27/09/2026

2026.9.27(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
サムエル記上12章22節
主はその偉大な御名のゆえに、ご自分の民を決しておろそかにはなさらない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章25節
(イエスの祈り)
私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。新しいい一週間が始まりました。その先駆けとなる今日の礼拝が、大きな神の喜びをいただける場となりますように。そのことを心から祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に聴きたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなげる言葉は「神の御名」というものでした。このローズンゲンでも、幾たびも神の御名について私たちに思い起こさせる聖句が登場しています。旧約聖書だけでも約8,000回登場する神のお名前は、ヘブライ語4文字で表記される「ヤハウェ」と発音されていたであろう言葉です。この神のお名前には、「私はいる」という意味があることを、神御自身が遠い昔にイスラエルの指導者モーセとその民たちに告げられました。
 
私はいる。その言葉は、すべての存在を表す言葉として私たちに知らせるものです。存在とは「ある・いる・なる」という、英語でいうbe動詞が表す意味に相通じます。つまり、①私は神である。②私はあなたがたとともにいる。③私はあなたがたの神となる。という3つの意味であり、神があくまで私たちの神でいてくださるという確固たる約束が、私たちひとりひとりに与えられているというのです。
 
私たちをおろそかにしまいと働いてくださる神、その神の愛は、私たちを生かす機動力となり、私たちは神からいただいた愛をもって、この世界で生きることができるのだ。そのことを救い主イエスは望み、神に祈りをささげ、私たちのためにも祈ってくださいました。
 
この祈りに支えられながら、私たちは新しい一週間の日々を歩むことが許されています。どうかこの七日間のなかで出会う様々な出来事のなかで、神に出会う機会に喜べますように。その喜びを携えて、その旅路を歩むことができますように。心からお祈りします。

26/09/2026

2026.9.26(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ゼカリヤ書9章10節
その支配は海から海へ、大河から地の果てにまで至る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書24章14節
この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は朝から雨模様の仙台です。毎年度秋学期に担当している大学の講義が始まり、今、新幹線のなかからこの黙想をつづっています。新幹線のなかで黙想もへったくりもないのですが(もっと静かな環境でするべきなのでしょう)、御言葉に触れることのできる喜びをかみしめつつ、今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、想いをつづっていきたいと思います。
 
今日の聖句が指し示しているテーマは「神の良い言葉を全世界で分かち合う」というふうに私は受け止めました。神の言葉をいただいたとき、その言葉に感動や慰めを覚えたら、その感じたことを誰かと分かち合いたいと思うのは、ごくごく自然なことと言えるでしょう。
 
昨日、ある大学生がお母さまと一緒に、私の職場でおこなわれているご飯イベントに参加されました。その大学生の方は、キリスト教主義学校に入学されて、キリスト教に触れる機会ができて、大学での素敵な出会いがあるなかで、キリスト教に対して好印象を抱いているご様子でした。そこに、お母さまも一緒にいらっしゃったというわけです。
 
そのお母さまと話をする機会をいただきました。そのなかで、お母さまご自身もこれまでキリスト教に触れる機会がなかったのだそうですが、ひとつひとつの出会う機会のなかで、キリスト教に対する良いものを感じ取っておられるとのことでした。そして、私にこんなことを仰っておられました。「もっと聖書のこととか、キリスト教のことを伝えたら、その話を聞く人っていると思いますよ。私がそうでしたから」。
 
私はとても嬉しい気持ちにさせられるのと同時に、なんか身の引き締まるような思いもしたのです。昔から、とかく「宗教」というと、あやしいとか怖いという印象がどこかにつきまとっているのを、私は当事者として感じながらも、しかし、キリスト教ならばキリスト教が大切にしてきた魅力というものを分かち合いたいと思い続けてきました。だからこそ、「もっと聴く人がいると思いますよ」という言葉に、とても暖かい励ましを受けることができたのでした。
 
全世界に福音(神の国の良いたより)が伝えられるときに、それは何も遠い最果ての地のことだけを指しているのではありません。私たちの身近に、手の届くところにも、神様が与えられる良いものを分かち合うことのできる幸いが、十分に散りばめられているということを、私は自分自身のよき燃料としたいと思ったのでした。翌朝、明けてこの聖句をいただいたときに、昨晩に起きたできごとに、感謝をもって受け止めることができたのでした。
 
今日で一週間も最終日を迎えます。この七日間の旅路が、神様の豊かな守りと祝福のうちにありますように。そのことを心から願いつつ、明日への備えをすることができますようにと祈ります。皆さんの一切にも、神の守りと祝福がありますように。心からお祈りします。

25/09/2026

2026.9.25(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編144編15節
幸いな者、主を神とする民は。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙10章12節
同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
暑い日が続きながらも、空が秋の空になってきた仙台の街です。こうして季節が移ろいゆくのを感じることができるのは、本当にありがたく、感謝なことだなとつくづく感じさせられる朝を迎えることができました。今日も、与えられた命を尊べるようなときでありますように。祈りつつ、ローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、神の御声を聞いてまいりたいと思います。
 
今日の旧新約聖書のことばに共通するテーマは「神を私たちの神とすることへの幸い」というふうに私は受け止めました。「神を神とする」とはどういうことなのでしょうか。神が単に置物のようなものではなく、困ったときの神頼みのようなものでもなく、私たちの生活につねに神が「ともにいてくださる」ことへの深い自覚と感謝を抱くことなのかもしれません。
 
もちろん、困ったときの神頼みが悪いわけでなければ、置物のようにつねに見える場所に神を鎮座しておくことそれ自体が悪いわけでもありません。しかし、願わくば、私たちの生活の中心に、神がしっかりと据えられていること、私たちの心に神が置かれているからこそ、ときどきではなく、いつも神が私たちの生活に関わってくださっていることに喜べる、幸いを感じ取ることができるのではないだろうか。そんな気持ちにさせられたいのです。
 
どんな時でも、私たちは神を知るだけのさまざまな「素材」が散りばめられています。その素材が必ずしも、良い状況だけを示すわけではありません。触りたくない、できれば避けて通りたいような素材も、私たちの生活のなかには多々あるのであって、それらが私の生活を否応なしに襲うときに、私たちは「何を中心にしたらよいのだろうか」と思い悩むこともあるでしょう。
 
だからこそ、好調な時も不調なときも、得意なときも失意にあるときも、私たちは神がすぐそばにおられるからこそ、神に頼り、委ね、教えを受けることがいつでもできるからこそ、どんなときでも泰然でいられるのだ。これが、今日の聖書の言葉で物語られている「幸い」なのだということを改めて受け取って、新しい一日を主とともに歩みたいと思わされたのでした。
 
そんな一日が、今日も私たちの生活を充実したものとしてくださいますように。神にある幸いが、皆さんと豊かにありますことを、心からお祈りします。

23/09/2026

2026.9.23(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編103編2節
私の魂よ、主をたたえよ。そのすべての計らいを忘れるな。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章20節
いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父なる神に感謝しなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日でシルバーウィークも最終日を迎えます。今回の連休は、台風の襲来ということもあり、多くの被害があった数日間となりました。大切なものを失ってしまった方々のために、神の慰めを引き続き祈りたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が今日受け止めたいと思ったのは、「神に感謝する」というシンプル、しかし、私たちにとってとても重要なひと言でした。もはや自明のことではありますが、そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私は考えてみました。感謝と対極にある「不平不満」ということについてです。私たちの生活において、私たちのうちから不平や不満をすべて取り除いた時を過ごすことなど、なかなか無いのではないかと思うのは私だけでしょうか。少なくとも私は、ことあるごとに不平や不満を抱えたり、思ったり感じたり、時にはその感情が表出することすらあります。
 
自分の思うとおりにはいかない感情というものは、神への感謝の思いというものを容赦なく削ぐ力というものがあると思います。感謝している暇などないのです。感謝できないのは、神が私自身に不平不満の思いを抱くことに、何の手立てをすることがないからだと、神にその責任をなすりつけてしまうこともあるかもしれません。他責思考をもって、「自分は何にも悪くないのだ」と私たちは思いたくなるのです。
 
そう。今日の詩編の言葉にもあるように、神である主のなされたことを「忘れるな」とうたっているように、私たちはいとも簡単に、神の存在があることそのものへの感謝を忘れてしまうのです。だからこそ、私たちは「忘れないような営み」というのが、本当に必要なのだと思います。そのことを思うときに、私たちは「主イエス・キリストの名によって」という、今日の新約聖書の言葉が指し示す思いこそ、大切なのだと思わされます。
 
イエス・キリストのお名前によってというのは、イエスが私たちのキリスト(命の救い主)となられるために、何を思い、何を感じ、私たちにどのように触れてくださり、言葉と行いを残されたかということを、私たちが聖書の言葉から丹念に聴きとることから始まります。聴き取った声を私たちの心身に巡らせるために、神に祈り、聖霊の助けを求めるのです。そのための時間と機会というものを、積極的に得ていくことで、私たちは「感謝」というものがどういうものか、少しでも考えるきっかけとなれば、こんなに良いことはないのだと思いました。
 
今日の連休最終日が、主にある多くの喜びに感謝できるような一日となりますように。心からお祈りします。

22/09/2026

2026.9.22(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
歴代誌上29章9節
こうして民は、自分たちが自ら進んで献げた物を喜んだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録4章37節
キプロス島生まれのヨセフは、持っていた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
台風一過の青空が広がる今日の仙台です。今回の台風では、犠牲者が出たこともニュースを通して知りました。自然災害の恐ろしさを改めて感じるとともに、このことで悲しみや不安を感じておられる皆さまに、神様の慰めと励ましがあることを、心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンを通して与えられたふたつのみ言葉ですが、「自らを喜んで献げる」ということがテーマとして語られている聖句です。このような聖句を取り扱うときには、極めて注意が必要であると、私はつねづね思わされています。そのことに触れて、今日は黙想をつづりたいと思います。
 
自らを、そして自らのものを喜んでささげることは、何ら悪いことではありませんし、むしろ良いことなのだと私は思っています。私もそうでありたいと心から願いつつ、自分自身の生活のなかで、そのように実践できることは実践していきたいと思っているわけですが、「何者かにそのように誘導されて、自分自身を超える分までささげるべく強制される」ことがあってはいけないと、強く思わされますし、実際に、聖書の言葉を悪用して、そのように人々を誤導しているケースが後を絶たないということも、私たちは知っておくべきなのです。
 
旧統一協会による違法献金の実態は、まさにこの構図のなかで語られているものであると言って良いでしょう。それだけではありません。いわゆる「カルト化した教会」と呼ばれるところで、そのような実態が実際に起きていることの相談も受けます。概して、このような団体や教会でおこなわれていることは、指導者的な立場の人から「そうしないことの代償」を提示されるのが常です。「〇〇しなさい。さもなくば・・・」と言ったように、「さもなくば」という言葉が出たら注意が必要です。私たちはあくまで、何者にも誘導されることなく「自発的な判断と決断」によって、そのようになされることが大切なのです。
 
ですから、私たちが「喜んで神に献げる」ということを考える場合、その喜びは、本当に自発的なものによるものなのかということを、じっくりと祈りのうちに考慮することが、何よりも大切なのです。この時に、その判断基準というものが「私の好き嫌い」や「私の気分」だけでそうするのであれば、それはそれで問題なのです。あくまで、神との深い対話を通して、導き出されたものであることが大切なのです。神と私たち個々人との関係は、何者にも邪魔されることはありませんが、その関係性をいかに維持できるかというところに、このような聖書の言葉を考える際のポイントというものがあるのです。
 
「神のみ言葉に聴き、そして祈る。聖霊の導きを大切にしながら、自分自身と神との関係性のなかで、大切なことを判断し、決断していく」ということを、私たちは大切にしたいと思います。そんなことを、今日の黙想としたいと思いました。
 
どうか神が、私たちの姿というものを豊かに導いてくださいますように。そして、今日も主にあって素敵な一日となりますように。心からお祈りします。

21/09/2026

2026.9.21(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
サムエル記上1章27節
主は私が願ったことをかなえてくださいました。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章58節
エリザベトの近所の人々や親類は、主が彼女を大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、主の日の礼拝を楽しまれたことと思います。いただいた御言葉を携えて、今週もその日々を歩んでまいりたいと思います。関東以北では、台風が訪れつつあります。少しでも災害から免れることができますようにと祈るばかりです。そして、シルバーウィークを過ごされる皆さんに、安全が豊かに与えられることもお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から、今日私が受け止めたいと思ったことは、「神は何でもかんでも、私の要求や願いをかなえてくれるわけではない」ということを、いかに肝に銘じることができるか、というところにありました。
 
今日の旧約聖書の言葉は、サムエルを身ごもった母ハンナによる感謝の言葉でした。子が与えられるようにと、ハンナは神に祈り続けました。当時の世界において、子が与えられるというのは、ひとつの祝福のしるしでした。しかし、主とともに忠実にその人生の日々を歩んでいたハンナにとって、子が与えられないというのは、大きな苦しみとなっていきました。そんななかで、神はハンナに子を身ごもるという祝福を与え、かくしてサムエルは誕生しました。
 
この言葉を読むのには注意が必要です。なぜならば、世の中には不妊で苦しむ多くの女性たちがおられるからです。「子が与えられない=神に祝福されない」と、すべてに適用するのは決して正しいことではありません。そのような聖書の読み方は乱暴であると言えるでしょう。これは、ハンナ自身の状況について語られたものですから、私たちにすべてを適用する必要はないと私は考えています。
 
しかし、神とともに歩むことを第一とするなかで、今自分自身が苦しんでいることを神に打ち明けたときに、苦しみを解放させてくださる神がおられるという点については、私たちがぜひ聴くことのできるメッセージなのだと思います。神とともに歩むことで得られる幸いというものは、私たちのタイミングではなく、神のベストなタイミングをもってなされるのだ、ということなのです。
 
逆に、私たちの要求が何でもかんでも神によって叶えられると思ったら大間違いだと、私は自戒を込めて受け入れたいと思います。あくまで、神がどう思われるかということを、私は第一にしたいのです。神とともに歩み、神の御心に聴こうとしないなかで、自分自身の要求を神にぶつけるとしたら、それは身勝手というものなのでしょう。
 
今日の新約聖書の言葉は、洗礼者ヨハネを身ごもり、出産した老女エリサベトについての言及でした。基本的にはハンナと同じことが言えるのだと思います。エリサベトも夫ザカリヤとともに、神とともに、その人生を忠実かつ誠実に歩んでいた人物でした。
 
周囲にどんな評価があろうとも、環境がそうさせなかったとしても、神の御前に誠実であることの大切さというものを、本当に大切にしながら、今日の一日も歩んでまいりたいと思います。一切に、神の御心が明らかにされますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

19/09/2026

2026.9.19(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書57章18節
(神の言葉)
 私はいつまでも争うことはなく
 永遠に怒ることもない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章1節
たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。シルバーウィークを前にして、しばらくの休みを楽しまれる方もおられるかもしれませんし、訪れようとしている台風への対策をされておられる方もおられると思います。そして、明日の主の日への備えのときを持っておられる方もおられるでしょう。そのすべてに、神の守りがありますことを心から祈りつつ、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉に聴きたいと思います。
 
神は怒るが赦される方でもある。
その怒りというものは、人を奈落の底に陥れることを目的としたものでは決してないことが、今日の旧約聖書に選ばれた言葉の言わんとしていることなのだと、私は受け止めました。「許せない感情」ということについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは誰でも、許せない感情というものを抱えながら、この世界で生きているのだと思います。聖書に「許しなさい」という言葉がところどころに登場するのは、私たちもよく知っている事でしょう。しかし、私たちはそのような勧めがあるのにもかかわらず、なかなか許せないのです。怒りを抱え込んだまま、人に対してその思いをぶつけようとするのです。
 
私は、なにもかも有耶無耶(うやむや)にして、ただ無条件に許せばよいとは全く思っていません。さまざまな被害をこうむった方々の悔しさや怒りというものは、ときには正当なものとしてみなされるべきだからです。神もときに怒るくらいですから、怒りということがすべて悪などということはありえないのです。
 
しかし、私たちはここで考えたいのです。今、私が抱えている怒りは、本当に正当なものなのだろうかと。隣人という他者との関係性のなかで、その関係性を回復すべく、正当で健全な怒りを表現するのであれば、その怒りは正当なものといえるでしょう。しかし、そうでない場合もあるのです。単なるうっぷん晴らし、自分の気の済むまで、人を完膚なきまでに叩きのめすことを目的とする怒りであれば、そのような怒りは空しさしか生まないのだと私は思います。
 
神は怒ります。しかし、その怒りを永遠のものとしないと語っておられます。あくまで、赦しへと向かうための怒りなのであって、その根底には神の深い愛というものが脈々と流れていることを、今日の旧約聖書の言葉は私たちに伝えているのです。
 
私たちもまた、自分自身がその神の想いに応えようとしているのだろうかということを、自問自答することはとても大切な営みであると言えるでしょう。許せない感情というものをいつまでも抱えながら、それを人にぶつけ、自分の納得いくまで、その人を叩き潰そうとするならば、どうして、私たちのために罪をかぶって、その命を投げ捨てられた救い主イエスがおられるのでしょうか? そんなことを一週間を振り返る問いとして、今日一日考えていきたいと思わされました。
 
皆さんにとって、この一日の営みが、神の赦しというものを深く考え、感謝できるような時でありますように。心からお祈りします。