15/04/2024

2024.4.15(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
アモス書7章2~3節
「主なる神よ、どうぞお赦しください。
 ヤコブはどうして立つことができるでしょう。
 彼はとても小さいのです。」
主はこれを思い直され
「このことは起こらない」と言われた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章31~32節
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、それぞれの教会や集会で、主の日の礼拝をいただくことが出来たかと思います。私は、近隣の教会の特別礼拝と講演会に招かれました。とても心温まるひと時を過ごすことができました。教会というところの原点を再確認することができたからです。
 
昨日の講演会では、カルトについての話をさせてもらいましたが、いつも準備している「カルトとは何か」という話題というよりも、なぜカルトは無くならないのかという話題を中心に話をしました。
 
そこで、私が話をしたのは、教会風、聖書的な言い方をすれば、「『愛』の取り違い」なのではないか、ということを申しました。愛にはいろいろなかたちがある。新約聖書の原語であるギリシア語には、いくつもの愛を表現する言葉があると言われていて、聖書に書かれている愛を、別な愛に勘違い、もしくはあえて取り違えて、人々に示そうとするときに、そこに「ゆがみ」が生じ、そのゆがみをもって支配する時に、カルトの萌芽が生まれるのだと。
 
聖書に書かれている「愛」は、「アガペー」であり、自分のことはさておいて、相手の幸福のために尽くす愛であることは、皆さんもご存知の通りかと思います。しかし、私たちはこの愛を「エロス」(性愛と訳されるものですが、私はいわゆる「独占愛」というふうにも理解しています)に取り違える結果、自分の幸福のために他者の大切なものを支配し、奪い取る愛を行使してしまう。これが「愛の取り違い」なのだということを話しました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの言葉に共通するのは、神に背反してしまう私たちの姿について、それぞれの角度から語られている聖句であると、私は理解しました。旧約聖書・アモス書では、神に背を向けて歩んでいたイスラエルの民たちの姿が、新約聖書・ルカによる福音書では、イエスを裏切ろうとしている弟子たちの姿が、それぞれ預言者アモスを通して、また主イエスを通して語られているというのが、今日の聖句の内容です。
 
しかし、民たちはその姿に気付きません。何に気付かないかというと、神が人間に対して与えた愛の本質というものに気付けないので、神の愛を取り違えて、自分が気持ちよくなるためだけの愛に固執してしまうのです。その結果、神の怒りを買い、また神から人を引き離そうとするサタンの餌食に、私たち人間がなってしまうことが示唆されています。
 
しかし、そのような私たちのために、預言者アモスは神に怒りを収めてくださいと願い出、主イエスは私たちのために祈ってくださる。このような執り成しのもとに、私たちひとりひとりが生かされていることを思うと、そこに大きな愛を感じずにはいられないのです。そんなことを、私は今日の聖句を通して理解させられました。神の愛の大きさと深さに、なかなか気づけない自分自身を発見しつつ、この愛にこそ、生きる礎があることを希望に置きながら、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの新しい一日にも、神の愛がともに、そして豊かにあふれますことを、心からお祈りします。

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