15/09/2026

2026.9.15(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
出エジプト記14章14節
主があなたがたのたえに戦われる。あなたがたは静かにしていなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書13章13節
(イエスの言葉)
連れて行かれ、引き渡されたとき、何を言おうかと心配してはならない。その時には、あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、私たちの一日の生活を導かれる神が、その言葉を通して、私たちを祝福のうちに導いてくださいますように。そのことを祈りつつ、ローズンゲンに示された聖書の言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の聖書の言葉はまさに、私自身に語りかけているものであると、私は深く感謝しました。「主が戦われる。だから、あなたは静かにしていなさい」という言葉は、私自身に、神とともにあるということに誠実に向き合う思いというものを、新たにしてくださったと心から信じるものです。
 
詳しいことをここで述べることは控えますが、私自身、この数年間にわたって、あることで自分自身のあり方というものを、深く問わされる日々が続きました。時に悩み、苦しみ、そのことに自分自身が開き直ることを戒めつつ、ただ謙遜の思いをもって、神のなさることに期待して、自分に与えられた務めというものを、淡々かつ忠実に果たそうとしてまいりました。私を取り巻く環境の不条理さに、自分自身悔やみつつ、自分ではどうすることもできない出来事に、どのように向き合って良いのか随分苦悩を感じ続けてきました。
 
しかし、今思うことは、「神はご自分の公正さをもって、この世界に判断をくだされる」ということです。どんなに世の中が騒いでも、そのことで心傷つくことがあったとしても、神は私に気付きを与え、言葉にならないうめきというものをも必ず聞いてくださり、神の御心があらゆるところに明らかにされる日が必ず来ることを信じ続けてまいりました。
 
その結果がどのようなものになるのか、私にはまだわかりません。しかし、私に求められることは、変に自分自身を荒立てることなく、そのことで他者を振り回すことなく、神の御前にただ立って、神のなされることに心をしずめてただ待ちつつ、自分に与えられた分を誠実に生きることなのだと。それが、今日の旧約聖書の言葉の意味なのだと受け止めました。
 
かつて、私が牧会していたある教会員の方に、この聖句を示したことがありました。その方も、ずいぶん不条理な目にあって苦しんでおられました。どうして良いかわからないと生きた心地がしなかったということでした。私は、主にあって誠実に生きるならば、必ず主は戦ってくださるから大丈夫と、聖句の意味を分かち合い、ともに祈ったことがありました。その結果、その不条理さはいつの間にかに消え去っていました。最近、そのことを振り返る機会があり、当時苦しみを抱えていた方とともに喜び、神に感謝したのでした。
 
私たちは聖霊の導かれるがままに、誠実に生きることが求められているのだと思います。しかし、その聖霊の導きというものも、ついつい我田引水のように利用してしまうこともあるかもしれません。それが自らの「ゆがみ」によるものだとも気づかずにです。だからこそ、神の御前に謙遜に生きることを確かめるために、神の言葉が私たちに与えられ、聖霊の助けが与えられているのでしょう。
 
今日も聖書の言葉が与えられたことに感謝しつつ、一日を過ごすことができますように。皆さんとともに生きてくださる神が、大きな祝福を注いでくださいますように。心からお祈りします。

14/09/2026

2026.9.14(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書31章31節
その日が来るー主の仰せ。
私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録2章39節
(ペトロの言葉)
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださっている者なら誰にでも、与えられているのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、主の日の礼拝の喜びを、それぞれの教会や集会で楽しまれたことと思います。私も、午前は代務牧師を務めている教会での働きのあとに、夜は私の勤務先であるエマオの夕礼拝、そして自宅に戻ったときには、ちょうど宮城野教会の祝福(祝祷)に間に合いました。その後、礼拝に出席された方のために祈りのときを持ったりと、とても充実したひと時を過ごすことができました。また、新しい一週間も感謝しつつ毎日を過ごすことができそうです。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖句が言わんとしているのは、「新しい契約に生きる」ということであると私は受け止めました。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
昨日の「エマオ夕礼拝」を担当されたのは、仙台市内にある「荒井キリスト教会」の牧師である、福岡真一先生でした。赴任時期が一緒なのと、その他のつながりもあり、良いお交わりをいただいています。その福岡先生によって取り次がれたのは、マタイ福音書の最後の部分、いわゆる「大宣教命令」と呼ばれる部分の聖句でした。
 
大宣教命令をどのように考えるのか。その後、聖霊降臨の恵みを受けた弟子たちは、方々へキリストの救いを宣べ伝えました。なかには、パウロのように旅行しながら宣教する者もいましたし、まさに地の果てまでキリストが伝えられることによって、私の住む日本にも福音が伝えられたわけです。
 
福岡先生は、それらの宣教活動は「海外宣教ではなく『世界宣教』なのだ」とおっしゃっておられました。とても興味深い言葉です。一見すると同じような言葉にも思えますが、福岡先生曰く、世界宣教とは洋の東西、遠近の問題ではなく、身近にいる誰にでもキリストの救いが伝えられること。距離こそ近くても、精神的には遠く離れている人にでも救いを伝え、分かち合うこと。それこそ「世界宣教」なのだということを、説明しておられました。その言葉に納得し、腑に落ちました。
 
つまり、今日の新約聖書の言葉は、これから世界宣教がなされようとするなかにあって、その宣教は「誰に対するものなのか」という問いに、明確に応えているものであると私は思いました。「私たちの神である主が招いてくださっている者なら誰にでも、与えられているのです。」と、ペトロは説教しました。誰にでもなのです。私たちがえり好みできるような話ではないということなのです。それだけ、私たちの神は救いの門戸というものを存分に広げる契約というものを、私たちに与えてくださったということなのです。
 
今日の旧約聖書の言葉には「新しい契約」とあります。契約は更新されていきます。しかし、破棄されることもあります。私たちの神は、人間に対して契約を破棄して、その関係性を反故にされることなく、今日まで救いの道を与え続けてくださったことを思います。そんな神のなさることに心から感謝しつつ、今日という一日も過ごしてまいりたいと思いました。
 
どうか皆さんの一日にも、そのような神の守りが豊かにありますように。心からお祈りします。

13/09/2026

2026.9.13(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編9編10節
主は虐げられた人の砦
苦難の時の砦。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙1章27節
みなしごや、やもめの苦労を見舞うこと、それが純粋で汚れのない父なる神への礼拝です。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。神が、この七日間の旅路をどのように導いてくださるのでしょうか。特に、心に、実際に生活のあらゆることで重荷を担わされている方々にとって、神がどのように私たちの生活に働いてくださるのか、そんなことを思い描きながら、今日もローズンゲンを通して与えられたみ言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
神は私たちの砦(安全)となってくださる。このことが、今日の旧約聖書・詩編の一節が言わんとしているメッセージです。私たちが苦しさを覚えるとき、その苦しさをすべてご存知である神が、私たちを全力で守ってくださるというのです。この力強い保証の言葉に、私たちはどれほど共感し、また同意することができるでしょうか。
 
昨晩、仙台のある教会で本日の務めを果たされる、大嶋重徳牧師とお連れ合いの裕香さんと久々にお会いして、とても楽しい交わりの時をいただきました。私の苦しかった時代をよくご存知のふたりであり、思い出話もすることができました。その時に「いろいろ苦しかったこともあったけれど、今は恵みでしかない」ということを、お互いに近況を交わしながら、神が守ってくださっていることを、ともに喜び合うことができて、感謝でした。
 
こういうものなのだと私は、今日の聖句に触れながらあらためて感じさせられたのです。苦しさで心も思いも体もいっぱいいっぱいなときは、なかなか神の恵みを感じることができないかもしれません。しかし、いつかは神とともにある恵みというものを実感できるときがやってくる。そんなことに感謝できる日がやって来ることを思えば、今日の詩編の言葉はやっぱり真実なのだと思わされてならないのです。
 
その得られた恵みというものを、私たちは決して強いることなく、押し付けることもなく、隣人とともに分かち合うことができるのだというのが、今日の新約聖書の言葉にも表れているような気がするのです。私たちが今日、世界中でおこなわれる主の日の礼拝で出会うさまざまな出来事や人間模様のなかで、互いに神の恵みを分かち合えるような一日であり、また一週間の始まりでありたいと、心から願わされてなりません。そんなことを胸にして、新しい一週間を歩むことができますようにと祈ります。
 
皆さんの新しい一日、一週間の一切に、私たちを安全に守られる神の恵みが、ともに、豊かにありますように。心からお祈りします。

11/09/2026

2026.9.11(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
歴代誌上13章8節
ダビデとイスラエルの人々は皆、神の前で力の限り、歌を歌い、琴、竪琴、タンバリン、シンバル、ラッパを奏でた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章16節
いつも喜んでいなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は、あのテロから25年を迎えた祈念すべき一日です。2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが起きました。多くの命が奪われるとともに、あの日からテロへの反撃が始まっていきました。人の命がいとも簡単に奪われることへの恐怖、それを正当化しようとする人々の思い、そんなことを目にしながら、聖書から語ることへの意味というものを、深く考えずにはいられませんでした。あの日、台風が過ぎ去ったあとの不気味な夕焼けが東京の空を包んだ記憶とセットとなって、テロのことを思い出すのです。そのことを憶えつつ、今日の聖書の言葉に心を傾けたいと思います。
 
今日の聖句が語ろうとしているメッセージは、「賛美の喜びを響かせる信仰者の姿」というものでした。9.11を覚えるのには、あまりにも「似合わない」聖書箇所であると私は感じました。世界中を震撼させたあのテロの状況下にあって、私たちは究極的に神に賛美の思いを向け、神とともにある喜びを感じることができるでしょうか? むしろ逆なのではないかと私は思えてならないのです。
 
私たちが喜ぶことができないとき、神はそれをお許しになられるのでしょうか。神はそんな私たちの真実というものをよくご存知であることを信じたいのです。泣く時にともに泣いてくださる神だからです。悲しみに、はらわたがちぎれるほどの思いで私たちとともにある方、それが私たちの神であり、イエスが私たちに示されたことでした。
 
私たちは「いつも」喜ぶことはできないかもしれない。今日のテサロニケ書の聖句が私たちに訴えるように、私たちがつねに喜べたらどんなに良いだろうと願いつつも、それができない時、それでも私たちに切なる願いがあることを、神はちゃんと見てくださっていることを信じたいのです。いつかは喜べる日が来ることを私たちが望むときに、神は必ず時宜にかなった助けというものを、必ずお与えくださるのだということを、心の底から信じたいのです。
 
悲しみや怒りを抱いている自分があるからこそ、神が与えてくださる喜びに感謝できるのだ。そんな思いをもって、今日の一日も、神とともに歩むことができますように。皆さんの主にある守りと祝福を、心からお祈りします。

10/09/2026

2026.9.10(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
箴言16章32節
怒りを遅くする人は勇者にまさり
自分の心を治める人は町を占領する人にまさる

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録14章12節
ここに、神の戒めを守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐がある。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も私たちの生活のすべてを御存知であり、時に応じてその生活を守られる神である主が、皆さんとともに、豊かにおられますように。特に、痛みや苦しみのなかにあるすべての方々に、格別に神が臨んでくださいますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の聖句から、私があらた、あらためて受け入れたいと思ったのは、「自分自身の感情をコントロールすることの幸い」というものでした。いかに、私自身の心の揺れ動きというものを理解しながら、それに見合った冷静かつ情熱的に生きるということへの幸いについてです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、箴言(ことわざ集)の一節でした。「怒りを遅くする」こと、「自分の心を治める」という二者は、抜き差しならぬ関係にあることを想わせる聖句です。
 
怒りを遅くすることは、なにもやせ我慢することではないと私は思っています。怒りの感情を神に診てもらうという営みを大切にすることによって、私たちは結果的に怒りを遅くすることができるのだと思います。ついつい自分の感情で思いも心もいっぱいになってしまうと、特に理不尽な扱いを受けたときなどは、そのような冷静さを欠いてしまうことがあるからです。
 
私の昔を知っている人は、その通りだと思われますが、私は自分自身の怒りの感情をコントロールすることが本当に難しい人間でした。自分の痛点をさわられるようなことがあると、怒りが一気に爆発するということを繰り返してきました。
 
しかし、そんなことは結果的に、何の益ももたらさないことに気付かされました。そのことを深く反省しながら、自分が今こういう感情を抱いているのだということを意識しながら、神に聴き、聖書の言葉に聴き、祈りながら、その場をなるべく冷静に過ごそうと自分自身に言い聞かせました。結果として、それは自分自身にも、周囲にも良いものを残しました。
 
今日の新約聖書の言葉は、「イエスに対する信仰を守り続ける忍耐」とあります。理不尽なことがわが身を襲っても、すべてを御存知である神が公平かつ公正に、私たちのありようを取り扱ってくださることに深い信頼を寄せることこそが、信仰の本質なのであって、その結果が忍耐という出来事につながっていくのだと、今日の聖句を通して感じ取りました。
 
自分自身が短絡的にならずに、深い視座をもって自分自身の感情を治めながら、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの一日にも、そのような姿を祝福してくださる神が、ともに豊かにおられますように。心からお祈りします。

09/09/2026

2026.9.9(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ネヘミヤ記13章2節
私たちの神はその呪いを祝福に変えてくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙3章13節
キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木に掛けられた者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
全国各地で、豪雨によってさまざまな被害が出ています。今日も東海地方で不便と不安を強いられている方々がいることを思うと、それらのすべてに守りがあることを祈らずにはいられません。そのことを祈りつつ、今日の聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「呪い」です。この言葉をどのように解せばよいかということを思うのです。単に、誰かが誰かをうらむあまり、その人物に災いが降りかかるようにと願うことを、私たちは呪いという言葉を用いて表現するかもしれません。しかし、今日の聖句にじっくりと触れてみますと、呪うという行為よりも、呪いの源となるもの、つまり「災いそのものの根源」と考えることができるのではないかと私は思うのです。
 
今日の新約聖書の言葉であるガラテヤ書の一節で、「キリストは私たちのための『呪い』となって」とあります。キリストは私たち一人ひとりが負う災いから解放されるために、私たちに代わって、その災いを一手に背負われた。それは、私たちが負うべき呪いを、キリストが負ってくださった出来事に他なりませんでした。
 
「律法の呪い」とあります。律法は私たちを神の民とする保証のようなものでした。しかし、それには遵守という契約の責任が生じたのでした。そのような責任があるのにもかかわらず、私たちはそれをなすことができませんでした。私たちを保証するはずの律法が、私たちを縛る「呪い」になってしまったのです。それを、御自身の血肉をもって、呪いの象徴である木(十字架)にかけられることによって、その呪いをかき消してくださったのがキリストだったというのです。
 
神は、私たちを呪いを抱えたままにされることを、決してお許しになられないのです。呪いを祝福へと変える神。これが、今日のローズンゲンのみ言葉そのものが指し示すメッセージです。このことを信じつつ、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

08/09/2026

2026.9.8(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編32編10節
主に信頼する人は慈しみに囲まれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録22章21節
主イエスの恵みがあなたがたすべての者と共にあるように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、神様の良いものが充分に皆さんとともにありますように。そのことを祈りつつ、ローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、聖書そのものの最後を飾る一節です。神による救いのみわざがすべて完成して、神の国とその平和が余すところなく全地に及んだ時、その最後に実現されることを、未だそこに至っていない世界に対して語られます。そこには、私たち一人ひとりの希望が、救い主イエスによる祝福とともに約束される言葉こそが、今日の新約聖書の聖句として選ばれたものです。
 
ヨハネの黙示録を読むと、決して喜ばしい出来事だけではありません。神とともに歩む道には多くの苦難があり、闘いがあり、多くの妨害があります。つらいことばかり続くのもまた確かです。しかし、そのような苦しみのなかで、神のみ心は着実確実に進んでいく。そんな約束と希望に満ちあふれた幻が語られるのも、ヨハネ黙示録の魅力と言ってもよいでしょう。
 
その集大成として、私たちに神の平和が与えられ、インマヌエルの主がともにおられることがしっかりと保証されているのです。これこそ、私たちが今を、そして未来を生きるいしずえなのだと、私は心から信じて生きたいのです。これこそ「主に信頼する者」という、今日の詩編の言葉につながっていきます。
 
たとえ苦痛をともなったとしても、その苦痛をやわらげるのは神のいつくしみなのだと。それに囲まれる私たちの姿がここにあるのだと信じて歩むことの幸いを、今日も感じとることができますようにと祈ります。インマヌエルの主イエスがともにおられることこそ、今日を生き抜く土台になってくださるのだということに希望を寄せつつです。
 
どうか、主イエスの恵みが、私たちひとりひとりとともにありますように。心からお祈りします。