14/04/2024

2024.4.14(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編18編33節
神は、私に力を帯びさせる方。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一1章25節
神の弱さは人よりも強い。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやって来ました。すべての復活と再生を祝うことのできるこの一日に、世界中で行われるすべての礼拝や集会の祝祭に、神様の祝福を心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が黙想したいと思ったのは、「強さ」という言葉についてでした。私はここ数年、特にこの強さという言葉について考え続けてきたことがありました。「強者の論理」というものを私は抱え、それを振りまいている。そんな指摘を受けたことがあったからです。
 
この指摘には、正直とてもショックでした。なぜならば、私は前述の強者の論理というものをもって、人を抑えつけることのないように心がけてきたつもりだったからです。カルトの論理とは、そういうところから働くことを痛感していたからなおさらです。だから、そのような指摘をされた時に、そういう自分自身があることをなかなか受け入れられない自分自身があったのです。そして、落ち込んだのでした。
 
しかし、このことについてじっくりと考えれば考えるほど、自分自身のうちに、いや、人間という存在は潜在的に、自分自身を守ろうとするがゆえに、強がりというものをもって人に対峙し、時には相手をねじ伏せようと、ついつい虚勢を張ってしまう。これを「強者の論理」と言うならば、なるほどその通りだと、自分自身を顧みることができたのでした。指摘を受けて、いや、そんなことはないと抗う気持ち。これこそ強がりであると。
 
今日の聖句、特に新約聖書・ローマ書にあるほんの短い一節は、神の強さというものは、実は「弱さ」をもって表れるのだと、この手紙の筆者であるパウロは手紙につづりました。すべてのことにおいて行使できるはずである神に、弱さなどあるのだろうかと首をかしげたくなりますが、神は私たちのためにあえて、弱さというものをもって私たちに向き合われたのだと。神の弱さというものは、我がひとり子を十字架の上で多くの人々のあざけりを受けながら、いけにえとしてささげなければならないほどに、この世の中からすれば、弱さをさらけ出さなければならないくらい乏しいものだったのだと。
 
しかし、弱さを公衆にさらけ出すことほど強いことはないのだと、今日のパウロの告白から私はあらためて、強さとは何か、弱さとは何か、そういうことを考えさせられる機会をいただくことができました。弱さを何のためらいもなくさらけ出したところにこそ、神の力と助けによってのみ、私は今日も復活の幸いにあずかり、再生への道を歩むことができるのだと受け止めました。自分自身の知性や腕力で決して戦うことなくです。
 
一日の主にある守りと祝福をお祈りします。

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