12/04/2024

2024.4.12(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書16章62節
私はあなたと契約を立てる。その時、あなたは私が主であることを知るようになる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙9章16節
従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された旧約聖書の聖句・エゼキエル書16章の一節に記されている「契約」とはいったい何か。改めて黙想したいと思いました。
 
契約とは神と人とのあいだに結ばれた約束です。神は今日の聖句のなかで「私が主であることを知るようになる」と、民たちに知らせています。ここでいう「主」とは、神が持つ固有のお名前のことです。主という言い方がちょっと紛らわしいと、私はいつも感じているわけですが、その議論は今日は置いといて、主というお名前の意味は「私はいる」というものであり(出3章14節)、存在を表す動詞に起因しています。英語で言うbe動詞に相当するものであると言えるかもしれません。
 
ですから、私は「主」という言葉の意味を、次のように考えています。それは、「①私は神であり、②私はあなたとともにいる、③ゆえに私はあなたの神となる」というように、存在を表す動詞の意味である「ある・いる・なる」こそ、神のお名前の意味である、と。
 
ですから、神と人との契約によって、人間は神が確かに存在していることを、理解できるようになるというふうに、エゼキエル書の言葉を考えることができるのではないかと思うのです。人間がどんなに神から背反したとしても、神は人間とともにいてくださった。そして、人間は自業自得から来るさまざまな辛苦を舐めることがあっても、神は私たちに諭しを与え、気づきを与え、そして神が確かにおられるゆえに、神のもとに立ち帰ることができたのだと。
 
これが、人間の能力や知恵、業績や功績などでは、どうてい獲得できるものではないということは、人間の歴史が物語っています。どんなに人間生活が豊かになったとしても、その恩恵を受けながらも、それが究極的な人間の完璧な幸福にはつながらない。どこかでゆがみというものを抱えながら、私たち人間が生きているという現実に、神が憐れみを携えて、私たちの前に、かたわらに、背後に、底にいてくださる。これが、本日のもうひとつの聖句である、ローマの信徒への手紙で筆者パウロが言わんとしていたことなのではないだろうか。そのように今日の御言葉を受け止めました。
 
ついつい自分のことで有頂天になってしまう自分自身を顧みつつ、神がともにいてくださることを喜べるような一日を過ごしたいと思います。皆さんの一日にも、ともにいてくださる「神である主」が、守りと祝福を注いでくださいますように。お祈りします。

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