29/03/2024

2024.3.29(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記35章15節
ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテルと名付けた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書27章54節
百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
受難週六日目の朝を迎えました。そして、今日は受難日(聖金曜日)です。朝九時にイエスは十字架につけられ、六時間のあいだ、十字架の痛み苦しみに耐えられて、ついに命を落とされました。死という人間の罪の代償を、イエスもまた味わわれた。この時、不思議なことが次々と起こりました。空は闇に覆われ、地震が起き、そして神殿の幕が真っ二つに裂けました。まさにエルサレムの都は、ひとりの死のために、天変地異が起きたことが、今日の聖書の言葉を含むこの日の出来事に記されています。
 
その様子を監視していたローマ兵たちの言葉が、ローズンゲンに示された今日の聖書の言葉です。「まことに、この人は神の子だった」。この言葉に、それまでは国家転覆をもくろむ単なる政治犯、テロリストとしてしか扱わなかった兵士たちが、あらゆる出来事のゆえに恐怖、いや畏敬の念すら抱かせた。それだけ、この現場は人々の心を揺さぶるだけのすごさがあったのでしょう。
 
人々の心をゆさぶる神の御臨在。それは、はるか昔に孤独だと思っていたひとりの青年に語りかけられた神との出会いによって、決して孤独でないことに気付かされた。あの「天架けるはしご」の物語で、ヤコブがこの場所を「神の家(ベテル)」と名付け、その畏敬の念によって神をほめたたえたあの出来事に相通じます。
 
神との出会いのゆえに、人の心が180度転換するような経験を、私たちもまた味わうことができるのです。それは一時的な気の迷いなどでは決してないのです。神が明らかに、私たち一人ひとりにご自分の御臨在というものを示してくださった、かけがえのない体験に他ならないのです。ヤコブにしてもローマ兵にしてもです。
 
私たちもまた、イエスの十字架を通して私たちに示された愛が、私たちの心をゆさぶり続けます。アフリカン・スピリチュアルを代表する賛美歌に「あなたもそこにいたのか」という歌があります。
 
1 
あなたもそこにいたのか、      
主が十字架についたとき。       
ああ、いま思いだすと          
深い深い罪に               
わたしはふるえてくる。         

2 
あなたもそこにいたのか、      
主がくぎでうたれたとき。         
ああ、いま思いだすと           
深い深い罪に                
わたしはふるえてくる。         

3 
あなたもそこにいたのか、
主が槍でさされたとき。
ああ、いま思いだすと
深い深い罪に              
わたしはふるえてくる。

4 
あなたもそこにいたのか、
主を墓におさめたとき。
ああ、いま思いだすと
深い深い罪に
わたしはふるえてくる。

5 
あなたもそこにいたのか
主がよみがえられたとき
ああ、いま思いだすと
深い深い愛に
わたしはふるえてくる
 
イエスの姿を見ていると、私のうちから噴き出てくる罪のゆえに心が震え、
イエスがよみがえられた姿を見れば、神の深い愛ゆえに、私の心は震えてくる。
 
受難日の一日が、そのような心震える体験を催せるような、そのような時でありますように。お祈りいたします。

28/03/2024

2024.3.28(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言14章34節
正義は国を高める。
罪は民の恥となる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章39~40節
イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
受難週五日目の朝を迎えました。そして、私たちは「洗足木曜日」の一日を過ごします。イエスが弟子の足を洗い、互いに愛しなさいと弟子たちに告げられました。それは友愛とか博愛という意味ではなく、神の愛が私たちのあいだに満たされますようにというイエスの願いに基づくご命令でした。
 
私は、友愛や博愛が悪いものであるとは、決して思っていません。しかし、そのような種類の愛が、うまく運用されている間ならば良いのですが、いったん歯車がずれると、あの愛はどこに行ってしまったのだろうかというくらい、その場から消え失せてしまうということを、私はこれまで数えきれないくらい経験してきました。それをしてしまう側としても、それを受ける側としてもです。だからこそ、友愛や博愛という言葉を軽々しく用いたくないし、そのような愛を自分自身の態度や行動の一部とするならば、そこには確固とした何かが必要なのだと感じているのです。
 
私は、神の愛(アガペー)が何かを知り、そして理解していなければ、友愛や博愛などが見せかけのもので終わってしまうと実感しています。もちろん、アガペーが何かを、完璧に知ることはできません。それが私たち人間の限界だからです。しかし、それを理解しようとする思い、それを自分の生き方とするためには、神の助けと力を、私たちは必要とします。そして、そういう私たちの思いを、神は存分に支えてくださるのだと、私は確信しています。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉では、国を高めるための「正義」について触れられていますが、私は、正義も愛も、同じことが言えるのだと思うのです。つまり、その正義が、その愛が「どこから」来ているのか、由来しているのかということです。聖書で言われている正義や愛は、私たちの産物ではありません。あくまで神の産物であるということを、私たちは忘れてはならないと思います。どんなに正義を振りかざしても、認知のゆがみを多少なれど持っている私たちの正義は、どこかしかにゆがみというものを抱えて表出されるのだと思います。
 
だからこそ、私たちは正義についても愛についても、神が、そしてキリストがご自分の言葉と行いを通して示されたものをもって、それを丹念に聴き取り、自分の生き方としたいと祈りつつ心から願うときに、神は必ず私たちをそのようにしてくださるのだと。イエスが弟子たちに誘惑に陥らないように祈りなさいと勧められたのは、常に神に自分自身をさらけ出して生きなさいということにも相通じるのだと、私は今日の聖句を受け止めました。
 
イエスが弟子の足を洗い、ともに晩餐を囲んだ一日を想いつつ、その愛と正義を受け取る時でありますように。お祈りいたします。

27/03/2024

2024.3.27(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編109編31節
主は貧しい人の右に立ち
その命を死に定める者たちから救ってくださいます

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章5節
私の愛するきょうだいたち、よく聞きなさい。神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
受難週四日目の朝を迎えました。今日は、ローズンゲンに示されたふたつの聖句から「貧しさ」について、黙想したいと思いました。
 
貧しさとは何か。私たちが真っ先に思うのは、何かが失われ、空っぽな状態なのではないかと思います。そして、貧しいという言葉が、決してポジティヴな意味で用いられることはないでしょう。貧しいということが豊かな生活を阻害し、そこに至らせないさまざまな要素とセットとして語られることが多いからです。経済的な困窮における貧困というふうにです。
 
しかし、貧困であればあるほど、何のためらいもなく、目の前に出されたものをいただきたいという気持ちにもあふれるのではないかとも、思ったりします。貧しさという言葉が、神とともにあるための、重要なアイテムであるかのように、とらえることができるのかもしれません。イエスが「貧しいものは幸いである」と言われたのは、まさに良いものを何のためらいも無く受け取ろうという気持ちにさせられたときに、そこには神が幸いを余すところなく与えてくださるのだよと、そんなイエスの声が聞こえてくるのです。
 
貧しさを貧しさのままで評価して、役に立たないと簡単に捨て去ってしまうような世の中があるとすれば、神はご自分の民を大切にされ、空っぽの心にご自分の愛を注いでくださるのだと。この愛が、私たちを決して卑屈にせず、ゆがまず、何のためらいもなく受けようとする心を、豊かなものへと満たしてくださる。今日のふたつの聖句は、そんな保証というものを、私たちに与えているのだと私は受け止めました。
 
貧しさの究極とは死。イエスが十字架に架かられたときに、そこには究極の貧しさがありました。しかし、貧しさを貧しさのままでは終わらせない神が、イエスを復活の主として立たせてくださった。まさに受難週にいただくべき聖書の言葉であるとも思いました。この週の半ばにあって、皆さんの一日がますます祝福を感じられるようなひと時でありますように。お祈りいたします。

26/03/2024

2024.3.26(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書43章16節
主は海の中に道を
荒れ狂う水の中に通り道を作られる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章3~4節
行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
受難週の三日目を迎えました。昨日は、一日仕事をしないと決めて、ゆっくりと過ごすことができました。それは本当に良かったのですが、今朝になって、いろいろな出来事を思い出していたら、心が騒ぎ、負の感情というものが沸き起こってきたのです。こういう時こそ、神の言葉に触れて、心を落ち着かせたい。そんな風に思い、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉を開きました。
 
主イエスの通られた道を、弟子である者たちは知っている。イエスは、使徒たちに向けてそのようなことを言われました。イエスの通られる道は、時には苦悩に満ちあふれたものであることは、逮捕される前に父なる神に向けられた祈りなどから、私たちは知ることができます。イエスも私たち人間が苦しむように苦しまれた。しかし、道の行きつく先には、父なる神が常におられた。だから、苦しみのなかでもイエスはただ十字架の苦しみをご自分の身に負われた。そんなことを御言葉から考えていたら、涙がほろりとこぼれ落ちるのを感じたのでした。
 
神は私たちが荒れ狂う海を思わせるような苦しみのなかでも、安心して歩めるよう道を設けてくださる方なのだ。そして、私たちを岸の向こうで招いてくださるのだと。私たちのために場所を準備してくださる御方を見つめつつ、今日の一日を歩みたいと願わされました。皆さんの一日にも、主がともにいてくださいますように。お祈りいたします。

25/03/2024

2024.3.25(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌下18章13節
主は生きておられる。私は、神が告げられることを語る。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二4章2節
御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
受難週の二日目を迎えました。たとえ反対者に囲まれたとしても、それに屈することなく、ただただ十字架への道を歩んだイエス。今日の聖書の言葉に触れると、そのようなイエスの姿勢というものは、神の私たちに対する姿勢にもつながり、いにしえの信仰者たちが抱いた姿勢にも相通じる。そんなことを思わせられました。
 
今日の旧約聖書の言葉は、北イスラエル王国時代、神の預言者として活動したミカヤの言葉です。私は周りがどんな状況であれ、いかなる反応を示そうとも、ただ、神から与えられた言葉を、神の言葉として語るのだという姿勢を、ミカヤは貫きました。その結果、イスラエルの史上で繁栄しつつも、神に反抗して政治を行ったとされるアハブ王の怒りを買います。しかし、ミカヤの預言通りに、アハブ王は命を落とすことになり、彼の人生ははかなく終わりを迎えました。
 
神の言葉を、自分や他者の真実を覆い隠し、まるで張り子の虎のように利用し、悪用する生き方ではなく、神を神として真ん中に立てた結果、辛酸を舐め尽くすようなことがあろうとも、必ず最後は神による祝福が待っているのだ。そんなことを希望として感じさせるミカヤの態度に、感銘を想いました。
 
のちに、愛するテモテに手紙を書き送った使徒パウロは、「時が良くても悪くても」御言葉を宣べ伝えなさいと、彼に伝えます。時代や状況が変われば、福音を受け止める態度というものも変わって来るし、それが必ずしも良いことだけとは限らない。しかし、それでも、私たちが宣べ伝えているのは、神が与えてくださる良いものなのだから、その良さがいつしか光り輝くことを、希望のうちに語り続けることの大切さを、改めて受け止めることができました。
 
十字架への道を進まれたイエスが、反対者のあざけりにも、ただただ耐え続けてくださった。受難週の二日目に、そんなことも想わされて一日を始めることのできる幸いを、心から感謝したいと思います。皆さんの一日にも、必ずや良いものを与えてくださる神がともにいてくださることが、何よりもの希望となりますように。お祈りいたします。

24/03/2024

2024.3.24(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌上17章27節
主よ、あなたが祝福されたものは、とこしえに祝福されるのですから。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章34節
そうして、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日は「棕梠(しゅろ)の主日」であり、受難週の初日です。いよいよ主の復活祭(イースター)も近づいてきましたが、その前に、イエスが十字架への道にたどり着き、私たちのために十字架に架かられたことを、特に心に想う一週間を過ごします。主イエスのご受難を通して、本当の愛を知る。そんな一週間でありたいと思います。
 
さて、主イエスのご受難を通して明らかにされる神の祝福は、永遠にわたるものである。今日の新旧約聖書に示された御言葉に共通するのは「主である神による永遠の祝福」です。これこそ、神が人間に与えようとされた、当初の目的であり願いであることを「天地創造の時から」という、マタイによる福音書の一節から彷彿とさせます。
 
つまり、イエスが宣教した「神の国」とは、父なる神が人間のために与えられたエデンの園、つまりパラダイスの回復であるということが分かります。苦しみも痛みも拭い去られた世界というものを、私たちはまことに、心から願わされます。
 
そのようなパラダイスを望んでも、私たちの現実の世界では、なかなかそれが見えてこないことがあります。人と人とが顔を合わせれば、そこに齟齬が生じて互いに憎しみあうような世界。どうしてそうなるのかと、我が身を振り返ってもいろいろ思わされるところがあります。だからこそ、神が果たしてくださるパラダイスの実現のために、イエスが御自ら苦しんでくださったことを、私たちは自分の至らなさを顧みながら、感謝して、そのイエスが良いものを携えて、今日も私と一緒にいてくださることに、希望を抱きたいのです。
 
今日の礼拝や集会のすべてが、そのような祝福に満たされたものでありますように。お祈りいたします。

23/03/2024

2024.3.23(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書16章20節
人間が神を造れようか。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙3章5節
だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今週も今日で最終日となりました。私にとってはあっという間の一週間でしたが、皆さんはどうだったでしょうか。年度末でもありますから、特にしなければならないことがあったりもしますし、今年度はイースターを最終日に迎えるということもあって、何となく慌ただしさというものを感じています。そんな時だからこそ、御言葉に聴く時間だけは、しっかりと確保したい。そんな思いにさせられる朝でした。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「偶像礼拝」であると私は受け止めました。そして、究極の偶像礼拝の対象とは、何を隠そう「私自身」であるということだと、今日の聖句は私に語りかけている。そんな風に思ったのでした。
 
今日の新約聖書であるコロサイ書に描かれている偶像礼拝は、みだらな行いや情欲と言った、いわゆる性欲に起因したものがそうなのだという印象を抱かせているように私は思います。確かに、性欲というものはとどまるところを知らない。人間ならば多少なりともそのようなことは自分自身のこととして受け止められるかもしれません。
 
しかし、何も性的なことだけが偶像礼拝の対象になるわけではない。私は「エロス」の愛に込められた動機こそ、自己崇拝の根源なのだと思わされました。エロスの愛とは、結局自分自身の欲求に任せる愛として、しばしば語られるものです。自分の思い通りに事をなそうとするときに、それがたとえ性的なものでなかったとしても、それがエロスの愛となり、自分中心の愛、つまり「自分自身を神としてしまう」偶像礼拝なのだと思うのです。
 
そのエロスの愛ですが、しばしばその対極の愛として語られるのが「アガペー」の愛、つまり、自分のことは差し置いて、相手の幸福のために働く神の愛です。この神の愛を、私たちは救い主イエス・キリストを通していただいています。この愛がたてられるところには、神が私たちの真ん中に立ってくださり、その神を礼拝する喜びへと、私たちは導かれているのだと、今日の聖書の言葉は伝えているのだと思うのです。
 
自分自身の欲求に忠実である場合、その欲求は神の思いに沿っているものなのだろうか。そんなことを考えながら、この一週間に起きたひとつひとつの出来事を思い起こしながら、歩んでまいりたいと思いました。そして、明日が素敵な主の日を迎えることができますように。皆さんの主にある平安もお祈りいたします。