16/08/2026

2026.8.16(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書60章10節
異国の子らはあなたの城壁を築き
その王たちもあなたに仕える。
私は怒りをもってあなたを打ったが
恵みをもってあなたを憐れんだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章9節
神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得られるように定められたのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。その初日であるこの主の日、世界中でおこなわれる礼拝のすべてが、私たちの新しい七日間の旅路を豊かに導き、祝福されていることを望みつつ、今日も神の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神の義憤」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書のなかで、神はご自分の民に対して、怒りを示されたことが記されています。しかし、怒りという感情は、私たちのなかでは負のものとして捉えられることが多くあると思いますし、それは事実です。私たちは不用意に、自分自身の怒りというものをあらわにすることが、愚かな行為であるということが、しばしば言われているわけです。
 
そのようななかで、神の怒りというものを、私たちはどのように捉えたらよいのだろうかと考えるのです。神の怒りを都合よく持ち出して、私たちが怒ることを正当化する材料にするのでしょうか。私たちは、神の怒りというものに対する、健全な意識というものを抱いていることは、本当に大切なのだと思います。
 
神の怒りは、正しいことがなされない「ゆがみ」に対してのものであることを、私たちは忘れてはならないのだと思います。神の正しさは「人間のいのちを活かすこと」にあることを、私たちはどれだけ認識しているだろうかと問い続けることは大切です。つまり、そのことに私たち人間が気づかないときに、神は怒りという感情を示されるのです。
 
しかし、怒りが怒りのままで終わることは決してないということが、今日の旧約聖書・新約聖書の両方に記されているのは、大変興味深いことと言えます。怒るが憐れみを示される神でもあるのです。怒りが怒りのまま残ることはありません。人が神の正しさに生きようと決意して、神と歩調を合わせて生きようとしたときに、神は怒り以上の憐れみを示されるということも、私たちは決して忘れてはならないのです。
 
そのために、命を投げ捨ててまで私たちにとことん付き合われた救い主イエスがおられ、その様子を怒りつつも、それ以上の憐れみをもって見守られた神がおられるのです。この神御自身の定められた思いによって、私たちひとりひとりが生かされているということを、今週一週間を生きる柱にしていきたい。これが私の受け止めたいと思ったメッセージでした。
 
神の憐れみに生きるために、神の正しさに自分自身を沿わせているかということを問いつつ、今日の初日を迎え、過ごすことができますように。皆さんの主にある守りと祝福を、特に、被災のもとにある熊本や千葉の方々のためにお祈りします。どうぞ素敵な一日をお過ごしくださいますように。

15/08/2026

2026.8.15(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編95編6節
さあ、ひれ伏し、身をかがめよう。
私たちを造られた方、主の前にひざまずこう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章16節
そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。帰省によるUターンラッシュも、そろそろ始まることかと思います。どうかすべてにおいて安全が守られますように。そして、熊本の地において、そして千葉の地において集中豪雨で不便と不安を感じておられるすべての方々に、神の守りが十二分にありますように、心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは「ひれ伏する」ということについてでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
ひれ伏するとは、「両手をつき、頭を地につけて礼拝すること」(広辞苑第七版)とあります。身を低めること、頭を下げること、手を出さないことなど、いろいろなイメージを私たちに呼び起こします。
 
そして、日本にとって、おそらくひれ伏することと同列に置かれている言葉に「土下座」というものがあります。土下座も似たような意味があるかと思います。「相手に恭順の意を表すため、地上にひざまずいて礼をすること」(広辞苑)とあります。しかし、土下座という言葉には、相手に対する強い反省や謝罪をするときに行うものという意味も含まれるかもしれません。もっとも、そのような意味が、土下座に含まれるようになったのは、第二次世界大戦後、時代小説や時代劇などで使われるようになったからだと言われているようです。
 
私たちは、聖書に書かれている「ひれ伏する」を考えるときに、人に対する謝罪や許しを乞うしるしとして行うものというイメージをもって、ひれ伏することを考えるよりは、神に対する敬意と感謝ゆえに、自分自身の身を低めるということの象徴的なしるしとして、ひれ伏するというイメージをとらえるということが、大切なのだと私は考えます。
 
私たちが神によって造られ、命与えられたことに対する感謝のしるしとしてのひれ伏するという行為、サマリア人がイエスに対して感謝の心をもって自分自身の身を低めてひれ伏したという出来事など、今日の聖句に記されていることは、最大限の感謝と好意ゆえの私たちの表現であることを、前向きに受け止めたい。私が今日思ったことです。
 
明日の礼拝において、私たちはどのように神に感謝や好意をもって、礼拝のときを過ごすことができるでしょうか。実際的にひれ伏するということはなかったとしても、心と思いは、神にひれ伏する精神をもって、主を礼拝する喜びにあふれたいと願います。そのための備えの一日として、今日という日が神の祝福にあふれますように。
 
今日の皆さんの一切が、神の守りと祝福のうちにありますように。心からお祈りします。

13/08/2026

2026.8.13(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編105編8節
主は心に留められる
主の契約をとこしえに
命じた言葉を幾千代に

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章20節
神の約束はすべて、この方において「然り」となったからです。それで、私たちはこの方を通して神に「アーメン」と唱え、栄光を帰するのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
台風の影響もあって、昨日の仙台は強い雨が地を叩きつける時間帯もありましたが、何とか台風も本州を抜けて、ホッとひと安心です。しかし、台風の爪痕も各地であったようですし、新たな台風もやってくるとのこと。引き続き、安全が守られますように。そして、今日も熊本の地で不自由を感じているすべての方々に、神の慰めと励ましがあることを、引き続き祈りたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神は約束を必ず果たされる」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
神は幾千代、つまりいつまでも絶えることなく、ご自分が人間に対して宣言された約束を反故にされることはないと、歌い手は詩にしたためました。神はご自分の約束を「契約」のかたちにして、人間に与えられました。
 
もちろん、契約ですから、神が出された約束に対して、人間はその約束に対する責任を果たさなければならないということが必須でした。それが破られるならば、契約破棄という、私たちの世界では当たり前の展開となります。実際に、これまでの歴史のなかで、人間は神が提示され、そして締結された契約内容を、何度も何度も破り続けてきました。それは、聖書、特に旧約聖書に記されているとおりです。
 
しかし、にもかかわらず、神は人間とのあいだに結ばれた契約を破棄されることは決してありませんでした。それどころか、人間がいとも簡単に破ってしまう契約が空しいものとならないために、「究極の契約」を提示されました。それが、まことの人でありまことの神となられた、み子イエス・キリストだったのです。
 
イエスはその言葉と生き方によって、契約の本質を私たちに見せてくださいました。そして、最終的には私たちの命のために、自らの命を犠牲とされるまで、私たちとの契約を大切にされました。犠牲となった命が終わることなく、復活をとおしてその約束が永遠にわたるものであることを、私たちに明らかにしてくださいました。
 
今日の新約聖書の言葉にもあるように、「神の約束はすべて、この方(イエス・キリスト)において『然り(そのとおりに)』となった」というのは、まさに、イエスによって神の約束が決して反故にされることがなかったのだということを、私たちに事実として提示されたのでした。私たちはただ、この出来事に対して「アーメン(その通りです)」と認めることこそ、契約における責任を果たすことなのだと、私はあらためて受け入れたいと思ったのです。
 
こうして、神と人間との契約が、私たちを活かすためのものであったことを想いつつ、また、契約をないがしろにしない神のなさることに感謝しつつ、少しでも「アーメン」と私たちの生き方において示すことができますように。今日一日の、皆さんの一切に、神の平安と祝福が豊かにありますように。心からお祈りします。

12/08/2026

2026.8.12(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編103編13節
父が子らに憐れみをもたらすように、
主を畏れる者らに憐れみをもたらす。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙4章6節
あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
台風が関東地方に上陸し、そのまま本州を横断するようです。少しでも災害から心身を守ることができますように。そして、熊本地震で苦しみを覚え続けているすべての方に、神の守りがありますことを、心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「父」でした。父とは、まさに父なる神のことを指すわけですが、あらためて父なる神の姿というものについて、聖句より黙想したいと思います。
 
まず、今日の詩編の言葉103編13節には「憐れみ」という言葉が記されています。親が子をいつくしむような憐れみの思いを引き合いに出して、父なる神は私たちをいつくしみ、憐れんでくださるというのです。心の底から相手の痛みや弱さに共感し、温かく守ろうとする深い愛情や同情心が、憐れみという言葉の根底にある意味なのです。
 
また、この言葉から派生したものに「内臓」や「胎内」という言葉があります。お腹を痛めて宿した子を産むくらいにまで、母親の子に対する深くいとおしむ気持ちにも相通じるというのです。
 
この思いをもって、父なる神は、私たちひとりひとりの痛みを知り、それを担おうとしてくださるというのが、今日の旧約聖書の言葉が指し示す意味なのだと、私は受け止めることができました。たとえ人には理解してもらえなくても、私の神は私の悪いところも良いところもご存知であり、変えられるべきところは神の愛をもって変わるように、素敵な部分はそれが引き立つように、神は深い憐れみをもって私たちに助けを与えてくださるのです。
 
こうして「神の子」とされる私たちですが、その私たちにはモデルがいることを忘れてはなりません。「アッバ、父よ」と父なる神に呼び求めた、救い主イエス・キリストその御方です。イエスは神に憐れみを求めました。神が御自身を憐れんでくださることを疑うことなく信じていたからです。そして、救い主としての使命を貫徹されたのでした。
 
私たちは、このイエスに倣う者となることが許されているのです。そのために、御子の霊、つまり聖霊の善き力にしっかりと守られながら、今日という一日をも生きていくことが可能とさせられていく。このことを心の希望として、歩んで生きたいと思います。皆さんの一日に、神の平和と憐れみが、ともに豊かにありますように。心からお祈りします。

11/08/2026

2026.8.11(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編143編8節
歩むべき道を教えてください。
私はあなたに向かって魂を高くあげます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章68~69節
シモン・ペトロが答えた。
「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も暑い夏の一日を迎えました。仙台は昔のように30度を超えない日々を過ごしていますが、各所で酷暑とも言える陽気のなかで、健康が守られますように。そして、台風が直撃しようとしている関東地方が、危険から守られますように。震災後の熊本の地に、少しでもそこに住まわれる方々の安全が守られますように。そのことをお祈りしつつ、今日の聖書の言葉に聴きたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「私たちの歩む道を、神はご自分の言葉を通して備えてくださっている」でした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉である、ヨハネによる福音書6章は、長い物語となっています。イエスは、ご自分の言葉を聞こうとする大勢の人々を前に、奇跡を通してそれらの人々の空腹を満たしたり、病気をいやされました。そして、会堂においては、神の言葉を取り次ぐことを通して、人々の心に神の思いを吹き込みました。
 
しかし、人々のなかには、イエスを通して語られる神の言葉に対して、拒否感を示す人もいました。「あまりにもひどい話だ」と言う人たちもいました。イエスの語る言葉に付いて行くことができずに、その場を離れ去った人たちもいました。神の言葉に拒否感を示す人間の思いというものは、古今東西変わることがないということを、私たちはこれらの物語を通して知ることができます。たとえ神によって良いものを私たちがいただき続けているのにもかかわらずです。
 
神から良いものを得ているのにもかかわらず、自分自身のなかに起きる拒否感は、それだけ私たちは「自我の強い存在」であることの紛れもない証拠です。自我の強さが、神のなさることを受け入れなくさせてしまうことだって、私たちの生活には往々にしてあるのです。しかし、そのことに開き直る生き方を営み続けているのであれば、私たちは神を拒み続けて生きることになってしまうことも、また間違いない事実なのです。
 
そのような私たちに、イエスは近づかれました。今もご自分の言葉をもって、私たちに神の愛というものを示し続けておられます。その示された道を、私たちは「教えてください」と問い尋ね続け、また、ペトロによって語られた信仰告白のように、その言葉を自分自身を活かす無くてはならないものとして、受け入れることの幸いというものを、私たちは自我の現実を見つめつつも、前向きにとらえていきたいと心から願います。
 
神を信じたい。しかし、拒んでしまう自分がある。だからこそ、そんな私たちにイエスは今日もともにいてくださり、良いものを授けてくださる。このことが幸いなのだということを胸にして歩むことができますように。皆さんの一日に、神からの祝福と平安がありますように。心からお祈りします。

10/08/2026

2026.8.10(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編103編19節
主は天に王座を据え
その王権はすべてを治める。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章31~32節
人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
お盆休み前の平日の一日を迎えました。すでに休まれている方もおられるかと思います。私も今日から土曜日まで休暇のひと時をいただきました。普段できないことに手をつけながら、ゆっくりと休暇を楽しみたいと思います。皆さんの一日にも、神の守りと平安がともに、豊かにありますようにお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神は私たちのすべてを治められる」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちの神は、全世界を治める、つまり統治される方であることは、今日の聖句が語っているとおりですし、私たちは、その統治のもとに生かされている神の民であることに間違いありません。統治者に求められていることとは、私たち民を幸福へと導くということに他なりません。
 
しかし、私たちの神の統治があるのにもかかわらず、この世の中は本当に神の統治にふさわしいものとなっているでしょうか。相も変わらず差しさわりがあり、人と人との間に起こる亀裂や衝突が後を絶ちません。自分だけが得をしようとする思いが、他者の大切なものを奪い取り、不均衡や不条理が私たちの世界を容赦なく襲うこともあるのです。そんなことを考えると、神の統治など本当にあるのだろうかと、首をかしげてしまうのです。
 
しかし、それは神の統治不足なのでしょうか。私たちの神は、そのような不均衡に大なたを振るって強制的に是正することを、拙速に行われません。忍耐をもって、私たちの動向をじっくりと見守っているのです。そして、イエスという救い主を差し出されることによって、イエスの生涯における言葉と行いによって、神の統治のもとに生きるとは、どのようなことかをその生き方で示されました。命を私たちに与えられることによって、その尊さということを、私たちひとりひとりに示されたのは、神の統治の何物でもないと言えるのです。
 
神の統治のもとに、神の願いにふさわしく生きることの幸い。どんなに統治者が素晴らしくても、その統治のもとで生きる私たちがそこに同調しない限り、世の中はいつまでもゆがみに満ちた世界になることは間違いないのです。だからこそ、私たちの姿勢というものが問われていることを、私たちは今日の聖句からじっくりと聴きとりたいと思います。
 
神の御国の民として、今日も神のみ心に生きる者となることができますように。神の言葉と聖霊の助けによって、今日一日が主にあって健やかであることを、心からお祈りします。

09/08/2026

2026.8.9(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書42章9節
見よ、先にあったことは実現した。
そこで、私は新しいことを告げよう。
それが起こる前に
私はあなたがたに聞かせよう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書13章37~38節
良い種を蒔く者は人の子、畑は世界。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間を迎えました。世の中はお盆休みで移動をされたり、ひと時の休みを楽しまれると思います。そのすべての予定に、神からの守りと平安が、皆さんとともにありますように。私も今週は、いつもよりもゆっくりできるので、いつもできないことなどをゆっくりとおこなおうと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「新しいことをなしてくださる神」です。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
神は常に新しいものを私たちに見せてくださいます。しかし、その新しさは単なる物珍しさや、一時で輝きを失う打ち上げ花火のようなものではありません。私たちを活かすために、新しいことを私たちに示してくださる神がおられるということです。私たちが何の変哲もない生活を歩むのではなく、日々ますます神がおられることに感謝して歩めるように、ひとつずつ、私たちが受け取れるように、神は新鮮さというものを与えてくださるのです。
 
そのことを、私たちは神の言葉を通して、ひとつずついただくことができるのです。私は、このような日々の聖句が、その日ごとに私たちの命を活かす言葉として、新鮮さを私たちに与えるものなのだということを受け止めています。いろいろなディボーション雑誌があり、毎日聖書に親しめるように準備されているわけですが、どのような媒体でも良い、たったひと言の聖句でも良いのです。その言葉を通して、神が私たちに新鮮さを与えてくださるのであれば、これは、イザヤ書で神が私たちに告げておられることに相通じるのだと、私は受け入れたいのです。
 
人の子であるイエス・キリストは、こうしてご自分の言葉を私たちの心に種を蒔くように、蒔いてくださるのです。私たちの心が土壌であり、その土壌が畑となり、その畑こそ世界そのものだというのが、今日の新約聖書でイエスが告げておられることです。私たちがそのような畑となるべく、神に養われて育ちゆくことができますように。今日の世界中でおこなわれる礼拝が祝されますように。その礼拝から、活きる活力というものを得ることができますように。お祈りします。