12/06/2026

2026.6.12(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記8章7節
あなたの神、主は、あなたを良い地に導き入れようとしている。そこは、平地でも山でも川の流れがあり、泉や地下水が溢れている地である。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二9章8節
神は、あらゆる恵みを、あなた方に満ち溢れさせることがおできになります。こうして、あなた方は常にすべてのことに自足して、あらゆる善い業に満ち溢れる者となるのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
韓国での3日目の朝を迎えました。昨日の異端・カルトセミナーの務めも無事終え、今日はエクスカーションの時を持ちます。その後ソウルに戻り、帰る準備をします。明日の早朝、仙台に向けて出発します。

パソコン作業が、今朝泊まっているホテルでできないため、スマホから今日の黙想をお届けしたいと思います。今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ鍵の言葉は、満ち溢れる、でした。一言で言えば、神は私たちの思いも心も、ご自身の良いもので、満ち溢れさせてくださるというのです。
 
果たして、私たちは、その神の思いを受け取っているでしょうか?なかなかそのように感じられないこともあるでしょう。私たちの日々の生活は、満ち溢れると言うよりは、何かに欠乏し、その欠乏ゆえに、悩みや苦しみがあるからです。
 
この世の中の不条理さが、私たちにそのような思いを抱かせるのかもしれません。しかし、私たちが満ち溢れるような気持ちになれない理由は、世の中の不条理だけのせいでしょうか。私はそうではないと思っています。
 
実は、神から十分な恵みをいただいているのにもかかわらず、それが私の中で「気に入らない」と言う理由で、おのずとそのような良いものを跳ね除けてしまっている自分自身があるのではないか。そのようなことをつくづく考えさせられるのです。もしそうだとしたら、私たちの側に何らかの原因があると考え、神の恵みを満ち溢れさせるだけの自分自身があるかどうかを、じっくりと見つめていく必要があるのでしょう。
 
エジプトから神様が示された地に旅を続けたイスラエル人がいました。40年間にわたり、その旅路は苦しみの連続でした。たちの中には、不平不満をこぼし、神のなさることを疑い、自分の思い通りにいかないことを嘆き、それゆえに、自分を正当化するような出来事に、心も思いも持っていったということがありました。
 
しかし、その40年を振り返った今、やはり神は私たちに良いものを与え続けてくださっていたではないか、そのことが歴史を振り返るモーセの口から告白されたのです。私たちも、このモーセのように神に良いものが与えられ、満ち溢れていることを告白するものでありたいと心から願います。
 
どうか、今日の1日も、神と共に歩む幸いを味わうことができますように。心からお祈りします。

11/06/2026

2026.6.11(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨシュア記1章9節
強く、雄々しくあれと、私はあなたに命じたではないか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章9~10節
(パウロの言葉)私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
昨日から出張で韓国に滞在しています。韓国と日本の両教会が協働して行われ続けてきた「異端・カルトセミナー」に出席するためです。日本側の発題をする役目をいただいています。無事にやり切れるよう、お祈りくだされば幸いです。よろしくお願いいたします。
 
そんな緊張と不安のなかにある私に、「強く、雄々しくあれと、私はあなたに命じたではないか」という、今日のローズンゲンに示された旧約聖書の言葉は、相当響くものがありました。強くあること、雄々しくあることとは、別に私自身がストレス耐性がしっかりしていて、何事にも負けない強靭な精神力をもって、強く雄々しくあるわけではありません。むしろ逆です。その体も心も、本体は実に脆弱なものであることを、私たちがいかに自覚できるか。そこにこそ「強く、雄々しくある」ことの基盤というものがあると、私は受け止めたいのです。
 
弱いからこそ、頼りないからこそ、もっとも強く、雄々しくある方が、私たちのことを見放さずに共に歩んでくださるのです。それゆえに、私たちはその方の力強さにしっかり支えてもらって、その方がご自分の思い願いを、私を用いて果たさせてくださるのだ。ここから生じる安心感こそ、私たちが「強く、雄々しくあれ」と命じられた根本にあるのだと思うのです。
 
もっとも強く、雄々しくある方こそ、私たちの父なる神に他なりません。そして、この父が、私たちの命を救うために、この世界に遣わしてくださった方、み子イエスこそ、キリスト(救い主)であり、聖霊の助けをもって私たちと共に、具体的に歩んでくださるというのです。実際にイエスも、その強さとは裏腹に、十字架に架かられたときには、弱さというものをさらけ出して、私たちに見せてくださいました。「人間とは弱いものだ。しかし、その弱さこそ、神の力によって強くさせられるのだ」と。
 
さまざまな苦難を味わったパウロが、今手紙を書き送っているコリントのクリスチャンたちへ、その弱さというものに触れながら、このように手紙にしたためました。「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。」
 
神に望みを置くことのできる一日でありますように。皆さん、そして私自身のためにも祈りを合わせます。どうぞ主にあって、素敵な一日をお過ごしください。

10/06/2026

2026.6.10(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書55章1節
さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章35節
(イエスの言葉)「私を信じる者は決して渇くことがない。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
イエスはしばしば「渇く」という言葉を通して、それは生理的な喉の渇きにとどまらず、私たちの心の渇き、また渇望する私たちの思いなどもすべて含めて、その言葉を用いられました。今日の新約聖書の言葉であるヨハネによる福音書6章の聖句も、まさにそのことを物語る言葉であるといって間違いないでしょう。
 
イエスは、「私を信じる者は」と前置きされたうえで、決して心や思いが渇き切ることはないのだということを宣言されました。イエスの何を信じるのでしょうか。イエスという存在のそのものを、私たちは心から受け取ることができますし、イエスがなされた言動のすべてを通して、それは今を生きる私たちひとりひとりにも与えられていることを、心から受け取ることができます。水場へ集まって、流れ出る水をすくい、それを口に含んで冷たい水を五臓六腑にしみわたらせるときに、私たちは爽快さを十分に感じることができるように、イエスの言葉を私たちは、自分自身の体内にしみわたらせることができるのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、「水のもとに来るがよい」と記されています。私たちがただ待ち尽くしても、水を飲むことは決してできません。水場へ集まるのです。その場へ私たちが向かうのです。イエスの言葉を受けようと、神の良いものをいただこうと、私たちは腰を上げて能動的にその場へ赴くのです。本当に喉が渇いていれば、水場へ私たちは駆け込むでしょう。だだ自動的に流れてくるものを受けているだけでは、もちろん生理的に喉を潤すことができるのだと思いますが、やはり、私たちにはそれ以上の「渇望」を味わうことは難しいのかもしれません。私たちの心が、思いが、水場に向かうことを神は私たちに期待しておられるのです。
 
イエスの言動に聴き、それを豊かに受け取り、自分自身の言動の支柱とすることへの幸いというものを、今日も是非味わってまいりたいと思います。皆さんの一切に、渇きを癒やしてくださる主がともにいてくださいますように。お祈りします。

09/06/2026

2026.6.9(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記32章2節
ヤコブは旅を続けたが、その時、神の使いたちが現れた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録27章23~24節
(パウロの言葉)「私が仕え、礼拝している神からの天使が、昨夜私のそばに立って、こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
神がおられるから大丈夫だと心に言い聞かせても、やはり不安が付きまとい、私から離れることがなく、恐れと不安に苛まれる。こんな「不信仰な姿」を人々の前にさらけ出してしまうならば、人々のつまずきにならないだろうか。
 
誤解を恐れず言うならば、私の日常などそんなものなのです。不安を得れば、御言葉に向き合って、祈って、ひと時の安心を得て、得たかと思ったらまた元通り。不安のまったくない世界があったら、どれだけ幸せだろうかと想像しながら、この世で生きている以上、それは無いのだなと現実に帰らされたりと。
 
そんな自分自身に、しばしば疲れてしまうのです。疲れれば疲れるほど、物事が何でもネガティヴに見えてしまい、そのスパイラルに巻き込まれてしまうのです。
 
だからこそ、そんな私に、今日の聖書の言葉がとても光輝いて見えるのです。私の暗くなった足元を照らしてくれるのは、そして行くべき道を示してくれるのは、神の言葉を携えた天使たちの働きによって。ヤコブの道も、ローマへ至るパウロの道も、こうして天使たちが導いてくれました。その天使をこの場に遣わされたのは、紛れもなく神によるものでした。
 
今は五里霧中のなかにあっても、霧は必ず晴れるのだ。そんな思いを胸にして、新しい一日を歩むことができますようにと祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんにとってのこの一日も、もし霧のなかをもがいておられるならば、その霧が晴れてくるような経験が、霧のなかにないならば、行くべき道を確かに歩むことができますように。心からお祈りします。

08/06/2026

2026.6.8(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書49章4節
しかし、私は言った。
「私はいたずらに苦労し
 意味もなく、空しく力を使い果たしました。
 それでも、私の公正は主と共にあり
 私の報酬は私の神と共にあります。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書5章5節
シモンは、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された、旧約聖書・イザヤ書49章4節に「私の公正」という言葉が登場します。この言葉に、私は注目してみたいと思ったのです。
 
公正。ただ正しいのではありません。誰の目から見ても、そして、神の目から見ても「正しい」のです。ここに、私たちはしばしば「勘違い」することがあるのではないかと私は感じるのです。この正しさは本当に「公正」なのだろうかと。
 
私のなかだけで正しいと感じてもダメなのです。誰の目から見てもです。私たちは自分が正しいことを正しいと信じて行動する存在です。しかし、それは時に、極めて独善的な、人の幸福などお構いなしで強行されることだってあるのです。私さえ気持ち良ければそれでいいのです。こういう態度から私たちは衝突を生み、格差が生じ、いびつな構造が生まれていく。これを「公正」とは決して言わないのです。
 
究極的に言えば、私たちは「私の公正」などを、自分の力で行使することなどできません。私以外の「公正」こそが、私自身に公正ということを教え、諭し、そのように生きるように促すのです。これこそが神の公正(原語でミシュパート)なのだと言うのです。私たちは、神の公正をしっかりと、ゆがみのない形で受け取ってこそ「私の公正」という言葉がはじめて成立するということなのです。
 
私の公正は、しばしば「労苦」を生じさせます。公正のふりをする、公正の名のもとに傍若無人に振舞う、自他ともに働くそのような力によって、徒労感を生ませ、ストレスを抱き、疲れさせてしまいます。しかし、私の公正が本当に神の働かれる公正に基づくものであるのならば、そのような徒労感は、必ず神である主によって取り除かれることを心から信じたいのです。
 
夜通し漁をしたけれど何も捕れなかったシモンの徒労感がありました。彼にとっての経験や知識は、彼なりの公正であったかもしれません。しかし、彼は「お言葉ですから」とイエスに告げ、イエスの言われた通りにもう一度、網を湖に落としました。その結果は、イエスの公正が豊かに働く結果となりました。あふれんばかりの魚が捕れたのです。
 
私の公正とは神の公正を十分に受けたところで初めて働くものであることを、私は今日のふたつの聖句から受け取りたいと思いました。それに抗うさまざまな出来事に苦労しつつも、その苦労があるからこそ、神の正しさに自らを委ねて今日を生きたいのです。この一日が少しでも、神の平安を味わうものであるためにです。皆さんの主にある平和を、心からお祈りします。

07/06/2026

2026.6.7(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編138編7節
主よ、たとえ私が苦難の中を歩んでいても
あなたは私を救ってくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章33節
(イエスの言葉)「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってきました。今日、世界中でおこなわれる主の日の礼拝が、神である主の喜びに満ちあふれたものとなりますように。たとえ、礼拝する余裕すらない心の苦しみを味わっている方々がおられたとしても、その礼拝こそが、苦しみを少しでも取り除き、緩和焦る場であることを、一人でも多くの方が経験する場となりますように。そのことを祈りつつ、ローズンゲンに示された今日の聖書の言葉に聴きたいと思います。
 
たとえ世の中が、あの人が、この人が、私のことを分かってくれていなくても、神は、私のことを分かっていてくださる。これが、神を私たちの希望とする大きな根拠となることを、私たちは体験的に知っているのだと思いますし、信じて受け取りたいと思うのではないでしょうか。私もそのひとりとして、これまでこれだけ「神は分かっていてくださる」というところに自分自身を据えて生きていただろうかと思い出します。
 
しかし、私たちはその思いが「単なる独り善がり」にならないように、自分自身の思いというものをよく確かめる必要があることも事実なのだと思えてなりません。神が私たちのことをすべてご存知であるというのは、今日の聖書の言葉のように、神の思い、イエスの思いに自分自身を「沿わせている」がゆえに、それに抗する勢力から降りかかる苦しみをすべてわかっていてくださるという意味もあれば、私たちが神の御心に自分自身を合わせて生きていないがゆえに生じる苦しみというものをも、よくご存じであるという意味もあるでしょう。その場合、私たちには罪の悔い改めというものが求められることもあるでしょう。
 
もし、私たちにそのような改善であるとか、転向、悔い改めて生きることが必要であるならば、神は必ず私たちを守り、勇気を与え、神である主とともに歩む思いと力を与えてくださるのだと、私は信じたいのです。ですから、今日の聖書の言葉は、主にあって忠実、誠実である私たちの姿もさることながら、そうになりきれていない私たちにも当てはまる神の恵みの言葉なのだと、私は受け止めました。
 
この新しい一週間を歩む、希望の言葉として、今日の聖句が私たちの心のうちを豊かに照らしてくださいますように。皆さんの一切に、主の平安と祝福を心からお祈りいたします。

06/06/2026

2026.6.6(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
サムエル記下7章25節
(ダビデの祈り)神である主よ、今この僕とその家について語られた御言葉をとこしえに確かなものとし、語られたとおりになさってください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録13章23節
神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
神はご自分の言葉に示されたその約束を、必ず果たされる御方であり、その約束は、イエス・キリストという救い主を確かに、私たちに与えてくださったことによって実現された。
 
これが、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句が、私たちに物語ろうとしているメッセージです。
 
有言実行という言葉があります。この言葉は「言葉と行いが一致している」、つまり「言行一致」のことを表しているものであることを、私たちは神にみることができるのです。この神の姿勢に私たちは守られ、支えられながら、今日まで神とともに歩む人間の歩みというものを、営むことが許されてきましたし、今日もそのような守りによって生かされていることを、心から感謝する者でありたいと、心から願わされます。
 
私はしばしば 「言行不一致」になることがあります。そうならないように、精一杯努め、気を付けているつもりですが、言葉の通りに行えない自分自身の姿に、気まずさや申し訳なさ、自分自身の至らなさというものを突き付けられるのです。
 
そんな時に、省みつつ私は問わされます。「自分自身の力だけで、何かを成し遂げようとしていないだろうか?」という問いです。人に迷惑をかけちゃいけないと、必死に自分自身でなんとかしようともがきながら、事を成そうとするのです。しかし結果として、かえって周りに迷惑をかけてしまうようなことになってしまうのです。そんなことを繰り返しながら、相変わらず学習しない自分自身の姿にあきれかえってしまうのです。
 
しかし、そんなあきれかえってしまうような自分自身でも、少しずつ気づかされていくのです。神に寄り頼み、神に支えてもらいながら、神が備えてくださる有形無形の助けというものを素直に受け取った時の幸いというものをです。その備えは、必ずしも私の心を喜ばせるものであるとは限りません。時には厳しいと感じるときも多々あります。
 
しかし、今日のダビデ王の祈りでも、パウロの言葉でもそうであるように、神は私たちの幸いのために、ご自分の決められた約束を必ず果たされる方であるということに、私たちは心から信頼をもって、是非応答してまいりたいと願わされます。どうか神である主が、今日も私たち一人ひとりを祝福のうちに守り導いてくださいますように。心からお祈りします。