11/03/2023

2023.3.11(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記11章26~28節
(モーセは言った。)見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福と呪いを置く。もし、今日私が命じる、あなたがたの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたがたの神、主の戒めに聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道を外れ、あなたがたが知らなかった他の神々に従うならば、呪いを置く。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章10節
(イエスの言葉)私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)16日目を迎えました。
そして、今日は「東日本大震災」から12年を迎えた記念日でもあります。記念日と言えども、それはいわゆる祝い事の時ではありません。記念とは想い起こすことであり、あの日の出来事から起きた様々な経験を想い起こすことによって、私たちはその意味というものを再確認し、明日へと向かう大切な機会として、この「3.11」を大切にしたいという意味での記念なのだと私は思います。今日、仙台の街でも、また他の被災地でも様々な行事が行われます。私は最も被災を受けた場のひとつであった、宮城県石巻市で礼拝のつとめがあります。心をこめて礼拝に向かいたいと思います。
 
そんななかで、本日与えられた聖書の言葉はまさに「震災とはなんだったのか」ということを想い起こさせるものであることを思わされました。くじが震災のために用いられたのではないかと思うくらいの聖句に、ただただ驚かされています。
 
神はモーセを通して言われました。私はあなたがたの前に「祝福」と「呪い」を置くと。そして、私の掟にし従うならば祝福を、従わなければ呪いを置くと言われたのです。
 
この言葉は、取り扱いに細心の注意を払わなければならないと私は考えています。なぜならば、震災のような禍(わざわい)が起きるとき、人はいとも簡単にこういう言葉を用いて「神の掟に従わなかったから神罰がくだったのだ」と言ってしまうことがあるからです。いわゆる「ばちが当たった」というものです。古来から人はこういう言葉に向かって神妙になって、自分たちの生き方を改めたものです。
 
東日本大震災の際、ときの東京都知事が「あの震災は神罰だ」という言葉を発したことが話題になりました。被災地にあって苦痛を覚えている人々に対して、なんと無神経な発言かと批判が殺到したことを思い出します。私も心からそう思いました。
 
私は、神がいたずらに罰を降りかからせたという考えには、心から反対したいのです。神を信じなかったから神は震災という罰を与えたのだとは絶対に思いたくありません。神は自然をも制御することのできる方でしょう。しかし、それで地震を引き起こし、津波を引き起こして、何の関係もない方々の命を一瞬にして奪うことを神がしたのかと言えば、そんなことは絶対にありえないと私は信じます。だから、古来より言われているような呪いやたたりというものを、震災につなぎ合わせることはあまりにもナンセンスであると私は考えています。
 
あの震災のときに、被災地に勇ましく乗り込んで、なぎ倒された墓石の上に立って、神罰と呪いを声高に発した「キリスト教の人たち」のことを思い出します。あなたがたが神を信じなかったからこういうことになったのだと叫んだのです。当時、被災地に入った私たちの教団のボランティアチームが、キリスト教と聞いただけで忌避し、出て行ってくれと現地の方々に言われたというのも無理のないことです。そういう「無神経な出来事」があったのですから。
 
では、どういう意味で「神罰」という言葉を受け止めることができるのか。神罰とは神がいたずらに引き起こすものではなくて、私たち人間の行動の結果、呪いに満ちあふれた惨禍をつくりあげた。つまり、祝福と呪いというふたつの箱を「置かれた」神がおられて、私たち人間が「呪い」という箱を「選択」したのです。これは自己責任の結果であって、それを神罰という言葉を用いて、神に責任を押し付けるようなことがあってはならないのだと、私は思えてならないのです。

それをあえて、神罰という言葉をきわめて消極的な意味で用いるならば、震災という出来事を通して、私たちがひとつ大きなことに気づかされたことを思いたいのです。それは、私たちがいかに「自己の利益を追求していたか」ということへの気づきです。震災をきっかけに、原子力発電という利益追求の発電方法を推進していた人間のあり方が間違いであったことを、私は断言したいのです。あれは間違いなく「祝福」の箱ではなく「呪い」の箱を、私たちの自己責任において選び取り、その箱を開けてしまったのだと私は思っています。
 
神は言われました。私の掟を守るならば祝福を置くと。では、その掟とはいったい何か。それは神の与えた「愛」をいかに大切にするかという、私たちの選択と行動に他ならないと私は思います。イエスは言われました。父の掟を守ることは愛にとどまることであると。私たちは震災を通して、何を想起することができるか。神の愛こそ、痛み苦しみのなかで光り輝く、私たちになくてならないものなのだということをです。
 
私たち教団のボランティアチームは、まずなぎたおされた墓石を掃除し、整えることから始めたと聞いています。キリスト教の側からすれば、仏教の偶像崇拝の象徴と言いかねない、しかし、現地の人たちが大切にしているものへの思いに敬意を表して、現地の人たちにイエスの愛で寄り添った結果、被災地の方々との関係性が生まれ、信頼を得るまでになったことを伺いました。神の示された愛こそ、人と人との絆を結び合わせる祝福への道となったことを、私は改めて想起したいと思わされたのです。
 
どうかこの一日が、神の愛が与える祝福というものを心から感じ取り、それを自分の生き方とすることを再確認する良い機会となりますように。呪いを提示する前に、神は祝福を置かれた方なのだということを、心からアーメンと同意することができますように。そして、そのことが、私たち人間の生活をより豊かなものとすることができますように。そのことを祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日に、主の平安と祝福を心よりお祈りいたします。

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