詩編18編29節
主よ、あなたは私の灯をともし
わが神は私の闇を照らす。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章78~79節
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって
高い所から曙の光が我らを訪れ
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし
我らの足を平和の道に導く。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンによって示されたふたつの聖句から、共通するキーワードとして「闇を照らす光」について、黙想してみたいと思いました。
聖書にはしばしば登場する言葉であり、私たちの世界の闇にひと筋の光を投じるために、救い主であるイエス・キリストが父なる神によって遣わされた。つまり、私たちの神は、闇が闇のままであることを願わない。この一心で私たちひとりひとりを取り扱ってくださることを、あらためて思わされます。
夜が明け、闇にあけぼのの光がやって来る。今日の新約聖書・ルカによる福音書で歌われる祭司ザカリヤによる賛歌の一節です。この賛歌からも分かるように、闇がこの世界から取り去られるわけではありません。闇もまた、神が光とわけられた創造の御業の結果であるからと私は思っております(創世記1章)。しかし、毎日闇が明けて光が射しこめられて私たちが光のなかを歩むことができるように、私たちが闇のままにとどまり続けることを、神は決して願われてはおられない、ということなのだと。
私は昨日、こんなことを自分のSNSに投稿しました(X:@pfarrersaito)。
気が塞いでしまうほどな出来事が連日訪れる。しかし、それで気を塞いでしまうのか、そんなこと気にしないで希望をもって前向きに生きるかは、結局のところ私次第なんだよね。
私たちには、気が塞いでしまうほどの闇を経験することもあるし、これから逃れることはできない。しかし、気を塞ぎ続けて闇のなかにとどまり続けるか、神が放ってくださる光を浴びたいと心から願って、闇の力に振り回されないで希望をもって生きる道を選ぶかは、結局自分自身の決断の問題なのだ。その思いと願いを抱いて歩めば、必ず神は光を光として受け止めることのできる私を見つけることができるに違いないのだから。
そんなことを希望にしつつ、あせらず、あわてず、あきらめず、神に願い続けたい。そんなことを改めて思わさされた、今日の黙想でした。皆さんの新しい一日にも、そのような希望がともに、豊かにありますことをお祈りします。
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