19/04/2026

2026.4.17 (日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エゼキエル書34章16節
私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章25節
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
前回の黙想をお届けしたのが、4月10日でしたので、9日ぶりとなります。ここのところ、雑務に追われ、黙想をお届けできなかったことを、大変申し訳なく思っています。自分自身の生活を整えることに、ついついかまけてしまった自分自身を省みつつ、しかし、いつでもやり直しができることを、心から感謝するばかりです。
 
そんなわけで、心を新たにして、今日のローズンゲンによって示されたふたつの聖句から、黙想を得たいと思います。「立ち帰らせてくださる神が、私たちにその心を与えてくださる」というのが、今日の聖句から私が得たいと思ったことでした。
 
神のもとを人間が離れては、離れていないと自分自身で思っていても、いつしか離れていた自分自身に気付かされたとき、私たちは何とも気持ちの悪い、心の落ち込みを感じることがあると思います。私自身も、日々祈り、御言葉に触れることで、神から離れていない自分自身を確認している「つもり」でいても、日々の習慣をなすことができていないと、そんな自分自身を責めてしまう。そんなことは日常茶飯事にあるものだと感じさせられます。
 
しかし、そういう私たちの現実を、神はいつでも立ち帰ることができるように、私たちにことあるごとに大切なことを示し、与え、導いてくださる。今日の旧約聖書の言葉は、まさにそのような神の助けがあることを実感させられます。私たちを捜し求め、ご自分のところへ連れ戻し、そのみ手で包み、私たちの心を力づける神。そんな神がおられるからこそ、渡井たちはいつでもやり直すことができるのだと。
 
決して、帰るところがなく、さまよい続けるようなことを、神はお望みにはなられていないのです。私たちを養う牧者、そしてさまよったとしても、ご自分の囲いのなかで私たちをこれ以上苦しめることのない神が、私たちを平安のうちに監督してくださるというのです。それが、やり直し、つまり復活の主である、イエス・キリストによるものであると、後に私たちに、手紙を通して気づかせてくださった。これこそ、今日の新約聖書の言わんとしていることであり、この手紙の言葉は、今もなお何ら変わることなく有効に、私たちを導いておられるのです。
 
この言葉を大切に温めて、私たちの心の糧とし、新しい一週間の日々を歩むことができますように。私の心を支えてくださる神に感謝しつつ、皆さんの一週間の歩みにも、神である主がともなってくださいますように。心からお祈りします。

10/04/2026

2026.4.10(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記28章15節
私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章35節
イエスは弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを財布も袋も履き物も持たせずに遣わしたとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
何ひとつ持っていなかったとしても、持たされていなかったとしても、それでも、あなたは困窮することがない。なぜならば、神がしっかりとあなたの行く道を守られるから。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことです。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、神がイスラエルの祖となったヤコブに告げた言葉でした。彼は、双子の兄の不興を買い、受け取るはずだった財産も地位もすべてを後にして、その場を去らなければなりませんでした。それは、彼の自業自得であると言われても仕方のないようなものでした。神からの約束を果たすために、人を騙してもそれを得ようとしたのですから。
 
だからこそ、ヤコブが家を出なければならなくなったときに、すべてを失ったと思ったことでしょう。彼は何ひとつ持つことができなかった。しかし、たっとひとつだけ彼には持たされているものがあった。何物にも代えがたい大切なものを、彼は持たされていました。
 
それが、今日の旧約聖書の言葉に示された、神のヤコブに対する「確かな約束」でした。私はあなたと共にいる。どんなことがあっても神はヤコブを守り、必ずご自分が与えた約束を果たされる。人間がどんなにもがいても、そのための策を打ったとしても、神が言われた約束は、必ず果たされるということを、ヤコブはこの後の人生で実感することになります。
 
それは、イエスの時代とて一緒でした。弟子たちに対して、何ひとつ持たないで宣教の場に遣わされても、彼らは決して困窮することがありませんでした。宣教という場において、イエスとともにあるならば、イエスのみ心を胸に抱いた弟子たちは、イエスの約束を自分自身の生き方とすることができました。だから、困窮することがありませんでした。
 
神は、確かな約束を私たちに提示されました。大切なのは、その約束を私たちがどれだけ誠実に受け止めることができるか、ということの一点に尽きるのでしょう。私は、そのことをあらためて考えさせられました。神の約束を自分自身の希望とするためにです。
 
どうか、その一日もそのことを希望とするための時とすることができますように。皆さんにも果たされる神の約束が、ともに豊かに働きますように。心からお祈りします。

09/04/2026

2026.4.9(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ゼカリヤ書7章10節
寡婦、孤児、寄留者
貧しい者を虐げてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章34~35節
そうして、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは私がよそ者であったときに宿を貸してくれたからだ。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
三日ぶりの黙想となってしまいましたことを、どうぞお許しください。なかなか黙想をつづる時間を取ることが叶いませんでした。年度替わりのお忙しいときを、皆さんもお過ごしになられているかもしれません。どうぞそのような時にあって、心とお身体を神が守ってくださいますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「寄留者に対する支え」についてでした。そのことについて、今日得た黙想をつづりたいと思います。
 
寄留者、もしくは「よそ者」と表現されている言葉ですが、自分たちの囲いにはいない、いわゆるアウトサイダーのことを指すものです。それは、物理的なものを指して使われていたことも確かですが、精神的な意味でも、自分がのけ者にされ、ないがしろにされているように感じるような場合でも、私たちは「よそ者」という言葉を用いることができるのかもしれません。そのように自分自身が感じたときに、疎外感というか、心寂しさのようなものを、私たちは感じることがあるのではないかと思うのです。
 
神が、そしてイエスを通して語られた言葉には、まさに、そのような人々こそ、神のみ心にあって大切にされるべきであることを、今日の聖句は私たちに思い起こさせます。そして、同時に、私たちの心のなかで、よそ者と言えるような対象に対して、よそ者をよそ者扱いしてはいないだろうかという、私たちの態度というものが問われているような気がしてならないのです。
 
私自身、誤解を恐れず申し上げるならば、さまざまな理由で疎外感というものを覚えることがあります。自分のことをわかってくれないと寂しさを覚えたり、悲しみや怒りのような感情に発展することさえあります。だからこそ、その寂しさをわかってくれる人の存在を求め、そのような人が現れたときに、心の慰めや安らぎというものを得ることができるのです。そのようなことは、今までもいくたびもなくあったことを思い出せます。
 
そのことを踏まえて考えれば、私にとって究極的に、すべてを御存知である神がおられるということを知っただけで、それは大きな慰めとなっていることは確かですし、実際には神が与えてくださる御自身の価値観というものを共有できる方々の存在や言動が、どれだけ自分自身にとって助けになっているだろうかということも、私にとっては大きな力となっているのです。よそ者と感じるものの、実はよそ者などではないのだということを自覚できる一瞬が、ここにあることを想わされます。
 
だからこそ、神がその昔から、寡婦や孤児、そして寄留者の存在というものに私たちの関心を集中させて、他者に対してもそうであることと同時に、自分自身のうちに襲い来る孤独に対しても、神がともにいてくださることを心から感じとることによって、その神の思いを共有することこそが、そのような者たちへの私たち一人ひとりの態度につながっていくことを、神御自身が私たちに気付かせようとしてくださっているのでしょう。
 
そのように、今日の聖書の言葉を通して、私は受け止めたいと思いました。
 
今日もご復活の主とともに、そのような自分自身のうちにあるものを確かめながら、歩むことができますように。祈りつつ、一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんも素敵な一日でありますように。心からお祈りします。

06/04/2026

2026.4.6(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記32章15節
主は民を御自身の瞳のように守られる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章38~39節
私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、こんにちは。
昨日は、それぞれの場所で救い主イエスのご復活を喜び、祝うことができたのではないかと思います。死という、私たちが決して抗することのできない最大の敵に、私たちのイエスはご復活の命によって、敵に打ち勝たれた。そのことが、私たち一人ひとりにとっての希望となられたのです! すべての悲しみを御存知である主が、私たちのことをすべて知られたうえで、希望を与えてくださる。そんなことに、私たちの心が導かれるよう、ただただ祈りたいと思うのです。
 
そのような余韻のなかで、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、どのように私たちの心に鳴り響くのだろうか。そんなことを思いつつ、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、モーセによって語られた辞世の句のようなものと言えるでしょう。イスラエルの民を導かれた神が、40年間の荒れ野における流浪にあっても、しっかりとご自分の民を守られたという事実を、モーセは歴史を振り返りながら、次世代を担うひとりひとりに語りました。それは「ご自分の民を瞳のように守ってくださる神」が、ともにおられるのだということです。
 
瞳がなければものを見ることはできません。それだけ、私たちが生きていくのに無くてはならない存在が瞳であると、モーセは考えたのでしょう。神にとって、ご自分の民、人間の存在は、それくらい大切なもの、無くてはならないと言わせてしまうくらいの存在であったことを想わされます。大切なものを守るのは当然のことです。神である主の守りが、私たち一人ひとりに向けられるのだ。これが、荒れ野における40年の旅路を歩み切ったモーセの正直な感想であり、確信だったのです。
 
それは今や、私たちの救い主であるキリスト・イエスによって実現されました!だから、そのことを、使徒パウロは「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできない」と、手紙にしたためることができました。引き離すことができない。それだけ、私たちの救い主であるイエスは、私たちとともにおられることに真剣であられるということなのだと、私は受け止めたいのです。
 
今日は朝に黙想を掲載することができませんでしたので、午後も半ばですが、黙想を掲載しました。どうぞ今日の残りの時間、皆さまの一切に、神様の守りが豊かにありますように。心からお祈りします。

05/04/2026

2026.4.5(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編23編5節
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一15章26節
最後の敵として滅ぼされるのは死です。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。そして、命の救い主、イエス・キリストのご復活を祝う、イースター(復活祭)の朝がやってまいりました。心から、ご復活を祝う一日を楽しみたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「敵」でした。私たちにとっての敵とは誰のことでしょうか? そして何のことでしょうか? それは擬人化された最大の敵であり、今日の聖書の言葉は、それを「死」という言葉に集約しています。
 
死は、私たちの命を脅かすものです。しかし、人間誰でも死ぬときを迎えるのだからと、私たちは「あきらめ」をもって、死を受け止め、また死に向かい合わなければならないのです。しかし、それは決して当たり前のものではない。そのことを、私たちは主の復活という出来事を通して、いま一度感じ取りたいのです。
 
死とはなにも、物理的な心停止のことだけを意味しているわけではありません。精神的な死、人間関係における死んだような出来事、経済的・社会的な死、私たちは死という言葉を、擬人化させながら、まさにさまざまな場面で用いることができるのだと思います。
 
主イエスによる復活の出来事は、ありとあらゆる私たちにおける「死の体験(たとえ生きていてもです!)」からの解放であり、それが私たちにとっての最大の敵であるならば、神が、その死の束縛から解き放ってくださることを、私たち一人ひとりに対して、その意味というものを提供するのです。
 
だからこそ、私たちは主イエスのご復活という出来事を、私たちにとっての「リアル」として受け入れることが可能となるのです。心から喜びつつ、この一日を祝うことが大いに許されているのです!
 
そのことを胸にして、今日の一日、また今日から始まる新しい日々を歩むものでありたいと願います。どうぞ、皆さんのすべてに、死に打ち勝った主イエスの恵みが、ともにありますように。心からお祈りします。

04/04/2026

2026.4.4(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編84編2節
万軍の主よ
あなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章2節
わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
受難週最終日を迎えました。イエスにおける長い受難の一日がおわりました。すべてが失われた今、空虚がすべてを取り囲んでいます。しかし、その空虚さは、イエスが救い主キリストとなられるための前幕であることを、私たちがじっくりと噛みしめる機会でもある。そんな思いをもって、今日の一日を過ごし、復活祭への備えとしていきたいのです。
 
そのようななかで、本日のローズンゲンに示されたふたつの言葉は、空虚のなかにあったとしても、明らかに、そして確実に「神の住まう家は存在する」ことを、私たち一人ひとりにあらためて思い起こさせるものであると、私は受け止めました。何もなくなったのではない。新しい時代の幕開けが、今こうして備えられているということを、私たちが希望のうちに思い描けることを、今日の聖句は、私たちに思い起こさせるものなのです。
 
私たちはどうしても、見えるものに確信を抱き、そこに希望を寄せようとします。当たり前のことです。だから、見えない、もしくは見えなくなってしまうということに、大きな恐れを抱きます。見えるものが失われることへの恐怖が、私たちのなかから希望を失わせます。そして、見える安心を求めて、私たちはさまよい歩いてしまうのです。
 
しかし、それは私たちの問題であって、神の問題ではありません。神はちゃんと私たちの目の前に、揺らぐことのない安心を備えてくださっているのです。それもベストタイミングをもってです! 私たちが不安ゆえに、待つことを難しくさせているのであれば、神は必ず私たちに見せてくださるのだ。このことを胸にして、生きる希望とすることこそ、神の民が長い歴史のなかで経験してきたことだったのです。
 
その経験を、私たちも味わうことができるのだ。だからこそ、復活祭を目前に控えて、今日を生きる私たちの生き方が問われています。単なる前日の一日でありません。私たちの心に渦巻くさまざまなを思いを、希望の一線に傾けていただくために、とても大切な一日となるのです。そんなことを心に想いつつ、今日の一日を過ごしていくことができますよう、皆さんのために、そして私自身のためにも祈りたいと思います。どうぞ素敵な一日をお過ごしください。

03/04/2026

2026.4.3(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編117編1節
主を賛美せよ、すべての国よ。主をほめたたえよ、すべての民よ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録5章12節
(玉座の周りにいる)天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、力、霊、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を、受けるにふさわしい方です。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
受難週6日目の朝を迎えました。そして、今日は聖金曜日(受難日)です。昨晩から、このひと晩に起きた出来事を、聖書の言葉に聴きながら、イエスが味わった痛みと苦しみを、味わう機会をいただくことができました。弟子たちとの新しい契約、そして弟子たちの裏切り、そしてひと晩じゅう、宗教指導者たちによるののしりとあざけり、そして、夜が明けた今頃は、ローマの法廷に立たされて、人々の前に傷ついたイエスがさらけ出されました。そこでも、人々の叫びがイエスを突き刺します。そして、午前9時には十字架に磔(はりつけ)にされることになります。そこで6時間ものあいだ、イエスは苦痛に耐えながら、孤独のなかを過ごされることになります。人々が本来味わわなければならない苦しみを、一手に背負ってそれをご自分のものとされたイエスを、私たちはこの時に聖書の言葉を通して、あらためて感じとることができるのです。
 
そのなかで、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉は、そのような苦しみこそ、あがめられ、賛美されるそのふさわしさでであることを想起させるようなものであったことを想わされます。人の死に対して賛美をささげることができるなど、なんと馬鹿げた話だろうと、私たちの社会常識では思うのかもしれません。と同時に、本来苦しむ必要のない立場にある人物が、人々の幸せのために、あえて苦しみの道を選び取り、そこに立ち向かっていく姿というものは、やはり、感動を覚えずにはいられないということも、また事実であることを想わされます。それが、この私の幸せのためになされていることであるならば、なお一層、そのように感じさせられる。これこそ、イエスの十字架の先にある栄光に対する感謝と賛美なのだと。
 
友のために命を捨てること、これほど大きな愛(アガペーという自己犠牲愛)はないと、イエスは弟子たちに語られました(ヨハネ15章)。他者の幸せのために働く愛のかたちを、私たちはそう簡単に実践することはできません。その前に怖気づいてしまうのです。逃げたくなるのです。しかし、神はイエスを通して、そこから逃げることなく、ご自分のコミットメントを誠実に果たされました。私たちを友と呼んでくださるイエスを心に刻みつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、そのような神の誠実と真実が、ともに豊かにありますように。心からお祈りします。