29/07/2026

2026.7.29(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編42編4節
昼も夜も、私は涙を食物とする。
人は日夜私に言う
「あなたの神はどこにいるのか」と。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙1章13~14節
(パウロの言葉)私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日、熊本県を震源とする大きな地震がありました。猛暑のなか、ライフラインが寸断されていることで、生活に苦痛を覚えられる方も多くおられることに心を痛めています。また、残念ながら命を奪われた方々や、その家族の悲しみを思うと、さらなる痛みを覚えずにはいられません。適切な助けが速やかになされることを祈りつつ、何とかして助けにならないかと思わされつつ、今日のローズンゲンを開きました。まさに、今日のみ言葉は、そのことをの如実に訴える聖書の言葉であると感じずにはいられなかったのです。
 
「あなたの神はどこにいるのか」と、人々は叫びます。私の心のうちもその叫びで大いに痛みます。誰も悪いわけではない。ただ自然のいたずらが人の生活を容赦なく襲い、そして苦しめるのです。この自然を目の前にして、私たちはどうすれば良いのか、ただそこに茫然と立ち尽くしてしまう。そんなことを想わされます。私が現在住んでいる仙台の地も、15年前に同様の経験をしました。私はその場に当時いませんでしたから、それを当事者として語ることはできません。しかし、今ともに生活を営んでいる大切な友たちからは、神がおられるから、神を信じているからと言って、即座に心を神に寄せることが難しかったという話も耳にします。この苦しみのなかで、神が応えてくださることを待ち望みながらもです。
 
昼も夜も涙を食物として生きることのつらさがあります。しかし、その神は必ず私たちのことを見捨てたりはしない。あてもなく、目に見える保証はたとえなかったとしても、私たちはそのことだけに、一縷の望みというものを託しつつ、与えられた日々を生きるしかないのかもしれません。そして、その望みというものを共有してくれる友たちの目に見える助けがあってこそ、神を具体的に見ることができるのかもしれません。だから、できることがあるのであれば、何とかして少しでも助けになりたいと心に願わずにはいられないのです。
 
望みを決して忘れない。そして望みを神に叫び、訴え、神のなさることにすべてを委ねつつも、私にできることを、神の真心をもって誠実に果たす。それがひとひとへの慰めへとつながっていきますようにと願います。今日の新約聖書の言葉は、投獄されていたパウロの姿勢が、人々に希望を与えたことが記されています。熊本は遠い地ではありますが、私がそのことを決して他人事にはせず、希望をもって祈り、そして心を寄せ、何か働きが許されるならば、その働きに有形無形のかたちで参加すること。これが、今日の聖書の言葉から聞こえたメッセージでした。
 
今日も、神である主の励ましと慰めが、ともに豊かにありますように。心からお祈りします。

28/07/2026

2026.7.28(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編44編9節
私たちは日夜、神を誇り
あなたの名にとこしえの感謝を献げます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章19節
主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も一日が、私たちの神である主の守りと平和が、私たちひとりひとりと豊かにありますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンを通して与えられた聖句から黙想をつづりたいと思います。
 
賛美するとは誇ること。そんな言葉が、今日の聖句を通して私のなかで浮かんだテーマでした。誇るとは何でしょうか。国語辞典を開きますと、「立派だと思う。誉れとする。また、その思いを言葉や態度にあらわす。」(広辞苑第七版)とありました。つまり、今日の詩編のことばにもあるように「神を誇る」とは、まさに、神を立派な方であることを嬉しく思う思いであり、その思いが私たち一人ひとりの人生における、言動にしっかりと表れるような生き方を営むことこそ、神を誇るということの真意なのです。
 
今日の聖書の言葉ではありませんが、この思いを使徒パウロは、次のように表現しました。「誇る者は主を誇れ」(コリントの信徒への手紙一1章31節他)。自分自身の限界ある富や力、権力や社会的地位を、さも自分自身の独占物のように見なして、その自分自身の姿に陶酔するような誇りではなく、そもそもそのことを与え、導き、私たちを幸いな者としてくださる神こそ、立派な御方なのだということを、私たちは心の底から喜ぶことができるのだということを、私たちは神を誇ることによって明らかにすることができるというのです。
 
その喜びのかたちこそ、賛美という手段によって私たちは表現することができるのです。だからこそ、賛美するとは誇ることであると、私はあらためてこの聖句から受け取ることができました。主がなされたことを、私たちは心から喜び、歌うことによって、主に向かって賛美することを可能とするのです。
 
私たちは賛美をするときに、何に感動するでしょうか。その音楽性のすばらしさや歌詞に込められたその意味が、私たちの心を鼓舞したり、慰めたりすることが往々にしてあるでしょう。しかし、そこには「私たちの好み」の問題が入り込むこともあるかもしれません。私たちには、どうしても好き嫌いというものが存在します。そのことを私たちはどうしても否定することができないのです。
 
だからと言って、好きだからそれが万人にとって素晴らしい、嫌いだから素晴らしくないなどという理由はどこにもありません。私たちは、自分自身の慣れ親しんだものや向きというものを「最高のもの」とみなせば、それは神を誇る手段というよりは、自分自身に対する誇りを助長するために、賛美を用いることになりかねません。
 
このことは、私たちの嗜好性というものを決して否定しているわけではありません。神は素晴らしい御方であるということを的確に表現しているものであるならば、そこには良し悪しなどというものは存在しないということを積極的に肯定していきたいということなのです。どのような賛美の歌を歌っても、そこには主を誇りとする大きな喜びがあるということを、私たちは心の底から感じ取ることができるように、歌詞に込められた言葉をもって、音楽性をもって、大切にしていきたいのです。そのように、私は今日の聖句を通して、受け取りたいと思ったのでした。
 
時に応じて、私たちが神を心から賛美することによって、主を誇るということを実質的に表現することができますように。そして、賛美から導かれる私たちの生き方というものを、大切にすることができますように。心からお祈りします。

27/07/2026

2026.7.27(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編34編16節
主の目は正しき人に注がれ
その耳は彼らの叫びを聞く。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書27章19節
ピラトが裁判の席についているとき、その妻が彼のもとに人をやって言わせた。
「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
主の日も終わりました。今日から土曜までの週日の日々もまた、皆さんにとって神とともにある生活において、豊かな祝福を感じることのできるものでありますように。そのことを祈りつつ、今日の聖句に心を寄せてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「正しさ」でした。私たちの神の正しさ、そして、その正しさを私たちに示されるために、私たちのもとに神から遣わされた救い主イエスの正しさが、今日の聖句を通して、私たちひとりひとりに与えられています。
 
私たちは、自分自身の生活において、「正しさ」というものについて、どのようにとらえているでしょうか。私たちは生まれながらにして、正しさというものを身に付けているとは思いますが、しかし、その多くは、私たちが育った環境と出会った人々、影響を受けた物事によって形成されていくのだと私は思っています。その形成されたものが、私たちが生まれながらにして抱いている正しさというものと融合されることで、自分なりの正しさというものへの観念が生まれていくのだと思うのです。
 
ですから、正しさに対する私たちの思いは千差万別とも言えるでしょう。しかし、この多様性は、良い方向というよりは、むしろ正しさと正しさの衝突を生み、人間関係に亀裂が生じることで、さまざまな差しさわりを生んでいるような気がしてならないのです。この世は大体、「自分が正しい」と思って、その正しさに従って生きています。誰だってそうです。ここで問題になるのは、自分自身の正しさを貫き通すことで、多くの痛みを生じさせる可能性がいくらでもある、ということなのだと私は思います。
 
今日の聖句は、神の正しさ、イエスの正しさについて、それをめぐる私たち人間がどのように向き合って言ったらよいのかについて、ひとつの示唆というものを与えているような気がしてなりません。「神の正しさを神の正しさとして受け入れ、神の所在なき私の正しさを神の正しさにすり替えない態度」というものこそ、同じ正しさによって、人と人とが生きていくためになくてはならない姿勢なのだと、私はぜひ受け止めたいのです。
 
そのために、私たちは、聖書の言葉から神の正しさとは何かを学びつつ、その正しさが人の尊厳を奪ったり、傷つけたりしないことをしっかりと心に刻みつつ、出会う人ひとりひとりに接し、その交わりを通して喜びを体験することが大切なのだと思うのです。その過程のなかで、自分自身の正しさというものが、本当に神の正しさを体現したものなのだろうかということについて、自問自答し続けることが、大切な営みなのだと。私は今日の二つの聖句をとおして、そのことを今週のウィークデイを生きるための意識したいこととして、歩んで行きたいとあらためて思わされました。
 
どうか、皆さんの生活もまた、神の正しさによって生きる幸いというものを豊かに味わうことができますように。心からお祈りします。

25/07/2026

2026.7.25(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編68編6~7節
みなしごの父となり
やもめの裁き手となるのは
聖なる住まいにいます神。
神は孤独な人を家に住ませ
捕らわれ人を幸福へと導かれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章14節
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日で一週間の旅路も最終日を迎えました。今日の一日が、明日の主の日に向かう備えの一日となりますように。この七日間に起きた出来事を振り返りつつ、今日も与えられたみ言葉に、耳と心を傾けていきたいと思います。
 
今日のローズンゲンを通して選ばれたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「私たちは決して孤独ではない」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書・詩編のことばに記されているのは、孤児の父となり、未亡人の裁き手となる神についてでした。親を亡くし、配偶者を失った者たちの孤独を、私たちの神は親となり、裁き手となってくださると詩人は歌いました。
 
裁き手とは、公平に物事を取り扱い、その人が不利益をこうむることのないように、対処してくださる役割を持つ存在のことを指します。もちろん、この場合の裁き手とは、孤独なものが孤独であり続けるがゆえに味わわなければならない不利益から、人々を解放してくださるという意味で用いられていますから、まさに、私たちの神がそのように、人間の孤独から解放してくださる方なのだということを表しているわけです。
 
それは私たちにとって、大きな慰めになるに違いありません。
 
私たちは日々の生活、人と人とのかかわりのなかで、多種多様な孤独を味わうことがあるでしょう。そのときの空しさというものは、私たちの安心に容赦なく攻撃を仕掛けるのです。人の集団のなかで、わいわいと騒ぐことがあったとしても、心がぽっかりと穴が開く経験というものを、私たちはしたことがないでしょうか。いろいろな幸せの機会に恵まれても、私の心の穴を埋めることができない時も、往々にしてあるものです。
 
しかし、それでも私たちは決して孤独ではないというのです。神の慰めが私たちを手当てするのです。キリストが私たちのために痛んでくださったという事実が、私たちの痛みや傷というものを守り、これ以上傷がさらされたり、さらに傷が広がらないように軟膏でしっかりとガードし、ガーゼのような柔らかい布を当てて、傷の回復に当たらせてくださる。これが神による慰めに他なりません。
 
私たちもこの七日間の生活を通して、大小さまざまな傷を負ったかもしれません。疲れそのものが私たちにとっての傷かもしれません。しかし、新しい週の夜明けとともに、その傷は、神が語りかけられる言葉と、聖霊の助けによって回復へと向かわせてくださる。そのことを十分に受けるために、今日の一日が良き備えの時となるように、私たちは祈りつつ、与えられた一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
どうか、皆さんの新しい一日もまた、神からの豊かな慰めを感じ取り、それを心地よく受ける機会となりますように。心からお祈りします。

24/07/2026

2026.7.24(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨブ記9章10節
神は偉大なことをなさり、究め難く
その驚くべき業は数えきれない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章14節
主イエスを復活させた方が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと共に御前に立たせてくださると、私たちは知っています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日午後から、30度を下回り、涼しい陽気の仙台です。今日は雨の一日の予想です。梅雨に戻ってしまったような感じもしますが、雨が緑をうるおすこともまた恵みなので、そんな一日に感謝しながら、与えられた時を過ごしたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日、私が受け止めたいと思ったのは、「神のなさることの不思議さと偉大さ」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
義人ヨブは、みずからに災難がこれまでもかと降りかかった時に、それでも自分に命を与えられる神をほめたたえました。そして「神のなさることは究め難い」と、ヨブは神をそのように見ていたことが、今日の旧約聖書の言葉に記されています。ヨブは、悪魔のいたずらによって、神から祝福されたことへのしるしとしての財産や家族を、ことごとく奪い去られてしまいます。それどころか、ヨブ自身の健康までもが奪われてしまいました。
 
そのような時に、私たちはどのように考えるでしょうか。神がおられるならば、なぜそのような苦しみに遭わなければならないのかと、自分の境遇をうらみ、神の無力さというものを感じることもあるでしょう。それでも、ヨブは「神は偉大なのだ」という、かつての記憶をかき消すことは決してなかったのです。
 
ヨブは、自らのかつての記憶のなかで、しっかりと神のなさることは、人間のちっぽけな知識の範囲では想像もできないくらいに、素晴らしいものなのだというところに、自分自身の確信を置いていたのでしょう。だからこそ、苦難の中でも、それを励みとして生きることができた。今日の聖句は、そのようななかで語られたヨブの神に対する告白であったのです。
 
私たちは、このヨブの姿勢に聴きたいのです。実際に、私たちは、より明らかにされた「神からの救い」というものを、イエス・キリストによって得ることが大いに許されているのです!イエスを犠牲として惜しみなく差し出しただけではなく、死からの復活というできごとを通して、神が与えられた命というものを決して無駄にしない神の人間に対する姿勢というものが、私たちひとりひとりに明らかにされたのでした。これこそ、「神の偉大なみわざ」そのものなのだと。
 
今日も、私たちの命を活かしてくださる神が、ご自分の偉大なみわざを私たちに明らかにして、それを見せてくださるのです。もし、そのようなことを感じられない私があるならば、必ず神は良きように導いてくださるということを、私たちの希望として生きていきたいのです。今日の聖句を通して、私が受け取りたいと思ったメッセージはそのようなものでした。
 
どうか、今日の一日も、皆さんの一切に恵みを雨を降らせてくださる神が、平安と祝福を注いでくださいますように。心よりお祈りします。

23/07/2026

2026.7.23(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編88編9~10節
私は閉じ込められて、逃げることができません。目は苦しみのあまり衰えました。主よ、私はあなたを日ごとに呼び求めます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録3章2節
すると、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」と呼ばれる神殿の門のところに置いてもらっていたのである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、暑さのなかにあっても、私たちの健康が神によって豊かに守られますように!
 
今日のローズンゲンによって選ばれたふたつの聖句に共通するテーマは「弱さのなかにあって」と私は受け止めました。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちのうちに「弱さ」を感じることがあるでしょうか。それは日常茶飯事のことであるかもしれません。日々出会うさまざまなことで、私たちは弱り果ててしまうのです。体の弱さ、心の弱さ、意志の弱さ、さまざまな弱さが私たちを襲うときに、少しでも弱さから脱却したいと願うからこそ、心身を鍛えようとするのは、私たちの世界では決して珍しいことではありません。
 
しかし、どんなに鍛えても、ある程度の強さを手に入れることができたとしても、究極的かつ完全に弱さから逃れきることはできないのです。ときどき、自分自身の弱さというものに気付かされたとき、私たちは何とも言えない空しさというものを痛感させられることがあるのではないでしょうか。そのことに悩み苦しむ私たちの姿に気付いてしまうのです。
 
私自身も、そのようなことにしばしば見舞われます。弱さに取り囲まれたときに、焦燥感であるとか、孤独感であるとか、そのようなものが私の心を襲います。健康が損なわれて、身体に痛みが生じるときに、この痛みから脱することができるのだろうかと、痛みを感じる不安に苛まれるのです。
 
今日の聖書の言葉は、そんなときだからこそ、神の助けを必要とした詩人ダビデの訴えがあったことを、私たちは聴きとりたいのです。神に十二分に祝福されて、何不自由ない生活を営んでいたダビデ王ですら、自分の弱さに気付き、その弱さにがんじがらめにされる苦しみを味わいました。そんななかで、ダビデは自分のすべてを知っていてくださる神に呼びかけました。毎日毎日呼びかけたのです。
 
私たちはダビデのように、神につねに助けを求めることができないかもしれません。しかし、そのきっかけはいくらでも与えられます。のちに使徒ペトロとヨハネによって脚力の差しさわりを取り除かれた男のようにです。今日の新約聖書の言葉は、そんな男が生活のための最低限の施しを得るために、神殿の門前に横たわっていたことが記されています。
 
彼にとって施しを受けることは生きるために絶対に必要なことでした。弱さのなかでできる精一杯のことでした。しかし、神は彼の弱さを根本的に解消されました。神は施されること以上に、人生を活かす道を与えられました。この神の出来事に、私たちは、どんなに頑張っても克服できない私たちの限界を超えてくださる、神の恵みというものを見ることができるのだと、私はあらためて思わされたのでした。
 
今日も、私たちの弱さをすべて理解してくださったうえで、私たちとともに生きてくださる神がおられます。その神とともに歩む皆さんの幸いが、存分にありますように。心からお祈りします!

22/07/2026

2026.7.22(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
出エジプト記34章10節
すると主は(モーセに)言われた。「あなたと共にいる民は皆、主の業を見るであろう。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書15章31節
群衆は、口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も暑い一日がやってきました。比較的涼しいと言われている仙台の街ですら、昨日の最高気温は35.6度でした。私がまだ幼い頃は、どんなに気温が上がっても30度を超えることがなかったので、日本全体が気温上昇しているのだなと改めて思わされました。今日も、皆さんの健康が守られますように。そのことをお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「主のみ業を見る幸い」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
先週の水曜、私たちの教会のメンバーの方が神の御許に召されました。先月、病床洗礼を受けた方でしたが、やはり教会員である姪御さんの祈りと、ご家族の深い理解もあって、病床洗礼へと導かれました。その後、意識がもうろうとするなかにあっても、日々穏やかに過ごすことができたのは、その方を知る周囲の方々にとっては、大きな慰めになっただろうと思ったのです。
 
葬儀には、親族の方々が参列されました。その多くが、キリスト教葬儀は初めてということでした。私は、自分たちの信じている神、そして、キリスト教という宗教が、決して得体の知れないものではないということを知っていただくには、私自身の姿勢というものが問われていると強く感じました。そして、心を込めて葬儀を司る機会をいただきました。
 
葬儀が終わってから、「初めてキリスト教葬儀というものを経験したけれど、思った以上に良いものでしたね」という感想をいただきました。こういうときに、真心を込めて携わることができた自分自身を振り返って「良かった」と思うのですが、大切なのは、その「良かった」という思いを与えてくださったのは、他ならぬ神御自身であったということを、感謝のうちに思うことができました。
 
神は、亡くなられた方を通して、御自身が人々を慰め、励まし、平安と祝福を与えてくださるということを、葬儀という悲しみや寂しさ、ややもすると抹香臭さやじめじめした雰囲気すら与える機会においても、私たちに与えてくださるのだ。これこそ「神のみわざ」なのだと思えてならないのです。
 
今、神を信じていようがいまいが、神は私たちにそのように働きかけてくださいます。それに私たちひとりひとりが「気づいた」時にこそ、神のみわざを見、そこに喜びと幸いを確認することができるのだと。そのことを、今日の聖句を通して、あらためて感じとることができたのでした。
 
そのような神のみわざが、今日も皆さんの心に響き渡りますように。一日の主にある平安と祝福をお祈りします。