詩編103編14節
主は私たちが造られた様を知り
私たちが塵にすぎないことを覚えておられる。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章10節
私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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四旬節(レント)30日目を迎えました。レントも4分の3を過ぎたこととなります。四旬節のクライマックスとも言える受難週に向けて、今日も聖書の言葉を通して自分自身を整えられることに感謝しつつ、黙想をしたいと思います。
本日選ばれたふたつの聖書の言葉は、まさに四旬節にいただくべきものであると受け止めました。「私たちは塵にすぎない」というひと言に、あらためて深い思いが与えられました。塵にすぎないという言葉をどのように聴くことができるだろうか。たかがと思えるような塵からご自分のかたちに造られて、そこに命の息吹を吹き込まれて人間が誕生したという、神の創造の御業を思います。このことから、私たちは神との深い関係性のなかで、自分が「人間」であることを認識できるのであって、神との関係なしには、私たちはそれこそ単なる塵にすぎない。私はそのように受け止めました。
そして、こう思ったのです。神は私たちを「人間」として命を与え、人間として生きることを心から望んでおられる。だからこそ、私たちの様をご覧になり、私たちひとりひとりに生きるためのパンを与え、独り子イエスを救い主として、その命を私たちのためにささげられた。そこに神の私たちに対する深い愛を感じずにはいられないのです。
私たちは死にゆくイエスをいつもこの身に負っている。使徒パウロは自分自身に与えられたこの実感を、手紙にしたためました。命を活かすために死にゆく命、十字架における犠牲の命を与えられたほどに、私たちとのつながりを願っておられる神が、簡単に捨てられるような塵のままでいることを望んでいないからこそ、私たちの代わりに死んでくださるイエスの命が私たちのうちに現れるように、今日も生きて働いてくださるということなのだと。
今日も神に生かされ、イエスの命に生かされることにレントを歩むその意味を問いつつ、一日を過ごしてまいりたいと願わされました。どうか皆さんの一日が豊かに祝されますように。心よりお祈りいたします。
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