13/03/2023

2023.3.13(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編115編2~3節
なぜ国々は言うのか
「彼らの神はどこにいるのか」と。
私たちの神は天にいまし
御旨のままにすべてを行われる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録17章30節
神はこのような無知な時代を大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)17日目を迎えました。
私たちは昨日の礼拝で神の言葉に聴き、新たな一週間の旅路へと押し出されました。レントの旅路はまだ続きますが、今週の歩みも主なる神がともなってくださることを信じつつ、歩んでまいりたいと思います。
 
そのようななかで、本日私たちに与えられました聖書の言葉ですが、旧約・新約聖書のふたつの聖句から得たテーマは「神を知る」であると、私は受け止めました。そのことを黙想しながら綴ってみたいと思います。
 
神を知るとは何だろうかと、あらためて思わされます。知るとは、知識で知っているとか、なんとなく知っているということ以上の意味が含まれていると私は思っています。それは「理解する」ということではないだろうか。そう思うのです。
 
日常生活のなかで、その人を「理解する」ためには、多くの時間をともに過ごすることによって明らかにされていくことを、私たちは自分の経験からよく知っています。同じ釜の飯を食べて、言葉をたがいに交わし、ときには自分とは違う存在であるということを、葛藤や努力、時には衝突と和解を繰り返しながら、関係を築いていくことができるのだと思います。その時に必要なことは「自分を絶対化しない」姿勢であると、私は考えています。
 
自分を絶対化するとは、自分が「神」になることです。それは自己を表現し、主張してはならないということではありません。むしろ自分の意見を表現することは大切ですし、主張することも大切です。そのうえで大切なことは、自分自身の思いや言葉を不動のものとしない、ということです。時には自分自身を「変える」ことが相互理解の肝であると、私自身、日々の生活のなかで試行錯誤しながら、得ていきたいと願わされます。
 
その際に、やはり私たちには絶対的ななにかを必要としなければ、自分自身を見つめることもできない。だからこそ、私たちにとって神とは「絶対的な『他者』」として、私たちひとりひとりに向き合ってくださるということです。
 
神が絶対的な他者として、私たちすべてに触れてくださる。そのことを私たちが知る、つまり、理解しようとする時に、私たちは日常で交わる他者に対しても同じような思いをもって理解し、交わることができるのだと。なぜならば、神がすべての人を愛してくださっているという事実を、聖書を通して私たちが理解できるからです。たとえ、私とあの人が違っていたとしても、神があの人をも愛してくださっているのです。れを認めることで自分を絶対化して、その絶対化された何かをあの人に強要したり押し付けることなく、接することができるのではないか。そう思えてならないのです。
 
無知な時代、神などいない人々で満ちあふれている世界があると、本日の聖書から読み取ることができるでしょう。しかし、それは私たちがそのような人に対して不寛容かつ好戦的になれという意味では決してありません。神が、全ての人を愛しておられるという御旨に、私たちが気づかされるときに、私たちは絶対的な他者である神を知るからこそ、その愛を真ん中に置いて、人と人との相互理解に努めることができるのだろうし、それが神が与えてくださる平和の礎になるに他ならないと。私はそのように願いたいのです。
 
神の放つ愛に向き合うことが「悔い改め(方向転換)」の意味するところです。それはイースターの朝に、あけぼのの光とともに復活された救い主がおられることに相通ずるのではないか。レントの時だからこそ、そういう思いに導かれることに感謝しつつ、今日の一日を歩みたいと思いました。
 
どうかこの一日も、神を理解することにおいて、私たちひとりひとりの心の目を覚ましてくださいますように。そのことを祈りつつ、皆さんの主にある平安を心からお祈りいたします。

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