29/04/2024

2024.4.29(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
哀歌1章18節
主は正しい。私は主の口に逆らった。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書21章28~29節
ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
その時は気付かない。後になって分かることがある。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して、私のなかに思い浮かんだ言葉です。
 
今日の新約聖書に描かれた物語はイエスによって語られたものですが、父親がふたりの息子のそれぞれにぶどう園で働くよう命令をしたという話です。兄は最初は拒んだが思い直してぶどう園で働いた。弟は行きますと言ったものの結局行くことを拒んだ。さて、父親の望み通りにしたのは誰か。人々は兄のほうですと答えました。
 
最初は父の言葉に逆らったとしても、思い直して向かったところにこそ祝福があったことを、兄はのちのち気づかされることになります。それは、人々から「罪人」とみなされて社会から除外されていた徴税人や娼婦たちに代表される人たちが、神から大きな祝福を受けて神の国に入れられるのだと、イエスはなぞらえて語られました。その逆もしかりです。
 
私たちは納得したうえで言うことに従うという行動に出るのがほとんどです。しかし、納得をする過程において、それが科学的数理的に確かなエビデンスを与えるから納得するのでしょうか。少なくともその時点では不確かな部分を残しながらも、私たちは判断をして決断をしなけれなならない時もあると思うのです。
 
今日の物語のなかで、兄は「考え直した」とイエスは語られました。私はこの「考え直す」という行為にこそ、父の言葉によって自分の価値観というものを変えさせられた兄があったのではないかと思います。考え直す、思い直す。これはキリスト教でしばしば用いられてきた「悔い改め」という言葉に相通じるものだと私は考えます。
 
悔い改めというのは、神の御前にあってただただ懺悔をするようなイメージというものを私たちは抱くかもしれませんし、それは間違いないことです。しかし、それ「だけ」ではありません。その後こそが大切なのです。神の御前に自分自身をさらけ出したときに、思い直し考え直すことが、悔い改めの真骨頂なのだと思えてならないのです。そういう意味で、考え直した兄はぶどう園へ出かけ、イエスの時代罪人とされた人たちは、イエスによって新しい人生というものを歩み出すことができた。そして祝されている自分自身を、のちのち確認することができたのではないかと思うのです。
 
後になって気づかされる神からの祝福のために、今の私に何ができるだろうか。神の前に卑屈になる必要はないし、許しを得られない世間を目の前にして沈み続ける必要もありません。神が私たちに再生の道を与えるために、私たちに「考え直す」道を与えてくださっている。そこに希望を見い出しつつ、新しく与えられた日々を歩むものでありたいと心から願います。皆さんの一日に、主が与えてくださる平和がともにありますように。お祈りします。

28/04/2024

2024.4.28(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編86編11節
私の思いを一つにしあなたの名を畏れる者にしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章9~11節
神はキリストを高く上げ
あらゆる名にまさる名を
お与えになりました。
それは、イエスの御名によって
天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが
膝をかがめ
すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して
父なる神が崇められるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間を迎えました。世界中で行われる主の日の祝祭を通して、私たちの神が私たちに祝福を与えてくださることを。心から感じ取れるひと時でありますように。皆さんの関わる一日、そして教会・集会のために祈ります。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句、特に旧約聖書・詩編における、イスラエルの王ダビデの祈りに込められた歌には、「私の思いを一つにしてください」という、ダビデの懇願が込められています。その後の詩に触れれば、それは神を畏れ敬う思いを一つにしてくださいということが分かります。何にもブレることなく、ただ神を敬う思いにおいて、私の思いを一つにしてくださいと祈ったのです。
 
私は、ダビデの願いに込められた思いというものに黙想しました。どうしてダビデはこのような祈りを神に向けたのだろうか。ただ神に向かって専心している自分自身を。祈りを通して確かめたかったからなのか。いや、逆だろうと私は思うのです。神に自分の思いを集中させたくても、そうできない自分自身、あちこちに関心が集中してしまい、神を見つめることのできない自分自身を痛感していたからこそ、神に変えていただけるようにダビデは祈った。そういう風に受け止めたいと思いました。
 
思い悩めば悩むほど、物事に集中できない。礼拝に出席しても、御言葉や祈り、賛美に触れたとしても、どこか心があちらの方を向いている。私自身がそんなことを自分でもあきれるくらいに経験していることを想い起こします。まさに「思いを一つにできない」自分自身がそこにあるのだと。
 
だからこそ、今日も神を畏れ敬う思いで自分自身を満たしていきたい。満たされたい。そんな思いをもって礼拝に臨みたいと思います。今日の新約聖書は、フィリピにある教会に手紙を書き送ったパウロの信仰告白の言葉です。「イエス・キリストは主である」。ギリシア語では「キュリオス・イエスース・クリストス」と大文字で強調されています。イエスこそ、私たちの命を祝され、救われるキリスト、私たちの主です。私たちが誰でも、神に畏敬の念をもって生きることの幸いを味わうことができるように、今日も私たちのキリストでいてくださいます!

27/04/2024

2024.4.27(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書2章35節
「私には罪がない」とか「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。
「私は罪を犯していない」と言ったために
今、私はあなたに裁きをもたらす。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書23章42節
イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
イエスとともに十字架につけられた重罪人が、イエスに向かって語ったひと言が、今日のローズンゲンに示された新約聖書の言葉です。
 
イエスの両脇で十字架につけられたふたりの重罪人。そのうちのひとりが、イエスをののしりながら自分を十字架から解放してみせろと言いました。しかし、もう片方の男はそれをたしなめながら、自分が罪人であることを認めながら、イエスのどこに罪をみいだすことができるだろうかと告げました。そののち、イエスに向かって語った言葉が、今日のローズンゲン(新約)の言葉です。
 
あなたが御国に行くときに、私を思い出してください。この「思い出す」という言葉に込められた男の思いに、私は自分の思いを寄せたいと思いました。自分がいかに神の御前において傲慢であったか。自分が神になったかのように振る舞いながら人に接してきたか。神の御前に自分の正しさばかりを主張してきたか。私は悪くないと自己弁護ばかり繰り返してきたか。そんなことが次々と思い出されるとき、そんな私を罪の全く無い御方の前で「私を思い出してください」と告白した。この男の思いこそ、今日の御言葉から聴きたいメッセージだったのだと痛感させられました。
 
人は感情だけに左右されると、今あることだけに集中して周囲に対する視野というものが一気に狭まり、物事を総合的にとらえることが本当に難しくなります。特に、怒りの渦中にある時には、自分の正義だけが際立ってしまいます。そして思うのです。「私には罪がない」と。私は悪くないのだと。
 
もちろん、私は悪くないのだと思うことで、気持ちが随分楽になるということがあります。しかし、そのような思いに導かれるとするならば、そのように私の心のうちに思いを起こさせてくださるのは神御自身であり、イエスが私たちに宣言されることによってのみ成り立つのではないかと思えてならないのです。
 
だからこそ、私たちは自分がとうてい正しいなんて思えないという余地というものを、心のうちにいつも抱えながら、イエスの御前にあって今日の重罪人のように「私を思い出してください」と告白できるような一日を過ごしたい。そのように思わされました。
 
一週間の最終日を迎えました。皆さんの生きる道を導いてくださる神が、皆さんに守りと平安を与えてくださいますように。祈ります。

26/04/2024

2024.4.26(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
コヘレトの言葉12章13節
神を畏れ、その戒めを守れ。
これこそ人間のすべてである。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書12章29~31節
イエスはお答えになった。「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマ、それは「神の戒め(ご命令)」です。神は人間にご自分の「愛」というものを、私たちが想像できないくらいに注いでおられる。これは、聖書全体を通して語られている最大のメッセージと言えますが、その愛がいったい何なのか、結局のところ何なのか。私たちはそれを理解することができない。理解していると思っていても、それが本当に神の愛なのだろうかと、私は改めて考えたいと思いました。そして、ことあるごとに思い違いをしている自分自身というものに、あらためて気づかされます。
 
旧約聖書・コヘレト(知恵者)ですら、「人間のすべて」と言わしめてしまうほどに、私たちの姿を包含するのは、神に畏敬の念をもって、神のご命令を守りなさいというものです。しかし、それを文字づらだけでとらえようとしても、私たちはそれをするだけの根拠というものを自分のものとしなければ、心から神を敬い、また敬うほどに畏れることなどできないだろうし、神が告げられたご命令など、守ることができないのだと思います。「言わされている感、させられている感」が、自分自身のうちを支配してしまうのです。
 
本来ならば、心から、自発的に、自分の判断と決断によって、神のご命令に従うことができれば、こんなにも気持ちの良いことはないでしょう。しかし、私たちのうちにある自我というものがそうはさせない、それを拒んでしまうのです。そして、自分なりに守りやすいようにアレンジメントした結果、とても自分本位で、自分の都合だけにフィットした物事をなすことで、神のご命令に従っている「ふう」な自分自身に満足してしまう。そんなことを私自身の日常から思わされてしまうのです。
 
イエスは、最大の神の戒めとは、神を愛し隣人を愛することに尽きると言われました。つまり、愛の実践であると。キリスト教が愛の宗教と言われるゆえんがここにあります。しかし、今日の聖書の言葉を通して、私自身考えさせられるのは、私は神の愛というものを本当に理解しているのだろうか。神が、そしてイエスが人間に示された愛を、自分なりのコーディネイトをあしらえて、自我の愛に貶めてはいないだろうか。そんなことを自省とともに感じさせられたのです。
 
人の愛は人を裏切る。人に嫉妬し、人と比較しては自分を優位に立たせようとする。だから、愛という言葉そのものに重みが感じられなくなる。だからこそ、神がご自分の愛をどのように私たちに示されているかを、丹念に、丹念に聴き取り、それを自分自身の「生」にすることの覚悟をもって、今日という一日を歩みたい。たとえ、それが自分自身のうちに成せなくてもです。むしろ、成せない自分自身を認めることで、神の示される愛を目の前にして、それに圧倒されるからこそ、おそれ敬う思いへと導かれたい。そんなことを、今日の聖句から黙想しました。
 
神の愛を自分のものとする営みは、御国が訪れるその時まで続くテーマだと私は思います。そして、そのために今日という一日があるのだと。皆さんの一日にも、神の示される愛が、すべての浸みわたりますように。お祈りします。

25/04/2024

2024.4.25(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編3編9節
救いは主のもの。
あなたの民の上に祝福を。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書24章50節
イエスは、彼らを手を上げて祝福された。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、極めてシンプルなものです。神は私たちを祝福される。これが神が私たちを生かされるにあたっての第一の務めであると、私は信じ続けています。
 
私がかつて務めていた教会で、あるメンバーの方がいつもおっしゃっていたことを思い出します。「牧師が幸せならば、信徒も幸せになれる」と。もちろん、この方の言葉には注意深い解釈を必要としますが、それでも、この言葉を通して、いつも私自身というものが神との関係において問われているのだと、実感させられます。
 
もちろん、牧師であろうと信徒であろうと同じ人間であり、キリストのもとにある信仰者に各段違いがある訳ではありませんので、幸いな時があれば塞ぎたくなることだって普通にあります。笑いたい時もあれば、本当に怒りたくなるときだってある。ただ、神から与えられた御言葉と聖霊の助けをもって、神が与えてくださる祝福を、ただただ伝え続け、自分自身の希望とし、生き方の源とするために、神と人に仕え、働くのが牧師に与えられた本分であるのだと。
 
ならばどうなのか。自分自身が自分のことを棚に上げても、そう思えないことがあっても、神による祝福を伝え続けるのか。そうです。伝えつつ、自分もそうでありたい。神からの祝福をいただき続けたい。そう心から願いつつ、今日という一日を希望のうちに生きる。心が塞いだままであっても、神による祝福までも跳ね除けてしまうくらい自分の心が塞いでいるならば、その扉を神に開けていただこうではないか!そして、自分自身が祝福されているのだということを、心の底から喜びたい。そして、喜べたときに、また一歩歩むことができるのだと、そんなことを私の生き方とすることができたときに、そこには大きな幸いを実感することができるのだと。
 
そんなことを繰り返し経験してきて、今の自分自身があることを思わされますし、今日も神から祝福されていることが、生きる源であることを喜べる一日でありたいと心から願い、そして祈りながら、神に人に接するときでありたいとあらためて思わされました。人の喜びのためにカラ元気を装うのではなく、喜んでいる風なふりをするのでもなく、正直に、しかし希望をもって歩む一日でありますように。そのために、主よ。ともにいてくださるあなたが、祝福を私に、私たちに見せ、与え、感じさせてください。希望の礎としてください。
アーメン。

24/04/2024

2024.4.24(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書54章4節
恐れるな、あなたが恥じ入ることはない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書28章5~6節
天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が黙想したいと思ったことは、「私の恥」というものについてです。旧約聖書・イザヤ書の一節に「あなたが恥じ入ることはない」と書かれています。では、その恥とはいったい何だろうか。そのように思わされたのです。
 
まず、イザヤ書54書の冒頭には、子を授からなかった、もしくは夫に見捨てられた女性に対して、そのことを「屈辱」としています。私は、不妊や強制的な離縁という出来事そのものというよりは、そのような出来事を通して、社会がそれら女性たちに対してどのような扱いをしたかということのほうが、注目するべきなのではないかと考えています。
 
つまり、公私の別なく、そのような境遇にあった当事者が生きにくくさせてしまうような扱いを、無自覚につくりあげてしまう社会は、結果としてその方に屈辱を与えることになってしまう。仕打ちを食らわせることで、当事者に恥を与えてしまうような状況というものを負わせてしまう。私は、そのように受け止めました。
 
しかし、恥や屈辱というものはいつまでも残るものではない。そこにしがみつく理由はどこにもないというのが、今日の聖書の言葉につながるわけで、そのようなことに、いつまでも恐れていてはならないのだ。なぜならば、神御自身があなたの屈辱を取り除き、あなたとともに生きてくださり、再生の道をともに歩んでくださるから。
 
恐れというのは、そのような屈辱を与え与えられる環境からいつまでも抜け出せない。別な言い方をすれば、いつまでもしがみ付いてしまうような自他の心から生じるものなのだと思うのです。しかし、私個人の、また人間関係によるしがらみゆえに、恥や屈辱というものを感じ続けるのであれば、底から解放してくださる神こそ、私たちに復活の道を与えてくださるのだと、今日の聖書の言葉から受け入れたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが復活された日、不安に惑う女性たちに天使が語られた言葉です。彼女たちも恐れに取り囲まれていました。しかし、心配ない、恐れることは無い。そう語りかけてくださるみ使いの声に、恐れを取り除き、前へと向かわせてくださる神がおられるのだと。
 
恐れの渦中にあるとき、この恐れから解放されたいと心から願うときに、それを取り除いてくださる神が必ずおられることを心の希望としつつ、今日も歩むことができますように。皆さんの一日のためにもお祈りします。

23/04/2024

2024.4.23(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編18編31節
神、その道は完全である。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書4章26~28節
イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるからだ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。

今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたのは「神は私たちの知らないところで、私たちを育むために働いておられる」ということについてでした。そのことについて黙想したいと思います。
 
主イエスは、神の国(これは「神の世界や価値観」という言葉でも表すことができると、私は考えています)についてのたとえ話をされた際に、どうして種が芽吹いて成長し、やがて実るのかを人は知らないと言われました。実るということが周知の事実でありながらも、なぜ実るのかという、この「なぜ」が分からない。そのようにイエスは言われるのです。
 
私たちは「なぜ」を問うよりも、分かりやすい答えが即時に与えられることを期待するのかもしれません。ましてや、目に見えない神の存在を知るということにいたっては、なおのことなぞが深まるゆえに、理路整然とした論理を求めようとします。もちろん、論理を求めることが大切ですが、そのことを求めすぎてしまうあまりに、「なぜ」を問うことからおのずと遠ざかってしまう。そんな自分自身を発見してしまったりします。だからこそ、なぜを問うということは本当に大切なのだと思います。
 
今日の聖句におけるイエスの例えは、おのずと成長するという背後には、神が私たちにために生きて働いてくださるという、神の国の奥義というものがあるのだと私は思います。ただ、その奥義とは何なのかということを、私たちはなぜを問いながら考えていきたい。私はそんなことを思わされています。答えは決してひとつではない。私たちの生きる状況に応じて、答えというものは縷々変化するものであると私は思います。しかし、そのような変化のなかでも、決して変わらないのは、神がご自分の言葉と行いを通して、私たちのために働いてくださっているその一点に尽きるのだと。
 
そのうえで、自分が今置かれている状況を見つめつつ、そのなかで働かれる神について、なぜを問いたいと思わされました。決して私たちがそれを矮小化してしまうことなく、今日という一日を歩んでいきたいと思いました。皆さんの一日もまた、神が働いてくださっていることを実感できるひと時でありますように。祈ります。

22/04/2024

2024.4.22(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ダニエル書3章28節
(シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの)神はほめたたえられますように。神は御使いを遣わし、神に信頼するその僕たちを救い出された。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書1章13節
イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日も朝を迎えました。ここ数日間、夜は随分咳き込んで、眠りの浅い日々を過ごしていましたが、やっと風邪(か花粉症かは分かりませんが)から脱し始めてきたのを感じました。ぐっすり眠り、朝を迎えることができました。いつも思うことですが、健康が与えられるというのは、本当に感謝だなとあらためて思わされた次第です。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖句ですが、旧約聖書・ダニエル書の一節が選ばれています。バビロンの王であるネブカドネツァルの建造した金の像を拝まなかった三人の青年に対して、王は怒りに満ちた結果、彼らを燃え盛る炉のなかに放り込むよう命じました。しかし、三人の青年であるシャデラク、メシャク、アベド・ネゴは、焼けることなく炉から出てきました。神が彼らを守り、その命を助けたのでした。
 
彼らは、この書に登場する主要人物であるダニエルとともに、神によって与えられた能力ゆえに、ネブカドネツァル王から重用された人物でした。政府の高官として、生活と立場が守られていました。しかし、彼らは知っていました。自分がこうした生活ができるのも、ネブカドネツァル王のおかげでなく、自分を守り続けてくださる神のゆえなのだと。
 
だから、ネブカドネツァル王に対して誠実に仕えつつも、神がないがしろにされるようなことだけは、決して許せませんでした。たとえ、王の怒りを買おうとも、そのために今ある生活が失われても、どんなに脅しを受けたとしても、命の危険にさらされても、彼らは、神が神とされる道を選び取りました。
 
そのような彼らの思いを、神は決して見捨てることはなさらなかったのです。無傷で助けられました。彼らの命を守ったどころか、神はネブカドネツァル王の思いまでも変えてしまいます。神がほめたたえられますようにと、王は彼らを守る神に、心からの畏敬の念を表したのでした。後に、自分に仕える誠実な人物として、王は彼らを、そして彼らの神を心から信頼します。
 
私は、今日の聖書の言葉を通して、私たちが人間社会のなかで、またあらゆる人間関係のなかで、クリスチャンとして生きるのはどういうことだろうかということを、あらためて黙想させられました。私たちは人間関係を、利害の有る無しばかりで考えるあまり、神との関係というものを知らぬ間にないがしろにしていないだろうかと思ったのです。
 
特に、教会という場で、私たちは横に見える人間関係ばかりに気をとられて、そこに忖度をし、言いたいことすら言えない関係性をつくりあげてしまうばかりに、神が与えてくださった深い関係性が壊されていくとするならば、それはとても残念なことであって、神がキリストを頭として与えてくださった教会が教会でなくなってしまうのではないか。そのように感じたのです。
 
もちろん、横のつながりはとても大切です。しかし、神との明確がつながりがあるからこそ、横のつながりが成り立つのであって、私たちはどちらを優先するかと言われれば、それは明らかに、神と私の関係性であって、この関係性が横の関係性を構築していくのだと。今日の三人の青年におけるエピソードを通して、そんなことを受け止めたいと思いました。
 
皆さんの新しい一日が、縦軸と横軸の素晴らしいバランスのもと、健やかな生活がつくあげられますように。お祈りします。

21/04/2024

2024.4.21(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言11章13節
中傷して歩く者は秘密を漏らす
真実な思いを持つ人は事を覆い隠す。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章15節
愛をもって真理を語り、頭であるキリストへとあらゆる点で成長していくのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、こんばんは。
新しい一週間を迎え、その一日目も夜が訪れました。朝、黙想をする時間がどうしても確保できませんでしたので、夜のひと時に、一日を振り返りながら、ローズンゲンに示された御言葉に聴き、黙想しようと思いました。朝に黙想をお待ちしていた皆さま、大変申し訳ありませんでした。
  
さて、本日のローズンゲンに示された旧約聖書・箴言の言葉は、とても考えさせられるひと言でした。「中傷して歩く者」という言葉。これは、他の聖書では、悪口を言い歩く者とか、人のよしあしを言い歩く者と表現されています。これは、単に人の悪口を言ってはならないという意味以上のものが含まれているように私は感じました。
 
人の悪口を言うということは、その人と比較して、私の正しさをいうものを表すことでもあると私は考えます。つまり、自分の正しさに照らし合わせて、人をあれこれ評価することで、自分自身の正しさというものをひけらかすことにつながるのだと私は思います。これを、箴言の言葉では「秘密を漏らす」という言葉で表現しているわけですが、それはさも、自分自身の姿を、あられもなくさらけ出すことに相通じるのではないかとも思ったのです。
 
それは決して、自分自身の真の姿をさらけ出すことを否定しているのではありません。ありのままの自分自身をさらけ出すことは、神に向かい、隣人に向かう真っ正直さそのものだからです。私が、中傷して歩く者が秘密を漏らすということを通して想ったのは、自分の真実の姿に気づかず、自らの正義だけに立とうとして、その虚実をさらけ出すことなのだと理解しました。だから、自分自身の真実をさらけ出すということとは、似て非なるものなのだと考えています。
 
それに続く「真実な思いを持つ人は事を覆い隠す」という言葉こそ、本当の意味で、自分自身に対して真の姿をさらけ出すことの意味であると、私は受け止めました。真実は、私が決して正義を貫き通せると思えない自分自身に気付くところにこそ、はじめて神の真実というものが明らかにされるのではないだろうか。そう思うのです。
 
だからこそ、私たちの神の真実をもって、自分自身の真実をもさらけ出すことができるのであり、その真実を神に向けるところにこそ、人と人とのあいだに、神が惜しみなく与えてくださる愛によって生きることができるのだと、受け止めたいのです。
 
今日の夜の休息が、主にあって豊かに守られますように。お祈りいたします。おやすみなさい。

20/04/2024

2024.4.20(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書39章18節
私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからである――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書23章43節
イエスは(犯罪人の一人に)、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日の黙想で私のコンディションのことに触れましたら、多くの方々から励ましのお言葉をいただきました。弱ってるときにこそ、そのような言葉のひとつひとつが心身にしみわたります。今日も一日、日曜日への備えのときとして歩んでまいりたいと思います。
 
さて、本日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、旧約聖書・エレミヤ書39章の一節が目に留まりました。「あなたの命はあなたの戦利品となる」というところです。戦利品とは、「戦争でぶんどった品物。ぶんどり品。敵から押収または抑留すると同時に、所有権取得の効果を認められる物品」(広辞苑)とあります。そう考えますと、命というものは戦いの結果ぶんどった物なのだろうか、私がぶんどったのだろうか、戦いの相手とは誰なのだろうかと、いろいろ考えてしまいます。
 
ここで明らかなのは、戦うのは私たちではなく、神が神であるために、神が私たちひとりひとりを守るために、神ご自身が戦われる戦いであるということです。ですから、私たちの武力をもってこの戦いに勝利したわけでもありません。あえて、私たちに求められている武力があるとすれば、それは神が私たちを守られるということに対する「深い信頼」に他なりません。
 
イエスとともに十字架に付けられた犯罪人。死刑に処されるくらいですから、犯罪人としてはものすごい能力を発揮したことでしょう。しかし、十字架の前では、ただただ無力になるしかありませんでした。しかし、そんな無力のなかにあっても、この犯罪人は、ともに十字架につけられたイエスに対して、私を思い出してくださいと語りました。それは、イエスに対する深い信頼にもとづくものであったと、私は思えてなりません。
 
この犯罪人に、イエスはともに楽園にいると告げられました。楽園における命の回復。これこそイエスが死に打ち勝たれた戦いにおける戦利品そのものでした。そんな戦利品を携えながら、今日もまた、戦いの先頭に立たれる神である主のあとに付いて行きたい。そんな風に願わされました。そのような神が、私たちすべてを守り、平安を与えてくださいますように。祈ります。

19/04/2024

2024.4.19(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記6章22節
ノアはすべて神が命じられたとおりに行い、そのように実行した。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章24節
私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
私事ですが、不覚にも風邪をひいてしまいました。おそらく花粉症かもしれないという疑いもあるのですが、風邪のような症状(鼻水・鼻づまり・咳)なので、もしかしたら風邪と花粉症の両方なのかもしれません。私は常時というよりは、年に1回ほど、この季節になると似たような症状になることがあります。
 
昨日鼻づまりでなかなか寝付けず(普段そんな風にはならないので、耐性が極めて低いのです)、いつしか寝つけたと思いきや、目覚めたのがいつもよりもかなり遅い時刻となってしまいました。自分をいたわりながら、今日の一日を過ごしていきたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私のなかで浮かんだイメージは「聴従」というものでした。聴き従う、神の言葉に聴く、そして従う。ここにこそ、幸いの道が開かれることを、神は聖書を通して私たちに語っています。
 
今日の旧約聖書は、神の命令に従って箱舟を建造したノアの姿勢について描かれています。神が命じられた通りに、ノアは箱舟を建造しました。結果として、彼は洪水という危機を乗り越えることができました。同様に、今日の新約聖書に示されたイエスの言葉は、自分の言葉を聞いて、従う(行う)者は、岩の上に建てた家に似ているとの言葉を残しています。強風や洪水が訪れても、聴従によって整えられた堅固な土台によって、家は倒れることがないとイエスは言葉を続けています。
 
そのような神への徹底的な聴従は、まさに「健全な依存」ということが言えるでしょう。依存というと聞こえが悪いかもしれませんが、健全な依存は、私たちの生活に潤いを与え、豊かにするものであると信じたいのです。そのような豊かさこそが、いわゆる神が与えたもう祝福であると、私は理解したいのです。
 
しかし、徹底的な聴従を私たち自身が許しません。聴従についつい自分自身のテイストを加え、自分好みの味に仕上げます。それはアレンジメントというよりはむしろ、改変という言葉で表現した方が良いかもしれません。神に対する聴従というよりは、むしろ自分自身への聴従を同意しているような、そんな気分になることが私のなかでもしばしばあったりします。こうなると、神への、そしてイエスへの聴従にはならなくなってしまう。神への健全な依存ではなく、自分自身に対して甘え、依存してしまっていることを痛感させられます。
 
ただ、そんな私たちをここまで生かし続け、今日もご自分の言葉を与え、聴従という言葉を通して、少しでも何かが気づけるように導いてくださる神がおられる。突風や洪水が私を襲っても、レスキューの道を今日も指し示してくださる。それが分かっただけでホッとする自分自身があることも確かです。だからこそ、少しでも聴従の思いが高められて、神の言葉に心から従えるような思いを、神にこいねがいつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思いました。
 
皆さんにとっても、主なる神にあって素敵な一日でありますように。

18/04/2024

2024.4.18(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書12章6節
シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。
イスラエルの聖なる方は
あなたのただ中にいます偉大な方。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章14節
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「私たちのただ中で」であると、私は受け止めました。旧約聖書・イザヤ書12章6節にある「あなたのただ中に」という言葉が、新約聖書・ヨハネによる福音書1章14節にある「私たちの間に」という言葉と共通し、また響き合います。
 
これらの言葉は、どちらも神の御臨在というところで語られています。つまり、神はどこにおられるのかという問いに対して、あなたがたの神/私たちの神は、私たちのただ中におられるということを、これらの聖句は明示しています。
 
このことから、神は神聖にして侵してはならないようが聖所におられるという印象を残しつつつも、そのことで、神のご存在がものすごく遠いところにあるような印象を、私たちは決して持つことがあってはならない。という風に私はあらためて思わされました。あくまで、神が放たれるご栄光というものは、私たちのあいだに、私たちのただ中で、リアルに起こるものなのであって、それは近い遠いという表現をあえてするならば、極めて私たちに近いところまで及び、私たちと一緒にいてくださることを「ただ中に」という言葉が表しているのだと思うのです。
 
また、このようにも言えるかもしれません。私たちのただ中に/間にという言葉には、私たち人間と人間のあいだで起きる関係性のなかに、神がおられるという意味でもあるのだと。私たちの人間関係に、本当に平和が訪れるとしたらそれは何か。そこに、神が良いものを携えて、私たちの真ん中に立ってくださるときに、私たちの間の仲立ちとなってくださり、私たちのあいだに平和を芽生えさせてくださるのだと、私は受け止めたいのです。
 
本日の新約聖書・ヨハネによる福音書の言葉には、私たちの間に宿られたのは「肉となった言(ことば)」でした。つまり、肉体をもって私たちの前に現れてくださった、イエス・キリストその御方であると。私たちは、このイエスが私たちに示されたことをすべて、私たち自身の生き方とするならば、あらゆる問題に解決の糸口を与え、世の中を平和にする力があふれてくるものと信じたいのです。
 
もちろん、私たちは誰でも、イエスがされたことを完全になぞることはできません。それができたら、私たちはもはや神を必要としなくなるでしょう。私たちが神になってしまうのっですから。しかし、それで良いのだと思います。だからこそ、神が私たちの間に立ってくださることを心で感じながら、そのために自分自身を平和のための器として、今日も生かすことができるのだと思うのです。少なくともそのために、神は私たちのただ中におられるだということを、受け止めたいと思わされました。
 
皆さんおひとりおひとりの間にも、神がいてくださることを喜びにできるような一日でありますように。お祈りします。

17/04/2024

2024.4.17(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編103編1節
私の魂よ、主をたたえよ。
私の内なるすべてのものよ
 その聖なる名をたたえよ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一1章3節
私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに選ばれた、旧約聖書・詩編103編の冒頭の言葉で、「私の内なるすべてのものよ」と、詩人ダビデは歌っているところに、とても関心を寄せられました。ここに今日は黙想したいと思います。
 
ダビデはイスラエルの王にして竪琴の名手、そして多くの詩を歌った人物としてよく知られているのは、みなさんもご承知のことと思います。ダビデはどのような思いをもって、神に賛美を奏で、そして歌ったのだろうか。そんなことを改めて思わされます。
 
そんなことを考えるときに、私はダビデの「私の内なるすべてのものよ」という自分自身への、それも内面に向かって語りかけていることに、魅力を感じずにはいられませんでした。はて、私は賛美の歌を歌う時に、本当に私の内側が神に向かって賛美をしているだろうか。はっとさせられながら、そんなことを思わされたのです。
 
私も今までひとりのクリスチャンとして歩んできて、実に多くの賛美というものに接する機会をいただいてきました。クラシカルなものからワーシップと呼ばれるものまで、私はどのジャンルの賛美も大好きです。だからこそ、賛美ひとつでこだわりがぶつかり合うような場面に接するときに、それはとてももったいない、残念なことだなと思わされています。今まで、そのような場面に幾度となく遭遇してきたからです。
 
大切なのは、どの賛美を賛美するかではなく、私自身の内面が、嬉しくても悲しくても、賛美を通して主に向かわされているか、ということだと私は思いたいのです。格調高く歌うもよし、両手を挙げて歌うもよし、しかし、それよりも何よりも大切なのは、賛美を通して、心揺さぶられる経験を、私は賛美のたびに感じとることができているだろいうか。そんなことを私は思わされたのでした。
 
今日の新約聖書の言葉を通して、私たちの賛美の先にあるのは、イエス・キリストが与えてくださった「復活の希望」にあると、私は受け止めました。たとえ私が復活を感じられないような場面のなかにあったとしても、それでも賛美はそのことを歌い続ける。私がそれを受け入れられなかったとしても、賛美を通して私に慰めを与えてくださる神である主がともにいてくださるのだ。
 
どうしてダビデが「聖なる名」をたたえたのか。その名の意味のとおり、主が私と一緒にいてくださることで、私たちの神となってくださっているから。まさに、インマヌエル(神はともにおられる)と名付けられた救い主イエス・キリストにへと、名に込められた思いは継承されているのだと。
 
そんな神が、今日も私たちに賛美を与えてくださる。そんなことを思いつつ、今日の一日もまた、神が守り、平安を与えてくださいますように。お祈りします。

16/04/2024

2024.4.16(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編18編29節
主よ、あなたは私の灯をともし
わが神は私の闇を照らす。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章78~79節
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって
 高い所から曙の光が我らを訪れ
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし
我らの足を平和の道に導く。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンによって示されたふたつの聖句から、共通するキーワードとして「闇を照らす光」について、黙想してみたいと思いました。
 
聖書にはしばしば登場する言葉であり、私たちの世界の闇にひと筋の光を投じるために、救い主であるイエス・キリストが父なる神によって遣わされた。つまり、私たちの神は、闇が闇のままであることを願わない。この一心で私たちひとりひとりを取り扱ってくださることを、あらためて思わされます。
 
夜が明け、闇にあけぼのの光がやって来る。今日の新約聖書・ルカによる福音書で歌われる祭司ザカリヤによる賛歌の一節です。この賛歌からも分かるように、闇がこの世界から取り去られるわけではありません。闇もまた、神が光とわけられた創造の御業の結果であるからと私は思っております(創世記1章)。しかし、毎日闇が明けて光が射しこめられて私たちが光のなかを歩むことができるように、私たちが闇のままにとどまり続けることを、神は決して願われてはおられない、ということなのだと。
 
私は昨日、こんなことを自分のSNSに投稿しました(X:@pfarrersaito)。
 
気が塞いでしまうほどな出来事が連日訪れる。しかし、それで気を塞いでしまうのか、そんなこと気にしないで希望をもって前向きに生きるかは、結局のところ私次第なんだよね。
 
私たちには、気が塞いでしまうほどの闇を経験することもあるし、これから逃れることはできない。しかし、気を塞ぎ続けて闇のなかにとどまり続けるか、神が放ってくださる光を浴びたいと心から願って、闇の力に振り回されないで希望をもって生きる道を選ぶかは、結局自分自身の決断の問題なのだ。その思いと願いを抱いて歩めば、必ず神は光を光として受け止めることのできる私を見つけることができるに違いないのだから。
 
そんなことを希望にしつつ、あせらず、あわてず、あきらめず、神に願い続けたい。そんなことを改めて思わさされた、今日の黙想でした。皆さんの新しい一日にも、そのような希望がともに、豊かにありますことをお祈りします。

15/04/2024

2024.4.15(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
アモス書7章2~3節
「主なる神よ、どうぞお赦しください。
 ヤコブはどうして立つことができるでしょう。
 彼はとても小さいのです。」
主はこれを思い直され
「このことは起こらない」と言われた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章31~32節
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
昨日は、それぞれの教会や集会で、主の日の礼拝をいただくことが出来たかと思います。私は、近隣の教会の特別礼拝と講演会に招かれました。とても心温まるひと時を過ごすことができました。教会というところの原点を再確認することができたからです。
 
昨日の講演会では、カルトについての話をさせてもらいましたが、いつも準備している「カルトとは何か」という話題というよりも、なぜカルトは無くならないのかという話題を中心に話をしました。
 
そこで、私が話をしたのは、教会風、聖書的な言い方をすれば、「『愛』の取り違い」なのではないか、ということを申しました。愛にはいろいろなかたちがある。新約聖書の原語であるギリシア語には、いくつもの愛を表現する言葉があると言われていて、聖書に書かれている愛を、別な愛に勘違い、もしくはあえて取り違えて、人々に示そうとするときに、そこに「ゆがみ」が生じ、そのゆがみをもって支配する時に、カルトの萌芽が生まれるのだと。
 
聖書に書かれている「愛」は、「アガペー」であり、自分のことはさておいて、相手の幸福のために尽くす愛であることは、皆さんもご存知の通りかと思います。しかし、私たちはこの愛を「エロス」(性愛と訳されるものですが、私はいわゆる「独占愛」というふうにも理解しています)に取り違える結果、自分の幸福のために他者の大切なものを支配し、奪い取る愛を行使してしまう。これが「愛の取り違い」なのだということを話しました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの言葉に共通するのは、神に背反してしまう私たちの姿について、それぞれの角度から語られている聖句であると、私は理解しました。旧約聖書・アモス書では、神に背を向けて歩んでいたイスラエルの民たちの姿が、新約聖書・ルカによる福音書では、イエスを裏切ろうとしている弟子たちの姿が、それぞれ預言者アモスを通して、また主イエスを通して語られているというのが、今日の聖句の内容です。
 
しかし、民たちはその姿に気付きません。何に気付かないかというと、神が人間に対して与えた愛の本質というものに気付けないので、神の愛を取り違えて、自分が気持ちよくなるためだけの愛に固執してしまうのです。その結果、神の怒りを買い、また神から人を引き離そうとするサタンの餌食に、私たち人間がなってしまうことが示唆されています。
 
しかし、そのような私たちのために、預言者アモスは神に怒りを収めてくださいと願い出、主イエスは私たちのために祈ってくださる。このような執り成しのもとに、私たちひとりひとりが生かされていることを思うと、そこに大きな愛を感じずにはいられないのです。そんなことを、私は今日の聖句を通して理解させられました。神の愛の大きさと深さに、なかなか気づけない自分自身を発見しつつ、この愛にこそ、生きる礎があることを希望に置きながら、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの新しい一日にも、神の愛がともに、そして豊かにあふれますことを、心からお祈りします。

14/04/2024

2024.4.14(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編18編33節
神は、私に力を帯びさせる方。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一1章25節
神の弱さは人よりも強い。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやって来ました。すべての復活と再生を祝うことのできるこの一日に、世界中で行われるすべての礼拝や集会の祝祭に、神様の祝福を心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が黙想したいと思ったのは、「強さ」という言葉についてでした。私はここ数年、特にこの強さという言葉について考え続けてきたことがありました。「強者の論理」というものを私は抱え、それを振りまいている。そんな指摘を受けたことがあったからです。
 
この指摘には、正直とてもショックでした。なぜならば、私は前述の強者の論理というものをもって、人を抑えつけることのないように心がけてきたつもりだったからです。カルトの論理とは、そういうところから働くことを痛感していたからなおさらです。だから、そのような指摘をされた時に、そういう自分自身があることをなかなか受け入れられない自分自身があったのです。そして、落ち込んだのでした。
 
しかし、このことについてじっくりと考えれば考えるほど、自分自身のうちに、いや、人間という存在は潜在的に、自分自身を守ろうとするがゆえに、強がりというものをもって人に対峙し、時には相手をねじ伏せようと、ついつい虚勢を張ってしまう。これを「強者の論理」と言うならば、なるほどその通りだと、自分自身を顧みることができたのでした。指摘を受けて、いや、そんなことはないと抗う気持ち。これこそ強がりであると。
 
今日の聖句、特に新約聖書・ローマ書にあるほんの短い一節は、神の強さというものは、実は「弱さ」をもって表れるのだと、この手紙の筆者であるパウロは手紙につづりました。すべてのことにおいて行使できるはずである神に、弱さなどあるのだろうかと首をかしげたくなりますが、神は私たちのためにあえて、弱さというものをもって私たちに向き合われたのだと。神の弱さというものは、我がひとり子を十字架の上で多くの人々のあざけりを受けながら、いけにえとしてささげなければならないほどに、この世の中からすれば、弱さをさらけ出さなければならないくらい乏しいものだったのだと。
 
しかし、弱さを公衆にさらけ出すことほど強いことはないのだと、今日のパウロの告白から私はあらためて、強さとは何か、弱さとは何か、そういうことを考えさせられる機会をいただくことができました。弱さを何のためらいもなくさらけ出したところにこそ、神の力と助けによってのみ、私は今日も復活の幸いにあずかり、再生への道を歩むことができるのだと受け止めました。自分自身の知性や腕力で決して戦うことなくです。
 
一日の主にある守りと祝福をお祈りします。

13/04/2024

2024.4.13(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ダニエル書6章28節
この方は救い主、助け主。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙2章20節
生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンによって選ばれたふたつの聖句、特に旧約聖書・ダニエル書6章の言葉は、この書の中心人物であるダニエルが、神によって自分の命が救われてきたことに感動した、ペルシャ王ダレイオスの告白です。この方、つまり神は、あらゆる困難から自分自身を守り、そのたびごとに救ってくださったと、ダレイオス王は心の底から感じ、神をほめたたえました。
 
ローズンゲンには、28節の前半部分だけが収録されていますが、28節の後に続く部分には「天にも地にも、しるしと奇跡を行い/獅子の手からダニエルを救い出された」と述べています。ダニエルは獅子の吠えたける牢の中に閉じ込められましたが、傷ひとつ得ることなく解放された。これこそ、神の助けがダニエルに臨んだのであって、神が人の命をつかさどる御方であることが明らかにされた一瞬でもありました。
 
神は、すべての人の命を守るために働いておられます。しかし、それは私たちが願うように、思うように果たされるかといったら、必ずしもそうとは言えません。むしろそうでない時のほうが多い、いや、ほとんどかもしれません。だから、私たちは時に、神は本当に私の命を助けてくれるのだろうかと、疑いたくなってしまうのです。これが偽らざる私たちの正直な思いなのかもしれません。
 
しかし、私が思うのは、神は御自分のタイミングというものと、ご自分のベストの方法というのをお持ちであって、必ずそれを必要に応じてなしてくださる方なのだと。こうして、神が私たちの神であられることを、私たちに教え、指し示してくださる。これこそ、今日の新約聖書の言葉でもあげられている「真実」なのだと、私は受け止めたいのです。真実。これはかつての聖書では「信仰」と訳されていた言葉です。
 
信仰というと、どうしても私たちから神へ向かう行為ばかりが強調されがちですが、そうではなく、神が私たちに真実をしめしてくださったということが、信仰の本質です。その本質を私たちが受け取り、感じ取り、体験して、そのことに感謝をもって応答する。もしくは期待して、神に向かう姿。これが信仰の本質なのだと私は思っています。信仰とは私たちの努力や鍛錬の出来事ではありません。
 
だからこそ、本日の新約聖書であるガラテヤ書において、筆者パウロがいわゆる「キリストのおかげで」私が生かされているのだと、手紙にしたためることができたのでしょう。
 
一週間も最終日を迎えました。キリストのおかげで私が生かされている。神がベストタイミングをもって、最高の出来事を今日も私たちにくださるのだという真実に期待して、歩むことができますように。皆さんの一切に、神の守りと平安をお祈りいたします。

12/04/2024

2024.4.12(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書16章62節
私はあなたと契約を立てる。その時、あなたは私が主であることを知るようになる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙9章16節
従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された旧約聖書の聖句・エゼキエル書16章の一節に記されている「契約」とはいったい何か。改めて黙想したいと思いました。
 
契約とは神と人とのあいだに結ばれた約束です。神は今日の聖句のなかで「私が主であることを知るようになる」と、民たちに知らせています。ここでいう「主」とは、神が持つ固有のお名前のことです。主という言い方がちょっと紛らわしいと、私はいつも感じているわけですが、その議論は今日は置いといて、主というお名前の意味は「私はいる」というものであり(出3章14節)、存在を表す動詞に起因しています。英語で言うbe動詞に相当するものであると言えるかもしれません。
 
ですから、私は「主」という言葉の意味を、次のように考えています。それは、「①私は神であり、②私はあなたとともにいる、③ゆえに私はあなたの神となる」というように、存在を表す動詞の意味である「ある・いる・なる」こそ、神のお名前の意味である、と。
 
ですから、神と人との契約によって、人間は神が確かに存在していることを、理解できるようになるというふうに、エゼキエル書の言葉を考えることができるのではないかと思うのです。人間がどんなに神から背反したとしても、神は人間とともにいてくださった。そして、人間は自業自得から来るさまざまな辛苦を舐めることがあっても、神は私たちに諭しを与え、気づきを与え、そして神が確かにおられるゆえに、神のもとに立ち帰ることができたのだと。
 
これが、人間の能力や知恵、業績や功績などでは、どうてい獲得できるものではないということは、人間の歴史が物語っています。どんなに人間生活が豊かになったとしても、その恩恵を受けながらも、それが究極的な人間の完璧な幸福にはつながらない。どこかでゆがみというものを抱えながら、私たち人間が生きているという現実に、神が憐れみを携えて、私たちの前に、かたわらに、背後に、底にいてくださる。これが、本日のもうひとつの聖句である、ローマの信徒への手紙で筆者パウロが言わんとしていたことなのではないだろうか。そのように今日の御言葉を受け止めました。
 
ついつい自分のことで有頂天になってしまう自分自身を顧みつつ、神がともにいてくださることを喜べるような一日を過ごしたいと思います。皆さんの一日にも、ともにいてくださる「神である主」が、守りと祝福を注いでくださいますように。お祈りします。

11/04/2024

2024.4.11(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書51章12節
私、この私が、あなたがたを慰める者。
あなたは何者か。
死ぬべき人を
恐れるとは。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一3章15節
あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるよう備えていなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された聖句、特に旧約聖書・イザヤ書の一節に記された「あなたは何者か。死ぬべき人を恐れるとは」という言葉に惹かれ、黙想したいと思いました。
 
私はかつて、誰からも嫌われたくないという感情が自分自身を支配していました。そのことに神経を注ぎ、人に接していたように思います。そして、そのことにたびたび疲れを起こしてしまい、いったん人に嫌われてしまっているような感覚に陥ると、鬱々した気持ちというものをいつも抱えていたように思います。そして、結果としては自分自身を保身するために、人の顔色をうかがうことばかりしていました。
 
しかし、それは結局のところ、究極的なものに守られている、大切にされている、そして慰められ、愛されているということへのイメージというか感覚、実感というものが薄かったのではないか。そんなことを思うようになりました。自分自身を励まし、慰めてくれる神の姿を見る前に、どうしても周りにいる人たちの顔ばかり覗いてしまう。そんな自分自身があったことを思うのです。孤高になることがあまりにも怖くて、人に依存してしまう。そうではない。私、私があなたを慰める者であると、私に語りかけてくださる神がおられるではないか!人を見る前に神を見るということの幸いを、ようやく気付かされたときの心の平安を、今でも忘れることができません。
 
これが、今日の新約聖書で語られている「希望」なのだと、私は受け止めたいし、この希望を、対人関係で苦しんでいる方々と分かち合いたい。そのために、聖書という本に収められた神の言葉があることを思わされます。今日も聖書の言葉に聴き、聴いたことを自分自身の希望、出会う方々の希望となることができますように。皆さんの一日にも、神がもたらす希望が満ちあふれますように。お祈りいたします。

10/04/2024

2024.4.10(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書43章3節
私は主、あなたの神
イスラエルの聖なる者、あなたの救い主。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書9章35~36節
すると、雲の中から、「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」と言う声がした。この声がしたとき、イエスだけがそこにおられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたのは「神はご自分のすべてをイエスに委ねられた」ということでした。つまり、神が旧約聖書の時代に、ご自身が私たちにとっての救い主であることを、預言者を通して伝えられた。そして、救い主としての役目をイエスに委ねられて、イエスは父である神の思いをすべて受け入れられた、というふうに私はこの聖書の言葉を受け止めました。
 
さて、さらに重要であると思ったのは、弟子たちの前で変貌したイエスに対して、天から語りかける父なる神の御声の内容です。神はイエスをご自分の愛する子と宣べられた後に「これに聞け」と宣言されておられるということです。つまり、イエスに聞け!と父なる神は、弟子たちに、そして私たちに語りかけておられるのです。
 
この「聞け」という言葉は、どういう意味なのでしょう。イエス「」聞け。単純に考えれば、「何かあった時はイエスに聞きなさい」と受け取ることのできる言葉です。とにかく、イエスの声に尋ねなさい、そして耳と心を傾けなさい。そして、聞いたことを理解しなさい。そんなイメージがわいてきます。そうすることによって、イエスの声に聴き従いなさい。つまり「聴従」しなさい。そんな風にイメージが発展していきます。
 
イエスの声は、単なる参考資料でなければ、アレンジメントするための材料でもない。イエスの声の本質をとらえて、それを自分のものとしたいからこそ、まずイエスに聞くという態度が求められているのだ。私はそのようにとらえたいと思いました。
 
そのためにも、イエスの声が収められている福音書。福音書に先立って父なる神の歴史が語られた旧約聖書。イエスの言葉を自分の生き方にした使徒たちの記録(福音書以外の新約聖書)。これらが集約された聖書の言葉に聴くことができるのだと。あくまで「聖書の言葉聞く」ではなく、「聖書の言葉聴く」ということを忘れずに、今日の一日を歩んでいきたいと思わされました。
 
天候の変動があまりにも厳しい日々ですので、どうぞ御身体をいたわりつつ、今日も祝福にあふれた一日でありますように。お祈りいたします。

09/04/2024

2024.4.9(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書18章23節
私は悪しき者の死を喜ぶだろうか――主なる神の仰せ。私は、彼がその道から立ち帰り、生きることを喜ばないだろうか。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙6章23節
罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示された、旧約聖書・エゼキエル書18章23節の言葉に込められた「神の思い」というものに、心惹かれました。神は、いたずらに人を呪ったり、断罪し、人を死に定めるようなことはなさらないことを思わされます。
 
昔からそうなのですが、神の呪いや裁きというものをことさら強調することで、神を救いを提示するという、福音宣教の手法があることを、私たちは知っていると思います。実際に聖書をひもとけば、神罰とも思えるような記述がありますし、終末に向かうなかにあって、最終的な審判についても聖書には書かれているわけです。ですので、神の呪いや裁きという面がどうしても強調されるというのも、分からないわけでもありません。
 
しかし、今日の聖書の言葉を見れば、神は好戦的に人を死に定めることを望んでなんかおられないということは一目瞭然です。神のもとに帰り、神とともに歩むことを望んでおられる神御自身がおられるのだ!では、私たちにとって「神のもとに帰り、神とともに歩む」とは、いったいどういうことなのだろうか。そのことに想いを寄せ、神とじっくりと向き合って、御言葉と聖霊の助けから考えていきたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉である、ローマ書の言葉は、神のもとに帰り、神とともに歩むための具体的な賜物(贈り物)は、イエス・キリストであるという、筆者パウロの思いが込められています。やはり、私たちはイエスという御方がどういう思いを抱かれ、言葉を紡ぎ、私たちに対して何を行われたかということに、もっと心を寄せて理解すべきなのだと、私は改めて思わされたのでした。
 
今日も、イエスの言動がもたらす神の幸いというものに、少しでも心を寄せながら過ごすことのできる一日でありますように。皆さんの主にある幸いを、心よりお祈りいたします。

08/04/2024

2024.4.8(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編112編1節
幸いな者、主を畏れ、その戒めを大いに喜ぶ人。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章21節
キリストも、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、それぞれの場所で主の日の礼拝をお過ごしになられたかと思います。私の働く仙台宮城野教会では、創立4周年記念礼拝をいただくことができました。神がこの教会の歩みを、これまで導いてくださったことを、喜びのうちに確認することができました。その後は、総会前の役員会ということもあり、いつもより時間がかかりましたが、主なる神を真ん中に立てて交わされる論議というものが、ここまで心地よいものかと、改めて思わされた次第です。聖霊の風が吹き抜けるとはこういうことなのだと思ったのです。身体は疲れましたが、心は喜んでいます。昨晩はぐっすりと休むことができました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が想ったことは「神に聴従することの喜び」というものでした。神である主が、私たちの幸いのために生きて働いておられるということに、私たちは畏れ多さ(おそれおおさ)をもって、神とともに歩むことが大いに許されているのだと感じます。神の言葉に聴き、神の後を歩むことが、神とともに歩むことの意味であると私は感じます。
 
しかし、神に聴従することは、決して恐怖ゆえのことではない。神の戒め、つまり神が仰せられるご命令の根本にあるものは、私たちをご自分の御心によって、大切にし、その命を祝福してくださることにあると、私は感じています。神によって自分自身が大切にされていることを喜ぶことと、神を畏れることがセットで語られていることから、それが、決して恐怖を伴ったものではないことが理解できます。
 
そして、そのことを私たちにも分かるように具現化して、それを生き方として示してくださったのが、イエス・キリストその御方であるというのです。今日の新約聖書である、第一ペトロ書にある言葉は、イエスを模範とすることができるのだという、手紙の書き手による力強いメッセージが込められたものです。その足跡に続くようにと。
 
神の言葉に聴き、そして神の後に続き、神とともに歩む生活。今日もそんな一日であることを、心から願い、祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、そのような神の祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。

07/04/2024

2024.4.7(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
士師記10章15節
イスラエルの人々は主に言った。「私たちは罪を犯しました。あなたの目に適う良いことを、すべて私たちに行ってください。今日、どうか私たちを救い出してください。」

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章13節
徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人の私を憐れんでください。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。世界のすべてで行われる主の日の祝祭としての礼拝や集会の一切に、主なる神の祝福をお祈りいたします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「罪」という言葉についてです。どちらの聖句にも、自分自身が罪を負っていることを自覚したうえで、神に憐れみを求め、救いを求めている人の思いというものを見ることができます。
 
罪とは、神を必要としない態度や、言動のことを指します。聖書の語る罪は、神から離れて独立独歩の道を選択するがゆえに、さまざまな支障が自他ともに起こることを、私たちは経験します。世の中一般に言われる罪とは、むしろ結果として表れるものを取り上げて語れているようにも思います。
 
しかし、聖書に記されている罪は、表出する罪の根本・根底部分にあるものを指しているのだと、私は受け止めています。ですから、聖書でいう罪人(つみびと)とは、私の心の問題、意識認識がゆがんでいる状態のことを指すのだと思っています。こればかりは、自分自身ではどうすることもできません。
 
だからこそ、神が本来私たち人間を造られたときに、ご自分の「似姿」としてくださったという所にまで立ち帰りつつ、そこから離れようとする自分自身を見つめ、認識しながら、神に自分自身をあなたの言葉と力で変革してくださいと願うことが大切なのだと思います。そのような私の思いに、神は必ず応えてくださる。助けてくださることを信じたいのです。
 
神の言葉と力こそ、聖書の言葉、そして聖霊の力に他なりません。聖書と聖霊の両輪が、私たちに罪を理解させ、そして罪から解放される原動力になることを信じたいのです。
 
皆さんの一切に、神の守りと祝福をお祈りいたします。

06/04/2024

2024.4.6(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編35編28節
私の舌はあなたの義を
あなたへの賛美を日夜、唱えます。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙3章16節
キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
イースターから始まった一週間も、最終日を迎えました。この1週間は特に、年度初めの一週間でもありましたし、台湾ではとても大きな地震もありました。この七日間に起きたことをひとつひとつ振り返りながら、主の言葉に耳と心を傾けたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が思わされたのは「与えられた舌をどのように用いるか」ということでした。つい先日も、ある政治家が人を誤解させるような発言によって、その職を辞するところまで発展したニュースがありました。その人はそう思っていなかったにしても、人はどう思うか分からない。舌禍(ぜっか)というものには、本当に気を付けなければならない。そんなことを改めて思わされました。
 
このブログもそうですし、私が日々の黙想をSNSで掲載しているのもそうなのですが、日々あらゆる情報が、文字や音声、映像などを通して提供されているなかで、いかに誠実な情報を伝えなけれなならないか、そのために、私たちは何をもってそのことに向き合わなければならないか。とても大切なことであると思います。
 
今日のローズンゲンに示された聖句、旧約聖書・詩編にあるのは「あなたの義を」日々唱え、賛美したいという歌い手の思いというものが収められています。神が誠実な御方で、神の正しい方であることが全世界に広がりゆくために、私の舌が用いられますようにという、願いと祈りをもって歌われています。私の正しさや、自分自身でつくり上げらえた自己正義ではなく、あくまで神が私たちに示されている正義を、私たちもまた語るものでありたいと、私なんかはこの聖句に触れて、改めて思わされました。
 
それが、新約聖書の言葉になりますと、本日のコロサイ書では「キリストの言葉が」と、より具体的なものとして、私たちに示されていることが分かります。キリストの言葉。まさにキリストであるイエスが、人間として人々に示されたその姿は、福音書にしっかりと記されている。私たちは福音書におけるイエスの言動から、何か神の正義であるかをより具体的に聴き取ることができるのだと。とても感謝なことだなと思ったのです。
 
この一週間を振り返るときに、いつも神の正しさというものが前面にあふれ出るような時であったかを、じっくり味わいながら今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんにとってもこの一日が、正しい御方である神の祝福が、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。

05/04/2024

2024.4.5(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書16章60節
私は、あなたの若い日にあなたと結んだ契約を思い起こし、あなたと永遠の契約を立てる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二3章6節
神は私たちに、新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。文字ではなく霊に仕える資格です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を貫くのは、「契約」という言葉です。旧約聖書・エゼキエル書には「若い日にあなたと結んだ契約」「永遠の契約」、新約聖書・第二コリント書には「新しい契約」と、それぞれ記されています。
 
聖書とは、契約を通して神と人とが結ばれていることを知らせる書物と言っても過言ではありません。事実、旧約・新約の「約」とは、まさに契約のことを指すわけですから、聖書を読み解く時に、いかに契約についての理解を深めるということが重要であるか、そんなことを改めて思わされます。
 
そもそも、神と神が選ばれた民であるイスラエル国民とのあいだには、祝福をともなった契約がしっかりと結ばれていました。神は民を祝福する。ゆえに民は神に聴従することで、祝福が持続されるというものです。しかし、祝福の一方で、神は呪いも祝福と対をなす言葉として、契約の大切な要素とされました。
 
実際に、イスラエル国民は神への聴従を怠ったために、幾度となく彼らにとって呪いとなるような目に遭ったことも確かです。しかし、そこで契約が破棄されることは決してありませんでした。契約というものは、履行されなければ破棄されるというのが当然の話だからです。
 
神はことあるごとに、人とのあいだに契約を改定しては関係性を持続され、ついには、それすらしなくても良いように、究極の契約を人とのあいだに、それもイスラエル国民に限定されない契約をお建てになられました。それが、今日の聖句で言うところの「永遠の契約」であり「新しい契約」の果実であるというのです。
 
それが、復活の主イエス・キリストである。私たちは、文字と、文字を理解するために与えられた聖霊なる神の力と助けによって、イエス・キリストを心から感じ取り、祈りつつその生き方に学び、自分の生き方とすることができるのだ。これこそ、新しい、永遠の契約によって生きることなのだと受け止めました。神が契約の与え主であり、私たちをこれまでも契約によって祝福を与え続けてくださる方なのだということです。
 
今日の一日もまた、主にあって素敵な時でありますように。お祈りいたします。

04/04/2024

2024.4.4(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書45章6~7節
私は主、ほかにはいない。
光を造り、闇を創造し
平和を造り、災いを創造する者。
私は主、これらすべてを造る者である。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録1章18節
(私は)生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句ですが、新約聖書であるヨハネの黙示録1章に描かれているのは、ヨハネに示された黙示のなかで、主イエスが語られた言葉です。「死と陰府の鍵を持っている」と、イエスは語っています。死に打ち勝って、陰府から帰られた復活の主であるイエスだからこそ、そう語ることができるのだと。復活という出来事は、死をも支配される神の存在というものを明らかにしていることを、あらためて思わされます。
 
この現実の世の中では、まだイエスが死をも支配される方であるという、具体的なイメージがわいて来ないかもしれません。死は依然として私たち容赦なく襲うからです。いずれやって来るし死というものを、私たちは粛々と受け入れるしかありません。だからこそ、私たちがイエスを「復活の主」と受け止めるのは、自分たちの死後の世界にイエスが、死と陰府の鍵を持たれていて、私たちがそれこそ奈落の底、地獄に落とされることのないように、イエスが私たちを復活の命へ取り計らってくれるだろう、というようなイメージを持つことができるのかもしれませせん。いわゆる「復活の希望」は、あくまで「死後の世界」の話であるというとらえ方です。
 
しかし、これはいつも私が思うことですが、復活とは何も死後の世界に限定されたものでは決してない、ということです。むしろ、私たちがこの現実の世界で生きている時にこそ、私たちは往々にして、復活を体験できるのだということを大切にしたいのです。ここにこそ、復活の喜びや醍醐味というものがあるのだと、私は受け止めたいのです。
 
今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書に描かれているのは、辛酸を舐め尽くし、生きる希望を失っていたイスラエルの都エルサレムの市民たちが、神の言葉によって生きる希望を得ようとするときに、神によって語られた言葉です。神はご自分を「光を造り、闇を創造し/平和を造り、災いを創造する者。」と語っておられます。この言葉から私たちが想像できるのは、神が創造の主であり、しかも、エルサレムをご自分の言葉と行いによって、再創造する者であるということです。まさに、現世に神が復活の御業を豊かに見せてくださることで、私たちは復活というものが、何も死後の世界のものだけではないのだという思いへと導かれているのではないか。私はそのように受け止めました。
 
復活祭の喜びは決して冷めることなく、より一層私たちを復活の希望へと導く。そんなことを私たちの心に刻みながら、今日の一日を過ごしてまいりたいと願います。皆さんの一日に、神の守りと祝福をお祈りいたします。

03/04/2024

2024.4.3(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書34章27節
私が軛の横木を折り、救い出すとき、彼らは私が主であることを知るようになる

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録21章4節
(神は)目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書のなかから、私は特に、旧約聖書・エゼキエル書に記されている「軛(くびき)の横木」という言葉に注目しました。
 

くびきとは、複数頭の家畜をつなぐための道具であり、こうすることによって、より大きな労働力を得ることが期待されます。くびきの横木は、家畜と家畜をつなぐことの他に、家畜がそれぞれ勝手な動きをすることができないように、束縛する意味も込められているわけです。
 
くびきの横木は、しっかりと頑丈につくられていますので、そう簡単に折れるものではありませんし、そもそも首というところは手足ほどの力を有しているわけでもない。首を取られたらもう言うなりにしかなれない。首が重要なところでありながらも、そんな弱さをも抱えています。
 
今日のエゼキエル書で書かれている神の宣言は、そのくびきを神自らが折ってくださるというものです。これまで縛られていたものからの解放を、神がなしてくださる。解放された人間は、それゆえに神が「主(私は神であり、私はあなたとともにいることで、私はあなたの神となるという意味)」であることを、心から実感できるのだというのです。それは、人間関係において生じるあらゆるしがらみや束縛よりも、ずっと軽く、負いやすいくびきであるというのです。後にイエスが「私のくびきは軽く、負いやすい」と、人々に告げられた通りにです。
 
復活祭(イースター)とは、死に打ち勝って新たな命を得た、救い主イエスをお祝いする祭りであって、それはまさに死という、私たちを物理的精神的に束縛する究極のものからの解放をも意味する。私たちは、イースターの意味というものをじっくりと噛みしめながら、今日与えられた新しい命に感謝したいと思います。皆さんの一日に、神様の守りと祝福をお祈りいたします。

02/04/2024

2024.4.2(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書57章15節
私は高く、聖なる所に住み
打ち砕かれた人、低められた人と共にいて
低められた人の霊を生き返らせ
打ち砕かれた人の心を生き返らせる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書24章29節
二人(の弟子)が「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。

今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句、特に新約聖書の言葉は、イエスが復活した日の夕方に起きた出来事について記された箇所です。いわゆる「エマオの途上にて」と呼ばれている部分です。
 
私が教会の牧師とともに働きの場としているところに、日本基督教団東北教区センターがあります。「エマオ」と呼ばれているこの建物は、開館した約25年前より「神と人が出会う場所」というコンセプトをもって歩みを続けています。
 
私がこのコンセプトで気に入っているのが、見えるところでは人と人とが出会う場であっても、その人と人とを結び合わせるのは神御自身であるというところにあります。神との出会いというのは、とても観念的になりやすいのかもしれませんが、実はそうではない。神が結び合わせてくれなければ、人と人とが同じテーブルについて大切な物事を分かち合うことなどできない。だからこそ、神と人、人と人というふたつのベクトルが、どうしても私たちには必要なのだと思わされます。
 
エマオへの途上にてイエスと出会ったふたりは、最初はそれがイエスだと気づきませんでした。大切な師を失ったことで、ただ呆然とこの時を過ごしていたに違いないのです。だから、イエスが復活したという話を聞いても、それをにわかに信じることはできなかった。彼らの心の鈍さは、出会いが失われたことによるショックから来ていたのではないか。そう思えてならないのです。
 
そこに、イエスがこのふたりと出会いの場をつくり、道々触れ合うなかで、徐々に弟子たちの心が開かれていくドラマ。これがエマオにおける物語なのだと私はとらえています。観念的なところから実践的に、ふたりの弟子たちが揺り動かされて、ついにはイエスとの再会を果たしていく。これが復活のもたらす醍醐味なのでしょう。
 
神は、呆然自失のなかに、ともに住まわれ、平安を与えてくださる。そして、心を生き返らせる方であると、預言者イザヤを通して語られました。心の穴を慰めで埋めてくださる神が、今日も私たちとともにいてくださる。そんな思いを胸に抱きながら、一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一切に、主の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。

01/04/2024

2024.4.1(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書1章17節
善を行うことを学べ。
公正を追い求め、虐げられた者を救い孤児のために裁き、寡婦を弁護せよ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録11章28~29節
アガボと言う者が立って、世界中に大飢饉が起こると霊によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。そこで、(アンティオキアにいた)弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住むきょうだいたちに援助の品を送ることに決めた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
日本では、新年度のなかで今日の一日を過ごされる方も多いかと思います。教会の世界でも、これまでの別れがあり、また新しい出会いを経験されている方がおられるかと思います。私も一年間代務牧師としてお仕えした、仙台北三番丁教会の皆さまに別れを告げてまいりました(と言っても、同じ仙台市内、同じ地区にある教会同士ですので、交流はこれからも続きます)。これからは背後で、教会の将来のために祈りを合わせる者でありたいと心から願います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、改めて気づかされたことがあります。旧約聖書・イザヤ書にある「善を行うことを学べ」という言葉について、私はこの言葉を「慈善」のことであると、素直に受け止めました。ただ、この「善」がどこからくるのか。そのことを明確にしなければ、聖書にあるこの言葉の意味を充分に受け取ることはできないと感じさせられたのです。
 
私が感じたのは、あらゆる慈善の業が、自己顕示のために行われるものではないということへの、深い自覚が必要なのだ、ということです。私なんかは、どうしても報われたい、感謝されたいという思いが心のどこかに潜んでいて、ちょっとした拍子で、その思いがにょきにょきと顔を出すなんていうことがあったりします。充実した生活を送っているときには、そんなことはまず無いのですが、自分自身に何か満たされない部分があったりすると、途端に恩着せがましい自分自身を発見してしまうのです。とても不健全なことだと思います。
 
神が私たちに、善を行うことを学びなさいと告げられたのは、あくまで善の主体が神御自身にあるというところから出発しなさいという意味も含まれていると私は受け止めたいと思います。神は善い御方であることへの深い信頼ゆえに、神が愛されている隣り人のために自分のなせることをもって行い、営む。決して無理せず、ゆがむことなくそれを行うことの大切さというものを想わされます。つまり、神がいつも私たちの前におられるのを見つめ続けることから、慈善という言葉の意味を知り、それを実践できる自分自身でありたいと、今日の言葉から願わされた次第です。
 
今日の新約聖書の言葉で印象的だったのは、アンティオキアに住むクリスチャンが、飢饉で苦しむ友のために、「それぞれの力に応じて」援助の業を行った、ということでした。この言葉には、外圧があるわけでなく、強制力が働くわけでもなく、あくまでそれぞれに与えられた判断と決断がそのようにさせるということです。そんな思いが自発的なところから起きることを私は願いつつ、今日の一日、新しい年度を歩んでいきたいと思います。皆さんの新しい日々にも、神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。