31/07/2022

2022.7.31 仙台宮城野教会 主日礼拝説教

2022年7月31日 仙台宮城野教会主日礼拝

聖 書 ヘブライ人への手紙9章11~22節
説 教 契約更新
説教者 牧師 齋藤 篤

成績いかんで契約内容が良くなったり悪くなったりするようなことは、神と私たちのあいだには存在しません。永遠にわたって私たちの命を守ってくださる新しい契約について、聖書から聴くことができました。
 
↓よりご視聴ください

2022.7.31 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編22編12節
私から遠く離れないでください。
苦難が近づき、助けてくれる人はいません。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一10章13節より
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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神様は乗り越えられない試練は与えない。
 
競泳の池江璃花子選手が、2019年に急性リンパ性白血病と診断された際に出したコメントに、この言葉が含まれていたことをご記憶のかたが多くいらっしゃるかと思います。池江さんは、それが聖書の言葉であることを知っておられたかどうかは別としても、聖書の言葉がクリスチャンのみならず、池江さんをはじめとする多くの方々にとっての慰め、励ましの言葉となったのは、率直に嬉しい気持ちにさせられるのは言うまでもありません。結果、池江さんは白血病が完解し、2021年の東京オリンピックへ日本代表選手として出場することができました。
 
私は、教会で聖書の言葉が語られる以上に、世の中で聖書の言葉が多くの方が抱えるさまざまな恐れや不安を乗り越えることができるための、支えとなってくれることを心から望んでいます。だからこそ、教会に求められていることはとても大きなことなのだと思わされています。ただ本家本元のプライドを誇示するのではなく、聖書の言葉が自分自身の生き方とされているその現場というか現実の姿というものを見ることができる場としての教会。ここに希望があるとつねながら思わされ、そうでありたいと心から願わされます。
 
そして、それは教会に来たからすべての禍(わざわい)を避けることができるということではありません。禍のなかで痛みや苦しみを抱えている者同士がそのことを共有し合い、祈り合い、励まし合う場なのだと。ひとりで悩むより、同じ課題をもっている仲間がいるところには、大きな慰めがあるのは言うまでもありません。そして何よりも、そのことをすべてご存知である救い主イエスが、聖書にしたためられたご自分の言葉と、聖霊なる神の助けをともなって私たちに近づき、寄り添ってくださる。
 
教会が単に宗教であるがゆえに怪しまれ、忌避されるのではなく、ここにこそ生きる現実の場があることを、今日世界中で祝われる礼拝や集会のすべてを通して、ひとりでも多くのかたがたと分かち合われる場でありますように。心からお祈りいたします。

30/07/2022

2022.7.30 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨシュア記24章24節より
私たちは私たちの神、主に仕え、その声に聞き従います。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書18章37節
イエスはピラトにお答えになった:
私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書と新約聖書を結ぶテーマは「聴従」であると受け止めました。そのことを黙想したいと思います。
 
聴従。それは神の声に聴き従うことです。聖書には幾度となくこの言葉が告げられ、語られ、私たちに期待されていることとして描かれていることを、私たちはよく知っています。
 
聖書の言葉に聴き従うこと=神に聴き従うことであると私たちは受け入れて、聖書の言葉に耳と心を傾けるよう促されることと思います。しかし、ここでもう一度考えたいのは、聖書の言葉に聴き従うとは「どのような聴き従いかたをすることなのだろうか」ということです。
 
聖書の言葉をその文字通りに受け入れるという言葉をよく耳にします。神の言葉をその言葉のままに受け取るというのです。そして、それに人間の解釈を加えることによって、神の言葉を曲げたり変容したりすることがあってはならないということも耳にすることがあります。それが神の言葉に聴き従うことなのだと。
 
しかし、私はこの言葉がもしそのまま運用されるとするならば、それはとても危険なことであると感じています。聖書の言葉を受け入れ、その言葉に従う際に、私たちは誰でも、多少なりとも、その言葉を「解釈している」ことを、決して忘れてはなりません。解釈のない聖書の読みなど、絶対に存在しないのです。
 
聖書の言葉をいただく際に必要なのは、神の側に立った「黙想」であると私は受け止めています。神の側に立った黙想とは、与えられた言葉を通して、神は、イエスはどのようなことを意図され、私たちに告げられたのだろうかということを、じっくりと考えることです。
 
私たち人間だって、交わされる言葉をそのまま受け取るわけではありません。そのまま受け取ることによって、それが相互理解を阻み、トラブルの原因になることはいくらでもあります。言葉に示された意味を問うことで、相互理解への道が開けてくるのではないでしょうか。
 
ましてや、語られた言葉の意味というものを問うことなく、私たちの限界ある知力や感情で、神の語られることを100%理解できるなど、到底無理なことなのだと思うのです。その限界のなかで、言葉の意味を自分の願望に引き寄せるのではなく、神に聴き続けていく営みこそ、神の言葉を神の言葉として受け入れるために、無くてはならないものなのだと。
 
神の言葉を我田引水のように利用する生き方ではなく、神が私たちをどのように取り扱われ、真理を人生のすべてとされた救い主イエスを遣わすほどに私たちを愛された神が、私たちにその愛をもって何を期待され、どのように生きることを望まれておられるか。そんなことを深く黙想する御言葉の受け入れ方を、今日も生活の柱に据えさせてもらいたい。そんなことを思わされました。
 
一週間も今日で最終日。明日の主の日に向かう私たち一人ひとりが、神の言葉によって整えられ、新しい一日を踏み出すことができますように。お祈りいたします。

29/07/2022

2022.7.29 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言4章18節
正しき者の行く末は輝き出る光のようだ。
進むほどに光を増し、真昼の輝きとなる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一3章2節
愛する人たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現されていません。しかし、そのことが現されるとき、私たちが神に似たものとなることは知っています。神をありのままに見るからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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神をありのままに見る。
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちの見る「目」がどのようなものかについて、深い洞察と黙想を与えるものだと私は受け止めました。私は何を見、見つめているのだろうか。その見つめる先にあるものとは、私が自分の生活において、本当に見るべきものなのだろうか。そんなことを思わされました。
 
今日の聖書の言葉は、旧約も新約も、その見る先が「神」であることを示しています。私たちは祈りや賛美、聖書の言葉を通して、神を見るという営みを行っていることと思います。ただ、その神とはどのような神なのか。聖書に記された神と言えど、その神は本当に私たちを「神に似たもの」として創造された神なのだろうか。そんなことを思わされるのです。
 
今日の旧約聖書の言葉には「正しい者の行く末は・・・」と書かれています。私たちは聖書という本を、道徳の教科書のように読むこともできるかもしれません。正しい者になるために聖書を読む。それも間違いではないかもしれません。しかし、その正しさは私たち自身に帰属するものなのでしょうか。決してそうではないと私は考えています。
 
私たちは、ただ神が正しい御方であるというその一点において、その正しさゆえに私たち一人ひとりが生きていくことができるのだという深い認識こそ、この箴言の言葉に記されたような「正しい者」の姿なのではないだろうか。常に神との深い関わりの中で、自分自身の「ありのままの姿」を正当化し、自分に引き寄せて都合よく解釈する生き方ではなく、私たちのありのままの姿を愛し、大切にしてくださる御方が、私たちの心と思い、日々の営みに光と投じてくださるから、私たちは試行錯誤しながら神とともに歩む幸いに導かれている。そんな風に思うのです。
 
誤解を恐れず申し上げれば、神は失敗することにおいても、大胆かつ完璧にそれをこなす御方であると私は思います。神は後悔します。二度とそのようなことはするまいと私たち人間に語りかけ、誓いを立ててくださる方です。私たちは神の似姿としてつくられた存在であるならば、ありのままに自分自身を問うこともできれば、方向転換をして歩むこともできる存在なのだと感じます。もちろん、そのモデルは神であることを忘れずにいれば。。
 
神をありのままに見るとはそういうことなのかなと、そのような黙想に至りました。私たちの生きざまをただただ見守り、しかし、行くべき道に光を投じられる。その光によって今日の一日を歩みたいと願わされます。今日も一日がそのような光によって平和が訪れますように。お祈りいたします。

28/07/2022

2022.7.28 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨナ書2章9節
空しい偶像に頼る者たちは
慈しみの心を捨てている。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章17節
世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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空しい偶像。今日はこの言葉に注目しながら黙想したいと思います。
 
私たちは「偶像」に対してどのようなイメージを抱いているでしょうか。偶像と聞くと、仏像であるとかそのような目に見える神仏をかたちにしたものを想像するかもしれません。しかし、偶像とは、単なる有形のものに限定しない、私たちの心のなかにしっかりと根付いているもの。そういうものを含めて偶像という言葉で表現できるものなのではないかと思わされるのです。
 
ですから「偶像を避けなさい」という、しばしば聖書に記されている文言に出会うとき、他宗教の何かを避けていればそれで良いということでは、この聖書の言葉の意味するところを形式的にでしか理解していない。私はそのように考えています。私たちの心のなかにこそ、実にあらゆるものを偶像化して生きている。これが私たちの偽らざる現実なのだと。
 
今日の旧約聖書の言葉では「空しい偶像」と表現されていますが、そもそも「偶像」と日本語に訳されている言葉そのものに「空しさ・空虚」という意味が含まれているのは、とても興味深いことと言えます。そのようなときに、こんなことを考えます。私が大切にしているものとは一体何か。その大切にしているものは、本当に大切にするだけの価値のあるものなのだろうか。大切にしているものを握りしめていることで、空しさというものが自分自身を襲っていることはないだろうか、と。
 
旧約聖書の言葉に連動する今日の新約聖書の言葉では「世の欲」という言葉で、そのことを表現しています。偶像とはすなわち、私たちの誰もが持っているさまざまな欲求であると。欲求を追い求めることで、慈しみの心を忘れてしまうとはどういうことだろうか。そんなことを思うときに、愛情に飢え、常に自分が愛情で満たされるために承認されることを欲求し続け、いろいろ手を尽くしても愛情が満たされることなく、空しい思いにさせられる。私も幾たびも経験したことでした。
 
そのようなときに「慈しみの心」が捨てられていると聖書には記されているのですが、では、慈しみの心とは何か。それは神の愛そのものであると、私は受け止めたいと思います。神が私たちを大切に守り続けてくださる慈しみは、ときに私たちには理解しがたい、受け入れたくても実感がわかないことがあったりします。そんなときに、より見えるかたちで、わかる形で、人にその愛情を求める、そのために自分自身がとことん尽くす。しかし、求めたり尽くしたりしたとて、経験するのはただ空しさのみ。神を信じる環境のなかでも、こういうことは往々にして起こることなのではないかと感じさせられるのです。
 
今日の新約聖書の言葉で、神の御心を行う者は永遠にとどまるとあります。神の慈しみを知るための、その御心を聖書の言葉と聖霊の助けによって慰められ、励まされながら、その空しさから解放されることを願いつつ、今日も聖書の言葉に聴き続けたい。それが、私の黙想です。なにやらまとまりのつかない文章になってしまいましたが、聖書の言葉に示された神の慈しみというものを大切にして、今日の一日を歩みたいと願わされました。そのような連鎖が、空しさの渦からすこしでも解放されますように。お祈りいたします。

27/07/2022

2022.7.27 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編136編3~4節より
主の中の主に感謝せよ。
ただひとり大いなる奇しき業を行う方に。慈しみはとこしえに。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章15~16節
その中の一人は、自分が癒やされたのを知って、大声で神を崇めながら戻って来た。
そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約・新約聖書の言葉を貫くテーマは「感謝」です。あらためて自分自身のうちにある感謝の思いについて、黙想を深めてみたいと思いました。
 
今日の新約聖書で日本語に訳されている「感謝」は、原語であるギリシア語では「エウカリステオー(εὐχαριστέω)」という言葉が用いられています。そして、この言葉が聖書にあるとき、それは神に向けられる感謝を示しています。今日の新約聖書の言葉では「既定の病(それはしばしば皮膚の疾患として取り上げられています)」がイエスによって癒された一人の人物が、自分の病が癒されたことを知って、喜んでイエスのもとへ帰り、感謝の言葉をイエスに向けました。結果として、イエスへの感謝は神への感謝であったと言って間違いないでしょう。
 
この聖書箇所では、本来イエスによって病が癒されたのは10人であったことが知られています。しかし、イエスに感謝の言葉を告げたのは、このひとり以外誰もいなかったようです。そして、イエスの言葉によると、このひとりの人物は「サマリア人」であったことが分かります。イエスはこのサマリア人を「外国人」と呼んでいます。当時、サマリア人は救いの外にあると、神の民を自認するユダヤ人によって見なされていました。
 
つまり、神による救いというものを「当たり前」のように受け止めていたユダヤ人から、救いの外にあるとみなされていたサマリア人が、実際にイエスによって病が癒されたという出来事は、その当人にとっては「当たり前ではないことが自分に及んだ」ことで、大きな喜びがあって、その喜びが感謝となり、イエスのもとに戻ってその思いを告白した、ということです。
 
2年前、新型コロナウイルスの影響によって、教会活動の制限が余儀なくされたとき、当たり前と思っていたことが、実は当たり前ではなかったのだ。そのひとつひとつが感謝して受け入れるべきものであったことに、私たちは気づかされたのではないかと思います。神を礼拝する一回の出来事が、神に向けられる感謝の思いで満たされたあの記憶は、私自身決して消え去ることなく、私の心にしっかりと刻み込まれているのを感じます。
 
しかし、私はこうも思うのです。人間、感謝や感動の思いは徐々に薄れてしまう存在だということをです。誤解を恐れず申し上げれば、私もいつかまた「あのときの感動・感謝」を忘れてしまうような時がやってくるのだろうと。
 
イエスによって癒された10人のうちひとりだけがイエスに感謝の思いを表したという出来事は、まるで私たちのそのような有様であるような気がしてならないのです。10回感謝できることを、9回忘れてしまう、当たり前のように思ってしまうのが私たちの現実なのではないかと。しかし、1回くらいは何かを取り戻すように、感動し神に感謝する自分自身を取り戻すことができるのではないかと。私は10人のうちの9人であり、また神によって残りのひとりとさせてもらっているのだと。だとしたら、それは本当に感謝なことなのだと思うのです。
 
本当はいつも感謝を忘れない者でありたい。しかし、私自身のうちにある気まぐれな思いやムラというものがそうさせない。そんな私にでも、神は感謝の思いを思い起こさせてくださることを、私は今日の聖書の言葉からそれこそ感謝をもって受け入れたいと願わされます。それは、決して当たり前のことではないのだということをです。
 
私たちにとってはささいないことかもしれない。しかし、神はそのたった一回の出来事にも、全身全霊をもって働きかけてくださる。それが今日の旧約聖書でいわれる「大いなる奇しき業」なのだと。この業が、私たち一人ひとりに与えられるとき、感謝の思いがこの世界を満たし、その満たされた環境のなかで味わえる幸いが、今日の一日にありますように。お祈りいたします。

26/07/2022

2022.7.26 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書12章4節より
もろもろの民に主の業を知らせ
その名が崇められていることを告げよ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録14章6~7節より
私は、もう一人の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、部族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携え、大声で言った。「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい」。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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あらゆる国、その地に住む民たちに、神のお名前があがめられて、神がなされた人間に対する救いの働きが、永遠にわたる良いたよりとして知られますように。
 
聖書には、このような記述を実に多くの箇所で見つけることができます。これらの言葉を受け止めた信仰者たちが、世界のいたるところへ神の救いの良いたよりを伝えたわけです。いわゆる「世界宣教」という働きです。
 
私は、世界宣教について考えるときに、いつも思わされることがあります。それは、神が伝えられるときに、それは「異教に対するタブー」というものがセットとなって、それが伝えられるということです。聖書にある「他の神々を拝んではならない」という言葉や、神の民が異教徒との戦いを繰り広げた記録を引用しては、他宗教の存在を批判、否定することによって、神の救いを強調するというものです。
 
そんななかで思わされること。私たちが本当に伝えるべき神の救いとは何なのだろうか。いわゆるキリスト教以外の宗教を拒否し、廃絶に向かわせることなのだろうか。誤解を恐れず申し上げるならば、決してそうではないと私は思わずにはいられないのです。
 
他を批判することによって、自分の存在を際立たせるやり方というものによっては、真実というものをいつまでも理解することはできない。大切なのは、自分自身に与えられているものをもって、ただただ誠実に日々のつとめと営みに、自分自身を向かわせることなのだと、私はそんな風に思いたいのです。
 
先日、ある方から尋ねられました。「クリスチャンとして墓参はすべきでしょうか?」と。このような質問はたびたび受けることがあります。異教のものはことごとく避けなさいと、かつて教えられたことに基づいて、そのように思われるというのが質問の根拠であったりします。
 
私は神を信じていますから、先祖を崇拝の対象にはしません。それが禁忌事項であるというよりも、その行為に意味を感じないからです。しかし、そのように思っている方々の行為をあえて批判し、否定するつもりもまったくありません。そんなことをしても、有益な意味を感じないからです。だから、墓参の際はお墓の前で神に祈るようにしています。神のお名前が、ここにいるすべての方々、私の先祖とともにありますようにと。
 
神の名を知らせ、福音を告げ知らせるというのは、そのようなフレキシブルな状況のうえにあるものなのではないか。そのように感じつつ、私自身の黙想が続いてるような気がしています。心から批判すべきなのは、異教というそれそのものではなく、いわゆる異教だろうが、内輪の宗教であろうが、それらの行為がカルト宗教のように、人々を苦しめ支配してはいないだろうか、ということだと私は考えています。
 
まとまりのない黙想ですが、今日も神が私たちとともにおられることの意味をかみしめながら、与えられたときを歩んでまいりたいと思います。主なる神の栄光が、この世に生きるすべての方々とともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

25/07/2022

2022.7.25 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上30章6節より
ダビデはその神、主を信頼して揺るがなかった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章5節
使徒たちは主へ言った:
私どもの信仰を増してください。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約・新約聖書の言葉を通して黙想したいと思ったのは、渡井自身にある「つまずき」についてです。つまずき。それは、実際に何かにつまずいて転ぶときのことではなく、神を信じて生きようとするときに、しばしば経験する、神に対する、また信仰者に対するつまずきについてです。
 
私自身振り返りますと、自分自身のうちにある苦しさゆえに、神に疑いの念を持ちたくなるようなつまずきを感じたことが、今まで幾度となくありました。教会や信仰者の交流のなかで、意見が一致しないときに、誤解が生じたときに、感情的なもつれが生じたときに、それがなかなか解決できないときに、数々のつまずきを経験したことも思い出します。また、私の言動ゆえに、多くの方々をつまずかせたこともあります。牧師という職を持つ者への期待に応えられないとき、期待外れな思いを感じた方にも、つまずきを感じさせたのだと振り返ることも多々あります。
 
こう考えてみますと、神を信じて生きるということで、それは同時にさまざまなことにつまずき、傷つき、痛み苦しみを覚える自分自身を発見させられます。神を信じて生きるということと、つまずく自分自身があるというのは、相反するものが互いに反発しているようにも思えるのです。
 
そういう私を、神はどのようにご覧になられているのだろうか。そんなことを黙想します。今日の旧約聖書の言葉は、戦争によって多くを失った人々によって、王としての責任を問われ、殺意すら向けられたダビデの心境について語られた言葉です。つまずきから生じる怒りが向けられても、なおも神のなさることを信頼し続けるダビデ。必ず神は私たちを助けてくださるに違いない。決してあきらめずに自分自身を神に整えてもらおうというダビデの心に、慰めと励ましをいただけるような思いにさせられますし、そうでありたいと願わされます。
 
つまずくことを良しとするのではなく、そこに開き直るのではなく、なおも自分自身の心に主なる神がともにおられ、置かれていることを知るとき、つまずきの連鎖から解放される自分自身を味わうことができるに違いない。それを自力で何とかするのではなく、神が、イエスが、ご自分の言葉をもって私を助けてくださるのだと。そんな願いを握りしめながら、新しい一週間の日々を歩んでいきたいと思わされました。
 
つまずきの連鎖が解かれ、神が与えてくださる平安によって、私たち一人ひとりが連帯する喜びを味わうことができますように。お祈りいたします。

24/07/2022

2022.7.24 仙台宮城野教会主日礼拝説教

2022.7.24 仙台宮城野教会主日礼拝説教:

聖書 マタイによる福音書5章17〜20節
説教 廃止ではなく完成のために
牧師 齋藤 篤

私たちが約束を破ったとしても、その約束を反故にし、廃止にされず、破棄もされない方は、私たちの命を守るという約束を守り続けてくださる。神の慰めと励ましについて、聖書から聴くことができました。




2022.7.24 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編46編5~6節より
川とその流れは神の都に
いと高き方の聖なる住まいに喜びを与える。
神はその中におられ、都が揺らぐことはない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録21章3節より
見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となる。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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人と人とのあいだにあるもの。
 
少々言葉遊びになるかもしれませんが、人(ヒト)のことを、私たちは「人間(にんげん)」と呼びます。なぜ「間」という文字が使われているのだろうか。知らなかったので調べてみました。
 
そうしますと、もともと仏教言語であるサンスクリット語からきた言葉で、もともと人間とは「世の中」を示すものだったのだそうです。人と人との間にあるもの、それは世の中である。わかりやすい表現です。その言葉がヒトそのものを現わす言葉として用いられるようになったのは、江戸時代以降なのだそうです。
 
その一方で、今日の聖書の言葉があらわす「人と人との間にあるもの」は、聖書が示す基本的な考え方であることがわかります。人と人のあいだにあるもの、それは私たちの神であると、聖書は私たちに知らせています。
 
つまり「神がおられる」というのは、神が独立した存在として私たちの意識の外にいるのではなく、私たちが会いに行かなければ決して会えないような存在でもなく、つねに私たち人と人とのあいだに共におられる方。私たちに水の流れをよどむことなく与えてくださり、その水の流れには、神の喜びというものが余すところなく私たち一人ひとりに与えられることで、世の中が神の喜びで満たされるような社会のなかに、私たち「人間」としての生きる意味があるのだと。
 
今日の旧約聖書では、その様子を「都」という言葉で表現しています。都とは私たちの生活の場であり、政治によって立てられる場でもあります。いわゆる世の中そのものなわけですが、そのような世の中は何によって建てられることが、本当の意味での平和なのか。そんなことを思わされます。
 
政治は侵略の材料として、神を利用し続けた歴史があります。神を自分自身の思うがままに利用するために「宗教」が手段として用いられました。宗教が人のあいだに介在するとき、考えなければならないこと。宗教が本当に人のあいだに立って、この世の中を平和なものへと導くのだろうか。これを、決して他人事ではなく、自分自身の出来事として向き合いたいのです。
 
それは、宗教そのものを否定することにはつながりません。世の中にある宗教が、本当に神の喜びに資する営みを、私たちは神の御声に聞きながら、そのことを受け止めようとしているかどうか。これは大切な黙想なのだとつくづく思わされるのです。
 
カルト宗教というものが人を苦しめ、それが政治と関わることによって見えざる支配へとつながっていくならば、それはもはや、人と人とのあいだに坐するべきものではないでしょう。私たちのあいだに立たれるのは、ただ皆にとっての平和の神に他ならない。今日の聖書の言葉は、そんなことを私に迫らせてくれているのだと受け止めました。
 
今日は主の日、世界中の教会や集会で神の喜びが語られることを心から願いつつ、私たちのあいだに神がともにおられることを、喜ぶ一日となりますように。お祈りいたします。

23/07/2022

2022.7.23 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨシュア記1章9節より
うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行っても、あなたの神、主があなたと共にいるからだ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二12章10節
それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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弱いときにこそ強い
 
使徒パウロが語った、名言中の名言が今日選ばれた聖書の言葉です。私自身の限界を感じ、さまざまな物事、周囲の人々に打ちのめされるとき、自分に持たされた知恵や力ではどうにもならないことを自覚したとき、あなたは強いのだとパウロは言います。
 
この強さは、自家発生する強さではありません。神が私たち一人ひとりを全身全霊をもって守ってくださる。この守りゆえに私たちを心底から立ち上がらせ、立ち続けることのできる強さです。つまり、自分自身の限界を感じたときにこそ、神はご自分の力を私たちに注ぎ、私たちもその力があることに気づいたとき、弱いときにこそ強いという言葉の意味を知らされるのでしょう。
 
私自身の信仰生活を振り返っても、神の力と言いながら、実は自分自身の力に頼っているのではないだろうかと思うことがたびたびあります。なかなか気づけていないのです。それは順調にことが進んでいるからです。しかし、不調なときがやってくると、いっぺんに苦しくなってくる。私たちの誰もが経験する「弱さ」が例外なく私を襲うとき、私はうろたえるし、おののきます。そういうときは、そのような自分自身を冷静に見つめるようにしているのですが、そうすると、弱さのなかで働く神の力というものに希望を置いて、前を歩んでいきたい。そういう自分自身に発見できたときに、その弱さをともに支えてくださるキリストがおられることに、じわりとした喜びが芽生えてくるのだと。
 
一週間の最終日、今日までの日々を振り返りながら、明日に向かってリフレッシュできるような備えの一日でありたいと願います。私たちの弱さの真ん中にこそ、神の強さがあふれることで、この世の中が本当に意味での平和が訪れますように。お祈りいたします。

22/07/2022

2022.7.22 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記上8章56節より
約束されたとおり、ご自分の民イスラエルに安住の地を与えられた主はたたえられますように。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙4章9節より
安息日の休みは、神の民にまだ残されています。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書・新約聖書に共通するテーマは「休息」であると私は受け止めました。そのことを黙想してみたいと思いました。
 
私事になりますが、7月8日に起きた安倍晋三さん銃撃・殺害から今日までの2週間、ここまで「カルト宗教」のことについていろいろなことを考えさせられることはありませんでした。私自身、カルト宗教信者としての経験を持ち、牧師になってから20年近くの歩みのなかで、カルト宗教対策というとても大切な務めが与えられてきたわけですが、あの日以降、日々いろいろな対応に追われるなかで、明らかに自分自身のなかに疲れが生じていることに気づかされています。
 
カルト宗教で苦しめられている人に寄り添い、休息を味わっていただくためには、まず自分自身が健全な休息を得ることが大切だと、そのためにも、自分自身の心と身体を休息によって整えつつ、与えられている務めに心から仕えていきたい。そんな思いにさせられる今日の聖書の言葉でした。
 
休息も大切なつとめ。そんな思いをもって歩んでまいりたいと思います。皆さんの一切にも、よき休息が神によって与えられますように。お祈りいたします。

2022.7.21 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書16章61~63節より
あなたは自分の道を思い起こし、恥じることになる。
私があなたのすべての行いについてあなたのために贖いをするとき、あなたがそれを思い起こして恥じることになる。――主なる神の仰せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二7章10節より
神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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※昨日ブログアップすることができませんでしたので、前日のものですが、遅ればせながら黙想を掲載したいと思います。

「神の御心に適った悲しみ」とはなんでしょうか。現在私が参加している聖書の言葉に聴き、分かち合うグループにおいて、この聖書の言葉が取り上げられました。
 
神の御心とはなんでしょうか。神の御心とは、私たち一人ひとりを祝福することを中心にして、そこから具体的に私たちを取り扱われるために働く神の心のことです。それが愛となり、慈しみとなり、憐れみとなり、時には諭される。それが私たち一人ひとりの心に注がれるときに、では、私たちはどのような感情が起きるのか。そのひとつに「悲しみ」というものがある。新約聖書の言葉は、私たちにそのように語り掛けます。
 
私たちの悲しみのかたちは、実にさまざまです。自分が阻害され、相手にされず、孤独に感じるときも悲しみが生じます。しかし、ここで取り上げられている悲しみとは、そのようなものとは少し趣が異なります。神が私のほうを向いてくださるということに気づけないという悲しみ、神が私を向いてくださるのに、自我が勝ってしまうあまり、私が神に向き合うことができないというときの悲しみであり、その悲しみは自分自身に向けられるというよりは、神に向けられる悲しみのことを指しています。
 
自分自身という殻、壁のなかに閉じこもって、自分自身を慰め、憐れむことよりも、はるかに自分自身の将来をつくり上げる神による慰め、そして憐れみ。それが私をいかに前向きに進ませるものとなるか。そんな思いを込めて手紙を綴った使徒パウロの気持ちというものが、じんじんと伝わってくる。そんな聖書の言葉です。
 
自分自身のなかにある悲しみとはなんだろうか。そんなことを自己吟味しながら、歩んでいくことができれば、必ず私たちに迫りくる神の愛に気づけるときがやってくる。そんなことを心に刻みながら、与えられた日を歩むことができますように。

20/07/2022

2022.7.20 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編119編114節
あなたは私の隠れ場、私の盾。
あなたの言葉を待ち望みます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書8章8節
すると、百人隊長は答えた。「主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
あなたの言葉を待ち望みます。
ただ、お言葉をください。

イスラエルの王ダビデにしても、ローマの小部隊長である百人隊長にしても、自分の言葉をもって国を治め、自分の言葉をもって部下に命令をくだすことができる立場です。そのような立場にある人たちが、自分の生き方を定めるために言葉を求める。その言葉とは、まさに神の言葉であり、救い主イエスの言葉でした。
 
つい最近、とても考えさせられる言葉に出会いました。
 
神の言葉、神の言葉というけれど、
本当に神の言葉を求めているのでしょうか?
神の言葉と言いながら、神にその思いを求めるのではなく、
神の言葉を利用して、自分の言いたいことを言っているだけなのではないしょうか?
神の御心にまったく沿うことのない、自分の願望を・・・。
 
あらゆる場で聖書の言葉を取り次ぐ職にある私にとって、この言葉はズシリとくるものでした。このローズンゲン黙想だってそうです。もちろん何を黙想するのも自由です。私が導かれた黙想を皆さんと分かち合うのも、何ら制限が課されているわけでもありません。しかし、その自由が与えられているなかで、私は本当に神の言わんとされていることに、その本質に自分自身の軸足を置いているだろうかという自己省察が、まことに大切なのだとあらためて思わされるのです。
 
たとえ神の言葉を文字通りにとらえることが忠実な行為であると信じたとしても、そこには何らかの自己解釈が入るということを、私たちは自覚する必要があると私は考えています。でなければ、私たちははるか昔の生活様式まで、今日生きる現実の世界に合致させなければならないことなど、いくらでもあると思うのです。ですから、文字通りにという言葉を大切にしたいと願いつつも、しかし、それを伝家の宝刀のように振りかざすことの危険をも感じるのです。諸刃の剣なのだと。
 
だからこそ、本質を求めたい。聖書の全体を通して、神は私たちをどのように扱おうとされておられるのか。イエスの言葉はどのような一貫性をもって私たちに迫ろうとしているのだろうか。そのコアの部分に心を、そして視線を注いでいきたい。そんなことを黙想させられました。神の言葉を自分の願望でミスリードしてしまうことのないように心がけるところにこそ、神が与えてくださる御言葉の恵みというものを、今日も味わうことができるのだということを心から期待しつつ。。。
 
ただあなたの言葉をください。そのひと言で百人隊長の部下が癒されたように、私たち一人ひとりもその癒しによって守られ、強力な盾である神がすべてを守り祝福してくださいますように。お祈りいたします。

19/07/2022

2022.7.19 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編34編8節
主の使いは主を畏れる者の周りに陣を敷き
彼らを助け出した。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録12章7節
すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロの脇をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが救世主であることを知らせていた者たちにとっては、まさに命の危険にさらされていたときの記録です。イエスの筆頭弟子であったペトロが、ユダヤの王によって投獄されてしまいます。その前には、昔からの漁師仲間であり最初のときからイエスの弟子として共に人生の日々を歩んでいたヤコブが、迫害ゆえに殺されてしまったのです。
 
ときは、イエスが殺された過越の祭り、除酵祭のさなかで事件は起きました。まるでイエスが殺されたときのことがよみがえってくるかのように、ヤコブが殺され、ペトロが捕らえられていく。しかし、ここでペトロは、かつてイエスのもとを去って逃げてしまったことを繰り返しませんでした。投獄される我が身を受け入れます。
 
聖書の言葉によると、ペトロは厳重な監視のもと投獄されていたことがわかります。そして、おそらくヤコブと同様に殺されることになるのでしょう。まさに迫害が今ペトロの足をつないでいる鎖のように、がんじがらめに取り囲んでいる。しかし、ペトロは知っていました。そんな鎖よりも、自分はもっと強力なものに囲まれているのだ。そう。神の絶対的な善き力にしっかりと囲まれ、守り慰められているのだと。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編34編には、主を畏れ敬う者に、天使の大群が陣を敷くと歌われています。どんなに人間が監視の目を光らせても、天使の大群に敵うものはない。ペトロはそのことを確信していたのでしょう。それはかつての失敗が活かされたときでもありました。もう逃げない。必ず神が助けてくださると。
 
ペトロに天使がやってきたとき、鎖は解け、不思議な仕方でペトロは牢を脱することができました。そのときの出来事は、ペトロのその後の人生をさらに豊かなものにしたに違いありません。人は失敗から実に多くのことを学び、安心を得る大きな助けとなるのだと、今日の聖書の言葉は、私に伝えているような気がしてなりません。
 
善き力によってまことに、そして静かに囲まれて、
すばらしい慰めのもとに、絶対的な力によって守られている。

ナチス・ドイツによって投獄された牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーが、1944年のクリスマスに綴った手紙の一節です。死と隣り合わせのなかにあっても、心騒ぐことが大いに考えられるなかにあっても、ただただ静かに、神の絶対的な守りのなかにいる。ボンヘッファーはそのように綴りました。残念ながら彼は処刑されてしまいました。しかし、この手紙はその後、賛美の歌となり、ドイツはもとより日本でも愛唱されている賛美歌となりました(「善き力にわれ囲まれ」)。
 
今日も私たち一人ひとりを守ってくださる神が、私のうちにあるあらゆる恐れを打ち破って、私たちとともにいてくださるということで、安心が芽生えますように。たとえ失敗したとしても、その失敗をも良きものに変えてくださる神がおられることに喜ぶことができますように。お祈りいたします。

18/07/2022

2022.7.18 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書8章21~22節より
エレミヤの言葉:
娘であるわが民の傷のゆえに
私も傷つき、嘆き、恐怖が私を締めつけた。
ギルアドには香油がないのか。
そこには医者がいないのか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書10章8~9節
イエスは弟子たちに言われた:
どの町に入っても、迎え入れられたら、差し出される物を食べなさい。
そして、その町の病人を癒やし、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
この傷を、いったい誰が癒してくれるのか?
 
人が傷ついている姿を見て、いたたまれなくなくような感覚がよみがえってくる、今日の旧約聖書の言葉です。しかも、傷ついている当人が、自分は傷ついているという感覚すら覚えていないとき、それを見る者としては、なおのことつらい気持ちにさせられる。まさに、エレミヤが嘆きと悲しみを抱えながら、その傷にすら気づけないイスラエルの民を見ているときの心境そのものです。
 
ここのところ連日ですが、私はカルト宗教によって傷ついている方々のことを思わずにはいられません。しかし、その姿はご当人の心がマインド・コントロールによって、カルト的なものに支配されてしまっているため、傷を受けていることに無感覚になってしまっているのです。どうしたら、この方々が「痛い!」と叫び声をあげることができるのだろうか。痛さを感じたときに、それは本人が癒しを求めるとき。それすなわち、回復への第一歩を踏むことできるときなのだと。ただ、無感覚であるときには、その痛みにすら気づけないから、一歩も前進できない。そんなもどかしさを援助者として思うことが多々あります。
 
そこに傷をいやす膏薬はないのか。その治療にあたる医者はいないのかと、エレミヤは人の傷を自分の傷のように痛ませながら叫びます。たとえ塗り薬を塗ってくれる医者がいたとしても、それを求めることすらできないのか。治療のすべを知っている援助者のもどかしさというものが伝わってきます。それだけ、人が癒されるというのは厳しく、遠い道のりであることを痛感させられます。
 
私たちは知っています。その人のなかにある痛みを気づかせ、治療へと向かい、その治療を根本的になし、癒してくださるのは神の業であるということを。しかし、その神を本当の意味で傷ついた必要が必要とするまで、私たちは何ができるのだろうか。それは十分に黙想することのできる課題なのだと感じずにはいられません。
 
イエスは、弟子たちに言われました。『神の国は近づいた』と言いなさいと。神の世界、その価値観が私たち一人ひとりのもとに迫ってくるのです。しかも、それは食卓の交わりのなかに、そのもてなしのなかに表れるのだと、イエスは弟子たちに勧めます。
 
食卓の交わりには、リラックスした環境が生まれ、もてなしもてなされる関係には、親愛の情が生まれます。この環境と関係性の真ん中に、イエスが立たれます。まるで傷をいやすソフトな手がその傷口をやさしく覆い、それで傷口に触れられることの痛みを感じたとしても、その痛みゆえに不安を抱くことはないのでしょう。こうして、痛みを感じてもそれが癒しにつながることを覚えるときに、そこには豊かな回復が待っていることにはじめて気づくことができる。まさに、マインド・コントロールの鎖が解けはじめて解放へと向かうことが可能になるのだと。
 
癒しというものは、人間の努力だけで解決できるものではない。神がもたらす癒しというものは、決して荒療治的なものではないことを、今日の聖書の言葉を通して感じ取りたいと思うのです。それが、イエスを救い主とあがめる私たちが持つことのできる希望なのだと信じつつ。
 
世の中にある数あまたの傷が、本当の意味での癒しに向かいますように。心からお祈りいたします。

17/07/2022

2022.7.17 #仙台宮城野教会 主日礼拝説教

聖 書 ローマの信徒への手紙3章9〜20節
説 教 「正しい者はどこにいるのか」
説教者 牧師 齋藤 篤
 
私はあなたの命を守ると約束された神。その約束に私たちはどれだけ応答できているでしょうか。私たちのなし得る限界を自覚するときに、神の守りをなお実感できる幸いについて、聖書から聴きました。



2022.7.17 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編141編3節
主よ、私の口に見張りを置き
私の唇の戸を守ってください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章29節
悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日のふたつの聖書の言葉から、私たちはどのように自分自身から発する言葉に、責任を持たなければならないか。そんなことを黙想したいと思いました。ここ数日、思わされていることがあります。
 
先週の7日間は、カルト宗教という言葉をめぐって、実に多くのことを考えさせられ、言葉をつむぎ、対応をしたり対策をする毎日でした。そこで起きてくる感情は、この状況に何とかして助けとなりたいと思う一方で、重苦しいもやもやとした感情や、怒りの感情というものがほとんどでした。やるせない思いというのが、正直な私の抱えた感情でした。
 
そういうときにこそ、どのような言葉を発さなければいけないか。ものすごい神経を使いました。そうでなければ、私は感情任せに怒りを爆発させてしまう。爆発させてしまうことによって、伝えなければならないことを伝えることができなくなってしまうのではないか。怒りを爆発することは簡単だけど、その怒りを用いて私はどうしたいのか。そんなことをぐるぐると考えさせられました。
 
自分自身の言葉に責任を持つ。言葉を発するために自分自身に見張りを置き、唇に戸を置く。この言葉が、それを伝えようとする相手にどのような影響を与えるか。そのことをワンクッション置いてから言葉をつむぐ。言葉が相手に届くために。相手がそれで建設的な思いを抱いてもらえるように。そんなことをいつも以上に思わされました。
 
それでも残念ながら、自分でもはっきりと認識できる言葉の失敗を何回かしてしまいました。どんなに気を付けても、自分自身の至らなさというものを痛感させられます。しかし、そのような失敗を通してこそ、自分自身の口を通して語られる言葉に、たとえ神という言葉を使わなかったとしても、神の祝福を表現できる者でありたい。新しい一週間を迎える者として、そんな思いをもって、7日間の旅路を歩んでいきたいと思わされました。
 
建設的で建徳的な言葉が、物事の本質を共有できるような神の国の世界が、私たちのあいだに満ちあふれますように。お祈りいたします。

16/07/2022

2022.7.16 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編138編7節より
たとえ私が苦難の中を歩んでいても
あなたは私を生かす。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二6章4節
あらゆる場合に自分を神に仕える者として推薦しているのです。大いなる忍耐をもって、苦難、困窮、行き詰まりにあっても。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
こんなに苦しむくらいだったら、いっそ死んでしまったほうが楽なのに。もう死んでしまいたいという声を、私は牧師という職に就いて何度耳にしただろうか。今日の聖書の言葉を通して、そんなことを思い起こしました。
 
私は「この場から逃げてしまいたい」と思ったことは何度もありますが、死んでしまいたいと思うこと、つまり希死念慮というものをいまだ抱いたことがありません。ですから、究極的に「死にたい」と思う方々の気持ちを自分の経験と重ね合わせて理解することは、多くの洞察を必要とします。ただ、この世から逃げてしまいたいという気持ちが死をこいねがう方向に向くのであれば、それは私の逃げてしまいたいという感情というものに相通じるのかもと思い、そのお気持ちを共感し、同じ苦しみを少しでも共有したいと願わされます。
 
どうしても、日々の黙想でも避けられない毎日の出来事として、安倍元首相を銃撃し殺害した山上徹也さんのことがあります。統一協会というカルト宗教がもたらす様々な弊害ゆえに、彼の人生に「死」というものがつきまとった結果、今回の事件に発展したのだと。親戚の証言によれば、山上さん自身も人を殺める前に、自分自身を殺めようとしていたとのこと。苦しみ自体が人間に多くの死のかたちをもたらしている。そこに共感の眼を向け、自分自身の大きな関心としたいと思わされます。
 
さて、今日の聖書の言葉ですが、苦しみの渦中にあった歌い手の告白です。たとえ苦しさが自分自身を襲おうとも、神よ、あなたはこの私を生かそうとしている。死んだら楽になるのにという願いを、神は叶えてくださらない。それどころか、あなたは私に人生の日々を歩ませようとしている。この苦しみのなかでも。私にはそう読めてしまいます。
 
神はなぜ苦しみのなかを歩むように、私たちを促しておられるのだろうか。生きていれば、そこに何らかの意味があるから。そこには神の人間に対する深い慈愛が込められていることを、私たちは聖書全体を通して理解することができるし、多くの先人たちがそれら理解を通して生きる慰めを得、励ましをいただきながら、次の一歩を踏み出すことができた「意味を問う幸いの歴史」が、私たちに受け継がれているのだと。
 
この幸いを、私たちに味わってほしいと願っておられる神がおられる。神がおられるならば、なぜ神はこの苦しみをすぐにでも取り除いてくれないんだ。私たちの多くはそう思うでしょう。確かに私たちの正直な思いです。しかし、苦しみのすべてというものは、人間が引き起こしたものであると私は思っています。つまり、私たち人間が抱く「ゆがみ」というものが矯正されない限り、苦しみというものは永遠になくならないのだと思います。
 
この苦しみの根源にあるものを、神の存在というものを通して私たちに理解を与え、神がイエスという救い主を通して、私たちをそのゆがみから少しでも解放できるように働いてくださる。この体験を味わえるように、神は私たちを招いてくださるのだと。少しでも苦しみから解放されるために。
 
何かをすれば、多額の献金をしたり、あえて苦行をすることによってではなく、神がそのように働いてくださるということを自分自身の希望として握りしめ続けるだけで、私たちは解放されていくのだと、今日の聖書の言葉を通して、改めて黙想させられます。
 
今日も私たちを苦しみが襲うかもしれません。しかし、その苦しみのただなかに私たちの神が私たちのために生きて働いておられるのだと。そのことを受け取る者とならせてくださいますように。心から祈りつつ、アーメン。

15/07/2022

2022.7.15 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編85編10~11節
救いは主を畏れる者に近く
慈しみとまことは出会い
義と平和が口づけする。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章1節
このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
義と平和が口づけする。
 
今日の旧約聖書にうたわれたこの言葉に、深い感銘を覚えました。そうなんだ!「義」と「平和」は口づけするほどに、親愛の念がこもったものなのだと。このふたつがセットにならない限り、義も、そして平和も真の意味での義と平和にはなり得ないのだと。そのように強く感じさせられたのです。
 
私たちのうちには誰でも、正義を貫こうとする心があるのは、自覚するところだと思います。ただ、自分なりの正義を貫いても、それが本当に私たちのあいだに平和を生むことになっているだろうか。私たちはじっくりとそのことを考える必要があるのだと思うのです。
 
正義を貫くのには、それなりに大義名分を必要とします。そのために宗教が用いられてきたというのは歴史の常です。特に、戦争を遂行し、それを正当化するために宗教がたびたび用いられ、政治による支配を正当化するためにも神が用いられたというのが歴史の常です。
 
それで本当に誰もが幸福になれるような世界が生まれれば良いのですが、そのほとんどが人の犠牲をともなうものであったのを、私たちは決して見逃すことができません。人間の持つ正義というものが、ときに危険であやしいものであることを、如実に知らせているのだと。私たちはそのことをどれだけ自分自身のこととして認められるだろうか。そんなことを自分のこととして思わされます。
 
義と平和が口づけするとき、そこには救いがあり、慈愛と真実が出会うときとなる。この詩が歌われたとき、その歌は神に向けられたものでした。私たちに必要なのは、強いようで実は脆弱な人間の正義ではなく、神が私たちに示してくださる正しさなのだと。
 
その神の正しさは、すべてイエス・キリストに示された。今日の新約聖書の言葉が伝えるメッセージです。イエスの生き方はまさに自己犠牲に徹底するものでした。人を犠牲にするのではなく、自分を犠牲にすることで神の義と平和が口づけできるように、すべてを整えてくださった。それがイエスでした。
 
私たちは信仰によって義とされた、と手紙の筆者であるパウロはつづりました。ここで言う信仰は、私たちの信仰の行為以前に、信じることのできる「実体であるイエス」が、私たちに与えられたそのものが「信仰の本質」であるということです。自分なりの正義、自分なりの信仰を貫くのではなく、イエスが私たちに与えられた生涯のすべてが、私たち一人ひとりを義と平和の口づけに、導いてくださるのだと。
 
では私は、この言葉にどう応えよう。イエスの生き方を心から理解しようとする心を、神に養ってもらおうと心から願いたい。その思いを日々握りしめたいからこそ、今日も聖書の言葉に耳と心を傾けようと、そのように黙想しました。平和を叫びつつも平和とは逆行するような出来事が世界を取り囲むなかにあって、神が与えてくださる慈愛と真実、義と平和が、私たちの生きるための柱となることができますように。心からお祈りいたします。

14/07/2022

2022.7.14 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編145編9節
主はすべてのものに恵み深く
その憐れみは造られたものすべての上に及ぶ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章45節より
父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
私は、今日の新約聖書の言葉に触れるたびに思い出します。それは、鎌倉時代の僧侶である親鸞が説いた「悪人正機(あくにんしょうき)」という教えです。ひと言で言えば、仏の眼から見て善が何であるかを理解できず、苦しみ悩む者(悪人)にこそ、仏の救いがあるのだと。『歎異抄(たんにしょう)』という親鸞の著作に「善人なおもて衆生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉が記されていますが、それはまさに、悪人正機の教えそのものであると言えます。
 
今日の新約聖書の言葉である「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というイエスによって語られた言葉は、私たちの神が私たちのことをどのようにご覧になられておられるのかを示すものなのだと。そんなことを考えていると、私にとって善とは何か、悪とは何なのだろうかということを、つくづく考えさせられます。
 
ここのところ連日考えさせられていることですが、今回の安倍晋三さん銃撃・殺害事件を通して、私たちは何を悪と考えるべきか。そんなことを思うときに、銃撃をした山上徹也さんなのか、その思いを山上さんに募らせた統一協会(現・家庭連合)なのか、その信者となった母親なのか、関係が取りざたされている安倍晋三さんなのか、自民党など諸政党なのか、宗教という存在そのものなのか。もう考え出したらキリがないくらい、悪の所在というものを考えることができるのではないだろうか。そう思うのです。
 
どこかに悪の所在を置いて、そこに話題を集中させ、攻撃するのは、私たち人間が普通のように行っていることであり、そうすることによって、自分自身のなかにある「善」というものを確認していくことを、私たちは何の疑いなく行っています。そういうときに、私たちは知らず知らずの間に「善人」となっているのだと。
 
しかし、今日あえて思わされるのは、誰かが100%善人の側に立って悪人を定めて、その悪を追求し、断罪することが本当に「善」なのだろうかということです。私が言いたいのは、悪をうやむやにし、無きものにしようということではありません。悪は悪として認識し、その悪が糾されていくいくことこそ、大切なことだと思っていることに間違いありません。ただ、私のなかにも悪というものが十分に存在しているのであって、悪というものが誰のうちにも存在していて、その悪の連鎖がこの世の中のさまざまな弊害を生んでいるのだということを言いたいのです。
 
神が善人にも悪人にも太陽の光を与え、恵みの雨を与えてくださるというイエスによる言葉が何を意味するのか。私は今一度黙想させられました。人間が本当に自分自身の悪を理解できるのは、絶対的な「善」に自分自身が守られていると実感できたときなのではないだろうか。この善の存在を、私たちがいかにゆがみなく受け取ることができるかというところに、悪の連鎖を断ち切ることのできる大きなカギがあるのだと感じさせられます。善とは救い主イエスの生き方そのものです。一見すると十字架の死によって失敗したように見えても、実はそうではない。私たちのために自分の命をかけて大切な「善」というものを守り通してくださったのだと。まさに陽の光、恵みの雨なのだと。
 
自分自身のなかにも明らかに存在している悪に、イエスの善が降り注ぐ。この認識こそ、悪の存在を自分自身の出来事として受け止めて、善悪を明らかにしてくださる神の思いに、自分の心を向けることができる。そして、目を向けるべきところにこそ正しい認識をもって目を向けることができる。そんな思いをもって、今日も過ごしてまいりたいと思いました。そのような世界が、私たちを平和へと導いてくださいますように。お祈りいたします。

13/07/2022

2022.7.13 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書66章19節より
私は、彼らの中で生き残った者たちを国々に遣わす。私の名声を聞いたこともない、遠くの島々に。彼らは私の栄光を国々に告げる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書16章15節より
全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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おとといのことです。私がかつて働いていたドイツはケルン・ボン日本語キリスト教会の現牧師である佐々木良子先生からお電話をいただきました。久しぶりに電話で互いの近況を分かち合いながら、とても楽しいひと時をいただきました。
 
コロナ禍のなか、対面での礼拝が制限されてしまったことにより、Skype(スカイプ)によるオンライン礼拝を、ケルン・ボン教会はそれ以来行うようになった(現在は対面での礼拝のときと、オンラインでの礼拝のときを交互に持っているとのこと)と伺いました。
 
そのことによって、ケルン・ボン教会のオンライン礼拝には、遠方の信徒さんや、7~8時間の時差がある日本から、そして現在牧師のいないお隣ベルギー・ブリュッセル日本語教会の信徒さんが集まって、とても豊かな礼拝を持つことができるようになったとのこと。まさにオンラインだからこそ味わうことのできる喜びなのだと、お話を伺いながらつくづく思わされました。
 
今日の旧約・新約聖書の言葉を目にしたときに、いまだ見たことのない、遠くの国々にまで神のもたらす幸いと祝福を告げ知らせるということが、まさかこんな形で、今なされようとは。聖書の言葉が書かれた2000年以上前には、誰もが想像できなかったのではないかと感じさせられます。
 
さて、私は思うのです。遠くの国々、島々まで神がもたらす幸いと祝福という良いたより(福音)を告げ知らせるというのは、決して「キリスト教組織の勢力拡大」ではないし、決してそうであってはいけない。ということです。それよりも大切なことは、神が私たちとともに生きて、私たちのために祝福を注ぐために働いてくださるということが、私たちの世界に分かち合われることなのだと。
 
キリストの救いを全世界に伝えるという世界宣教の働きは、しばしば植民地政策の材料として利用されたことがありました。神の愛や祝福というものが伝えられるどころか、政治的な思惑によって、その地に住む人々は人間による束縛のなか、奴隷のような扱いを受け、苦痛を味わなければならないことが多々あったのは、歴史の記録が伝えるところです。
 
人間の欲望を拡大させるために、宗教を利用させる態度と行動。今、ホットな話題として、統一協会(現・家庭連合)によるさまざまな弊害が報じられているわけですが、世界の平和、家庭の平和と言いながら、一方で献金しなければならないシステムのなかに人々が巻き込まれ、呪いを恐れるがゆえに多額の献金をした結果、その献金が教祖をはじめとする一部の人間たちの私腹を肥やすことになり、信者当人やその家族にまで被害が及んでいることを思うと、本当にやるせない思いにさせられます。
 
私は、教会の牧師という仕事が与えられ、宣教の一端にあずかっている者ですが、今日の聖書の言葉に聴くとき、では、自分はどうして宣教という務めをいただいているのか、そもそも宣教とは何なのだろうか。それが、勢力の拡大であるとか、人間の欲望の実現であるとか、そんなことでは決してないのだということを、常に自分に言い聞かせながら、神がこの世界を祝福し、その祝福によって生きる幸いというものをともに味わうことができるために、遣わされていることを改めて願わされました。
 
今日も、そのような神がおられることを、自分自身の生活で、また私たちの世界のなかで、少しでも輝き、それを分かち合う喜びに導かれますように。お祈りいたします。

12/07/2022

2022.7.12 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ハバクク書3章19節より
主はわが力。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一4章10節より
私たちが労苦し、闘っているのは、生ける神に望みを置いているからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧約聖書の言葉は、非常にシンプルなかたちで「私にとって神は、生きるための力である」ということを告白する、預言者ハバククの言葉を私たちに知らせています。
 
ここでハバククは、「主」という神の名前をあえて呼んでいます。主とは神の固有の名前であり、「私はいる」という意味を明らかにすることによって、私に常にともなってくださる神がおられるからこそ、私は生きる力というものを、神からいただくことができているのだということを告白している、というわけです。
 
預言者ハバククが生きた時代、国には大きな不安がありました。外からの脅威、神が私たちとともにいてくださるということに、周りからの不安ゆえに信頼を寄せるに足らない人々の疑いがありました。本当に神は私たちを助けてくださるのだろうかと。神が私たちとともにいてくださるなどというのは、実は幻想なのではないかと。
 
私たちの生活が守られているという実感は、実際に目に見えるものを通して表れてくるのは、私たちの誰もが知っていることです。先日行われた参議院議員選挙でも、そのことが争点となったわけです。私たちの生活、特に経済的な生活が豊かになるために何をすべきか、そのために誰を選ぶべきか。そこには生活の安定というものを求める人々の思い、願いというものが浮き彫りにされていくわけです。
 
そのような思いは、現代でもハバククの時代でも、人々のあいだではなんも変わることはありません。では、誰もが安心安全な生活が保証されるために、何を私たちは求めることができるのだろうか。「主はわが力」という今日の聖書の言葉を通して、黙想させられます。
 
そんななかで、今日の新約聖書の言葉である「私たちが労苦し、闘っているのは」というひと言は、ただ黙っているだけでは何も起きないのだということを思い起こさせるものなのだと、強く感じさせられたのです。
 
神の力を自分の人生に無くてならないものととらえて生きるのは、実にチャレンジなのだと思わされます。それは自分の思うときに、自分の思うように感じとることのできるものではないからです。経済の発展といったような、目に見えやすいものであるとは限らないからです。だから、昔の人も「本当に神は私の力となってくださるのだろうか」という疑いが生じたのです。これは、私たち人間のまぎれもない正直な傾向なのでしょう。
 
そのようななかで、生きるに労苦し、内外の様々な苦痛と闘わなければならない。しかし、必ず神は、ベストのタイミングをもって、ベストと思われる答えを私たちに与えてくださるからこそ、私たちの希望とすることができる。ハバククも、若いテモテに対して手紙で励ましたパウロも、そのことを自分自身に与えられた確信として、告白することができたのだと。
 
この告白に励まされながら、今日という一日を生きてまいりたいと願います。そのような願いを必ずかなえてくださる神が、今日も私たちとともにありますように。お祈りいたします。

11/07/2022

2022.7.10 #仙台宮城野教会 主日礼拝説教

2022年7月10日
仙台宮城野教会 主日礼拝
 
聖書 出エジプト記20章1~17節
説教 約束の理由 ~私たちの信仰(5)~

↓の動画からご視聴ください。



2022.7.11 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書16章19節より
主よ、わが力、わが砦
苦難の日のわが逃げ場よ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章8節
私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望しません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「苦難」です。私にとって苦難とは何だろうか。そんなことを黙想していると、苦しみの経験が思い起こされ、その記憶のよみがえりで苦しくなる自分があることを思います。おそらく、苦しみの記憶などというものは、一生つきまとうものなのだ。決して忘れ去ることなどできないのだ。そう思う自分自身があるのです。
 
神学生の頃、ある教授がこんなことを言っていたのを思い出しました。「傷は癒えても傷跡は残る。その傷跡を見てはいつかは笑えるようになりたい」。
 
その教授も多くの「傷」を抱えていることを、学生である私たちに赤裸々に語ってくださったことを、今でも忘れることがありません。いろいろな思いがフラッシュバックしながらも、その傷をうらみ交じりにではなく、武勇伝を語るのでもなく、そこに静かな、しかし確実な癒しのストーリーがあることを淡々と語れる。そんなことの大切さを学びました。この思いは、今を生きるひとつの大きな考え方に、私自身を促しているのです。
 
さて、今日の聖書の言葉から聴くことのできる神のメッセージ。それは、苦難のなかにあって私たちが逃れることのできる場が確かにある、ということでしょう。私がそう思えなかったとしても、逃れ場を頼り、そこに希望を抱き続けた先人たちが、聖書にその記録としてとどめた。そこに私の思いを向けていきたい。そのように感じさせられました。
 
逃れ場とは主なる神。あなたと共にいるという意味の名前をもって、私たちに約束し続けている神です。この神に自分の苦しみを引っさげて駆け込んでいく。そして、神がなさることに期待して、希望の日々を歩む。そんなことが本当に自分にとって有益なのだろうかと思えたとしても、まずはそこに避難し、神の言葉から慰めを受けて今日という一日を歩みたい。そんなことを改めて黙想させられる、今日の聖書の言葉でした。
 
今日からウィークデイが始まります。その日々が、苦難にあって神からの慰めを受けることによって癒しを受ける。そのことをなんのてらいもなく語れる。そんなときでありますように。お祈りいたします。

10/07/2022

2022.7.10 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書18章6節より
見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、あなたがたも私の手の中にある。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章13節
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日のふたつの聖句は、神が私たちに対して何をお望みであるのかについて、黙想が与えられるものだと私は受け止めました。神が私たちに望まれることと、私たちの個々人が実際に望んでいることとの間にあるものは何か。そんなことを考えさせられます。
 
神は、預言者エレミヤを通して私たちに語ります。陶工によって粘土が陶器のかたちをつくりあげるように、私もあなたがたをかたちづくると。実際にそうでした。神は地の土をご自分に似た形をもってかたちづくられ、そこに命の息吹を吹き入れられることによって、人は「神の像(かたち)」として生きるものとなったのですから。
 
神の像がなんであるかを考える時に、神は人間をロボットのようにでなく、自由意思を抱き、その意思によって生きるように創造されたということを見逃せません。ただ、その意思を「どのように用いるか」ということは、作者である神の意図を汲むか汲まないかということと大きく関係します。
 
今日の聖書の言葉によれば、神の私たちに対する意図によって、私たち一人ひとりが生きる幸いを味わうことが示されていると私は受け止めました。神は私たちに対して、ただ「祝福する」ということの一点において、その初めから今日まで、そしてこれからも永遠にわたって働いておられるというのが、聖書全体の語るメッセージです。そのなかで、神はご自分の御心を私たちの心へ注いでくださり、私たちを日々の生活のなかでご自分に似るかたちとして作り上げられることをお望みである、というのです。
 
この神の望まれることに、私たちはそれをどのように受け止めることができるだろうか。そのために、今日もこれら聖書の言葉からその声を聴き取っていきたい。そのように私は願わされました。今日は主の日です。世界中の教会や集会でもたれる礼拝に、神の祝福が豊かにあふれることによって、神の御心が私たちの心にしみわたりますように。お祈りいたします。

09/07/2022

2022.7.9 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書48章21節より
主が彼らに乾いた地を行かせたときも
彼らは渇かなかった。
主は彼らのために岩から水を流れ出させた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書7章37節より
イエスは言われた。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい」。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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モーセをリーダーとするイスラエルの民がエジプトの地を脱出し、神が指し示された土地へ向かうときのことでした。本来ならば、彼らはもっと早く約束の土地へたどり着くことができたかもしれません。しかし、行けども行けども、その土地に到着することはできませんでした。実に40年という長い期間にわたって、彼らは流浪を体験することになりました。
 
あてもなく、たださまよい続けるイスラエルの民たちは、ときに疲れ果て、その疲れからくる不平不満をしばしばもらし、つぶやきました。神が私たちを守ってくれるのではなかったのか。それなのに、どうしてこんな苦しみを経験しなければならないのだ。彼らは喉が渇くだけではなく、その魂も渇ききっていたというのです。
 
しかし、神は民たちを決して見捨てることはありませんでした。神がいたずらに民に苦しみを与えたのではありません。人間とは「何を必要として生きる存在なのか」という問いを、自分自身に問わせ、そのたびごとに、神の助けを経験することによってその答えを見つけていく。それが流浪の民が40年のあいだに気づき、経験してきた歴史でした。
 
神が岩の割れ目から水をほとばしらせてくださったおかげで、彼らは渇くことはなかった。不毛な土地でさまよったとしてもです。この言葉に黙想の思いを寄せました。特に昨日は、私たちの誰もが、むなしい渇きをそれぞれに経験したのではないか。私もそのひとりでした。人が人をあやめることのむなしさとは、まさに渇きの極みなのではないかと、私は思えてならないのです。
 
そんなときに、私は何によってその渇きを癒すことができるのだろうか。神は私たちが渇いたままでいることをお望みではない。いのちの水を私たちに注ぎ、与えてくださるではないか。神の語られる言葉と、言葉が決して空しいものとならないように示してくださった御業を、今一度、じっくりと味わってみたい。そんな思いにさせられました。
 
救い主イエスは言います。渇いているものは誰でも、私のもとに来なさいと。イエスの言葉と行いに、私は心の渇きの癒しを得たい。惜しみなく水の流れを与えてくださるイエスが、今日も私とともにいてくださった。そんなことを指折り数えることのできるような生活の日々でありたい。そんなことを思えてならないのです。
 
今日は私個人の事情で、夕方の配信となってしまいました。だからこそ、一日を振り返ることのできる聖書の言葉が与えられたことに感謝しました。そして、明日の主の日に向けて備えしてまいりたいと思います。今日の残された時間が、皆さんにとって渇きを癒し、うるおすことのできる素敵なときとなりますように。お祈りいたします。

08/07/2022

2022.7.8 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書21章14節より
私はあなたがたの業が結ぶ実に従って
あなたがたを罰する――主の仰せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙6章9節
たゆまず善を行いましょう。倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の聖書の言葉から、新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙にある「倦むことなく励んでいれば」という言葉に、黙想の思いを寄せてみたいと思います。
 
倦むことなく。この言葉の意味を調べてみますと「いやになってしまうことなく」「あきらめず」「疲れてしまうことなく」という意味があります。ですから、その後に続く「励んでいれば」という言葉が、どのような意味で語られているかに、注目することができると感じさせられます。
 
私たちは「励む」という言葉にどのような意味を抱くでしょうか。一生懸命頑張る、せっせと働くというような意味合いを、励むという言葉に込めていないでしょうか。一所懸命なさまのことを、励むともし感じているのであれば、そのことで疲れ果て、あきらめてしまうことのない程度にという意味で「倦むことなく」という言葉が用いられているのは、大変興味深いと言えるでしょう。
 
つまり、頑張りすぎてしまうというのは、自分の力に頼りすぎている結果なのではないか。私はそのように感じるのです。私は自分自身のことで精いっぱいになればなるほど、前のめりになってしまう傾向があると、私自身を振り返って痛感させられることがあります。そして、一生懸命やっているのに成果が表れないと、本当に疲れ果ててしまって、なにもかもやる気が失せてしまうのです。
 
しかし、倦むことなく励んでいるならばという言葉の奥深いところには、私が何によって生きるのかという本心が明らかにされます。私たちに善いものを与え続けてくださる神の御業を受け取り続けることで自分自身を整える生き方か、自分で善の基準を決めてその善を保とうと歯を食いしばって頑張ろうとする生き方か。似ているようで、この二者のあいだには、大きな隔たりがあると私は思うのです。
 
倦むことなく、と書かれている言葉に先立って、この手紙は「たゆまず善を行いましょう」とパウロは綴っています。たゆまずとはあきらめずという意味ですから、倦むことなくという言葉と同義であることがわかります。あきらめることなく神が与えられる善をいただき続けることが、すなわち気負うことなく、神の助けによって、神の善を受け取り、それを認識したり識別したり、自分自身を確かめ吟味しながら、あきらめることなく、疲れてしまうことなく、自分自身の生き方としていく。そこに、肩ひじ張らない生き方、神が私たちを慰め励ましながら共に歩んでくださる姿というものを、見させられているような気がするのです。
 
私たちが、そのような生き方を営んだ結果、最終的に神の恵みというものを刈り取ることができるのだ。そのように神の言葉は語ります。ここの聖書の言葉はしばしば「蒔いたものを刈り取る」という言葉から、どうしても消極的・自業自得的なイメージがつきまとうものだと私は思っている一面があることに、あらためて気づかされました。悪いことをすれば、それなりの報いが降りかかってくるのだと。
 
しかし、倦むことなく・疲れてしまうことなくという言葉に、自分自身の姿を振り返ることができ、また徒労してしまわないような生き方とはなにかという点で、ホッとさせられる言葉なんだ。そのように思わされたのです。
 
今日も、前のめりになることなく、気負うことなく、神が私たちに与えてくださった数々の出来事を指折り数えながら、一日を歩んでまいりたいと思います。そのような連鎖こそ、この世の中に注がれる神の平和があらわれることを期待して、今日というときを過ごしていくことができますように。お祈りいたします。

07/07/2022

2022.7.7 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌上29章12節より
主よ、その御手によってあらゆる者を大いなる者、力ある者となさいます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書10章16節
イエスは、子どもたちを抱き寄せ、手を置いて祝福された。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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教会で長いこと眠っていた聖書版画家・渡辺禎雄氏の作品を、月替わりで壁に飾ることにしました。今月は「イエスと子どもたち」という作品を飾っています。和のテイストが入った、なんとも素敵な一枚です。イエスが子どもたちを抱き寄せたとき、見た目には、そして「大人の世界」からすれば、なにもかにも足りないように見える存在でも、イエスの眼からすればそうではなかった。実に祝福されるべき存在、それが子どもだったのだと。
  
さて、昨晩は26年間にわたるブラジルでの宣教師生活を終え、一時帰国されておられる小井沼眞樹子先生とともに、石巻栄光教会の祈祷会へ出席しました。そこで、P.T.フォーサイスによる説教のことばが紹介され、聖書の言葉とともに黙想するひと時が与えられました。魂の充実を感じ取ることのできるような空間と時間をいただきました。
 
仙台へ向かう帰りの車のなかで、眞樹子先生といろいろ話し合っていたときのことです。教会のこと、この世の中のこと、宣教のこと、いろいろな話題が繰り広げられるなかで「人間、やはり正直であることが大切だ」という話になりました。ここで言う正直とは、素直という言葉にも置き換えることのできるものであると、私は感じました。
 
子どものような素直さと正直さ。まさにイエスが抱き寄せた子どもとは、そのような素直さと正直さを隠すことなく表現できる存在である。私はそう思ったのです。
 
その時、イエスはこう言われた。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました」。
新約聖書 マタイによる福音書11章25節
 
昨晩の石巻栄光教会の祈祷会で読まれた、聖書の言葉の一節です。神の栄光は、幼子たちに示される。この世の中ではどんなに弱い存在であると見なされたとしても、その弱いと思われている存在にこそ、神の助けと力はあふれんばかりに注がれるのだと。
 
自分の力を張り子のように見せて虚勢を張るのでなく、自分のうちにある思いをさらけ出すことを阻害するプライドを守るのでもなく。子どものようにただ、素直で正直な者となりたい。昨晩あったことから今朝の聖書の言葉をいただき、黙想するなかにあって、そんなことを思わされました。
 
どうか今日の一日が、そのような素直さと正直さを神に、そして隣人に向けることができる者とならせてください。そして、そのような世界に、神の栄光と祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。

06/07/2022

2022.7.6 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書60章19節より
あなたにとって、主がとこしえの光となり
あなたの神があなたの誉れとなる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一1章5節
私たちがイエスから聞いて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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神は私たちにとって永遠に「光」でいてくださる。これが、今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐメッセージです。そして、これらふたつの聖書の言葉に続いて語られる「第三のテキスト」(原著『Die Losungen』にある、聖書の言葉に基づいた賛美や祈りの言葉。日本語版は割愛)は、宗教改革の先駆者であった、チェコの神学者であるヤン・フスによる祈りの言葉でした。今日7月6日は、フスが殉教した日(1415年)です。
 
私たちのもとに来てください、待望なるキリスト。
世界をその御手におかれる万能の主よ。
私たちの心にあなたのことを知らせてください。
恐れることなく、あなたにまみえさせてください。
私たちが救われて生きるために、あなたの御心に適った道へと導いてください。
永遠に生きて働いておられるあなたが、私たちをあなたの栄光へと導いてください。
 
ヤン・フスは、14世紀から15世紀にかけてチェコの地で、聖書の言葉が語る神の本質にこそ、私たちが歩むべき道であることを説きました。やがて、それは当時のチェコにおける宗教的な権威者をおびやかすこととなり、最終的にフスは処刑されてしまいました。彼の「真実は勝つ」という辞世の句は、今でもチェコ国民を励ますこの国の標語となっているくらいです。
 
フスは、当時の権力者からの弾圧と迫害を受けていました。そういう苦しいなかで、フスは上に掲げた祈りの言葉を祈ったと言われています。作家・佐藤優氏によれば、この祈りの言葉は、この地域の伝統的な祈祷文だったのを、フスは一部言葉を変えて祈ったのだそうです。それは、4行目にある「恐れなく」という一文であり、もともとは「罪なく」という祈りの文だったのだそうです。
 
私たちは恐怖の心が募ると、しばしば判断を誤ってしまうなどということがあると思うのです。恐れのなかにいる状態は、まるで闇のなかをさまよっているような感覚に陥るわけで、だからこそ、行くべき道すら失ってしまうような、そんな状態に私たちは引き込まれてしまうというわけです。
 
だからこそ、フスの「恐れなく」という祈りの言葉の意味を、じっくりと黙想し、かみしめたいと願わされます。恐れ知らずのという意味ではなく、あらゆる恐れのなかにあっても、その心に一条の光が差し込んでくる。それこそ神の言葉であり、私たちを救いへと導くために、生きて働いておられる神が、ここにおられるということへの期待かつ深い信頼、心からの願いの表れが「恐れなく」というひと言に込められているのだ。そのように受け取りたいのです。
 
神は私たちにとって、永遠の光でいてくださる。聖書で繰り返し語られているこの言葉の味わい深さを、今日もじっくりと噛みしめながら生きていきたい。そのように願い、神の御業を待ち望みたいと思います。皆さんの一日にも、神が光を差し込んでくださいますように。お祈りいたします。

05/07/2022

2022.7.5 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記15章6節
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙3章7節
ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子孫であるとわきまえなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書の言葉は、のちに新約聖書の言葉にも受け継がれました。使徒パウロは言います。

聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。
(新約聖書・ローマの信徒への手紙4章3節)
 
つまり、私たちが「信仰」について考えるとき、そのモデルとなる信仰者を聖書から多く見つけることができますが、アブラハムはその代表的な信仰者と言ってもよいでしょう。では、私たちはアブラハムの何から信仰というものを知ることができるのでしょうか。
 
アブラム(アブラハム)は主なる神を信じた。そのことを神はアブラハムの「義」と認められた、とあります。プロテスタント教会の基本理念のひとつである「信仰義認」は、ここから生まれた言葉であるといって間違いありません。
 
ただ、信仰義認でしばしばとらえ違いしてしまうのは、神を信じるということは「私自身」の正しさが証明されることでは決してない、ということです。神を信じたから私の正しさが認められた、ということではありません。
 
神がアブラハムを、神御自身が正しさをもって祝福し、導き、取り扱ってくださる。この神の正しさをアブラハムは信じたのです。自分が正しいのではなく、神が正しい御方であることを、自分の生き方の中心に据えたからこそ、アブラハムは神の正しさによってその生き方が、神に認められたということなのだと。
 
私たちは、自分が正しいと思ったことに従って毎日言葉をつむぎ、行動しています。しかし、その正しさはどこに由来する者なのか。そこに、じっくりと自分自身を確かめながら歩んでいくということが、アブラハムの信仰者としての人生に学ぶことができるのだと思います。
 
アブラハムはその生涯のなかで、100%の成功者として歩みませんでした。むしろ彼の人生は、いわゆる失敗ばかりであったとも言えるでしょう。しかし、アブラハムは失敗や挫折を通して、最終的に見たのは神の正しさでした。神が自分自身を含むこの世界に、ご自分の言葉をもって、その正しさを証しされてこられた。アブラハムは「主なる神の言葉に従って」その人生を歩みました。だから、成功も失敗もすべて、神の眼からすれば義認されるに必要なことだったのだと。
 
今、私たちは神の与えられた言葉の「実質・実体」として、イエス・キリストという救い主を信仰として、神からいただきました。このイエスをもって、私たちはイエスの言葉と行いを心に抱きながら日々の生活を営むことができるのです。これこそ、アブラハムの子孫とされている私たち一人ひとりに期待されていることなのでしょう。「わきまえなさい」という、今日の新約聖書の言葉は、まさにそのことを積極的にとらえることの幸いを、物語っているものと言えるでしょう。
 
どうぞ今日の一日が、神の言葉の中心にあるイエスの私たちに対するまなざしが、私たちの命を活かす土台であることを想いつつ生きることができますように。お祈りいたします。