くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書9章6節
見よ、私は我が民を火で精錬し、試練を与える。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章40節
祈りなさい。誘惑に陥らないために。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日で7月も最終日を迎えます。この一か月間、私たちはどのような日々を過ごすことができたでしょうか。それらの時を振り返りつつ、今日も与えられた神の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「私たちに訪れる試練の多くは、誘惑によるものである」ということでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
誘惑とは何だろうか。そんなことを考えます。ひと言でいえば「神がイエス・キリストを通して差し出してくださる方法以外を選択することが、私たちにとって幸いをもたらすのではないか」と感じ、思い、行動にいたる私たちの心境なのではないかと私は思いました。
神がイエス・キリストを通して差し出される方法は、時には魅力的なことを私たちに提示しますが、その反面、即効性がなく、現実的でもなく、実効性もないように見えることがあります。私の思うように神が動いてくださらない。そのことに私たちは待つことができず、どうしても耐えることができないのです。だからこそ、私が「気持ちよくなる方法」を見つけ、そのことに忠実になろうとする。これこそ「誘惑」が指し示す意味なのだと私は思うのです。
しかし、その方法を選択することは、いっ時の役得というものを私たちは経験するかもしれませんが、その思いが永続するとは決して限らないということは、歴史と私たちの経験が証明しているのではないだろうかと思えてならないのです。私たちが空しさを感じ、だれかの尊厳を犠牲にしてでも、私たちは大切にしなければならないことを踏みにじり、それを踏み台にして自分自身だけが幸せになろうとする。そこには平和は決して存在しないのです。
だからと言って、私たちの幸福というものが決してふいにされてもならないことも事実です。なぜならば、私たちに幸福を誰よりも願っておられるのは、神御自身であることに間違いないからです。だからこそ、私たちは神の願いとともに歩めるような幸福を味わうために、神が提示される方法によって、自分自身の生き方を神に「精錬」していただく必要なあるのだと。今日の旧約聖書の言葉が述べている通りです。
そのためにも、私たちは祈ることを忘れないでいたいと心から願います。神の言葉に聴き、尋ね、そして祈るのです。神との深い対話を通して、私自身の姿というものを吟味しつつ、自分自身が神の品性によって練られていくことを信じ、私自身の姿を見つめつつ、誘惑に対峙しながら神とともに歩むことが、私たちにとっての真の幸いなのだということを確認したいのです。
イエスがなぜ「祈りなさい」と弟子たちに告げられたのか。神の言葉とともに祈りというものがセットとなって、私たちは出会う日々の出来事のなかで、神に精錬されていくことを喜びたい。これが今日、私が受け止めたいと思ったメッセージでした。
どうか、神が私たちの心を守り、誘惑によらなくても生きていくことのできるような者でありますように。そのことを心から願いつつ、今日も一日、神からの平安と祝福をいただきたいと祈ります。皆さんの一日にも、主がともにいてくださることを実感できますように。心からお祈りします。