11/09/2026

2026.9.11(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
歴代誌上13章8節
ダビデとイスラエルの人々は皆、神の前で力の限り、歌を歌い、琴、竪琴、タンバリン、シンバル、ラッパを奏でた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章16節
いつも喜んでいなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は、あのテロから25年を迎えた祈念すべき一日です。2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが起きました。多くの命が奪われるとともに、あの日からテロへの反撃が始まっていきました。人の命がいとも簡単に奪われることへの恐怖、それを正当化しようとする人々の思い、そんなことを目にしながら、聖書から語ることへの意味というものを、深く考えずにはいられませんでした。あの日、台風が過ぎ去ったあとの不気味な夕焼けが東京の空を包んだ記憶とセットとなって、テロのことを思い出すのです。そのことを憶えつつ、今日の聖書の言葉に心を傾けたいと思います。
 
今日の聖句が語ろうとしているメッセージは、「賛美の喜びを響かせる信仰者の姿」というものでした。9.11を覚えるのには、あまりにも「似合わない」聖書箇所であると私は感じました。世界中を震撼させたあのテロの状況下にあって、私たちは究極的に神に賛美の思いを向け、神とともにある喜びを感じることができるでしょうか? むしろ逆なのではないかと私は思えてならないのです。
 
私たちが喜ぶことができないとき、神はそれをお許しになられるのでしょうか。神はそんな私たちの真実というものをよくご存知であることを信じたいのです。泣く時にともに泣いてくださる神だからです。悲しみに、はらわたがちぎれるほどの思いで私たちとともにある方、それが私たちの神であり、イエスが私たちに示されたことでした。
 
私たちは「いつも」喜ぶことはできないかもしれない。今日のテサロニケ書の聖句が私たちに訴えるように、私たちがつねに喜べたらどんなに良いだろうと願いつつも、それができない時、それでも私たちに切なる願いがあることを、神はちゃんと見てくださっていることを信じたいのです。いつかは喜べる日が来ることを私たちが望むときに、神は必ず時宜にかなった助けというものを、必ずお与えくださるのだということを、心の底から信じたいのです。
 
悲しみや怒りを抱いている自分があるからこそ、神が与えてくださる喜びに感謝できるのだ。そんな思いをもって、今日の一日も、神とともに歩むことができますように。皆さんの主にある守りと祝福を、心からお祈りします。

10/09/2026

2026.9.10(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
箴言16章32節
怒りを遅くする人は勇者にまさり
自分の心を治める人は町を占領する人にまさる

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録14章12節
ここに、神の戒めを守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐がある。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も私たちの生活のすべてを御存知であり、時に応じてその生活を守られる神である主が、皆さんとともに、豊かにおられますように。特に、痛みや苦しみのなかにあるすべての方々に、格別に神が臨んでくださいますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の聖句から、私があらた、あらためて受け入れたいと思ったのは、「自分自身の感情をコントロールすることの幸い」というものでした。いかに、私自身の心の揺れ動きというものを理解しながら、それに見合った冷静かつ情熱的に生きるということへの幸いについてです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、箴言(ことわざ集)の一節でした。「怒りを遅くする」こと、「自分の心を治める」という二者は、抜き差しならぬ関係にあることを想わせる聖句です。
 
怒りを遅くすることは、なにもやせ我慢することではないと私は思っています。怒りの感情を神に診てもらうという営みを大切にすることによって、私たちは結果的に怒りを遅くすることができるのだと思います。ついつい自分の感情で思いも心もいっぱいになってしまうと、特に理不尽な扱いを受けたときなどは、そのような冷静さを欠いてしまうことがあるからです。
 
私の昔を知っている人は、その通りだと思われますが、私は自分自身の怒りの感情をコントロールすることが本当に難しい人間でした。自分の痛点をさわられるようなことがあると、怒りが一気に爆発するということを繰り返してきました。
 
しかし、そんなことは結果的に、何の益ももたらさないことに気付かされました。そのことを深く反省しながら、自分が今こういう感情を抱いているのだということを意識しながら、神に聴き、聖書の言葉に聴き、祈りながら、その場をなるべく冷静に過ごそうと自分自身に言い聞かせました。結果として、それは自分自身にも、周囲にも良いものを残しました。
 
今日の新約聖書の言葉は、「イエスに対する信仰を守り続ける忍耐」とあります。理不尽なことがわが身を襲っても、すべてを御存知である神が公平かつ公正に、私たちのありようを取り扱ってくださることに深い信頼を寄せることこそが、信仰の本質なのであって、その結果が忍耐という出来事につながっていくのだと、今日の聖句を通して感じ取りました。
 
自分自身が短絡的にならずに、深い視座をもって自分自身の感情を治めながら、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの一日にも、そのような姿を祝福してくださる神が、ともに豊かにおられますように。心からお祈りします。

09/09/2026

2026.9.9(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ネヘミヤ記13章2節
私たちの神はその呪いを祝福に変えてくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙3章13節
キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木に掛けられた者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
全国各地で、豪雨によってさまざまな被害が出ています。今日も東海地方で不便と不安を強いられている方々がいることを思うと、それらのすべてに守りがあることを祈らずにはいられません。そのことを祈りつつ、今日の聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「呪い」です。この言葉をどのように解せばよいかということを思うのです。単に、誰かが誰かをうらむあまり、その人物に災いが降りかかるようにと願うことを、私たちは呪いという言葉を用いて表現するかもしれません。しかし、今日の聖句にじっくりと触れてみますと、呪うという行為よりも、呪いの源となるもの、つまり「災いそのものの根源」と考えることができるのではないかと私は思うのです。
 
今日の新約聖書の言葉であるガラテヤ書の一節で、「キリストは私たちのための『呪い』となって」とあります。キリストは私たち一人ひとりが負う災いから解放されるために、私たちに代わって、その災いを一手に背負われた。それは、私たちが負うべき呪いを、キリストが負ってくださった出来事に他なりませんでした。
 
「律法の呪い」とあります。律法は私たちを神の民とする保証のようなものでした。しかし、それには遵守という契約の責任が生じたのでした。そのような責任があるのにもかかわらず、私たちはそれをなすことができませんでした。私たちを保証するはずの律法が、私たちを縛る「呪い」になってしまったのです。それを、御自身の血肉をもって、呪いの象徴である木(十字架)にかけられることによって、その呪いをかき消してくださったのがキリストだったというのです。
 
神は、私たちを呪いを抱えたままにされることを、決してお許しになられないのです。呪いを祝福へと変える神。これが、今日のローズンゲンのみ言葉そのものが指し示すメッセージです。このことを信じつつ、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

08/09/2026

2026.9.8(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編32編10節
主に信頼する人は慈しみに囲まれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録22章21節
主イエスの恵みがあなたがたすべての者と共にあるように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、神様の良いものが充分に皆さんとともにありますように。そのことを祈りつつ、ローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、聖書そのものの最後を飾る一節です。神による救いのみわざがすべて完成して、神の国とその平和が余すところなく全地に及んだ時、その最後に実現されることを、未だそこに至っていない世界に対して語られます。そこには、私たち一人ひとりの希望が、救い主イエスによる祝福とともに約束される言葉こそが、今日の新約聖書の聖句として選ばれたものです。
 
ヨハネの黙示録を読むと、決して喜ばしい出来事だけではありません。神とともに歩む道には多くの苦難があり、闘いがあり、多くの妨害があります。つらいことばかり続くのもまた確かです。しかし、そのような苦しみのなかで、神のみ心は着実確実に進んでいく。そんな約束と希望に満ちあふれた幻が語られるのも、ヨハネ黙示録の魅力と言ってもよいでしょう。
 
その集大成として、私たちに神の平和が与えられ、インマヌエルの主がともにおられることがしっかりと保証されているのです。これこそ、私たちが今を、そして未来を生きるいしずえなのだと、私は心から信じて生きたいのです。これこそ「主に信頼する者」という、今日の詩編の言葉につながっていきます。
 
たとえ苦痛をともなったとしても、その苦痛をやわらげるのは神のいつくしみなのだと。それに囲まれる私たちの姿がここにあるのだと信じて歩むことの幸いを、今日も感じとることができますようにと祈ります。インマヌエルの主イエスがともにおられることこそ、今日を生き抜く土台になってくださるのだということに希望を寄せつつです。
 
どうか、主イエスの恵みが、私たちひとりひとりとともにありますように。心からお祈りします。

07/09/2026

2026.9.7(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編30編2節
私はあなたを賛美します、主よ。
あなたは私を深淵から救い上げて下さいました。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書5章41~42節
イエスは子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は朝から悪天候に見舞われている仙台の街です。関東から東北にかけて、暴風雨が襲うことが予想されています。少しでも安全が守られることを祈りつつ、今日の聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の旧約・新約聖書の言葉から、私が受け止めたいと思ったのは、「神は私たちのどん底から救い上げてくださる方である」というものでした。今日の詩編の言葉では「深淵」と呼び、福音書のなかでは、幼い娘を亡くしてどん底のなかにある状況があったことがうかがえます。そのようななかで、神がその状況を決して忘れずに救い上げてくださったこと、「起きなさい」というイエスの宣言によって、娘は息を吹き返したこと。これが、聖書の物語る神の真実です。
 
しかし、私たちはどん底から天空を見ようとする時に、その光があまりにも遠すぎるあまり奈落の底から這いあがることをあきらめてしまうかもしれません。苦しみの殻を破ることができないのです。苦悩の渦に巻き込まれてしまいます。自分の力ではどうすることもできないことを痛感させられるのです。
 
だからこそ、私たちを引き上げてくださる方の存在がどうしても必要なのです。それが神であり、イエスであり、聖霊の助けなのです。なにしろ神は、私たちを引き上げてくださることを何よりもお望みなのです。しかし、そのことを阻むものがある。阻むものがあるとすれば、それは私たちの世界におけるさまざまな「ゆがみ」がそうさせるのだと私は思えてなりません。このゆがみこそ、私たちが神を十二分に信頼することをできなくさせる原因に他なりません。
 
そんな私たちに、今日も神は近づいてくださる。豊かに臨んでくださる。そんなことを心から信じつつ、今日という一日を神とともに歩んでまいりたいと思います。苦しみから私たちを解放させてくださる神が、今日も私たちに素敵な機会を与えてくださいますように。皆さんの平安を心からお祈りします。

06/09/2026

2026.9.6(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書51章7節
人のそしりを恐れるな。彼らの罵りにおののくな。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章7節
神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。主の日の礼拝から始まる七日間の旅路が、神である主とともに歩むことのできる幸いに包まれますように。そのことを心から願いつつ、祈りつつ、今日与えられた聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンによって示されたふたつの聖句は、私たちがついつい抱いてしまう「人への恐れ」について語られたものです。そのなかで、これらの言葉は一貫として「神の霊に込められた助けによって、恐れから解放されることの幸い」を告げているものであると私は受け止めました。
 
詳細を語ることは控えますが、私自身、さまざまな「恐れ」に取り囲まれることがありますが、そのすべては「人間関係」によるものであると自認しています。特に、自分の思いがうまく伝わらないとき、相手とのコミュニケーションが円滑でないと感じるとき、ときに誤解を受けたり、批難を浴びたりするときには、過度に恐れを感じることがあるのです。何も、これは私だけのことではなく、人間ならば誰でも感じることなのではないかと思ったりもするのです。
 
そのような私たちの人に対する恐れを、神への「畏れ(おそれ)」、つまり、神への畏敬の念を抱くことこそが、神が私たちに恐怖をあおったり、臆病にさせることから解放してくださり、今日の新約聖書の言葉にもあるように、「この世を神とともに生き抜く力、神と隣人に対するアガペーの愛、そして物事を短絡的にではなく、十分に思慮をともなったものとしてじっくりと捉えていく思い」を、神が与えてくださることに、私は信頼しつつ、神とともに歩む旅路へと出発したいと願わされました。
 
私事ですが、いみじくも本日50歳の誕生日を迎えることができました。50代という新しい10年のスタートを切る一日にあたって、今日与えられた聖書の言葉に感謝して、神とともに歩んでまいりたいと思います。やがて、主が許されて60歳の誕生日を迎えることができるならば、その10年間を振り返って「神を敬い畏れることの幸い」というものを味わうことができるように、歩んで生きたいと思った次第です。
 
新しい一週間、その初日である今日の一日が、神のそのような守りと祝福を感じられるようなときでありますように。皆さんの主にある平安を心からお祈りします。

05/09/2026

2026.9.5(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編25編3節
あなたを待ち望む人も皆
恥を受けることがないように、
訳もなく裏切るものが恥を受けるように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書8章13節
岩の上に落ちたものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと落伍してしまう人たちである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日で一週間も終わりを迎えました。この七日間の旅路を振り返ることのできる今日の一日が、神である主とともに歩む幸いに包まれることを心から願いつつ、また、明日の主の日への備えの一日となりますようにと祈りつつ、今日のローズンゲンを通して与えられた聖書の言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉に、「恥」という言葉が登場します。昔、ルース・ベネディクトという文化人類学者が、第二次世界大戦が終わった翌年に『菊と刀』といいう本を出版しました。大戦中、日本人の行動パターンの研究分析をおこなった彼女は、その集大成としてこのような本を出版するにいたったわけですが、このなかで、ベネディクトは、欧米などキリスト教文化圏にある意識は『罪の文化』であるのに対し、日本人は『恥の文化』であることを著しています。
 
つまり、罪の文化とは、罪というものが「神と向き合わない態度」のことを指すことから、つねに神との関係性のなかで自分自身のあり方をとらえ、自らの行動パターンにするのに対して、日本文化はつねに周囲の評判であるとか視線というものなかで「私が恥を受けることがないか」というところに、行動パターンを重視するといったものです。
 
もちろん、このベネディクトの説は賛否両論あります。しかし、日本人が「恥」という言葉を考えるときに、周囲の人々との関係性のなかで、自分のプライドが傷つけられ、恥を受けていないだろうかということに、どうしても思いが集中してしまうという点においては、私も大いに納得するところですし、私自身も多少なりともそのような傾向があるように感じることもあります。
 
そんな視点をもって、今日の聖句を読むならば、ここでいう「恥」とは、あくまで神との関係性を大切にしようとする生活を営もうとする時に生じる、さまざまな不利益を被ることを恥というのであって、そのことを抜きにした神不在のなかで、単に自分自身のプライドが傷つけられたということゆえの恥のことを言っているのではないことが分かります。
 
私たちは、神との関係性というしっかりとした「根」を大切にしたいと思います。私たちはこの根の部分を大切にしているでしょうかと、自分自身に問いたいのです。この根がしっかりしていないと、簡単なことで私たちは倒れてしまいます。今日の新約聖書の言葉が指し示すところの、御言葉を聴いてその時は喜びにあふれるけれど、ちょっとしたことで簡単に倒れてしまうという種まき人のたとえ話が物語っていることに、共通するのだと私は受け止めました。
 
私たちの心が神によってしなやかにされていないと、いつまでも岩地のままでいてしまう。ちょっとしたことで傷つき、恥をかき、そのことゆえに神と向き合う幸いであるとか、喜びというものが見いだせないならば、それは私たちひとりひとりを生きにくくさせてしまうことにつながってしまうのだと、私自身自戒しつつ、今日の聖書の言葉に聴くことができました。
 
神の言葉によって、少しでも私自身の心がしなやかにされますように。恥という言葉の意味を理解しつつ、神との関係性を少しでも豊かにしてもらうことができますように。そんなことを祈りつつ、一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神である主が豊かに臨んでくださいますように。お祈りします。