09/07/2026

2026.7.9(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ダニエル書2章28節
秘密を啓示する神が天におられます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙1章27節
神は彼らに、この秘儀が異邦人との間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようとされました。この秘儀とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日の新約聖書の言葉は「秘儀」という言葉が登場します。それと関連する旧約聖書の言葉に「秘密」という言葉が、今日選ばれたダニエル書にも記されています。つまり、神は御自身の計画のなかに、私たちには理解しえない秘密の出来事を、ご自身の良しとされるときに明らかにすることによって、神のみ心というものを明らかにされることによって、私たちひとりひとりに神がいつも私たちとともにおられることを希望としてくださるのです。今日のふたつの聖句は、そのことを知らせるものであると私は受け止めたいのです。
 
月曜から昨日まで、私は愛媛・松山に滞在していましたが、そこで私は16歳年上の従姉との素敵な交流のひと時をいただきました。私が赤子の頃から、ずいぶんかわいがってくれたお姉さんです。しかし、その従姉が結婚して四国に移住してからは、長いことお付き合いはありませんでした。
 
その付き合いが再開したのは、約20年前のことでした。私が牧師をしていることを風の便りで知った従姉が、私のところへ連絡をしてくれたのです。実は彼女もクリスチャンになっていました。会いたいと言ってくれて、久しぶりの再会が実現しました。実はそれ以来、その従姉のお姉さんを通して、私はいろいろな驚きを経験します。まるで神がすべてを仕組んでおられたかのように、私に「喜びの経験」の数々を、神は従姉を通して与えてくださいました。
 
そのことを数えたらキリがありませんが、最近では長年疎遠だった伯父との再会やその看取りをすることができたのも、唯一連絡を取り合っていた従姉の連絡があったからです。私の家庭、特に父親の家系は、決して幸せなものとは言えませんでした。複雑な家庭環境のなかで、そこに関わったひとりひとりが、何らかの不幸と苦労を背負いながら、その日々を歩んでいました。
 
細かいことは省きますが、私の父は三人きょうだいでしたが、昨年生涯を終えた伯父を含め、その三人のすべてが洗礼を受けて神の御許に召されました。生きているあいだは、神の救いから一番遠いと思ってもおかしくないような生き方をしていた人たちのすべてが、神の恵みに招かれたことは、私たち人間のちっぽけな思考をはるかに超えた、神の「秘儀」の何物でもないと、私は心から確信することができました。
 
それだけではありません。数年前、カルト化した教会から逃げ出して私が当時働いていた教会へ避難されてきた方がおられましたが、その方のピンチに解放のきっかけを与えてくれたのは、従姉の存在でした。想像もできないような方法で、神は従姉のつながりを通してすべてを解決してくださったのです。カルトから逃れることができたその方も、その後献身して、来春神学校を卒業し、伝道者としての道を歩もうとしています。
 
今回の滞在でもまた、その喜びを互いに確かめ合って、一緒に喜ぶことができました。「秘儀」とは、新約聖書の原語では「ミュステリオン」という言葉が用いられています。英語の「ミステリー」の語源となった言葉です。神のなさることはミステリー、不思議なんです。しかし、その不思議さは必ず私たちを喜びへと導かれるミステリーであることを、私は感謝して受け入れたいのです。
 
正直言うと、私にはまだまだ苦しいことがたくさんあります。今、その苦しさを抱えながら、今朝も目覚めました。その苦しさが頭をもたげています。できるものならば、一日も早くこの苦痛から解放されたいと願っています。しかし、秘儀を明らかにしてくださる神がともにおられる。今日の新約聖書の言葉には、それがキリストその御方であり、私たちの希望であるとあります。苦しいなかでも希望を見い出しつつ、今日の一日を歩んでまいりたい。これが、今日の私が得た黙想でした。
 
どうか、皆さんの一日も素敵なものでありますように。お祈りします。

08/07/2026

2026.7.8(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
民数記23章12節
主が私の口に授けられたことだけを、私は告げるべきではないでしょうか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書13章34節
(イエスの言葉)あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。あたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日の旧約聖書の言葉は、少し説明が必要かもしれません。そのことを最初に触れてから、今日の黙想をつづりたいと思います。
 
旧約聖書・民数記22~24章に描かれているエピソードに、こんなものがあります。モアブの王バラクが、イスラエルを呪うために預言者バラムを雇いました。しかし神の介入によってバラムは呪うことを許されず、結果的にイスラエルを祝福する言葉を三度も語ることになりました。そのときに、バラクがバラムに対して不快の念を表したときに、バラムが答えた言葉が、今日選ばれた聖書の言葉です。
 
「主が私の口に授けられたことだけを、私は告げるべきではないでしょうか。」バラムのこの言葉には、人を呪う言葉を発することは、神の御心ではないことを断言します。神の御心に適う言葉を、呪いの材料とするのではなく、人を祝福するための道具として私たちは用いることが、何よりも大切だというのです。
 
私はこの聖書の言葉に触れるたびに、ある曲を思い出します。この黙想でも紹介したことのある曲ですが、「ザ・ロマネスク」というユニットが歌った「祝っていた」という曲です。呪おうと思っていても、いくら呪おうとしても祝っていたという内容の歌詞なのですが、まさにこれこそ、バラクとバラムの物語に相通じるものがあるように思えてならないのです。(こちらからお聴きください)。
 
この「祝っていた」のように、なんとなく滑稽な状況だったら良いのですが、しかし、呪いの言葉や人を呪ってしまうような思いにとらわれるようなことがあるとすれば、そんな不幸なことはないのです。人間同士も不幸になるし、何よりも神と人間のあいだにある関係性も不幸なものとなってしまうのです。
 
だからこそ、私たちは、神が私たちに対して何を期待しているのかということに思いと心を寄せつつ、生きることがやはり求められているのです。その点で、今日の新約聖書の言葉にこそ、神の期待がどういうものであるかが、私たちの生き方を問い続ける基盤となるのでしょう。「イエスが私たちを愛したように、私たちが互いに愛し合う」。それは人間の安っぽい愛ではありません。相手を慈しみ続ける神の愛をもって、互いに愛し続けるのです。神の所在なき愛は、呪いをともなうことが往々にしてあることを、私たちは肝に銘じなければならない。これが、私が今日の聖句を通して、受けとめたいと思ったことでした。
 
今日も私たちのひとりひとりが、呪うのではなく祝うということの幸いを噛みしめつつ、神とともに歩むことができますように。心からお祈りします。

07/07/2026

2026.7.7(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨナ書2章7節
わが神、主よ
あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録9章34節
ペトロが、「アイネア、イエス・キリストが癒やしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日から愛媛県松山市に滞在しています。昨日、日本基督教団四国教区のお招きで、セミナーの講師の務めをいただきました。昨晩は従姉の家で楽しい時を過ごしました。私にとっては数少ない親戚のひとりですので、積もる話もあり、とてもゆっくりと過ごすことができました。ですので、今朝は遅い目覚めでした。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「命の回復」です。大きな魚に飲み込まれたヨナ、そして、身体が思うように動かなかったアイネアという人が、神の癒しによってその麻痺が解消された出来事。そのいずれも、生きるということ(つまり命)が回復されたことを物語っています。生理的に心臓が再び鼓動を開始したということでなく、生きる希望が回復したことも、それは何の紛れもない復活体験なのだと私は受け止めています。
 
ヨナは、神の指し示しに抗いました。あくまで自分自身の欲求にしたがってわが道を歩もうとしました。しかし、ヨナの思いはそれこそ思い通りに運びませんでした。大きな魚に飲み込まれて、暗闇のなかをさまよわなければなりませんでした。しかし、神はご自分の言うことを聞かなかったからといって、ヨナを決して見捨てたりはされなかったのです。
 
ヨナは神の憐れみと慈しみによって、魚の腹のなかから吐き出されました。暗闇からの解放であり、この世界で神とともに生きる機会がふたたび与えられた一瞬でした。ヨナの告白が神に向けられます。しかし、ヨナは今後一切神の道からそれたわけではありませんでした。人間はそうして、神についたり離れたりを繰り返しながら、最終的に私の人生をともに歩んでくださる神の不変を理解するのではないでしょうか。
 
大切なのは、そのような私たちの歩みのなかで、私たちは神の真実というものに視線を注ぐことができているだろうか、ということであり、そのために私たちは、神の言葉に耳と心を傾け、己の偽らざる姿を省みて、神とともに生きる一日を「再び始める」ことなのだと思います。だからこそ、そのような時間を確保するというのは、本当に重要なことなのだと、私は今日の聖句を通して受け取ることができました。
 
皆さんにとっても、この一日がまた豊かなものとなるためにも、神の言葉に聴き、祈り、己の姿をじっくりと吟味することができますように。皆さんの神とともに歩まれるその時に、神からの大きな祝福と平安がありますように。心からお祈りします。

06/07/2026

2026.7.6(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記5章32節
あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおり、守り行わなければならない。右にも左にもそれてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書12章26節
(イエスの言葉)「私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
先々週の日曜以来、しばらくお休みしていた黙想を、今日から再開したいと思います。先週の月曜、左眼の手術を無事に受けることができました。2回の術後検査で経過は順調とのことで大変安心しております。この場を借りて、私の眼のことで祈ってくださった皆さんへ、心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。また、今後ともこの黙想を通して、皆さんと神のみ言葉を共有できる嬉しさを噛みしめつつ、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、神に従う生き方というものを、私たちに示されている内容を、私たちは知ることができます。旧約聖書の言葉は、指導者モーセとその民イスラエル人が、40年にわたる苦難の旅路を経て、その最終部分に差し掛かったとき、モーセによって語られた「遺言」の一節です。
 
右にも左にもそれることなく、神が与えた掟を守り行うことの大切さが、モーセによって語られました。その掟とはなんでしょうか。それは具体的に神が民たちに与えた律法の言葉全体を指すわけですが、その中核部分にあるものを、モーセは神の名前である「主(ヤーウェ)」をあえて用いることで、その核心について述べていることがわかります。
 
神の名前であるヤーウェには「私は(あなたがたとともに)いる」という意味があります(出3:14)。喜びのときも苦しみのときも、神はご自分の民たちを大切にして、その旅路を見放すことなく導かれました。そこには神の人間に対する深い御自身の愛が込められていることを思えば、神と民は「神の示される愛」によって関係性が保たれ、そのことが中心となって数々の律法の言葉、つまり掟が与えられたということになります。
 
ですから、神がモーセを通して、掟を守り行うとは、神の愛から私たちが右にも左にもそれてはならないのだという、強いメッセージ性が込められているということを、私たちはしっかりと受け止め、受け入れることが大切なのです。人間の独りよがりな愛のことではありません。神が人間に示された愛が何かを知り、理解し、その愛をもってこの世で生きていくという、私たちの決意が要求されるのです。
 
だからと言って、そのことをなかなか実践できないのが私たちの偽らざる現実であるとも言えるでしょう。神の愛で他者を愛せない自分がいます。自分自身だけが気持ちよく感じる愛で、隣人に要求したり支配したりするのです。神の愛とそのことをはき違えてしまう私たちの姿があるのです。だからこそ、私たちは神の知恵と力を十分にいただきながら、その生き方にチャレンジすることが大切なのです。
 
「私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。」とイエスは弟子たちに言われました。イエスに従う生き方とは、イエスの言動に示された「価値観」を、自分自身の価値観とすることです。これは大きなチャレンジなのです。この世で生きて、その価値観で生きるということが、必ずしも「得」をするわけではありません。報われないことも多々あるでしょう。しかし、イエスはそのような生き方を通して、世界に平和を与えられました。私たちの世界が神の平和によって支えられるのであれば、私たちはイエスの価値観に聴き、理解し、受け入れ、そのことを自分自身の生き方にすることが、やはり神によって求められているのです。
 
たとえ、それが自分の思うようにいかなかったとしても、その意志さえあれば、神は必ず助けてくださいます。そのことを私たちは、心の希望として、今日の一日を主とともに生きることが大いに許されているのです。私が今日得た黙想とは、まさにその希望に生きるということでした。
 
どうか、皆さんの一日が、主にあって素敵な時となりますように。心からお祈りします。どうぞ健やかな今日の日をお過ごしください。私もそのように生きたいと思います。

27/06/2026

2026.6.27(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編141編4節
私の心を悪事に向けないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章8節
あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
「主にあって光となっています」という言葉が、今日のローズンゲン選ばれたふたつの聖句が物語っているメッセージであると私は受け止めました。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちの救い主であるイエスは、「私は世の光である」(ヨハネによる福音書8章12節)と、弟子たちに告げられました。この世の闇の部分にご自身の生き方・価値観という「光」を照らされることによって、私たちひとりひとりの心のありようが明らかにされるとともに、その光に導かれながら、私たちが「神のかたち」として生きることができるように、神によって促されているということを、後に「光の子」という言葉を用いて表現されています。
 
私たちが、神のこどもとして、イエス・キリストの光によって、「光」にさせられているという事実を、私たちはどのように受け止め、また受け入れることができるというのです。しかし、私たちはその事実を受け入れることができないでいるという現実があります。私たちはどうしても闇の部分を愛し、闇にとどまろうと必死にもがいている自分自身があるのです。
 
だからこそ、確実に差し込むひとすじの光を見つめていきたいし、その光が私たちの眼中に注がれるように、視線をしっかりと合わせていく営みというものを大切にしたい。これが、私が今日受け止めたいと思ったことでした。今日は年に一度の仙台アシュラム。この聖句を胸にして、祈りと黙想の一日を、祈りの友と一緒に過ごします。
 
皆さんの心にも、主の光が豊かに注がれていることを感じ取れるような時でありますように。心からお祈りします。

26/06/2026

2026.6.26(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ミカ書5章1節
エフラタのベツレヘムよ、あなたはユダの氏族の中では最も小さな者。あなたから、私のためにイスラエルを治める者が出る。その出自は古く、とこしえの昔に遡る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書2章1~2節
イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、黙想をつづる時間を確保することができませんでした。楽しみにしてくださった皆さんには、申し訳なく思っております。すみませんでした。
 
昨日眼科で受診し、左眼の手術を来週月曜(6月29日)におこなうこととなりました。ここがピンポイントで空いているということでしたので、ためらわず予約をしました。少しでも眼を大切にしなければと思い、手術を受けようと思います。それで、大変勝手ながら、1週間(6月29日~7月5日)黙想をお休みしたいと思います。重ねて申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに救い主イエスについての預言であり記述です。長い歴史を経て、私たちのもとに命の救い主が神によって与えられる。神はそのためにずっと働いてこられたことを、私たちはこれらの聖句から見つけ出すことができます。
 
つまり、神による救いというものは、今、この時にだけ起きているものでは決してなく、長い歴史を経ているという事実を、私たちは決して忘れてはならないのです。しかし、それは伝統や歴史に固執せよという意味でもありません。そうではなくて、神を通じて神が豊かに働かれてきた歴史があるということを、私たちは大切にするのだということです。
 
神の歴史を大切にするというのは、神を大切にするということです。だからこそ、私たちが歩んできた歴史というものが、「本当に神とともに歩んできた歴史なのか?」と問い続けることは、大変重要であると言えます。聖書を読めば、時に神の歴史と同調できず、乖離してしまった人間の歴史があったことを、いくらでも見つけ出すことができます。しかし、そんな私たちのために、心をこめて働いてくださった神の歴史を通して、人間がその神に導かれて生きようとした歴史もある。私たちは、その歴史を評価し、自分自身の歴史とするのです。
 
そして、その中心には、昨日も、今日も、そして明日もともにいてくださる主イエスがおられることを、私たちの今日を生きる糧としたい。そんなことを黙想させられました。
 
今日の一日も、神が私たちの歩みを導かれ、私たちが神の歴史の一ページを歩むことができますように。心からお祈りします。

24/06/2026

2026.6.24(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書64章8節
どうか主よ、激しくお怒りにならないでください。いつまでも過ちを覚えていないでください。御覧ください。私たちは皆、あなたの民です。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書3章8節
(先見者ヨハネの言葉)それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
『日々の聖句』日本語版には、今日6月24日は「洗礼者ヨハネ祭」とあります。洗礼者ヨハネの誕生を祝うという日とされています(もちろん、これは明確な証拠がある訳ではありません。クリスマスの半年前ということで、6月24日としているだけです。洗礼者ヨハネは、イエスが生まれる半年前に生まれたからです)。
 
ちなみに今日は、私が属する「日本基督教団」の創立記念日でもあります。今年で85年を迎えました。くしくもこの時に、教団の新任教師オリエンテーションの開催中であり、そこに参加していることに、不思議な感覚を覚えます。洗礼者ヨハネにしても、日本基督教団にしても、誕生日という節目を思うときに、それは「更新の時」であると私は感じたりしています。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、語ろうとしているメッセージは「悔い改め」であると私は受け止めました。悔い改め。それは「方向転換」という意味で語ることもできると思いますし、「思い直して歩む」という意味も与えるものであると私は考えています。昔のことをきれいさっぱり水に流して、無きものとするということではありません。過去に引きずられないで生きるために、神が私を更新させてくださる、思い直させてくださる。これこそ「悔い改め」の本質だと私は思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、民たちがこれまでの背反を神にざんげし、赦しを乞うシーンです。このとき、神がいなければ、私たちは思い直し、再び歩むことはできないという民の確信がありました。だから、神に真剣に願いました。そして、民は神に赦されて、神とともに歩むことができたのでした。
 
洗礼者ヨハネは言います。「悔い改めにふさわしい『実』を結べ」と。この実は、自分でならせるのでは決してありません。神とともに生きるときに、神の思いを自分の生き方としようと願ったときに、私のこの心身に神が実を結ばせてくださるのです。この神の業に、私たちは希望を託して、与えられた務めを果たしたい。これが、今日私が得た黙想でした。
 
どうか、一日の歩みが、悔い改めにふさわしい実を結ばせてくださる神とともに歩む幸いを味わうことができますように。お祈りします。