24/06/2025

2025.6.24(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言3章5~6節
心を尽くして主に信頼し
自分の分別には頼るな。
どのような道を歩むときにも主を知れ。
主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書21章18節
よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して、私が受け止めたいと思ったのは「人は自分の思い通りにはいかない」ということです。そのなかで、私たちが見つけることができるものとはいったい何かについて、あらためて黙想したいと思いました。
 
私は昨日から、日本基督教団新任教師オリエンテーションで研修のときを過ごしております。二十数名の新任教師の皆さんがこの研修を受けられるのをともに過ごしつつ、私も19年前にこの研修を受けていたことを思い出しておりました。今回、私は主催者側の立場から新任教師の皆さんへのお手伝いをさせてもらっています。
 
キリストを伝えていくという務めと営みは喜びが多いが悲しみも多い。決して順風満帆とは言えない時だって経験することがある。礼拝メッセージや講演を伺っていますと、私よりもさらに経験のある先輩牧師たちからそのようなお話を伺います。しかし、同時にそのどなたも語られるのは、自分自身の力で成し得ようとすると必ずと言ってよいほど無理が生じるということでした。私も20年になろうとしている牧師としての歩みのなかで、そのことを痛感し、また心から実感させられることを思います。
 
伝道とは自分の所業ではなく、神の御業そのものなのだと。実際に働くのは私自身かもしれませんが、その背後には神である主の大きな働きのなかで私という人物が神の御心を自分の思いとしていただいて宣教をした結果としての神の御業なのだと。まさに今日の旧約聖書の言葉である、箴言3章の言わんとしていることなのだと私は受け止めました。
 
自分の思い通りにならない。このことは牧師として実感させられる大変必要な感覚かもしれません。なんでもかんでも自分の思い通りにいったら、私自身が何によって生きているのかということにおいて、大いなる勘違いをしてしまうかもしれないからです。もしかしたら、神の御業を賛美する前に、自分自身の手柄に酔いしれてしまうかもしれないのです。そこに鼻っ柱の強さを感じる自分自身など発見することができないのが、私たち人間の偽らざる姿なのでしょう。
 
若い者が若い時になんでもできたのに、歳をとればとるほど周りの助けなしには生きていけないということが、実は大きな祝福なのだということを、今日の新約聖書の言葉は私たちに知らせています。イエスがご自分の弟子であるペトロに対して語った言葉です。主イエスの弟子としてこれからも生きていくために無くてはならないこと。それは主の御業に助けられつつ生きていくことで得られる幸いというものをいかに大切にできるかということなのでしょう。自分自身の能力に頼ることではないのだと。
 
そんなことを思いつつ、主の御業に生きる幸いを今日も味わってまいりたいと思います。皆さんの一日に、神の御業が親しく臨んでくださいますように。心からお祈りします。

23/06/2025

2025.6.23(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編145編9節
主はすべてのものに恵み深く
その憐れみは造られたものすべての上に及ぶ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章21節
被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入ります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日はそれぞれの場で主の日の礼拝を楽しむことができたのではないかと思います。新しい一週間を生きるために神から押し出されて、今日からウィークデイの日々が始まります。皆さんの平日に、神が豊かに臨んでくださいますように。そんな願いとともに、今日の御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、「つくられた者」としての人間の姿というものを思わされます。皆さんもご存知のように、聖書にはすべてのものは神によって創造されたことが記されています。進化論が生物起源の主流とされているなかで、神がすべてをつくられたという考え方は科学的にどうなのだという議論もしばしば起きています。しかし、科学的に正しいか間違いかということを問う以前に、「神によって私たちはつくられた」という意識は、私たち人間をかたちづくるうえで、絶対に欠かせないことなのだと私は考えていますし、そういう考えが一人でも多くの方々と共有できれば、この世界は平和になるのだと信じたいのです。
 
神が人間に対して願っておられることは、有無も言わせず束縛され、何者かによって隷属されて生きることではありません。人間が神に従うことも隷属や束縛なのではないかという意見もあるでしょう。しかし、私はもしそのことが世の中でそのように感じるとするならば、それは神をゆがんだ支配のために利用・悪用する人間によってつくりあげたシステムなのだと思っています。本来神は人間に対して、互いに妨げ合わない関係性のなかで、神からいただいた自由というものを、世界のなかで喜び合えることを心から望んでおられるのだと信じたい。今日の聖書の言葉は、そのことを私たちに伝えようとしているのです。
 
そのようなコンセプトをもって、私たちが神によって「つくられた」という意識を抱くことの大切さは、そういうところから起きるものなのだとしっかりと受け止めながら、このウィークデイの日々を歩みたいのです。互いに神の慈しみと憐れみに生かされていることを喜び合うことができますようにと祈ります。

21/06/2025

2025.6.21(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編136編3~4節
主の中の主に感謝せよ。
ただひとり大いなる奇しき業を行う方に。慈しみはとこしえに。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録8章6,8節
群衆は、フィリポの行った数々のしるしを見て、こぞってその話に耳を傾けた。町の人々は大変喜んだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この7日間の歩みを振り返るなかで、私自身の生活にゆとりや安心感が欠けていたことを想い起こします。そのようななかで、一つ一つの出来事を通して、確かに神である私たちの主は明らかに生きて働いてくださった。そんなことに感謝できるような聖句を、今日ローズンゲンに示されたふたつの聖句は私に感じさせてくれた。そんなことを受け取りたいと思ったのです。
 
今日のふたつの聖句を貫くテーマは「奇しき業」です。神が与えてくださる不思議な業が、私たちの想像をはるかに超えた喜びを与えてくださるということを、私は素直に受け入れることができたのでした。
 
昨日は、私が責任の一端を担う日本基督教団東北教区の常置委員会(いわゆる役員会)でした。先月から書記の務めをいただいていますが、膨大な資料作成やそのための準備に追われていたなかで臨んだ会議でしたが、無事に乗り越えることができて本当に感謝でした。その日の夕方からは、私が勤務している「東北教区センター・エマオ」で毎月行われている「オープンスペースぽかぽか」が行われました。私はいつも食事をつくる担当なのですが、一日中かかる会議のあとでしたので、いつものように食事の準備をすることができません。どうしようかと悩んでおりました。
 
しかし、エマオのスタッフさんやいつも一緒にぽかぽかを運営している皆さんが、心から協力してくださいました。そしていつものように、いやそれ以上に盛況にこの時を過ごすことができました。そこには喜びがあふれているのを実感して、心から安心感を得ることができました。疲れが癒されていくのを明らかに実感したのです。
 
ぽかぽかが終わるころ、とても嬉しいお客様がいらっしゃいました。今日教会でライブをしてくださるサル―キ=ご一行さまです。実はこのライブのエージェントを担っていたのですが、あまり準備をすることができなかったので、とても申し訳ない気持ちでいっぱいだったのです。それでも久々の再会にとても嬉しくさせられました。
 
一緒に夕食を楽しんだのですが、ここで私の心に神の喜びが明らかに入り込んでいったひと時がありました。その詳細は控えるとして、今まで自分が抱いていた不安は何だったのだろうかというような思いにあふれたのです。神がすべてを導き、喜びへと変えさせてくださる。私は神のそのようなまなざしがあることをどこか忘れていたのではないか。そんなことを思って神に感謝しました。そしてそれを分かち合うことができました。
 
そんななかで、一本の電話がさらに私の心を喜びに満たしました。敬愛する大嶋重徳牧師とひょんとしたことから電話で話した数分間、どれだけ励ましと慰めを得たことか。神はいろいろな方法でまさに「奇しき業」を見せてくださったのだ。そんなことを心にいっぱいに満たして家路に着くことができたのでした。そんななかで、明くる朝に開いたローズンゲンの御言葉に心から「アーメン!」とうなりたくなったのです。今自分に必要な御言葉が与えられる。これぞ神の「奇しき業」なのだと。
 
今日も一日が神の与えてくださる喜びに満たされながら、主とともに歩みたいと思います。皆さんにとっての週の最終日もまた、そのような喜びに満ちあふれたものとなりますように。心からお祈りします。

20/06/2025

2025.6.20(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編25編16節
御顔を向けて、私に恵みを与えてください。
私は独り、苦しんでいます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書10章47節
ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
おととい昨日と、ローズンゲン黙想をお届けできず、申し訳ありませんでした。しなければならないことが立て込んでおりました。しかし、そういう時にこそ、御言葉に向き合う時間を第一に確保しなければと反省するばかりです。それが結果として、私自身の安心した生活を営むことができるからです。思いを新たに、今日ローズンゲンに与えられた御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思いました。
 
今日のローズンゲンに示された御言葉を通して私が受け止めたいと思ったのは、私をいつも見ていてくださる神がおられるということに、私自身気づく者でありたい。私は決して孤独ではないのだから、というものでした。自分のなかで忙しさが続くと、ついつい意固地になってしまう自分自身を発見してしまうのです。自分が孤独のヒーローのように感じてしまうのです。そして、他からの良いものを受け付けることなくはねのけてしまう自分自身があったりするのです。
 
そのなかで、私は思うのです。もっとも大切であり、そして私につねに良いものを与えてくださる方である神のまなざしまで受け入れず、はねのけてしまいそうな自分自身が時に顔を出してしまうということをです。そして、誰からも見守られない、私のことなど分かってくれないと孤独のヒーローのように自分自身が振る舞ってしまうのです。実際にそういうシーンを私たちは多少なりとも経験します。今日のふたつの聖句に共通するのは、誰からも手を差し伸べられないと思い、それゆえに苦しんだ人たちが、神に助けを求めているシーンです。
 
しかし、神はどのような状況であれ、私たちにご自身の御顔を向けてくださっているのです。問題なのは、私自身がそのまなざしがあることを自分の眼のかすみゆえに見ることができないという状態にあるということなのだと私は受け止めました。神が見てくださらないのではなく、私たちの神を見ることができないということなのです。それを、私たちは神のせいにしていないだろうか。そんなことを自戒を込めつつ思わされたのでした。
 
私たちには神の御言葉が聖書を通して与えられています。この言葉によって、私たちは励みや慰めを十分に受けることができるのです。聖霊なる神の助けが、私たちを守ってくださいます。聖霊の導きこそ、心で神を見つめるためになくてはならない働きであり、神は私たちのことを見つめつつ、聖霊の助けをもって私たちが孤独に感じないようにいつも助けてくださるということなのだと。私は自分自身の忙しさを言い訳にして、この大切なことを忘れかけていたことを神の御前に思い直したいと思います。決して孤独ではないのです。孤独ではないのです。
 
今日も自分自身に務めが与えられています。私を見つめてくださっている神に信頼しつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神のまなざしが皆さんを豊かにしてくださる実感があふれんばかりにありますように。お祈りします。

17/06/2025

2025.6.17(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記46章3~4節
私は神、あなたの父の神である。私はあなたと共にエジプトへ下り、また必ずあなたを導き上る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章28~30節
ペトロが、「このとおり、私たちは自分の物を捨てて、あなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「よく言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は誰でもこの世でその何倍もの報いを受け、来るべき世で永遠の命を受ける。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神は私たちの不安を不安のままにはしておかれない」というものでした。そのことについて黙想をつづってみたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、読み方に注意を払いたいと私がいつも思っている聖句です。誠実に日々を生きていたある者がイエスに、永遠の命を得るには何をしたらよいかを尋ねました。その人は律法の言葉を言葉通りに守っていたことをイエスに告白しますが、イエスはその人にとってチャレンジとなることを提示します。自分の財産を経済的に困窮している人のためにすべて用いなさいというものでした。
 
その結果、その議員はその場を去ってしまいます。チャレンジとされていることを自分のものとすることができませんでした。そのようなやり取りのあとで、神の国の価値観に生きることの難しさを告げたのち、今日の聖書の言葉に示されたことを弟子たちに告げたのでした。
 
私はこの聖書の言葉に聴くときに、聖書の言葉をその言葉の通りに読み、それを受け入れ、それを自分自身の生き方とする場合、それを文字面だけでとらえるのではなく、やはりその言葉に示された「本質」というものに、いかに自分自身の心や目、耳というものを傾けることができるのかというところにこそ、御言葉を神の御言葉として受け入れられる絶対不可欠のものと考えています。つまり「なぜを問う」という営みを大切にすることです。
 
心のともなわない言葉は、言葉だけが独り歩きします。その言葉が武器や凶器となることだってあるのです。私がこのルカ福音書の聖句に注意を払いたいと言ったのは、この言葉を用いてささげることを強要し、多くの金銭的被害をもたらしたキリスト教系宗教団体、また教会の存在が後を絶たないことを知っているからです。私は思うのです。なぜを問い、神との深い対話を何にも邪魔されずにおこなった結論として、自分自身に対する神からのチャレンジを受け入れたところにこそ、はじめて祝福というものを味わえるのだと。
 
誰かから宗教的なアプローチを経て、その意味を考えることなく行動を行うというところには、多くの危険が伴います。まさに不安を抱えたままその不安に対する神へのまことなる信頼が失われたまま、私たちは誤導させられることがあるということを考えたいのです。この誠実な議員はそのことが足りなかったのでした。
 
私たちの不安を不安のままにしておかれない神が、他の何者もの介入の邪魔を許さず、私たち一人ひとりをご自分の道へと導いてくださるのです。そのためにも、私たちは神が語り掛ける御声というものを、聖書と聖霊という両輪の助けを通して、その本質を問い続けて、神に信頼を置くいしずえとしたいと心から願いつつ今日という日を歩みたい。これが私の得た黙想でした。皆さんを必ず祝福してくださる神が、今日も私たちにチャレンジを与えてくださる。そのことに心を寄せつつ生きることができますように。皆さんの主にある祝福が豊かにありますように。お祈りします。

16/06/2025

2025.6.16(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言15章1節
柔らかな受け答えは憤りを鎮め
傷つける言葉は怒りをあおる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章13節
キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全な言葉を手本としなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日はそれぞれの教会や集会で、主の日の礼拝を通していのちの祝福を味わう機会が与えられたのではないかと思います。私も午前は近隣の教会で、午後は代務牧師を務める教会で、それぞれ喜びをいただくことができました。ここのところ身体は疲れていますが、健全な心が宿るところには健全な選択と行動ができることを心から信じ、神の喜びとともに歩むウィークデイでありたいと心から願うばかりです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「健全な言葉」についてです。父・子・聖霊なる三位一体の神が、私たちひとりひとりの人生の日々を守り、祝福されるときに、私たちの口から発する言葉も神の御心にふさわしい健全な言葉を紡ぐことができるのだということを、今日の聖句は私たちに伝えているような気がしてなりません。
 
昔から、いわゆる「信仰に熱い」方々がご自分の信仰をあらゆる方法を通して表現することがあるのを、皆さんはよくご存知であると思います。最近ではSNS界隈でそのような表現がなされることが多いわけですが、インターネットを介したそのような自己表現は、私たちがまったく会ったこともない人間であったとしても、その存在がぐんと身近になっているような気がしています。もちろんそのような表現として、従来の書籍や雑誌、テレビやラジオなどの媒体が今でも用いられているわけですが、インターネット媒体は、より多くの情報をより簡単に入手できる手段としてひろく用いられているのは、皆さんもご存知の通りかと思います。
 
しかし、どのような媒体を用いてもそうなのですが、そこには必ず「倫理」がともなうということを、私たちは決して忘れてはならないのだと感じています。私は常々感じていることなのではあるのですが、インターネットが市民権を得て、誰もが利用したり自己表現ができているなかで、意外にも「インターネットの倫理」について学び、理解する機会が少ないとということをあらためて思わされるのです。特に、キリスト者が自分自身の信仰観をもってインターネットを用いて自己表現する時に、今日のローズンゲンに示されているような言葉に裏打ちされた倫理観というものを大切にしているのだろうか。そんなことを自戒を込めつつ、考えさせられるのです。
 
あまりにも挑発的かつ挑戦的な発言や、事実に基づかない話題、他者を貶めるような発言というものを、自分の信仰観にもとづいてインターネットという公器に載せて広げようとするならば、それは本当に神がお望みなことなのだろうかと、その御心を問い直すことも必要なのだと私は感じています。もし対面では控えているようなことを、インターネットでは平気に行っているならば、それは器の用い方の誤用としか言いようがないのだと私は感じます。何をするにしても、私たちは聖書の一部分だけを取り出しては自分自身を正当化することのないように、今日の聖書の言葉を通して、神と対話しつつ自己省察したいものです。
 
私たちの発する言葉が、神の栄光を指し示し、イエス・キリストにある信仰と愛が満ちあふれるものとなりますように。そのことが私たちの生活を豊かなものとしますように。祈りつつ今日の残りの時間も過ごしてまいりたいと思います。皆さんのことをも想いつつ、心よりお祈りします。

15/06/2025

2025.6.15(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書7章9節
真実の裁きを行い
互いに慈しみ、憐れみ合え。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二2章24~25節
主の僕たる者は争わず、すべての人に優しくし、教えることができ、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導かねばなりません。もしかすると、神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間を迎えました。今日、世界中の教会や集会でおこなわれる主の日の祝祭が豊かなものでありますように。心からそのことを願い、祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に聴いてまいりたいと思います。
 
今日示されたふたつの聖句を通して受け止めたいと思ったことは「私たちを敵と思う人がいたとしても、私が敵と思う必要はない」ということです。そのことを、今日の新約聖書である「テモテへの手紙」の一節は私たちに伝えています。
 
テモテへの手紙は、使徒パウロが年若き伝道者であるテモテに対して、自分の持っている大切なことを伝えようとのコンセプトで書かれたものです。パウロによる真筆かどうかという議論はありますが、今日はその話題は置いておいて、この時代にイエスを救い主として伝えることがどういった状況のなかでなされていたのかということを知るうえで、この手紙は私たちに理解を与えるのです。
 
では、どのような状況かと言えば、パウロやテモテのような伝道者を「敵」とみなす人々が多かった、ということです。イエスに対しても彼を敵と思っている人がいたように、神による真実の言葉を伝え分かち合うというのは、常にチャレンジが求められているのだとつくづく思わされます。そのようななかでパウロは、歳若く将来性のある同労者テモテに対して、伝道者の心構えについて知らせようとするのです。
 
自分を敵と思っている相手に対して、こちらが敵と思う必要はないのです。今日の聖句に示されているエッセンスとはこのような姿勢なのです。神を敵と思う悪魔サタンによって人々はその餌食にされている。実は敵と思ってもおかしくないような自分へ憎悪の念を抱いている人たちもまた「犠牲者」であることを、私たちは忘れてはいけないのです。
 
だからこそ、神が私たちに教え、伝え、示されたことによって芽生えた「愛と平和」をもって、まず私たち自身が生きることが大切なのです。敵に向き合うことに己を集中させると、もちろん成果はあるかもしれませんが、心により一層の疲労をもたらすかもしれません。まず自分自身が神によって喜びをいただいていることで、私たちは心が安心感を抱くようになり、この安心から来る穏やかさをもって、どんな人にも接してくことが最終的に神の良いものがいわゆる敵の人生をも変えていくのだということを、パウロはテモテに伝えたかったのでしょう。
 
もちろん、そうすることで自分の身に危険が及ぶこともあります。その時には柔和な心をもって神にとりなしの祈りをすれば良いのだと私は考えています。それがどのような行動に至ろうとも、大切なのは敵視に敵視をもって応答しないという姿勢を神の導きと助けによって得るということなのです。これが「主の慈しみに生きる姿勢」であり、私自身も福音を宣べ伝える者として、このことを大切にしつつ、新しい一週間を歩みたいと心から願わされました。
 
どうぞ、皆さんの新しい一週間とその先駆けとなる今日の一日が、主の慈しみを存分に受ける時となりますように。心からお祈りします。