07/10/2026

2026.10.7(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
アモス書5章14節
善を求めよ、悪を求めるな
あなたがたが生きるために。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章15節
誰も悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは、「『善』とは何か?」ということです。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉が「善」であり、その対極にある「悪」という言葉でした。私たちは善悪のどちらも兼ね備えている存在であることは、皆さんもご存知の通りだと思います。では、その善悪に対して、私たちがどのような見方をするのが大切かというのが、今日の聖句を読み解くポイントになるのだと思います。
 
そもそも、善という言葉は、私たち人間の産物ではないという大前提があります。善とは与えられるものであり、そのいただいた善をもって、私たちが善行を自分自身の営みとすることができるというのが、聖書が語っている「善」に対する見方なのです。そして、善の与え主こそ、私たちの神以外に誰もおられないのだ。だから、善である神が、ご自分のものを私たちひとりひとりに分け与えてくださることで、私たちは善をいただくことができるのだということなのです。
 
つまり、今日の旧約聖書の言葉である、アモス書の一節で語られている「善を求めよ」とは、換言すれば「神を求めよ」ということなのです。道徳的に美しい行いを求めよ、善いとされることを求めなさいという前に、まず、神御自身の姿がなんであり、私たちに対する善い取り扱いすべてを求めなさいという意味で、この聖句は語られています。この前提無くして、善行もなにもあったものではないからです。
 
私たちが神を心の底から求めるとき、神は私たちのために、「善」をもって取り扱ってくださったことを思い起こせるように、神が導いてくださいます。そのことを信じて、善を求めることのできる一日となりますようにと祈ります。決して神不在の状態でそれに報いることなく、です。皆さんの今日一日の、主にある平安と祝福を心からお祈りします。

06/10/2026

2026.10.6(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編25編20節
私が恥をさらすことがないようにしてください。
私はあなたのもとに逃れます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章19節
(イエスの言葉)
私が生きているので、あなたがたも生きることになる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日も新しい一日がやってまいりました。どうかこの日が、私たちにとって、神を心から感じることのできる、そのことによって生きる励みや慰めが豊かに与えられるよう、心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは「ただ神のおかげで」ということでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書のことばは、詩編25編でした。イスラエル王ダビデによる神への告白の一節が選ばれています。「私が恥をさらすことがないようにしてください」というダビデの願いは、その前の節を読むと、より深い理解を得ることができると私は思いました。
 
詩編25編19節
見てください、どれほど私の敵が多く残忍なまでに私を憎んでいるかを。
 
つまり、ここで言う「恥」が何であるかについて、明確にそのことを示しています。ダビデの感じた恥とは、神に与えられたイスラエル王としての務めを果たすがゆえに生じる、敵からの残忍な憎しみに起因するということです。イスラエル王に求められていることは、ただ神に忠実であって、神とともに誠実に歩むということでした。ですから、ダビデが感じた恥は、あくまで神とともに歩むことが前提にあってこその恥ということがわかります。
 
つまり、神とともに歩むというのは、自らのうちそとに生じる恥と、いかに向き合うことができるかということをも意味しているような気がしてならないのです。その恥がなんであるかを理解した時に、自身が感じた恥というものを、神はどのように取り扱ってくださるのだろうかという思いへと動かされるのであれば、それはとても良いことなのだと思うのです。
 
もしその恥が、神を誇ることではなく、自分自身を誇り、自益を優先するがために起きるものであるならば、その恥は甘んじて受けなければならないだろうし、そこに神の介入と助けがあり、そういうところから解放してくださるように導いてくださることを、受け入れる思いが与えられるかもしれませんし、神を誇るがゆえに生じた恥ならば、それは必ず神が私たちを助けてくださるのだという、強い信頼と信仰の根拠となることでしょう。
 
イエスは言われます。私が生きているからこそ、あなたも生きるのだと。恥をその大きな愛で覆い、ケアし、大切なことを教え、導いてくださる方だからこそ、今日も主にあって生きることが大いに許されているのだ。そんな思いをもって、一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一切に、神の守りと祝福が豊かにありますように!

05/10/2026

2026.10.5(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記18章27節
塵や灰にすぎない私ですが、あえてわが主に申し上げます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書15章27~28節
女は言った。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
昨日の主の日の礼拝をいただき、私たちはまた、新しい一週間の日々を歩む者として、神から押し出されました。今週の週日の日々も、神の守りに支えられながら、神とともに歩む者として生きることができますように。そんな思いとともに、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想を得てまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「私のような弱き、小さき者にも、神は恵みを十分に与えてくださる」ということでした。
 
今日の旧約聖書の言葉は、アブラハムが神にとりなしの願いをしているシーンです。道徳的に頽廃して、神を神と思わない態度を明らかにしていたソドムとゴモラの町に対して、神は怒りを示そうとされていた時のことです。確かにソドムとゴモラは、見た目には豊かな生活を皆が抱いていました。しかし、その背後に神が命を与え、生活を与えることを、この町に住む人たちはすっかり忘れていました。忘れるどころか、ないがしろにしていたのです。
 
この神の怒りに、アブラハムは神の救いを求めます。この荒れ果てた町のなかに、あなたに忠実に生きようとする人がいても、それでもあなたは怒りを発出されますかと。それは、傲慢な思いから出た言葉ではなく、あくまでアブラハム自身が弱く、小さな存在であることを十分に自覚していたうえでの告白でした。あなたの助けがなければ生きていけないのです。だからこそ、そこに眼を留めてくださいという切なる願いの言葉だったのです。
 
もちろん、神はそんなアブラハムを見ていないはずはありません。しかし、大切なのは、私たち人間の側にある「自覚」だったのです。そのような謙虚な自覚から出る神への切なる願いこそ、神はためらいなく受け入れらるということを、この物語は如実に物語っているのです。
 
そして、今日の新約聖書の言葉は、イスラエルの辺境の地とも言える場での、カナン人の女性とイエスとの出会いの物語です。娘が悪霊に取りつかれて苦しんでいるのを見て、いたたまれない気持ちになった母親は、そのいやしをイエスに求めます。まさにとりなしの思いをもって、彼女はイエスに近づきました。しかし、イエスはにべもなく、彼女の願いを一蹴するかのような言葉を彼女に放ちました。
 
それに対して、彼女が告白したことが「小犬もパン屑をいただきます」というものでした。自分のことを小犬にたとえつつ、娘のために神からの恵みをいただきたいという信仰の告白をイエスに向けられました。イエスはすべてご存知だったのでしょう。大切にしたかったのは、彼女の深い自覚から来る謙遜さと大胆さだったのかもしれません。だからこそ、イエスは彼女の娘から、悪霊を追い出されました。
 
弱き小さき者にも、神は必ず臨んでくださる。それがこの私なのだ。そんな自覚を確かめながら、今日という一日を生きていきたいと心から願わされた次第です。感謝をもって、今日のみ言葉を受け入れたいと思いました。
 
どうか新しい今日の一日が、そのような思いをもって神に向き合うことができますように。みなさんの主にある守りと平安を、心からお祈りします。
 

2026.10.4(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ネヘミヤ記9章5節
経って、あなたがたの神、主をほめたたえよ。
いにしえからとこしえまで
あなたの栄光の御名がほめたたえられますように。
それはあらゆる祝福と賛美にまさります。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一10章31節
食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
おはようございます。
昨日(10月4日)、ローズンゲン黙想を10月11日のものをしてしまいましたので、日付は変わりましたが、振り返りの意味も込めて、黙想を書きつづりたいと思います。
 
この日のローズンゲンに示された、旧約と新約のふたつの聖句をつなげる言葉は「栄光」でした。栄光とは、神が私たちをまばゆく照らし、行く道を示され、私たちが路頭に迷うことのないようにしてくださる、そのような光の源である神が放たれるすべてを「栄光」と表現することができるのだと私は思います。
 
旧約聖書の言葉として選ばれたのは、ネヘミヤ記9章の一節でした。ネヘミヤ記は、バビロン捕囚からエルサレムへ帰還することができた民たちが、その後、自分たちの町の城壁を完成させました。いよいよ都が復興しようとするそのとき、彼らは神の言葉を朗読して、ハッとさせられたのでしょう。「同じ轍を踏んではならない」と。
 
彼らは、神の光に照らされて歩むということの真意を理解していませんでした。最初は理解していましたが、そのうち忘れてしまったのです。光を受けて生きることに慣れてしまい、それが「当たり前」のものとして受け止めてしまったのです。だからこそ、光源がどこにあるのかなどということを考えずに生きてしまったのです。
 
彼らは、バビロン捕囚での苦しみをへて、神のおきての言葉に触れたときに、「もう二度と同じことを繰り返すまい」と決意します。そして、民たちは神へ、ざんげの祈りをささげました。そのなかで、彼がもっとも大切にしようとしたのは、「神の栄光」が自分たちには無くてならないものであるという、強い自覚の念だったのです。
 
それを受けた新約聖書の言葉は、そのことを私たちに思い起こさせるものです。食べるにも飲むにも、何をするにも、神の栄光があるからこそ、それを楽しむことができるのだと。そんな思いが、私たちに与えられているのだということを思い、深く感謝できました。
 
この感謝の思いを共有しつつ、神の栄光をたたえることができますように!

03/10/2026

2026.10.3(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書29章13節
この民は口で近づき
唇で私を敬うが
その心は私から遠く離れている。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書15章11節
(イエスの言葉)
口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この七日間の旅路を振り返る一日として、また、明日の主の日への備えの一日として、今日もローズンゲンを通して与えられる神の言葉の味わい深さをいただいてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「私たちはどのように自己表現をすることが、神にあってふさわしいのだろうか」ということでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは心に思ったり、感じたりすることをもって、そのことが言動というものに表現されるというのは、誰もが知っていることです。しかし、私たちは、どんなに良いことを考えよう、神から与えられた良いものを保ち続けようと願っても、そのことを拒絶する自分自身の頑なさがあるということも、よく知っているのではないでしょうか。
 
私の思考や感情の根拠にあるものが何かを、よく考えてみたいのです。それが我欲のためなのか、それとも本当にこの世界の平安を願ってのことなのか、ということをです。今日与えられたふたつの聖句は、どちらも、私たちに対する「警告」のことばであると言っても過言ではないでしょう。私たちに実に問わされる言葉であると、私は思えてなりません。
 
表向きには神を賛美している「ようにみえる」が、実はそうではないのだという指摘が、はるか昔、神によってご自分の民である南イスラエル(ユダ王国)の人々に向けられました。動機を問え、その心を問えと、神は私たち一人ひとりにも、この言葉を通して大切な問いを与えているのだと私は受け止めます。
 
私たちはどうしても、よこしまな思いを抱いてしまいたくなることがあります。しかし、大切なのは、そのようなよこしまな思いをまったく自分自身の心から、100%取り除くということよりも、そういう自分自身があるという深い「自覚」があるかどうか、ということなのではないでしょうか。この自覚があれば、まだ私たちは神と向き合うスペースというものが、確保されることになるのです。
 
いわゆる「面従腹背」的な生き方をしても、それは結果として、神の御前では何の意味も果たしません。神はすべてをご存知だからです。それは他者に対しても同じことが言えるのだと私は思います。自分自身の心身からほとばしり出るものが、少しでもクリアなものになればどれだけ楽になるかということもありますが、そのために、私の心というものを常に、神に点検していただくことこそ大切なのだと。そのために、神の言葉があり、聖霊の助けが与えられているのです。
 
主イエスは言いました。口から出るものが人を汚すと。どうしても人を汚してしまうこともあるでしょう。私たちは欠けある人間ですから。しかし、そのことの自覚を持つだけでも、この世での生き方というものが、神によって少しでも変えられる、変えられたいという願いへと導かれることが大切なのです。
 
この一週間に起きた出来事を振り返りながら、今日も、そんな私たちをなおもご自分の言葉で励ましてくださる神の愛に心から感謝しつつ、一日を過ごすことができますようにと祈ります。皆さんの一日もまた、神の祝福と守りに満たされたものでありますように。お祈りします。

02/10/2026

2026.10.2(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
サムエル記上3章9節
主よ、お話しください。僕は聞いております。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章24節
(イエスの言葉)
私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
おはようございます。
仙台の街は、秋晴れの朝を迎えました。雨続きの日々でしたから、さわやかな一日の始まりを迎えることができるのは、本当に気持ちの良いものです。この秋空のように、気持ちを新たにして、今日与えられたローズンゲンによって示されたふたつの聖句から、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「御言葉に聴く生活」であると私は受け止めました。旧約聖書は、指導者サムエルが神に対して告白したみずからの信仰の言葉であり、新約聖書は、イエスによって語られた「山上の説教」の最終に語られた「岩の上と砂の上に建てた家」のたとえ話の一節です。
 
さて、私の働いている東北教区センター・エマオでは、毎月一度「静かに聖書に聴く夕べ」という集会が行われています。聖書の言葉を前に心をしずめて、御言葉が語るメッセージに耳と心を傾けるひと時です。その後で、参加者とともにその味わいを共有することで、聖書の言葉が与える恵みをいただきます。少人数の参加者ではありますが、とても素敵な時間をいただいています。私も久しぶりにこの集会へ出席しました。
 
それで、先日の集会で読まれたのが、マタイによる福音書7章の「岩の上/砂の上に建てた家のたとえ話」でした。よく聞いたことのある、なじみ深い聖書の言葉です。私は小学生のとき、まだ教会へも行っていなかったころ、キャンプソングでこの話を知りました。まさか聖書の言葉だったとはと知ったのは、ずっと後のことです。
 
だれもが納得するたとえ話ですが、それが聖書の言葉であり、私へ向けられた神の言葉であるとあらためて知った時には、「誰もが知っている話」という一般的な話題ではなく、家や土台とはいったい何だろうかということに、想いを寄せるようになりました。土台がしっかりしてこそ、家が家として保たれるというイエスの言葉はまさに、自分自身のありようというものを如実に映し出すものなのだということを、感じずにはいられません。
 
私の立ち位置というものが、神の言葉によって形成されるものなのだということに気付いたのです。そして、私の歩みを底辺からしっかりと支える、土台たるイエス・キリストがおられるのだということが、雨風が吹き荒れても、それに持ちこたえることのできる私という存在がつくられていくことに、ただただ感謝でしかありませんでした。そんなことを、先日の集会では、参加者の皆さんと分かち合って、ほっこりした気持ちで家路へ就くことができました。
 
歳若いサムエルも、神に向かって「主よ、お語りください」と、神の御声にじっくりと耳と心を傾けようとする思いが込められたこの聖句に、私たちの態度というものが問われているような気がしてなりません。しかし、その問いはあくまで、私たちを健やかな一日へと導く問いなのだということを胸に刻みつつ、新しい一日を歩んでいきたいと、思い新たにさせられました。
 
どうか、今日の一日もまた、そのような神の良いものに支えられながら、歩みを踏むことができますように。そして、皆さんの主にある、守りと平安が豊かにありますことを、心からお祈りします。

01/10/2026

2026.10.1(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編71編20節
あなたは多くの苦しみと災いを
私に思い知らせましたが、
再び命を与えてくださいます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二2章9節
主は、敬虔な人々を試練から救い出す。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
おはようございます。
今日から10月、そして年度の下半期に入りました。あっという間に半年が経ってしまったという印象をぬぐえませんが、下半期も一日一日を大切にしながら、神様から与えられる時と機会を過ごしていきたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想をつづりたいと思いますが、今日の新約聖書の言葉であるペトロの手紙のなかから、私が注目したいと思ったのは「敬虔」という言葉でした。
 
敬虔という言葉を聞くと、よく「敬虔なクリスチャン」という言葉を思い出すかもしれません。一般的にも、クリスチャンを指す言葉として用いられるのではないかと思います。しかし、よくよく考えてみれば、敬虔とはいったい何かということを、あらためて思わされるのです。意味をよく理解することなく、使われている言葉なのではないかと思ったりするのです。
 
敬虔という言葉を辞書で調べますと、「うやまいつつしむこと。特に神仏に帰依して、つつしみ仕えること」(広辞苑第七版)とあります。ここで登場するのは「つつしむ(謹む・慎む)」という言葉です。ここから想像するイメージは静的なものであると私は感じていますが、果たして敬虔とは、静的なイメージだけを私たちに与えるものなのだろうかと、私は思ったりするのです。
 
神を敬うということは間違いないと思います。しかし、神を敬うかたちは、なにも静的なものだけではない、極めて私たちの動的な営みなのではないかとも思うのです。この言葉の原語(ギリシア語でエウセベイア)は、「神に向かう健全な姿勢」というもともとの意味があります。つまり、敬虔とは動的であれば静的であれ、神に私たちが誠実に向き合おうとする態度のことそのものを指す言葉ですから、そのことに私たちは「敬虔」であることの意味を見い出したい。そんなことを感じたのです。
 
そのような敬虔さがあってこそ、巡り来るさまざまな試練に向き合う知恵と力というものが、神によって豊かに与えられるのだ。そんなことを今日の黙想としてつづりたいと思いました。
 
どうか、今日の一日も試練と感じるようなことがあっても、私たちの神に向かう誠実さを、ご自分の言葉と聖霊の導きで養ってくださる神が、ともにおられますようにと祈ります。皆さんの一日にも、神である主がともにいてくださいますように。お祈りします。