くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編31編9節
あなたは私の両足を広々とした場所に立たせてくださる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒の手紙5章1節
この自由を得させてくださるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
「自由には責任がともなう」
しばしば聞かれるこの言葉は、一説では心理学者フロイトが言い始めたものとは言われていますが、そうでなくても、古今東西誰もが認める常識として、広く知られているものであるというのが、本当のところかもしれません。なぜなら、「自由」によって、本当に人間が自由を味わう喜びを経験できた一方で、誰かが獲得した自由のもとで、自由が剥奪されることによって、「不自由」を経験しなければならない人たちも多く存在したのを、私たち人間はよく知っているからです。
神は自由を愛され、そして自由というものを私たちひとりひとりにお与えになられました。今日の旧約聖書・詩編の言葉は、自由というものがまさに神から与えられたことを、心から実感した詩人の賛美です。神がどのような思いで、私たちひとりひとりに自由を授けられたのかということを、この人は理解していました。足かせをはめられた状態では決してなく、広々としたところで両足を地につけて歩むことのできる幸いというものを、心の底から賛美したのです。
そしてこの賛美は、誰もが味わうことのできるものなのだということを、神は変わることなく、私たちに知らせてくださるのですが、しかし、人間世界は「誰もが」自由を味わうことができないよう、独り善がりな人たちによる「自由の占有」がなされ続けてきたのです。
つまり、私たち人間による個々人の自由観というものが、どのように形成されるかで、自由が自由でなくなってしまうということなのです。少なくとも、神が望まれる自由というものが、世界中に広がりゆくことを、私たちは心の底から認め、受け入れ、それを尊重することが求められるのだと、私はあらためて思わされます。
キリストが、私たちを不自由によってがんじがらめにされた状態から解放してくださった、このことが今日の新約聖書の言葉が意味するところです。後に宗教改革者マルティン・ルターは、「キリスト者の自由」という言葉を用いて、神の御心という基盤があってこそ、この自由が自由とされていくことを説きました。私たちもまた、自分が味わう自由というものが、本当に神に由来しているものなのかどうかを、じっくりと吟味する必要があるのです。
どうか今日の一日もまた、私たちが誰でも喜べる自由というものを謳歌することができますように。祈りつつ、主の御心とともに生きる幸いを味わうことができますように。心からお祈りします。