16/02/2026

2026.2.16(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書31章7節
声を響かせ、賛美して言え。「主よ、あなたの民をお救いください」と。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章68節
イスラエルの神である主は、ほめたたえられますように。主はその民を訪れて、これを贖われた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、皆さんの一日を導かれて、私たちの歩みにともなってくださる神が、ご自分の言葉を通して、私たちを整えてくださいますように。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「救い」でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エレミヤ書の一節でした。エレミヤ書に記されていることは、神によって選ばれ、守られていた国民でありながらも、そのうえにあぐらをかきつづけていたイスラエルが、その代償として辛酸を舐めなければならなかったうえで、なおもその民をご自分の民として愛し、神の民として再生させようとする神の思いというものが、預言者エレミヤを通して明らかにされる、という物語です。
 
そして、今日の聖句はまさに、神がイスラエルにある人々を再生させようとして、民たちに語りかけている箇所です。そのメッセージは、自分自身を賛美しつつ「救ってください」と叫びなさい、というものでした。このような嘆願が、嘆願される側のほうから嘆願すべき側に対して語られているということが、とても不思議に感じながらも、どこまで民の再生を願い、そのために愛を注ぎ続けようとしている神がおられるのかと、そのように感じてならないのです。そんなことをしてまで、私たち人間のために備えてくださる方の譲歩を思わずにはいられません。
 
本来ならば、私たちが自分たちの至らなさに気付き、一から再生すべく感じ、考え、行動するというのが、責任を取るべき側の務めでしょう。しかし、そのすべすら見いだせない、どうして良いかわからないという環境のなかで、神はそんな民たちが五里霧中のうちにもがき苦しむことのないように、私たちが歩むことのできる道を備え、そのナビゲーションすら明らかにしてくださるというのです。本来、そんなことをする必要すらない神御自身が、ご自分を譲歩させて、私たちに迫っておられるのです。
 
これを、私たちは「贖い」という言葉で表現することができるのだと思います。贖いという言葉は、元来「身代金」を指す言葉です。私たちのために、私たちが本来の姿に戻されるために、神が私たちをそのような束縛状態から解放させるために、身代金をこれまでもかというくらい払ってくださっている。身銭を切って私たちを救い出そうとする神の態度が、贖いというかたちとなって明らかにされたのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、洗礼者ヨハネの父となったザカリヤの賛歌と呼ばれる箇所の冒頭部分です。神がイエス・キリストという救い主を与えるにあたって、その道備えをする務めにあたるヨハネが生まれたことを、ザカリヤは神に感謝しつつ、この賛美の言葉を述べました。神は私たちのもとを訪れて、私たちのために身代金を支払ってくれたのだと。この身代金こそ、救いの物語のために、神が私たちの意識にかかわらず与えてくださったすべてであるというのです。
 
私たちの反応の鈍さに迫り来る神。その神が今日も私たちとともにいてくださる。このことを心の希望として、一日を歩みたいと願わされました。皆さんにとっても、行く道を示してくださる神の守りと祝福が、存分にともにありますように。心からお祈りします。

15/02/2026

2026.2.15(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記50章17節
(ヨセフの兄たちがヨセフに懇願する言葉)どうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章32節
互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださるように、互いに赦し合いなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。これから始まる七日間の旅路もまた、私たちと共に歩んでくださる神が、どのような指し示しを私たちに与えられるのでしょうか。神に期待しつつ、今日も神の言葉に聴いてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「赦し」でした。旧訳聖書の箇所は、ヤコブの愛する息子であったヨセフの10人に兄たちが、彼に対して行った謀略を詫びているシーンですが、兄たちはその行いを「神に対する罪」ととらえていました。そのうえで、ヨセフに赦しを願っていることが分かります。また、新約聖書では、「互いに赦し合いなさい」という勧めの言葉が与えられています。どちらも「赦す」ということについて書かれた聖句なのです。
 
さて、私が現在担当している講座で、おととい「愛の特質としての『赦し』」について学ぶ機会がありました。テキストとして用いている『サーバントリーダーシップの原則 ー権力によらないリーダーシップ』(ジェームズ・ハンター、地引網出版)には、第一コリント書13章にある「愛」について、そのひとつの特質である「赦し」について解説されていました。
 
赦しとは何か。テキストにはこのようにありました。「恨みを捨てること」と。
 
どうしても赦せないことがある時、その赦しというものを放棄することは、本当に難しいのです。これを捨てられたらどれだけ楽だろうと思うし、そのことを願うのです。しかし、なかなかできません。思い出してしまうのです。忘れられないのです。赦せない感覚を抱くのは、体力を消耗させ、心を疲弊させます。そんなことなど嫌だと分かっているのに、それを手放すことのできない自分自身を発見してしまうのです。私もその代表的なひとりなのです。
 
これは到底、人間のわざでは成し得ないことなのだと私は思っています。究極的には、神にしかできないことなのだと。私の限界をはるかに超える方である神が、私がしっかりとしがみ付いている恨みの感情を手放すことができるように、私たちの心をときほぐしてくださるのだ。そのことにただ希望をもって歩むことが必要なのだと。私はそう願いたいし、それをなしてくださる神に、心からの信頼をもって期待したいのです。
 
前のローマ・カトリック教皇であるフランシスコは。人間の悲しみには二種類あることについて言及しました。一つは、キリスト教的な生活のためになり、神の恵みのおかげで喜びへと変わる、回心の歩みの一部となる悲しみであり、もう一つは常に復讐を思い描き、健全な生活も。キリスト教的生活も生み出さない、心を壊疽させてしまう悲しみであると。
(詳しくはこちらをごらんください)
 
まさに赦すという行為は、私自身だけでは実現することのできないものなのだということを、明快に私たちに知らせる示唆だと私は思いました。だからこそ、今日も神が与えてくださった御言葉に聴き、赦すことを手放せない自分自身を神の前にさらけ出したいのです。そのことを神は、すべて受け入れたうえで、私たちに新しい命の道を与えることを信じたいのです。
 
無理やり赦そうとして、自分自身の心に蓋をする必要はどこにもありません。心を楽にして、神にそのことを打ち明けて、神が必ずや自分自身のうちにある恨みや悲しみというものを、和らげてくださる日がやって来るということに希望を抱き続けていく。私たちに今与えられていることなのだ。私は今日の聖句から、そのようなことをメッセージとして聴きたいと思いました。
 
この新しい一週間もまた、そのような神の守りが私たち一人ひとりとともにありますように。心からお祈りします。

14/02/2026

2026.2.14(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編97編10節
御自身に忠実なる者たちの命を守られる方は、逆らう者たちの手から彼らを助け出してくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録9章31節
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この七日間の旅路を、私たちはどのように歩むことができたでしょうか? この旅路を同伴してくださった神がおられたことを、私たちはどのように感じることができたでしょうか? また、感じることができなかったでしょうか? それぞれの思いを胸に刻みつつ、この一日を過ごすためにも、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想を深めてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、神である主ヤハウェの思いや願いに忠実に歩みたいと心から願う人による告白のことばです。その表題は「賛歌。歌。安息日のために。」(詩編92編1節)とあります。この時代は一週間の最終日を「安息日」として、この日を礼拝の時としていました。まさに、七日間の歩みを振り返る時であり、一週間のなかで私が神とどのように歩むことができたかを思い起こす時でもありました。そのなかで、神が私の生活にどのように関わられたかをじっくりと味わうなかで、このような詩がうたわれたということです。
 
「逆らう者」とあります。何に逆らうのでしょうか? 神に忠実な者に対して逆らうのでしょうか? もちろん、それもあるかもしれません。しかし、実は神に一番逆らっているのは、何を隠そう「私自身」にあるのだと、私は受け止めました。それは、私たちの神に対するイメージと大きく関係するわけですが、神が私たちに幸いを与えようとしてなしておられる数々の出来事に、私たちは意識的に、また無意識のうちに「逆らって」いるのではないか。神に忠実に歩もうとすればするほど、自分自身がそれに抗っていることに気付かされるのです。
 
ですから、神は私たち自身のそのような心からも助けの手を差し伸べてくださるというふうに、私は自分自身のこととしてこの聖句を読みたいと思ったのです。神の思い願いを自分自身が受け取って、神が与えてくださる幸いに身を委ねるためにです。私たちが、神とともに歩みたいという思いが、ほんのひとかけらでもあるのであれば、神は大いに助けの手を差し伸べ、私たちのそのような思いを祝福し、守ってくださるのだと。
 
このような思いの集合体こそ、教会の本質であると私は信じ、受け入れたいのです。自分自身のありようを見つめ、もし、神の思い願いというものに背を向けている自分自身を見つけることができるならば、神は聖霊の力によって、その思いを軌道修正してくださるからこそ、信仰共同体である教会がますます祝福されるのだと。少なくとも聖書を通して私たちに伝えようとする初期の教会の姿は、そのようなものであったことを、私たちは今の教会に、自身の信仰生活に対して「リアル」に感じとることができるならば、それは大きな幸いになるのだろうと思えてなりません。
 
神である主を十二分に信頼できていないゆえに、思い誤りや選択の間違いがあったのだと、私は自分のこの一週間を振り返っては思わされるばかりです。しかし、だからこそ、また新たな道が与えられるのだということに希望を抱きつつ、来週への備えのひと時としての今日の一日が、神から与えられた素敵な一日であることを望んで歩みたいと願わされました。これが私自身の黙想です。
 
皆さんのこの一日が、神の守りと祝福に包まれますように。心からお祈りします。

13/02/2026

2026.2.13(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
サムエル記上12章15節
もし主の声に聞き従わないならば、主の手はあなたがたの先祖を攻めたように、あなたがたを攻めるだろう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙2章6~7節
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストの内に根を下ろし、その基の上に建てられ、教えられたとおりに信仰によって強められなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も私たちとともに歩んでくださることを約束された神が、私たちの行く道を示し、守り、祝福してくださいますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神とともに歩む幸い」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書のことばは、イスラエルの指導者であったサムエルが、その生涯の終わりに神が自分に委ねられたイスラエルの民たちに対して語った言葉の一節です。サムエルは、はるか昔にエジプトから、今いるこの地に導かれた神が、私たちに対してどのように取り扱われたかについて、その歴史を語ります。神はつねに私たちとともにいてくださったのだと。
 
ただ、こうも言っています。もし、神の語られる言葉に歩調を合わせずに、自分の好きなように歩むならば、必ず自分自身がその代償を支払うようになるだろうと。サムエルは、このことを「主(である神)が攻めるだろう」という表現を用いています。神が私たちに対して刃を向けるのでしょうか?
 
そうではありません。「主」というのは神の名前です。「私は(あなたがたとともに)いる」という名前の意味を持たれた方です。その神が、私たちを攻めるとはどういうことでしょうか。神は、私たちがご自分とともにいてくださることでこそ、多くの幸いを人々に与えておられることに気付いて欲しいと願っています。人間はどうしても、幸福はわが手柄だと豪語し、そこに神の関わりというものを無視してしまうのです。これが人間が営んだ歴史の常でした。
 
しかし、神はそんな人間の傲慢さが渦巻いていたとしても、なおも人間に近づき続けることをやめられませんでした。人間がその驕り高ぶりのゆえに辛酸を舐めなければならないことがあったとしても、そんな人間には神が必要なのだということを彼ら自身が気づけるように、ともにいてくださった。それが神がおられることの真実なのです。まさに、神は私たちの心に攻められるのです。しかし、それは命の犠牲をともなう攻撃ではなく、私たちの命を活かすための攻撃であるということを、私は是非この言葉から受け止めたいのです。
 
私たちは今、命の救い主であるキリスト・イエスが与えられています。キリストもまた、自分自身が犠牲となることで、私たちの命を守られたのです。そして、今日も守ってくださっています。私たちはそのことに気付けないこともあるかもしれません。しかし、キリストは私たちの心に気付きが与えられることをただ願いつつ、私たちのために今日も働いてくださるのです。そのことに私たちもまた、神がともにおられることの幸いを味わえるような一日でありたい。これが私が受け止めたいと思ったことでした。
 
皆さんの一日が、神とともにある幸いを感じ取り、それゆえに喜びがあふれる時となりますように。心からお祈りします。

12/02/2026

2026.2.12(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書44章22節
私はあなたの背きの罪を雲のように
罪を霧のようにかき消した。
私に立ち返れ。
私があなたを贖ったからだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一3章5節
イエス・キリストは罪を取り除くために現れたのだということ、そして御子の内には罪がないのだということを、あなた方は知っています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も私たちの行く道を導いてくださる神が、ともにいてくださいますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「罪」についてでした。そのことの黙想をつづりたいと思います。
 
そもそも「罪」とは何か。今日の旧約聖書の言葉はそのことを明確に示しています。それは「神への背き」である、ということです。神が私たちのために与えられた「よいもの」に対して背を向けて、わが道を歩もうとするならば、それは「自分自身が『神』となること」への始まりであり、それが「罪」であると、聖書は一貫して私たちに伝えています。
 
それは、神が私たちに示し続けてくださった愛といつくしみ、憐れみ、忍耐、そのことが私たちの目に見えるように、命の贖い主、救い主として与えてくださったイエス・キリスト、そのイエスが新たな信仰共同体をつくられ、それが教会というかたちとなって現在まで継続されていること、その教会を導く聖霊の働き。それらすべては、神が私たちに与えられた「よいもの」である、ということなのです。
 
それらよいものを「よいもの」として受け入れ、「よいもの」として私たちが預かったものを健全に用いてこそ、神と歩調を合わせる生き方となるのでしょう。しかし、この世界において、それを私たち人間は健全に用いていないのです! 自分の都合の良いように解釈して、自分自身で、自分好みの神をつくりあげてしまうのです。自分自身の神をつくりあげたときに、私たちは神に背を向けて歩んでいることに、もはや気づけないでしまっているのです。
 
だからこそ、私たちは自分自身の信仰のあゆみというものを、じっくりと検証する必要があるのです。自分自身の心のうちにあるものを、正直にさらけ出したときに、その正直な思いに神は必ず応え、ご自分が与えられた道というものを歩むことができるように、導いてくださるのです。そのために、イエス・キリストが私たちにために与えられました。具体的な生き方というものを指し示されました。罪の道を私たちが歩むことのないようにです。
 
ですから、私たちはイエス・キリストの提示された道というものを、自分の生き方とすることが、何よりも大切なことなのだと。これが、今日の新約聖書が示しているメッセージであると私は受け止めました。私自身も今日の歩みのなかで、そのことを神の助けを得ながら、祈りつつ体現していきたいと願わされた次第です。
 
少しでもゆがみのない世界となることを心から望みつつ、私たちのひとりひとりが主とともに歩むことができますように。この一日のすべてに、神のよいものがあふれますように。祈りつつ歩むことができますようにと、祈りたいと思います。どうぞ素敵な一日をお過ごしください。

11/02/2026

2026.2.11(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書31章20節
エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあらまれずにはいられない。ー主のことばー

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙11章2節
神はあらかじめ選ばれた御自身の民を退けたりなさいませんでした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は国民の休日ではありますが、全国の各地で「信教の自由」について考える集会がおこなわれます。あらためて「神を信じる生活」とはどのようなものであるかについて、考えるひと時が与えられていることを心に思いつつ、その一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
そのようなななかで、今日のローズンゲンにしめされたふたつの聖句に心と思いを寄せたいと思います。私はこれらふたつの聖句によるテーマを「神の願い」と受け止めました。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
神の願いとはなんでしょうか。ご自分の民とともに歩むことに他なりません。ただ、神の願いと裏腹に、人間が好き勝手なことをしてしまい、神の願いがないがしろにされるような生き方を営んでいるようでは、せっかくの神の願いは台無しになってしまうことでしょう。
 
私たち夫婦には子どもが与えられていませんので、子育ての経験のない私がこんなことを言うのは的外れになってしまうかもしれませんが、親が子に対して、自分の願いや期待というものを子に寄せることは、周知の事実でしょう。しかし、その子が親の願いに沿わない生き方をしたとしたら、それゆえに子の人生というものが悲惨に満ちあふれるものであるならば、親としては大いに悲しみ、心を痛めるということもしばしばあるのではないかと私は思うのです。「親の心子知らず」とはよく言ったものです。
 
ただ、子は決して親の独占物ではありません。子には子の意思があり、親にはそれを縛り付ける権利も義務もありません。だから、親がどんなにアドバイスをしたとしても、最終的には子が自分で考え、気づき、その気付いたことに基づいて行動してくれることを、親はただ見守りながら、その子の幸せのために関わり続けるしかないのです。
 
私たちが日常で感じ、経験するこのようなことこそ、神と私たちの関係性になぞらえることができるのだと私は思います。今日の旧約聖書の言葉は、神に大切にされながらも、神の思い願いをないがしろにし続けてきたイスラエルの民が、自分のしてきたことに気付いて、それを悔やみ、あらためて神のもとに帰りたいと心から願ったとき、その思いに神が応えられた。それはまさに、神が人に示されたあわれみであったことを、今日の聖句から知れるのです。神はそうなることをただ望みつつ、忍耐をもって私たちとともに歩んでくださるというのです。
 
私たちの世のなかでは、神が私たちに示された姿勢というものに、私たちもまた神の子どもとして親である神に、真心をもって立ち返ろうとする時に、そこには必ず健全な親子関係というものが芽ばえ、幸いがあふれるということを心から信じたいのです。
 
神は決して私たちを退けることなく、私たちが気づくのを待っておられる。今日の新約聖書の言葉が言わんとしているメッセージです。ゆがみがあるこの世界、人間関係のなかで、私もまたこの神の言葉をただ受け流すのではなく、私たちの神との立ち位置や距離感というものを、聖書の言葉と聖霊の助けによって、じっくりと検証していきたい。そんな風に私は受け止めたいと思ったのです。神の願いは、私たちが神とともに歩むことで、少しでもゆがみが矯正されて、健全かつ幸いな道を歩めることだからです。
 
今日の一日の歩みのなかで、少しでもそのことを感じ取れる幸いが私たちのあいだにありますように。そのことを心から願い、また皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

10/02/2026

2026.2.10(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記32章11節
(ヤコブの言葉)私は、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるには足らない者です。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章16節
(パウロの手紙)しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神の憐れみと慈しみに生きる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の聖句は、神の憐れみと慈しみを受けたふたりの人物の心境が描かれています。ひとりはイスラエルの民の祖となったヤコブ、もうひとりは、伝道者パウロです。このふたりが、神に出会い、キリストに出会うなかで、どのような心の揺らぎであるとか、その決意というものを読み取ることができると、私は思いました。
 
ヤコブは、神とともに歩むその人生のなかで、神のスケールの大きさに圧倒されます。どんなに疑っても、迷っても惑っても、神が「私はあなたを決して見捨てない」(創世記28章15節)という約束によって、神とともに歩む幸いというものを味わい続けてきました。そのようななかで、ヤコブは神に告白します。私はあなたのそのような憐れみを受けるには足らない者、つまりそんな資格がないくらい貧しく、乏しく、ふさわしくない者であるという、ヤコブの謙虚な言葉が、神に向けられました。
 
神はそんなことなど承知のうえで、にもかかわらず、ヤコブの人生の旅路を守り続けました。ヤコブには相も変わらず人生の苦しみや痛みがありました。人との関係に悩みました。しかし、神がただ注がれる憐れみと慈しみによって、ヤコブは神とともに歩む道に幸いを見い出します。まことに頼りない人生かもしれません。しかし、神とともに歩むということによって、ヤコブの人生は神に祝福を存分に受けました。それは、ヤコブの謙遜な告白に、神が十分に答えられたことを示すものでした。
 
私たちの人生は、つねに痛みと苦しみをともなうものです。この苦痛に耐えられなくなるのです。いたたれなくなこともあります。穴があったら入りたく、その環境から逃げ出したくなることもあるでしょう。しかし、繰り返しますが、神はそんな私たちの心境など百も承知のうえで、私たちとともに歩むことを心から願っているがゆえに、私たちのあり様に忍耐を示して、寛容をもって私たちに接し続けてくださる。この事実を、私たちがどのように受け止め、また心から応答することができるかというところに、今日のもうひとつの聖句が示す肝というものを感じるのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、パウロが神の憐れみを受けた者として、どのような生き方を指し示されているかについての告白の言葉です。どのような告白か。「キリストの憐れみによって私が『手本』となる」ということでした。
 
パウロは、決して非の打ちどころのない立派な人間であるというわけではありませんでした。人一倍自分が、神と歩調を合わせることのできない者であることを自覚していました。キリストによって救われたという事実と、自分自身のうちにあるさまざまな感情とのあいだにあるズレに、大いに悩み苦しみました。私など、キリストの前にあってなんとふさわしくない人間なのか。パウロが記した手紙の随所には、そのようなパウロの思いがつづられていることが分かります。
 
しかし、そんな私にキリストは寛容を示し続けているではないか。良いものの、数多くの出会いというものを与えてくれているではないか。そして、現にキリストの救いの言葉に私自身が生かされているという現実があるではないか。私が生かされているのがキリストのおかげであるならば、私自身もまた、自分が救われているということを自分の生き方をもって示し続けていくことこそが、私の生き方なのだ。どんなに失敗をしたとしても、神の憐れみに抗う自分自身に気付いたとしても、それでも私はキリストによって生かされていることを、大切にして生きたいのだ。そんなパウロの心というものを、このひと言から読み取ることができるのです。
 
ヤコブしかり、パウロもそうであったように、私たちは決して立派な人間ではありません。しかし、神がそんな私たちを愛し、ご自分の道へと導いてくださるということを、私たちは今日の一日もまた心に感じつつ、神の御前に正直な者でありたいと願いつつ、その時を過ごすことができますようにと祈りたいと思います。私たちひとりひとりが今日も、神の守りと平安に生きることができますように。心からお祈りします。