びが喜びとして私たちが受け取る者とさせられることについて歌っています。私たちの心という土壌が、いかに種の成長につながるようなものとさせられているかということを、私たちは自分自身に問いたいのです。時には、私たちは土壌不良を起こすこともあるでしょう。そんなのはしょっちゅうかもしれません。しかし、「こうなりたい」という私たちのあこがれを、神は必ずご自分の助けをもって、そのようにしてくださるのです。だから喜べるのだと私は信じたいのです。
 
決して立派な者でない、強くもない、弱音ばかり吐いては、自らの情けなさに悔いるとき、それでも、神がともにいてくださるというこの確信とあこがれこそが大切なのだと。そんな土壌に、喜びの種を蒔いてくださる神がおられるのだ。そんなことを心の糧にして、今日の一日を歩んでまいりたいと願わされました。
 
どうか、今日一日の皆さんの歩みが、私自身も含めて、主の喜びに生きることができる者となることができますように。心からお祈りします。

13/10/2026

2026.10.13(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨシュア記24章18節
私たちもまた主に仕えます。この方こそ私たちの神だからです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書5章27~28節
イエスは、レビと言う徴税人が収税所に座っているのを見て、「私に従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
連休も終わり、今日から通常通りの生活に戻られた方もあるかと思います。私のような職業は、あまり連休に左右されるような生活を営んでいるわけではないのですが、それでも、世の中の動きに自分自身を合わせながら、そのような環境のなかで、福音を伝え分かち合うということこそが、大切であるとも思っています。それぞれの立場でウィークデイを過ごされる皆さんに、主の守りと平安を祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「神である主に従う」であると私は受け止めました。あらためて、自分自身に問いたいと思います。「私は神に従う生活というものを営もうとしているだろうか?」という問いかけです。
 
私たちは何もないところから、「神に仕え、神に従おう」という気持ちには絶対にならないはずです。わけのわからない、得体の知れないものに従う気持ちなどは起きないからです。だからこそ、神がどのような方なのか、私たちに神は何をしてくださったのかということを理解すべく、そのことを知ろうとする時と機会を、やはり大切にしたいのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ヨシュア記の終わりの部分の一節です。40年にわたる出エジプトの流浪を終え、神によって約束された地にたどりついたイスラエルの民は、その後も、ヨシュアという指導者のもとで、自分自身の心を、生活を整えつつ、神とともにカナンの地で生きるという生活が始まりました。ある意味安定した生活が開始されたのです。
 
しかし、その安定さのなかにも、多くのチャレンジが民を待ち受けていました。時には試練と呼べるような出来事もたくさんあったのです。人間はが安定した生活を営むことは、私たちの目指すところであることは、誰も疑いの目を向けることはありません。しかし、安定しすぎることによって、大切な原点を忘れてしまうことも多々ある。これが私たちの偽らざる姿なのではないでしょうか。
 
原点を忘れたところには、ほころびが必ず生じます。だからこそ、私たちを安定へと導かれる神がおられるということだけは、私たちはいつも胸に刻めるように、神についての理解を継続的に深めていく必要があるのです。一日たったひとつだけの聖書の言葉でも良いのです。その言葉をめぐって、神と私たちは対話することができるのです。
 
そのような対話のなかで、神が私たちのために働いてくださったことを自分自身のうちに根付かせるならば、私たちは危機と呼べるような出来事が襲おうとも、そのなかで、神を神とする自分自身の思いを、神から芽生えさせてくださるという体験を味わうことが可能となるのです。本日の旧約聖書の言葉は、まさにそのことをイスラエルの民たちが経験したその歴史から、私たちの生活というものの糧とすることができるのだと思えてなりません。
 
そのような糧は、私たちの判断と決断に大きな影響を与えます。イエスの弟子となった徴税人レビもそうでした。自分自身が神に向き合おうとするなかで、そのふさわしさというものを彼は選び取りました。それは、主であるイエスに従う生活というものでした。大切なのはすべてを捨てるということではありません。神との交わりのなかで、何が自分自身にとって大切なのかということを見極め、その選択をしたということなのです。
 
だから、私たちはつねに「動機」が問われています。その動機を確かめるために、今日も聖書の言葉が与えられました。私たちひとりひとりが今日も、主とともに生きるために、この言葉を握りしめて、新たなひと日の旅路へと遣わされたい。これが私の得た黙想でした。
 
どうか、皆さんの生活のすべてに、神が親しく臨んでくださいますように。そのような思いを私たちの心のなかで、大切に温めることができますように。主にある祝福を、心からお祈りします。