09/03/2026

2026.3.9(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編89編12~13節
天はあなたのもの、
地もまたあなたのもの。
世界とそこに満ちるものは
あなたが礎を築いたもの。
北も南もあなたが創造された。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録17章26節
神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の全地域に住まわせました。
©日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、私たちに命を与えられる神が、私たちに良い道を指し示し、その道を歩ませ、私たちが道を踏みしめる幸いを味わうことができますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「私たちの創造主である神」でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちが今、世界中で見ている戦争・紛争はいずれも「宗教が異なるあいだでのもの」であることが分かります。ロシア(ロシア正教会)とウクライナ(ウクライナ正教会)、イスラエル(ユダヤ教)とパレスチナ(イスラム教)、そしてアメリカ(キリスト教)とイラン(イスラム教)といった具合にです。
 
民族が違えば宗教も違う。そのような「違い」のなかで、人が人を傷つけ、殺め合う現実が起きていることに心痛めます。そして、神はこのような状況をどのようにご覧になられているのか。そんなことを心底から想わされます。そのときに、「創造主である神」という考え方は、私たちの心の抑止力になるのだと、私は信じてやまないのです。
 
今日の聖句で言われている「神」は、聖書に記された神であることに間違いないのですが、それはいわゆる「キリスト教至上主義」を助長するものでは決してないと私は考えています。他と比較して優劣を人間が決めようとするからこそ、争いが絶えないのだと思うのです。大切なことは、「神がどう思われるか」というところにあるのです。
 
もし、私たちすべての命の源が、宗教や民族の別なく、おひとりの方であるという考えが、私たちの共通認識となれば、そこには「造られた者であることへの責任」というものが生まれてくるのでないか、いや、この責任を大切にしようという動きが少しでも芽生えて来れば、平和というものに一歩だけ近づけるのではないだろうかと、私は思ったのです。
 
もちろん、近親であればあるほど、そのような関係を構築することの難しさというものもあるでしょう。しかし、そういうときにこそ、水平でものを見、相手との違いをことさら強調するのではなく、垂直思考で神を見、神と私との関係性、神とあなた、神のあの人とのつながりということに、目をとめ、思いを寄せることが大切なのだ。そのように私は思ったのです。
 
そういう営みが、結果的に自分自身の神を確認し、その神を大切にすることへの幸いへとつながるのだと思います。自分自身のあり方に誠実であることの幸いというものを、今日も味わっていきたいと心から願わされた次第です。
 
皆さんの一日もまた、そのような幸いに包まれることを、心からお祈りします。どうぞ素敵な一日でありますように!

08/03/2026

2026.3.8(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記18章3節
わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章5節
イエスは言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」
©日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。この一週間、私たちはどのようなことが待ち受けているのでしょうか。東日本大震災から15年、パレスチナ、ウクライナ、そしてイランの各地で繰り広げられている戦争、私たちの人間関係、そのひとつひとつに、私たちの神はどのように関わり、私たちにご自分の御心を与えようとされておられるのでしょうか。そして、私たちは御心にどのように応答しようとしているのでしょうか。
そんなことを思いながら、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句より、黙想をつづりたいと思います。
 
今日のテーマは「私たちの前を通り過ぎない神」と受け止めました。むしろ、神の前を通り過ぎようとしているのは、私たち自身なのではないかと。私はそのように思えてならないのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、自分の前を通り過ぎようとする旅人を、アブラハムが迎えるシーンです。自分の前を通り過ぎないでくださいと、客人を呼び止め、もてなしをしました。実はこの客人こそ、神が遣わした天使であったろうと考えることができます。この客人によって、アブラハムと妻サラのあいだに男の子が生まれることを予告されます。まさに、それは神による恵みのメッセージでした。
 
神は決して、ご自分を慕い、懇願する人間を見捨てることはありません。それがご自分の御心に適うものならば、神は惜しみなくご自分の良いものを与えてくださる方です。これこそ、後にエリコの町を訪れたイエスにひと目会いたいと、イエスのそばに近づいたザアカイに、イエスが「あなたの家に泊まりたい」と、ザアカイの願いを叶えさせて、ザアカイの心を神に向けたエピソードに相通じるものがあるのです。
 
アブラハムにしてもザアカイにしても、彼の心に神が宿りました。これが、彼らにとって生きるためになくてはならない土台となりました。私たちも神によって、私たちの心に神御自身の良いものを宿らせてくださるのです。決して通り過ぎることがない。そのことを信じて、今日という一日、今週の七日間を歩む者でありたいと願います。
 
どうか皆さんの新しい日々が、神によって豊かなものとされますように。心からお祈りいたします。どうぞ素敵な一日をお過ごしください。
 

07/03/2026

2026.3.7(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編115編2~3節
なぜ国々は言うのか。
「彼らの神はどこにいるのか」と。
私たちの神は天にいまし、
御旨のままにすべてを行われる。


旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章9節
イエスは言われた。「私を見る者は、父を見ることになるのだ。」
©日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日までの三日間、黙想をお休みさせてもらいました。お読みくださっている皆さまには、不便をおかけして申し訳ありません。疲労がたまっておりましたので、自分自身を整えるために、お休みをいただいていました。休んだおかげで、英気を取り戻すことができましたので、今日から再開したいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が今日受け止めたいと思ったのは、「イエスの言動を通して神を見る」ということでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは、救い主イエスを2000年前の弟子たちのように、直接見ることができません。その代わり、私たちには聖書の言葉を通して、イエスの言葉と行いに触れることが十分にできるのです。それが単なる「読み物」ではなく、イエスの息づかいというものは、聖霊の大きな助けによって、私たちの心に響きわたることを私たちは信じて、聖書の言葉にじっくりと聴くことが可能とさせられているのです。
 
イエスは、神がどのような御方であるかということを、100%、その人生において明らかにされました。旧訳聖書に記されている父なる神の姿が、さらに完璧なかたちによって明らかにされたのです。一見すると、粗削りなまでに私たちに豪放磊落ぶりを示した父なる神のシルエットは、イエスによって粗削りの十字架に架けられることによって、その命を私たちに与えられることによって、私たちの目の前に実像として明らかにしてくださいました。その姿は、決して粗削りなどではありませんでした。究極の「愛」というものを、私たちに対して突きつけられたのでした。
 
だからイエスは言われました。「私を見る者は、父を見ることになる」と。私たちは、徹底的にイエスの足跡についていく。その足取りが乏しくても、ついて行きたいと思う心が少しでもあるのならば、イエスは絶対に私たちと一緒に歩んでくださいます。イエスを見つめ歩むことの幸いを、イエスは十字架に架かる前夜に、弟子たちに対して語られたのです。
 
だから、私たちは五里霧中のなかで「私たちの神はどこにいるのか」と、さまよい歩く必要はどこにもありません。そういう思いになってしまうこともあるでしょう。疲れている時などは、特にそのような思いにさせられることがあります。私はそこまでではありませんでしたが、身体が疲れていると、健全な思考にいたらないことも多々あります。ここ数日は特にそうでした。しかし、そんな時にも体と心を休ませ、落ち着いて神を見つめる時が与えられるというのは、次を生きるための幸いになることを強く思わされます。
 
そんなことを胸にして、今日という一日を生き、明日から始まる新しい一週間の良き始まりにつながれたいと心から願い、祈ります。皆さんの一日も、七日間の旅路の最終日として、神の守りによって、大いに祝福されますように。心からお祈りします。

03/03/2026

2026.3.3(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
士師記10章10節
イスラエルの人々は主を叫び求めて言った。「私たちはあなたに罪を犯しました。私たちの神を捨てました。」


旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書3章2節
(洗礼者ヨハネは)言った。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
©日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も私たちの一日を守り、導いてくださる神が、私たちの歩みにともない、ご自分の言葉と聖霊の導きによって、私たちに行くべき道を与えてくださいますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、どちらも「罪」について語られたものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
罪とは神を捨てること。今日の旧約聖書の言葉である士師記の一節から、私たちはこのように考えることができます。何を捨てるのでしょうか。「神の思い」を、自分自身の思いから排除、またはないがしろにし、もしくは自分自身の願望にすり替えて、さも神の願いのように思い込んでしまおうとすることが、「神を捨てる」という行為につながるということです。
 
私たち日本人は、神に背を向けて歩むことも、いわゆる一般的な「悪いこと」も、すべて「罪」という言葉で表現します。そのこと自体間違っているわけではないのですが、聖書で示されている罪は、神を捨てて、独立独歩の道を歩むことによって、さまざまな思い違いを生むことで、一般的悪事に至るという基本的な理解があります。
 
それは逆を言えば、神の願いを自分自身の生き方とし、神とともに歩もうという謙虚な気持ちをもって、自分自身が神によって変えられることをいとわないような思いがあるならば、少しでも罪の道へさ迷いこんでしまうことから、神が私たちを守ってくださいます。そうであったとしても、私たちは折に触れ神を捨ててしまうことがあるくらいですから、なおのことなのだと思います。
 
大切なのは、その自分自身のありようというものを、謙虚に見つめ続けること。その思いをもって、神に自らをたださらけ出すことなのだと。神の前で格好つけたってしょうがない。もうすべてを知られているのですから。神の御前に正直であること。そして、私たちを平安へと導いてくださる神がおられるということに、心から喜べるような自分自身にしてもらうべく、神に願い求めること。そして、ただ誠実であること。こういうことこそ、みずからの罪を自覚しながらも、神を積極的に捨てることから、少しでも解放されるのだと思うのです。
 
そのために、洗礼者ヨハネが私たちのために神によって与えられ、新たに神とともに生きるそのしるしとして洗礼という出来事が与えられ、そして何よりも、洗礼によって神の御子であることが明らかにされた救い主イエスが私たちに与えられたことを、心から感謝して歩みたいというのが、今日私が得た黙想でした。
 
今日の一日が、そのような感謝と喜びに満ちあふれた時となりますように。心からお祈りします。

02/03/2026

2026.3.2(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編22編28節
地の果てに至るまで、すべての人が主に立ち帰るように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書8章11節
東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、私たちに生きる命を与え、その行く道を導かれる神が、皆さんとともにおられることを、私たちの喜びとすることができますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「地の果てにいたるまで」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって語られた言葉です。「神の国」、つまり神の抱かれる価値観について、触れているなかで語られたものですが、神の価値観がいきわたる世界は、まさに「宴会」のような喜びがあることが、イエスによって語られています。
 
アブラハム・イサク・ヤコブという、いにしえから神の民の祖として大切にされ続けてきた人物が列挙されています。アブラハム・イサク・ヤコブと言えば、おのずとイスラエルのことを指します。神はイスラエルという国こそ、神の国の現実的な姿である。そう信じている人たちも決して少なくありません。このイスラエルから世界的な「神の国」が広がりゆき、展開されていくという考え方です。
 
しかし、一方で、そのような「イスラエル主義」という考えではなく、神はイスラエルを超越した「全世界」にこそ、神の国をお建てになられた、という考え方もあります。イスラエルから出発したことは確かですが、イエスが十字架と復活を経て私たちの救い主となられた時、この良いたよりは全世界へと広げられていきました。この日本へもです。それは「イスラエルの拡張」では決してなく、「全世界を治められる、世界の神である主」の喜びなのだと。私はそのように信じ、神の世界のなかで生かされていることを、大いに喜びたいのです。
 
今日の旧約聖書の言葉には「立ち帰れ」とあります。私たちが神の世界に生かされるということを、私自身のなかで大切なものとして温め、そしてしっかりと握りしめているだろうか。そんなことを振り返り、思い巡らされています。限定されるのではなく、広がりゆく神のダイナミックスというものを、大いに喜びつつ、私もそういう神の価値観に支えられながら生きていきたい。これが今日の私の黙想でした。
 
その広がりとダイナミックスのなかで生かされる今日の一日が、素敵なものでありますように。神が与えてくださる守りと平安を、心からお祈りします。

28/02/2026

2026.3.1(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨシュア記23章11節
あなたがたは生きていくために、あなたがたの神、主を愛するようにひたすら心がけなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一5章3節
神の戒めを守ること、これが神を愛することだからです。その戒めは難しいものではありません。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、こんばんは。
新しい一週間を迎えました。今朝は十分に黙想をつづる時間がありませんでしたので、夜になってしまいましたが、簡単に今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句からの観想を書き留めたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「神である主ヤハウェを愛する」でした。神を愛するということは、決して難しいものではありませんと、今日の新約聖書・ヨハネの手紙の一節では述べられています。この言葉に、私たちはどのような印象を抱くでしょうか?
 
神を愛することは、実に難しいとお感じになられるのではないでしょうか? 神を愛したくても愛せない自分自身がいる。そんなことを感じる自分自身が私にもあります。それこそ、私たちが神に向き合うことのできない「罪」の根源というものであるかもしれません。
 
しかし、私たちが神を愛そうとする前に、神は私たちのことを愛してくださるという前提があるからこそ、私たちはそのことを聖書の言葉から知り、神が私たちひとりひとりを信頼して今日も生かしてくださっているということを、自分自身のなかで想い巡らすことができるのだと思います。
 
愛するとは大切にすること。私たちがどんなに周囲から、社会から大切にされていないと感じたとしても、私たちは神によって大切な存在とされているという自覚が、慰めを生み、励ましを生む。生きていくことができる希望が私たちのなかから芽ばえるならば、それが神を愛するという私たちの思いへと揺り動かしていくのです。これが、旧約の時代からずっと、神の民たちの土台となったものなのです。
 
私たちが十分に神を信頼できなかったとしても、神は私たちに「大切にする」ことの意味というものを、あらゆる場面を通して気づかせてくださる。神がそのようにしてくださるという思いが、神を愛するということを「決して難しいもの」という私たちの意識から解放させてくださるのだ。これが、今日の聖書の言葉が、私たちに伝えようとしていることなのであって、私たちはこの希望に生かされ、生きる者でありたいのです。
 
今日も残り少ない時を私たちが過ごす時に、この事実を思い巡らすことができますように。そして、今日の休息の時を経て、また訪れる朝の光を、喜んで迎えることができますように。そのことを心から祈りつつ、皆さんとともに神を愛する喜びを味わってまいりたいと思います。どうぞ素敵な夜のひとときをお過ごしください。

27/02/2026

2026.2.27(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ネヘミヤ記1章6節
ああ、主よ、どうかあなたの耳を傾けて、私が今、あなたの僕たちのために昼も夜もあなたの御前で祈るこの祈りを聞いてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章7~8節
まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日、日本中で曇り空の一日になりそうですが、私たちの心や思いを曇らすような出来事や物事があるならば、神が私たちに晴れ間の心地よさを与えてくださいますように。そんなことを願いつつ、今日のローズンゲンに示された聖句に耳と心を傾けたいと思います。
 
今日選ばれたふたつの聖句に共通する言葉は「昼も夜も」でした。旧訳聖書では、昼も夜も神に祈る人に、耳を傾けてくださいと願う信仰者について、新約聖書では、どんなに非人道的な裁判官であっても、寡婦の熱烈な祈りには耳を傾けるだろうというたとえ話を引き合いに出しつつ、私たちの神は私たちの願いに必ず耳を傾けてくださるという、イエスの言葉が語られています。
 
昼も夜も、という言葉に、私たちはどのような印象を抱くでしょうか? 絶え間なく、どんな時でもあきらめることなく、呼吸するようになど、いろいろな印象が浮かび上がってきます。私はいつも思うのですが、私たちはたとえ祈ることがなかったとしても、神は私たちの思いをすべてご存知なのだから、祈ることそのものに意味はあるのだろうか、という問いに対して、そうであったとしても、神に祈ることはやはり大切なのだと。
 
子どもが親に対して、今日あったことを、「あのね、あのね」と一生懸命話そうする姿こそ、神に祈る私たちの姿なのかなと、私はイメージしたいのです。こどもは自分自身のうちにとどめておくというよりは、少しでも知って欲しい、わかって欲しい、理解してほしいと願い、そのことが果たされることによって安心感を得ることを心から望みます。私たちはこのようなこどもでありたい。人は聴いてくれなかったとしても、神は聴いてくださるのです!そんな思いをもって、神に祈る一日というものを営みたい。これが、私の受け止めたいと思ったことでした。
 
忙しいさなかにあったとしても、今日も私たちの一日をともに歩んでくださる神が、祈りを通して私たちに安心感を与えてくださいますように。その安心感こそ、私たちひとりひとりを生かすもといとなりますように。心からお祈りします。