25/07/2026

2026.7.25(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編68編6~7節
みなしごの父となり
やもめの裁き手となるのは
聖なる住まいにいます神。
神は孤独な人を家に住ませ
捕らわれ人を幸福へと導かれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章14節
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日で一週間の旅路も最終日を迎えました。今日の一日が、明日の主の日に向かう備えの一日となりますように。この七日間に起きた出来事を振り返りつつ、今日も与えられたみ言葉に、耳と心を傾けていきたいと思います。
 
今日のローズンゲンを通して選ばれたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「私たちは決して孤独ではない」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書・詩編のことばに記されているのは、孤児の父となり、未亡人の裁き手となる神についてでした。親を亡くし、配偶者を失った者たちの孤独を、私たちの神は親となり、裁き手となってくださると詩人は歌いました。
 
裁き手とは、公平に物事を取り扱い、その人が不利益をこうむることのないように、対処してくださる役割を持つ存在のことを指します。もちろん、この場合の裁き手とは、孤独なものが孤独であり続けるがゆえに味わわなければならない不利益から、人々を解放してくださるという意味で用いられていますから、まさに、私たちの神がそのように、人間の孤独から解放してくださる方なのだということを表しているわけです。
 
それは私たちにとって、大きな慰めになるに違いありません。
 
私たちは日々の生活、人と人とのかかわりのなかで、多種多様な孤独を味わうことがあるでしょう。そのときの空しさというものは、私たちの安心に容赦なく攻撃を仕掛けるのです。人の集団のなかで、わいわいと騒ぐことがあったとしても、心がぽっかりと穴が開く経験というものを、私たちはしたことがないでしょうか。いろいろな幸せの機会に恵まれても、私の心の穴を埋めることができない時も、往々にしてあるものです。
 
しかし、それでも私たちは決して孤独ではないというのです。神の慰めが私たちを手当てするのです。キリストが私たちのために痛んでくださったという事実が、私たちの痛みや傷というものを守り、これ以上傷がさらされたり、さらに傷が広がらないように軟膏でしっかりとガードし、ガーゼのような柔らかい布を当てて、傷の回復に当たらせてくださる。これが神による慰めに他なりません。
 
私たちもこの七日間の生活を通して、大小さまざまな傷を負ったかもしれません。疲れそのものが私たちにとっての傷かもしれません。しかし、新しい週の夜明けとともに、その傷は、神が語りかけられる言葉と、聖霊の助けによって回復へと向かわせてくださる。そのことを十分に受けるために、今日の一日が良き備えの時となるように、私たちは祈りつつ、与えられた一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
どうか、皆さんの新しい一日もまた、神からの豊かな慰めを感じ取り、それを心地よく受ける機会となりますように。心からお祈りします。

24/07/2026

2026.7.24(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨブ記9章10節
神は偉大なことをなさり、究め難く
その驚くべき業は数えきれない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章14節
主イエスを復活させた方が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと共に御前に立たせてくださると、私たちは知っています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日午後から、30度を下回り、涼しい陽気の仙台です。今日は雨の一日の予想です。梅雨に戻ってしまったような感じもしますが、雨が緑をうるおすこともまた恵みなので、そんな一日に感謝しながら、与えられた時を過ごしたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日、私が受け止めたいと思ったのは、「神のなさることの不思議さと偉大さ」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
義人ヨブは、みずからに災難がこれまでもかと降りかかった時に、それでも自分に命を与えられる神をほめたたえました。そして「神のなさることは究め難い」と、ヨブは神をそのように見ていたことが、今日の旧約聖書の言葉に記されています。ヨブは、悪魔のいたずらによって、神から祝福されたことへのしるしとしての財産や家族を、ことごとく奪い去られてしまいます。それどころか、ヨブ自身の健康までもが奪われてしまいました。
 
そのような時に、私たちはどのように考えるでしょうか。神がおられるならば、なぜそのような苦しみに遭わなければならないのかと、自分の境遇をうらみ、神の無力さというものを感じることもあるでしょう。それでも、ヨブは「神は偉大なのだ」という、かつての記憶をかき消すことは決してなかったのです。
 
ヨブは、自らのかつての記憶のなかで、しっかりと神のなさることは、人間のちっぽけな知識の範囲では想像もできないくらいに、素晴らしいものなのだというところに、自分自身の確信を置いていたのでしょう。だからこそ、苦難の中でも、それを励みとして生きることができた。今日の聖句は、そのようななかで語られたヨブの神に対する告白であったのです。
 
私たちは、このヨブの姿勢に聴きたいのです。実際に、私たちは、より明らかにされた「神からの救い」というものを、イエス・キリストによって得ることが大いに許されているのです!イエスを犠牲として惜しみなく差し出しただけではなく、死からの復活というできごとを通して、神が与えられた命というものを決して無駄にしない神の人間に対する姿勢というものが、私たちひとりひとりに明らかにされたのでした。これこそ、「神の偉大なみわざ」そのものなのだと。
 
今日も、私たちの命を活かしてくださる神が、ご自分の偉大なみわざを私たちに明らかにして、それを見せてくださるのです。もし、そのようなことを感じられない私があるならば、必ず神は良きように導いてくださるということを、私たちの希望として生きていきたいのです。今日の聖句を通して、私が受け取りたいと思ったメッセージはそのようなものでした。
 
どうか、今日の一日も、皆さんの一切に恵みを雨を降らせてくださる神が、平安と祝福を注いでくださいますように。心よりお祈りします。

23/07/2026

2026.7.23(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編88編9~10節
私は閉じ込められて、逃げることができません。目は苦しみのあまり衰えました。主よ、私はあなたを日ごとに呼び求めます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録3章2節
すると、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」と呼ばれる神殿の門のところに置いてもらっていたのである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、暑さのなかにあっても、私たちの健康が神によって豊かに守られますように!
 
今日のローズンゲンによって選ばれたふたつの聖句に共通するテーマは「弱さのなかにあって」と私は受け止めました。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちのうちに「弱さ」を感じることがあるでしょうか。それは日常茶飯事のことであるかもしれません。日々出会うさまざまなことで、私たちは弱り果ててしまうのです。体の弱さ、心の弱さ、意志の弱さ、さまざまな弱さが私たちを襲うときに、少しでも弱さから脱却したいと願うからこそ、心身を鍛えようとするのは、私たちの世界では決して珍しいことではありません。
 
しかし、どんなに鍛えても、ある程度の強さを手に入れることができたとしても、究極的かつ完全に弱さから逃れきることはできないのです。ときどき、自分自身の弱さというものに気付かされたとき、私たちは何とも言えない空しさというものを痛感させられることがあるのではないでしょうか。そのことに悩み苦しむ私たちの姿に気付いてしまうのです。
 
私自身も、そのようなことにしばしば見舞われます。弱さに取り囲まれたときに、焦燥感であるとか、孤独感であるとか、そのようなものが私の心を襲います。健康が損なわれて、身体に痛みが生じるときに、この痛みから脱することができるのだろうかと、痛みを感じる不安に苛まれるのです。
 
今日の聖書の言葉は、そんなときだからこそ、神の助けを必要とした詩人ダビデの訴えがあったことを、私たちは聴きとりたいのです。神に十二分に祝福されて、何不自由ない生活を営んでいたダビデ王ですら、自分の弱さに気付き、その弱さにがんじがらめにされる苦しみを味わいました。そんななかで、ダビデは自分のすべてを知っていてくださる神に呼びかけました。毎日毎日呼びかけたのです。
 
私たちはダビデのように、神につねに助けを求めることができないかもしれません。しかし、そのきっかけはいくらでも与えられます。のちに使徒ペトロとヨハネによって脚力の差しさわりを取り除かれた男のようにです。今日の新約聖書の言葉は、そんな男が生活のための最低限の施しを得るために、神殿の門前に横たわっていたことが記されています。
 
彼にとって施しを受けることは生きるために絶対に必要なことでした。弱さのなかでできる精一杯のことでした。しかし、神は彼の弱さを根本的に解消されました。神は施されること以上に、人生を活かす道を与えられました。この神の出来事に、私たちは、どんなに頑張っても克服できない私たちの限界を超えてくださる、神の恵みというものを見ることができるのだと、私はあらためて思わされたのでした。
 
今日も、私たちの弱さをすべて理解してくださったうえで、私たちとともに生きてくださる神がおられます。その神とともに歩む皆さんの幸いが、存分にありますように。心からお祈りします!

22/07/2026

2026.7.22(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
出エジプト記34章10節
すると主は(モーセに)言われた。「あなたと共にいる民は皆、主の業を見るであろう。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書15章31節
群衆は、口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も暑い一日がやってきました。比較的涼しいと言われている仙台の街ですら、昨日の最高気温は35.6度でした。私がまだ幼い頃は、どんなに気温が上がっても30度を超えることがなかったので、日本全体が気温上昇しているのだなと改めて思わされました。今日も、皆さんの健康が守られますように。そのことをお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「主のみ業を見る幸い」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
先週の水曜、私たちの教会のメンバーの方が神の御許に召されました。先月、病床洗礼を受けた方でしたが、やはり教会員である姪御さんの祈りと、ご家族の深い理解もあって、病床洗礼へと導かれました。その後、意識がもうろうとするなかにあっても、日々穏やかに過ごすことができたのは、その方を知る周囲の方々にとっては、大きな慰めになっただろうと思ったのです。
 
葬儀には、親族の方々が参列されました。その多くが、キリスト教葬儀は初めてということでした。私は、自分たちの信じている神、そして、キリスト教という宗教が、決して得体の知れないものではないということを知っていただくには、私自身の姿勢というものが問われていると強く感じました。そして、心を込めて葬儀を司る機会をいただきました。
 
葬儀が終わってから、「初めてキリスト教葬儀というものを経験したけれど、思った以上に良いものでしたね」という感想をいただきました。こういうときに、真心を込めて携わることができた自分自身を振り返って「良かった」と思うのですが、大切なのは、その「良かった」という思いを与えてくださったのは、他ならぬ神御自身であったということを、感謝のうちに思うことができました。
 
神は、亡くなられた方を通して、御自身が人々を慰め、励まし、平安と祝福を与えてくださるということを、葬儀という悲しみや寂しさ、ややもすると抹香臭さやじめじめした雰囲気すら与える機会においても、私たちに与えてくださるのだ。これこそ「神のみわざ」なのだと思えてならないのです。
 
今、神を信じていようがいまいが、神は私たちにそのように働きかけてくださいます。それに私たちひとりひとりが「気づいた」時にこそ、神のみわざを見、そこに喜びと幸いを確認することができるのだと。そのことを、今日の聖句を通して、あらためて感じとることができたのでした。
 
そのような神のみわざが、今日も皆さんの心に響き渡りますように。一日の主にある平安と祝福をお祈りします。

21/07/2026

2026.7.21(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書66章10節
エルサレムと共に喜び祝い、
彼女のことで喜び躍れ。
彼女を愛するすべての人よ。
彼女と共に大いに喜べ
彼女のために嘆いていたすべての人よ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章37節
いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
日本では夏の三連休が終わり、日常に戻られた方も多くあるかと思います。酷暑と言われるなかですが、どうぞ健康が守られるように、お祈りします。私が働く仙台宮城野教会では、おととい昨日と、年に一度の「教会修養会」が持たれました。普段じっくりと学ぶことができない聖書の言葉に、耳と心を傾けつつ、参加者との良い交わりが与えられて、本当に感謝でした。気持ち新たに、教会の新しい歩みを神の助けによって踏んでまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは「賛美」についてでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書でも旧約聖書でも語られているのは、神の人間に対する愛や慈しみが込められたその「みわざ」に対して、私たち人間の喜びであるとか感謝が、私たちを感謝へと駆り立て、その表現方法として、賛美が豊かに用いられるということです。
 
私たちは、その賛美を、音楽というかたちを通して、表現することが多くあるでしょう。別に賛美は歌の方法を通してでなくても、行うことのできるものです。嬉しい気持ちを神に向けることができれば、そのすべてが賛美であるからです。しかし、私たちが賛美と言えば、それはしばしば音楽のかたちを通して明らかにされるのです。
 
私たちが誰でも、賛美の歌を歌えるようになったのは、宗教改革以後、約500年の歴史があると言われています。それまでは賛美の歌があっても、それはごく限られた役割をもった者たちによって歌われてきたのが、キリスト教の歴史であったと言われています。それだけ、賛美は私たちにとって近いものとなりました。
 
昨日、私たちの教会修養会でテーマのひとつとされたのは、「届く言葉で主を礼拝する」というものでした。そのなかで、「賛美歌」をどのように私たちは考えることができるのだろうかということも、テーマのひとつとなりました。届く言葉には、私たちが「意味のわかる言葉をもって主を賛美する」というものが含まれることを、私たちが考える機会となりました。
 
私たちの教会では、1954年に出版された『讃美歌』を用いていますが、その曲のすべてが文語体によって歌詞がつくられています。音韻の美しさもさることながら、文語が生活言語として用いられていない現在ですから、その意味が呪文のように聞こえると、私は感じ続けてきたわけです。特に、私も含め、文語を生活言語としてこなかった世代にとっては、賛美の本来の意味というものが損なわれてしまうのではないかと思えてならないのです。
 
そのことについて、参加者とともに考えることができました。「慣れ」や「親しみ」、「思い出」などが、私たちの心にしっかりと根付いていますので、なかなか文語の賛美歌から、口語の賛美歌へとスライドしていくことに違和感を覚えるというご意見もあった一方で、未来志向の視点で、新しい賛美をすることの大切さというものが、未来に向かって歩んで行く教会には必要であるという意見もあり、とても良い話し合いの時を持つことができました。
 
礼拝という営みのなかで、私たちがいかに賛美というものについて、考えていくことができるか。私は「賛美の本質」というものを大切にしつつ、その本質が守られたうえで、礼拝に参加する人たちの思いがひとつとされるような賛美歌のあり方を、これからも求め続けていきたいと願わされました。そのことを、今日の聖書の言葉に対する黙想として、つづりたいと思いました。
 
これからも、私たちが主を賛美するという点において、私たちの心が豊かに神によって広げられていきますように。そのことを願いつつ、皆さんの賛美する生活の一切に、神からの守りと祝福を、心からお祈りします。

19/07/2026

2026.7.19(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編8編2節
主よ、怒りに燃えて私を責めず
憤りに任せて懲らしめないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章21節
神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。今日、それぞれの教会や集会で行われる主の日の礼拝が、神の喜びに満ちあふれますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに選ばれた聖句から黙想を得たいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐテーマは、「神の怒り」であると私は受け止めました。どの宗教でも、神仏の怒りというものがテーマになることがあります。聖書にも、神の怒りについて触れている部分が数多くあることは、皆さんもご存知の通りであると思います。
 
私たちは「神のかたち」として造られたと聖書にあります。つまり、私たちの性質というものは、神をモデルとしています。私たちも怒ります。その怒りがいろいろなところに向けられるでしょう。世の中に対して、人に対して、そして自分自身にすら怒りが向けられることがあるのです。
 
しかし、ここで考えたいのです。「私たちは神が怒るような仕方で怒っているのだろうか」ということをです。この問いに対する答えは「NO」であると私は感じ、考えています。そもそも怒りというものは、正しいことが正しく機能されていないときに起こる感情であると言って良いでしょう。ただ、その正しさというものが、何に基づいた正しさなのかということを、私たちはよく考える必要があるのです。
 
今日の新約聖書の言葉には「神の義」という言葉が登場します。神の正しさということですが、しばしば、私たちの正しさと神の正しさというものが符合しないことがしばしばあるのです。神の正しさと思い込んでいても、実は自分自身が気持ち良いと思う、自分の思いどおりになるような正しさを、私たちは大切にしてしまうのです。
 
その結果、自分の思いどおりにならないと、いとも簡単に怒りを発してしまいます。そして、その怒りというものがいろいろなところに向けられたときに、関係性がゆがみ、壊れていくのです。この関係性のゆがみこそが「罪」の根源であると言って良いのです。
 
神は、ご自分の怒りというものを、たやすく人間に向けられることはなさいません。かつてはそういうこともありました。しかし、イエス・キリストという、神との関係性において完璧に生きた存在をもって、十字架の犠牲とする「怒り」が、神御自身に向けられたのでした。神はご自分の怒りを自分自身に向けることによって、その正しさというものを行使されたのでした。
 
私たちは、自己正義に生きるものではなく、神の正義によって生きる者とさせられるのです。神の正しさが私たちと神、私たち人間同士、そして私たちと世界をつなぐ、なくてはならないものなのです。この関係性なしには、世界は決して平和になることはありませんし、神の怒りはまさに、ご自分がつくられ、愛されたこの世界のために、いたずらに人に向けられることなく、自分自身に向けられたということを、じっくりと噛みしめたい。これが、私が今日得た黙想でした。
 
今日から始まる七日間の旅路も、そのような神の姿勢に支えられながら、私たちは歩むことができます。どうか、その先駆けとなる今日の一日も、神の正しさを心に染ませながら歩むことができますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

18/07/2026

2026.7.18(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記5章2節
神は彼らを男と女に創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、人と名付けられた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章10節
相手に敬意をもって丁寧に接しなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
ここ数日、黙想をお届けすることができず、申し訳ありませんでした。今日は今週最後の一日ですが、私は、教会員の方の葬儀を執り行います。心を込めて、神の導きが豊かにあることを心から祈りつつ、一切を司り、慰めと励ましを与えてくださる神の恵みがあふれるような葬儀のひと時となればと願います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「相手に敬意を抱く理由」というものでした。このことについて黙想をつづりたいと思います。
 
相手に敬意を抱く理由。それは、その人を愛情をこめて造られ、命の息吹を与えたのは神だからです。神は人間を創造されたときに「祝福された」と、今日の旧約聖書には記されています。神の祝福が人間に与えられたということは、その祝福が人間同士にあふれることこそ、神が願っておられることなのだということを想わされます。
 
しかし、どうでしょう。人間同士が敬意を持てないことなど、私たちの世界ではざらにあるのではないでしょうか。なぜでしょうか。そこに神はいないからです。どんなに神を信じていると自覚していたとしても、私たちの感情や思考が、神の存在よりも強く、大きなものになってしまうときに、自分の期待通りに動かない相手に対して「敬意が抱けなく」なってしまうのです。誰でも、大なり小なりそういうことはあるものです。
 
誤解を恐れず申し上げれば、そのような状態はもはや、神のみ心に沿っていないことを意味します。神を信じているという言葉すら、空しいものとなってしまうのです。この神から乖離され、空しい状況こそ、私たちが痛感しなければならないことなのだと、私は自戒を込めて思わされるのです。神の祝福を踏みにじっているのですから。
 
しかし、そんな私たちにですら、祝福を注ぎ続けておられる神がおられるということを、私たちはしっかりと握りしめたいのです。神が祝福された人間であるということをです。
 
この世の中は、私たちのゆがみによってさまざまな差し障りというものを生んでいるからこそ、神の祝福を無駄にしない生き方というものが問われているのだと。これが私の今日受け止めたいと思ったことでした。
 
一週間の終わりである今日の一日もまた、神の祝福を心から感謝できるような時となりますように。私たちが神に敬意を払うことが、どのように人に向けられるかを考えることができますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。