31/03/2023

2023.3.31(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
士師記3章9節
イスラエルの人々が主を叫び求めると、主は一人の救助者を起こし、イスラエルの人々を救われた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章68節
ザカリアは言った。
「イスラエルの神である主は
 ほめたたえられますように。
 主はその民を訪れて、これを贖われた。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)33日目を迎えました。
4月始まりの暦では、今日が2022年度(令和4年度)の最後の日になります。私事ですが、昨日は4月に行われる教会総会の資料を作成していました。1年間の振り返りの作業を、週報をはじめとするさまざまな資料を読み返しながらするのですが、あっという間の1年間、しかしその1年間がいかに充実していたものかということを、改めて思うことができました。
 
ある牧師からこんな話を聞いたことがあります。教会総会というのは、事務的なことや財務的なことの決定の場であることは間違いないけれど、過ぐる一年間を導き、守ってくださった神の御業をみんなで思い起こすことのできる場なのだと。そして、来る一年間にも神が私たちを守り、導いてくださるという希望をみんなで確認し合う場なのだと。だからある意味総会は「祝い」なんだよ。
 
私はその話を聞いて驚くとともに、総会は人間同士の話し合いの場以前に、神が中心に立たれて、私たちを平安と救いのむしろへと導かれる場なのだという意識が大切なのだということを思わされたのです。そんな思いを抱きながら、2022年度を振り返る作業が与えられたのは、本当に感謝なことでした。
 
人間同士のあいだに立たれる神がおられることを、神は人々に知らせます。イスラエルの民は、ことあるごとに神の存在を忘れては自分の好きなように振舞い、さも自分自身が平和と幸福を作り上げているような顔をしてしまう、そんな歴史が聖書には記されています。つまり、自分自身が「神」となってしまう。そして自己中心的な振る舞いが他者にゆがんだ支配を与えてしまうというのです。
 
そうなると、必ずそのようなゆがんだ支配の犠牲になる人たちが登場します。本日の旧約聖書に記されている「人々の叫び」とは、そのような犠牲となった人々の叫びであったに違いありません。神はその人々の叫びに、ひとりの「裁き人(士師)」を遣わされました。オトニエルという士師がイスラエルの政治家として立てられ、彼は神を真ん中に立てて、神による平和を訴え続け、人間同士のゆがんだ支配構造からイスラエルを解放させたのです。
 
こうして、神は人々の叫びに応えられる。その集大成と言えるのが、救い主イエスであるというのです。本日の新約聖書の言葉は、洗礼者ヨハネの父である祭司ザカリアの賛歌の一節です。主なる神は私たちを訪れ、私たちの債務をすべて負ってくださった。つまり、私たちが神をそっちのけにして傍若無人に歩んできたことによるそのツケを、すべて清算してくださったというのです。これこそ「贖い」であり、私たちの「罪の贖い主」であるイエスを、神は与えてくださったということへの賛歌なのです。
 
一年間を振り返り、すべて良しとは言えないこともあったかもしれない。しかし、にもかかわらず神は、私たちに平和を与えるために、救い主を遣わしてくださるのだと。今日の一日も、そして来る新しい一年にもです。そんなことを心に抱いて、希望をもって生きたいと思わされました。救いの主は、贖いを経て、救いを携えて私たちのもとを訪れてくださるのだと。受難週を前にして、そんなことを黙想させられました。
 
どうぞ皆さんの一日が、主なる神様の祝福にあふれたものでありますように。お祈りいたします。

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