01/04/2024

2024.4.1(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書1章17節
善を行うことを学べ。
公正を追い求め、虐げられた者を救い孤児のために裁き、寡婦を弁護せよ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録11章28~29節
アガボと言う者が立って、世界中に大飢饉が起こると霊によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。そこで、(アンティオキアにいた)弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住むきょうだいたちに援助の品を送ることに決めた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
日本では、新年度のなかで今日の一日を過ごされる方も多いかと思います。教会の世界でも、これまでの別れがあり、また新しい出会いを経験されている方がおられるかと思います。私も一年間代務牧師としてお仕えした、仙台北三番丁教会の皆さまに別れを告げてまいりました(と言っても、同じ仙台市内、同じ地区にある教会同士ですので、交流はこれからも続きます)。これからは背後で、教会の将来のために祈りを合わせる者でありたいと心から願います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、改めて気づかされたことがあります。旧約聖書・イザヤ書にある「善を行うことを学べ」という言葉について、私はこの言葉を「慈善」のことであると、素直に受け止めました。ただ、この「善」がどこからくるのか。そのことを明確にしなければ、聖書にあるこの言葉の意味を充分に受け取ることはできないと感じさせられたのです。
 
私が感じたのは、あらゆる慈善の業が、自己顕示のために行われるものではないということへの、深い自覚が必要なのだ、ということです。私なんかは、どうしても報われたい、感謝されたいという思いが心のどこかに潜んでいて、ちょっとした拍子で、その思いがにょきにょきと顔を出すなんていうことがあったりします。充実した生活を送っているときには、そんなことはまず無いのですが、自分自身に何か満たされない部分があったりすると、途端に恩着せがましい自分自身を発見してしまうのです。とても不健全なことだと思います。
 
神が私たちに、善を行うことを学びなさいと告げられたのは、あくまで善の主体が神御自身にあるというところから出発しなさいという意味も含まれていると私は受け止めたいと思います。神は善い御方であることへの深い信頼ゆえに、神が愛されている隣り人のために自分のなせることをもって行い、営む。決して無理せず、ゆがむことなくそれを行うことの大切さというものを想わされます。つまり、神がいつも私たちの前におられるのを見つめ続けることから、慈善という言葉の意味を知り、それを実践できる自分自身でありたいと、今日の言葉から願わされた次第です。
 
今日の新約聖書の言葉で印象的だったのは、アンティオキアに住むクリスチャンが、飢饉で苦しむ友のために、「それぞれの力に応じて」援助の業を行った、ということでした。この言葉には、外圧があるわけでなく、強制力が働くわけでもなく、あくまでそれぞれに与えられた判断と決断がそのようにさせるということです。そんな思いが自発的なところから起きることを私は願いつつ、今日の一日、新しい年度を歩んでいきたいと思います。皆さんの新しい日々にも、神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。

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