18/01/2022

2022.1.18 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ミカ書7章14節より
どうか、ご自分の民
あなたの所有の民を治めてください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書10章4節より
羊はその声を知っているので、付いて行く。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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今日の旧新約聖書を貫くテーマは、「人間をご自分のものとされる神、その神に従って歩む人間」だと、私はとらえました。
 
最初に、神が人間をご自分のものとされるとは、どういうことなのでしょうか。今日の旧約聖書では「あなたの所有の民」とあります。
 
この所有という言葉について黙想するのは、とても大切なことであると思います。なぜなら、所有という言葉を通して、持ち主の動機というものを探ることができるからです。
 
所有者は、その所有物を思うがままに用いることができます。強制労働の道具に使ったり、所有者の欲望を満たすために、非人道的な扱いすらできるのです。
 
しかし、今日の旧約聖書の言葉は、人間の側から神に向かってなされた祈りです。人間が神に所有されること、治められることを期待して、祈りがささげられました。この祈り手の心には、神は決して自分たち人間を乱暴に扱わないという深い信頼の思いがありました。神のご支配は、必ず人間社会に平安をもたらすのだと。
 
この信頼こそ、今日の新約聖書にある「羊はその声を知っている」という言葉に集約できるのだと感じます。羊とは人間のことであり、その声とは、羊を養う羊飼いのことです。
 
私たち人間は、神がどのような御声を発し、私たちを養われるのかということに、思いを寄せてまいりたいと思います。ご自分の思うがままに人間を扱われる神は、そのすべてが、羊である人間に対する深い慈愛の念に基づいています。
 
大切に思うがゆえに、真剣に私たちに向き合ってくださる神がいると思うだけで、私たちはどれだけの慰めや励ましを受けることができるだろうか。そんなことを心のなかで思い巡らしながら、新しい一日を歩んでまいりたいと思います。それが、結果的に羊飼いの声に耳と心を傾けるということなのでしょう。
 
皆さんの一日に、豊かな平安がありますように。

17/01/2022

2022.1.17 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編147編1節より
ハレルヤ。
我らの神をほめ歌うのはなんとすばらしいことか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章19節
互いに詩と賛歌と霊の歌を唱え、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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一昨年の夏、洗礼を受けられたひとりの女性の方のお話です。
 
その方は90代。女学校時代は、第2次世界大戦の真っ最中で、ろくに勉強することもできませんでした。そんななかで、その方にとって心の支えとなったのは「賛美歌を歌う」ことでした。彼女は、ミッションスクールに通っており、宣教師の先生から多くを教えてもらったとのことでした。
 
人生も終盤にさしかかり、これから後、神様に守られながら人生の日々を過ごしていきたい。そんな彼女の願いをうかがい、無事に洗礼へと導かれました。コロナ禍のこともあり、いろいろな制限がなされるなかにあっても、彼女とともに生活をしてきたご子息のお連れ合い(教会メンバーです)の機転によって、無事に洗礼を受けることができました。
 
その後、訪問聖餐に伺うことができていますが、そのときには、何曲か記憶している賛美歌を一緒に賛美し、聖餐をともにいただき、昔話に耳を傾けながら、ささやかな、しかし心の十分に温まるひとときを過ごしています。相変わらずコロナ禍による制限がありますが、またお伺いできることを楽しみにしているところです。
 
さて、今日の聖書の言葉は、説明もなにも必要ないと私は感じました。そのまま受け入れるに十分な、聖書の言葉だからです。
 
そのうえで、ひと言だけ申し上げるならば、今日の新約聖書の言葉にある「互いに」というところに、さらなる賛美の喜びを味わうことができる秘訣があると、私は感じました。
 
神は、ともに賛美する仲間を与えるべく、キリストのからだにたとえられる教会に、私たちを招き入れ、そのからだの一部としてくださいました。たとえ場所が違っても、キリストのからだという世界的であり普遍的な交わりのなかで、私たちは互いに神を賛美する喜びを味わえるのです。
 
だからこそ、私たちは「教会」とはなんだろうか、教会とはどのような場なのかを、じっくりと黙想するのは、本当に大切なことです。教会とは建物のことだけではなく、信仰者の目に見える集まりだけでもなく、◎◎教会という各個教会のことだけでもありません。全世界的なキリストのからだであり、教会の各部各所にあらゆる教会、そして私たちをも組み入れられているのです。それこそ、互いに喜びのうちを生きるための真髄そのものです。
 
今日も賛美する喜びにあふれた一日でありますように。

16/01/2022

2022.1.16 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編105編4節
主とその力を求めよ。
常にその顔を尋ねよ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書11章10節
誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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今日選ばれた、旧新約聖書を貫くテーマは「求める」ということであると、私は理解しました。そのことについて、少し書き綴ってみたいと思います。
 
何を、どのようなかたちで求めるのでしょうか。私たちは祈りによって神に願い求めます。さまざまなことを願い求めるでしょう。どんなことでも、私たちは願い求めることが許されているのです。
 
ただ、願い求めたことが、神によってすべて成就するわけではないのは、神に祈り求めたことのある方ならば、誰でも知っています。だから、何を願い求めるかということを問うのは、とても重要です。
 
今日の旧約聖書では、「主とその力を求めよ」とあります。これが、聖書の示している第一の求めるべき願いです。神がどのように導いてくださるのか、神のなさることに希望を置きます。
 
そのことを前提としたうえで、「その顔を尋ねよ」とあります。ここで、自分の思い描いている願いというものが、本当に神の力によって果たされるべきものなのかを、私たちは尋ね続けます。
 
求めるというのは、一貫した要求を神に押し付けるというよりは、祈りをもって神と深い交わりをするなかで、軌道修正させられたり、撤回することすらあることも含めて、神に求め続けるということなのではないでしょうか。
 
あくまで、神のなさることに主軸を置いて、自分の言動を常に確かめていくならば、求めることも、単なるわがままの押し付けではなく、主なる神の力によって、神が望まれる道が開かれていくのです。
 
それが、今日の新約聖書にある、求めれば受け、探せば見つかり、叩けば開かれるという、イエスの言葉の意味なのではないでしょうか。これが、今日の私の黙想です。
 
ぜひ、今日の言葉をじっくりと味わうことによる神の幸いが、皆さんとともにありますように。

15/01/2022

2022.1.15 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書53章5節より
彼は私たちの背きのために刺し貫かれ
私たちの過ちのために打ち砕かれた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章21節
神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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今日の旧約聖書であるイザヤ書53章は、「苦難のしもべ」というタイトルがしばしばつけられる箇所です。神に背き続けるという人間の罪を打ち砕くために、苦難の僕は刺し貫かれると、イザヤの書には描かれています。
 
キリスト教は、このイザヤの書にあった言葉を、十字架にかかられたイエスによって成就されたと理解し、イエスは私たち人間の罪のためにそうされたのだと、解釈しました。これが、今日の新約聖書の言葉にしたためられた内容です。
 
さて、「私たちの罪のために十字架にかかられて死なれたイエス」という、キリスト教が最も大切にしてきた教えですが、このことを、私たちがどのように自分のこととして受け入れているのだろうかと、黙想するのは本当に重要です。
 
私たちは、あまりにも当たり前だと思っているだろう、キリスト教の最重要な教えを知っていても、それを理解する、自分自身の生き方に落とし込むというのは、全く別の作業であることを、十分に認識する必要があります。
 
今日の新約聖書には、私たちがその方、つまりイエスによって「神の義となるため」に、神への背きが全くないイエスが、人間たちによって罪人とされて十字架刑になったのだと書かれています。ここで明らかにされるのは、神の義、すなわち神の正しさです。
 
私たちは誰の正しさによって生きるのか。それは神の正しさであると、聖書は語ります。そもそも罪とは、神の正しさとは相容れない自分自身の正しさによって生きることを意味しています。
 
自分が正しいと思っていることは、本当に神が正しいと思っておられることなのか。それを問うために、私たちはじっくりと黙想し、識別して、その根拠を明らかにしたうえで、神の正しさと信じて生きるということが、私たちの罪のために十字架にかかられて死なれたイエスというテーマに、神の義をもって応答するということなのでしょう。
 
当たり前と思うことは決して当たり前ではない。そのことを胸に刻みながら、神が与えてくださった生きる喜びに導かれる一日でありますように。イエスはその喜びのために、あえてひとりで苦難を背負い、犠牲を払ってくださったのです。

14/01/2022

2022.1.14 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編126編3節
主は、私たちに大きな業を成し遂げてくださった。
私たちは喜んだ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章3節より
私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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今日の新約聖書に「霊の祝福」という言葉があります。
 
私たちは人間を見るように神の姿かたちを見ることはできません。ですから、神を見るというのは、まさに霊的(スピリチュアル)な領域なものである、と言えるでしょう。
 
先日、知人の僧侶が主催する「暗闇ごはん」という催しに参加することがありました。アイマスクをして、出される料理を手探りで口に運びながら、これがどんな料理か、どんな材料で調理法なのかを当てます。
 
私は思いました。見えないものに目を注ぐという聖書の言葉の意味が深まったと。私は、普段見えるという世界で生きているなかで、実は見るべきものを見ていないんだなと、あらためて思わされたのです。
 
具体的には、見たいものしか見ていない。ある種の情報だけに引きずられて、そのものの本質がわかっていない、わかろうともしていない。そして、見えるものだけで物事を判断して、評価をくだそうとする態度などなど。
 
つまり、話を戻しますと、私たちがスピリチュアルなものに、いかに心を寄せて生きるかで、おそらく本日の聖書の言葉が指し示している「あらゆる霊の祝福」がなんであるかも、感じ取ることができるのだろうなと、深く感じさせられたのでした。
 
神が与えてくださる祝福というのは、私たちの喜びに直結します。ただし、その喜びが、具体的に何を指すのかということを、私たちは神の視点に立って、じっくりと黙想することが大切なのだと。
 
見た目のことだけにとらわれることなく、神が与えてくださる祝福と喜びによって、今日も歩むことができますように。

13/01/2022

16年前



2006年春、僕は静岡・富士にある教会に赴任し、牧師生活がスタートしました。


右も左もわからないなかで、神学校の同窓生というつながりで、同じ分区でいつもお世話になったM牧師とお連れ合いのTさん、K牧師。


どんなときにも、励ましてくれたこれら皆さんがあってこそ、今でも牧師を続けてこれたんだと言っても、決して大げさじゃない。神様からのプレゼントです。


久しぶりに夕食を囲んで、まったく気がねのない楽しい時間を過ごすことができました。初めてお会いした時からもう16年も経ったんだ。そう思ったら心が熱くなりました。

2022.1.13 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編70編5節より
あなたの救いを愛する人が
「神は大いなるかな」と
絶えることなく言いますように。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙15章5~6節
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を崇めさせてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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今日の聖書は、賛美をすることの喜びを、私たち一人ひとりに伝えている言葉であると言えるでしょう。
 
ところで、賛美とはなんでしょうか。それは、本日の旧約聖書の言葉にもありますように、「神は大いなるかな」と、神をあがめることです。
 
賛美は、何も喜びのときだけにするものではないというのが、今日の聖書の言葉が語るメッセージです。本日の新約聖書の言葉が語るとおり、神は「忍耐と慰めの源」です。私たちが悲しいときにも、賛美は私たちを慰め、励まし、生きる力を与えるものであることを、私たちはよく知っています。
 
また、今日の聖書の言葉で、大変興味深いのは、賛美は個人のものであると同時に、共同体のものでもあると言われているところです。どのような共同体でしょうか。「神の救いを愛する者」「イエス・キリストに倣う者」たちの共同体であると書かれています。
 
私たちは教会という、集められた場所で賛美をささげることが多くあります。そういう意味では、声やメロディーを合わせることはできるのです。しかし、今日の新約聖書で言われているのは、神の救いを愛する心、イエス・キリストに倣う者としての思いがひとつに集められるからこそ、私たちは賛美をすることができるのです。
 
だから、私たちが賛美の歌を歌ったり聴いたりするときに、自分自身の喜びや慰めのためにもちろんそうします。それに加えて、この賛美をともにする人ひとりひとりもまた、神の慰めや励まし、喜びというものを受け取り、それを共有することができますようにと祈ることができるのです。
 
神の御言葉を賛美し、賛美しつつ祈るところには、必ず神が大いなる祝福を私たちに与えてくださいます。今日も、私たちはそのような賛美に支えられながら一日を歩むことができますように。