25/03/2023

2023.3.25(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言16章32節
怒りを遅くする人は勇士にまさり
自分の心を治める人は町を占領する者にまさる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章9節
平和を造る人々は、幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)28日目を迎えました。そして、明日はレント5回目の日曜日を迎えようとしていますが、私が仕える仙台宮城野教会では、明日の礼拝を「創立3周年記念礼拝」としてもち、朝の礼拝後には墓前礼拝をもちます。仙台宮城野教会は、その前史として1906(明治39)年に「救世軍仙台小隊」として伝道が開始され、1941年の日本基督教団の成立にともない「日本基督教団仙台愛泉教会」と改称され、その後の歩みに継承されました。1970年代から80年代にかけて、開拓伝道によってふたつの教会(いずみ愛泉・宮城野愛泉の各教会)が誕生しました。そのなかで今後の教会像を見据えて、仙台愛泉・宮城野愛泉の各教会が合併して、仙台宮城野教会としての新しい歩みが始まりました。
 
そのような希望に燃えていたところで襲ったのが、コロナパンデミックでした。以後3年間、世界中のあらゆる教会が「集まることの困難さ」を体験することとなります。仙台宮城野教会の歩みはまさに、コロナ禍とともにある歴史であったと言っても過言ではありません。まさに出鼻をくじかれたようなスタートを、教会に集われる皆さんは経験しなければなりませんでした。私たちは前任牧師の後任者として昨年春に仙台宮城野教会に赴任しましたが、この1年間、教会の皆さんとともに過ごす1年間で、実に多くのことを学ばせていただきました。どんな困難をもいとわず、ただ神の御心によって希望を抱きつつ忍耐をもって歩まれた皆さんの姿にです。そのようななかで、私たちの働きをも大切にしてくださる、その姿勢に私は「主の平和」というものを感じずにはいられないのです。
 
本日のローズンゲンに示された旧約聖書と新約聖書の言葉は、まさに私たちが経験した1年間を物語る聖句であると受け止めることができたのです。
 
本日の旧約聖書の言葉は箴言の一節です。「怒りを遅くする人」とあります。この言葉は「忍耐」とも訳せる言葉です。実は、私は昨日いろいろな理由から怒りというものを感じながら、1日を過ごしていました。自分自身の心が騒ぎ、その騒いでいる自分に耐えられないのです。怒りを表出することのないように自分自身のなかで整理しようとします。しかし、怒りを抱えながら心を鎮める作業というのは、簡単なようでなかなか難しいものを感じます。それが人間の真実の姿であり、こういうもやもやがあることをあえて隠さずに、しっかりと向き合うときが、レントの日々を歩むということなのだ。そう思ったのです。
 
そのようななかで、今日の御言葉をいただきました。怒りを遅くすること、つまり忍耐は勇士に勝ると。それは単なる我慢大会ではありません。神は長い時間をかけて、時に怒れる思いに気づかせ、しかしそのような時の流れのなかで、物事をひとつひとつ平和のうちに進ませてくださるのだと、私は今仕える教会の姿を想い起こしながら、その真ん中に立たれる神の助けというものこそ、怒りに遅くあることの幸いなのだと受け止めたのです。神に自分自身の心というものを、神の言葉と聖霊の助けをもって整えてもらうことで、自分の心を治める、つまり「管理」させてもらうことができるのだと。
 
話はそれますが、治めるという言葉の類語として用いられる「支配」という言葉には「管理」という意味もともなっています。支配を自らの意のままに行使し、向こうにある人々の大切なものを奪い取っていくならば、それはゆがんだ支配であり、カルトの根となっていく。そうではなくて、ゆだねられた仕事というものを、委ねてくださった方の思いに従って管理をしていくことで、健全に自分自身を治めることこそ、神がこの世界に願われる「平和」を造る務めへの担いになるのだと。まさにイエスが本日の新約聖書の言葉で語られた「幸い」がここにあるのだと。私はあらためて感じとることができました。そんなことを考えていたら、昨日感じていた怒りというものが整理できた気がしてきたのです。
 
イエスが語られた「平和を造る人々は、幸いである」という言葉の意味をかみしめながら、明日へと、そして新しい年度へと、仙台宮城野教会の4年目の歩みへと進んでいきたいと思わされました。こうして営まれる世界中の教会の歩みが、その歩みに関わる皆さんの一切に、神の幸いが豊かにありますように。心よりお祈りいたします。

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