09/06/2026

2026.6.9(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記32章2節
ヤコブは旅を続けたが、その時、神の使いたちが現れた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録27章23~24節
(パウロの言葉)「私が仕え、礼拝している神からの天使が、昨夜私のそばに立って、こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
神がおられるから大丈夫だと心に言い聞かせても、やはり不安が付きまとい、私から離れることがなく、恐れと不安に苛まれる。こんな「不信仰な姿」を人々の前にさらけ出してしまうならば、人々のつまずきにならないだろうか。
 
誤解を恐れず言うならば、私の日常などそんなものなのです。不安を得れば、御言葉に向き合って、祈って、ひと時の安心を得て、得たかと思ったらまた元通り。不安のまったくない世界があったら、どれだけ幸せだろうかと想像しながら、この世で生きている以上、それは無いのだなと現実に帰らされたりと。
 
そんな自分自身に、しばしば疲れてしまうのです。疲れれば疲れるほど、物事が何でもネガティヴに見えてしまい、そのスパイラルに巻き込まれてしまうのです。
 
だからこそ、そんな私に、今日の聖書の言葉がとても光輝いて見えるのです。私の暗くなった足元を照らしてくれるのは、そして行くべき道を示してくれるのは、神の言葉を携えた天使たちの働きによって。ヤコブの道も、ローマへ至るパウロの道も、こうして天使たちが導いてくれました。その天使をこの場に遣わされたのは、紛れもなく神によるものでした。
 
今は五里霧中のなかにあっても、霧は必ず晴れるのだ。そんな思いを胸にして、新しい一日を歩むことができますようにと祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんにとってのこの一日も、もし霧のなかをもがいておられるならば、その霧が晴れてくるような経験が、霧のなかにないならば、行くべき道を確かに歩むことができますように。心からお祈りします。

08/06/2026

2026.6.8(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書49章4節
しかし、私は言った。
「私はいたずらに苦労し
 意味もなく、空しく力を使い果たしました。
 それでも、私の公正は主と共にあり
 私の報酬は私の神と共にあります。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書5章5節
シモンは、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された、旧約聖書・イザヤ書49章4節に「私の公正」という言葉が登場します。この言葉に、私は注目してみたいと思ったのです。
 
公正。ただ正しいのではありません。誰の目から見ても、そして、神の目から見ても「正しい」のです。ここに、私たちはしばしば「勘違い」することがあるのではないかと私は感じるのです。この正しさは本当に「公正」なのだろうかと。
 
私のなかだけで正しいと感じてもダメなのです。誰の目から見てもです。私たちは自分が正しいことを正しいと信じて行動する存在です。しかし、それは時に、極めて独善的な、人の幸福などお構いなしで強行されることだってあるのです。私さえ気持ち良ければそれでいいのです。こういう態度から私たちは衝突を生み、格差が生じ、いびつな構造が生まれていく。これを「公正」とは決して言わないのです。
 
究極的に言えば、私たちは「私の公正」などを、自分の力で行使することなどできません。私以外の「公正」こそが、私自身に公正ということを教え、諭し、そのように生きるように促すのです。これこそが神の公正(原語でミシュパート)なのだと言うのです。私たちは、神の公正をしっかりと、ゆがみのない形で受け取ってこそ「私の公正」という言葉がはじめて成立するということなのです。
 
私の公正は、しばしば「労苦」を生じさせます。公正のふりをする、公正の名のもとに傍若無人に振舞う、自他ともに働くそのような力によって、徒労感を生ませ、ストレスを抱き、疲れさせてしまいます。しかし、私の公正が本当に神の働かれる公正に基づくものであるのならば、そのような徒労感は、必ず神である主によって取り除かれることを心から信じたいのです。
 
夜通し漁をしたけれど何も捕れなかったシモンの徒労感がありました。彼にとっての経験や知識は、彼なりの公正であったかもしれません。しかし、彼は「お言葉ですから」とイエスに告げ、イエスの言われた通りにもう一度、網を湖に落としました。その結果は、イエスの公正が豊かに働く結果となりました。あふれんばかりの魚が捕れたのです。
 
私の公正とは神の公正を十分に受けたところで初めて働くものであることを、私は今日のふたつの聖句から受け取りたいと思いました。それに抗うさまざまな出来事に苦労しつつも、その苦労があるからこそ、神の正しさに自らを委ねて今日を生きたいのです。この一日が少しでも、神の平安を味わうものであるためにです。皆さんの主にある平和を、心からお祈りします。

07/06/2026

2026.6.7(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編138編7節
主よ、たとえ私が苦難の中を歩んでいても
あなたは私を救ってくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章33節
(イエスの言葉)「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってきました。今日、世界中でおこなわれる主の日の礼拝が、神である主の喜びに満ちあふれたものとなりますように。たとえ、礼拝する余裕すらない心の苦しみを味わっている方々がおられたとしても、その礼拝こそが、苦しみを少しでも取り除き、緩和焦る場であることを、一人でも多くの方が経験する場となりますように。そのことを祈りつつ、ローズンゲンに示された今日の聖書の言葉に聴きたいと思います。
 
たとえ世の中が、あの人が、この人が、私のことを分かってくれていなくても、神は、私のことを分かっていてくださる。これが、神を私たちの希望とする大きな根拠となることを、私たちは体験的に知っているのだと思いますし、信じて受け取りたいと思うのではないでしょうか。私もそのひとりとして、これまでこれだけ「神は分かっていてくださる」というところに自分自身を据えて生きていただろうかと思い出します。
 
しかし、私たちはその思いが「単なる独り善がり」にならないように、自分自身の思いというものをよく確かめる必要があることも事実なのだと思えてなりません。神が私たちのことをすべてご存知であるというのは、今日の聖書の言葉のように、神の思い、イエスの思いに自分自身を「沿わせている」がゆえに、それに抗する勢力から降りかかる苦しみをすべてわかっていてくださるという意味もあれば、私たちが神の御心に自分自身を合わせて生きていないがゆえに生じる苦しみというものをも、よくご存じであるという意味もあるでしょう。その場合、私たちには罪の悔い改めというものが求められることもあるでしょう。
 
もし、私たちにそのような改善であるとか、転向、悔い改めて生きることが必要であるならば、神は必ず私たちを守り、勇気を与え、神である主とともに歩む思いと力を与えてくださるのだと、私は信じたいのです。ですから、今日の聖書の言葉は、主にあって忠実、誠実である私たちの姿もさることながら、そうになりきれていない私たちにも当てはまる神の恵みの言葉なのだと、私は受け止めました。
 
この新しい一週間を歩む、希望の言葉として、今日の聖句が私たちの心のうちを豊かに照らしてくださいますように。皆さんの一切に、主の平安と祝福を心からお祈りいたします。

06/06/2026

2026.6.6(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
サムエル記下7章25節
(ダビデの祈り)神である主よ、今この僕とその家について語られた御言葉をとこしえに確かなものとし、語られたとおりになさってください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録13章23節
神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
神はご自分の言葉に示されたその約束を、必ず果たされる御方であり、その約束は、イエス・キリストという救い主を確かに、私たちに与えてくださったことによって実現された。
 
これが、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句が、私たちに物語ろうとしているメッセージです。
 
有言実行という言葉があります。この言葉は「言葉と行いが一致している」、つまり「言行一致」のことを表しているものであることを、私たちは神にみることができるのです。この神の姿勢に私たちは守られ、支えられながら、今日まで神とともに歩む人間の歩みというものを、営むことが許されてきましたし、今日もそのような守りによって生かされていることを、心から感謝する者でありたいと、心から願わされます。
 
私はしばしば 「言行不一致」になることがあります。そうならないように、精一杯努め、気を付けているつもりですが、言葉の通りに行えない自分自身の姿に、気まずさや申し訳なさ、自分自身の至らなさというものを突き付けられるのです。
 
そんな時に、省みつつ私は問わされます。「自分自身の力だけで、何かを成し遂げようとしていないだろうか?」という問いです。人に迷惑をかけちゃいけないと、必死に自分自身でなんとかしようともがきながら、事を成そうとするのです。しかし結果として、かえって周りに迷惑をかけてしまうようなことになってしまうのです。そんなことを繰り返しながら、相変わらず学習しない自分自身の姿にあきれかえってしまうのです。
 
しかし、そんなあきれかえってしまうような自分自身でも、少しずつ気づかされていくのです。神に寄り頼み、神に支えてもらいながら、神が備えてくださる有形無形の助けというものを素直に受け取った時の幸いというものをです。その備えは、必ずしも私の心を喜ばせるものであるとは限りません。時には厳しいと感じるときも多々あります。
 
しかし、今日のダビデ王の祈りでも、パウロの言葉でもそうであるように、神は私たちの幸いのために、ご自分の決められた約束を必ず果たされる方であるということに、私たちは心から信頼をもって、是非応答してまいりたいと願わされます。どうか神である主が、今日も私たち一人ひとりを祝福のうちに守り導いてくださいますように。心からお祈りします。

05/06/2026

2026.6.5(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編27編14節
主を待ち望め。勇ましくあれ、心を強くせよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書11章21~22節
マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いすることは何でも、神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンによって選ばれた新約聖書の言葉は、イエスの友人であったラザロが亡くなってしまった時に語られた、ラザロのきょうだいマルタのイエスに対する告白の箇所です。
 
愛する者を失うという悲しみに、マルタは直面していました。そのような状況のなかで、マルタはイエスに対して、心からの信頼を投げかけました。あなたがいてくださったら死ななかったのにと。でも、あなたが神に頼んでくだされば、神はあなたの願いを叶えてくださる。マルタによるイエスへの深い信頼の念がこもっています。
 
これは、マルタの願望がイエスを利用したという話では決してありません。どんな願いであれ、イエスにとってふさわしくないと感じれば、その願いは神へ聞き届けられることはなかったでしょう。マルタの切なる願いというものが、イエスの思いにふさわしく、また合致するものであったからということを確信したからこそ、マルタは臆することなく、イエスに自らの思いというものを吐露することができたのだと、私は思うのです。
 
そこには、深い信頼の念というものが込められていました。それは単なる友人関係だったからでしょうか。究極的にそうではありません。イエスは神に委ねられた愛する隣人の存在を、神の信頼にふさわしい者としてみなし、隣人を愛するという神のおきてにしたがって、神の信頼を自分自身の生き方としていたからこその信頼関係であったということです。
 
その信頼関係にマルタが十分に呼応できたからこそ、マルタの願いが願いとして取り上げられ、イエスはマルタの願いに真正面から向き合い、かくしてラザロが復活させられたというのです。この信頼関係こそ「信仰」の本質であると、私は受け取りたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉とセットとなったのは、旧約聖書詩編27編の言葉でした。「勇ましくあれ」「心を強くせよ」という言葉が、私たちに重荷を課すように聞こえるかもしれません。勇ましくなれない、強くなれない。これが私たち人間の偽らざる現実だからです。
 
しかし、この言葉は究極的には神の勇ましさであり強さを表している言葉に他なりません。これらが私たちの弱さを包みこむ神の信頼なのだと。この信頼に応える私たちの信頼こそが「主を待ち望む」という私たちの告白であり、具体的な行動へと導くのだと私は受け入れたい。これが今日の聖句に対する私の思いです。
 
神の信頼に応える私たちの信頼によって、神と私たち、また私たち同士の揺るぎない関係性がつくりあげられる。このことを希望の柱として、今日も神の勇ましさ、強さによって健全に歩むことができますように。皆さん、そして私自身の主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

04/06/2026

2026.6.4(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記30章9節
あなたの神、主は、あなたのすべての手の業を喜びとされる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一4章6節
このようなことで、きょうだいを踏みつけたり、欺いたりしてはなりません。主はこれらすべてのことについて正しく裁かれるからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
台風の影響がまだ多少残っているなかではありますが、峠は越したというところも各地であるかと思いますし、爪痕に向き合わなければならない方々もおられるかと思います。神の守りが皆さんとともに、豊かにあることを心から祈りつつ、ローズンゲンに示された今日の聖書の言葉に聴きたいと思います。
 
どうせ生きるなら、出会う人ひとに接するのであれば、そのすべてが「喜び」でありたいと願うのは、誰でも同じことと思います。しかし、私たちにとって「喜びの基準」というのは、実に千差万別、まちまちであることも私たちはよく知っています。この基準にズレがあるからこそ、私たちは自分が喜べないことで一喜一憂したり、時に人間関係にゆがみや亀裂を生んだりすることも間々あるのです。
 
私たちはそのような現実のなかで、今日の聖句をどのように受け止めることができるだろうか。そんなことを想わされました。神が喜びとされる、私たちの「手の業」とはいったいどんなことを指すのでしょうか。私はこんなことを考えました。私たちの手の業、つまり言動というものを、「私たちの占有物」のように考えてならない、ということをです。
 
私たちは「~の自由」というものを持っていますし、この日本において、それは憲法でも保障されている権利です。信教の自由、言論の自由、思想の自由などなど。しかし、それらの自由というものは、決して「濫用」されることがあっては、決してならないということも、憲法で保障されています。つまり、自由は自分の好き勝手なままに濫用することによって、それはもはや「自由」の指し示す意味が失われてしまう、ということなのだと私は考えています。
 
つまり、私たちの手の業というものを神が喜びとされるというこの事実に、私たちがいかに謙虚に向き合えるのかということが大切であるということです。私たちの自由や権利というものは、決して私たちの占有物などではなく、神の占有物なのだということを、私たちの心に刻まなければならないといことなのです。その神の占有物も、さも自分自身の占有物であるかのように思い違うならば、神の喜びというものをないがしろにしてしまうことを、私たちはしっかりと認識するところにこそ、神の喜びが私たちを支配するということを、私たちは心から信じつつ、自分に与えられた使命というものを果たせるのだと。
 
あまりにもこの世界が、古今東西にわたって神の喜びが明らかにされない状態のなかで、人と人とが無用に傷つけ合うような状況を、私たちは安易に人のせいにするのではなく、自分自身に与えられた「責任」として、神から与えられているということを、今日の私を生きる土台としたい。自戒を込めつつ、そのような生き方を営みたいと、今日の聖句を通して、あらためて願わされました。
 
神の与えられた喜びが、私たちにとっての喜びとなりますように。心から願いつつ、皆さんの一日における主にある平安を、心からお祈りします。

03/06/2026

2026.6.3(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編146編8節
主は見えない人の目を開く。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書7章22節
それで、(イエスは)こうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
目の見えない人の目は開かれる。
私は昨日、受診するために眼科へ行きました。そこで医師にいくつか質問をして、私の左眼の視力は前のように戻ることは非常に難しいということを、あらためて知らされました。これ以上悪くならないための治療を、これから続けますということでした。
 
それでも、うすぼんやりではありますが、左眼が少しは見えているということ、右眼は問題なく機能しているということが、今の自分自身にとって励みとなっています。ただ、前のようには戻らないと耳にすると、どうしても胸にドスンとなにかが突き刺さるような感覚にさせられます。ああ、元のように戻ることはないんだ。何かを失うということへの喪失感というものを感じながら、昨晩を過ごしていました。
 
今日のローズンゲンの言葉は、目の見えない人の目が開かれるというものです。実際にイエスによって視力が回復する奇跡というものを経験した人もいましたし、いにしえから、信仰者たちが神に対して希望を告白する聖書の言葉には、見えない目が開かれるといった表現を数多く、私たちは見ることができます。
 
私は、今の自分自身の心境に照らし合わせながら、今日の聖句をいただくときに、たとえ物理的な視力が失われたとしても、かえって「神を見る眼」というものについて考えさせられる大きな機会をいただいているとも感じたい自分自身があることに、あらためて気づかされています。どんなことがあっても、何かが失われたとしても、私たちは神まで失ってしまうことは決してないのだ、神がなんとかしてくださる。このことゆえに、前向きに生きることを楽しもう。これが、今日の聖句を通して受け止めたいと思ったことです。
 
台風が列島を襲い、不安のなかを歩まれている方々もおられることと思います。どうか、神が私たちの不安とともに歩んでくださいますように。安全を祈りつつ、今日一日の主にある平安を、心からお祈りします。