08/03/2023

2023.3.8(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書22章29節
地よ、地よ、地よ、主の言葉を聞け。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書10章27節
耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
四旬節(レント)13日目を迎えました。
昨晩は、とても美しい満月を観ることができました。啓蟄(けいちつ)にちなんで、ワーム・ムーン(虫の月)と言うのだそうです。虫も土から顔をのぞかせるような暖かさが徐々にやって来ている。そう考えると何となくわくわくするのは私だけでしょうか。
 
また、昨晩の満月を観て思ったことがあります。キリストの復活を祝うイースターは、春分後に訪れる満月の夜の直後に来る日曜日としています。つまり、太陽暦で普段生活している私たちにとって、月の満ち欠けによって教会の暦が定められるのは、なんとも新鮮なことで、満月をながめながら、次の満月のすぐ後にイースターがやってくるのだ。そんな待ち遠しい思いもまた、私の思いのなかに浮かんだのでした。
 
さて、本日私たちに与えられたふたつの聖句は、対照的なものでありながらも、神の言葉をめぐって私たちに求められていることとして、連続性のある言葉なのだと、改めて受け取ることができました。「聴く」ことと「語る」ことの両方を通して、神の言葉が私たちのあいだに広がりゆく。私たちの心の礎となることを思わされます。
 
神の言葉を預かったエレミヤは、世界に対して今こそ神の言葉に耳と心を傾けて欲しいと願いました。「地よ」と3回続けて訴える。聖書が伝える世界において、言葉を3回繰り返すというのは、本当に大切なことを表現する際に用いられる方法でした。神が造られた地に対して、そこに住む人々に、神の言葉が行き渡りますように。その言葉から幸いを得ますようにと願うからこそ、聴いて欲しいと願うエレミヤの姿が想像できるのです。
 
しかし、聴いて欲しいと思うときにこそ、耳を傾けてくれない、心を寄せてくれないと思うことがあります。正直なことを申し上げますと、礼拝で神の言葉を取り次ぐ、つまり説教(メッセージ)をした後で、そんなことを感じることがこれまで何度もありました。空を打つようなむなしさが私を襲うのです。このことはひとえに、私の狭量さと未熟さゆえのことなのだと、そんな自分に嫌気がさすことがあったりもしました。逆に、聴き手に対して勝手に断罪して、聴いていないと思い込んで攻撃的な自分自身をつくりあげることもありました。
 
しかし、聴くことと語ることをめぐって、自分や相手を過剰に責める必要はどこにもないのだと改めて思わされました。責めるという行動についつい走ってしまうのは、ついつい人に「成果」を期待するからではないだろうか。そう思ったのです。思い描いた成果にならないと、自分を責め、相手を責めてしまうのです。しかし、神の言葉が神の言葉として聴かれるときに、神の言葉が神の言葉として語られるときに、神は私たちに何らかの幸いを与えてくださるのだ。そのことを心から期待できるのは、私の向くべきところが人ではなく神にあるからなのだと。
 
神の言葉が語られ、聴かれるところには、私たちの神がともにおられる。そして、私たちを助けてくださるのだ。そんなことを心に刻みながら、聴くことと語ることの幸いを本日も味わっていきたいと願います。皆さんの一日にも、そのような幸いが豊かにありますように。お祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿