31/03/2022

2022.3.31 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
アモス書4章11節
あなたがたは炎の中から取り出された
燃えさしのようになった。
それでも、あなたがたは私のもとに帰らなかった
――主の仰せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二2章13節
私たちが真実でなくても
この方は常に真実であられる。
この方にはご自身を
否むことはできないからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
それでも、あなたがたは私のもとに帰らなかった/主の仰せ。
 
本日の旧約聖書であるアモス書4章には、預言者アモスによってイスラエルの民に語られた神の、非常に痛烈な言葉が収められています。いくら神が人間にアプローチをしても、「それでも、あなたがたは私のもとに帰らなかった」と。
 
この神の言葉を、どのように私の心に収めることができるだろうか。それが、本日私に与えられた黙想です。
 
そもそも、私が神のもとに帰るという感覚があるのだろうか。そのように思ったのです。なぜならば、自分は神の側に属しているという意識が、当たり前のように私のなかにあるからです。しかし、その自意識が「本当にそうなのか?」と自問することで、実は神のもとに帰られなければならないほど、自分自身が神から遠く離れていることに気づけるかもしれない。そう感じたのです。
 
預言者アモスの時代のイスラエル国民が、まさにその状態でした。自分たちが神から気持ちが離れているなんて露だに思わなかったことが、聖書を通してわかります。このことを通して知りたいのは、私自身の自意識などというものは、いつも、すべて正しいなんていうことば絶対ない、ということです。ゆがみまくった自意識を抱えながら、私はこの世で生きているということなのでしょう。
 
だからこそ、私は神の助けを必要とするのだ。私がたとえ真実から遠かったとしても、帰ってきなさいと、真実をもって手招きをしてくださる方がおられる神がおられるのだと。その方の前では、私のすべてが明らかにされることで、私は神に守られるのだと。そのように感じたのです。
 
炎のなかから取り出された燃えさしのように、なにかをくすぶらせながら生きる私。そんな私でも、神は私を招いてくださる。私は神の招きによって、深沢教会で過ごした7年間の務めを終えようとしています。まさに炎のなかから取り出された燃えさしのような存在なのかもしれません。
 
しかし、神は私を招き続けてくださることに、心からの感謝を神にささげたいと思いますし、そうやって神は、歴史を通じて私たちを招き続けてくださることを思うと、深い感動に包まれていく。そんな気持ちでいっぱいです。
 
愛してやまない教会が、この世界に住むひとりひとりが、そして私もが、そのような神から今日も招かれ、守られ、遣わされていく。そのことに希望をもって、今日の一日を歩んでまいりたいと願います。どうぞ、皆さんにとっても素敵な一日でありますように。お祈りいたします。

30/03/2022

2022.3.30 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ネヘミヤ記13章2節より
私たちの神はその呪いを祝福に変えてくださった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章19節
神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
呪いを祝福へと変えてくださる神がおられる。
 
「呪う」と「祝う」。とてもよく似た漢字ですが、その意味は真逆であるのは、私たちもよく知っていることです。そして、そのどちらも口を通して発される言葉をもって、呪うこともできるし祝うこともできるというわけです。
 
今日の聖書の言葉を通して、改めて考えさせられたことがあります。呪うも祝うも、私たちの心が問われる話であるということをです。どうして祝うことができるのだろう。どうして呪ってしまうのだろう。、、
 
大抵の場合、呪いは自分自身を中心にして物事を考えたときに、起きてくる感情なのかもしれません。自分がこういう嫌なことをされた、言われた、態度で示された。それに根を持つからこそ、怒りが蓄積された結果、呪いへと発展するというわけです。
 
では、祝うとは何かと言えば、祝いは自分の向こう側にいる相手を中心にして物事を考えたときに、起きてくる感情と言えるでしょう。相手の幸せを見るのが本当に嬉しいからこそ、私たちは祝福の態度を示し、言葉を贈ることができるのだと。
 
今日の旧約聖書の言葉は、私たちの神は呪いを祝いに変えてくださる方であることを、私たちに伝えています。つまり、相手の尊厳までも巻き込んでしまうような自己中心の生き方から、相手の幸せのために自分自身が貢献できるような生き方のモデルを、神自らが人間に対して示されること。これこそ、今日の新約聖書で言われる「和解の言葉」です。
 
結局のところ、和解とは双方の歩み寄りがなければできないと私は思っているのですが、それは、人間がどうしても祝いよりも呪いを選んでしまうからなのであって、神のように、一方に責を追求することなく、相手が自分に近づく前に、ご自身から私たちの方へ近づいてくださる。そして和解の言葉を、祝いの言葉として贈ってくださる。この言葉に、私は深く黙想させられました。
 
神のようにはなれないことは、もちろん承知のうえで、しかし、和解の言葉の喜びに生きる者となりたい。これが、本日私に与えられたチャレンジです。どうか、そのことを祝いの言葉をもって励ましてくださる神が、私を、私たちを支え、ともに歩んでくださいますように祈りつつ、過ごしてまいりたいと思います。

最後に、呪いとか祝いと聞くと、この曲が思い出すので、皆さんへご紹介。
レ・ロマネスクの『祝っていた』です。



どうぞ、皆さんの一日に、神様の祝福が豊かにありますように!

29/03/2022

2022.3.29 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
民数記23章12節より
主が私の口に授けられたことだけを、私は告げるべきではないでしょうか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録4章20節
私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
私が神学校に入学した21年前のことです。当時属していた教会におられた年配の信徒さんから、こういうことを言われたのを思い出しました。
 
「多弁なのも良いけれど、いざという時に大切なことをひと言、口にするほうが、言葉に重みが出るし信頼もされます。」

私は、自他ともに認める、多弁な人間です。それで、今までどれだけ舌禍事件を起こしてきたか数知れません。しかし、失敗を繰り返すうちに、なんでもかんでもしゃべっていれば良いというわけではないことを、学ばされています。大切なことを大切なときに、大切な言葉として伝える。まだまだ道半ば、修行中の身です。
 
そんななかで、今日の聖書の言葉をいただいたわけですが、本当に大切なことは、神がご自分の言葉を通して私たちに与えてくださるのだ。これが、私の黙想です。それは、昔も今もまったく変わらないことなのだと、今日の聖書の言葉を通して思わされました。
 
ただ、神の言葉が聖書を通して私たちに知らされるときに、それをどのように解釈し、受け止めて自分の生き方としていくかというのは、時にはシンプルに受け止めることもできれば、とても難解のように思える時もある。そうしているうちに、自分自身で複雑にしすぎてしまい、訳が分からなくなってしまうこともあれば、あまりにも単刀直入過ぎて、血の通っていないような殺し文句のようなものになってしまうこともあると思うのです。
 
そんな時に大切なのは、神に対する私たちのイメージというものが、聖書全体からどのようにつくり上げられているだろうか、ということへの問いであり、自己省察なのかもしれません。神は何のためにこの言葉を私に与えているのだろうかと。
 
そう私たちが考えるときに、その最も原点にあるのは、神は私たちに命の息吹を与え、大切に育んでくださり、具体的にはイエスという御子を私たちに遣わして、神に愛されている実感というものを、イエスというモデルを通して知ることで、自分の生き方とされ、その生き方が永遠なる平和へとつながっていく。そのことをお望みである神がおられる、ということなのでしょう。
 
そんな思いへとつながっていく神の言葉であることを、私たちが受け止めながら、今日も聖書の言葉に耳と心を傾けていきたい。そんなことを願わされました。私たちの発する言葉が、そのようなところから出る、神の祝福あふれたものとなりますように。

さよならは別れの言葉じゃなくて

 
さよならは別れの言葉じゃなくて
再び逢うまでの遠い約束


2012年3月
日本基督教団東北教区被災者支援センター・エマオでの働きを終え
仙台の街を離れ
ドイツへ赴きました


そのときに
スタッフだったHTさんが贈ってくれたのが
「セーラー服と機関銃」でおなじみの
この歌の歌詞でした


あれからちょうど10年
HTさんはもうこの世にはいらっしゃらない
しかしそれでも
僕は仙台の街へ赴くことになりました


ドイツからの帰国後
東京での7年間
2度目の東京
前の東京とは全然違う
内容のたっぷり詰まった
充実した7年間でした


泣くまいと思ったのに
ただ涙は流れるのみ
それだけ僕は
この街を この教会を この皆さんを
愛することができたのかなと


あと2日
精一杯手足を伸ばして
できることをなしていこう


そして
再会に希望を託せるような
さよならを言いたいのです


日々観想

28/03/2022

2022.3.28 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記上19章11~12節より
主の前で非常に激しい風が山を裂き、岩を砕いた。しかし、その風の中に主はおられなかった。風の後に地震があった。しかし、その地震の中に主はおられなかった。地震の後に火があった。しかし、その火の中に主はおられなかった。火の後に、かすかにささやく声があった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章7~8節より
イエスはニコデモに言われる:
『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
昨日、深沢教会での最後の礼拝に臨みました。絶対に泣くまいと決めていたのに、大粒の涙をぼろぼろと流してしまいました。あっという間に過ぎた7年間の深沢教会での歩みが、いかに充実し、内容がたっぷりと詰まったものであったか。ひと晩過ぎて、そのことを改めて感じさせられる朝を迎えています。
 
教会という場は、ときには大嵐や激震が走る場であるというのは、教会に集う私たちが、皆それぞれの思いを持ち、真剣にそこに向き合うからなのでしょう。しかし、何事も「やりすぎると」、いろいろなぶつかり合いがあるのも確かです。私の敬愛するある牧師が、「罪」という言葉の解釈として「やりすぎ」という言葉を当てはめていたのは、とても印象的なことでした。本当にその通りだと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉には、嵐ふくときも、土台が揺れ動いて倒れそうなときも、炎で焼き尽くされそうなときでも、そこには神がおられなかったと語られています。では、どこにおられるのか。今日の聖書の言葉には「かすかにささやく声があった」と、神の御声について語られています。
 
平安でない状況が私たちの環境を襲い、取り囲むときに、実は神を見ているようで見ていない。私たちの心や思いに、神の御心が不在であることに気づいていない。気付けないということがあるのだと。耳をそばだてないと、かすかにささやく神の声を、私たちは聴くことはできないし、ましてや神の御心を知ることもできないのだと。聖書の言葉はそう語ります。
 
自分自身の発するやかましい声のゆえに、神の語られる言葉を聞こえなくさせてしまうようであれば、私たちの心や思い、発する声や行いというものがどこから来るのかを、今いちど確かめてみることは、本当に大切なのだと実感させられます。
 
今日の新約聖書の言葉。イエスの話を聞きたいと願っていたニコデモという人物に、イエスが語られた言葉です。「風」になぞらえられる神の思いは、非常に自由であり、開放的であり、まさに御心のままに私たちの内を通過します。
 
人々は、その風がどこから来て、どこへ行くのかを知らない。そのようにイエスはニコデモに告げられました。風は吹いているのに、私たちはそれに気づけないというのです。まさにささやくほどにかすかな神の声に相通じるのではないか。私はそう思ったのです。
 
神は必ずおられるし、私たちのために言葉を発され、その思いを伝えておられます。大切なのは、私たちがその声に、耳と心を傾けようとしているだろうか、という問いへの黙想であり、自己吟味であり、応答をともなった実際の生活なのだと思うのです。
 
そのことに、私たちのアンテナを微調整しながら、歩む一日でありたい。そう願います。どうぞ、今日も神のささやかれる御声に、自分の心を合わせることのできる一日でありますように。お祈りいたします。

27/03/2022

2022.3.27礼拝説教:終わりに


2022年3月27日
深沢教会主日公同礼拝

聖書 コリントの信徒への手紙二13章1〜13節
説教 終わりに

2022.3.27 リビングライフ


日本CGNTV リビングライフ
2022年3月27
聖書:ルカの福音書23章44〜56節
テーマ:神の御子が死なれても変わることのない愛と忠誠

2022.3.27 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言14章31節より
弱い人を虐げる者は造り主を見くびる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章40節
イエスは言われる:
よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
私事ですが、今日は7年間働いた深沢教会での最後の日曜日です。どうしても、今の私にとっては、深沢教会牧師として働いた日々のことが、黙想する土台となっています。どのような働きを、私はこの教会でしたのだろうか。そんなことを黙想し続けています。
 
今日の御言葉も、そういう意味では、私に対して響く言葉であることは言うまでもありませんでした。弱い者、小さな者とは、何か特定の人々、いわゆる社会的・経済的・身体的な弱者のことだけを指す言葉ではありません。弱く小さくされた者とは、私たちそのものであり、何を隠そう私自身なのだと、思えてならないのです。
 
しかし、私たちは自分を強く見せようとする。見栄を張る。少しでも大きく見せようと頑張ってしまいます。だから、弱い者・小さい者の存在を、自分以外の誰かに向け、それを虐げようとする。それが人間の常なのだと思わされます。
 
弱い人を虐げる者は、造り主なる神を見くびる。今日の旧約聖書の言葉です。私たちを造られた神は、私たちを見くびるどころか、最大限の愛を私たちに注ぎ、その命の日々を祝福してくださる。私たちが強さを誇示しながら実は弱々しい、張子の虎のような存在であったとしてもです。

弱いとされる者に対する深い愛情の念は、神の愛に由来するものです。だから、虐げるならば神を見くびることになり、神の愛によって自分の弱さというものを十分に理解したうえで、隣人に接するならば、十字架の極みにまで苦しみ、弱く小さくされたイエスの姿を見ることができるのだと。
 
弱いことは決して悪いことではない。それどころか祝福される根拠である。その祝福を胸にして、今日も歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日が、そのような神の祝福に包まれるものでありますように。心からお祈りいたします。

26/03/2022

2022.3.26 リビングライフ


日本CGNTV リビングライフ
2022年3月26日
聖書:ルカの福音書23章33〜43節
テーマ:十字架の愛の真髄は敵への愛とたましいの救い

2022.3.26 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記24章7節より
主は、あなたの前に御使いを遣わされる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録12章8~9節より
天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、付いて来なさい」と言った。それで、ペトロは外に出て付いて行ったが、天使のしていることが現実のことだとは分からなかった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧約・新約聖書に共通するのは「御使い(天使)」という言葉です。私たちは、いわゆる天使の存在をどのように受け止め、自分の生活のなかで意識することができるのでしょうか。そのあたりを黙想してみたいと思います。
 
天使に関しては、キリスト教世界のなかでも様々な解釈・理解がありますが、ひとつ確かに言えるのは、本日の聖書の言葉にあるように、天使の存在が明確に語られているということです。
 
その様態がどのようなものであれ、私たちは天使には、神から与えられた役割というものがあって、その役割は私たち一人ひとりにも影響するものであるということを、私たちは天使の存在を通して理解したいと思います。
 
天使の役割とは「伝えること」です。具体的には神の思いと願いを、言葉や幻のかたちで伝えることです。私はここで思います。私は何を通して、神の思いや願いというものを受け取っているのだろうかと。
 
ここで、ピンと思いつくのは聖書の言葉ですが、聖書の言葉だけでは、やはり何か違うと思うのです。そう。聖霊なる神の働きこそ、私に理解や気づき、発見や禁止の思いすら与えるに欠かせない存在なのだと。
 
残念ながら、私は天使を見たことがありませんし、御使いが私のもとにあらわれたということもありません。しかし、聖書の言葉と聖霊の働きによって、神の御心を受け取ることができた経験は、今まで何度も何度もありました。
 
私は天使の存在を心から信じる者ですが、しかし、天使が私の前に現れないからと言って、天使の存在を否定するようなことは避けたい思いが、心のどこかにあります。神は天使に類する存在として、聖書と聖霊の働きを通して、今日も私に何かを伝えようとしている。
 
本日の聖書の言葉で言えば、アブラハムの子イサクが結婚するときも、使徒ペトロがキリストによる救いを伝えたがために投獄されたときも、天使が行く道を前に進ませてくれた。ここに、神が私たちに対して願っていることの真実が明らかにされているのだと思うのです。
 
神は、私たちがいかなる困難やしょうがいにも、「伝えるもの」を私たちに与え、ともに乗り越えさせる助けを与えてくださるのだと。そんなことを希望の糧にして、今日も歩んでいくことができればと願わされました。
 
今週も7日目を迎えました。どうぞ、明日への備えの一日でもある今日が、神の言葉と助けがあふれるときとなりますように。お祈りいたします。

25/03/2022

2022.3.25 リビングライフ


日本CGNTV リビングライフ
2022年3月25日
聖書:ルカの福音書23章26〜32節
テーマ:救いの十字架、さばきの十字架

2022.3.25 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編91編15節より
主は言われる:
彼が私を呼び求めるとき
私は答えよう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙10章12節より
同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の旧新約聖書を貫くテーマは「呼び求める」と、私は受け止めました。神を呼び求めるならば、神は必ず答えてくださる。必ず私たちを豊かにし、恵みをお与えになると、聖書には記されています。
 
私たちはこの場合、呼び求めるという言葉をどのように、またどこまでのことを指す言葉なのかを、理解しておくことは大変重要であると思うのです。
 
昔、自分の人生に悩み、苦しんでいたあるクリスチャンは言いました。「私はこんなに悩んでいて、神に、その悩みから解放してくださいと祈っているのに、神はその悩みを全然取り去ってくださらない。呼び求めているのに、本当に応えてくださるのだろうか。」
 
私たちがどれだけ主を呼び求めても、思うような答えが返ってこない。私も少なからず経験のあることです。ここで考えさせられます。呼び求めるとは要求することなのかと。もちろん、要求は含まれるでしょう。しかし、要求だけでないと、私は考えています。
 
ここに、神を呼び求めることの真実というものが、明らかにされているような気がしてならないのです。私たちは、難も知らない相手に対して、自分の願いを込めて呼び求めることはしません。信頼できると分かっているからこそ、また、そう期待できるからこそ、その相手を呼び求めるのではないかと。
 
そう考えるときに、私たちは神を呼び求める前に、神がどういう御方なのかを知り、神が日々発せられる言葉に、耳と心を傾けているからこそ、はじめて呼び求めることができるのだと思うのです。神の言葉が語られ、聞かれ、理解されるところにこそ、呼び求め、また、神が自分自身を豊かにしてくださることも、理解できるのだと。
 
先ほど申し上げた、悩みから解放されなかったその方は、いつしか、自分の悩みで必要以上に苦しむことは無くなりました。悩みが消え去ったわけではありません。しかし、その悩みに対して、ご自分の言葉で慰め、励まし、整えてくださる神を、その方は理解することができたとおっしゃっておられました。
 
どのような答えが返って来るか、たとえ分からなかったとしても、神は私たちが呼び求めることができるように、私たちをご自分の御言葉で導いてくださる。そんなことを希望に、今日の一日を歩むことができますように。お祈りいたします。

24/03/2022

2022.3.24 リビングライフ


日本CGNTV リビングライフ
2022年3月24日
聖書:ルカの福音書23章13〜25節
テーマ:正しい判断から目を背けた卑怯な判事

2022.3.24 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編143編5節
私は過ぎ去った日々を思い起こし
あなたの行ったことを一つ一つ思い返し
御手の業に思いを巡らします。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章54~55節
マリアは言った:
主は慈しみを忘れず
その僕イスラエルを助けてくださいました。
私たちの先祖に語られたとおり
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
歴史のなかで働かれる神。今日、ふたつの聖書の言葉を通して、そのような言葉が思い浮かびました。神は、今、ここに、そして未来へ向かって働かれる御方ですが、私たちは過去の歴史を通してでなければ、神の現在も、未来も知ることは絶対にできないのだと、改めて感じさせられます。
 
聖書は古い書物です。ある意味で、時代遅れな印象を抱かせる場合もあるでしょう。しかし、それを肯定的に、また建設的な批判の目でとらえるためには、神と向き合い、ときには神に背を向け、そのようななかで神の助けを必要とした人々の歴史を知るのは重要です。「故きを温ねて新しきを知る(温故知新)」とは、よく言ったものだと思うのです。
 
過去を真摯に、そして謙遜に振り返ること。もちろん、そこに引きずられて続けて生きるという意味ではありません。今日の旧約聖書の言葉は、歴史を振り返ることで、私がどのような状況にあったとしても、神は私の神でいてくださったことを指折り数えて思い出しますという、歌い手自身の告白の言葉でもあります。
 
私がどのような状況にあったとしても、というのは、たとえ私が、神に見捨てられてもおかしくないような状況にあったとしても、という意味でもあります。私は神の御前に、そんな偉そうに自分自身を披露することなどできない。穴があったら入りたい。しかし、そんな穴のなかにも、神は私の神として入り込んでくださる。そして、寄り添い、ともに歩んでくださるのだと。
 
イエスとして生まれる赤子を身ごもることになった少女マリアも、社会による好奇の目にさらされようとしているなかで、自分の潔白を特に主張するわけではありませんでした。その前にマリア自身がおこなったのは、歴史を通じて人間のために働かれる神のなさったことを思い起こすという作業でした。先祖のためにも、そして、私のためにも。
 
今だけを見つめることは、順調ならば良いのですが、不調ならばつらくなるばかりです。そんな時こそ、私たちは、いったん立ち止まって、振り返る、想い起こす、思い巡らすといったことに、自分自身の関心を向けてみることができるならば、神が私たちを楽な生き方へ導いてくださる。そんなことを黙想させられました。
 
順境にも、逆境にも、私たちのために共にいて働いてくださる神の祝福が、今日の一日にも豊かにありますように。お祈りいたします。

23/03/2022

2022.3.23 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記下22章2節
主はわが岩、わが城、私を救い出す方。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章33節
イエスは言われる:あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
ただ事ならぬ物々しさが、イエスを囲む弟子たちにはありました。イエスは明らかに弟子たちのもとから離れようとしています。そして、自分がいなくなった後のことを、弟子たちにひと言、ひと言お語りになられました。
 
その最後、祈りに入られる直前に、イエスから語られたのが本日の新約聖書の言葉です。イエスは知っていました。弟子たちはひどい恐れに襲われ、イエスの弟子として生きていくことの苦難が待ち構えていることをです。
 
この弟子たちに、イエスは語ります。弟子として生きる苦難や恐れがあるでしょう。しかし、勇気を出してください。私はあなたがたと今までのように生活はできなくなるけれど、私はいつまでもあなたがたを守ります。なぜなら、私は世に勝利したのですから。
 
苦難、そして恐れは、イエスがこのことを語り終えた直後にやってきました。イエスが捕縛されて、その姿に恐れをなした弟子たちがイエスのもとから逃げてしまいました。イエスはただ孤独に、十字架にはりつけにされていきました。
 
一見すると勝利とは程遠い悲惨な状況に、弟子たちは自分の弱さ、情けなさ、ふがいなさに苦しんだに違いありません。イエスの言う通りでした。強がっても、大言壮語を吐いても、世の苦難を受け止めることができなかったのでした。壁はもろく、崩れ去ってしまった。
 
しかし、にもかかわらず、イエスは私たちを励まし続ける。勇気を出しなさいと。この勇気は、イエスが世に打ち勝ち、死に打ち勝って復活し、絶えることのない神との関係性、つまり永遠の命という絶対的な保証があるからこそ、私たちは初めてイエスの励ましを知り、勇気を出すことができるのだと。
 
その勇気は、まるで頑丈な岩であり、堅固な城であると歌ったのが、本日の旧約聖書の言葉です。主という名前の御方である私たちの神は、その名の通り、私たちの神であり、私たちの神となってくださり、私たちとともにいてくださる、その姿勢を貫いてくださるのだと。
 
さまざまな恐れに打ち倒されそうになり、倒れてしまい、立ち上がることの辛さが私を取り囲むとき、神様、この弱い私を助けてくださいと声を振り絞ったとき、必ず神は私のために守ってくださる。だから、今日も勇気を出して生きなさいという声が聞こえてきました。
 
強くなんかない。強がっているだけだ。弱い。しかし、弱いときこそ強いのだ。なぜならば神が全身全霊で守ってくださるからだ。そんなことを信じられる一日が、この世界を平和へと導いてくださいますように。お祈りいたします。

22/03/2022

2022.3.22 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編118編24節
今日こそ、主が造られた日。
これを喜び躍ろう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章5~6節より
イエスは言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の聖書の言葉は、徴税人の頭・ザアカイにかけられた、イエスの言葉の部分です。イエスが村にやってきたときに、ザアカイはひと目イエスを見ようとしますが、背が低かったため、人だかりのなかでイエスの姿を見ることができません。
 
そこで、ザアカイはいちじく桑の木の上に登りました。高みからイエスを眺めようとしたのです。それは、税金で人を支配していた、彼の生き方にも相通じるようにも思えます。
 
そんなザアカイに、イエスはすぐに降りてきなさい。私はあなたの家に泊まることにしていると告げます。あのイエス様が我が家に泊まってくださる。ザアカイは嬉しさでいっぱいになります。すぐに木から降りて、喜んでイエスを迎えたと聖書には記しています。
 
イエスが、ザアカイの家に泊まることは、文字通りの宿泊以上の意味が含まれていました。泊まるという言葉は、とどまるという意味のメノーというギリシア語が用いられています。そう。イエスはザアカイの心のなかにとどまりたいという、イエスご自身の願いの言葉であったのでした。
 
イエスがザアカイの心の中にとどまってくださるからこそ、ザアカイはイエスの心を、喜びをともないつつ、今後の自分の生き方にすることができました。悪徳な徴税人の頭ザアカイは、イエスの弟子として生きる決意と、すべき行いをイエスに約束しました。
 
私たちが主なる神の御心によって生きるというのは、そうしたいという自分の思いが起こされ、そうしようと願い、実際に自分自身の生活で実践することにつながるわけですが、その大前提にあるのは、イエスが私たちに対して、あなたのうちにとどまりたいという、切なる願いです。イエスによる私たちへの語りかけです。そして、イエスが私たちへ、実際にご自分の生き方を、命をかけて私たちに示してくださった実践です。
 
このイエスの期待と、聖書の言葉を通してなされる語りかけ、語りかけられた聖書の言葉を通して、イエスの生き方が私たちの思いと心にしみこんで、私たちの生き方とされていく。ザアカイ物語は、私たち自身の生き方へのモデルそのものなのだと思わされます。
 
今日こそ、私たちが神によって造られた。私たちは神によって、自分の生き方が再創造されるからこそ、たとえ失敗しても、転び、倒れてしまっても、神によって新しい一日を、その御心によって生きることができるのだと。
 
失敗が許されない、失敗したら、立ち直れないほどに叩かれ、再創造など望めないようなこの世の中だからこそ、イエスがザアカイに何を語られたのかを、じっくりと黙想する一日を過ごしたい。そんな思いにさせられました。
 
そのような神が、今日も私を支えてくださる。このことが生きる喜びへとつながれていきますように。心からお祈りいたします。

21/03/2022

2022.3.21 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編143編8節
歩むべき道を知らせてください。
私はあなたに向かって魂を高く上げます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一6章6~7節
満ち足りる心を伴った敬虔は、大きな利得の道です。私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日は春分。次の任地での引き継ぎのために、本来は新幹線で出かけるはずだったのが、先週の地震で運休になってしまったため、急きょ高速道路を走らせて、一旦休憩するために、福島の実家へ到着したところです。実家の茶の間から、今日の黙想をしているところです。
 
高速道路を走らせていたら、東の空が明るみ、やがて太陽の光が自動車のなかへ差し込みました。春分を境に、昼間の長さが夜の長さに勝る。長い冬の季節から、木々が芽吹き花開く春がやってくるのが、本当に待ち遠しかった。そんな思いにさせられました。
 
今日の旧約聖書の言葉では、歌い手が神に向かって、自分の魂を高く上げますと自分の思いを歌いました。この「魂を高く上げる」という言葉ですが、切望するという言葉でも表現できるものです。私にとって、神が必要なのだと切望するからこそ、魂を高く上げることができるのだと。
 
今日の新約聖書には、そのことを「敬虔」という言葉をもって表現しています。敬虔とは、ひたむきにという意味です。ただ一途に神を切望する姿こそ、敬虔のさまであると言えるでしょう。ただ一途に、神が示された道をひたすら歩もうと願い、自分の日々とする生き方こそ、掛け値なしの利得なのだと、手紙の筆者であるパウロは、年若きテモテに伝えました。
 
あらゆる損得勘定や、社会や個人の思惑に満ちあふれた利得願望ではなく、神が私の心を、まばゆく光る太陽の光のように、ご自分の栄光で照らしてくださり、喜びで満たしてくださる。そんな思いを胸にして、今日の一日を生きてまいりたいと思いました。
 
どうぞ皆さんの一日も、そのような光によって祝福された時となりますように。心からお祈りいたします。

20/03/2022

2022.3.20 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編56編9節
私の涙をあなたの革袋に蓄えてください。
あなたは間違いなく、その涙を数えてくださいます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章4節
悲しむ人々は、幸いである
その人たちは慰められる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私の涙を、一粒一粒数えてくださる神がおられる。
 
皆さんは「ドロップスのうた」という歌をご存知でしょうか。今から約60年前に、まど・みちお作詞、大中恩作曲でつくられ、NHK「みんなのうた」で流された名曲のひとつです。
 
泣き虫な神様がポロンポロンと流した涙が、ドロップスになって世界中に広がった。それを子どもも大人もがペロンペロンとなめている。神様の涙が、人々を喜びへと導く。なんともホッとする歌です。
 
 
作詞者のまど・みちおさんも、作曲者の大中恩さんもクリスチャンでした。このふたりは、どのような思いで、この曲をつくったのだろうか。そんなことを思いながら、今日の聖書の言葉に思いを寄せました。
 
私の流す涙を数え、ご自分の革袋に収めてくださる神。悲しむ者は幸いなのだと、人々を慰めるイエスがおられる。それは、誰よりも私たちのために涙を流し、私たちのために憐れみの心をもって泣いてくださる神だからこそ、イエスだからこそそのように言えるのだと。
 
神が流された涙は、甘酸っぱいドロップスのように、私たち一人ひとりに美味しさを与える。おそらく、ドロップスのうたは、私たちをつねに慰めてくださる神を信じ、知っておられる二人だからこそ、出来上がった曲なのではないか。そう思えてならないのです。
 
私たちが流す涙。悲しい時、嬉しい時、悔しい時、寂しい時、感動した時。私たちの眼からこぼれ落ちる涙。それを漏らさず受け止め、革袋に収めた後で、ドロップスにしてくださるような方。それが私たちの神である、イエス・キリストなのだと。
 
その神から出たのが、私たちを励まし、慰めてくださる聖霊なる神様です。どんな時でも、私たちは聖霊なる神が私たち一人ひとりを包み、私たちのために涙を流して、ご自分の慰めで満たしてくださる。たとえ、私がそのことに気づいても、気づかなかったとしても。
 
昨日、教会のあるメンバーの方からいただいたメッセージカードに「先生とは一緒に笑うことよりも泣くことが多かったですね」と書いてありました。確かに、この方とはよく涙を流し合いました。
 
ただ、思うのです。これら涙は、神が慰めてくださるからこそ、何のためらいもなく流すことができた、ドロップスのような涙だったのかなと。だから、いっぱい流した涙は、必ず喜びへと導く素敵な涙だったのだと。
 
神は、今日も私に、そんなドロップスを与えてくださる。そのことを今日を生きる希望にしたい。そんなことを願わされました。一週間の始まりである主の日が、皆さんにとっての善き神からの慰めの時となりますように。お祈りいたします。

19/03/2022

2022.3.19 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨナ書2章7節より
わが神、主よ
あなたは命を
滅びの穴から引き上げてくださった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二2章19節より
神の堅固な土台は揺るぎません。そこには、こう刻まれています。「主はご自分の者たちを知っておられる。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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たとえ私たちが神を知らぬとも、神は私たちを知っていてくださる。この場合の知るとは、ちょっと知っているということではなく、すべてを理解してくださるということなのだ。
 
たとえ人が私の真意を理解してくれなかったとしても、神はすべてを御存知なのだ。私の心のうちも、そして何が、私にとって一番良い道であるかということも。
 
今日、ふたつの聖書の言葉を通して、真っ先に浮かび上がった思いです。
 
ふと、こんなことを思い出しました。私の母の言葉です。幼い頃、私は母からこんなことをしばしば言われたのを覚えています。「今、あなたのことを理解してくれなかった人がいたとしても、時間が経てば、必ず理解してくれるようになるよ」と。
 
私は、いわゆる「普通」というところからは、少しはみ出していた子どもだったのだと、昔のことを思い出しては、そう思うことがあります。親は、私の奇行ぶりを心配して、精神科で検査してもらったほどでした。
 
そして、私自身も「普通」であることを要求され、同調圧力の受けることによって、社会のなかでまかり通っている「社会常識」なるものを身に付けることができたし、今は、ある程度、その社会通念に従って生きている部分があります。
 
しかし、それはあくまで、社会を生きるための私のスキルのようなものであって、実際のところは、本当の自分の姿とのギャップに苦しむことがありますし、それがとてつもないストレスを生むことがあります。それが、私の「差し障り」なのです。
 
だから、誰かから誤解されるときに、それを必死にかき消して、理解してもらいたいという欲求は、人より大きいのだと感じています。それは、これまでの人間関係のなかで、しばしば起こる、私の思いに他なりませんし、このことで、人間関係の齟齬というものも、これまで何度も経験してきました。
 
しかし、今日の聖書の言葉にもあるように、神はすべて分かっていてくださるのだ。長所も欠点もすべて理解してくださっていて、時に応じて、私にご自分の言葉を与え、助けを与えてくれるのだと。私にとっての最大の理解者は、神なのだと。
 
このことに、これまでどれだけ慰めを得てきたか計り知れません。神という堅固な土台のうえに私は立たされています。ちょっとしたことで揺らごうとも、神は私を支えていてくださる。時には励まし、時には戒め、時には立ち上がらせてくださり、背中を押してくださる神。
 
その神に、今日も生かされることに、心から感謝して歩みたいと思います。どうぞ、皆さんにとっての一日も、そのような神の豊かな支えのもとにありますように。お祈りいたします。

18/03/2022

2022.3.18 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編10編1節
主よ、なぜあなたは遠く立ち
苦難の時に身を隠されるのですか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書4章38節より
イエス自身は、艫の方で枕をして眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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神様、助けてください!
 
昨日の夜、私はそんな言葉が自分の心のなかでいっぱいになりました。そして、とても苦しい気持ちになりました。いつになったら、神様は、この私から苦しみを取り除いてくださるのだろうか。そう思ったのでした。
 
そのあと、希望の言葉が信仰の友のあいだで交わされることで、私の心はとても落ち着きました。元気があふれてきました。確かに助けはある、そのように思えてきたのです。明らかに神様が手を私の苦しみに、手を差し伸べてくださったのだと思います。そうして、眠りにつくことができました。
 
いつもより30分遅く目覚めました。私としては少々寝坊気味の朝を迎えました。ローズンゲンの言葉に目を当てたら驚かされました。まさに、昨晩の私の心境そのものが、聖書の言葉に記されているではありませんか。そうです。昨日は正直言えば、神に見離されているかのような感覚に襲われていました。
 
ダビデ王が、神に逆らう者たちの策略で苦しむ人々がある現状を目の当たりにして、必死の思いで自分の窮状を神に訴えました。こんなにも苦しみのなかにいるのに、どうしてあなたは遠く離れ、自分の身を隠しておられるのですか、手を差し伸べてくださらないのですかと。
 
大嵐のなかで船が揺れ、湖に今や放り出されそうな状況のなかで、イエスの弟子たちは恐怖のなかにいるのに、イエスはそんな弟子たちをよそに眠っておられました。弟子たちは訴えました。私たちが湖に放り出されることがあっても、あなたは何とも思わないのですかと。
 
まさに、神に見離されているような感覚そのものです。しかし、本当に神は人を見離されたのでしょうか。ダビデ王にしても、イエスの弟子たちにしても、見離されたような感覚を、いつまでも持ち続けることはありませんでした。
 
ダビデ王は、こう歌いました。
主よ、あなたは苦しむ人の願いを
聞いてくださいました。
彼らの心を確かなものとし
耳を傾けてくださいます。(詩編10編17節)
 
イエスは、弟子たちの訴えに対して、このようにされました。
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。(マルコによる福音書4章39節)
 
神が私たちの訴えを無視し、見捨てられるはずはないのだと、私たちは続く聖書の言葉を通して、知ることができるのです。それは、まさに私が昨晩に経験したことでした。
 
もう先がないと落ち込み続けることは決してない。未来には必ず神が扉を開いて、新しく、心地よい風を吹き込んでくださるのだ。そこに希望を見出そう。その希望によって、今日の一日を精一杯生きていこう。そんな思いにさせられました。
 
「もし、神は近くにいないと感じる自分自身を見るならば、神は私の近くにいるのだと考えなさい」。中世の神秘主義者であるマイスター・エックハルトの言葉です。そう。神は近くにおられる。そんなことに気づきが与えられ、それゆえに希望を見出せる一日でありますように。心からお祈りいたします。

17/03/2022

2022.3.17 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記8章2節
あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書11章29節
イエスは言われます:私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書の言葉は、エジプトを脱出して、約束の地にいたるまでイスラエルの地を40年間さまよい歩いた民たちの指導者・モーセによって語られた回想の一文です。
 
この文章のなかで「主はあなたを苦しめ」という言葉がありますが、日々の聖句・ローズンゲンの原著であるドイツ語聖書(ルター訳聖書2017年版)では、「主はあなたをへりくだらせ」と訳すことのできる言葉が記されていました。
 
人生の苦難は人を謙遜にさせる。私は、この言葉に疑問符を持たされました。人間は苦しみを経験すると、本当に謙遜になれるのだろうか。むしろ逆なのではないだろうか。そう思ったのです。なぜなら、人生の苦難は人を意固地にさせ、あらゆることに頑なな心を抱かせる力があると思っているからです。
 
だから、私はこの言葉に黙想を深めたいと思いました。もし、苦しみが人を頑なにさせるのであれば、その根拠とは何なのだろうかと。苦しみは人間に恐怖心や不安を与え、そんな恐れが人の心に壁をつくり、苦しみに蓋をして自分のうちに閉じ込めてしまうのだと。そう考えました。
 
もし、わが心にそのような壁をつくったとしたら、その壁を壊さない限り、壁の向こう側に進むことは、それこそ苦行となるのでしょう。モーセを指導者とするイスラエルの民たちは、おそらく40年ものあいだ、自分のうちにある苦しみの壁にぶち当たっては、もがき続けていたのだと想像するのです。
 
モーセは、苦難の40年の道のりを通して、お前たちは私とともに歩むのかと問い続ける神の問い尋ねを、何度も何度も聞いてきたに違いありません。そのたびごとに、自分自身との闘いがあった。そして今、その40年間を回想する時に、神とともに歩むことこそ、人生における最善の道であることを告白します。
 
ここにこそ、謙遜の思いがあふれていると私は思いました。自分が経験している苦しみというものを知るまでは、本当にもがき続ける。暗闇のなかを探り続ける。どうしてよいのか分からない。しかし、40年間を間違いなく導いた神が、私も同様に最善の道へと導いてくださるのだと。そのことに気づき、自分のプライドを捨てたときに、謙遜の喜びがあるのだと。
 
イエスは言いました。私からへりくだることを学びなさいと。命という最も大切なものを捨ててまで、私たちの命を守り抜いてくださったイエス。しかし、十字架で苦しむイエスには、明らかに人を救おうとする柔和さがともなっていた。だから、私たちは苦しみのなかにも、神が安らぎを与えてくださることに、期待して生きることができるのだと。
 
苦しみは謙遜を生み、謙遜は安らぎを生む。この安らぎを胸にして、今日一日を生きていきたいと思います。皆さんの一日にも、神による安らぎが豊かにありますように。お祈りいたします。

16/03/2022

2022.3.16 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌上28章9節より
誠実な心と自由な魂で神に仕えなさい。主はすべての心を探られる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙13章20~21節より
平和の神が、御旨に適うことをイエス・キリストによって私たちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
誠実な心と自由な魂。
誠実であるからこそ、自由な生き方ができるのだ。
 
とても明快かつ清々しい言葉が、私の心に響き渡りました。誠実に生きること。それは裏表のない正直な生き方であると、私はつねづね思わされます。今日の聖書の言葉にも、「主はすべての心を探られる」とある通り、人の目にはごまかせても、神の目にはごまかせない。すべてお見通しであるというのです。
 
しかし、そのような誠実さを思い、頭では分かっていたとしても、心がつねに連動するわけではない。誠実に生きるということが、ややも窮屈に感じるようになるのも、人間の偽らざる姿であると、私のこととして実感させられます。正直でない自分、裏表のある私。
 
しかし、誠実であることで、自由な魂をもって生きることができるのだと。イスラエルの王ダビデが、息子であり後継者ソロモンに対して告げた言葉でした。
 
ダビデ自身もまた、神に誠実な生き方をしたいとこころざし、そのように生きながらも、我欲ゆえに失敗することもあり、しかし、悔い改めて誠実な生き方に立ち帰ったりと、まさに自分自身の人生に裏打ちされた、神への信仰告白の言葉であったと言っても間違いないでしょう。

ダビデが全人生を通して神からいただいたのは、神とともに歩む魂の自由でした。もろもろのしがらみから解放されて、彼は自分の王位をソロモンに渡す準備ができました。
 
私は黙想しました。正直さを表すことのできない自分自身。そして、裏表のあるふたごころに生きようとする私が、誠実な心と自由な魂を喜ぶことのできる根拠はどこにあるだろうかと。
 
神がダビデに、後継者ソロモンを与えてくださったように、現代を生きる私たちには、永遠から永遠にわたって、私たちをあらゆる束縛から解放してくださる永遠の王、イエス・キリストを、神は与えてくださった。今日の新約聖書の言葉が継げるメッセージです。
 
この、イエス・キリストという根拠に、私は生きることができるのだと。たとえ誠実と矛盾するような生き方をさらけ出したとしても、そのことを自覚へと導いてくださり、すべての良いものを備え、与え、そのことに基づいた生き方を示してくださったイエスが、私とともにおられるではないかと。
 
イエスを通して神がしてくださった良いことを受けつつ、今日も私の生き方としていきたい。失敗しても神の助けによって希望があることを信じて、歩んでまいりたいと思いました。皆さんの一日も、神の助けによって素敵なときとなりますように。お祈りいたします。

15/03/2022

2022.3.15 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記下20章5節より
主はこう言われる。私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。それゆえ、私はあなたを癒やす。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章7節より
叩きなさい。そうすれば、開かれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日与えられたふたつの聖書の言葉を通して、祈り願うということについて、黙想の思いが与えられましたので、そのあたりのことを綴ってみたいと思います。
 
今日の旧約聖書は、ユダヤの王であったヒゼキヤの祈りと呼ばれる部分の一節です。ユダヤのために良い政治をおこない続けたヒゼキヤ王ですが、あるとき、死に至る病に苦しむことになりました。
 
ヒゼキヤは、涙ながらに神に祈り求めます。神に忠実な思いで歩んできたヒゼキヤが、神の前に自分自身のすべてをさらけ出して、命乞いをしました。その結果、人がさじを投げたヒゼキヤの病を、神は回復させました。そして、ヒゼキヤは王としての働きを全うすることができました。
 
さて、病が癒されるという話を私たちが聞くときに、では、病が癒されなかったら、そこには神の働きはなかったのだろうかと思うことがあるかもしれません。神に忠実であったヒゼキヤの病が癒されたのであれば、私の病が癒されないのは、不忠実だったからなのではないかと。そんなことを考えてしまうかもしれません。
 
しかし、そう思う必要はまったく無いと、私は思うのです。聖書の神は、ご利益のようにご自分の働きをなすのではなく、すべての人に平安と祝福を与えるために、救い主イエスを与え、ムラなくもれなく、私たちのために働いてくださる御方です。
 
その神の働きが、私たちの願い、祈り求めることで期待する答えとは違うかもしれない。しかし、神は私たちの行く道をベストなものに導くために、ご自分の言葉と助けを与えられることを信じたいのです。
 
病のことを引き合いに出せば、癒しを祈り求めても、その結果死んでしまうかもしれません。しかし、神はその人を見捨てたのではなく、その過程、プロセスを通して、大切な何かを必ず私たちに授け、その出来事を通しての意味というものを教えてくださる。
 
その何かを、その意味を、私は理解したいので、神に祈り続け、そして門をたたき続けたいと思いました。門を叩き続けるというのは、自己主張を押し通すことではなく、神からの答えを涙のなかにあっても、壁にぶち当たっても、期待しながら生き続けるということなのだと、今日の聖書の言葉から黙想の思いが与えられました。
 
どうぞ、今日という一日もまた、そのような神の働きを知り、感謝できるときとなりますように。お祈りいたします。

14/03/2022

2022.3.14 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書55章12節より
あなたがたは喜びをもって出て行き
平和のうちに導かれて行く。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書10章3節より
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧・新約聖書の言葉を通して思わされたのは、「導き」というキーワードです。神に導かれる。イエスに導かれる。教会に導かれるなど、クリスチャンが実に多用する言葉かもしれません。
 
では、導かれるとは一体何なのか。導きが道引きと言えるように、人生の道を手を引かれながら歩むというイメージを、私たちは抱くことができるでしょう。道とは人生の道であり、イエスの生き方という道が、私たちの前に敷かれています。
 
では、私にとって、イエスの生き方という道は、本当に自分自身にとって歩みたいと願う、人生の道となっているだろうか。私はそんなことを黙想しました。言葉ではわかっている。いや、わかっていないかもしれない。導きという言葉を多用しすぎるがあまり、その言葉を深める前に、分かったような振りをしているだけなのではないだろうかと。
 
クリスチャンになると、いつしか「専門用語」を使う気楽さを覚えてしまい、社会に対して発信すらできない、内向きな言葉に終始してしまうことがあると思うのです。恵み・罪・そして導きなどなど。そして、その言葉を用いつつも、真逆の態度を何の違和感もなくさらけ出す私。
 
今一度、イエスという羊飼いが、弱く、小さく、すぐ迷い、しかし、本来素直である羊に私たちをたとえて、私たちの名前を呼んで招いてくださるというイエス自身の言葉を、自分自身の心のうちに染み込ませたい。その先には心の平安と人生の喜びが待ち受けているというのが、今日の旧約聖書のメッセージでもあります。
 
当たり前のように受け止めているという自負がおのれの傲慢とならないように、今日の聖書の言葉が与えられたことに感謝できました。この連鎖が、今日を生きる土台となるように祈りたいと思います。この世界の平和のためにも。

13/03/2022

2022.3.13礼拝説教:新しい天地

 

2022年3月13日
深沢教会主日公同礼拝

聖書 ヨハネの黙示録21章1~4節
説教 新しい天地

2022.3.13 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編33編16節
王は軍勢の大きさによって救われるのではない。
勇者は力の大きさによって助け出されるのではない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書10章31節
しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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王は軍勢の大きさによって救われるのではない。
勇者は力の大きさによって助け出されるのではない。
 
まさに、今の世界情勢をそのまま物語っている聖書の言葉であると、私は受け止めました。どんなに強大な軍事力、強権を振るえるような権力者であっても、そこには救済の希望がないのだと。
 
この世界は、どれだけ力が強いか、どれだけ影響が大きいか、どれだけステータスが高いか。そんなところに価値基準を見出します。そして、そのために一生懸命頑張る世界が、私たちを取り巻く環境です。
 
もちろん、それが大切なこともあるでしょうが、聖書を通して神が伝えるメッセージは、今日のふたつの聖書の言葉を見てもわかるように、まさに逆の発想であることがわかります。先んじる者が最後にされ、遅れる者が先にされる世界こそ、神の価値観、神の与える世界そのものです。
 
量より質。結果より過程。そんなことを考えさせられます。神が求められるのは、本質の重要さであり、その過程において、目に見える結果がどうであれ、本質を求めることに誠実であったかどうかであると。
 
この価値観に生きる者でありたいと、改めて帯を締める思いで、今日の聖書の言葉をいただくことができました。この世界でもてはやされる価値観にさらされながら毎日を営むなかで、神の価値観によって生きる幸いを得たい。黙想によって得られた今日の願いです。
 
世界中でおこなわれるすべての礼拝が、そのような幸いに満ちあふれたものでありますように。お祈りいたします。

12/03/2022

2022.3.12 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編33編6節
天は主の言葉によって
天の万象は主の口の息によって造られた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録17章25節より
神は、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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神は森羅万象をつくられた。
 
聖書の自然観・人間観は、すべて神が創造主であるというところから出発します。この考え方は、現在の科学が提供する進化論とは全く逆の考えであることは、皆さんもご存知の通りです。
 
では、神が天地万物をつくられたという考えは、進化か創造かという二者択一的な論争だけを生み出すものなのだろうか。私は今日の聖書の言葉を通して、そのように考えさせられました。私は、神がこの世界を創造されたということを通して、大切なメッセージを受け取りたいと思いました。
 
それは、私たちの命をはじめとする自然界・動物界など、さまざまな「いのち」は、決して私たちの独占物ではない、ということです。このことを勘違いしたところに、人間のエゴがあり、支配欲・独占欲が生じ、ついには争いや分断が生じる。歴史における人間の常です。
 
今日の新約聖書の言葉に、ギョッとする表現がありました。「神は、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません」というひと言です。
 
神がこの世界に対して期待しておられるその御心に、私たちもまた期待します。期待すること自体、全然悪いものではないのですが、そこに自分自身の願望やこだわり、期待というよりは自分自身の欲というものを、「私にとって」何か物足りないからと言って、付け加えてはいないだろうか。そんなことを思いました。
 
そういう場合の欲は、大体は人間が持つ支配欲・独占欲に起因していると私は思っています。そのような欲を持っていない人は誰もいません。多かれ少なかれ、私たちはそういう欲を持っています。「人の手によって」という聖書の言葉は、私たちの心や思いの有様といううものを自己吟味するためには、無くてはならない問いのひと言なのだと。
 
今、ウクライナで起きていること、コロナ禍によって分断されたさまざまな出来事、そうでなくても、普段から私たち人間のあいだで起きている様々ないさかい。どれをとっても、神が私をつくられた、私たちをつくられた、この世界をつくられたという感覚が抜けきったところにこそ、そのような争いが生じるのだと。あたかも、自分が創造したかのように、振る舞ってしまうから。
 
神がいのちの息を与えてくださった。その息吹によって私は生きるとき、神の息遣いというものを自分自身がいただいている命の源とすることができる。神の息吹によって、神の言葉が語られ、聖霊の息吹が私たちに神の御心を注ぎ込んでくださる。
 
この息吹によって生きるならば、神がこの世界を創造されたときに「とても良かった」と言われたように、世界が楽園のごとく、平和な状態へと導かれるのだと。創造というひとつの出来事は、実はすべての平和に導く前向きな営みのために、無くてはならない考え方なのだと、今日の御言葉が私の心に突き刺さりました。
 
神様、今日も私をつくられたという、あなたの出来事に感謝します。あなたの息吹が私を生かす。あなたの言葉と霊の助けで、この私を不健全な欲のかたちから解放してください。そして、解放されたところにこそ、平和をも創造されることを信じ、期待して、今日という一日を歩ませてください。イエス・キリストのお名前によって。アーメン。

11/03/2022

2022.3.11 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
コヘレトの言葉8章8節より
死の日を支配できる人はいない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章27節
あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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たとえこの目で、行く末を見ることができなかったとしても、いかに神を信頼して、与えられた日々を歩むことができるだろうか。
 
今日与えられた二つの聖書の言葉は、そんな思いを私のなかに起こさせました。今の教会での働きもあと3週間となり、いよいよ終わりを感じるときにあって、この聖書の言葉は必要なのだ。そう思ったのです。
 
人の死は、誰も支配することができない。本当にその通りです。この聖書の言葉は、人間はいつ死を迎えるかは分からないという意味とともに、死後にわたってこの世界に影響を与えたり、支配することは決してできない。死を受容することの大切さを伝えているのだと、私は思うのです。
 
死とは、この世界では終わりを示すと同時に、神の領域を示す言葉であるとも思うのです。つまり、死とはすべてを神に委ねる機会なのだと。どんなにやり残したことがあったとしても、これからのことをすべて神に委ねるところにこそ、大きな意味があるのだと。
 
やり残したこと。そこにはどうしても悔いや思い煩いが生じます。私自身、やり切ったという充実感とともに3週間後、この教会を去るというふうにはどうしてもなれません。いろいろな後悔の念や不全感というものが、なんとなく付きまとっている自分自身を感じるのです。
 
しかし、今日の新約聖書の言葉は、思い悩むな。与えられた今日という一日を精一杯生きなさい。まだ見えぬ先のことに思い煩うのではなく、なせるだけなして、あとは神にお委ねする生き方こそ、神の国と神の義を求める生き方なのだ。そんなイエスの励ましが聞こえてきました。
 
私たちの生き方、世界の行く末。つきまとうのは不安ばかりかもしれません。しかし、私たちの不安を不安のままにはしておかれない神が、私たちとともにおられるということを、今日を生きるための希望とすれば、神の平和が満ちあふれるための一歩になることを信じたいと願います。
 
どうか、この地がそのような思い煩いから少しでも解放されますように。そして、あなたの御心と平和に委ねつつ、今日の務めに、心を向けることができますように、私たちを導いてください。神様、あなたのご親切に心から感謝します。アーメン。

10/03/2022

2022.3.10 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書51章16節より
私はあなたの口に私の言葉を入れ
私の手の陰にあなたを隠した。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録3章8節
私はあなたの行いを知っている。見よ、私はあなたの前に門を開けておいた。誰もこれを閉じることはできない。あなたは力の弱い者であるが、私の言葉を守り、私の名を否まなかったからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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どんなにこじ開けようとしても、決して開くことのなかった扉を、開けておいてくださる方がおられる。そして、その扉は、誰の手によっても、決して閉ざすことはできない。
 
今日の新約聖書は、そんな扉を開けてくださるキリストが、私たちのすべてを御存知であり、見守っておられることを約束する言葉です。
 
ヨハネの黙示録という、新約聖書の最後の書物が書かれた時代、キリストを信じて生きるということは、まさに命がけの出来事でした。ローマ帝国、ユダヤ教、さまざまな力が、容赦なく信じる心と思い、身体を攻撃しました。
 
そのような力に抵抗するすべもなく、行き場を失ってもおかしくない状況に、キリストがヨハネという人物を通して、ご自分を明らかにされます。苦しみのなかにあっても、私はあなたを守るから、希望をもって来たり来る新しい将来に向かって生きなさいと。
 
私は無力です。どんなチャレンジをもってしても、その壁を越えることはできません。自分のしてきたことに空しさすら覚えます。何をやっても無理なんじゃないか、無駄なんじゃないか。そういう思いに突き落とされるのです。
 
しかし、キリストは私に希望の言葉を与えます。私の言葉を守り、私の名を拒まなかったあなたの行いを知っているから、私はあなたが開けることのできなかった扉を開けるのだと。私が開け続ける。誰かが閉ざそうとしても、私はあなたのために門を開け続けるのだ。
 
そんな声が聞こえてきそうな、今日の新約聖書の言葉です。キリストは、ご自分の言葉に聴従し、弟子として生きることを心から受け入れ、自分の生き方としようとする人のことを、決して見離さず、予想もしなかった道を進ませてくださるというのです。
 
私の口のなかにご自分の言葉を注ぎ込み、ご自分の手の中に私を守る神がおられる。まさに、今日の旧約聖書が示す詩編の言葉にぴったりと一致します。神の言葉、神の言葉の完全な模範であるイエス・キリスト。このキリストによって生きる私たちの希望あふれる日々。
 
最近、私の心の中にある変化が起きています。自分の思いでは決してこじ開けることのできなかった和解への扉が開かれました。このことを、何のてらいもなく受け入れることができている自分自身とは何者なのだろう。
 
そんなことを思うとき、神が私の口のなかに平和の言葉を注ぎ込み、キリストが和解と平和という扉を開いてくださったのだと。私の閉ざされた心に、キリストが無理なく光をあててくださったのだと。そう思えてならないのです。
 
神様、今日の聖書の言葉は、まさにそのことを示すものでした。あなたの言葉こそが、私の今日の営みに、希望を与えます。どんな困難と思えるようなことにでも、あなたの言葉が私を励まし、慰め、希望ある営みにへと導いてくださることを信じます。
 
世界で起きている苦しみも、身の回りにあるさまざまな痛みも、そして私の困難も、あなたの平和で、少しでも解放されますことを願います。私たちのために希望の扉を開いてくださった、イエス・キリストのお名前によって。アーメン。

09/03/2022

2022.3.9 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言8章13節より
主を畏れることは悪を憎むこと。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章10節より
私たちは神の作品であって、善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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正義を愛し、悪を憎むということ。
 
とても美しい言葉に聞こえます。しかし、これほどいい加減な言葉もない。私はそう思えてなりません。人によって何が正義で何が悪か。そのあまりにもの違いに、私の心は痛むからです。
 
ロシアによるウクライナ侵攻、それをめぐる世界の動き。この状況一つひとつを見ても、正義はどこに、悪はどこにあるのかという見解の違いが、このような戦争を生んでいるのだと。ロシアの政治家集団には、彼らなりの正義があり、それを批判する側には、彼らの正義があり、悪への見方がある。
 
そのうえで、本当の善悪はどこにあるのかを、私たちはしっかりと見据えていかなければならない。今日も、神は私たちに告げ続けます。私たちを造られた神が何者であるかを見つめなさいと。私たちが神の手によって、イエス・キリストにあって造られたというのは、どういうことなのかを、考えなさいと。
 
自分の正義を主張する前に、その主張は何を根拠に基づいた言動なのかを、吟味しなさいと。その言動が、本当に神がこの地に、私たちに、私に願っていることなのだろうかと。神の御心を聴き取る前に、自分の正しさだけを押し付けてはいないだろうかと。
 
神による問いかけが、矢継ぎ早に私の心に投げかけています。正義、そして悪をめぐることは、遠い国の話ではなく、実は自分自身の問題に他ならないのだと。そのときに、私は何のために、そのような自分自身の問題に向かい、そして闘う必要があるのかを、考えずにはいられないのです。
 
私たちは神の作品であると、今日の新約聖書の言葉は私たちに伝えます。神はこの作品をいい加減な気持ちで作ったのではく、「とても良かった」と絶賛できるような最高傑作品として、私たち人間を造られたのだと。そのような最高傑作品として、私たちは作者の思いとともに歩んでいるのだろうかと。
 
神様、私はそう歩んでいない自分自身を悔やみます。懺悔せずにはいられません。しかし、神様。あなたは、そんな私にもイエスを与えてくださいました。あなたの作品になれたことを喜べるように、私たちの心に希望を与えてくださったのはあなたです。
 
神様、今日もあなたの作品として、方向転換できる一日を与えてくださって、ありがとうございます。どうか、あなたの平和で私を、私たちを、世界を満たしてください。私たちを愛をもってつくられた、イエス・キリストのお名前によって。アーメン。

08/03/2022

おれは物乞いではない

 

受けるよりは与えるほうが幸いである
新約聖書 使徒言行録20章35節
(聖書協会共同訳)


佐原英一さんという牧師が、かつておられました
京都葵教会というところで長く牧師を務められて
10数年前に天へ召された方です


私は佐原牧師にお会いしたことがありませんでした
しかし、佐原牧師のことは
実に多くの方々から聞く機会があります
実に魅力的な牧師だったのだと
つくづく思わされます


かつて、佐原牧師が働く
京都葵教会が教会堂を建て替えるときに
多くの借財ができたのだそうです


佐原牧師の働きを支えたいと
多少の献金をした
ある中学時代の同級生は尋ねました
どうして、そのことを
もっと積極的に、他に知らせないのかと


佐原牧師はこう答えたのだそうです
「おれは物乞いではない」


あくまで強要しない生き方
自発的に与え、捧げる生き方
それを貫き、生涯を走った佐原牧師


それはまるで
イエスが私たちに示された生き方に
重なって見えました


最近も、ある方を通して
佐原牧師の生き方というものに
触れるひとときがありました


私は牧師として
佐原牧師の生き方を通して
イエスが示された生き方を心から願っているか
そんなことを、憧れとともに黙想させられました


受けるよりも与えることの幸い


日々観想

2022.3.8 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章2節より
私たちの神のような岩はほかにありません。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一3章11節
イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできないからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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私は何を土台として立ち、人生の道を歩んでいくか。本日の聖書の言葉によれば、それは岩にたとえられた神であり、イエス・キリストという土台であり、他のいかなる土台に勝るものなのだということを、私たちに知らせます。
 
私が小学校5年生のときに、地域の子どもたちを対象にしたレクリエーションサークルで行われた、夏のキャンプに初めて参加して、歌ったある歌を、ふと思い出しました。
 
その歌の歌詞をすべて思い出すことはできません。しかし、その歌には「砂の上に家を建てて~」「岩の上に家を建てて~」という歌詞があったことだけはよく覚えています。そうです。イエスによる山上の説教で語られた「家と土台」の言葉(マタイによる福音書7章24~27節、他)に基づいた歌です。
 
当時、私は聖書の言葉など何も知りませんでしたから、この歌を歌いながら、砂の上に家を建てれば確かに崩れるし、しっかりとした岩の上に家を建てれば、家はいつまでも残る。この言葉はいつまでも脳裏に残るものでした(これは、「かしこい人とおろかな人」という、子ども向けの賛美歌であることを、今日改めて知りました)。
 
私たちは神という土台、イエス・キリストという土台をたとえ知っていたとしても、その上に人生という家を建てるかどうかの選択は、私たちに委ねられているところがあります。ですから、私たちが実際に家に住むときに、その家がどのような地盤の上に建てられているのかを調べるのと同様に、神、キリストという土台が何を意味しているのかを、じっくりと調べることが、私たちに求められていることを知らされます。
 
イエス・キリストという土台。それは、神の御心を完全におこなったイエスの生きざまそのものです。私たち一人ひとりを本当の意味で愛するために、イエスは何を私たちに伝え、そして行われたか。私たちは、それを聖書から耳と心をもって聴き取ることこそが、土台の詳細を知り、理解し、自分の生き方とするために、無くてはならない過程であるのだと。
 
また、これは頑丈な土台ですよとアピールしても、それが偽装だったという建築トラブルが世の中であるように、聖書を通してイエスの言動を知るうえでも、同じことが言えると私は思うのです。イエスの言動を我田引水のように利用してはいないだろうか。そのような聖書の読み方、語り方をしてはいないだろうかと、聖書の言葉を取り次ぐ務めにある私なんかは、今日の聖書の言葉を通して、改めて考えさせられました。
 
私の命をしっかりと守る、イエスという土台。この土台の上にしっかりと据えられて、今日という一日を生きたい。そんな願いを神に祈りました。そこには災いのない平和な場が与えられることを信じつつ。
 
皆さんの新しい一日にも、そのような平和が豊かにありますように。お祈りいたします。

07/03/2022

2022.3.7 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書40章10節より
見よ、主なる神は力を帯びて来られ
御腕によって統治される。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書21章28節より
身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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身を起こし、頭を上げなさい。
 
イエスが弟子たちに語られた言葉です。このとき、弟子たちは不安のどん底に落とされていました。「人々は、これから世界に起こることを予感し、恐怖のあまり気を失うだろう」(ルカ21:26)と、イエスは、弟子たちをはじめ、人々の思いに去来するであろうその様子を予告されたのでした。
 
これから、自分の身の回りに何が起こるのだろうか。私たちは経験値であるとか、歴史、社会常識からあれこれ予測し、予感します。それがワクワクするような希望を与えるものならば良いのですが、その逆もたくさんあります。
 
そうなると、私たちは不安のどん底に落とされたような気分になります。良いことは2倍、悪いことは4倍という言葉がありますが、希望を感じるとき以上に、不安を感じることの方が、悪い方に、悪い方に物事を考えてしまう。人間の常です。
 
恐怖のあまり気を失うような感覚。私自身、あらゆる出来事を通して苦味を経験すると、そう簡単にその苦さから逃れることができないでいる。それがいつまでも尾を引いて、やがては日々の営みや生き方までも影響してしまっている自分自身があることを思わされます。
 
そうなると、トラウマと恐怖が一体化して、良からぬことをあれこれ予測してしまう。それが思い込みを生んでしまう。昨日もそんなことで、失敗をしでかすということがありました。予感ゆえに恐怖を生み、その恐怖が足をすくませてしまう。昔も今も変わらないのだなと。
 
そんな私にイエスは語りかけます。身を起こし、頭を上げよと。うつむいて、下ばかりを眺めてしまう私に、頭を上げなさい。身を起こしなさい。あなたの救いは近いのだから。そういうイエスの声が響きます。希望を取り戻せと、イエスは私に叫び続けておられるのだと。
 
私たちではどうにもならないことも、イエスが常に呼びかけてくださるから、今日も生きることができる。たとえ失敗したとしても、倒れてしまった身体を神が起こしてくださるのであれば、今日も生きていける。今日の聖書の言葉を通して、そんな思いに満たされた朝を迎えることができて、本当に感謝でした。
 
今日も、皆さんとともにおられる神が、皆さんの身体を起こしてくださいますように。心からお祈りいたします。