くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編115編2~3節
なぜ国々は言うのか。
「彼らの神はどこにいるのか」と。
私たちの神は天にいまし、
御旨のままにすべてを行われる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章9節
イエスは言われた。「私を見る者は、父を見ることになるのだ。」
©日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
昨日までの三日間、黙想をお休みさせてもらいました。お読みくださっている皆さまには、不便をおかけして申し訳ありません。疲労がたまっておりましたので、自分自身を整えるために、お休みをいただいていました。休んだおかげで、英気を取り戻すことができましたので、今日から再開したいと思います。どうぞよろしくお願いします。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が今日受け止めたいと思ったのは、「イエスの言動を通して神を見る」ということでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
私たちは、救い主イエスを2000年前の弟子たちのように、直接見ることができません。その代わり、私たちには聖書の言葉を通して、イエスの言葉と行いに触れることが十分にできるのです。それが単なる「読み物」ではなく、イエスの息づかいというものは、聖霊の大きな助けによって、私たちの心に響きわたることを私たちは信じて、聖書の言葉にじっくりと聴くことが可能とさせられているのです。
イエスは、神がどのような御方であるかということを、100%、その人生において明らかにされました。旧訳聖書に記されている父なる神の姿が、さらに完璧なかたちによって明らかにされたのです。一見すると、粗削りなまでに私たちに豪放磊落ぶりを示した父なる神のシルエットは、イエスによって粗削りの十字架に架けられることによって、その命を私たちに与えられることによって、私たちの目の前に実像として明らかにしてくださいました。その姿は、決して粗削りなどではありませんでした。究極の「愛」というものを、私たちに対して突きつけられたのでした。
だからイエスは言われました。「私を見る者は、父を見ることになる」と。私たちは、徹底的にイエスの足跡についていく。その足取りが乏しくても、ついて行きたいと思う心が少しでもあるのならば、イエスは絶対に私たちと一緒に歩んでくださいます。イエスを見つめ歩むことの幸いを、イエスは十字架に架かる前夜に、弟子たちに対して語られたのです。
だから、私たちは五里霧中のなかで「私たちの神はどこにいるのか」と、さまよい歩く必要はどこにもありません。そういう思いになってしまうこともあるでしょう。疲れている時などは、特にそのような思いにさせられることがあります。私はそこまでではありませんでしたが、身体が疲れていると、健全な思考にいたらないことも多々あります。ここ数日は特にそうでした。しかし、そんな時にも体と心を休ませ、落ち着いて神を見つめる時が与えられるというのは、次を生きるための幸いになることを強く思わされます。
そんなことを胸にして、今日という一日を生き、明日から始まる新しい一週間の良き始まりにつながれたいと心から願い、祈ります。皆さんの一日も、七日間の旅路の最終日として、神の守りによって、大いに祝福されますように。心からお祈りします。