03/03/2023

2023.3.3(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編31編9節
あなたは私の両足を広々とした場所に立たせてくださる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章18節
あなたがたの心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものかを悟ることができますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)9日目を迎えました。
 
本日の聖書の言葉をいただいたときに、「私の両足を広々とした場所に立たせてくださる」とは、いったいどういうことなのだろうかということを、じっくりと黙想させられました。私たちが生きている人生の道を、しっかりと踏みしめて歩めるように、神が支えてくださるという意味なのだろうなということは、何となく理解できるのです。しかし、もう少し具体的に自分の心に染ませたい。そう思ったのです。
 
私は「立場」という言葉が脳裏をよぎりました。早速立場という言葉を辞書で調べてみますと、①その人が置かれている地位・境遇・条件など。②物の見方・考え方のより所。観点。とありました。私が置かれている状況を考えるときに、私が物事を考え、それを実行に移すときに根拠となるものとは何かということを、改めて思わされたわけです。私は、神が与えてくださる御言葉に示された神の思い、つまり神の御心によって自分自身が立ちたいと思わされます。
 
一方で「立場が無い」という言葉があるのを、私たちは知っています。失敗や醜聞などによって、地位や名声に応じた面目を失うこと。苦しい立場に追い込まれることを指す言葉なわけですが、私は、神が私たちをしっかりと立たせてくださる、つまり立場を与えてくださるという聖書の言葉と、今挙げた「立場が無い・立場を失う」という言葉を比較してみたくなったのです。
 
立場が無くなるとは、私たちがなんらかの失敗をすることによって、この世界に対して、また人々に対して面目がまるつぶれになる、つまり自分のプライドがズタズタにされるといった意味であって、つまり私自身のことについて指すものであることが理解できます。ひと様に顔向けできないという感覚とも言えるでしょう。穴があったら入りたい、そんな思いにさせられるのです。そういうときに、次の一歩を歩む思いすら失われてしまうのです。
 
もう私なんかダメなんだと思うときにこそ、私をしっかりと立場を与えてくださるのが神なのだ。私は本日の旧約聖書の言葉をそのように受け止めました。広々とした場所に、しっかりと地面に足を踏みしめて、明日の一歩を希望をもって歩めるように、神がそのような場所を用意してくださるのだと。こういう言葉に触れると、失敗をも生きるための糧としてくださる神のいつくしみというものを感じずにはいられないのです。
 
失敗が許されない時代、私たちは失敗することに恐怖を抱いてしまいます。失敗したら立ち上がれないほど私たちは叩かれます。打ちのめされます。制裁を受けます。しかしそれでも、神は今日を生きる立場を与え、私を歩かせてくださる。ある方がこんなことを言っていたのを思い出しました。失敗をおかすことが失敗なのではない。失敗とは、失敗を恐れて何もしないことなのだ。まさに神の姿勢そのものと言えるでしょう。
 
失敗の向こう側にある希望を、神は私たちの心の目で気づけるように導いてくださる。そんなことを私の希望として、今日という一日を歩んでまいりたいと思わされました。本日の新約聖書の言葉が、まさに指し示す通りです。どうか皆さんの一日が、そのような希望に包まれたときとなりますように。お祈りいたします。

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