25/04/2024

2024.4.25(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編3編9節
救いは主のもの。
あなたの民の上に祝福を。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書24章50節
イエスは、彼らを手を上げて祝福された。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、極めてシンプルなものです。神は私たちを祝福される。これが神が私たちを生かされるにあたっての第一の務めであると、私は信じ続けています。
 
私がかつて務めていた教会で、あるメンバーの方がいつもおっしゃっていたことを思い出します。「牧師が幸せならば、信徒も幸せになれる」と。もちろん、この方の言葉には注意深い解釈を必要としますが、それでも、この言葉を通して、いつも私自身というものが神との関係において問われているのだと、実感させられます。
 
もちろん、牧師であろうと信徒であろうと同じ人間であり、キリストのもとにある信仰者に各段違いがある訳ではありませんので、幸いな時があれば塞ぎたくなることだって普通にあります。笑いたい時もあれば、本当に怒りたくなるときだってある。ただ、神から与えられた御言葉と聖霊の助けをもって、神が与えてくださる祝福を、ただただ伝え続け、自分自身の希望とし、生き方の源とするために、神と人に仕え、働くのが牧師に与えられた本分であるのだと。
 
ならばどうなのか。自分自身が自分のことを棚に上げても、そう思えないことがあっても、神による祝福を伝え続けるのか。そうです。伝えつつ、自分もそうでありたい。神からの祝福をいただき続けたい。そう心から願いつつ、今日という一日を希望のうちに生きる。心が塞いだままであっても、神による祝福までも跳ね除けてしまうくらい自分の心が塞いでいるならば、その扉を神に開けていただこうではないか!そして、自分自身が祝福されているのだということを、心の底から喜びたい。そして、喜べたときに、また一歩歩むことができるのだと、そんなことを私の生き方とすることができたときに、そこには大きな幸いを実感することができるのだと。
 
そんなことを繰り返し経験してきて、今の自分自身があることを思わされますし、今日も神から祝福されていることが、生きる源であることを喜べる一日でありたいと心から願い、そして祈りながら、神に人に接するときでありたいとあらためて思わされました。人の喜びのためにカラ元気を装うのではなく、喜んでいる風なふりをするのでもなく、正直に、しかし希望をもって歩む一日でありますように。そのために、主よ。ともにいてくださるあなたが、祝福を私に、私たちに見せ、与え、感じさせてください。希望の礎としてください。
アーメン。

0 件のコメント:

コメントを投稿