30/08/2026

2026.8.30(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
列王記上19章7節
主の使いがエリヤに触れ、「起きて食べなさい。この道のりは耐え難いほど長いのだから」と言った。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録27章34節
(嵐のなかでのパウロの言葉)
「どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。その初日であるこの日曜、世界中でおこなわれる主の日の礼拝が、神の良いもので満たされますように。それを私たちが存分にいただいて、この七日間の旅路を生き延びることができますように。そんな願いを抱きつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、暴虐な人物であったアハブ王によって追われていた預言者エリヤが、その逃亡劇のなかで起きたエピソードの一節です。この時に、エリヤはすでに疲れ果てていました。命狙われるなかで逃げ続けることに疲れてしまったのです。そんなエリヤの疲労を、神は決して見逃すことはありませんでした。神は、エリヤのためにパン菓子と水を備え、十分な休息を与えました。エリヤはそれを食べて休み、今日の言葉にあるように、神のみ使いの励ましに満ちた言葉を胸に、その後も旅を続け、無事にホレブ(シナイ山)にたどり着くことができたという話です。
 
私たちの疲れに神や癒しの言葉を適切に与えてくださる。このことは、私たち一人ひとりの疲れに、ご自分の言葉を聖書の言葉を通して与え、私たちの疲れをともに担い、ともに歩み、癒しの道を与えてくださることに相通じるのではないかと私は受け止めました。神の助けというものは、私たちが100%苦しみから逃れることを絶対的に意味するものではありません。苦しみを抱えながらも、神がそんな私たちを支えてくださるということなのです。
 
私たちは順風満帆なときは、神とともに歩む楽しさであるとか喜びを十分に味わえることでしょう。しかし、少しでも私にとって不都合なこと、苦しみをともなうことが生じれば、神とにともに歩むこともまた、苦しくなることもあるのです。神とともに歩むよりも、もっと別な方法が道があるのではないかと迷ったりするのです。ちょっとしたことにつまずきやすくなって、様々な物事に敏感になって、怒りや苦しみをぶつけやすくなります。エリヤがそうであったことは、今日の聖句にまつわるエピソードが物語っていることです。
 
しかし、そうではないのです。苦しみのなかにだからこそ、神が私たちに適切な助けを差し出してくださるのです。生き延びるのに無くてはならない「糧(かて)」というものを、時宜に応じて与えてくださる神がおられることを、私たちは忘れないようにしたいのです。
 
難破ゆえに、ローマに向かう船旅でさんざん翻弄された使徒パウロもそうでした。乗船していた人々は、先行き見えない恐怖を感じました。何日も食べられない状況が彼らを襲いました。あの時こうしていればこんなことにならなかったと後悔の念に襲われ、他責思考が彼らの恐れを助長してしまったのです。
 
そんなときにも、パウロは語ります。それが、今日の新約聖書の言葉です。私たちの神は必ず私たちを守ってくださるのだから、今は食べて元気をつけようではないか。そんなパウロの言葉に人々は同調し、食べて元気をつけました。最終的に船は壊れてしまいますが、彼らは生き延びました。こうしてマルタ島に上陸し、越冬の後ローマに向けて歩むことができたのでした。
 
このふたつのエピソードを胸にして、新しい一週間の旅を私たちは主とともに歩むことができますように。皆さんの日々に、神の助けが豊かにあることを心よりお祈りします。

29/08/2026

2026.8.29(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編40編18節
私は苦しむ者、貧しい者。
わが主が顧みてくださるように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章12~13節
(パウロの言葉)
私は貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、こんにちは。
今朝はゆっくりと過ごして、もう昼前ですが、ここから一日の活動を始めました。朝に黙想をお届けできず、いつも朝に読んでくださる方々には、申し訳ないばかりです。一週間も最終日を迎えました。この七日間の旅路を振り返りながら、今日与えられたみ言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示された旧約聖書の言葉は、詩編40編の最終節でした。詩編40編はダビデ王によって歌われた詩編ですが、その内容を読んでみますと、ダビデのような神の祝福にあふれながら生きていた人物ですら、多くの苦しみにまみれながら、そこに悩み、逡巡しながらも神とともに生きる幸いを見い出したというダビデの心情というものを読み取ることができるわけです。
 
ダビデは王として、多くの幸福を味わっていたことは間違いないでしょう。しかし、そんなダビデが災いや苦しみから一切縁が無かったと言えば、そんなことは全くありませんでした。人のあざけりや中傷がダビデを容赦なく襲うことも少なくありませんでした。ダビデ自身の問題もあったことでしょう。そのようななかで、神が与えた幸福と裏腹の災いというものの両方を抱えながら、神が自分自身とともに歩まれるとは、一体どういうことなのだろうかと、ダビデは真剣に祈りつつ、考えていたからこそ、詩編40編のような詩が生まれたのだと私は思うのです。
 
私の苦しさ、そして貧しさを、すべて神である主はご存知であり、こんな私を顧みてくださるのだ。これがダビデの信仰でした。その態度には好戦的・攻撃的なものではなく、あくまで神のみ前にあって、身と心が低くされた姿というものを、私は感じずにはいられないのです。私自身も、日々を生きるなかで、苦しさや自分自身の貧しさというものを痛感し、実感しながら営む者ですが、そういうときに、痛み苦しみに苛まれながらそのことで頭がいっぱいになってしまうがゆえに、神を忘れてしまうことも往々にしてあるのです。実に弱い存在なのです。
 
しかし、ダビデの「神が顧みてくださる」という告白の言葉に、私もそのような告白を神に向けて発したいという憧れを抱きます。神様が分かっていてくださるのだ。そのうえで、私に必要なことを教え、諭し、戒め、矯正しながら、主の道を歩ませてくださることにこそ、苦しみのなかの幸いというものを味わえるということに、希望を抱いて生きたいとあらためて願わされました。
 
後に使徒パウロは、投獄の身にあってフィリピに宛てて書いた手紙で、「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」とつづりました。私は、その「秘訣」とは何かということに注目したいと思いました。しかし、それは決して突飛なことでも何でもなく、やはり「主がともにおられる」という一点に尽きるのではないかと強く思わされたのです。それ以外にはない。自分の殻に閉じこもるのではなく、すべてご存知である方に自分自身を整えてもらうことにこそ、あらゆる境遇にあっても、心おだやかに生きることができるのだと。そのことに心を込めつつ、今日という一日を生きて、明日への備えを迎えていきたいと思わされました。
 
どうか、皆さんにとっての一日もまた、明日への備えが希望にあふれたものでありますように。そのことを心からお祈りします。

28/08/2026

2026.8.28(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編119編154節
主よ、私に代わって争い、私を贖い
あなたの仰せのとおりに私を生かしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書9章22節
(イエスの言葉)
「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」その時、女は治った。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日で熊本地震から1か月を迎えました。今もなお、生活の復旧がままならず、避難所生活や車中生活を続けている方々がおられることを思うと、とても心が痛みます。少しでもそれらの方々の生活が、そして命が守られることを祈りつつ、できることをもって支えになりたいと心から願うばかりです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のなかで、特に新約聖書で語られている「12年間出血の病で苦しんでいた女性が、イエスによってその病が癒やされた」出来事をあらためて振り返ることができました。今日の新約聖書の言葉は、イエスによって女性になされた宣言の言葉です。
 
長い間苦しみを抱くというのは、筆舌に尽くしがたいものがあると思います。苦しんでいる本人に対して、軽々しい言葉で慰めたり励ましたりすることが、本当にその方にとって助けになるのだろうかと、牧師というつとめをいただいている者として思わされることが間々あります。
 
そんな時に、イエスの言葉を聞くと、私はやはり慰めを得ることができるのだなあと、あらためて感じさせられました。私も左眼の視力を大幅に失い、両眼が見えていたときよりは不便を感じることがあります。気持ちを新たに、見える右眼があるのだからと自分自身を励ましながら毎日を生活していますが、それでも、とても空しくなる一瞬を経験をすることがあります。弱くされた自分というものに、耐えられなくなることもあるのです。
 
そんな時に、「娘よ、元気を出しなさい」というイエスの言葉に慰められたのです。そこには、私が一緒にいるよ、安心して私と一緒に歩きましょうというイエスのみ声が響いてくるようです。そのイエスの言葉が私の霊肉を満たす時に、私自身、信仰の実体であるイエスがこんな私を生かしてくださるのだという気持ちにあふれてくるのです。実際に左眼が劇的に回復し、治癒するわけではありません。それでも嬉しくなるのです。イエスと一緒に生きていけるのだと。
 
今日の聖句は、そんなふうに私に響いてきました。そのことを踏まえて旧約聖書の言葉に耳を傾けると、私のために戦ってくださる神がおられることを知りました。あなたの思われるがままに私を生かしてくださいという祈りの言葉を、私もつむげるよう、今日の一日を生きてまいりたいと思います。
 
皆さんの一日に、そのような神の助けが豊かにありますように。心からお祈りします。

27/08/2026

2026.8.27(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書31章14節
私の民を良いもので飽かせるー主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章19節
私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日から、富山県と石川県にわたって、豪雨が各地を襲っているニュースを聞きました。私の知人が伝道牧会する教会も被害を受けていることも知りました。自然災害を前にして、不安を覚え、不便を感じているすべての方々が、少しでも守られますようにと祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
さて、そんななかで今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に触れますと、「神は本当に良いものを私たちに与えてくださるのだろうか?」と思いたくなってしまう自分自身があることに気付かされます。神は「良いもので飽かせ」「必要を満たしてくださる」方であると、今日の聖書の言葉にも記されている通りなのですが、私たちは、それに逆行するような出来事に遭遇する時に、そのような神の言葉すら、受けとめ難い自分自身があることを思わされるというのも、また事実なのではないかと思うのです。
 
私たちが、欠けあるこの世の中で生きている以上、すべてが「自分の思いどおりにうまくいく」などということは絶対にないということを痛感しながら、日々を過ごしているのだと思います。そして、私たちの要求をすべて飲み、それを叶えてくださる神がおられるというわけでもないということを実感するのだと思います。
 
だからといって、「そんな神は効き目がない」わけでは決してないのだということを、私は今日の聖句からしっかりと受け止めたいと思いました。それは、私たちの神は、私たちの願望とはかかわらず、私たちの必要をすべてご存知である方である前提のもとで、では、私たちが日々を生きるにあたって「必要なもの」が何かということを、適切なタイミングと出来事をもって、私たちに豊かに与えてくださるのだということを、私たちは心から受け入れる者でありたい。そんなことを願わされました。
 
もし、何もかも自分の思いどおりに進むことを手助けする神ならば、我田引水的な発想をつねに抱いている私たちですから、世の中はめちゃくちゃになってしまうことでしょう。そうではなく、神にとって私たちが幸福に生きる道というものを、私たちが気づくことができるように導いてくださるという点で、私たちに良いもので飽かせ、その必要を満たしてくださるということなのです。
 
そういう意味で言えば、私たちは「神のやり方」というものに対して、信頼を心から寄せつつ、神がなされることを楽しみにしながら、今日という一日を過ごしてまいりたいと思いました。たとえつらいことが私を襲おうとも、必ず神は良いご計画をお持ちなのだということを心から信じつつです。
 
皆さんにとっても、今日の一日がそのような神の良いもので満たされるものとなりますように。心からお祈りします。

26/08/2026

2026.8.26(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編91編14節
(神の言葉)
彼は私を慕う。
私は彼を助け出そう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章15節
(イエスの言葉)
私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は酷暑の残暑と言える一日でした。皆さんの健康は守られましたでしょうか。今日一日も、主にあって健やかな時でありますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する話題は「悪から守られる」ことについてだと私は受け止めました。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編91編は、「いと高き方を隠れ場とする者は/全能者の陰に宿る。」という言葉から始まっています。ここでいう「悪」とは何でしょうか。悪は何も自分自身の外にあるものだけではなく、自分自身の心のうちにも存在するものです。善と比較するものとして悪を語るならば、善の源である神との関係性とは対極にあるものとして悪というものが語られていることが分かります。ですから、神と私たちの関係性には、少なくとも悪というものは存在していないと考えることができるでしょう。
 
悪は私たちと神との関係性を弱らせ、離れさせようとする時において働くものであると考えることができます。ゼロか100かの問題ではなく、私たちは神を慕いつつも、忍び寄る悪の影響も多分に受けるということをよく知っていると思います。ですから、私たちの日々の生活において、どうしても悪というものを意識しながら、その毎日を営まなければならないのです。そのようななかで、今日の詩編の言葉は、「神に対するあこがれの思い、慕う気持ち」を抱くことが、何よりも大切なのだということを、歌い手は心の底から歌ったのでしょう。神が私たちの隠れ場となって守ってくださるということへの信頼から起きた言葉でした。
 
神の御国が訪れるその時まで、悪というものがゼロになることは絶対にありません。だから、私たちもこの世界で生きている以上、私たちの内外(うちと)に悪が存在し、忍び寄り、はびこる可能性が十二分にあるなかで、その悪から守られることが、神とともに歩むために無くてはならないのです。その点において、イエスは語られました。それが、今日の新約聖書の言葉に示されています。イエスはそのために神に祈りました。私たちを悪い者から守ってくださいと。そのために、イエスは弟子たちに、「弁護者」である聖霊の働きについて説明されました。そして、その説明ののちにそれが実質的なものとなるように、神に祈りをささげたのでした。
 
私たちは、そのようなイエスの祈りによって、そして聖霊の実質的な働きによって守られているということを胸にして、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。私たちに求められることがあるとすれば、それは、そのように守ってくださる神のなさることに対する信頼の一点です。迷い疑うこともあるでしょう。しかし、私たちはそのたびに、主のもとに立ち帰ることができるのです。
 
皆さんの一日が主の恵みにあふれたものでありますように。お祈りします。

25/08/2026

2026.8.25(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編57編3節
私はいと高き神に
私のために成し遂げてくださる神に呼びかけます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章24節
(イエスの言葉)
今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい朝を迎えました。昨日の涼しさとは一変して、仙台は最高気温が36度まで上がる予報とのこと。全国的に酷暑のようですので、どうぞ健康が守られますように。心からお祈りします。特に、被災の地にある熊本や千葉にある方々の健康が守られることを祈りつつ、一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「神に願う」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちが神仏に願い事をするというのは、洋の東西、古今を問わず人々が大切にしてきたことでした。どんなに科学が発達し、神の存在が非科学的と言われようとも、人間は見えない何かに対して願い求めることを、決して絶やしたりはしませんでした。そして、私たちキリスト教の環境にいる者もまた、神に祈る際に、願うことを忘れたりはしません。神に願うのです。
 
しかし、神に願ったからといって、私たちの要求がすべて通用するわけではありません。私たちはそのことを大なり小なり経験しているかもしれません。では、そのときに、私たちはどのような思いを抱くのでしょうか。神の「効き目のなさ」に憂い、時には怒りを発したくなることはないでしょうか。神は本当に、私の切なる願いに耳を傾けているのだろうかと疑いを抱かないでしょうか。
 
それが決して「悪い」わけではありません。誤解を恐れず申し上げれば、私たちは「疑いながらも、神を信じる」という営みを繰り返しながら、神の発するみ声というものに耳と心を傾けるということがしばしばあるからです。そして、神が私たちに応答してくださるとき、それは私たちが想像していたこととは違う、しかし、それは私たちにとって結果的に「ベスト」と思えることが神によって応答されるということもまた、私たちの経験にあるのかもしれません。
 
神はご自分にとって、私たちが最高の結果となるために働いてくださる方です。私たちが思い願うベストのかたちと、私たちを創造された神が、私たちの幸いのために働いてくださることとのあいだには「ズレ」というものが生じるかもしれません。しかし、神は今日の詩編のことばにもあるように、「私のために成し遂げてくださる」方なのです。私にとって何がベストか、すべてを御存じある神が、私たちを導いてくださるというのです。
 
だからといって、神がそうしてくださるのであれば、私たちは何も願わなくて良いわけでもありません。たとえ神の思い願いと私たちの願望がずれていたとしても、だからこそ、私たちは神に願い求めることは大切なのだと私は思います。願い求めるうちに、神はご自身のみ言葉である聖書と聖霊の助けによって、私たちをときに軌道修正してくださる力をお持ちだからです。そういう営みのなかで、私たちは、「何が健全な願いなのだろうか」ということを知っていくのではないだろうか。私たちに大切なのは、その紆余曲折とも思える営みのなかで、神の導きを大切にできることなのだろうと思うのです。
 
そのような思いをもって、今日の一日を歩むことができますように。私たちの必要をすべてご存知である神が、今日も私たちをご自分の道に導いてくださいますように。お祈りします。

24/08/2026

2026.8.24(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書48章6節
(神の言葉)
これから私が新しいことを聞かせよう
あなたの知らない秘められたことを。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録17章32節
(アテネの人々は)死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑(あざわら)い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
主の日、皆さんはどのような一日をお過ごしになられたでしょうか。私自身、主の日の礼拝を通して、神から良いものをいただいて、新しい一週間のスタートを切ることができて感謝でした。この感謝の思いを忘れずに、日々を過ごしてマりたいと思います。まだまだ残暑が続く時ですから、皆さんの健康と信仰がゆたかに守られますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは、「神は不思議なことをされる方」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
先日、礼拝に出席しておられる求道者の方から「くすしき」とはどういう意味なのだろうかというご質問を受けました。私たちはこの言葉を、何の疑問も無しに、神を修飾する言葉として用いているのではないだろうか。その方の質問を通して感じたのです。
 
くすしき(奇しき)という言葉は、「奇」という言葉が指し示しているように、私たちの想像をはるかに超える「不思議さ」という意味がともなっていると私は理解しています。「奇術」であるとか「奇跡」という言葉にもあるように、私たちの常識では考えられないものの表現としてこの言葉が使われることを考えれば、奇しき神のみ恵みなどという言葉を用いるときには、神が私たちの想像や常識を超越したところで、良いものを私たちにお与えになられる方であることを想起させる、そんな思いをもって、この言葉を使うことの大切さを思わされるのです。
 
そういう意味で言えば、今日の旧約聖書の言葉が指し示しているように、「あなたの知らない秘められたこと」というのは、神のダイナミックスさを顕著に物語るものとして、私たちは是非とらえていきたい。そんな思いが心にあふれてくるようです。神のダイナミックスさを、私たちの常識や固定観念の枠のなかにとどめてはならないのだと、私は自戒を込めて思わされるのです。
 
その最たるものは、死者のなかから復活されたイエスの出来事に他なりません。死者が生き返るということを真実なものとして受け入れる私たちにとって、これは神業以外に考えられないからです。なにも生理学的に止まった鼓動が復活するということをも超越した、私たちに「新たな命・新たな生活・新たな希望」を与えてくださる神が、今日も私たちとともにおられるということを、私たちはどれだけリアリティをもって受け入れているのかという思いが、今日の聖句を通して問わされているような気がしてなりません。
 
のちに、使徒パウロがアテネでキリストの復活を宣べ伝えたとき、まさに「けんもほろろ」な経験をパウロはしました。まったく相手にされない。当然です。私たちの限りある知識や常識、固定観念のなかで、神を完全に規定することなどできないからです。だからこそ、私たちは、自分の限界のなかで、聖書の言葉と聖霊の導きによって、物事を規定しなければならないけれど、しかし、同時に、それを超越する神のなさることに、柔軟な思いをもって向き合う必要性というものを感じさせられるのです。
 
私たちに求められるのは「キリストという一本芯の通ったところにあって、いかに私たちの思いや心がしなやかであるか」ということだと思います。そんな一日を今日も営むことができますようにと祈ります。そこに神の「くすしき恵み」があることを心から信じつつ。
 
今日も皆さんのすべてに、神の守りと平安を、心からお祈りします。