詩編103編1節
私の魂よ、主をたたえよ。
私の内なるすべてのものよ
その聖なる名をたたえよ。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一1章3節
私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに選ばれた、旧約聖書・詩編103編の冒頭の言葉で、「私の内なるすべてのものよ」と、詩人ダビデは歌っているところに、とても関心を寄せられました。ここに今日は黙想したいと思います。
ダビデはイスラエルの王にして竪琴の名手、そして多くの詩を歌った人物としてよく知られているのは、みなさんもご承知のことと思います。ダビデはどのような思いをもって、神に賛美を奏で、そして歌ったのだろうか。そんなことを改めて思わされます。
そんなことを考えるときに、私はダビデの「私の内なるすべてのものよ」という自分自身への、それも内面に向かって語りかけていることに、魅力を感じずにはいられませんでした。はて、私は賛美の歌を歌う時に、本当に私の内側が神に向かって賛美をしているだろうか。はっとさせられながら、そんなことを思わされたのです。
私も今までひとりのクリスチャンとして歩んできて、実に多くの賛美というものに接する機会をいただいてきました。クラシカルなものからワーシップと呼ばれるものまで、私はどのジャンルの賛美も大好きです。だからこそ、賛美ひとつでこだわりがぶつかり合うような場面に接するときに、それはとてももったいない、残念なことだなと思わされています。今まで、そのような場面に幾度となく遭遇してきたからです。
大切なのは、どの賛美を賛美するかではなく、私自身の内面が、嬉しくても悲しくても、賛美を通して主に向かわされているか、ということだと私は思いたいのです。格調高く歌うもよし、両手を挙げて歌うもよし、しかし、それよりも何よりも大切なのは、賛美を通して、心揺さぶられる経験を、私は賛美のたびに感じとることができているだろいうか。そんなことを私は思わされたのでした。
今日の新約聖書の言葉を通して、私たちの賛美の先にあるのは、イエス・キリストが与えてくださった「復活の希望」にあると、私は受け止めました。たとえ私が復活を感じられないような場面のなかにあったとしても、それでも賛美はそのことを歌い続ける。私がそれを受け入れられなかったとしても、賛美を通して私に慰めを与えてくださる神である主がともにいてくださるのだ。
どうしてダビデが「聖なる名」をたたえたのか。その名の意味のとおり、主が私と一緒にいてくださることで、私たちの神となってくださっているから。まさに、インマヌエル(神はともにおられる)と名付けられた救い主イエス・キリストにへと、名に込められた思いは継承されているのだと。
そんな神が、今日も私たちに賛美を与えてくださる。そんなことを思いつつ、今日の一日もまた、神が守り、平安を与えてくださいますように。お祈りします。
0 件のコメント:
コメントを投稿