19/03/2023

2023.3.19(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章2節
主のように聖なる方はなく、あなたに並ぶ者はいません。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一1章15節
召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)4回目の日曜日を迎えました。
四旬節の日々も後半に入り、最初の日曜日を私たちは迎えました。世界中の教会や集会で行われる礼拝に、主なる神様の祝福が豊かにありますように、お祈りいたします。
 
さて、本日くじによって選ばれた旧約聖書の言葉は、イスラエルの指導者として立てられたサムエルの母ハンナが、神へ感謝の祈りをささげた、その祈りの一節です。子が与えられなかったハンナに、神はサムエルという子を与え、ハンナの悲しみを取り除いてくださった。その感謝の思いから、ハンナの口からほとばしり出た祈りの言葉です。
 
ハンナは、そのような神が他にはない。あなたこそ私の神であることを告白しました。ハンナの嬉しさというものを、私たちは聖書の言葉から聴きとることができます。神が聖なる者である。これは私たちが生きるうえでも、その場面場面で感じることができるのです。
 
後に、イエスの弟子であるペトロは、「神が聖なる方」であることに、私たちひとりひとりも生活の中心に据えることができますようにと、手紙に書きしたためました。「あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」と勧めています。
 
ただどうでしょう。私たちは本当に聖なる者となることができるのでしょうか。それは可能なのですが、それは自分の力によってなし得るものではありません。どんなに聖なる者となろうと、生活を整え、品行方正に生きようと努力しても、私たちは完璧にそれをなすことは実に難しいことをよく知っています。
 
イエスが生きておられた頃、このことに心血を注いだファリサイ人や律法学者と呼ばれる人たちがいました。彼らはそのことをある意味で自分たちの誇りとしていました。しかし、その誇りはやがて、自分の立ち位置というものを高めて、他者と比較し、ついには自分以外の者たちを見下すようになりました。自分たちだけが聖なる者であり、正しいのだと。
 
そのような心構えを、イエスは厳しくとがめました。そもそも「聖」というものは、神だけが聖なる方であって、私たちは神との深い交わりと関係性をもって、神こそ聖なる御方であるというところから、聖性というものをいただけるということなのです。私自身が聖なる存在なのではなく、あくまで神が聖なる方であることを、いかに私自身の生活で大切にできるかというところに、ペトロの手紙に込められた意味があるのです。
 
ですから、私自身が聖なる者に「なる」のではなく、神が聖なる者として、ご自分の知恵と力、私たちをそのように助け、慰め、励ましてくださるということを、私は改めて受け取る者でありたいと願わされました。そのことが礼拝において明らかにされて、神の御言葉と聖霊の助けによって、私たちがいただけるとするならば、私たちはハンナの祈りに自分の心をなぞらえ、励まされるのではないか。そう思えてならないのです。
 
十字架への道を進まれたイエスは、この点において神との深い親子関係を明らかにされました。そして、その関係性が私たちひとりひとりを生かすために、無くてはならないものであることを明らかにされました。私たちの心にイエスがともにいてくださるとき、私たちはイエスの生き方というものを、たとえたどたどしく、失敗を繰り返したとしても、自分の生き方とすることが少しでもできるならば、まさに「聖なる者」として神によって生かされていることの実感というものを、是非味わってまいりたい。そのように思わされました。
 
どうか、今日から始まる新しい一週間の日々に、聖なる神が私たちとともにいてくださいますように。皆さんの新しい日々に神の守りと祝福をお祈りいたします。

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