18/06/2026

2026.6.18(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
出エジプト記9章34節
ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またも罪を犯し、心がかたくなになった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一4章10節
きょうだいたち、あなたがたのうちに、不信仰という悪しき心が芽生えて、生ける神から離れ去る者がないように気をつけなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は体調が不良だったため、一日休んでおりました。そのため、黙想もお休みしました。告知なく大変申し訳ありません。しかし、一日休んでかなり回復しました。今日も健康が与えられたことに感謝して、与えられた務めに当たりたいと思います。
 
今日の新約聖書にある「不信仰」とは何か。そんなことを考えてみたいと思います。信仰とは、救い主イエスが私たちのためにその生きざまを示してくださったこと、それは夢でも幻でもなく、いまだ私たちとともにいてくださるという実体そのものを指します。だから、信仰は「得る」ものではなく「与えられる」ものなのです。イエスからの素晴らしい贈り物なのです。
 
この贈り物は誰にでも与えられるものです。ですので、そこに「不」という文字が付けられるということは、これこそ私たちが意識的であろうと、無意識であろうと、それを「拒絶」することに他なりません。つまり、三位一体の神の働きをないがしろにして、自分自身が神となろうとしてしまう態度が表出したときに、それは「不信仰」なのであり、罪が露わにされるということなのです。
 
エジプト王(ファラオ)は、まさに「のど元過ぎれば熱さ忘れる」の状態でした。災いが振りかかれば、一旦は神妙になりました。しかし、時が過ぎればそんなことをいとも簡単に忘れてしまうのです。私たちも、調子の良い時だけ神を熱心に賛美し、信仰の行動を見せるけれど、少しでも自分自身に都合の悪いことが起きれば、いとも簡単に不信仰になってしまうということはないでしょうか。
 
私がかつて、こんなことがあったのを思い出します。祈れない、聖書が読めない、礼拝に行きたくない。そんなことがありました。しかし、同じ教会のある方が、私にこんなことをおっしゃいました。「そんなことをすべてわかっている神があなたと一緒におられるのだから、そういう時こそ、あなたはほんの少しでもいいから聖書の言葉に触れて、ひと言でもいいから神に祈って、寝ててもいいから礼拝に出てみたらいいんだよ。神は必ず、あなたに必要なものを与えてくれるから。」
 
私はこのひと言がなかなか受け入れられませんでした。しかし、受けとめて、その通りにしてみることにしました。今思えば、ああ、本当にその通りにしていてよかったなと思ったのです。無理しなくても良い。しかし、神が私に触れてくださる体験を、私自身が感じ取らなければ、何も起きてこないのだ。そう思ったのです。
 
この「日々の聖句 ローズンゲン」も同じです。たったひと言の聖句です。しかし、今日一日の私たちの命を支え、信仰の歩みを導いてくださる。ほんの少しの時間でも、本当に大切な営みを持つことができるのだと、あらためて思わされます。
 
どうか、今日一日の皆さんの歩みをともにしてくださる神である主が、守りと祝福を豊かに与えてくださいますように。心からお祈りします。

16/06/2026

2026.6.16(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
箴言14章26節
主を畏れるところには強い信頼が生まれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一5章18節
神から生まれた人は誰も罪を犯しません。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
信頼とはなんでしょうか。今日のローズンゲンに示された箴言14章26節の言葉に、あらためて注目したいと思いました。
 
神である主への畏れ。それは決して恐怖に取り囲まれたオソレのことではありません。私たちは周囲を恐れます。強いものに恐れ、自分自身への他者による評価に恐れ、自分自身の立場を脅かすすべてに対して恐れるのです。だから、この世界はいつも安心できないのです。
 
しかし、神はそのような世界につくりあげたつもりは全くないのです!あくまで神は、私たちが安心できる世界を、ご自身の創造によってつくられたのです。しかし、人間は神に恐怖を覚えました。自分自身が「神」になろうとしたからです。神をないがしろにして、私こそ絶対的に正しいと、主張するようになったからです。
 
しかし、私たちは神を恐れます。明確な自覚がなかったとしても、実は私自身が非常に弱く、もろい存在であることを知っているからです。だからこそ、自分自身を一生懸命鍛え上げ、他者に負けじと歯を食いしばるのです。こうやって形成された世界は、いつの間にかオソレというものに対して、大変鈍感になってしまいました。
 
ここで神は語られます。私たちが他者による評価を恐れなくても、自分の弱さにビクビクしなくても、そんな私たちを受け入れてくださる方がおられる。それこそ「神が私たちとともにいてくださる」ことへの、深い信頼の思いが芽生えてくるのです。もっとも、私たちが神に信頼できるのは、神が私たちのことを信頼していてくださるからということを、私たちは決して忘れてはならないのです!
 
罪を犯さないという今日の聖書の言葉は、完全無欠のスーパーマンになるということではありません。私たちは相変わらず神に背を向け、神が望まれることに反して、恐怖心を抱え続けます。しかし、神という親が与えられている私たちが「神の子」として生きようと願うならば、神が私たちのうちにある罪に対して、過剰に恐れることなく、また開き直ることもなく、深い信頼関係によって、私たちが安心して生きることができるように、導いてくださるのだ。これが、今日の聖句から得た黙想でした。私もそのように生きたい。そんな憧れが、私の今日を支えてくださることを望みます。
 
皆さんにとっても今日の一日が、恐れではなく、神との信頼関係によって生み出される安心によって、豊かに祝福されますように。心からお祈りします。

15/06/2026

2026.6.15(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書60章2節
見よ、闇が地を覆い
蜜雲が諸国の民を包む。
しかし、あなたの上には主が輝き出て
主の栄光があなたの上に現れる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書8章12節
(イエスの言葉)私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
この世界は「闇」のなかを歩んでいる。それは、昔も今も決して変わりない事実として、私たちのすべてを覆っています。闇のなかは見えませんから、見えないことをいいことに、さまざまな虚偽や欺瞞が渦巻き、それをさも真実のように人々に振りまき、人々を惑わしている状況があることを、私たちはよく知っているのではないでしょうか。
 
だから、私たちにとって「本当のこと」とは何なのか。分からないことがたくさんあるのです。ある種の情報に振り回され、闇が闇を生み出して、本当のことをさらに見えなくさせてしまうのです。情報過多な世の中ですから、私たちは多種多様の情報から、宝のようにきらりと光る真実を探し出さなければならないのです。
 
今日の聖書の言葉は、そんな闇にひとすじの光が投じられることへの幸いについて語られている箇所が選ばれています。荒廃から回復へ、そのことが具体的に、イエス・キリストによって示されました。イザヤ書もヨハネ福音書も、歴史的に一貫した「光」というテーマを私たちに示すことにより、ただ、神のなさることに全幅の信頼を置いて歩むならば、周囲がどのような罵詈雑言を浴びせたとしても、その光だけを頼りに、歩むことが大いに許されているのです。そのような希望に、今日も私たちは神の光を見つめつつ、歩む者となりますようにと祈ります。
 
今日の聖書の言葉。詳細を記すのはここでは控えますが、今日の予定のなかで、まさに闇のなかに光を投じられる神がおられるということが、その予定をこなすのに最も大切な希望なのだと、私自身感じさせられました。ずっと闇のなかで苦しんできたことだけに、今日の聖書の言葉は、まさに希望の語りかけとして、私の心に響きました。皆さんのなかにも、私と同じような思いを持たれた方がおられるならば、お互いに、神になさることに期待しつつ、今日の一日を歩むことができますようにと、心よりお祈りします。どうぞ素敵な一日をお過ごしください。

14/06/2026

2026.6.14(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書24章7節
私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書24章32節
二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってきました。この七日間の旅路を、私たちはどのように歩むことができるでしょうか。今日もローズンゲンを通して与えられた聖書の言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
神は私たちにひとりひとりに、神が「主」、つまり、神が私たちとどんな時にも一緒にいてくださる方であることを「知る心」を与えてくださると、はるか昔の預言者であるエレミヤに告げられました。
 
私たちにとって「知る」とは、単に「知っている」ということ以上の意味が含まれています。誰々さんを知っている、この人はこういった肩書でこういう背景をもっていて、こんなことを言った、あんなことを行動した人であるという、その人の人となりのことを、私たちは「知っている」という言葉を使って表現するかもしれません。
 
しかし、ここで言う「知る」とは、「理解する」ということを意味しています。うわべだけで知っているのではなく、その相手の本質というものを「理解する」のです。良い部分も悪い部分もすべて理解するというのは、その相手を尊重することをも意味します。
 
ですから、私たちが神を知る心というのは、神が私たちとともにいてくださるという自覚と意識が、神のみ心どおりに、私自身の人生をも変える力をお持ちであるということを、いかに受け入れることができるのかということと、深い関係性があるのです。そのうえで、神はわたしたちひとりひとりに、ご自分を「知る心」を与えてくださるというのです。
 
イエスが復活したその夕方、エマオ村の途上で復活のイエスに出会ったふたりの弟子たちがそうでした。彼らは十字架にかけられて殺され、しかしどうやら復活したらしいという「情報」は知っていました。しかし、目の前に復活のイエスがいても、それを見ても、究極的に彼らはイエスを「知ること」ができませんでした。
 
しかし、イエスが聖書からすべてを説き明かしたとき、彼らの心は熱くなりました。この「熱くなった経験」こそが、神である主がイエスを救い主として与えてくださったことを「理解」した瞬間だったのです。知るとは、このような心の熱さをもって、神がともにいてくださることの大切な意味でした。
 
私たちは今日、それぞれの教会や集会でおこなわれる礼拝で、聖書の言葉に聴きます。その言葉は、私たちの心を熱くするべく、神が与えてくださった助けに他なりません。大切なのは、その言葉が今の自分自身を活かす力となりゆくという、紛れもない事実です。私たちはそのことを今、語る側も聴く側も受け入れようとしているでしょうか。
 
そんな思いをもって、今日の一日もともに歩んでくださる神である主をあがめ、自分自身の生きる力としてまいりたいと思います。どうかすべての歩みに、私たちが主を「知る」心というものを確かめることができますように。心からお祈りします。

13/06/2026

2026.6.13(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書40章30~31節
若者も疲れ、弱り、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新たな力を得
鷲のように翼を広げて舞い上がる。
走っても弱ることがなく
歩いても疲れることはない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙12章1~2節
すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
韓国出張も無事に終わりを迎え、仁川空港にも到着しました。あっという間の数日間でしたが、いろいろ学びの多いひと時でした。そのことを思い巡らせながら、今日のローズンゲンに示された聖句に触れたときに、私たちは「どこ」を見つめ、どこに向かって歩んで行くのだろうか。そんなことを深く考えさせられました。
 
カルト宗教被害のような、神を利用した人間が人間を支配する構造だけではなく、私たち人間世界は、人と人とのあいだで「つまずき倒れる」ような疲れ、ストレス、弱ってしまうような出来事が、実に多いことを痛感させられています。そんなことから解放されたいと思いつつも、どうしてもいさかいというものが生じてしまう。だとしたら、その原因はどこにあるのでしょうか。
 
今日の新約聖書であるヘブライ人への手紙には、そのことを「すべての重荷や絡みつく罪」と書かれています。そうなんです。このすべては「罪」のゆえなのです。罪とは、神と同調できない私たちの態度のことを指します。神とともに歩みたいと願いつつも、自我があまりにも強いばかりに、その歩みに素直になれないのです。誰でもそうです。私なんかその最たる者であることをしばしば感じさせられます。そんな私でも、人間関係に疲れ果ててしまうことがあるからです。
 
つまり、私たちの思いや心のなかで、「神とともに歩みたいと願うこと」「神が私の心や思いをご自分の力で整えてくださること」「神が私たちとともに歩めるように支えてくださること」という神のなさることに、どれだけ心を寄せることができているだろうか。ここにこそ、今日の二つの聖句が指し示すメッセージというものがあるのです。
 
人ばかり見ていないで神を見るのです!自分自身の足りなさを棚に上げて、人にそのことを要求しないのです!神が愛しておられるすべての人を、私たちは愛することができないこともあるでしょう。でも、神が愛しておられる事実を認めることはできるのです。神の愛は、なにも甘えに満ちたものではありません。時に戒め、気づかせ、悔い改めさせる力すら持っている。愛する子たちに、ご自身とともに歩む幸いというものを味わってほしいのです!
 
私たちには今日も、忍耐強く走るべき競争路が与えられています。しかし、途中で断念してしまうようなものでもないのです。なぜなら、神が助けてくださるからです。その助けを頼りとして、今日の一日を歩むことができますように。皆さんのためにも、そして私のためにも、祈りをささげます。

12/06/2026

2026.6.12(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記8章7節
あなたの神、主は、あなたを良い地に導き入れようとしている。そこは、平地でも山でも川の流れがあり、泉や地下水が溢れている地である。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二9章8節
神は、あらゆる恵みを、あなた方に満ち溢れさせることがおできになります。こうして、あなた方は常にすべてのことに自足して、あらゆる善い業に満ち溢れる者となるのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
韓国での3日目の朝を迎えました。昨日の異端・カルトセミナーの務めも無事終え、今日はエクスカーションの時を持ちます。その後ソウルに戻り、帰る準備をします。明日の早朝、仙台に向けて出発します。

パソコン作業が、今朝泊まっているホテルでできないため、スマホから今日の黙想をお届けしたいと思います。今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ鍵の言葉は、満ち溢れる、でした。一言で言えば、神は私たちの思いも心も、ご自身の良いもので、満ち溢れさせてくださるというのです。
 
果たして、私たちは、その神の思いを受け取っているでしょうか?なかなかそのように感じられないこともあるでしょう。私たちの日々の生活は、満ち溢れると言うよりは、何かに欠乏し、その欠乏ゆえに、悩みや苦しみがあるからです。
 
この世の中の不条理さが、私たちにそのような思いを抱かせるのかもしれません。しかし、私たちが満ち溢れるような気持ちになれない理由は、世の中の不条理だけのせいでしょうか。私はそうではないと思っています。
 
実は、神から十分な恵みをいただいているのにもかかわらず、それが私の中で「気に入らない」と言う理由で、おのずとそのような良いものを跳ね除けてしまっている自分自身があるのではないか。そのようなことをつくづく考えさせられるのです。もしそうだとしたら、私たちの側に何らかの原因があると考え、神の恵みを満ち溢れさせるだけの自分自身があるかどうかを、じっくりと見つめていく必要があるのでしょう。
 
エジプトから神様が示された地に旅を続けたイスラエル人がいました。40年間にわたり、その旅路は苦しみの連続でした。たちの中には、不平不満をこぼし、神のなさることを疑い、自分の思い通りにいかないことを嘆き、それゆえに、自分を正当化するような出来事に、心も思いも持っていったということがありました。
 
しかし、その40年を振り返った今、やはり神は私たちに良いものを与え続けてくださっていたではないか、そのことが歴史を振り返るモーセの口から告白されたのです。私たちも、このモーセのように神に良いものが与えられ、満ち溢れていることを告白するものでありたいと心から願います。
 
どうか、今日の1日も、神と共に歩む幸いを味わうことができますように。心からお祈りします。

11/06/2026

2026.6.11(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨシュア記1章9節
強く、雄々しくあれと、私はあなたに命じたではないか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章9~10節
(パウロの言葉)私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
昨日から出張で韓国に滞在しています。韓国と日本の両教会が協働して行われ続けてきた「異端・カルトセミナー」に出席するためです。日本側の発題をする役目をいただいています。無事にやり切れるよう、お祈りくだされば幸いです。よろしくお願いいたします。
 
そんな緊張と不安のなかにある私に、「強く、雄々しくあれと、私はあなたに命じたではないか」という、今日のローズンゲンに示された旧約聖書の言葉は、相当響くものがありました。強くあること、雄々しくあることとは、別に私自身がストレス耐性がしっかりしていて、何事にも負けない強靭な精神力をもって、強く雄々しくあるわけではありません。むしろ逆です。その体も心も、本体は実に脆弱なものであることを、私たちがいかに自覚できるか。そこにこそ「強く、雄々しくある」ことの基盤というものがあると、私は受け止めたいのです。
 
弱いからこそ、頼りないからこそ、もっとも強く、雄々しくある方が、私たちのことを見放さずに共に歩んでくださるのです。それゆえに、私たちはその方の力強さにしっかり支えてもらって、その方がご自分の思い願いを、私を用いて果たさせてくださるのだ。ここから生じる安心感こそ、私たちが「強く、雄々しくあれ」と命じられた根本にあるのだと思うのです。
 
もっとも強く、雄々しくある方こそ、私たちの父なる神に他なりません。そして、この父が、私たちの命を救うために、この世界に遣わしてくださった方、み子イエスこそ、キリスト(救い主)であり、聖霊の助けをもって私たちと共に、具体的に歩んでくださるというのです。実際にイエスも、その強さとは裏腹に、十字架に架かられたときには、弱さというものをさらけ出して、私たちに見せてくださいました。「人間とは弱いものだ。しかし、その弱さこそ、神の力によって強くさせられるのだ」と。
 
さまざまな苦難を味わったパウロが、今手紙を書き送っているコリントのクリスチャンたちへ、その弱さというものに触れながら、このように手紙にしたためました。「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。」
 
神に望みを置くことのできる一日でありますように。皆さん、そして私自身のためにも祈りを合わせます。どうぞ主にあって、素敵な一日をお過ごしください。