31/12/2022

2022.12.31(土) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書9章8節
それゆえ、主は言われる。
私は私の家に宿営して、行き来する者を見張る。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章31~32節
神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。
私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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2022年もいよいよ最終日を迎えました。この1年を振り返って、みなさんにとっての一年間は、どのようの日々だったでしょうか。私自身のことを振り返れば、前任地での辞任と現任地での就任、それにともなう転居、新しいことが次々と訪れるなかで多くの出会いがあり、別れもあり、笑いもあれば涙もあった。そんな目まぐるしい一年だったと。しかし、そのどれをとっても、私の行く道を守り、それを示してくださった神を語ることなしに、この一年間は成り立たなかった。そんなことを強く思わされています。神が出会わせてくださったすべての方々へ、そして神様に心からお礼申し上げるばかりです。
 
日々の聖句の編集に関わるようになってはや7年が経ちました。こうして現在のブログのかたちで毎日黙想を掲載するようになり、ひとりでも多くの方々に御言葉の恵みを分かち合いたいとの思いから、Twitter、FacebookのSNSに加えて、今年からLINE公式アカウントによる配信も開始しました。皆さんにはお気軽に、気が向いたときに読んでくださればそれで大変ありがたいのですが、毎日コメントやリアクションをくださる皆さまには、とても大きな励みを受けています。重ねて感謝いたします。
 
2022年の一年間も、神が与えてくださったこの時、神が私たちの日々を見守る役割を担ってくださいました。私は宿営の衛兵のように、あなたを見守ると宣言された神の言葉の通り、私がどんなに苦しくても、辛いことがあっても、こうして日々を歩むことができたのだと。そして、一年を感謝のうちに、その最終日を迎えることができたのだと。
 
このクリスマスシーズンのときに、私たちのために救い主を与えてくださった方、つまり神が私たちを愛し抜き、見守り、その御心に適うところに従って、私たちを味方としてくださるというのです。だからこそ、神の御心というものを、新しい一年もまた、御言葉に聴き、祈り、神との深い交わりのなかで、神に守られながら生きる幸いを得てまいりたいと願います。
 
この一年間、主にある、御言葉を介してのお交わりを心から感謝申し上げます。どうぞ素敵な新年をお迎えください。2023年もどうぞよろしくお願いいたします。

30/12/2022

2022.12.30(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章9~10節
六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。
しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書2章27節
安息日は人のためにつくられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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2022年もあと残すところ2日となりました。
クリスマス行事がひと通り終わり、つかの間のクリスマスの余韻を楽しんでいます。世の中は年の瀬で大忙しと言ったところでしょうが、そして私もしなければならないことがあったりもするのですが、この数日間は、とにかく休養を取ることにつとめました。眠さに任せてとにかく眠りました。とにかくのんびりとすごしたこともあり、気持ちがとても楽になったような気がしています。
 
忙しくても休むことの大切さ。
本日与えられた聖書の言葉は、まさにそのことを思い起こさせると私は実感しました。いわゆる「安息日規定」と呼ばれる十戒の言葉が、旧約聖書から選ばれた本日の御言葉です。
 
安息日は何のためにあるのでしょうか。それはずばり「休むため」です。休むことで、心身に英気が養われるのは誰でも知っていることです。そうすると、日々訪れるさまざまな出来事に対して、健全に対応することができるのだと。そして、命の尊さであるとか命があることへの充実感を、心から感じることができるのだと。
 
休まないと疲れますし、眠いときに冷静な判断をくだすことはなかなかできない。ちょっとしたことで一喜一憂し、神経がたかぶるがゆえに様々な問題を引き起こす原因になったりするのだと、自分自身のことを振り返っては痛感させられます。
 
よく言われることに「夜にメールの類を送るな」なんていうことがあったりします。夜に感情任せに書いたメールを、ひと晩寝かせて朝起きてからもう一度見直したときに、ああ、送らなくて良かったという経験を私はよくしました。疲れているときにほど、重要な話題は避けた方がよいという教訓です。だから、休む必要があるのだと、私は思うのです。
 
本日の新約聖書の言葉は、安息日は「人のためにある」というイエスの言葉ですが、その後に「人が安息日のためにあるのではない」と続けています。つまり、安息日という制度を厳守するあまり、人が疲れてしまったのではまさに本末転倒だというのです。
 
安息日という言葉が、週に一度の出来事であると私たちはとらえますし、もちろん聖書に書いてあることですから、それは間違いのないことです。しかし、安息日の意味と本質を私たちが知ろうとするときに、私たちは「休むこともまた、神が私たちのために与えてくださったプレゼントである」ことを、何よりも大切にしたい。そして、神に与えられた命に感謝しつつ、年末年始のときを過ごしたい。私はこの数日間の休息を通して、ますますそんなことを思わされた次第です。
 
ただ、締め切りを控えた仕事もありますので、また明後日の礼拝の備えもありますので、そろそろエンジンをかけなおしたいと思います。どうぞ皆さんの年末が、あわただしいなかにあっても、いっときの休息ゆえに元気が養われますことを、心よりお祈りいたします。

29/12/2022

2022.12.29(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
民数記23章19節
神は言ったことを、行わないことがあろうか。
告げたことを、成し遂げないことがあろうか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章19節
イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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この方においては「然り」だけが実現した。
この方とは、救い主イエスのことを指すわけですが、では、私たちはイエスの何を見て、「然りだけが実現した」という言葉を受け入れることができるのだろうか。そんなことを黙想したいと思いました。
 
私たちは、クリスマス物語を通して、ふたりの女性に語られ、そして語った言葉を思い起こすことができるでしょう。マリアに語った「神にできないことは何一つない(1章37節)」と、エリサベトが語った「主がおっしゃったことは必ず実現する(1章45節)」という言葉です。この言葉がイエスの誕生を実現させ、イエスが救い主として人々に与えられ、十字架と復活、昇天のできごとから聖霊降臨にいたるまで、人々のあいだで信仰として受け入れられるに至ったということです。
 
本日の新約聖書の言葉は、救い主をめぐるストーリー全体を通して、まさに「然り」だけが働いたのだと。救い主イエスに対する信仰告白とも言えるパウロの言葉を、私たちもまた受け取ることができるのだと。
 
イエスが十字架にかけて殺されそうになったときに、人々はイエスに対して「否」をぶつけました。王として救ってくれるはずだったのではないか。そんな人々の期待は、十字架刑を受けようとしているイエスを目前にして、多くの失望、裏切られ感、そして怒りへと発展していきます。その結果、イエスを否んだ弟子たちをはじめとする民衆たちがいたことを思い起こします。
 
そのなかに私がいる。詩人水野源三さんによる「私がいる」という詩の一節です。
ナザレのイエスを 
十字架にかけよと
要求した人 許可した人 執行した人
それらの人の中に 私がいる
 
私の心にも、救い主の存在を否みたくなるような思いがあるのだと、水野源三さんの詩を思い起こすたびに、そんな心境にさせられます。それは、自分の身に起きていることを思っては困惑し、うろたえ、狼狽する自分自身。目の前に救い主がおられると頭ではわかっているのに、心でそれを受け入れることのできない自分自身。神を見上げて歩むよりも、周囲を見渡しては、人や物事ばかりに視点が向いてしまう自分自身。神に委ねるよりも人におもねてしまう自分自身。そんな自分自身が、イエスに「否」をぶつけているのだと。まさに、十字架につけよと叫び続けた民衆のなかに、私がいるのだと。
 
しかし、そんな私の否など関係なく、イエスはご自分に与えられた使命を果たされた。そこに帰り、然りと信仰告白が許される機会が、今日も信仰の実体によるイエスによって与えられることを、感謝のうちに受け止めて生きたい。そんな風に思わされたわけです。
 
神は民たちに言ったことを必ず行い、それを成し遂げる方なのだ。本日の旧約聖書の言葉が語るメッセージです。エジプトから脱出して荒野のなかを流浪するイスラエルの民たちは、いつまでこんな旅を続けなければならないんだと不平不満をこぼし、神の御業を否定することなど何度もありました。しかし、そのたびに神は行く道を与え、マナを降らせて、飲み水を確保されました。人々の否に、神は然りをもって応えられた。今日のふたつの聖書の言葉を通して、そんな神に期待して、今日も歩みたいと願いました。
 
皆さんの一日が、そのような主の守りと助けによって、豊かなものとされますように。お祈りいたします。
 

28/12/2022

2022.12.28(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編42編12節
私の魂よ
なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
私はなお、神をほめたたえる
「御顔こそ、わが救い」と。
わが神よ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二3章12節
このような希望を抱いているので、私たちは堂々と振る舞えるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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さまざまな出来事のために、魂が打ち沈み、心からのうめきを発したくなることがあるのだ。詩人ダビデは、そのように自分の心の心境を主なる神に打ち明けます。
 
私はそのようなダビデの心境をつづった詩編42編を読むたびに、自分自身のうちにあるうめき苦しみというものを思い起こします。ちょうど今も、身の上に降りかかる出来事のゆえに、自分自身のふがいなさや至らなさを痛感させられていたところでした。
 
私は、ディートリッヒ・ボンヘッファー牧師の詩である「よき力にわれ囲まれ」の一節を思い出しました。
 
過ぎた日々の悩み重く なおのしかかる時も、
騒ぎたつ心しずめ みむねに従い行く。
 
悩みが重くのしかかる。それが過去のことであったとしても、今そのことで私の心に重くのしかかる。それゆえに心騒ぎ、沈み、うめく自分自身がある。いわゆるダビデやボンヘッファーといった、しばしば人々によって好意的に取り上げられる信仰者でも、いや、そういう信仰者だからこそ、人の何倍も苦しみ、悩みながら生きたのだと、私は受け止めたいのです。
 
それでも、ダビデの心を前向きにさせました。神の御顔をあおぐことこそ、自分に与えられた道なのだと。主なる神がこの苦しみや悩みに必ず応えてくださることを、希望のうちに待とうではないか。ここにこそ救いがあり、私たちのあいだに宿る平和があるのだと。そういう希望に向かって、自分自身の姿を省みながらも、前を見て歩もうとするダビデの姿を、本日の旧約聖書から聴くことができるのだと、私は感じました。
 
ボンヘッファーも、別な言葉でそのことを言及しました。みむねに従い行くと。神の言葉に示された神の御心と御旨に真摯に聴き、その示されたことに従って歩もうではないか。それこそ、悩み苦しみに立たされるなかで、自分自身にできることなのだと。身の回りに関心と注意を払いつつ、よく見渡すと同時に、究極的には神の御顔をあおぎながら歩むことの重要さというものを、思わずにはいられません。
 
本日の新約聖書の言葉は、パウロによって語られた告白ともいえるひと言です。このときのパウロは、自分自身の働きや姿勢について、ある人々の非難を浴びていたところでした。あなたに神を語る資格があるのか。そのような人々の言葉に対して、パウロはただ、神が与えてくださる希望があるから、私たちは自分に与えられた出来事として堂々と振る舞い、歩むことができるのだと。そう書いているのです。
 
堂々と振る舞えることができると日本語に訳されている言葉ですが、ローズンゲン原文であるドイツ語聖書では、Freimutといい単語が用いられています。率直とか正直という日本語で表現できる言葉です。堂々と振る舞うとはどういうことか。それは厚顔無恥に行動するとか、己の姿を省みない姿を現しているのではないのだと私は思いました。神の言葉に聴き、そこに従おうとする態度には、私たちを何もてらうことなく、見栄を張ったり自己保身に終始するのでもなく、自分自身の罪を正直に、率直に神と人の前にさらけ出し、それでも悔い改めて、自分の前に置かれた主の道を真摯に歩むところにこそ、実に希望に満ちあふれた人生が待っているのだと。そのように心から願いたいのです。
 
今日という一日が与えられていることに、心から感謝したいと思います。たとえうなだれていても、そのことで心が悩み苦しいことがあっても、そのことを抱えながらも、神と人の前に今日も正直に、率直に歩むときが与えられているのだから。そのように心から信じ、歩む一日でありたいと思います。どうぞ皆さんの一日に、神様の豊かな守りと祝福がありますように。心よりお祈りいたします。

27/12/2022

2022.12.27(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章28節
かつて、引き抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらすために彼らを見張っていたが、同じように、建て、植えるために彼らを見張る――主の仰せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙5章7節
それゆえ、きょうだいたち、主が来られる時まで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待ちます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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クリスマスとは、救いのゴールではなく、まだスタート地点に立ったに過ぎないのだ。
 
本日の聖書の言葉を通して、改めて感じさせられたことです。私たちは、救い主イエスが私たちのもとへやって来るのを、クリスマスの祝いを通して知り、感じることができているのですが、しかし、イエスの生涯はまだ始まってばかり。これから私たちはイエスの生涯を通して、その救いの業というものを見せていただくことになります。そして、イエスの生涯、ご受難、ご復活、ご昇天、王として再び私たちのもとに来られるその時までです。そういう意味では、私たちへの救いのみ業は、始まってばかりなのです。
 
クリスマスが来たとて、私たちの安心はほんの一時のものかもしれません。1914年、第一次世界大戦が始まって数か月が経った頃、イギリス軍とドイツ軍は戦いを繰り広げていました。しかし、せめてクリスマスの時ぐらいは戦いをやめよう。そういう機運が自然に起きて、互いがクリスマスを祝ったという、信じられない出来事がありました。俗にいう「クリスマス休戦」と呼ばれる出来事です。しかし、そんな出来事も英独両軍の指令者が厳しく禁じたため、再び戦いが始まり、次の年のクリスマスが訪れてもそ、のような休戦がもたれることはありませんでした。
 
クリスマスが私たちに感じさせた平和が本当に訪れるとき。それはもっと先のことかもしれないし、私たちの人生のあいだにそれを見ることが、もしかしたら無いかもしれない。しかし、私たちが神の御業というものに期待しつつ、私たちもまた来るべきあけぼのの光を待ちながら、その時を生きることができるのだと、本日の聖書の言葉はそんなメッセージを語り掛けているような気がしてならないのです。
 
神が与えてくださる平和を、私たちが台無しにしてしまうことが多々あります。しかし、それでも私たちを建てて、植えるために、私たちを見つめてくださる方がおられるということを、是非忘れずに今日という一日を歩みたいと願わされました。本日の新約聖書の言葉であるヤコブの手紙には、収穫を忍耐強く待つ農夫のことが書かれていました。今自分に与えられた務めを淡々となしながら、収穫の時をじっくりと待つ農夫の姿は、クリスマスから始まる救いのドラマを、じっくりと待つことが求められている私たちの理想に相通じるのだと思うのです。
 
どうか、あわただしい年の瀬にあっても、神が私たちとともにいてくださる幸いを、味わうことができますように。お祈りいたします。

26/12/2022

2022.12.26(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記上8章66節
民は喜んで自分たちの天幕へ帰って行った。主が僕ダビデと、その民イスラエルになさったすべての恵みの業に心から満足したからである。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章16~17節
羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使から告げられたことを人々に知らせた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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私たちはクリスマスを迎え、それぞれの教会や集会、また家族でクリスマスをお祝いすることができたかと思います。今年はクリスマスが日曜日ということもありましたので、本日月曜日から通常の生活、それもあわただしい年の瀬の日々を過ごされるのではないかと思います。クリスマスの余韻をじっくりと楽しむ余裕がなかなかないかもしれませんが、2週間余りのクリスマスシーズンを、クリスマスの喜びとともに送ることができればと願いたいものです。
 
本日の旧約聖書の言葉は、イスラエルの王ソロモンによって建造されたエルサレム第一神殿が完成し、その神殿が神に奉献される祭りが無事に執り行われたときの様子が描かれたものです。民たちは、神がイスラエルの国を、そして自分たちに恵みを示してくださったことへの喜びと感謝ゆえに、喜びをもってそれぞれの持ち場へ帰っていったと、聖書には記されています。
 
ささげられたものを通して、そこには神の、そして人々の喜びがある。本日の旧約聖書の言葉が物語るメッセージです。それはまるで、神がこの世界にご自分の御子をクリスマスプレゼントとしてささげてくださったことで、羊飼いをはじめとする人々が、飼い葉おけに寝かされている赤子にたどり着いて、出会うことで不安や恐れから解放されて、喜びに包まれながら、神から示された出来事と言葉を人々に知らせたという、本日の新約聖書が示す言葉に相通じるような気がしてなりません。
 
ささげるということの喜びはどこにあるのだろうか。今年は神による呪いや罰をちらつかせながら、脅迫をともなった献金をさせるカルト宗教の実態が、大きな問題として取り上げられました。そのための法律ができ、政府や行政にいたるまで、ささげるという業が健全に働くように、前向きに取り組もうとしている姿を見ることができます。
 
そのような現状を見て、また本日の聖書の言葉から考えたいことは、ささげるということについて、教会は、そして牧師としてどのような態度を抱かなければならないだろうか。その意味というものを問い続けるところにこそ、自然で、能動的で、喜びに満ちあふれた「ささげる」という行為をすることができるのだと。そのことを大切にしたいと心から願わされた次第です。
 
ささげるという行為自体は全然悪いことではありません。問題なのは、ささげるということをめぐって繰り広げられる人間の態度です。ささげるという行為をゆがんだ支配構造を助長するための材料に用いないこと。そんなことを黙想させられました。クリスマスプレゼントをささげてくださった神のことを思いつつ、クリスマスの余韻にひたりながら、今日という一日を過ごしてまいりたいと思います。どうぞ皆さんの一日にも、神の喜びがともなってくださいますように。お祈りいたします。

25/12/2022

2022.12.25(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨシュア記24章23節
あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、あなたがたの心をイスラエルの神、主に向けなさい。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章18節
いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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クリスマスおめでとうございます。
 
2022年も終わりを迎えようとしているなか、私たちは救い主を迎えることができました。主は来られる、救いは私たちのもとにやって来る。私たちは待望の思いを持ちながらも、年末にその御方を迎えることになるというのは、なんとも象徴的な出来事のような気がしてなりません。
 
私たちにとって、救いはすぐにでも訪れてほしいものであるという期待があるのではいだろうか。私なんかいつもそう思っています。しかし、待てど暮らせど救いがそう簡単にやって来ない。だから焦るのです。焦るからこそ、私たちは何か代わりのもので済ませようとします。そして自分自身にひと時の安心を得るのだけれども、そこには究極的な安らぎを見い出すことが難しいのだと。それをとっかえひっかえすることで、私たちの心は流行りすたりに翻弄される毎日を送っているのかもしれません。
 
本日の旧約聖書にある「異国の神々」とは、そういう私たちの心にある焦りからくる、一時の慰めのようなものなのかもしれない。私はそのように受け止めました。異国の神々は、確かに私たちにきらびやかな魅力を提供するかもしれませんし、私たちはそれを少しの時間でもいいから、自分自身の慰めのために利用するのかもしれない。こうして落ち着かない自分自身を安心させたいのだと。
 
しかし、私たちがあれこれ手を尽くしても究極の安心が得られないなかで、最後の最後に私たちのもとに訪れてくださったのが、救い主イエスなのだと。こじつけかもしれませんが、クリスマスを一年の最後に迎えようとするのは、実はとても意義深いことで、焦り待てない私たちに対する、神の深い憐れみが確かに訪れることの紛れもない出来事なのだと。私はそのように受け止めたいのです。
 
心を主に向けるというのは、簡単なようでとても難しいことなのだと思います。私自身の心には、さまざまなものに翻弄されやすく、また頑固な自分自身の心を発見できるからです。しかし、それでも神は私たちに心を私に向けてくださいと言われ続ける御方なのです。そして、そのことの意味を、神は最後の最後にイエスという救い主を差し出し、それを私たちがこの目で観ることで、肌で感じ、心で受け止め、救いの喜びというものを経験できるのだと。私は、クリスマスが訪れた今、そして2022年も終わりを迎えようとしている今だからこそ、自分自身の心を見つめつつ、その向こう岸から渡って来られた救い主を心からお迎えしたい。そのように願わされました。
 
どうぞ、皆さんにとってのクリスマスが、永遠の終着地であることの喜びを味わうときとなりますように。お祈りいたします。

24/12/2022

2022.12.24(土) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書9章10節
この方は諸国民に平和を告げる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章14節
いと高き所には栄光、神にあれ
地には平和、御心に適う人にあれ。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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この方は諸国民に平和を告げる。
 
預言者ゼカリヤに託された神の言葉は「この方」について告げています。この方とは「あなたの王(9章8節)」のことであることが分かります。娘シオン、そしてエルサレムと言えば、神が愛され、特別に守られたご自分の民であり、この民は何度も神の期待を裏切っても、それでも神はこの民を諭し、戒め、そして慰め励まし続けました。そして遂に、あなたのための王が来られると、民に約束されたのでした。
 
私たちも、神によって愛されている民に他なりません。それも限定された狭い範囲のものではありません。今や、諸国民、つまり全世界に「あなたの王」がもたらす平和が及ぶのだと。そう神は人々に保証を与えます。
 
私たちはいよいよ本日の夕刻から、クリスマスシーズンを迎えます。クリスマスとは終わるものではなく始まるものである。私たちは1月6日までのクリスマスシーズンをどのように過ごすことができるだろうか。そんなことをあれこれ考えているときに、本日の聖書の言葉が与えるキーワード、それが「平和」であると私は受け止めたいのです。
 
2022年を振り返っても、平和が削がれていくような出来事がたくさんありました。ロシアとウクライナのあいだで起きている戦いが終わることがありませんでした。寒さ凍えるなか、多くの国民がクリスマスを迎えなければなりません。元首相の暗殺によって、宗教というものの意味が、これほどまでに問われることはなかったのではないかと思わずにはいられません。宗教によって苦しめられた多くのかたがた、特に2世と呼ばれる当事者のことを考えると、平和を与えない宗教の存在を、私は自戒を込めて受け止めたいのです。
 
人と人とのあいだに起こる様々なトラブルが、私たちの心を悩ませます。ごくごく小さな世界にも、平和を喜ぶことができない現実があることを思うと、私たちに平和をもたらす王とは、その王が何をもって、私たちを平和へと導かれるのか。そんなことを考えさせられるのです。それが救い主であり私たちの王であるイエスがお生まれになられたことを祝うクリスマスの時だからこそ、なおのことイエスが私たちの王として与えられていることの意味を問いたいのです。
 
どんなに救い主が私たちのもとに来たとて、それを私たちが受け止めなければ、受け止めた者として生きなければ、神がどんなに平和をこの世にもたらそうとしても、私たちのあいだに平和が宿ることは決してないのです。神を信じているから平和だ、平和だと言っているあいだに、私たちの気づかないところ、見えにくいところでは、平和と逆行する状況など、いくらでも起きているのだと。救い主をいただき、信仰の実体であるイエスをいただいた者として生きる。この世界で平和の源をいただいた者として、それを高く掲げながら、私たちはこの世界で生き抜くのだと。
 
いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心に適う人にあれ。
 
聖夜を象徴する言葉が、本日の新約聖書として選ばれています。
そう。御心に適う人なのです。神の言葉に込められた御心が、私たちを神にとってふさわしい者として育むのだと。だからこそ、神の言葉に聴き、祈る。そして神に御心に適うことを心から望みつつ、神が与えてくださる平和に向かって、今日から始まるクリスマスシーズンの日々を過ごしていきたいと願わされました。
 
どうか、皆さんにとってのクリスマスが豊かな日々でありますように。主が皆さんのあいだに、そしてとりなし祈る世界に、平和を宿してくださいますように。お祈りいたします。

23/12/2022

2022.12.23(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編21編14節
主よ、力に満ちて、高くいませ。
私たちはあなたの力強い業を歌い
ほめ歌を歌おう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一3章16節
まぎれもなく偉大なのは、敬虔の秘義です。すなわち、
キリストは肉において現れ
霊において義とされ
天使たちに見られ
諸民族の間で宣べ伝えられ
世界中で信じられ
栄光のうちに上げられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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私たちには自分たちの常識では計り知れないことなど、いくらでも存在しているのであって、それら常識をはるか超えるところにこそ、私たちの神の御業があり、家畜小屋で生まれたイエスによる救いの出来事が与えられたのだ。
 
本日の新約聖書であるテモテへの手紙一3章の言葉に「敬虔の秘儀」という言葉が登場します。敬虔とはなにか、それが秘儀とされているとはどういうことか。これらの語に注目したいと思いました。
 
私たちは「敬虔」という言葉を聞くと、清く・正しく・美しくみたいなイメージを抱くかもしれません。一般に言われる「敬虔なクリスチャン」とは、品行方正でうるわしい振る舞いをする、そういう存在なのだと。しかし、私は全然違うと考えています。敬虔というと、どうしても私たちの側の言動ばかりが強調されているように感じます。しかし、敬虔とはそういうものでなく、あくまで神の側から出発するものなのだと、私は受け止めたいのです。
 
神の御業というものが、今日の新約聖書の言葉にもあるように、イエスという、神が私たちに与えられたひとりの人間を通して、実に不思議で、私たちの想像をはるかに超えた方法によって、救いの出来事がこの私に、そして全世界に広がった。これこそ、神が畏れ、敬われる本質があるのだと。そして、その本質とは私たちが自分たちの常識では考えられないミステリー(秘儀)なのだと。
 
ですから、敬虔というのは私たちの言動を指すというよりは、神がまさに偉大な方であるということが土台にあって、その土台のうえに立たされてる私たちの態度というものが、敬虔が表すところの意味なのだと、私は理解したいのです。
 
本日の旧約聖書の言葉には「神の力強い御業を歌い、ほめ歌をうたおう」とあります。神を賛美することも、私たちがいただいた敬虔から出発する私たちの表現であり、神への応答なのだと私は受け止めたいと改めて思わされました。
 
あのクリスマスの夜、暗闇のなかに輝く天使の歌声に、神の偉大さを知り、あの馬小屋に走り寄り向かった羊飼いたちの行動こそ、まさに敬虔の秘儀によって心動かされたゆえの応答でした。そこにこそ救いの出来事があるのだと。クリスマスが明日の夕刻から始まります。その備えとして、敬虔という言葉の意味というものをじっくり噛みしめながら、新しい一日を生きたいと思います。皆さんの一日にも、神が素晴らしい御方であることの本質があふれますように。お祈りいたします。

22/12/2022

2022.12.22(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編69編33節
神を尋ね求める人よ
あなたがたの心に命が与えられますように。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章40~41節
マリアはザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶をした。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子が躍った。エリサベトは聖霊に満たされた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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あなたがたの心に命が与えられますように。
この命は、ただ命が与えられるということを超えて、私たちの心が躍るような、そのような体験のことを指すのだと、本日の聖書の言葉から受け取ることができました。
 
本日の詩編69編33節の「命が与えられる」に相当する言葉は、ドイツ語聖書(ルター訳2017年版)ですと、auflebenというドイツ語が用いられています。この言葉は「生気を取り戻す・再び活発になる・復活、復興する」と言った意味を持っています。
 
ですから、単に命が与えられたということ以上に、希望が見いだせない状況に命の息吹が与えられる事によって、喜びに満たされるような状態を指すのだと理解できます。その状況はまるで、本日の新約聖書の言葉に記されている、受胎告知を受けた後のマリアがすぐさまエリサベトを訪れたときに、エリサベトの胎内の子(のちの洗礼者ヨハネ)が躍ったという物語に相通じるのだと思わされました。
 
マリアは神のお告げと言えども、未婚の私が子を宿すなどという大事件に、それを神の言葉と受け止めつつも、大きな不安が彼女を取り囲んだに違いないのです。そのようななかで、エリサベトに出会います。ここでマリアは、心躍る命というものを目の当たりにしました。ここに希望がある。守りと祝福があるのだと確信した一瞬が、ここにありました。
 
先日「小さないのちを守る会」の創立者である、辻岡健象(つじおか・けんぞう)牧師が天に召されました。私は辻岡牧師と直接の面識があったわけではありませんでしたが、命の尊さを守り、その命を通して希望を私たちに知らせる辻岡牧師の働きは、とても大きなものだったのだと改めて感じさせられました。予期しない妊娠で悩み苦しむ女性の方々に寄り添い、未来に希望をもって生きることができるために、約30年にわたってサポートをしてきた団体です。
 
私は、マリアもまたエリサベトというひとりの女性に出会い、そこに聖霊の大きな働きがあって生きる希望を見い出した。まさに、マリアという女性の命が、その胎内に宿された命が起き上がり、再び立ち上がる経験というものをしたのだと受け止めました。
 
実にクリスマス物語は多くの思いを私たちに与えます。クリスマスの出来事は、命の復活の出来事に相通じる。つまり、ご降誕の主であるイエスが、ご復活の主キリストであることを、すでに受胎告知のときから知らされていた。そんなことを言っても大げさではないと私は思うのです。つまり、クリスマスとはイースターへの序章であることを、クリスマスを目前にした今、私は今いちどじっくりと黙想する一日でありたいと願いました。
 
どうか、皆さんの一日もまた、神が与えてくださる希望に心躍るときでありますように。お祈りいたします。

20/12/2022

2022.12.20(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記6章8節
ノアは主の目に適う者であった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章8節
人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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神も悔やまれる方である。
私は、本日の旧約聖書の言葉である、創世記6章を見るたびに、そのように思わされるのです。
 
創世記6章は「地上に人が増え始めたとき」(1節)という書き出しから始まっています。神はアダムとエバから子孫を増やすことをお許しになられました。たとえ、アダムとエバが神に背を向けて、神無しに独立独歩の道を歩もうとしても、神は当初の目的を崩されることはありませんでした。アベルのような神の目に正しいと思われる人物が現れて、そのアベルを兄弟であるカインが殺したとしても、神は人間を造られたことを打ち消すことなく、地上に人が増えゆくことを、お許しになられました。
 
その後の子孫がどのような人生を歩んだか、聖書は「神と共に歩んだ」(5章24節)エノク以外に、その詳細を全く記していません。本日の聖書の言葉に登場するノアまでは。ただ、ノアが生まれたときの環境を「主が土を呪われたゆえの、私たちの手の働きと労苦」(28節)があったことを、聖書は述べています。人間が神無しに歩むことが、いかに呪いと労苦に満ちあふれていたかを物語る言葉です。
 
そのような世界に人が増え始めた時代に、地上の娘たちを自分の者とし、妻とした「神の子たち」がいたことが記されています。神の子たちとは、いわゆる肉体のかたちを持たない神の使いたちのことであり、本来は人間を妻とするようなことがあってはならない存在でした。ここに、神がつくられたシステムが崩れていく姿がありました。
 
システムエラーという言葉があります。まさにそんな感じだったのでしょう。修復可能なエラーであれば、適切に修復されることがありますが、システムが破損して修復不可能ならば、リセットしてイチからやり直す。まさに神のつくられた世界が、修復可能なものなのか、神の手によってもう一度やり直されるのか。そのようななかで、神はこのように考え、決断されました。
 
主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、
地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
主は言われた。「私は、創造した人を地の面から消し去る。人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔やむ。」(6章5~7節)
 
神は自分のしたことを悔やみ、リセットの道を選ばれました。
しかし、神は100%すべてを作り直されることはありませんでした。神の目に適うノアの存在を神は知っていたからです。神は、ご自分のつくられたシステムをすべて破壊されるのではなく、「慰め」という意味の名前が与えられたノアにすべての慰めを託し、機能しない世界でも再生できる慰めがあることを、明らかにされようとしました。
 
それ以降、いわゆる「ノアの洪水」の物語が始まります。
 
ノアの洪水の話を聞かれる方々のなかには、破壊する神に恐怖を抱き、神の人格に疑念を持たれる方が多くおられることに気づかされます。ノアの洪水を引き合いに出して、滅びを強調し、滅ぼされたくなかったら神を信じなさいと迫る教会の歴史があったことを、私たちはよく知っています。それはまるで、呪いを受けたくなかったら献金しなさい、壺や印鑑を買いなさい、そしてリーダーの指示に絶対的に従いなさいと迫る、カルトリーダーと重ね合わさると感じるかもしれません。
 
しかし、私はいわゆる「滅びの危機」を強調する読み方ではなく、あくまで神は全部を破壊されることなく、せめてもの慰めを人間が感じることができるように、ノアを通して取り計らってくださる方なのだということを中心に置いて、この聖書の言葉を受け取りたいと思うのです。これは神にとっても荒療治でした。多くの痛みや苦しみというものをともないながら、洪水を実行されました。神もまた、ノアを通して慰めを得ました。だからこそ、「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。」(8章21節)と、神は心のなかで宣言されました。
 
つまり、人間が「悪い心」を持ち続けなければならないなかで、いかに神が与えてくださる慰めによって生きることができるか。慰めの与え主である神が人間とともに歩む決意をされたのだと、私は受け止めたいのです。
 
人の子が来られるときに、果たして信仰を見い出すことができるのだろうか。
イエスによって語られた言葉です。クリスマスを間近に迎えようとしている今、救い主が来る世界は、それを迎えるにはふさわしいとは言い難い環境がはびこっているのかもしれません。まさに「心に諮るものが常に悪に傾く」世界です。
 
しかし、だからこそ、人々は慰めを必要とし、救いを必要とする。その慰めの主である人の子が、救い主として私たちを慰めるために、この地上にやって来られる。クリスマスとはそういうものなのだと、あと数日にその日を迎えようとしている今、そのことを黙想し続ける者でありたい。そう思わされました。
 
慰めを与えてくださる、信仰の実体である主イエスが私たちのもとに来られるからこそ、私たちは信仰が与えられ、その信仰をもって今日という一日を生きることができます。そこに慰められることを喜びつつ、本日も主が皆さんとともにありますように。お祈りいたします。

19/12/2022

2022.12.19(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書62章2節
あなたは、主の口が定める新しい名で呼ばれる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章17節
誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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新しい。
本日の旧約聖書と新約聖書をつなぐキーワードです。私たちを新しく生まれ変わらせ、新しい名で呼んでくださる方がおられる。それが、私たちの神であり、その神が私たちを新しく生まれ変わらせるために、救い主として与えてくださったイエス・キリストだと言うのです。
 
誰でもキリストにあるなら、あなたは新しくされているのだと、パウロは断言します。これはパウロ自身の人生からも言えることでした。かつてはキリストの迫害者として生きることに正義を見い出していたパウロが、今やキリストによって生かされていることを実感として抱いているからです。古いものは過ぎ去った。そして新しいものが生じたのだと、パウロは書き綴りました。
 
しかし、パウロは決して過去に目を閉ざしているわけではありません。過去の自分自身の姿を痛感しているからこそ、今ある新しくされたという実感を、心から喜ぶことができたのではないか、私はそう思えてならないのです。
 
パウロはしばしば、自分がいかに至らず、よこしまな思いに囲まれ、そういう自分自身の姿に葛藤していたかを、手紙のなかにしたためています。しかしそれは、パウロを取り囲む罪というものに、決して自虐的になっているわけではありません。そういう自分だからこそ、自分ではどうすることもできない古いままの自分を、キリストによって新しくしていただきたい。そして、新しい名で呼ばれることの幸いを味わいたい。いつまでもひと所にとどまることなく、神が導いてくださる新しい人生の道を歩もうとするパウロの姿というものを、私たちは見ることができるのではないでしょうか。
 
健全に過去を振り返り、神が与えてくださる新しい未来に向かって神とともに歩むということは、結果として神の国に向かいつつ歩む神の御心に相通じるのだと。夜の眠りを経て、新しい朝を迎えた者として、そんな思いをもって今日という一日を神とともに歩みたいと願わされました。どうか、皆さんの一日をも新しくしてくださる神が、皆さんとともに豊かにありますように。平安をお祈りいたします。

18/12/2022

2022.12.18(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記4章11節
主はモーセに言われた:
誰が人に口を与えたのか。主なる私ではないか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一2章4節
パウロによる手紙:
私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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誰が人に口を与えたのか。
この言葉に深い感銘を受けた朝を迎えることができました。そのあたりのことを、黙想したいと思いました。
 
今日くじによって選ばれた旧約聖書の言葉は、神がモーセを、同胞であるイスラエル民をエジプトでの奴隷状態から解放するために、民たちのリーダーとしてお立てになられようとした際に、モーセがその重圧ゆえにそれを拒むというやり取りのなかで、神からモーセに発せられました。
 
モーセは、自分は口の重い者である、舌の重い者であると神に告白します。その前には、私がこのことを言ったとて、誰が神の言葉であると信用するでしょうかと、自分自身の不安を打ち明けました。
 
私は、とても面白いと思ったのです。モーセはエジプト王女の子どもとして育てられたわけですから、リーダーとしての素養というものを十分に兼ね備えながら、これまで生きていたことは十分に想像できますし、そのような環境のもとで、自分はヘブライ人であるという自覚がありましたから、同胞がエジプト人から悪しざまに扱われるのを知ったときに、そのエジプト人を殺害してしまうほど、同胞を思う気持ち、そして同胞を守ろうとする正義のようなものを十分に持っていたはずなのです。
 
にもかかわらず、彼は神からイスラエルのリーダーとして立てられた時に、それを拒むのでした。もしかしたら、モーセは先に述べたエジプト人殺害事件のことで、同胞を守ったつもりがかえって同胞から責めを受け、エジプト王からも殺されそうにもなった。そして逃亡するなかで、自分はそんなことをする資格がないと思ってしまったのかもしれません。
 
私自身のことを振り返させられました。牧師という職について17年が経とうとしていますが、これまで何度も何度も、いわゆる失敗というものを繰り返してきた私というものがあります。自他ともに認める失敗はもとより、良かれと思ってしたことが、かえって裏目に出てしまったということなど、数えきれないほどあります。そのたびに、自分自身に与えられている立場について考えさせられました。牧師をする資格など無いのではないだろうか。いつまでも責めを負い続けなければならないこの環境に居続けるのが、本当に耐えられないと何度思ったことでしょうか。赦しの無い世界のなかで、神は私をどのように扱われるのだろうか、牧師にふさわしくないのならば、その首を切ってくださいと神に何度も問い尋ねました。
 
単なるこじつけに過ぎないかもしれませんが、モーセと自分自身を重ね合わせてしまいます。私はモーセほどの知性も教育も正義も持ち合わせていませんが、モーセが神によって召し出されたときに「私は口の重い者、舌の重い者」と告白した気持ちが、手に取るようにわかるような気がします。
 
しかし、神はそんなモーセに、誰が人に口を与えたのか、この私ではないかと返答されます。人間の力で言葉をつむぎ、リーダーシップを取るわけではないのだ。ただ、神の言葉と知恵、力によってのみ、民たちを導くことができるのだと、神はモーセに伝えられました。モーセに求められるのは、言葉を与えてくださる神を信頼して、その言葉を己が力でゆがめることなく、その本質をとらえて歩むことのみでした。たとえ、実際に口べただったとしても、神はモーセを助けるために、アロンという雄弁な人物をモーセとともに働く者として与えられました。こうして、神が私たちの先頭に立って歩んでくださることをモーセに約束されたのでした。
 
私は自分自身を顧みては、いつも思わされることがあります。私に与えられた資格をあれこれ問う前に、まず私自身が神の言葉の前に謙遜な思いで立たされているだろうか、神の言葉に心から聴く態度、その本質をとらえてそれを自分自身の生き方としているだろうか。もし、独善的な態度をもって神の言葉を利用しているならば、それを気づかせ、教え諭してくださる神を心から信頼しているだろうか。そして、本当に資格のない者であると神がお認めになるのであれば、神はそのことを私に気づかせてくださるという思いをもって、神のなさることに心から信頼して歩みたい。そして、行く道も行く道も、私の手をとって導いてくださる神を私の神としたいと。
 
おそらく、今日の新約聖書の言葉にある使徒パウロも、モーセと同じ思いで宣教の道を神とともに働き、歩んだに違いないと改めて思わされます。アドヴェント最後の日曜日、今日も神のなさる素晴らしさが聖書の言葉を通して語られるときに、その幸いを私たち一人ひとりが受け取れることをお祈りいたします。どうぞ素敵な主の日をお過ごしくださいますように。

17/12/2022

2022.12.17(土) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編66編8~9節
もろもろの民よ、我らの神をたたえ
賛美の歌声を響かせよ。
神は私たちに命をお与えになる。
私たちの足をよろめかすことはない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ユダの手紙24~25節
あなたがたを守ってつまずかない者とし、傷のない者として、喜びの内に栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が、世の始まる前と同じく、今も、また世々限りなくありますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
本日の旧約・新約聖書に共通するのは「よろめき、つまずくことのないように、神が私たちをそのようにしてくださる」という、保証の言葉です。
 
よろめかない、つまずかないという言葉を目の前にして、私は本当にそのようになったら、どれだけ生き方が楽になることかと思わされます。なぜならば、そうでない自分自身の現実があるからです。ちょっとしたことでよろめき、ごく些細なことでつまずく私がいる。そして、そのことでほとほと嫌気がさすことがしばしばあるからです。
 
私たちは、自分自身がよろめかないために、何をすることができるのでしょうか。世の中で広く受け入れられているのは、体幹をトレーニングしたり、足腰を強くすることでよろめきに対応できるような体力をつくることでしょう。それと同様に、メンタルを強くするための鍛錬のようなものが広く勧められていますし、そのための書籍や雑誌の特集などを、私たちはいくらでも目にすることができるかもしれません。
 
そのようななかで、本日の聖書の言葉が告げているのは、私たちの足がよろめかないようにするのは誰かということです。私たちがよろめかないようにあれこれ鍛錬や努力をした結果、しっかりと立つことができるという以前に、その前提として、神御自身が私たちがしっかりと立てるようにしてくださるということが、詩編の言葉にも、ユダの手紙の言葉にもしたためられているのです。
 
つまり、神が私たちひとりひとりを立たせてくださり、よろめいたりつまずいたりすることがないように、ご自分の言葉と助けをもって、私たちを守ってくださるというこの約束を、私たちがいかに自分自身のうちにしみ込ませながら、自分の体幹とすることができるか。そんなことを私は改めて思わされました。
 
神は、私たちがちょっとしたことでよろめき、そしてつまずいてしまう存在であることを、昔から十分にご存知です。私たちは独り立ちできるのだと豪語しながら、あれこれ試行錯誤してきた歴史があります。そのたびに神にいろいろなことを気づかされながら、今日まで歩んできた日々の蓄積があります。しかし、その蓄積があっても同じ失敗を繰り返す私たちがあることを思います。もう同じことは繰り返すまいと痛感してもです。時が過ぎれば忘れてしまう、そんな存在なのだと。私は自分自身を振り返ってはそう思ってしまいます。
 
だからこそ、私には支えが必要なんだということを、日々神に祈るなかで、ひと言でもいい、聖書の言葉に耳と心を傾けるときに、リセットして歩むことがまた許されている。たとえ昨日つまずいたとしても、今日再び立ち続けることが許されているのだということに、今日という一日を生きる土台としたいと願わされました。
 
こうして続けられる一週間も今日で終わり、明日からまた新しい一週間がやって来る。いよいよクリスマスを迎える一週間となることを楽しみにしつつ、その備えとしての今日を楽しみたいと思います。どうぞ皆さんの新しい一日にも、神様の守りと平安が豊かにありますように。お祈りいたします。

16/12/2022

2022.12.16(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編139編1~2節
主よ、あなたは私を調べ
私を知っておられる。
あなたは座るのも立つのも知り
遠くから私の思いを理解される。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録17章28節
私たちは神の中に生き、動き、存在しています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
神は私を知っておられる。
本日は、この詩編の言葉に注目して、黙想してみたいと思います。
 
私はこの言葉を、どんなに他者が私のことを理解してくれなかったとしても、私が神とともにあるならば、神は私の今ある姿をすべて理解された上で、私に適切な道を与えてくださるのだというふうに受け止めました。
 
つまり、ここで言う「知る」とは「理解する」に通じる言葉なのですが、それは、私のあるがままの姿をあるがままに理解し、それを是認してくださるというよりも、どうすれば私自身がこの世界で、神とともに生きる幸いというものを得ることができるか。その道を知っておられる、これから営もうとする私の生き方というものを理解されておられる、というように受け止めました。
 
誰かに理解されないということに、苦しさを覚えたことはないでしょうか。私はたくさんあります。誤解されて、まったく予期しない方向に物事が進むときに、こんなに苦しいことはないのです。誤解される方も悪いと言われれば、そういう一面もあるでしょう。私も100%正しいことをしているなどという根拠はどこにもないからです。しかし、それを差っ引いても、理解されないということのつらさというものは、決してぬぐい去られることのない事実なのです。
 
これが、神が私に期待しておられることと、世の中が期待していることとの間にズレがあるときに、神の御心を尋ね求めた結果、この世界では決して受け入れられることのない選択をした場合、理解されないという現実に直面します。時には自分自身の選択が間違っていたのだろうかと思い悩むこともあるし、本当に間違っているのかもしれない。しかし、これが神の御心であると信じてその道を選び取ったわけですから、そこに神の助けがあることを信じたいのです。
 
そんな時に、神が私のことを知っておられる、理解してくださっているという聖書の言葉は、私自身のありかたを正当化するためのものではないと、私は受け止めたいのです。神の御心と信じていたとしても、それがベストではない。神は、私が神の御心と信じて選択したことを理解してくださりながらも、神がベストと思われる道を、新たに私に提示してくださり、その道をともに歩んでくださる、歩ませてくださるのだと、私は受け止めたいのです。
 
神の中に生き、動き、存在しているという、本日の新約聖書の言葉は、神とともに生きようとする自分自身のありようを絶対化することから離れられるひと言だと思いました。神の世界のなかで私たちが生きているのだという感覚は、私のことをすべて理解してくださった上で、時には教え、戒め、生きる道というものを示してくださるというところにまで及ぶのだと信じて、私自身を客観化しながら、絶対他者である神に理解されることへの平安を得ながら、今日という一日を歩みたいのです。
 
そのために、神の言葉が与えられていること、聖霊なる神の助けがあることに感謝しつつ、皆さんの一日にも、神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。

15/12/2022

2022.12.15(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編133編1,3節
見よ。
兄弟が共に住むことは
何という幸せ、何という麗しさ。
主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章4~5節
一つの体の中に多くの部分があっても、みな同じ働きをしているわけではありません。それと同じように、私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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キリストにあってひとつであること。
本日私たちに与えられた、新約聖書の言葉から黙想を深めてみたいと思いました。
 
キリストによって集められ、私たちは一つのキリストの体とさせられているのだ。使徒パウロが再三、手紙にそのことを綴っています。いわゆる「キリストにある一致」が、私たちにはあるというのです。
 
しかし、私たちはよくよく考えなければなりません。一致とはなにか、ということをです。
 
私たちはしばしば一致の意味を取り違えることがあるかもしれません。それは、なにか同じことを一緒にやっていれば、私たちはあたかも一致しているかのように思い込んでしまうからです。その最たるものが軍隊であると言えるでしょう。同じ時刻に起床し、整列し、行進をし、同じ軍事訓練を受け、判を押したように同じ言動をするように求められる場には、美しい統制を見ることができるかもしれません。ああ、自他ともに、一致しているのだと。
 
しかし、キリストにある一致とは、そのようなものとは違います。みな同じ働きをしているわけではありません。そのようにパウロは、キリストの体について説明します。それぞれに神が与えてくださった特性や使命があるということを、私たちは何よりも大切にすることこそ、キリストにある一致のために絶対不可欠なものなのです。
 
では、何によって一致させられているのか。私たちの救い主であるイエスがキリストとされるところにこそ、私たちはキリストの体とされているという事実があります。それは、イエスの全生涯を通して示された、イエスを私たちに与えてくださった神の愛に根差した生き方、そしてイエスが十字架と復活の出来事を通して示された神の愛の神髄と救い主であることの真実、そしてそのことを私たちに知らせてくださる聖霊のお働きを、私たちが受け取り続けていくことに表れる、キリストの体の一部とさせられているという、深いところからくる感覚。
 
たとえ、様式や行動を同一化したとしても、それは一致ではなく一致のように見える何かに過ぎません。キリストという御方が私たちを集めてくださるがゆえに、私たちがキリストの発せられる声に耳と心を傾けることのできる環境には、すでにキリストにある一致があるのだと。私はそう受け止めたいのです。そこには誰かが何らかの強制力をともなって指図したりする必要は全くないことを、私は信じ、受け取りたいのです。
 
とはいえ、私たちは見えるかたちをもって、一致を表現したほうがやはり分かりやすく、それを具現化しようとするのが私たちの現実なのだと思います。だからこそ、見える形での教会が存在し、そこでいろいろな営みがなされていくことを私たちは決して否定はできません。人と人とが顔を合わせて、交流し、同じところから生きるための力を得、同じところへ協力しながら進んでいく。こうして教会の営みは現在まで脈々と受け継がれていることも事実です。
 
だからこそ、兄弟同士がともに座っていることが何という喜びなのだと賛美した、あの詩編の言葉が、どういうところから起きるものなのかを、私たちはキリストの体とさせられているのだという思いを大切に温めながら、目に見える教会の営みを共に歩んでいきたいと願わされました。外目の美しさではなく、内面から輝くようなキリストの体を、御言葉に聴きながら体感していきたいと。それは、直接私たちが集まらなくても、今、この場でキリストの体とさせられていることへの喜びへ導かれるのだということを心から望みつつです。
 
皆さんの一日に、主の守りと祝福がありますように。お祈りいたします。

14/12/2022

2022.12.14(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書2章15節
多くの国民が主に連なり
私の民となる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録7章9節
ヨハネによる黙示:
私は数えきれぬほどの大群衆を見た。彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、玉座と小羊の前に立っていた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
本日私たちに与えられた聖書の言葉は、神があらゆる国籍・部族や民族・言葉の違う民をご自分のもとに集められて、ご自分の民としてくださるということを、私たちに知らせています。神がその御心としてくださる御国の完成は、きっとこのようなものなのだろうという希望を、私たちに与えています。
 
私は「言葉の違う民」というひと言に注目して、黙想したいと思いました。ここで言う「言葉の違い」とは何だろうか。それは、ただ単に日本語だとか英語だとか、文字通りの言語の違いもさることながら、円滑なコミュニケーションがとれない状態のあるところには、すべて「言葉の違いがある」と私は受け止めました。
 
なかなか自分の思いが伝わらない。人と人との心が通い合わず、円滑な関係が築けないとき、私はしばしば「言語が通じない」という言葉を使うことがあります。それが思想信条の違い、傾向や目指すところの違いがあれば、私たちは相互理解がなかなかできず、苦労することがあります。ましてや福音を自分の生き方としようと思えば思うほど、価値観の違いというものが明確になる場合がありますし、互いに福音を受け入れていたとしても、微妙な向きの違いというもので、それが分裂の種になることだってあることを、私たちはよく知っていると思うのです。
 
本日の新約聖書の言葉は、あらゆる違いをもった人たちが神のもとに集められる様が描かれています。ここで共通するのは、どんな違いがあったとしても「神のもとに集められている」という事実があるということです。たとえ違いがあっても、それが分裂や分断の原因にはならないということです。神のもとに集められ、王の座す玉座の前に、そして救い主イエスの前に立っているということで、神の民とさせられている事実があるということを、ヨハネは神から示された黙示として、人々に語っています。
 
主の前に立つということは、主と向き合っているという関係性を示していると私は受け止めました。向き合うことで、主に連なっているという感覚が私たちのあいだで芽生えるときに、たとえ微妙な違いがあったとしても「つながれていることの感覚」を、私たちは抱くことができるのではないだろうか。そう願いたいのです。
 
私たちは自分たちの力でひとつとなろうとします。違いを解消しようと努力し、また苦労することもあります。すがたかたち、そして様式を統一し、一斉にそのことをおこなえば、いかにも統制が取れているようにも見えます。しかし、そのような「集団行動」が、神が集められる民たちの姿なのだろうか。私はそう思うのです。
 
結局のところ、私たちは神が集め、神が私たちをご自分の民としてくださっているということでしか、私たちはひとつとなることができないと私は思うのです。私たちがどんなに頑張っても、違いを分断の種でしか見ることができないのだと思います。人間の力ではどう頑張っても一致することができないとするならば、私たちをひとつとしてくださる神を信じるほか、私たちは集められることもなければ、連なることもできないのだと自覚したいのです。
 
違いを超えることができず、自我を主張することに躍起になってしまう自分自身があります。それが神に対する熱心ゆえのことであればなおのことです。そのことをすべてご存知である私たちの神が、ご自分の力をもって私たちの意識うんぬんにかかわらず、私たちをひとつとしてくださることに希望をもって、今日という一日を歩みたいと願わされました。
 
どうかこの世界を神の力でひとつとしてくださいますようにと祈りつつ、私たち一人ひとりの生活に、神の守りが豊かにありますように。お祈りいたします。

13/12/2022

2022.12.13(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記6章16節
あなたがたの神、主を試してはならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙6章7節
思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
主を試してはならないという本日の旧約聖書・申命記の言葉に、ぎょっとした思いにさせられたというのが、私の正直な感想です。「試す」とは何だろうか。あらためてじっくりと考えてみたいと思ったのです。
 
試すと訳されているヘブライ語は「ナーサー(נָסָה)」です。そのほとんどが「試す」という日本語に訳されているわけですが、そのほとんどが、神がご自分の民の心にあるものを確かめるために、試すという方法を用いられました。ただ、1か所だけまったく逆の用法で「試す」という言葉が用いられているのが、本日の申命記6章16節の言葉です。ローズンゲンに示されているのは、16節の後半部分ですが、全文は以下の通りです。
 
申命記6章16節
あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない。
 
あなたがたがマサで試したように。
ここに至るまでの神と出エジプトの民たちとのあいだに起きた出来事は、いかに神がご自分の選ばれたイスラエルの民たちを、御心をこめて守り続けてきたかということの連続でした。マラで苦い水に不平を呈したときも、神はその水を甘くして飲めるようにされ、肉やパンを食べたいと不満をこぼせば、マナを降らせてうずらを天から与えられたのも神の御心によるものでした。
 
しかし、彼らは神を試しました。何度も神は彼らの危機や不満を聞き続け、彼らのために働いた。しかし、それを忘れたかのように民たちは、神のなさることを信頼せずにまたもや不満をぶちまけたのでした。ここで言う「試す」とは、神のなさることに信頼がなかなか置けない状態からくる、人々の不満・疑い・甘えの気持ちから起きてくるものなのだと私は受け止めました。
 
そう考えれば、私もしょっちゅう神を試しているのではないだろうか。自分の目の前にあるさまざまな不安にとらわれて、そのことで思いと心がいっぱいになって、神のなさることに委ねたり、信頼したりする気持ちがついつい抜け落ちてしまう自分自身を発見できるのです。これまで神が私に対して示され続けてきた助けの数々を、指折り数えることなく。。。
 
そんな舌の根も乾かぬうちに、神のなさることに信頼を置くことができない自分自身にも、神は愛想をつかすことなく、今日も私とともに生きて、必要な糧を与え、私のことを信頼のまなざしで試し続けてくださるのだと。神が私たちを試すことと、私が神を試すことは、同じ文字が使われていたとしても、その中身が全然違うものであることをしみじみ思わされるのです。
 
神は侮られるような方ではありません。
使徒パウロは、こうして神の真実を私たちに伝えています。神を侮る私にも、神はご自分の誠実をもって接してくださるのだと。その信頼の実を自分自身が刈り取ることができるように、今日も神がなさることに信頼をもって歩みたいと願わされました。
 
私たちの一日が、そのような神が与えてくださる信頼に応答できる経験となりますように。主の平安と祝福を、心よりお祈りします。

12/12/2022

2022.12.12(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編31編17節
僕(しもべ)の上に御顔を輝かせ
慈しみによって私を救ってください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章8節
あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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おとといの夜のことでした。礼拝説教準備をしている妻の邪魔をしないように、そして出張で数日間まともなウォーキングができませんでしたので、街中で行われている「SENDAI光のページェント」を観に行ってきました。この時期、仙台の街の風物詩として多くの人を魅了させるイベントです。定禅寺通りのけやき並木に、見事なまでにイルミネーションが飾られていました。たとえクリスマスが何であるか知らなかったとしても、道行く人たちに感動を与える、とても素敵な企画だと思いました。
 
主のご降誕をいかに表現できるか。そんな先人たちの思いが、クリスマスイルミネーションというものを生み出したと言われています。そもそもイルミネーションの起こりは16世紀までさかのぼるわけですが、宗教改革者であるマルティン・ルターが森の中を歩いていたときに、夜空に輝く星に感動を覚えて、それを再現するために木にろうそくの光を飾ったところから始まったと言われています。暗闇に輝く光を再現したいほどに、それは美しく、ルターの心を魅了させたものだったのだろうと思うのです。
 
今日、私たちのために選ばれた聖書の言葉は、そのような暗闇に、人々の心を癒し、魅了させる光が注がれることで、私たちの誰でも暗闇の先に輝く光の世界を歩むことができるのだということを知らせるものなのだと、私はあらためて受け止めることができました。
 
では、私のうちにある「闇の部分」とは一体何なのかということを、今あらためてじっくりと考えさせられます。私にも多くの「闇の部分」が存在しています。しかし、その闇の部分を見たくない、触れたくもないと思うがゆえに、そこに蓋をして、まるで何事もなかったかのようにやり過ごすことが、私の日常のなかにもたくさんあることを思わされるのです。
 
しかし、そのような闇の隠しかたをすれば、闇の部分が余計に暗闇に葬り去られるような気がしてならないのです。闇の部分をもすべてご存知である神に、私のすべてをさらけ出すことによって、神の御顔から輝く光によって、自分自身が闇の部分をいつまでも抱え込むのではなく、神に委ねることの大切さを黙想させられます。
 
私たちが神の放ってくださる光のうちを歩むことができるように、いつも生きて働いておられる。そんな神に今日も守られていることに感謝しつつ、一日を歩みたい。そう願わされました。どうか皆さんの一日も、神が敷いてくださった光の道によって、心癒されるときでありますように。お祈りいたします。

11/12/2022

2022.12.11(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言5章21節
人の道は主の目の正面にある。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章38節
マリアは言った。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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最後にローズンゲン黙想をしたのは11月25日、ケルンのホテルの部屋からブログに掲載しました。その翌朝に日本から連絡があって急きょ帰国、それからあわただしく、また心騒ぐ2週間の日々があっという間に過ぎていきました。このたびのことで、私や周囲のために祈ってくださった皆様へ、心から感謝いたします。まだいくつかの懸案が残されていますが、主なる神が道を開いてくださることを信じて、一日一日を歩んでまいりたいと思います。与えられた神の御言葉を、皆さんと共に聞くことのできる幸いに、心から感謝いたします。
 
さて、今朝も6時に起きて黙想のときをいただいているのですが、起きる直前に観た夢のことが気になっていました。どのような夢かと言いますと、私が山手線と埼京線が並ぶ線路を一人歩いていますと、向こうから埼京線の電車がやってきます。私は来る電車の隣の線路を歩いていると思ったのですが、なんと電車が来る線路の上を歩いていたのです。電車の警笛が鳴るなかで、もはや避けることはできません。もう命の終わりだ!そう思いながらも、私は線路の中央にさっとうつぶせになって、車輪と車輪のあいだを電車が潜り抜けていきました。電車が急停車し、私も手を挙げて「生きてます!」と叫び、電車は安全確認をして再発車した。その光景を周りが見て「生きてて良かったね」と励ましてくれた。そんな内容の夢でした。
 
なんとも不思議な夢でした。あの夢は何を意味していたのだろうかと思いながら、今日の御言葉を開きました。私は思わず「これだっ!」と思ったのです。「人の道は主なる神によって開かれている」。聖書協会共同訳には「正面にある」と訳されていますが、ドイツ語原文では「道は開かれている」と訳すことのできる言葉が用いられていました。確かに、主なる神が正面におられて、開かれない道があるはずがない。その通りだと思わされました。
 
どんなに危機一髪な出来事、命が奪われるかもしれないと思うことがあったとしても、命の道を神は必ず備えてくださるのだ。私が観た夢に登場した線路とは、そのような人生の旅路を意味していたのだろうと思ったのです。電車という轢かれたら一巻の終わりと思える出来事に遭遇したとしても、助けの道が備えられる。それを備えてくださるのは他でもない神なのだと思わされたのです。夢解きの鍵が御言葉にあったとはと、とても気持ちの良い思いにさせられました。
 
そう考えますと、今日の新約聖書の言葉もまた、神がすべての道を備えてくださるからこそ、死刑に処されるかもしれない多大なリスクの中で、神の言葉通りに生きる決意をした少女マリアの姿をみることのできる一文です。結果、マリアは何ひとつ危害が加えられることがありませんでした。それどころか、救い主イエスの母として、救い主の生涯を目の当たりにし、彼に仕えることのできた生涯を送ることができた。そのようなマリアの人生を与えてくださった神が、私たちの今日も守ってくださる。そんなことを胸にして、今日の一日をも歩んでまいりたいと願わされました。
 
今日、世界中の教会や集会で行われる主の日の礼拝の一切に、そして皆さんの一切に、神様の守りと祝福を、心からお祈りいたします。