29/04/2024

2024.4.29(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
哀歌1章18節
主は正しい。私は主の口に逆らった。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書21章28~29節
ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
その時は気付かない。後になって分かることがある。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して、私のなかに思い浮かんだ言葉です。
 
今日の新約聖書に描かれた物語はイエスによって語られたものですが、父親がふたりの息子のそれぞれにぶどう園で働くよう命令をしたという話です。兄は最初は拒んだが思い直してぶどう園で働いた。弟は行きますと言ったものの結局行くことを拒んだ。さて、父親の望み通りにしたのは誰か。人々は兄のほうですと答えました。
 
最初は父の言葉に逆らったとしても、思い直して向かったところにこそ祝福があったことを、兄はのちのち気づかされることになります。それは、人々から「罪人」とみなされて社会から除外されていた徴税人や娼婦たちに代表される人たちが、神から大きな祝福を受けて神の国に入れられるのだと、イエスはなぞらえて語られました。その逆もしかりです。
 
私たちは納得したうえで言うことに従うという行動に出るのがほとんどです。しかし、納得をする過程において、それが科学的数理的に確かなエビデンスを与えるから納得するのでしょうか。少なくともその時点では不確かな部分を残しながらも、私たちは判断をして決断をしなけれなならない時もあると思うのです。
 
今日の物語のなかで、兄は「考え直した」とイエスは語られました。私はこの「考え直す」という行為にこそ、父の言葉によって自分の価値観というものを変えさせられた兄があったのではないかと思います。考え直す、思い直す。これはキリスト教でしばしば用いられてきた「悔い改め」という言葉に相通じるものだと私は考えます。
 
悔い改めというのは、神の御前にあってただただ懺悔をするようなイメージというものを私たちは抱くかもしれませんし、それは間違いないことです。しかし、それ「だけ」ではありません。その後こそが大切なのです。神の御前に自分自身をさらけ出したときに、思い直し考え直すことが、悔い改めの真骨頂なのだと思えてならないのです。そういう意味で、考え直した兄はぶどう園へ出かけ、イエスの時代罪人とされた人たちは、イエスによって新しい人生というものを歩み出すことができた。そして祝されている自分自身を、のちのち確認することができたのではないかと思うのです。
 
後になって気づかされる神からの祝福のために、今の私に何ができるだろうか。神の前に卑屈になる必要はないし、許しを得られない世間を目の前にして沈み続ける必要もありません。神が私たちに再生の道を与えるために、私たちに「考え直す」道を与えてくださっている。そこに希望を見い出しつつ、新しく与えられた日々を歩むものでありたいと心から願います。皆さんの一日に、主が与えてくださる平和がともにありますように。お祈りします。

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